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2019年9月18日水曜日

天王洲アイルというパラダイムシフト 〜第四台場/御殿山台場の今〜



 1853年のペリー来航に慌てた鎖国日本。急遽、徳川幕府が江戸防衛に備えて品川沖に砲台/台場を築いた話は有名だ。当初は11箇所設置する計画であったが、予算の都合がつかなかったのか実際には7箇所となった。そのうち現在でも残っているのは、お台場の海岸線とつながっている第三台場と、レインボーブリッジの下の第六台場の2箇所だ。しかし、もう一つの人気のウォーターフロント地区、天王洲アイルが第四台場跡であることを知る人は意外に少ない。こちらは完成しないうちに不要となり、現在では天王洲アイルのシーフォート地区(第一ホテル辺り)に当時の石垣がわずかに残されているのみである。さらには御殿山の海岸べりに陸続きの「御殿山下台場」設置された。こちらは現在周辺が埋め立てられて、かつての敷地の半分は小学校となっている(品川区立台場小学校)。その小学校を取り巻く周辺道路に五角形の台場の痕跡を残している(当時台場に設置されていたという洋式灯台のレプリカが小学校前に置かれている)。ここは江戸時代には品川宿の漁師町、須崎であったところで、目黒川河口の半島状の洲になったところの沖を埋め立てて造成された(下記の地図を参照。広重の浮世絵にはまだ表されていない)。このさらに沖に第四台場(現在の天王洲アイル地区)が完成するはずであった。しかし、ペリーが1854年、開国の返事をもらうために再び江戸湾に来航した時には、すでに幕府は開国の方針を決めていて神奈川条約(日米和親条約)を結んだ。結局、第四台場を完成させる必要もなくなり、かつ砲台が火を吹き、「異国船打払」により首都防衛機能を果たすことはなかった。

 第四台場跡は、明治に入ると民間に払い下げられ、徐々に周囲や沖合いが埋め立てられていった。戦後は東京湾の重要な港湾倉庫街として戦後復興と経済成長を支え発展してきた(現在の京浜運河、天王洲運河に囲まれたエリア)。ここが「天王洲アイル」として再開発され、東京モノレールの駅が出来、やがてりんかい線の駅も出来た。殺風景な倉庫街が、新たなオフィス街や、さらにはオシャレなアートディストリクトに変身して行くことになる。こうした動きは、世界の大都市の例から見ても不思議ではない。かつて住んだことのあるロンドンや、ニューヨークのウォータフロント地区の再開発のケースが、天王洲アイル再開発のストーリーとオーバーラップした。


 (ケース1)ロンドン バトラーズ・ワーフの場合

 ロンドンのテムズ川南岸のタワーブリッジ麓にあるバトラーズ・ワーフ(Butler's Wharf)も、かつては殺風景でちょっと危険な波止場地区、廃墟となった巨大な倉庫であった。それが今やロンドンでもオシャレな地区になっている。日本でもコンランショップで有名なテレンス・コンラン卿(Sir Terence Conran)のレストラン、La Pont de la TourやChop Houseがある。またデザインミュージアムも彼の手になる。私がロンドン勤務していた90年代には、観光の定番のロンドン塔、タワーブリッジに加えて、橋を渡ってテムズ南岸にちょっと足をのばせばたどり着く新しい観光名所として脚光を浴び始めた時期だった。コンラン卿プロデュースのこうしたモダン.ブリティッシュのレストランがオープンしたばかりであった。日本からの来客をもてなすには話題性もあって最高であった。今では巨大な赤煉瓦の倉庫の廃墟がショッピングモールになっている(横浜の赤レンガ倉庫のような開放感はない)。古いドックがあったセント・キャサリンズドック(St. Kathryn's Dock)趾も新しいビジネス&エンタメ地区に変身し、我が英国法人オフィスもシティーからここへ移った。かつてテムズ南岸のサザーク(Southwark)やランベス(Lambeth)、キルバーン(Kirburn)地区は北岸のシティー(City)やウェストエンド(West End)のような華やかなロンドン中心街とは異なり、ディケンズやマルクス、オーウェン、ウエッブ夫妻が描く世界、すなわち階級闘争に喘ぐ労働者が集まる地区であった。しかし、これをさらに南へ下ると、夏目漱石が下宿していた閑静な住宅街や、ガーデンオブイングランドと呼ばれるケントの高級住宅街が広がる。川と道路隔てて天国と地獄が共存する町ロンドン。これはニューヨークも同じだが。産業革命以後の急速な経済発展と人口の都市への集中、植民地からの移民の急増、大英帝国の光と陰をまざまざと見せつけられるこの貧富の差である。これは現代にも通じる課題で解決されているようで何も変わっていない。最近は再開発と都市化の波で町の様相が大きく変わったものの、新たな移民流入で再び格差が広がっている。バトラーズ・ワーフはその境目に咲いた華なのかもしれない。


Butler's Wharf

Butler's Wharf

コンラン卿プロデュースのレストラン「Chop House」
テムズ川に臨むテラス席が人気だ

Design Museum



 (ケース2)ニューヨーク ハドソンエリアの場合

 ニューヨークのハドソン河畔のチェルシー(Chelsea)、ミートパッキング・ディストリクト(Meat Packing District:その名の通り食肉加工場や倉庫があった)や旧高架貨物線跡ハイライン(High Line)は、かつての工場や倉庫が連なる汗臭い町から、今や、アートギャラリーやスタジオ、しゃれたレストランやショッピングモールが次々オープンするトレンディーな地区に変身している。もちろん観光客が大勢訪れる人気エリアである。ホイットニー・ミュージアムの新館もオープンした。つい最近ミッドタウン寄りのハイライン終点(ペンステーションの西側)には巨大なショッピングコンプレックス、ハドソン・ヤーズ (Hudson Yard's)がオープンした。あのランドマークとなる巨大なオブジェ、ベッセル(Vessel)が辺りを睥睨している。こうしてハドソン河畔はミッドタウンからダウンタウンにかけて、今やニューヨーカーだけでなく観光客にとっても憧れのおしゃれエリアとなっている。ハドソン河畔のマンハッタン側はかつては大西洋航路の大型客船や貨物船が頻繁に出入りする港湾地区であった。外航船が何隻も接岸できるピアー(波止場)が河畔に沿って並び、欧州からの移民が自由の新天地アメリカへの一歩を印した玄関口であった。船が自由の女神を見ながらニューヨーク港に入り、やがて大桟橋に着岸する。新しい人生の始まりを祝福する舞台装置が用意された場所であった。そして沖合のエリス島に移民局があった(現在は記念館になっている)。川沿いに大型の倉庫群が軒を連ね、大型船の煙突からは黒煙がいく筋も上がる。貨物線は南北に走り物資を運ぶ。アメリカの歴史と繁栄を支えてきた地区である。しかし、戦後は、航空機の発達とともに港は寂れ、この地域は衰退しスラム化していく。私が最初にニューヨークにいた80年代後半から90年代はじめは、犯罪が多発する危険な場所として、立ち入りが憚られる地域であった。もちろん行く用事もないところであったが。今や再び時代は巡り、新しい価値を創造する地区として再開発され、新しいニューヨークのアートやポップカルチャーの発信地となっている。ちなみに2004年にはミートパッキングディストリクトのレンガ作りの市場の建物の二階には野球のメジャーリーグのスタジオ(MLB Studio)があり、何度か訪ねたことがある。一見、古色蒼然たる古建築だが、一歩中へ入ると最新設備が配置されたオシャレなオフィスとスタジオが広がっていてびっくりしたものだ。こうした地域の再開発のキッカケはロンドンのバトラーズ・ウォーフとは少し異なる。市当局は再開発に当たって、古い建物を取り壊して、高層のコンドミニアムやオフィスビルを誘致しようと考えていた様だが、その前に古い倉庫や、工場跡に若いアーティストやミュージシャン達、さらにはベンチャー創業家たちが住み着き、ロフトとして使い始めた。ブルックリンのBUMBOも同じ様な経緯をたどっているところがニューヨークだ。特に、ハイラインはその高架鉄道橋全体の撤去が決まっていたが、地元の住民の地道な保存運動が、当時のブルンバーグニューヨーク市長を動かし、この廃線の保存と再開発を促した。2013年に一般公開されて、ダウンタウンからハドソン川を展望しながらチェルシー、ミッドタウンのハドソンヤーズを結ぶ回遊性ある新しいニューヨークの名所として生まれ変わった。もちろん地域一帯の治安も著しく改善された。


Chelsea Market

内部


1950年代の港湾風景

High Line
旧高架鉄道跡の緑化も大きな景観変化を生み出した


High Lineの夜景

High Lineから見るMeat Packing District
やや古い写真なので廃墟感も漂う


Hudson YardsのVessel

内部は階段を歩いて登る展望台になっている



 (ケース3)東京 天王洲アイルの場合

 ロンドンやニューヨークから遅れて経済成長し、繁栄を経験し、やがては産業構造の急速な変容で寂れゆく道を歩む東京ウォーターフロント。まだまだ港湾機能の重要性は失われていないとはいえ、先達の経験と軌跡に学ぶことは大きい。スラム化や治安の悪化に伴って放棄され、廃墟化する道を歩まずにうまく転換を進めることは後発の都市として望ましいことだ。

