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2010年3月13日土曜日

時空トラベル出発駅 近鉄上本町駅

私の時空旅行は、ここから始まる。
今は、正しくは近鉄大阪上本町駅という。

平城京も飛鳥も大宇陀も室生寺も長谷寺も山辺の道も吉野も...
ヤマトへの旅はいつもここから始まる。

私の知っている上本町駅(「うえろく」でわかった時代が懐かしい)は奈良や伊勢志摩行きの近畿日本鉄道の始発駅だった。駅デパートがそそり立つターミナル駅だった。子供の頃、あやめ池(遊園地もなくなってしまった)のオジイちゃん、オバアちゃんの家から大阪に遊びに行く時はいつもここで降りた。

それがいつの間にか難波に線が延びて地下駅が出来て、そこがが始発駅になり、近鉄奈良線の「うえろく」は地下の途中駅になってしまった。大阪線だけはいまでも「うえろく」の地上が始発駅だが...  昨年3月には神戸の三宮まで阪神線と相互乗り入れが始まり、ますます途中駅に。その時からだよ「大阪」上本町なんて駅名に替わったのは。

だからといって別に時空トラベルには何の支障もないのだが...

突然、タイムスリップ!! 小学一年生の私はいま「ウエロク」駅にオジイちゃんと立っている。

オジイちゃんと一緒に出かけると何時も何か恥ずかしいことが起こる。

オジイちゃんと大阪に遊びに来て、近鉄で「うえろく」(「上本町駅」がほんとうの駅名だなんて知らなかった)からあやめ池へ帰るためキップ買って、改札で鋏を入れてもらってホームに入る。と、オジイちゃん、電車に乗らず、突然「黒門市場でイトヨリ(魚の一種)買ってこ」と、云うなり私の手を引っ張って今入って来た改札を出てゆく。

改札で駅員に「忘れモンや。ごめんやっしゃ」と切符見せてサアッと出てゆく。
行動が素早い。

出るのは勝手だが、またこの鋏の入った切符はどうなるのか、と不安になったがそのまま一緒に黒門市場へ。

といっても、黒門市場は駅からかなり離れている。「うえろく」駅から谷町筋を渡り、坂を下って松屋町筋(「まっちゃまちすじ」と言わんとわからん)の向うが黒門市場。大阪の台所だ。いかにも大阪、といった風情の街だ。

オジイちゃんは大好きな捕れたてのイトヨリをゲットして、私を従えて上町台地の上り坂を登って駅に戻って来た。改札出てから一時間以上は経っている。息も切れていない。元気だ!

さあどうするのかと思っていたら、その入鋏済み切符を駅員に見せながら、「さっき忘れモンしたもんや。ごめんやっしゃ」と改札を入ってゆく。

もちろん「さっき」の駅員などもういない。

私はどうしたら良いか、どぎまぎしながらつられて入ってゆく。
こんなのいいのかなあ。恥ずかしいなあ... 
気が弱くて真面目な子供の私。

駅員は、「しゃあないなあ」「まけるわ」という感じで、眼がこっち向いていない。

ためらいのない勢いと大阪弁の力。
人に否やをいわせない説得力!
それを受け入れる度量の広さ?!

家に戻ってオバアちゃんに言ったら、「そんなんあたりまえや。お金払ろうてまだ乗ってへんさかい」と...
しゃあしゃあとしてる。
どこに「まだ乗ってない」という「証拠」があるんだ、という生真面目で理にかなった疑問をよそに。

大人を信じる街。「あうん」でコミュニケーションする街、大阪。
融通無碍な精神。
なんとでもなるんだ。
すっきゃねえ、こういうの。



(現在の近鉄大阪上本町駅。近鉄百貨店やシェラトン都ホテルが駅に直結している)



(古写真の中の「うえろく」駅。近鉄の前身、大軌(大阪電気軌道)と呼ばれていた時代の上本町駅と大軌百貨店)



2010年3月5日金曜日

わかっちゃいるけど...

