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2020年10月12日月曜日

クラシックカメラ遍歴(8)Leica Copy Cameras 〜本家を超えた偉大なるライカコピーたち〜

Leica IIIa
高速シャッター1/1000を装備
本家本元のライカカメラ

レンズはSummarit 50mm f.1.5
当時としては驚異的な高速レンズ

Leica Pistol
底に速写用ワインダー、ライカピストルを装着できる

まずは本家本元のLeica IIIaをとくとご覧あれ。1935~1950年、すなわち戦前にドイツのエルンスト・ライツ社:Ernst Leitz GMBHで製造された戦後まで続いた板金成形のバルナック型ライカだ。III型に始まり、高速シャッタ1/1000を追加したIIIa、ファインダーを改良したIIIbへと進化した。他社の追随を許さないと言われた最高峰カメラである。唯一の競争相手は、同じドイツの老舗光学機器メーカー、カール・ツアイス社:Carl ZeissのContax Iだけだと言われた。そのLeica III型をモデルにした(コピーした)各国のライカ型カメラの代表作を三点ご紹介しよう。

戦時中、交戦相手であったドイツからLeica IIIが入らなくなり、困ったイギリス、アメリカ、日本が製造したのが「ライカコピー」と言われるカメラだ。カメラは個人の趣味の道具ではなく、特にライカのような小型、高性能なカメラは重要な軍用機材であった。英米は開戦初期はライツ社製の高性能カメラを確保するために、中立国や第三国から輸入したり、国内の研究機関や市民などのライカ所有者からの供出に頼ろうとしたが、それでは間に合わず、やがてライカを分解して研究し自国でコピー製品を製造しようとした。これがコピーライカの始まりだ。やがて戦争が終わり、イギリスは占領中のドイツ、エルンスト・ライツ社のウェツラー本社から設計図を接収したり、海外のライツ社の特許の無償公開を利用して製造を進めた。またアメリカでは米国子会社のニューヨークライツ社による全面的な支援があり、英米両国で「ライカ」の国産化を進めた。一方、ドイツからカメラの製造設備を接収したソ連(ロシア)が大量のライカコピーやコンタックスコピーを製造した(ハッキリ言ってどれも粗悪品ばかり。コレクターアイテムにはなっているが)。日本は持ち前の器用さで数多くのライカコピーやレンズシャッタカメラを作り、戦後の外貨稼ぎの柱となった。そうしたいわば草の根のカメラブームが日本のカメラ業界の発展の基礎となった。

この戦後間もない時期のライカコピーは、戦前の板金加工ボディーのLeica III, IIIa, IIIbをベースに行われた。したがってその形状はIII型とウリ二つ。ところが、コピー製品の方はダイキャスト成形の高剛性ボディーで、かつ仔細にみると様々な改良が施され、本家のライカを上回る出来ばえの高性能カメラに仕上がっている。戦後のこの頃には本国ドイツでは(戦争中、戦後の荒廃の中であるにもかかわらず)次世代モデルであるダイキャスト成形のIIIcが開発済みであったが、ライカコピーは全て戦前型(板金加工型)のIIIa型のデザインを踏襲していたのである。こののちライツ社はドイツの戦後復興と共にIIIc, IIId、そして究極のバルナック型ライカ(スクリューマウント)となるIIIfを市場に投入してくる。ライカコピー製品の命脈は、その成立の事情から考えてもは徐々に絶たれてゆく。

ここでは代表的なライカコピーカメラ、英国のリード、米国のカードン、そして日本のニッカを紹介しよう。


1) 英国製 Reid + Taylor-Hobson 50/2

Reid & Sigrist Ltd. Leicester England

イギリス軍の要請により、レスターにあった航空機関連の精密機器を製造するリード・シグリスト社に白羽の矢が当たりライカコピーを製造開始。ということでReidはLeica IIIb(高速シャッタ1/1000搭載、ファインダー改良)をモデルとし、軍用として製造された。やがて民生用としても売り出された。民生品としては1947年に発表され、実際の市場には1951年に登場して、1964年まで発売された。すなわち、戦時中の軍の要請に始まるのだが、戦後に比較的長く販売された。ライカに倣ってスタンダードなI型と高性能なIII型の二種類があった。I型は主に軍用に納品されたようだ。