 外国人観光客にも人気のお台場地区は戦後高度経済成長期の埋立地であるが、先述の通り天王洲アイルは幕末の第四台場跡。その後大正時代には造船所が設けられたり、さらには倉庫街に変身した街である。沖合はさらに大規模に埋め立てられて、重要な港湾施設、物流センターである品川埠頭地区になっている。1985年に地域事業者、地権者22社が集まり「天王洲マスタープラン」を作り、モノレールの天王洲アイル駅開設など町の再開発が進められた。今や運河沿いにはオフィスビルや商業ビル、マンションが林立する新都心的な景観を生み出している。現在でも倉庫やセメント工場があるが、うまくアーティスティックな街づくりに参加している。というより、この地元の企業でマスタープランメンバーの一社であるある寺田倉庫は率先して、自社倉庫をミュージアムやギャラリー、スタジオ、ブルワリーやレストラン、さらにはデータセンターに転換して、新しい街作りをリードしている。この様に地元企業が地域再開発に取り組んでいる点がロンドンやニューヨークの再開発ストーリーと異なる点だと感じる。特に、寺田倉庫:TERRADAは会社の理念として「モノを預かる」から「価値を預かる」へ。「文化創造企業」へ。地場の既存企業が自ら事業モデルのパラダイムシフトを主導して街を変えていく。そのため多様な企業、団体、個人とパートナリングを進めてゆくとしている。これからは「共創」の時代であり、これは一つのオープンイノベーションだ。廃墟になった巨大倉庫が、デザインプロデューサー、コンラン卿によって、全く違う性格のコンプレックスにコンバートさせられた歴史を持つバトラーズ・ワーフのケースと異なる点かもしれない。また地元住民が主体となって廃線となったハイラインを保存再生させ、若い起業家やアーティスト達がロフトかしたりしたニューヨーク・ハドソン地区のケースとも異なる。。日本の企業は、衰退、廃業する前に事業モデル転換ができる力と知恵を備えている様に見える。

 (寺田倉庫:TERRADAのHPからメッセージを引用)

 社会はいまだ、ダイバーシティ実現の手前で足踏みしている。私たちは文化創造企業として、この刻を進めたい。文化を豊かに花開かせること。それは、他の価値観を認めること。異なる考えに排他されることなく、それぞれの道を自由に歩んでいけること。これまでTERRADAが歩んできた道。保管する「モノの価値」の創造から、モノが生みだす「余白の価値」の創造へ。次の行き先は、人とつながり「共有知の価値」を創ること。築き上げてきたストレージ、IT、天王洲という場。これを意志あるパートナーと共有して未来をつくりたい。ともに学び、創り、成長する。文創を加速していく。
さあ、常識に縛られずに進もう。自分が自分でありつづけられる世の中を創ろう。


 素晴らしいメッセージだ。まさに今、企業のビジネスモデルイノベーション、持続可能な成長がどの企業にとっても重要な経営課題になっているのだが、「物」の流通である港湾倉庫業から、「情報」と「価値」の流通事業へと転換する。キーワードは多様性と共創。こうした事業パラダイムシフトを経営理念とし、それをその企業が持っている既存のリソースと融合させて次の成長戦略とする。見事だ。そこへ若い感性が共鳴して新しいカルチャーを共に創造する。それが今の天王洲アイルの魅力と活気を生んでいる。「鎖国/攘夷の砲台」、「貿易立国を支える港湾倉庫」、「新しい付加価値共創の拠点」。こういった天王洲という土地(いや海か)の変遷の歴史に学び、持続的に成長してゆく。これぞ賢者の道だ。天王洲は面白い!


レストランシップの波止場


オフィスビルや商業ビルが立ち並ぶ

クラシック専門チャネル「Ottava」のスタジオはここ

ボードウォーク



セメント工場の壁面

京浜運河

ライカ使い









東京都の「運河ルネッサンス構想」に基づき寺田倉庫が展開する「水上ラウンジ」Waterline



倉庫門扉を利用したファサード



人気のレストラン

倉庫壁面もおしゃれ

ふれあい橋
対岸は東京海洋大学



場所柄かランチタイムのカフェはビジネスパーソンが多い




首都高速とモノレール


広重「品川州崎」
まだ「御殿山下台場/も第四台場も描かれていない

幕末の品川宿地図
御殿山下台場が設けられている
この沖に第四台場が造営される


明治の品川町地図

現在の品川区北品川の地図
御殿山下台場は周りを埋め立てられてしまっている

(撮影機材:Leica Q2 Summilux 28/1.7。ロンドン、ニューヨークは一部ウェッブサイトから、また私個人の古写真アーカイブから引用)



2019年9月9日月曜日

三国志の時代 〜その時倭国は?〜

 昨今、ちょっとした三国志ブームである。東京国立博物館で「三国志」展が開催されている。10月からは九州国立博物館でも開催される。中国で見つかった西高穴2号墓が古代の有力者の墓らしいことは以前から言われていたが、その後の発掘調査で魏の曹操の墓(曹操高陵)であることが判明。それを証明する遺物や曹操の遺骨が見つかった。今回は新発見の副葬品の一部が初めて中国以外で出品されることで話題を呼んでいる。「リアル三国志」として当時の英雄たちの活躍と、史実としての三國の攻防を展示する企画となっている。三国志は、時代を超えて、国を超えて中国の英雄伝としてその物語が読み継がれ、語り継がれてきた。偉大なる漢帝国の滅亡、その後の中国中原における王朝の覇権をめぐる、魏の曹操、蜀の劉備、呉の孫権、この三人のリーダーの戦いと、諸葛亮孔明、張飛、関羽、周瑜など乱世を生きた英雄たちの物語である。日本でも吉川英治などの小説として愛読されてきた。あるいは漫画や、NHKの連載人形劇、最近のアニメ、ゲームなどで広く人気を集めている。こうしたことから「三国志」展は人気を呼び連日大盛況である。日本人の心にも深く刻まれた英雄物語の一つである。


 「三国志」と「三国志演義」

 しかし、こうした英雄伝はずっと後世の明代になってからまとめられた「三国志演義」に描かれたものである。これは歴史書「三国志」をもとに脚色し、創作された歴史小説で、漢王朝の血統を引く蜀の劉備を善玉にし、漢王朝で専横を極めた魏の曹操を悪玉として戦う物語。しかし歴史書「三国志」自体は3世紀末晋の時代に陳寿によって編纂された中国の正史、二十四史の一つである。後漢の滅亡以降の魏、蜀、呉三國の攻防と、晋の成立までを記述している。後世においても、虚飾を排し、史実に基づき簡潔にして要を得た史書として評価されており、古代中国を知る上で貴重な文献史料として扱われている。すなわち、魏蜀呉の争いののち後漢の献帝が魏の曹操の子の曹丕に帝位を禅譲し(文帝)、魏が正統な後継王朝となる。その後、魏は蜀を滅ぼす。やがてその孫の曹叡(明帝)になると、魏の有力な武将である司馬懿の一族が力を伸ばし、やがて司馬懿の息子である司馬炎に帝位を禅譲して魏王朝は終りを告げ晋(西晋)となる。その晋は呉を滅ぼし三国時代が終わる。と。要約すればこれが陳寿の三国志の中身である。そこには特段、曹操が悪者で劉備が正義の味方という設定などはない。むしろ曹操とその子孫こそ漢王朝の後継者であるという歴史認識が描かれている。

 もっとも陳寿は魏の有力官僚であり、のちには晋に仕えている。三国志の編纂に当たっては魏を正当な後漢の後継王朝として位置付けているため、魏書からは多くの事績が撰録されたが、蜀書、呉書は必ずしも全てが撰録されていなかったり、原文が散逸したりしていて、当時の三國の様子が正確に記されているとは言えないとの批判がある。のちの時代に朱子学の立場から、蜀こそが正統な後継王朝だとする「蜀漢」の考えや(先述の「三国志演義」もこの考えに立って物語が展開している)、呉の位置付け、特に海洋交易国家としての対外交流の記録がをないがしろにされているとか批判されていることも知っておく必要がある。やはり正史は勝者の歴史なのかとここでも思い当たる。

 「赤壁の戦い」を題材にした映画「Red Cliff」でも描かれているように、3世紀の中国には、にすでに高度な官僚制度と強大な軍事力と、豊かな文化を誇る中華王朝があり、その滅亡と後継争い物語が史書として仔細に記録されていることに今更ながら驚かされる。漢字を有し、年号を有し、記録を取る官僚がいてこのような史書を後世に残すことができる、そんな大帝国であった。その皇帝の権威と威光は、中華世界はおろか、辺境域の隅々にまで行き渡っており、蛮夷の民が、その皇帝の徳を慕って、はるばる陸を辿り、海を渡って朝貢し、皇帝からの冊封、威信材の下賜を請い願う。すなわちこうした「華夷思想」「徳治思想」が広く行き渡り、東アジア世界秩序を形成していた。