植木等じゃないけど、明らかにヤメた方がいい、のにヤメられない。あるいは、やった方がいい、のにやらない。
このままじゃ病気になるぞ、このままじゃ会社の先行きは眼に見えてるのに、行動しない。なんで?
皆わかっているんだけど何もしない。ダイエットも経営戦略も同じだ。

 わかっちゃいるけど... そんな経験ありませんか?
 毎日そんなことばかりだ、って?

 そこでおすすめはこの本。
 Strategy and the Fat Smoker: Doing What's Obvious but Not Easy.
 著者はDavid Maister(http://davidmaister.com/video.videocast/383/)
.

 これを読めば4週間でデブがなおり、タバコもヤメられます。
 ...って、そんな本じゃない。

 ビジネスリーダーと自負している人たちや、プロフェッショナルサービスのエキスパートだと自信を持っている人たちへのメッセージなのだ。いわば経営書です。ダイエット本じゃありません。企業のダイエット本か...

戦略を立案しても、中途半端な実施(それそのものが戦略的ではないが)ではなんの役にも立たない。酒量を半分にしても、タバコを吸う本数を半分にしても健康には役に立たない。毎日1万歩歩くのは無理なので週末に1万歩歩いて、風呂に入ってビール飲む、ではダイエットにならない。結局なにしてよいかわからず立ちすくんで思考停止。

 あなたはこの写真のおじさんと同じで、わかっちゃいるけどヤメられない。わかっちゃいるけど何もしない。で、コウなりました、になるんですか? いずれは循環器系疾患か悪性腫瘍で終わりになることもわかっているんですよね。
でも、これが結構難しい問題であることも知ってるよね、経験的に。やはり思考停止? あなたもFat Smoker...


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2010年3月2日火曜日

古代官道 横大路 竹内街道

 先週は東京で、懐かしい面々と久しぶりに会合を持った。14年程前に、会社を大きく動かす、とある歴史的なプロジェクトに取り組む機会を与えられた。そのプロジェクトでともに苦労した仲間達であるのでなおさら感慨ひとしおであった。
 いまは皆それぞれの事業会社でそれぞれの仕事の中核として活躍しているのが何よりだ。

 しかし、企業も日本もあの時のような高揚感とハングリーさがなくなってしまっている。守りに入っている。いや思考停止状態に陥っている。与えられた経営環境の枠組から飛び出すこともなく、方向感を失って右往左往することにも疲れて立ちすくんでいる。
 あの時の熱意と行動力とスピード感が今一度必要だ。その為には新たな事業モデルの創造とビジョンが必要だ。ChangeだけではなくてInnovationが求められているのだ。
 その為には過去のプロジェクトのレビューも必要だろう。歴史に学ばない、経験を生かさない。すべて0クリアーで先人の成功も失敗も葬り去り、次のステップの糧としないのでは過去の努力は単なる浪費でしかなくなる。
 思考停止状態を脱して企業が持続的に成長するには何が必要か自明と思う。

 という訳で、会社生活のなかでのタイムスリップ、時空レビューはとても有意義ではあったが、なかなか実際の時空旅行に旅立てないでいる。また本を読んで時空を超える時間も失せている。

 そういった時間的な余裕のなさは、徐々に私の目線と視野をDay-To-Day Workに向けさせ、日常の箸の上げ下げばかりに眼がいって、悠久の時の流れとそのトレンドを読み取るセンスを鈍らせつつある。こりゃいかん!

 で、東京から帰るや否や週末のわずかな時間を利用して、古代ヤマトと河内を結ぶ古代の官道、竹内街道を駆け足で回って来た。なにしろ、日曜日の午後半日あれば時を超えて古代へワープすることが出来る。これが大阪生活の最大のメリットだ。
 近鉄阿倍野橋から磐城まで電車で行き、長尾神社をスタートに、竹内街道を河内側への峠まで歩き、帰りは当麻寺に寄って帰った。わずか3時間程の時空トラベルであった。
 現代人は人っ子一人歩いていないのどかな早春のひとときだった。ただ、大伴旅人が筑紫の太宰府へ赴任する行列に出会った、ような気がした。



