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2022年8月1日月曜日

古書を巡る旅(23)A History of Japan:「日本歴史」全三巻 〜ゼームス・マードック先生と夏目漱石〜

A History of Japan 全三巻 1925年初版本


「日本歴史」:A History of Japan は明治期の御雇外国人研究者、ジャパノロジストの一人であるゼームス(ジェームス)・マードック:James Murdoch による体系的な日本史研究書である。三巻からなる大著で、日本の上代から江戸時代までの歴史がまとめられた初めての英文 日本史全集と言って良いだろう。これまでも来日外国人による「日本史」と称される歴史史料としては、ルイス・フロイスの「日本史」や、ケンペルの「日本誌」などがあるが、これらは彼らの滞在期間中の日本見聞録であり、歴史書として古代から中世、近世、近代がまとめられたものはこれが初めて。この頃日本には、既にアーネスト・サトウやウィリアム・アストン、バジル・ホール・チェンバレンなどのジャパンノロジストの先達がおり、マードックもこの大著の執筆にあたっては、彼らの研究成果や著作に学び、本文中にも多く引用している。さらには、日本の上代、古代史を研究するにあたってはアストンやチェンバレンの日本書紀、古事記の英語版を参照するのみならず、自ら日本語の古文を学び、原典を研究している。彼に限らず、この時期のジャパノロジスト達の語学習得能力の高さには舌を巻く。ちなみにマードックは夏目漱石の一高時代の恩師である。一高では英語と英文学を教えた。漱石は、マードックをスコットランド訛りの英語で何を言っているのか分かりにくかったが、どうせ分からないことなので、と構わず飄々と語り続けるボヘミアンな先生だったと評している。よく家まで押しかけて、朝食をとっている先生と論議したり、最新の書籍の紹介を受けたりしたと回想している。漱石とマードックの交流の模様が「漱石文明論集」岩波書店刊に記述されている。後述する。


 ジェームス・マードック:James Murdoch (1856-1921)略歴

1856年、スコットランド・アバディーン生まれ。アバディーン大学、オックスフォード大学、ゲッティンゲン大学、パリ大学に学び学士号、修士号を得る。

1881年、オーストラリアへ移住。

1889年(明治21年)、来日。第一高等中学英語教師に。この時の教え子が夏目漱石。

1893年、離日。

1894年、再来日。金沢の四高教師に、日本人と結婚後、1900年鹿児島の七高へ。その後教職を離れるも鹿児島に暮らし、神戸クロニクル社への寄稿などで生計。大著「日本の歴史」執筆に取り掛かる(10年以上かけて)。

1903年、最初の出版(ポルトガル人来航)

1910年、第二冊目出版(古代から足利時代)

1915年、第三冊目(徳川時代)完了。未発表。

1917年、シドニー大学日本語教授としてオーストラリアへ。

1921年、オーストラリア・シドニーで没す

1926年、「日本歴史」全三巻ロンドンにて出版


「日本歴史」:A History of Japan 全三巻

このロンドンで出版された「日本歴史」:A History of Japan 全三巻は、マードックが10余年をかけて研究、編纂に取り組んだ大作で、次のような構成になっている。

第一巻:日本の上代、古代から1542年のポルトガル人の来航まで:From The Origins To The Arrival of The Portguese In 1542 A.D.

    出版元:Kegan Paul Trench, Trebner & Co.,Ltd London 1925年

    初版は明治43年(1910年)ジャパンクロニクル社印刷、亜細亜協会発行

第二巻:初期の西欧との通交の世紀(1542−1651):During the Century of Early Foreign Intercourse (1542-1651)

    出版元:Kegan Paul Trench, Trebner & Co.,Ltd London 1925年

    初版はマードックの自費出版で明治36年(1903年)神戸クロニクル社印刷・出版

第三巻:徳川時代:The Tokugawa Epoch

マードックの没後、遺稿を基に、元イギリス長崎領事で、ロンドン大学キングスカレッジ名誉教授、ミドルテンプル法廷弁護士、英国ジャパンソサエティ副会長のJoseph H. Longfordにより改訂、編集されたもの

