ページビューの合計

2018年5月5日土曜日

戸越銀座界隈散策 〜五月五日の『子供の日」〜

 五月五日は端午の節句。子供の日で休日。連休もあと二日で終わり。最近は連休で遠くへ旅行するよりもご近所ぶらぶら散歩が定番になりつつある我が家。今日は朝から五月晴れの爽やかな一日。同じ区内の戸越銀座商店街界隈を散策することにした。帰省ラッシュや行楽ラッシュに巻き込まれることもなく、都心の普通の商店街の散策の方がゆったりした休日を楽しむことができる。と言っても最近人気急上昇中の「戸越銀座商店街」。普段よりは大勢の人々で賑わっていた。普段何気なく歩いている地元の街にも、カメラを持って歩くと今まで気づかなかった新しい発見がある。カメラはもう一つの眼である。もう一つの心の窓である。子供の日、端午の節句。こういう視点で戸越銀座商店街や戸越公園をブラパチ散歩してみた。

 ここでウンチクをひとくさり。この戸越銀座商店街は品川区内東西1.3km続く長い商店街である。東京人は日本一長い商店街だと自慢しているようだが、じつは一番長い商店街は大阪の天神橋筋商店街で2.6kmあるそうだ。「負けたらあかんで東京に🎶」トンボリ人情じゃないが、「でっしゃろ?」と大阪人は満足だろう。また、全国で一番最初に「銀座」の名を冠した商店街だという。こちらはホントで、関東大震災の後、本場の銀座の瓦礫の中からレンガを集めて、この商店街の舗装に使ったそうだ。それが縁で「戸越銀座」と名乗ることが本場「銀座」から認められたのだとか。ちなみに大阪には「銀座」の名を冠した商店街はないな。やはり...


本日休業。「子供の日ですからねえ〜」
地元の商店

本日大忙し!「子供の日ですからねえ〜」
地元の老舗和菓子屋さん


地元の鎮守の神様 戸越八幡神社
今日は祭礼の日

今日は旗日
「子供相撲大会」開催!

まわりこんで〜

がっぷりよつ

縁日の露店


戸越銀座商店街

東急池上線「戸越銀座駅」はリニューアルオープン


行列!
中華饅頭


行列!!
ご当地グルメ「おでんコロッケ」


文庫の森
旧三井文庫跡地
戸越公園
旧細川家下屋敷など代々武家屋敷であったところ
今も残る当時の「薬医門」

新緑が目に鮮やか!

地域の子供祭り開催中

黄菖蒲が満開





東急大井町線「戸越公園駅」





2018年5月3日木曜日

武蔵寺の謎(その2) 〜天神縁起絵巻「天拝山の段」〜



天拝山山頂からの展望
左が水城をへて福岡/博多方面、正面やや右が大野城、太宰府、筑紫野
手前の緑の中に武蔵寺がある


 天拝山は太宰府都城の南に位置し武蔵寺の背後に聳える山である。もともとは「天判山」と呼んでいたが、あの菅原道真公が登って天に無実を訴えた故事から「天拝山」と呼ばれるようになった。標高は258メートルとそれほど高さはない丘陵性の山であるがが、低山にしては多様な樹相の中の森林浴が楽しめるのと、頂上からの福岡市内、太宰府、筑紫野の眺望がなんといっても素晴らしい。福岡近郊の週末登山ルートとしては人気がある。登山ルートは3本ある。天拝公園から整備された歩きやすいルートもあって、中高年、家族連れ、地元の高校生や小学生がハイキング気分で頂上まで登って行く。もう一本、武蔵寺/御自作天満宮脇から登るルートがある。「天神様の径」と呼ばれていて、道真公が登った路だと言われている。こちらは険しい山道で、歌碑をかねた合目の道標はあるが、基本的には踏み分け路である。道真公の心情を共有し神霊を感じながら登るには良いルートだ。今回はこちらを辿った。8合目あたりからは急斜面になり頂上目前に難儀するがこれを越えて頂上に達した時の爽快感は何にも代え難い。