今回取り上げたReid IIIは3機種の内、仕上げが一番洗練されている。ボディー角やノブ類の面取りなど、掌に馴染む仕上げとなっている。エルゴノミクスはLeica IIIbよりも優れている。シャッター軸にはボールベアリングが使われ、滑らかな駆動。貼り皮も滑りにくい材質。ダイキャスト成形も薄型で、のちのLeica IIIcのそれよりも出来が良いかもしれない。シャッター巻き上げやレンズ距離計のスムースな動きも秀逸だ。ボディー正面にストロボ用の接点が用意され利便性もオリジナルを上回っている。いかにも「英国製ライカ」という佇まいだ。

沈胴、直進ヘリコイドの50mm(2 inch) f.2の標準レンズがついてくる。このレンズはテーラー・ホブソン社製で、シャープで秀逸な名レンズである。その姿形も工芸品と言って良い上質なものである。付いてくるレンズキャップのエレガントさはまさにMade in Englandだ。イギリスには、この他にもロスやダルメイヤーなどの優秀なレンズメーカーがある。ライカLマウントレンズの他、英国製カメラ用(アドボケイト、エンサインなど)にずいぶん作った。



フィルム巻き上げノブ、巻き戻しノブは角が面取してあり、またボディーも全ての角がアールが取ってあって手触りが良い。
ダイキャスト成形のボディーも薄く仕上がっていて、しかも剛性感がある。
ストロボ、フラッシュ用接点が正面に設けられている

メッキ、貼り皮の質が高く美しいシルエットだ

軍艦部のレイアウトはLeica IIIbと同じ
「Reid」のロゴが誇らしく彫られている

レンズはTaylor-Hobson Anastigmat 2 inch f.2
鏡胴の作りも高品位

レンズキャップのロゴが美しい


2) 米国製 Military Kardon + Kodak Ektor 47/2

Premier Instrument Corp. USA

カードンは、戦時中、交戦国ドイツからライカが入って来なくなったので、アメリカ陸軍によりニューヨークのプレミア・インストルメント社に製造が委託された。アメリカでは戦前からコダックなど、大手のカメラメーカーがあり、軍用のシグネットや、スピードグラフィックスなどのカメラが製造された。それに加えてライカ型の小型高性能カメラへの軍需ニーズが高かったことから製造に着手した。こちらはLeica IIIaをモデルとした。戦後は、ニューヨークのライツニューヨーク社の全面協力もあり製造が進み、カードンは軍用から転用して民生用として売り出された。もっともカードンの製造台数は限られており、軍用、民生用合わせて2500台ほど。日本のように大量にライカコピーが製造されたわけではない。またイギリスのリードのように戦後長く販売されたわけでもない。戦後はドイツからも本家のライカが入るようになり、さらには戦後復興が急速に進んだ日本からは、安価なライカコピーが輸入されるようになった。一方でドイツコダック(戦争中も存続した)のレチナなどがアメリカで大量に販売されたこともあり、カードンは民生用としては普及しなかった。したがって現在中古で出回っている数にも限りがありレアものとなっている。軍用と民生用で(後述のように)形状が異なっており、これは軍用のカードンである。

軍用は堅牢でヘビーデューティーな作り。メッキは光沢が無く、マットな感じでエッジがたった無骨さがある。使用感はややゴリゴリ感があり、洗練された工芸品というよりは、ロバストな実用品としての工作精度を感じる。当然、軍用であるので、戦場での使用に配慮した様々な工夫が施されている。なんといっても手袋をはめたままでも操作しやすいように多くの改造が施されている。大型のフィルム巻き上げノブ、背の高いシャッターボタン、低速シャッターダイアルのレバー、レンズの距離計ダイアルにはギアーが付いており、フィルム入れ替えの底蓋のロックレバーは、開けやすいようにスプリングで半分浮き上がらせている(アメリカとは思えない細やかな配慮!)。全体としてはメカニカルな「武器」のような風合いのカメラだ。陸軍信号部隊用である旨のシリアルナンバーと機種名プレートが背面に付いている。

レンズはコダック社製のエクターだから写りが悪いはずがない。アメリカ製のエクトラやハッセルブラッドなどのハイエンドカメラに採用されている名レンズ。黒いリングがレンズ先端に取り付けてあり、Made in USA by Eastman Kodak Co. Rochester, N.Y.とある、鏡胴側の絞りリングにはPremier Instrument Corpと刻印されている。ライカの形をしているが、これはアメリカ製であると、アメリカの製造業の基礎体力の充実ぶりを主張しているようだ。



大型フィルム巻き上げダイアル、シャッターボタンはトール型、レンズには距離計ギア、低速シャッターダイアルには突起が付いていて手袋のまま操作しやすくしてある。
無骨で堅牢な作りだ

フィルム交換のための底蓋開閉ノブは半分浮かせてあり、
手袋のままでも操作できるようになっている
ここにまでUSAの刻印が

米陸軍信号部隊用であることを示すプレート
シリアルナンバーが打刻されている
製造メーカーはPremier Instrument Corp.


