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2023年1月5日木曜日

古書を巡る旅(29)アダム・スミス全集初版 〜理念と秩序なき現代資本主義に警鐘を鳴らす〜


アダム・スミス肖像と全集表紙(1812年初版)

Adam Smith (1723~1790)のサイン


 年末に、貴重な古書を手に入れることができた。『The Works of Adam Smith:アダム・スミス全集5巻』1812年刊行の初版本だ。スミスの没後20年ほど後にロンドンで、初めて全集として編纂、出版されたものである。いつもお世話になっている神保町の北澤書店で「貴重な本が入りましたよ」というわけで見せてもらった。探していたアダム・スミスである。しかも、スミスの直系の教え子であるデュガルト・スチュアートのスミス評伝、書評付きである。ところが、残念なことに5冊とも外装がかなり傷んでいる。1、2巻の表紙は外れ、背表紙も無くなっているし、3巻以降もモロッコ革のタイトルが剥落して無くなっている。書店では改装してから店頭に出そうと考えていたのだが、内部は完全なのでこのままでも良ければ、と格安で譲ってもらうことになった。古書の保存という観点からは改装/バインディングし直すべきなのだろう。ゆくゆくは少なくとも補修をしなければならないだろうが、当面はオリジナリティーを重んじてそのままにしておくことにした。こうした歴史を纏った古書の扱いは実に難しい判断を求められる。素人が勝手に手を入れて古書の原初の佇まいを失わせてもいけない。修復、改装する以上は専門家の手を借りねばならない。時間も費用もかかる。かと言ってオリジナリティーを重んじると、脆弱になっている書籍を破損してしまう恐れがあり、頻繁に手にすることは憚られる。ジレンマだ。

アダム・スミスの著作には、これまでもなかなか出会うことがなく、いつかは、と念じたものだった。東大の図書館には、新渡戸稲造がロンドンで入手したという「道徳感情論」と「国富論」の初版本が収蔵されている(下記リンク参照)が、古書市場に出回ることは稀である。たまにネットに掲載されることもあるが、稀覯書として値札すらついていないのでとても手が出るものではない。今回、入手したものはスミス自身による上記二大著作の初版本ではないが、初めて全集として出版された貴重なものである。こうした書籍を紹介していただいた北澤書店には感謝である。しかし、こうして出会ってみると不思議なものだ。偶然といえば偶然の出会い。いや、必然といえば必然的な出会いかもしれない。現代の理念と秩序の欠落した資本主義。そういう危機的な状況に瀕しているこの時代、戦争と疫病と経済混乱に翻弄されたその2022年の暮れに、250年前のアダム・スミスがタイムスリップしてきて、「君たち、色々騒がしいようだが、私が言ったことを本当に正しく理解しているのか?」と問いかけてきた。この現世の混乱をあの世で見てられなくなってこの世に蘇ってきた。「原典に帰れ!」と言って、この5冊を置いていった。そう思いたくなるような出会いである。

この1812年初版の『アダム・スミス全集』には、スコットランド啓蒙主義を代表する哲学者の一人であるデュガルド・スチュアート:Dugald Stewart(1753〜1828年)によるアダム・スミスの評伝と書評が収録されている。スチュアートはグラスゴー大学でスミスに師事し、直接の教えを受けた後継者の一人である。のちにエジンバラ大学の教授として、またエジンバラ王立ソサエティーのフェローとして道徳哲学(Moral Philosophy)を教えた。スミス思想の普及者としの功績は特記すべきであろう。スミスの友人でよき理解者のデビッド・ヒューム(経験主義哲学)と共に後世に記憶されるべき人物である。本書に収録されている人物紹介と書評は、1793年にスチュアートがエジンバラ王立ソサエティーで講義したものである。

改めて言うまでも無いが、アダム・スミス(1723~1790)は「経済学の父(古典派経済学の父)」と言われている。経済学(Political Economyと呼ばれていた)という学問を生み出した人物とも評されている。我々現代人は経済学という学問領域が存在していることに何の違和感も感じないが、この頃は大学に経済学という科目はなく、彼も経済学者ではなかった。アダム・スミスはグラスゴー大学では倫理学と道徳哲学を教えた。彼の道徳哲学者としての源流をたどれば、友人であるデビッド・ヒュームからハチソン、シャフツベリー伯爵(アンソニー・アシュリー・クーパー)という啓蒙主義を代表する思想家へと遡ることができる。さらには経験論哲学のフランシス・ベーコン、自由主義の父のジョン・ロックに行き着く。経済学は倫理学と哲学から生まれたのである。そういう意味ではスミスは最初の経済学者となったと言うべきかもしれない。その成り立ちと思考のプロセスは彼の著作を読むことで理解できる。彼はまず1759年に道徳哲学の論文として「道徳感情論」:The Theory of Moral Sentimentsの初版を著した。以降、これは何度も修正、加筆が重ねられ、1790年の第6版まで改訂追補された。そしてその論考の過程の中から1776年に「国富論」(あるいは「諸国民の富」とも訳される):An Inquiry into the Nature and Causes of the Wealth of Nationsが生まれた。スミスは「道徳感情論」の第6版の序文で、これに盛り込めなかった考察を「国富論」で実現できたと説明しており、一方で「道徳感情論」の改訂版へのフィードバックも見て取れる。このように両著は、一体で不可分の道徳哲学論として書かれたのだが、後世に「国富論」は古典経済学の原典と見做される事になる。ちなみに時代はアメリカの独立宣言(1776年)、フランス革命(1789年)と激動の時代であり、科学の時代、産業革命勃興期である。これらがスミスの思想に与えた影響は大きい。

