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2014年4月22日火曜日

お台場散策

 東京臨海副都心のお台場は、週末ともなれば多くの家族連れ、若者達で賑わう人気エリアだ。外国からの観光客も多く、観光地としての魅力も増している。かつて世界都市博覧会を当て込んでこの一体は埋め立てられ、広大な土地が造成開発されたが、バブル崩壊直後の1996年、青島知事時代に博覧会は取りやめ。会場予定地はぺんぺん草が生える空き地のままだったが、しかし、あれから18年、今や東京都心にしてはスペーシャスな、いわばアーバンリゾートとして復活した。さらに2020年にはいよいよ第二次東京オリンピックが開催されることになり、晴海、豊洲地区と並んで更なる発展が期待されるエリアとなっている。怪我の功名、あの時の開発が24年後に生きようとは。ロングスパンで見ると何が起こるか分からない。

 そもそも、「お台場」という地名は、江戸末期1853年のペリー来航(黒船来航)に驚愕した幕府が、一年後の第二次来航に備えて、江戸防備のために急遽突貫工事で設けた八つの砲台(台場)から来ている。実際に肥前佐賀藩が鋳造した西洋式大砲が据えられた。地図のように、品川御殿山沖の海中に一列に並んだ砲台であった。現在は第三台場と第六台場が当時の形を保って残されている。他は撤去されたり、埋め立てにより内陸に取り込まれたりしている。、元々陸続きに設けられた御殿山下台場は、その痕跡を地図上に残すのみである。品川区立台場小学校の敷地がそれである。


しかし、この砲台は砲火を交えること無く、幕府は開国した。ただ、この海上防衛線のおかげで、ペリー提督率いる第二次アメリカ東印度艦隊は江戸湾深く侵入することは無く、神奈川(横浜)に上陸することとなる。かろうじて首都防衛抑止力が功を奏したのだろう。明治以降は帝都防衛のラインとして、東京湾入り口富津沖に新たな海堡が建設され、品川台場の役割は終わった。昭和2年には、東京市に払い下げられていた第三台場が、台場公園として整備される。

 今や近未来的な都市景観の中に点在する台場跡。日本の近代化に向けた「苦悩の第一歩」は、辺りの近代的構造物群の中に、時の動きが止まったように佇んでいる。160年の時間のギャップが、その不思議なコントラストを演出している。グラスアンドスチールの街並、東京タワーと東京スカイツリー、巨大な吊り橋レインボーブリッジ、いずれも草生した台場とは異空間の光景である。「お台場よ、あなたが守ろうとした江戸は、こんなになりました」と。

 台場建設にあたっては、当時、品川の御殿山、八つ山を切り崩して、その土砂を採り埋め立てた。御殿山は江戸時代初期には徳川家康の別邸、品川御殿があったところ。のちに将軍家のお鷹狩り休息所となり、吉宗の時代には、多くの桜が植えられ、江戸の桜の名所の一つ(飛鳥山、墨田堤などと並び庶民の遊興が許された桜名所)であった。広重、北斎などの浮世絵にも描かれた景勝地であった。隣の八つ山も武家屋敷が建ち並び、明治以降も城南五山(島津山、池田山、花房山、御殿山、八つ山)と呼ばれた高級住宅地であった。今もここには、島津家別邸(清泉女子大本館)や、岩崎家別邸(三菱開東閣)などの洋館が建ち並び、閑静な住宅街である。

 こうして江戸屈指の景勝地は、黒船来航ショックのなかで消滅した。桜を愛でる名所どころではなかったのだろう。今では、さらに御殿山を南北に分断する形でJR新幹線、東海道線、京浜東北線、山手線、横須賀線が通っている。わずかな跡地にはホテル、マンション、教会が建っており、きれいに整備された庭園があるが、往時の桜の名所の面影は無い。八つ山は、その名を京浜急行の踏切と第一京浜の「八つ山橋」に残している。ここから南が東海道品川宿。ちなみに東京湾に現れたゴジラが上陸したのはこの八つ山橋である。ゴジラも黒船も外からやって来た破壊的イノベーションだった。

 激動の幕末から明治にかけて、この街はその都市景観を「江戸」から「東京」へと激変させてきた。その時代の要請で取り組まれた国家プロジェクトの遺構は、都市の栄枯盛衰のなかで歴史の痕跡として海中に取り残されることとなった。しかし近代国家の首都のウオーターフロントは、新たな国家プロジェクトの舞台として三たび注目されることとなる。我が国の近代化のドアをこじ開けた「黒船来航」、それへの抵抗というファーストリアクションを象徴する台場。これからも次々と新たな「蒸気船」、すなわち時代のイノベーションが押し寄せてくることになるだろう。つわものどもが夢の跡... ウオーターフロントは常に新しい時代の波に洗われ続ける。第二、第三の「開国」という。



(第三台場。石垣と黒松が美しい。昭和2年に公園として整備されている)



(高い土手に囲まれた内側には、陣屋跡、弾薬庫跡、砲台跡などが保存されている。今年最後の八重桜が咲き誇っていた)




(旧防波堤、鳥の生息地になっているので、通称鳥の島と呼ばれている。)



(彼方側と此方側の景観コントラスト。時空の隙間が見える感じだ)




(レインボーブリッジ。左が第六台場、右が第三台場)




(第三台場の黒松の間からの光景。まるでタイムカプセルの内側から未来を覗くように)

2014年4月10日木曜日

あおによし寧楽の京師は咲く花のにほふがごとく今盛りなり

 春爛漫、奈良散策に良い季節がやって来た。奈良公園散策コースには幾つかあるが、私のおすすめお散歩コースは次のとおり。一日で定番スポットを見て回れて、しかも緑豊かな公園都市を満喫できる。

 近鉄奈良駅からスタートすると、登大路通りを歩いて県庁屋上(意外に知られてないが、一般開放されていて景色が良い)へ。東大寺南大門へは登大路を通らず、吉城園、依水園経由で、戒壇院を左手に見ながら、東大寺南大門、参道へ。大仏殿からは、裏の大仏池散策へ(ここは紅葉の季節は穴場スポット)。そこからは大和路写真の巨匠、入江泰吉氏おすすめの二月堂へ石畳の上り道。二月堂から、修復なった三月堂、手向山八幡、若草山へと歩を進める。さらに春日大社への小道を進む。春日大社からは若宮、春日の杜の禰宜の道(この辺までくると観光客はパタリといなくなる)を通って高畑町へ抜ける。新薬師寺、白毫寺、入江泰吉写真美術館(ここのカフェで一休み)。斎藤茂吉旧宅、高畑町を散策しながら、奈良町方面へ。今西家住宅、福智院、元興寺、奈良町を散策。なら工芸館に立ち寄り、西御門通り、餅飯殿商店街、猿沢池、興福寺、と回って、東向商店街を抜けて、近鉄奈良駅へ戻る。

