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2024年12月28日土曜日

「ふるさとは遠きにありて思うもの」 〜年末の帰省ラッシュが始まった!〜

 今日から帰省ラッシュが始まった。年末恒例の新幹線、飛行機と高速道路の混雑模様が報道されている。我がご近所も人気が少なくなり、街が急に静かになったようだ。

東京という街はある意味「出稼ぎ」の街だと思うことがある。我々もそうだった。田舎から出て来て学校に入り、あるいは就職し、仕事して家を持って家族を養う。だから盆暮には子供を連れて田舎の両親のもとに帰省したものだ。これが昭和な高度経済成長時代の日本だった。しかし、あれからウン10年。気づくとすでに故郷には親も親しい友もなく、帰る故郷がいつの間にか無くなってしまった。駅や空港に迎えに来てくれた両親の孫を抱き上げる嬉しそうな顔。それを思いだすとあの慌ただしい帰省ラッシュが懐かしくさえ思う。それもも昭和老人の昔話になってしまった。

今や「ふるさとは遠きにありて思うもの」の心境である。今いるここが故郷なのだと。子や孫が遊びに来てくれるここが田舎なのだと。間も無く嵐がやってくる。で、今のうちに静かなご近所、昭和な街をゆっくり散策するとしよう。

















2024年12月26日木曜日

古書を巡る旅(58)『The Black Ship Scroll:黒船絵巻』 〜アメリカ人との初めての出会いはどう描かれたか? 黒船に乗って来た日本人漂流民Sam Patchとは?〜



ぺリー提督肖像
ペリー自身は髭がなかったにも関わらずこのご面相に


下田といえば、最近面白い本を見つけた。アメリカ人作家、オリバー・スタットラー:Oliver Statlerの、『Shimoda Story:下田物語』(1969年刊)と『The Black Ship Scroll:黒船絵巻』(1963年刊)である。スタットラーは太平洋戦争で日本との戦いに従軍し、戦後、連合国進駐軍で日本に長年滞在し下田にも2年滞在したこともある。両著ともペリー来航、開国直後の下田でのアメリカ人と日本人の出会いを描いた著作として興味深い。『下田物語』ではタウンゼント・ハリスの事績、人物像など彼独自の視点でまとめた著作で、発表当時に話題になった。今回紹介する『黒船絵巻』は、ペリー艦隊乗員が下田に上陸した時のエピソード、下田の人々が初めて見たアメリカ人への驚きと、街角で日米の人々が交流する模様が日本人の無名の絵師の極めてナイーヴな観察眼と筆で描かれている。その一連の絵をスタットラーが絵巻物風に仕立てて英語で解説している。ペリー艦隊に同行した画家ウィリアム・ハイネが遺した数々の日本のスケッチはアメリカ人が初めて見た日本として『ペリー艦隊日本遠征記』などでも有名だが、これらの日本人絵師の「異人遭遇記」も負けず劣らず新鮮で驚きに満ちている。初めて出会ったアメリカ人をどう観察したのか。そしてその日本人の目線をアメリカ人作家スタットラーはどう見たのか、なかなか興味深い。ペリー肖像など完全に髭だらけの天狗のようなご面相に描かれているが(ペリーは髭を生やしていないにも関わらず)、おそらく絵師は直接ペリーと会っていないので伝聞に基づいて描いたらこうなった!のだろう。実像よりも印象。いや、虚像という勿れ。この絵には日本人が心で受け止めたある意味での「実像」が描かれている。下田の街の人々とアメリカ人水兵の「出会い」の場面はまさに「未知との遭遇」「異文化コミュニケーション」そのもの。しかし、そこに描かれている人物は、さっきのペリー像と違って、意外に普通の顔をした普通の人に描かれていることに気づく。妄想と実像のギャップであろうか。スタットラーが語るように、歴史的事件としての国と国との出会いとは別に、人と人との出会いの一瞬、一瞬がなんとも微笑ましく愉快だ。この時の日米邂逅を記念して現在でも下田では、毎年5月に「黒船祭り」が盛大に催されている。当時のペリー艦隊の上陸と軍楽隊行進が横須賀米海兵隊により再現され、了仙寺での条約調印式の再現劇、日米の仮装パレード、街角でのパフォーマンス、フードコートなど楽しいイベント満載だ。日米市民レベルの交流は下田のレガシーになっている。

