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2021年3月18日木曜日

百貨店というワンダーランド 〜重要文化財としての三越日本橋店探訪〜


日本橋三越本館玄関


東京には近代建築遺産ともいうべき歴史的な建物が多い。そもそも「近代建築遺産」とは、主に明治以降に西欧建築の影響のもとに建てられたもので、歴史的価値が評価されて保存修景されているものをいう。だいたい昭和初期くらいまでの建物をいうようだ。「洋館」として、あるいは「赤煉瓦ビル」「大理石ビル」として建設が進み、中には和洋折衷というか「擬洋風」「帝冠建築」の建物もあって、これらを見て回るだけでも興味深い。やはり東京や大阪はその集積度が高く、大阪にいた時も随分大大阪時代の近代建築遺産を見て回ったものだ(以前のブログ参照)。一時は大阪でも東京でも都市の再開発が進む中、その歴史的な建築物の取り壊しが問題となった。そのような建築遺産の保存が危ぶまれる事態になっていたが、大阪では中之島のダイビルのように大規模な建て替えと、歴史的な建築遺産の保存をうまく両立させた例がある。また最近では大丸心斎橋店の建て替えに伴い、やはりその歴史的遺産の保存承継が話題になった(後述する)。東京ではかつてのフランク・ロイド・ライト設計の帝国ホテルや日比谷三信ビル、丸の内銀行協会ビルのように惜しげもなく解体されてしまったビルもあるが、第一生命ビル、明治生命館のようにファサードや内装を極力生かしたまま、高層部を継ぎ足す形で現代的な用途にも合うよう増築改装したものが多い。あるいは三菱一号館や、東京駅のように元の形に復元再建した例もある。

そうした中であまり近代建築遺産という視点で捉えてこなかった歴史的建築物に百貨店(デパート)がある。考えてみると百貨店はその街の顔であったり、その街の繁栄のシンボルであったり、その街の歴史の証人であったりする。何よりもわれわれの日常生活にも馴染みの深い建物である。その都市にはいくつ百貨店(デパート)があるか、どんな建物か、どれほどの品揃いかは、その街の大きさ豊かさのバロメーターであった。特に老舗の百貨店は荘厳な建物を競って建てた。東京では三越はもちろん、いまでも新宿の伊勢丹、銀座の松坂屋(Ginza6となり今はない)、松屋、日本橋の高島屋があり、外装を変更したものもあるが歴史を感じさせる堂々たる建築として町に存在感を誇っている。一方で「有楽町で会いましょう♪」の有楽町そごうのように撤退を余儀なくされ、跡地が量販店のBカメラになっているところもある。電鉄系の百貨店には業態を変えているところも出始めている。

大阪では難波の南海高島屋、御堂筋の大丸心斎橋がその代表であろう。阪急の梅田本店も立派だったが今は完全に建て替わってしまった。近鉄上本町店も大軌時代のレトロビルが建て替わり、昔の面影がなくなってしまった。大丸心斎橋は1922年、ウィリアム・ヴォーリス設計の歴史的建築である。建築文化遺産といって良い。2010年に建替えの話が出た時には、この歴史的建築物が大阪心斎橋から無くなると皆心配したものだが、2019年に耐震構造化、高層化してリニューアルオープンした。新しい上層部が旧本館の上に建て増されたが、見事にヴォーリス設計のオリジナルのファサードと内装が復元された。大大阪という街の歴史に対する誇りと敬意が示された形だ。続いて本館隣の旧そごう、現在の大丸北館の建て替えに移るようだ。しかし、一方でかつての大大阪のメインストリーであった堺筋(御堂筋が拡幅される以前はこちらが中心街であった)にあった三越や松坂屋はとうに無くなってしまった。かつての百貨店激戦区大阪の現在の姿である。

我が故郷、発展著しい福岡/博多で百貨店といえば、天神の岩田屋、中洲の玉屋であった。呉服町に博多大丸もあったが天神に移転した。なかでも岩田屋は、大阪の阪急や阪神、南海、近鉄のようなターミナルデパートで、西鉄福岡駅に直結したデパートとして、天神交差点の一角に陣取った堂々たる建物であった。その外観は東京で言えば銀座4丁目交差点の服部時計店(和光)のレトロビルにとてもよく似た佇まいであった。懐かしい特撮怪獣映画の「ラドン」が舞い降りたあのデパートだ。玉屋は中洲にそそり立つシックなレンガ色の洋館で、那珂川の川面に映るシルエットに情緒があった。どちらも福博のランドマークとして威容を誇った近代建築であったが、今は両方とも跡形もなく消えて無くなってしまった。残念ながら商業的な合理性が優先されて歴史的な建築遺産に敬意を払っているいとまがなかったようだ。商業的にといえば、その岩田屋は西鉄福岡(天神)駅のターミナルデパートの地位は東京からやってきた三越に明け渡し、旧天神電話局跡に移転した。岩田屋自体も三越伊勢丹ホールディングの傘下に入った。岩田屋のあった天神交差点の一等地は、これまた東京から進出してきた西武系のパルコになった(ビルは新築ではなく壁面をリノベしたもの。外装を外すと元のレトロな岩田屋ビルが現れるという都市伝説がある...)。JR博多駅の新ビルには阪急と東急が主要テナントで入り、その隣の博多郵便局跡の日本郵便ビルにはなんとマルイが入った。かつて、福岡には東京・大阪資本の百貨店は一店もなかったのだが、福博財界完敗の構図だ。

世界を見渡すとロンドンにはナイツブリッジのハロッズ(Harrod's)、オックスフォードストリートのセルフリッジ(Selfridge)がある。ニューヨークにはメイシーズ(Macy's)、ブルーミングデール(Bloomingdale)がある。いずれもそれぞれの街の繁栄の象徴らしく素晴らしい堂々たる建築の百貨店である。ことにハロッズは今でも王室御用達の格式ある百貨店で三越のモデルになったとも言われている。もちろん観光客にも人気の店で、買い物しなくても、その建物、内装、品揃いなどどれをとっても一見の価値がある。ここでの私的体験に基づくエピソードを一つ。家族四人でランチに行った時のことだ。それぞれにサンドウィッチやサラダを注文した。下の子だけは一人で全部食べきれないのでシェアーしたいと取り皿をくれるよう年配のウェーターに頼んだところ、「ここではそういうサーブはしていない」と慇懃に断られた。それを見ていた若いウェートレスが、すかさず取り皿とナイフ/フォークを持ってきてくれて「今日からルールが変わりました!」とニヤリ。新旧交代。伝統や格式は時代によって変化してゆくものなのだ。そういう若いウェートレスのウイットに富んだ「機転」も今に生きる老舗のホスピタリティなのだ。もちろん彼女にチップを弾んでことは言うまでもない。

小売流通業界の激変で、伝統的な百貨店型ビジネスモデルに逆風が吹いて久しい。量販店やスーパー、専門店ビル、さらにはネット通販と、今や新しい流通チャネルが流通業界の主役の地位を次々と奪って、多くの百貨店が閉店し廃業し、往年の輝きは失われつつある、特に地方における百貨店の生き残りは厳しいものがある。それでも地域の特色を生かした老舗が、新しい価値観、体験、ストーリーを提供してその街の歴史とともに歩んでいるのは心強い。概して言えるのは繁栄の時代の象徴である歴史的な建築遺産を残せる百貨店が生き残っているとも言える。それだけ百貨店建築はその街の歴史の生き証人といっても良いだろう。