軍艦部のレイアウトはLeica IIIbと同じ
メッキの質はマット調で工芸品的な美しさはないが、堅牢でロバストな仕上がり
「Kardon USA」のロゴもシンプル。シリアルナンバーなどは打刻されていない

レンズはKodak Ektar 47mm f.2
アメリカが誇る名レンズがついている



3) 日本製 Nicca + Nikkor-Q 50/3.5

Nicca Camera Co.Ltd Tokyo, Japan

1940年、キャノンの前身である精機光学でハンザキャノン製造に携わっていた技術者が立ち上げた光学精機がニッカの前身。戦時中は1942年に軍用に「ニッポン」というライカコピーを作った。これは軍の命令で特許無視で製造したものだ。戦後、1947年に社名をニッカと改称し、民生用に転換して、Leica III(1/500シャッター版)のコピー、Niccaを製造した。以降、改良を加えながらシリーズ5まで製造され、最後はヤシカに吸収されて消滅した。

戦後はニッカの他にも、レオタックス、チヨタックス、タナック、ミノルタ、キャノンなどのカメラメーカーがライカ型のカメラを製造した。1950年代に入るとさらに数多くのライカコピー機(中小のメーカーが多かった)が登場した。日本くらい多品種なライカコピーが作られた国はない。もっともライカコピーとは言っても、外見だけがライカ風で中身はレンズシャッターの廉価版カメラや、なんちゃってライカのトイカメラを含め、ほぼ無数と言って良いほどの機種が生み出された。しかしそれを基礎とし、その中から改良型の高付加価値型のカメラが出回るようになり、やがてMade in Japanカメラとして戦後の輸出花形商品となっていった。その中でもニッカはそれなりの精度と高品位な仕上がりを持つ「本格的なライカコピー」として人気があった。海外でも本家のライカよりははるかに安くて(当時のライカは家一軒買える価格と言われた)、その割には高性能な「日本製ライカ」が売れた。レオタックスと共にライカ型カメラの一時代を形成した。原型モデルのコピー、その改良版、量産化(高品質で安い)という日本のモノ作りの原点がここにある。そうした歴史的な「産業遺産」としても興味深い製品である。しかし、この頃はすでにドイツの本家ライツ社はダイキャスト成形の軽量かつ高剛性ボディーに、高性能な光学ファインダーを搭載したLeica IIIfを市場投入しており、これに比較すると戦前のIII型をモデルにした板金ボディーのニッカはさすがに見劣りするようになっていった。しかも、ライツ社は1956年にはが距離計連動ファインダー付きの、全く新しいライカM3を出し、とうとう日本のカメラメーカーは追いつくどころか突き放されてしまった。ニッカはこの時にはヤシカに吸収され、ヤシカブランドのカメラがやがては世界を席巻することになる。ところで、この究極の距離計連動レンジファインダーを搭載したライカM3のインパクトは強烈で、なんとかライカについてゆこうとしたニコンはこれに追いつけないと観念し、一転、一眼レフカメラに転換して、ついに世界のニコンFになった話は有名。

このニッカのレンズはそのニコンの日本光学のNikkor 50m f.3.5。標準レンズとしてキット化されている。この他にもf.2やf.1.5の高性能レンズもラインアップしていた。この時期、ニッカは日本光学(海軍)のレンズ(ニッコール)を、レオタックスは東京光学(陸軍)のレンズ(トプコール)をつけていた。このニッコールは光学性能が非常に優秀で、欧米市場でもライカレンズに匹敵する高い評価を得始めていた。しかもレンジファインダーの最短撮影距離1mという限界を超えて近接撮影ができる。実際には距離計連動しないので、近接撮影用のスタンドに取り付けて撮影する。ちなみに最近のデジカメに装着すると簡単に30cmくらいまで寄れるので便利だ。日本光学は、秀逸なニッコールシリーズを次々と市場に投入し、ライカと競い合う製品となる。のちにライフ誌のカメラマン、ダンカンによってニッコールが絶賛されて、一眼レフカメラ、Nikon Fと共に世界的にな成功を収めることとなる。このニッカにキットされた標準レンズは、その初期の記念すべきニッコールであった。


