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2021年9月5日日曜日

古書を巡る旅(13)Japan Day by Day:「日本その日その日」〜貝の採集に日本へ来た生物学者エドワード・モースは、そこで何を見つけたのか?〜

品川区立大森貝塚遺跡庭園のモース博士像

「品川区立」大森貝塚遺跡庭園である
大田区の皆さんごめんなさい

「アッ、見つけた!」

桜の季節


貝層の出現状況が保存展示されている


JR線の大森駅と大井町駅間の切り通しの小高い台地上に「大森貝塚遺跡庭園」がある。ここは明治にモース博士が大森貝塚を発見した場所で、その跡が今は区民憩いの公園になっている。春は桜が美しく、電車が見える公園として子供達にも人気である。大森貝塚は小学校の教科書にも登場し日本人なら誰でも知っている遺跡で、品川区の名所旧跡の一つである。日本の考古学発祥の地と言われる。しかしそのモース博士とはどのような人物なのか。意外に知ってるようで知らないことも多い。


1)エドワード・シルベスタ・モース:Edward Sylvester Morse(1838年〜1925年)の略歴

1838年 アメリカのメイン州ポートランド生まれ。

日本の生物学、博物学、考古学の父と言われる。もとは動物学者、腕足類(二枚貝の一種)の研究者。しかし、若いときはろくに学校も行かず退学になったり、仕事も転々としていた風来坊。ただ貝類の採集、標本には情熱を持っていて、新種の発見や希少種の収集の世界では有名であったようで、大学の研究者も標本の見学に来るほどであったという。このように大学出ではなく素人の研究者から出発。やがてハーバード大学アガシー教授の学生助手になり本格的な研究生活を始める。さらに学位がないにも関わらずボーディン大学の生物学教授やハーバード大学の非常勤講師をつとめるまでになる。日本の植物学の父と言われた牧野富太郎博士(1862〜1957年)を彷彿とさせる。

日本滞在期間は通算3年ほど。東大教授在任は2年ほどと短いが、後世に多くの功績を残した。もちろん大森貝塚の発見と発掘調査が彼を有名にしているが、実は。この頃西欧社会に大旋風を巻き起こしたダーウィンの「種の起源」(1859年)「進化論」を初めて日本にもたらした功績が大きい。また、大学の教員の質向上(専門的な御雇外国人の雇用、推薦)、研究者の育成、大学の研究レベルを上げるために、論文を海外雑誌(Nature等)に投稿し、学会、海外研究機関、研究者との研究交流を進めることの重要性を説き、自ら実践した。そして日本文化にインスパイアされて民具、陶器などのコレクターとなる。


1877年(明治10年)腕足類研究、新種の貝類採集のために来日する。特段、日本に興味があったわけではなく、多様な腕足類の存在に興味があったための来日であった。しかし.....

来日早々、横浜から新橋に向かう汽車のなかから大森貝塚発見。

乞われて東京帝国大学教授(生物学)に(2年契約)この間江ノ島に臨海観測施設を開設する。

同年11月米国における講演などの仕事のため一時帰国

1878年(明治11年)家族とともに再来日

1879年(明治12年)東大満期退職。帰国

1880年セーラムのピーボディ科学アカデミー館長に

1882年(明治15年)再再来日 今度は生物学者、考古学者としてではなく、日本の文化に強烈なインパクトを受けたコレクターとして、民具、陶器など美術/工芸品の収集のためにやってきた。

1883年(明治16年)離日 

1914年ボストン博物学会会長

1915年ピーボディ博物館名誉館長

1917年セーラムで「日本その日その日」:Japan Day by Day執筆、刊行

1925年セーラムで没す


2)ダーウィンの「進化論」とモース

1859年に発表されたチャールズ・ダーウィンの「種の起源」は衝撃的であった。生物は、その種が枝分かれして変異し、自然淘汰や適者生存で進化していったものだとする。この頃の「常識」、すなわちキリスト教的な理解では、種は神がそれぞれに創造した不変のものである。人間は神が初めから神に似せて創造したものであり、いわば猿が進化したものであるはずがない。これはキリスト教会の聖職者のみならず、一般の人にも信じられていた。さらに驚くのは19世紀、科学的合理性勃興の時代にあって生物学者にも、それを否定する、あるいは疑念を抱く学者がいたことだ。モースの恩師ハーバード大学のアガシー教授もその一人であった。モースはアガシー教授の反進化論を最初は支持。しかし、腕足類研究を通じて、どうしても「進化論」支持せざるを得ない事実を確認するに至り、モースは「進化論」者へと変わっていった。そして腕足類の種類が奇跡的に豊富な日本での採集と標本のために来日した。

こうして日本に初めて最新の「進化論」を持ち込んだのが他ならぬモースであった。彼は大森貝塚発見で有名だが、生物学者としては「進化論」をもたらした功績が大であるといわれている。モース以前にもドイツから来た外国人教授が進化論を説いたとか諸説あるようだが、彼の大学での講義と一般向けの講演が印象的で、当時の日本に大きな影響を与えたことは間違いない。マスコミにも大きく取り上げられている。ちなみに元々モースはアメリカでも多くの講演会を持っており、講演で稼げるほどの講演上手で人気があったようだ。ダーウィンの「進化論」発表から17年が経っていたが、まだまだ欧米のキリスト世界では完全に定着していたとは言えない中、彼はその最新の理論を説き、東大での講義には500人の受講者が集まったという。キリスト教の教義を第一義に自然界の成り立ちも理解してきた西欧諸国の衝撃と異なり、日本で進化論はどう受け入れられたのか? ハーバート・スペンサーの「社会進化論」を生み出した生物進化の理論は、日本では急速に進んだ明治維新後の社会の変容にも適用されると考えられた。とくに自然淘汰や適者生存の考えが受け入れられて、ハーバート・スペンサーが福沢諭吉、西周など明六社メンバーでもてはやされた。また政治思想家であり、のちの東京帝大総長となる加藤弘之などがモースの説くダーウィンの生物進化論講義を熱心に聞き、影響を受けたと言われている。それはスペンサーの社会進化論の源流としてであった。


3)大森貝塚の発見は何をもたらしたのか?

前述のように横浜から新橋へ向かう汽車が大森駅を出てすぐに、鉄道建設のために開削した切り通しの断面に白い貝殻の層を確認。これが古代人の生活の痕跡、いわばタイムカプセルとしての貝塚であることを発見した。東京帝国大学教授となっていたモースは早速発掘許可を得て調査した。その結果、この貝塚は3000〜3500年前の古代人の集落跡であり、人骨のほか、土器、石器、骨角器など261点が発掘された。考古学的な時代区分として新石器時代の遺跡であることを特定した。また縄目模様の土器が多数検出されたことから、のちに「縄文時代」と命名されることとなる。モースは、先述のように腕足類の貝の研究をしていたことから貝塚には強い興味を持っていたのだが、いざ掘ってみると貝殻の向こうに先史時代人の生活と文化を発見したというわけである。「日本の考古学発祥の地」の碑が大森駅にある。

彼は、この発見により腕足類貝の研究、進化論の研究から次のフェーズへ転換したと言っても良い。モースはこれまで考古学という概念、研究領域が明確に存在しなかった日本に考古学をもたらしただけではなく、世界に日本の「縄文文化」を知らしめることとなった。発見の功名争いもあった。ナウマンやシーボルト(あのシーボルトの孫で英国公使館書記官)と争い、彼が独占的に発掘権を得たと言われている。また発掘成果をまとめた研究論文を海外にいち早く発表するなど、国際的な研究交流を進めることの重要さを教えた。大森貝塚の出土品の一部は米国に送られた(現在ピーボディサセックス博物館に収蔵されている)が、代わりに米国から先史時代先住民の出土品などの多様な研究資料が東大に寄贈された(アメリカ先史時代先住民と東アジア先史時代人が同じルーツであるとの仮説を提唱している)。また多くの図書の贈与が日本側に行われ、現在の東京大学図書館の基礎となった。こうして大森貝塚の研究成果が、彼を通じて大学の国際的な研究交流、方法論の確立、人材育成につながっていったことは特筆すべきであろう。


4)なぜ大森貝塚碑は二つあるのか?

ところで、この大森貝塚遺跡の記念碑が二箇所あることをご存知だろうか。しかもたった300mしか離れていないところに2つ。ことの顛末はこうだ。

発掘から30年経過した昭和4年になって、モースの功績を顕彰する記念碑を建てようということになった、しかし、モースが発表した調査報告書に正確な発掘場所の記述がなかったこと、当時発掘に携わった人々の記憶が曖昧になっていたことから、発掘現場の位置の特定ができなかった。最終的に下記の二箇所が記念碑設置候補場所となった。結局、両方に記念碑が設置されることとなり、どちらがホンモノか長く論争となっていた。のちに当時の発掘届けの記録(東京市)が発見され、これにより、発掘現場は荏原郡大井村鹿島谷であることが判明した。すなわち現在の品川区大井6丁目の「大森貝塚碑」の位置である。現在はここに品川区立大森貝塚遺跡庭園が整備されている。もう一方は、大田区山王1丁目のNTTデータ大森山王ビル敷地内で、「大森貝墟」碑が立っている。大森は品川区ではなく大田区であるので、本来ならば「大森貝塚」ではなく「大井貝塚」と呼ばれてもおかしくないし、また近所の品川歴史資料館に発掘成果の一部の展示されている他、敷地内に大井鹿島谷遺跡(縄文集落跡)の一部が検出している。こちらも本来なら日本考古学発祥の地として「博物館」になっててもおかしくないのだがそうはならなかった。先述のようにモースの調査報告書に場所の正確な記述がなかったので、大森駅を出たあたりで発見した貝塚、ということから「大森貝塚」と認識されていたというわけだ。大森貝塚からの出土品は主に東京大学に保管されている。

第一現場)大森貝塚碑(昭和4年建立)品川区大井6丁目 大森貝塚遺跡庭園内




第二現場)大森貝墟碑(昭和5年建立)大田区山王1丁目 NTTデータ大森山王ビル敷地内


「日本電信電話公社」の文字が懐かしい


碑文に名を記している理学博士佐々木忠次郎(モースの弟子で、発掘に携わった)は、
大井の第一現場の石碑にも名がある。どちらが正しいのか迷っていたのであろう。


5)モースの日本滞在記、Japan Day by Day:「日本その日その日」(石川欣一訳)