この『アダム・スミス全集』は原著の出版年代順に合わせて、まず第1巻には「道徳感情論」が掲載されている。ただ掲載されている版はその最終版、すなわち第6版(1790年)である。そして2〜4巻が「国富論」である。大部の著作である。最後の5巻が、そのほかのスミスの哲学論文集と、スチュアートによるスミス評伝/書評となっている。この順番には大きな意味が有ることを理解する必要がある。後世の人は、この順番を間違えてスミスを理解する、すなわち「国富論」が主論文で「道徳感情論」は付随的な論文である、あるいは「国富論」のみを読んでスミスを理解する、という過ちを犯しがちである。確かに「道徳感情論」が顧みられない時期があったが、今では、先述のように、この「道徳感情論」こそがいわば本論であり、そこから「国富論」が生まれたとの評価となっている。この理解が重要である。その理解の欠如がスミスの説く古典経済学理論を正しく理解せず、ひいては現在の資本主義の混乱を招いていると言っても過言ではない。

まずスミスは「道徳感情論」で、そもそも人間とは、自分のことしか考えない利己的な存在ではなく、他人に対する「共感」(sympathy)を持つ存在である。「利己的」ではなく「利他的」に行動する存在であり、故に「社会的存在」(social being)であると。ということは、すなわち個人は自分が所属する社会で一般的に通用する「公平な観察者」(impartial spectator)を胸中に形成し、それによって行動する。これが正義と社会秩序の土台となる。また人間は「賢明さ」と「弱さ」の両面を持つ。「賢明さ」は心の中の「「公平な観察者」の判断に従って行動することであり、社会秩序の基礎をなす。「弱さ」は自分の利益や世間の評判を優先させて行動することであり、社会の繁栄を導く原動力になる。しかし、「弱さ」は放任されるのではなく、「賢明さ」によって制御されなくてはならない。制御されない財産形成という野心や利潤獲得競争は社会秩序を破壊し、結果として社会の繁栄を妨げる。またなぜ人間は財産や地位に固執するのか。それは世間の賞賛と尊敬が与えられるからだ。それが、他人の目を意識するという「社会的存在」たる人間の「賢明さ」でもあり「弱さ」でもあるとした。そして次の論考「国富論」はこの人間理解から出発している。「国富論」をより正しく理解するためには、この「道徳感情論」こそ、よりよく熟読玩味すべきであろう。

次にスミスは、「道徳感情論」で述べたような、そうした性質を持つ人間、すなわち「社会的存在」としての個人が「公平な観察者」という制約条件のもとに、自分の経済的利益を最大化するよう行動する。そういう個人の経済活動が、自由にお互いに競争することによって経済が発展する。そういう社会の仕組みを詳細に論考し「国富論」として著した。すなわち「国富論」は「道徳感情論」の思索の中から生まれた、いわばエクステンションとしての産物と言っても良い。元々は、次の論考を「法と統治の一般理論」とする予定であったが、これは未完となり「国富論」となったと言われている。ちなみにこの未完の原稿は、スミスの死の直前に彼の願いで焼却されてしまった。彼の友人の手元に残された一部の断片的な論文が「哲学論文集」としてこの全集に収録されている。ともあれ、「国富論」は重商主義的な王権や国家による経済活動の統制/介入や、金塊の蓄積、保護貿易を批判し、自由な個人の経済活動、自由競争市場こそが、高い成長と豊かで強い国への発展の源泉であると論ずる。さらに価値を生む源泉は個人の労働であるとする「労働価値説」に立つ。換言すると、「個人的利益追及行動」が「社会全体の経済的利益の増大」につながる。そして「レッセフェール」「神の見えざる手」(invisible hand)による市場調整メカニズムが働き価格が安定し、社会の発展と成長へと繋がるのだと。しかし、これは決して「利己的」で、強欲、無秩序な資本主義や経済活動を是とし、それが経済発展、国富増大の源泉であると説いているのではない。繰り返すが、「国富論」でスミスが前提としている人間は、「道徳感情論」で描かれている「他人に対する共感」を持ち「利他的な行動」をとることのできる「社会的存在」である人間、「公平な観察者」としての制御ができる人間であることを思い起こさねばならない。この前提を忘れた「国富論」読みは「論語読みの論語知らず」となる。

