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2021年10月26日火曜日

古書を巡る旅(16)ケンペル「日本誌」History of Japan 〜その書誌学的な考察を少々〜

 

1906年再版のグラスゴー版



在連合王国林大使のはからいによる菊花紋

英語版「日本誌」初版に貢献したSir Hans Sloan肖像と表紙

日本の歴史の中で、西欧文明とのファーストエンカウンターは、欧米の歴史家が言う「大航海時代」の16世紀末のポルトガル人との種子島における偶然の出会いに始まる。その後、イエズス会宣教師が布教に訪れ、ポルトガル、エスパニアとの交易、交流が始まったことは歴史で習ったとおりだ。やがて、これまた偶然にも新興国のオランダ船が豊後に漂着しウィリアム・アダムスなどイギリス人、オランダ人がやってきた。ヨーロッパにおけるカトリックとプロテスタントの争いを反映して、極東の日本でも両者の争いは止まるところを知らず、これをうまく利用した家康の外交戦略により、布教優先のカトリック国:南蛮人が駆逐され、交易優先のプロテスタント国:紅毛人が残った。その平戸と長崎のオランダ商館にやってきた歴代のカピタン(商館長)や医師などの館員が、日本をヨーロッパに紹介した。中でも、後世に「出島の三学者」と呼ばれた、ケンペル、テュンベリー、シーボルトは三人とも商館付の医者であり、植物学者であった。しかもオランダ人ではなくドイツ人や、スウェーデン人であった。彼らが見聞し、心に響き、後世に残した鎖国日本の観察研究記録は、西欧文明とのセカンドカウンターともいうべき幕末のペリーの来航、開国、明治の近代化の前史として語り継がれてきた(2017年5月30日「出島の三学者」ケンペル、テュンベリー、シーボルト)。なかでもケンペルが著した「日本誌」は、鎖国政策下の未知の国、日本の状況を、日本に滞在し詳細かつ体系的に記録した最初の書として、当時のヨーロッパで重用された。これまでも、オランダの歴史学者で作家のモンタヌスの「東インド会社遣日使節紀行」1669年、ポルトガルの冒険家メンデス・ピントの「遍歴記」1663年や。平戸オランダ商館長フランソワ・カロンの「日本大王国誌」1661年があるが、モンタヌスは日本に一度も来たことがなく、ピントは日本に来たことはあるがその冒険譚はかなりの誇張やフィクションが含まれ、カロンの記録は、長く日本に滞在した経験による初めての記録で貴重であるが、鎖国体制以前から移行期にかけての記録である。オランダ東インド会社のバタビア総監への報告書という位置付けである。ケンペルは、このカロンの「日本大王誌」を参考にしている。「日本誌」が特に画期的であるのは、その後長く日本に関するほぼ唯一の体系的情報源として活用され、当時の「百科全書」に引用されて、啓蒙思想家に大きな影響を与えた。さらに幕末、アメリカのペリー提督の来航に際し、彼はこれを熟読し研究してから日本にやって来た。日本の近世から近代へという歴史の転換に果たした役割がここにも見える。こうして「外国人が見た日本」と言う視点よりも、江戸時代の日本を研究する貴重な歴史的資料とし、その重要性は今なお色褪せていない。また、それまでの日本見聞録は、宣教師や、商館長、商人や旅行者などのいわば業務執行上の体験に基づく記録となっているが、ケンペル以降、テュンベリー、シーボルトの記録は、学者/研究者としての、より客観性を重視した研究的な視点で記録された点が異なる。

まずはケンペルとはどういう人物で、かれは日本で何を見たのか。彼が残した「日本誌」The History of Japanはどのような経緯を辿って現代に読み継がれているのか。少し振り返ってみたい。今回は書誌学的視点で「日本誌」を追って見るのも興味深いと考え、恥ずかしながら専門家ならぬ私的な考察をご披露してみたい。


エンゲルベルト・ケンペル:Engelbert Kaempfer (1651~1716) 略歴


ケンペルの肖像
確定的なものが現存していない
(Wikipediaに掲載されているもの)

ドイツ、レムゴー生まれ 牧師の息子 医師、植物学者、博物学者

ドイツは宗教改革に伴う三十年戦争(1618〜1648年)がようやく終わり混乱の時代であった。1651年に生まれ、幼少期のハーメルンの学校を皮切りに、少年・青年期にはヨーロッパ各都市のギムナジウムで基礎的な教養を身につけ才能を磨いた。大学はダンチヒ、クラカウで哲学や言語、歴史を学び、キーニヒスベルグでは薬学を学ぶなど、母国ドイツではなく、各国を旅行しながら多様な科目に挑戦するという、この時代の若者としては稀有な学びの機会を得た。最後にはスウェーデンのウプサラ大学(後のテュンベリーはこの大学の教授、学長になっている)で学び、高名な学者の知己を得て、その才能を発揮して頭角を現す。ついにはスウェーデン王朝の外交使節としてロシア、ペルシャに赴く。こうしたキャリは、決して多くはないが、この頃の知識階級エリートの一典型である。若い頃から各国を旅し、学問を修め、さらに新たな未知の領域に挑戦するという人生を歩んだ。その延長線上に、極東の見知らぬ王国「日本」への旅があった。「日本」はこうして「未知の王国」として、ケンペルのような知識欲旺盛な気鋭の若者の目的地になった。このように江戸期、幕末期、明治期を通じ優秀な人物が、大きな好奇心を持って日本を目指したことは特筆に値する。そしてその日本での見聞、経験を更なるキャリアップにつなげていった。有能な若者は常に未知なるものに憧れ、挑戦する。

1681年 スエーデン ウプサラへ

1683年 サファビ朝ペルシャへのスウェーデン王朝の使節団に加わり、ロシア経由で。

1690年 オランダ東インド会社の船医としてバタビアへ。さらにバタビア本部所属となり、シャム経由で日本へ。

1690〜92年長崎オランダ商館付きの医師として出島滞在(2年間)

第3代将軍綱吉の時代で、オランダ商館長崎出島移転(1641年「鎖国」政策の完成)から50年が経過している。1687年「生類憐れみの令」発布。井原西鶴、松尾芭蕉などが活躍する元禄文化真っ只中。赤穂事件(赤穂浪士討ち入り)の10年前(1702年)という時代である。

基本的には出島の外へ出る機会は稀で、日本の情報は商館付きの通詞を通じて得たという。しかし、この間、二度 商館長江戸参府に同行して将軍綱吉に拝謁。その旅路で見聞した事物を旅行記として残した(「日本誌」の重要なパート)。

1692年離日 バタビアへ

1695年 ヨーロッパへ戻る オランダ、ライデン大学で医学博士号取得

1712年 故郷レムゴーで執筆活動に勤しむ。「廻国奇観」Amoenitates Exoticae出版 ペルシャ中心の記述で日本は一部

1716年 「日本誌」のもととなる草稿執筆するも出版未完のまま死去

1727年 英語版「日本誌」初版 ロンドンで出版


1727年の初版表紙

初版本(いわゆるスローン版)
フォリオサイズで革装は後世のもの


ケンペル「日本誌」The History of The Japanとは? 

彼の著名な著作である「日本誌」The History of The Japanは、彼の死後、実は母国のドイツやオランダではなく、イギリス・ロンドンで1727年に初版が出された。王室付きの医師で、古文書資料収集など、文化財コレクターで大英博物館コレクションの創始者であるハンス・スローン卿:Sir Hans Sloanが、ケンペルの遺族からほぼ全ての遺稿を買取り、スイス人医師Scheuchzerにドイツ語から英語に翻訳させた。こうして英語訳の「日本誌」The History of The Japan(スローン版)が出版され、1731年に重版された。このロンドン初版本がケンペル「日本誌」のいわば定本となっている。この初版本はフォリオサイズで、地図や装画は巻末にまとめて収納されるなど、読み物というよりは、いわば国王と王室指導層向けに献上された(配布先リストが掲載されている)報告書の体裁となっている。

さらにこの英訳初版本からは、フランス語訳、オランダ語訳が相次いで出され、特にフランス語版はディドロ「百科全書」に引用されて、以降長く日本関係の一次資料となっている。カントやゲーテなどの啓蒙思想家たちの日本研究の基礎資料となり、のちのジャポニズムの底流となった。さらには、先述のように120年後のアメリカのペリー艦隊の日本渡航の際の事前研究資料として、シーボルト資料とともに重用された。一方、オランダ語版は日本に入り、江戸後期の志筑忠雄(1801年享和元年の「鎖国論」)、黒澤翁満(1850年嘉永3年「異人恐怖伝」後に発禁書となる)などに引用、抄訳され、幕府天文方翻訳局において、箕作阮甫などの蘭学者達による全訳がある。このように英訳版ケンペル「日本誌」は、日欧双方にとって、18世紀から19世紀前半の日本の開国以前の日本を知る定本として位置付けられる。

一方で、英訳版出版の後、ケンペル自筆ではないがドイツで新たな草稿発見。これはケンペルの甥の手になる、いわば書写原稿で、これをもとに「日本誌」Geschichte und Beschreibung von Japan(ドイツ語版)が 1777〜79年に出版された。ドイツの啓蒙思想家、ドーム:Christian Willhelm von Dohmによるものであるため「ドーム版」とも呼ばれる。当時の特定地域特有のドイツ語で書かれていた草稿を、標準ドイツ語に翻訳したものである。1964年に復刻版が出された。何故か日本における近現代のケンペル研究、「日本誌」の日本語訳はこのはドイツ語(ドーム版)が定本となっているようだ。参考に戦後の翻訳を三冊紹介。

    「ケンプエル日本史(抄訳)」長崎県史編纂委員会 吉川弘文館 1966年

    「日本誌(上下)」今井正 訳 霞が関出版 1973年 ドーム版の翻訳

    「江戸参府旅行日記」斎藤信 訳 平凡社東洋文庫 ドーム版の1964年の復刻版の第二巻第五章の抜粋 1976年

しかし、ケンペル「日本誌」は、英語版、ドイツ語版では内容に違いがある。英語版刊行後に新たに発見されたとするドイツ語原稿には散逸が多く、地図や図版の欠如や差し替えがある。しかもケンペル本人の自筆原稿ではない書写であることから誤記が多いことが懸念されている。一方、初版の英語版は、ドイツ語そのものが当時使われた地域が限られたもので誤訳が多いとされる。現在では大英博物館収蔵のオリジナル原稿(スローン卿が入手した原稿)と、ケンペル自身の手になる別原稿「今日の日本」Das Heutige Japanを中心とした原典批判研究がケンペル研究の主流となっているという(現代におけるケンペル研究者、ミヒャエル・ウォルフガング九州大学名誉教授の指摘)。

今回入手したのは1727年初版本(英訳スローン版)のリプリント版である。1906年にグラスゴーで復刻出版(いわゆるグラスゴー版)されたもので、初版から180年ぶりの版となる。全部で1000冊ほど印刷された限定版で、大学関係者や研究者中心に配布されたようだ。豪華革装丁の限定版(100冊)もある。巻末には1673年のイギリスによる日本への航海を記述した追補版(Appendix)が挿入されている。これは1613年のイギリス東インド会社によるジョン・セーリス:Captain John Sarisの日本への航海と、イングランド国王(ジェームス1世)から日本国王(徳川家康)への親書奉呈、イギリス商館の平戸開設とその後の活動に関する記述である。1727年の初版本には、この追補が入っているものとそうでないものがあるようだが、この1906年のリプリント版には巻末に掲載されている。オランダだけではなく、当時のイギリスの対日交流の歴史を付記し強調したのだろう。イギリス王室に献上された英訳版ならではである。The Second APPENDIX to Dr. Engelbert Kaempfer's History of Japan being part of an Authentick Journal of A Voyage to Japan, made by the English in the Year 1673