進化論を日本にもたらし、衝撃を与えた生物学者。さらに大森貝塚を発見、発掘調査して縄文時代を日本と世界に知らしめた考古学者。それだけでも偉大な足跡を残したのだが、モースはそこにとどまることはなかった。彼の日本での研究活動、関心は第三のフェーズに転換してゆく。彼が招聘したフェノロサやビゲローなどと同様、日本の文化、生活様式に衝撃を受け、この西欧文化とは異なる「もう一つの世界」の新鮮さに目を開かされた。工芸品や、美術品のコレクションを極めた。能楽にも精通していた。フェノロサが廃仏毀釈の嵐の中で打ち捨てられてゆく仏像や仏教美術を惜しみ、岡倉天心と、破壊からの保護と救済に取り組み、日本美術の再評価の活動をしてきたことは知られている。しかし、一方、モースは庶民の生活の中で生まれてきた生活雑器などの民具、工芸に着目した。精力的に日本各地を旅行して、人々と交流し、好奇心旺盛に事物の観察を続け、民具や陶器の収集に努めた。これまで見てきたサトウやチェンバレン、フェノロサ、コンドルなどの明治期の来日外国人知識人に共通する「日本文明」の「発見」とそれへの憧憬と、それに触発された文化人としてのモースの姿があった。もともと生物学者としての観察力、収集癖(?)がむくむくと湧き起こり、彼の収集活動は膨大なコレクションを(モースコレクション)形成することになった。彼の日本滞在中の日記、旅行記がJapan Day by Day:「日本その日その日」である。滞在期間が短かった割には上下二巻からなる大部の書物で、その内容は生物学者、考古学者の域を超えている。

この”Japn Day by Day”は1917年セーラムにて執筆され出版された。彼が79歳の時である。掲載した写真はいつもの神田神保町の古書店「北沢書店」で見つけた初版本である。背表紙が少し傷んでいるものの装丁はしっかりしていて100年以上経過した古書としては良い状態だ。しかし、文化財級の古書を読み進めるにはやはり気を遣うので、リプリント版を入手してそちらを読んでいる。上下二巻からなる大部の著作で、1877年、1878〜79年、1882〜83年の3回の来日記録である。日本語版「日本その日その日」東洋文庫は米国でモースに学んだ弟子の石川欣一の翻訳による。

本書に収録されている彼自身のスケッチによる、当時の人々の日常生活、風景、文化、の紹介が興味深い。777点ものイラストが収録されている。彼は見たもの、気がついたものを子供のようにこまめにスケッチしたのであろう、さすが生物学研究者の観察眼と生き生きした描写力に驚嘆する。膨大なスケッチ、イラストをパラパラとめくって眺めるだけでも楽しい。またこの本に出てくる人々の姿は、西欧文明や科学技術文明に汚染される前の善良な日本人として描かれている。そのモース自身も古き良き時代の善良なアメリカ人であった。こういうものが消えてゆくことへの哀惜の念を示す書とも言える。この本はそういうことを感じさせる100年前の時代のタムカプセルである。

この時の日本滞在で、モースは膨大な古民具や陶器、書籍など美術/工芸品を収集した。その数は民具800点、陶器900点に及ぶと言われている。最近新たに当時の日本の古写真が発見され、モースコレクションの充実ぶりが再び脚光を浴びている(「百年前の日本 モースコレクション写真編」小学館)。おそらく多くが高価な美術品・工芸品ではないので、収蔵庫にまだ日の目を見ていないコレクションが眠っている可能性がある。民具は現在のセーラムのピーボディーエセックス博物館に、また陶器はボストン美術館に展示、保存されている。大森貝塚が3000年前の先史時代の生活の痕跡を止める遺跡だとすれば、モースコレクションは100年前の人々の生活の痕跡を今に残す文化財だ。どちらも「失われた日本」の再発見である。後者はたった100年前のことであるが。


まとめ

結局、生物学者モースは、腕足類という貝、ただそれだけを探しに日本へやって来た。そして3000年前の貝塚遺跡を発見した。しかし彼は、もっと多くのものを日本で発見した。明治日本という西欧文明に対する「もう一つの世界」を。やがて多くの文物を収集し持ち帰ることになった。そしてより多くのものを日本に残して帰った。とりあえず、私はモースを「研究界のわらしべ長者」と名付けておきたくなった。


Japan Day by Day in 1917





大森貝塚発掘の模様




Peabody Essex Museum
(from the Boston Globe)

ピーボディ・エセックス・ミュージアム(旧セーラム・ピーボディ科学アカデミー)
膨大なモースコレクションは圧巻。



(撮影機材:Leica Q2, Summilux 28/1.7)



2021年8月25日水曜日

初期ヤマト王権はどこから来たのか?(第六弾) 〜とりあえずこのシリーズ完結編。で、謎は解明されたのか?〜

 

竜王山から展望する
初期ヤマト王権の地
左から大和三山、箸墓古墳、纒向遺跡、行灯山古墳、渋谷向谷古墳、背景は葛城山、金剛山、二上山



甘樫丘から見る三輪山

黒塚古墳頭頂部より箸墓古墳を展望

纒向居館跡発掘現場
背後には三輪山が


大和路散策もままならぬこの夏、夏休みの宿題じゃないけれど、「巣篭もり」中は充実の自宅学習で過ごす。NHK 文化センター講座の「日本古代史」をオンライン受講している。国際日本文化研究センター倉本一宏教授の明快な講義が腑に落ちる。もともと倉本先生の「戦争の日本古代史」「内戦の日本古代史」(いずれも講談社現代新書)、そして「大学の古代史」(山川出版)を読んで、我が日本古代史、特に3世紀倭国事情に関する疑問に見事に応えてくれる解説に感動していたこともあり受講することにした。論点はすでに理解しているつもりでいるので、6回シリーズの講義でこれまでの理解の整理を図り、あとはQ&Aによる論点解明が目的だ。講義は明快で論理的である。文献史学に考古学的研究成果も取り入れて、変なバイアスや「トンデモ異説」を廃した歴史観の提示であり、「素人歴史探偵」が喜んで飛びつくようなロマンチックで興奮するような物語ではない。歴史学に客観的という言葉が適切かどうかは別にして、通史として俯瞰的に眺めるアプローチと言ったら良いだろうか。すなわち邪馬台国近畿説、北部九州説云々という、少々地元が熱くなりがちな位置論争に巻き込まれることなく、3世紀当時の日本列島の姿を、そしてその国の有様を俯瞰する。邪馬台国や卑弥呼(3世紀の中国の史書三国志魏書にしかでてこない)は筑紫の地域連合とその首長の話であり、近畿大和の初期ヤマト王権とは別のものであるということ。当時の日本列島にはまだ統一的な王権など存在していなかったということ。これを明快に解説している。なぜ邪馬台国「近畿説」論者(依然として多数説とされるが)は無理に邪馬台国を奈良盆地の大和地区(あるいは纏向地区)に持ってきて、ヤマト王権、ひいては後世の大王家、天皇家につながるルーツだとしたがるのか?文献を読み返しても、考古学的な資料を見ても、なぜそのような結論になるのか?疑問を呈している。私も全てを先に決めている答えに無理やりこじつけているようで違和感を感じ続けていたので、先生の解説はいちいち納得であった。

倉本先生も指摘しているが、中国の三国志の魏書(いわゆる魏志倭人伝)にしか記述のない邪馬台国という北部九州の首長連合体の存在が、当時の列島全体の倭王権を代表していると考えること自体が、乏しい文献記述にこだわって惑わされている証拠である。まして三国志のなかでは魏書しか残っておらず、蜀書や呉書は失われていることから、魏と対峙して江南地方に勢力を有していた呉が倭国(近畿大和?)と交流していた可能性がないとは言いきれず、その記録が現存しないことも考慮しておくべきだとする。さらには、魏志倭人伝の記述を素直に解釈すれば「邪馬台国連合」が北部九州の範囲内であることは明確であるのだが、それを色々解釈を加えて(南を東と読み替えたり、距離を読み替えたり、地名を無理に当てはめたり)、どうしても近畿へ持っていこうとする。一方で、7世紀末から8世紀初頭に日本の天皇支配の起源と歴史と正当性を記述した日本書紀や古事記では「邪馬台国」「卑弥呼」に触れていないし、編者は魏志倭人伝を参照しているにもかかわらず、その記述をどのように位置づけるか述べていない。すなわち、記紀では邪馬台国や卑弥呼を天皇家のルーツとはみなしていない。3世紀半ばの列島は、いくつかの地域首長の国・クニや、その地域連合が各地に併存していた時期で、まだ統一的な王権など存在していない。のちに大和盆地に起こった初期ヤマト王権も、徐々に筑紫や、吉備、出雲などとの緩やかな首長連合を形成してゆく(古墳時代)が、統一的性格の「王権」「大王」が現れるのは5世紀の雄略大王の頃だし、血統による世襲、すなわち皇統(「万世一系」の)という概念が成立するのはさらに継体大王の時代6世紀以降の話だ。それでもなお大王が豪族・氏族を束ねる力は強いとは言えず、7世紀、8世紀初頭の古事記、日本書紀でようやく天皇を名乗り皇統の系譜が整理され、地域の豪族や氏族ごとの神々の体系化(皇祖神を中心とした同族化)が記録されるようになった。こうした史実にもかかわらず、近畿説論者は、3世初頭にはすでに列島には統一王権が存在し、それが後の天皇家のルーツであると主張する。もっとも、そう言っている人も「なんかおかしいぞ」と感じながら「まあ細かいことはいいじゃないか!」と主張を曲げていない気がする。こうなると、何らかの政治的な意図の発露か、あるいは地元に観光資源を確保したい自治体の思惑か、ロマンチックなフィクションの創出か、いずれにせよ学問の話ではない。

また倉本先生は、考古学的な年代確認手法とそれに基づいた時代確定にも疑問を投げかけている。纏向遺跡や箸墓古墳の炭素年代測定法による、邪馬台国・卑弥呼と同時代の「3世紀中」推定だ。毎回測定するたびに時代が遡ることにも不思議さと違和感を感じるという。邪馬台国、卑弥呼が存在した時代に合わせるように遡らせる考古学者。マスコミ、地元自治体という構図なのか。倉本先生の「余談」によれば、纒向遺跡研究の第一人者である寺沢薫先生も、もはや地元とマスコミに押し切られて、自説を訂正できなくなっているという。どこまでホントなのか知らないが、言い出した以上引っ込みがつかない事は研究の世界でもあるかもしれない。きっと王の纒向居館遺構も盟主墳である箸墓古墳も、「環濠集落」形態の国/クニで特色づけられるチクシの邪馬台国よりは、もう少し新しい時代の遺跡ではないのか?という素朴な疑念である。炭素年代測定法という「科学的証明」の信頼度と、文献史学的な「整合性」との相剋だ。木を見て森を見ない断定は危険ですらある。そこに何らかの政治的、利害的な意味合いや意図を潜り込ませうる余地があるからだ。

いわゆる「邪馬台国論争」についてはこれまでのブログで私論を述べてきたし、倉本先生の論考で整理され私なりの結論は出たので、ここで改めて繰り返さない。そこで、やはり問題は「初期ヤマト王権(倉本先生は「倭王権」と呼んでいる)はどこから来たのか?」「彼らは何者なのか?」ということに行き着く。以前のブログでも考察してきたが、意外にこの「日本という国家の成立起源」がよくわからないことに気付かされる。今までは邪馬台国がそうだ、とあまり深く考えずに片付けていたのだが、そうでないとすれば、大和に発生したという日本のルーツは奈辺にあるのか。Q&Aセッションでは下記の質問に丁寧に解説を加えていただいたが、やはりスッキリと謎の解決には至らない。まだまだ未知の部分が多いと感じた。


1)そもそも初期ヤマト王権の勢力はどこから来たのか?大和盆地の土着勢力が発展したものか?外来勢力が「無主の地」に移住して成立したものなのか?