こうしたスミスの二つの著作への再評価は、まさに現代の資本主義が抱える問題への反省と、課題解決への取り組みの中から生まれてきた。スミスは決して「欲望の資本主義」の教祖ではないし、彼の論理が間違っていたわけでもない。これを日本に当てはめて考えてみると、渋沢栄一の「道徳/経済合一」主義である。渋沢がここへ来て思い起こされるようになった時代背景と共通するであろう。彼の場合は論語的な道徳観であるが。道徳、倫理を忘れた経営者、政治家ではダメだということは、スミスも18世紀末にはすでに唱えていたわけで、スミスの「道徳感情論」を渋沢栄一も読んでいた。彼は講演の中でスミスの言葉をを引用している。このスミスと渋沢の原点が忘れられてきたことへの反省が今湧き起こってきたとも言える。そして哲学的、倫理的視座を持たない、すなわち理念と秩序の観念の欠如したリーダーに説得力あるビジョンは語れないし、正しい富の創造もできない。リーダーと言われる人々が大好きな歴史を語って見せても(戦国武将や維新の英傑をロールモデルに準えてみても)、「歴史的な想像力」を働かせる能力が涵養されなければ、その歴史に学ぶことも叶わぬ。。日本の高等教育に欠けているのはコンピュターサイエンスやデータサイエンスなどの教育や、起業マインド醸成や金融、財務、法務知識だという人がいるが、そのような「パンのための学問」(Brot Wissenschaft)、「問題解決型学問」いや「諸科学」(Sciences)の前に、「哲学」(Philosophy)の素養が忘れられているのではないか。「広い視野」「高い目線」と「深い洞察」が養われていない。何よりも「人間への理解」が欠如している。そちらの教育が先じゃないか。アダム・スミスも渋沢栄一もそれを教えている。「総論あって各論なし」というが、むしろ「各論あって総論なし」では無いのか。日本の先人には論語の素養という重要な徳育科目があった。西欧の先人にはキリスト教的な倫理、道徳から止揚した啓蒙主義、近代合理主義という素養があった。その根底にはギリシア語、ラテン語の古典素養があった。その上での経済であり、政治であり、法律であり、科学技術であった。アダム・スミスをただ自由放任主義(レッセフェール)を唱える「国富論」を書いた古典経済学の祖と捉えるだけでは、こうした哲学という基盤の上の経済思想であることを理解していないことになる。繰り返すがスミスは啓蒙主義の倫理学者、哲学者であった。「資本主義的合理性」とは何か。もう一度考え直してみる必要がある。

さて、アダム・スミスの贈り物をじっくりと研究し直してみるとしよう。またしても日暮れて道遠しではあるが。暗い夜道はやるべきことが多くて忙しい。それもまた結構結構。ただその前に、この全集の装丁の修復、改装を行わなければならないだろう。

参考ブログ:2020年の年頭に書いたブログで、SDGsの提唱者の一人で社会問題解決の理論と実践でノーベル平和賞を受賞したモハメド・ユヌス博士の、ソーシャル・ビジネス(社会事業)について述べた。ユヌス博士は彼の著作「三つのゼロ」の中で、アダム・スミスの再評価と資本主義の再定義を提唱している。実践する社会事業家である経済学者の理論はまさに傾聴に値する。2020年1月6日「欲望の資本主義」の行く末 2020年年頭の妄想を参照することをお勧めしたい。



アダム・スミス全集5巻
1、2巻は背表紙が欠損している。3〜5巻もタイトルが剥落している。
外装はかなりの痛み具合だが、中はしっかりしている。


「道徳感情論」(初版1759年)表紙

「国富論」(初版1776年)表紙


Dugard Stewart による人物評/書評

Dugard Steward (1753~1828)


東京大学経済学図書館・資料室デジタルミュージアムに
スミスの「国富論」初版本など、貴重な蔵書が展示されている。

リンク:東京大学経済学図書館・資料室デジタルミュージアム



参考文献:「アダム・スミス 『道徳感情論』と『国富論』の世界」堂目卓生著 中公新書

                    「アダム・スミス 自由主義とは何か」水田洋著 講談社学術文庫



2022年12月26日月曜日

年の瀬に山上憶良を憶う 〜「万葉集」 記紀が描かなかったもう一つの歴史〜



大宰府の山上憶良「子等を思ふ歌」歌碑

大宰府坂本八幡宮
大宰帥大伴旅人居館跡


この頃は、夜寝るときにNHK ラジオの聴き逃し番組を聴きながら寝る。これが結構ためになる。色々興味深いテーマで番組が構成されているのでどれを聴こうか迷うほどだ。聴き始めると、面白くなってなかなか眠りに入れないのが難点か。皮肉なことにオールドメディアと化したと言われて久しいラジオが、ネット時代だからこそ新たなメディアとして再登場していることが新鮮である。特に、最近の長編シリーズである「古典購読」鉄野昌弘氏の「歌と歴史でたどる万葉集」が大変が面白くて毎週楽しみに聴いている。以前から、万葉集は文学作品なのか、歴史書なのか、という問いを持っていたが、鉄野氏は、その両方の視点から解説してくれていて、万葉集を歴史書として読む楽しみを教えてくれる。詠人は、それぞれの心情や視点を持った生身の人間でありその歌の中にその時代の世相や個人的な思いが反映されている。古事記や日本書紀のような為政者の視点で編まれ、登場人物の個人の視点や心情が表現されない「正史」とは異なる点だ。詠人は、初期の頃は天皇や皇子達、それを取り巻く専門職であった宮廷歌人であるが、時代を下るに従って、天皇行幸などのイベントで歌を作るプロの歌人ではなく、普通の生活の中の官人や庶民になってゆく。これは大伴旅人やその子の家持が万葉集の中心になる頃からそういう傾向が強くなってゆく。特に巻の五の大宰府における旅人を中心とした大宰府官人たちの「筑紫歌壇」の歌は、これまでの「大和は国のまほろば」とか「やすみしし我が大王」といった王朝讃歌のようなキラキラトーンではなく、カッコつけない官人達の本音が歌われているし、歴史書からは見えてこない地方の実情が鮮明に描かれていて面白い。中でも山上憶良の歌は、官人、貴族には珍しく庶民の生活心情に目を向けた社会派の歌が多く異色である。歴史書には、その時代に生きる個人の生活や心情が反映されていないものだが、万葉集は、そういう意味では歴史の担い手であった貴族や官人による文学書であり、庶民を含む私人が登場する異色の歴史書であると言って良いだろう。