 奈良観光の定番コースではあるが、一万歩を軽く超える徒歩散策である。一部観光客でごった返すところもあるが、概して静かな杜の小径、花を巡る散策コースであることがうれしい。昔の興福寺境内、春日大社の神域が、明治以降そのまま奈良公園として保存されている。このコースを4月の桜の頃歩くと、桜はもとより、色とりどりの花々と新芽の出始めた新緑の樹木が美しく輝いている。「奈良七重七堂伽藍八重桜」という芭蕉の句が浮かんでくる。


奈良散策と言っても、ここは平城京の東に張り出した「外京」であったところである。かつての平城京をすべて巡る訳ではない。平城京は遥かに広い。しかし、なぜこのような張り出し部分が平城京に設けられたのであろうか? ここには権勢を誇った藤原一族の氏寺である興福寺、産土神である春日大社。飛鳥古京から移設した蘇我氏ゆかりの元興寺(なぜ藤原鎌足が滅ぼした蘇我氏の寺を平城京に移すことを許したかはもう一つの歴史の謎であるが)、そして藤原不比等の孫娘、光明子の夫である聖武帝発願の東大寺などの壮麗な建築物が並んでいた。いわば藤原氏の権勢を偲ばせるエリアである。そのためにわざわざ外京を設けた、といっても過言ではないだろう。

 この外京部分が現在の奈良公園、奈良市の中心になっている。かつての平城京の中心、平城宮大極殿は現在の西大寺駅と大宮駅の間に広がっている平城宮跡にあり、平安遷都後は農地になってしまっていた。薬師寺、唐招提寺は西ノ京駅付近。ここものどかな田園地帯になっている。大官大寺(大安寺)はJR奈良駅の南に位置する。都の南の門、羅城門は大和郡山市との境界辺りだ。かつての奈良の都、平城京の中心的な施設は、現在では町外れになってしまっている。平安遷都後の奈良は、こうして外京が町の中心となり発展する。これには、興福寺や春日大社の存在が大きかった。平安時代から鎌倉時代の初めには「南都北嶺」すなわち、南都奈良の興福寺、北嶺比叡山の延暦寺が力を持ち、興福寺の僧兵は春日大社の神輿を押し立てて朝廷や幕府に強訴するようになる。戦国乱世にもこうした僧兵勢力の力は織田信長の叡山焼き討ちに象徴されるように、時の権力者を脅かした。江戸時代に入ると徳川幕府は奈良を直轄地とし、奈良奉行所を置いた(現在の奈良女子大学)。明治維新後の廃仏毀釈で興福寺が廃れたが、その結果、広大な興福寺の寺域が残り、公園として整備されることになる。江戸・東京で、上野寛永寺跡や芝増上寺が公園整備されたのと同じような経過だ。しかし、そのおかげで、このような緑豊かな公園都市が生まれた。世界遺産にも登録されている。

 「あをによし 寧楽(なら)の京師(みやこ)は 咲く花の にほふがごとく 今盛りなり 」(『万葉集』3-328)


太宰府政庁跡に建つ小野老の歌碑
小野老(おののおゆ)が太宰府で詠んだ歌である。時は聖武天皇の御代、天平文化華やかなりし時代である。平城京はその最盛期を迎えていた。小野老はそのころ筑紫の太宰府に赴任。当時、太宰府には太宰大弐大伴旅人や筑前守山上憶良、観世音寺別当沙弥満誓らが居り、都から赴任してきた官人を中心に筑紫歌壇が全盛を誇っていた。着任したばかりの小野老もその仲間として、天さかる鄙に赴任した気持ちを和歌に託してを詠んだであろう。その一首がこの歌である。太宰府政庁跡(都府楼跡)と平城宮跡の双方に歌碑がある。やがて「長屋王の変」が起こり、皇族である長屋王が藤原不比等一族によって抹殺され、藤原4兄弟中心の権力基盤が確立すると、それにつながる宮廷官僚が昇進する。藤原氏に近い小野老も順調に昇進し、太宰大弐に叙任されるする。ちなみに小野老は太宰少弐小野毛野の子、先の遣隋使小野妹子の孫である。

 上の写真は、太宰府政庁跡に建つ小野老の歌碑である。大野城を背後に壮麗な太宰府政庁の建物が建ち並んでいたのも古のこと。今は巨大な礎石に往時を偲ぶのみである。太宰府は当時は「遠の朝廷」と呼ばれ、中央から高官が赴任し、先ほどの「筑紫歌壇」のような華やかな文化サロンが繰り広げられていたのだが、やはり、遠い都の今を盛りのさんざめきが懐かしかったのであろう。ため息が聞こえるようだ。太宰府、九州と言うと、後世平安時代の菅原道真を待つまでもなく、左遷の地というイメージがつきまとう。なんとも「中央目線」だ。都から転勤して来た官人には、ことさらに「あをによし 寧楽(なら)の京師(みやこ)」が心の中で美しく輝いていたことであろう。

 こうして今、あらためて奈良を散策すると、確かに美しい。小野老や芭蕉ならずとも、この美しさを何らかの方法で表現したくなる。私の場合、写真で巧く表現出来れば良いのだが。京都よりも古い古都は、滅びの美と栄華の残影が、よけいに時間と空間の中で熟成され、えも言われぬ歴史の香りを醸し出す町となっている。美しく咲き誇る季節ごとの花々が、その古色の風景に彩りを与えてくれる。という訳で、スライドショーには選びきれないほどの大量の写真がアップされている。なかなか、ベストショットを選ぶ眼力と感性と決断力が培われてないのが悲しい。



(若草山から東大寺大仏殿を望む)





(大仏殿の裏手から二月堂へと続くの石畳の道。奈良写真の巨匠入江泰吉氏お勧めのエリアだ)



(新薬師寺への道。季節ごとの花々が美しい高畑町界隈)


スライドショーはこちらから→



(撮影機材:Nikon Df+AF Nikkor 28-300mm)

