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2023年2月19日日曜日

亜欧堂 田善 〜Who is AEUDOO DENZEN ? 江戸のオランダ人画家?〜

  

「フローニンゲン新地図帳」オランダ語版 1791年 表紙
亜欧堂田善の模刻

オルテリウス「世界の舞台」英語版 1606年 表紙

コメリン「オランダ東インド会社史」1646年 表紙



千葉市美術館の「亜欧堂田善」展 没後200年記念、江戸の洋風画家・創造の軌跡 を鑑賞してきた。先週のNHK「日曜美術館」でも「日本に生まれたオランダ人」として紹介された。この亜欧堂田善の作品140点と、彼の画業に関する日欧の作品250点が一堂に展示されるという圧巻、充実の企画展である。

亜欧堂田善(あおうどう でんぜん、本名は永田善吉 1748年寛延元年生まれ、1822年文政5年没)は現在の福島県須賀川市生まれ。47歳のときに白河藩主松平定信の命を受けて腐食銅版画技法を習得し、主君の庇護のもと、日本初の銅版画による解剖図「医範提鋼内象銅版図」や、幕府が初めて公刊した世界地図「新訂万国全図」などを手がけた。いっぽうで西洋版画の技法を取り入れた江戸名所シリーズや肉筆油彩画も手がけるなど、多くの傑作を残している。 須賀川の商家に生まれ生来画を好んだという田善は伊勢国の画僧・月僊の画を学ぶも、絵師としては生計を立てられず、兄とともに染物業を営んでいた。田善に転機が訪れたのは、1794年に白河藩主の松平定信に見出されたときだ。以後、定信が重用する谷文晁に師事し、画業の道を歩むこととなる。画号の「亜欧堂」は、藩主松平定信が、アジア(亜)とヨーロッパ(欧)を眼前に見るようだ、と称賛して彼に与えたと伝わる。

 やがて、田善は江戸に召し出されて本格的に銅版画技法の習得を命じられる。当時を伝えるものとして注目したいのは、田善の《洋人曳馬図》(1802)とヨハン・エリアス・リーディンガー《トルコの馬飾り・諸国馬図》(1752)の比較展示だ。《トルコの馬飾り・諸国馬図》は田善が最初に目にした西洋版画のひとつであるが、田善がこうした西洋版画から構図をはじめ多くの引用をしながら絵馬や画を制作していたことがわかる。

 田善は銅版画技術の習得のみならず、その過程で透視遠近法や陰影法といった手法も西洋画から学んだ。油彩画においてもその力量が発揮され、例えば、透視図法を用いた絹本油彩の《江戸城辺風景図》(1789〜1801頃)は、江戸城の石垣と堀の描写が、独特の空間表現として見るものに強い印象を残す。いっぽう、重要文化財である《浅間山図屛風》(1804〜18頃)は江戸時代最大の油彩画と言われているが、本作で田善は西洋画法をよく理解しながらも、ただ模倣するのではなくあえて写実性を排して装飾的な迫力を表現している。

 華やかな浮世絵とはまた異なり、実利実用の側面も強かった田善の仕事だが、その技術の高さや多彩な表現を豊富な作品群で見ることができる。「美術」という言葉がまだなかった時代のひとりの絵師の多様な仕事を、いまに生き生きと伝える展覧会だ。

(以上、「美術手帖」ウェブサイトから一部を引用)

千葉市美術館における「亜欧堂田善」没後200年記念展についての詳細については我が畏友のブログ「東京異空間」をご参照いただきたい。


銅版エッチング作品について

今回は特に。西洋銅版画との比較で、田善の腐食銅版技法を駆使した作品に注目した。先述のように、白河藩主の松平定信に、西洋で作られた世界地図や解剖図のような実用的な銅版画の製作技術を身につけるよう命じられたことから始まった。田善は、そのためにはということで西洋絵画を学び、油彩画にも取り組んだ。そして銅板エッチング作品に取り組んだ。その結果が、多くの絵画・版画作品を生むこととなり、最終的には世界地図と解剖図を完成させることで藩主の期待に応えることができた。そのプロセスで生み出された様々な作品に見られる模写、模刻の力は卓越しており、モノマネが得意な日本人、コピーがうまい日本人、と揶揄されるのも故なしとは言えないと感じるが、それにしてもこれだけ高度な模写・模刻できる技術・技量は驚嘆に値し、誰もがまね出来ることではない。もちろんヨーロッパに留学したわけでもなく、オランダ人画家・版画家に手ほどきを受けた訳でもない。鎖国下の日本での話である。長崎のオランダ商館を通じて得られた限られた西洋画や書籍を見ながらの模写・模刻であるから驚きである。寛政年間には司馬江漢など一部で腐食銅版画の制作が成功していたが、松平定信から見るとまだ細密さにかけており、満足の行く出来ではなかった。田善は卓越した技法を身に着け、銅版画の創始者は江漢であるとしても、その大成者としての地位を確立した。それ故に司馬江漢をして田善を「日本に生まれたオランダ人」と言わしめたほどである。更にそれにとどまらず、田善自身の感性による銅板版画の咀嚼と止揚で、遊び心に満ちた独自の世界を生み出した。まさに日本文化の「受容」と「変容」プロセスの典型例だとも言える。

さて、ヨーロッパで刊行された17世紀から19世紀中までの書籍には、その挿画に銅版エッチングが多く用いられた。肖像画や、建物、風景、地図、または装飾的な表紙のイラストなど、油彩画や木版画と異なり、小さな画面に精密に描写できること、繰り返しプリントできることから書籍の出版に適しており、写真がない時代のビジュアルメディアとして重宝がられた。成熟期のエッチング作品は、工芸品、更には芸術作品としての価値も高く、著名な作者も現れて作品としても洗練されていった。故に、現代まで愛好者、コレクターが多く、ロンドンなどの古書店でも古プリントとして取引されている。ちょうど日本の浮世絵のような存在と言ってよいだろう。透視遠近法や陰影法が用いられていて立体感があり、奥行きのある写真のようなリアリティを感じる作品が魅力的である。私もこうした銅版エッチング作品の魅力に虜になった一人である。であるからこそ、日本の江戸時代(文化文政年間)の田善のエッチング作品との出会いには衝撃を受けた。

今回の展示の、腐食銅版画技法、透視遠近法、陰影法を用いた、西洋版画の模刻作品は、本家の原画を凌ぐほどであり、先述の解剖図「医範提綱内象銅版図」やわが国初の世界地図「新訂万国全図」の完成度は、田善のいわば技術者としての到達点を示している。一方、その実用的版画の完成域に到達する過程で生まれた、数々の版画・油彩画作品は、個性的な造形や構成力を遺憾なく発揮しており、芸術家としての田善の力量を示している。特に、小型の銅板エッチング作品である「東都江戸名所図会」には、新鮮な驚きを感じる。これまで広重や北斎の多色刷り木版画の浮世絵の世界に慣れ親しんできた我々にとって、同じ風景、同じ構図、同じテーマであるにも関わらず、全く違ったモノクロの世界で、より精密で、透視遠近法、陰影法を駆使したリアリティーあふれる江戸の街の風景が再現されていることに驚く。また、その空の描き方、雲の処理は、西洋の銅版画のそれを江戸時代の日本に復元したもので、「泰西名画」的なエキゾチシズムすら漂う。また、やや時代を下る幕末、明治初期のベアトや上野彦馬が写し出した江戸の古写真をも彷彿とさせる。日本の浮世絵が19世紀ヨーロッパの芸術運動・アールヌーヴォーに与えたインパクトと同様、西洋の銅版エッチング画が、19世紀初頭の江戸・文化文政期に、浮世絵に与えたインパクトも大きかったはずだ。しかし、これまで田善の画業があまり顧みられなかったことは不思議に感じる。今改めて彼の作品に光が当てられることは嬉しいことだ。この亜欧堂田善:AEUDOO DENZENの画業がヨーロッパでどのように評価されるのか。次の企画展をぜひオランダあたりでやって欲しいものだ。

以下に、田善の作品と、同時代の私所有のイングランドの銅版画作品を比較鑑賞してみたい。

(田善の掲載作品は展示会場で撮影許可されたもの)



1)小型の原版による風景画「銅版画東都名所図」(文化年間1804〜18年)


飛鳥山眺望

金龍山浅草寺

両国勝景

品川月夜図

三囲図

愛宕山

愛宕山眺望図

今戸焼ノ図

日本橋魚郭図

道灌山

不忍池図



2)田善の油彩画作品二点

油彩画「江戸城辺風景図」
寛政年間(1789〜1802)後期から文化年間(1804〜18)前期

「浅間山図屏風」六曲一隻 
文化年間・1804〜18年ころ





3)同時代のイングランド銅版画私有コレクションから

Black's Travel Guide Book 1856
スウォンジー市内鳥瞰図

Black's Travel Guide Book 1856
エジンバラ市街地図



彩色エッチング「ドーバーの白い壁」
1804年
銅板エッチングに水彩で彩色したもの

彩色エッチング「ロンドン・グリニッチ公園」
1805年

Dictionary of Geography 1856
「江戸図」
誰が描いたものか興味がある

Dictionary of Geography 1856
ロンドン・ウェストミンスター宮殿とテムズ川



4)ロンドン街角ガイドブック ”Up and Down The London Street 1867”より


Charing Cross

New Hall Hospital

Guildhall

Royal Exchange

St. Paul 聖堂内

Piccadilly

エリザベス一世肖像

シェークスピア肖像




5)江戸鳥瞰図

亜欧堂田善「東都名所図」
銅版画

鍬形蕙斎(1764-1824)「江戸一目図屏風」東京都立中央図書館
木版画


現代の東京
羽田離陸後の写真


6)実用銅版画としての解剖図・世界地図・日本地図



宇田川玄真「医範提鋼内象銅版図」1805年・文化2年


高橋景保「新訂万国全図」1816年・文化13年


日本地図



2023年2月14日火曜日

古事記の神話は「稲作の起源」をどのように語っているか? 〜「豊葦原瑞穂国」はどこから来たのか?〜

 

豊葦原瑞穂国
田植えに始まる稲作農耕

日本最古の稲作農耕集落跡「板付遺跡」


上空から見る「板付遺跡」
都市化した環境にわずかに残る初期の環濠集落の痕跡



前回のブログ(https://tatsuo-k.blogspot.com/2023/01/blog-post_11.html)では、古事記の神話は「人の起源」をどのように語っているか、について考察してみた。今回は、日本の文化の基層をなす稲作の起源について見てみたい。稲作農耕文化はどこから来たのか?古事記はどのように語っているのか。

文明や文化は古来、大陸や半島から海を渡ってやって来た。そして人の移動に伴ってやって来た。海で隔てられた列島への到達には船を操る海の民の存在が必須だ。したがって農耕文化の伝来にも漁労民、海洋民の介在があった。あるいは海洋民が定住して農耕民になっていったこともあるだろう。列島においては、まず大陸に近い沿岸部にそうした文明のフロンティアが成立した。それが列島内部に徐々に展開してゆく。そうした外来の文明や文化を「受容」し「変容」させて独自の文化を生み出していった。それをまた海を経て発信していった。それが日本である。

稲作農耕文化も例外ではない。まず最初は種籾を持った大陸の人々が小さな船で海を渡り列島に稲作を伝えた。文明や文化そのものを伝えることが目的であったわけではない。様々な事情で危険な海を渡り、大陸から船でやって来た。そして生活のために列島に定着して、その種籾を撒き稲作を始めた。それを見た列島の人々が、その種籾をもらい、耕作のやり方を習って稲作を始めた。徐々に従来の縄文的なコミュニティーが、外来の農耕定住コミュニティーの影響を受け、それを「受容」し、列島風に「変容」していったのが弥生時代である。文明や文化はこうした人々の通交、交流の中で伝搬し定着し、また還流してゆく。考古学的には、大陸に近い北部九州の福岡の板付遺跡、江辻遺跡、唐津の菜畑遺跡など紀元前930年頃の水耕稲作遺跡が日本最古の稲作の痕跡ととされている。稲作はこの頃大陸から伝わったのであろう。これが狩猟・採集や小規模な栽培を生業とする縄文的な人々の社会に変革をもたらし、定住して農耕を営む弥生的なムラ、クニが生まれ、やがて国になった。これが日本の先史時代の姿であった。もっともこうした縄文から弥生への変遷は、フェーズ転換やパラダイムシフトというような急激なものではなかったことも、最近の研究で明らかになっている。それでも大陸からもたらされた稲作農耕が、日本列島の住人に大きな変化をもたらし、日本の文化に大きな影響を与えたことは事実だ。このことは7世紀の古代日本人の記憶の中にもはっきりと生きており、それがその時代に記述され編纂された古事記や日本書紀、万葉集などに表現されている。