しかし、なぜ180年ぶりに英語版が復刻されることになったのか。グラスゴー大学でのケンペル「日本誌」研究が進められるきっかけとなった背景は何なのか。長い間、大陸諸国ではこの英訳版が定本として、再翻訳、重版、引用され、これまで、先述のようにフランス語版はデュドロ「百科全書」に引用されることでヨーロッパ諸国の啓蒙思想家の重要な日本関連情報源となったし、オランダ語版は、日本において、蘭学の貴重は参考書として江戸時代を通じて日本語翻訳が試みられ重用された。にもかかわらずイギリスでは再版本も出されなかった。こうして1906年に英語版ケンペル「日本誌」が再び脚光を浴びて、限定版とはいえ復刻されることになった訳だが、この版の出版社による巻頭言では、特に再版に至った経緯には触れられていない。私的な推測ではあるが、明治維新以降の近代化を急いできた日本は、このころ「富国強兵」「殖産興業」「条約改正」の一定の到達点に達していた。とくに1904,5年の世界を驚かせた日露戦争勝利を契機に、イギリスにおける日本への再評価。日英同盟(1902年)を基軸とした大英帝国における日英関係の再評価機運が勃興していたことと符合するのではないだろうか?今後の対日戦略研究の一環としての資料価値が高まっていったとも考えられる。もちろんこの頃にはアーネスト・サトウやバジル・ホール・チェンバレン、ウィリアム・アストンなどのイギリス人ジャパノロジストが多くの近代日本関係の論文や著作を発表しているわけだが、彼らイギリス人にとって空白の領域を埋めるべく、すなわち明治近代化以前の近世江戸期、「鎖国日本」の時代に遡って研究する機運が高まったのであろう。ローカルな視点で見るとグラスゴーの造船業にとって明治日本は重要な顧客でもあったことから、本書出版への関心も高かったのではないか、という推測は少々考えすぎだろうが。


ハクルート協会(Hakluyt Society)

ところでイギリスにはハクルート協会;Hakluyt Societyという、歴史的な航海、旅行、探検の記録を発掘し、収集研究し、復刻して書籍として残してゆく活動を行っている団体がある。1846年設立である。こういう団体が存在するのはさすが大航海時代以来、世界に雄飛した大英帝国ならではである。名前のハクルート(Richard Hakluyt 1552?~1616)はエリザベス朝時代に活躍した地理学者で、外交官で、聖職者であった。あのウィリアム・アダムス:William Adamsが生きた同時代の人間である。彼を顕彰する意味で名付けられた。この協会は数々の歴史的な大航海:Great Discovry時代以降の記録を後世に残す仕事をしており、現代にまで続くハクルート協会叢書を刊行している。主としてイギリス関連の記録が中心であるせいか、ケンペル、テュンベリー、シーボルトなどの著作は収録されていないようだ。また17世紀鎖国時代の日本との関係ではオランダに遅れを取りイギリスは影が薄いせいでもあろうか。1900年に出版されたアーネスト・サトウのThe Voyage of John Saris To Japan, 1613はハクルート協会から出されているが、概して日本関係は少ない。大英帝国の発展、植民地経営の拡大に呼応して設立されたロンドン大学のアジア・アフリカ学院:SOASなど、大学研究機関においても、基本は大英帝国の旧植民地の開発研究(Development Study)が中心である。しかし、19世紀末から20世紀初頭における日本の近代化と台頭、東アジア情勢の変化を鑑みるに、こうしたアジア/アフリカの植民地やインド/中国中心の歴史認識を更新することが必要になってきたとも考えられる。そういう事情から対日交流史研究が大学を中心に進められたとも考えられる。それにしてもイギリスの大学は日本関係研究が比較的に弱いと感じる。大英帝国「治天下」ではない、「版図外」の話だと言わんばかりの扱いに見える。この件については、話がどんどんそれていくのでこの辺にしておこう。


「日本誌」掲載の図版、地図など

本書に掲載されている図版、地図をいくつか紹介したい。当時は日本に関する地図や文書の国外持ち出しはご法度で(後のシーボルト事件でも明らかなように)、獲得には苦労したであろう。いわば出島監禁状態であったケンペルがどのように日本に関する情報を得たのか。後に、今村源右衛門という若い長崎留学生がいたことがわかっている。彼はオランダ商館の通詞としてケンペルとも親しかったようだ。彼を通じて様々な情報を入手していたことが示唆されているが、彼の立場を慮って、ケンペル自身は彼の名を公開していないが、他の資料からそれが窺い知れる。今村は後に新井白石などの幕府の西洋事情研究のアシスタントも務めた一級のオランダ語通詞として活躍した。彼の名前を記憶しておく必要がある。一方で、「オランダ風説書」など幕府への公式報告書を始め、オランダ商館がもたらす外国情報は大変貴重で、これ等を得んがために、長崎奉行所や、長崎勤番の筑前藩、肥前藩、長崎遊学の蘭学者、商人から内々に情報提供するなど、相互の情報交換があったようだ。それにしてもケンペルの帰国に際し、バタビアに向かう船が出島を出港するにあたっては、日本地図や得られた図版、書類の船内積荷はかなり慎重に扱われたものと思われ、無事出港できるまでハラハラしたようだ。また先述の今村源右衛門の名前の秘匿はじめ、関係者に迷惑がかからないよう極めて用心深く行動したようだ。そのあたりの模様が「日本誌」にも記述されている。


日本全図
よく持ち出せたものだ
守護神として恵比寿、布袋、大黒が描かれている

長崎・出島図

参考ブログ。2017年5月23日大航海時代と日本 〜「長崎出島」は「鎖国」の「象徴か? 以前のブログで紹介した1750年のベランの「出島図」の原典はドイツ語ドーム版の出島図(簡略版)ではなく、英語スローン版のこの図であった。おそらく英語版から翻訳されたフランス語版からの引用であろう。


長崎街道図

みやこ:Miaco

東海道図

品川宿周辺

江戸図

オランダ商館カピタン一行参府行列図

江戸城三の丸謁見図


14番はケンペル
ケンペルが右手御簾奥の将軍と奥方の要求に応じて踊りや歌を披露させられたとある

日本の通貨


生物学者らしく様々な植物や鳥、昆虫の観察している

ケンペル旅姿





2017年5月30日火曜日

「出島の三学者」 ケンペル、ツュンベリー、シーボルト


 江戸時代、長崎出島のオランダ商館に滞在した「出島の三学者」と言われたのが、ケンペル、ツュンベリー、シーボルトだ。ケンペルは江戸時代元禄年間、第5代将軍綱吉の時代、ツュンベリーは第10代将軍家治、側用人田沼意次の時代、シーボルトは第11代将軍家斉時代(在位50年という長期政権)とそれぞれ滞在している。ケンペルからツュンベリーは85年、ツュンベリーからシーボルトは48年という時間の隔たりがある。。

 三人の共通点は、医者であり植物学者であり、博物学者であるという学者繋がり。オランダ商館に医者が必要であったことは理解できるが、植物学者が派遣されてきたことには事情がある。もちろん薬草として有用な植物の研究、植物薬品学が医学と切っても切れない学問領域であったことがあるのだが、世界中から珍しい植物を集めるplant hunterが活躍する時代に入っていたという背景もある。貴族や富豪の間で、世界中の珍品植物を集めるコレクターがいた。そうした需要、パトロンがあって、「未開の地」で出かける植物学者への期待も高かった。オランダ東インド会社付きの医者というポジションへの応募も多かったのだろうと推察される。

 もう一つの共通点は三人ともオランダ人ではないという点だ。ケンペルはドイツ人、ツュンベリーはスウェーデン人、シーボルトはドイツ人である。したがってオランダ語はネイティヴではなく、オランダ東インド会社就職に際して事前語学研修してから長崎にやってきた。むしろ長崎の和蘭陀通詞のほうがオランダ語が綺麗で訛りがなかったらしい。通詞に最初は彼らがオランダ人では無いのでは?と怪しんだが、オランダの山岳地方の方言だと言って押し通したらしい。干拓地ばかりで山などないのに、オランダ本国を知らない日本人は、それ以上詮索しなかった。このようにヨーロッパは国を越えて人が自由に往来していた。特に世界に進出していた海洋帝国オランダにとって、海外要員確保は大事な課題だっただろう。その一方で世界に出て行こうとする野心を持った人間にとってオランダは魅力的だっただろう。国策総合貿易商社の先駆けである、オランダ東インド会社は人気の就職先だったに違いない。ちなみに1600年、オランダ船リーフデ号で豊後に漂着して、その後家康の顧問になった「青い目のサムライ」三浦按針(William Adams)もオランダ人ではなくイギリス人だった。

 三人の中では、シーボルトがあまりにも歴史上有名で、日本に与えた影響の大きさとともに、当時のヨーロッパ、アメリカに日本学を広めた功績についても様々な研究や著作、小説やドラマで紹介されている。したがってここでは、屋上屋を重ねるような説明を控えておこう。

 しかしケンペルや、ましてツュンベリーについてはあまり知られていないので少々紹介しておきたい。

 ケンペルはヨーロッパにおける日本学のいわば開祖と言って良いだろう。彼の残した「廻国奇談」「日本誌」は、江戸時代の爛熟期である元禄時代、第5代将軍綱吉のころの日本を俯瞰、分析した貴重な資料だ。日本でも江戸期より彼の残した著作の研究は進められているが、「知る人ぞ知る」で、シーボルトほどの知名度はないかもしれない。その「日本誌」(The History of Japan) は彼の生前には出版されるに至らず、死後、その原稿を入手した英国王室付き医官ハンス・スローン卿によって英語版、仏語版、蘭語版が出版された。その原本は現在大英博物館に収蔵されている。またドイツ語版がドームにより出版(Geschichte und Bescreibung von Japan)された。このうちフランス語版がのちにディドロの百科全書に全面引用されるなど、その後の日本研究の「定本」となり、やがて19世紀のジャポニズムにつながってゆく。ケンペルの133年後に長崎に赴任したシーボルトや、163年後に来航したペリー提督も、この「日本誌」を事前に研究しており、彼らの歴史上に残した功績にも大きな影響を与えている。

 ケンペルはこの中で、将軍綱吉時代の対外政策(すなわちのちに「鎖国」と称される政策)について、肯定的に評価している。この記述が1801年に江戸の蘭学者志筑忠雄に紹介された。志筑は、この政策を「鎖国」という言葉を使って表現し、それが後に一般的に使われるようになったと言われている。ケンペル自身は「鎖国」という言葉を使っていないし、幕府も自らの政策を「鎖国」と称したことは一度もないのだが、この言葉が一人歩きしてしまったというわけだ。

 ケンペルは出島滞在中、商館長の江戸参府に2回同行して長崎から江戸まで旅をしている。この時の記録を邦訳したのが「江戸参府旅行日記」だ。将軍綱吉の前で「オランダ踊り」をやらされている様が挿画として紹介されている。