    出版元:Kegan Paul Trench, Trebner & Co.,Ltd London 1926年


このように初版年を見ると、一番最初に書かれたのは第二巻の内容であることがわかる。時系列的に辿ると、第一期(明治36年:1903年):ポルトガル人の「日本発見」から関ヶ原、大坂の陣、島原の乱までの歴史。第二期(明治43年:1910年):古代に遡っての日本の歴史。第三期(1926年):江戸時代から幕末開国まで。すなわち、第二巻収録の「ポルトガル人来航」の章が、まず神戸で1903年に自費出版され、のちに第一巻収録の「古代からポルトガル人来航」部分が1910年に神戸で。そして最後に第三巻収録の「徳川時代」が、既刊と合わせた三巻にまとめて全集として、1926年(マードック没後)にロンドンで再出版されたというわけである。

なぜこの様に初版は時代順に出版されなかったのか?これはマードックが明治日本の急速な近代化(開化)に驚嘆し、まず日本と西欧諸国の「遭遇」の歴史を研究しようと、その端緒を16世紀のポルトガル人の来航から紐解いたことによる。その後、考察を進める過程で、そうした日本の対外交渉の歴史を古代に遡って研究する必要を感じ、古事記や日本書紀や中国、朝鮮の史書の解読に取り組み、その内容を研究し、さらに古代、中世、近世(足利幕府まで)までの歴史をまとめた。この研究は亜細亜協会の支援によるものである。その後、江戸時代(徳川時代)をペリー来航までまとめた。これは、先述のようにマードック存命中の刊行にならず、没後にジョセフ・ロングフォードにより遺稿が編纂、出版された。さらには明治維新以降、現代(1904年の日露戦争まで)までの第四巻が企画されたともいわれるが遺稿がどの程度まで残っているのか不明で実現はしていない。ちなみに第三巻では元禄時代に起きた「赤穂事件」を取り上げ、「47 Ronin」の物語として紹介している。ただ戯曲や文芸作品としてではなく歴史的な背景や意義を取り上げて解説し、広く欧米諸国で知られることとなった。2013年封切りのアメリカ娯楽アドベンチャー映画「47 Ronin」(キアヌ・リーブス主演)はこの赤穂浪士事件に着想を得た映画だが、マードックの「47 Ronin」と直接の関係はない。


マードック先生と漱石

先述のように、マードックは漱石の一高時代の恩師である。漱石は、のちに鹿児島にいたマードック先生から、読んで欲しいと大著の「日本歴史」を受け取り、その批評と推薦を頼まれている。この頃の漱石は英国留学から戻り10年以上経っていて、東京帝大で教鞭を取るなど、当世一流の文学者、小説家として名声を確立していた。まず漱石は先生の歴史に学ぶ姿勢を真摯に受け止めている。先生は日本がこの50年で驚異的な近代化を果たしたという「現在の日本」に畏敬の念を持って、そのエネルギーの背景を理解すべく「その過去」を振り返って研究するという、漱石曰く「動物学者的な」観察者としての姿勢に感銘を受けている。アメリカのペリーが率いるたった4隻の軍艦になすすべもなく開国した日本が、そのわずか50年後には日本海海戦でロシアのバルチック艦隊を撃破している。こうした急速な「富国強兵」「文明開花」を果たすことができる日本をより深く理解するために、西欧諸国との最初の遭遇(16世紀のポルトガル人の来航)から19世紀のペリー来航までの歴史をまず振り返り研究するとともに、さらにその日本という国の成り立ちと対外的な通交の歴史に関する考察を探るために、日本の上代から16世紀までの歴史を研究した。一方で漱石は、西欧における開化とはキリスト教的なカルチャーの開花と同義でなければならない、との先生の指摘に違和感を感じている。しかし、このゆえに西欧人が(キリスト教的でない開花である)日本の文明開花に驚いていること、これが西欧人の受け止め方であることを先生は指摘していることを了知し、それが正しく日本が西欧に理解されるに重要な点であることを改めて認識したと書いている。