ではこの稲作の起源を、古事記はどのように語ってるのだろう。結論を先にいうと、「どこから来たのか?」というよりは、この葦原中国においては稲作が「所与」のものとして扱われているのではないか、ということである。まず、高天原から葦原中国に稲作と農耕をもたらす上で重要な役割を果たしたのはスサノヲであるとされているように見える。とは言っても、スサノヲが稲作をもたらした、と明確に語られているわけでもない。曖昧である。古事記の神話では次のように語られている。高天原を追放されて放浪している途中、スサノヲは食べ物を求めて女神、オオゲツヒメカミ(大宜津比売神)と出会った。オオゲツヒメカミは体の穴という穴から食べ物を生み出してスサノヲに提供した。しかし、スサノヲはこれを穢れたものとして殺してしまう。そのオオゲツヒメカミの体からは蚕や五穀が生まれ、その中からカムムスヒノミオヤノミコト(神産巣日御祖命)が穢れを祓って穀物の種をスサノヲに与えた。これが葦原中国における稲作農耕と養蚕の起源であるとされている。やがて出雲にたどり着いたスサノヲは、そこでクシナダヒメ(櫛名田比売)に出会い、ヤマタノオロチを退治してヒメと結婚する。後にスサノヲの子孫であるオオクニヌシ(大國主命)が国を栄えさせた、これが地上の国の始まりであると。いわゆる「出雲神話」前半である。ここに登場するクシナダヒメは、クシ(奇し)イナダ(稲田)ヒメ(女性)、尊い稲田の女神、すなわち稲作の女神であると解釈される。高天原から追放されたスサノヲが地上の国、出雲に稲籾を持ってやってくる前にすでに稲作の女神がいるのである。では、その前に登場する先述のオオゲツヒメカミとはどのような神なのか。この話は、出雲神話のヤマタノオロチ退治やクシナダヒメとの結婚の前に、唐突に現れた話で、古事記のストーリーに一貫性がない例の一つであるとされてきたが、このオオゲツヒメカミの物語は、稲作起源譚にとって重要なエピソードであるという説を唱える研究者もいる(三浦佑之説)。すなわち、この神は体内からあらゆる食物が出てくる、すなわち大地の恵み、生命力を宿した神「大地母神」のような神であるとする。しかし、これは栽培・耕作といった秩序だった生産活動をイメージするものではなく、狩猟・採集をむねとする混沌とした生産の女神である、すなわち縄文的な女神であり、弥生的な稲作の女神ではない。この縄文の女神が殺された話が、弥生時代への転換を象徴的に示唆しているとする。そして、スサノヲが出雲で出会ったこのクシナダヒメが稲作の女神であり、これが弥生の女神の出現だというわけだ。

興味深い解釈だ。しかし、これは、稲作伝来を契機とした縄文時代から弥生時代への変遷という歴史を知っている後世だからこそ、そのように解釈したのではないかと考える。むろん古事記の作者には、オオゲツヒメカミは「縄文的」女神、クシナダヒメは「弥生的」女神という区分認識はなかったであろう。またスサノヲがカミムスヒから得た種は稲だけではなくて、五穀の種と養蚕である。そのなかでクシナダヒメという稲作の女神と結婚することで稲作が別格な農耕であることを示したにすぎないのではないだろうか。古事記では明確な稲作の起源譚が語られず、クシナダヒメの存在が示唆するように、稲作は高天原(天の国)からもたらされたものではなく、葦原中国(地上の国)に既に存在しているものとして描かれているように読める。ただ、確かにこのエピソードからは、「縄文的」な混沌とした生産の時代(狩猟採集の時代)から、「弥生的」な秩序だった生産活動の時代(稲作農耕の時代)への変遷があった、という認識を古事記の作者が表明したものであるようにも読める。7世紀の倭人いや日本人の心の基底に、縄文的な時代の記憶が受け継がれていて、稲作農耕がその時代を大きく変えたと認識し、それがやがては「治天下大王」である天皇を生んだ、という理解が示されている。これは必ずしも稲作=天皇という明確な図式ではないにしても、稲作農耕社会の登場が、狩猟採集社会とは異なる天皇のような統治者の出現を想定していた。8世紀に表された古事記にこのような上古の日本人の記憶の基層にある「歴史観」の表明があるとするとこれは興味深い。

ちなみに、このオオゲツヒメカミの物語に類似の神話は、インドネシアや、太平洋島嶼地域、メキシコやペルーに広く伝承されている。すなわち、生きている間は、人間に食料を与え、殺されてから、その死骸のあちこちから穀物(芋、豆、とうもろこし、稲など)などの栽培作物を生み出した女性(女神)の物語である。農耕や作物の起源神話の一つの類型、「ハイヌウェレ型」(インドネシアに伝わるハイヌウェレ神話に原型を求めたドイツの民俗学者の類型)と言われるものである。これに類する民間伝承や昔話は、「山姥」話のように日本のあちこちにも伝わっている。オオゲツヒメカミ神話もその典型的な事例で、古事記がこうした外来の神話の影響を受けていることを示唆している。その中でも、さらに「稲」に特別な意味を持たせたのがクシナダヒメやスサノヲの物語であったのだろう。

一方で、日本書紀では異なる稲作起源譚を示している。スサノヲではなくツキヨミが、オオゲツヒメカミではなくトヨウケを殺して、その死骸から生えた稲と穀物をアマテラスに献上したとする。しかしアマテラスはこれに怒り、ツキヨミとは今後一切同じ時間を過ごすことなく、アマテラスは昼間を、ツキヨミは夜を支配することとなった。これも、前出の「ハイヌウェレ型」であるとともに、太陽と月が昼夜で入れ替わる起源を説明している。また、「一書に曰く」で、アマテラスが高天原で育てられた神聖な稲籾を孫のニニギに託し、そのニニギが葦原中国を統治するために高天原から葦原中国の筑紫の日向に降臨するときに、この稲籾を携えて降りてきた。これが地上に稲作が始まった起源であるとする。この日本書紀の稲作起源説明のほうが、古事記のそれよりも明解で、しかも霊性があり神話としての説得力があるように思える。また、この「穀霊神の降臨」という神話は朝鮮半島にも伝わる。国外にも説得力を持つ神話として受け入れられることを狙ったのかもしれない。したがってアマテラス、ニニギの子孫たる天皇はその稲作に関わる祭祀の主宰者として権威を有し、皇室祭祀において稲作と養蚕が深く係る起源がここにあるとする。この、稲作がニニギによって地上にもたらされたとする点と、天皇の祭祀と稲作の強い結びつきを主張している点が、古事記の説明とは異なる。

差はさりながら、日本にとって稲作が特別なものとして受け止められていることは古事記でも日本書紀でも共通である。五穀の中でも稲が大八州、葦原中国の原初的な作物であり、日本は高天原からやって来た天孫族がもたらした稲作文化の国であり、それ故に、日本は「葦原中国」、「豊葦原瑞穂国」などと表現されている。ここには、海の向こうの大陸からもたらされた外来の作物、外来の農耕文化が根付いたものであるとの認識は表明されていない。この主張は、これまでも考察してきたように、日本が中国の華夷思想(大宇宙)、朝貢冊封体制から脱して、高天原の神々の子孫である天皇を頂点にいただく日本という小宇宙を形成する、という思想、国家観の表明と同根である。天武、持統期の新たな律令制国家樹立、「大王(おおきみ)」から「天皇(すめらみこと)」へ、自分が名乗ったわけでもない「倭(わ)」から「日本(ひのもと)」へ国号変更と同様、「豊葦原瑞穂国」もこの時代の国家アイデンティティー表明のエピソードのひとつなのだ。日本書紀は外国(中国)を意識して編纂された国の「正史」であるが、古事記は外国を意識していない分だけ、稲作農耕=天皇祭祀といった図式が明確に表明されていない。ただ日本文化の基底にある稲作文化は、天から与えられ、大八州に独自に始まり開花した文化だと説明している。このように古事記は日本書紀とも異なるストーリーを展開しているわけだが、どちらがより正確に日本における「稲作」の起源を説明しているかといった解釈論争してみてもそれは無意味であろう。稲籾を、スサノヲが持ってきた。いやニニギが持ってきた。その違いは神話の世界では重要かもしれないが、歴史の世界では史実とは別の「物語」でしかない。

こうした稲作の起源をめぐる捉え方一つを見ても、古事記は、客観的な史実、あるいは過去の出来事の記憶を基にして編纂された「歴史書」ではなく、かと言って古来より伝わる伝承や口承神話を積み上げて文字化した「神話集」でもなく、7世紀後半から8世紀前半という「日本国家」形成期において、最初から或る意図を持ってストーリーを作り(いくつかの撰録された伝承や神話に仮託して)記述された作品としての「物語」であるという性格が明らかになるであろう。語り継がれる神話や伝承を取捨選択して「文字化する」時点で、その撰録と、後世に残ることを見据えた文章表現には編纂を命じた為政者の意図が明確に表明され、作者がその意図に沿って物語として完成させる。まさに序文に言うところの「帝紀・旧辞をよく調べただし、偽りを削り、真実を定めて撰録し、後世に伝えよう」とした物語、すなわち「天皇の物語」なのである。そのように読むことで古事記の奥深さがより味わえるのだと思う。まさに古事記の解釈に関する定説は、「成立論的解釈」から「作品論的解釈」へと変わってきている。


参考文献:

「古事記」神話から読む古代人の心 三浦佑之 NHK出版

日本古典文学全集「古事記」 山口佳紀、神野志隆光 小学館

参考過去ログ:



2023年2月5日日曜日

古書を巡る旅(30)Memoirs of A Captivity in Japan:ゴロヴニン「日本幽囚記」〜露西亜人が見た初めての日本〜


幽閉から解放されたのちのゴロヴニン肖像


1)ゴロヴニン「日本幽囚記」:Memoir of Captivity in Japan 英訳版第2版 1824年 ロシア人が見た初めての日本

日欧関係の歴史を振り返る時に、ファーストコンタクトのポルトガル人、スペイン人、オランダ人、イギリス人、そしてセカンドコンタクトのアメリカ人、イギリス人、フランス人がよく登場する。今回は、我が隣人ロシア人による日本記録である。また、これまでの宣教師や商館長や外交使節団、あるいはお雇い外国人とは異なり、今回の主役は日本側に幽閉された帝政ロシア海軍士官である。

1811年に起きた、いわゆるゴロヴニン事件。樺太、千島列島を測量調査中に国後島に上陸したロシア海軍の測量艦ディアナ号の艦長ワシーリ・ミハエルビッチ・ゴロヴニンと数名の乗組員が日本の役人に捕えられて2年3ヶ月にわたって幽閉された事件である。この本は、彼の日本での抑留体験を回想録としてまとめたもので、さらに彼の目で見た日本観察記が付け加えられている。日本語訳では「日本幽囚記」として岩波文庫から出版されているが絶版になっているようだ。ケンペルの「日本誌」がイギリスで出版された1727年の、約90年後に出されたヨーロッパ人による日本見聞録であり、鎖国体制下の日本の「空白の90年」を埋める貴重な歴史的資料とも言える。ペリー来航の40年ほど前の出来事であり、今から約200年前の出来事の記録である。ペリーも日本遠征に当たってこのゴロヴニン「日本幽囚記」を読み、研究している。

本書は、ゴロヴニンが解放されて帰国した後、1816年に本国ロシアで初版が出版されたもの。同年にはドイツ語版、フランス語版、英語版、オランダ語版が出版された。そして早くも1818年(文政元年)には蘭学者/オランダ通詞の馬場佐十郎(貞由:さだよし)によってオランダ語版から日本語版にも重訳された。英語版はフランス語版あるいはドイツ語版からの重訳であるようだ。英訳版は1816年の初版に続き、1824年には追補、改定された第二版が出版された。手元にある本書はこの第二版である。ロシア語版との違いは、多くの追補、注記の追加がなされているほか、フランス語版訳者の解説によれば、ロシア語版には検閲による改ざんや削除があり、翻訳版のほうがゴロヴニンのオリジナル原稿に忠実だとされている。また英語版第三巻の冒頭には、英訳編集者による日欧交流史の概説(大英帝国の視点での)が掲載されている。これはケンペルの日本史の英訳版(スローン版)にも見られる点で、とくにイギリスの東洋への進出に関する事蹟を追補する形が見られる。ただ、本書の場合、英訳編集者の名前はどこにも記述がない。また英訳第二版には、この事件のきっかけとなった「文化露寇」の顛末が追加収録されている。すなわち「フヴォストフ&ダヴィドフ日本航海記」である。


