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2023年10月8日日曜日

博多総鎮守櫛田神社と博多町家 〜日本最古の都市 博多の歴史地区を歩く〜


博多総鎮守 櫛田神社


山笠


樹齢1000年の大銀杏


博多の歴史は古い。博多の地下を掘ると3mの地層のなかに、2000年の歴史の遺構が折り重なっている。弥生時代のムラ・クニ、倭の奴国、飛鳥時代の那の津、奈良・平安時代博多津、中世博多、室町戦国桃山時代博多黄金時代、太閤町割りの博多、黒田藩政時代博多が重層的に検出されるという。「博多遺跡」は世界にも珍しい2000年のあいだ人々が定住し続けた遺構がギュッと詰まった複合遺跡である。そういう意味では博多は日本最古の都市だといってよいだろう。しかし、長年、故郷福岡を離れ、いわば外から故郷を見ていると、福岡市民は、そんな福岡・博多の歴史をあまり知らない。そんな街に住んでいながら、博多っ子ほど新しもの好きで、これほど歴史や伝統的な景観を顧みない人たちも珍しい。伝統的な町並みは「再開発」「区画整理」と称して消え去り、歴史的な建築物は、古くなったと言ってすぐに壊して新しい建物に建て替える。福博の町は「なんとかビッグバン」と称したガラスとスチールのビルへの建替えが盛んだ。町は人口が増え、発展しているというが、世界の都市と比べると、これだけの歴史を重ねながら街の景観に、何処か趣や重厚感がないのはそのせいだろう。歴史と伝統的な建築物や都市景観を保存し、未来に繋ごうという試みが少ない。それを、「過去を振り返らない」「進取の気性に富んだ気質」などと自画自賛しているが、歴史に学ばない、先人のレガシーにレスペクトを持たないイノベーションなど、しょせんは泡となって消え去るのみだ。ちなみに私は福岡っ子であって、博多っ子ではない。那珂川の西の城下町福岡育ちで、東の商都博多の育ちではないからだ。「博多っ子」には、「江戸っ子」と同じどこか特別のプライドがあり、東京に住んでいるものが全て江戸っ子ではないように、福岡っ子がみだりに自称すべきではないと思っている。以前にも書いたが、現在の福岡市はかつての城下町福岡と商都博多のツインシティーなのだ。

実際に博多の旧市街を歩いてみる、日本最古の都市、2000年都市、博多も、昨今の発展著しい町には新しいビルが次々と立ち並び、その景観は、どこにでもある普通の都会のそれである。かろうじて碁盤の目の町割りに太閤割の痕跡が残っていて、それが山笠の「流れ」に生きているが、下川端、寿通り、は再開発でビルになり消滅した。「流れ」を歩いても江戸時代の商家や町家はおろか、明治、大正の建物すら残っていない。博多の町家はどこへ行ったのか。空襲で焼けた、というが、実際には戦後の高度成長期に区画整理や再開発で破壊されたほうが多い。この「太閤割」の基本的な都市構造は、太閤さんの本拠地、大阪の船場・島内の都市構造(筋と通りの碁盤の目状の町割り)を共有している。大阪の町も現代では大きくその姿を変えているが、それでも江戸時代、明治大正期の町家が現在でも道修町や北浜、上町筋、本町界隈には残っている。博多は、過去にもモンゴル襲来で町が焼き払われたし、戦国時代には大友、島津、大内の争いでまたまた町が壊滅し、太閤さんが再開発している。先の大戦ではアメリカの空襲で再び焼け野原になった。過去に度々壊滅的な破壊を受けており、博多っ子に歴史的建物を大事にする余裕がなかったとも言えるのだろう。そして近代化の過程で歴史へのレスペクトが薄れてしまったようだ。

駆け足で博多2000年の歴史を振り返ってみると、

弥生のムラ、クニ 奴国、伊都国 後漢書東夷伝に記録 阿曇族 大陸との交流

飛鳥、奈良、平安時代 太宰府による官製貿易 外港である那の津、鴻臚館貿易

平安末期・鎌倉時代、中世は私貿易 平清盛による袖の湊 謝国明などの博多鋼首、大唐街形成 元の襲来で壊滅も復興

室町時代〜江戸初期 明との勘合貿易で栄えるが、博多利権を巡る大内・大友・龍造寺、島津の争い戦乱で壊滅 太閤割(博多の再建) 神屋宗湛、嶋井宗室、大賀宗久、博多三傑が活躍 博多黄金の時代

