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2020年9月15日火曜日

ヤン・ヨーステン(耶揚子)とは何者か? 〜ウィリアム・アダム以外のリーフデ号生き残りのその後〜

日蘭修好三百八十周年記念碑
日蘭修好三百八十周年記念碑
ヤン・ヨーステン像とリーフデ号が刻まれている



  前回紹介したオランダ船リーフデ号の日本到着(漂着)の話。あまりにもイギリス人航海士ウィリアム・アダムス/三浦按針が有名過ぎて、その他の乗員のことはまるで話題になっていない。せいぜい同乗していたオランダ人ヤン・ヨーステンの名前は教科書にも出てくるが、彼とてもその人物像や事績は驚くほど知られていない。まして他の乗員はどうなったのか。ほとんど言及がないというか関心が持たれていない。まるで日本に漂着したのはこの二人だけであるかのような扱いである。アダムスの記録によれば日本に漂着した時点で24名の乗員がいたはずである。彼らにも彼らのその後の人生があった。忘れられたリーフデ号乗組員の物語だ。そのことは後述するが、まずは謎のオランダ人ヤンヨーステンのことだ。

ヤン・ヨーステン(耶揚子)とは何者だったのか?

本名はヤン・ヨーステン・ファン・ローデンステイン:Jan Joosten van Lodensteyn。ヤン・ヨーステンはファーストネームだ。ウィリアム・アダムスとともに1600年、リーフデ号で豊後佐志生に漂着したオランダ人である。徳川家康に重用され、アダムスとともに士分に取り立てられ江戸に屋敷を与えられたとされている。そしてアダムスと同様、日本人の妻を迎え「耶揚子」と名乗った。しかし、それ以上の彼の生涯がどのようなものであったのかを知らなかった。ウィリアム・アダムスが小説や映画のモデルにもなり、日本語を含む多くの研究書まで登場しているのに比べて影が薄い。せいぜい東京の「八重洲」という地名の由来として知られているくらいで、実際に彼はどのような人物で、日本到着後どのような活動をしたのか。その生涯はどのようなものであったのか明らかではない。教科書でその名前は知ったが、実は「何者か」知らない謎の人物である。

最近、森良和氏の著作「リーフデ号の人々〜忘れられた船員たち〜」(2014年学文社)に出会った。同氏は今年出版された「三浦按針その生涯と時代」東京堂出版の著者としても知られる近世日欧交流史、比較文明/文化史の研究者だ。本書ではイギリス人ウィリアム・アダムス以外の、ヤン・ヨーステンほかオランダ人船員の消息が紹介されている。リーフデ号に関する数少ない貴重な研究著作である。以下この書籍に基づいてヤン・ヨーステンの秘密を読み解いていきたい。

彼は1556?生まれ〜1623死去。オランダ(当時はスペイン領であった)のデルフト出身である。あの陶器で有名な町だ。同郷の画家フェルメール、国際法学者グロチウスとほぼ同時代人。この頃のオランダは独立戦争や宗教弾圧で不安定な状況であった。そうした中でヤン・ヨーステンの一族は町の市長や議員を務める有力者であったし、親族がデルフトのオランダ東インド会社の重役を務めるなど要職にあったようだ。彼の弟ヤコブも、後にオランダ東インド会社の船で平戸に帰港し、兄ヨーステンと涙の再会をしている。結婚はしていなかったようで、妻の名前も、子供の記録もない。40歳独身でリーフデ号に乗船しロッテルダムを出港したようだ。ただリーフデ号における役割の記録はない。


ヤン・ヨーステンは日本で何をしたのか?

次に日本で彼はどう生き、何をしたのか?。実は1600年に日本に上陸して10年は彼がどのような活動をしていたか記録がなく不明である。何時頃から家康に重用されたのか明らかではないという。ある時、長崎の豪商で長崎代官を務める村山等安が、駿府の家康に長崎にいたヤン・ヨーステンを引き合わせたとされている。ということはヤン・ヨーステンはこの頃長崎にいたことになる。1610年、家康は、ノビスパン(スペイン領のメキシコ)との通交を企図していた(アダムスに伊豆伊東で西洋船を建造させている)。この頃ヤン・ヨーステンは家康に謁見が許され、海外情勢について様々な解説をしたと言われている。これがきっかけでヤン・ヨーステンは家康に重用され始める。既に家康に重用されていたアダムス/按針は旗本に取り立てられていて活躍していた。その事実はオランダやイギリスにも知れ渡っていおり、アダムスは内外の有名人であったが、ヤン・ヨーステンの方はまだ無名であった。この頃江戸に屋敷を与えられ妻をめとり娘をもうけたたようだ。また長崎に所領地を与えられたとされているが、アダムスの場合と異なり、そうした正式の記録が見つかっていない。家康が亡くなる前年の1615年に外交顧問になったとされている。このようにアダムスに比べ、7〜8年遅れて家康、秀忠に重用されるようになった。

彼は2隻のジャンク船を所有し、長崎を拠点に1612年から家康の朱印状を得て10数回にわたってインドシナ半島との間を行き来して「ビジネス精神旺盛」な貿易家として活躍した。この頃の貿易家、海商は、いいわば海賊と紙一重で、そのアグレッシヴな手法はイギリス商館とのトラブルや、ポルトガル船への略奪行為(この頃の私掠船は貿易の一環だたが)、平戸藩主とのトラブルなど、豪腕な冒険的商人としての活動が様々な軋轢を生み出していたようだ。幕府は海賊行為を禁じていた。1616年に大御所家康が死去すると、将軍秀忠は早くも1616年5月には海外との貿易制限を始め、彼の商売だけでなくオランダ、イギリスの交易活動に逆風が吹き始める。ここでも彼は強引な手法で将軍に制限撤回を画策工作し、将軍や幕臣の不興を買ったようだ。やがて友好関係にあった平戸のイギリス商館のコックスとの間も不仲となり、それでも中国貿易に活路を見出そうと長崎を拠点に交易販路拡大に望みを繋いだ。しかし最後はバタビアからの帰途、1623年に南シナ海パラセル諸島府付近で遭難し果てた。

このようにヤン・ヨーステンは大胆で強引な手法を多用する、借金も儲けも多い「ハイリスクハイリターン」型の一種の冒険的商人であったようだ。それだけに敵も多かったのだろう。最後には将軍秀忠に疎まれた。彼の事績を評価しない歴史観が出来上がっていったのかもしれない。しかし、一方で彼には仲間の人望もあり、苦境に立たされたり、処刑されそうになった仲間を体を張って助けたという記録も残っている。後世のオランダ側の資料では、彼の死後1637年バタビア総督は彼を、サントフォールトとともに日本におけるオランダ人コミュニティーの中心人物と評価している。また長崎の日本人の間でも「和蘭陀の頭目」として記憶されているという。

先述のようにヤン・ヨーステンはオランダデルフト出身であり、彼の一族には東インド会社の重役もいたので、日本へ進出してきたオランダ東インド会社、平戸オランダ商館などとの関係があったと思われるが、アダムスほどには記録がなく不思議な存在である。オランダの日本進出も、イギリスの進出も、アダムスの存在、彼の果たした役割が大きい。彼が日本に到達し、「皇帝」(家康)に重用されていることはすでに本国に伝わっていた。一方、この時点でのヤン・ヨーステンの存在は故国オランダにどの程度伝わっていたのだろうか。オランダ東インド会社が日本にやってきた来たとき何をしていたのだろう。あまり存在感が伝わっていない。そもそも初期のオランダ商館日誌等の記録がほぼ残っていないことが原因かもしれない。一方、オランダに5年遅れて平戸に進出してきたイギリス商館の初代館長コックスの日誌や手紙には彼の名前がアダムスとともに頻繁に登場してくる。こうしたいくつかの資料が主な彼に関する主な情報源であるようだ。まだまだ未知の部分が多い人物だ。

ちなみに、ヤン・ヨーステンは「砲術師」であったので、関ヶ原の戦いの時に、小早秀秋の陣へ放った「問い鉄砲」や、大坂の陣で大坂城天守に大穴を開けた大砲(カルバリン砲)は、このリーフデ号の大砲で、彼が砲撃指揮したとするエピソードが伝わっている。大坂の陣での大砲はイギリスから調達したものだと考えられているが、ヤン・ヨーステンやリーフデ号の乗組員が戦闘に参加したとうい話は、ありそうで面白いのだが、これらは資料的にも、また戦史の観点からも検証はされていない。


江戸の屋敷はどこにあったのか。「八重洲」とはどこか?