 一方の、ツュンベリーは、むしろ日本学や、日欧交流の歴史的な観点からの評価よりも、植物学者としての名声が先立っている。来日前、母国スウェーデンのウプサラ大学で世界的な植物学者リンネに学んだ。そのようなリンネの弟子で、当時のヨーロッパにおける植物学の気鋭の学者が鎖国下の日本、長崎まで赴任してきたところに興味を惹かれる。植物学者にとってそれほど日本は行ってみたい魅力的な国であったのだろうか。出島滞在中、梅毒の特効薬を用いて日本人患者の治療に劇的な効果を上げて、畏敬の念を持たれている。のちのシーボルトもそうであったように、蘭学、とりわけ蘭方医学の日本に与えた影響は計り知れないものがある。長崎出島にいわば閉塞された環境での研究であったが、日本のオランダ通詞や蘭学、蘭方医学を志す若者達に大きな影響を与え、彼らの協力もあり研究成果を上げた。帰国後「日本植物誌」を出している。

 彼も出島滞在中一度商館長に同行して「江戸参府」している。第10代将軍家治治世、田沼意次が幕府内で権勢を振るっていた時代である。田沼は重農主義から重商主義へと政策転換を図ることに力を注ぎ、蘭学も奨励した。オランダ商館一行の将軍謁見も盛大に行われた。その時の記録である「江戸参府随行記」で、彼の記述はあまり私見や偏見を含まず、科学者らしい客観性を持って日本を観察した様子が見て取れる。ただ、江戸参府の機会以外は、出島から出ることが禁じられていたため、日本国における植物採集、植物学研究という観点からは限界もあり、これ以上はあまり成果が期待できないと考え、一年で帰国を願い出ている。

 帰国後、彼はウプサラ大学教授にもどり、「1770〜79年にわたる欧州、アフリカ、アジア旅行記」(スウェーデン語版1788〜1779年)を出版。このうちの3巻4巻に記された日本の部分が、邦訳された「江戸参府随行記」である。
そしてウプサラ大学学長に就任するなどアカデミアとしての生涯を全うした。



 以下、三人の肖像と略歴を掲載する。


ケンペル肖像
実は確かなものは残っていない。
これは後世想像で描かれたという
英語版Wikipediaより



ケンペル:Engelbert Kämpfer (1651-1716)

ドイツ人の医師、植物学者、博物学者
レムゴー出身
1690年オランダ東インド会社医師として長崎に
この間2度江戸参府
1692年バタヴィア経由で帰国
ライデン大学より医学博士
1712年、「廻国奇談」出版
1727年、彼の死後ハンス/スローンにより「日本誌」英語、仏語、蘭語出版
大英博物館に収蔵









ツュンベリー肖像
長崎歴史博物館蔵


ツュンベリー:Carl Peter Thunberg (1743~1823)

スウェーデン人の医者、植物学者
ウプサラ大学で植物学者の泰斗リンネに師事
1775年、オランダ東インド会社医師として長崎に
1776年、江戸参府
同年、バタヴィアへ帰参
1779年、帰国、ウプサラ大学教授
1781年、ウプサラ大学学長就任

なお、日本語では彼のスウェーデン名Thunbergを「ツンベリー」「ツュンベリー」「テュンベルク」「ツンベルク」などと表記することがある。







シーボルト肖像
川原慶賀筆





シーボルト:Phillipp Franz von Siebold (1796-1866)

ドイツ人の医師、博物学者、植物学者
貴族/医者の家系に生まれる
1823年、オランダ東インド会社の医師として長崎来訪。
来日後間もなく滝と結婚、イネをもうける
1824年、鳴滝塾創設
1828年、帰国に際し難破。その際に禁制の日本地図を持っていたことが発覚(シーボルト事件)
1830年、国外追放
1859年、開国後、オランダ貿易会社の顧問として再来日(息子アレキサンダーと共に)
幕府顧問に
1862年、帰国





平凡社東洋文庫の「江戸参府」三部作。

 シーボルト著、斉藤信訳「江戸参府紀行」
 ケンペル著、斉藤信訳「江戸参府旅行日記」
 ツュンベリー著。高橋文訳「江戸参府随行記」

 古書店めぐりでついに三部揃い踏みでゲットすることができた。どれも、ケンペル、ツュンベリー、シーボルトの世界周航旅行記や日本旅行記として後世、ヨーロッパ各国で出版されたものの中から、日本人研究者により江戸参府部分を抜き出して日本語訳したものである。シーボルト版はドイツ語版の翻訳で1967年斉藤信氏により初版が、ケンペル版はドイツ語版のいわゆるドーム本からの翻訳で1977年同じく斉藤信氏により初版が刊行された。さらにツュンベリー版についてはスウェーデン語ということもあり、1994年に、スウェーデン語に通じ、しかも薬史学の専門家である高橋文氏を得ることにより初版が刊行された。こちろん三人三様の日本に関する観察、分析、関心事、批判があるが、同じ長崎から江戸までの旅行記という横軸に、140年ほどの時間の経過を縦軸にとって比較しながら読むと面白い。

 ところでケンペルの「日本誌」の日本語訳は今井正編訳『日本誌 日本の歴史と紀行』(上下2巻)が1973年に霞ケ関出版より刊行され、その後、1989年に改訂増補版(上下2巻)、2001年に新版(7分冊)が刊行されている。ドイツ語のいわゆるドーム版を翻訳したもので、イギリスのハンス・スローン卿が手がけた英語版からの翻訳ではない。










2022年1月16日日曜日

東西文明のファースト・コンタクト 第三章「ドクトルの世紀」 〜「出島の三学者」の日本見聞録〜

 

ケンペル「日本誌」掲載の「長崎出島図」

将軍謁見図
立っているのがケンペル


「ドクトルの世紀」とは?

「バテレンの世紀」から「カピタンの世紀」へと変遷してきた日欧のファーストコンタクトは、いよいよ第三章へ。その主役は、布教を目的とした宣教師(バテレン)や、交易/商業活動を目的とした商館長(カピタン)から、未知の世界の観察/研究を目的とした研究者、博士(ドクトル)となる。これを「ドクトルの世紀」と名づけておこう。人間の止まるところを知らない「欲望」は、ついにキリスト教による世界制覇や、莫大な貿易利潤による市場支配といった野望を超え、人間の知的好奇心の充足へという、より高みに立つ「欲望」に止揚される。しかしてその実情は、出島という監視された閉鎖空間にて、細々と珍しい動植物を観察収集し、珍しい風俗、風土を研究するしかなかった。しかし、その成果は日欧双方にとって大きな意味を持つものとなっていった。彼ら「出島の囚われ人」には協力者がいた。それは日本人のオランダ通詞であり、また蘭学を志す若者達であった。また監視役であったはずの長崎奉行所の役人や、長崎勤番警護の肥前藩や筑前藩でもあった。こうした情報交換や研究協力関係は、オランダ人にとっての一方的便宜であるより、むしろ日本側に大きな意義を持っていた。医学、植物学(本草学)、地理、天文学は双方に関心のあるテーマでもあったし、「オランダ風説書」でもたらされる海外の最新動向は、オランダというフィルターがかかった情報であるが、日本にとって垂涎の的であったことはいうまでもない。幕府の周到なコントロール下での情報交換と協力関係ではあるが、それだけではなく、知的好奇心と探究心に満ちた若き日本の蘭学者や、通詞による自発的な交流が実は重要であった。例えば、ケンペルの「日本誌」の多くは若きオランダ通詞、今村源右衛門による協力がなければ成立し得なかった。テュンベリーの「日本植物誌」は桂川甫周や中川淳庵などの若き蘭学者との交流がなければ成立し得なかったし、こうした協力関係が後の杉田玄白の「解体新書」を生み出していった。特にシーボルトの時代になると、より一層の日欧の研究交流が盛んになり、幕府の許可により出島外に設立された鳴滝塾が蘭方医学、蘭学の研究センター/教育機関となった。ここから高野長英などの多くの有為の人材が生み出されたことは知るとおりである。さはさりながら、基本的には色々と制約の多い出島での「幽閉生活」を強いられる彼らにとって、年一回の江戸参府はまたとない日本見聞の機会であったし、それだけにその旅は新鮮であったことだろう。彼らの江戸滞在中は、宿所の日本橋本石町の長崎屋には、幕府の牽制、規制にもかかわらず江戸の蘭学者が大勢訪問し、質疑応答をおこなった。これが将軍謁見という外交的な儀礼よりも、日欧文化交流におけるより実質的な意義を持っていた。こうした日蘭の知的交錯がこの時代を特色づけることになる。

このように見てくると、日欧関係発展のモチベーションは、「グローバル宗教」の野望や「グローバルエコノミー」の野望という側面よりも、未知の世界の探検、未知の文明との遭遇という「知的好奇心」へと移り変わった。ファーストコンタクトで新しく「発見された」日本は一度は行ってみたい魅惑のワンダーランドになった。これは皮肉にも日本側が、ヨーロッパ側による「信仰の、市場の世界征服」の野望を挫いた結果だったと言えるのではないか。一方で、「鎖国」日本にとって出島のオランダ商館は、西欧諸国の最新情報を得る唯一のウィンドウとして貴重であった。時代が降るにつれてむしろオランダ側よりも、日本側にこうした交流にメリットがあったといえよう。日本が国を海外に向けて閉ざしている間に、ヨーロッパでは啓蒙主義の時代、科学の時代、産業革命の時代へと進み、その動向をわずかに開かれたウィンドウから覗き見る時代になっていった。

ここで、これまでのブログで取り上げてきた日欧の「ファースト・コンタクト」時代の変遷を整理してみたい。これらはあくまでも、敬愛する渡辺京二氏の著作「バテレンの世紀」をパクった筆者の勝手なネーミングに基づく時代区分であり、歴史学としてのそれではない。言わずもがなではあるが念のため。

(1)「バテレンの世紀」16世紀後半〜17世紀前半

        目的:キリスト教布教/交易がセット

        主役:宣教師(バテレン)/ポルトガル商人

        主たる情報源:イエズス会記録(ローマ教王庁)

(2)「カピタンの世紀」17世紀 

        目的:商売/交易

        主役:オランダ/イギリス商館長(カピタン)

        主たる情報源:商館長日記、手紙、報告書(オランダ公文書館、大英図書館)

(3)「ドクトルの世紀」 17世紀終期〜19世紀前半

        目的:動植物学/博物学研究 日本の総合的研究

        主役:商館付きの医者/植物学者/博物学者(ドクトル)

        主たる情報源:研究報告書、刊本著作(大英博物館、ライデン大学、ウプサラ大学)


「出島の三学者」とは?