江戸時代 鎖国で海外貿易は長崎へ 博多の衰退 黒田藩政下の博多へ

明治の廃藩置県後は、隣の城下町福岡と商業都市博多が合併し新しい市となる。市名は議会では一票差で福岡市となる。

アメリカ軍の空襲で町が焼ける

詳しくは、以前のブログ、2014年11月13日 日本最古の都市 博多をご参照願いたい。


櫛田神社

櫛田神社は博多総鎮守。博多祇園山笠、追い山の出発地点である。御供所町の聖福寺や東長寺、承天寺などの大陸伝来の中世の禅宗大寺院とともに博多のランドマークである。もとは肥前国神崎郡にあった平家が管理する荘園、神埼の庄の御神体を平清盛が博多津・袖の湊に勧請したのがはじまり。日宋貿易に力を入れた清盛は自ら大宰大弐の官職を望み、博多に袖の湊を築き、街の発展に貢献した。そしてその事業を代々継がせた。のちの太閤さんと共に博多の恩人だ。7月の「博多祇園山笠」は、櫛田神社の祇園社の祭礼で、博多を代表する祭り。疫病払いという点では、京都の祇園祭と同じルーツである。中でも「追い山」は「流れ」(町内)ごとの舁き山が櫛田神社を出発して、博多の町を周回して須崎の廻り止めにゴールする勇壮な祭り。また、10月には秋の大祭「博多おくんち」(長崎、唐津とあわせて日本三大くんち)も御神幸行列が盛大に執り行われる。博多といえば櫛田神社、と言えるほど博多っ子の心の拠り所となっている。


博多町家

櫛田神社門前に、博多の町家が並んでいる一角がある。「博多町家ふるさと館」と銘打った観光施設であるが、復元町家とお土産屋と展示施設の3棟で構成されており、櫛田神社と相まって、一種の「博多歴史地区」といった風情である。復元町家は、冷泉町に明治20年に建てられた博多織元の旧家(旧三浦家住宅)を移築したもので、当時の外観、間取り、内装、庭園、蔵を忠実に再現している。見事な白漆喰に重厚な瓦屋根、連子格子の商家建築である。建物の中は、手前から店、奥、機織り工房が並び、真ん中を「うなぎの寝床」の土間が貫いている。高い吹き抜けとむき出しの梁、裏には庭と蔵がある。典型的な京町家などと同様の構造だ。ただ、塀はいわゆる「博多塀」という独特のものだ。戦乱で焦土と化した博多を再建した太閤秀吉の区画整理事業「太閤割」のときに、瓦礫を利用して築かれた土塀が原型となっている。土塀に瓦や石がリズムカルに配された独特のデザインで、今でも町の何箇所かで再現されている。かつてはこのような町家が博多の町並みを形成していたのであろう。よくぞ復元してくれたと、関係者の努力に感謝する反面、このような町並みが失われ、テーマパーク然としてしか残せなかったことに悲しみを覚える。そう言えば、博多銘菓「鶴乃子」や「鶏卵素麺」の老舗「石村萬盛堂」の本店も、伝統的な町家建築(後述の写真参照)であったが、改築されて現代風のビルに建て替えられていた。この場所は、祇園山笠の追い山「廻り止め」(ゴール)であるので、多少は外見に博多の伝統を生かした作りを残しているが、これもまた寂しい限りだ。

今年3月に地下鉄七隈線が、天神南から博多駅まで延伸され、途中に「櫛田神社前」駅が新設された。天神からも博多駅からもアクセスが良くなった。駅コンコースに博多の伝統工芸品の展示ショーケースがある。博多人形、博多織、博多独楽、博多鋏などの著名作家の作品が展示されているのが嬉しい。博多の伝統文化が感じられる駅である。2000年年博多の痕跡を一つでも多く発見し、残し、保存修景してほしいものだ。


櫛田神社門前の「博多町家ふるさと館」


博多織元の旧家を移設、復元

博多旧市街を彷彿とさせる家並み

魔除けの猿


「うなぎの寝床」の土間

博多織の織機


漆塗りの豪華な内装



「博多塀」
人気漫画「博多っ子純情」の主人公たち




三階までの吹き抜け

今年3月開業の地下鉄七隈線「櫛田神社」駅

駅コンコースの博多工芸品ショーケース
博多塀があしらわれている

博多人形「黒田官兵衛と松寿丸」

博多人形「「菅原道真公」

博多献上

山笠っ子



在りし日の「石村萬盛堂」本店(同店HPより)
追い山「廻り止め」の計測結果が表示されている



(撮影機材:Nikon Z8 + Nikkor Z 24-120/4)