いまや小売業界の雄としては姿をフェードアウトさせつつある百貨店、デパートも、その言葉の響きには、われわれ昭和団塊世代にとってはノスタルジックなものがある。小さい頃、日曜日といえば父母や祖父母に連れて行ってもらったものだ。そこは子供達のワンダーランド。洋服売り場は退屈な場所。おもちゃ売り場は夢の国。そして屋上は乗り物がいっぱいのテーマパーク。時には「迷子」になって泣きながら、案内係のお姉さんと一緒に母が現れるのを待つ。大食堂で「お子様ランチ」を食べて大満足して(チキンライスの上に刺してある旗を記念に持って)帰る。1日遊んでもまだ足りない。そんな夢の世界であった。夏休みに大阪と東京のおじいちゃん、おばあちゃん家(ち)へ行くと、そこでも百貨店へ遊びに連れて行ってもらい、福岡とは違うその大きさと豪華さに驚いたものだ。そんな昭和な時代の思い出の詰まった百貨店である。また百貨店は街の文化の発信基地であった。大きな美術展、展覧会や、観劇の会場はたいてい百貨店であった。特に地方ではそうであった。今では、美術館やギャラリー、規模の大きな専用の劇場ができたが、かつては大きなイベントの会場は百貨店と相場が決まっていた。ファッションショーもデパートの催物の目玉であった。実は私も幼稚園の頃に天神の岩田屋のファッションショーに出た!今でも晴れがましい思い出の一コマとなっている。デパートは我が「舞台デビュー」の第一歩であった。それが最初で最後であったが... ちなみにその時、一緒に出場した女の子が舞台上で動かなくなってしまい、私が手を引いて舞台袖に連れて帰ったので会場から笑いと大拍手をもらって恥ずかしかったことを思い出す。今や白髪頭のひねたオヤジにもそんな可愛い子供の時代があった。

 東京には多くの老舗百貨店があるが、その代表格の一つはなんと言っても三越であろう。この日本橋店は、そもそも江戸時代の三井家、越後屋呉服店の跡に開店した日本初の百貨店である。三越百貨店創業の地であることからも、その歴史的なランドマークとしての価値も高い。この三越日本橋店は、関東大震災後に建てられた建物の鉄骨構造を生かして昭和2年(1927年)、鉄筋コンクリート7階建で竣工。昭和10年(1935年)に増築し、五層吹き抜けの中央ホール、劇場、特別食堂を整備。フルブロック地上7階建ての現在の本館となった。横川工務所設計施工。意匠はルネッサンス様式、内装の一部はアールデコ様式とし、百貨店建築の代表となっている。玄関前の二頭のライオン像は、ロンドンのトラファルガー広場のネルソン提督像の根元に鎮座するライオンを模したものだ。また、五層吹き抜けの中央ホールに聳える天女像は、創業50周年を記念して10年の制作年数を経て、昭和35年(1960年)完成した高さ11メートルの木彫だ。佐藤玄々の作。いずれも三越の格式と伝統を象徴するものとして今に受け継がれている。2016年に建物は国の重要文化財に指定。百貨店黄金時代の「生きた文化財」として後世に伝えられることになった。百貨店受難の時代。この「百貨店」というビジネスモデル共々「産業近代化遺産」化してしまう前に、せいぜい利用して「動態保存」に努めていく必要があるだろう。店内をふと見回すと、来店客は圧倒的に中高年が多い。これからの少子高齢化の時代は「若者」ではなく「お金持ち」のシニア層を狙ったビジネスモデルで生きていけるにちがいない。そのためには建物もそれなりの歴史による熟成と風格を備えたシニアに魅力的なものであることが必須だろうと妄想する。子供の頃のワンダーランド、百貨店は、いまや「あの頃子供」だったシニア世代のワンダーランドになっている。それだけの時間をわれわれとともに歩んできた百貨店を建物とともにこれからも大事にしたいと思う。



夜景ライトアップ(「新・美の巨人」ウェッブサイトより引用)


日本橋三越
「三井アベニュー」にそそり立つ堂々たるルネッサンス様式のビル

三越といえば「ライオン」
トラファルガー広場のライオンのコピー


玄関左右の「ライオン」は有名だが
玄関ファサードの上部に「黄金のマーキュリー像」があるのに気づかなかった

圧巻の中央ホールの5層の吹き抜け

天井はステンドグラス

佐藤玄々作
天女像
高さ11メートルの木彫

屋上にある夏目漱石の記念碑


三囲神社
三井家を守るという意味がある守護神
本館屋上に鎮座している

活動大黒天社


屋上庭園と塔屋

昭和10年の増築になる
「金字塔」



参考1)ロンドン・ナイツブリッジのハロッズ(写真はWikipedia、ロンドン旅行ガイドから引用)


ライトアップ



参考2)大阪 大丸心斎橋店

建て替えられた大丸心斎橋店
ヴォーリズ設計オリジナルのファサード、内装は見事に復元された
(大丸HPからの引用)

建て替え前の本館
2013年頃撮影


クリスマスシーズンのイルミネーション
2013年撮影


参考3)福岡天神 岩田屋(写真はWikipedia, 岩田屋社史から引用)

福岡天神の岩田屋
「西鉄急行電車」乗り場が左にある
後方に電電公社の天神電話局のマイクロウェーブ塔
大相撲九州場所の「スポーツセンター」の一部が左手に見えている。
1966年頃


岩田屋新装開店時の絵葉書
1936年

映画「ラドン」の特撮風景
1955年

現在の天神交差点
左が旧岩田屋、現パルコ




(撮影機材:三越写真:Leica SL2 + Lumix S 20-60/3.5-5.6、大丸/天神交差点写真:Nikon D850 + Nikkor 24-70/2.8)

2021年3月5日金曜日

古書を巡る旅(9)The Chiswick Shakespeare 〜古典文学とアート・クラフトが紡ぎ出す小宇宙〜


 

去年4月のブログで、漱石の「漾虚集」「こころ」の初版本とThe Chiswick Shakespeareとの出会い、その影響など考察してみた。その後もこの美しい、いわば文庫本版シェークスピア全集に強い関心を持って古書市場を探索して回っていた。ネット検索では主に英国の古書店サイトに出展されているが、日本の古書店ではなかなかお目にかからない。ところが、ある時神保町を散策していると、いつもお世話になっている北沢書店のショーケースに、この本が数冊ディスプレーされているのを発見した。この選択は洋古書ディスプレーブックスを手がける若店主だろう。さすがだ。この19世紀英国のアート・クラフト運動が生み出した工芸品とでも形容すべき本が、この洋古書店の知的で美しい佇まいを効果的に演出しているではないか。しかし、このシリーズをコレクションしていた私にとって、展示後のこの本の行方はどうなるのかとても気になっていた。そしてある時ついに若店主に、展示替えの折には譲って欲しい旨申し出た。これに快く応じてくれ、年末の展示替えを機に譲ってもらうことができた。なんと幸運なことか!これで全39巻のうち30巻が揃ったことになる。残りの9冊は、これからどのような縁(えにし)で我が手元にやってくるのか分からないが、その出会いの時が来るのを楽しみに待つとしよう。

冒頭に述べた去年のブログ。2020年4月10日古書を巡る旅(1)〜漱石「漾虚集」「こころ」そしてThe Chiswick Shakespeareとの出会い〜ご関心のある方はぜひ参照いただきたい。