しかし、漱石自身は、この先生の大著を目の前にして、明治維新以降、温故知新を忘れ、あたかも我々に振り返る過去はないと言わんばかりに前しか見ない日本人を、日露戦争勝利という出来事に浮かれて未来を見通す力を失っている日本人を、まさに憂えている。こうした自らの歴史を顧みることもないままに、しゃにむに突き進む日本の未来に悲観さえしている。「三四郎」の廣田先生に「日本は滅びるね」と言わせているところにもその一端が垣間見える。「一等国」などと言って浮かれていて良いのかと疑問を投げかけている。マードック先生の大著を世間に紹介するにあたって、日本の急速な文明開花に驚嘆する点はさておいて、過去の歴史を振り返り、そこから学ぶことの意義に共感すると共に、この際、それを忘れた日本の未来に対する懸念を先生に伝えたいと書いている。漱石の、時代を読む視点と目線は真っ直ぐで、まさに彼の危惧の通り、日露戦争を契機に日本は戦争の道を突き進むことになる。漱石は1916年に若くして亡くなるので、その後の数々の事変や日本の悲劇的な出来事に立ち会うことはなかったが、もし生きていたらどの様にこれを評したのであろうか。マードック先生は、漱石よりはやや長く生きた。離日後、オーストラリア、シドニー大学で、急速にアジアにおける大英帝国の脅威になりつつある大日本帝国の研究をリードし、政府のアドバイザーの役割を担うが、やはり彼も漱石が懸念した「日本の未来」を見ぬうちに、1921年亡くなっている。

また漱石の博士号辞退問題が世間の話題になった時、これを快挙としてマードック先生が賛辞を送り、世俗の名誉のために学問や文学をやっているのではない。英国でも偉大なる先人グラッドストンやカーライル、スペンサーなどが博士号を辞退しているのだから何も後ろめたがることはない。先生がそうした漱石の決断への共感を表してくれたことに感謝している。だからこそ、そのような共感の友たる漱石に大著「日本歴史」を推薦をして欲しいのだと理解し、喜んで世に知らしめたいとしている。漱石に影響を与えた外国人はロンドン留学中ののグレッグ先生を含めても、意外に少ない。そうした中、この一高時代の英国紳士らしからぬマードック先生の泰然自若たる心意気と事物を観察する眼差しに惹かれた漱石を姿が垣間見える。そして、漱石のマードック先生の「日本歴史」を手にして語るこうした短い一文の中にも、西欧人の日本への驚嘆と好奇心とは裏腹に、日本の未来に危惧を抱く漱石の心のざわめきが感じられる。


(参考)

「漱石文明論集」岩波文庫、岩波書店  1986(昭和61)年10月16日第1刷発行、1998(平成10)年7月24日第26刷発行


James Murdoch

晩年の漱石(1914年)



第一巻表紙

第二巻表紙

第三巻表紙





16世紀戦国時代日本地図

関ヶ原合戦地図

大坂の陣地図



2022年7月21日木曜日

オルテリウスの世界地図帳「世界の舞台」The Theatre of The Whole Worldにロンドンで出会った! 〜日本地図が掲載された最も古い世界地図帳〜


ヤン・ヤンソン「日本地図」1636年アムステルダム刊

ヤンソン図の元ネタは、アブラハム・オルテリウス「世界の舞台」掲載の「日本地図」
1606年アントワープ刊
さらにこのオルテリウス図の元ネタはルイス・テイセラ図
さらにその元ネタは「行基図」