本書は三巻からなる。

第一巻 幽閉中のゴロヴニンの手記

第二巻 ゴロヴニンの手記の続き(解放に至る経緯が記されている)。及びゴロヴニンの後任としてディアナ号艦長となったリコルドの航海記録。リコルド・高田屋嘉兵衛によるゴロヴニン解放の交渉記録

第三巻 英訳者による日欧交流史ならびに日本解説、及びこの事件のきっかけを作った「文化露寇事件」の当事者、フヴォストフ&ダヴィドフの日本航海記

1824年 英訳第二版 オリジナルクロス装


2)ゴロヴニンの略歴

ヴァシーリイ・ミハーイロヴィチ・ゴロヴニンВаси́лий Миха́йлович Головни́н Vasilii Mikhailovich Golovnin)

1776年 モスクワ郊外リャザン州グーリンキ生まれ

1790年 海軍士官学校入学14歳で海軍士官候補生に。在学中に実戦参加で活躍

在学中は、内外の航海家達の著作や、哲学、歴史、地誌、軍学、経済学、法学、文学と幅広く学ぶ。これはロシアの海軍士官学校の伝統でもあった。さらにプラトン、トマス・アキナス、ルソー、ヴォルテール、モンテスキュー、ディドロに親しみ、啓蒙主義、デモクラシーの理念や社会的・政治的思想潮流にふれた。発禁書であったプーシキンの詩篇にも影響を受けた

1793年 海軍士官学校卒業、以降ほとんどを海外での遠洋航海と海戦に参加する軍人人生を送る。

1802年 アレクサンドル一世の命でイギリス/ポーツマスへ留学。

1806年 サンクトペテルブルグへ戻り、ディアナ号艦長(中尉、大尉)に 北太平洋海域の調査目的であったが苦難に満ちた航海であった。ヨーロッパではイギリス、フランスとの緊張関係から、バルト海から出ることもままならない中、はるか北太平洋まで出かけた。

1811年 千島列島調査中に日本で捕縛され幽閉 2年3ヶ月に及ぶ抑留生活を送る

1814年 帰国 救出に奔走した副艦長のピョートル・リコルドとともに海軍中佐に飛び級

1816年「日本幽囚記」ロシア語版刊行 英語版など各国版翻訳

1817年 カムチャッカ号での世界就航へ 最後の航海

1819年 帰国 海軍大佐に昇進 帝国科学アカデミー会員

1821年 海軍准将 海軍兵学校校長補佐

1823年 海軍主計総監

1825年 露米会社取締役

1827〜30年 艦船建造指導 初の蒸気艦建造などロシア海軍近代化に貢献

1830年 海軍中将/副提督 聖アンナ勲章一等叙勲

1831年 サンクトペテルブルグに没す コレラで


3)ゴロヴニン事件とは その背景となる日露関係

ロシア帝国は東シベリアから北米(アラスカ北米植民地化を狙う)にかけての航路開拓のため、北太平洋の探検、測量をやっていた。またアラスカへの航路途中にある日本での補給のための不凍港をもとめていた。ロシアの伝統的な領土拡大戦略、「東進政策」「南下政策」である。このため、サハリン(樺太)、クリル(千島列島)、蝦夷地(松前)周辺にロシア船が頻繁に出没していた。蝦夷地、樺太、千島の開拓を進めていた幕府はこうして動きを警戒して、松前藩や東北各藩に北辺の警備の役割を仰せつけ、幕府直轄地として箱館奉行所を設けるなど、ロシア側の動きを強く意識していた。

日露通交の経緯を簡単に振り返ると、

ラックスマンの来航

1792〜3年、エカテリーナ二世の命令で、近衛中尉アダム・ラックスマンが根室に来航。大黒屋光太夫ほかの2名の漂流民を伴い、江戸への寄港を要求した。松前藩との交渉は難航したが、幕府(老中首座松平定信)からは、交易に関する交渉は長崎でのみ行うとして長崎入港許可書(信牌)が発行された。幕府は漂流民の帰国などで感謝の意を示し、ラックスマン一行はそれなりの好遇を受けた。ラックスマンはこの時は長崎には寄港せず一旦帰国するが、日本との通交に期待感が高まった。光太夫は9年にも及ぶ在露生活の中でエカテリーナ女帝にも謁見しており、帰国後は大槻玄沢や桂川甫周等による聞き取り、家斉との謁見で、ロシア事情について詳細な報告をしてる(「北槎聞略」に詳しい)。

レザノフ来航と「文化露寇」事件

ラックスマン来航から12年後の1805年、アレクサンドル一世の命令で、露米会社の代表ニコライ・レザノフが、先にラックスマンに発行された長崎入港許可証を持参して長崎に来航。仙台漂流民4名を伴い。しかし、すぐに認められると考えていた交易交渉は半年に渡る軟禁の末に結局は拒否される。ラックスマン来航から10年以上経過して幕府の方針も大きく変化してしまった(長崎入港許可を与えた松平定信も、幕府内の権力争いで老中を退任していた)。レザノフは幕府の不誠実な態度に怒り、1806〜7年にレザノフの部下であるフヴォストフ大尉、ダヴィドフ少尉率いる部隊によって樺太・千島列島・利尻を襲撃させる。樺太、択捉における幕府番所やアイヌ居住地区における放火、略奪、暴行、住民拉致を行い、利尻沖では幕府御用船を襲撃、略奪して引き上げて行った(後述のように本書の第三巻末にこの事件の記録が掲載されている)。この事件は、幕府や日本人に大きな衝撃を与えた。この時、警備にあたっていた幕府や南部藩、弘前藩の警備部隊は旧式の火縄銃や戦国時代さながらの骨董的な大砲で応戦するも、近代兵器には敵わず大敗する。一部の部隊は戦線から逃げ出すなど無様な有様であった。この責任をとって前線で指揮をとった奉行が切腹するなど、幕府の武威・威信が大きく傷つく事件となった。いわゆる文化年間の「文化露寇」事件である。この事件が、ロシアは他国の主権を武力で侵害する野蛮な国、との印象を現代まで200年にわたって日本人に深く刻み込まれることとなった。のちにアレクサンドル一世は、この襲撃の事実を知ると激怒し、フヴォストフ始め責任者を処罰する。本国の許可なき戦争であった。ちなみにレザノフは航海途中で病没していたので処罰を逃れた。しかし、幕府は突然の外国との戦争に直面してなすすべもなく、領土を蹂躙されたわけで、にわかに海防論が高まるきっかけとなった。しかし武力に負けて開港することはできないという松平定信の意見書もあり、むしろ海防政策、外交政策よりもますます内向きの「外国船打払」や鎖国の堅持に動いていった。「鎖国論」が言葉として共通認識化し、まるで家康以来の「祖法」であるとするきっかけともなる。日本を取り巻く環境の大きな変化にもかかわらず、結局、積極的な対外政策、防衛体制の見直しに取り組まないまま、事件に蓋をしてしまった。「不都合なことはなかったことにする」典型と言えよう。こののち50年後には米国ペリー艦隊の江戸湾来航があり、あっという間に開国へと向かうことになる。その予兆ともいうべき事件であった。

ゴロヴニン事件 高田屋嘉兵衛とリコルド

こうしてロシアに対する不信感と警戒心が頂点に達し、北辺の警備が厳重に執り行われている最中、ゴロヴニン事件が起きた。1811年、千島列島の調査測量航海中のロシア艦艇ディアナ号が国後島泊港に薪水補給のために寄港し、乗員が上陸した。現地では最初は比較的穏便に取り扱われていたが、結果的には「上」に伺いを立て、ゴロヴニン艦長他が捕えられる。先般の露寇事件が「未解決」であることが理由である。ゴロヴニンは、調査船であること、薪水補給が目的で、直ちに出港する旨説明するも聞き入れられず、結局、松前、ついで箱館に2年3ヶ月に渡って幽閉される。その後、拘束を免れた副艦長のピョートル・リコルドと、彼に、ゴロヴニン解放のための人質として拿捕された日本人商人高田屋嘉兵衛の奔走、尽力により問題は解決に向かう。彼らの仲介による幕府、ロシア政府双方の公文書交換、交渉により、露寇事件はロシア皇帝の意思ではなかった事、責任者を処罰した事を幕府に知らせ、ロシア政府からの事件に関する公式謝罪文書が出されて、ようやく1813年にゴロヴニン達が解放された(第2巻のリコルドの記録に詳しい)。この事件の解決にこれほど手間取った背景には、国交がないとはいえ、幕府側の情報収集能力、外交交渉力の欠如があった。ロシア政府の真意の確認をせず、その結果としての事態の誤認、そしてなによりもこれに伴う意思決定の遅れがあった。こうした背景には、もちろん「鎖国」政策を長く続けたことによる「平和ボケ」「外交音痴」があったとも言えるが、そもそも幕府の消極的な問題解決姿勢に尽きる。リコルドはその記録の中で、そうした背景には、日本人が長年、長崎のオランダ人による偏った世界情報しか得ていなかったことが大きいとコメントしている。特にロシアに対する偏見に満ちた情報が交渉の妨げになった、と述懐している。そのことの当否はともかく、結局は「民間人」高田屋嘉兵衛とディアナ号艦長リコルドの尽力による日露両国への働きかけ:「外交交渉」がこの事件の解決につながった。幽閉されたゴロヴニン他の扱いによっては、再びロシアによる蝦夷地攻撃の可能性がある緊迫した事態であった。これを避けることができたのは嘉兵衛の尽力によるところが大きい。リコルドの記録によれば、ディアナ号がゴロヴニン他を連れて函館を出港する最後の場面で、ディアナ号からは「ウラー!大将(嘉兵衛のこと)」。嘉兵衛の乗った日本の見送り船団からは「ウラー!ディアナ」と、お互いの姿が見えなくなるまでに別れのエールを交換したとある。ゴロヴニンの手記にも同様の記述があり、「友人」である日本人との別れを描いている。感動的なシーンである。リコルドは帰国後、この問題解決への貢献が認められて、ゴロヴニンとともに皇帝から生涯年金1500ルーブルを受け取ることになった。一方の高田屋嘉兵衛は、幕府により「国禁を犯し」海外渡航した罪で投獄された。のちに「ロシアに拉致された」ということで許されて出獄し、見舞金5両を受け取っている。この違いはどうであろう。また、嘉兵衛引退後の高田屋は、ロシアとの密貿易云々を理由に取り潰し処分を受け、蝦夷地や千島列島の開拓に尽力した北前船の大船頭「高田屋」の名跡は嘉兵衛一代で終わる。高田屋嘉兵衛については司馬遼太郎の歴史長編小説「菜の花の沖」がある。

プチャーチン遣日使節と日露和親条約

その後は、ロシア帝国はクリミア半島の領土化、黒海、地中海航路の制海権をねらって、クリミア戦争(1853〜56年)を起こす。このため兵力をヨーロッパ側に割かれ、挙げ句にオスマントルコ帝国とそれを支援する英仏連合に敗れる。この間、日露が接触する機会は少なく、極東北辺の海におけるロシアの動きは比較的静かであったが、むしろ日本近海にはイギリス船やアメリカ船が頻繁に出没するようになる。ついには1853年のアメリカ・ペリー艦隊江戸湾浦賀への来航、1854年の日米和親条約締結、「開国」へと歩むことになる。その翌年、1855年、アメリカに遅れじとニコライ一世の遣日使節プチャーチン中将艦隊が長崎へ入港。日露和親条約締結へと繋がってゆく。この間の事情は、ゴンチャロフ「日本渡航記」岩波文庫に詳しい。ロシアのあくなき領土拡張主義と、日本の一切の外交接触を回避しようとする消極的鎖国主義との長きにわたる確執が続いた末の日露外交交渉であった。アメリカの場合と異なり、日露両国間には単に開港するというでけではなく、歴史的な経緯を有する国境線の確定という重要課題があった。


高田屋嘉兵衛
(淡路島出身の豪商 
北前船で活躍し、兵庫、箱館を拠点に国後、択捉航路を開いた)


4)日本観察記 ゴロヴニンの視点「公平な観察者の目」

読後の第一印象は、ゴロヴニンという人物は、グローバルな視野、啓蒙主義的な知性を感じるインテリジェンスあふれる海軍士官であり、本書は彼の啓蒙主義的な「公平な観察者の目」による日本観察の記録であるということである。こんな人物が帝政時代のロシアにいたのか、という驚きである。それと彼が描いた当時の日本人の姿にも驚いた。鎖国下の日本に高田屋嘉兵衛のようなグローバル思考を持ち、それに基づいて行動を取ることができる人物がいたことへの憧憬である。そして辺境の現場の役人や通訳の意外なほどの見識と判断能力の高さを知った。幕府上層部と現場とのギャップというか「リーダーは凡庸でも、現場は凄い」をここでも感じた。そして最初の不幸な出会いによる憎悪と侮蔑の感情は、時間を経てコミュニケーションを重ねるに従って、相互の共感とレスペクトの感情に変わってゆく。その様な感情の変化は、のちのタウンゼント・ハリスやアーネスト・サトウの記録にも現れる。それなのになぜ日本とロシアはすれ違ったままなのか。色々考えさせられるきっかけとなる本書である。