2)なぜ、奈良盆地が倭王権・倭国の中心になったのか?

3)チクシ王権が魏に朝貢し冊封を受けたのに対し、ヤマト王権が中国の呉王朝と通交があったとすれば、その証拠は出ているのか?

4)3世紀以降、奈良盆地になぜ古墳がこれほど大規模に築造されたのか?


1)唐古・鍵遺跡に代表される奈良盆地の複数の弥生以来の農耕集落を起源とする土着勢力が糾合して成長し、初期ヤマト王権を形成し、三輪山の麓に纏向王都を形成したのであろうとする。これは以前のブログで紹介した、奈良文化財研究所の坂靖氏が「ヤマト王権の古代学」で結論とした「土着説」と相通じる見解である(初期ヤマト王権はどこから来たのか?第五弾https://tatsuo-k.blogspot.com/2020/06/blog-post_30.html)。「神武東征」伝承などに引っ張られがちであるが、外からの勢力が「無主の地」奈良盆地に移住してきてできた王権ではないだろうとする。吉備や、出雲、筑紫からも人は集まってきただろうし、多くの影響(祭祀、葬祭儀礼、古墳などに)を受けているが、ここで首長となるような勢力にはならなかったとする。ただ、特定の勢力が王権を最初から独占したのではなく、初期には大和・河内あたりの地域勢力の首長間のいわば持ち回りのような形であったのではないかと推測している。その証拠が首長墳、盟主墳である古墳群が盆地のあちこちに点在していること。大和古墳群、柳本古墳群、佐紀古墳群、馬見古墳群、古市古墳群、百舌鳥古墳群などである。盟主墳が次々場所を変えて造営された背景はこれだという。これまでの、三輪王朝、葛城王朝、河内王朝などが盆地内、河内で王朝交代を繰り広げたという説を否定するものだ。いずれにせよこうした狭い盆地内での各集落同士の寄り合いや談合の中から王や、さらにその上に立つ大王が生まれてきたのだろうということだ。しかし、なぜそのような盆地内の在地勢力が、列島他地域に優越し、全体を統治する勢力に育っていったのか。依然としてまだモヤモヤが払拭できない。やはり「王権の成立」には「大陸との通交」という東アジア的な視点に基づく地政学的な研究を無視し得ないのではないだろうか。その視点で考えると大陸の影響を早くから受けてきた西日本の先進地域(筑紫、出雲、吉備などの)と無関係に、急に奈良盆地の大和が高度先進地域に発展したとは考えにくい気もする。奈良盆地に移住してきた勢力や外来勢力の存在が鍵になっていることを否定はできないのではないか。

2)次に、なぜ奈良盆地なのか?これは謎だという。王都は交通の便が良い大阪湾岸、河内でも良かったはずだと。筑紫、出雲、吉備などの西日本との緩やかな首長連合が成立したので、次は東の国や首長との連合を目指した初期ヤマト王権が、西の瀬戸内海と東の伊勢、尾張との交通の要衝であった三輪山麓に交易拠点を設けたのではないかという仮説を示している。纒向は瀬戸内海と、大和川水系を利用した水上交通を運河で結ぶ交易の結節点という遺跡である。全国からの土器が出土していることから、ここが開かれた初期の「都城」であったらしい。しかし100年でその姿を消している。かといって盆地の外へ「都城」が移転したのではなく、盆地内で拠点が移動している(奈良盆地を出て北の山城国に移転するのは794年のこと)。なぜ、そんな箱庭のような狭い盆地の中で主導権争いに終止していたのであろうか。それが日本列島全体に大きな影響を与え得た理由は何なのか。1〜3世紀のチクシ王権(奴国、伊都国、邪馬台国)の有り様を見ていると、大陸の強い影響下にあり、王の統治権威や権力基盤、鉄資源を主とする経済的な優位性も、中華王朝の朝貢冊封体制下(東アジア世界的な秩序)にあったことを考えると、外界から適度に隔絶された奈良盆地に成立したヤマト王権の統治権威、権力、経済基盤がこうした東アジア世界的秩序と無縁で、大陸の影響なしに確立できたとは考えにくいのではないか。それともチクシ王権とは異なる求心力があったのだろうか。

3)そういう視点からも、3世紀に江南の呉との通交があったのではと推測するのであるが、呉との通交の証拠で確実なものはまだ見つかっていない。中国側の文献史料(三国志呉書のような)が逸失している以上、何らかの物証が日本側で発見されることが期待される。特に大陸との朝貢冊封関係や通交を示唆するような印綬や「威信財」が盟主墳墓から出てこれば有力な証拠となる。しかし、多くの盟主墓と考えられる前方後円墳が陵墓指定されているため発掘調査ができないから調査しようがないという。またそれ以外の古墳(実は未指定の大王墓があると考えられている)の多くが盗掘されており副葬品の出土が少ないという。他の墳墓でいくつかの呉鏡が見つかっているし、呉の工人が存在していたらしい痕跡(仿製鏡の工房など)もある。しかし、そもそも奈良盆地の3世紀以前の遺跡から王権の存在や大陸との通交を推測させるような遺物・威信材は見受かっていない(前述の坂靖氏の「ヤマト王権の古代学」)。初期ヤマト王権と呉王朝との通交(朝貢冊封関係)はまだ推測の域を出ないのだはないかと感じる。やはりここでもチクシ王権(奴国/伊都国/邪馬台国)がその統治権威を中国王朝との朝貢冊封関係によって得ていたこと、その証拠としての金印や、王墓から大陸由来の鏡、剣、玉などの威信財が大量に出土していることを鑑みると、今後の考古学的発見に期待するものの、初期ヤマト王権と中国王朝との通交の痕跡が乏しい感は否めない。そうなると、再び3世紀の初期ヤマト王権の統治権威の基盤はなんだったのだろうという疑問が湧いてくる。

4)そこで古墳の持つ意味合いが重要になってくる。大和盆地に発生した我が国に特有の前方後円墳は、ヤマト王権を特色づける重要な考古学資料であるが、単なる首長の墳墓(盟主墳)ではなく、葬送儀礼や前方部は祭祀や即位儀礼の場であり、しかも葺石で覆われた建造物自体が権威/権力を表象する巨大なモニュメントとしての意味合いがある。これが国内に置ける政治的な同盟、同祖同族関係の証しとして全国に広がっていった。すなわちヤマト王権から統治権威を地方に与える意味を持っていたと考えられている。しかし、箸墓古墳や渋谷向山古墳、行燈山古墳、メスリ山古墳などの初期の大型前方後円墳の築造が、本当に3世紀初頭〜中期(魏書に言う邪馬台国/卑弥呼の時代)なのか?前述のように多くの考古学者は炭素年代測定法という「科学的計測」によっているので、間違いないと信じているようだが、サンプリングによる計測精度に誤差は全くないのか?また、その時代の列島内の先進地域であったチクシ倭国の農耕環濠集落(戦闘/防御を意識した集落)形態の国の姿(吉野ヶ里の姿に象徴される)と、ヤマト倭国の都市(防御施設がなく運河、河川で外部と繋がっている)形態を有する国の姿(纒向に象徴される)とが、全く同時代とはどうも考えにくい。前方後円墳のような巨大な構造物も弥生の香りを残す環濠集落(例えば唐子・鍵遺跡のような)と同時代的に併存するものではないのではないか。これらの大型前方後円墳は早くとも3世紀末期のものではないかと推測する。4世紀に入ると中国は魏や呉の末裔である晋が滅び、五胡十六国の混乱の時代に移ってゆくことから、周辺国(いわゆる蛮夷の国々)は中国王朝との朝貢冊封関係が揺らぐ事態となる。そうしたなかで倭国では新しい統治権威の確立、新秩序の模索がはじまっていたとも考えられる(魏王朝と晋王朝という統治権威の後ろ盾を失ったチクシ倭国の邪馬台国は衰退していったのだろう)。大和の古墳はその象徴的な遺跡であろう。そういう意味では古墳は4世紀以降に普及していったモニュメントであると考えるのが妥当ではないのか。なお古墳は大陸からの影響は考えにくい倭国独特の施設だ。吉備の特殊基台、出雲の四隅突出型古墳。筑紫の威信財副葬形式などが集合してできたと考えられる。なぜこのような墳墓形態が生まれたのか。どうしてこれが奈良盆地発の統治権威や同祖/同族のシンボルとして列島統合に用いられたのか。じつはあまり分かっていないことの方が多い。最近、韓国で前方後円墳が見つかったと話題になっており、韓国の考古学会では、やはり前方後円墳は半島由来ではないか、と発掘調査を進めた。しかし、結局は6世紀以降の築造であり、むしろ倭人の半島進出に伴う倭系有力者の墳墓であることがわかってきている。だが、このような巨大な施設や土木工事技術が、列島内で、さらにいえば奈良盆地や河内で独自に発展したものなのか明らかではない。何らかの渡来系の集団の技術ノウハウが伝わっているのではないだろうかとも考える。ちなみにチクシ王権の地、北部九州には、3世紀時点では大和で見られるような大型前方後円墳は見られず、大陸由来と思われる墳丘墓が中心である。このように大規模古墳がヤマト王権を特色づける統治権威のモニュメントであることは疑いないが、その全容はまだまだ解明されていないと感じる。