 「倭国」「邪馬台国」「卑弥呼」と三国志

一方で、この頃(3世紀)の日本列島はどのような状況であったろう。その様子を知るすべはあまり多くはない。「倭国」には文字も無く、従って史書のような記録もなく、未だ「歴史時代」ではなかった。考古学的には弥生時代の最晩期で、稲作農耕を主とする農耕集落、ムラ、クニ、国が形成されていたことがわかっている。北部九州には吉野ヶ里のような大規模な環濠集落遺跡がいくつもあり、多彩な弥生式土器が見つかっていて往時の姿を偲ぶことができる。すなわち「倭人」の「邪馬台国」その女王「卑弥呼」の時代である。しかし、その「倭人」「邪馬台国」「卑弥呼」が文献史料に登場したのは、まさにこの中国の史書「三国志」においてである。日本では「魏志倭人伝」と通称されているものだ。正式には、三国志、魏書巻三十、「烏丸鮮卑東夷伝」のなかの東夷(扶餘、高句麗、東沃沮、手偏に巴婁、濊、韓、倭)の最後に登場する倭人条に倭人の様子が記述されている。したがって、当時の列島住人が、自分たちを「倭人」と呼んだり、「邪馬台国」と称したり、その首長を「卑弥呼」と呼んだりしたわけではない。全て中華王朝側の人間が、列島住人の音声を聞き取り名付けた呼称である。ちなみに三国志は魏書、蜀書、呉書からなっており、魏書は4つの本紀(皇帝の事績を期した本文、曹操の武帝、曹丕の文帝、曹叡の明帝、その後に続く、曹芳、曹髮、曹奐の三少帝)と26の列伝からなっており、倭に関する記述は列伝の最後になる。ちなみに蜀書、呉書には皇帝に関する記述である本紀はなく列伝のみである

 この「魏志倭人伝」によると、西暦238年(魏歴の景初三年)に邪馬台国の女王卑弥呼が、魏の明帝に朝貢してきた。曹操の子である曹丕が後漢の最後の献帝から禅譲されて帝位(文帝)につき、さらに曹操の孫である曹叡が皇帝(明帝)となった時である。まさに三国が合い戦っている最中であった。またこの年には帯方郡、楽浪郡が公孫氏の支配から魏の将軍司馬懿によって奪い返された年である。倭国の使節は帯方郡を通じて魏の都洛陽に至ったようだ。翌年に明帝が崩御。幼帝を司馬懿が補佐。こののち263年に魏は蜀を滅ぼす。264年には司馬昭が晋王に、その子、司馬炎が晋王を継ぎ、さらに同年、司馬炎は魏の曹奐に帝位を禅譲されて魏王朝が滅びる(西晋の成立)。そしてついに司馬炎は呉を滅ぼして晋王朝が成立する。久しぶりの統一王朝である。何と三国時代を終わらせたのは魏でも、蜀でも、呉でもなく、魏の将軍司馬一族であった。この間、倭国では邪馬台国が狗奴国との戦いの中、卑弥呼が死す。再び騒乱となり、若い女王壱与が擁立されて収まる。この壱与は再び大陸に遣使する。司馬炎が帝位を禅譲されて晋王朝を打ち立てた時である。おそらく新王朝の成立と皇帝即位に慶賀の伺候したのだろう。漢、魏、晋に朝貢して来た東の海中の夷狄。これが中国側から見た倭国の姿であった。その後、倭、邪馬台国の記述は史書から消え、晋もたった30年で滅亡する。以降、再び統一王朝を失った五胡十六国の時代に突入する。

 このように三国志魏書によれば、倭の邪馬台国の女王は一貫して魏に朝貢し「親魏倭王」の印綬を受け、魏滅亡後はその後継たる晋に朝貢している。さらに、その前の西暦53年には後漢の光武帝に倭の奴国王が朝貢し「漢委奴国王」の金印を受け、その後には倭面土国王帥升等(倭のどの国の誰なのか異論があるが、伊都国王ではないか)がやはり後漢に遣使している。このように北部九州の倭人コミュニティーには、当時の漢王朝とその後継の勢力の動向に精通した人物がいて、大陸との情報パイプと人脈を生かし、情勢に応じた外交的、政治的判断を行なっていたと思われる。もちろん外交文書を漢語で自由に読み書きし、中華王朝の外交プロトコルにも精通してた。こうして北部九州(チクシ倭国)が漢王朝、その後継とされる魏王朝、晋王朝の朝貢/冊封体制の中で(いわば「勝ち馬に乗る」形で)、その統治の権威と権力の保障を得ていた。


 魏から見た倭国 「遠交近攻」の戦略パートナー?

 その三国志の時代の中国中原の騒乱の当事者にとって、東海の海中にある蛮夷の民(東夷の)、倭国、邪馬台国とはどのような存在であったのだろう。卑弥呼の朝貢は、魏の皇帝にとってはどのような意味があったのだろう。邪馬台国と狗奴国の争いに魏の将軍難升米を派遣して黄幢旗を下賜し、卑弥呼に頑張れと「告諭」したのは何故なのか。正史に記述した以上、何らかの意図があったのだろう。日本側の研究者の中には(特に日本史の研究者)、当時、呉と対立していた魏にとって、その背後の倭国の存在は軍事的に重要であった。「遠交近攻」の考え方である。だから卑弥呼を「親魏倭王」として同盟に引き入れた、と考える人もいる。また狗奴国が呉と同盟して邪馬台国と対立していたとする研究者もいる。しかし、当時の倭国、邪馬台国が魏に援軍を出して、海上から呉を攻めるような力があったとはとても考えられないし、そんな軍事同盟を魏が期待したとも考えられない。また辺境の列島内の「倭人」勢力争いに中国中原で「天下統一」抗争中の魏と呉が介入してくる理由もないであろう。これらはあくまでも日本古代史研究側から見た解釈(あるいは邪馬台国位置論争的な解釈)であると考える。中国側から見た解釈はむしろ、華夷思想的世界観による夷狄「倭」であろう。はるか遠方の蛮夷の民が慕ってくるほど皇帝の徳が高いという「徳治思想」的視点。すなわち魏の皇帝の威光が遥か彼方まで行き渡っているのだという、まさに中華世界における魏の優位性(漢王朝の正統な後継者)を誇示するための記述であったと考えるのが妥当だと考える。蜀書や呉書の華夷思想的な対外交流に関する記述が採録されていないことがその傍証であろう。


 呉から見た倭国 邪馬台国論争解決か?

 しかし、本当に蜀や呉が「蛮夷の民」との交流、華夷思想によるところの朝貢/冊封体制を取っていなかったのか。特に長江域、沿岸部、南部を支配していた呉は、夷州(台湾)や南方のチャンパ王国(のちの越南、ベトナム)との交流(植民地化や朝貢/冊封関係)があった。これは記録にも残っている。この他にも呉は、海洋国家として長江河口から東シナ海ルートを使って、琉球や倭との交流があった可能性も指摘されている。呉と倭国の朝貢/冊封関係など何らかのつながりの有無の検証ができると、これまでの「魏志倭人伝」にのみ依拠する歴史観が一変する可能性がある。倭国が、漢王朝滅亡後の中国中原の対立を見て、どの王朝に朝貢すべきか魏と呉の二股をかけていたと解釈することも出来ようが、むしろ、当時の倭、列島内には中国王朝と通交することのできる勢力が邪馬台国以外にもあった可能性が出てくる。邪馬台国論争の解決の糸口になるかもしれない次のような仮説の証明である、すなわち、列島には大きく二つの勢力があり、邪馬台国女王卑弥呼は九州の「チクシ倭国」の女王として魏に朝貢した(朝鮮半島ルート)。一方、同じ列島内にあった近畿の「ヤマト倭国」の王は呉に朝貢した(東シナ海ルート)。

 有名すぎて、ネタ切れ感もある「邪馬台国位置論争」である。邪馬台国近畿説の論者は、3世紀には、すでに列島全域をほぼ支配域とする大きな国家連合体ができていたと見る。倭国の30カ国はこの列島内(といっても近畿圏から九州に至る西日本中心だが)にあった。そして女王卑弥呼は近畿(ヤマト)に居た。すなわちこれが邪馬台国である。列島全体を代表する「倭国」の女王としてそして魏に朝貢した。したがって卑弥呼はのちのヤマト王権につながる遠い先祖である、とする。一方で、邪馬台国九州説論者は、魏志倭人伝でいう倭国(邪馬台国を盟主とする30カ国)は九州(チクシ)内の国家連合体である。当時の列島内(倭)にはこのチクシ以外にも、イズモやキビ、コシ、ヤマトなどの大小複数の地域連合が並立、割拠していた。従って魏に朝貢した卑弥呼はチクシ倭国の盟主であり、チクシの邪馬台国にいた。必ずしも列島全体を代表していたわけではないと考える。すなわち卑弥呼はヤマト王権とは異なる系譜の人物である。

