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2015年7月31日金曜日

Leica Q Type116  〜やっと普通のデジカメになったライカ〜


Leica Q (Type116)
サイズはXとMの間、
手触りの良さはまさにライカ。
 外見、質感はLeicaXのそれに近い。

 ライカ社から新製品登場だ。Summilux 28mm f.1.7ASPH単焦点レンズのLeica Q。35mmライカ判の2400万画素フルサイズCMOSセンサー搭載。かなりSONY RX1を意識した作りになっているように感じる。こっちはCarl Zeiss Sonnar 35mm f.2固定。2460万画素フルサイズCMOSセンサー。ライカはなぜ伝統の50mmや35mmでなくて28mmにしたのか? 現代のライカレンズ設計のマイスター、カルべ氏が説明する通り、コンパクトな固定焦点レンズカメラ用に高速f.1.7レンズを選択すると28mmという焦点距離がもっとも適していた、ということだろう。技術者らしい合理的な判断なのだ。さらにクロップ機能で35mmと50mmを選択できるためにもより広角側の28mmがベストなのだと説明している。実際にはSONY RX1を意識して35mm対抗で28mmにするというマーケティング上の理由もあったのかもしれないなどと勝手に推測してみる。

 さあこれでMファミリー向けのプレミアレンズTri Elmar-M 28,35,50mmに匹敵するAFカメラが出てきたと評する人もいる。しかし、光学3焦点をメカニカルに切り替えるのと違い、クロップすると35mmでは1200万画素、50mmでは800万画素となる。あるいは超絶レンズSummilux-M 28mm f.1.4が80万円もする高価なレンズであることを考えると、このカメラの56万円という価格は安い(?!)と絶賛している人もいる。いやはや... ライカの価格評価は常にライカファミリーの他のカメラやレンズとの比較で語られることが多い。ライカは確かに良いカメラだ。特にそのレンズは魅力的で、付き合うにはお金のかかる彼女みたいだけど、別れられない関係になってしまう。いわゆるレンズ沼にズブズブと沈められて行く。世の中には他に魅力的な女性がたくさんいるのに、なぜかライカという「大奥」の中だけで目移りしていると感覚が麻痺してしまう。

 冷静に考えてみると、ライカはなぜそんなに高いのか。理由その1:(人件費が高い)ドイツの職人の手作りだから。理由その2:ふんだんに高価なガラス硝材を用い、鏡胴には真鍮やアルミ素材を惜しみなく用いているから。理由その3:従って堅牢でメンテによりほぼ一生使い続けることができ、市場価値、中古価格が下がらないから。要するに基本性能重視、耐久性重視でコスト度返しで作る手仕事のお道具だから。日本の製造業の「いかにコストを抑えて品質を向上させるか」というモノづくり哲学のようなものが、ライカでは基本的に異なっている。しかし、2、3はある程度理解できるが、1には合理的な理由があるのだろうか?いまやレンズ設計も研磨も、製造もコンピュータアシステッド生産技術で、極めて高品質、高性能なレンズを歩留まりよく低コストで作り出すことができる。日本のカメラ屋さんの得意領域だ。マイスターの職人技にノスタルジックな魅力は感じるが、その経済/技術合理性をもう少し納得できなければなあ。時計の世界で復活してきた機械時計、トゥールビヨンの伝承職人技の高い付加価値。それに相当するレンズ/カメラにおける職人技とは、一体どのようなものなのだろう?メカニカル銀塩カメラでも復活しなくちゃなあ。

 そして、その伝統家内工業的なビジネスモデルへの拘りははたしてデジタル化されたカメラ中心の事業にどのように通用するのか?安くてもよく写る平均的な性能を持ったコモディティー商材化したデジカメの世界に伝統技法を持ち込んで新風を吹き込むことができるのだろうか。残念ながらプログラミングを基本手法とするデジタル技術の世界には、職人の手仕事が生きる余地は少ないように感じる。もっぱらソフトウエアー(画像エンジン)と、センサーやチップセットといった高機能な部材の調達に依存する。LeicaT のように中身はレスポンスの遅い2級デジカメ(失礼!)なのに、銀色のアルミ削り出しボディーは職人の手磨き、などというチグハグな製品が生まれる。

 LeicaQはそういう意味で、やっと普通のデジカメになった。AFの速度も速くなった。手振れ補正もようやく装備された。パナソニックから学んだデジカメの作り方がようやく咀嚼され、生かされた感がする。やっと日本のデジカメ製品に追いついた。画像エンジンMAESTRO IIも最新のバージョンになり、イライラするレスポンスの悪さや、訳のわからないバグ、アンフレンドリーな操作性からようやく解放された。かなりサクサク感が出てきた。それに高性能Summilux 28mm f.1.7ASPHがくっ付いてきて、しかも近接撮影もできるようになった。これは大歓迎だ。嬉しいことだ。しかし、デジカメとしての完成度が高まるほどに、なんか普通のデジカメだなあ。なのに価格だけはライカプライス。やっぱり完全に納得しきれないフラストレーションが残る。