2014年4月7日月曜日

大宇陀に又兵衛桜を愛でに行く 〜阿騎野の里散策〜

 桜の季節だ。都会の桜は一斉に咲き誇り、華やかにボリュームを競う。そうして大勢の人を呼び、喧噪の中に散り始めた。見事な咲きっぷりだが、この時期は何となく気ぜわしい。開花は何時なのか?天気はどうだ?どこが見頃か?混雑ぶりは? そういってるうちに、早くも散り始める。開花から一週間という短い間に見所を回らねば、という強迫観念がそうさせるのだろう。そうした慌ただしさが「お花見」なのかもしれないが、もう少しゆったりと桜を愛でることは出来ないものか。

久しぶりにこの季節、大和路を散策することが出来た。しかも、大阪にいたときに訪れることの出来なかった、奈良大宇陀の「又兵衛桜」(本郷の瀧桜)を、ついに訪ねることが出来た。大宇陀は美しい佇まいの街並の織田氏の城下町。何度か散策に訪れたことがある町だ。城下町といっても、織田松山藩3万石という小藩の町で、壮大な縄張りの城下町とはかけはなれた静けさだ。むしろ商家が軒を連ねる在郷町の雰囲気の方が強いように感じる。

又兵衛桜は、この大宇陀の古い街並の西、1kmほど離れた阿騎野の里にある。大宇陀川沿いの山の斜面に樹齢300年超の古木が、孤高の古武士のように屹立している。車でないとなかなか行きにくいところだが、最近は有名になって観光バスで団体さんが押し掛けるようになった。また、前を流れる本郷川の河川敷の整備が進み、観光客用の広場や見物スペースも用意され、山間にひっそりと佇む老木のイメージが薄れてしまった。周辺があまりにもきれいに整備されると、まるで場違いなステージに立たされた老優のようでもある。それでもその風格と時空を超えた存在の重さを十分に感じさせる。

この日はあいにく天気が不安定で、晴れていたかと思うと急に雨が降り始めるという、花見にはあまりよろしくない一日であった。近鉄榛原駅からバスに乗って大宇陀高校で下車。日頃の行いが悪いせいか、よりによってバスを降りると、いきなり雷様のお出迎え。激しい雷雨にしばし万葉公園の体育館の軒先で雨宿り。小降りになってから雨の中を1キロほど歩くと、雨にけぶる山肌に又兵衛桜が見えてきた。なんとドラマチックな出会いではないか。そして雨上がる...

「又兵衛桜」の名前の由来は、江戸時代初期の剣豪、後藤又兵衛にちなんでいるそうだ。後藤又兵衛は、今年のNHKの大河ドラマ「軍師官兵衛」にも登場しているが、黒田官兵衛に育てられ、官兵衛の子で筑前52万石の当主となる黒田長政の家臣となる。勇猛ぶりで名を馳せた黒田24騎の一人として活躍する武将である。後に諍いがあり黒田家を出奔する。最後は大坂夏の陣で、豊臣方の武将として大坂城に入り、道明寺の戦いで壮絶な戦死を遂げたといわれている。講談などで登場する剣豪として人気の有名人だ。ある意味、黒田官兵衛や長政よりも人気があったかもしれない。その又兵衛、実は大坂城を抜け出して生き長らえ、ここ大和の宇陀の地に隠遁、静かな余生を送ったのだと。その屋敷跡に桜の古木が残った、と地元では伝えられている。この他にも、「その後の又兵衛」の伝承が残っている地域がある。大分県の豊前中津にも彼が晩年を過ごした地というのがあって、耶馬渓には墓まである。源義経伝説のように、人々に愛された英雄の生存伝説はあちこちに語り伝えられている。

この辺りは古くから阿騎野(あきの)と呼ばれ、飛鳥、奈良時代には宮廷の狩り場であったところだ。推古天皇の時代、「薬狩り」が催されたことが『日本書紀』に記されている。「薬狩り」は宮中行事でもあったとされ、男性は猟を、女性は薬草を摘んだ。天武・持統天皇の時代にも阿騎野で行われたと文献に残る。万葉歌人・柿本人麻呂も草壁皇子、軽皇子(のちの文武天皇)に随行し、この地に秀歌を残した。大宇陀の町と阿騎野の里を見渡すことの出来る「かぎろいの丘」に登ると柿本人麻呂の万葉歌碑が建っている。

「東の 野に炎(かぎろひ)の 立つ見えて かえり見すれば 月傾きぬ 」(万葉集 巻1-48)

まさに春爛漫、本当に美しい風景だ。桜、桃、梅、椿、レンギョウ、ユキヤナギ、ハナスオウ、モクレン、コブシが一斉に咲きほこり、青紅葉や、樹々の新芽が浅葱色に芽吹く。田んぼにはレンゲやスミレが咲き誇る。先ほどまでの雨で山肌には煙霧がかかっている。ああ美しい。なんと心癒される時間と空間であることか。いつまでもここに佇んでいたいものだ。

山懐に抱かれた里の曲がりくねった田舎道を歩いていると、本郷川に沿って杜に囲まれた古社に出会った。いかにも古神道の原風景を見るような鎮守の森だ。阿紀神社である。現在の社殿は安土桃山時代に現在地に建立されられたのもだという。伊勢神宮と同じ神明造の社殿で、りっぱな能舞台を備える。創建の歴史は不明である。、現在の杜のすぐ隣の丘に「高天原」の標識があり、元々はここに鎮座ましましていたのだと言う。ご祭神(主神)は天照大御神。この神社も幾つかある「元伊勢」の一つだ。しかし、その佇まいは、天武・持統治世の皇祖神創出に先立つ、田の神、山の神、といった自然神、地元の産土神のそれである。この地元の神も、後に天照大御神を頂点とする皇祖神システムに組み入れられていったのだろう。

また、記紀には、神武天皇が熊野から大和国中を目指して進軍するとき、阿騎野から菟田野(うたの)を八咫の鴉(やたのからす)に導かれ、無事に通過することが出来たと記されている(近くに八咫鴉神社がある)。背後には、神武軍の大和侵攻の司令塔の役割は果たしたと言われる伊那佐山も、その秀麗な甘南備の山容を誇っている。ここ宇陀では地元の「荒ぶる神々」に行く手を阻まれて苦戦するが、ついにはこれらの抵抗勢力を破り、大和国中に進駐。橿原宮にて初代天皇として即位した。記紀が語る「日本建国」物語のクライマックスの場面である。また674年の壬申の乱では、吉野を出た大海人皇子がここ菟田野で狩人たちに導かれて東国伊勢へ脱出、やがて体制を立て直して近江京を落とし、大和に凱旋して天武天皇として即位する。何やら似たような展開だが、この壬申の乱の話が、記紀編纂のなかで参考にされ、「神武東征」物語の原型になったのだろうともいわれている。今は穏やかな山里、阿騎野、菟田野は、熊野、吉野、伊勢と大和国中を結ぶ回廊として、たびたび歴史に登場する重要な舞台であった。