ゴロヴニンの観察は、乏しい語学力と限られた人脈(通訳、牢番、箱館奉行所や松前藩役人)の中での、彼の高い情報収集能力、鋭い観察眼、公平な評価 レスペクトを持った対人関係に基づくものである。彼が若い頃から研鑽を積み、長い航海の中で磨き上げてきた素養がこういう場面で能力を開花させるのだろう。また間宮林蔵とも面会している。ロシア語を教える一方、測量技術や世界情勢についての意見交換を行った。しかし間宮は幕府のスパイであり、また測量技術習得が目的で近寄ってきた人物だ、と鋭く指摘している。また日本政府(江戸幕府)の海外情報はオランダ人の偏見に満ちた情報源に依拠しており、貿易でも粗悪品を高く買わされている。オランダ商館に完全に牛耳られた貿易(幕府自身は幕府主導の管理貿易体制とみなしていたが)と、外交意思決定プロセスを決定づける情報の質を痛烈に批判している(先述のリコルドも同様のコメントを記述している)。

一方で、彼の回想録からは当時の日本人の教育レベルの高さ、識字率の高さはもちろん知識の豊かさが感じられる。先述のように、通詞はもちろん、牢番にも高い教育があったし、彼らは単なる下僕ではなく、サムライであると認識している。庶民階層も日本の法律や政治情勢、また海外の動向にも一定の知識を持ち、少なくとも大いなる関心を示すだけの好奇心があること。またロシア語を学ぶ若者達の熱意と吸収力にも驚嘆している。先述の本書の日本語訳を手がけた蘭学者馬場佐十郎も彼にロシア語を学んでいる。そうした日本人の知的好奇心の旺盛さに驚嘆した様子が読み手にも伝わってくる。

ゴロヴニンは彼自身がかつて感じた、西欧人が持つ日本に関する偏見に満ちた知識や、いびつな理解はどこから来るのか?と考えた(本書の序文に、この疑問が執筆するきっかけの一つであったと記述している)。そしてそれは、17世紀に日本から追い出されたカトリック宣教師達の反日プロパガンダや。出島に幽閉されて「貿易」に携わっているとするオランダ人による偏った日本観が基になっていると断じている。彼の2年半の滞在、しかも囚人として理不尽な扱いを受ける幽閉された時間においてすら、そうした西欧におけるステロタイプな概念とは異なる日本人像を得ている。先述のように、彼がコミュニケーションした人物は、インタビューに来た蘭学者やインテリジェンスある若者もいたが、おもに牢番や通訳、箱館奉行所や松前藩の役人であったが、こうした限られた日本人から得られた「日本人像」が、すでに既成概念から遥かに離れたものであった。囚われ人として受けた理不尽で耐え難い扱いにもかかわらず、憎悪と敵愾心ではなく、冷静な観察と相手へのレスペクトがあった。日本人の高い教育と礼儀正しさは、母国の庶民階層のそれとは異なると理解した。庶民にまで教育が行き届いていることへの驚き。文化的には、上流階級の知識/教養/道徳観、さらには詩歌や芸術はロシアの方が上だが、庶民のそれははるかに日本の方が上だとも書いている。

日本人の通訳と、こんな会話をした時のエピソードが記されている。豊かな国がいくつにも別れていて互いに戦争しているヨーロッパの状況を聞いた通訳が、そのヨーロッパと日本の比較して、「豊かだが争いの多い大きな町」と「貧しいが人々が助け合って暮らす田舎」と、どっちが良いと思うか?という問いを投げかけてきたという。これにゴロヴニンは、ヨーロッパでは戦争もするが、お互いに門戸を開いて情報を交換し、人が交流し、交易し、技術を競争しあって発展している、と答えたが、それ以上の説得力ある答えを彼に示すことは出来なかった、と。人の話や情報を鵜呑みにせず、自分なりの批判的な理解と解釈を持ち、それを相手にぶつけて議論を試みる。これがデモクラシーを知らない封建的身分制のもとで育った人々なのであろうか。ゴロヴニンでなくとも、現代の日本人にとっても、この「江戸時代人」の意外な姿に驚きを禁じ得ない。

一方で、ゴロヴニンは日本人には、勇気、勇敢、度胸、不屈の精神といった資質が欠けているのではないか、と書いている。これは露寇事件のときの日本側の無様な敗北から得られた印象であったのであろう。しかし、それは根本的な潜在能力の欠如ではなく、また日本人が生来臆病であるとは言えないとも書いている。なぜならば、それは単に長く戦争がなく平和で安息を得られる生活に身を委ねてきたからである。有事の準備ができていないからだと。いざとなればたちまちその潜在能力を発揮するだろうと。その惨めな文化露寇事件から90年後には、かのロシア帝国が誇るバルチック艦隊を対馬海峡に沈め、爾霊山(203高地)を奪取し、旅順港、奉天を陥落せしめた日本の姿があった。彼の観察の正しさを見事に証明することとなったわけだ。ただ、対露戦勝利をきっかけに日本帝国が戦争への道を突き進み、最後は無惨な敗北を喫することになることまでは予見する術もなかった。日本の外交戦略に枢要な目線と世界観の涵養は今なお課題である。

日本が西欧流の知見と技術や制度を取り入れたら、数年の後には東洋の王者となり、後には西欧諸国を脅かす存在になるだろう。そうなれば清国も同じ方針を取らざるを得なくなり、この2つの東洋の帝国はすぐにでもヨーロッパ情勢を別に局面に塗り替えてしまうだろう、と予見している。このゴロヴニンの洞察の意味は、残念ながら今は様々な理由からその真価が見失われている。ロシア人は1904年の日露戦争敗北を目の当たりにして、あの時のゴロヴニンの指摘をなぜもう少し真摯に受け止めなかったのかと後悔したのかもしれないが、その後の対日観にも、このゴロヴニンの視点と理解が生きているようには思えない。一方、日本でも、ロシアに対する拭えぬ不信感がこの200年の間に植え付けられてしまった。かつ領土的野心を露わにする「仮想敵国」への不信感はいまだに払拭されていない。ゴロヴニンの、理不尽な逆境にあってもなお日本人への人としてのレスペクトと鋭い洞察と公平な評価を思い出し、そのようなロシア人の存在を思い起こすべきであろう。また彼は、手記の中で、日本の役人がロシア皇帝からの謝罪文に皇帝のサインがあることを確認すると、全員が皇帝のサインにむかって最敬礼をした、と書いている。お互いが信頼し合ったときに、相手へのレスペクトが生まれ、最後は「友人」として別れることができた。彼が偉大な英雄として後世に名声を得たのは、理不尽な幽囚からの解放を勝ち取った冒険者だからではなく、幽閉中に示された日本人の露骨な憎悪の中においても、その行動を理解し、それを許すという理性的な公平さを示したからであろう。そして彼の観察と予見が、その後の歴史をみれば的確であったことが証明されたからでもある。また高田屋嘉兵衛とリコルドの人間としての相互のレスペクトと信頼関係が問題の解決に繋がったという、彼らが我々に残した教訓にも学ばねばならないだろう。国と国の関係は人と人との関係によって規定される。


5)ロシアというパラドックス

それにしても、こうしたゴロヴニンやリコルドのような、啓蒙主義的知性を備え、「公平な観察者の目」を持ったロシア人のイメージが、この200年でなぜ消え去ってしまったのか。いや、日本人にとってレザノフの部下による理不尽で残虐な事件による負のイメージが200年も歴史観の基層に巣食い、このゴロヴニンにような「目」を日露両国の人々が共有することなく、不信感と憎悪を修正できなかったのは何故なのか。歴史的には、明治維新の後に、いみじくもゴロヴニンが予見したとおり、いやそれ以上に日本が軍事的大国として成長し、ついには暴発して世界平和の脅威になったことにも原因があるだろう。また、ロシアの伝統的な南下政策という領土的な野心に加えて、ロシア革命による共産主義国家ソビエトの登場が世界平和の脅威となったことも原因であろう。また、日本人がかつて経験した「受け入れ難い体験」を忘れることができないからかもしれない。今でもソ連に不法占拠された北方領土問題(まさにゴロヴニンもリコルドも日本の領土だと認識していた島々)が解決していないことにも原因がある。日露両国は隣人ではあるが、残念ながら真の友好国になったことはない。しかし、そんな政治的緊張関係や歴史の記憶もさることながら、ロシアにおいては帝政ロシア時代に花開きつつあった西ヨーロッパ的な啓蒙主義の思想や文化や、デモクラシーの萌芽、そうした教養を備えた人物が十分に育たず、あのロシア革命で抹殺されてしまったのではないだろうかと、最近考えるようになった。ゴロヴニンやリコルドのような人間はどこへ行ってしまったのか。あの頃は軍人の中にもこういう人物がいたではないか。トルストイやドストエフスキー、チャイコフスキーのようなヒューマンでおおらかなロシア人はどこへ行ってしまったのか。国家としての過ちを認め、皇帝が謝罪するロシア。そういう観点で振り返ると、ロシア革命は何をなしたのか?何を失ったのか?スターリンのような独裁者と恐怖政治を生み出しただけか?その結果、近代民主主義国家が共有する「共通の価値観」を共有できない国家になってしまったのではないか。さらにその「共産主義革命」という歴史的な実験の破綻が、近代民主主義国家に転換する事に繋がらず、歪(いびつ)な社会と価値観を生み出し、再びプーチンのような怪物が登場することになってしまった。嗚呼!大ロシア主義。時代錯誤と笑い飛ばすにはあまりにも悲劇的であろう。ロシアにとっても世界にとっても。ロシア帝国海軍士官ゴロヴニンは今のロシアと日本と世界を見てなんと言うだろう。


参考ブログ:

日露戦争奉天会戦のクロパトキン将軍による「敗軍の将、兵を語る」書。この敗戦を記録し、後世のために残したロシア軍人の矜持。そして、当時のロシアはこのような出版ができた国だった。ロシア革命の8年前のことであった。

2022年3月21日 戦争の只中に「敗軍の将兵を語る」書と遭遇する





第一巻 表紙
英訳第二版 1824年


第三巻 日本観察記

第三巻 「フヴォストフ&ダビドフ航海記」
文化露寇事件の当事者による記録


参考図書:

「日本幽囚記」ゴロヴニーン 井上満訳 岩波文庫 (絶版)

「日本幽囚記」ゴロヴニン 斉藤智之訳 私家本

「菜の花の沖」司馬遼太郎 文藝春秋



2023年1月25日水曜日

(続)古書を巡る旅(29)アダム・スミス全集 〜理念と秩序なき現代資本主義に警鐘を鳴らす(つづき)〜

モノ言わぬ黒い集団はどこへ向かっているのか?




時空トラベラー  The Time Traveler's Photo Essay : 古書を巡る旅(29)アダム・スミス全集初版 〜理念と秩序なき現代資本主義に警鐘を鳴らす〜: アダム・スミス肖像と全集表紙 Adam Smith (1723~1790)のサイン  年末に、貴重な古書を手に入れることができた。アダム・スミス全集5巻の初版本だ。1812年、スミスの死後20年ほど後に出版されたものである...


前回ブログでのこの著作を巡る考察の続き...

「神の見えざる手」「自由放任」の前提としての「他者への共感力を持つ人間」「公平な観察者を胸中に持つ人間」という理解は、「理念と秩序なき資本主義」「欲望の資本主義」の問題への答えを導き出してくれるのか?