2023年10月6日金曜日

太宰府に幕末・維新史の痕跡を探す 〜オーバーツーリズムと歴史の町並み〜


太宰府天満宮楼門


本殿修復工事が始まり「仮殿」が設けられた





墓参で帰郷し、久しぶりに太宰府天満宮へ参拝した。太宰府といえば、この菅原道真公が祀られる天満宮で、福岡の、いや九州でも有数の観光スポットである。私は太宰府といえば、天満宮もさることながら、古代史ロマンの漂う都府楼跡、観世音寺、水城、大野城といった、太宰府政庁と条坊制の都城遺構、筑紫歌壇の万葉歌人に大きな関心を寄せるのであるが、今回は天満宮へ直行した。まずは本殿に向かう。檜皮葺の本殿は、令和5年5月から3年かけて、実に124年ぶりの大改修工事が行われており、すでに壮麗な本殿は工事用の覆いが掛けられている。天神様ゆかりの「飛梅」もその傍らにひっそりと佇んでいる。その本殿の前にユニークな仮殿が設けられている。楕円形の屋根を持つ現代的建築物で、一見、古式豊かな天満宮のイメージではない。さらにユニークなのは、その屋根に草木が鬱蒼と生い茂っているではないか。天神様のイノベーティブかつエコなご神威を表しているのだろう。不思議に神域にマッチした佇まいである。この仮殿は、大阪・関西万博の設計を担当する藤本壮介設計事務所の手になるものだそうだ。本殿改修が終わっても、残してほしいものだ。

大宰府は我が故郷でもあり、何度も来ているので、今回はなにか新しいテーマで巡ってみたいと思い、太宰府天満宮とその門前町の歴史的景観と伝統的建造物を探訪しようと考えた。特に参道の両側に連なる町家建築には以前から興味を持っていたものの、お土産屋街の雑踏を抜けて、早く天神様のおわします聖域に到達したい想いで、いつも急ぎ足に通り過ぎたものだった。帰りには、民芸品店を覗いたり、名物の梅が枝餅とお茶で一服したり、ゆっくりと参道散策を楽しんだが、伝統的な門前町の景観という視点で、じっくり眺めたことがなかった。しかし、そう思って改めて参道を見渡すと、その佇まいは、歴史の景観を今に残すというよりも、ごく現代的な観光客のニーズを満たすお土産屋街、飲食街になってしまっている。すくなくとも伝統的な町家建築の風貌を通りから確認することは難しい。いわゆる「伝統的建造物群保存地区」の指定はないので建物の改築も自由だ。最近はインバウンドが激増し、看板や案内板に簡体中文やハングルが踊り、韓国語と中国語が眼前を飛び交い、一瞬自分がどこにいるのかわからなくなるような感覚になっている。ツーリズム・カオスのなかでは、なかなかその「歴史的景観」の世界に浸るのは難しい。

そういう昨今の風潮の中、いくつかの町家建築は、残念ながら取り壊されてしまったが、仔細に観察すると天満宮参道には歴史的建造物の原型をとどめている町家がまだいくつも確認できる。一階の外見はすっかり店舗として改変されてしまっているものの、二階を見上げ、看板や外装を取り除いてみると、その基本的な切妻の町家構造は維持されている。しかも、最近では店舗建物の建替えに当たり、当初の姿に復元されたものもある。歓迎すべき傾向だ。ただ、残念なことに、その大半は参道沿いにお土産屋、飲食店、しかも最近流行りのファーストフード、スイーツ、キャラクターグッズを扱う店が幅をきかせている。懐かしい太宰府名物「梅ヶ枝餅」すら影が薄くなっている。ソフトクリーム舐めながら、飲み物飲みながら、立ち食いが横行し、スマホいじりながら、自撮り棒つきだしながら佇み歩き回る、品のない観光客に参道が占拠されてしまっているので、ここが歴史的な町並みだと気が付かない。