阿紀神社をさらに先へ進むと、やや小高い丘の上に天益寺(てんやくじ)がある。この寺は真言宗の寺で鎌倉時代創建の古刹である。阿紀神社の神宮寺として建てられたという。ここの枝垂れ桜がまた絶品だ。不幸にも平成11年の不審火により堂宇は消失したが、この桜の巨木は残った。又兵衛桜からは徒歩で5分ほどの近さであるにもかかわらず、訪れる人も無くひっそりと里を見下ろしている。しかし、その伸びやかな枝振りと、輝く花弁の美しさは,又兵衛桜とは別の趣を醸し出しており、その風景を独り占めするという贅沢を楽しむことができる。

都会でのにぎやかで慌ただしい桜三昧で、やや「桜酔い」の眼に、人知れず山里に咲き誇る桜の古木の立ち姿。又兵衛桜は有名になりすぎてしまったが、それでもその孤高の品格が心に沁み入る日本の桜の風景であることは間違いない。


(「又兵衛桜」(本郷の瀧桜)。あいにくの雨であったが、それはそれで風情がある)


(孤高の古武士のような風格を感じる)


(阿紀神社の杜)


(結界を示す注連縄と紙垂が美しい。紙垂は稲作の神である雷の形を表したものと言われる)


(天益寺の枝垂れ桜。ここからは阿騎野の里、大宇陀松山の街並が展望できる)


(下から見上げるとまた見事)



(甘南備の山、伊那佐山)


(大宇陀松山の街角。重要伝統的建造物群保存地域に指定されている)



(撮影機材:Nikon Df+AF Nikkor 28-300mm。ブラパチ風景ハンティングにほぼ万能のセット)


「又兵衛桜」の場所を見るには「Google マップで見る」をクリックしてください。


アクセス:近鉄大阪線「榛原」駅下車。奈良交通バス「大宇陀」行きで「大宇陀高校」下車。そこからは徒歩で15〜20分。県道に沿って歩くのが分かりやすいが、一歩脇道に入って里の景色を楽しみながら散策するのがおすすめ。案内標識はよく整備されている。

2014年3月27日木曜日

蔵の街「栃木」散策 〜さらにちょっぴり古代「毛野国」訪問〜

「関東の小京都」、「小江戸」、「関東の倉敷」、などと称される栃木。美しい蔵の街だ。この憧れの街についに足を踏み入れた。しかし、古い街並を訪ねるたびに思うが、こうした地方に残された昔ながらの美しい町を、安易に京都や江戸や倉敷になぞらえるのは,「いかにも」な観光キャッチだと思う。栃木はその歴史的経緯から観ても、地理的な立ち位置から観ても、その町の果たした役割から観ても、京都でも江戸でも倉敷でもない。江戸時代は案外、地方が繁栄していた時代だったのかもしれない。すくなくとも経済の東京一極集中、文化の京都一極集中、なんてことはなかった。それぞれの藩がある意味独立し、独自の経済圏、文化圏を誇っていた。そうした地方分権体制が、実は徳川幕藩体制の実態であっのかもしれない。地方には必ずその地域の中心として栄えた街があった、それは城下町であったり、在郷町であったり、宿場町であったり、農村の物資の集散地であったり,門前町や寺内町であったり。

そうしたかつて栄華を誇った「田舎町」は、時の流れの中で起こった「都会一極集中」のせいで、人がいなくなり、忘れ去られ、もぬけの殻になった。しかし、皮肉にも、その繁栄の記憶と、美しい町並みはタイムカプセルに閉じ込められ、奇跡のように今に残った。そのタイムカプセルを開けるワクワク感。時空の扉を開けて一歩中に入る瞬間、中から、長い時の経過とともに熟成された濃厚な景観が姿を現す。「田舎」と「都会」という二分法。「衰退」と「繁栄」の代名詞のように語られる二分法である。しかし、そうかな? 時の経過、価値観の大きな変化とともに、そろそろ人の流れが変わりつつある。

栃木は、巴波川(うずまがわ)を利用した舟運により物資の集散地として栄えた。室町時代には城下町であった事もあるそうだが廃れた。その後に日光東照宮造営に際し、江戸や全国から運ばれた材木や,建築資材が利根川、渡良瀬川、巴波川を通じて栃木に陸揚げされ、日光へと運び出される物流拠点として発達した。さらには、造営なった東照宮へ、勅使が通行する日光例幣使街道の宿場町としても発展し、水運、陸運双方の流通拠点として繁栄した。今では,静かな地方都市だが、当時は豪商が軒を連ね、見世蔵が立ち並ぶ殷賑な商都であったことだろう。往時の繁栄が偲ばれる蔵の町並みであるが、耐火性に配慮した建物は、幕末の動乱期に水戸浪士(天狗党)により街が焼かれた教訓から建替えられたもので、現存する約200棟の蔵や40棟の見世蔵などの多くは比較的新しいもののようだ(といっても幕末から、明治、大正の頃だが)。

豪商がいれば、芸術文化のパトロンがいるのは古今東西共通のならわし。江戸時代も後半になると、江戸や全国から絵師や俳人などが栃木に集まっていたという。あだち好古館には多くの浮世絵や錦絵の原画が濃密に展示されている。最近の話題は、喜多川歌麿が描いた晩年の大作で、しばらく行方不明になっていた、「深川の雪」が発見されことだ。歌麿は度々栃木に招かれ,長逗留をしては数々の作品を残したらしい事が分かっている。「深川の雪」は「品川の月」「吉原の花」とで3部作になっており、江戸の代表的遊里と自然の美を組み合わせる粋な趣向の3作品は、明治半ばフランスに流出。「品川の月」「吉原の花」がさらにアメリカへ渡っている。「深川の雪」だけ日本に戻ったが、戦後行方不明となっていたもの。その3部作,実は栃木で描かれたものではと言われている。当時、華美禁止、風紀粛正でにらまれた歌麿が、幕府の追求の眼を逃れて栃木に潜伏して描いたと考えられているのだ。当時の栃木という土地のステータスを物語るエピソードだが、真相は依然謎のままだ。現在、この3部作の原寸大のレプリカが、栃木市役所に展示されている。発見された本物は、箱根の岡田美術館に展示されている。