論点1)新自由主義経済への批判と反省

ミルトン・フリードマンのマネタリズム、金融資本主義、市場原理主義が導いた「新自由主義経済」。7〜80年代に始まるサッチャリズム、レーガノミクスなど、すなわち小さな政府、規制緩和 民営化 市場競争促進をキャッチフレーズとした政策を打ち出し、経済の低迷に苦しんだ英国病を克服したイギリス、金融資本の全盛、双子の赤字(財政赤字、貿易収支赤字)を克服したアメリカで、すっかり時代の潮流をうみだした経済政策となった。日本も、戦後経済の高度成長を支えた官主導の「護送船団方式」と言われる独特の「資本主義」から脱皮して、規制緩和、民営化、市場競争促進を推し進めた。まさに「レッセフェール」「神の見えざる手」の原点に帰れ!と。これは戦後の経済復興期のケインジアンモデルに依拠した修正資本主義、福祉国家政策(雇用重視、ゆりかごから墓場まで、公共投資、国営化、大きな政府)への反動であった。また、その後のソ連の社会主義実験の崩壊が一層それを確信させた。この「自由化政策」は、さらに企業活動の多国籍化、生産活動の国境を超えた水平分業、サプライチェーンのボーダレス化という経済のグローバル化へと突き進んだ。続いてきたデジタル革命の進行で、情報が瞬時に世界を駆け巡る。情報が価値を生む。情報を制するものが経済を制するという新しいパラダイムへ転換していった。

資本主義の世界は産業資本主義から金融資本主義、デジタル資本主義へと激しく変化していった。すなわち 富の源泉が労働からマネーへ、さらに情報へ。その一方で、トップ1%の富裕層が全体の富の30%を保有する社会を生んだ すなわち超格差社会と化してしまった。それが社会の分断を生む。「持てる者」と「持たざる者」「AIを使う者」と「AIに使われる者」という分断化が進む。マルクスやエンゲルスが言う「階級闘争」、「持てる者」から生産手段を「徒手空拳のプロレタリアート」が奪い返すという形での問題解決は失敗したが、それに代わるものは生まれていない。さらに経済のグローバル化に伴い国内産業の空洞化 サプライチェーンの地政学的なリスクという脆弱性にさらされ、働き方の多様化という名のもとに非正規雇用の増大。ますます格差が広がった。産業資本主義からデジタル資本主義への転換に失敗しただけでなく、そこには秩序とルールが確立されていない混沌とした状態が続いている。すなわち「利己的」で「強欲な」資本主義が生まれる。こうして沸き起こる新自由主義経済政策への批判と反省。さらにはアダム・スミスの資本主義は不完全で間違っていると言う批判まで生まれてきた。果たして間違っていたのだろうか。


論点2)ケインズが再評価される?

こうした中、かつて批判されたケインズが再び脚光を浴びているという。ではジョン・メイナード・ケインズはどのように資本主義の抱える問題を解決しようとしたのか。分配の公平性と秩序の保証が求められるようになった時、政府の役割を見直す動きが出て来るのは不思議ではない。市場の自由競争にだけ任せるのではなく、リスクのソーシャリゼーション社会的分担、競争のルール作りという政府の役割を再評価し、かつ社会的投資の重要性、すなわちイノベーション=民間投資+公共投資 と考える。すなわち経済のビルトイン・スタビライザー」は「レッセフェール」「神の見えざる手」だけでは不十分で、公益・公共善・公共の福祉の視点からの政府の調整、公共投資が必要だという。戦前のアメリカ金融恐慌後に登場したルーズベルトのニューディール政策や、戦後のケインジアンモデル、「ゆりかごから墓場まで」の福祉国家政策がそれである。

確かに今、資本主義は、経済膨張(expansion)の時代の市場競争による効率性と成長率優先から、持続可能(sustanable)な社会、事業の発展へとその基本的な価値観が変移してきている。個人的な利益追求が、社会全体の利益につながるには、共通善、公益の実現が伴わなければならない。すなわち分配の公平性、社会の分断ではなく協調が重要と考える。また、株主だけでなくステークホルダー(社会、顧客、取引先、従業員)に分配が行き渡ることが「公益」という、ステークホルダー資本主義へと広がりつつある。しかしそうした新しい事態にケインズが言う政府の財政出動による景気の刺激や、官主導の投資、富の再配分施策が分配の公平性や、持続可能な成長につながるのだろうか。個人の利益追求が社会全体の利益につながってゆくというダイナミズムは失われないのか。

社会主義的様相を帯びてきたケインズ主義政策への反動が、新自由主義を生み出したのだが、今度は行き過ぎた新自由主義が、再びケインズを叩き起こす。こうした輪廻転生する資本主義論争をアダム・スミスはどのように見ているのだろう。アダム・スミスは本当は何を語ったのか? 彼は、絶対王権や国家による重商主義への批判から始まった自由主義経済、「レッセフェール」「神の見えざる手」。労働価値説、個人の自由な経済活動が、社会全体の富を生み出すと言う考えを語ったわけであるが、しかし「利他的」で「他人への共感力」を持ち、「胸中に公平な観察者」を持つ人間の存在が前提となっていることを同時に語っている。また人間には「賢明さ」と「弱さ」があり、「賢明さ」は社会の秩序をもたらす役割があり、「弱さ」は社会の繁栄をもたらす役割がある。しかし「見えざる手」が十分に機能するためには「弱さ」が放任されるのではなく、「賢明さ」によって制御されなくてはならない。すなわち正義によって制御された野心、その下で行われる(フェアーな)競争だけが社会の秩序と繁栄をもたらすと言っている。皮肉なことに、こうした「利己的な」「制御されない」新自由主義への懐疑の中から、アダム・スミスの「国富論」の本当の姿は、これまでないがしろにされてきた「道徳感情論」の中に見出される、とする「再発見」がなされた(スティグリッツやムハマド・ユヌスなど)。理念も秩序も失った資本主義に対する批判と反省に対する答えを「新自由主義」か「ケインジアンモデル」か、という二項対立に求めるのは間違っている。そのどちらかしか答えがない、という思考の罠に陥るからだ。このようなアダム・スミス原点回帰の中から、新たな答え、資本主義像が見い出せるとの希望を持ちたい。


論点3)資本主義と民主主義の危機

そこへ登場するもう一つの危機。「真の民主主義があってこその資本主義」?という人類が到達したはずの「真理」が揺らいでいる。現代の世界にはアダム・スミスが聞いたら卒倒するような「資本主義」が生まれ、我が物顔でその存在の正当性を主張している。その第一は、共産党一党独裁の資本主義である。資本主義を否定し労働者が支配するはずの共産主義政党が最大の資本家となり、国営企業を所有し、経済をコントロールする。その支配は政治的には独裁的強権主義であり、選挙権もなければ言論の自由もない。経済的には党が支配し、労働者を搾取するし、失業者のいないユートピアではない。これはまさに歴史上の最大の論理矛盾である。その第二は、独裁者・治安機関と癒着した新興財閥による、いわば「ヤミ市」資本主義である。資本主義も共産主義も破綻した混迷の社会で、独裁者と、彼を支える秘密警察と怪しげな新興財閥(私的な軍事組織を持つ)が手を結んで労働者と資源を支配する。こちらは、経済、政治が未成熟で不安定な途上国で起こりがちな歪んだ資本主義もどきであるが、世界の民主主義と平和への驚異と直接つながっている軍事大国のそれである点が大きく異る。いずれも、民主主義体制を前提とせず、独裁的、強権的な統治機構と密接に結びついた国家資本主義である。むしろアダム・スミスが批判した絶対王権による重商主義的経済体制を彷彿とさせる。民主主義(Democracy)と専制主義(Autocracy)の対立が再び21世紀に出現した。

「民主主義が根付かないところに真の資本主義は育たない」。あの天安門事件の時に欧米の経済学者や政治学者が、鄧小平の改革開放路線の行く末への危惧表明と共に、共産党による民主化武力弾圧を非難して述べた予言は当たらなかった?今や世界第二の経済大国となり、さらに海洋進出、「一帯一路」世界制覇を目指す覇権国家の姿が今ここににある。しかし、「偉大なる中華民族!」「大ロシア主義!」といった時代錯誤で誇大妄想的なスローガン(昔どこかで聞いたことがあるだろう)を掲げる国の実態は、人民を蔑ろにした強権的支配と富の独占、そして戦争である。これがかつて帝国主義、ナチズム、ファシズムと戦った国の現在の姿である。それでも経済成長し富の再配分のおこぼれに預かっているうちは、人々は搾取されているとは思わない。マンションが買えて車が買えて海外旅行ができるなら選挙権も言論の自由もなくて良い、などと豪語させている。しかしいつまでも経済成長し続けることはできない。既に失業者が増大し、超格差社会を生み出しているというのに。これがほんとに「資本主義」なのか?少なくとも「利他的」で「人への共感力」を持ち「公平な観察者の目」を有した人間を前提にしているとはとても思えない。まして正義によって制御された野心、そのもとでのフェアーな競争とも思えない。


論点4)日本はどうする?

日本に近代資本主義は本当に存在しているのか? 西欧流の個人主義にかわる、日本人が得意な協調、協同、共助は現代の資本主義が抱える問題の解決策になるのか? しかしその前に、日本にとっては危機的状況の少子化対策の遅れ、人口減少が喫緊の課題である。日本人の海外永住も始まっている。日本という国は消滅するだろうと予言する文明論者さえいる。日本に提示された選択肢は、1)経済大国から経済小国へ。グローバル・エコノミーから撤退する第二の鎖国?縮小均衡。しかし資源のない国のそれは衰亡への道に他ならない。2)経済大国の復活。経済成長を目指すのであれば、まず少子化対策を早急に実行させねばならない。それができないなら移民や外国人を受け入れ労働力不足を補う必要がある。 二項対立の図式は人々の判断を誤らせるものであるが、いよいよこの二択に絞られてきたと言わざるを得ない所まで来ている。人口減少して繁栄した国は歴史上存在しない。「人」は国富。アダム・スミスが言うように、基本的価値と富を生む源泉は「人」そして「労働」。中国も人口減少へ転じたことが大きな話題になっている。他人事ではない。そのはるか先をゆく「失われた30年」の日本である。


論点5)「失われた30年」というが何が失われたのか? 

日本はこの30年、産業資本主義から金融資本主義、そしてデジタル資本主義への転換、あるは脱工業化に失敗し成長の機会を失った。AIやIT分野の成長力は周回遅れとなり、気がつくと「モノ造り」、製造業分野でもイノベーションを起こす力が無くなり、むしろ追いつけなくなってしまった。「成長戦略」という「お題目」だけは何度も掲示板に高く掲げられた「思考停止の30年」であった。すなわちこの間に本当に失われたのは、歴史に学び、来たるべき時代を想像する力、全体を見渡す俯瞰的視野、問題を直視して理解する力であり、そして・したがって 新しい社会システムを構想しデザインする力である。「人」の力が失われた。一方で、「空気を読む」という独特の思考様式が生まれた。それは主に「自己保身のため」である。「やむを得ない」「何かあったらどうするんだ」という責任回避的消極姿勢、そのうちなんとかなるだろうという「根拠のない楽観主義」が蔓延し、物事を決めない、意思決定しない、問題を先送りする「思考停止」状態が続いた。この30年の時間の空費は、「人財の払底」という取り返しがつかない損失を生むことになった。自分の頭で考え、新たな問いを生み出し、その答えを見つける力が失われてしまった。成り行きに任せ、自分さえ楽しく生きればそれで良い、という人ばかりになってしまったのか。

こうした先行きの見えない不確実な時代に、なお従来型の「欧米型先行モデルを追いかける」(幕末・明治維新モデル)、「過去の成功体験に固執する」(戦後高度経済成長、モノ作りニッポン、ジャパン・アズ・ナンバーワン)思考パターンに活路を見出そうとする。いっぽうで、失敗には学ばない(世界トップクラスの日本の半導体はなぜ30年後には消滅したのか?なぜデジタル化で周回遅れになってしまった?等々)。成功体験は時として進化の足かせになり、思考停止を生むことにもなる。不都合な「失敗」は無かったことにして封印する。「成功体験の呪縛」「失敗体験からの逃避」から抜け出て、自分で考えて新しい社会システムを構想し創造する力をつけなければ未来はない。日本古来から続く外来文化の「受容」と「変容」だけではもはや未知の時代を切り開けない、変化のスピードは速く、海外から輸入すべき先行モデルもないのだから。

そのためには教育が最重要。少子化対策で人口を増やすとともに、その人への投資が喫緊である。日本の大学の衰退など目を覆うばかりである。新自由主義的競争原理を大学経営に持ち込んだせいだ。科学研究費もアテにはできなくなり、研究者も大学教員も有期雇用の「非正規教員」ばかりで中長期に渡る研究などできなくなってしまった。研究開発だけでなく、新しい思考様式とインテリジェンスを持つ人材を育てなければその国は滅びる。「答えがある試験問題を解く力」、ではなく「自ら新たな問いに気づき、その答えを導き出してゆく力」を持った新しい人。あるべき姿を構想する力、人のやらないことを生み出す創造力、失敗を恐れず実行する突破力、失敗したら間違いを認めて撤退する勇気、責任取る勇気、再挑戦それを許容する社会。そしてなにより人間理解、他者への共感力を持った人が増えなければならない。政治においても行政においても企業においても、そしてアカデミアにおいても、とりわけリーダーにはこのような資質が不可欠だ。遠回りでも100年の計を持ってこれをやらなければならない。