山上憶良は筑前守(ちくぜんのかみ)であり、官位は従五位下である。中納言大宰帥(だざいのそち)大伴旅人(正三位)の部下である。叙爵されているとはいえランクの高い貴族とはいえない。旅人が大納言(従二位)として出世して都に帰任したのに比べ、憶良は筑紫国守の任を終えて奈良の都に帰任した時には、官位が上がることなくリタイアーして、やがて世を去っている。まるで現代のサラリーマン人生を彷彿とさせ、そこに共感を得る人も多いのではないか。私もその一人である。いわば、福岡市店長を最後に地方単身赴任から解放され、本社に戻るとともに定年を迎えてリタイアーした、という現代のサラリーマンのキャリアパスに似る。彼の出自ははっきりしていないが、百済系の渡来人の子孫であるとも、大和添上郡山辺あたりの豪族出身とも言われているがはっきりしない。決して身分の高い名門一族の出ではなく、生活も豊かではなかったが、それでも粟田真人の推挙により遣唐大使使節の一人に選抜され、官位のない身分のまま唐に渡った。いわばエリート出身ではないが海外留学経験を持つ。そこで律令や漢詩、仏教や儒教を学び、帰国後は宮廷に出仕し、東宮の教育担当を経て伯耆守として地方赴任した。都に帰ると首皇子(のちの聖武天皇)の家庭教師の一人として漢詩を教えた。続いて筑前守として再び地方へ下向する。中央の高級官僚としてではなく、いわば地方官僚としてキャリアを積んだことになる。そうした知性と教養を具備した地方官僚としての憶良が万葉集の主役の一人として登場してくるところが面白い。ちなみに憶良は正史である続日本紀には冠位や伯耆国守任官など僅かな記録しかなく、筑前国守任官については記録されていないし、そのプロフィールに関する記述はない。万葉集のみにその名が残る官僚であった。

憶良は大宰府で大伴旅人(大宰帥大伴卿)と共に歌人としても活躍し、多くの漢詩や和歌を読んでいる。万葉集には憶良の歌は78首撰録されており、柿本人麻呂、旅人、家持などと共に主要な万葉歌人の一人してその名が記憶されている。筑紫においても旅人と双璧をなす、いわば「筑紫歌壇」の中心人物と言って良いだろう。元号「令和」の起源となった巻五の「梅花の宴」も実際には憶良が旅人に代わって読んだという説を唱える研究者もいる。その歌風は、天皇を寿いだり、官人として天下国家を歌ったり、というよりは、筑前国守として地方行政に携わる中で見聞きした庶民の生活や心情、地元の説話を読んだものが多い。また、大宰府官人達が共通に持っていた「早く都に帰りたい」や、出世への執着、都への憧憬についても包み隠さず歌っている。そもそも「歌」というものが朝廷や官僚達にとって重要な文書行政手段であったわけだから、都からやってきた使者や、都に戻る同僚などに託したメッセージとして読まれたとしても不思議ではない。

一方で、彼は儒教や仏教の影響を強く受けていたので、生と死、社会問題についての歌が多い。しかし、仏道に精進して現世の煩悩を解脱することを希求するといった歌よりも、むしろ煩悩に苛まれるリアルな人間を姿を歌っている。これは太宰府で読んだ有名な「子等を思ふ歌」に見事に表現されている。子どもへの愛情や執着は、仏教的には現世へのこだわり、煩悩であるのだが、それを恥じるのではなく、ストレートに「子供を大切に思う」心情を歌っている。また任地の筑前各地で歌った歌(嘉麻、松浦など)が多く収録されており、神功皇后の朝鮮出兵伝承にまつわる地元の祭りや、習俗を、煩悩を交えた庶民目線で歌っている。そして、奈良の都に帰って後に読んだのが「貧窮問答歌」である。里長(さとおさ)の呵責のない税の取り立てで虐げられる地方の庶民の生活や、貧困や災害、疫病にさいなまれる人々の苦悩を謳っている。これも我と我が身をモデルに、知性あふれる才能がありながら社会的には認められない貧者の目線を共有する憶良の人間性がよく現れている。こうした社会派の歌、個人の心情を赤裸々に表明した歌が採録されている万葉集という歌集の性格を見ると、初期の頃の官選和歌集、天皇讃歌の書としての万葉集が変化していった様子が見えて興味深い。一方で、旅人や憶良が大宰府に赴任していた頃は、都では「長屋王の変」が起き、朝廷における藤原氏一族の台頭が顕著になっていった時期である。憶良はともかく、名門一族大伴氏の長である旅人にとっては、その事件に関わることなく遠く太宰府に時を過ごし、一族の復権のために何もできないかったことの無念さを感じていた。そうした心情を滲ませた都思いの歌を読んでいる。そういう意味では、この時代の万葉集は、社会問題を地方の現場目線で描いている他、都を離れた地点から中央政界を遠望する視点を取り上げるなど、歴史を別の視座から描いた「歴史書」としての性格を持っている。初期の頃にはこのような個人の心情や社会情勢を歌ったものが少なかったのだが、いつの頃からか官選和歌集という性格から離れてゆく。万葉集には序文がなく、そもそも誰が撰者であり、編集者であったのかは今でも謎であるのだが、憶良の歌の登場がその謎の鍵を握っているようにも思える。大伴旅人の息子、大伴家持がのちに万葉集全体を編集し、新たな歌を撰録したとも言われている。そうかもしれないと思う。おそらく父旅人に伴われて下向した太宰府の大宰帥居館で家持は幼少の頃、憶良とも交流したはずである。家持の歌への想いと庶民への目線は、この時の憶良によってインスパイアーされたと考えてみるのは如何だろう。