ロンドンは魅惑的な街だ。大英帝国の帝都として栄え、輝けるヴィクトリア朝時代の歴史的な遺産に溢れ、それが今に生きる街。そして数々の歴史的事件の痕跡が街角に残され、社会の発展と停頓というディケンジアン的矛盾という澱が溜まった街である。このことは古書街を巡ることでも十分肌で感じることができる。古書の集積度合い。これはその国の歴史と文化の時空スケールと深さを推し量るバロメーターである。東京神田の神保町もまた然りである。ロンドン留学時代、勤務時代には、よくチャーリングクロスやセシルコートの古書店街を歩き回った。ここもまたロンドンを、大英帝国を知ることのできる迷宮である。その時感嘆したのは、ダンジョンのような店内に並べられた古書の豊富さ、濃密さもさることながら、店頭のボックスにジャンク然とぎっしりと詰め込まれた古い銅版画プリント類の山が累々と積み重なっていることだ。これらは、19世紀以前の古書に収録されていた図版や挿画、イラスト、地図で、古書として売れなくなってしまった(装丁が壊れてしまった、痛みや落丁で本の程をなさなくなった等々)ものから抜き出したものだ。写真がない時代の細密エッチングで、モノクロもあるが手で彩色された美しい風景や風俗の銅版画プリントは。コレクションとしても人気があったし、何よりもその山の中からお宝を探す楽しみがあった。気に入ったプリントをその場で額装してくれる店もあった。どれもそれほど高い値付けではなく、気楽にコレクションできるものが多かった。もちろん中にはとんでもないレアもの発見することもあった。

特に興味を引いたのは、古地図である。16世紀〜19世紀前半のイングランド、スコットランドの地方や都市の古地図はもとより、大英帝国時代のレガシーともいうべきヨーロッパ、アジア、アフリカ、アメリカの古地図まで、極めて豊富であることに驚いた。書籍の挿画として掲載されたものが多いので、比較的小型の地図が量的には中心である。それでも大型の単体地図も豊富に並んでいる。その中に日本の古地図(主に「大航海時代」のヨーロッパ人が作成した)が散見された。大体16世紀後半から17世紀前半の、ポルトガル人やスペイン人の宣教師や、その後のオランダ人、イギリス人が活用したオルテリウスの世界地図帳などから抜き出したものや、その系譜の地図製作者の地図である。大抵はアジア地図、ないしはインド/オリエント地図の右端に記された奇妙な形状の「日本:Iapan」が多いが、中には日本列島を比較的正確に描いた単体地図もある。彩色されたものもある。こちらは結構な価格だ。意を決して入手したのはヤン・ヤンソン作成の彩色版の日本地図(上掲)である。これは後述のオルテリウスの地図帳に掲載されている日本地図を原図としている。

あるとき大英博物館近くの古書店を覗いていると、なんとそのオルテリウスの「世界地図帳/世界の舞台:THE THEATRE OF THE WHOLE WORLD」が無造作に店の片隅に転がっているではないか。古地図のプリントはよく見るが、こうした地図帳は珍しい。大型の重い本で、先述の各種の古地図の原本になる地図帳である。彼は1570年にアントワープで最初の世界地図帳( THEATRVM ORBIS TERRARVM:ラテン語)を刊行したのち、オランダ語、フランス語版などが刊行され、1606年に英語版: THE THEATRE OF THE WHOLE WORLDを刊行した。店の片隅にあった地図帳は、その英語版の800冊限定の復刻版(1969年)である。店主に聞くと「なかなかこういった本は売れないから安くしとくよ」と!速攻ゲットして、その重い地図帳を抱えて帰った思い出が蘇る。今思えばよくこの時手に入れておいたものだと自分を褒めてやりたい。その後二度と古書店でお目にかかっていない。


アブラハム・オルテリウス:Abraham Ortelius(1527〜1598)