 関西にいた時は、河内/大和の国境の二上山や生駒山、奈良若草山、山辺の道の竜王山、高取城の高取山などに登り、大和国中、奈良盆地、河内平野を一望して気分爽快であったことを思い出す。もちろん飛鳥の甘樫丘も大好きな「山」?だ。二上山には2回ほど登ったが、一度は新緑の美しい季節であった。目に鮮やかな青葉と、雄岳山頂から眺めるその溢れる緑の大海にたゆたう当麻寺の姿が心に残っている。歴史の舞台をこうして見渡せる山に登るのは楽しい。今回の天拝山も爽やかな新緑の山歩きであった。筑紫太宰府の周囲にも、天拝山の他にも大野山、基山、宝満山などリフレッシュできる山々がある。太宰府に住んでいた時には毎日こうした山に囲まれた「国のまほろば」を体感したものであった。東京にいると、都会のジャングルを徘徊してばかりでこうした歴史の山歩きができないのがフラストレーションである。


 先述のように天拝山は菅原道真公が太宰府配流中に登り天を遥拝した山として人々の語り継がれてきた。道真公は、901年に藤原時平の讒言により太宰府に左遷され、903年には太宰府でこの世を去っている。そのわずかな期間に武蔵寺に参詣し、100余回、境内の紫藤の滝で禊をし、天拝山に登って天を仰ぎ冤罪が晴れることを祈念し続けた。やがてその願いが通じ、天神から「天満大自在天」の尊号が与えられた。道真公は武蔵寺で自らの姿を刻んだ像を作ったと言われている。道真公の死後、武蔵寺境内に社が建てられこの像を安置した。御自作天満宮である。こうした道真公ゆかりの武蔵寺、天拝山である。

 これらの伝承は「北野天神縁起絵巻」に描かれている。縁起絵巻は神社仏閣の創建の由来を記したもので、数多くの寺社それぞれに縁起絵巻が存在している。特に南北朝時代後期の公家文化が武家文化に入れ替わる時期以降に描かれたものが多いという。すなわち神社、仏閣を庇護する朝廷や公家の力が低下し、寺社が経営に行き詰まりつつあった時期である。こうした古刹、古社がいかに由緒正しきもの、霊験あらたかのものかを絵解きでわかりやすく世間に知らしめ、参詣者や檀家を増やすことが目的であったといわれている。したがってできるだけ話を「盛って」そのご利益(ごりやく)と御神威をアピールしようとしたであろう。後世の創作や粉飾も多かったことだろう。北野天神縁起絵巻は国宝を含め、多くの資料が残っている。やはり南北朝時代に書かれたと言われていて菅原道真公の生涯を知る上では貴重な文献資料である。特に巻の2が、藤原時平の讒言から太宰府への配流、太宰府での謹慎の日々、天拝山での無実の祈り、そして非業の死が描かれている。道真公の死後、みやこでは疫病や落雷による火災などが多発し、道真公の怨霊がなせる技と噂された。やがて、怨念封じを行い、天神、雷神となった道真公を祀る社として北野天満宮が設けられた。