私は山上憶良こそ万葉集最高の歌人ではないかと考え始めている。疫病や戦争、貧困や社会的不正義などに満ち満ちた一年が終わろうとしている。


参考:2019年4月13日のブログ「万葉集とは?〜文学書なのか歴史書なのか〜」



山上憶良の詠みし歌2首

「子等を思ふ歌」

瓜食めば 子供念おもほゆ 栗食めば まして偲しのはゆ 何処いづくより 来たりしものぞ 眼交まなかいに もとな懸りて 安眠やすいし寝なさぬ(『万葉集』巻5-802)

反歌

しろがねも 金くがねも玉も 何せむに まされる宝 子に如しかめやも(『万葉集』巻5-803)


「貧窮問答歌」

風まじり 雨降る夜よの 雨まじり 雪降る夜は 術すべもなく 寒くしあれば 堅塩かたしほを 取りつづしろひ 糟湯酒 うちすすろひて しはぶかひ 鼻びしびしに しかとあらぬ ひげかきなでて 吾あれを除おきて 人は在らじと 誇ろへど 寒くしあれば 麻ぶすま 引き被かがふり 布肩衣ぬのかたぎぬ 有りのことごと 著襲きそへども 寒き夜すらを 吾われよりも 貧しき人の 父母は 飢ゑ寒からむ 妻子めこどもは 乞ひて泣くらむ この時は いかにしつつか 汝なが世は渡る

天地は 広しといへど 吾あが為は 狭さくやなりぬる 日月は 明しといへど 吾がためは 照りや給はぬ 人皆か 吾われのみや然る わくらばに 人とはあるを 人並に 吾あれも作なれるを 綿も無き 布肩衣の 海松みるのごと わわけさがれる かかふのみ 肩に打ち懸け 伏いほの 曲いほの内に 直ひた土に 藁解き敷きて 父母は 枕の方に 妻子どもは 足の方に 囲みゐて 憂へ吟さまよひ かまどには火気けぶりふき立てず こしきには 蜘蛛の巣かきて 飯炊いひかしく 事も忘れて 奴延鳥ぬえどりの のどよひをるに いとのきて 短き物を 端きると いへるがごとく 楚しもと取る 里長が声は 寝屋処ねやどまで 来立ち呼ばひぬ かくばかり 術無きものか 世間よのなかの道(『万葉集』巻5-892)

反歌

世の中を 憂しとやさしと おもへども 飛びたちかねつ 鳥にしあらねば(『万葉集』巻5-893)

2022年12月16日金曜日

古書を巡る旅(28)Ernest SatowとA.B.Mitford 〜二人の英国外交官の幕末維新風雲録〜

 


幕末維新の時代に日本に赴任してきたイギリス外交官にはアーネスト・サトウの他にA.B. ミットフォードがいる。日本ではサトウは有名だが、ミットフォードはあまり知られていない。ミットフォードはイギリス公使館二等書記官、サトウは日本語通訳生。幕末維新の時に横浜と江戸の公使館に勤務していた同僚である。年齢は彼がサトウより6歳上だが、着任はサトウの方が4年早い。このミットフォードは上流階級名門の出身で、イートン、オックスフォード出のエリート。後に男爵リーズデール卿となる。一方のサトウはのちにナイトの称号を得たが、ラトビアからの移民の子。ロンドン大学在学中に外務省の日本語通訳生試験に合格して日本に赴任した。階級社会であるイギリス的な感覚で言えば、身分と出自の違いがある訳だが、この二人は激務の日本勤務を通じて生涯の友人となる。さらに言えば。この二人は、庶民階級の出で学歴もない、現場叩き上げの辣腕公使ハリー・パークスの下で働いた。幕末明治の日本の若者と同じで、時代の歯車が大きくまわる時期には旧来の身分や出自などの違いを超えて活躍する若者がここにもいた。また同時期にはアイルランド出身のウィリアム・ウィリスが公使館付医官として、サトウ、ミットフォードと横浜の公使館の宿舎で共に過ごしている。彼は戊辰戦争の負傷者の治療に当たったほか、山内容堂の診察をしたことでも知られ、後に鹿児島の医学校創設にも関わった。ウィリスに関する参考資料としては「幕末維新を駈け抜けた英国人医師 甦るウィリアム・ウィリス文書」大山瑞代訳 創泉堂出版 2003年がある。