 私は後者の論に与する。3世紀当時の日本列島はまだまだ、統一王権や、統一的な政治勢力が成立する状況にはなかった。したがって「魏志倭人伝」の記述のある「邪馬台国」の女王「卑弥呼」が唯一の列島統治者(倭国王)であると考える必要はない。列島全体が統一に向かう動きが顕在化するのは5世紀の「倭の五王」の時代になってからのことだ。すなわち列島内にはいくつかの有力な地域連合が並存していたであろう。以前にも述べたとおり魏志倭人伝には出雲や吉備など、2〜3世紀当時列島内に存在していたであろう有力な国や地域連合に関する記述はない。ただ邪馬台国の(卑弥呼の)勢力圏である倭国30カ国以外にも「倭種」の国があることを認めている。ではなぜ魏の使者はさらに列島内の勢力図を詳しく調べなかったのか? それは魏にとっては陸続きでない、海の向こうの倭人の世界については、直接の脅威にも同盟にもならない(中原の抗争には無関係な)夷狄であったから、これ以上に精緻な列島事情の分析は無用であっただろう。仮に魏が、対立する呉が列島内の他の倭人勢力と通交があったことを知っていたとしても、それを認めることは(先述のように)魏の皇帝の威光を語るには不都合であっただろう。一方のチクシ倭国、邪馬台国にとっても近隣の脅威である狗奴国問題以外、列島内の状況を詳しく知らせる必要もなかっただろう。だからといって、列島内には卑弥呼の倭国/邪馬台国しかなかったと考える必要はない。3世紀の列島内には、魏に朝貢していたチクシ倭国(邪馬台国連合)の他に、近畿ヤマトにも箸墓や纏向などの遺跡に代表されるヤマト倭国が存在していた。考古学的な発掘成果がそれを明らかに物語っている。そしてこちらは、おそらく呉に朝貢し、その交流により威信財や高度な技術を獲得していた可能性がある。しかし、先述のように三国志には呉書による記述が陳寿によって省かれ、また呉書の原文が散逸してしまった可能性があり検証が不可能である。しかし、史料は残っていないものの、呉との交流の考古学的な証があちこちで見つかっており、むしろ魏との交流の証よりも多いことが不思議だ。さらに近畿地方に多い箸墓を含む宮内庁指定「陵墓」の調査ができれば歴史の解明がさらに進むだろう。九州の王墓からは前漢鏡、後漢鏡が多数出土しているが、意外にも卑弥呼がもらったはずの鏡百枚(おそらく魏鏡)は見つかっていない。またヤマトの古墳からは呉鏡が見つかっている。例の黒塚古墳から見つかった景初三年(卑弥呼が魏に朝貢した年)の三角縁神獣鏡や年代の記述のない大量の三角縁神獣鏡は、これこそ卑弥呼の鏡発見!と一時期騒がれたが、のちに国内で製作された「仿製鏡」であることが判明している。しかも、この製作にあたっては呉からの渡来工人が関わっていたことも判明している。また日本でこれほど大量に出土している三角縁神獣鏡や画紋帯神獣鏡は中国では一枚も見つかっていない。今回の「三国志」展の出土品の中にも方格規矩鳥文鏡が展示されているが、三角縁神獣鏡との共通点は見られるものの別物である。誰が、なんのために三角縁神獣鏡をこれほど熱心に列島内で製造し、ばら撒いたのかは謎だ。何れにせよ、すでに述べたような三国志魏書の成り立ちを知れば、「魏志倭人伝」の記述のみの解釈や、いじくりまわして行う「邪馬台国」推理が、あまり意味のないことであることに気づくだろう。中国の正史も、その編纂には勝者の意図が映し出されており、史実を完璧に語るものではない。歴史の闇の中に埋もれてしまった呉書や知られざる文献史料の発見が期待される。そして倭国の謎を解明してくれないか。


 未だ倭国の姿見えず

 考察してきたように、中国中原の三國の争いは倭国に全く無縁であったわけではない。統治権威や経済的権益、軍事優位性の確保という視点から、どの王朝へ朝貢し、冊封されるべきかは倭王権にとって重要な選択であった。そのために慎重に大陸の情報を収集し人脈を形成していただろう。おそらく大陸からの渡来人(漢人)が倭国邪馬台国の中枢にいたのだろう。そうした情報を入手し、文書で通信するプロトコルにも精通している必要があった、他方、大陸の魏や蜀/呉から見ると、倭国の存在はその統治権威や軍事的な優位性を決定づける大きな要因ではなかっただろう。「遠交近攻「の軍事同盟国でもない。漢王朝の統治権威の継承正当性を証明する国でもない。前にも述べたように、華夷思想にもとずく皇帝の権威を飾るためのストーリーとしては、烏丸、鮮卑、東夷の国々とともに列伝に記述する価値のある存在ではあったのだろう。したがって倭人が「三国志演義」の英雄伝に登場するような役割を演じることはなかった。映画「Red Cliff」で諸葛亮孔明を日本人俳優の金城武が演じていたが、ひょっとして、この三国志の物語に実際に邪馬台国から派遣された倭人が登場していたら面白いのにと妄想したものだ。例えば魏の司馬懿の軍に邪馬台国の大夫が参陣して活躍した!とすればドラマチックだ。しかしあり得ないだろう。やはり妄想である。

 我々は「三国志」を中国の痛快な歴史英雄伝として楽しんでいる。これは先述のように「三国志演義」のよるものだ。しかし、一方で歴史書としての「三国志」は3世紀の倭国の様子を描いた唯一の史料であることも忘れてはならない。高度な文明を誇る中国の当時の姿がありありと描かれている「三国志」と、その列伝に比較的詳細な記述はあるが、依然として時空の彼方に霞む古代日本、倭国の姿。その情報量にはなんと大きなギャップがあることか。されど「痛快歴史英雄伝」と「幻の邪馬台国」は同時代の出来事なのであることを知っておくべきだろう。


三国志の舞台割

曹操高陵から出土した「魏武帝」曹操の持ち物を示す札
ここが曹操の墓であることを証明する遺物の一つである

方格規矩鳥文鏡
日本で出土する「三角縁神獣鏡」と共通点もあるが別物。

「蒼天之死」磚
黄巾の乱の旗印。道教の黄色が儒教の青を滅ぼす
すなわち漢の滅亡を謳ったスローガンが刻まれている

「晋平呉天下太平」磚
晋が呉を平らげ三国時代の終わりを告げる

(ここで引用した写真は全て東京国立博物館のHPから借用したものである)







2019年9月3日火曜日

クラシックカメラ遍歴(3)〜小型精密カメラ3件を2019年度「未来技術遺産」に登録〜


 
Asahiflex I

 独立行政法人 国立科学博物館は9月3日、「重要科学技術史資料」(愛称:未来技術遺産)として新たに26件を登録したと発表。そのうち小型精密カメラ3件が含まれている。 「重要科学技術史資料」とは、科学技術を担ってきた先人たちの経験を次世代に継承していくことを目的とする登録制度。2008年から実施している。
今回登録されたカメラは以下の3件。

1)ハンザキャノン
精機光学研究所
1935年(昭和10年)
国産初の35mmフォーカルプレーンシャッター付きレンジファインダーカメラ

2)アサヒフレックスI
旭光学工業
1952年(昭和27年)
国産初の35mm一眼レフ
エバーリターンミラー搭載

3)ニコンF
日本光学工業
1959年(昭和34年)
クイックリターンミラー搭載、完全自動絞り、ファインダー交換、
完成されたシステムカメラとして世界を席巻した


国立科学博物館の報道発表資料:
2019年度「重要科学技術資料」(愛称:未来技術遺産)登録

以下は発表資料からのPDFを引用。






 へえ!という訳で押入れの中の「お宝の山」を探してみた。ハンザキャノンは、とても貴重な文化財級のカメラで手に入らない。当然だが我がコレクションにはない。ニコンF(やっこさんロゴ:NIPPON KOGAKU TOKYO)は我が家のニコンエコシステムの長老よろしくデスク正面に鎮座ましましている。あとはアサヒフレックスI。ゴソゴソやっていると出てきた!うん十年前、秋葉原の中古カメラ屋で買ったものだ。すっかり忘れていた。当時はペンタックスSPが人気で、この古色蒼然たるI型はほぼジャンク扱い(いわゆる研究用、部品取り用)で投げ売り状態であったことを思い出した。しかし、今回の発表をきっかけに、押入れから助け出してみると、シャッターもきちんと切れる。レンズもカビていない。Takumar 50mm F.3.5スクリューマウントがついている。なかなかメカニカルで金属カメラ感満点のお道具だ。このころの日本製は堅牢で壊れない。メカニカルカメラはメンテさえきちんとすれば半永久的に使える。うん十年ぶりに陽の目を見たその雄姿をご紹介しよう。

ペンタプリズムはなく上から覗くウエストレベルファインダー式の一眼レフカメラ。縦位置用のビューファインダが横にくっついているのが愛嬌だ。シャッター切った後のファインダーのブラックアウト(真っ暗になる)を避けるために、エバーリターンミラー方式を取り入れた点がユニーク。これはシャッターボタン押すとミラーが上がり、離すとミラーが下がる、というもの。要するにボタン押すとミラーがパタパタと動く。今のクイックリターンミラーに比べると手動で簡単な機構だが、当時の一眼レフカメラの欠点を解決した。コロンブスの卵である。
この後ペンタプリズム搭載、クイックリターンミラー、自動絞りのAsahi Pentaxへと進化してゆく。