ところで、彼が家康から拝領されたという屋敷はどこにあったのか。一般にヤン・ヨーステン(耶揚子)が住んだ場所が、彼の名前に因んで「八代洲」「八重洲」と呼ばれるようになったと言われているが、その「八重洲」とはどこなのか?東京駅八重洲口一帯、すなわち現在の中央区八重洲がそうだと理解されているが、このあたりの町名が八重洲と称されるようになったのは実は戦後のことだ。もとは八重洲河岸は内堀沿い、すなわち現在の千代田区丸の内の和田倉門から馬場先門の日比谷通りあたりだと言われている(戦前には丸の内に八重洲町という地名があった)。昭和初年に東京駅の東口が開業されると八重洲口と呼ぶようになり、これが「地名の移動」のきっかけとなったようだ。現在、丸ビル南側の通りの地下駐車場入り口の際にオランダから送られたリーフデ号のモニュメントが飾られている。このあたりが彼の屋敷のあったところではないかと言われている。ちなみに現在、ヤン・ヨーステン(耶揚子)の記念碑、肖像は東京駅八重洲口に2箇所ある。八重洲中央通りの日本橋三丁目交差点の中央分離帯に1箇所。八重洲地下街にもう1箇所。しかし、これらは先述のように彼の屋敷跡を示すものではない。いずれも戦後、地名の由来としてのヤン・ヨーステン(耶揚子:八重洲)に因んで、日蘭修好の記念に設置された記念碑だ。なんだか紛らわしい。ところで、アダムス/按針が日本橋に旗本として屋敷を拝領しているがここは町人町だ。その一方ヤンヨーステンの屋敷は、大大名や有力旗本が住む武家地。この違いはなんなのだろう。アダムス/按針の日本橋の屋敷「あんじん丁」の記載のある江戸の古地図「武州豊島郡江戸庄」にも「やえすがし」の名はみつからない。いずれにせよヤン・ヨーステン/耶揚子が住ったという「八重洲」の謎はまだ解けてはいない。


このほかのリーフデ号の人々

このように振り返ると、冒頭に述べたようにウィリアム・アダムス/三浦按針とヤン・ヨーステン/耶揚子の名は後世に伝わっているが、そのほかの船員の消息に関してはさらに情報が乏しい。まるで他にリーフデ号の生き残りはいなかったかのような扱いだ。森良和先生の「リーフデ号の人びと 忘れられた船員たち」によれば、リーフデ号がロッテルダムを出港したときには110名の乗組員がいたが、日本の豊後に到着したときには24名になっていた。到着の翌日に3名が亡くなり、その後上陸後しばらくして3名が亡くなった。したがって18名が生き残り(その人名リストが掲載されている)日本で暮らした。一時、皇帝(家康)からの贈与金の分配を巡って仲間割れし、散り散りに日本の各地に去っていったが、その後はお互いに連絡を取りあっていたようだ。しかし、アダムス/按針やヤン・ヨーステン/耶揚子は別として、それぞれがどこに住んだかは確かではない。断片的にわかるのは最初に連れてこられた堺や、浦賀、平戸、長崎など、やはり海につながる街に住んだようだ。このなかで商館の日誌や手紙など様々な情報を集め、多少なりとも記録を追える次の二人のオランダ人を森先生は紹介している。

メルヒオール・ファン・サントフォールト:Melchior van Santvoort (1570?~1641)
リーフデ号の書記であった。生まれや生い立ちは不明である。日本人(イサベラ:江戸の大工の娘と言われている)と結婚し娘(イサベラ、スザンナ)をもうけた。長崎で過ごし、幕府ともオランダ商館とも一定の距離を置いた私人として貿易に従事した。一時、後述のクワッケルナックとともに出国しマレー半島のバタニに渡るが、再び日本に戻った。アダムスやヤン・ヨーステンのように、家康に気に入られて士分に取り立てられたり、屋敷や領地を与えられはしなかった。しかしオランダ東インド会社の平戸進出時には通訳を務めたり、駿府への旅をアレンジしたり、商館設立や交易開始に貢献したことがいくつかの手紙などの資料に残っている。またイギリスの平戸進出に際してもジョン・セーリスや商館長コックスとの交流もあったらしく手紙が残っている。しかし、彼はあくまでも独立の私人として活動した。おそらくアダムスとの連携もあったのだろう。しかし、アグレッシヴなヤン・ヨーステンとは異なり、私利私欲にとらわれない温厚な人物で信頼感を持たれていたようで、英蘭双方から高い評価を得ていた。長崎では日本人の豪商との付き合いも多く、日本人の船頭を抱え、人々の間でもヤン・ヨーステンとともに「和蘭陀の頭目」として一目置かれていたと言う。バテレン追放令に伴い、やむなく1640年に家族で台湾に去り、その後バタビアへ移った。そして2年後にそこで死去した。結局漂着以来40年ほど日本に滞在し、リーフデ号生き残りの中では最も長く滞在した人物となった。アダムスやヨーステンの倍近くを日本で過ごしたことになる。晩年は日蘭関係をよく知る人物として親しまれた。また彼の娘は二人とも、後にオランダ商館員と結婚し、その子供たちがのちに長崎出島のオランダ商館長一家として赴任してくる。このように彼は日蘭関係史という視点からも重要な役割を果たした人物であり、なぜこれまで歴史の表舞台に登場してこなかったのか不思議だ。もっと評価を得ても良いのではないかと感じる。今後もう少し研究してみたい。

ヤコブ・ヤンスゾーン・ファン・クワッケルナック:Jacob Quaeckernaeck( 1554?~1606)
リーフデ号の3人目の船長。ロッテルダム出身。アダムスと同様、故国に妻がいる。一族には東インド会社に関わる親族がおり、彼もランクの高い船員であった。日本上陸時にはかなり衰弱していて指揮を取れなかったのでアダムスが代わりに指揮をとった。早くから帰国を望んでいたらしく家康に一番初めに帰国を許された一人。1605年にサントフォールトとともにバタニに渡るが、オランダ東インド会社の就職支援を得ることが出来ず(進出したばかりで人がいない開店休業状態であったようだ)、サントフォールトは再び日本に戻り、クワッケルナックはジョホールへ行く。そこで、彼の貴重な経験を買われ来航中のオランダ艦隊に所属して船長になった。しかしマラッカでポルトガル艦隊との交戦中戦死する。こうして世界を就航した経験のある航海士、船長にして、極東の日本にたどり着いた冒険者は南海に散っていった。