オルテリウスは、16世紀に活躍した地図製作者である。まだスペイン領であったフランドル地方アントワープ(現在のベルギー)で地図職人、彩色職人を経てギルドメンバーになる。1560年にメルカトルと出会い、本格的な地図制作技術を学び、メルカトルと共に各地を旅行したことがきっかけで後世に名を残す地図製作者、地理学者の道を歩むことになる、彼の後継者がヨアン・ブラウやヤン・ヤンソンたちである。オルテリウスはスペイン人やポルトガル人のインド、東洋方面の進出の足跡の成果である世界各地域の地図を、スペインの植民地であったフランドル地方アントワープで纏め、一冊の地図帳を作り上げた。続いて東洋へ盛んに進出していったオランダ人やイギリス人が持ち込ん新しいだ地理的な発見と新しい情報も次々に反映させていった。これが先述の世界地図帳「世界の舞台」である。いわゆる「大航海時代」にあって、航海や、交易に必要な携帯に便利な地図帳への要望が高まったことは容易に想像できる。この事業は、オランダのアムステルダムを拠点とした地図製作者ヨアン・ブラウ:Joan Blaeuの大地図帳全9巻:Grooten Atlas 1664に引き継がれた。この大地図帳はオルテリウスの「世界の舞台」を元版としており、ヤン・ヤンソン:Jan Janson(ブラウの義理の息子で弟子)の日本地図(上掲)もオルテリウスの原図を利用している。そしてそれがオランダやイングランドがスペイン、ポルトガルに続いて世界に飛躍する時代の画期となったと同時に、地図作成の中心がスペイン領のアントワープから、スペインからの独立を果たし、対外進出盛んなオランダのアムステルダムに移っていったことも象徴的である。


フェルメール「地理学者」
フェルメールは発見の時代を象徴するポートレート作品として「地理学者」を取り上げている


オルテリウスの地図帳「世界の舞台」の特色

タイトルのTHE THEATRE OF THE WHOLE WORLD(英語) : THEATRVM ORBIS TERRAVM(ラテン語)は「世界の舞台」という意味である。単に「世界地図帳」と称するよりはロマンがあり人々を夢の世界へ誘うニュアンスがあるように思う。しかし一方で、航海や交易に必要な地図をコンパクトな形で携行できるようにという実用性、いわば現場の要請に基づき編纂、製本された地図帳でもある。

1)初めての「近代的」地図帳であること。「近代的」という意味は、単なる地図の寄せ集めではなく、各地図で示される地域や国の地理学的な解説が掲載されていること、統一された方位、版型で小型本に編集したことによる。これまでもローマ時代のプトレマイオス「地理学」、ポルトラノ海図(14世紀後半)や、イタリアで編纂された地図帳はあったが、これらは発注者の求めに応じた既存の地図の寄せ集めであった。

2)1570年の初版(ラテン語版)から版を重ね、内容にも改定を加えながら1643年まで40版を重ねる、いわばロングセラー、ベストセラーとなった。収録された地図も初版は53点であったが、1593年のオランダ語版では119点にまで増えるなど、新しい情報にアップデートしてきた。またオランダ語、フランス語、ドイツ語、スペイン語、イタリア語、そして英語と各国語の版が出されるなど出版事業としても成功した。

3)ヨーロッパで作成された地図として初めて日本地図(単体)が加えられた(古くは中国で編纂された地図には日本が現れるが)。オルテリウス世界地図帳の1595年版から、より正確な「新版」日本地図が取り入れられた(詳細後述)。

4)当時の地図製作者の名鑑が収録されており、16世紀の地図制作に関する重要史料である。


日本地図の系譜

このオルテリウスの世界地図帳に掲載された「日本:Iapan」地図を見てゆくと、ポルトガル人やスペイン人の宣教師からの情報に基づいて描かれた日本地図(オタマジャクシ型、サモサ型など)から、日本で手に入れたと思われる地図(いわゆる「行基図」)をもとにしたより正確な日本地図へと進化が見られる。初期の地図(日本単体ではなくアジア/インド/オリエント地図の一部)に現れる日本は、のちに単体で掲載されるようになった日本地図とは形状が大きく異なっている。まだ日本が未知の国で十分に認識されていない時代には、日本列島はいわゆる「サモサ型」、「オタマジャクシ型」で南北に伸びる列島と認識されていた。この頃の日本図はザビエルなどのイエズス会宣教師たちが布教のために訪問した地域、都市を中心に描かれており、琉球列島、九州、山口、四国、瀬戸内海、ミヤコの周辺に限られている。すなわち彼らが見聞した地域の地図である。逆に言えば、彼らの東洋における布教拠点、ゴア、マカオから日本への足跡を辿ることのできる貴重な布教「足跡図」とも言える。その後、イエズス会宣教師ルイス・テイセラが日本で入手したと言われる日本人による地図「行基図」。これをもとに、彼らが見聞した地域の情報を加えて作成された日本単体地図がオルテリウスにより地図帳にも採り入れられるようになる。こうして2種類の形状の日本列島図が同じ地図帳に併記されるようになったわけである。この単体日本地図は、表題に「新版日本地図:IAPONIAE INSVLAE DESCRIPTIO、IAPONIA NOVA DESCRIPTIO」と記されている。現在の北海道(蝦夷地)は見えず、朝鮮半島も「半島なのか島なのか不明」と注記がある。しかし、日本は東西に伸びる列島として描かれ、律令制による国の位置など比較的正確に記載され、かつ平戸や博多、堺などの重要な港湾都市、鹿児島、山口、ミヤコといった権力者、有力者の拠点都市、さらには新しく発見された石見銀山など、当時の最新情報が改訂版ごとに追加されてゆく。