残念ながら、今回はこれら全ての謎の解明には至らなかった。やはり「初期ヤマト王権」のプロファイリングには未知なる部分があまりにも多い。明治維新後の「天皇制」や「国体」につながるルーツの歴史であり、戦後は皇国史観が廃されたとはいえ、日本の起源に関する歴史であるが故に、さまざまな憶測や思惑も絡む。そして、まだまだ限られた文献史料、考古学的資料に依拠する議論であることが謎の解明に立ちはだかっている。新しい発見とこれからの更なる研究成果と斬新な仮説が待たれる。まあわかってしまうとこれ以上探求する興味も失せてしまって、やることがなくなるのでいけない。幸いなことに、これからも「時空トラベル」は終わることはなさそうだ。


三輪山山麓に広がる初期ヤマト王権の所在地、纒向遺跡
箸墓、他の前方後円墳群
(桜井市纒向学習センターHPより)


(掲載した写真は、2012年三輪山、箸墓古墳、纒向遺跡発掘現場、龍王山を訪ねた時のもの。撮影機材:Nikon D800E + Nikkor 24-70, 70-200)




「初期ヤマト王権はどこから来たのか?」シリーズ、過去のブログ

2020年4月15日:第一弾 https://tatsuo-k.blogspot.com/2020/04/blog-post_15.html

2020年4月27日:第二弾 https://tatsuo-k.blogspot.com/2020/04/blog-post_27.html

2020年5月8日:第三弾 https://tatsuo-k.blogspot.com/2020/05/blog-post.html

2020年5月26日:第四弾 https://tatsuo-k.blogspot.com/2020/05/blog-post_26.html

2020年7月1日:第五弾 https://tatsuo-k.blogspot.com/2020/06/blog-post_30.html

2020年12月26日:プレゼンテーション資料 
                                                                                                                                                                                https://tatsuo-k.blogspot.com/2020/12/blog-post_26.html










2021年8月8日日曜日

パラドックスの夏が終わった 〜「これにて一件落着」なのか?〜

 

お台場に設置された聖火台

閉会式


緊急事態宣言下で外出自粛を求められるなか、64年の東京大会を観た「昭和老人」にとってオリンピックのテレビ観戦は、退屈で鬱々とした巣篭もり中のまたとない時間潰し、いや楽しみとなった。あんなに「こんな時にオリンピックやるなんておかしいじゃないか!」と息巻いていたのに、アスリートの活躍に歓喜し、興奮し、涙し、そして金メダルの数をカウントして朝から晩までテレビに齧り付いている自分を見て、まさに奴らの「術中にはまった」と苦笑いする日々であった。あのSNS上を席巻した怒りのコメントはなんだったのか?上から目線のボヤキ漫才?いや老人性パラノイア、はたまた老人性不定愁訴だったのか? 無観客試合という異例の開催が、自宅でのテレビとネットにかじりつかせることになったことも皮肉だ。頑張ってチケットを手に入れた人には残念だろうが、我々のように一枚もチケットをゲットできなかった「ドンくさい」人間には、小さな声で「ザマアミロ」と快哉を叫び、下劣な溜飲を下げるTV観戦だ。もっとも開会式と閉会式のチケットに大枚叩いた人たちの間では、このTVを観て「これにこんな大金払わされるなら払い戻してもらう方がよかった」との声も...まさかの「金返せ、金返せ」コールというわけだ。

事前の人選トラブルが相次いだ因縁の開会式と閉会式の出来栄えについては敢えてここではコメントしないが、しかし観客席に人影もなく歓声なく、静寂の中でただただアスリートが真剣勝負で競い合う姿が新鮮であった。がらんとした競技場にアスリートの掛け声や息遣いが遮るものもなく響き渡るオリンピックはそうないだろう。また世界が注目するイベントに海外から人々が集まり交流する祭りを求めることも不自然ではないが、こういう時期だからそういう祝祭の色合いは取り除かれても仕方ない。天皇陛下も開会宣言で「祝う」というお言葉を使われず「記念する」と述べられた。アスリートは、こういう困難な時期に開催されたことに感謝し、「ありがとう東京」の言葉を異口同音に語る。そして、だからこそこれまで磨いてきた技と力を、こうして与えられた舞台で出し切るべく競技に専念する。ある意味でのスポーツの原点を見た感じがする。もちろん海外からの観客はなく、選手団/関係者/マスメディアなどの多くの海外からの訪問客との交流はシャッタアウトされ、街に親善友好、祝祭のムードはない。期待する経済効果もなかった。本来ならこれだけでも開催する意義は半減しただろうが、そこはそれ「アスリートファースト」のIOCだ。競技さえできれば他のことは良い。どうせ放映権料を取っているのでTVで観れば良いのだし、開催さえしてくれればよいのだ。まして開催国の国民にパンデミックの厄災が及ぶかどうかIOCの問題ではない、それは開催国の責任だろう...と。

こうして強行されたオリンピックは、始まってみると多くの国民がテレビ、ネットで観戦し、コロナコロナで鬱々とした日常に束の間の非日常的なわくわく体験を思い起こさせてくれた。アスリートの活躍に元気をもらい、そしてアスリート同士の敵味方を超えたフェアプレーとレスペクトに感動をもらった。日本は史上最多のメダルを獲得し高揚感に包まれた。結局はメダルの数が大会が成功か否かを評価するのだと人は言う。だとすればこの東京大会は日本にとって大成功であったことになる。政府、大会関係者は胸を撫で下ろしているのだろう。そして、やはりこのTokyo 2020に「感動」した我々は、まんまと為政者の「策略」にはまってしまったのか? いやそうではあるまい。オリンピック開催さえすれば、なんだかんだ言ってもコロナの鬱憤を晴らし、日本選手の活躍でメダルラッシュとなれば、コロナ対策でミソつけた政権に対する国民の不満も和らぐに違いない(選挙で勝てる!)。そういう読み/期待は、開催期間中に起きた異次元の感染爆発(ついに全国で史上最多の1日の感染者15000人超)と、現場の医療崩壊危機。それに対する相変わらずの政治の迷走、思考停止に儚く潰え去った。オリンピック開会式セレモニーというスイッチが入って、一瞬、パンデミックからオリンピックへとモードが切り替わったかに見えたが、夢の饗宴に酔いしれた17日間は、閉会式と聖火の消灯とともに消え去った。たちまち酷暑の夏と、まだそこにいるパンデミックという悪夢のような現実に引き戻された。政府はコロナの感染爆発とオリンピック開催は関連性がない、と述べているが、オリンピック関係者の感染は450人を超えた。組織委員のバブル方式は機能したのか。その検証はなされていない。海外からの持ち込みだけでなく、日本からの持ち出しはこれからだろう。これからどういった影響が出るのか経過観察が必要だろう。また世論調査では60%がオリンピック開催で、緊急事態宣言と言われても開放感と気の緩みが出た、と答えている。「緊急事態宣言」と「オリンピック開催」というパラドックス。「真夏の夜の夢」の後に残った未曾有の感染爆発と、一年の延期と無観客のオリンピックで残った膨大な赤字と借金、そして危機的な日本の政治と経済の劣化という置き土産を目の当たりにして、国民は現実の厳しさに気付かされる。すでに当初の予定を大幅に超えてしまった1兆6千万円大会経費の回収は無理だ。誰がそのコストを負担するのか?そして商業主義主導で金にまみれ、政治をも動かすオリンピック興行主というIOCの正体も見てしまった。なぜこんな酷暑の夏に競技を集中させるのか。開催国だけでなく世界中がパンデミックで苦しんでいるのになぜ開催を強行するのか。素朴な疑問が湧いてきて、そうだったのか!と現実を知る。そもそもオリンピックって何?誰のためにやるのか?という根源的な問いにもぶち当たったこの夏である。

今回、オリンピック史上も前代未聞の大会となったことは間違いない。パンデミック下の一年延期、無観客、聖火リレー/交流行事中止など異例ずくめの開催。この東京大会は後世にどのように記憶されるのだろう。今回の緊急事態宣言とオリンピック開催という二律背反のパラドックスは、普段気づかない色々なことを気付かせてくれた。その一つが政治やこの国のリーダのあり方である。非常事態下におけるオリンピック開催強行は、為政者が目論んだような、国民の不満をそらして、政治への信頼回復(選挙で勝つ)や、国威発揚や、愛国心の醸成を生み出したわけではなく、むしろ皮肉にも為政者やリーダー、社会的エリートと言われる人々の、いざという時の混乱と迷走を露呈したように思う。オリンピックにしろパンデミックにしろ頑張って結果を出したのはアスリート、ボランティア、大会スタッフ、そして医師、看護師、保健師、警察官、自衛隊員、救急隊員、エッセンシャルワーカーなどの個々人であったということ。要するに現場で全ての仕事を額に汗し、手を汚し、足を動かして走り回って実行し、目的の遂行を支えた人々であったということ。彼らの努力と活躍がなければ、困難な環境下での大会運用もできなかったし、アスリート自身の努力がなければメダルラッシュもなかった。短時間での大量のワクチン接種も進まなかったし、通常医療を抱えながらの感染症対策医療現場での命の救済もできなかった。結果を出したのは彼らだ。海外のメディアから、困難な時期の開催に謝意が示され、SNS上に多くの賞賛のコメントが投稿されているのも、こうしたアスリートの活躍や現場を支えた人々へのそれだ。一方でこうした有事における事態把握、課題認識、方針/政策決定、具体的な対処責任を負う政治家、官僚、リーダーと言われる人たちは国民の負託に応える結果を出せていない。国民の不安と懸念を振り切ってオリンピックは強行して終わらせたが、パンデミックは終わってない。経済の回復もまだだ。事態を見据える視座、合理的な判断力に欠け、国民への共感力も、事態の推移の想像力も欠如し、迷走と妄言をかさねたあげく、矛盾した結論へと突き進んだということになってしまっている。「上は三流だが現場は一流だ」と揶揄される所以だ。あの戦争へと突き進んだ顛末を彷彿とさせる。そして完全な破滅に直面しているのに終戦の意思決定を躊躇していた事実(おりしも76年目の広島、長崎原爆忌である)。トップの意思決定に合理的な根拠がなく優柔不断であること。失敗を認めない、都合の悪いことはなかったことにする思考回路。「根拠のない楽観主義」と「無謬性」という虚構。責任の所在を曖昧にする組織風土。これまでの歴史にたびたび出現した問題解決に取り組む「組織風土」の宿痾がまた今回も再現された感がある。