 嫌味な言い方すると、レンズ以外は特筆すべき特色がない感じだ。LeicaQのデジカメとしての完成度は、他社製品に抜きん出る差異化要因にはならないだろう。「普通に追いついた」訳なのだから... 敢えて言えばSONY RX1に対抗できる単焦点コンパクトデジカメのライバル登場だ。RX1には無い電子ビューファインダー(EVF)が内蔵している点が優れている。確かにホールド感もRX1より良い。ライカ独特の「手触りの良さ」は流石だと思う。個人的にはSONY製品一般に言える無理な「小型化」は時にカメラのホールド感を損なっていると感じる。一方、ライカファミリーの中で比較すれば、外見、質感はどちらかというとLeicaXに近く、Mのそれではない。今後、レンズ交換式のAFライカをラインアップするのに備えた試作第1号機では、と勘ぐってみる。だとすると購入は待ったほうがいい。ゆっくりと完成度を高めて行くライカ流ロードマップの一つのマイルストーンなのだ。ともあれSONY RX1のライバル登場だ。どっちが好みか、検討の余地があるだろう。ただしRX1の三倍のプライスを克服できるユーザは、ライカ病患者以外にはいないだろう。

 最後に、毎度のことだがライカの「取扱説明書」、もうちょっとなんとかならないか。ますます分かりにくさが進化している。アブリビエーション/略語が説明されてない。そもそも日本語の訳がおかしいし、アナログで書いてあるので、その章や節の文章を全部読まないと意味がわからない。パワポ使って「ポイントを簡潔にデジタルで書け」と教育を受けてきた会社人間の私など、古代史の論文でも読まされている気分だ。まあ、取説なんか読まないけど、案外、取説の出来が、その会社の製品と顧客にたいする考え方の理解につながるものだ。

Leica Q (Type116)
サイズはXとMの間、
手触りの良さはまさにライカ。
 外見、質感はLeicaXのそれに近い。


マクロで17cmまで寄れる。マクロへの切り替えはリングでセット。
AFとマニュアルフォーカス切り替えもリングでリニアに行える。
この操作感はLeicaのものだ。
(写真はライカ社HPより)

ライバルSONY RX1r+Sonnar35mmf.2
画期的なカメラだ。
Leica Qがターゲットにしたのだろうか?

(写真はソニーHPより)



作例(JPG補正なし):

歪曲収差はよく抑えられている

マクロ撮影

近接マクロでもAFの合焦速度が速くピントもきちっと出てる。

f.1.7開放での撮影。広角でも結構背景はボケる。ライカらしい立体感が出ている。

28mmのパースペクティブで切り取ってみる



2015年7月20日月曜日

あの日、夕暮れの都府楼にブルートレインを見送る(アンコール編)

ついに来たサラリーマン人生終わりの日。みなさまお世話になりました。しかし思えば遠くに来たもんだ。

時空トラベラー  The Time Traveler's Photo Essay : あの日、夕暮れの都府楼にブルートレインを見送る: 首都圏を襲った台風は、美しい夕景を残して東の海上へ去って行った。窓からその深い青に覆われ始めた空のその一部を茜色に染める残照を眺めていると、新幹線が西へと長い光の点を明滅させながら疾走して行く。博多行きの「のぞみ」だ。ふとあの日の、あの光景が脳裏にフラッシュバックした。40年前...



あの日...




2015年7月3日金曜日

今年の大河ドラマ「花燃ゆ」はどう? 〜あらためて尊皇攘夷とは〜

 今年のNHK大河ドラマは「花燃ゆ」。吉田松陰の妹、文(ふみ)の生涯を描いたドラマ。女性が主人公になる大河はヒットする、との伝説がNHKにはあるそうだ。しかし、今回はどうも視聴率が低迷していると聞く。主人公を演じる井上真央が「私の力量不足で申し訳ない」と語っているとか。そんなことはないと思う。しっかりとした演技で好感が持てるし、役者として大きく成長していると感じる。視聴率低迷は役者のせいではない。「大河」というセッティングとのミスマッチかな?