かつて天満宮参道には、有名な「梅ヶ枝餅」の香ばしい香りと、「お餅焼けてますよ」の掛け声があり、うれしいワクワク感を与えてくれたものだった。それに、昔ながらのお土産屋さんが軒を連ね、「根性」とかいたキーホールダー、ペナント、まんじゅう、せんべい、博多人形、太宰府参拝記念の手ぬぐいなどが「お土産」の定番であった。なぜか木刀が男の子の人気だった。その他にも、実はここは、書画骨董や筆、墨、和紙などの文房八珍を扱う老舗が軒を連ねていた。場所柄、天満宮の周辺には文人墨客の邸宅や別荘や書斎が立ち並んでいた。茶の湯も盛んで、和菓子の老舗も繁盛している。また、小石原焼、高取焼や古賀人形、久留米絣といった民芸品を扱う店も軒を連ねていた。参拝客向けの「梅ヶ枝餅」とお土産物だけの通りではなかった。一種の文化サロン、伝統工芸品のショーケース的な通りであった。しかし、気づくとそのような老舗は次々と姿を消し、かわりに観光客向けにキャラクターグッズを扱うお土産屋やカフェ、ファーストフード店に変身しているではないか。文人墨客に愛される店は無くなってしまい、ツーリスト向け繁華街になってしまった。今回行ってみてショックだったのは、そうした文化サロン的な老舗の一つであった「小野東風軒」が閉店してしまったことだ。とうとうここも閉店なのか!天満宮参拝の帰りには必ず立ち寄っていた店で、いつも品のある老婦人が店先に座っってた。店の奥には談話室もあり、珍しい品々を拝見しながらの店の人との会話が楽しかった。随分前に骨董専門の「日田屋」が廃業して、お土産屋になったことがあったが、それ以来の大ショックだ。集まってくる客層がすっかり変わってしまったからだろう。

ところで太宰府天満宮参道には、幕末・維新の激動期に、勤王の志士が集まり尊王攘夷運動の舞台となった宿屋が多く存在していたことをご存知だろうか。幕府御用の宿もあった。なぜ太宰府なのか?そのほとんどが今はお土産屋に改造されているが、江戸末期の旅籠の風情を今に残している。たとえば、

薩摩藩の定宿、「松屋」(木造三階建て)
長州藩の定宿、「大野屋」(現在は「まめや」)
土佐藩の定宿、「泉屋」(現在は「梅園」)
幕府御用、「日田屋」(現在は「石ころ館」)
旅籠、「大和屋」(現在は「カフェ風見鶏」)

などがそうで、現在でも、西鉄太宰府駅に近い大鳥居周辺に当時の建物が残っている。いまはお土産屋や和菓子舗、カフェなどに変わっているが、よく見ると、店先以外は江戸末期の旅籠の構造がよく残されている。門前町なので天満宮参拝の旅人向けに旅籠があるのは、不思議ではないが、なぜ幕府や西南雄藩が太宰府に定宿を設けていたのだろう。

これにはある歴史的な事件が関係がある。1863年(文久3年)、「八月一八日の政変」で三条実美など尊王攘夷派の公家5名が、京都を追われ太宰府に落ち延び、太宰府天満宮の宮司、大鳥居信全の邸宅「延寿王院」に三年にわたって滞在した。そのときには西郷隆盛、大久保一蔵、桂小五郎、伊藤俊輔、坂本龍馬など勤王の志士たちが、これらの天満宮参道の定宿に滞在して、頻繁に延寿王院に五卿を訪ね密議を交わした。一種の朝廷の「亡命政権」が太宰府にあったと言ってもよいだろう。薩摩藩は早くから太宰府に拠点を構えており、「安政の大獄」のときには、西郷は京都から鹿児島下向の途中、月照上人をここ薩摩藩定宿の「松屋」に匿った。また幕府も日田代官所の役人が「日田屋」を拠点に、こうした動きを監視した。当時はまだ薩摩藩と長州藩は対立関係にあり、土佐の坂本龍馬、筑前の加藤司書、月形洗蔵なども薩長同盟に向けて五卿と密談を交わしたと言われている。こうして倒幕派、佐幕派入り乱れての情報戦、謀議が展開された現場がここである。なぜ大宰府だったのか。三条実美は菅原道真公を深く敬愛しており、天皇に忠誠を尽くしつつも無実の罪で左遷され、この地に没した道真公に自らの境遇を重ね合わせたといわれている。古代より「遠の朝廷」と呼ばれた大宰府を、自らの再起、そして王政復古の場所と考えた。維新成就に当たって、三条実美は太宰府天満宮にその「お礼」として螺鈿の柄杓を奉納している。また天神様は、学問の神様としてだけではなく、庶民にとっても手習いや至誠の神様として敬愛され、太宰府は天満宮参詣、名所旧跡めぐりなど、「さいふまいり」として多くの人々が頻繁に訪れる土地柄であった。勤王の志士にとっても、往来が比較的自由であった。また筑前福岡藩は、当時は勤王派と佐幕派が藩内で対立しており、藩主は五卿の扱いに苦慮した。幕府の意向を勘案して五卿を九州各地に送り出す、いわば厄介払いを考えたようだが、太宰府天満宮の意向には口を挟まなかった。太宰府天満宮は、幕末維新史の中で、いわば一種の治外法権の場として、重要な時代の画期の役割を担った。京都や伏見のように、かつての尊王派の根城となった寺田屋や池田屋などの旅籠が現在は失われたのとは違って、その遺構としての延寿王院、幕府、各藩御用達の旅籠が現存する土地なのである。そんな歴史をもっと知ってもらいたいし、そうした歴史の遺構をきちんと将来に残してほしいものだ。