最後に、最初にスルーした開会式、閉会式の出来栄えの話についてやはり一言付け加えたくなった。厳しい評価の根っこにあるのは、要するに何をメッセージとして世界に伝えたいのかがはっきりしない、ということに尽きる気がする。このコロナパンデミックに見舞われる世界で、今行われるオリンピックにことよせて何を伝えたいのか。「あなた」のメッセージが「我々」に伝わってこないのである。「復興五輪」なんて本当に考えていたのか?と言いたくなるほどぐだぐだになってしまった。一つ一つのパフォーマンスや演奏や寸劇、ダンスは一流のパフォーマーや演奏家、歌舞伎役者を動員しているのだが、パーツである「コント」が全体としてのモティーフ、ストーリーに繋がらない。盆踊り、東京音頭、歌舞伎、和太鼓はこのストーリー上になければ、唐突な昔ながらの日本文化紹介コーナーにしか見えなくなる。参加者であり主役のはずの各国選手は3つに分断されたエリアに閉じ込められて、イベントに参加することもなく、「ショーの傍観者」になることを強いられている。ストーリーライター、総合プロデューサーがいない。指揮者のいないオーケストラだ。政治、経済、企業にビジョナリーリーダーがいない、全体最適を図れるリーダーがいない状況と同じだ。人々を惹きつけ、共感を生み、想像力と期待を掻き立てるものが感じられない。閉会式で披露された次期開催都市パリのフランス国歌演奏に合わせたParis 2024のビデオメッセージは、大勢のパリ市民の参加を得て簡潔で明快なパリオリンピックへの期待感を沸き起こす表現とストーリーでまとまっていた。比べるわけではないが、日本の総合的なプロデュース力、オーケストレート力との違いを見せつけられることになった。いやそうは思いたくないが総合的な文化発信力の違いかもしれない。そもそも例の如く電通に丸投げして、お笑い芸人を総合プロデューサーに起用している段階で、もはや限界かな?と。そしてこの開会式、閉会式のメッセージ不達が今の日本が置かれている状況を象徴しているように感じた。例に挙げるまでもなく、言葉によるメッセージ力がキモであるはずの政治家の、演説/スピーチや国会答弁、プレスコンファレンスでの原稿ボー読みを見るとよくわかるであろう。少なくとも間違えないように読んで欲しいものだが、読んでる本人が書かれている中身のメッセージやビジョンを共有してないから、2ページも読み飛ばしても本人は文脈の不連続に違和感を感じないのだ。リーダーに求められる能力とは何か?日本に欠けているものは何か?大きな課題を突きつけられている。開会式、閉会式の空虚感は日本の抱える課題を象徴している。


Paris 2024
次期パリ大会開催に向けたポスターの一つ



2021年7月23日金曜日

緊急事態宣言下の東京2020オリンピック開幕! 〜1964年とどう変わった?後世どのように評価されるのか?〜

1964年10月10日東京オリンピック開会式(朝日新聞アーカイブスより)


2021年7月23日の空


残念ながら五輪はすぐに風に流されてしまった

無観客、と言われてもね〜...
自宅でテレビ観戦が今回の王道?

一見、無観客に見えない会場。隈研吾マジック!こうなること予想してたのかな?

青い地球が浮き上がる演出
ドローンを使っているとか

大坂なおみが聖火点灯

聖火も点灯!大団円!ということでお開き


1964年10月10日、秋晴れの雲ひとつない青空の下、東京国立競技場でアジアで初のオリンピックが開会式を迎えた。あの真っ青な秋晴れの空にブルーインパルスの編隊飛行が描く五輪のマークがくっきりと浮き出た、今でもその光景が目に焼き付いている。古関裕而のオリンピックマーチが耳の底に響く。ワクワク、ドキドキする感動を与えてくれた東京オリンピック。中学生であった私に今でも鮮やかな記憶として残っているあの日。

19年前の惨めな敗戦から目覚ましく復興し、高度経済成長が始まった1964年の東京でのオリンピック。首都高速や環七、モノレールや豪華ホテルが次々現れる首都改造、新幹線開業、国立競技場、日本武道館やオリンピックプールなど華麗なオリンピック競技場が次々に建設され、日本が輝いていた時代だった。世界に誇れる「一等国」になったと皆がナイーブに信じた。世界に恥ずかしくない「公徳心」とか「公共マナー」が話題になり、ゴミ捨てマナー、整列乗車、交通マナー、公衆衛生など「民度」の向上にも努めた。舗装道路が少なく砂ぼこりまみれで交通渋滞が激しく、ゴミが散乱する汚い街東京が変わるきっかけになった。今は東京は世界一綺麗で安全な大都会だ、なんて言われているが、昔は違っていたのだ。その一方、古い東京、江戸の面影は消えてゆき、江戸下町の人情も紙のように薄くなってしまった。まあ、日本が一生懸命前進しようと頑張り、そのためには街が壊されても、自分の家が取り壊されても、掘割が埋められて水都江戸が姿を消しても、そして人情が薄くなっても「やむを得ない」と諦めた。オリンピックが大義となって全ての破壊も挑戦も許された時代だ。みんなが前を向いて進むことしか知らなかった。与えられた目標にむかってみんなで突っ走る。日本人の得意とする「集団成長モデル」が確立した瞬間だ。開高健の言葉、「満員電車で通勤して夜遅くまで働くので勤勉かと思えば朝からパチンコ屋が満員!」「近代的なビルがあると思えばその横には小さな建物が苔のようにびっしりへばり付いている」これが1964年頃の東京であった。

 そして東京2020オリンピックがついに今日、2021年7月23日に開会式を迎えた。1964年のオリンピックから57年後のことである。コロナパンデミックによる一年の延期という前代未聞の事態をへて今日を迎えたわけだが、今年になってもコロナは一向に収まらないどころか、変異株の登場で新たな感染爆発に見舞われる世界。こんなパンデミックのさなか、開催か、中止かとの論議の末(開催ありきであまり議論したとも言えないが)、IOCの恫喝と政治の思惑により開会強行(というか、なし崩しで開催)とあいなった。国民の55%が開催には反対。70%が政府の説明に納得しない、といっているのも関わらずだ。ただし観客を入れない無観客という前代未聞のオリンピックになってしまった。この間、開催国国民の不安と疑念をよそに、政府の思惑、IOCの独善性が露呈し、「そうだったのか!」が次々と明らかになる事態を目の当たりにして、頑張ってきたアスリートには気の毒だが国民のオリンピック熱はすっかり覚めてしまったようだ。「こんな時に何故オリンピックやるんだ?」「誰のためのオリンピックなのか?」という疑問符と、このオリパラを機に感染拡大中のパンデミックはどうなるのか?医療は大丈夫か?という不安と。公道での聖火リレーはほとんどが中止。とても歓迎ムードやお祭りムードでないことだけは確かだ。64年の時のワクワク、ドキドキはどこへいってしまったのか。

感染者数はここへ来て東京で千人を超える日が続き、22日時点で1979人。全国的にも急速に感染が拡大し、再び5000人を超えた。ついに第5波到来である。世界的にインド由来の変異株中心に爆発的な感染拡大が始まり、日本でもオリンピック期間中、開催都市である東京で4度目の「緊急事態宣言」: State of Emergencyが発令となった。しかも選手他オリンピック関係者の感染者も次々と確認され22日時点で106人となっている。しかし、それでもオリンピックはやる(IOCコーツ副委員長は「緊急事態:State of Emergencyでもやる!」と恫喝)。日本はワクチン接種が遅れていて。いまだに国民の20%しかワクチンを打っていない。急速に進めてきた接種は、突然ワクチン供給不足を理由に、急ブレーキ。にもかかわらずオリンピックはやる。オリンピックやりたいというなら、何故それに合わせてワクチン接種を進めなかったのか?誰でもわかることができなかったのは何故?「頭の良い人たち」が集まって下した「頭の悪い結論」の結果だ。一番の課題は医療体制の崩壊の危機だ。感染しても入院して治療してもらえない人の数が急増する。自宅で適切な医療処置がないまま死亡する人が現に出ている。保健衛生や医療の現場にとってはオリンピックどころではない戦時体制といって良い状況だ。そんな事態なのにオリンピック関連の感染者や熱中症患者の受け入れ要請をしてくる組織委員会に医師会は反発している。国民の命と健康を守れない可能性が高まっている。政治家も行政も医療専門家も口では危機感を言い募っているが、実際の意思決定と行動はその危機を回避する方向にはなされていない。「オリンピックはやる!」という意志だけは明確だが。

どうしてこんな合理的とはとても言えない意思決定ができるのか、みんなが「おかしい」と言いながら、コトはズルズルとなし崩しで進んでいく。街は今日から始まったオリンピック4連休の人出で溢れかえっている。わざわざこの時期に設定した4連休。新幹線や飛行機も久しぶりに帰省客で混雑状況だ。無観客の開会式が行われる国立競技場の周りは、少しでもオリンピックの雰囲気を味わおうと大勢の群衆が取り囲んでいる。東京は8月8日まで緊急事態宣言中じゃないのか?県を跨る移動は「自粛」するんじゃないのか?出かける人の意識が低いというのか?無観客なのに何故オリンピックだからと言って4連休にするのか?そうしておいて「不要不急の外出は控えよ!」と同じ人物が言うのは何故?全く支離滅裂としか言いようがない。

そもそもこのオリンピックは招致の時から混乱の極みであった。政治主導の迷走劇。方針の撤回と、運営責任者の辞任の連続。運営責任者に人権、人間の尊厳と歴史観への理解と配慮がない人物が多すぎる。結局は面白おかしいお笑いネタのノリでイベントとして捉える人間が中心のプロデュースに成り下がっていたわけだ。それが世界に通用すると思っている。しかもそれをチェックするマネジメントの見識も体制も責任者も不在(いや責任者はいるのだが、その適否を判断できる人ではなく丸投げ)。さらに用意周到とは無縁の粗雑なプロセス。日本品質はどこへいったのだろう?