「彷徨えるオランダ人」の逞しさ

このほかにも、その後の消息が詳細記録に残っていない「リーフデ号の人々」がいた。先述のように、リーフデ号の生き残りは、日本上陸ののち家康に留め置かれ(出国を許されず)、それぞれ堺や浦賀、平戸、長崎などで生活し、日本を拠点に船乗りとして貿易商人として活躍したものと考えられている。そして、結局は誰一人、故国に帰ったものはいない。もともとそうした野望を持ってロッテルダムを出てきた冒険魂あふれる「野郎ども」である。地獄のような航海を生き残った屈強な男たちである。苦難の末にたどり着いた場所で一花咲かせようとした。人が行かないところへ行って成功してやろうと!命を賭けて世界の果てにたどり着いた。彼の地で「望郷の念止みがたし」で帰国を強く望んでいたかというと、必ずしもそうでもないところが興味深い。母国が戦乱と異端迫害の混乱の中にあったことも大きな動機になったかもしれない。が、我々日本人の感覚で言うと、はるけき異国の地に漂着し、毎晩故国を夢見ながら、いつ帰国できるか指折り数えながら惨めで寂しく生きた、と考えたいところであるが、彼らは、日本で拾った命を「神の恩寵」として最大限生かし、平戸や長崎などを拠点としてジャンク船を使って海外貿易にのりだしている。ある意味「念願かなって」チャンスを掴んだと考えた。故国に帰る時は成功者として「錦を飾る」のでなければ帰らないと。もちろんその後は鎖国政策により、迫害されたり、家族もろとも国外に追放されたり。穏やかな老後とは無縁の後半生が待っていた。「彷徨えるオランダ人」や「アングロサクソン」の逞しさ、シタタカさである。国外追放になっても結局一人も故国へ戻ったものはいない。歴史の闇の中に消えていったものもあるが、先述のように華々しく南海に散っていったものもある。日本人として生き、そこに屍を埋めたものもある。のちに残した子孫がバタビアの東インド会社で活躍するものも現れる。そして長崎出島の商館長としてに舞い戻ってくる。まさに「人生至る所青山在り」。である。幕末の土佐人中浜万次郎:ジョン万次郎のような日本人もいたが、えてしてそうした逞しさは我々日本人にはないのだろうか。この頃のイギリス人やオランダ人の「世界を股にかける」ということの意味を見つめ直す機会となるエピソードである。

「故郷は遠きにありて想うもの そして悲しく歌うもの よしや異土のかたい(乞食)となるとても 帰るところにあるまじや」室生犀星

日本人のセンティメントとは違うと感じるが、この歌を彼らに捧げたい。


東京駅八重洲口から伸びる八重洲中央通りの日本橋三丁目交差点
に設置されている「日蘭修好380周年記念碑」


1989年4月20日の日付


東京駅八重洲地下街のヤン・ヨーステン像




壁面の一角で気づかず通り過ぎてしまいそう


東京駅丸の内口
丸ビルの南側に設置されている
「オランダ船リーフデ号」モニュメント


ヤン・ヨーステン屋敷跡と推定されている



和田倉門から馬場先門を望む日比谷通り
この内堀沿いに「やえすがし」があったとされる



さらに詳しく知りいたい方は是非ご参照を↓




2020年9月12日土曜日

古書を巡る旅(5)〜「ペリー艦隊日本遠征記」"Narrative of the Expedition to China Seas and Japan"のオリジナル版発見~





ハードカバー表紙
金文字に型押し


以前、1856年の「ペリー艦隊日本遠征記」縮約版:Narrative of the Expedition to China Seas and Japan、ニューヨークのAppleton 社刊行についてブログで紹介した(2015年5月26日「古書を巡る旅〜「ペリー艦隊日本遠征記」縮約版〜)。しかし、古書コレクターの視点で見るとこれは、後世、装丁が大きく改変されていて、初版本としてのオリジナリティーが保たれていない状態であった。特に外装は新しいものに取り替えられており、書籍としての程度は良いが、歴史的な古書としての佇まいが失われている。かつ(残念なことに)背表紙のタイトルがミスタイプされてる。Narrative of the Expedition to China Seas and Japanとすべきところを、Narrative of the Expediition to China and Japanとなっている。ペリー艦隊は中国には行っていないのでこれは大きなミスだ。この本の内容を正しく表していない。

オリジナルはどのような装丁の書籍であったのか以前から気になってた。横浜の開港博物館や下田の黒船ミュージアム、日比谷図書館で見学(ガラスケース越しに)したオリジナル版らしい書籍は、ページを開いて中のイラストを展示しており外装がよくわからない。検分する限りどれもかなり表紙が痛んでいて、どのようなデザインであるか目視では確認できなかった。ネットで画像検索すると、海外中心にの書店や図書館所蔵のいくつか画像が出てきたが、後世に装丁を直したらしいものが多く、中には豪華な装丁に換装されているものまである。その中で、いくつかオリジナルのままらしいものが見つかり、その一つが神保町の北沢書店のものであった。早速、北沢書店に問い合わせると、程度は「並」で随所に痛みがあるがオリジナル版であるとのこと。「やはり現品を見にこられることをお勧めします」とのことで早速見せてもらいに神保町に向かった。

北沢書店では議会版(下院版)と縮約版を鍵のかかる稀覯書の棚から取り出して、店主自ら詳細に解説していただいた。議会版はハードクロスカバーの3分冊の重い本である。一方の縮約版も、なるほどこれがオリジナルか、と感動する美しい作りの書籍である。グレーのクロス装丁で表紙と表にタイトルと飾りイラストが金押しで丁寧に飾られ、エンボス加工のデザインが施されていてなかなか魅力的な本だ。しかし、出版から160年以上経過しているので、それなりの経年劣化があり背表紙の金字が薄れているほか、真ん中あたりでバインディングが外れている。しかしオリジナルの状態をよく残している。いかにも文化財、歴史的資料というオーラを纏った書籍である。

議会版は、日本についての記述をまとめた第一巻(例の「話題騒然!下田混浴図」付きである)、日本以外の記述をまとめた第二巻、航海中の天文観測についてまとめた第三巻からなる。イラストの版画が豊富で、しかも精密である。カラー刷りも多用され美しい。艦隊には写真家も同行したようだが、挿入されている図版は全てリトグラフだ。ある意味カラー写真よりも緻密で、それでいて時空を超えた空気感がある。それだけでも当時の日本の様子が手にとるように分かり(もちろん異国人が見たエキゾチックな日本であるが)興味深い。地図もふんだんに折りたたんで挿入されてなかなか豪華な内容である。しかしとてもすぐに手が出る価格ではないので、より手の届きやすい縮約版を中心に検分させていただいた。こちらも縮約版とはいえ600ページを超える内容で地図やイラストも豊富で、議会版に劣らぬ豪華本である。

以下の写真を見ていただきたい。縮約版とはいえ26*17cmのサイズで600ページを超えるかなり大部の重い大型本である。ハードカバーの背表紙の金文字はかなり磨耗して剥落しているが、型押しデザインの表紙の日米友好を象徴する金字のイラストは鮮明に残っている。これだけでも貴重だ。ページの欠落などはない。書籍の中程のページで背綴じが外れたところがあり、これは修復は難しそうだ。これを本格的にやるとなると、前回見た換装版のように表紙、背表紙、裏表紙カバーを総取り替えして、バインディングをやり直さなければならないのだろう。店主に伺ったが、なかなかオリジナルのままで、書籍としての脆弱性がなく完璧に原本の状態を保っているものは少ないだろうという。またバインディングをやり直すとすれば、日本ではなくイギリスやアメリカの専門業者に頼むべきだと説明してくれた。まあ、学術研究図書として頻繁に貸し出したり、研究者が回し読みしたりする「資料」としてではなく、歴史的な古文書、文化財として将来にわたって保存していくべきものであろうと考えると、オリジナリティーをできるだけ保ったままの方が良いように思う。