そんな幕末・維新の時代から、ふと現実に戻り、参道に佇む我がいる。それにしても、平日だというのに太宰天満宮一帯は観光客でごった返している。太宰府駅からの参道は、韓国、中国からのツーリストがひしめき合っている。コロナ明け海外渡航解禁、国慶節連休ということもあるのか、この人出はなんとしたことだ。日本は「放射能汚染水垂れ流し」の危険な国ではなかったのか? 訪日を控えるべきではないのか? そんなの関係ない!という民の強かさ。かつての太宰府は、華やぎと賑わいはあるが、どこか凛とした空気があって、神聖な特別感があったものだが、そうした静謐な佇まいは何処かへ行ってしまったようだ。団体客といえば制服を着た中高生の修学旅行生であった。受験の神様に合格祈願するという、学生ならではの格好の参拝理由があった。しかし、少子化で日本の修学旅行生よりも、経済発展著しい隣国に近いので、インバウンド観光客の手軽なお出かけ先になってしまったようだ。日本に好感を持ってくれるのはありがたいが、アニメやコスプレ、インスタ映え、アレ食った、コレ買っただけのツーリズムでどれほど日本を理解して帰ってゆくのやら。大宰府を訪れる人の波、この入れ替わり様は時代を象徴する光景だ。「旅の恥はかき捨て」、「オーバーツーリズム」という言葉が脳裏をかすめる。インバウンド歓迎!どんどん来て、じゃんじゃんお金使ってちょうだい、か?傍若無人で行儀の悪い観光客でも、お金使ってくれるなら誰でも歓迎? 円安で経済が低迷する日本では訪日観光客が成長の救世主というわけか。「欲望の資本主義」は、ここ、天神様の御神域でも大手を振ってのし歩く。それで良いのか日本。嗚呼、またジイさんの繰り言が始まった。



天満宮宮司の邸宅「延寿王院」
奥に「五卿遺蹟碑」がある


幕府御用宿「日田屋」
かつては文人墨客ご贔屓の骨董品店であったが廃業し、現在はお土産屋になっている

旅籠「大和屋」
現在は古民家カフェとなっている

薩摩藩定宿「松屋」




土佐藩定宿「泉屋白水楼」(現在は菓子舗「梅園」)
長州藩定宿「大野屋」(現在はお土産屋「まめや」)


参道の大鳥居

参道の賑わい

老舗の「小野東風軒」は閉店 別の店に変わっていた

復元町家「かさの家」

復元された町家


炭鉱王伊藤伝右衛門寄進の鳥居


(撮影機材:Nikon Z8+Nikkor Z 24-120/4)


2023年9月27日水曜日

杉本博司「本歌取り 東下り」展@松濤美術館

 

松濤美術館にて


杉本博司の「本歌取り 東下り」は、2022年に姫路市立美術館で開催された「本歌取り」展として結集した作品群を、「東下り」して東京渋谷松濤美術館で再結集させたもの。「本歌取り」とは、和歌の技法の一つで、有名な古歌(本歌)の一部を意識的に自作に取り入れ、その上に新たな時代精神やオリジナリティーを加味して歌を作る手法を言う。今回は、新たな作品として、北斎の「富嶽三十六景 凱風快晴」を本歌とした「富士山図屏風」が出展されている。「東下り」のときに目にする富士の姿を象徴的に描いている。また、室町時代に描かれたと言われる「法師物語絵巻」を本歌とする杉本独自解釈による狂言も11月9日に開催される。その他、杉本の古典作品とも言える「海景」を本歌とした新たな杉本作品も展示されており、写真、工芸、書、建築、芸能を含む古典と現代作品との調和と交錯を繰り返す、杉本ワールドの進化が展開されている。(本展示会パンフレットから「本歌取り」、いや抜粋、意訳)