(1)ケンペル(1651〜1716)

    滞在期間:1690〜1692年 江戸初期(元禄3〜4年)

    主要著作:「廻国奇談」、「日本誌」1718年

    ヨーロッパにおける「日本学」の開祖。かれの「日本誌」は、長く日本を知るための体系的手引書として重用され、ディドロの「百科全書」にも引用された。幕末のペリー来航時にも指南書となった。オランダ通詞の今村源右衛門の役割が大きいと言われている。

(2)テュンベリー(1743〜1828)

    滞在期間:1775〜1776年 江戸中期(安永4〜5年)

    主要著作:「日本植物誌」1784年 

    スウェーデンの世界的植物学者リンネの高弟。帰国後は母校ウプサラ大学の教授、学長になる。わずか一年ほどの滞在であったが、桂川甫周、中川淳庵、多くの蘭学者との交流、オランダ通詞が植物学、薬学、医学の習得するなど、多くの若き知性に影響を与えた。杉田玄白「解体親書」へとつながる。

(3)シーボルト(1796〜1866)

    滞在期間:1823〜1830年 江戸後期(文政6〜12年)、2回目の来日(1859〜1862年)(開国後、安政6〜文久2年)

    主要著作:「日本」1832、51,52、58、59年分冊出版、「シーボルト日記」

    ドイツの医学の名門の家系に生まれる。日本の総合的/科学的調査研究が使命/目的 セカンドコンタクトへの橋渡し。2度の来日経験。高野長英など多くの門弟を輩出し、日欧交流に大きな影響を与えた来日外国人の第一人者。

「出島の三学者」については、以降のブログを参照願いたい。2017年5月30日 時空トラベラー  The Time Traveler's Photo Essay : 「出島の三学者」 ケンペル、ツュンベリー、シーボルト:  

3人の共通点は、オランダ商館付きの医者、植物学者。博士号を保有する「ドクトル」であること。しかもオランダ人ではなく、ケンペルとシーボルトはドイツ人。テュンベリーはスウェーデン人である。彼らは医学の専門家であると同時に、植物学者であり、本草学(薬学)や博物学の研究者であった。医者としての勤め、動植物研究にとどまらず、日本および日本人を総合的、学術的に調査研究することが主要な目的と使命であった。したがってヨーロッパにおいては「日本学」の権威となった。この歴代の三学者は、日本学の開祖、ケンペルに始まり、植物学の泰斗テュンベリー、そして幕末の日本に大きな影響を与え、セカンド・コンタクトの扉を開いたシーボルトへと、その経験と成果が引き継がれていった。しかし、先述のように、彼らだけでそのような成果を上げられたわけではない。その陰には多くの日本側の協力者や弟子たちがいた。すなわち、彼らの周囲にはオランダ通詞や門弟となった蘭学者がいた。また医者であることから、日本人の患者を見ることもあり、漢方医学が主流であった日本に西欧流の医学を持ち込み、治療に効果を上げ(テュンベリーによる梅毒治療の例)、評価され、それが蘭方医学として日本に受け入れられたことも大きい。また3人ともいわゆる学級肌で、若い頃から哲学、地理学、医学、薬学、植物学、博物学を学び知識欲旺盛な人物であり、高い洞察力と理性を併せ持つインテリ、知性派であった。しかし彼らの研究姿勢は実践的で、「象牙の塔」に閉じこもる学究の徒に止まるのではなく、大いに旅行し現場へ出かけ、危険を顧みず未知の世界の探検に志願して出ていった。いわゆる「行動する知性」であった。当時、オランダ東インド会社は、そうしたヨーロッパの「行動する知性」のファシリテーターとしての役割を果たしていたと言えよう。特に医官のポジションはまさにうってつけであった。

こうして、本国においても、当代一流の若手学者、研究者が、日本を目指し、滞在し、そこでの体験、研究成果を提げて帰国した。西欧諸国における絶対主義の時代から自由主義の時代、啓蒙主義、さらには産業革命、アメリカ独立戦争、フランス革命の時代へと続く近世西欧文明に新しい風を吹き込んだ。ちなみにイエズス会は1773年に解散している。一方でアダム・スミスが「国富論」1776年を出し、重商主義から自由主義市場原理を示し、産業革命という「技術イノベーション」と「神の見えざる手」が資本主義の時代を生み出していった時代である。1810年にオランダはナポレオンのフランスに併合される。こうした動きに乗じて1810年には海外植民地がイギリスに奪われるが、やがてナポレオンの嵐がすぎると英蘭は条約を結び、1814年にはオランダ領東インドは返還された。このようにオランダが衰退してゆく中、長崎オランダ商館だけはオランダの旗を掲揚し続けた。シーボルトの役割は、オランダが日本との貿易関係を再構築するために、総合的に日本を研究することであった。日本側も、西欧事情の収集と蘭学を通じた最新の思想や科学技術の習得が喫緊の課題であり、オランダとの関係は以前にもまして重要であった。19世紀になると日本近海にはロシアやアメリカなどの新たな異国船が頻繁に来航し、世界情勢が大きく変わっていることが肌身で実感された。これに対応するべく、海防、外交上の情報分析と的確な判断が喫緊の課題であったことは言うまでもない。こうしたことから幕府はシーボルトを重用するが、シーボルト事件で彼は国外追放となり、大事な「外交顧問」を失ってしまう。一方、シーボルトは帰国後は「日本学」の権威の一人として各方面から信頼を寄せられ、アメリカのマシュー・ペリー提督は日本への航海を前に、ケンペルの「日本誌」を事前に研究するとともに、シーボルトから多くの助言を得ている。

ケンペル、テュンベリー、シーボルトと続く「知の系譜」は、ヨーロッパに多くのものをもたらしただけでなく、日本にとっても重要な西欧文明研究の底流となった。そして多くの蘭学者、蘭方医を育てた。そのオランダ語による蘭学の系譜と知識の受容が、のちの幕末、明治の時代の英語やドイツ語、フランス語によるそれへの道筋をもたらした。ヨーロッパの意欲に満ちた若き知性と、日本の意欲に満ちた若き知性の遭遇。これがこの「ドクトルの世紀」を特色づけたと言える。そして、忘れられた「ファースト・コンタクト」の時代を、衝撃の「セカンド・コンタクト」の時代へと繋ぐ道筋が、「鎖国」の時代に、細々とではあるがしかし確かに形作られていた。


追記:

歴史資料として見るとこの頃の「日本誌」などの記録は、その前の時代(バテレンやカピタンの時代)の記録とは異なる性格を持っている。すなわち、バテレンやカピタンによる布教活動や貿易/商業活動を通じた組織内の報告書、あるいは個人的な見聞録としての記録から、学者、研究者としての目で見た「客観的」な観察、分析と評価に基づいた記録となっている。形式としては日誌や報告書等の時系列記録というよりは、テーマ別、項目別の事物、出来事の記録である。逆に言えば、市井の人々の日常の生々しい記述や、筆者の情感のこもった描写やその印象記録は影を顰める。再び、そうした視点での日記や紀行文が出てくるのは、セカンド・コンタクト以降の、幕末/明治の来日外国人(お雇い外国人、横浜の貿易商、ジャーナリスト、旅行者など)の「日本見聞記」「旅行記」が盛んに出版される時代になってからである。



ケンペル「日本誌」に掲載されている動植物
日本の茶


日本の鳥類
架空の鳥「鳳凰」

日本のセミ

日本の貝類


テュンベリー「日本植物誌」
(Wikipediaより)

シーボルト鳴滝塾
(長崎大学図書館蔵)



参考:過去のブログ

                                      

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2017年5月23日時空トラベラー  The Time Traveler's Photo Essay : 大航海時代と日本 〜「長崎出島」は「鎖国」の象徴か?〜:   ベランの「長崎の街と港」図 1750年 南北が逆になっている 日本の版画「肥州長崎之図」 1800年ころ ケンペルの「出島の図」  私の古書、古地図探訪の旅が終わらない。「時空トラベラー」は、古代倭国を飛び出して、大航海時代のジパングにも...



2017年5月23日火曜日

大航海時代と日本 〜「長崎出島」は「鎖国」の象徴か?〜

 
ベランの「長崎の街と港」図
1750年
南北が逆になっている

日本の版画「肥州長崎之図」
1800年ころ
ケンペルの「出島の図」


 私の古書、古地図探訪の旅が終わらない。「時空トラベラー」は、古代倭国を飛び出して、大航海時代のジパングにも思いを馳せる。以前から探していた古地図、ベラン( Bellin, Jacques Nicolas)の「長崎の街と港」(Grundriss von dem Hafen und der Stadt Nangasaki)を入手した。1750年パリで刊行されたもの。プレヴォ(Antonine-Francois Prevost)が編集した「旅行記大全」(Histoire Generale des Voyages)の第10巻に収録されている。日本で言えば江戸時代中期、ヨーロッパ人が描いた鎖国時代の唯一の国際貿易港である長崎の都市地図だ。オランダ商館(オランダ東インド会社長崎支店)が置かれた出島がはっきりと描かれている。

ベランはフランスの地図製作者で地理学者であり、水路測量技師でもあった。ベランは、長崎のオランダ商館のドイツ人医師、ケンペル(Engelbert Kaempher:1690〜92年日本に滞在)の「日本誌」(彼の死後1727年スローンにより英訳され出版)に含まれる長崎図を元にこの地図を作成したと言われている(下段に掲載した2021年10月26日の「追記」参照)。ケンペルの原画に比べるとかなり簡略化して描かれている(上掲出のDejima図は1779年のいわゆるドイツ語のドーム版に収録されているもの)。1750年頃には出島と唐人屋敷地区の間の海を埋立、新たな幕府直轄の蔵屋敷が設置された(1800年頃の「肥州長崎之図」参照)が、ベランの図にはそれが描かれていない。やはり1636年、寛永年間に出島が造成された直後(あるいは1641年にオランダ商館が平戸からが出島に移された頃)の図がもとになっている証拠であろう(すなわち100年前の長崎の様子が描かれたもの)。長崎の地図は日本の製作者によるものは数多く出版されているし、幕末開港期、明治以降の復刻版も多い。しかし、江戸時代にヨーロッパ人が製作したものはなかなか見つからない。幕府が地図を国外に持ち出すことを禁じていたことが大きな理由であろう。ケンペルの原画というものも、日本の地図をもとにしたものではなく、彼自身のスケッチや見聞による復元であろう。それをもとに100年後に「復刻」したベランの図(もちろん本人が見聞したわけでもない)も、長崎の現状を正確に表したものとはいえないが、おおよその幕府関連の重要施設の配置は再現されている。幕府の「遠見番所」などは、広大な敷地を有する「兵舎」であるかのように誇張して描かれている。しかも湾の対岸にも大きな「兵舎」が描かれている。また、出島に比べ「唐人屋敷」地区が波止場を有した大きな施設であったように描かれているのが興味深い。

 今回は丸善雄松堂の古書カタログで見つけた。早速、丸善日本橋店のワールドアンティークブックプラザに問い合わせた。残念ながら現品は福岡店に展示されていて、しかも地元の大学から予約が入っているとのこと。しかし、より程度の良いものが2点入荷したと電話が入ったので見に行くと、一点は彩色が施された1752年のもの。もう一点が1750年の無彩色だが非常に程度の良いものであった。迷ったが無彩色版を購入した。以前から「長崎」、「出島」をキーワードに、ロンドンのセシルコート古書店街や、ニューヨークのマディソン街の古書店でも探したがなかなか見つからなかったものだ。探しているときはなかなか出てこないが、出るときは結構まとまって出るものだ。そしてやはり日本の古書店の方がこうした日本関連のものは見つけやすいのだろう。ペリーの「日本遠征記」を探していたときの時と同じ状況だ。



 なぜ「出島」が生まれたのか?