上質なメッキと貼り皮
戦後の物資不足の時代の製品とは思えない仕上がり

シャッター速度は500分の一までのIII型初期
Type-3やIIIの刻印がない

軍艦部レイアウトはLeica IIIと同じ

レンズはNikkor 50mm f.3.5
ライカのElmar 50mm f.3.5をモデルにしたが沈胴ではない
この他にもf.2, f.1.5があった

Nikkorはレンジファインダー機の最短撮影距離3.5 feetよりもさらに1.5 feetまで寄れる。
近接撮影モードが特色だが距離計ファインダーには連動しない。
(1.5 feetに設定した状態。鏡胴が伸びている)


こうして振り返ってみると面白い。その後、イギリスもアメリカもカメラ製造事業は縮小してゆき、その一方で日本は世界市場を席巻していった。そのスタートポイントが「憧れのライカ」に追いつけ追い越せで、そのコピーを作るところから始まったことは先述の通りだ。そのライカは、とうとうニコンやキャノン、ミノルタなどの日本のカメラメーカの後塵を拝することとなり、伝統のエルンスト・ライカ社はついにスイスの会社に買収され、創業の地ウェツラー本社を失う事になる。やがて時代はデジタルカメラ時代へ。レンジファインダーカメラから、一眼レフカメラへと進展していったカメラは、ミラーレスカメラへ。コンパクトカメラはスマートフォンにその座を奪われる。さしもの日本のカメラメーカーも勢いを失いはじめ、次々と事業縮小し、ブランドを他社に売却してカメラ事業から撤退するところも現れている。そしてあのライカが、臥薪嘗胆、そろそろと伝統のブランドを生かして復活してきた。Leica Wetzlar本社と赤バッチを復活させた。そうブランド資産は強い。そして今度は宿敵、ニコンやキャノンをミラーレスで追撃し始めている。一方でふと気がつくと家電メーカーであったはずのソニーやパナソニックが、半導体や電子技術やデジタル技術を駆使してデジカメ市場で台頭してきているではないか。カメラ業界の栄枯盛衰。すべてはライカコピーから始まった。その本家のライカはこれからどこへゆくのか。ニコンやキャノンはどう戦うのか。まさか第二の「ライカコピー」時代に入るのではあるまいな。奢れるものは久しからず、盛者必衰の理あり。

(参考文献:「世界のライカ型カメラ」カメラレビュー・クラシックカメラ専科45巻)

(撮影機材:Leica SL2 + Apo Summicron SL 50/2 ASPH)


2020年10月7日水曜日

伊豆下田の玉泉寺 最初の米国領事館跡を探訪す 〜ハリス、ヒュースケンそしてお吉の物語〜

伊豆下田の玉泉寺
初の米国領事館が置かれた場所
米国領事館跡の碑とともにロシア艦ディアナ号水兵墓所の碑も建っている


前回は最初のイギリス公使客館が開設された高輪の東禅寺を訪ねたが、今回は伊豆下田の玉泉寺を訪ねた。ここは初めてのアメリカ領事館が開設された日米交流史にとって記念すべき寺だ。英国公使館開設に遡る4年前、1854年米国ペリー提督と幕府の間で締結された「日米和親条約(神奈川条約)」に基づき開港された下田が米国領事館開設の地となった。日本にとっては鎖国時代を打ち破る「開国のシンボル」とも言うべき史跡である。今回はこの舞台に立った3人の人物を紹介しよう。ハリス、ヒュースケンと、お吉だ。タウンゼント・ハリスの幕末日本における活躍と日本の新しい時代を作り出した役割については、ここで改めて詳説するまでもないが、彼は民主党支持のニューヨーカーである。そして知られざるもう一つの顔、すなわち出身地ニューヨークにおける教育者としての姿についても知ることになる。あのニューヨーク市立大学の創設者なのである。そして彼がこの舞台の主役であるとすれば、彼を取り巻くいわば脇役たちの物語も興味深い。


タウンゼント・ハリス:Townsend Harris(1804〜1878年)