サトウの日本滞在記録 「A Diplomat in Japan」:邦訳版「一外交官の見た明治維新」は、以前のブログ2021年6月12日「古書を巡る旅(11)で紹介したので、今回はミットフォードの「回想録」:「Memories」を紹介したい。この回想録は、ミットフォードが、その晩年に男爵リーズデール卿として自らの生涯を振り返ったものである。したがって、日本についての回想だけが収められているわけではない。邦訳の「英国外交官の見た幕末維新」はここから日本部分を抜き出して翻訳したもので、サトウの「外交官の見た明治維新」と並ぶ幕末維新の時代の記録となっている。サトウの著作は彼の日記をベースとした詳細な記録に基づいており歴史研究の一次史料としての価値が高いと評されている。一方、ミットフォードの回想録における記述はそれに比べると縮約版的であるが、流麗な文章で叙述されており歴史の物語を読むようである。またサトウの日記を借りて当時を振り返ったとも書いており、時間の経過とともに過去の出来事の記憶が薄れている部分があったであろうと推察する。とは言え、日本の幕末維新という激動期に外交官として横浜、江戸に駐在し、数々の歴史の現場に立ち会ったミットフォードは、サトウと共に幕末明治と日英交流の歴史の重要な証人であることは言うまでもない。この二人の著作を読み合わせることで補完しながらより多元的に幕末維新を振り返ることができるであろう。サトウは1862年(文久2年)から1884年(明治17年)までの、賜暇休暇を入れて22年日本に滞在したが、一方のミットフォードは1866年(慶応2年)から1870年(明治3年)までの4年の滞在ということで、サトウよりははるかに短い滞在であった。またサトウの邦訳版「外国人の見た明治維新」は彼の賜暇休暇までの7年の記録である。一方のミットフォードの邦訳版「英国外交官の見た幕末維新」は彼の4年の滞在記録で、共に「王政復古の大号令」明治維新政府の樹立を見届けた1870年前後までの記録となっている。その後、ミットフォードは帰国し、外務省を辞している。一方のサトウは、タイ公使を務めるなどの外交官としてのキャリアを積み、駐日全権公使まで務め知日派ジャパノロジスト「サトウ」の名を高めることになる。

この二つの著作でも、お互いの存在に言及しながら書いている。先述のように、ミットフォードは、回想録を書くに当たって、サトウの日記を借りて参考にしながら書いたことを述べているし、サトウの日本に関する深い理解と洞察力、人脈、そして彼がパークスの政策に与えた影響力を高く評価している。一方のサトウは、ミットフォードの外交官としての資質、能力と語学能力の高さに驚嘆している。確かに、回想録に引用されている幕府や新政府の布告などの公式文書を正確に英訳している。ミットフォードの方がサトウよりはランクが上の書記官で、形式的には上司であったため、ランクが重んじられる公式会見や、将軍や天皇との拝謁に全権公使のパークスと同席する機会はミットフォードの方が多かったようだ。例えば明治天皇の謁見はパークスとミットフォードの二人に限られた。しかし、一方で日常的な日本側の重要人物や草莽の志士との接触はサトウの方が多く、いわゆる「サトウ詣」が行われていた。こうした立場による情報ソースの違いや、相手方の建前/本音の違いが浮き彫りになるなど興味深い。また細部にこだわる「スペシャリスト、サトウ」と、全体の流れを掴む「ジェネラリスト、ミットフォード」というキャラクターの違いも見え隠れするので読み合わせてみると面白い。

先述のように、日本では圧倒的にサトウの方が知名度が高いが、イギリスではむしろミットフォード、のちのリーズデール卿のほうがよく知られている。しかしそれは若き日の日本での外交官としての業績や、日本の歴史を変えた「幕末維新」における活躍のためではなく、彼の英国社交界での華々しい名声のためである。国王エドワード7世の友人で、人品骨柄卑しからぬイギリス紳士の代表のような人物として評価を受けていたことによる。そしてもう一つは彼の後継者である次男ミットフォード卿の六人の姉妹のためである。この姉妹は「ミットフォード姉妹」として戦前のイギリスでは知らぬ人はないと言われる有名人であったようだ。すなわち、ヒトラーの信奉者、ファシスト、共産主義者、作家、上流階級夫人などとして常に話題を振り撒き、数々のスキャンダルで新聞紙上を賑わす人物としてである。特に三女は不倫の末にヒトラー、ゲッペルス立会の元にイギリスナチ党党首と結婚した。また四女はヒトラーの親しい友人としてドイツに移住し、イギリスの対独宣戦布告で自殺を図るなど政治問題にもなった。イギリスには貴族でナチ信奉者が少なからずいたことは、カズオ・イシグロの小説「日の名残」でも取り上げられている通りであるが、こうした形でミットフォードの名が知られていたとは。ミットフォード家の資料はグロースターシャーの資料館に収蔵されているが、残念ながら彼の日本での外交官としての活動の記録はあまり残っていないようだ。


(1)ミットフォード/リーズデール卿の略歴

Algernon Bertram Mitford, 後にLord Redesdale (1837~1916)

1837年 ロンドン生まれ

ミットフォード家はフランク王国シャルルマーニュ大帝(742〜814)に繋がる名門の家柄で、著名な歴史家ウィリアム・ミットフォードは曽祖父にあたる。3歳の時、家族で大陸に移り、フランクフルト、パリ、トルービルに住んだ。

1854 年 イートン校卒業

1858 年 オックスフォード・クライストチャーチ卒業 外務省入省

ロンドンの社交界ではプリンスオブウェールズの交際仲間の一人にもなり、花形的存在

1863 年 ロシア ザンクトペテルスブルグ英国公使館二等書記官

1864 年 帰国 オリエントの旅へ

1865年  中国 北京英国公使館へ 中国語をトーマス・ウェイド代理公使(のちのケンブリッジ大学中国語教授)につき猛勉強

1866 年 日本へ転勤 横浜/江戸英国公使館 ハリー・パークス、アーネスト・サトウと共に幕末維新の激動期に駐在

1870年 賜暇休暇で帰国

1872 年 外務省を退職  ダマスカス、イタリア、アメリカ・ソルトレイクシティー、ロッキー山脈、カリフォルニアを経て、日本へ2度目の旅行

1874 年 ディズレイリ内閣の建設大臣

1886 年 従兄弟のリーズデール伯爵の名前、紋章、遺産を継ぎフリーマン・ミットフォードと名乗る。ロンドンを引き払い、領地のコッツウォルド バッツフォードに転居。日本風のバンブーガーデン開園 保守党の下院議員となる。