国立競技場設計デザインの変更(2015年)

オリ/パラロゴエンブレムデザイン盗用疑惑で差し替え(2015年)

東京招致贈収賄疑惑で竹田JOC会長辞任(2019年)

暑さ対策でマラソン、競歩の札幌開催への突如変更

コロナパンデミックで開催の一年延期(2020年3月)

総合プロデューサー野村萬斎辞任(2020年3月)

森大会組織委員会会長の女性蔑視発言で辞任(2021年2月)

開会式演出プロデューサーの女性タレント容姿揶揄問題で辞任(2021年3月)

開会式直前に楽曲担当の過去の「いじめ」問題で辞任(開会式3日前)

反ユダヤ揶揄で開会式ショーディレクター解任(なんと開会式前日!)

まさに迷走の末の傷だらけのオリンピックだ。

「そんなこと言ったって始まってしまえばみんなオリンピックを楽しむんだよ」という人の心を見透かしたような米国三大ネットワークの一つ、NBCの会長の言葉。それがオリンピック放映権を牛耳る金権黒幕の言葉であるだけに、なんともやりきれないが、人々は結局はアスリートの活躍に狂喜乱舞し感涙するのは間違い無いだろう。開会式のお祭り騒ぎがが始まっただけで、スイッチがコロナからオリンピックに切り替わったような反応がSNS上に表れている。頑張るアスリートが悪いわけではない。素晴らしい競技に感動するのが悪いわけではない。祭りを求める庶民が悪いわけでもない。複雑な気分だ。1964年の時も、オリンピックに懐疑的であった作家、評論家も、一旦始まってしまうと「感動」を書き綴り始める。「テレビに齧り付いている民衆を見て「自立した抽象性」が人々を感動させる」と、芥川作家石川達三が書いている。東洋の魔女のストイックな戦いをテレビで観戦した有吉佐和子もその感動を激白している。まさに無観客、自宅でのTV/ネットでの観戦が主体となる今回の大会においては、その「自立した抽象性」に感動し酔いしれる人が増えるのだろう。しかもSNSで感動を共有するという、57年前には無かった事象が出現する。それが現代のリアリティーだと感じさせるデジタルテクノロジーの進化なのだから。しかしそれはそれでリアリティーを喪失した世界に別の危惧を抱かせるように思う。本来なら競技場でアスリート/観客一体となって感動を共有するはずのものなのだが。

選手団や関係者が続々と来日している。しかし、組織委員会が用意する検疫体制や日本人との接触を徹底的に避けさせる「バブル」と称する感染隔離対策に色々問題が発生している。基本は来日した選手/関係者をオリンピック選手村とホテルに隔離し、複数回のPCR検査を実施し、陽性者は出場させない。濃厚接触者も一定時間試合から隔離する。基本的に競技会場との間を行き来する以外、外出を許さない。違反すると関係先入場IDを没収する。報道関係者も同じ隔離政策が適用される。ところがこの措置に対する関係者の批判が相次いでいる。電車やバス、タクシーなど公共輸送機関に乗れない。コンビニで買い物すらできない。特に報道関係者は開催国の街の様子の取材ができないとクレームが。しかし一方で当然こんなルールなどものともしない連中は必ずいる。日本人のように言われたことを粛々とやる人間ばかりではない。マスクもしない、ワクチンも打たない。ルールで強制されることを絶対拒否する人間が必ずいるのだ。実際に外出やショッピング、飲食を楽しむものが出ている。逃亡して日本で働きたいと姿を消した選手も出てきた。いちいち組織委員会も監視などできないのだし。それに対し事務局はGPSによる監視体制の強化で対抗する。もういたちごっこの喧嘩だ。そして、想定通りというかオリンピック選手/関係者に感染者/陽性者が相次いでいおり、すでに100人を超えている。。

この来訪者をめぐる事態は我々日本人にとって、ある時代の混乱と迷走をデジャヴとして蘇らせる。すなわち幕末に黒船来航で開国したが、外国人を居留地横浜に押し込め、外出を制限し、日本人との接触を制限したやり方を彷彿とさせる。外国人を歓迎してに門戸を開いたのか、それともやはり本音は鎖国なのか?幕府のやり方は右顧左弁して徹底せず、それでも外国人はどんどん日本へやって来るし、来れば居留地にじっとはせず外へ出かけ、時に日本人とトラブルを起こす(その際たるものが生麦事件だ)。しかも、開国とともにコレラや天然痘などの感染症が日本に蔓延し、生活物資の買い占めなどで物価高を引き起こし、こうしたことが庶民を不安にしていった。これが開国反対、外国人襲撃という「攘夷」の根底にあった。攘夷は何も「神国日本を夷狄に蹂躙されてはならぬ」という尊王攘夷思想とか、「みやこに夷狄を入れるなんてもってのほかや」という孝明天皇の御意と関係なく、庶民にもわかりやすい形で不安と脅威を与えた。まさかこのグローバル時代の現代に!そんな攘夷だなんて、と思うかもしれないが、日本人に根強い「ウチとソトの二分法」による区別という思考様式が、こういうことをきっかけにムクムクと蘇り、外国人を見たら警戒せよという理不尽なルールがまかり通る瞬間である。あるホテルが「外人用」「日本人用」とエレベータを分けたことから大騒ぎになった。現在のオリンピック選手、競技関係者、報道クルーにたいする「バブル規制」はまさに現代の居留地である。コロナパンデミック、緊急事態だから仕方ないだろうという意見もあろうが、そもそもそんな状況で世界から人を招いてお祭りイベントやろうというのだから無理がある。その無理筋の結果、また「日本は特異な国」という悪評が蘇ることにもなりかねない。海外からの観戦者を受け入れないという決定はしたものの、本来海外からの歓迎すべき賓客であるはずが、まさかの「不良外国人」扱いされて「攘夷」の対象と化している。どこが「おもてなし」なのか?つまらないいざこざを惹起してコトをあらぬ方向に持っていってしまう。こんな異常な状態で開催強行するコトで、オリンピックが目指す本来の「平和の祭典」「友好の祭典」「多様性の祭典」で無くなってしまうのでは開催の意義はない。本当に「誰のためのオリンピックなのか?」残るのは不信感と後味の悪い思い出だけなんてごめんだ。

我々日本人が1964年に感じた東京オリンピックへの高揚感、ワクワク感、選手の活躍の感動、憧憬、スポーツの果たす役割といったものが、この56年でどこかへいってしまい、利権と政治の手段に堕してしまった感のあるオリンピックへの倦怠感があるのも事実だ。このきっかけとなったのはロスアンジェルスオリンピックだ。商業主義によるオリンピック興行成功は当時評価されたが、金と権力は腐る。結局はこうした世界がパンデミックに見舞われても金と政治を優先する。IOCは金儲けと政治プロパガンダを請け負う興行主に成り下がってしまった。IOCが近代オリンピックの原点に戻らないのであればもうオリンピックはいらない。クーベルタンはあの世で嘆いているだろう。どうも今回の一連の事態がIOC(ともう一つWHO)の評価を決めたようだ。一方で中国の新華社は北京冬季オリンピック開催を前にして、「日本は国威発揚の機会を失った!」などとコメントしているが、これこそオリンピックの開催意義を履き違えた国家の時代錯誤を露呈させてしまったようなコメントだ。彼らにとって北京冬季オリンピックは、結局「偉大なる中国共産党」の威光を世界に遺憾無く発揮するための政治的なプロパガンダの場なのだ。そうして人民の愛国心と党への忠誠心を高める。そのためには(前車の轍を踏まないよう)絶対成功させなくてはならないと言っている。我々日本は違う。「国威発揚」なんて時代はおかげさまで何十年も前に通過した。ナチスドイツのベルリン大会じゃあるまいし。戦前の日本の「お国のための愛国心」じゃあるまいし。あくまでも世界中から集うアスリートの活躍を祈るのみである。

1964年の東京オリンピックは日本にとって一つの時代のプロローグであった。戦後復興が終わり輝かしい未来に向かう「高度経済成長」と「グローバル化」という、日本にとっての右肩上がりで前進あるのみの「ある時代」の幕開けを飾るにふさわしい国家的イベントであった。新幹線、高速道路などの社会インフラ整備、建築遺産となりうる競技施設、ホテルなど、目に見えるレガシーを多く残した。しかし56年後の2020年の東京オリンピックはどうなのか?、皮肉にもコロナパンデミックがそれに加わって、その「ある時代」の賞味期限が来ても足踏み状態(空白の30年)が続き、それを乗り越えられないビジョンと目標を失った日本を象徴するイベントとなるように思えてならない。すなわち「ある時代」のエピローグである。実はコロナパンデミック、これこそ逆説的ではあるが現代に吹き渡る「神風」なのかもしれない。このオリンピックというノスタルジックな1964年の栄光の思い出に浸り、それに現代の状況を重ね合わせながら強行する東京2020。それにコロナパンデミックという先行きの見えない危機が覆い被さったこの嵐がまさに「神風」なのだ。しかし、この「神風」は、日本人が大好きな「根拠のない僥倖による奇跡」を引き起こしてくれるものではない。ようするに「八百万の神々の警告」だ。普段、日本の神は教えを説かないが、今回は国難に際して「災い転じて福となせ」「それはあなた自身がやることだ」と説いている。このエピローグは新しい時代の始まりを予感させるものでなければならない。東京2020が残すレガシーは決して新幹線や高速道路や競技会場などの物理的構造物ではないだろう。日本の政治体制にも、幕末の徳川幕藩体制と同様の運命が待ち受けている。攘夷から討幕へ。庶民の鬱積した感情のマグマが動き始め、やがては大きなパワーとなって噴出する。コロナパンデミックと変則オリンピックは日本に混乱をもたらすが、同時に中期的には変革をもたらすだろう。成熟国家への道といっていいかもしれない。黒船騒動は、最初は徳川幕府の緊急事態への対応の混乱が問題となったが、のちにそれが幕藩体制そのものが抱える根本的な問題に関わっていることに人々は気づいた。今回もこれを機会に「ある時代」の旧弊を捨て去り、「来るべき時代」を創造するムーヴメントに繋げなくてはなるまい。黒船が攘夷を引き起こし、やがてそれが倒幕という旧体制の打破へと転換し、新しい時代を創造する明治維新へと転変していったように。