このシェークスピア文庫本全集(The Chiswick Shapespeare)は、19世紀末期の英国にあったChiswick Pressという印刷所による画期的な全集だ。ロンドンの西部にチジック(Chiswick:英国式にはチスウィックではなくチジックと読む)という静かな住宅街がある。小説家や、詩人、演劇人が好んで住んだというこの地域にChiswick Pressは生まれた。Charles Whittingham (1767~1840)によって1810年に創業した。彼は手作業でプレスする小型の印刷機を考案した。また、ロンドンのテムズ河、ドックランドの船から出る大量の古い麻ロープからタールを抽出して印刷インクを製品化するなど工夫を凝らし、比較的低コストで印刷、出版が可能となるビジネスモデルを生み出した。これにより手に入れやすい価格で小型書籍を多く生み出していった。当時は、書籍出版といえば大型豪華本で高価なものが中心であった時代であったので、この商品はヒットし大きなビジネスに成長したという。やがて創業者の死後は、印刷所は甥のMIchael Whittinghamの手に渡り、1852年にロンドン中心街のChancery Laneに移転した。ここは私がかつて通ったLSEキャンパスの東にある通りである。Charing CrossからHolborn, Fleet Streetといった大学(LSE, Kings College London)、法曹学院(Lincolns Inn)や新聞社、出版社が集まる、ちょうど東京で言えばお茶の水、神田神保町のようなところである。ここへ進出したということはChiswick Pressの印刷/出版事業が大きく広がっていたのであろう。

実は、この全集の印刷はChiswick Pressであるし全集名もThe Chiswick Shakespeareであるのだが、出版元はGeorge Bell & Sonsとなっている。この出版社は1839年ロンドンで創業し、Fleet Street界隈で1986年まで事業を続けていた出版社である。主に教育関係の書籍の出版を手がけて、場所柄、ロンドン大学の出版事業(University College Publications)にも携わっていたようだ。合併買収で規模を拡大してゆき、1880年にChancery Laneにあった上述のCheswick Pressを買収している。そしてこのChiswick Pressで印刷、製本して、1899〜1902年にこの画期的なチジック版シェークスピア全集(The Chiswick Shakespeare)を出版したという訳である。

このThe Chiswick Shakespeare全集はポケットに入る文庫本サイズ(日本の新書版サイズに近い)である。原著Macmillan and Co.のCambridge text (Globe Edition)からのプリントで、解説はJohn Dennis。ユニークなのは、装丁・デザインを当時の英国におけるデザイン界をリードしたByam Shawが手がけている。彼は文字情報の伝達メディアと捉えられていた書籍にクラフトデザインの視点を取り入れ、ウィリアム・モリス:William Morrisのアート・アンド・クラフト運動(Art and Craft)の影響を強く受けた瀟洒で美しい全集に仕上げた。シェークスピアの主な作品が年代的に網羅された画期的な全集であるというだけでなく、手に取りやすく、ビジュアル・アート的にも魅力的な「工芸品」と呼んで良いようなコレクションである。120年経った現代では骨董的な風格を纏っており古書市場では人気のシリーズとなっている。こうした出版活動ムーヴメントが、当時ロンドン留学中の夏目漱石に大きな影響を与えたであろうという話は、前回のブログで考察した通りだ(上記ブログ参照)。

この本の印刷は手動の活版印刷。紙は上質紙を用い、日本製の羊皮紙を用いた豪華版もあるようだ(見てみたいものだ)。基本的に家内手工業的な手作りの本で、小型本にもかかわらずグリーンのハードカバーに、ウィリアム・モリス調の植物模様のデザインに金文字の押し型という凝りようだ。またByam Shaw自らデザインし製作した木版画やエッチングの挿画をふんだんに用いるなど、とにかく随所にこだわりを持った珠玉のクラフト作品と言える出来栄えである。一方で、手作りらしく、各ページの紙サイズの不揃い、ページナンバリングの抜け、飛びが散見される。また挿画のプリントも、本文印刷とは別に製本時に挿入されたものと見え、白紙に糊付けされているものがあるほか、ページの隅に鉛筆で挿入ページ指示が書き込まれているなど、手仕事感満載で興味深い。このページの「抜け」「飛び」は、我が家ヘの納品に当たっての検品で、北沢書店が発見したものだ。その部分に全て付箋紙を挿入しておいてくれたため確認しやすく、製本過程でおきた手違い(?)の貴重な発見となった。しかし納品書にもコメントしているように、ページ番号は飛んでいるものの文章内容は繋がっており、ページ自体の乱丁、落丁とも言えない。どうしてこのようなことが起きたのか不思議だ。ページナンバリングの印刷に手違いがあったのか?原因の探索はともかく、とりあえず「落丁、乱丁お取り替えいたします」といった現代の書籍とは別次元の、「これこそ手作り本のなせる技」だとしておこう。むしろこういうところが、120年前の活版印刷工や編集者、装丁デザイナーなど生身の人間が関わったことの証である。こういった「手違い」の痕跡が残っていることもまた古書の楽しみの一つである。「あばたもえくぼ」。それを含めてなんと魅力的な「工芸作品」であることか!今回は思いがけない発見に遭遇した。これだから「古書を巡る旅」はやめられない。

(2021年4月2日追記)

昨日北沢書店を訪ねた折に、店主の北沢さんに「ページ飛び」現象の推理を伺った。すなわち北沢説によると、このページ間に図版ページを入れる予定であったのが、入れ忘れたか、入れるのを止めたか。その結果、文脈は繋がったままページが飛んだのではないか、というもの。なるほど! 入れ忘れは考えにくいものの、木版やエッチングの挿画制作が間に合わなかったり、予定していた図版が編集段階で不採用になったりしたケースは考えられる。そういえばあとから追加したと思われる挿画ページ(挿入ページ箇所の指示が鉛筆書きされている)も発見した。合理的な推理である。であるならばなお手作り感満載で、編集過程の試行錯誤の痕跡として新たな興味が湧いてくる。ここにはどのような図版を入れる予定であったのか?どのような議論があったのか?いろんな妄想を膨らませてみるのは楽しい。北沢説に感謝だ。


(2021年4月5日追記)

英国にある夏目漱石記念館の館長恒松郁夫さんに問い合わせたところ、同館にもこのThe Cheswick Shakespeareが数冊あるとのこと。かつては全巻揃っていたが大半がNYの古書店に買取られたそうである。ただ漱石の蔵書ではないという。岩波文庫版の漱石作品集への江藤淳氏の解説にあった漱石初版本の装丁にウィリアム・モリスが大きく影響しているとのコメントがあったことや、1900年、漱石留学中にThe Cheswick Shakespeareが出版されていたこと。これらから当時、漱石が購入し、彼の蔵書に加えたのではないかと想像したが外れた。しかしこの頃の文学作品+ビジュアルアート作品=総合芸術という影響は受けたに違いない。ちなみに以前、新橋の古書市で手に入れたEdward Dowden:エドワード・ドーデンのシェークスピア注釈本は漱石蔵書として存在しているそうだ。ドーデンは漱石の師であったWilliam James Craig:クレイグ先生の友人であったから、実際に面会し薫陶を受けたようだ。恒松さんに感謝。

恒松さんからの回答の引用:

何冊かまだ所蔵しているはずです。全巻あったのですが数年前にNYの友人の古書店主に頼まれお譲りしました。漱石蔵書に含まれていなかったからです。漱石蔵書にはH. Irving版、それに漱石がわざわざ面会に出かけたファーニバル博士、クレイグ先生、ドーデンの注釈本などが含まれています。個人的にはイラストレーターのByam Shawがラファエロ前波のロセッティーに影響を受けていますので、彼の絵画を見にハルの美術館まで30数年前に訪ねました。彼が暮らした家は以前住んで居た拙宅から30分のところで、お墓はクルックシャンク、テニエルなどがある同じ墓地でした。墓地訪問は何回も訪ねており、幾度も写真をアップしています。

参考ウェッブサイト:Chiswick Book Festival


小さな文庫本書棚に並んだThe Chiswick Shakespeare
ストラトフォード土産「シェークスピアの生家」ミニチュアとともに

Byam Shawデザインのハードカバー

Byam Shawが手がけた木版印刷の表紙

エッチングによる挿画

「始まり、始まり〜」

「終わり」良ければ全て良し!