また、政治も行政も企業経営も「資本主義」の意味を問いなおすことが求められる。まず、もう一度近代資本主義とはなんなのか学び直してみることだ。そして「資本主義的合理性」とはなにか?何が合理的(理にかなっている)なのか?分配の公平性、社会課題の解決、地球環境の保全、ソーシャル・イノベーション、ソーシャル・ビジネスを評価するなど、経済活動のパフォーマンス成果測定のベンチマークも変えてゆかねばならない。そこには日本人が得意な「道徳・経済合一」の思想が生きる新しい「利他的資本主義」が見えて来るはずだ。まさにアダム・スミスが容認するところの「徳への道」とともに歩む「財産への道」、フェアプレーのルールに則った競争である。

こうした論点、問いに対する明快な答えはまだない。ただ、「人」は資源であり豊かで幸福な人生は国富である。少子化対策と教育。時間がかかるが今から取り組むべきことはこれらに尽きる。

2023年1月11日水曜日

古事記の神話は「人の起源」をどのように語っているか? 〜葦原中つ国の「青人草」とは?〜


「葦原中つ国」の「青人草」

「豊葦原瑞穂国」の実り

これまで「初期ヤマト王権はどこからきたのか?」という問いに対する答えを求めて古事記を読んできた。その問いに対し古事記は「ヤマトは天上界(高天原)の神々が産んだ地上の島々(大八洲すなわち葦原中つ国)に、天照大神の子孫が降臨し、その子孫が天皇となって橿原の地で建国した国である」と答えている。7世紀〜8世紀初頭に編纂され成立したこの古事記は、1世紀〜3世紀の中国の史書(後漢書東夷伝、魏志倭人伝など)に記述されている、中国皇帝に朝貢し、冊封された倭の奴国や伊都国、邪馬台国の存在には一切触れず、その後5世紀の中国との通交の記録(倭の五王)にも言及していない。すなわち、朝貢・冊封により中国の皇帝に統治権威を保障してもらう東夷の国ではなく、もともと天神の子孫が日本列島に建国し支配してきた国である、と言っている訳である。このように古事記では、中国の史書に記述された歴史とのつながりには言及がなく、邪馬台国やその女王卑弥呼などとの系譜については一切語られず、それゆえに「初期ヤマト政権」という観念もなく、天地開闢、建国以来、現代(古事記編纂時)まで一貫して天皇の統治権威が大八州の隅々まで行き渡る国として語られている。そこには古事記の編纂の意図が明白に見えている。神話は神話であって、神話は伝承物語であり、それを文字にする時点で、歴史的な事実を記録するというよりは、神話に仮託してある意思や価値観を表明する文書となった。

古事記に記述されてる神話の起源についてはさまざまな説がある。古事記の神話には、南方海洋神話的なエピソード(穀物の起源:ハイヌウェレ型神話や、なぜ人間に寿命があるのか:バナナ型神話、海幸山幸など)や、大陸神話的なエピソード(穀霊神の降臨など)、さらにはギリシア神話(神々の系譜、冥界からの帰還:オルテウス型神話など)の影響も見られるので、日本列島に、人の流入と共に伝えられた伝承や神話をもとに、伝承され、記憶されて、それ等をもとに創作されたのであろうとも言われている。比較神話学の領域の話にこ、こではこれ以上は立ち入らないが。かつては、こうした外来神話の影響を受けた断片的な神話や伝承を集め、編纂したのが古事記の神話である、とする考えが主流であったという。しかし、一方で、7世末の天武・持統天皇の時代、天皇制、律令制整備による日本(ひのもと)建国と中国の朝貢冊封体制からの独立宣言、という時代背景を反映して、対外的、対内的な国家としてのアイデンティティーの表明の必要性にせまられたことから、一気に「建国ストーリー」が創出され、その後時間をかけて文書化して神話として編集されたものだと解釈されるようになった(日本古典文学全集「古事記」の編者の立場「成立論的神話」)。これが最近の通説だと言われている。天武時代の稗田阿礼の口承から元正天皇の時代の太安万侶による書き起こし献納まで40年ほどの時間をかけている。列島の外から伝来した多くの神話や伝承のストーリーも取り入れながら(おそらく漢文で記録されたものがあったのかもしれない)、それを和語で口承し、さらに「漢字の音を借りた和文」で文字に書き起こすプロセスがあり、その時点である意思を持って創作、編集されたものであろう。いずれにせよ客観的な歴史書というよりは、天皇支配の正当性を確定させる、そういう時代の要請を色濃く反映した政治的な宣言の物語として読むべきであろう。ここまではこれまで見てきたとおりであり、古事記に初期ヤマト王権のルーツや、邪馬台国などとの繋がりを解く「歴史的な事実」を見つけることができなかった。2020年5月8日「初期ヤマト王権はどこから来たのか(第三弾)古事記

今回は「問い」を変えて、別の視点で古事記を読み直してみよう。古事記の神話は、これまで見てきたように国土創成(国産み神話、大八洲の起源)や、「天皇」の起源と統治権威の源泉、それに連なる天上界、地上界の神々の系譜については延々と語られているが、「人間」すなわち「ヤマトの民」の起源についてはどのように語られているのだろうか。「人間はどのように創造され、何処より来たりしものか」という、世界の神話に共通の人間創生譚を古事記はどう語っているのだろうか。例えば旧約聖書・創世記では「絶対神ヤハウェが土塊を固め、神の形に似せて人間を作り、その鼻から命を吹き込んだ。この最初の人間がアダムで、その肋骨から作られたのがイヴである」としている。これに相当する人の起源ストーリーは古事記にあるのか。また、旧約聖書では絶対創造神の存在を語っているが、そのような創造神は古事記に登場するのか。答えを先に言うと、古事記の神話は「人」の起源についてほとんど語っていない。また「ヤマトの民」の出自についても語っていない。古事記の神話はあくまでも「神」についてしか語っていない。しかもそれは唯一絶対神ではなく、まさに八百万の神々なのである。そしてそれは、国家の創建者にして統治者である天孫たる天皇の由来、それに連なる支配一族、氏族の神々のルーツに関してであり、「支配の客体」としての人・民についての説明はない。換言すれば、神の「被創造物」としての人間という観念が認められない。

差はさりながら最近の研究では、古事記の神話の最初の部分で、「人」の起源についての言及があるとする。それは「現(うつ)しみの青人草」とする言葉で語られているという(三浦佑之氏の古事記論)。すなわちこの世の「人」は「青々とした」「草」として登場するという。この話は、イザナキの黄泉の国訪問の神話の以下の部分に表れる。すなわち、

 イザナギが黄泉の国から逃げる帰る途中、地上界への出口で追いかけてくるイカヅチたちに桃を投げて撃退した時(桃には呪力があると考えられていた)、桃に感謝して「これからはその呪力で葦原中つ国の命ある青人草(すなわち人、民)の苦難を取り除いてくれ」と叫ぶ場面である。また、さらに追いかけて来るイザナミを、イザナギが千人力でしか動かせない大きな岩で阻んだ時に、イザナミが「これからは地上界の人草(人、民)を毎日千人殺す」と叫ぶと、イザナギが「それなら人草を毎日千五百人産むための産屋を建てる」と応戦した話が出てくる。こうして人間は(草であるから)いずれ死ぬ(枯れる)。しかし死ぬ数よりも、生まれる数のほうが多い。個としての人間の命には限りがあるが、種としての人間は生き続けるとする認識が表明されている。これはある意味、国の発展は人口の増加がその源泉であり、「人=青人草」は資源であり国富であるという認識が建国神話で示されているわけである。これを現代に置き換えて省みると、少子高齢化で人口減少が止まらない現代の状況を今の為政者はどう考えているだろうのか。

その話は別途するとして、この「青人草」は、もとは漢籍からの引用であると考えられており、青は生命力あふれるという意味で、人を草になぞらえるのは、「蒼生」「民草」、あるいは「草莽の士」と言う言葉のルーツとも言われている。古事記にも漢籍の影響が現れる例の一つともされる。しかし、既述のように、古事記は国土や天皇、その統治権威、その寄って立つべき天界、地上界の神々の起源を説くことに終始しているのであるが、その国家の重要な構成要素たる人・民に関する起源を「草」であるとするその心は何なのだろうか。このイザナギの言葉で語られる「青人草」、すなわち草に例えられる「人」の起源は、さらにその前の、神話編序章「天地初発」の高天原の三柱の神の次に登場する、大地(地上界)がまだ未熟な状態(どろどろで水に浮かぶクラゲのような)のときに生まれた一柱の神、宇摩志阿斯訶備比古遅神(うましあしかびひこぢ)に求められるとする(前出、三浦佑之氏の古事記論)。この神は「泥の中の葦の芽から生まれた尊い男神」という意味であるが、この「葦の芽」から生まれた神こそが「青人草」、すなわち「人」のルーツとなる神であると解する。このような「泥の中から芽吹く葦」に喩える人間の生命の観念は仏教思想に言う「輪廻転生」の影響とも考えられるが、むしろ、芽吹き、成長し、繁茂し、枯れるという自然界の流れ、個体は死んでも種は生き続ける、循環する生命、という自然界の摂理が観念の基底にあると考える。興味深い解釈であると思う。そしてこの「人」は、「万物の創造主」のような誰かが「創造」したり「生み出」したりしたものではなく、自然に「成る」「生える」生命として表されている。旧約聖書・創世記の人間は「土塊」から創造され、創造神が鼻から命を吹き込んで人間になったが、古事記の人間は泥に芽吹く「葦」であり、はじめから命を宿している。ある意味、対象的な人間観である。この砂漠と岩山という環境から生まれた発想と、温帯モンスーン地帯、稲作文化から生まれた発想の違いも面白い。

このように古事記の神話では「人」を「葦の芽」「草」に例えて登場させているわけであるが、そもそも天上界「高天原」に対する地上界を「葦原中つ国」、すなわち葦の生い茂る国(水稲農耕を彷彿とさせる)と形容することから、人間をそこに生える「草」すなわち「葦」あるいは「稲」に喩えるのも腑に落ちる。万葉集では日本を「豊葦原瑞穂国」という美称で呼んでいる。これは先史時代に大陸から伝来した稲作農耕文化を前提とした(弥生的な)ヤマト国家のかたち、社会観念の反映であったとも考えられる。また自然に対峙して、これを克服、征服することで生きてゆくという生命観ではなく、人の命もその一部として「成り」、その自然の摂理を受け入れ、自然と共生して生きてゆくという生命観である。古神道の宇宙観は「一木一草に神宿る」「八百萬の神々」という自然神信仰であり、自然の存在そのものに霊力を感じ、それに身を委ねるという観念。これらが神話の基層に佇むのも温帯モンスーン的農耕文明の反映なのだろう。絶対創造主のような主体が「作った」ものではなく、自然に「生えた」「成った」ものという観念が日本人の創世神話の古層にある、と考えたのは丸山眞男である。この「作る」主体を持たない「成る」という考え方、繰り返し続いてゆくという「不断に成り行く世界」という観念が日本人の歴史認識の底流として存在するというわけである。一方で、主体的に物事を決めない。融通無碍に決まったことを受け入れてゆく、「成るに任せる」という日本人の思考回路がここから来ているのだとすると、「自然の摂理」や「循環する生命」を受け入れる「美しい生き方」、などと言って喜んでばかりはおれまい。従順な「民草」でなくて「草莽崛起」を唱え主体的に行動したあの維新英傑の思想ももうひとつの日本人の思考様式であり、それを思い起こすべきと考えるがいかがであろう。

少し話題が変わるが、古事記でも、先述のように、人(青人草)の命は永遠ではなく、寿命があると認識されている。生と死は一体のものであるという死生観も示されている。これにはヒンズー教や仏教の「輪廻転生」という考えかたの影響があることも否定できないだろう。しかし、世界の神話の中には「何故人は死ぬようになったのか?」という、その起源を語るものがある。インドネシアに伝わる、いはゆる「バナナ型」神話と言われるものもその一つである。すなわち、「人間が、最初に天から与えられた食べ物は、石であった。ある時、天から石ではなくバナナが降りてきて、人はそれを食べた途端、こちらの方が美味しいので、これからは石ではなくてバナナを!と求めた。すると神は、それではこれからはバナナを食べ物とせよ。そのかわり人間は、石のような永遠の命を得ることはできない。バナナと同じように限りある生命を持つことになる」と。この話、どこかで聞いたことがあるだろう。そう、古事記にも見られる。曰く、天孫ニニギが、高天原から葦原中津国に降臨し、地上のオオヤマツミの娘、コノハナサクヤヒメに求婚する。オオヤマツミはたいそう喜び、姉のイワナガヒメと共にニニギに嫁がせた。ところがニニギは、醜いイワナガヒメを送り返して、美しいコノハナサクヤヒメとだけ結婚した。これを悲しんだオオヤマツミは「イワナガヒメは岩のような永遠の命を保証する。しかし、これを送り返したということは、コノハナサクヤヒメの花のような儚い命だけを受け入れたということだ。これで永遠の命が与えられることは無くなった」と言った。ここでは「人」ではなく「天皇」は何故神の子なのに死ぬのか?という話に置き換わっているが、まさに「バナナ型」神話が取り入れられている。このように神話には、不思議なことに世界で共有されるストーリーが見られ、古事記の神話もその例外ではないことがわかる。「バナナ型」神話が日本列島にどのように伝わり、共有していったのかは明らかではないが、7〜8世紀の日本人の記憶にもあったのだろう。古事記の編纂者はこのエピソードを天皇起源神話に取り入れた。古事記を歴史書としてだけでなく、日本人の歴史の基層にある人間観、思想を読み解く書として、また世界史的な神話伝承の中に位置づけて読み直してみるのも面白い。