1804年、ニューヨーク州サンデーヒル(現ハドソンフォールズ)に生まれる。ウェールズ系移民の子として育った。
1847年、苦学の末、ニューヨーク市教育委員会委員長に就任。この時に庶民でも高等教育を受けられるようにフリーアカデミー、現在のニューヨーク市立大学:City College of New Yorkを創設。自らもそこで教鞭を取った。地元ニューヨークでは市立大学創設者として知られている。
1849年、貿易商として上海に渡る。このころから東洋に強い関心を抱くようになり、奇しくも日本に開国交渉に向かう途中のペリー艦隊に遭遇。このデレゲーションに加わるべく交渉するが軍人ではないとの理由で断られ断念。
1854年、清国寧波領事に就任。
1854年、のペリーの日米和親条約締結に伴い、米国領事館を設置することとなったことを知り、ニューヨーク時代の人脈を通じて各界に根回ししたのち、1855年ついに当時のピアース合衆国大統領によって初代日本総領事に任命される。
1856年、初代駐日総領事として下田に赴任。この時ニューヨークで出会ったヘンリー・ヒュースケンを通訳として伴い米艦サン・ジャシント号で下田に上陸。玉泉寺に領事館を開設した。
1857年、日米和親条約の改定である下田協定を締結、このなかで領事裁判権を認めさせた。同年、江戸に参府して13代将軍家定に謁見、大統領親書を渡す。
1858年、彼が全権代表となって日米修好通商条約(14カ条)を締結。これが彼の最大のミッションであった。幕府はこれを機に五カ国と修交通商条約締結(安政五カ国条約)。これが朝廷の勅許を得ずに大老井伊直弼の独断で締結され、安政の大獄、桜田門外の変へとつながっていったことは知られているとおりである。。
1859年、日米修交通商条約を受けて江戸の善福寺に米国公使館を開設。ハリスは公使に昇格し下田から移る。
1861年、ヒュースケン暗殺。これ以降攘夷派のテロ相次ぐ(東禅寺事件など)
1862年、帰国(体調不良が理由と言われる)
米国への帰国後は公職にはつかなかったが、彼のこれまでの功績により議会決議で給付された年金で暮らした。
1878年、フロリダで死去。ニューヨークのブルックリン、グリーンウッド墓地に埋葬。
民主党支持者。聖公会の敬虔なクリスチャン。生涯独身を通した。

ハリスは、同時代に日本に駐在したオルコックなどのイギリス人と違い、キャリア外交官ではない。独立から100年も経っていない新興国アメリカ合衆国は、キャリアとしての連邦政府官僚や外交官を育成、保持する官僚制を持たず、海外現地に駐在している貿易商などを領事に任命した。高等教育を受けたエリート官僚や外交官ではなく、民間人が官僚や外交官になる。これは、大統領が変わると、選挙キャンペーン支持勢力(資金提供者)から各国大使やワシントンの連邦政府各省トップを指名する(いわゆる猟官制)という、現在まで続くアメリカの特色である。それにしても、ニューヨーク市での功績はあるにしても、一介の上海の貿易商に、このような重要な国の外交ミッションを与えるという米国の人材登用システムのダイナミズムには驚く。英国のオルコックやパークス、サトウらが職業外交官であるのと大きな違いだ。ちなみに日本に赴任してきたオルコックとオリファントは、長崎から江戸へ艦隊で向かう途中、下田に寄港し、ハリスとヒュースケンに会っている。記録にはハリスから日本の事情を聞き、解説を受けたとある。この出自がまるで違うイギリス人とアメリカ人、二人はお互いどのような印象を持ったのだろうか。やがて江戸で幕府と修好通商条約交渉に入るわけだが、この時どんな会話をしたのだろう。興味がある。