杉本博司に出会ったのは、いまから17年前のニューヨーク、ジャパン・ソサエティーの展覧会が最初である。アンティーク・ディーラーでもある杉本の目利きによる絵画や仏像、工芸品と写真との組み合わせ、得も言われぬジャンルを超えた調和と爆発、時間と空間の超越と融合を生み出しているのに衝撃を受けた。この古典と現代、東西文明のフュージョンに、地元ニューヨークのフォトグラファーやアーティストが熱狂している姿に更に驚いた。真面目くさって論評する人、作品の前から立ち去らない人。メガネをとっかえひっかえしてじっくり観てる人、次から次へと観覧者が引きも切らず訪れる。そして、カメラを持った観覧者の肩には決まってライカMがぶら下がっている。二台持ちもいる。杉本とライカ。関係はないのだが、この佇まいには、ライカというお道具の存在の確かさが不思議に心に焼き付いている。あのニューヨークでの衝撃以来、東京、大阪、小田原・江之浦測候所(2019年7月22日「江之浦測候所」〜杉本博司「海景」の原点を訪ねて〜)と、追っかけが始まった。ちなみに、「江之浦測候所」では撮影にライカが活躍した。

私が敬愛するもう一人の写真家に入江泰吉がいる。作風と技法は異なるが、この二人はカメラという科学技術発展の成果から生まれた道具を使って、時間の流れとか歴史とか心とか情感とか、目には見えないもの、手に取ることもできないものを、ホレこれだよ!と提示してくれる。心象風景をカメラという機械で切り取って見せることで、入江泰吉も杉本博司も、時間を超えて過去と現在を行き来する。まさに「時空トラベラー」マエストロである。「大和古寺巡礼」も「歴史の歴史」も我が写真ライフにとってバイブルである。もっとも最近のカメラは、半導体チップとソフトウェアーと光学ガラスでできていて、作品はパソコンで制作するが、この二人の巨匠はあくまでも暗箱で撮って暗室で作品を制作する、銀塩フィルムとプリントで表現している。入江泰吉の時代はともかく、やはりデジタルと言うと、心構えのベクトルが「過去」に向いていないのだろうか。必ずしも最新の技術が「歴史」の表現手段として最適なものとは言えないのだろうか。すっかりデジタル機材に切り替えてしまった「時空トラベラー」は、ふと不安になる。

ヴェニューである松濤美術館は渋谷区立の美術館で、松濤のお屋敷街にその美しい立ち姿で佇んでいる。松濤美術館は白井晟一の設計になるもので、建物そのものがアート作品であると言って良い。円形屋根の正面から入る一階がエントランスであるが、すぐに地下の展示会場に降り、それから2階の第二会場へと登る、という回遊式になっており、階段を使うとこの優美な建物を見て回れる仕掛けになっている。比較的こじんまりした美術館であるが、その空間に身を置くことが、そもそも心地よい。ゆったりとした豊かな時間を過ごすことができる。


以下に、今回の展示の中からお気に入り作品を数点(作品の撮影、SNS上での公開は商業目的以外は許可されているのが嬉しい)。



宙景と隕石

原点「相模湾」海景

時間の矢「海景」

数理模型

十一牛図
素麺のゆで加減(大田南畝)

歴史の歴史 「東西習合図」

「法師物語絵巻」から
これから新作「杉本狂言」が生まれる

北斎「富嶽三十六景 凱風快晴」を本歌とした「富士山図屏風」


「春日大社藤棚図」屏風 砂ずりの藤をモチーフとしたプリント作品

狩野永徳「安土城屏風」から想像する「姫路城図」屏風

Blush Impression 「月」「水」「火」「狂」

「いろは歌」銀塩プリント

傷んでしまった「海景」の銀塩プリントを使った作品 これも本歌取り?




渋谷区立松濤美術館

美術館のループ階段

吹き抜けと噴水

二階展示室ロビー


渋谷区立松濤美術館エントランス(白井晟一郎設計)





2023年9月22日金曜日

古書を巡る旅(38)デヴィド・ヒューム「文学、道徳、政治論集」:Essays, Literary, Moral, and Political 〜スコットランド啓蒙主義とは?〜

Essays by Hume

David Hume (1711-1776)
Wikipediaより

デヴィッド・ヒューム:David Hume(1711-1776)は18世紀のスコットランド啓蒙主義を代表する思想家、道徳哲学者、歴史家である。1740年から1790年は「スコットランド啓蒙主義の時代」と言われ、ヒュームをはじめ、ハチソン、ファーガソン、スミスなどが活躍した時代である。しかし、彼の業績と名声はその時代にとどまらない。ヒュームは、ベーコン、ロックなどと並び称される経験主義(empiricism)の哲学者であり、近代哲学に大きな影響を与えた。それにしても何故このようにスコットランドで啓蒙主義、思想が盛んになったのか。スコットランドから多くの哲学者や経済学者が出るようになった背景には何があるのだろう。