とは言いつつも、オリンピックの喧騒が終わり、いつしかコロナも終息すると「喉元過ぎれば熱さ忘れる」。諸々の迷走と混乱は人々の記憶から消え去る。まるで何事もなかったかのように。人は歴史に学ばない。カミュの「ペスト」の最後は「ペストは消え去らない。人間が忘れた頃、思わぬところで再び人間を襲う」。そのように結ばれている。




























2021年7月10日土曜日

古書を巡る旅(12)Things Japanese:「日本事物誌」 〜「古事記」を英訳したバジル・チェンバレンが描いたニッポン〜

 バジル・ホール・チェンバレン:Basil Hall Chamberlainは英国人で、明治期の御雇外国人として日本に38年間住み、海軍兵学校の英語教師として、のちに日本語と言語学の教師として東京帝国大学に奉職した。偉大な言語学者として名声を得ており東大時代に彼の薫陶を得た英才も数多い。しかし、いかに明治の御雇外国人とはいえ、少々奇異な感じがするであろう。英国人が東大で英語教師ではなく日本文学教師として教鞭をとったとは。彼は東大の文学部国文学科の祖と言われている。アーネスト・サトウ:Ernest Satow, ウィリアム・ジョージ.アストン:William George Astonとともに最も有名な英国人ジャパノロジストの一人である。ラフカディオ・ハーンとも親交があり往復書簡集が残っている。チェンバレンは世界で初めて古事記を英訳したことで知られる。これをはじめとして日本の古典に精通しており、いくつもの研究成果を発表している。戦後のジャパノロジスト、サイデンステッカーやドナルド・キーン、ロナルド・ドアー、最近のロバート・キャンベルの先達と言って良い。今回取り上げるのはThings Japanese :日本事物誌(1890年初版)である。これはチェンバレンが初めて日本を紹介するために取りまとめた書籍で、ヨーロッパで人気となり、重版されて彼が日本を離れてジュネーヴに転居してからも第6版が出版されている。 日本語訳は平凡社から東洋文庫シリーズ「日本事物誌」I, II 高梨健吉訳として出版されている。

以前のブログにも記したように、チェンバレンはラフカディオ・ハーンに大きな影響を与え、彼が日本、日本の文化に惹かれるきっかけを与えた人物の一人である。奇しくもこの二人は生まれが1850年の同い年。しかし、その生い立ちや背景が大きく異なる。この二人を巡る話を後半で取り上げる。

2020年6月12日古書をめぐる旅(2)ラフカディオ・ハーンを訪ねて


左からLafcadio Hearnの'Glimpses of Unfamiliar Japan', Basil Chamberlainの'Things Japanese'
そしてその和訳「日本事物誌」高梨健吉訳


バジル・ホール・チェンバレン:Basil Hall Chamberlainの略歴




1850年 英国ポーツマス郊外に生まれる。父は海軍提督(少将)、母はスコットランド貴族で、初めて琉球王国に寄港し、「朝鮮・琉球航海記」を表したバジル・ホール海軍大佐の娘。チェンバレンはホールの孫ということになる。母の死後、フランスベルサイユに住む父方の祖母、叔母に育てられフランス語、ドイツ語で教育を受ける。ブラジル大使など国際的に活躍する一族の中で育った。大英帝国、ビクトリア朝時代の英国人のエリートの姿を象徴するようなバックグラウンドといっても良い。しかし体が弱く、オックスフォード入学を断念。1869年に療養を兼ねて3年間の外遊に出る。マルタ、イタリア、スイス、ギリシアなどを訪れたのち、東洋へ向かうテルモビレー号に乗船して長い航海に出る。そして1873年に日本にたどり着く。

1873年(明治6年) 御雇外国人として来日(23歳の時)

1874−82年 海軍兵学校の英語教師

1882年 初めて「古事記」:KO-JI-KI or Records of Ancient Mattersの英訳を発表

1886年 東京帝国大学外国人教師(日本語学)に就任

1888年 「口語日本語ハンドブック」:A Handbook of Colloquial Japanese出版

1890年 「日本事物誌」:Things Japanese初版

1891年 マレー版「日本旅行ガイドブック」:A Handbook of Travellers in Japan アーネスト・サトウ共著の初版を引き継いだもの

1904年 箱根宮の下富士屋旅館に文庫を建て逗留 執筆活動に勤しむ

1911年(明治44年) 離日。 東京帝国大学名誉教師に ジュネーヴに居住 執筆活動を続ける

1934年 日本事物誌の改訂(第6版)を行う

1935年 ジュネーヴにて没す


チェンバレンの日本研究者としての功績

こうしてみるとチェンバレンは23歳で来日し、61歳で離日。通算38年日本に滞在した。この滞在期間中、東京帝国大学では後進の指導にも尽力し、中でも直接の指導を受けた上田萬年(かずとし)は、チェンバレンの後任として東京帝国大学国語学教室主任教授となり、さらに文科大学学長、文学部長として日本の国語学、言語学の基礎を築いた。また学生として指導を受けたことはないが佐々木信綱もチェンバレンの愛弟子の一人で能楽、謡曲のインスピレーションを得たと言われている。

彼の研究著作でやはり特筆すべきは古事記の英訳であろう。どうやって日本語を、しかも古典を学んだのか。古事記英訳に取り組んだのは日本に来て9年目のことである。彼は「私は外国語を学ぶことがいつも好きであった」と言い、すでにフランス語、ドイツ語で教育を受けているのでマルチリンガルではある。それにしてもいかにチェンバレンが数ヶ国語を使いこなすとはいえ、ラテン語系列以外の言語である日本語を古典から学び、さらには琉球語、アイヌ語にわたり学び研究している。これは大変ハードルが高い挑戦であったろうと推察する。その成果が評価されて帝大の言語学教師とともに「日本語学」の教師になっているのである。チェンバレンの最初の日本語教師は両刀を腰にたばさんだ老武士であったと述べている。最初に手がけた本が古今集。おそらく素読からスタートしてのであろう。これに含まれている「君が代」を英訳している。それ以外にも古典を数多く学んだ。さらに近代作品も読んだ。その後、古事記の英訳、「琉球語の文法と語彙に関する試論」「芭蕉と日本の俳句」「アイヌ研究より見たる日本の言語、神話、地名」等々を次々と発表した。このように琉球語とアイヌ語についても研究しているが、彼の研究アプローチはあくまでも日本語との関係を念頭に置いたそれである。その結果、琉球語は日本語とルーツを共有する姉妹言語。アイヌ語は似ているところもあるがルーツは異なるとしている(東京女子大の櫻井美智子氏の研究がある)。また万葉集に用いられる「枕詞」の研究も行なっていたようである。これに関しては現代の若手の研究者の論文(早稲田大学博士課程の高橋憲子氏)がネット検索で引っかかってくるので興味ある方は参照願いたい。こうしたあくなき好奇心と探究心、猛烈な語学力が、彼をしてジャパノロジストの巨人たらしめたのだろう。もっとも古事記に登場する天照大神、大国主命、イザナギ/イザナミをどう訳したのか。その訳が適切なものであるのか論争があるようだ。ギリシャ神話の神に擬えているという。これらは後世の研究者から批判されて、より適切な訳に変えられていったが、ともあれ西欧人による初めての翻訳であることの画期は色褪せることはない。彼の英訳「古事記」については日を改めて読んでみたい。


「日本事物誌」:Things Japanese

日本事物誌はそんな彼が取りまとめ出版した初めての日本紹介の本である。主に「アジア協会雑誌」に投稿された論文や評論から抜き出して編集されたもので、版を重ねるごとにテーマが取捨選択され、アップデートされ、その割には手に取り易いコンパクトな書籍に収めている。欧米からの日本に関する体系的な情報ソースへの期待に応える形で編纂された。A to Zという順で項目を記述する事典的な体裁をとっているが必ずしも事典ではない。トピックによっては紙幅を費やして詳細かつ熱心に彼自身の視点による分析と評価を記述しており、俯瞰的に日本を眺めることはできるが、客観的な記述とも言い切れない。彼の個性的な、まさに「事物」観察記録であるといった方が良い。また明治維新から20年以上を経過した当時の日本の有り様や、日本の歴史、思想史を通史として振り返るなど新鮮な発見がある。

初版は1890年(明治23年)東京で出された。その後も版を重ね、1935年(昭和10年)に彼がジュネーブて死去する数ヶ月前に第6版が出された。彼は初版から45年経ったこの第6版の序文で、「この間に日本は大きく変わった。しかし、その変化も全てある定まった線に沿ってきたのである。それはあたかも、ほっそりした青年が成長して、肥満した中年の姿になったかのようである」と述べている。日本を見つめ解説してきた本書は、版を重ねてきたにもかかわらず、いくつかの項目の追加、統計数値のアップデートはあるものの基本的には変わらない(変える必要のない)人気の日本解説書であった。

彼独自の視点による日本の文化や歴史、風俗に関する解説は、日本人の視点で読むと、近代化を加速する「イキがった若者」たる明治日本人に対する大人の警鐘でもあり、若者に対する愛ある眼差しでもあるように読める。また版を重ねるに従って、日露戦争を境に欧米に広がる「黄禍」論や日本に対する警戒心に対して冷静で客観的な理解をするように力説している。とともに日本人に向かっては、欧米文化への懐疑や反発からくる国粋的な動きにも警鐘を鳴らしている。明治以降の日本の有り様を解説した日本人研究者の書とは異なる視点を提供してくれるところが面白い。特に、彼の「仏教」「神道」「儒教」「武士道」「日本人の特質」の解説は興味深い。日本人のその道の専門家による聞き慣らされた講釈でないのが新鮮だし、ある意味で日本人としての主観的な価値観に一定の距離を置き、この種の議論に付き纏いがちな右だ左だというレッテル貼りからも解放された簡潔な解説となっている。

なかでも「歴史と神話」の項は古事記を研究し英訳したパイオニアであるチェンバレンのエッセンスが語られていると感じる。古事記の「神話の部分に語られていている作り話が歴史の部分でも数多く語られていることに驚く必要はない」。そもそも「神話と歴史が一体となって創作されているのだから」と。当時始まっていた皇国史観、忠君愛国思想への批判的研究を規制する政府のありようにも批判的である。

第5版以降新たに加えられた項目「武士道」の中で、これは新たに日本に加えられた「新宗教」である」。「もともと武人でなく文人であったはずの天皇への忠誠、忠君愛国を促すために武士道を唱えているのは如何なものか」と手厳しい(新渡戸稲造の「Bushido」はこれと反対のことを言っていると紹介している)。チェンバレンは国家主義的傾向、愛国主義的思想には極めて批判的であった。かつ非科学的な歴史解釈手法にも敢然と対決している。であるが故に国粋的立場に立つ研究者からは批判されるというオマケ付きだが。第6版は昭和初期には発禁処分を受けていた。

ただ第5版の序文の最後に彼は書いているが、「本書の主題は日本である。日本に対するヨーロッパ人の空想ではない。著者はただ、(ヨーロッパの)読者がさらに深く自分で日本についてより客観的に研究できるように、問題に対する考え方を示したいと思って言及したわけである」と。ここでいうターゲットの読者はヨーロッパ人である。日本にロマンと幻想と偏った知識で偏見を抱いているヨーロッパ人である。そう、もともと日本人を意識した書いたものではない。それを読んで日本人がどう感じるかは、彼はあまり意識していなかったのかもしれない。であるから、日本人に対する媚びへつらいや忖度はない。よってなお興味深い。

入手した原著は1905年の第5版でロンドンで出版されたものである。


'Things Japanese' 5th Edition 1905 London



チェンバレンの英訳による「古事記」:The Kojiki or Records of Ancient Matters
 ペーパーバック版
表紙に用いられた絵柄は全く時代錯誤だが...