ファインダーを折りたたんだところ。AOG:Asahi Optical Gaishi?)、Asahiflexロゴが誇らしげだ
メッキの質などはドイツ製のライカやコンタックスにはかなわないが、なかなか立ち姿が美しいカメラだ

レンズはTakumar 50mm f.3.5。マウントサイズ35mm口径のスクリューマウント。自動絞りにはなっていない。レンズはコーティングが施されている。金属鏡胴が美しく、重量感がある。最近のエンジニアリングプラスチック製のレンズにはない品位を感じる。



 そしてニコンF。あのライカM3の衝撃のレンジファインダーの登場から苦節5年。一転して一眼レフへ転換してブレイクスルーに成功した、今やレジェンダリーな成功物語の主役、そのカメラだ。以後、日本のカメラ産業が世界を席巻することとなる。

ニコンエコシステムの頂点に立つニコンF初号機。我が家のカメラコレクションに君臨する長老だ、点検してもらったがシャッターも全速完璧。メカも異常なし。レンズもカビ、クモリ無し。少しグリースが抜けているが、トルクはある。製造から六十年経過しているとは思えない矍鑠たる姿立ち居振る舞いだ。

軍艦部のNIPPON KOGAKU TOKYOロゴ(いわゆるやっこさん)は初号機のみ。この後からはNikonロゴになる。ペンタ部のFが誇らしい。
このペンタ部は取り外しが可能で、ウエストレベルファインダーやのちに出された露出計内蔵ファインダに取り替えることができる。システムカメラとしての発展が約束されたボディーである。

レンズはNIKKOR-S Auto 50mm F.1.4という高速レンズ。AutoはAF:オートフォーカスではなく、AE:自動露出でもない。自動絞りという意味。ファインダーでは常に絞り開放で(明るい状態で)像が見えるが、シャッターを切った瞬間に自動的に設定値に絞られる。このためにボディー側とレンズ側の絞羽をリンクさせるカムがついている。そして不滅のFマウントはこのとき産まれた!
今では当たり前になっているクイックリターンミラー、自動絞りを初めて実現した。





2019年8月31日土曜日

クラシックカメラ遍歴(2)〜Retinaという革新と成功。そして衰退〜


工芸品的完成度の逸品 Retina IIIC


私の最も好きなRetina I型


 カメラの歴史において、技術的イノベーションとパラダイムシフトとはライカに始まったと言っても過言ではないだろう。1925年、エルンスト・ライツ社が35mmフィルム(シネフィルムを利用する)を使う小型で高性能なカメラ、ライカ(Leica)を発売した。今でいうバルナックライカ(その後のMライカに対してLライカとも呼ばれる)である。開発者オスカー・バルナック博士にちなんでこう呼ばれている。これは衝撃的なできごとだった。この、いわばベンチャー企業ライツ社の挑戦を受けて1932年には同じドイツの光学機器の老舗ツアイス・イコンから35mm版のコンタックス(Contax)が発売された。今でこそ35mmロールフィルム(ライカ判)が主流となっていて、デジタルになってもフルサイズ(すなわち35mm)が基準になっている。しかし当時はこれよりも大きいサイズの銀塩フィルム(中判、大判)を蛇腹のカメラに装填して撮影するのが普通であった。したがってカメラも大型で三脚などを用いて撮影する方式が普通であった。そこへ35mm幅フィルムを使った小型の高性能カメラ(いわばハンドヘルドカメラ、あるいはコンパクトカメラ)が登場した。これはフォトジャーナリズムや写真文化に大きなインパクトを与えた。しかし、その価格はとても庶民の手に入る価格ではなかった。日本では輸入された当時、なんと家が一軒買える価格だと言われていた。

 そこで、ライカ判フィルムを使えるもう少し廉価版のカメラが、様々なメーカーから世に出始めた。その中でも、その性能と価格で大成功を収めたのがこのドイツコダック(German Kodak)社のレチナ(Retina)である。当時、ライカが300マルク、コンタックスが360マルクであったのに対し、レチナは75マルク。しかし、レンズはSchneider社、Rodensctoch社など現在まで続く超一流のレンズメーカ製、シャッターユニットもDecker社製のCompurをを取入れ、その性能と品質は超一流であったから売れないわけがなかった。伝統的な蛇腹式を取り入れて、折りたたむと極めてコンパクトになる。にも関わらずレンズ交換もできるシステムカメラへと戦後は進化する。伝統と革新のハイブリッドと言ってよい。レチナ(Retina)はドイツ語で網膜という意味。ドイツコダックが製造販売した。米国コダック社はフィルム販売の促進を目指して1931年、ドイツのナーゲル(Nagel)社を買収し子会社化した。このナーゲル(Nagel)社は1928年にカールツアイスの技術者であったAugust Nagel博士によって設立された。そして1934年にAugust Nagel博士はレチナを開発し、同社のシュツットガルト工場で製造、コダックブランドで販売した。やがてアメリカとドイツは戦争となり、戦時中、戦後の混乱期を経験するが、ドイツコダックは存続し、Retinaを作り続けた。戦後一時期は戦前の部品をかき集めて作るなど、品質保持に苦労するが、やがて素晴らしい製品群を次々に世に出し世界的に人気を博した。


 (1)まずは、レチナの原型となったナーゲル社(Nagel)のカメラ二台をご覧いただきたい。August Nagel博士がレチナに先立って製品化した中判フィルムカメラ。ボディーが大きくなりがちな中判フィルムカメラとしては小型化、コンパクト化を狙った意欲的な製品だ。35ミリ判(ライカ判)の蛇腹式フォールディングカメラへ移行する過程での試行錯誤を垣間見ることができる。

Nagel Pupile

レチナの原型の一つである
Nagelブランドベスト判フィルムカメラ
Pupileとはドイツ語で「瞳」という意味
レンズ繰り出しは蛇腹方式ではなくレバーによる回転式
すごい螺旋ネジが鏡胴に潜んでいる!

KodakVollenda

これもレチナの原型となるカメラ
Kodakブランドとなっている。Nagel工場製造のベスト判カメラ

レンズ繰り出しはカバーを下に開ける蛇腹方式




 (2)1934年のオリジナルレチナ以降、様々な形式のレチナが発表された。非常に多様な機種が製品化されたが、基本は蛇腹式フォールディングカメラで非常にコンパクト、高性能であった。その中からその代表的な機種を私のコレクションからご紹介していきたい。


The First Retina (117)

1934年発売


August Nagel博士によって開発されオリジナルレチナ。
ブラックペイント仕様、ニッケル鍍金。
シャッターはCompur Rapid。
レンズはSchneider-KreuznachのXenon 50/3.5。
素通しファインダー。
巻き上げには巻き留め機構が設けられている。



Retina I (010)

1946年発売


黒塗りからシルバーメタリックとなりI型と称した。戦後の混乱期に部品をかき集めて作ったにしてはしっかりとした完成度である。
レンズはSchneider-KreuznachのXenon 50/3.5付きと、US KodakのEktar 50/3.5付きがある。
シャッターユニットはCompur Rapid
ファインダーは素通し
電子部品もない、もちろんデジタルでもない、金属メカニカルと光学レンズだけのミニマルな機械式カメラ。まさに芸術品だ。米国ロチェスタのKodak工場製のUS Ektarは今でも本当によく写る。



Retina Ia (015)

1951年発売


巻き上げレバーが設けられた戦後バージョンのI型。Ia型と称した。
シャッターユニットがSynchro Comperにグレードアップされた。
ファインダーは素通し。
レンズはUS Ektar付き。
ストラップ用のアイレットが付いた。
戦後落ち着き始めた時期の製品で仕上げが美しくなった。



Retina II (011)

1946年



距離計連動ファインダーが搭載されII型となった。

シャッターユニットはCompur Rapid改良型。

レンズはRodenstock Heligon 50/2で明るくなった。

II型は戦中戦後にわたって作られ、名称や巻き上げ方式などに統一感が失われた時期の製品である。このII型(011)は戦後の混乱の中、様々な残存部品を寄せ集めて組み立てられたもので、レンズも様々。しかしこの個体はレンズはコーティングが施されたHeligonで、軍艦部も一体成型の美しい仕上げ。



Retina IIa (150)

1951年発売


II型は戦後、巻き上げレバーが採用されIIa型となった。
これ以降はライカMを含めて巻き上げレバー方式が主流となっているが、当時ライカもコンタックスも巻き上げレバーを採用しておらず、この頃は「レチナ式」と呼ばれた。
シャッターユニットはX接点を持つSynchro Compur。
レンズはSchneider-KreuznachのXenon 50/2。
ストラップ用アイレットがつき、カメラを首からぶら下げるスタイルが流行り始めた。
完成度、仕上げの美しさ共にドイツの工業製品を代表する逸品。


Retina IIIc (021)