1902年 従兄弟の爵位を継承し男爵リーズデール卿に 上院議員となる。ビクトリア女王崩御に伴い王位継承した国王エドワード7世の良き友人であった(皇太子プリンスオブウェールズ時代からの友人)

1906年 明治天皇へのガーター勲章奉呈ミッションでエドワード国王の名代としてコンノート卿が訪日。その主席随行員として40年ぶりに日本へ。この時に明治天皇から菊花大綬章をもらっている。

1916年  バッツフォードで死去

訃報記事には、「若き日にロシア、中国、日本での外交官として活躍し、上流階級、社交界で華やかな人生を送り、時代を代表する英国紳士であった」と紹介されている。


(2)書籍紹介

1)「Memories」2 volumes 4th Edition 1915

Lord Redesdale:リーズデール卿著

邦訳版「英国外交官の見た幕末維新」 長岡祥三訳 講談社学術文庫

ミットフォード、のちのリーズデール卿の「回想録」上下2巻は、816ページの大著で、出生から1914年の第一次世界大戦までの回想録である。このうち第18章から26章までが日本に関する回想で、邦訳版はこの部分を抜粋、翻訳したもの。1866年(慶応2年)から1869年(明治2年)までの幕末・維新の激動の日本でのイギリス公使館勤務時代を振り返っている。若き日にパークス、サトウと共に活躍した思い出、天皇や将軍他のさまざまな人物との出会いが描かれており、幕末維新の日本の動向や人物像がイギリス外交官の視点で生き生きと描かれている。先述のように、サトウの著作と並ぶ、幕末維新史、日英外交史の一級の一次史料と言える。とりわけ、1867年(慶応3年)の慶喜との大坂城での会見(大政奉還についての慶喜からの説明)、1868年(明治元年)の明治天皇に謁見のことが詳細に記述されている。また明治天皇への謁見のため、京都御所を向かう英国公使パークスをはじめとする英国デレゲーションが、その途上で攘夷派の暴漢2名に襲われた事件など、当事者にしか語れない緊迫した模様が伝わってくる。サトウの日記に基づく記述にもことの顛末が詳細に語られているが、明治天皇との謁見にはミットフォードだけがパークスに同伴することを許されたので、紫宸殿の中のことはサトウの記録にはない。ミットフォードもサトウが謁見に同席出来なかったことを残念だと書いている。これはイギリスでの国王への謁見の経験の有無が問われたようで、ミットフォードにはそれがあったということのようだ。

彼はこの他にもいくつかの重要な著作を残している。中でもミットフォードの名前で著した「Tales of Old Japan, London, Macmillan, 1871」:「日本昔ばなし」は、日本に伝わる「忠臣蔵」などの昔の物語を紹介した代表的な著作としてイギリスでは重版されており、邦訳もされている。外交官としてだけではなく日本の文化に対する造詣の深さを示すものである。またもう一つの興味深い著作は、講演集「A Tragedy of Stones and Other Papers, London, John Lane, 1912」である(後に書籍を紹介する)。彼が公使館に勤務した若き日々に見聞した日本(幕末維新の激動期の)と、その後、1906年に明治天皇へのガーター勲章奉呈使節の主席随行員として40年ぶりに訪日した時に見た日本(あの日清/日露戦争に勝利した後の)とのギャップ。攘夷サムライのテロに怯える日々から、再び明治天皇に謁見することになった今という、すっかり変わってしまった日本に対する驚きと印象を語った「A Tale of Old and New Japan」と題した講演記録が採録されていている。特に興味深いエピソードは、英国王名代のコンノート卿使節団が横浜から新橋に列車で到着した時に、明治天皇が駅まで出迎えたことだと振り返っている。Forbiden Palace:禁裏から一歩も出ず、人々に姿を見せない神聖な存在であったMikado:天皇が、「あろうことか」外国人の一行を出迎えるために新橋駅頭に姿を表している。幕末攘夷の嵐の中、白刃を掻い潜って命を拾ったあの頃、維新後の明治天皇謁見の際にすら攘夷の浪士に襲われたあの頃には考えもつかなかったことだと振り返っている。彼の晩年の日本観は、この「脅威的な変貌」の衝撃によって規定されている。これはサトウも同様であり、この時期を日本で過ごしたチェンバレン、ラフカディオ・ハーン、フルベッキ、マードックなどの外国人に共通する日本観であったように思うが、彼のように40年ぶりの再訪であればその感慨はひとしおであったろう。その「変貌」の良し悪しの評価は、個々人で異なっているが。このガーター勲章ミッションの日本訪問については、別に「The Garter Mission to Japan, London, Micmillan, 1906」を著している。このため回想録、講演録では、日本再訪時の旅程や詳細には触れられておらず、機会があればこの「ガーターミッション」についても読んでみたいものだ。