背表紙の表情にも個体差があり
骨董的な趣がある


若店主が発見したページの飛び(複数箇所見つかった)
58ページから61ページへ飛んでいる。しかし文脈は繋がっている。


London西部Thames河畔にあるChiswickの古地図
(Chiswick Book Festival HPより引用)

(撮影機材:Leica SL2 + Apo Summicron-SL 50/2, Lumix S 20-60/3.5-5.6)


2021年3月1日月曜日

東山魁夷の京都 その今は(2)日比谷同友会会報掲載版

 川端康成が「今のうちに京都を描いておいて欲しい。そのうち京都は無くなる」とある画家に懇願したのが昭和30年代後半1965年頃だと言われている。その画家とは東山魁夷である。東山魁夷は大自然の中の静寂と優しさの世界をモチーフとする風景画家としてその名声を博していた。その代表作は1982年に描いた「緑響く」である。東山魁夷といえば思い浮かべるのがこの作品だろう。川端康成はその世界に陶酔し、ぜひ東山魁夷に古都の情緒を後世に残して欲しいと思った。

 

一方で、東山魁夷はその「国民的風景画家」としての名声に反して自分の中では葛藤に苛まれていたという。川端康成が「懇願する」、人の手が入った都市、日本の文化のエッセンスに満ちた京都を描くことに逡巡していたという。結局、心を決めて京都へロケハンに出かけ、幾つかの名作を生み出すことになる。新しい東山魁夷ワールドを開くことになったわけだ。その旅の最後に描いたのがこの「年暮る」である。町家の甍に深深と降り積む雪。晦日の京都は歩く人の姿もなく、わずかに町家の窓から漏れる明かりと、道路端に駐車する一台の車が、この静かな雪の大晦日を過ごす人々のこの町にあることを示唆している。町に漂う静けさ。こういう京都という町の描き方もあるのか。東山ブルーの極致である。ただよく見ると軒下の壁は青緑で描かれていて、雪景色と町家の甍のコンビネーションから来る雪あかりの町にほどよい引き締め効果を与え、全体に独特の落ち着きを醸し出している。東山魁夷は、この界隈の風景を描くにあたって江戸時代の与謝蕪村の描いた「夜色楼台図」に着想を得たのではないかと言われている。しかし、その構図には空もなく、山もない。ただ雪降りしきる町屋の甍が連なる光景が切り取られている。何点かの習作が残されているが、やはり山種美術館所蔵の「年暮る」だろう。

 私は京都に行く時はホテルオークラ京都を定宿にしている。かつての京都ホテルである。その東山側の部屋からは鴨川を隔てて東山一帯が展望できる。カメラのファインダーで覗くと、まさに「年暮る」に描かれた要法寺を含む町の一角を切り取ることができる。東山魁夷もこの旧京都ホテルの屋上(旧館)からこの街並みをスケッチしたと言われている。「年暮る」を見た瞬間、京都ホテルからの景色を思い出したのも宜なるかなである。




東山魁夷「年暮る」
1968年(昭和43年)
(山種美術館蔵)

2016年(平成26年)2月
ホテルオークラ京都(旧京都ホテル)から
同じアングルで筆者撮影





 「年暮る」が描かれてから半世紀。今、同じ場所に建つホテルの窓から東山界隈を見回すと、川端康成がいみじくも予見した通り、京都はその伝統的な町の景観を失ってしまった。時代の流れと言って仕舞えばそれまでだが、東山魁夷が描いた京都の町屋の滔々たる甍の波は消え去り、形も高さも不揃いな現代建築物に置き換わってしまっている。わずかに要法寺の甍にその痕跡を残すのみだ。東山魁夷は、川端康成が危惧したように家並みは失われても、この寺は残るのだろうと予想して画の上部に据えたのかもしれない。ちなみにこのホテルオークラ京都、建て替えの時に景観論争を引き起こし、ここの宿泊客の拝観を拒絶するという「寺社側の強行策」にまで発展したことがあった。あれから何年経っただろう。周囲にはマンションが立ち並び、ホテル周辺の景観自体がこのように激変してしまった。あの論争は何であったのか。記憶の彼方に薄れつつある。


 京都はその1200年の歴史の中で、度々の戦乱や災害で町が焼かれ、破壊され、荒廃した。しかし、その度に再建され、日本(ひのもと)の都(みやこ)として繁栄を続けてきた。そしてその伝統的な街並みや景観は、つい最近まで継承されていた。しかし、先の大戦(といっても京都人が言う「応仁の乱」ではない)で戦火に巻き込まれることもなく生き残ったこの町が、戦後の平和と経済的繁栄を謳歌した時代に、これほどまでに破壊され変貌を遂げてしまうとは。戦争も騒乱も人間のなせるワザであるが、「資本の論理」で街の有様を変容させるのも人間の業なのだろう。物欲煩悩止まるところを知らず、か。


これまでの人生の中で、ヨーロッパやアジアの街を旅してきたが、古い伝統の街並みを大切に残す営みは、長い歴史を誇る街に住む人々に共通しているように感じる。ドイツやイギリスでは戦争で破壊された街で、もとの古い建物を忠実に復元し、街並みを再建したところを見た。台湾では古い日本家屋群がそのまま保存修景されてアートコンプレックスとして生まれ変わったところを見た。単なる古いものへのノスタルジアではなく、自分たちの生活様式、価値観、そこから生まれる文化、そうしたアイデンティティーの表現形態の一つに、家屋、その連なりである街並み、コミュニティーがあるはずだ。それを壊してしまって何の変哲もない「経済合理性」という価値観だけが強調された街区に変容してしまう。それでは寂しい限りだ。日本を代表する古都、京都においてすらこのような有様であるから、まして東京も地方の大都市も、狭い土地にぎっしりと小さなビルが無秩序に建ち並ぶ特色のない街に変貌してしまった。日本ではいつの間にか建築物は「不動産」ではなく「動産」、あるいは「耐久消費財」になってしまったようだ。建物は工場で製造されて、現場で組み立てる規格品(プレハブ製品)になってしまった。その方が材料費も建設費も安く上がる。できるだけ頻繁に建て替えることで経済が回るようにした。築100年、200年の建物なんぞお目にかからなくなってきている。日本のあちこちを旅すると皮肉なことに経済発展の恩恵に浴することの少なかった地域に古い街並み、町屋や古民家がひっそりと残されているのを発見する。よく地方の古い街並みを「どこどこの小京都」と形容し、これを観光キャッチフレーズとして押し出している自治体や観光協会がある。しかしこの言葉が嫌いだ。そこは京都ではないし、「近代化」された京都より古いものがよく保存されていることだってある。かつてはその地方の独特文化の栄えた、城下町であったり、宿場町であったり、在郷町であったりする。地元の人々はそれを大事に守っているのだ。しかし本家の京都より「どこどこの京都」にそうした伝統の街並みが残っていることは皮肉だ。

 

川端康成の危惧は的中し、東山魁夷は「年暮る」を残した。これからの日本、大事なものを失わないように、文化的な感度を高めてゆく、そんな大人の国になって欲しいものだ。「文化財、守れる人が文化人」。奈良の今井町に掲示されていた標語が今も心に響く。

 

2021年2月26日金曜日

今年の河津桜祭り中止。されど花見客多し!の巻 〜そして、さらば特急「踊り子」185系!〜

 

満開の桜を見ながら河津駅に進入する伊豆急「黒船電車」

伊豆急線が一番輝く季節!
 