彼は聖公会派の敬虔なクリスチャンであり、厳格な性格の人物であった。米国領事、米国公使というオフィシャルな立場からだけでなく、自らの出自から来る庶民目線を失うことなく日本を日本人を観察している。彼が残した「ハリス日本滞在記」( 'The Complete Journal of Townzend Harris' in 1930)には随所に彼の目線でのエピソードが語られている。なかで日本は文明国で、この上もなく清潔で快適な国だと絶賛している。ことに下田がいかに庶民にとって平穏で豊かに暮らせる街であるか記述している。ただ、この国がこれからやがて近代化への道を歩むことで、日本人にとって幸せな事態が訪れるのかは幾ばくかの不安を感じた。彼がこの地に初めて星条旗を掲揚した時の日記には、「疑いもなく新しい時代が始まる。敢えて問う、これが真の日本の幸福になるであろうか?」と。ちなみにペリー艦隊の報告書で有名になった「下田混浴」については、「なぜこのような醜悪で不道徳な習慣があるのか」と嫌悪している。彼の外交官としての視線は、むしろ国家と国家ではなく人と人であった。これは江戸に遷り米国公使なったあとも変わりない。階級意識、エリート臭、プロトコル重視のアリストクラチックなところがなかったので条約交渉にあたって、幕府の高官は扱いにくかったであろう。しかし、ペリー来航のインパクトに続き、日本に乗り込んできたハリスの辣腕が日本がさらなる欧米各国との通商開始、開国へと進む原動力となったことは記憶に留めるべきである。と同時に、ハリスが原型を作った日米修好通商条約が、各国との「不平等条約」の一種の雛形になったことで、その解消に明治新政府がどれだけの苦心をしたかについても改めて記憶すべきことであろう。もっとも清国での大英帝国による恫喝とも言える交渉で香港が割譲され、多くの都市で排他的な租借地や居留地が設けられて植民地化されていったことを考えると、ハリスはそうした日本の植民地化につながる条件を条約に取り入れなかった。当時の幕府側の交渉力とハリスの対日外交政策が、列強の植民地化政策を防ぐ役割を果たしたとも言える。こうした「外交官」としての辣腕ぶりばかりが日本では話題になるが、彼の出身地ニューヨークでは、先述のように、庶民のための高等教育機関を創設した功労者として記憶されていることを忘れてはならない。後述する。


晩年のハリス


ヘンリー・ヒュースケン:Henrry Heusken(1832〜1861年)

アムステルダム生まれのオランダ人。のちに米国へ移民。貧困の中様々な職業を転々としていたが、人の勧めもあって日本に赴任するハリスの通訳募集に応募。英語とオランダ語の通訳として採用される。
1856年、ハリスとともに下田に赴任。玉泉寺の米国領事館に通訳官として着任。
当時の日本は英語がわかる役人が少なく、オランダ語で幕府とは交渉し、それを英語に翻訳するという交渉スタイルであった。彼はオランダ語、英語だけではなく、フランス語やドイツ語も堪能で、滞在中に日本語も習得している。したがって他国領事館からも重宝され、引っ張りだこで幕府との交渉にに駆り出されたという。
1859年、日米修交通商条約に基づき、江戸の麻布善福寺に米国公使館開設。ハリスとともに下田から移転する。
1861年、プロイセン公使館からの帰りに攘夷派「浪士組」の薩摩出身者の襲撃により殺害される(享年28歳。港区光林寺に埋葬され墓碑がある)。

このヒューケンの殺害事件は各国にとって衝撃の出来事であった。外国人が排外的な集団に襲撃され殺害される事件が起きはじめて7件目の事件であった。しかし、ヒュースケンは先述の通り、幕府からも各国公使館からも信頼される人物であり、外交交渉において重要な役割を担った外交官であり、その殺害のインパクトは多大であった。また、人柄が多くの人々に愛された。この時もいつものように赤羽橋のプロイセン公使館に出かけて麻布の米国公使館へ戻る途中であった。幕府側から付けられていた護衛隊が付き添ってたが、その間隙を狙って赤羽橋付近で襲撃された。彼の葬儀は、幕府からは新見豊前守、小栗豊後守はじめ5人の幕閣が参列し、各国の公使や外交官も参列する盛大なものであった。各国の軍楽隊が葬列に付き、彼の棺は星条旗で覆われ、オランダ海兵隊員により運ばれた。幕府からもハリスに対して弔意が示された。幕府はヒュースケンのオランダにいる母親に弔慰金を払っている。ハリスはもとより各国公使館は幕府に厳重抗議する。これをきっかけに各国は公使館を横浜へ移すべく外交団の間で論議が沸き起こったが、ハリスだけは江戸に留まろうとした。このころは江戸に駐在する外国人外交官の数が増え、また民間人も横浜の居留地を勝手に出るものや、傲慢で不遜な態度を取るものもいて、日本人の反発が懸念される状況になっていた。特に中国に駐在経験を有する彼らが、日本に赴任してくるケースが多く、植民地化された地域の中国人に対するの尊大な同様の態度で日本人に接することが排外運動の火種となりうる、とハリスは懸念していた。そういう意味でもヒュースケン殺害事件は、そのハリスの懸念が現実のものとなった事件であった。これ以降、攘夷派による外国人襲撃事件が多発(同年の英国公使館襲撃の東禅寺事件など)。薩英戦争、馬関戦争まで尊王攘夷のテロ活動が吹き荒れることになる。