 遠くに畝傍山と飛鳥を望むことが出来る。ここは推古天皇が飛鳥と河内,難波津を結ぶ為に開いた官道だ。東西に走るこの官道は横大路と呼ばれ、いわば古代の国道一号線。今も奈良と大阪南部を結ぶ国道166号線がすぐ横を走っていて交通量が多い。
 古代、大陸の文化は筑紫那の津や難波津から我が国に入り、この道を通ってヤマトに伝搬された。シルクロードの東の果てである。遣隋使や遣唐使もこの道を経て大陸へ向った。



 菅原神社から竹内の集落を望む。この辺りの大和棟の建物はよく整備保存されている。平坦なヤマト国中を西へ向う横大路は竹内集落を過ぎるあたりから峠にさしかかる。二上山を右手に見上げながら太子町へむかう。しかし、この神社のすぐ下は国道116号の竹内峠で、カーブと急勾配で車の往来激しく、歩道すらないのでとても散策する気にはなれない。



 竹内街道の峠を右手に折れると当麻の里へ。当麻寺に満作の花が咲き始めた。いよいよ春だ。桜やボタンの季節も良いが、早春の黄色い花が春の訪れを告げてワクワクする。



 当麻の里から当麻寺の塔と山門、そして遠く二上山を望む。この二上山の南の脇を竹内街道は抜けて河内へと向う。のどかな風景だ。



 当麻の里の路地裏に人知れず咲き誇る梅。メジロが蜜を吸いに群がっていた。カメラを持ってそっと近づくと、一斉に飛び立ってしまった。しばらくそのままじっとしているとすぐに戻って来て、また蜜を吸い始める。ライカの無音に近いシャッターはこのような時に役立つ。

2010年2月19日金曜日

唐・新羅連合軍の侵攻に備える 太宰府大野城、水城の構築

 
大野城から水城を展望する

大野城の石垣


しばらく、公私ともに多忙でブログを書く時間がなかったが、ようやく少し時間が取れた。この前、太宰府の大野城に登った時のことをようやくアップできそうだ。

7世紀のヤマトの時代、大化の改新を経てようやく王権を確立しつつあったヤマト。663年、百済からの救援要請に応えて出兵したヤマトは、唐・新羅の連合軍に白村江で大敗する。百済救援の目的を達することが出来ず、朝鮮半島における権益を放棄して撤退を余儀なくされた。多くの犠牲を伴った半島侵攻からほうほうの体で筑紫に戻ったが、それで安心することは出来ない。この敗戦は今度はヤマトが、大陸からの侵攻という危機に立たされることを予見させた。

この頃の東アジア情勢は、強大な唐という中華帝国の成立を受けて大きくその周辺国の勢力図が塗り換えられつつあった。特に朝鮮半島ではヤマトと同盟関係にあった百済は滅亡し、多くの亡命百済人がヤマトに渡来して来た。ヤマトは半島における拠点と権益を失い、さらには本土までが侵攻の危機にさらされることになった。古代より倭、ヤマト、日本の国内権力構造は、大陸の動向の影響と無縁には存続し得なかった。そして筑紫は常にその最前線にあった。

天智天皇は、朝鮮撤兵翌年の664年には筑紫からヤマトにいたる各地に防衛線をはり砦を築かせた。また全国から兵士を徴用し国境防衛にあたらせる為に防人をおいた。特にここ筑紫の地は国防、外交上の最重要地域であり、那の津にあったと見られる官衙、那の津宮家を太宰府の位置まで後退、移動させ、那の津と太宰府の境に外側に広大な堀を伴った1.2キロに及ぶ大堤防を築いた。すなわち水城である。また、太宰府防衛の拠点として羅城の北と南にそれぞれ大野城、基肄城を築く。

九州北部にはこの他にも筑後地方や豊前地方に、後世「神籠石」と呼ばれる城の遺跡があちこちで見つかっているが、これらも当時構築された防衛施設の跡であったのかもしれない。中でも大野城、基肄城、長門城は朝鮮式山城であり、百済の亡命貴族によって構築指揮をとらせた、と日本書紀に記述されている。