北沢書店店主は、さすがに博識で経験豊かな洋古書の専門家である。かつてロンドンにもたびたび買い付けに行ったと、その時の話を聞かせていただいた。懐かしいセシルコートやベーカーストリートの古書店の話で盛り上がった。貴重な古書を発見、発掘することと、それを市場のニーズに合わせて流通させること。なかなか大変な商売だ。シーズの発掘とニーズの掘り起こし。これはいずれのビジネスにおいても共通する課題であるとここでも再認識した。また90年頃のバブル時代末期には、このペリー遠征記もロンドン経由で何冊か日本に入ってきたが、この頃はめっきり減ったという。こうした稀覯書の流通もその国の経済状態を反映するものだということがよく分かった。また、こうした稀覯書は、意外にオリジナルは質素な装丁の書籍であることがままあるようで、のちにその著作者や書籍の歴史的評価が高まると、それに応じて所有者が、装丁を改めて、蔵書としての体裁を整えることがあるそうだ。特に、イギリス田園地帯のマナーハウスやロンドンのマンションハウスの書斎に並んでいる蔵書棚は見事であるが、こうしたインテリア的な視点からの換装が行われたようだ。多くのシェークスピア全集やディケンズの著作集なども豪華な装丁に変更されたものがあると言う。その極端な例の一つがアダム・スミスの「国富論」だそうだ。18世紀出版当時のオリジナル版は簡素な表紙の書物であったが、時代を経るにしたがって、後世の蔵書家や図書館が豪華な装丁に換装していったという。今流通しているアダム・スミスの「国富論」「道徳感情論」のオリジナルとされる古書はこうしたものが多いそうだ。おもしろい話だ。書籍がその内容や情報を伝えるための
「媒体:メディア」であるだけでなく、歴史を纏うと「工芸品」として後世に受け継がれてゆく。一冊の古書にも様々なストーリーがある。こういう話が聞けるのが古書店通いの醍醐味である。





背表紙はかなり金文字が剥落しているが豪華な意匠である

背景は議会版に掲載されている下田の了仙寺(下田条約締結の場所)と思われるプリント
Bridge of Cut Stone & Entrance to a Temple, Simoda

表紙を飾る金字のイラストと型押しのフリル
左に日本のサムライが徳川の旗を掲げ、右にアメリカの水兵が星条旗を掲げる
和船と黒船が並ぶ日米和親を象徴するイラスト
背景の山は富士山と思われる

背表紙

Commodore M.C. Perry, United States Navy


ペルリ像

2020年9月5日土曜日

ウィリアム・アダムス(三浦按針)の江戸屋敷跡を探す 〜William Adams, the first Englishman who once settled in Japan〜

日本橋室町1−10にある按針屋敷跡の石碑


今年はウィリアムアダムス(William Adams)/三浦按針没後400年である。

これまでもウィリアム・アダムス/三浦按針の業績やその生きた時代についてはブログで何度か紹介してきた(2020年7月12日「世界史と日本史の遭遇」2009年12月28日「ウィリアム・アダムスの生きた時代」)。アダムス/按針は私が最も興味を抱く歴史上の人物の一人である。私が英国で学生生活を送り、仕事でも長く滞在し、大の英国文化好きになってしまったこと、そして彼の生まれ故郷ケント州に住んだことがあるという奇遇もあるが、なによりも16世期末から17世紀初頭に西欧と日本を繋ぎ、歴史を作った稀有な経験を有した人物であるからである。しかもそれは航海者として冒険者としてであり、けっして王侯貴族や宣教師、大商人や武勇に優れた将軍としてではなく、一人の市井の民として奇しくも歴史に名を残すこととなった。極めてドラマチックな人生であり、それゆえに多くの小説の主人公にもなっている。ここまでの展開を彼は想定してはいなかったであろう。

これまでは、主に書籍によりアダムス/按針の事績を追ってきた。しかし彼の日本における足跡を追いかけて、実際にその現場を訪ねてみたいとの思いに駆られるようになった。それこそ「時空トラベラー」の本領である。まずは身近な東京に彼が徳川家康から与えられたという日本橋の屋敷跡をぜひ確認しておきたいと思い探し始めた。ところが、これが意外に見つけるのに苦労した。これだけ歴史の教科書にも出てくる人物で江戸/東京に縁のある英国人なのに、その住まいを辿ることがこれほど大変なことになるとは思っても見なかった。というのも東京都や中央区の観光案内にも三浦按針やこの屋敷跡を示す石碑の存在については出ているが具体的な場所やアクセスの表示がなく、またGoogleMapで検索してもにも出てこない(下記のサイトを参照願いたい)。結局いくつかの個人のお散歩ブログなどを参照させてもらい、ようやく通称「按針通り」のこの辺じゃないかと目星をつけることができた。つまりブログに掲載されている石碑の写真に写っている周囲のビルや看板などで推理して、今日ようやくたどり着いたというわけだ。

その場所は中央区日本橋室町1−10である。と言っても実は広いブロックになっているのでまだこれだけでは場所をピンポイントで特定はできない(下記GoogleMapの表示のとおり)。日本橋三越新館前から中央通りを渡ると、まっすぐ東へ進む「按針通り」がある。昭和初期までは実際の地名として使われていたようだが、今の町名は日本橋室町となっている。この短い通りの途中に石碑があることまではわかったのだが、ここからが分かりにくい。結局は海苔屋さんと、宝石屋さんのビルに挟まれた谷間(隙間)にひっそりと石碑が鎮座しているのを発見した。これが三浦按針邸宅跡の石碑である。見つけてみればなんということもないのだが、あたりにはまったくそれを示す表示もなく、路駐の車が並んでいるので視界が遮られ、ただ歩いているだけではそれと気づく人はいないだろう。もう少し親切な案内表示でもあればと残念に思う。とまあ、いきなり場所探しのぼやきから始まって恐縮だが、石碑自体は小さいが立派なもので英文と和文で刻まれている。「1951年5月に数人の日本人により再建された」とある。この頃の地元の人々のアダムス/按針に寄せる想いを感じさせる。「再建された」ということから、以前には別の石碑でも建っていたのだろうか。震災、戦災や戦後の区画整理の影響だろうか。


以下、石碑の記述を原文のまま引用。

(英文)
IN MEMORY OF WILLIAM ADAMS, KNOWN  AS MIURA ANJIN, THE FIRST ENGLISHMAN TO SETTLE IN JAPAN, COMING AS PILOT ON BOARD THE CHARITY IN 1600 WHO RESIDED IN A MANSION BUILT ON THIS SPOT. WHO INSTRUCTED JYEASU, THE FIRST TOKUGAWA SHOGUN, ON GUNNERY, GEOGRAPHY, MATHEMATICS, ETC., AND CONSTRUCTED FOR HIS SEVERAL SHIPS ON THE EUROPEAN MODEL. WHILE RENDERING VALUABLE SERVICES IN FOREIGN AFFAIRS, AND WHO MARRIED A JAPANESE LADY MISS MAGOME AND DIED ON APRIL 24, 1620 AT THE AGE OF FIFTY SEVEN YEARS.

REBUILT BY SOME JAPANESE, MAY 1951.