 そもそも視聴率などという前世紀的評価基準でドラマの良し悪しを論ずること自体、如何なものかと思う。しかし、「大河ドラマ」というと、私のような中高年の歴史好きが、ワクワクしながら毎週楽しみにしてる「日本史教科書」の復習というステロタイプのイメージがつきまとう。昨年の「軍師官兵衛」など、主人公の演技はともあれ、影のヒーローのストーリー展開に引き込まれた。黒田官兵衛自体はこれまであまり歴史ドラマの主人公になったことはなくて、常に戦国の脇役で登場する人物であった。信長、秀吉、家康という誰もが知る超大物歴史主人公の知られた戦国乱世ストーリーの中で、「実は」という、官兵衛の立ち回りにワクワクさせられた。そういった観点から見ると、「花燃ゆ」は、激動の長州藩という舞台で血気にはやる男たちに比し、主人公の文が脇役のように見えてしまうのに、いちいち彼女の言動がドラマのストーリ展開の主題になっているからなんか場違い感を感じてしまう。別の言い方をすると、妻として母として、女としての心情が歴史の激流の中でメッセージとして伝わっていないように感じる。ホームドラマとしては面白いのかもしれない。現に、これまで「大河ドラマ」を観なかった連れ合いが「花燃ゆ」だけはしっかり観ている。連れ合いの評価は私とは全く違っているようだ。


 さて、テレビ批評はさておき、かつてものした一文をこの際、アーカイヴから引っ張り出してきて「再放送」してみたい。改めて「尊皇攘夷」とはなんであったのか?

 維新胎動期の「尊皇攘夷」運動を観ていると、ある意味でテロリズムそのものに見える。桜田門外で大老(今でいう首相のようなものだ)を暗殺したり、都に武装して押し入って、恐怖を煽るために無差別に人を殺傷したり、放火したり、海峡を通行する外国商船を砲撃したり。徳川幕藩体制という現状を破壊しようとする過激な反体制テロリズムだ。あるいは幕府の開国政策に反対し、開国によって混乱する国内経済に対する民衆の不満を背に、外国人襲撃を決行する民族主義的テロリズムだ。このドラマに登場する久坂玄瑞は、最初に武力で馬関海峡を通過する外国船を砲撃し(攘夷決行)、帝のおわします京で禁門の変を起こし(反幕府/攘夷派を武力で朝廷に直訴するという)町の多くを焼失させる。この頃の活動だけを取り上げると「尊皇攘夷」をスローガンとするテロリストということになろう。そうした過激な尊皇攘夷運動は、やがて近代化という流れの変化の中で、彼に続く高杉晋作の倒幕運動、そして彼らを乗り越えた桂小五郎や伊藤俊輔、井上聞多等が明治新政府の要人となって維新を成就させてゆく訳だが、初期の頃の長州藩の来島又兵衛に代表される藩に横溢する感情的な攘夷の声に押されて(声の大きなものに押されて)しまって、尊王のはずが朝敵にされてしまった悲劇の久坂玄瑞だ。こうしたことから彼は過激なテロリストとして描かれることが多い。

 テロリズムは常にネガティブなイメージで捉えられる。テロリストというレッテルが貼られると社会から排除され、抹殺の対象となる。手段が目的化してしまった殺人集団もテロリストにカテゴライズされている。しかし、テロリズムの定義は極めて多義で、しかも歴史という時間軸のなかでは相対的。かつてはマハトマガンジーもネルソン・マンデラも体制側からはテロリストと呼ばれていた。現状を壊し、体制を打倒しようとする動きの初期に発生する活動は社会の安寧を脅かす「過激」「危険」な不穏分子の「恐怖を煽る」違法活動、すなわちテロリズムと見なされる。やがて目的が成就し、新たな秩序が生み出されると、歴史にその破壊活動の意義が認められ革命家になる。歴史とは皮肉なものだ、勝てば官軍、負ければ賊軍。勝てば革命家、負ければテロリスト。

 一方、松陰の「草莽崛起」は、身分や藩といった旧弊な立場を乗り越えて、民衆、日本という枠組みで社会を捉え直そうというのはまさに革命的であった。だがその旗印が「攘夷」であることにいつも違和感を感じる。もちろん松陰自身は、幕府の拙速な開国に批判の矛先を向け、まずは欧米列強に伍すことのできる日本の体力固めを説いているのだが、その弟子たちは、当初、急進的な攘夷行動テロ集団になっていった。これが倒幕、新政府、殖産興業、富国強兵へと繋がって行くには高杉晋作やそれを継ぐ、次世代「維新の志士」たちの出現を待たなければならないわけだ。現代の日本の閉塞感の中で、吉田松陰のような維新胎動のイデオローグが待望される、という気分に満ちているが。これからは日本という枠組みを乗り越えて国境なきグローバリズムへと向かいつつある時代に、まさか「攘夷」ではあるまい。彼の思想の何を学ぶのか、これに続く志士たちのどのような考えと行動に学ぶのか。これは意外に現代の日本が置かれている状況(幕末明治期とは異なる)を考えるとそう単純ではないような気がする。あるいはグローバル化するにつれ国家ではなく市民や私人の時代に向かいつつある現代、イデオローグ松陰の妹で、久坂玄瑞の妻であるこのドラマの主人公。家族愛に生き、女性の果たすべき役割を示そうとする文(ふみ)こそが時代のヒロインなのかもしれない。そう考えさせるのが「花燃ゆ」のメッセージなのだとすれば、これは稀代の名作と言ってよいだろう。その表現に成功していうかどうかは別だが。