スコットランドは1605年のスコットランド王がイングランド王を兼ねてジェームス一世として即位して以降、イングランドとは共通の王を戴く国であった。さらに1707年にイングランド王国とスコットランド王国の統合法が成立して正式に連合王国になった。アイルランドがイングランドの植民地として悲惨な歴史をたどるのに比べると、イングランドに統合されたとはいえ、スコットランドは、独自の文化を維持し続ける王国であった。そもそも統合以前にはスコットランドとイングランドは、同じブリテン島で国境を接する国でありながら、文化的な交流が少なく、むしろお互いに悪感情を抱く間柄と言って良いくらいであった。スコットランドの知識層は、同じ島の南のイングランドよりは、海を隔てた大陸のフランスの文化に目が向いていたし、18世紀にはフランス啓蒙主義の影響を受け、ルソー、デュドロやヴォルテールなどの人的な交流も盛んであった。そもそも啓蒙思想は、17世紀後半のイングランドのフランシス・ベーコン、トーマス・ホッブスや、ジョン・ロックの経験論哲学、自由主義的な政治思想に始まり、これがフランスの政治思想、さらには社会思想、文芸に影響を与えたものなのだが、その啓蒙思想が、フランス経由でスコットランドの思想家、哲学者達に影響を与えたというのも皮肉なものだ。一方で、「経験主義の父」「自由主義の父」と言われるジョン・ロックの思想は、彼の訓導を受けた、道徳感覚論哲学(moral sense philosophy)の源流と言われるシャフツベリー伯爵(第3代、アンソニー・アシュトン・クーパー)を通じて、スコットランドのフランシス・ハチソン、デヴィド・ヒューム、アダム・スミスへと伝わったと言われ、アダム・スミスの「道徳感情論」に大きな影響を与えた。しかし、その肉付けにはフランス啓蒙主義者たちの影響力は無視し得ないほど大きかったようだ。この背景には、イングランドでは、国教会、ピューリタンなどの反カトリック・プロテスタント勢力が強かったことや、王党派に対し共和派や議会派が勢力を伸ばし、議会でもホイッグ党が勢力を持っていたのに対し、スコットランドでは、カトリックの他にフランス・スイスのプロテスタントであるカルヴァン派に源流を持つ長老派が主流(後に国教となる)で、世俗主義的な権威よりも、宗教的権威が重んじられ、王権を重視し、イングランドの名誉革命における反革命分子ジャコバイトが勢力を持っていた。政治的にも保守的なトーリー党が主流であったスコットランドは、フランスの絶対王政の影響がまだ色濃く残っていた。イングランドで始まった、ロックによる自由主義的な政治思想は、宗教的な権威、神の意思よりも人間の理性を重視する、そして人間の理性は生得的なものではなく、経験によって獲得されるものである、という経験論的な哲学が、反宗教権威、反絶対王政の機運高まるフランスの啓蒙思想家経由で、スコットランドに入ってきたというのも理解できる気がしないでもない。やがてフランスでは、啓蒙主義思想、経験主義は絶対王政打倒のフランス革命の思想的なバックボーンとなってゆく。

一方で、スコットランド啓蒙思想は、フランスとは異なり、学界、アカデミアがリードした。この中心になったのがスコットランドの伝統的な大学(Ancient Scotish Universities)である、エジンバラ、グラスゴー、アバディーン、セントアンドリュースであった。イングランドのオックスフォードやケンブリッジとは異なる歴史を有する大学である。このようにスコットランド啓蒙主義の主役は、フランシス・ハッチソン、アダム・ファーガソン、アダム・スミス、デュガルド・スチュワートなどエジンバラ大学、グラスゴー大学の哲学や倫理学を教えていた教授達であった。しかし、デーヴィッド・ヒュームは、後述のように一度も大学に教職を得たことがない学外者であったが、彼らに大きな影響を与えた。また、スコットランドの学者たちの関心は、フランスとは異なり、政治思想よりも、道徳哲学、経済学であった。すなわち、経済成長と資本主義、国際貿易と都市ブルジョワジーの問題が最大の関心事で、資本主義の貪欲性が、人間の共感力や道徳といった伝統的な美徳と相容れるのか、「個人の欲望」と「公共善」とはどのような関係を持つべきか、などという問いであった。まさに道徳哲学から経済学が生み出されてきた土壌であるともに、彼ら自身がこうした啓蒙主義思想の土壌を耕した。