一方で、『黒船絵巻』には複雑な思いの人物も登場する。ペリー艦隊一行の一人に「日本通詞マトウ」なる人物が描かれている(下記図参照)。実は彼はペリー艦隊に同行した唯一の日本人漂流民である。まず日本人漂流民が黒船に乗船していたことに驚かされるが、確かに『ペリー艦隊日本遠征記』にその記述が確認できる。彼はSam Patch と皆から呼ばれた。著者のスタットラーは本名がMato Sanpachi(マトウ サンパチ)ではないかと書いているが、のちの調べで本名は仙太郎(1832年天保3年〜1874年明治7年)という播磨の船乗りだった事がわかった。

仙太郎は、あのジョセフ・ヒコこと浜田彦蔵と同じ兵庫の栄力丸の乗組員で5歳年上。1850年に遠州灘で遭難、漂流ののちにアメリカに辿り着き、のちに彦蔵らと共にアメリカから、日本へ送還すべくハワイ経由でマカオ、香港へ移された人物である。この時、彦蔵はペリー艦隊には乗船せず、アメリカに戻り帰化している。仙太郎だけが香港からペリー艦隊サスケハナ号に乗船して日本へ向かった。『ペリー艦隊日本遠征記』によれば、艦隊では簡単な通訳や乗員のサポートとしてよく働いたようだ。この時22歳。日本到着後、ペリーは幕府側の通詞、森山栄之助から、Sam Patchの帰国許可が出ており身の安全を保障するから日本に留まらせるように依頼されたが、ペリーは本人次第だと答えた。そして本人は死罪を恐れて帰国しなかった(役人との面会では「平身低頭するだけで何も言葉を発しなかった」と書かれている)。結局ペリー艦隊と共にアメリカへ戻る。アメリカでバプテスト洗礼を受ける。のちにペリー艦隊ミシシッピ号の乗員であったジョナサン・ゴーブル:Jonathan Goble(1827-1891)がバブテスト教会の宣教師として日本に渡るときに使用人として同道し、1860年帰国を果たしている。この時28歳。しばらくは横浜外国人居留地から一歩も出ずに暮らしたようだ。横浜パブテスト教会の創立メンバーに名を連ねている。その後、いくたびか雇い主が代わり渡米ののち、最後はお雇い外国人ウォーレン・クラーク:Edword Waren Clark (1849-1907)(ラトガース大学でのウィリアム・グリフィスの友人)のコック、使用人となり1871年に再帰国。静岡や東京に移つり東京で死去。享年42歳。故郷に身寄りもなかったため東京の法華宗の寺に葬られた。

当時の漂流民が、帰国を熱望しながらも、帰国後の死罪を恐れて逡巡し帰国をギリギリで忌避した様子がよく分かる。ジョセフ・ヒコの自伝(下記過去ログ参照)にも同様の葛藤と究極の選択が描かれている。ヒコはアメリカ市民権をとって開国後の日本に帰国(アメリカ領事館に赴任)している。有名なジョン万次郎は勇敢にも幕末の日本に帰国して投獄、詮議を受けている。もう一人の漂流民オットソン(山本音吉)も帰国を断念しイギリスに帰化。上海に住みアロー号事件ではイギリス兵として参戦した。その後エルギン卿のイギリス艦隊に通訳として乗船し日本に向かい日英条約交渉で活躍するが、帰国はしなかった。自らの責任で漂流民となった訳でもないのに、過酷な運命の下に置かれた彼らへの理不尽な仕打ちに同情を禁じ得ない。今回見つかったSam Patchこと仙太郎の心の葛藤は如何許りであったか。どのような心境で下田の地を踏んだのだろう。日本まで帰っていながら下田を去る時どのような心持ちであったのか。そして念願叶って帰国した後、どのような人生を歩んだのか。ジョン万次郎やジョセフ・ヒコのように歴史に名を残すことはなかったが、黒船に乗って来た日本人漂流民Sam Patchの一生を別途追っかけてみたい。