以前のブログ:

時空トラベラー  The Time Traveler's Photo Essay : 「尊王攘夷」は日本の近代化スローガンだったのか?: 明治維新は、鎖国政策を基本とした旧弊な幕藩体制を倒して、近代的な国家を建設しよう,とした動きだと捉えられている。その運動の初期のスローガンは「尊王攘夷」であった。しかし、「尊王攘夷」はどう見ても近代的な国家建設のための政治経済社会体制の変革を進める「革命」のスローガンには見え...


松下村塾の吉田松陰像

松下村塾

萩の城下町
ほぼ当時のままの町割が残っている

上空から見た城下町萩
日本海に接する小さな町だ
ここに押し込められた毛利の怨念が250年後に爆発する





2015年6月14日日曜日

アール・デコ建築の粋 〜旧朝香宮邸の美と技巧を愛でる(第一弾エクステリア編)〜

 
旧朝香宮邸


 東京都庭園美術館と目黒自然教育園。中世の豪族白金長者の居館跡だと言われる広大な杜の中に存在する。今でも敷地内に当時の土塁の遺構が確認できる。都心に残る数少ない緑地の一つだ。そもそも「白金長者」とは誰なのか。その確かな伝承はないそうだが、その割には広大な敷地を残したものだ。白金長者の居館敷地跡はその後、江戸時代には讃岐高松藩下屋敷となる。その名残に大名庭園の池やクロマツの大木が今も残っている。明治維新後は陸軍・海軍のの弾薬庫に、大正時代には皇室の白金御料地となる。そしてその敷地の一部が皇族朝香宮家に下賜された。英国Kentの田舎暮らしで週末の森の散策を楽しみとしていた我が家にとって、東京へ戻ってからの、この「自然教育園」という都会の杜は貴重な空間だった。そして白金迎賓館(「庭園美術館」というより馴染みがある)は知人の結婚式や、夏のプール、お庭での食事など、思い出深いところだ。

 世界に誇るアール・デコ建築の粋を堪能せよ。

 旧朝香宮邸。現在は東京都庭園美術館となっているこの地の圧巻は、何と言っても緑の庭園に広がるアール・デコ建築の邸宅。外見は思いの外シンプル。しかし、一歩玄関を入ると、デコラティヴな別世界。アンリ・ラパンによる内装、ルネ・ラリックのガラス工芸品の数々。一つ一つの部屋は世界中から取り寄せた、拘りの素材、部材を使った装飾芸術でしつらえられている。建築設計は、赤坂離宮など、数々の日本を代表する洋風建築を手がけた宮内省内匠寮。そしてフランス留学していた朝香宮に依頼を受けたインテリアデザイナー、アンリ・ラパンによる内装は、妥協を拒んだ本格的なもの。

 日本人の異文化の咀嚼力の凄さを感じさせられる。趣味の悪いコピーではない。本物を取り入れて日本の風土に同化させるだけでなく、日本古来からの伝統的な技を使って、西欧の技法と素材をうまく日本化している。そして新たな本物にする。古来よりユーラシア大陸の東の端の、文明の終着点の島であった日本。その水の流れの淀みには、様々な文明・文化が融合した堆積物が新たな価値と美を生み出して蓄積されている。それを日本人は咀嚼し、昇華し、自分の物にしてきた。今回は、館内では「マスク」展が開催されていたため、残念ながら建物内部の撮影は禁じられて紹介できない。しかし、そのインテリアのディテールと全体コーディネーションの完成度に、日本という国の海外文化に対するオープンネスと多元的な受容性が凝縮された成果の一つを見る事ができる。