そもそも啓蒙思想とは、Enlightment(英語) Lumieres(仏語)、すなわち「ひかり照らす」という言葉を語源とする思想で、中世的な神学の世界ではなく、人間の理性による思考の普遍性を主張し、超自然的な偏見を取り払うというものである。暗黒の中世に光を照らす、というわけだ。中世キリスト教世界からギリシア、ローマの古典に還るルネッサンスのムーブメントから引き継がれ、自然科学、科学革命、近代哲学と連動する思想である。経験論的な認識論、政治思想、社会思想、道徳哲学、経済学、文芸活動を含む幅広い思想である。

ヒュームははエジンバラ大学に12歳で入学、そして2年で退学。大学で学ぶことはなにもないと感じたからだという。フランスにわたり、「人間感性論」A Treaties of Human Nature(1739−40年)を著す。これが彼の最初の著作であり、今なお啓蒙思想における重要な著作であり不朽の名著である。しかし、ロンドンで出版された当時、この論考集は学界では無視され、無神論、懐疑主義的だとして排斥すらされた。そのため、ヒュームはエジンバラ大学、グラスゴー大学の教職に応募するも、ことごとく拒絶された。後に、この「人間感性論」を再編集した、新たな論考を加えた、一連の「文学、道徳、政治学論集」Essays, Litarery, Moral, Political(1741〜1758年)を出し、ようやく認められて、本も売れはじめた。それでも大学における教職を得ることはできず、1752年になってようやくエジンバラ法曹協会図書館長の職を得る。このときの膨大な読書を元に、「イングランド史」全6巻という大著を著し、歴史家としても高い評価を得るようになる。その後は度々フランスに渡り、ジャン・ジャック・ルソーなどフランスの啓蒙思想家たちと盛んに交流した。後に決別するが、ルソーをスコットランドに招聘している。またアダム・スミスの良き理解者でもあった。しかし、スコットランドで最も優れた哲学者が大学の哲学教授になることは終生なかった。これこそ大学アカデミズムにとって皮肉の最たるものだろう。

ヒュームの学問体系は、人間学:The Science of Manであり、人間の本性:Human Natureの探求に関するものであった。宗教や神に代わる真理の根源を人間自身に見出す。その方法論として、ベーコン、ロック、ニュートンの伝統的な経験と観察:Experience and Observationによる探求(経験主義:empiricism)、帰納法(induction)という 科学的方法論を重視した。ニュートンの革新的な自然哲学:Natural Philosophyに影響を受け、その思想と方法論を駆使して遅れていた道徳哲学:Moral Philosophyを進化させた。その第一の書が「人間本性論」であり、その後に続く様々なエッセイ集、文学論集、道徳論集、政治論集により論考を進化させていったである。まさに経験論者であり哲学者であるヒュームは、他のスコットランドの啓蒙思想家の中でも抜きん出た存在であった。アダム・スミスの良き理解者で親友であり、彼の重要著作である「道徳感情論」や「国富論」に大きな影響を与えたことが知られている。また後年のジェレミー・ベンサムやジョン・スチュワート・ミルなどに大きな影響を与えた。ヒュームの影響を受けた歴史上の人物は数知れず、エマニュエル・カントもその一人である。彼はスコットランド啓蒙主義の時代を代表するというだけでなく、その時代と国を超えて、世界に大きな思想的影響を与えたスコットランド人である。

手元にある本書は「文学、道徳、政治論集」3巻:Essays, Literay, Moral, Political(1741−1758)の、19世紀になってからの復刻版である。原本は「人間本性論」:A Treaties of Human Nature(1739-1742)であり、そこから後に再編纂された彼の経験論、科学的方法論、道徳哲学に基づく様々なテーマについてまとめた論考集を忠実に復刻したものである。ロンドンのWard, Lock, and Tylerによる刊行であるが、出版年の記述がない。ただ、この出版社は1865年〜1873年にロンドンで出版事業をしていた事がわかっているので、この間の出版と考えられる。19世紀の書籍に特徴的な、ハーフ・カーフ、マーブル・ボード、ファイブ・レイズド装丁の美しい本である。本書はCiNiiによると日本では、東北大学、東京大学、横浜国立大学、岐阜大学、神戸大学、九州大学の附属図書館が所蔵している。