「Memories Vol I,II 」4th edition 1915


リズデール卿肖像

28歳の時のリーズデール卿/ミットフォード肖像

表紙
リーズデール卿の訃報記事が添付されている

リーズデール卿の孫娘ユニティー
ヒットラーの信奉者でナチスドイツに移住
彼女の服毒事件の記事

ミットフォード家の祖先
フランク王国シャルルマーニュ大帝肖像


Old Japanの挿絵

邦訳版「英国外交官の見た幕末維新」長岡祥三訳



3)A Tragedy of Stones and Other Papers 1912

Lord Redesdale著

リーズデール卿のエッセイ/講演集。10編のうち5編が日本関係の講演集でロンドンのジャパンソサエティーでの講演や彼が創設に関わった学校での講演が採録されている。先述の通り、ガーター勲章ミッションで40年ぶりに日本を訪問した時の印象を語った講演記録は貴重な資料である。ちなみにこの書籍には蔵書票があり、第5代ローズベリー伯爵、ビクトリア女王時代のイギリス首相アーチボルト・プリムローズの蔵書であったことが判っている。

A Tale of Old and New Japan ガーター勲章ミッションで40年ぶりに再来日した時の印象

Three hundred Years Ago ウィリアム・アダムスの話

Fudalism in Japan 日本の封建制について

A Holiday in Japan Nearly Fifty Years Ago Part 1 鎌倉/箱根への紀行文

A Holiday in Japan Nearly Fifty Years Ago Part2


「A Tragedy of Stones and Other Papers」1912




蔵書票には「Earl of Rosebery Archbald Phillip」とある
第5代ローズベリー伯爵、
前英国首相アーチボルト・フィリップ・プリムローズ (自由党、在任期間1894−1895)
の蔵書であったことがわかる






左ページにリーズデール卿の著作リストが掲載されている

「A Tale of Old and New Japan」1906年ロンドンのジャパン・ソサエティーでの講演


3)「A Diplomat in Japan」 First Edition 1921 

Ernest M. Satow:アーネスト・メイソン・サトウ著

邦訳版「一外交官の見た明治維新」 坂田精一訳 岩波文庫

日本では幕末維新史に関する有名な著作であるが、詳細は以前のブログで紹介したので、ここではあくまでもミットフォード著作のカウンターパートということで取り上げておきたい。巻頭でサトウはミットフォードに言及している他、本文中では度々ミットフォードの名前が登場する。先述のようにミットフォードも、彼の回顧録の中で度々サトウについて言及している。二人の外交官の体験に基づく両著を併せて読むことで、あの時代が万華鏡のように映し出されるであろう。


德川の葵の紋



アーネスト・サトウの肖像(1869年と1903年)



表紙と将軍慶喜肖像



大阪での集合写真
サトウ(前列左)とミットフォード(後列右から2番目)


下関砲台占拠




今回もこれらの貴重な書籍の収集に関しては、神保町の北澤書店にお世話になった。あらためてそのことに謝意を表して結びに替えたい。

2022年12月9日金曜日

2022年名残の紅葉を愛でる 〜日比谷公園と蘇峰公園の紅葉定点観測〜

 日比谷公園と蘇峰公園の紅葉

今年も京都や大和の紅葉を愛でる旅は叶わなかった。コロナのせいもあるが、どこか関西まで出かける心のゆとりが生まれなかった、といったほうが当たっているだろう。良い旅立ちにはやはり心がそのように動くということが必要である。そうならなかった。どうも引きこもりモードが定着しつつある感じが良くない。やっぱりコロナのせいだ。

ということで、今年もまた近場の紅葉ということに相成った。今年の東京の紅葉は、例年よりは少し早めに始まったようだ。しかし、紅葉が真っ盛りになる11月下旬の連日の雨と曇天で、鮮やかな紅葉を愛でる間もなかった。やはり青空を背景に、透過光に輝く紅葉、黄葉の織り成す錦を楽しみたい。そう思って待ちに待って12月に入り晴れ間を狙って、乾通りの通り抜けに加えて日比谷公園に行ってみたが、既に池畔の紅葉は散ってしまっていた。残る木も色乗りが悪くほぼ終わりであった。例年だとこの頃が見頃なのだが残念。ここの紅葉を見ないと一年が終わる気がしないのだが。地元愛だ。

一方の蘇峰公園の方は、なかなか色づかないなと思っていると、早くも茶色になって散り始める樹が。狙い目の樹には赤い葉もあり、銀杏の黄色とのコントラストが美しい。あまりお天気が回復しないので少雨の中の紅葉を狙ってみたが、やはりイメージする煌めきが感じられない。かろうじて一部の赤い部分をクローズアップして紅葉らしさを演出してみた。全体的には「コレはコレはの錦の間に間に」というわけにはいかないので、「寄り」で名残の紅葉を楽しんだ。

ということで、今年の定点観測地点での「名残の紅葉」をご披露いたしたい。


観測地点1)日比谷公園(12月7日撮影)

落葉してしまった

(同じ地点から3年前の2019年12月5日の撮影)







観測地点2)蘇峰公園(11月24日、29日、12月8日撮影)

以下、2枚は11月24日撮影(晴れ)




以下、6枚は12月8日撮影(晴ときどき曇)








以下、6枚は11月29日撮影(少雨、曇天)









以下、2枚は12月16日撮影(快晴)






(撮影機材:Nikon Z9 + Nikkor Z 24-120/4, Nikkor Z 70-200/2.8)