春は春とて「緊急事態宣言」が3月7日まで東京、神奈川、埼玉、千葉に出ている。したがって、不要不急の外出は自粛するようにと、首都圏の住民は基本的には「巣ごもり」が推奨されている。しかし、去年の5月の第一次「緊急事態宣言」時と違って、何か緊張感がないのも事実。「緊急事態」と言いながら、経済は止めてはいけない、との「配慮」で政府の「要請」もどこかメリハリに欠けていて中途半端。したがって国民の方もどう対処して良いのかブレまくっている。「二兎を追うもの一兎を得ず」の例え通りになりそうで心配だ。現に渋谷や新宿、品川駅などのターミナル駅周辺は普段通りの人出で混雑し、電車もそれなりの時間帯は混み合っている。住宅最寄駅の界隈のスーパーやショッピングモールは買い物客で「賑わって」いる。経済活動の停滞は起こっていないのか?「巣篭もり需要」売り上げが急増しているのはネットショッピングサイトだけではないようだ。いっぽうで飲食店は夜8時以降の飲酒を伴う提供は「自粛」するようにとのことである。とくに「袖触れ合うも多生の縁」が売り物の居酒屋など、ソーシャルディスタンス2m取れ!と言った途端に商売成り立たず。こちらは自然と客足が遠のき、店によっては休業したり廃業したり。ここが一番影響を被っている。ワクチン接種も日本は欧米諸国に比べるとはるかに取り組みが遅いし、年初から接種が始まっている欧米では早くも供給量不足の直面し、奪い合いとなっている有様。接種開始が遅れている日本に回ってくるのか心許ない。その供給量の確保もどこまでなのか不確かだ。そもそも科学大国、医療大国のはずの(はずだった)日本が、自前でのワクチン開発も、製造もできず、欧米のメーカーからの輸入に頼らざるを得ない状況。そして医療逼迫というが、その医療体制は欧米の10%以下というお粗末さ。みんなで気をつけてくださいね〜。自己責任ですよ!自助、共助で頑張るよう「お願いします」。公助はあんまり期待しないでくださいね〜 国民にお願いしかしない政治リーダー。どうなっている?まったく「緊急事態」感が伝わらなく、ずるずると「巣篭もり的生活」が期待される状況が続いてる。そろそろ「気の緩み」という爆発が起きそうだ。

そんな中、毎年恒例の伊豆、河津の「河津桜祭り」は中止となった。静岡県は緊急事態宣言外だが、東伊豆への観光客の大部分が首都圏からの客で占めているのだから仕方ない。去年は、「河津桜祭り」は行われたが、その後の全国の「お花見」の季節の宴会は自粛要請。「同調圧力」という無言のプレッシャー、「自粛警察」の目が光っていてで静かな(寂しい)桜の季節となった。一年たった今年もまた同じ事態の繰り返しとなっている。しかし、人間が勝手に企画したり、中止したりする「祭り」とは関係なく、自然は今年も見事な河津桜を咲かせてくれた。祭りが中止だからと言って、満開の見事な桜を人が見に来ないはずがない。案の定、河津町は「想定以上の」花見客でごった返している。まるでコロナ自粛の鬱憤を晴らすかのように、例年にも増して人出が。連休中の今日は慌てて町役場も職員を現地に出して、花見客の検温に乗り出していた。職員が見回り「検温済みステッカー」を貼っていないと何度でも「検温してください」と声かけられる。花見客の全員がマスクしている光景が今の事態を象徴している。露天などの出店もそれなりに出ていて賑わっている。自粛、自粛といっても、花が咲けば人は出る。人が出れば店も出る。河川敷でブルーシート敷いて宴会というのは流石に見かけなかったが、春が来れば啓蟄は自然の理(ことわり)だ。

この早咲きの河津桜は東京都心のあちこちでも見かけるようになった。いや最近は全国区になっているようだ。ソメイヨシノを待たず、一ヶ月早く桜の季節の訪れを告げる。気がつくと、河津桜や寒緋桜のような早咲きの桜は最近結構人気と見えて、SNS上にインスタ映えする写真が次々アップされている。梅、河津桜、ソメイヨシノと、1月末から4月上旬まで花の季節が長く楽しめるのは良い。とくにこの鬱陶しい時節に賑やかで結構なことではないか。その河津桜の原木はここ河津町の民家に庭にある。大切に育てられている。大島桜と寒緋桜の交雑変異種だと言う。元は河原に生えていた一本の小木から始まった。



河津駅前の「伊豆の踊り子像」

「河津桜祭り」は中止だが、駅からは次々と河津川土手の桜並木へ人の波

伊豆急線路沿いの桜並木と菜の花のコラボが人気

新型車両の特急「踊り子」が鉄橋を渡る

河津川

天城山系を背景に河津川土手



満開の桜の下、一人ポツネンと佇む人も...

河津川土手の遊歩道には出店も








奈良本 水神社の桜

熱川温泉の河津桜


そしてもう一つのニュース:

さらば特急「踊り子」185系。国鉄時代からの生き残り電車特急が3月13日のダイヤ改正で引退する。車両がリニューアルされ新しい「踊り子」が登場する。長い間東海道線と伊東線、伊豆急線を、モーター音を唸らせながら疾走していた姿も見納め。下田行きと修善寺行きがあった。さすがに車両の老朽化は覆い隠すべくもなく、リプレースは時間の問題だと思われていた。首都圏からの人気路線の主力列車にしてはが、なかなか新車両に更改されないのを不思議に思ってた。しかし、いざ引退となると後ろ髪を引かれる思いだ。去年、特急「スーパービュー踊り子」が引退したのに続く(こちらの方が若いのに)。この「スーパービュー踊り子」の後継列車は新造車による「サフィール踊り子」となった。こちらは全車両グリーン車、うどんバー(!?)がある超豪華列車(!)となった。ちょうどデビューがコロナパンデミックの時期と重なり、人気沸騰で乗客が押しかけたなどという話は聞かない。バブル時代じゃあるまいし、いまさらこんな短距離路線に別料金払って、うどん食うために豪華列車に乗る客がいるのか... なあんてイヤミの一つでも言ってみたくなる。なんか古武士のような風格の185系が惜しくなってきた。

今回は東京から下田まで、車窓から外を眺めていると沿線に多くの鉄道ファンがカメラ構えて「撮り鉄」やっている姿が印象的であった。伊豆急線の各駅にも引退を惜しんで、185系の最後の勇姿をカメラに収めようとホームで鉄ちゃんが奮闘していた。なかでも河津駅は、満開の河津桜を背景に、とてもフォトジェニックな一枚をゲットする格好の舞台。若者のファンが多かったようだ。185系は彼らが生まれる前から走っていたのだ。このおじさんも慌ててカメラを持取り出し、にわか「撮り鉄」に。せっかくだから熱心な「撮り鉄」ファンを入れてパシャ!伊豆の風土にしっくりくる電車特急だ。


特急「踊り子」185系電車(河津駅にて)
引退を惜しんで最後の勇姿を写真に収めようという「撮り鉄」ファン群がっていた。
ちょうど河津桜が駅ホームからよく見える

ボディーの斜めストライプが印象的
たしかオランダで乗った電車が同じようなデザインだった


河津駅をでて下田方面へ向かう「踊り子」号の勇姿

伊豆急下田駅にて

車内
白いリネンの枕カバーが国鉄特急の名残
窓も開けられる。

豪華特急「サフィール踊り子」

伊豆急下田駅にて

(撮影機材:Nikon Z7II + Nikkor Z 24-70/2.8 S, Nikkor Z 70-200/2.8 S)