 戦後は、一時吉田首相の仮総理大臣公邸、西武グループへの売却により、白金プリンス迎賓館などとして使われ、1984年に東京都へ売却され東京都庭園美術館として公開されている。2014年リニューアル再オープンした。隣の自然教育園で森のお散歩を楽しんだあと、アール・デコの邸宅でアートな時間を過ごす。目にも鮮やかな緑の芝生庭園を眺めながらカフェで一服する。フランスの田舎ではないが、KentやSussexあたりのManor Houseでの英国貴族の生活を、このせせこましい東京の中で味わえる不思議。なんか素敵な時間と空間だ。


門から玄関までの散策も楽しい



ようやく邸宅の玄関が見えてきた

玄関のラリックのガラスレリーフ
(東京都庭園美術館HPより引用)


2014年オープンの庭園美術館新館


新たにオープンしたカフェレストランで昼食



庭園の芝生が鮮やか
玄関に立つ狛犬
アール・デコとのコラボ
庭園側から見た本館テラス


アジサイの季節だ


大和撫子







2015年6月8日月曜日

東西文明の邂逅 知のラビリンス「東洋文庫」を探訪する

 
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圧巻のモリソン書庫


 学生時代に平凡社「東洋文庫」シリーズに出会った。内外の歴史的な資料、古文献を日本語で読む上でのバイブル的存在であった。もちろん膨大なシリーズをとても全てを読破できないものの、図書館にある面白そうな巻を手当り次第を斜め読みしてみた。そのなかでも、マルコ・ポーロ「東方見聞録」の邦訳版に出会った時の衝撃を覚えている。歴史の教科書でしか見たことのないこの文献が、実際に読めるのだ、と。西洋が東洋に出会った最初の記録である。「ジパング」の記述が初めて出てくる14世紀の旅行記。これが私にとって「東西文明の邂逅」というテーマへの憧れを抱くきっかけであった。

 のちに留学先に英国を選んだのも、考えてみるとこうした背景が深層にあったように思う。ユーラシア大陸の西の果てと東の果ての出会い。その時空を超えた「未知との遭遇」のロマンが、私をロンドンでの、British Museum探訪、古書店探訪、古プリント/古地図店探訪へと駆り立てていった。考えてみると明治の先人達は欧米だけでなく、中国、インド、イスラム等、世界中の古典を勉強し、和訳して世に広めたわけだ。そのおかげで、後世の若者がマルコ・ポーロであれ、イブンバツータであれ、四庫全書であれ、アダムスミスであれ日本語で読む事ができる。これはすごい事だ。それを日本語訳した「東洋文庫」シリーズ。これらが日本人の知識欲と教養への憧れと知的探究心をおおいに涵養した。皮肉にも、おかげで普通の日本人はすっかり外国語が苦手になってしまったが...(なにしろ、世界中の知の体系が日本語で理解でき、大学の講義が全て自国語で行われるような国は欧米を除くと日本くらいだろう)

 一方、東京駒込に「東洋文庫」がある。こちらは平凡社叢書とは関係ないが、東洋学の貴重な研究図書館として90年の歴史を有する。最近こちらを訪ねる機会があったが、その圧倒的な蔵書と吸い込まれるような空間にすっかり魅了されてしまった。もっと早く知っておくべきであったと思う。今回はその探訪記だ。

 東洋文庫の沿革(同ウエッブサイトより引用):

 東洋文庫は東洋学の研究図書館です。三菱第三代当主岩崎久彌氏が1924年に設立した、東洋学分野での日本最古・最大の研究図書館であり、世界5大東洋学研究図書館の一つに数えられております。その蔵書数は国宝5点、重要文化財7点を含む約100万冊であり、内訳は、漢籍40%、洋書30%、和書20%、他アジア言語(韓・越・梵・イラン・トルコ・アラビア語等)10%です。 
 職員は研究員も含め約80名で、2つの超域研究、10の研究班による歴史・文化研究および資料研究を行っております。又、人間文化研究機構との共同研究組織2つ、文部科学省からの受託事業、更には、フランス国立極東学院、台湾の中央研究院、EUの東洋学研究コンソーシアムと協力協定を締結しております。その研究成果は東洋学報・東洋文庫論叢・Memoirs of the Research Department of The Toyo Bunko・東洋文庫書報等の刊行物で発表し、一般向けに東洋学講座等の講演会も行っております。 
 図書館は閉架式の閲覧室を設け、貸し出しは致しておりませんが、一般に無料で閲覧に供しております。又、データベース化にも力を入れており、書誌データはインターネット検索が出来ます。又、順次貴重本・絵画等の全文データ・画像データ・動画データ等をインターネットで公開致しております。 
 当文庫は特定公益増進法人に認定された財団であり、その必要資金は自己資産、寄付金及び補助金で賄われております。