(和文)
ウィリアム・アダムスは西暦1564年イギリスのケント州に生まれ。慶長5年(1600)渡来、徳川家康に迎えられて江戸に入り、この地に屋敷を給せられた。造船、砲術、地理、数学等に業績をあげ、ついで家康、秀忠の外交特に通商の顧問となり、日英貿易等に貢献し、元和6年(1620)1月24日平戸に歿した。
日本名三浦按針は相模國逸見に領地を有し、またもと航海長であったことに由来し、この地も昭和初年まで按針町と呼ばれた。




1600年、豊後臼杵佐志生に到着(漂着)したオランダ船リーフデ号の乗組員は、イングランド人ウィリアム・アダムス(William Adams, 1565~1620)の他、オランダ人のヤン・ヨーステン・ファン・ローデンステイン(Jan Joosten van Lodensteyn, 1556?~1623)やメルヒオール・ファン・サントフォール(Melchior van Santvoort, 1570?~1641)、ヤコブ・クワッケルナック(Jacob Quaeckernaeck, ?~1606)など7〜8名が江戸や浦賀近辺に屋敷を与えられて定住したと言われている。知られているようにヤン・ヨーステンはアダムスと同様に家康に重用され、江戸に屋敷を拝領している。今の八重洲という地名は彼の名前から来ている。このように家康にとって、眼前の関ヶ原の戦いや、その次の豊臣家との最終決戦である大坂の陣を控え、僥倖とも言える形で転がり込んできた、西欧の最新の知識や技術をもったいわばテクノクラート集団は貴重であった。航海士は航法だけでなく数学や天文学、地理の知識を持ったイノベーティヴな技術者である。もちろん世界の海を航海してきた実績を有す。そしてそのほかにも砲術師や船大工も得難い人材である。しかも大量の大砲や鉄砲とともにあるわけだ。彼らは漂着直後は疑いの目で見られて牢獄に繋がれたが、解放され浦賀に曳航、係留されていたボロ船リーフデ号に集団で暮らしていた。やがて彼らは洋式帆船の建造に駆り出されて家康に重用される。また当時はスペイン/ポルトガルの宣教師たちが海外情報をほぼ独占していた時代である。これに危機感を持っていた家康にとって布教に関心を寄せない(しかもヨーロッパにおいてカトリック国に対抗しているプロテスタント国出身だという)あらたな情報ソース、海外ウィンドウは外交戦略的にも有用であった。この頃から彼らにはそれぞれに屋敷が用意され、日本への定住を促すために配偶者を世話されるようになる。アダムスやヨーステンのように旗本に取り立てられ「サムライ」となるものも出てきたわけだ。その一方、彼らは容易に帰国が許されない状況になってゆく。

アダムス/按針には日本とイングランドに家族がいた。江戸の日本橋に屋敷を拝領したころに結婚したようだ。相手は大伝馬町の下級役人「馬込勘解由」の娘「おゆき」とされるが、確かな資料は残っていないようだ。その妻「おゆき」との間に長男ジョセフと長女スザンナの二人をもうけた。そのほかに平戸に婚外子がいたというが、その詳細は不明だ。ジョセフは父の仕事を継ぎ、平戸を拠点とする朱印船貿易に従事した。またアダムス/按針の死後、母とともに三浦半島の逸見の領地の相続を安堵され、また日本橋の屋敷も保持していたようだ。ジョセフは英国商館長コックスのサポートを受け、父、三浦按針の名を継ぎ、いわば「三浦按針2世」として朱印状貿易に従事した。英国商館が平戸から1623年に撤退するとコックスも日本を離れ、後ろ盾を失ったジョセフは、オランダ商館や末次平蔵、茶屋四郎次郎などの日本人豪商とともに平戸や長崎で貿易商人として活躍した。しかし、晩年の消息は明らかにはなっていない。いわゆる一連の鎖国政策のもと、多くバテレンや外国人、その家族となった日本人や子供たちが国外追放された苦難の時代へと転換していったことから、日本には残らなかったのかもしれない。しかし英国へ渡ったという記録も残っていないようだ。あるいは日本人と認められ日本に残った可能性もある。だとすれば現在まで血統が続いていて子孫/末裔がいるのかも。ただ三浦半島の逸見の領地はその後別の旗本の領地になったので、ジョセフは他界し、相続する子孫もいなかったのかもしれない。私人としての生涯を物語る記録がない。またイングランドに残してきた妻メアリー・ハインとの間に二人の子がいた。長女デリヴァランスともう一人男の子がいたようだがこちらは消息がわかっていない。娘のデリヴァランスはその後結婚し子をもうけた。アダムス/按針の孫だ。したがってその末裔がイングランドにいた(いる)可能性がないとは言えない。現在、イングランドにはアダムスの子孫であると自称する人が複数いるそうだが、いずれも言い伝えで確かな証拠があるわけではない。こうしたアダムス/按針の家族のことは平戸の英国商館を通じた手紙や商館日誌で断片的に知られているが、どれもそれ以上の詳細な状況はわかってない。特に商館長のコックスはアダムス/按針と親しく、アダムス一家(アダムス夫人、ジョセフ、スザンナ)とも家族ぐるみで交流があった。江戸参府時には日本橋の按針屋敷や三浦半島逸見の館を訪問している。しかし、平戸の商館撤退後、コックスは帰国途上のインド洋上で病死し、故国イングランドには帰りついていない。したがって日本でのアダムス一家の状況を故国に伝えることは叶わなかった。今後、アダムス/按針の子孫、末裔に関する新たな資料や情報が発見されることを期待したいものだ。

このようにアダムス/按針は日本で家族を持ったが、片時もイングランドに残してきた家族のことを忘れたことはなかったと言われている。せっせと妻メアリーに手紙を書き、生活費を東インド会社を通じて送金し、平戸に寄港する母国の船にこれらを託した。そして機会あるごとに帰国を望んだ。しかし結果的には彼の生まれ故郷、家族の待つケント州ギリンガムに帰ることは叶わないまま平戸に没した。波乱万丈、劇的な生涯である。確かにイングランドに戻っても、日本にいるときのような領地/領民を与えられ、旗本としての特権的地位を与えられるという、まるで(若き日の彼にとって無縁の存在であった)イングランド貴族のような生活は望むべくもない。また、困難は伴うものの航海者として冒険的商人として、平戸を拠点に東洋の海を駆け巡る仕事は魅力的でもあっただろう。一方、望郷の念止みがたし。残してきた妻や子供たちへの想い絶ち難し。彼が奇しくも果たした歴史的な役割の重要性とは別に、一人の人間としての苦難と懊悩、ジレンマは、我々の思いの及ぶところではない。

アダムス/按針にゆかりの地は、このほかにも三浦半島の逸見に領地を与えられたので、京急辺見駅、安針塚にゆかりの地がある。ここには夫妻の墓がある。また、アダムス/安針が家康に請われて洋式帆船を建造した伊豆伊東の松川河口にもドック跡と記念碑がある。そしてその後移り住んだ肥前平戸では朱印船貿易で活躍し、オランダ商館のほか、彼も一時期所属した英国商館など多くのゆかりの場所がある。望郷の念に駆られつつもついに帰国することなく「さむらいウィリアムス」として生涯を終えた終焉の地である。ここに彼の墓がある。もちろん彼の数奇な運命の始まりとなったリーフデ号漂着の地、豊後臼杵の佐志生にも記念碑がある。また彼の生まれ故郷であるイングランド・ケント州ギリンガムにも、それぞれぜひ訪れてみたいものだ。