2021年2月20日土曜日

西欧文明とのファースト・コンタクトは何をもたらしたのか? 〜「破壊的イノベーション」は起きたのか?〜


ファースト・コンタクト
ポルトガル船の長崎来航


セカンド・コンタクト
アメリカペリー艦隊(黒船)の江戸湾来航


今年のNHK大河ドラマ「青天を衝け」の主人公は渋沢栄一。明治維新の主人公といえば坂本龍馬や西郷隆盛のような維新の英傑、あるいは新撰組のような敗者のヒーローがこれまでも大河の主役になったが、今年は「日本の資本主義の父」である。渋沢の著作「論語と算盤」が脚光を浴びるなど、資本主義が見直しの時期に来ている点では渋沢が注目されるのは合点がいく。ともかく19世紀の黒船来航に端を発する、強烈な西欧文明との遭遇に伴う驚きと恐怖。それに比べ日本の「前近代性」への焦り。これを原動力とした幕末から明治日本の「殖産興業」「富国強兵」「文明開花」という近代化の歴史。この記憶が21世紀になっても「大河ドラマ」の主人公に当時の英雄を選ぶという行動につながっている。この一点をとっても、いかにこの時の西欧文明との遭遇(コンタクト)が日本人に強烈なインパクトを与えたかを物語る。長い低迷の時代から脱する術を知らぬまま、茹でガエル状態になっている21世紀の日本。コロナパンデミックもあいまって先行き不透明で、新たな「維新」を期待する空気が横溢する中に、またしても「明治維新型の英傑」の登場に何かを求めようとする。「欧米先進国」という追いかけるモデル、ゴールが明確であった時代の英傑像。それは目指すモデル、ゴールが不透明で、答えが無いこれからの時代の英傑像と同じなのだろうか。いつまで「明治維新型の英傑」なのか。そこから脱し得ないところに今の日本の課題が凝縮されている。イノベーションにおける「外圧」、西欧列強モデルに学ぶ、という強迫観念から逃れることができないのだ。

「破壊的なイノベーションは外からやってくる」。日本の歴史はそう教えているように見える。外来のイノベーションを「受容」し、それを咀嚼して日本的に「変容」する。そうして歴史のパラダイムシフトを繰り返してきた。稲作の伝来、仏教の伝来、白村江の戦い敗北。キリスト教伝来、黒船来航、そして敗戦。その度に「外からきたイノベーション」で日本は大きく変わっていった。なかでも我々の記憶に鮮明に残っているのが「敗戦」とそれに至るまでの19世紀の西欧文明との遭遇であったことは今述べた通りだ。しかし西欧諸国との遭遇はこの時が初めてではなかった。煙を吐く蒸気船、黒船を見て腰を抜かした当時の人々は、この時すっかり忘れていたようが、ペリーの来航から300年ほど以前、戦国時代真っ只中の1543年(天文12年)種子島にポルトガル人がやってきた(漂着した)。これが初めてのヨーロッパ人との遭遇である。これに続いて1549年(天文18年)カトリックのイエズス会の宣教師フランシスコ・ザビエルが鹿児島に上陸した。そして次々と宣教師がやってきて、時の権力者だけでなく庶民ともキリスト教を通じて接触を持った。今度は正式にポルトガル人も交易のために平戸、長崎にやってきた。南蛮人の来航だ。1600年にはオランダ船リーフデ号が豊後沖に漂着し、イギリス人ウィリアム・アダムスがやってきた。、そしてプロテスタントのオランダ人やイギリス人がやってきた。これが紅毛人の来航だ。これが西欧諸国とのファースト・コンタクトである。しかし、程なくキリスト教は禁止されて宣教師や西欧人は国外追放され、日本人の海外渡航や帰国も禁じられた。キリスト教や西欧人との濃密なコンタクトは100年足らずで終わった。そして徳川幕府は徹底して「遭遇の記憶」の抹殺に力を注いだ。唯一滞在を許されたオランダ人は長崎の出島に押し込まれて、庶民との接触を禁じられた。200年にわたる「鎖国」でファースト・コンタクトの記憶はすっかりかき消されていて、19世紀になって列島沿岸に出没した欧米諸国の蒸気船に驚愕した。まるで初めて見る異人であるかのように畏怖した。これがセカンド・コンタクトである。

しかし、このファースト・コンタクトとセカンド・コンタクトは、その時代背景や、日欧両サイドに与えたインパクトはまるで違う。どう違うのか?ファースト・コンタクトはどのような「破壊的イノベーション」を日本にもたらしたのだろうか。


1)「ファースト・コンタクト」の時代 16世紀の世界は?

まず結論から述べると、1543年(天文12年)ポルトガル人が種子島に漂着したことに始まる日本と西欧諸国とのファースト・コンタクトは、日本人がセカンド・コンタクトの時に味わったような、西欧列強諸国の経済力と軍事力、科学技術への驚愕と恐怖、羨望の出会いではなかった。16世紀〜17世紀の世界は、アジアは経済的文化的先進地域、ヨーロッパは世界の辺境地域であった。その差は圧倒的であった。イスラム教国に圧迫されていたヨーロッパは、イスラム世界を通らなければならない陸路を迂回して海路を取り、豊かなアジア(初期においてはアジア全体をインドと理解していた)を目指してその繁栄のおこぼれに与ろうと遥々海を渡ってきた。その頃繁栄していたインド洋交易圏、さらにアジア交易圏は外来者に開かれた市場であった。地元の頭目にテラ銭さえ払えば誰でも交易に参加できた。まずそこへ進出してきたヨーロッパ人はレコンキスタでイスラム世界から失地回復を果たしたばかりのポルトガルだった。人口150万の小国であった。彼らはアフリカ西海岸を南下し、希望峰を周回してインド洋に出て、インドのカリカットに到達した。一方、同じイベリア半島のスペインは東航路をポルトガルに先を越されたので、西回りでアジアを目指した、そして新大陸(アメリカ)を発見した。当時のアジア世界は、強大なオスマントルコ帝国、サファヴィ朝ペルシャ帝国、インドムガール帝国、そして中国の大明帝国といった超大国がひしめいていた。こうしたアジアの大帝国にとって臨海部に上陸して交易拠点を設けようとするポルトガルなど、巨大なパイに群がる蟻のような存在であったことだろう。海路でやってきたポルトガルの冒険商人が内陸深く進出し商圏を広げることはなかったし、そもそも彼らは豊かなアジアに売れるような産物を持ち合わせていなかった。キリスト教布教にしてもそうだ。イスラム教やヒンズー教、仏教、儒教を駆逐する勢いはなかった。現にほとんど帝国の内陸にまで布教が広まり信徒を獲得することはできなかった。オスマントルコもペルシャ帝国、ムガール帝国も大明帝国も、版図内の土地と人民を支配することに最大の関心を寄せる大陸国家であり、海を目指した海洋国家ではなかった。ポルトガルの船団がカリカットやゴア、マラッカ、マカオを拠点に海で交易活動に参入しようと、宣教師がやってきて海岸べりでキリスト教を布教しようと、そうしたヨーロッパ人の動きは帝国の核心的利害とは無関係であったと言っても過言ではない。そもそもユーラシア大陸の西端のヨーロッパは、イスラム教徒に圧迫されて呻吟するキリスト教徒の地域で、ようやくイスラム教徒から奪還したイベリア半島にスペインやポルトガルが起きたわけだ。その一方、当時のヨーロッパ人が忘れかけていた西欧文明のルーツであるギリシャやエジプトの文明は、イスラム教徒から伝承された。そうした先進的異文化の桎梏から脱出すべく、イスラム世界の向こう側のアジアへ生き残りの旅に出た。これが後世「大航海時代」とか「大発見:Great Discovery」とか称される西欧中心歴史観の実相であった。