参考文献:

「古事記」神話から読む古代人の心 三浦佑之 NHK出版

日本古典文学全集「古事記」 山口佳紀、神野志隆光 小学館



2023年1月5日木曜日

古書を巡る旅(29)アダム・スミス全集初版 〜理念と秩序なき現代資本主義に警鐘を鳴らす〜


アダム・スミス肖像と全集表紙(1812年初版)

Adam Smith (1723~1790)のサイン


 年末に、貴重な古書を手に入れることができた。『The Works of Adam Smith:アダム・スミス全集5巻』1812年刊行の初版本だ。スミスの没後20年ほど後にロンドンで、初めて全集として編纂、出版されたものである。いつもお世話になっている神保町の北澤書店で「貴重な本が入りましたよ」というわけで見せてもらった。探していたアダム・スミスである。しかも、スミスの直系の教え子であるデュガルト・スチュアートのスミス評伝、書評付きである。ところが、残念なことに5冊とも外装がかなり傷んでいる。1、2巻の表紙は外れ、背表紙も無くなっているし、3巻以降もモロッコ革のタイトルが剥落して無くなっている。書店では改装してから店頭に出そうと考えていたのだが、内部は完全なのでこのままでも良ければ、と格安で譲ってもらうことになった。古書の保存という観点からは改装/バインディングし直すべきなのだろう。ゆくゆくは少なくとも補修をしなければならないだろうが、当面はオリジナリティーを重んじてそのままにしておくことにした。こうした歴史を纏った古書の扱いは実に難しい判断を求められる。素人が勝手に手を入れて古書の原初の佇まいを失わせてもいけない。修復、改装する以上は専門家の手を借りねばならない。時間も費用もかかる。かと言ってオリジナリティーを重んじると、脆弱になっている書籍を破損してしまう恐れがあり、頻繁に手にすることは憚られる。ジレンマだ。

アダム・スミスの著作には、これまでもなかなか出会うことがなく、いつかは、と念じたものだった。東大の図書館には、新渡戸稲造がロンドンで入手したという「道徳感情論」と「国富論」の初版本が収蔵されている(下記リンク参照)が、古書市場に出回ることは稀である。たまにネットに掲載されることもあるが、稀覯書として値札すらついていないのでとても手が出るものではない。今回、入手したものはスミス自身による上記二大著作の初版本ではないが、初めて全集として出版された貴重なものである。こうした書籍を紹介していただいた北澤書店には感謝である。しかし、こうして出会ってみると不思議なものだ。偶然といえば偶然の出会い。いや、必然といえば必然的な出会いかもしれない。現代の理念と秩序の欠落した資本主義。そういう危機的な状況に瀕しているこの時代、戦争と疫病と経済混乱に翻弄されたその2022年の暮れに、250年前のアダム・スミスがタイムスリップしてきて、「君たち、色々騒がしいようだが、私が言ったことを本当に正しく理解しているのか?」と問いかけてきた。この現世の混乱をあの世で見てられなくなってこの世に蘇ってきた。「原典に帰れ!」と言って、この5冊を置いていった。そう思いたくなるような出会いである。

この1812年初版の『アダム・スミス全集』には、スコットランド啓蒙主義を代表する哲学者の一人であるデュガルド・スチュアート:Dugald Stewart(1753〜1828年)によるアダム・スミスの評伝と書評が収録されている。スチュアートはグラスゴー大学でスミスに師事し、直接の教えを受けた後継者の一人である。のちにエジンバラ大学の教授として、またエジンバラ王立ソサエティーのフェローとして道徳哲学(Moral Philosophy)を教えた。スミス思想の普及者としの功績は特記すべきであろう。スミスの友人でよき理解者のデビッド・ヒューム(経験主義哲学)と共に後世に記憶されるべき人物である。本書に収録されている人物紹介と書評は、1793年にスチュアートがエジンバラ王立ソサエティーで講義したものである。

改めて言うまでも無いが、アダム・スミス(1723~1790)は「経済学の父(古典派経済学の父)」と言われている。経済学(Political Economyと呼ばれていた)という学問を生み出した人物とも評されている。我々現代人は経済学という学問領域が存在していることに何の違和感も感じないが、この頃は大学に経済学という科目はなく、彼も経済学者ではなかった。アダム・スミスはグラスゴー大学では倫理学と道徳哲学を教えた。彼の道徳哲学者としての源流をたどれば、友人であるデビッド・ヒュームからハチソン、シャフツベリー伯爵(アンソニー・アシュリー・クーパー)という啓蒙主義を代表する思想家へと遡ることができる。さらには経験論哲学のフランシス・ベーコン、自由主義の父のジョン・ロックに行き着く。経済学は倫理学と哲学から生まれたのである。そういう意味ではスミスは最初の経済学者となったと言うべきかもしれない。その成り立ちと思考のプロセスは彼の著作を読むことで理解できる。彼はまず1759年に道徳哲学の論文として「道徳感情論」:The Theory of Moral Sentimentsの初版を著した。以降、これは何度も修正、加筆が重ねられ、1790年の第6版まで改訂追補された。そしてその論考の過程の中から1776年に「国富論」(あるいは「諸国民の富」とも訳される):An Inquiry into the Nature and Causes of the Wealth of Nationsが生まれた。スミスは「道徳感情論」の第6版の序文で、これに盛り込めなかった考察を「国富論」で実現できたと説明しており、一方で「道徳感情論」の改訂版へのフィードバックも見て取れる。このように両著は、一体で不可分の道徳哲学論として書かれたのだが、後世に「国富論」は古典経済学の原典と見做される事になる。ちなみに時代はアメリカの独立宣言(1776年)、フランス革命(1789年)と激動の時代であり、科学の時代、産業革命勃興期である。これらがスミスの思想に与えた影響は大きい。

この『アダム・スミス全集』は原著の出版年代順に合わせて、まず第1巻には「道徳感情論」が掲載されている。ただ掲載されている版はその最終版、すなわち第6版(1790年)である。そして2〜4巻が「国富論」である。大部の著作である。最後の5巻が、そのほかのスミスの哲学論文集と、スチュアートによるスミス評伝/書評となっている。この順番には大きな意味が有ることを理解する必要がある。後世の人は、この順番を間違えてスミスを理解する、すなわち「国富論」が主論文で「道徳感情論」は付随的な論文である、あるいは「国富論」のみを読んでスミスを理解する、という過ちを犯しがちである。確かに「道徳感情論」が顧みられない時期があったが、今では、先述のように、この「道徳感情論」こそがいわば本論であり、そこから「国富論」が生まれたとの評価となっている。この理解が重要である。その理解の欠如がスミスの説く古典経済学理論を正しく理解せず、ひいては現在の資本主義の混乱を招いていると言っても過言ではない。

まずスミスは「道徳感情論」で、そもそも人間とは、自分のことしか考えない利己的な存在ではなく、他人に対する「共感」(sympathy)を持つ存在である。「利己的」ではなく「利他的」に行動する存在であり、故に「社会的存在」(social being)であると。ということは、すなわち個人は自分が所属する社会で一般的に通用する「公平な観察者」(impartial spectator)を胸中に形成し、それによって行動する。これが正義と社会秩序の土台となる。また人間は「賢明さ」と「弱さ」の両面を持つ。「賢明さ」は心の中の「「公平な観察者」の判断に従って行動することであり、社会秩序の基礎をなす。「弱さ」は自分の利益や世間の評判を優先させて行動することであり、社会の繁栄を導く原動力になる。しかし、「弱さ」は放任されるのではなく、「賢明さ」によって制御されなくてはならない。制御されない財産形成という野心や利潤獲得競争は社会秩序を破壊し、結果として社会の繁栄を妨げる。またなぜ人間は財産や地位に固執するのか。それは世間の賞賛と尊敬が与えられるからだ。それが、他人の目を意識するという「社会的存在」たる人間の「賢明さ」でもあり「弱さ」でもあるとした。そして次の論考「国富論」はこの人間理解から出発している。「国富論」をより正しく理解するためには、この「道徳感情論」こそ、よりよく熟読玩味すべきであろう。

次にスミスは、「道徳感情論」で述べたような、そうした性質を持つ人間、すなわち「社会的存在」としての個人が「公平な観察者」という制約条件のもとに、自分の経済的利益を最大化するよう行動する。そういう個人の経済活動が、自由にお互いに競争することによって経済が発展する。そういう社会の仕組みを詳細に論考し「国富論」として著した。すなわち「国富論」は「道徳感情論」の思索の中から生まれた、いわばエクステンションとしての産物と言っても良い。元々は、次の論考を「法と統治の一般理論」とする予定であったが、これは未完となり「国富論」となったと言われている。ちなみにこの未完の原稿は、スミスの死の直前に彼の願いで焼却されてしまった。彼の友人の手元に残された一部の断片的な論文が「哲学論文集」としてこの全集に収録されている。ともあれ、「国富論」は重商主義的な王権や国家による経済活動の統制/介入や、金塊の蓄積、保護貿易を批判し、自由な個人の経済活動、自由競争市場こそが、高い成長と豊かで強い国への発展の源泉であると論ずる。さらに価値を生む源泉は個人の労働であるとする「労働価値説」に立つ。換言すると、「個人的利益追及行動」が「社会全体の経済的利益の増大」につながる。そして「レッセフェール」「神の見えざる手」(invisible hand)による市場調整メカニズムが働き価格が安定し、社会の発展と成長へと繋がるのだと。しかし、これは決して「利己的」で、強欲、無秩序な資本主義や経済活動を是とし、それが経済発展、国富増大の源泉であると説いているのではない。繰り返すが、「国富論」でスミスが前提としている人間は、「道徳感情論」で描かれている「他人に対する共感」を持ち「利他的な行動」をとることのできる「社会的存在」である人間、「公平な観察者」としての制御ができる人間であることを思い起こさねばならない。この前提を忘れた「国富論」読みは「論語読みの論語知らず」となる。

こうしたスミスの二つの著作への再評価は、まさに現代の資本主義が抱える問題への反省と、課題解決への取り組みの中から生まれてきた。スミスは決して「欲望の資本主義」の教祖ではないし、彼の論理が間違っていたわけでもない。これを日本に当てはめて考えてみると、渋沢栄一の「道徳/経済合一」主義である。渋沢がここへ来て思い起こされるようになった時代背景と共通するであろう。彼の場合は論語的な道徳観であるが。道徳、倫理を忘れた経営者、政治家ではダメだということは、スミスも18世紀末にはすでに唱えていたわけで、スミスの「道徳感情論」を渋沢栄一も読んでいた。彼は講演の中でスミスの言葉をを引用している。このスミスと渋沢の原点が忘れられてきたことへの反省が今湧き起こってきたとも言える。そして哲学的、倫理的視座を持たない、すなわち理念と秩序の観念の欠如したリーダーに説得力あるビジョンは語れないし、正しい富の創造もできない。リーダーと言われる人々が大好きな歴史を語って見せても(戦国武将や維新の英傑をロールモデルに準えてみても)、「歴史的な想像力」を働かせる能力が涵養されなければ、その歴史に学ぶことも叶わぬ。。日本の高等教育に欠けているのはコンピュターサイエンスやデータサイエンスなどの教育や、起業マインド醸成や金融、財務、法務知識だという人がいるが、そのような「パンのための学問」(Brot Wissenschaft)、「問題解決型学問」いや「諸科学」(Sciences)の前に、「哲学」(Philosophy)の素養が忘れられているのではないか。「広い視野」「高い目線」と「深い洞察」が養われていない。何よりも「人間への理解」が欠如している。そちらの教育が先じゃないか。アダム・スミスも渋沢栄一もそれを教えている。「総論あって各論なし」というが、むしろ「各論あって総論なし」では無いのか。日本の先人には論語の素養という重要な徳育科目があった。西欧の先人にはキリスト教的な倫理、道徳から止揚した啓蒙主義、近代合理主義という素養があった。その根底にはギリシア語、ラテン語の古典素養があった。その上での経済であり、政治であり、法律であり、科学技術であった。アダム・スミスをただ自由放任主義(レッセフェール)を唱える「国富論」を書いた古典経済学の祖と捉えるだけでは、こうした哲学という基盤の上の経済思想であることを理解していないことになる。繰り返すがスミスは啓蒙主義の倫理学者、哲学者であった。「資本主義的合理性」とは何か。もう一度考え直してみる必要がある。