1954年発売


露出計が導入されIII型となった。
この後に出されたIIICに対し、いわゆるスモールcと呼ばれている。
セレン式露出計(Light Value方式)を搭載。
シャッターユニットはSynchro Compur。
レンズはSchneider- KreuznachのXenon 50/2.0。
レンズ交換(前玉交換)ができるようになった。ただし距離計ファインダーのフレームは50mmのみ。したがって35、80mmは外付けファインダーを取り付ける。これも優れものでパララックス補正(手動だが)できる。
巻き上げレバーはボディー底部に移されたが意外に使いやすい。


工芸品といっても良い美しさが魅力だ
巻き上げレバーが底部に見える




Retina IIIC (028)

1958年発売


俗に大窓(ラージC)と呼ばれる最高級機
改良型セレン式露出計(Light Value式)に変更。
レンズ前玉交換ができる。
IIIc(スモールc)と比べ、見やすい等倍の連動ファインダーに50mmと35mm、80mmのブライトフレームが見える。距離計に連動してパララックス補正ができる優れもの。
クローズアップレンズなども用意されてシステムカメラとしても完成された。
シャッターユニットはSyncro Compur。
レンズはSchneider-KreuznachのXenon 50/2.0付きと、RodenstochのHeligon 50/2.0付きがある。
巻き上げレバーはボディー底部にある。
戦後の光学技術の極地、芸術品とも言える工作精度の賜物で、しかも商業的にも成功した完成形モデル。私の最も好きな機種の一つで、今でも実用機として使える。

この姿の美しさも魅力だ
蛇腹は外に露出しない構造になっている


  (3)この後レチナは、伝統の蛇腹折りたたみ式をやめて、固定式レンジファインダーカメラ(Retina IIIS 1958年)や、レンズシャッター式一眼レフカメラ(Retinareflex III, VI 1960〜64年)(いずれもデッケルマウント)のシリーズを出してゆくことになる。機構の複雑な蛇腹折りたたみ方式から固定式への移行は、ある意味では合理的であったのだろう。しかしレチナのコンパクトさという個性が失われ、他社の製品との差別化が難しくなっていった。レチナ衰退の始まりであった。特にレンズシャッター一眼レフへの転換は、50年代後半にブームとなった、ツアイスイコン社のコンタフレックス(Contaflex)などのレンズシャッター式一眼レフのトレンドに乗ったものだ。しかし、レンズシャッターゆえのそのメカの複雑さと(したがって)故障の多さ、撮影後のファインダーブラックアウトの不評等で市場からフェードアウトしていく。結局、ニコンのフォーカルプレーン式シャッタ、クイックリターンミラー式一眼レフがハイエンド機の主流となり、やがて中級機、普及機でも日本のカメラメーカーを中心に主流となっていった。こうして一斉を風靡したレチナは市場から退場してゆく。しかし先ほど紹介した、戦前のメカニカルでミニマルなカメラの原点とも言える姿、全盛期の蛇腹式レチナのコンパクトさと工芸品とも言える美しい仕上がりの「お道具」には今でも惚れ惚れする。もちろん写りは最高だ。蛇腹デジタルレチナ復刻はないものだろうか?



Retina IIIS

1958年


デッケルマウントレンズ交換式レンジファインダーカメラ
Retinareflex VI

1964年


デッケルマウントレンズ交換式レンズシャッター一眼レフカメラ










2019年8月15日木曜日

「征韓論」はなぜ起きたのか? 〜終戦の日に寄せて〜

 今日8月15日は終戦記念日である。令和になって初めての戦没者慰霊祭で新天皇皇后両陛下が哀悼の意を表された。日本人だけでも300万人以上の犠牲者を出した先の戦争、アジア太平洋地域諸国に甚大な被害を与えた先の戦争。不戦の誓いも新たに猛暑の一日を祈り過ごす。

 この日はお隣、韓国では日本からの独立を果たした記念日「光復節」である。最近のギクシャクする日韓関係。戦後最悪の事態になっている。韓国大統領文在寅の日本に向けての姿勢、発言に対する日本政府(安倍政権)の反応を見ていると、明治3年(1870年)に明治新政府が直面した朝鮮の開国と条約締結に向けての議論を思い出す。すなわち日本の条約締結打診に対し朝鮮側はこれに激しく反発し、鎖国攘夷の堅持、日本排撃の姿勢を鮮明にした。これに明治政府が、朝鮮は近代化に背を向け、国際的なルールを受け入れず、無礼な「人治主義」国家だとの認識を抱いた瞬間だった。それが今の日本政府の、韓国はいつまでも「反日」国是で未来志向でないし、過去に約束したことを守らない、国際法を守らない(「法治主義」国家でない)国だ、という反応につながっているように感じる。これまでの数々の無礼にはもはや忍耐や寛容さは通じない、何らかの制裁を課すべきだ(アレは制裁ではないと言っているが)というわけだ。歴史は繰り返す。まさに明治の征韓論と同じ反応だ。韓国の「反日」史観、日本の「嫌韓」史観。これはどういう背景から生まれたのだろう。このセンシティブな問題。少し頭を冷やして歴史を振り返ってみたい。

 征韓論はなぜ起きたのか?

 日本が開国し、西欧流近代化を受容し、推し進めていた時、朝鮮はまだ鎖国していた。朝鮮王朝(李氏朝鮮)は清国に朝貢し冊封を受けるいわば清国の属国であった。古代そのままの東アジア的秩序に身を委ね、通交していたのは宗主国の清国とまだ鎖国していた日本だけであった。そこへ鎖国政策を捨てて開国し西欧流の「近代化」に突き進む日本から、朝鮮も開国して日本と条約を結ばないか、と提案して来た。これに対し朝鮮王高宗の父で実質的権限を振るっていた大院君は、鎖国攘夷を堅持すると回答。「日本の無礼な申し出である条約は断固拒否する」と回答。日本人を見つければ処刑するとさえ宣言した。これが時の明治政府(岩倉使節団が欧米外遊中の留守政府)の怒りを買い、「無礼はどちらか!」朝鮮を武力で征伐すべし、となったわけである。

 この背景には、朝鮮王国はあくまでも清国の朝貢冊封体制にある国(すなわち古代から中華世界の一員である)で、西欧諸国およびこれらに追従する国と通交を結ぶつもりはない。そもそも中華世界(東アジア世界)において皇帝は清国皇帝一人なのに、日本の王が皇帝(天皇)を名乗って朝鮮に通交を求めてくる、これはとりもなおさず朝鮮王が日本の天皇よりも下であることを主張しているに他ならない。「無礼」であろう、という反応である。この話、この時を遡ること1400年ほど前、聖徳太子が遣隋使小野妹子に持たせた隋の皇帝煬帝に当てた上表文「日の出るところの天子、日の没するところの天子に云々」を見て煬帝が「なんと無礼な野蛮人だ」と激怒したエピソードを思い出させる。「世界に天子は俺一人だ。何勝手に倭人が天子を名乗っているんだ」と言うわけだ。この、なんと2000年続く華夷思想的世界秩序観を朝鮮側が持ち出すと言う、極めて時代錯誤な反応であることは言を俟たない。しかし、つい20年ほど前までの徳川幕府の鎖国政策も、そして維新の志士たちの「尊王攘夷」も、同じような西欧列強に対する排外的世界観であったことを考えると全く理解できないでもない。しかし、時代はそんな中華秩序、旧体制のレガシー(朝貢/冊封、鎖国攘夷)を守っていける時代でなくなっていることは火を見るよりも明らかであった。まして、王族や両班以外、ほとんどの人民は封建時代さながらの農奴のような生活に甘んじている朝鮮王国にとって、当時の日本以上に国の開国近代化による経済/政治体制の構造改革は必須であったはずだが、それだけに朝鮮の支配階級には恐怖にも似た恐れと戸惑いがあった。

 一方でなぜ明治政府は朝鮮に開国、通交を求めなければならなかったのか。朝鮮問題がなぜ政権を揺るがすほどの重大問題だったのか。自国が開国したからといって隣国の開国、近代化という他国の在りように口を出すのは「大きなお世話」であったのだろうか。実は新生日本にとって事態は緊迫していた。まず(1)宗主国である清国が欧米列強の植民地化で、弱体化し、国内外の統治能力を失っていたこと。すなわち清国の朝鮮統治の不安定化に大きな危惧を抱かざるを得ないこと。(2)その清国の弱体化というパワーバランスの間隙をついてロシアが朝鮮半島への進出を露骨に進めていたこと。この二つである。欧米諸国に不平等条約を結ばされ、開国したばかりでまだ国力も弱小な日本にとって、自国の富国強兵、殖産興業も緒についたばかりで、その独立維持に大きな不安が払拭できない時期であった。そこへ朝鮮が清国からロシアの支配下に入り独立が脅かされるということは、対馬海峡を隔てた日本の国防ラインが一気に欧米列強国の脅威にさらされることを意味する。これは看過できない問題であった。幕末、維新の騒乱の中であれほど恐れた欧米列強諸国による植民地化の危機は取り除かれていなかった。東アジア地域安全保障の上からもいち早く朝鮮の独立の確保、日本との和親条約の締結、そして近代化が求められたのだ。単に「無礼」だから云々の問題ではなかったのだ。一方で清国の弱体化に伴う満州(中国東北部)へのロシアの進出も大きな懸念材料であった。こうした事態に朝鮮王朝内部には、宗主国である清国にべったり依存していこうという守旧派と、これに対抗する親露派が台頭し始めており争いが生じていた。さらにはこれを危惧する近代化推進派(いわば親日派)が現れ、三つ巴の争いで収拾がつかなくなっていった。こうした内紛に外国勢力を引き込むのは朝鮮半島の歴史的な宿痾と言って良い。古代朝鮮三国(高句麗、百済、新羅)の抗争以来繰り返されてきた伝統的な外交・安全保障戦略だ。こうした隣国の事態に、維新を進めた西郷隆盛や江藤新平、板垣退助らは、朝鮮も(日本のように)西欧流の近代的な法治国家に脱皮して、儒教的な中華世界観とは決別しなければならない。欧米列強に対抗するには、もはや時代を逆戻りできないところへ踏み出してしまったことを朝鮮にも理解させるべきである。と主張したわけである。しかし、朝鮮王高宗の父、大院君は頑強に鎖国(中華体制にとどまる)と攘夷(日本人を含む外国人排撃)を主張した。しかも大日本帝国「天皇」を「無礼者」呼ばわりしたのだから明治留守政府が感情論になるのも仕方がない。しかし、この問題はそうした感情論では済まされない事態であった。朝鮮の開国、清国/ロシアからの独立の確保、そして近代化という隣国の在り方が「大きなお世話だ」と言えない事情が、日本側にもあったことは先述の通りである。朝鮮半島問題は、7世紀の唐新羅との白村江の敗戦以来の日本に染み付いた伝統的な国防意識の記憶の延長であった。