(参考文献)
「三浦按針 その生涯と時代」森良和著 東京堂出版  2020年
「SAMURAI WILLIAM The Englishman Who Opened Japan」Giles Milton  Farmer, Straus and Giroux  2002



石碑の全体
小さいが立派なモニュメントだ
英文と和文で彼の事績が刻まれている


江戸古地図には「あんじん丁」とあるが、その後昭和初期までは「按針通り」。そして現在は日本橋室町と改称されている。「按針通り」は通称として使用されている。



ビルとビルの間にひっそり佇む
これじゃあ見つけにくい

按針通り
正面は日本橋三越
折しも「三越英国フェアー」開催中である

日本橋三越
1673年(延宝元年)伊勢の商人三井高利が日本橋に開いた呉服店「越後屋」を起源とする



江戸初期にあったと考えられる三浦按針の屋敷の位置は古地図上で確認できる。これは文化12年(1815年)の「古代御江戸絵図」である。このころは古地図の復刻ブームであったようで版元は江戸の蘭香堂である。もとの地図はは寛永9年(1632年)「武州豊島郡江戸庄図」。これを複製したものであり、「明暦の大火」以前の江戸の姿を伝える現存の江戸全図としては最も古いものと言われている。地図には消失前の江戸城の天守閣も描かれている。日本橋あたりをクロースアップしてよく見ると「日本ばし」の右に「あんじん丁」の表示がある。現在の石碑が設置されている場所である。1632年といえばアダムス/按針が平戸で亡くなった1620年から12年ほど後の地図である。この屋敷がその子ジョセフに相続され、実際に住まわれていたが、いつ頃まで「按針屋敷」であったのか不明である。少なくとも町の名前としては残っていることがわかる。

(参考文献)
「地図で読む江戸時代」山下和正著 柏書房 1998年初版



寛永9年(1632年)の「武州豊島郡江戸庄図」
復刻版「古代御江戸絵図」文化12年(1815年)


ウィリアム・アダムス:William Adams
三浦按針肖像
いつの頃のものか明らかでない



Google Map: 東京都中央区日本橋室町1−10「按針通り」


2020年8月18日火曜日

古書を巡る旅(4)〜エドモンド・マローンのシェークスピア全集の謎〜

Edmond Malone's Shakspeare
1816

エドモンド・マローン(Edmond Malone)のシェークスピア全集(The Works of William Shakspeare)(全16巻)のうちの12巻までは揃えたが、なかなか残りの4巻が揃わなかった。探していたら未入手の3巻が、神保町の北澤書店で見つかり、早速注文して送ってもらった。これであとは第8巻が手に入れば全巻入手ということになる。これまで1冊、2冊とボチボチ店頭やネットで見つけた都度集めてきたもので、とうとう15冊まで集まったということになる。まさかここまで来るとは考えてもみなかった。

(注:現在ではシェークスピアはShakespeareと記述するが、マローンはShakspeareと記述したので、以下これに従う)

収集を始めたきっかけは、北澤書店のネットショッピングサイトで見つけたこと。全巻揃っていたわけではなく、数冊がバラバラに出品されていた。以前からシェークスピア研究者、編纂者として著名なマローンの業績に惹かれていたので、すぐに飛びついた。初版は1816年版、日本では文化13年の刊行という、書籍自体の歴史的な価値にも惹かれた。この頃の書籍はまるで工芸品のような装丁で美しい。何しろ200年以上昔の「文化財」だ。マローンが生きた18世期後半〜19世紀初頭は、日本では江戸時代後半。十返舎一九(「東海道中膝栗毛」)、滝沢馬琴(「南総里見八犬伝」)、山東京伝(浮世絵)、蔦屋重三郎(出版元)、本居宣長(「古事記伝」)、上田秋成(「雨月物語」)などが活躍した、いわゆる「文化文政の文化」の時代だ。また田沼意次の重商主義的な政策から、天明の飢饉を経て(1783−88年)松平定信の質素倹約の寛政の改革。寛政異学の禁などの締め付けが厳しくなって、庶民文化が疲弊した時期でもある。一方でロシア船やイギリス船がしきりに日本近海に出没し通交を求めて、海防論が盛んになり始めた時期でもある。徳川幕府の統治に綻びが出始め、幕末に向けて内憂外患の前奏曲が奏でられ始めた時代だ。一方で、イギリスでは1770年頃には産業革命が始まり、1776年にアメリカ植民地東部13州が独立したものの、アジアではインド支配の拡張など大英帝国の版図が広がった時期である。1789年にはフランス革命が起き、ヨーロッパの激動、大英帝国の伸長の時代である。文芸界では「ロンドンに飽きた者は人生に飽きた者だ」という有名な言葉や、多くの英国流の皮肉に満ちた警句を残したサミュエル・ジョンソン(Samuel Johnson 1709-1784)が活躍した。ジョンソンは1755年、「英語辞書」を編纂。また「シェークスピア全集」の編纂にも取り掛かる。そしてアダム・スミスの「道徳感情論」(1759年)「国富論」(1776年)が出されたイギリスの繁栄の光と陰の時代でもある。。

そんな時代のエドモンド・マローン(Edmond Malone)(1741-1812) はアイルランドの法律家であり歴史家で、シェークスピアの研究家でもある。1741年アイルランドのダブリンに生まれ、トリニティーカレッジで勉強し、その後イングランド、ロンドンのインナーテンプルなどで勉強したのちに弁護士資格を取った。父がアイルランドの国会議員や、判事であったことから、その跡を継ぐことが期待され法律家の道へ進んだが、あまりハッピーではなかったようだ。しかし文学との接点はまだこの時にはなかった。確かに文学者や文壇の大物のイメージが薄い。そうしたこともあってか日本ではそれほど知名度がないし、シェークスピア研究者でも取り上げる人が少ないようだが、イギリスやアメリカではシェークスピア作品の編纂者で作品を体系的に整理し全集を完成させた人物として知られている。先述の英国文壇の大物サミュエル・ジョンソン(Samuel Johnson)との交流を通じてシェークスピア全集編纂にかかわることになり、ジョージ・スティーヴンス(George Steevens)とのジョンソン/スティーブンソン版のシェークスピア全集の編纂事業を引き継ぎ、1790年に新しい研究成果をもとに全集(The Plays and Poems of William Shakspeare)を完成させた。特にシェークスピア作品の発表の順序がこれまで諸説あって曖昧だったのを文献史学的に検証し確定させた功績は大きいと言われている。また当時盛んであったサロン的なシェークスピア論議に対して、編纂者という視点からの作品の研究と整理、評論というアプローチの嚆矢となった。1812年にイングランドのロンドンで死去している