古書を巡る旅(48)2024年4月7日 「The Narrative of A Japanese :ジェセフ・ヒコ伝

2022年5月22日 「下田黒船祭

古書探索の楽しみ2015年5月26日 「ペリー艦隊日本遠征記」

この日本人漂流民、仙太郎:Sam Patchと、のちに宣教師として日本にSam Patchを伴ってやってくるジョナサン・ゴーブル:Jonathan Goble も、この『黒船絵巻』に下田に上陸したアメリカ人「マトウ」、「ゲブル」として日本人絵師に描かれている(下記参照)。

Sam Patch:仙太郎に関する書籍は多くはない。'Sentaro Japanese Sam Patch' by Calvin Parker があるので参考まで。


日本の女性と仲良くなりたいと、遊郭に押しかけて遊女にいじられるアメリカ人

艦隊には写真家も同行しており、日本人には初めてのカメラも登場する
「アメリカ国王への一覧に備へんと心を酌る図」


左は酒を飲んで踊るアメリカ水兵。振りに日本の歌詞が付けられている
右は洗濯するアメリカ水兵。港では洗濯女が洗ってくれるものだが、異人には近寄らなかったので自分で洗ったと

喉が渇いたので一杯所望したら、鬢付け油(椿油)だったので吐き出しているアメリカ水兵

街角で餅つきに挑戦するアメリカ水兵
婦人は腰が引けているが面白がっている

日本通詞マトウ
日本人漂流民、仙太郎のことである
Sam Patch(サンパチ)と呼ばれていた
少し憂いを帯びた顔をしているような

ゲベル
Jonathan Goble
のちにバブテスト教会宣教師としてSam Patchと共に日本にやってくる


ヒンテンデアル
随行画家ウィリアム・ハイネのことらしい
スケッチをしているところをスケッチされた


一方、これはウィリアム・ハイネが描いた下田の風景 了仙寺のあたりか
スケッチするハイネに子供が群がっていて役人が追い払っている

1963年初版


2024年12月24日火曜日

Who is Terence Conran?  Making Modern Britain 〜テレンス・コンラン展探訪〜

 



東京ステーションギャラリーで「テレンス・コンラン展」が開催されている。「Who is     Terance Conran? Making Modern Britain」と題したコンラン卿の足跡を辿る展覧会である。10月12日から開催されているが、年末のギリギリで駆け込んだ。年明けの1月5日に終了だ。

私にとってはコンランといえば1980年初頭の留学時代にロンドンの街角で見た「Habitat」というインテリアショップ。トラッドな街ロンドンにあって随分とモダンで洒落た店舗だと感動した思い出がある。フランス人の友人がこの店をすごく気に入っていて教えてくれたので行ってみた。ちなみに私が「ハビタット」と発音したら、彼に「アビタ」と直された。そしてその10余年後の1990年代にロンドン勤務時代の日々に、今度はコンランがプロデュースした話題のモダン・ブリティッシュのレストランを楽しんだ思い出がある。時代は変わった!「イギリスのメシは不味い」なんて誰が言ったんだ?!フィッシュ&チップス、キドニーパイしかない?確かに80年初頭は、私自身が貧乏学生であったこともあり、イギリスで美味いものを食った覚えがない。そこで覚えた味はアジアンエスニック、チャイニーズとインディアンだ。さすがの大英帝国レガシー。田舎をドライブして、ふと立ち寄った村のパブのホームメイドなイングリッシュ・ブランチも美味かった。しかし10年経ちイギリスもEUに加盟して安価な生鮮食料品がドット域内から入ってくると食事の質が確かに変わった。私自身の懐も多少は豊かになったこともある。そして美食の探求に洋の東西はない。ましてフレンチやイタリアンが全てではない。コンランのレストランはフレンチ、イタリアン、中華、和食、インド、世界各地のフュージョン料理であった。それをイギリス風にアレンジしたまさにモダン・ブリティッシュ。彼はブリティッシュキュイジーヌに新風を吹き込んだし、それが世界の人々に受け入れられた。彼のレストランはロンドン名所になった。フランス人のシェフも料理修行に来ていた。しかも、レストランのロケーションにもこだわった。テムズ川沿いのバトラーズ・ワーフ倉庫跡、タイヤ会社のミシュラン旧本社ビル、セントジェームスの地下のレジェンダリーなダンスホールなど、ロンドンの歴史と伝統ある建物をうまく生かして再生した。そうしたプラットフォームがまた新しい文化を生み出した。それが実におしゃれだ。東京のように古い伝統建築物をどんどん壊して、何の変哲もない高層ビルに建て替える再開発とは大違いだ。このセンスの違いはどうして生まれるのだろう。日本も今や外国人ツーリストが押し寄せる国になったが、本当の文化力を発揮し、それが普遍的のものとして世界に認められ受容されるにはまだまだ時間がかかりそうだ。今はただ経済力が衰退したので割安感で押しかけているようにしか見えない。日本は軍事大国、経済大国の次は文化大国しかない。そういう文化人、企業家がもっと生まれないものか。