 しかし、岩倉、大久保、木戸などの欧米視察団が戻ると、今は征韓論に関わって海外出兵している場合ではない。国内の富国強兵、殖産興業、そして不平等条約改正に注力すべき時期だと反対した。結局天皇の聖断を得ることはできず、西郷の朝鮮派遣は棚上げされてしまった。そして西郷、江藤、板垣らは下野して(明治6年の政変)、佐賀の乱、西南戦争へと展開していくことは既知の通りだ。結局は明治8年(1875年)の「江華島事件」による軍艦砲撃で、朝鮮王朝側はたちまち日朝修好条約締結へと舵を切ることとなる。かつてやられた米ペリー艦隊による砲艦外交を、日本も朝鮮に対して行ったわけだ。しかし、この「朝鮮問題」への取り組みはこの後の日本の外交政策、安全保障政策の根幹となる。まさに日清戦争も日露戦争も朝鮮をめぐる戦争であった。欧米列強の介入の排除、弱体した清国支配の不安定化の除去。ロシアの南進野望の排除が日本の地域安全保障、すなわち「朝鮮半島問題」の核心的課題であった。さらに日露戦争の結果として満州への進出、満州事変。辛亥革命後の混乱の中国への介入、日中戦争。そして資源確保の観点から東南アジア、太平洋地域への戦線の拡大、そしてアメリカとの軍事衝突(太平洋戦争)へと突き進んでいった訳だが、この歴史を振り返ると、スタートは「朝鮮半島問題」であったことに気づく。日清戦争の勝利による清国の朝鮮半島への影響力の排除。日露戦争勝利によるロシアの朝鮮半島、満州への進出排除を経て、1910年には、いわゆる「朝鮮(韓国)併合」へと向かい、明治政府の長年の懸案がひとまず区切りを迎えることになった。当初は植民地支配を狙った「併合」を目的としたものではなく、地域安全保障を狙った朝鮮(この時点では大韓帝国)の独立、その過程としての保護国化、「合邦」(大日本帝国と大韓帝国の連合。大英帝国的な連合王国?)であったと言われている。大英帝国やアメリカもこの日本の朝鮮半島政策を支持していた。政界の元老、伊藤博文も「併合」には反対し「合邦」論者であった。しかし、皮肉にも彼が安重根に殺されたことで「併合」論が一気に進んだと言われる。しかし結果的には大韓帝国は消滅し大日本帝国に取り込まれ、韓国民の皇民化を進めたことは間違いない。そしてこれが戦後の日韓関係、日朝関係に大きな影を落としたことも否定できない。

 これまでの両国の歴史背景を振り返ると?

 両国の長い歴史を振り返ると、古代以来、朝鮮半島諸国は海の向こうの日本(倭国)に様々な利害関係と大いなる関心を持ってきた。半島国家としての地政学的な宿命とも言えるが、一方に中華王朝が支配する強大な帝国があり、漢帝国時代には植民地(楽浪郡、帯方郡)であり、独立したのちも時には保護を受けたり、時には侵略されたり。基本的には長く「朝貢冊封体制」に組み入れられてきた。また9世紀頃まで半島内では常に高句麗、新羅、百済の三國が争っていた。そうした中で、三國は中華王朝の栄枯盛衰、興亡を睨みつつ、ある時は倭国(日本)を味方に引き入れ、ある時は敵に回しつつしたたかな外交で生き残りを図ってきた。こうした半島内三国の抗争の中で、自国の安全保障のために倭国をどのように自らの側に引き入れるかは重要な外交戦略の一つであった。そのためには、文化レベルの劣る「未開」の倭国を「近代化」し、強力な同盟国に仕立てることが重要であった。とりわけ百済は、倭国(ヤマト倭国)に大陸の進んだ政治制度や軍事技術、建築技術、仏教などの思想を積極的に注入した。一方の新羅も対百済戦略の一環として、積極的に倭国(チクシ倭国)との交易や軍事的紐帯の確保に努めた(筑紫君磐井の戦争の背景は、百済対新羅の争いであった)。かたや倭国も朝鮮半島にただならぬ関心を持ってきた。中華文明のフロンティア、大陸先進文化の供給コリドーというだけでなく、資源の供給、安全保障上の重要地域としても認識していた。もともと弥生時代、稲作農耕が大陸から列島に入ってきた時から、倭人たちは鉄資源を朝鮮半島(南部の伽耶地域)に求めてきた。このころは今のような国民国家概念も国境概念もないのだから、海峡を隔てて半島住民も、列島住民も自由に通交していただろう。帰化人とか渡来人という概念もなかった。さらに先述の三國間の抗争に巻き込まれていった。こうした時代背景から、朝鮮半島側からの対日史観は、文明の先進国朝鮮(兄)が後進国倭国/日本(弟)を教化してきた歴史と捉えてきた。しかし、これは19〜20世紀の大日本帝国の対朝鮮半島史観と同根であると言える。なぜなら、あくまで自国の安全保障のための「近代化」であり「教化」であるからだ。攻守所を変えて歴史は繰り返すのである。

 4世紀後半になると倭国は半島の戦乱に大きく関わるようになる。倭王権(といってもまだ列島内に統一王権があったわけではなくどの地域の倭人勢力なのかは不明だが)が百済の要請で朝鮮半島に出兵し高句麗との戦いに参加していったこと。5世紀には列島内を武力で統合しつつあった倭の五王(ヤマト王権であろう)が、朝鮮半島諸国への影響力強化を狙って中華皇帝にし朝鮮支配権(軍号)を求めたこと(晋書、宋史)。朝鮮の正史「三国史記」や好太王碑文に、倭国は高句麗と戦い敗退したが、百済、新羅を朝貢国にしたこと(実際には朝貢冊封関係ではなく相互の贈答による外交関係であったろう)。7世紀には新羅に滅ぼされた百済の救済、復興のために唐・新羅連合軍との戦いで白村江に出兵し大敗したこと。中国、朝鮮半島での混乱のたびに大量の難民を受け入れたこと(これがのちに渡来人、あるいは帰化人と呼ばれた)。さらには8世紀に編纂された日本側の正史「日本書紀」には神功皇后の三韓征伐のエピソード(史実であるかは疑問だが)が記述されていること。白村江の敗戦、半島からの撤退以降、16世紀の豊臣秀吉の朝鮮出兵まで、日本は朝鮮半島での戦争や、支配権に関わっていない。江戸時代になると徳川幕府の「朝鮮通信使」交流が始まるが、この通信使の位置付けを双方に都合の良い解釈で、上下関係をあまり深く追求せず続けてきた(対馬藩の雨森芳洲の記録)。しかし、先述の古代史に現れる倭国(日本)の朝鮮半島への介入という歴史上の記憶、「日本書紀」に記された「神功皇后の三韓征伐」と言う説話を元に、日本の対朝鮮観は、文化的には尊敬を示しつつも、どこか「朝鮮は日本の朝貢国」「日本小中華帝国の臣下」という意識が引き継がれてきたようだ。先述の朝鮮半島側の対日史観とは真逆の歴史観である。明治以降の東アジアの情勢は、もはや朝貢/冊封などという古代東アジア的な秩序の記憶で解釈できるような事態ではないし、それを打ち破るべきとの認識から朝鮮に開国を求めたのだが、明治新政府の反応の深層にこうした「歴史認識」があったことも否めないだろう。

 東アジアの火薬庫。半島国家の宿命?