やがて、明治維新後の廃藩置県では、栃木県庁は栃木町に置かれた。現在残る明治期の近代建築、栃木市役所別館(旧栃木町役場)のあるところが県庁所在地であった(今も県庁堀が残っている)。その後、隣の宇都宮県を合併し、新たに栃木県となるが、いろいろな経緯で県庁は宇都宮に移った。栃木の商都、地域政治の中心としての役割は徐々に終焉に向う。こうした地方の常で、明治の近代化や、戦後の高度経済成長に取り残された街には,「破壊」の魔手が及ばず、美しい町並みが残る。とはいえ、栃木市は今でも人口8万を数える地方中核都市だから、過疎に悩む町村とは異なる。同じ蔵の街として有名な、川越のように、東京に近くて、週末毎に大勢の行楽客が押し掛ける訳でもなく、蔵の街大通りもゆったりとした歩道が整備されていて,散策が楽しい。ごった返す歩行者の横を車の列がすり抜けて行くせわしなさはない。

平成24年、栃木市の嘉右衛門町地区が「重要建造物群保存地域」に指定された。日光例幣使街道の宿場町として発展した地区だ。名主であった岡田家の邸宅や陣屋跡、別邸などがよく保存、整備されている。補助金が出るようになって、街道沿いの建物の修復工事が至る所で進められている。かなり壊れてしまった町家や、完全に今風に建替えられてしまった建物も多く、早急な修景保存が必要であったのだろう。一方で、550年続く名家の岡田家のように、子孫の方々の努力で(あるいは財団法人化し)、広大な建物や敷地を維持し、一般公開して入場料収入でなんとか繋いで行っている。しかし、こうした個人の努力には限界があるだろう。巴波川沿い、大通りの豪邸、商家、見世蔵も大変なんだろうと思う。建物の維持保存だけではなく、そこに住み、代々続く商売を維持しながらの生活、ここには別の形のsastanabilityやbusiness continuityの問題がある。いつも感じる「景観/修景保存」につきまとう課題だ。

これまでに、佐原、川越、大和今井町、宇陀松山、大和五条新町、富田林、近江八幡、伊勢関宿、えひめ内子町、土佐赤岡、筑後吉井、八女福島、筑前秋月、日田豆田町、播州竜野、倉敷、津和野と古い町並みを巡った。「時空トラベラー」冥利に尽きるタイムカプセル探訪だ。そして、いつも感じるのは、そこに住む人々の鷹揚で、暖かい「もてなし」の心だ。その町が人をそうさせるのであろうか? ここ嘉右衛門町でも、地図を持ってウロウロしていると、すれ違う御婦人が「岡田記念館はこの先ですよ〜。ゆっくりしていってくださいね〜」と声をかけてくれる。岡田記念館の御婦人は、丁寧に丁寧に中を案内してくれる。最後に、いかにこうした施設を文化財として保存、維持してゆくことが大変かを、微笑みながら話してくれる。愚痴めいた話ではなく、誇りを感じている話し振りである。慌ただしく急ぎ足で巡ることは出来ない。地元の方々とコミュニケーションする時間を充分に用意しておく事だ。ここには別の時間がゆっくり流れているのだから。こうしたちょっとした非日常体験に、忘れていた我を取り戻すことも出来る。不思議な「時空」だ。これからも,未知の町を求めて探訪を続けたい。




『ここで話題を変える。タイムマシーンを加速して、時代をぐ〜んとさかのぼろう。』

私のもう一つの「時空旅」のテーマである、稲作農耕文化が広まった弥生時代や、その後のヤマト王権確立プロセス、すなわち「倭国」の時代には、栃木県や群馬県は、どのような歴史を歩んだ地域だったのだろうか? 西日本中心の古代史観では,関東地方、東国は、遥けき「遠国」、歴史の霞の中にたゆたっている。

古代、「毛野国(けぬこく、けのこく)」という国があったと言われている。北関東(群馬、栃木一帯)あたりにあった、というのが定説のようだ。しかし、筑紫、日向、出雲、吉備、大和など、記紀に神話の時代から登場し、記述されている国々と違って、おぼろげな姿しか見えない。東国である事は間違いないだろうが、果たして「毛野」はどこにあったのか。「けぬ川」流域の国だとする説明もある。現在の鬼怒川である。魏志倭人伝にある「狗奴国」に比定する説もある。宋書「倭国伝」に「東は毛人を制する事云々」という記述から、毛野の存在を推定する説もある。しかし我が国の史書には明確な記述がない。律令時代になり、上毛野国/上野国(こうずけ。ほぼ現在の群馬県)、下毛野国/下野国(しもつけ。ほぼ現在の栃木県)に分かれたことが明らかにされている。このころ、正式に大和政権から国として認知されたようだ。しかし、分国する前の「毛野国」に関する記述はない。またヤマト王権が地方に及んだ古墳時代以前の、クニと呼ばれるような大規模な弥生集落や都邑の痕跡も見つかっていない。崇神天皇の四道将軍、景行天皇の日本武尊の東征などの伝承の中にも明確な記述が無い。「毛野国」は謎の国だ。

時代は下って7世紀後期、天武天皇/持統天皇の時代に、下野国に下野薬師寺が創建された。地元の豪族下毛野君の創建との説もあるが、この時代、藤原京薬師寺にならって全国に薬師寺が建立された。やはり天皇発願寺であったのだろう。8世紀、奈良時代に入ると、大和平城京東大寺、筑紫太宰府観世音寺とならぶ三戒壇の一つがおかれた。ここが大和政権にとって、陸奥の多賀城とともに、東国経営の重要な拠点である事を示す証拠であろう。その場所はJR宇都宮線自治医科大学駅近くにあった。しかし東大寺や観世音寺のように現代まで存続せず,その法灯は大安寺に引き継がれているものの、歴史の流れの中で消えていった。今は遺跡としてその痕跡を残すのみである。西国の古代風景とは大きく異なる東国の古代風景である。


(栃木は、日光例幣使街道の宿場町と、巴波川(うずまがわ)を利用した舟運で発展した商都であった。栃木を代表する景観ビューポイントだ。)


(巴波川沿いに、延々と120mに渡って黒塀と白壁土蔵が続く塚田家。江戸時代後期に材木回船問屋として栄えた豪商である。現在は「塚田歴史伝説館」として公開されている)