手元の全集 (The Works of William Shakspeare)は1816年(日本では文化13年)にロンドンで出版されたものだ。序文PrefaceにはOctobe 25, 1790 Queen^Anne-Street, Eastとある。マローンがロンドンで死去した1812年の4年後の刊行である。ところが出版社の記述はなく「printed for the proprietors」と記されている。「the proprietors」(所有者)とは誰のことであろう。市販されなかったのだろうか。まさか私家本なのか? ネットで検索しても引っかかってこない。第一巻の巻頭のシェークスピアの肖像プリントは、全く同じものが大英博物館のプリント部門のコレクションにある。1786年のリトグラフだという。これが収められているのにその書籍自体は見つからない。記録としては、先述のように1790年に最初の全集(The Plays and Poems of William Shakspeare)が完成したとされるし、序文でもこの全集に言及しているが、実際の初版本は未確認である。そののち版を重ねて何回か出版されているが、マローン自身が編纂したものと考えられる(The Works of Shakspeare)をネットで英米の図書館、大学の蔵書を検索してみたが、1860年代に出版されたものがあるが、それ以前のものは見つからなかった。どうも1816年のこの全集が現存するマローン版としては最も古いものなのか。この全集の氏素性を書誌学の専門家に聞いてみる必要がありそうだ。この第1巻はほとんどのページが序文で占められている。まずマローン自身の1790年の日付の序文に始まり、サミュエル・ジョンソン、ポープ、スティーヴンスや他の研究者の「序文」の引用で飾られている。これらの中で自らのシェークスピアに関する所感、作品のクロノロジーなどが脚注を交えて詳細に記述されている。また第2巻は英国の演劇、劇場に関する歴史について全紙幅を費やしている(グローブ座や俳優のイラストが挿入されている)。これらの解説には膨大な数の脚注がつけられており、彼の実証的研究姿勢が感じられる。実際の作品が紹介されるのは第3巻以降である。この全集が単なるシェークスピア作品集ではなく、ドクター・ジョンソン、スティーヴンスや他の先人たちの輝かしい成果の集大成の上に、彼独自の最新の研究成果による修正と補筆を加えた研究書、評論集としての性格がよく現れている。古来謎の多いシェークスピアの作品を整理、確定したまさに彼の生涯をかけた著作集と言っても良い。1812年の彼の死後も、1816年のこの版を含めて改訂版が出版されているが、「ジョンソン伝」を表したジェームス・ボズウェルの息子ジェームス・ボズウェル2世がこれを引き継いだとする研究もある。しかし少なくともこの1816年版にボズウェルの名は出てこない。

この全集そのものは手にとってみるとやはり出版から200年以上を経ている分、あちこちが痛んでいるし、印刷が薄れたり、帳合がずれていたり、シミが出るなどで、かなり古色蒼然たる佇まいである。しかし革装の美しい本である。何よりもマローンの研究者としての成果が凝縮した書籍である。このようなシェークスピア全集は貴重で、こうした出会いを大切にしたいと思っている。工芸品と言っても良いような佇まいの革装の全集は本棚でその存在感を遺憾なく発揮してくれている。おそらくコンプリートセットの全集だと、とても高価で手が出ないと思うが、幸いに、というか不幸にもというか、巷に散逸してバラバラになってしまっていたようだ。こうして一冊二冊と見つけるたびに揃えていけば安価で、しかもコレクションのプロセスが楽しい。もっとも全巻揃うかは全く保証の限りではないし根気もいる。現にこれもまだ第8巻が欠けている。ボチボチ拾って回るのが面白いとも言える。最後の一巻が見つかるのはいつのことかわからないが、気長に探すことにしよう。北澤書店には引き続き探してもらっている。

(8月21日追記:本日、北澤書店より探していた本が見つかった、とのことで、最後の第8巻が送られてきた。これで想定していたよりも早く全16巻揃い踏みとなった。なんとまあ!感動である!さすが洋古書の専門店ネットワーク、サーチ力とカスタマーサービスに感嘆する。多謝、多謝!)

最後の一冊が!




Edmond Malone 1741-1812
London National Portrait Gallery所蔵
第1巻巻頭

革装の美しい背表紙
もう工芸品と言って良い


全16巻であるがまだ第8巻が抜けている
William Shakspeare(1564〜1616)肖像
1786

The Globe Theatre




2020年8月14日金曜日

古書を巡る旅(3)〜ひさびさの神保町古書店徘徊〜

革装丁の古書は工芸品としての美しさがある
今回入手した「Glimpses of Unfamiliar Japan」Lafcadio Hearn
(上の2冊)


ネットショッピング全盛のこのご時世。ご多分に漏れず神田神保町の古書店街も大きな影響を受けているに違いない。Aマゾンなどというバーチャルショッピングモールの隆盛で本屋が店じまいするケースも出てきて本屋探訪の楽しみを奪われたと嘆く人も多い。と言いつつもネットショッピングを便利にも使っているが... そこへコロナパンデミック騒ぎ。緊急事態宣言は解除になったとはいえ、東京はこれまでにない感染者の増加で、人々は不要不急の外出は控えるようになっている。そんななか久しぶりに神保町へ行ってみた。神保町交差点の岩波書店を中心に昔ながらの古書店が軒を連ねている。主に古書店は靖国通りの北側に並んでいる。これは南向きだと書籍に陽が当たり「焼ける」からだと言う。なるほどそういえばそうだ。合理的な立地選択だ。それにしてもこれほどの書店が集積している街は世界のどこを探してもないだろう。夏目漱石が探訪し、私も徘徊したロンドンのチャーリングクロスやセシルコートも素敵な古書店街だがこれほどの規模ではない。ニューヨークには大型書店はあるが古書店街は見当たらない。北京には素晴らしい文房具街があるが古書店街はなかったように思う。ここは駿河台、一橋の大学街との共生がその起源であるという。出版、印刷が加わり独自のエコシステムを構成している。この歴史を見ると昔の学生はよく本を読んだものだとわかる。それ以降の時代、学生運動が一段落した頃には、神田神保町はスキーなどのスポーツ用品店やギターなどの楽器店が増えた。これも学生の意識や生活スタイルの傾向に合わせた動きであった。勉強よりも遊びと趣味。

ともあれ、やはり神保町は世界に冠たる書店街だ。このご時世であるから比較的人出は少ないものの、本好き、古書好きにとって「聖地巡礼」は欠かせないルーチンだから全く人影が途絶えることはない。国内外の文化財級の古文書、書籍、プリントなどの宝庫であり、かつ日常的な読書需要を満たす豊富で安価な古書を扱い続けている。日本人の知的好奇心と文化的成熟度を体現する街といって良い。イスラム教の聖地メッカでさえソーシャルディスタンスをとって巡礼を行なっているくらいだから、神田神保町巡礼の火は消えていない。こんな困難な時期だが閉店してしまった店はなさそうだ。後述のように内情は火の車だが。

今回のお目当ては神保町で100年以上の歴史を誇る洋古書専門の「北沢書店」。いつもオンラインでお世話になっているが、今回は初めて入店。そこはアッと息を飲む「洋古書の大海」、あるいは書林という言葉がぴったりの「深い森」だ。そう「知のラビリンス」。店内の佇まいも、ロンドンの「古書店」のようなお宝がどこに潜んでいるか分からないようなダンジョン的雰囲気ではなく、整然としている。探検するワクワク感は薄いものの、品格と知性を感じる。客は少なく私を入れて二人だけ。まずはラフカディオ・ハーンの「Glimpses of Unfamiliar Japan」を探す。彼が日本について最初に書いた本だ。初めて松江についた最初の宿での日本の印象。翌朝の松江大橋を渡る人々の下駄の音で目が覚める。あの印象的なフレーズが登場する本だ。その後の松江時代、熊本時代の著作は我が家の蔵書として並んでいるのだが、これだけは今まで手に入らなかった。日本関係の書籍も多い。エドワード・モースの「Japan Day by Day」が目についた。イザベラ・バードの「Unbeaten Track of Japan」もしっかりある。定番のはずのハーンのものが見つけ出せず年配の店主に聞いた。すぐに「ハーンはあちこちに散らばってますのでご案内します」として4箇所ばかり教えてくれた。日本関係書コーナー、英文学書コーナー、初版本ばかりの稀覯書コーナー、そしてハーン研究者の著作コーナー。なるほどすごいコレクションだ。さすが店主はその在り処をたちどころに教えてくれる。それでも店主は「以前はハーンはもっと人気があり研究者も多くて、注文もたくさん来たので世界中から取り寄せていたが、最近は減りました」と言っていた。探していた「Glimpses ...」も最近は初版本が入らないし、注文もないので在庫はないとのこと。その代わり日本の雄松堂が1981年に復刻したFacsimile版(300部限定)で程度の良いものがあったので購入した。ハーンはその時々で人気が復活したり、下火になったりの繰り返しだそうだ。人気の理由はテレビで見た、とか雑誌で取り上げられていた、とか素人受けしやすい理由のようだ。私のような研究者でもない素人が話題になると探すのだろうか。その他にもシェークスピア関係、ディケンズや英文学関連の古書は当然ながら豊富だ。珍しいものでは19世期スコットランドのセントアンドリュース大学の神学者John Tullochの美しい革装丁の本もあった。大学時代の法哲学講義で名前だけは聞いたことがある。ウン十年ぶりの再会である。こうした思いがけない出会いがまた楽しい。ここはやはり人文科学系の古書が中心と見える。一日居ても飽きない空間だ。この古書の大海に揺蕩いながら日がな一日過ごすのも悪くない。