 誰もが知る通り、長崎は「鎖国時代」我が国唯一の対外貿易の窓口となった町である。徳川幕府の直轄地で、オランダと中国にのみに門戸が開かれていた。キリスト教徒(プロテスタントであるが)であるオランダ人は湾内に造成された埋立地「出島」に商館を置くことが求められ、キリスト教徒でない中国人は日本人と雑居していても構わないのだが、大浦の一角に居留地(いわゆる唐人屋敷)を置くこととした。ベランの地図を見ても出島が特異な扇型形状の人工的な施設であることがわかる。また、出島の南の(上の)対岸には中国人居留地区(唐人屋敷)が描かれている。この出島こそ、江戸時代の対外孤立策「鎖国政策」のシンボル的なランドマークと捉えられている。なぜこのような施設が生まれたのか。その本当の意味は何か。古地図が投げかける「問い」に挑戦してみよう。そのためには少々、大航海時代にユーラシア大陸の西端のヨーロッパからはるばる日本にやってきた人々の歴史を振り返ろう。日欧交流の歴史だ。


 ヨーロッパと日本との出会い。幻想から現実へ

 ユーラシア大陸の西端にいたヨーロッパ人にとって、かつて日本はユーラシア大陸の遥か東端、中国の向こうの海中に存在する謎に満ちた「黄金の国」であった。「宮殿は全て黄金の屋根で覆われ、無尽蔵に金が取れる夢の国だ」と。その国の名は「ジパング」。このような「おとぎの国」像は、13世紀マルコポーロの「東方見聞録」に記された記事が元になっている。こうして「黄金の国」ジパング求めてヨーロッパ人の大航海時代は始まった。そういわれるほどのブームを巻き起こした。マルコ・ポーロはイスラム商人の助けを借りながら、陸路で中国元王朝の都「大都」に到達した。そこで彼は周辺国事情を聞き書きしたものと思われる。そのなかの特筆すべき国、それが東の海中にあるジパングである。彼は実際にジパングへ渡ったわけではない。全て伝聞による情報である。未知の黄金郷へという野望に駆り立てられた冒険者が次々と船出していった。こうして東回りでジパングに向かうバーソロミュー・ディアスやバスコ・ダ・ガマの航路に対し、西回り航路を開拓するしようとクリストファー・コロンブスのジパング/インド到達航海が実行された。1492年の新大陸アメリカの発見(現在のカリブ海西インド諸島サンサルバドル島上陸)!?コロンブスは最後まで自分はインドに到達したと信じていた。さて次はジパングだ!と。実際はインドまで到達する途中の大西洋と太平洋の間に横たわる(未知の)新大陸であることがわかった。歴史上の大誤解の一つだ。やがて、探していた金が採れることがわかり、黄金の国、エルドラードはアメリカ大陸にあったと熱狂することになる。そしてだんだん「黄金の国ジパング」は記憶の彼方に消え去ってゆく。

 その後、スペイン艦隊を率いたマゼランはその世界一周航海(1519〜22年)で、1521年にフィリピンに向かう途中ジパング島の近海を航行したが(航海日誌に記録がある)、寄って見ようともせず通過している。ジパング・パッシングだ。このころにはもはやジパング黄金伝説は幻想に過ぎないと考えられていた証左であろう。実際、16世紀初頭の日本といば室町時代後半。先の1467〜77年の10年にわたる応仁の乱で都は荒廃し、幕府統治能力が瓦解に瀕し、やがて戦国時代へ突入する時期である。そもそも資源に乏しく、農業生産力も(主として米であるが)自国の消費で手一杯。絹は中国からの輸入に頼る。銅銭や陶磁器も中国から輸入。金や銀や香料などの希少資源を求めて世界を徘徊する「大航海時代」の主役、略奪帝国主義者たちにとって「ジパング」はもはや魅力的な到達目標ではなかった。

 日本に最初に上陸したヨーロッパ人はポルトガル人であった。それは1543年(天文12年)種子島にやってきた。と言うより正確には「漂着した」。彼らはこのとき鉄砲を持っていたので、これが日本にとって、歴史の画期「鉄砲伝来」となった話は教科書にも出ている。鉄砲の伝来時期には諸説あるが、ともあれポルトガル人が意図せず「偶然」漂着し、期せずしてあのジパングとの交流が始まった。「おお!ここがあのジパングか!」と。しかし。これはポルトガルと日本の正式な外交関係、貿易関係の開始ではない。その後1550年ポルトガルのインド副王の使節が平戸にやってきて交易を求め、織田信長の庇護によりポルトガルとの「南蛮貿易」が始まった。

 次にやってきたのはスペイン人。すなわちイエズス会の宣教師フランシスコ・ザビエル一行だ。1549年(天文18年)鹿児島に上陸。もちろんカトリックを布教することが目的だ。上陸後、豊後府内(大分)や博多、山口などを経て都へと進む。大友宗麟などの九州の大名や都の織田信長などの新しもの好き権力者たちに受け入れられていった。もっとも彼らの直接的な関心はキリスト教よりも鉄砲や珍しい交易品の数々であった。ただスペイン国王はあまり日本との交易に関心を示さなかったようだ。国同士の交易に発展するのは、1591〜2年マニラからスペインの公式使節が来訪してからのことだ。これ以降、鎖国まで次々と渡来する宣教師に誘われる形で「南蛮人」が渡来する。

 やがてイエズス会宣教師の勧めで「天正遣欧少年使節」がローマに派遣された1582年(天正10年)〜1590年(天正18年)のことである。イエズス会の辺境の地の異教徒に対する布教活動の華々しい成果として。ローマ法王に謁見し、各訪問先では、珍しさもあって大歓迎された。あのジパングが、日本( Happon)となり、ヨーロッパ人が違った意味で大きな関心を抱くきっかけになった。このころの日欧交流の主役は「南蛮人」すなわちポルトガル人、スペイン人であった。「紅毛人」すなわちオランダ人やイギリス人が登場するのはこの後である。

 その次にやってきたのは、イギリス人ウィリアム・アダムズ。1600年(慶長5年)オランダ船リーフデ号の航海士として豊後府内に「漂着」した。のちの三浦按針である。徳川家康の外交顧問として日本に滞在し、士分に取り立てられ三浦半島に領地をもらった。同じくオランダ人ヤン・ヨーステン(のちの八重洲)も上陸。オランダとイギリスという新興国の人間がジパングに到達するようになる。そして彼らの情報に基づきやってきたのが、1609年、正式な国書を持ったオランダからの使節。家康から貿易朱印状を得て平戸に商館を開いた。最後に、1613年、ウィリアム・アダムスからの手紙に刺激されてバンタムのイギリス東インド会社からジョン・セーリスが平戸に来航。。国王ジェームス1世の国書を家康に奉呈し、平戸にイギリス商館を開いた。

 このように日本への来航時期を見ると、アメリカやアジアの他の諸国に比べ、かなり遅いことがわかるだろう。ポルトガル人の種子島漂着はバスコ・ダ・ガマのインドカリカット到達の45年後(正式な使節の来航は50年後)、スペイン人の日本到達は、コロンブスのアメリカ到達の57年後(正式な使節の来航は100年後)、マゼランの世界周航の75年後である。イギリスやオランダが遅いのは後発国であるから理解できるが、全体的に香料や金を狙って世界中を駆け回っていたポルトガルやスペインが半世紀遅れてようやく日本に到達したのは、それだけ日本への関心がなかったことの証左であろう。


 対日貿易を巡る競争と禁教令

 その当時、日本との貿易を牛耳っていたのはポルトガルである。彼らは中国(明)のマカオを拠点として、明と日本との中継貿易で巨大な利益を上げていた。すなわち新たに発見された日本の石見銀山の銀で、中国の絹や陶器などを買い、日本に輸出してまた銀を得る。そのマージンを取って利益を得るという商社的な貿易。これは当時、日明直接貿易が倭寇問題で停止(明国の鎖国状態)されていたという背景がある。その隙間を狙った旨みのある貿易であった。当初はマカオを拠点に活動していたが、やがて平戸、長崎に進出し、貿易量は拡大の一途をたどりポルトガルに莫大な利益をもたらした。それはポルトガル本国との貿易額を遥かに上回った。

 ここに割って入ろうとしたのがスペインから独立したばかりの新興国オランダだ。ポルトガルはこの頃すでにスペイン王の支配下にあったが、ブラジル植民地の獲得、メキシコやペルーからの金、銀供給も確保して繁栄を誇っていた。そこへこの明、ポルトガル、日本の三角貿易で高い利益率の商売が成功した。一方、イギリスやオランダは新興勢力としてアジアや新大陸(アメリカ)における交易参入、さらには植民地覇権に意欲を燃やしていた。ホームのヨーロッパにおけるプロテスタント勢力とカトリック勢力との争いも背景にあり、旧勢力であるスペイン・ポルトガルとの争いが、アウェーである東洋にも飛び火した格好だ。この新興国の対日貿易進出競争は徐々に熾烈を極めることになる。

 一方、同じ新興勢力であるオランダとイギリスの競争はオランダに軍配が上がる。イギリスは、日本市場参入に失敗し、結局平戸の商館をたたみ撤退する。のちに再チャレンジする動きもあったが、ただイギリスはこののち新大陸や中東、インド、インドシナ、中国、オーストラリアと、七つの海に君臨するに広大な大英帝国を築き始めていて、徐々に極東の日本に手を伸ばす余裕もインセンティヴも薄れていた。一方のオランダは、そうしたライバルの撤退という幸運も有り、唯一の対日貿易利権独占国となった。日本との貿易はなかなか利益を上げることができなかったが、オランダの主戦場である東インド(バタビア、アンボイナ、モルッカ)での香料利権獲得競争の後方兵站基地の役割を果たした。

 やがてオランダは日本からポルトガルの追い出しを始めた。ポルトガルが築き上げた高利回りの貿易利権を奪おうというわけだ。徳川幕府も初期にはポルトガルとの貿易を認め、長崎の出島はポルトガル人が最初の住人であった。オランダは新教プロテスタントの国であり、そもそもスペインやポルトガルの旧教カトリック国とは対立していた。そこでオランダ人は、ポルトガル/スペイン人宣教師による「日本征服」謀略説の流布を始める。こうしたオランダ人の讒言により、幕府は1612年禁教令を出した。そこへ1637年にはキリシタンや農民の反乱である「島原の乱」が勃発し、オランダのプロパガンダの正しさを証明することとなった。幕府はますますキリシタン禁教に取り組むこととなる。1639年にはポルトガル船の入港禁止とポルトガル人の追放、と、いわゆる一連の「鎖国政策」を進めた。こうして幕府はポルトガルに代わりオランダをその統制貿易の相手に選んだ。ポルトガルはそれでも幕府に対して交易を認めてくれるよう使節を送ってきたが、幕府はこれを拒絶し、使節を処刑している。ついにオランダは対日貿易を独占することに成功した。もっともオランダにとってはかなり屈辱的な管理貿易(出島に押し込められ、年一回江戸参府を義務つけられ、将軍家に臣下の礼を取る、など)であったが、先述のようなそれを補ってあまりあるだけのメリットがオランダにはあったようだ。一方、幕府側から見るとオランダとの貿易量は中国との貿易量の半分程度であったが、量よりも文物・知識・情報の質を重んじたのであろう。


 こうして「出島」が生まれた。

 徳川幕府は長崎を唯一の国際関門港に指定して幕府直轄領とする。そして1634年から出島築造に着手し、1636年完成する。こうして湾内に人工的な埋立地を設け、周囲を壁で囲み、市街地とは一本の橋でのみ繋がる「出島」を設けた。その橋のたもとには奉行所を置いた。前述のように当初はポルトガル人がこの出島の住人であったが、禁教令以降一連の「鎖国令」によりポルトガルを追い出し、オランダ、中国(明、清)のみを貿易相手国に指定。1641年にはオランダ人(東インド会社)を平戸から移して長崎の出島に押し込めた。こうして徳川幕府は統制貿易体制を敷き貿易と海外情報を独占した。いわば「長崎出島統制貿易特区」の創出である。