太宰府政庁の真北にそびえる標高400メートルの大野城(別名、四王寺山とも呼ぶ)に登ってみると、太宰府が一望のもとに見渡せる。北西に視線を転じると水城の向うには那の津側(今の福岡市)を展望出来る。さらに、都城を隔てて、南正面に基山を望むことが出来る。ここには北の大野城と同じく基肄城が築かれた。水城は大野城に接続しており南は遥か基肄城につらなる山々に小水城を介して連結している。こうした全体のシステムが当時の緊迫した国際情勢下で、防衛最前線として周到かつ広範に設計、建設された羅城、すなわち防衛都市システムであることが目視出来る。

大野城は、中世の山城と異なり、闘いの為の砦というより、有事の都市機能の移転、籠城の為の要塞という性格の城だ。もちろん本丸や天守のような施設はない。石垣や土塁は尾根と尾根の間の谷を塞ぐ形で構築されている、長いものは100間程の大石垣が見つかっている。これらの石垣や土塁は外周6.8キロに渡って山頂部を取り囲んでおり、要所には城門が設けられている。とりわけ太宰府側に設けられている太宰府口城門は両翼に石垣と土塁を巡らせた壮大なもので、門柱の礎石からここには堅固な門扉を備えた門があったことが分かっている。

土塁は「版築工法」という中国、朝鮮から伝わった盛り土工法により築かれている。ちなみに中国の万里の長城も版築である。水によって土塁が崩壊したりしないように、水抜き用の排水路が設けられている他、大きな水流がある谷には石垣を設けている。

山頂部には約70棟の倉庫跡の礎石や、食料倉庫跡と思われる「焼き米が原」、水利施設が残っている。特にここにある鏡池は小さいが不思議な池だ。こんな山頂にあるにもかかわらず、渇水期にも水が涸れることもなく、今も満々と水をたたえている。すべてがここが都市機能を移転させて籠城する為の施設であったであろうことを想起させるものである。また平時においてもこの山城は米などの租税倉庫として使われていた模様だ。

結局、唐・新羅はヤマトへ侵攻せず、これらの防衛施設は使われることなく終わったが、この事件がヤマトにとって、大陸からの文明を消化して、安定した統治体制を築き、国土の防衛体制を整備しようという強い動機となったことは間違いない。後に、戦争相手国であった唐へ遣唐使を派遣し、新羅とも交流し、大いに外の思想文化を吸収し、経済的関係強化に努めることになる。そしてこれまでにもまして筑紫太宰が太宰府としての機能を強化してゆくきっかけともなった。

さて、いよいよ大野城山頂から太宰府政庁に向けて山を下ることにする。これがなかなかの難所である。古来から存在していた坂本口城門跡を下り大石垣を越えて真っ直ぐに下りれば政庁跡の真後ろに出るはずだが、平成15年の集中豪雨で大石垣と登山道が流出土砂に埋まり、未だに通行出来ない。復旧された大石垣まではなんとか進入禁止の柵を越えて行ってみたが、とてもそこから下ることは不可能に見えた。道が完全に土砂と倒木に埋まり谷が消失している。仕方なくまた坂本口城門まで戻り、別ルートで下る。これは結構な直線急勾配、ケモノミチルートで足がガクガクになる。ちなみに登りは西鉄太宰府駅から林道(車道)伝いに登るので、岩屋城跡までは楽であった。

ようやく里に下りると、そこはちょうど太宰府政庁跡の真後ろ。大野城が太宰府の防衛要塞であることが実感出来る位置だ。しかし、今は坂本の里はのどかな田園地帯で、大伴旅人や山上憶良などの高官が暮らした屋敷跡や万葉歌碑が歩いて確かめられる。そうしてたどり着いた太宰府政庁跡(都府楼跡)にたたずんで振り向くと、今下って来た大野城が緩やかな山容を横たえている。白梅もほころび始めている。