ラフカディオ・ハーンとの交流

先述のようにラフカディオ・ハーンは、チェンバレンの「古事記」に触発されて日本に強い関心を寄せるようになった。チェンバレンはハーンと同い年(1850年生まれ)である。ハーンが日本にやってきたのは1890年。松江尋常中学の教師として松江に赴任した。この時すでに東京帝国大学の外国人教師であったチェンバレンの推薦もあり、1896年には東京帝国大学の英文学講師に就任している。二人は頻繁に書簡を交換し、日常の話題から文学論や日本論まで幅広く意見、評論を交わしている(エリザベス・ビズランド編集のラフカディオ・ハーン書簡集が出版されていて、チェンバレン宛の書簡が最も多い)

こうして日本で親交を深めた二人であったが、やがて考え方の相違が明らかになっていったと言われる。そしてハーンの死後(1904年)チェンバレンのハーン批判がピークに達したされている。もっとも、後世の研究者はこうした「対立」を殊更に面白おかしく捉えがちであるが、双方とも信頼関係、敬愛関係は強固であった。決してそれが破局したわけではない。結局は二人の立ち位置や日本への捉え方の姿勢の違いがその背景にあり、それぞれ異なる道を歩むこととなったと見るべきであろう。チェンバレンは「日本事物誌」の中で日本関係の書籍を紹介し、特にハーンの日本関係著作を紹介し、いずれもユニークなもので注目に値するとと激賞している。

ではどのように違っていたのか。少しだけ現時点での私見を述べてみたい。


ハーンの日本観と背景

フィールドワークを重視するジャーナリスト、小説家であり、学者、研究者ではない。日本文化と伝承説話への深い共感と愛が根底にあり、そこから日本を理解しようというアプローチ。のちの民俗学的視点と言って良いかもしれない。

背景には、幼少期のカトリックへの違和感と反発、アイルランド古来のケルト的自然神への傾倒、キリスト教伝来以前の自然神信仰、祖霊神信仰への回帰。これが日本の仏教伝来以前の神話や、仏教説話の多神教的宗教観への共感の下地になっていると思われる。

アイルランド、イングランド、ギリシャ、アラブという多様な血筋を受け継ぎ、その多様な文化と価値観を有する自分自身の生い立ちを意識無意識に感じていたのであろう。松江に到着して宿でひと夜を過ごした彼の記述によると、彼が夢見ていた日本と、現実の日本が寸分違わぬものであったことに感動している("Blimpses of Unfamilier Japan"の冒頭書き出しで述べている)。その後、日本が富国強兵を進め、近代化、西欧化して「一等国」への道を誇り始めるにつれ、彼が有する「日本のあるべき姿」との乖離が広がり、徐々に幻滅を感じ始めている。

2020年6月12日古書をめぐる旅(2)ラフカディオ・ハーンを訪ねて


チェンバレンの日本観と背景

書斎学派の視点、すなわち書籍を通じた研究者の視点、研究アプローチをとる。言い換えれば近代合理主義、実証主義的な研究手法を重視する。また西欧文明と対比する「未開の文明」への興味から来る比較研究的な姿勢が根底にあると思われる。

自身はマルチリンガルでコスモポリタンであり、日本への愛着と共感をハーンに劣らず持っているが、基本的にはアングロサクソンの視点に立ち、西欧文明、ラテン言語圏のイングランド、フランス、ドイツなどの比較研究アプローチをとっている。しかもハーンのように、キリスト教徒としての世界観と価値観への懐疑に立脚するわけではなく、それを底流とした西欧文明、文化を基盤、立ち位置とし比較対象としての「異教徒の文明」、東洋観、日本観になっている。

チェンバレンは日本事物誌の中でも、深い日本への造詣に裏打ちされた観察から、ヨーロッパ人の日本への理解の浅さと、一方的な西欧中心的な価値観に基づいた観察、あるいはエキゾチシズムから来るロマン主義に警鐘を鳴らしている。日本は変わった。古い日本は死んだ、とまでいっている。しかしその一方で、日本の文学についてこう述べている「日本文学は、その文学性において、英文学の詩歌と比べ劣るものである」「古典作品においても、想像的才能、思想、論理的な把握力、深さ、幅、多面性に欠けている」「総じて狭小で偉大ではない」「繊細なものには偉大だが、偉大なものには狭小である」とも。そう述べつつも「こう言うと日本の友人は私を批判するだろう」「私の心はいつも振り子のように揺れ続けている」と弁解もしている。ハーンに劣らず日本、日本人への愛に満ち溢れているのだが、言語学者、比較文化学者としての「科学的合理性」と「愛情」との葛藤も見せている。

ハーンはこの時すでに夭折していたが、もし生きていたらこのチェンバレンの日本の文学への評価を、西欧文明とは異なる日本独自の文明に根ざした文学の基層を理解しない言説であるとして異を唱えていただろう。その背景には、日本の文学作品はキリスト教世界観、思想に裏打ちされていない、所詮は「異教徒」の文化の限界である、という理解があると批判しただろう。チェンバレンがヨーロッパ人読者に「無理解による誤解やロマン」を戒めていることを考えると皮肉に見える。後世のジャパノロジストにおいてもハーンと同様の批判が展開されているが、古事記をその後英訳した英国人研究者もチェンバレンの先駆的な役割を高く評価しつつも、多くの誤解と誤りを正している。おそらくチェンバレンのこの理解は、短期間に西欧文明を取り入れて消化したと称する明治期日本人の高揚感への皮肉と、西欧文明の範を示すべき西欧人としての反応であったのかもしれない(アーネスト・サトウの日本観にも共通するものが散見される)。

また古事記に描かれた神話と区分なく歴史を語るストーリー展開も、これは何も日本だけが誇る独自の世界観ではない。中国の史書などにも見られるものであり、そのストーリーが一貫せず矛盾に満ち満ちた筋立てであるのは、太平洋諸島、中国などの大陸諸国に伝承された神話の数々を8世紀の編纂当時に取り入れた結果であり、必ずしも日本独自の神話だけで統一性を確保できているわけではないからであると分析している。この辺りは戦後になって皇国史観への批判、古事記/日本書紀の批判的研究が解禁になってもたらされる研究の先駆けとなる分析、考察であろう。さらには古代ギリシャ神話にも共通するもので独自性があるものではないとした。各国に伝わる神話が世界的に類似したエピソードを共有していることや、それらが地域を超えて交流していたことは神話学、民俗学的にも証明されてきている。しかしこうした理解は当時のハーンなどに言わせれば、ギリシャ哲学やラテン語文化、キリスト教世界観を前提にした理解であり、そのほかの世界を十把一からげにして論ずる愚と指摘したであろう。

一方のチェンバレンは、ハーンのこうした日本に対する共感と愛を基層とした「sympathetic understanding of Japan:日本への共感的理解」から出発するのは学者がとるべきアプローチではない」と批判している。いかにも近代の科学的合理性/客観性を重視する研究者の姿勢である。またハーンがヨーロッパ人としての自分を卑下しすぎているとコメントし、「ヨーロッパ文明はそう言う卑下に耐えうる力を持っているので心配はいらない」と皮肉を言っている。この批判はハーンの死後に出されてものであるが、ハーンが生きていたら、「私は学者であったことは一度もない」と反論しただろう。まあ、そもそも学問や言論というものはこのような自由で闊達な批判と修正が繰り返されるところに成り立つものである。

日本人にとっては圧倒的にハーンの方が人気があり、チェンバレンはあまり知らない人が多い。また海外でもハーンは人気の作家である。しかし、その人気はハーンが日本に帰化した「日本びいき」であり、日本を深く愛してくれたからということばかりではない(チェンバレンもそういう意味では40年の長きにわたり日本に住まった「日本びいき」であったし日本を深く愛していた)。ハーンの市井の庶民から聞き書きした説話や小説や評論を軸とした表現方法のほうが多くの人々には受け入れやすく、また海外においてはエキゾチックなストーリーテラーとしてのハーンが人気を博するのは理解できるだろう。一方のチェンバレンは、研究論文と学術的な書籍を主たる表現手段とし、先述のような科学的合理性を旨とするアカデミア:研究者としての観察姿勢を世に問うたわけである。確かにチェンバレンの日本論、その批評は、当時の日本学界では斬新であり、西欧諸国においても、明治以降急速に西欧化してきた日本を理解する上での貴重な論文であり研究書であり参考書であった。しかし、それは先述のように言語学者、研究者としての、客観的/合理的アプローチに基づくものであり、庶民から説話を聞き取り、記録するといった現場を踏むアプローチによらない手法によるものである点が、ハーンとは異なる。どちらが正しくてどちらかが間違っているという類の話ではないように思う。ただ、より幅広く、多岐にわたって日本の事象をカバーしたのはチェンバレンのほうであろう。

チェンバレンの日本観と、ハーンの日本観。それぞれどのように読み取るのか、どう受け止めるのか。結局は読み手次第である。日本人研究者とは全く異なる視点を持つこと。こうした複数の視点で物事を見る習慣、それによって物事を判断する習慣を身につけておくことが、混沌として不確実な世の中にあって物事を一方的で間違った理解をしないために必要であることを改めて感じる。