ちなみに、アジアを目指して西へ向かったスペインは「幸か不幸か」アジアの強大な帝国に遭遇することはなかった。当初夢見たアジア/インド/ジパングとの交易利権を手にすることはできなかったが、その代わりに思いも寄らない「手付かずの」新大陸に到達し、そこのインカ、アステカ、マヤなどの現地文明をコルテスやピサロなどのわずかな手勢で滅ぼして植民地化した。アフリカから送り込んだ奴隷を使い現地から金やそのほかの資源を、奪えるだけ奪って本国へ持ち帰るという、双方向の交易を伴わない「略奪帝国主義」の実行者となった。そして現地住民の素朴な太陽信仰、祖霊信仰を破壊し、強制的にキリスト教に改宗させた。世俗の欲望と、キリスト教世界の拡大、という動機に突き動かされて東へ向かったポルトガルと、西へ向かったスペインは、ある意味明暗を分けることななったわけだ。歴史の皮肉だ。


2)「ファースト・コンタクト」その時日本は?

ファーストコンタクトは日本にセカンド・コンタクトと同様に「破壊的イノベーション」をもたらしたのであろうか? 16世紀にポルトガル人「南蛮人」がやってきた頃の日本は14世紀の南北朝時代から続く戦乱がいまだに終わっておらず、天皇や将軍の権威が失われて、各地に割拠する武力集団(戦国大名)の中から頭角を表し始めた信長、秀吉、家康が天下統一を果たしてゆく過程の時代であった。先ほど豊かな「経済文化先進地域アジア」と言ったが、日本はインドや中国に比べるとさしたる資源もなく、魅力的な産物もない(マルコ・ポーロの描いた伝説の「黄金の国ジパング」とは程遠い)のが実体であった。人々の生活は戦乱で疲弊しており貧しかった。石見に銀が産出するまでは、ポルトガル人もスペイン人のマゼランも、近海まで来ておりながらもスルーしていた国であった。それが、偶然にもマカオから中国のジャンク船に乗って航海中のポルトガル人が種子島に漂着して、初めて「ここがあの噂のジパングか!」と忘れられていた「ジパング伝説」を思い出した。。この時「鉄砲」がもたらされたわけである。資源もなく貧しいと考えられていた日本は、実は(貧しいのだが)200年に亘る戦乱で練度の高い軍事組織(武士/さむらい)を有する強大な軍事国家であった。そこにポルトガル人のもたらした鉄砲が戦国時代の勢力地図を塗り替え「天下統一」を加速した。戦略兵器「鉄砲」を制したものが覇者となった。鉄砲伝来以降、わずかな期間に日本はたちまちその保有数において世界でも屈指の国になっていた。当時の日本の人口は3000万ほどといわれ、人口が高々150万人のポルトガルや、遅れてルソンからやってきたスペインなどの南蛮人は日本の敵ではなかった。当時の為政者(信長、秀吉、家康)ははるばる世界の果てからやってきたヨーロッパ人を見て、風変わりな風俗に心を奪われ、エキゾチックな文物に魅了された。もちろん鉄砲にはすぐに食らいついた。また彼らが乗ってきた外洋航海を可能にする大型船にも興味を示して建造させた。しかし19世紀幕末の時のような軍事的脅威や、経済的な豊かさへの怨嗟や、植民地化される恐怖などは感じなかった。もちろん後から来たプロテスタント国のオランダ人やイギリス人の「侵略の先兵カトリック宣教師」という反カトリックプロパガンダはあったものの、ポルトガルやスペインが艦隊を派遣して日本を占領するなどという危機感に現実味はなかった。むしろキリシタン禁教の直接的な原因は、西国キリシタン大名の「天下統一」からの離反の恐れと、オランダの交易利権独占を保障することによる幕府の管理統制貿易政策であった。

また日本人もこの時期、積極的に海外へ進出して交易や傭兵として参加していた。後世の鎖国のイメージが強く、日本人の海外進出などイメージされにくい嫌いがあるが、倭寇の例を待つまでもなく、もともと海洋国家である日本は、その周辺の中国や朝鮮などとの交易(海賊行為も含めて)、琉球王国を介した南方貿易に関わってきた。権力者も海外交易利権に目をつけ朱印状を発行して莫大な利益を得ようとした。当時はルソンや中国沿岸部、マラッカ、シャムには大きな日本人の居留地ができていた。アジアに進出してきたポルトガル人、スペイン人やオランダ人、イギリス人との海外拠点での邂逅も多く、交易に従事したり、商船を襲ったり、彼らの私掠船に乗り組んだり(イギリス船に乗組み、ロンドンまで行って帰ってきた日本人の記録がある)、日本人が傭兵として英蘭の戦闘に参加した記録が残っている。この時代、日本人はグローバルに活動していた。もっとも、博多や堺などの大商人が出資して船団を組み海外に出かける(英蘭の東インド会社のような)ことや、政治権力者が朱印状(貿易許可)を冒険的商人に与えて大船団のパトロンになると言った試みは家康まではあったが、国家単位で組織的に取り組まれるまでには至らぬまま「鎖国」してしまった。「破壊的イノベーション」を忌避する時代へ突入した。

ところでポルトガル人は鉄砲を伝え、これが戦国の世の戦闘形態に「破壊的イノベーション」をもたらしたのは確かである。しかし、それ以外に大きな利益を生むような魅力的なヨーロッパからの産物をもたらしはしなかった。鉄砲とてすぐに日本人は自国生産を始めたので交易品としての利益を生むことはなかった。したがって本国との交易よりは、むしろ日本の銀を手に入れて、それで中国の絹や陶磁器、茶など高価な財物を買いつけ、それを日本に運んで売ると言う「三角貿易」で莫大な富を生み出した(当時、明は倭寇対策で日本との通交を禁止していた)。しかし、このファースト・コンタクトにおける重要なインパクト・ファクターは交易ではなかった。それはポルトガル海洋帝国の拠点つたいにローマ・カトリックのイエズス会の宣教師がもたらした外来宗教、キリスト教であった。彼らは珍しい西欧文物をもたらすとともに、戦乱の世の中で一気に30万もの信徒を獲得した。しかし、やがて徳川幕府はキリスト教を禁じ、宣教師、司祭を国外追放して「鎖国」が始まる。すなわち「外からやってきた破壊的イノベーション」の受容は拒否され、徹底的にキリスト教は抹殺され、人々の記憶から消し去られてしまう。この「受容」と「変容」の問題は後で触れるが、200年後の幕末において、「黒船来航」に驚いた時には、この300年前のファースト・コンタクトの記憶が呼び起こされることはなかった。