 朝鮮半島国家から見ると、周辺を大国に囲まれているという地政学的な条件のもとで、どのように周辺諸国と付き合い生き延びてゆくかは、古代より国の存亡に関わる重大な安全保障問題である。日本のように大陸から海をへだてている島国とは異なる点だ。逆に日本が海外への出兵をほとんど経験せず、対外戦争が下手で、外交にしたたかさが欠けた歴史を歩んできた理由の一つであるが、それはさておき、朝鮮半島は古代にあっては強大な中華帝国の周辺部(華夷思想でいう夷狄の地あるいは植民地)であり、一方でやがては東の海中に小中華帝国日本が勃興してくるとその狭間で呻吟する地域となっていった。近代においては朝鮮は中国、ロシア、日本、そしてアメリカに囲まれた半島国家である。バルカン半島がヨーロッパの火薬庫なら、朝鮮半島は東アジアの火薬庫といって良いだろう。先述のように日清戦争も、日露戦争も、さらには満州事変、日中戦争へと続く戦争への道の発火点は朝鮮半島であった。第二次世界大戦後の韓国と北朝鮮の分断もその象徴であるが、冷戦構造終結後もまだ分断国家として対立が継続している。朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)は共産主義国家というより世襲制王朝の「人治主義」独裁国家体制を一貫して維持している。韓国は、軍事独裁政権から民主化し、一部の財閥中心に経済発展したとはいえ、依然として儒教的な「人治主義」がその基底に横たわっている点では北朝鮮と同根である。「価値観を共有する」国際社会の一員として世界に貢献していくには色々な課題を抱えた国である。こうした朝鮮半島の抱える歴史的、地政学的課題と現状を、あのアメリカのトランプ何某はどれくらい理解した上で、北朝鮮の金正恩に好意を寄せているのかはなはだ心もとないが、現状はトランプ、プーチン、習近平、といった自国優先主義、強権的支配を志向する頭目がこの地域の覇権を争う構図になっている。北朝鮮の金正恩は核を弄びそんな周辺国の確執を巧みに利用してトランプを手玉に取っている。なかなかしたたかなリーダーだ。一方の韓国の文在寅は「反日」を振りかざして、それを統治権威の拠り所とし、北を世襲で支配する金王朝の代弁者のような振る舞いで、自由主義陣営のリーダーの一人としてのビジョンも自覚も持ち合わせていないようだ。日本は「拉致問題」以外は口を出せないとでも考えているのだろうか。やがて日本がお役に立つ時が来るだろう、と札束を用意して待っているに過ぎない。日本は旧宗主国として多くの利害関係者を抱える立場でもある。伝統的な外交課題であるはずの朝鮮半島の平和と安定に果たすべき役割はあるはずだ。しかし、イギリスやオランダのように「旧宗主国」と言って旧植民地から受け入れてもらえる国々と違って、「反日」が国是となっている国にはなかなかその貢献の受容は難しいだろう。欲しいのは色のついていない「金」だけだ。まさに日本の外交能力が試される。

 「反日」が国是の「人治国家」なのか?

 朝鮮統治時代の日本が朝鮮半島の開発、近代化を大きく進めたことは否定できないだろう。当時は国内の東北地方の開発に優先して、資源に乏しい朝鮮に巨大なインフラ投資や教育投資をしたと言われている。現在の韓国や台湾がアジアの経済成長リーダーになっているその基礎は日本統治時代にできたものである。さらには戦後賠償と様々な産業分野での技術支援、資本投下によるところが大きい。...というようなこと迂闊に言うと、少なくとも韓国では袋叩きにあう。知日派の韓国人や在日コリアンも韓国では排除されているのだから、まして日本人がそれを言うなよということだ。それを押しつけがましく言うつもりはない。これは古代において緊張関係にあった朝鮮半島で百済や新羅が、倭国を強力な同盟国にして自国の安全保障を図ろうと倭国に多大な投資をし、「文明国化」と「近代化」を手助けして半島の戦争に駆り出したのと根っこは同じである。どちらも「善意」による扶助ではない。朝鮮半島は台湾や満州と同様、日本にとっては戦争で獲得した重要な既得権益であり、大日本帝国発展のフロンティアであったことから、貧乏な国としてはかなり無理して大きな投資をしてきた。しかし、当初は美しい理想であった、アジアをアジア人の手で開放しようと言う「大アジア主義」も、アジアの団結と共存共栄をうたう「大東亜共栄圏」構想も、やがては大日本帝国の軍事的な拡張路線のプロパガンダに変質していった。したがってこうした投資も帝国主義的な権益保護と収奪のための投資であり、その地域の人々の発展のためにやったと強弁する事は出来ない結果となった。さらに日本がアメリカとの戦争に負けたことにより、そのような「美しい理想」は否定され、プラス評価側面は、歴史の闇に消え去り、「植民地支配」を受けた屈辱と被害の歴史だけが人々の記憶に刷り込まれる。「大東亜共栄圏」は今は看板が塗り替えられ、構想の主体が中国となり「一帯一路」と呼ばれている。歴史は常に勝者のものである。負ける戦争をした方が悪いのだ。

 戦後は、韓国では「反日」が常に為政者の統治権威と統治権力の正当性の「錦の御旗」となり続けてきた。「反日」は有効に国民を団結させるスローガンに仕立てられてきた。したがってどんなに日本が謝罪し、賠償し、和解し、二国間条約を結んで未来志向の関係構築をうたっても、政権が代わるとすぐ反故になる。約束は守られない。怨みはいつまでも蒸し返される。日韓条約に基づき日本から支払われた国家賠償金は、被害を受けたとされる元徴用工や元慰安婦には渡らず、彼らは当然ながらまだ補償を受けていないと声を上げる。その補償金は韓国政府が受け取っていて(別のことに使ってしまって)支払われていないのだから。国際法上(日韓条約)、賠償請求権は国家間で決着しているので消滅しており、韓国政府に法的支払い義務が移っているにも拘らず、韓国の最高裁判所は日本の私企業への賠償請求を認めてしまう。法治国家の独立した司法としては信じられないような判断である。そして韓国政府(行政)は口をつぐんで何も対策を打たない。あろうことか「三権分立」や「市民感情」を持ち出し司法の判断を支持する。日本というスケープゴートは支配者にとって貴重であり、問題が解決して悪玉が消滅してはならないかのようにさえ見える。そして韓国大統領はなぜか退任後は例外なく悲劇的な末路を辿ることになる。外からは見えない闇のロジックがあるのだろうか。国家間で合意した約束事、条約など国際法/国際ルールを遵守し、政権が変わっても国家として一貫してそれを守り続ける。司法権が時の政権に忖度して国際法や憲法を無視したり判断を変えたりしない。国民が国際的なルールを遵守する民主的な政権を選択する。こうした近代国家としての「法治主義」「三権分立」「民主主義」の基本的価値観が、統治者によって、あるいはポピュリズムで都合よく変わるようなことが繰り返されるようでは国家として信用は得られないだろう。法治主義よりも人治主義、理性よりも感情、近代合理主義よりも儒教的価値観(賄賂や復讐などの負の側面において)、偏狭な愛国主義が払拭できないで人々のマインドと思考回路支配しているいるようなら、国際社会の一員として生きてゆく韓国の負の遺産となろう。

 日本も明治維新後に復活した皇国史観と、小中華帝国的な隣国への眼差しを批判的に総括し改める必要がある。「神功皇后の三韓征伐」などと言う史実として検証されていない「勇ましい」物語を、隣国蔑視の根拠としたり、まして現実の外交戦略を規定する深層意識に置いておくことなどできるのだろうか。両国ともに理性的で合理的な歴史認識と理解、感情論の排除が未来志向の両国関係の構築の基本となる。感情的で偏狭な愛国主義はどこの国の国民にとっても危険だ。国の為政者が自らの権力欲と権益のためにというロジックを隠し持ちながら争う時に、こうした「反日」「嫌韓」感情を煽って国民、市民を巻き込まないで欲しいものだ。またこうしたプロパガンダが、実は問題の本質を覆い隠すことに使われることは思い出す必要がある。先の大戦で多くの人々が「愛国心」の名の下に、「国策」の名の下に犠牲になったことは忘れたわけではあるまい。これは敗者となった日本が学んだ教訓であるだけではないはずだ。市民/国民は為政者のプロパガンダや扇動に惑わされてはならない。同時に権力者が言う「正しい歴史認識」などと言う言説に惑わされてはならない。歴史とは常に勝者のものである。敗者の歴史は残されない。歴史は都合の良いところだけが、権力者を正当化することに利用される恐れがあることを常に心に留めておくことだ。我々は賢くあらねばならない。このためには権力者を監視し批判を許す自由な言論が不可欠だ。言論人:ジャーナリストの矜持が今くらい求められる時もないだろう。雑多なネット情報も賢く取捨選択できる判断能力を養うことも大事だ。でないと為政者が引き起こす国同士のいさかいから、私人として一線を画して世の中を見ることは難しくなる。国同士が喧嘩しているからといって、私人同士が相手を誹謗中傷したり憎しみ合ったりする理由は全くない。不戦の誓いはそういった私人の目線に立ち返る事から始まる。


撮影機材:Leica M10-P + Smmilux-M 35mm f.1.4 ASPH
先の大戦で命を落とされた多くの方々への鎮魂の祈りを込めて