「テレンス・コンラン展」の様子。基本的に撮影禁止であったが、一部の展示が撮影可であったので雰囲気だけでも味わっていただきたい。


東京ステーションギャラリーエントランス
丸の内南口
コンランショップ再現



バートン・コートのコンランの自宅での生活紹介





ロンドンのコンランプロデュースのレストラン達

1)Le Pont de la Tour, Chop House in Butlers Wharf

タワーブリッジ麓のバトラーズ・ワーフ、昔のテムズ川沿いの倉庫街であったところをリノベーションし、レストランとデザイン・ミュージアムを開設した。いわばウォーターフロント再開発の先駆けである。古い建物を取り壊すのではなく、再利用する。東京の天王洲アイルや横浜の赤レンガ倉庫はその影響を受けたのか、雰囲気が似ている。とにかくテムズ沿いに聳えるタワーブリッジ見ながらのディナーはロンドン生活のハイライト。家族でもよく出かけたが、日本からの来訪客を案内するにも最高であったことは言うまでもない。



'Le Pont de la Tour'
which means 'Tower Bridge'

Chop House



2)Quaglino's St. James's

セントジェームスにある昔のダンスホールを改装したレストラン。店内に入ると、まず美しい下り階段が目に飛び込んでくる。そこから見渡す階下のフロアーが美しい。階段をゆっくりと降りながら自分のテーブルへ案内される。まるで自分がスポットライトを浴びながらステージに登場する主人公になったよう感覚に浸れる心憎い演出。ちょっと知られた有名ダンスホールだったというその記憶とレガシーをうまく受け継ぐセンスが素敵だ。





Quaglino's St. James's


3)Bebendum the Michelin House on Fulham Road in Chelsea

ミシュランタイヤのイギリス本社のアールデコ建築をコンランが気に入りついに買い取ってレストランに。コンランショップも入っている。とにかく建物が素晴らしい。良い舞台が名優たちの演技を盛り上げてくれる。食事を楽しむと言うことはこういうことだとイギリス人に教わった。ロンドンが食文化の中心になるなんて10年前には考えられなかったことだ。保守的と受け止められがちなイギリス文化の多様性と革新性の象徴のようなレストランだ。



Bibendum
the Michelin House on Fulham Road in Chelsea







以下は、日本のレストアー、リノベーションの象徴、東京駅赤煉瓦駅舎。これはなかなかの出来栄えだ。世界一混み合う駅のこの余裕。日本もやればこういう事ができるのだ。壊すばかりが能じゃない。今回の「コンラン展」にふさわしいヴェニューだ。新しいモダン・ジャパニーズが生まれる予感も。


東京駅丸の内南口









ギャラリーを出るとそこは師走の東京駅



(撮影機材:Nikon Z8 + Nikkor-Z 24-120/4)
レストラン写真はそれぞれのレストラン・ウェッブサイトからの引用。



2024年12月20日金曜日

豆州下田物語 〜なまこ壁の港町には様々な歴史と物語が紡がれてきた〜

 