「行基図」とは?

ところで、その「行基図」とはどのような地図であったのか。行基は奈良時代初期の高僧であるが、彼が活躍した時代に日本全体の地図が作成されていた記録はないし、またそのような現物も残っていない。日本地図の最古のものは平安後期から中世に律令制に基づく国制を表す図が初見であるようだ。これ以降に制作された地図を総じて「行基図」と呼んでいたようだが、行基が作成した地図というわけではない。しかも大和奈良中心の五畿七道ではなく山城(すなわち京都)中心となっており、時代も奈良時代のものではないことが明らかである。なのに何故「行基図」などと彼の事績であるが如く呼ばれることになったのか。直接的には地図に「行基」の名が記されていることに由来しているが、先述のような理由からこれは後世に付記されたものである。数々の社会事業をおこなって庶民を救済したとされる聖人のレガシーの一つとして「伝説化」され、後世に伝承されていった。そうした権威づけのために「行基」の名を書き入れたのだろう。超人として人々の記憶に残る吉備真備や空海、菅公の奇跡伝説にも通じるものがある。史実かどうかよりもレジェンドの事績であって欲しいという願望や権威を求める心理の表れであろう。

1)行基図は中世から江戸時代初期の日本で作られていた日本地図の総称のこと。

2)実際に行基が作ったわけではないと考えられる。

3)独鈷杵になぞらえられた形が特徴で、南を上にしたものが多い。

4)五畿七道の道や調庸物運搬日数、国土に関する情報などが盛り込まれている。

5)役割としては案内図、追儺での使用、魔除けとしてなどが考えらえる。

6)中国や朝鮮、ヨーロッパに伝わり、行基図を原図とする地図が作られた。


16世紀後半に日本に渡来した南蛮人、宣教師が入手した「行基図」とは、このような当時の日本である程度流布していた一般的な地図であった。もちろん正確に測量した地図ではないし、五畿七道も国名が丸で、道路が線で示されているような簡単な地図に過ぎない。この「行基図」に、来航した南蛮人、紅毛人が現地で収集した情報を元に編纂を加えたのがオルテリウス図なのだ。しかしオルテリウスの世界図帳に登場した新たな「日本地図」は当時のヨーロッパ人の東洋の未知の島国への夢を嫌が上にも掻き立てたことであろう。ちなみにオランダ船リーフデ号で1600年に日本の豊後に辿り着いたウィリアム・アダムス一行は、この日本地図を所持していたのであろうか。オルテリウスの地図情報をもとに航海したのであろうか。ロッテルダム出港にあたって、1595年の初版であるから最新の地図を入手していたといたとしてもおかしくない。リーフデ号の遺物はほとんど残っていないので確かめようがないが、だが、もしそうだとすれば方位(最新のメルカトル図法による)はほぼ違わない当時としては最新の地図ではあるものの、今から見ればこのような想像をも交えた不完全な情報に基づく地図、海図でよく航海できたものだと驚く。まさに東洋への航海は、限られた情報に基づく未知の世界への冒険、探検であった。こののち正確な測量に基づく日本地図が作成されるのは、江戸時代中期以降の伊能忠敬による「伊能図」を待たなければならない。これを、長崎のオランダ商館のシーボルトが欲しがって極秘裏に持ち出そうとして見つかったシーボルト事件へと繋がる話はまた改めて取り上げたい。古地図にまつわるストーリーは尽きない。