(両側に大谷石造りの蔵を備える、珍しい両袖切妻造の横山家住宅店舗。麻問屋と銀行業を兼業していた。裏には見事な庭園と、小さいが瀟洒な洋館がある。)




(ガス灯がシンボルの横山家。美しい佇まいだ。現在は「横山郷土館」として公開されている)



(およそ200年前に建てられた土蔵三棟を改修して「とちぎ蔵の街美術館」として一般公開している。)



(かつて日光例幣使街道であった「蔵の街大通り」には,今でも数多くの見世蔵、土蔵、明治以降の近代建築が残されており、独特の景観が眼を楽しませてくれる。広い歩道が整備されていて散策しやすいのが嬉しい。)

(撮影機材:Nikon Df + AF Nikkor 28-300mm 趣のある蔵の街撮影散策にベストなコンビだ)

2014年3月17日月曜日

上野公園は近代建築の宝庫だ 〜上野公園の謎〜

 前回のブログ「謎の芝公園」でも述べたように、上野公園は明治6年の太政官布達で指定された東京5大公園の一つである。しかし、ここは他の公園と異なり、明治新政府の「近代化」への意気込みを象徴するかのように、西欧風の文化施設、それに相応しい近代建築がひしめき合っている。帝室博物館(現在の東京国立博物館)、博物館表慶館、帝室図書館(現在の国立こども図書館)、黒田記念館、音楽学校奏楽堂(保存建築)、美術学校の陳列館、正木記念館、赤煉瓦校舎、京成電鉄博物館動物園駅舎(現在は閉鎖中)など、さながら東京「明治村」「明治たてもの園」の様相を呈している。

 かつては、現在の上野公園全体が、江戸幕府徳川総家の菩提寺、霊廟、東叡山寛永寺境内であった。いわば徳川家にとって芝の増上寺と並び、宗家鎮護の寺があった場所だ。江戸期のはじめ、天海僧正により、天台宗の寺院として創建された寛永寺は、平安京、京のみやこの鬼門封じの比叡山延暦寺にならい、江戸の鬼門封じとして創建された。山号も、東の「叡山」である東叡山、寺の名前も、延暦寺が天皇勅許で創建年号を用いたのと同様に、寛永年間の創建であることから「寛永寺」とした。京都の清水寺の舞台を模した清水観音堂、五重塔を配し、おまけに不忍池は琵琶湖を擬したという念の入れよう。

 今、上野公園に、創建当時の壮大な寛永寺の面影を見出すことは難しい。しかし、かつてこの敷地がすべて寛永寺境内であったと知ると、その広大さに驚く。今では国立博物館敷地の右側に、わずかに堂宇が残り、あるいは再建されている。博物館裏手には再建された根本中堂、寛永寺墓地があり、ここに綱吉霊廟門などの遺構が保存されている。また、大仏様(上野大仏)は寛永寺のシンボルであったが、幾多の火災で現存しておらず、公園内にわずかにお顔がレリーフのように保存されているのみだ。かつて、現在の大噴水広場には根本中堂がそびえ立ち、国立博物館敷地には本坊が、左右に五重塔も並ぶ壮麗な伽藍配置であったが、ご存知の通り、幕末の戦乱で、ことごとくこれらの堂宇は失われた。

 最後の将軍、徳川慶喜が謹慎して寛永寺に蟄居した折、将軍を官軍から守ろうと幕臣や佐幕派の浪人たちが「彰義隊」を結成し寛永寺に結集した。しかし、江戸城無血開城、慶喜の寛永寺退去後も寺にたてこもる抵抗勢力、彰義隊を官軍は徹底して壊滅させる。いわゆる戊辰戦争の上野戦争である。このとき寛永寺は灰燼に帰した。官軍総司令官の西郷隆盛の銅像と、彰義隊墓碑が並んで建っているところが上野公園の歴史を物語っているような気がする。

 明治維新後、新政府は焼け野原となった寛永寺境内、上野の山一体を帝室御料地とし、医科大学の敷地などに使おうとしたが、オランダ人医師ボードウィンの提言により,日本初の公園に指定した。これが現在の上野公園の始まりだ。公園には、これまでの徳川幕藩体制のシンボルであった寛永寺に変わり、明治近代化のシンボルとも言える、数々の近代西欧建築が建ち並ぶことになる。江戸から東京へ、時代の変遷を物語る上野の景観のドラマチックな転換である。今の東京に江戸の町並みの痕跡を探し出すのが困難であるように、上野のお山から徳川幕府時代の痕跡は消し去られてしまった。そこに、まるでテーマパークのように、当時の人々の日常からは隔絶した異空間が出現したのであろう。御料地である公園は、1923年に宮内省から東京市に下賜され、「上野恩賜公園」と呼ばれるようになった。

 <上野の近代建築遺産コレクションをご覧下さい。江戸の名残も少しだけ...>



 (国立博物館本館。明治14年にジョサイア・コンドルが設計、竣工の帝室博物館本館は、その後の関東大震災で大きな損傷を受け、建替えられた。昭和12年(1937年)に現在の本館である「復興本館」が完成した。「日本趣味を基調とした東洋式」だそうだ。という事はこの建物には西洋近代建築的要素はない,という事なのか。設計は公募で選ばれた。)



 (博物館表慶館。明治41年竣工。大正天皇が皇太子時代のご成婚記念に建てられた。片山東熊の設計。)




 (国立こども図書館。明治39年(1906年)に竣工の旧帝国図書館。当初は博物館と並び近代化に必要な国家の文化施設として企画されたが、日露戦争による財政難で、本来はロの字型の壮大な建物となる予定が、全体の四分の一に縮小され、前面一列部分だけが竣工した。明治ルネッサンス様式の美しい建築だ。今見ても正面ファサードは壮大だが、横から見ると平べったい壁のような建物だ。今は安藤忠雄による補強保存改修がなされ、オリジナリティーを残しつつも耐震構造とし、安全かつ使い心地の良い施設に生まれ変わっている。)




 (旧音楽学校奏楽堂。明治23年日本初の木造洋風コンサートホール。山田耕筰、滝廉太郎、三浦環が演奏した舞台や、日本最古のパイプオルガンが残る。大学構内から現在の場所に移設保存されている。)




 (東京芸大陳列館。昭和4年(1929年)竣工。岡田信一郎設計。スクラッチタイルが美しい。芸大美術館本館が出来るまではこちらが本館として使用されていた。)