下田港と寝姿山

伊豆の下田は今年が開港170周年だそうだ。伊豆半島の小さな港町だが、これほど歴史と物語に溢れた街も少ないかもしれない。長い鎖国の眠りから覚めて日米和親条約で開国した日本の最初の開港地である。アメリカ東インド艦隊のペリーが上陸し、了仙寺まで軍楽隊と下田条約調印のために行進した町である。ロシアのプチャーチンが日露和親条約に調印した町である。その彼の旗艦ディアナ号が戸田で安政地震に遭遇。沈没し多くの乗組員を失うも戸田の人々の救助と軍艦建造で帰国した。遠征中に亡くなり、故郷へ帰ることができなかったペリー艦隊の水兵やプチャーチンのディアナ号の乗組員が眠る町である。その墓所は玉泉寺にある。吉田松陰がそのペリー艦隊に乗船して密航を企てるも、拒否されてやむなく断念。幕府に自首して捕えられた町でもある。日米和親条約/下田条約で開港の地となり、初代アメリカ領事ハリスが玉泉寺に領事館を開いた。不慣れな土地に赴任したもののなかなかやってこないワシントンからの便の到着を待ち侘びた波止場がここだ(ハリス日記)。好奇心旺盛なヒュースケンが街に繰り出し混浴を見に行ったり、犬に吠え立てられた町でもある(ヒュースケン日記)。異人蔑視と理不尽なゴシップから生まれた「唐人お吉」の悲しい物語の舞台もここだ。しかし、横浜が開港すると下田は閉港。歴史の表舞台から消えてゆく。そして「伊豆の踊り子」で学生がカオルと別れた波止場。その最後のシーンに胸を熱くした。そんな多くの歴史と物語を纏った下田。昔から江戸湾に入る船を監視する幕府の船番所があり、下田奉行所も置かれ風待ち港としても栄えた。江戸からは遠く離れていた。だから開港場に選ばれたのだ。立派ななまこ壁と伊豆石の商家や蔵が立ち並び、花街もある情緒あふれる港町であった。今も往時の繁栄を彷彿とさせる痕跡をあちこちに見出すことができる。下田の街並みに独特の景観を生み出している名物のなまこ壁の建物は、平瓦を並べて白漆喰で継ぎ目を埋めるもので、伊豆石と組み合わせたりして耐火、防水性に優れている。伊豆半島という土地の風土が生み出したのであろう、小規模ながら碁盤の目に整えられた町割りと相まって、内陸の在郷町や宿場町とは異なる風情がある。しかしそのなまこ壁の建物もめっきり少なくなってしまった。

伊豆の隠れ家にゆく時には、必ず、東京から伊豆急下田まで直行して街を散策する。2時間半の道のりだ。ここまで来れば、さすがのインバウンドの嵐、オーバーツーリズムも無い。黒船祭りの時以外は静かな佇まいだ。地元の観光協会にとっては不満かもしれないがこれが我が心のデトックスコース。平野屋のハンバーグ、牛すじカレー、邪宗門のウィンナコーヒーとトースト、平井製菓のハリスのあんぱん、ページワンのモツェレラチーズパスタとトマトサラダ。それに駅前のインドカレーのテイクアアウト。なんで下田に来てイタリアンやインドなのか。ワサビじゃなくてカレーなの?金目鯛じゃなくてタンドーリチキンなの?ぐり茶じゃなくてウィンナコーヒーなのか?固定観念にとらわれない下田は「舶来物」にもオープンな街なのだ。しかし、海の幸、山の幸がいっぺんに味わえる奈良本の山家料理の山桃茶屋が閉店してしまったのが何よりも悲しい。

ペリー艦隊の日本遠征記にも初めて体験する日本の街、下田の様子が興味津々で描かれている。街を歩く水兵たちはどこへ行っても子供に追い回され、奉行所が取り締まると、今度はペリーが交流を妨げないでと抗議する。公衆浴場の混浴に仰天し、女性のお歯黒に嫌悪するヤンキーの異文化体験が面白い。下田に滞在していたハリスとヒュースケンの日記を読むとさらに面白い。下田奉行所の役人とのやりとりに最初は違和感を抱いたハリスも、次第に彼らの真摯な態度と、知性、品格の高さをレスペクトするようになる。街が清潔で平和であることに驚いている。世界にこんな街はないだろうと書いている。ぺリー遠征記もハリス日記も米国全権代表としての記録なので真面目で歴史的には重要かつ興味深いが、ヒュースケン日記の方は彼の個人的な記録であり、彼の若さと好奇心旺盛な性格が現れていて、先ほどの犬に吠えられた話や無頓着な猫に歓迎される(?)話に思わず笑ってしまう。