岩崎久彌
モリソン蔵書印
Morison


岩崎久彌(1865-1955)
岩崎彌太郎の子で、三菱会社三代目社長。事業の発展だけではなく、社会貢献にも心を配り、この東洋文庫設立の他にも、岩崎家の所有になっていた清澄庭園と六義園を東京都に寄付した。上野のジョサイア/コンドル設計の洋館岩崎邸は彼が建てたもの。彼はまた、三菱会社社長を小彌太に譲った後は農場経営に力を尽くした。この時に小岩井牧場を所有した。現在の「東洋文庫ミュージアム」にあるカフェレストランは小岩井農場の経営である。ペンシルバニア大学ウオートン校留学。

モリソン、ジョージ・アーネスト George Ernest Morison(1862-1920)
イギリスのジャーナリスト。オーストラリアのヴィクトリア州ジーロン市に生まれる。1895年にロンドン・タイムズ入社、1897年より北京特派員。1911年中華民国総統府顧問。在任中蒐集したモリソン文庫と称される極東関係文献2万4,000冊は1917年、岩崎久彌に譲渡。


 このように、世界的にも貴重な東洋学の研究図書館としてその役割を果たしているのであるが、私にとっては、西洋と東洋の文化の出会い、とりわけ日本との遭遇(日本にとっては西欧文化との遭遇)をテーマとした様々な古典資料の宝庫であることに興奮を抑えることができない。おそらくこの分野ではBritish Libraryよりも充実しているかもしれない。ロンドン大学SOAS(School of Oriental and African Study)、またオランダのライデン大学図書館/博物館シーボルトコレクションが有名であるが、むしろ日本との関係ではこの東京の東洋文庫が世界のセンターであるかもしれない。三菱財閥3代目の当主である岩崎久彌の残したこのレガシーこそ、日本が世界に誇る文化遺産の一つとなっている。

 岩崎久弥は明治期の西欧文化、文明開化至上の時代、東洋や日本の古い文化が疎んぜられ、打ち捨てられかねない時代に心を痛め、自ら古典/書画を収集保存し「岩崎文庫」を設けた。そしてモリソンから彼の東洋在任中の書籍コレクションを購入。そのモリソンが集めた書籍はおもに西欧から見た東洋を描いた貴重な古書の数々である。彼の帰国に伴い散逸の危機にあったが、岩崎久彌の日本を含む東洋文化への憧憬の心がこれを防いでくれた。この「岩崎文庫」と「モリソン文庫」が合わさって現在の「東洋文庫」の基礎をなしているという。あの岡倉天心やフェノロサが日本の美術の価値を認め、破壊から守り再び光を当てたように。

 東洋文庫は奥深い知のラビリンスだ。その底なし沼に分け入る前に、まずはミュージアムを巡ってその一端を味わってみよう。まずは眼に飛び込んでくるモリソン文庫の圧倒的な威容に驚かされるが、他にも貴重な書籍の数々が。

司馬遷の史記(写本)
中国清朝時代の「四個全書総目提要」
日本書紀(寛永版写本)
マルコポーロ「東方見聞録」コレクション
ジョン・セーリス航海日記
バスコダガマ航海記
コロンブス航海記
キャプテンクック航海日誌
ジョン万次郎を救助した捕鯨船の航海日誌
好太王碑文の拓本
等々

 また古地図の宝庫でもある。この時はちょうどブラウの大地図展、「フェルメールも描いたブラウの世界地図」展を開催中であった。人気のフェルメールの「天文学者」と対をなす「地理学者」が展示されている。普段はフランクフルトのシュテーデル美術館に展示されているのだが、この企画展示ために東京出張中だ。この絵の主人公はコンパスを片手に、ふと見上げたその目は遠い東洋を夢見ているようだ。あるいはなにかの「啓示」があったのかもしれない。彼が羽織っているガウンは日本から伝来した着物をリフォームしたものだとか。当時流行りのファッションだった。オランダが世界に羽ばたき東洋との交易で繁栄の時代を築く17世紀。その遠洋航海を可能としたのは天文学と地理学であった。フェルメールはこの繁栄の時代のオランダを二人の学者の姿を描いくことで表現したのだろう。そして画中に広げられたブラウの「大地図帳」こそがその重要なモチーフであった。

 このように国宝、重要文化財を含む約100万点の書籍/資料が収蔵されている。去年創設90周年を迎えた。5年前に新書庫へ蔵書を全面移動した際に「再発見」されたのが、このヨアン・ブラウ(Joan Blaeu)の「大地図帳全9巻」Grooten Atlas(1664−65年アムステルダム刊)だ。