 と、ここでいつもの「時空トラベラー」の文献資料の批判的解読という癖が出てくる。道真公に関しては「北野天神縁起絵巻」だけでなく、全国に数え切れないほどの伝承や文書がある。天神様が腰掛けた石だとか、足跡だとか、配流の旅にまつわる「名所」「旧跡」は全国いたるところにある。太宰府天満宮は、道真公の御遺骸を運んでいた牛車の牛が動かなくなってしまったので、そこを墓所とし、その上に安楽寺を創建し、さらに安楽寺天満宮を建てたのが起源と伝わる。それほど人気の天神様なのだし、その御遺徳のなせるわざなのだが、様々な伝承や縁起を突き合わせてみると不可解な面も感じる。例えば、なぜ天皇の忠臣であった菅原道真公が、天智天皇勅願寺である官寺観世音寺ではなく、地元の豪族虎麻呂長者が創建したと伝わる武蔵寺に詣でたのか。そしてそこで禊をして天拝山に登ったと伝わるのはなぜなのか。この場面が「北野天神縁起絵巻」のいわばハイライトシーンになっているわけだ。一方でその観世音寺に関わる道真公の事績は、道真公が自ら詠んだ漢詩「不出門」にある「都府樓纔看瓦色(都府楼はわずかに瓦色をみる)観音寺只聴鐘聲(観世音寺はただ鐘声をきく)」のみである。すなわち配所である南の居館(榎社)で蟄居謹慎していて参詣したという記述がない。配所でかの有名な「観世音寺の鐘の音」を聞くのみであったと。ちなみに太宰府政庁へも出仕しなかったと言われている。なのに「北野天神縁起絵巻」では武蔵寺へは頻繁に参詣し天拝山には100回以上も登ったことになっている。太宰府政庁/観世音寺の北の背後にそびえる大野山(大野城のちに四王寺山)は太宰府の守りを固めるため天智天皇により築かれた古代山城である。こちらの方が標高410メートルとより高く天に近いのだが。観世音寺に参詣して大野山に登り天に祈る、というストーリーが生み出されなかったのは何故なのだろう。禊をする「滝」は確かにない。武蔵寺のご本尊は薬師如来で、観世音寺は観音菩薩の寺であることは関係あるのだろうか? いや殷賑な「遠の朝廷(とうのみかど)」太宰府の喧騒を離れた南の鄙の武蔵寺と天拝山。霊力を感じる場所はこちらの方かもしれない。むしろ現世の権威/権力の象徴であり太宰府の重要施設である観世音寺や大野城といった場所では天神様の御神威を描けなかったのかもしれない。


「北野天神縁起絵巻「天拝山の巻」
九州国立博物館蔵

道真公が禊をしたと伝わる「紫藤の滝」
武蔵寺境内にある

御自作天満宮
道真公手彫りの尊像が安置されているという
武蔵寺境内にある

御自作天満宮参道脇に天拝山登山口が

天拝山の登山路
「天神様の路」ルート

低山の割には深山幽谷の趣き

ようやく九合目
左が山頂、右は基山への縦走路

天拝山頂上

北方向、「水城史跡」が見渡せる


宝満山
山岳信仰の霊山
麓の青屋根は九州国立博物館
手前は筑紫野市街

正面やや左奥が太宰府天満宮

道真公はこういう光景を眼下に、天を仰いで無実を訴えたのであろう

大野山(大野城)全景
太宰府都城をほぼ南から北に展望する


大野山(城)山麓の太宰府政庁跡
一丁ことある時には背後の大野城に立て籠もる手はずになっていた

天拝山頂上の「天拝山社」





天拝山中腹にある「荒穂神社」

「シャクナゲ谷」


二日市温泉街にそそり立つ天拝山神社大鳥居
遠くに見えるのが天拝山(御神体山)

二日市温泉「博多の湯」

二日市温泉「御前の湯」
筑紫野市観光案内図から




アクセス:JR二日市駅から二日市温泉街を抜け徒歩10分で武蔵寺、天拝公園。西鉄二日市駅からはバスで二日市温泉10分、あるいは徒歩20分。






2018年5月1日火曜日

武蔵寺の謎 〜藤原虎麻呂とは何者か?〜

武蔵寺「長者の藤」


 武蔵寺(ぶぞうじ)は筑紫野市二日市温泉の近くにある寺で、飛鳥時代創建と言われる古刹である。現在では行政区域としては筑紫野市に立地し、太宰府市ではないが、もともとは太宰府政庁から朱雀大路を真南に下がった条坊制都城の西郭外に位置する。背後には、かの有名な菅原道眞慟哭の天拝山を控える。

 また武蔵寺は、「長者の藤」と呼ばれる樹齢1300年の藤が有名で、地元の人々に親しまれている。毎年4月下旬から5月初めにかけて1メートルにもなる藤の房が無数に垂れ下がり見事である。ツツジやシャクナゲの名所でもあり太宰府に住んでいた時には良く遊びに行った。毎年4月29日に筑紫野市「藤まつり」が開かれるのだが、今年は29日を待たず、大方花が終わってしまった。今年は桜も藤も全てが足早に見頃を過ぎてしまった。