ヒュースケンの人柄は、ハリスが厳格な性格であったのに対し好奇心旺盛な若者で、人に好かれる性格であった。下田の領事館で女性の召使を要求したのも彼だと言われている。下田の混浴を見にいったり、人々の日常の生活に興味を持って庶民と交流したと言われる。彼が残した「ヒュースケン日本日記」(岩波文庫で翻訳されている)は貴重な幕末史料の一つであるが、堅苦しい外交官の記録というよりは「若者が見た日本」、といった読み物としても興味深い。そのなかで将軍の謁見のためハリスとともに出かけた江戸参府の旅模様が出てくる。150名くらいの大行列であったようで、天城峠越えの苦労。そしてそれより高い箱根越えで富士山を見て感激した様子が約2ページにわたって記述されている(下田港から海路でなく天城越えの陸路で行ったことも驚きだ)。また、ハリスの日記と同様、日本が近代国家へと変貌してゆくことに、本当に日本人のためになる近代化なのか、との不安を吐露しているところが目に止まる。こうした観察と感想は、当時の多くの来日外国人の日記に見られる。彼らがはるけき日本にやってきて出会ったもう一つの文明国。人々の純朴さと、秩序が保たれ清潔で穏やかな生活が、やがて西欧文明に汚染されて、壊されてゆくことを懸念する感情だ。その後の日本を知る我々には示唆に富む記述だ。彼らが出会い新鮮に感じた、異国ユートピア観へのノスタルジアと片付けられない何かが感じられる。彼が生きていたら、どのような日本を見たのだろう。どのような日米関係を築いたであろう。そうしたヒュースケンが江戸で攘夷派の浪士に襲撃されて非業の死を遂げたことは日本にとっても痛恨事である。


下田時代に日本人が描いたと言われるヒュースケン騎乗図(作者不詳)

ヒュースケン襲撃の図(作者/年代不詳)


お吉(斎藤きち)(1841〜1890年)

ハリスが病気になった時に領事館へ看護師役として奉行所から派遣された女性である。当時17歳のうら若き女性であった。条約交渉に行き詰まっていたハリスは体調を壊し、医者か看護師を奉行所に要求した。奉行所は、妾の要求と考え、かつ交渉を有利に進めようと彼を籠絡すべく芸者を送り込んだ。ハリスはこれを嫌悪し吉を3日で解雇した(腫れ物があったという理由とも伝わる)。その後、お吉は「外人の妾」になった女として、人々から偏見と蔑みの目でみられるようになる。一時下田を離れるが明治に入ってからは下田で「安直楼」という小料理屋を営んだ。現在もその店が残っているが営業はしていない。のちに「唐人お吉」として小説になり、歌、演劇や映画にも度々取り上げられた。

しかし、この「唐人お吉」の物語、真実は如何に。市井の庶民だけに残された資料も少なく諸説あって確かなことは不明である。奉行所の記録によれば領事館に飯炊きなどの召使に派遣された娘たちは吉を含めて5名いた。ハリスの看病のためとして派遣された吉は、先述のように3日で解雇されている。他の4人の出仕期間は、ヒュースケンの召使の福は6ヶ月、あとはまちまちだが長くて1年ほどの出仕であった記録されている。しかし、そのなかで3日で解雇された吉だけが、人々にこのような偏見と好奇の目でみられ、差別と戦い次第に追い詰められて酒に溺れ身を持ち崩した晩年を送った。最後は稲生沢川で溺死体として発見される(入水なのか事故なのかこれも諸説ある)。彼女の遺体は宝福寺の住職によって寺に手厚く埋葬された。しかしこの理不尽さは何なのだろうか。後世に「唐人お吉」としてフィクションの世界で語り継がれたのはなぜか?この実在の人物である吉の物語は、如何にも結末が哀れであり、事実が不明な分だけフィクションとしていくらでも後世に「作り話」を加えられる要素があった。結局は後世の人々が「史実」と「作り話」のないまぜ潤色物語を創出していったのだろう。昭和初期には多くの小説、映画や、講談、演劇と、手を変え品を変えて「哀れな女の悲劇」を語り継いで行った。またハリスをまるで好色な米国人に描き、反米感情をも掻き立てるという、時代の要請、受けを狙ったのもあったのだろう。こうした吉に対する言われなき中傷とゴシップ、彼女に苦悩の人生を強いた世の中の好奇心。そしてハリスの名誉を傷つけるストーリーに、玉泉寺の住職は激しく反発している(「唐人お吉物語」その虚構と真実、玉泉寺住職村上文樹氏)。先述のようにハリスは経験なクリスチャンで高潔な人物であった。日本への赴任前には、貧しい階層向けの高等教育機関を創設するなど、ニューヨークでは偉大なる教育者として名を残している。そして生涯独身を貫いた。

