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2018年12月13日木曜日

北野天満宮 御土居の散りもみじ そして上七軒花街












 師走の10日にもなるとさすがの京都も紅葉狂騒曲は終焉を迎え、紅葉見物の観光客でごった返した名所旧跡は静けさを取り戻す。先週に引き続き、年末恒例の大阪での仕事の帰りに冬枯れの京都を訪ねてみた。先週は12月にしては暖かく紅葉も真っ盛りであったが、今週は急激に寒くなり落葉。一週間でこうも違うものか。北野天満宮の御土居「モミジ苑」も、シーズン中は入場に列をなす状況であったそうだが、今は散策路は閉鎖され、全く人気がない。ほとんどのモミジ樹木が逆さ箒のような有様だ。時々、老年のカップルが「ついこの間まで見事だったんだろうね」などと語り合いながら迷い込むように入ってくる。「来たぞ」という証拠写真を一枚撮ってそそくさと引き返してゆく。すれ違い様に私の顔を見て「こんな時期に来て残念でしたなあ〜」という顔をしている。しかし、この人気のいなくなった時期の紅葉残照、というか散りモミジというか、この静寂の時間がまたなんとも美しい。色を失った逆さ箒の合間に密やかに輝く紅葉、黄葉。敷き詰められた落ち葉の錦。そこに美を見つけ出すのが「時空トラベラー」だ。かなり偏屈な人間だし、人気の少ない閑散としたところが好きなのだから仕方がない。敷紅葉あり、残色あり。黄紅葉あり。結構楽しめる。

 北野天満宮は言わずと知れた菅原道眞公を祀るお社。筑紫の太宰府天満宮と並ぶ天満社だ。どちらが天満宮の本宮なのか意見が分かれるが、わたしにとってはどちらでも良い。境内は太宰府天満宮の方が広いようだ。本殿は両社とも桧皮葺の荘厳なものである。奉納されている牛は太宰府の方が多いかな?飛梅が北野天満宮にないのはいた仕方ないだろう。北野天満宮の方は元は筑紫野太宰府に左遷され無念の死を遂げた菅原道眞の怨霊封じの社であったが、後世には、文章博士菅原家の知性にあやかろうと学問の神様として崇敬を集め、今では勉学受験の神様として受験生の絶大な人気を集めている。その人気は太宰府天満宮と双璧をなす。12月だというのにこの日も修学旅行の中高生が全国から集まってきていた、ひと組は埼玉から、もうひと組は神奈川からと言っていた。そしてもう一組は明らかに九州から。九州男児クン達の傍若無人で声高なバカ話につい耳を傾ける。「ふるさとの訛なつかし天満宮」。御土居は(つい間違えて『御居処』といってしまうが)豊臣秀吉が京都の市街地を守る為に築いた高さ5メートルほどの土塁の跡。洛中洛外をわけることが目的であったとか、防衛上の目的があったとかいわれているが判然としない。ここ北野天満宮の西側にもわずかに残っている。京都という街は中国の紫禁城や西安城などの羅城と異なり、城壁のないみやこであったとおもっていたが、秀吉さんが、こんな土塁を市中にめぐらしていたんだ。しかし、後世には破壊がすすみ、市中に何箇所か史跡指定され残っている。ここ北野天満宮境内の御土居もその史跡の一つ。そこが今や秋は紅葉の名所となり大層賑わう。先週までは入場チケットを買わないと入れなかったそうだが、今日は人っ子一人いない。







 上七軒は天満宮の東側に展開している花街だ。歴史は古く、室町時代に再建された天満宮社殿の残材を用いて東門前に七軒の茶屋を設け参詣者の接待を行なったことに始まるという。また太閤の北野の大茶会が催された際にはこれらの茶屋が茶菓を提供し、太閤のたいそうなお気に入りとなった。その後花街として発展していった。神仏参詣の後のお楽しみはお茶屋で。八坂神社界隈には祇園の花街が、北野天満宮界隈には上七軒の花街が成立したというわけだ。寺社仏閣と花街、茶屋町というのは昔から共存共栄のエコシステムを形成してきた。さらにここ上七軒は西陣が近いこともあって、かつては羽振りのいいダンさん達でたいそうな賑わいであったそうだが、西陣の織物産業の不況とともに上七軒も徐々に賑わいを失い芸妓、舞妓の数も減少してしまったという。それでもちゃんと上七軒歌舞練場もあるし、毎年春には「北野をどり」が催される。ちょうど、芸妓さんが三人、綺麗に着飾って、賑やかにタクシーに乗ってお出かけであった。昼間からお座敷なのだろうか。あたりが華やいだのも一瞬、タクシーが行ってしまうとまた、静かな石畳の小路の町並みに戻り、自転車のおばちゃんが通り過ぎてゆく。内外の観光客が押しかける祇園花見小路と比べ、この静寂と落ち着いた佇まいがなんともいい。

 散りモミジの余韻の美、残照に見る有終の美。静かな花街に芸妓三人。自転車。冬の京都は奥深い。










(撮影機材:Leica CL + Vario Elmar 18-55 ASPH, Apo-Vario Elmar 55-135 ASPH)