先述のように、北沢書店は、他の神保町の書店と同様、最近は来店数が減り、大学研究者もネット検索で調べるので、来店して実際に手に取ってみたり、注文する人が減っているそうだ。しかも、在庫が掃けず、流通もしないので大きな声ではいえないが廃棄せざるを得ない書籍があるような状況になっているとも言う。なんともったいない!そこで、4代目の若店主が、オンラインショップを10年ほど以前から開始した。しかも売れなくて長く在庫となっている古書を処分するのはもったいないとして、装丁の美しい古書や、全集としてそろわない古書、デザインの美しいプリント/古写真/ポストカードを中心にDisplay Booksとして新しい活用法をネットを通じて提案した。良い着眼だと思う。特にヨーロッパの革装バインディングの書籍は、それ自体がいわば美術品、工芸品と言っても良い美しさがある。これを入手しやすい価格で提供する。これが反響を呼び(NHKや多くのメディアでも取り上げられた)インテリア業界や、店舗ディスプレーデザイナー、ギャラリー、あるいは個人の蔵書家から注文が入るようになったと言う。私もその一人だが、まるで古書ハンティングの常識が変わる新しい体験である。「オンライン古書店」という一見バーチャルとリアルの対極にあって合い入れないようなコンセプトの店と言うのがまた楽しい。見やすくレイアウトされたサイトで美しい装丁の古書を見ているだけでも楽しめる。しかもこれまで馴染みのなかった著者の本をこのサイトで知る機会にもなっている。もちろんここでブラウズして買うこともできるし、神保町のリアル店へ行って実際に手に取ってみることもできる。こうしたネット上のバーチャル店舗と神保町のリアル店舗が相まって独特の古書ハンティングワールドを創出している。とはいえやはり書店のあの独特の古書の匂いと、その場の雰囲気と人生を咀嚼し身に付けているような風貌の店主、静寂、背表紙をプラウズしてゆく楽しみ、その中からお目当ての本を探し出した時の「達成感」。これも大事にしたい。したがってできるだけ足を運ぶのが良い。しかし最近は古書店受難の時代である。ロンドンのシティーにあったあの古書店も、ニューヨークのマディソン街で見つけたあの古書店も、今は実店舗を閉め、あるいは郊外へ移転し、オンライン中心になっている。良い場所での実店舗維持はなかなか大変なようだ。しかし、神保町という伝統の古書街でこそ頑張ってほしい。そのためにはもっと利用しなくてはいけない。100年の伝統の老舗「北沢書店」をなくしてはならないし、世界でも稀有な規模を誇る古書店街をなくしてはならない。書店の側もこれからもオンラインを敵視せず、上手に併用して新しい世界を提案してほしい。

しかし、こうして新しい提案で新機軸に果敢に挑戦する若い店主がいると、必ずこれにケチをつける人間が現れる。「本をなんと心得る」といった上から目線の「あるべき論」から、「ええかっこするな」というやっかみ論まで。ツイッター上で同書店を誹謗中傷する輩が現れ、これに反論するツイートとが入り乱れてが本題そっちのけの感情的バトル状態になっているようだ。特にマスコミで話題になると決まって、匿名で罵詈雑言を浴びせ始める輩が登場する。悲しい人達だ。いちいち反応せずに無視するのが一番だが、傍若無人に延々と書き込まれてそれで傷つく人がいることは看過できない。ツイッターはFacebookと違い実名で登場しない限り本人確認ができない仕組みになっているので、結構な無責任ツイートが横行しがち。実名で無責任なfake newsを垂れ流している某超大国の大統領もいるが、そうしたfake news, 誹謗中傷コメントを書き込む輩のツイートを見ると、常に誰かを誹謗中傷している。そして妙な自己顕示欲丸出し(およそ知的ではないが、時には知識人気取りもいる)ツイートをしている。炎上を喜んでいる「放火犯」「愉快犯」的だ。どうもパラノイア的性格の人物が多いのだろうが、普通の人間だってこうしたツイート見て「行きがけの駄賃」のノリで人を「バカ」呼ばわりしてうさ晴らしをする手合もいる。いずれも自分の弱さの表明なのだが。先だっても若いプロレスラーの女性がこうした誹謗中傷コメントに耐えきれなくて命を絶ったばかりだ。「匿名」という姿を隠しての卑怯な言説がのさばるSNS、無責任に口汚く悪口を書き立てるSNSって、本当に我々は「表現の自由」の手段を獲得したと言えるのだろうか。SNSは一定のモラルとルールがないと、ネット社会の負の側面を助長するツールに成り下がってしまうことは疑うべくもない。

北沢書店もこんなものに負けず頑張ってチャレンジ続けてほしい。革新には必ず、様々な抵抗勢力が現れる。まして伝統的な確立したモデルのある業界での事業モデルイノベーションは、その逆風も半端ではないだろう。ネット時代にネットを活用してイノベーションを起こす。それにはネットの負の側面もあることを忘れずに賢く対処してほしい。

やっぱり、井上陽水の「ブラタモリ」主題歌じゃないが、

「♪SNSなんか見てないで古書店に一緒に行こう♫」だよね〜


神保町交差点
靖国通りと白山通りが交わる

100年の歴史を持つ洋古書の専門店「北沢書店」。今回の探検先だ。さて「知のラビリンス」へ、いざ!



すごい!


よく整理分類されている!



Display Booksのコーナー
とりわけ装丁の美しい工芸品ともいうべき書籍が並んでいる



一階は子供向けの本とカフェ



もちろん神保町には、この他にもそれぞれの得意専門書を扱う個性的な古書店が軒を連ねている。























靖国通りを一歩入ると、昔ながらの喫茶「さぼうる」。2号店も隣にできた?入店待ちで結構並んでいる。





昔からある老舗の古書店も健在だ。






古地図と浮世絵の専門店。
そこは完全に江戸の蔦屋重三郎の世界だ!


(撮影機材:Leica SL2 + Lumix 20-60/3.5-5.6 パナソニックから最近出た20−60mmというLマウントのズームレンズ。おもしろい焦点距離だが、これが町歩きに最適。軽量でコンパクト(しかも安い!)。近接撮影もでき思いのほかボケる。20mm始まりという画角もちょうど良くて、広角特有の歪曲もなく店内での撮影に威力を発揮する。ヘビー級のLeica SL2ボディーとの組み合わせだと、ちょうどバランスの良いお散歩ブラパチカメラとなる。いいもの見つけた!ちなみに「北沢書店内」は許可を得て撮影)