 由緒によれば武蔵寺は、7世紀頃(伝645年?)藤原虎麻呂(とらまろ)という人物により創建されたという。この年代が本当ならば、じつに「乙巳の変」があった時代の創建ということになる。また中国から帰国した天台宗の開祖最澄の開基ともいわれている。また鎌倉時代になると武蔵国池上の日蓮宗の僧侶がここを訪ね、「武蔵寺」と名付けたという。現在の寺号は椿花山(ちんかざん)武蔵寺。天台宗の寺院である。何故「武蔵(むさし)寺」としたのか。ちなみにこの辺りの地名も「武蔵(むさし)」と呼ばれる。何かこの地に「むさし」由来の伝承があったのだろう。

 藤原虎麻呂とは何者であろうか?彼にまつわる虎麻呂長者伝説が地元では語り継がれている。この虎麻呂が山中で怪火を射落としたところ、矢が大きな椿の樹に突き刺さっていた。これは薬師如来の宿る霊木で、お告げによりこれを切り出して薬師十二神将像を彫って安置した。これが寺の建立の由緒、また寺号椿花山の由来であるという。また虎麻呂は子に恵まれず薬師三尊に祈り続けたところ娘を授かったという。また疫病が流行り、多くの民が苦しみ、虎麻呂の娘も病気になった時、夢枕に立った僧侶のお告げにより、近くの葦原の中に湧き出でる温泉を見つけ、それに浸かったところ快癒したという。これが次田の湯、武蔵の湯、すなわち二日市温泉の由来であるという。地元では虎麻呂は大事な長者様で武蔵寺近くの天拝公園には銅像が建っている。

 このような伝承は、室町時代後期から江戸時代初期の「武蔵寺縁起絵巻」のほか、江戸時代の黒田藩の貝原益軒が編纂した「筑前国続風土記」に記されている。また「今昔物語」「梁塵秘抄」にもその名が登場する筑紫の古刹であるが、創建の歴史を語る文献資料は少なく謎が多い。そもそもこの藤原虎麻呂とは一体いかなる人物であったのか。藤原鎌足の孫だとか、壬申の乱で活躍し天武天皇から筑紫の国主を賜ったとか伝わっているが、そうした記録は残っていないし、創建の年代とも合わない。一方で平安時代の人物らしい描写があったりする。実在の人物であったのだろうか。なぜそのような人物が飛鳥古京から筑紫太宰府に来たのか。少なくとも藤原氏一族の中に虎麻呂の記録は見つからない。

 一方で、蘇我馬子の孫、蘇我日向(ひむか)臣無邪士(むさし)という人物が初代の筑紫太宰帥として赴任してきた。孝徳帝の時代で、孝徳天皇の病気平癒を祈願し太宰府に般若寺を建立(654年)したとある。のちに廃寺となり現在は鎌倉時代の石造の七重の塔が残るのみである。実はこの蘇我日向臣無邪士(むさし)が武蔵寺の創建者ではないかとも言われている。すなわち、伝説の長者、藤原虎麻呂とは蘇我日向のことだというのである。

 この蘇我日向は実在の人物で、よく知られた中央政界における政変ののちに、筑紫に赴任してきた。日本書紀の記述にある中大兄皇子。中臣鎌足等による645年の「乙巳の変」である。これにより馬子の子、蝦夷、その孫、入鹿が死に蘇我宗家は滅亡したが、蝦夷の兄弟、蘇我倉麻呂の子である蘇我日向と蘇我倉山田石川麻呂は中大兄皇子と中臣鎌足についてクーデタに加担した。石川麻呂は新政権(孝徳帝)で右大臣にまで昇進するが、日向はこの異母兄弟、石川麻呂を「謀反の疑いあり」として討つという行動に出た。のちにこれは無実であることが判明する(と書紀に記述されている)。これは、新政権後も大きな勢力を保有していた蘇我氏への中大兄皇子と中臣鎌足の陰謀であったと言われている。蘇我日向は利用されたようだ。この結果、中大兄皇子により蘇我日向は筑紫太宰帥として筑紫に赴任させられる。これが記録にある最初の太宰帥である。