3)「セカンド・コンタクト」への道

このファースト・コンタクトがあった16世紀後半から17世紀前半から、セカンド/コンタクトのあった19世紀に間にヨーロッパは大きく変わった。徐々にスペイン、ポルトガルといったカトリック国の凋落が始まり、新興のプロテスタント国であるオランダやイギリスがヨーロッパにおける覇権争いに勝利する(英国艦隊のアルマダの戦い、ホランド、フランドルのスペインからの独立)。そして「南蛮人」に変わり「紅毛人」が海外進出により強力な海洋帝国を築き始める。アメリカ植民地開拓やアフリカ、インドへの進出を皮切りにアジアへも進出する。オランダ/イギリス東インド会社の創設である。さらに18世紀後半からイギリスでは、産業革命と言う「破壊的なイノベーション」が起き、蒸気機関の発明により農業や工業製品の生産力が飛躍的に増大し、鉄道や蒸気船の発明により移動流通が革命的に発展していった。海外植民地から綿花などの安い原材料を仕入れて、本国で綿製品などに加工して、さらに人口の多い植民地へ売りつける。加工貿易で巨大な富を蓄積し始める。政治的にはアメリカ独立戦争、フランス革命による王政の打倒という市民革命、共和制移行が起きた。この頃「資本主義と父」と言われるアダム・スミスが現れ、重商主義的な経済政策から大きな転換を果たして行った。ヨーロッパ諸国がこうした経済的、技術的、政治的なイノベーションにより、大きく発展する時代ヘと進んだ。そしてイギリスはアメリカ植民地を失ったものの18世紀に入ると、バタビア、シンガポールを領有し、19世紀にはムガール帝国滅亡とインド併合(1858)、アヘン戦争により香港割譲(1842)などアジア、植民地化を進めた。そして七つの海を支配する大英帝国としてパクス・ブリタニカの時代を迎える。一方、イギリスからの独立を果たしたアメリカは、いわばヨーロッパの出店として、新たな世界進出プレーヤーとして登場してくる。またヨーロッパの後進国、北方のロシアも領土的野心を剥き出しにして、黒海やアジアにおける不凍港を求めて南下してくる。こうした時期に鎖国日本の近海に現れたのがイギリス船であり、ロシア船でありアメリカ船であった。これが西欧とのセカンド・コンタクトなのだ。この時期のヨーロッパ、アメリカは、軍事的にも経済的にもはるかにアジアの旧勢力を凌ぐパワーに成長していた。あのムガール帝国はイギリスの植民地となり、大明帝国のあとの清朝中国はイギリスとの争いに敗れて香港を奪われ植民地化の道を辿る。こうしたアジア情勢の激変を知った日本にとっては、目の前に現れたアメリカの黒船来航は「太平の眠りを覚ます蒸気船(上喜煎)、たった4杯で夜も眠れず」であった。ファーストコンタクトから300年。200年欧米諸国との国交を閉ざしている間にアジアを取り巻く情勢は大きく変容し、日本の周辺の景色はすっかり変わってしまっていた。これがセカンド・コンタクトであった。そしてこれに驚き恐怖を抱いたことに端を発する「破壊的イノベーション」、パラダイムシフトが明治維新であった。


4)キリスト教の受容と変容はなぜ起きなかったのか?

先述のように、ファーストコンタクトのもっとも重要なインパクトはキリスト教の受容の問題であった。結局キリスト教は日本に根付かなかったと評価する見解も多い。遠藤周作の「沈黙」においても、日本は結局キリスト教が根を下ろすことができない「沼地」である、と登場人物の棄教した宣教師フェレイラに言わせている。また芥川龍之介の「神神の微笑」においても、かつてこの国に来た「仏陀」もこの国の霊力により何か別のものにつくりかえられてしまった。デウスもこの国の土人に変わるだろう、と、宣教師オルガンチーの前に現れた幻に言わせている。すなわち多神教世界に乗り込んできた一神教は根付かない、と。キリスト教布教は無理なのだと。そうなのであろうか?外来の宗教が在来の宗教との間で受容と変容を遂げる姿は、別に日本における神仏との習合に限らない。世界に広くある数々の自然神信仰、祖霊神信仰など地元の古来からある多神教的信仰、宗教との間でもあった。非キリスト教世界においての布教では必ず直面する課題であるはずである。日本におけるキリスト教布教固有の課題ではない。ヒンドゥー教のような多神教世界においても同様であろうし、ましてイスラム教のような一神教世界においておやである。

ポルトガル人もイエズス会宣教師もオランダ人も、当時は日本が未開の国であると言う認識は持っていなかった。文化的に違いがあるものの、日本人は「道理」を重視する極めて合理的思考の人々であるとフランシスコ・ザビエルもルイス・フロイスも記録している。アフリカ大陸や新大陸においての未開の習俗のままの原住民を教化するする手法は日本では通じなかった。仏教や神道など既存宗教との合理的な宗教論争が必要であった。多神教世界の信仰が「道理」となっている人々に「世界を創造した唯一絶対神」概念を理解させなくてはいけなかった。ヨーロッパにおいてプロテスタンティズムからの挑戦を受けたカトリシズムにとって、新たに組織したイエズス会という戦闘的「合理的」布教集団は、他宗教との論争にも十分耐え得る理論武装をしていた。しかし、フランシスコ・ザビエルがキリスト教を日本に初めて布教を開始してからからわずか100年足らずという時間は、多神教が当たり前の人々に一神教に対する「道理」を理解させるにはあまりにも短すぎた。この点が同じ外来宗教である仏教の受容と変容のプロセスと大きく異なる点だ。6世紀に伝来した仏教の受容にも、当初。倭国古来の「八百万の神々」との「習合」の問題に直面した。その後の歴史の中で鑑真のような高僧の渡来や、空海や最澄、栄西などの日本人留学僧の活躍で、その難解な教義を学び日本に伝え、咀嚼して日本に根付かせる。まさに「受容」と「変容」の長い歴史があったことを思い起こす必要がある。そうして支配者階層からやがては庶民にまで、日本人の日常に定着してゆく歴史を辿った。この間「廃仏毀釈」の嵐にも見舞われている。そしてここまで何百年もかかっている。日本におけるキリスト教は、その根底にあるスコラ哲学=神学の「理論的普遍性」を理解し、これを説く日本人の高僧や司祭が育たなかった。育つ間も無く根絶やしにされてしまった。布教活動初期においてイエズス会宣教師は、日本人の司祭を育成することの難しさを記録している。これはラテン語をまず習得する必要があるというだけでなく、こうした西欧キリスト教世界で共有されていた普遍的世界観を理解する日本人が生まれなかったことによる。仏教受容と変容のようにその時間も与えられなかった。しかしそれは日本や日本人が特殊なわけではなく、どこの世界にも異なる世界観、異なる神を持つ人々がいて、それぞれに「普遍性」を主張している。彼らのいう世界観の「普遍性」、神学の「理論的普遍性」「神学的合理性」とは何か?それぞれの異なる世界観や神の習合が進むことこそ「多様性を受容する普遍性」ではないのか。日本におけるキリスト教の「受容」と「変容」がこれからどのように進んでいくのか。そしてその成否は後世の人々が評価するだろう。

しかし、禁教令とキリシタン弾圧で宣教師も司祭もいなくなり、信徒が弾圧されて多くが殉教しても、生き残って地下に潜り、隠れキリシタンとなって、島々に潜んで信仰を守り繋いだ人々がいることを忘れてはならない。禁教から200年後の明治になって、新たに創建された長崎の大浦天主堂に現れた日本人の信徒が、日本では「根絶やしにされた」はずの、「根付かなかった」はずのキリスト教の信仰が迫害の中にあっても民衆の間で生き延びていたことを示した。この「信徒発見」?は、明治になってやってきた宣教師ドロ神父や、その報告を受けたローマ教皇にとって感動的な事件であった。もちろん200年にわたってローマ・カトリック教会の司祭による礼典も告解もなかったわけであるから、宗教指導者のいない土着の信仰形態「おらしょ信仰」と化していたのではあるが、キリスト教が、まさに日本に受容され変容されて根付いていたことを明確に示している。信仰とはまさにこうしたことである。


参考過去ログ:

2019年1月31日「仏教伝来とキリスト教伝来〜グローバル化の受容と拒絶〜



参考文献:「バテレンの世紀」渡辺京二著 新潮社