 (東京芸大正木直彦記念館。美校校長を35年務めた同氏を記念してたてられた。昭和10年(1935年)竣工。金沢庸治設計。和様式の門と建物のコンビネーションがなかなか瀟洒。この奥のGeidai Art Plazaはコージーで楽しい。背後は陳列館。)



 (黒田記念館。黒田清隆の作品をおさめる記念館として昭和3年(1924年)岡田信一郎設計により建てられた。現在は国立博物館の施設の一つとなっている。路面に展開しているコーヒーショップの看板が一寸雰囲気壊してるか。)




 (京成電鉄「博物館動物園駅」駅舎。左手は黒田記念館。昭和8年(1933年)地下を走る京成本線の公園地上出入口としてもうけられたが、平成9年(1997年)営業休止。平成16年(2004年)廃止となり、現在は使用されていない。地下を走る電車の音だけが聞こえてくる廃線マニア好みの鉄道遺産だ。建物は国会議事堂を彷彿とさせる重厚なもの。ちなみに国会議事堂よりは古い創建。)




 (因州池田家江戸屋敷表門。丸の内の鳥取藩上屋敷から移設されたもの。建築時期は江戸末期とされている。明治期には東宮御所に移されていたが、現在は国立博物館敷地に移設保存されている。入母屋造、唐破風屋根の左右の番所など、当時の大名屋敷がいかに壮大であったか、そのよすがを知ることができる。東京大学赤門(旧加賀藩邸)と並ぶ大名屋敷遺構。近代建築、モダン建築で満たされた国立博物館の敷地空間に佇む武家屋敷門、という唐突感にもかかわらず、辺りを制する存在パワーが際立つ。)




 (徳川綱吉霊廟門。徳川幕藩体制の栄華を物語る華麗な作りだが、それだけにその時代の終焉がいかに侘しいものかを如実に物語っているようだ。この地に残る数少ない寛永寺の遺構の一つは、訪れる人も少ない国立博物館の裏手の墓地に保存されている。)

上野公園マップ:





2014年3月7日金曜日

増上寺と芝公園(1) 〜芝公園の謎〜

東京で「芝公園」と言えば知らない人はいない。しかし、どこが芝公園?どこからが増上寺? 芝公園のシンボルはなに?東京タワーは芝公園? 地下鉄の駅に「芝公園」があるが、駅の表示に「芝公園はあちら⇨」はない。上野公園や代々木公園や日比谷公園ならまとまった敷地がはっきりしていて「公園」を認識出来るが,芝公園の敷地はどこなのだろう。東京の不思議の一つだ。

 その疑問を解く鍵の一つはその成り立ちにありそうだ。東京は意外にも公園が多い日本の街の一つで,その総面積は74.4㎢(東京デズニーランドの146倍)だそうだ。これは明治の東京遷都時に、欧米流の「公園(Park)」の概念を政府がいち早く導入し、その場所を指定した事が始まりだと言う。明治6年の太政官布達で指定された公園は、上野、浅草、芝、深川、飛鳥山、の5カ所。いずれも上野(寛永寺境内)、浅草(浅草寺境内)、芝(増上寺境内)、深川(富岡八幡境内),飛鳥山(王子権現境内)と、寺社の境内であり、今で言う公園のイメージではない。ようするにまとまった土地が確保出来る寺社地を「公園」に指定した。特に廃仏毀釈の機運が強く、まして賊軍徳川幕府縁の寺社は狙われたのかもしれない。既知の通り、上野寛永寺も芝増上寺も徳川家の菩提寺、霊廟であったところだ。,幕末に彰義隊が立てこもって抵抗した寛永寺は、上野戦争で灰燼に帰し、跡地は帝室博物館や美術学校、音楽学校となり、上野恩賜公園として整備された。

 一方、芝公園の方は、その境内が太政官政府により接収され、上記の通り公園指定がなされた。そのうえでその敷地が増上寺に貸し出されたという。こうした公園と寺院境内の区分が判然としない状態が芝公園の始まりであった。しかし,上の寛永寺と異なり、幕末混乱時期にも増上寺は境内、建物は残ったのでしばらくは「芝公園」(=増上寺境内として)はまとまった形で存在した。その後、先の大戦の空襲では寺の堂宇がことごとく灰燼に帰した。戦後、敷地は増上寺,徳川家に返還されたが、公園/旧境内は様々な経緯で,秩序無くバラバラになってしまう。徳川家霊廟が整然と並んでいたところは、不動産開発会社に売却され、東京プリンスホテル、芝ゴルフ場(現在のプリンス・パークタワーホテル)となり、本堂裏手の旧境内地には東京タワーが建設された。

 このような明治期の境内の接収と公園指定、戦後の返還と土地権利関係の混乱、こうした事情が現在の東京タワー/ホテル/芝公園/増上寺というカオスな佇まい、景観を作り出した。結局、芝公園は、一体何処が「公園」なのか?という有様になってしまった。かといって、増上寺の大伽藍が並んでいる訳でもなくて、その寺域も判然としない。堂々たる三解脱門と戦災後再建された本堂は鉄筋コンクリート造りの威容を誇っているが、他は徳川将軍家霊廟の痕跡を留める台徳院惣門、有章院二天門がわずかに残っているだけである。それもあるべき場所にない唐突さ、かつ荒れ果てて哀れな有様だ。

 東京タワーを背にした増上寺の風景が、東京をシンボライズする観光絵ハガキの一枚になってしまったというのは,こういう経過を知るとまことに皮肉としかいいようが無い。今日も海外からの観光客がここを訪れ、増上寺山門辺りでしきりに記念写真を撮っている。彼等はここを芝公園(ShibaPark)、それとも増上寺(Zoujouji-Temple)だと思って写真撮っているのか?誰か説明してあげて下さい。「お・も・て・な・し」ですよ。



(東京都公園協会HPによれば、この薄皮饅頭のような緑地帯が現在、東京都が管理している「芝公園」だそうだ。)




(東京タワーを背景にした増上寺。東京を代表する観光絵はがき的風景。しかしそこには複雑な経緯があった)




(でも,これはこれで結構画になる)



(堂々たる三解脱門。江戸時代にはこの山門の階上から海が見渡せたと言う。)



(梅の花の蜜を吸いにきたメジロ。都会にも春の訪れを感じさせる場所がある。これぞ「芝公園」)