 この人事、蘇我日向は筑紫に左遷されてきたのか、栄転してきたのか説が分かれる。太宰府というと左遷のイメージが強いが、必ずしもそうとは言えない。特にこの時期は大陸情勢が緊迫し、筑紫の外交防衛面での重要性が高まっていた時期である。中大兄皇子、のちの天智天皇は筑紫経営を重視していた。太宰府のトップ「帥(そち)」はかなり位の高いポジションで、のちの平安時代には皇族のみが付くことができ、現地に赴任しないよう任官であった。実際には「権帥(ごんのそち)」すなわち次官が現地に赴任した。有名な菅原道眞は太宰権帥であった。道眞の左遷で、すっかり太宰府は左遷の地として有名になってしまったが。ちなみに平清盛は太宰大弐(権の帥に代わる次官)を朝廷に要求し、以降代々平家一門が太宰大弐として筑紫太宰府に赴任し、博多津における貿易利権を独占した。

 しかし、この時の蘇我日向は栄転という形をとった左遷の可能性もある。中大兄皇子と中臣鎌足による、乙巳の変の功労者、石川麻呂謀殺の陰謀を封印するための人事というわけだ。赴任後の日向が太宰府でどのような権勢を振るい、生活をしたか記録は残っていない。結構優雅な生活を送っていたのではないかと思う。孝徳帝や天智帝の意を受けて西国経営に手腕を発揮し、般若寺や武蔵寺などの寺院を建立し、後の「遠の朝廷」の基礎を作ったのかもしれない。日向はその後どのような人生を送ったのか。これも記録がなく謎が多い。一説に中央へ戻されたが、壬申の乱では近江朝についたため、天武天皇の時代にまで生き延びたものの、落魄の人生を送ったとか(物部日向と同一視する説)。ともあれここ筑紫太宰府では、日向の事跡が伝説化され、藤原氏由来の「虎麻呂長者」として語り継がれたのかもしれない。正史に時々登場するが歴史の主役ではなく脇役として名を残す謎の人物の一人だ。

 武蔵寺は筑紫最古の古刹であると言われている。ということは天智天皇が母の斉明天皇の追善のため発願し創建した観世音寺よりも古いということになる。観世音寺は斉明天皇崩御の661年に着工したが、完成は746年だと言われている。そもそも太宰府はいつ頃成立したのか(いつ頃消滅したのか)、はっきりした記録がない。日本書紀によれば斉明天皇が百済救援のために軍を率い筑紫に進駐した時には、朝倉橘広庭宮(今の朝倉市)が行在所になり、そこで崩御した。中大兄皇子は現在の福岡市の高宮に前線司令官として駐在したようだ。このころにはまだ太宰府は設けられていなかったのであろうか。百済救済のために出兵した「白村江の戦い」に敗れ撤退ののち、唐/新羅連合軍の列島侵攻を警戒し、博多湾岸にあったと思われる屯倉(ヤマト王権出先拠点。福岡市三宅地区あたりか)を、内陸の現在の太宰府の位置まで後退させ、大野城、基肄城、水城を築いたのが663年。これが太宰府の始まりとも考えられる。しかし、蘇我日向の筑紫赴任は645年の乙巳の変、649年の石川麻呂讒言の後、654年頃ではなかったか。そうだとすると筑紫太宰の成立はもっと早く、武蔵寺もその頃には現在の地に創建され薬師如来を祀っていたのであろう。

 この蘇我日向臣無邪士(むさし)が藤原虎麿のモデルであり、地元では武蔵(むさし)の「虎麻呂長者」に仕立て上げられて行ったのだとすれば、武蔵寺はヤマト中央政界の激変、白村江敗戦後の混乱、草創期の筑紫太宰府を見てきた歴史的な古刹ということになる。面白い。だが、蘇我日向、藤原虎麻呂という謎の多い人物の創建によると言われるだけあって、武蔵寺もいまだ謎多き寺だと言えよう。

武蔵寺山門
(筑紫野市HPより)

武蔵寺本堂と藤

参道
緑濃い境内だ












紫藤の滝
菅原道眞がここで禊をして天拝山に登ったと伝わる


御自作天満宮
新緑が美しい

石楠花谷
しいの花

天拝公園の藤原虎麻呂の像
なぜか平安時代の装束だ

武蔵寺縁起