 私はかつて、ロンドンの大英博物館近くの古書店でたまたまオルテリウス(Abraham Ortelius)の「The Theatre of The Whole World」(London 1606)の1969年800冊限定facsimile版を見つけた。イングランド王ジョンに献上された英語版だ。オルテリウスはアントワープの地図製作者で同僚のメルカトルから地図を学んだと言われている。彼がいわば大航海時代の世界地図製作ブームの火付け役といっても良い。のちにブラウ親子がアムステルダムで「大地図帳」を出すにあたってもこのオルテリウス世界地図が原本となっている。ブラウの「大地図帳」出版が、オランダがスペイン・ポルトガルに変わって世界進出する時期と重なる事は偶然ではない。

 余談だが、この時は現金の持ち合わせがないのでクレジットカードで購入。すさまじく大きくて重い地図帳であったので、店主が「郵送してやるよ」と言ってくれたが、ゲットしたら何が何でもすぐ持って帰りたい。幸い大英博物館前の地下駐車場に車を止めていたので、なんとかそこまで休み休み担いで行ったことを覚えている。物欲煩悩とどまるところを知らず。

 このオルテリウス版の世界地図が、以降の様々な地図の原本になっている。ブラウもその一人。ヤン・ヤンセンもそうだ。こうしてアントワープからアムステルダムへ地図作りの中心地が移って行く。それにしてもこのオルテリウスの地図帳には日本の形はサモサ状のものとオタマジャクシ状のものの二種類が掲載されている。なぜなのだろう。ポルトガル人の航海者やイエズス会宣教師からの情報に基づいて描かれたものだろう。日本という島の形状に二説あったのだろうか。結論が出ず両論併記とした訳か。その60年ほど後のブラウの地図の日本は、北海道らしき島も描かれてもう少し現実の形に近くなっている。日本に関する情報がアップデートされていった経緯など、この辺りの変遷を追いかけるのも面白いかもしれない。

 ここでブラウにめぐり合うのも奇遇だ。ユーラシアの東の果ての日本(Iaponia)で再会とは。「東洋文庫」恐るべし。いや、なんだこんなところに俺の居場所があったぞ!! 分け入って散々に迷って出口さえ見えない知のラビリンス(迷宮)。いや、出れなくて良い。古書に埋もれて過ごす余生、かあ。悪くない。フェルメールの「地理学者」の、まだ見ぬ東洋を夢想するようなあの眼(まなざし)こそ、時空を超えた知の冒険者の心情を表している。


Look at this!
圧巻のモリソン書庫
美しい装丁の書籍に囲まれているだけで至福の時間だ。




フェルメールの「地理学者像」
遠い東洋を夢想しているのだろうか...

バスコ・ダ・ガマ
航海記
クリストファー・コロンブスの書簡集




キャプテン・クック





「フェルメールも描いたブラウの世界地図」展
大世界地図全9巻が揃い踏み

アジア/中国の巻
日本が含まれている
明朝時代の中国全図
右端に日本が記載されている



マルコ・ポーロ「東方見聞録」
各国版のコレクション
清朝乾隆帝の「四庫全書総目提要」
世界の賢者達の言葉が刻まれた小径
小岩井農場のカフェレストランへ
注記:写真撮影は許可を受けています。


2015年6月4日木曜日

Leica Vario Elmar R80-200mm 〜レジェンドになり損ねた望遠ズームレンズ〜

 世の中には運のいいヤツと悪いヤツがある。もっとも実力もないのに運をつかむヤツはいないが、実力があるのに運が巡ってこないヤツはいっぱいいる。カメラのレンズにもそういう不運なレンズがある。今回はそういうお話。

 ライカ社がRマウント一眼レフの製造を止めてから、Rレンズ資産が宝の持ち腐れになっていた人が多いと思う。Mに負けない優秀レンズがラインアップされているにもかかわらず、世の中に認められることなく中古市場でも気の毒なくらい安い値段で並んでいる。こうした事態を重く見て(?)、ライカ社は2013年のM Type240発売と同時にRレンズ用Mマウントアダプターを発売し、Rユーザの不満を解消しようとした。ライブビュー搭載をきっかけとしたソリューションとしては妥当なところだろう。しかし、少しタイミングが遅すぎた嫌いがある。デジタル全盛となった今、そもそもただでさえRマウント一眼レフ使っているユーザは希少で、マザーボディーの供給がストップした時点で、大抵は泣く泣く安い値段で売り払ってしまった人が多いのではと思う。