 出島のオランダ商館長は幕府に対して海外情報を定期的に提供することが義務つけられていた。これが「阿蘭陀風説書」である。オランダ商館長は自国の貿易利権を守るために積極的にこの求めに応じた。当然オランダに都合の悪い情報は入っていなかったし、長崎奉行所の通詞も、内容を吟味しながら幕府に提出する情報を取捨選択していたようだが、海外情勢の把握/分析に役立つ唯一の貴重な報告書であった。徳川幕府は、これにより「鎖国時代」初期にはキリスト教の動きに、後期には西欧の近代化の動きに細心の注意を払った。一方で、オランダ商館によるオランダ東インド会社バタビアへの報告書や、商館付きの医者であり科学者であった、ケンペル、ツンベルク、シーボルト(出島三賢人と言われた)が歴代著した「日本誌」「江戸参府記」は、「鎖国」下の日本の事情を知る貴重な情報源となった。先に掲出のベランの「長崎の街と港」地図もケンペルの「日本誌」から引用したものだ。のちにペリーが黒船を連れて浦賀に来航する際には、ケンペルとシーボルトの本を買い集めて十分に事前準備してきた。シーボルトはペリーに書簡を送り、対日交渉への助言をしている。このあたりの事情は彼の「日本遠征記」に詳しく書かれている。

 この出島オランダパイプを通じ、徳川幕府は朝廷、諸大名に比べ、海外情報を独占的に入手することができた。江戸後期に至り、ロシア、アメリカの艦船が近海に出没するようになってからも、長崎を通じてその動きを事前に把握している。1853年の米国ペリー艦隊の来航も事前に把握し、準備を進めていた。幕末期に中国の清朝がイギリス始め西欧列強に侵略される様子も知っていた。朝廷はもとより、諸藩は海外情勢に触れる機会も無く、ただ日本近海に外国船が頻繁に出没する現実を目の当たりにして警戒心を抱くようになっていた。そういう中で、ペリーの黒船来航に驚愕し、翌年、幕府が締結した日米和親条約(開国)にショックを受けた。彼らは世界の情勢を十分に知るすべがない中で、現実が先行する状況であったわけで、幕府の対応を非難し「尊皇攘夷」を叫んだのも理解できる。海外情報に接していなかった諸藩は、幕末になって慌てて藩士を「長崎留学」に出したりして、キャッチアップを図ろうとしたが、幕府の情報優位性は圧倒的であった。ただ例外は、薩摩藩の琉球貿易、対馬藩の朝鮮通信(外交・交易)、松前藩の蝦夷交易があった。中でも薩摩藩は琉球貿易を通じて幅広い海外情勢に接する機会を持っていた。こうした体制を「鎖国」と呼んでいるが、実は「鎖国=孤立」とは限らない。

 そもそも「鎖国」という言い方が正しいのか、最近は議論になっている。具体的には1612年の「寛永異教令(禁教令)」や、1633年の日本人の海外渡航禁止・帰国禁止、1639年ポルトガル船入港禁止など、数次にわたって出された幕府の命令をまとめて「鎖国令」と称している。そもそも「鎖国」と言う言葉自体は、幕府が使っていたものでもなく、先ほどのケンペルの「日本誌」に出てくる第五代将軍綱吉時代の対外政策を記述した部分を、のちに江戸時代の蘭学者志筑忠雄が一言で「鎖国」と訳したことが始めだと言われている。上述のように「鎖国」下の日本においても、長崎という外世界へのウィンドウを独占した徳川幕府は、考えられている以上に正確に海外情勢を把握していた。「出島」という隔絶された埋立地が、「鎖国」すなわち「孤立」政策の象徴のように見られるのだが、現代のように自由貿易が原則であるグローバルエコノミーの時代とは異なり、近世においては国家や権力者が貿易を独占する管理貿易/統制貿易は珍しいことではなかった。「出島」をその象徴と見て、江戸時代を通じて「鎖国政策」により世界から「孤立」していた、と断ずるのは誤りであろう。歴史を「鎖国」か「開国」か、白か黒かという「二分法」で片付けることに等しい議論だと思う。


 そして「出島」時代の終焉へ

 このように幕府は海外の動向を、諸藩よりは正確に把握していたが、結局は倒幕へと時代は動くこととなった。これは徳川幕府が西欧列強諸国との対応に失敗したから、圧力に屈したからということでも、西南雄藩の方が世界に目覚めていて進歩的であったからということでもない。幕府崩壊の真の理由は別のところにあった。徳川政権は、西欧列強の資本主義、帝国主義的な動きを把握し、国家の近代化の必要性を十分認識していても、結局は、武士が農民を支配する「米本位」の農本主義経済、その封建的な統治機構である「幕藩体制」がすでにこうした時代のイノベーションに対応できない枠組みになっていた。徳川幕府主導の近代化を図ろうとすれば、自らの体制を否定するところから始めなけらばならない状況になっていた。端的に言えば、支配階級であるはずの武士を食わしていけなくなっていたからだ。その旧体制(アンシャンレジーム)の象徴である武家政権徳川幕府の打倒、各地の藩の解体へと時代が進まざるを得なかった。倒幕を進めた西南雄藩とて、当初、藩主たちはアンシャンレジームの中での徳川家に代わる「政権交代」と捉えていた嫌いがある。「いやそうじゃない」と気づいたのは倒幕推進の若い下級武士たちであった。自分が所属する(ないしは出身の)藩を含む幕藩体制こそ打倒の対象になっていった。もちろんそのきっかけを作ったのは西欧列強の日本への外圧であったことは間違いない。そして世界に開かれた長崎がそうした「草莽崛起」の若者たちが集まる中心都市になったことは不思議ではない。

 だが一方、平安時代末期の平清盛以来、750年続いた「武家による統治」の仕組みを変えるのは大変なことであった。長年続いた「統治権威は朝廷」「統治権力は幕府」という二元統治体制は半ば「日本の美風」ですらあったわけだから。徳川幕府も最後には「大政奉還」すなわち統治権力を天皇に「お返しする」ことで「美風」を守ったわけだ。しかし、徳川家が「政権を返す」だけではことは収まらない。徳川家に取って代わる「武家」の統治者が出てきたのでは革命的ではない。同時に諸大名も「藩籍奉還」「秩禄処分」、究極的には「廃藩置県」ということになる。要するに武家の世の中は終りだとわからせる仕組みが必須であった。天皇を中心とする「一君万民」の統治体制の復活を宣言する。そしてこれまでの藩主・大名は天皇を守る藩屏としての「華族」に組み入れられる。すなわち「そもそも天地開闢以来、日の本は天照大神の皇孫、天皇が支配する国」であるという、永年忘れ去られていた「あるべき姿」を思い起こさせること。その原点に帰る「尊皇思想」以外に永年の武家政権を終わらせるイデオロギーはなかった。そこに1200年前の古代律令制の仕組みを持ち出して「王政復古」を唱えなければならなかった理由が有る。その1200年前の古代統治体制の復活と19世紀的国家の近代化が一体となった明治維新(Meiji Restoration)の姿がある。そこに「維新」と「復古」が同居すると言う矛盾が生じた。

 ペリー来航、日米和親条約締結の翌年、1855年、日蘭和親条約が締結され、その翌年には「出島開放令」でオランダ人の長崎市内への出入りが自由となる。1859年、出島オランダ商館が閉鎖され200年余の歴史に幕を閉じた。こうして歴史的な役割を終えた出島は明治期に徐々に周囲が埋め立てられ、島ではなくなってしまった。最近、この出島自体とそこにあった建物などの復元作業が進められている。



復元された出島跡

出島の外壁も復元された

出島の外周部。右側は海が埋め立てられた部分

オランダ商館内部






明治になってから建てられた長崎内外クラブ(左手)と出島神学校(右手)

 以下、「長崎歴史文化博物館」収蔵の阿蘭陀絵図(川原慶賀作)から。200年余にわたる出島のオランダ人の存在は長崎に独特の文化を生み出した。






2021年10月26日 追記

ケンペルの「日本誌」The History of Japanの英語版初版(スローン版1727年ロンドン)に、「長崎出島図」が掲載されており、べランの出島図(1750年)はこれを元にしていることが判明した。したがってドイツ語ドーム版の図(上記の簡略図)とは大きく異なっていることが判明。おそらくべランはこの英訳初版から翻訳したフランス語版から引用したのであろう。

ケンペル「日本誌」(英訳スローン版1727年初版)の
復刻版(グラスゴー版1909年)から
ベランの「長崎の街と港」図
1750年
ケンペル「日本誌」から引用したことがわかる

2023年2月5日日曜日

古書を巡る旅(30)Memoirs of A Captivity in Japan:ゴロヴニン「日本幽囚記」〜露西亜人が見た初めての日本〜


幽閉から解放されたのちのゴロヴニン肖像


1)ゴロヴニン「日本幽囚記」:Memoir of Captivity in Japan 英訳版第2版 1824年 ロシア人が見た初めての日本

日欧関係の歴史を振り返る時に、ファーストコンタクトのポルトガル人、スペイン人、オランダ人、イギリス人、そしてセカンドコンタクトのアメリカ人、イギリス人、フランス人がよく登場する。今回は、我が隣人ロシア人による日本記録である。また、これまでの宣教師や商館長や外交使節団、あるいはお雇い外国人とは異なり、今回の主役は日本側に幽閉された帝政ロシア海軍士官である。

1811年に起きた、いわゆるゴロヴニン事件。樺太、千島列島を測量調査中に国後島に上陸したロシア海軍の測量艦ディアナ号の艦長ワシーリ・ミハエルビッチ・ゴロヴニンと数名の乗組員が日本の役人に捕えられて2年3ヶ月にわたって幽閉された事件である。この本は、彼の日本での抑留体験を回想録としてまとめたもので、さらに彼の目で見た日本観察記が付け加えられている。日本語訳では「日本幽囚記」として岩波文庫から出版されているが絶版になっているようだ。ケンペルの「日本誌」がイギリスで出版された1727年の、約90年後に出されたヨーロッパ人による日本見聞録であり、鎖国体制下の日本の「空白の90年」を埋める貴重な歴史的資料とも言える。ペリー来航の40年ほど前の出来事であり、今から約200年前の出来事の記録である。ペリーも日本遠征に当たってこのゴロヴニン「日本幽囚記」を読み、研究している。

本書は、ゴロヴニンが解放されて帰国した後、1816年に本国ロシアで初版が出版されたもの。同年にはドイツ語版、フランス語版、英語版、オランダ語版が出版された。そして早くも1818年(文政元年)には蘭学者/オランダ通詞の馬場佐十郎(貞由:さだよし)によってオランダ語版から日本語版にも重訳された。英語版はフランス語版あるいはドイツ語版からの重訳であるようだ。英訳版は1816年の初版に続き、1824年には追補、改定された第二版が出版された。手元にある本書はこの第二版である。ロシア語版との違いは、多くの追補、注記の追加がなされているほか、フランス語版訳者の解説によれば、ロシア語版には検閲による改ざんや削除があり、翻訳版のほうがゴロヴニンのオリジナル原稿に忠実だとされている。また英語版第三巻の冒頭には、英訳編集者による日欧交流史の概説(大英帝国の視点での)が掲載されている。これはケンペルの日本史の英訳版(スローン版)にも見られる点で、とくにイギリスの東洋への進出に関する事蹟を追補する形が見られる。ただ、本書の場合、英訳編集者の名前はどこにも記述がない。また英訳第二版には、この事件のきっかけとなった「文化露寇」の顛末が追加収録されている。すなわち「フヴォストフ&ダヴィドフ日本航海記」である。


本書は三巻からなる。

第一巻 幽閉中のゴロヴニンの手記

第二巻 ゴロヴニンの手記の続き(解放に至る経緯が記されている)。及びゴロヴニンの後任としてディアナ号艦長となったリコルドの航海記録。リコルド・高田屋嘉兵衛によるゴロヴニン解放の交渉記録