ちなみにこの大野城(四王寺山)には、戦国時代には岩屋城が築かれていた。ここは九州平定のため出陣した豊臣秀吉の救援を待ちつつ、島津軍の猛攻に抗して籠城の末全滅した高橋紹運の悲劇の城だ。この城跡には石碑が建てられており、そこからは太宰府、福岡が一望に見渡せる。その展望台からふと目線をおろした位置、小さな峯の頂上にその悲劇の武将高橋紹運の墓がある。その孤立して下界を見下ろす墓のたたずまいには、援軍の到着を待たず果てた武将の怨念のようなものを感ずる。

それにしても今回もよく歩いたものだ。いつものことながら歴史の痕跡と景観につられてつい歩いてしまう。都府楼跡から政庁通りを真西に関屋まで歩き、西鉄都府楼前駅から電車に乗り天神へ戻る。


太宰府政庁跡と太宰府条坊を俯瞰する
正面は大野城と対をなす基肄城

太宰府天満宮と九州国立博物館方面

戦国時代に築かれた岩屋城

岩屋城主高橋紹運の墓


山頂にある湧き水
水が枯れることはなかった

城内には倉庫や建物の礎石が並んでいる


版築工法で築かれた土塁
朝鮮式の築城であることがわかる

太宰府門跡
大野城の正面の門であった

門扉の柱を支えた礎石


尾根を埋めるように築かれた石垣





福岡市方面
すなわち博多、那の津方面を望む

大野城から太宰府都城へ下る



坂本神社
大伴旅人の館跡

万葉歌碑

太宰府政庁跡

太宰府政庁跡から背景に大野城を望む

政庁跡礎石と漏刻台跡


福岡城何にある鴻臚館跡



2010年1月27日水曜日

Leica M9は 「Leica M」か?

ニューヨークにいる娘が,久しぶりに帰って来た。一時帰国,というヤツだ。
と、突然、私の愛用のライカM4ブラッククロームボディーとズミクロン35ミリを、「これいいね」と、持ってかれてしまった。

な、なんで? 35ミリは一眼レフ。あとはハッセルしか使わないと言ってたのに...

急にライカを使ってみたくなったとか。なんとコワい「気づき」だこと。

「そもそもレンジファインダーってなに?」から始まり、パララックス補正、フレーム選択、ピント合わせ、被写界深度概念、フィルム装填法、等々、ライカのお作法を教える。写真やってるだけに飲み込みは早い。

その娘が金属ライカM4で撮影する姿はなかなか様になっている。自分で使ってるときはあまり気付かなかったが、思ったより以上にシャッター音が小さくて,布幕シャッターの威力を再認識。それと良くいわれることだが、撮られ手に威圧感を与えない、というのも本当だ。思わずカメラ自体に眼がいってしまい、撮られていることを意識してない自然な写真になっている。そもそも、コンデジ時代にこんなコンパクトなカメラのファインダーに眼をくっつけて撮影するスタイルが新鮮だ。

娘も気に入って,ずっとM4をぶら下げている。若い娘が使い込まれたライカを手にしているのはカッコイイものだと感心する。久しぶりにM4が活躍する姿を見て、こちらもフィルムライカを撮影に持ち出したくなった。

ところで、最近戦列に加わったM9はなかなか手になじんでいいカメラだと思うようになって来た。何よりもデジイチとは異なる撮影スタイルが良い。ライカの血を受け継いでいると,実感する。そして、撮影結果をすぐに確認出来るのはデジタルの良さだ。この二つが体感出来るだけでもワクワクするカメラだ。

しかし、M4を久しぶりに手にして、ふと、M9は本当にライカMの系譜を引くカメラなんだろうか、との疑念がよぎった。エレキの流れてない潔い金属カメラを手にして,これがライカだったんだ...と。いかんいかん,せっかく現代的で知的なM9をいとおしく思い始めたのに、ふと昔の彼女に出会って、ちょっと不器用だが優しかったその心を思い出して,これで良かったのかと迷う浮気性な男、みたいな...