以下にヒュースケンの1857年2月26日付けの日記の抜粋を紹介しよう。

「役人の付き添いなしに一歩も領事館の外へ出かけることができなかった。(中略)奉行所に抗議すると、それはあなた方を民衆から守る為だという。可哀想なのは日本の民衆である。我々がそれほど恐ろしい存在だと仕向けられている。(中略)下田の住民は我々と話をしないよう厳重に命令されており、我々が街に出かけるときには、住民は戸も窓も締め切ってしまう。特に婦人は我々が近づくと、まるで人類の敵に出会ったように大急ぎで走り去る。(中略)たまたま大胆に近づいてくる女性があるとすれば、それはシワだらけの八十婆さんで、目が悪いので「異国の鬼」と「自国の人間」との見分けがつかないのである。日本では普通大人しい牛馬までが、我々に出会うと目が覚めたように元気になり、後ろ脚で立ったり、跳ねたり、重い荷物を積んでいるのに全速力で駆け出したりする始末である。犬などは、月に向かって吠えるだけの動物のはずなのに、何をどう間違えたか、我々を見るとひどく騒ぎ立て、町中が犬の大合唱になり、我々の後を追いかけて街外れまで来ると、そこで郊外の犬に吠える権利を譲渡するのである。猫だけは外国人に過酷な日本の法律には従わず、無頓着に我々を見つめている。この冷淡な動物だけが、我々の最上の接待役であるというに至っては、我々も随分落ちぶれたものである」


過去ログ:

2015年5月26日「ペリー艦隊日本遠征記」

2020年10月7日「最初の米国領事館、下田玉泉寺探訪:ハリス、ヒュースケン、お吉の物語」

2024年1月21日「ヒュースケン日本日記」


下田公園からの展望

いつの時代か不明であるが古い古民家が密集している様がよくわかる。
酒屋さん「土藤商店」の店先に掲示されている古写真

航海安全と豊漁を祈る




ペリーロード界隈

波止場と了仙寺を結ぶ300mほどの小径。ペリー一行が下田条約調印式に臨むために軍楽隊先頭に行進したことから「ペリー・ロード」と名付けられた。川端には古民家が並ぶ。元は港町の遊廓街であったところ。現在は古民家カフェやイタリアンレストラン、骨董店などとなっている。

ペリーロード

下田の名家、旧沢村家住宅


伊豆石の古民家


伊豆石の蔵



現在のペリーロードあたりの古写真(大正時代か)




開国ゆかりの寺巡り

了仙寺
ペリーとの下田条約締結の地

長楽寺
プチャーチンとの日露和親条約締結の地


最初に米国領事館が置かれハリスが駐在した玉泉寺
米国水兵、露国水兵の墓所もある



街中なまこ壁建築探訪

下田の街は、江戸末期には街の西の山手に位置した下田奉行所と八幡神社、寺院群を中心に、規模は小さいが碁盤の目状になっている。街中にはなまこ壁の商家や宿屋、酒蔵、漁具店などの古民家が今でもいくつか保存され残っている。一方で、店舗やアパートなどに改装されたり、取り壊された古民家も多く、なまこ壁の家は年々減っているように感じる。また、飲食店などは「なまこ壁風」看板建築のところもある。しかし本物を修景保存することも、新たななまこ壁を作るのも大変な努力が必要だろう。職人はいるのだろうか。下田は「伝統的建造物群保存地域」に指定されていないそうだから保存修景にもお金が出ないのだろう。


お吉が開いたという「安直楼」現在は閉店中

蔵を改装したカフェ(本日定休日)

いつまでこの佇まいを維持できるのだろうか
いずれ両隣のように駐車場になるかプレハブ住宅になるのだろう

原型を留めない建物

都会では見かけなくなったカメラ屋さんも健在

昭和モダンな地域センター「コミュニティーホール」

レストラン「平野屋」
幕末に「欠乏所」が置かれ、寄港する船に必要な物資を届ける場所であった。

創業時から変わらない「松本旅館」

窓枠はアルミサッシになったが

鈴木家「雑忠」邸宅
江戸時代の商家
見事な建物




日中にも関わらず人通りが無い商店街

老舗の酒屋さん「土藤商店」
備後鞆の浦の「保命酒」を扱う

伊豆石でできた酒屋さんの蔵

下田の名物喫茶店「邪宗門」

(撮影機材:Leica SL3 + Vario-Elmarit SL 24-90/2.8-4)