第三巻 英訳者による日欧交流史ならびに日本解説、及びこの事件のきっかけを作った「文化露寇事件」の当事者、フヴォストフ&ダヴィドフの日本航海記

1824年 英訳第二版 オリジナルクロス装


2)ゴロヴニンの略歴

ヴァシーリイ・ミハーイロヴィチ・ゴロヴニンВаси́лий Миха́йлович Головни́н Vasilii Mikhailovich Golovnin)

1776年 モスクワ郊外リャザン州グーリンキ生まれ

1790年 海軍士官学校入学14歳で海軍士官候補生に。在学中に実戦参加で活躍

在学中は、内外の航海家達の著作や、哲学、歴史、地誌、軍学、経済学、法学、文学と幅広く学ぶ。これはロシアの海軍士官学校の伝統でもあった。さらにプラトン、トマス・アキナス、ルソー、ヴォルテール、モンテスキュー、ディドロに親しみ、啓蒙主義、デモクラシーの理念や社会的・政治的思想潮流にふれた。発禁書であったプーシキンの詩篇にも影響を受けた

1793年 海軍士官学校卒業、以降ほとんどを海外での遠洋航海と海戦に参加する軍人人生を送る。

1802年 アレクサンドル一世の命でイギリス/ポーツマスへ留学。

1806年 サンクトペテルブルグへ戻り、ディアナ号艦長(中尉、大尉)に 北太平洋海域の調査目的であったが苦難に満ちた航海であった。ヨーロッパではイギリス、フランスとの緊張関係から、バルト海から出ることもままならない中、はるか北太平洋まで出かけた。

1811年 千島列島調査中に日本で捕縛され幽閉 2年3ヶ月に及ぶ抑留生活を送る

1814年 帰国 救出に奔走した副艦長のピョートル・リコルドとともに海軍中佐に飛び級

1816年「日本幽囚記」ロシア語版刊行 英語版など各国版翻訳

1817年 カムチャッカ号での世界就航へ 最後の航海

1819年 帰国 海軍大佐に昇進 帝国科学アカデミー会員

1821年 海軍准将 海軍兵学校校長補佐

1823年 海軍主計総監

1825年 露米会社取締役

1827〜30年 艦船建造指導 初の蒸気艦建造などロシア海軍近代化に貢献

1830年 海軍中将/副提督 聖アンナ勲章一等叙勲

1831年 サンクトペテルブルグに没す コレラで


3)ゴロヴニン事件とは その背景となる日露関係

ロシア帝国は東シベリアから北米(アラスカ北米植民地化を狙う)にかけての航路開拓のため、北太平洋の探検、測量をやっていた。またアラスカへの航路途中にある日本での補給のための不凍港をもとめていた。ロシアの伝統的な領土拡大戦略、「東進政策」「南下政策」である。このため、サハリン(樺太)、クリル(千島列島)、蝦夷地(松前)周辺にロシア船が頻繁に出没していた。蝦夷地、樺太、千島の開拓を進めていた幕府はこうして動きを警戒して、松前藩や東北各藩に北辺の警備の役割を仰せつけ、幕府直轄地として箱館奉行所を設けるなど、ロシア側の動きを強く意識していた。

日露通交の経緯を簡単に振り返ると、

ラックスマンの来航

1792〜3年、エカテリーナ二世の命令で、近衛中尉アダム・ラックスマンが根室に来航。大黒屋光太夫ほかの2名の漂流民を伴い、江戸への寄港を要求した。松前藩との交渉は難航したが、幕府(老中首座松平定信)からは、交易に関する交渉は長崎でのみ行うとして長崎入港許可書(信牌)が発行された。幕府は漂流民の帰国などで感謝の意を示し、ラックスマン一行はそれなりの好遇を受けた。ラックスマンはこの時は長崎には寄港せず一旦帰国するが、日本との通交に期待感が高まった。光太夫は9年にも及ぶ在露生活の中でエカテリーナ女帝にも謁見しており、帰国後は大槻玄沢や桂川甫周等による聞き取り、家斉との謁見で、ロシア事情について詳細な報告をしてる(「北槎聞略」に詳しい)。

レザノフ来航と「文化露寇」事件

ラックスマン来航から12年後の1805年、アレクサンドル一世の命令で、露米会社の代表ニコライ・レザノフが、先にラックスマンに発行された長崎入港許可証を持参して長崎に来航。仙台漂流民4名を伴い。しかし、すぐに認められると考えていた交易交渉は半年に渡る軟禁の末に結局は拒否される。ラックスマン来航から10年以上経過して幕府の方針も大きく変化してしまった(長崎入港許可を与えた松平定信も、幕府内の権力争いで老中を退任していた)。レザノフは幕府の不誠実な態度に怒り、1806〜7年にレザノフの部下であるフヴォストフ大尉、ダヴィドフ少尉率いる部隊によって樺太・千島列島・利尻を襲撃させる。樺太、択捉における幕府番所やアイヌ居住地区における放火、略奪、暴行、住民拉致を行い、利尻沖では幕府御用船を襲撃、略奪して引き上げて行った(後述のように本書の第三巻末にこの事件の記録が掲載されている)。この事件は、幕府や日本人に大きな衝撃を与えた。この時、警備にあたっていた幕府や南部藩、弘前藩の警備部隊は旧式の火縄銃や戦国時代さながらの骨董的な大砲で応戦するも、近代兵器には敵わず大敗する。一部の部隊は戦線から逃げ出すなど無様な有様であった。この責任をとって前線で指揮をとった奉行が切腹するなど、幕府の武威・威信が大きく傷つく事件となった。いわゆる文化年間の「文化露寇」事件である。この事件が、ロシアは他国の主権を武力で侵害する野蛮な国、との印象を現代まで200年にわたって日本人に深く刻み込まれることとなった。のちにアレクサンドル一世は、この襲撃の事実を知ると激怒し、フヴォストフ始め責任者を処罰する。本国の許可なき戦争であった。ちなみにレザノフは航海途中で病没していたので処罰を逃れた。しかし、幕府は突然の外国との戦争に直面してなすすべもなく、領土を蹂躙されたわけで、にわかに海防論が高まるきっかけとなった。しかし武力に負けて開港することはできないという松平定信の意見書もあり、むしろ海防政策、外交政策よりもますます内向きの「外国船打払」や鎖国の堅持に動いていった。「鎖国論」が言葉として共通認識化し、まるで家康以来の「祖法」であるとするきっかけともなる。日本を取り巻く環境の大きな変化にもかかわらず、結局、積極的な対外政策、防衛体制の見直しに取り組まないまま、事件に蓋をしてしまった。「不都合なことはなかったことにする」典型と言えよう。こののち50年後には米国ペリー艦隊の江戸湾来航があり、あっという間に開国へと向かうことになる。その予兆ともいうべき事件であった。

ゴロヴニン事件 高田屋嘉兵衛とリコルド

こうしてロシアに対する不信感と警戒心が頂点に達し、北辺の警備が厳重に執り行われている最中、ゴロヴニン事件が起きた。1811年、千島列島の調査測量航海中のロシア艦艇ディアナ号が国後島泊港に薪水補給のために寄港し、乗員が上陸した。現地では最初は比較的穏便に取り扱われていたが、結果的には「上」に伺いを立て、ゴロヴニン艦長他が捕えられる。先般の露寇事件が「未解決」であることが理由である。ゴロヴニンは、調査船であること、薪水補給が目的で、直ちに出港する旨説明するも聞き入れられず、結局、松前、ついで箱館に2年3ヶ月に渡って幽閉される。その後、拘束を免れた副艦長のピョートル・リコルドと、彼に、ゴロヴニン解放のための人質として拿捕された日本人商人高田屋嘉兵衛の奔走、尽力により問題は解決に向かう。彼らの仲介による幕府、ロシア政府双方の公文書交換、交渉により、露寇事件はロシア皇帝の意思ではなかった事、責任者を処罰した事を幕府に知らせ、ロシア政府からの事件に関する公式謝罪文書が出されて、ようやく1813年にゴロヴニン達が解放された(第2巻のリコルドの記録に詳しい)。この事件の解決にこれほど手間取った背景には、国交がないとはいえ、幕府側の情報収集能力、外交交渉力の欠如があった。ロシア政府の真意の確認をせず、その結果としての事態の誤認、そしてなによりもこれに伴う意思決定の遅れがあった。こうした背景には、もちろん「鎖国」政策を長く続けたことによる「平和ボケ」「外交音痴」があったとも言えるが、そもそも幕府の消極的な問題解決姿勢に尽きる。リコルドはその記録の中で、そうした背景には、日本人が長年、長崎のオランダ人による偏った世界情報しか得ていなかったことが大きいとコメントしている。特にロシアに対する偏見に満ちた情報が交渉の妨げになった、と述懐している。そのことの当否はともかく、結局は「民間人」高田屋嘉兵衛とディアナ号艦長リコルドの尽力による日露両国への働きかけ:「外交交渉」がこの事件の解決につながった。幽閉されたゴロヴニン他の扱いによっては、再びロシアによる蝦夷地攻撃の可能性がある緊迫した事態であった。これを避けることができたのは嘉兵衛の尽力によるところが大きい。リコルドの記録によれば、ディアナ号がゴロヴニン他を連れて函館を出港する最後の場面で、ディアナ号からは「ウラー!大将(嘉兵衛のこと)」。嘉兵衛の乗った日本の見送り船団からは「ウラー!ディアナ」と、お互いの姿が見えなくなるまでに別れのエールを交換したとある。ゴロヴニンの手記にも同様の記述があり、「友人」である日本人との別れを描いている。感動的なシーンである。リコルドは帰国後、この問題解決への貢献が認められて、ゴロヴニンとともに皇帝から生涯年金1500ルーブルを受け取ることになった。一方の高田屋嘉兵衛は、幕府により「国禁を犯し」海外渡航した罪で投獄された。のちに「ロシアに拉致された」ということで許されて出獄し、見舞金5両を受け取っている。この違いはどうであろう。また、嘉兵衛引退後の高田屋は、ロシアとの密貿易云々を理由に取り潰し処分を受け、蝦夷地や千島列島の開拓に尽力した北前船の大船頭「高田屋」の名跡は嘉兵衛一代で終わる。高田屋嘉兵衛については司馬遼太郎の歴史長編小説「菜の花の沖」がある。

プチャーチン遣日使節と日露和親条約

その後は、ロシア帝国はクリミア半島の領土化、黒海、地中海航路の制海権をねらって、クリミア戦争(1853〜56年)を起こす。このため兵力をヨーロッパ側に割かれ、挙げ句にオスマントルコ帝国とそれを支援する英仏連合に敗れる。この間、日露が接触する機会は少なく、極東北辺の海におけるロシアの動きは比較的静かであったが、むしろ日本近海にはイギリス船やアメリカ船が頻繁に出没するようになる。ついには1853年のアメリカ・ペリー艦隊江戸湾浦賀への来航、1854年の日米和親条約締結、「開国」へと歩むことになる。その翌年、1855年、アメリカに遅れじとニコライ一世の遣日使節プチャーチン中将艦隊が長崎へ入港。日露和親条約締結へと繋がってゆく。この間の事情は、ゴンチャロフ「日本渡航記」岩波文庫に詳しい。ロシアのあくなき領土拡張主義と、日本の一切の外交接触を回避しようとする消極的鎖国主義との長きにわたる確執が続いた末の日露外交交渉であった。アメリカの場合と異なり、日露両国間には単に開港するというでけではなく、歴史的な経緯を有する国境線の確定という重要課題があった。


高田屋嘉兵衛
(淡路島出身の豪商 
北前船で活躍し、兵庫、箱館を拠点に国後、択捉航路を開いた)