2014年2月21日金曜日

「筑紫の日向(ひむか)」は何処? 〜天孫降臨の地を探す〜

 記紀神話によれば、アマテラスの誕生の地、その孫のニニギ天孫降臨の地は、「筑紫の日向(ひむか)」であると記されている。すなわち律令時代の日向国、現在の宮崎県高千穂地方である、というのが定説になっている。しかし、以前「アマテラスは宮崎出身?福岡でなくて?」で考察したように、アマテラスと天孫族が穀霊神に繋がる稲作農耕神である事を考えると、弥生時代の最初期の稲作農耕遺跡(板付遺跡、菜畑遺跡など)や、その農耕集落の発展形たる、倭国連合のクニグニ/都邑の遺跡(須玖岡本遺跡、比恵遺跡、三雲南小路遺跡、吉野ケ里遺跡等等)などの考古学的な物証が集中している北部九州こそ我が国の稲作農耕文化の発祥の地であり、葦原中津国であったのではないかと思わざるを得ない。

 そう思っていたら、歴史学者のなかにも「筑紫の日向(ひむか)」は北部九州であろう、という説を唱えておられる方々がいる。なかでも上田正昭先生は、著書「私の日本古代史(上)」のなかで、やはり「韓国に向い...朝日の直射す...」は朝鮮半島が望める地域、すなわち奴国や伊都国の辺りの北部九州だろうと。また、田村圓澄先生も、著書「筑紫の古代史」のなかで、穀霊神や天孫降臨神話は朝鮮半島の新羅、伽耶辺りの王権神授説を指し示す神話と共通する点が多いとする。北部九州にそうした伝承が(稲作農耕文化伝来に伴って)引き継がれて来たのであろうか。

 水稲農耕文化である弥生文化が朝鮮半島を通じて大陸から伝わった北部九州の筑紫は、まさに倭国黎明期における経済/文化の最先進地域であったことは間違いない。ここから、縄文的な社会を形成していた日本列島を東へと、徐々に弥生文化は伝搬していった。であれば、7世紀後半8世紀初頭に編纂された記紀(八百万の神々の上位に立つ皇祖神の創出、各地豪族の神々の体系化、天皇支配のレジティマシーの可視化)で創出された天孫降臨神話(「日向神話」)は、「弥生水稲農耕神であるアマテラス(天つ神)の孫ニニギノミコトが、筑紫(北部九州)に降臨した(渡来した)物語である」と理解されてもおかしくないであろう。むしろ縄文世界を色濃く残す熊襲、隼人の地である南九州、しかも記紀編纂時点でもヤマト王権に服従しなかった地を、皇祖神誕生の地、天孫降臨の地、ヤマト王権のルーツとする方が不自然であろう。

 また「国譲り神話」の舞台である出雲は、背後に筑紫勢力の存在があり、筑紫の水稲農耕文化伝播の痕跡が至る所に見いだされる地域である。出雲在地の粟、稗畑作農耕神(縄文世界)の「国つ神」大国主一族が、筑紫に天下ってきた(渡来した)「天つ神」、水稲農耕神(弥生世界)たるアマテラス一族に「国を譲った」(縄文世界から弥生世界へ転換した)、とする形で語られた方が筋が通っているように思う。

 また、上田先生は、記紀が編纂された7世紀後半から8世紀初期は、まだ律令制下の日向国は成立していない時期であること、記紀の国生み神話にも筑紫国、豊国、肥国、熊曾国は出てくるが、日向国の存在は語られていないことから、「筑紫の日向(ひむか)」が現在の宮崎県・鹿児島県であるとは言い切れないとしている。ニニギノミコトが降臨した地は「筑紫の日向の高千穂の久士布流多気(くじふるたけ)」で、「此地は韓国に向ヒ、笠沙の御岬にまき通りて、朝日の直射す国、夕日の日照る国なり。故、此地はいと吉き地」だと語られていることから、韓国(からくに)に向かう地は北部九州だろうとする。アマテラス、ツクヨミ、スサノオ三貴子がイザナギの禊で生まれたとする「筑紫の日向(ひむか)の橘の小戸の阿波岐原(あはぎはら)」も北部九州のどこかである可能性があることになる。ちなみに福岡市には日向(ひなた)峠や小戸(おど)海岸(小戸神社がある)、糸島市にはクジフル山の地名がある。

 記紀に、「筑紫神話」が無い、筑紫が国の発祥の地、ヤマト王権、皇統のルーツであるとする認識が無いことを,以前から不思議に感じていたが、天孫降臨神話すなわち「日向神話」と言われる神話そのものが「筑紫神話」なのであるとしたら、その疑問は解消されることになるのだがどうであろう。邪馬台国が3世紀時点で九州にあったのか、近畿にあったのかはともかく、それ以前から弥生稲作農耕国家(クニ、都邑)は北部九州に多く発生していた。特に魏志倭人伝に記述があるように、2〜3世紀には北部九州(玄界灘沿岸から有明海沿岸まで)に倭国連合の主要なクニグニがあった。さらに紀元1世紀には奴国王のように後漢に倭国の王として柵封されていた(後漢皇帝の金印を受けていた)クニがあった。それがある時点で文化/経済/政治の中心が北部九州から近畿奈良盆地へと遷っていった。それが何時で、なぜ、どのように、という点は依然、謎に包まれているのだが。天孫族の子孫とされる神武天皇が筑紫を出て、新天地大和へ東征したエピソードも、こうした弥生文化の東遷を後世に物語化したものかもしれない。

 奈良盆地に広がる豊葦原瑞穂の国の原風景が、筑紫平野のそれとオーバーラップするのは、かつてそうした遷移があった事の暗示なのだろうか。デジャヴである。




(古代奴国、現在の福岡市上空。右手が博多湾、下に那の津大橋が見える。古代筑紫の面影は、今や150万都市の街中に囲い込まれてしまった緑の荒津山(西公園)くらいだ。遠景は古代伊都国のあった糸島半島である。)




(志賀島。漢倭奴国王の金印が発見された島。また海人族である安曇一族の発祥の地。一族の氏神、志賀海神社はこの集落の中にある。博多湾を取り囲む砂州で本土と繋がる陸繋島だ)




(「韓国に向い....朝日の直刺す国、夕日の火照る国なり」。ニニギノミコトが天上界から降り立った時に見た地上界の光景は、まさにこれだったのかもしれない)




(福岡市シーサイド百道から、夕日に映える糸島半島のランドマーク加也山(かやさん)を望む。古代伊都国の残像、その名は、朝鮮半島の伽耶(かや)は加羅(から)から来ていると言われる。故郷を懐かしんで命名したのであろうか)