ちょっと苦しくなって来たぞ。恋はいつも苦しいものだが。しかし両方とも愛せばいいのだ、と心に言い聞かせる。どちらも古風で頑固な性格を持っているではないか。どちらもライカのお作法をわきまえていることを求められる。それに彼女と違ってカメラは両方愛してもスネないぞ。

デジタル化は不可避のトレンド。その画像再現性は,解像度と色再現において遥かにフィルムを越えた。勿論フィルムにはフィルムの「味」がある。画を出現させるプロセスにもそれなりの職人技が発揮出来る余地がある。しかし、デジタルも限りなくフィルムのアナログな色再現性や、「味」や、画像処理プロセスによる画造りを0、1のビットで仮想空間で実現してみせることが出来る。しかもより忠実に...よりきめ細やかに...

ビットレートが高くなり,CPUの処理速度が速くなるにつれ、アナログの曖昧さをより再現出来るようになって来た。サイエンスがアートの世界に、アートがサイエンスの世界に相互乗り入れし始めた。

しかし,それだからこそライカのメカニカルでケミカルな職人芸的なアナログ性を、最先端のデジタル処理技術で再生してみせることの意味が益々あいまいに感じる。職人芸で生まれた「いい仕事してますねえ」の道具は、わざわざ別の技術で再生してみせなくてもそのままでいいんじゃないのか?

まあ、さはさりながら今更ライカはライカのままでいてくれ。デジタルで再現しないでくれ。少なくともライカ社自らの手でデジタル化してくれるな,とも言えないが。彼等も事業として厳しい世の中を生き延びて行かなくてはいけないのだ。わかっている。

伝統の職人技をデジタルで再現する。これはこれでまた、新しい時代の職人技なのだ。ライカのように伝統の技をプロトタイプとして「型紙化」できるマイスター集団だけが,それをデジタル化技術によってレプリケートし、未来に引き継ぐことが出来るのかもしれない。一眼レフにおけるニコンの場合も同じであるが。

よし、M4もM9も両方愛すことにする。愛せる。両方ともライカMファミリーメンバーなのだ...


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                                                                            (大阪 四天王寺庚申祭にて Leica M9, Summicron 50mm f.2 とても今風の写りだ)

2010年1月19日火曜日

天空の城、高取城 その城下町土佐町






それにしても凄い山城だ。標高583.8メートルの高取山の山頂に延々3キロに渡って縄張りされ,大天守、小天守はじめ33もの櫓で構成された高取城。まさに「天空の城」だ。

元々は南北朝時代に豪族の越智氏が築いた山城であったが,その後筒井順慶が改修し、さらには、天正3年(1585年)大和郡山城主豊臣秀長の命を受けた重臣本多正俊が入城して郡山城の詰城として大改修を行ったのが、今の威容を誇る高取城だ。

本城である大和郡山城も堅固な城であるが、城内が周囲約3キロ、郭内は周囲約30キロの規模を誇り,平地からの高低差446キロの高取城はいかにも難攻不落の山城である。また、山城は通常天守等なく、いわゆる「かきあげ城」という砦のような城が多いが、ここは山上に、まるで平山城と同規模の連郭式縄張りで、大天守、小天守、御殿はじめ数々の櫓の白漆喰塗籠の建物が延々と立ち並んでいた。これが別名、芙蓉城と呼ばれたゆえんである。麓の城下から眺めた城の姿を「巽高取 雪かとみれば 雪ではござらぬ 土佐の城」とうたわれるほどの景観であった。

江戸期に入って徳川譜代大名の植村氏が入城し、明治4年の廃藩置県まで植村氏の居城であった。今でも植村氏の子孫が山麓の土佐町に居を構えている。あのナマコ塀の長屋門の館がそうである。

明治26年には天守等の建造物はことごとく破却されてしまう。今建物は何も残っていな。破却直前の写真を見ると、石垣だけの姿も異様に壮大だが,さらに山上に立ち並ぶ櫓と大手門がその山城としての重装備加減を押し出している。このような山上の城では手入れが行き届かず,当時は補修するにもいちいち幕府の許可を取らなければならないので、徐々に放置され、廃墟化することが多かったようだが、高取城は三代将軍家光から、補修は勝手にやってよい,とのお墨付きをもらっていたらしく、明治の廃城までその威容を維持して来た。