4)日本観察記 ゴロヴニンの視点「公平な観察者の目」

読後の第一印象は、ゴロヴニンという人物は、グローバルな視野、啓蒙主義的な知性を感じるインテリジェンスあふれる海軍士官であり、本書は彼の啓蒙主義的な「公平な観察者の目」による日本観察の記録であるということである。こんな人物が帝政時代のロシアにいたのか、という驚きである。それと彼が描いた当時の日本人の姿にも驚いた。鎖国下の日本に高田屋嘉兵衛のようなグローバル思考を持ち、それに基づいて行動を取ることができる人物がいたことへの憧憬である。そして辺境の現場の役人や通訳の意外なほどの見識と判断能力の高さを知った。幕府上層部と現場とのギャップというか「リーダーは凡庸でも、現場は凄い」をここでも感じた。そして最初の不幸な出会いによる憎悪と侮蔑の感情は、時間を経てコミュニケーションを重ねるに従って、相互の共感とレスペクトの感情に変わってゆく。その様な感情の変化は、のちのタウンゼント・ハリスやアーネスト・サトウの記録にも現れる。それなのになぜ日本とロシアはすれ違ったままなのか。色々考えさせられるきっかけとなる本書である。

ゴロヴニンの観察は、乏しい語学力と限られた人脈(通訳、牢番、箱館奉行所や松前藩役人)の中での、彼の高い情報収集能力、鋭い観察眼、公平な評価 レスペクトを持った対人関係に基づくものである。彼が若い頃から研鑽を積み、長い航海の中で磨き上げてきた素養がこういう場面で能力を開花させるのだろう。また間宮林蔵とも面会している。ロシア語を教える一方、測量技術や世界情勢についての意見交換を行った。しかし間宮は幕府のスパイであり、また測量技術習得が目的で近寄ってきた人物だ、と鋭く指摘している。また日本政府(江戸幕府)の海外情報はオランダ人の偏見に満ちた情報源に依拠しており、貿易でも粗悪品を高く買わされている。オランダ商館に完全に牛耳られた貿易(幕府自身は幕府主導の管理貿易体制とみなしていたが)と、外交意思決定プロセスを決定づける情報の質を痛烈に批判している(先述のリコルドも同様のコメントを記述している)。

一方で、彼の回想録からは当時の日本人の教育レベルの高さ、識字率の高さはもちろん知識の豊かさが感じられる。先述のように、通詞はもちろん、牢番にも高い教育があったし、彼らは単なる下僕ではなく、サムライであると認識している。庶民階層も日本の法律や政治情勢、また海外の動向にも一定の知識を持ち、少なくとも大いなる関心を示すだけの好奇心があること。またロシア語を学ぶ若者達の熱意と吸収力にも驚嘆している。先述の本書の日本語訳を手がけた蘭学者馬場佐十郎も彼にロシア語を学んでいる。そうした日本人の知的好奇心の旺盛さに驚嘆した様子が読み手にも伝わってくる。

ゴロヴニンは彼自身がかつて感じた、西欧人が持つ日本に関する偏見に満ちた知識や、いびつな理解はどこから来るのか?と考えた(本書の序文に、この疑問が執筆するきっかけの一つであったと記述している)。そしてそれは、17世紀に日本から追い出されたカトリック宣教師達の反日プロパガンダや。出島に幽閉されて「貿易」に携わっているとするオランダ人による偏った日本観が基になっていると断じている。彼の2年半の滞在、しかも囚人として理不尽な扱いを受ける幽閉された時間においてすら、そうした西欧におけるステロタイプな概念とは異なる日本人像を得ている。先述のように、彼がコミュニケーションした人物は、インタビューに来た蘭学者やインテリジェンスある若者もいたが、おもに牢番や通訳、箱館奉行所や松前藩の役人であったが、こうした限られた日本人から得られた「日本人像」が、すでに既成概念から遥かに離れたものであった。囚われ人として受けた理不尽で耐え難い扱いにもかかわらず、憎悪と敵愾心ではなく、冷静な観察と相手へのレスペクトがあった。日本人の高い教育と礼儀正しさは、母国の庶民階層のそれとは異なると理解した。庶民にまで教育が行き届いていることへの驚き。文化的には、上流階級の知識/教養/道徳観、さらには詩歌や芸術はロシアの方が上だが、庶民のそれははるかに日本の方が上だとも書いている。

日本人の通訳と、こんな会話をした時のエピソードが記されている。豊かな国がいくつにも別れていて互いに戦争しているヨーロッパの状況を聞いた通訳が、そのヨーロッパと日本の比較して、「豊かだが争いの多い大きな町」と「貧しいが人々が助け合って暮らす田舎」と、どっちが良いと思うか?という問いを投げかけてきたという。これにゴロヴニンは、ヨーロッパでは戦争もするが、お互いに門戸を開いて情報を交換し、人が交流し、交易し、技術を競争しあって発展している、と答えたが、それ以上の説得力ある答えを彼に示すことは出来なかった、と。人の話や情報を鵜呑みにせず、自分なりの批判的な理解と解釈を持ち、それを相手にぶつけて議論を試みる。これがデモクラシーを知らない封建的身分制のもとで育った人々なのであろうか。ゴロヴニンでなくとも、現代の日本人にとっても、この「江戸時代人」の意外な姿に驚きを禁じ得ない。

一方で、ゴロヴニンは日本人には、勇気、勇敢、度胸、不屈の精神といった資質が欠けているのではないか、と書いている。これは露寇事件のときの日本側の無様な敗北から得られた印象であったのであろう。しかし、それは根本的な潜在能力の欠如ではなく、また日本人が生来臆病であるとは言えないとも書いている。なぜならば、それは単に長く戦争がなく平和で安息を得られる生活に身を委ねてきたからである。有事の準備ができていないからだと。いざとなればたちまちその潜在能力を発揮するだろうと。その惨めな文化露寇事件から90年後には、かのロシア帝国が誇るバルチック艦隊を対馬海峡に沈め、爾霊山(203高地)を奪取し、旅順港、奉天を陥落せしめた日本の姿があった。彼の観察の正しさを見事に証明することとなったわけだ。ただ、対露戦勝利をきっかけに日本帝国が戦争への道を突き進み、最後は無惨な敗北を喫することになることまでは予見する術もなかった。日本の外交戦略に枢要な目線と世界観の涵養は今なお課題である。

日本が西欧流の知見と技術や制度を取り入れたら、数年の後には東洋の王者となり、後には西欧諸国を脅かす存在になるだろう。そうなれば清国も同じ方針を取らざるを得なくなり、この2つの東洋の帝国はすぐにでもヨーロッパ情勢を別に局面に塗り替えてしまうだろう、と予見している。このゴロヴニンの洞察の意味は、残念ながら今は様々な理由からその真価が見失われている。ロシア人は1904年の日露戦争敗北を目の当たりにして、あの時のゴロヴニンの指摘をなぜもう少し真摯に受け止めなかったのかと後悔したのかもしれないが、その後の対日観にも、このゴロヴニンの視点と理解が生きているようには思えない。一方、日本でも、ロシアに対する拭えぬ不信感がこの200年の間に植え付けられてしまった。かつ領土的野心を露わにする「仮想敵国」への不信感はいまだに払拭されていない。ゴロヴニンの、理不尽な逆境にあってもなお日本人への人としてのレスペクトと鋭い洞察と公平な評価を思い出し、そのようなロシア人の存在を思い起こすべきであろう。また彼は、手記の中で、日本の役人がロシア皇帝からの謝罪文に皇帝のサインがあることを確認すると、全員が皇帝のサインにむかって最敬礼をした、と書いている。お互いが信頼し合ったときに、相手へのレスペクトが生まれ、最後は「友人」として別れることができた。彼が偉大な英雄として後世に名声を得たのは、理不尽な幽囚からの解放を勝ち取った冒険者だからではなく、幽閉中に示された日本人の露骨な憎悪の中においても、その行動を理解し、それを許すという理性的な公平さを示したからであろう。そして彼の観察と予見が、その後の歴史をみれば的確であったことが証明されたからでもある。また高田屋嘉兵衛とリコルドの人間としての相互のレスペクトと信頼関係が問題の解決に繋がったという、彼らが我々に残した教訓にも学ばねばならないだろう。国と国の関係は人と人との関係によって規定される。


5)ロシアというパラドックス

それにしても、こうしたゴロヴニンやリコルドのような、啓蒙主義的知性を備え、「公平な観察者の目」を持ったロシア人のイメージが、この200年でなぜ消え去ってしまったのか。いや、日本人にとってレザノフの部下による理不尽で残虐な事件による負のイメージが200年も歴史観の基層に巣食い、このゴロヴニンにような「目」を日露両国の人々が共有することなく、不信感と憎悪を修正できなかったのは何故なのか。歴史的には、明治維新の後に、いみじくもゴロヴニンが予見したとおり、いやそれ以上に日本が軍事的大国として成長し、ついには暴発して世界平和の脅威になったことにも原因があるだろう。また、ロシアの伝統的な南下政策という領土的な野心に加えて、ロシア革命による共産主義国家ソビエトの登場が世界平和の脅威となったことも原因であろう。また、日本人がかつて経験した「受け入れ難い体験」を忘れることができないからかもしれない。今でもソ連に不法占拠された北方領土問題(まさにゴロヴニンもリコルドも日本の領土だと認識していた島々)が解決していないことにも原因がある。日露両国は隣人ではあるが、残念ながら真の友好国になったことはない。しかし、そんな政治的緊張関係や歴史の記憶もさることながら、ロシアにおいては帝政ロシア時代に花開きつつあった西ヨーロッパ的な啓蒙主義の思想や文化や、デモクラシーの萌芽、そうした教養を備えた人物が十分に育たず、あのロシア革命で抹殺されてしまったのではないだろうかと、最近考えるようになった。ゴロヴニンやリコルドのような人間はどこへ行ってしまったのか。あの頃は軍人の中にもこういう人物がいたではないか。トルストイやドストエフスキー、チャイコフスキーのようなヒューマンでおおらかなロシア人はどこへ行ってしまったのか。国家としての過ちを認め、皇帝が謝罪するロシア。そういう観点で振り返ると、ロシア革命は何をなしたのか?何を失ったのか?スターリンのような独裁者と恐怖政治を生み出しただけか?その結果、近代民主主義国家が共有する「共通の価値観」を共有できない国家になってしまったのではないか。さらにその「共産主義革命」という歴史的な実験の破綻が、近代民主主義国家に転換する事に繋がらず、歪(いびつ)な社会と価値観を生み出し、再びプーチンのような怪物が登場することになってしまった。嗚呼!大ロシア主義。時代錯誤と笑い飛ばすにはあまりにも悲劇的であろう。ロシアにとっても世界にとっても。ロシア帝国海軍士官ゴロヴニンは今のロシアと日本と世界を見てなんと言うだろう。


参考ブログ:

日露戦争奉天会戦のクロパトキン将軍による「敗軍の将、兵を語る」書。この敗戦を記録し、後世のために残したロシア軍人の矜持。そして、当時のロシアはこのような出版ができた国だった。ロシア革命の8年前のことであった。

2022年3月21日 戦争の只中に「敗軍の将兵を語る」書と遭遇する





第一巻 表紙
英訳第二版 1824年


第三巻 日本観察記

第三巻 「フヴォストフ&ダビドフ航海記」
文化露寇事件の当事者による記録


参考図書:

「日本幽囚記」ゴロヴニーン 井上満訳 岩波文庫 (絶版)

「日本幽囚記」ゴロヴニン 斉藤智之訳 私家本

「菜の花の沖」司馬遼太郎 文藝春秋