 私もその一人だが、以前にも書いたように、Mがせっかくライブビュー機能を搭載したにもかかわらず、高性能なライカ望遠ズームがないことに少し苛立っていた。もちろんライカ社はMマウントの望遠ズームなぞ出す気はサラサラないだろうし、最近のTマウント(ASPーCサイズセンサー)で望遠ズームが投入されたが、「なんかちょっと違う」のに価格が何故こんなに高いのか。どうせなら、やはりフルサイズセンサーMボディーで、しかもライカ純正が欲しいということになる。

 Rレンズ用Mマウントアダプターの登場で、にわかに脚光を浴びたのがVario Elmar R 80-200mm f.4ズームだ。レンズ設計、機構設計はドイツ、製造は日本(あのレジェンダリー富岡光学。後に京セラオプティク)というハーフだ。1996年の発売だが、その以前から、ライカ社は一眼レフはなんとなく自社製造路線に懐疑的で、ライバルの日本メーカに製造委託していた。R3のようにミノルタXEボディーにライカロゴつけたカメラや(今のパナソニックコンデジにライカ外装をかぶせたのはこのころからの伝統か)、一眼レフ用ズームレンズは初期にはシグマやミノルタなどが製造を請け負っていた(あるいはOEM供給していた)。

 そういうこともあってMade in Germany一神教ライカファン(ライカ正教徒)からは疎んじられ、中古価格も低迷していた。確かに、初期のズームレンズのラインアップは、なんとなく設計コンセプト、ポジショニングも曖昧で、しかも性能的にもソコソコ(特にニコンキャノンなど優秀なズームレンズが次々市場投入されていた時代だけに)。いくらライカだと言われても、あえてライカ印の付いた日本製ズームを買う意味がわからないようなものが多かった気がする。

 しかし、この望遠ズームは別格だ。8群12枚のレンズ構成。作りも妥協なく金属鏡胴で固めたライカテイスト満点。ズームリング回してもレンズ長が変わらず、トルクも適度だ。最短撮影距離は1.1m。フード組み込みもライカらしい。赤いロゴマークが誇らしげに鏡胴の左右二ヶ所に掲げられている。その性能はすばらしい。単焦点望遠レンズに匹敵する解像度と、高価な哨材のレンズを多用したアポクロマート補正も秀逸(何故APOと称さないのか?)。ボケも嫌いではない。最新の日本製ズームレンズにも劣らない性能を備えている。初期ミノルタ製に次ぐ4代目の製品であり、性能も、その「お道具性」も随分グレードアップされている。しかし、1996年製と比較的歴史が新しいのと、やがてライカ社がR一眼レフから撤退したので、このレンズで多くの作品を世に出したフォトグラフォーが少ない。したがってレジェンドとなり得なかった悲運なレンズだ。

 M Type240にRアダプターを介して装着すると、長くて重量がある。正直バランスがいいとは言えない。ハンドグリップとEVFが必需品だ。しかも手振れ補正がないので、手持ち撮影には限界があることを知っておくべき。そんなにしてまで「ライカで望遠ズーム」にこだわらなくても、世の中には優秀な日本製のNコンやCヤノンがあるではないか、と普通なら考える。しかし、その写りが素晴らしいことと、そのレンズの姿が美しく、ライカで撮影する、というお作法、スタイルへの期待感を裏切らない。ようやくライカ製の望遠ズームレンズで撮影できる喜びはひとしおなのだ。ようするにライカ病の新たな症状の出現だ。

 こうした再評価、人気復活のせいか、中古市場での価格も、最近急速に上昇してきている。しかし、何しろ流通している玉数が少ない。したがってなかなか店頭でお目にかからない。新品に近いまま個人宅に死蔵されているか、中古ショップの美品在庫となっているのだろう。個人的にも一度ネットで見たのが2年ほど前。それ以降お目にかかれなかったが、最近突然、Mップカメラのネットサイトに二本も現れた。使用痕が見られない美品だ。

 軽快なスナップシューターとしてのライカ撮影の楽しみとは別に、じっくりと風景撮影に取り組むという、新たなライカ撮影ライフが開けそうだ。ピントピーキング機能のついたライブビューならではの撮影を楽しみたい。しかし、くれぐれも手ブレにはご注意を!そうすれば新たなレジェンドが生まれるかもしれない。運に恵まれなかった実力者に、再デビューの機会が巡ってきたのは嬉しい。



2013PhotokinaでのM Type 240+R Adapterの発表
Stephen Danielが持つと小さく見えるが...







実際にはかなりモノモノしいいでたちとなる。
手振れ補正なぞないのでハンドグリップとEVFは必需品

三脚座つきRアダプターを装着した姿

 このレンズによる作例:

ライカらしい立体感だ


最短撮影距離1.1mでの撮影。すばらしい解像度
左上のハチに注目

ボケもなだらか

明暗の階調も豊かだ