難攻不落ぶりを遺憾なく発揮したのは、幕末の1863年の天誅組の乱である。高取城を拠点とした幕府軍は十津川郷士等1000名の攻撃をたやすく撃退。天誅組の乱が失敗に終わる大きなきっかけとなった。この城に登ってみればその難攻不落ぶりが容易に体験できる。いまは登山道が整備され麓の黒門跡からは1時間半ほどで山頂の本丸跡にたどり着けるが、それでも七曲がり坂や直線の一升坂などの難所があり、ようやく二の門の石垣にたどり着く。ここからが平城の縄張りと同じで、石垣の間の迷路のように曲がりくねった坂を歩かされることになる。

本丸跡からは大峰山、大台ケ原、高野山などの紀伊山系の山々が展望出来る。まさに牙牙たる山々が連なる神々の聖域だ。神武天皇はこんな山々を越えて熊野から大和に攻め入ったコトになっている。神武東征を神格化するに充分な地形的舞台設定だ。古代人はこうした山々に畏怖の念と神秘性を感じたのだ。神々は天から降り,山々から国にやってくるのだ。高千穂の峰であれ、熊野の山々であれ。

一方、西に眼を転ずると、国見櫓跡からは大和国中、大和三山を直下に見渡すことが出来る。さらに目線を少し上げると生駒、葛城、金剛山、二上山が遠望できる。晴れた日にはこれらの山稜の合間に河内平野、大阪が展望出来る。古代官道、横大路や後の竹内街道が大和から河内へ繋がってゆく様が見える。今は高速道路が白く無粋な直線で大和盆地を切り裂いているが。雄大な眺めである。中世、近世以降この城がいかに大和一国を押さえるに重要な位置を占めているかが一目で分かる。

土佐町はこの山城、高取城の城下町として建設された。高取城へ一直線に続く大手筋、土佐街道沿いに武家屋敷や商家が寺が並び、道の両側には水路が整備されている。建物は通りに面して棟を平行に軒並を整えて,外観は「つし二階建て(屋根裏物置付き)」に連子格子、虫籠窓で黒壁白壁で意匠を競っている。細長いこじんまりした城下町だが今もその町並みと景観は良く保存されており、伝建地区に指定されてはいないが、かなり濃厚な歴史景観地区になっている。阪神大震災の際に掘り出された神戸の路面電車廃線跡の敷石がいまはこの土佐街道の両端を縁取っている。

織田氏の山城、松山城の城下町として発展した大宇陀松山に類似性を見ることも出来る。紀伊山系、吉野山系から採れる豊富な薬草を資源とした薬の町として発展している点も両方に共通している。

ところで、なぜここは「土佐」なのか?街道脇に設置されている説明板によれば、その昔大和朝廷に労役の為に土佐から大和に徴用された人々が、その年季明け後も帰るに帰れず,この地に定住したことから,故郷を懐かしんで「土佐町」と称した、とある。ここの人々は土佐人の末裔なのか。

ヤマト王権の時代から古墳の造営や都宮の造営などで他国から大勢の人々が駆り出された。律令体制整備後には労力の提供は租庸調の税としても定められていた訳だ。中には国に帰ることが出来ずヤマトに残った人々も多かったのだろう。勿論朝鮮半島からの渡来人もあちこちに定住していたから,ヤマトは今の東京のような地方人や外国人の雑居地域だったのかもしれない。むしろそれが大和という国だったのだろう。

今回の時空旅は,高低差446メートルを含む往復約10キロを歩き、大いに体力を消費したが、メタボ気味の体にはちょうど良い運動だった。帰りは近鉄壺阪山から特急で阿倍野橋へ直行で帰った。二上山に沈む夕陽を眺めながら所用時間約45分で日常の現実世界へ舞い戻る。

写真集1:城下町としての土佐町




見事な大和棟のお屋敷


薬草の産地でもあり薬店が軒を連ねる





武家屋敷
現在は医院となっている

旧家老屋敷








明治以降、旧藩主家族の住まいとなった








写真集2:高取城への道





猿石
明日香への分岐点に置かれている


ようやく石垣が
















写真集3:高取城からの展望

紀伊山地








二上山
明日香

畝傍山

耳成山


大和三山を望む