さて、アダム・スミスの贈り物をじっくりと研究し直してみるとしよう。またしても日暮れて道遠しではあるが。暗い夜道はやるべきことが多くて忙しい。それもまた結構結構。ただその前に、この全集の装丁の修復、改装を行わなければならないだろう。

参考ブログ:2020年の年頭に書いたブログで、SDGsの提唱者の一人で社会問題解決の理論と実践でノーベル平和賞を受賞したモハメド・ユヌス博士の、ソーシャル・ビジネス(社会事業)について述べた。ユヌス博士は彼の著作「三つのゼロ」の中で、アダム・スミスの再評価と資本主義の再定義を提唱している。実践する社会事業家である経済学者の理論はまさに傾聴に値する。2020年1月6日「欲望の資本主義」の行く末 2020年年頭の妄想を参照することをお勧めしたい。



アダム・スミス全集5巻
1、2巻は背表紙が欠損している。3〜5巻もタイトルが剥落している。
外装はかなりの痛み具合だが、中はしっかりしている。


「道徳感情論」(初版1759年)表紙

「国富論」(初版1776年)表紙


Dugard Stewart による人物評/書評

Dugard Steward (1753~1828)


東京大学経済学図書館・資料室デジタルミュージアムに
スミスの「国富論」初版本など、貴重な蔵書が展示されている。

リンク:東京大学経済学図書館・資料室デジタルミュージアム



参考文献:「アダム・スミス 『道徳感情論』と『国富論』の世界」堂目卓生著 中公新書

                    「アダム・スミス 自由主義とは何か」水田洋著 講談社学術文庫



2022年12月26日月曜日

年の瀬に山上憶良を憶う 〜「万葉集」 記紀が描かなかったもう一つの歴史〜



大宰府の山上憶良「子等を思ふ歌」歌碑

大宰府坂本八幡宮
大宰帥大伴旅人居館跡


この頃は、夜寝るときにNHK ラジオの聴き逃し番組を聴きながら寝る。これが結構ためになる。色々興味深いテーマで番組が構成されているのでどれを聴こうか迷うほどだ。聴き始めると、面白くなってなかなか眠りに入れないのが難点か。皮肉なことにオールドメディアと化したと言われて久しいラジオが、ネット時代だからこそ新たなメディアとして再登場していることが新鮮である。特に、最近の長編シリーズである「古典購読」鉄野昌弘氏の「歌と歴史でたどる万葉集」が大変が面白くて毎週楽しみに聴いている。以前から、万葉集は文学作品なのか、歴史書なのか、という問いを持っていたが、鉄野氏は、その両方の視点から解説してくれていて、万葉集を歴史書として読む楽しみを教えてくれる。詠人は、それぞれの心情や視点を持った生身の人間でありその歌の中にその時代の世相や個人的な思いが反映されている。古事記や日本書紀のような為政者の視点で編まれ、登場人物の個人の視点や心情が表現されない「正史」とは異なる点だ。詠人は、初期の頃は天皇や皇子達、それを取り巻く専門職であった宮廷歌人であるが、時代を下るに従って、天皇行幸などのイベントで歌を作るプロの歌人ではなく、普通の生活の中の官人や庶民になってゆく。これは大伴旅人やその子の家持が万葉集の中心になる頃からそういう傾向が強くなってゆく。特に巻の五の大宰府における旅人を中心とした大宰府官人たちの「筑紫歌壇」の歌は、これまでの「大和は国のまほろば」とか「やすみしし我が大王」といった王朝讃歌のようなキラキラトーンではなく、カッコつけない官人達の本音が歌われているし、歴史書からは見えてこない地方の実情が鮮明に描かれていて面白い。中でも山上憶良の歌は、官人、貴族には珍しく庶民の生活心情に目を向けた社会派の歌が多く異色である。歴史書には、その時代に生きる個人の生活や心情が反映されていないものだが、万葉集は、そういう意味では歴史の担い手であった貴族や官人による文学書であり、庶民を含む私人が登場する異色の歴史書であると言って良いだろう。

山上憶良は筑前守(ちくぜんのかみ)であり、官位は従五位下である。中納言大宰帥(だざいのそち)大伴旅人(正三位)の部下である。叙爵されているとはいえランクの高い貴族とはいえない。旅人が大納言(従二位)として出世して都に帰任したのに比べ、憶良は筑紫国守の任を終えて奈良の都に帰任した時には、官位が上がることなくリタイアーして、やがて世を去っている。まるで現代のサラリーマン人生を彷彿とさせ、そこに共感を得る人も多いのではないか。私もその一人である。いわば、福岡市店長を最後に地方単身赴任から解放され、本社に戻るとともに定年を迎えてリタイアーした、という現代のサラリーマンのキャリアパスに似る。彼の出自ははっきりしていないが、百済系の渡来人の子孫であるとも、大和添上郡山辺あたりの豪族出身とも言われているがはっきりしない。決して身分の高い名門一族の出ではなく、生活も豊かではなかったが、それでも粟田真人の推挙により遣唐大使使節の一人に選抜され、官位のない身分のまま唐に渡った。いわばエリート出身ではないが海外留学経験を持つ。そこで律令や漢詩、仏教や儒教を学び、帰国後は宮廷に出仕し、東宮の教育担当を経て伯耆守として地方赴任した。都に帰ると首皇子(のちの聖武天皇)の家庭教師の一人として漢詩を教えた。続いて筑前守として再び地方へ下向する。中央の高級官僚としてではなく、いわば地方官僚としてキャリアを積んだことになる。そうした知性と教養を具備した地方官僚としての憶良が万葉集の主役の一人として登場してくるところが面白い。ちなみに憶良は正史である続日本紀には冠位や伯耆国守任官など僅かな記録しかなく、筑前国守任官については記録されていないし、そのプロフィールに関する記述はない。万葉集のみにその名が残る官僚であった。

憶良は大宰府で大伴旅人(大宰帥大伴卿)と共に歌人としても活躍し、多くの漢詩や和歌を読んでいる。万葉集には憶良の歌は78首撰録されており、柿本人麻呂、旅人、家持などと共に主要な万葉歌人の一人してその名が記憶されている。筑紫においても旅人と双璧をなす、いわば「筑紫歌壇」の中心人物と言って良いだろう。元号「令和」の起源となった巻五の「梅花の宴」も実際には憶良が旅人に代わって読んだという説を唱える研究者もいる。その歌風は、天皇を寿いだり、官人として天下国家を歌ったり、というよりは、筑前国守として地方行政に携わる中で見聞きした庶民の生活や心情、地元の説話を読んだものが多い。また、大宰府官人達が共通に持っていた「早く都に帰りたい」や、出世への執着、都への憧憬についても包み隠さず歌っている。そもそも「歌」というものが朝廷や官僚達にとって重要な文書行政手段であったわけだから、都からやってきた使者や、都に戻る同僚などに託したメッセージとして読まれたとしても不思議ではない。

一方で、彼は儒教や仏教の影響を強く受けていたので、生と死、社会問題についての歌が多い。しかし、仏道に精進して現世の煩悩を解脱することを希求するといった歌よりも、むしろ煩悩に苛まれるリアルな人間を姿を歌っている。これは太宰府で読んだ有名な「子等を思ふ歌」に見事に表現されている。子どもへの愛情や執着は、仏教的には現世へのこだわり、煩悩であるのだが、それを恥じるのではなく、ストレートに「子供を大切に思う」心情を歌っている。また任地の筑前各地で歌った歌(嘉麻、松浦など)が多く収録されており、神功皇后の朝鮮出兵伝承にまつわる地元の祭りや、習俗を、煩悩を交えた庶民目線で歌っている。そして、奈良の都に帰って後に読んだのが「貧窮問答歌」である。里長(さとおさ)の呵責のない税の取り立てで虐げられる地方の庶民の生活や、貧困や災害、疫病にさいなまれる人々の苦悩を謳っている。これも我と我が身をモデルに、知性あふれる才能がありながら社会的には認められない貧者の目線を共有する憶良の人間性がよく現れている。こうした社会派の歌、個人の心情を赤裸々に表明した歌が採録されている万葉集という歌集の性格を見ると、初期の頃の官選和歌集、天皇讃歌の書としての万葉集が変化していった様子が見えて興味深い。一方で、旅人や憶良が大宰府に赴任していた頃は、都では「長屋王の変」が起き、朝廷における藤原氏一族の台頭が顕著になっていった時期である。憶良はともかく、名門一族大伴氏の長である旅人にとっては、その事件に関わることなく遠く太宰府に時を過ごし、一族の復権のために何もできないかったことの無念さを感じていた。そうした心情を滲ませた都思いの歌を読んでいる。そういう意味では、この時代の万葉集は、社会問題を地方の現場目線で描いている他、都を離れた地点から中央政界を遠望する視点を取り上げるなど、歴史を別の視座から描いた「歴史書」としての性格を持っている。初期の頃にはこのような個人の心情や社会情勢を歌ったものが少なかったのだが、いつの頃からか官選和歌集という性格から離れてゆく。万葉集には序文がなく、そもそも誰が撰者であり、編集者であったのかは今でも謎であるのだが、憶良の歌の登場がその謎の鍵を握っているようにも思える。大伴旅人の息子、大伴家持がのちに万葉集全体を編集し、新たな歌を撰録したとも言われている。そうかもしれないと思う。おそらく父旅人に伴われて下向した太宰府の大宰帥居館で家持は幼少の頃、憶良とも交流したはずである。家持の歌への想いと庶民への目線は、この時の憶良によってインスパイアーされたと考えてみるのは如何だろう。

私は山上憶良こそ万葉集最高の歌人ではないかと考え始めている。疫病や戦争、貧困や社会的不正義などに満ち満ちた一年が終わろうとしている。


参考:2019年4月13日のブログ「万葉集とは?〜文学書なのか歴史書なのか〜」



山上憶良の詠みし歌2首

「子等を思ふ歌」

瓜食めば 子供念おもほゆ 栗食めば まして偲しのはゆ 何処いづくより 来たりしものぞ 眼交まなかいに もとな懸りて 安眠やすいし寝なさぬ(『万葉集』巻5-802)

反歌

しろがねも 金くがねも玉も 何せむに まされる宝 子に如しかめやも(『万葉集』巻5-803)


「貧窮問答歌」

風まじり 雨降る夜よの 雨まじり 雪降る夜は 術すべもなく 寒くしあれば 堅塩かたしほを 取りつづしろひ 糟湯酒 うちすすろひて しはぶかひ 鼻びしびしに しかとあらぬ ひげかきなでて 吾あれを除おきて 人は在らじと 誇ろへど 寒くしあれば 麻ぶすま 引き被かがふり 布肩衣ぬのかたぎぬ 有りのことごと 著襲きそへども 寒き夜すらを 吾われよりも 貧しき人の 父母は 飢ゑ寒からむ 妻子めこどもは 乞ひて泣くらむ この時は いかにしつつか 汝なが世は渡る

天地は 広しといへど 吾あが為は 狭さくやなりぬる 日月は 明しといへど 吾がためは 照りや給はぬ 人皆か 吾われのみや然る わくらばに 人とはあるを 人並に 吾あれも作なれるを 綿も無き 布肩衣の 海松みるのごと わわけさがれる かかふのみ 肩に打ち懸け 伏いほの 曲いほの内に 直ひた土に 藁解き敷きて 父母は 枕の方に 妻子どもは 足の方に 囲みゐて 憂へ吟さまよひ かまどには火気けぶりふき立てず こしきには 蜘蛛の巣かきて 飯炊いひかしく 事も忘れて 奴延鳥ぬえどりの のどよひをるに いとのきて 短き物を 端きると いへるがごとく 楚しもと取る 里長が声は 寝屋処ねやどまで 来立ち呼ばひぬ かくばかり 術無きものか 世間よのなかの道(『万葉集』巻5-892)

反歌

世の中を 憂しとやさしと おもへども 飛びたちかねつ 鳥にしあらねば(『万葉集』巻5-893)