明暦2年(1656年)拾芥抄写本に掲載されている「行基図」



THE THEATRE OF THE WHOLE WORLD : THEATRVM ORBIS TERRARVM
「世界の舞台」英語版1606年


英語版の表紙

イングランド国王への献辞

地図の索引

アブラハム・オルテリウス肖像

世界地図
南極大陸が未知の巨大大陸として描かれている

ヨーロッパ図
比較的現状に近い

アジア図
右上に日本が南北に長い「オタマジャクシ型」の列島として描かれている。

1595年版から単体の日本地図が初めて掲載された
いわゆる「行基図」が元になっている

日本:Iapanに関する記述も詳細で、地理書としても重要な役割を果たしている。

1969年の復刻版の表紙
縦47cm×横31cmの大型版



東洋文庫探訪とオルテリウスに関する過去のブログ:

2015年6月8日「東西文明の邂逅 知のラビリンス東洋文庫を探訪する」


参考図書:

ORTELIUS ATLAS MAPS An Illustratede Guide Second Revised Edition
Marcel van den Broecke
HES & DE GRAAF Pblisher BV, Houten, Netherlands, 2011

オルテリウスの評伝、初版からの全ての各国語版地図帳リストと出版年代、掲載された地図のリストと掲載年代、各地図に関する解説と考察が網羅されたガイドブック。書誌学的な研究書としても興味深い。1996年初版、2011年改訂第二版。



2022年7月16日土曜日

納涼河津七滝巡り 〜猛暑の夏に滝で癒されるの巻〜

 今年は梅雨が短くて、6月6日に梅雨入り宣言したかと思うと27日には梅雨明け宣言。たった21日間の梅雨期間という記録的な短さ。あっという間に猛暑の夏になった。連日35℃超えの危険な暑さの中、NYCから3年ぶりに帰省した娘一家と伊豆へ避難。河津七滝へ納涼トリップとシャレこんだ。皮肉にも当日は雨模様の涼しい天気となったが、人気(ひとけ)の少ない伊豆名爆コースをゆっくりと散策し、森林浴:フィトンチッドと滝:マイナスイオンのシャワーをふんだんに浴びて、気分もリフレッシュした。コロナ疲れと急激な猛暑で気力も体力も消耗気味だが、やはり自然に戻りそこから力をもらうのが一番だ。

コロナの方はまた感染者数が急増。今日は11万人/日を超えて過去最大となった。第七波が到来している。しかし、感染者数が爆発的増加であるのもかかわらず、重症化率は低く中国のようにゼロコロナで都市封鎖したりせず、基本的には行動制限無しである。マスク、手洗い、大勢での会食自主規制くらいのウィズコロナで行こうというわけだ。アメリカやヨーロッパにおいても同様である。娘一家もワクチン接種証明と夫の入国ビザ(通常はいらないが)で想像以上にスムースに羽田を通過できた。しかしNYCでは学校や地域で無料の検査キットが配布されていて、誰でもいつでも自分で検査ができる。今回も娘夫婦は大量の検査キットを持参して、人混みに出るたびに自己検査している。日本はどうして検査ができないのか?これも今回のコロナ禍事件で明らかになった「日本の不思議」の一つである。


三年前の河津七滝晩秋編ブログは以下の通り

2019年12月21日「河津七滝めぐり」




























ここからは滝の流れをスローシャッターで。


















伊豆半島の成り立ちを示す「柱状節理」がこの辺りでは顕著に検出される。これらの列柱と滝の流れもコラボレーションが独特の景観を生み出す、まさに伊豆ジオパーク。












(撮影機材:Nikon Z9 + Nikkor Z 24-120/4)