お吉の墓がある宝福寺の「お吉記念館」に掲げられている写真が彼女の肖像として有名である。いかにも可憐で憂を含んだ表情には「唐人お吉物語」の悲劇性を彷彿とさせるものがある。しかしその真偽は不明である。現在では、撮影時期の年齢の相違や、庶民が肖像写真を撮ることはないことから、これはお吉ではないと考えられている。おそらく明治期に横浜の写真館で外国人向けの土産として売りに出されていた日本女性の写真(ブロマイド)「Officer's Daughter」が何らかの成り行きで「お吉」とされていった可能性があると言う。いずれにせよ、彼女が世間の下衆な好奇心や、それによる後世の作り話によって悲劇の主人公に仕立てられていったことは間違いない。ネット時代以前からこうしたゴシップや、根拠のない誹謗中傷で苦しむ人がいることに心しておく必要がある。

のちに創作されたプッチーニのオペラ「蝶々さん:Madam Butterfly」は長崎を舞台にアメリカ人海軍士官ピンカートンと日本人女性の悲恋物語だが、こちらは欧米の男の勝手な異国ロマン物語だ。当時、来日する外国人男性の間で密かに話題になっていた日本人女性との恋愛体験、現地妻「ゲーム」、「Nagasaki Marriage」をオペラ仕立てにしたものである。欧米男性はエキゾチックな夢を見て楽しみ、時間が来ればさっさと帰国する。悲恋を味わって哀れな最期を遂げるのは残された日本人女性だけと言う身勝手な話だ。これに対し、この「唐人お吉物語」は日本人が創出したもう一つの悲劇である。当時の日本人の外国人に対する穢れ観、その妾になった女性蔑視という全く不合理で理不尽な前提から、現実に存在した女性をモデルに物語を創出し、その哀れな女の一生に涙する。やはり悲劇を味わって人生を狂わせたのは女性だけ。いずれにせよこんな話が、後世に語り継がれる古典的名作になっているというのが不思議でたまらない。どちらも好みの作品ではない。小説や演劇や歌劇は必ずしも美しいものや正義の感情だけを描き出すものではないことを知っているつもりだが、なんともそのモチーフの残酷な現実を思い知らされることか。


お吉とされる写真
しかし...

晩年お吉が営んだ小料理屋「安直楼」
現在は営業していないが下田市の史跡になっている



玉泉寺

曹洞宗の寺院である。下田港のはずれの柿崎にある。創建時は真言宗の草庵であった。天正年間、1580年代に曹洞宗に宗旨替えとなった。1854年のペリー来航、下田条約締結後、米国人の休息所、船員の墓所に指定され、ペリー艦隊の水兵5名がここに眠っている。その2年後、1856年にハリスが総領事として赴任。日露和親条約の交渉や、プチャーチン提督の来訪もあり、安政地震津波で大破したロシア艦ディアナ号の犠牲者(3名)、アスコルド号犠牲者(1名)の墓所にもなっている。日本で初めての外国人墓地となった。海の見える丘の上の墓地に並ぶ墓碑を見ると、アメリカ、ロシア共に、ここに眠っているのはみな20代、30代の若者である。図らずも異国の地で命を失い、故郷に帰ることなくこの下田の土になった。人生至るところに青山ありと言うもののその無念の気持ちを思い魂の安らかならんことを祈る。

境内にはハリスの記念碑と星条旗掲揚のポストが残されている。またハリスが病気療養中に牛乳を取り寄せて飲んだことから「日本のミルク飲用発祥の地」になっている。一角にハリス記念館があり、ゆかりの品々が展示されている。昭和54年6月に第39代米国大統領ジミー・カーター夫妻、娘が来訪。その時の写真が掲示されている。伊豆急下田駅からは徒歩で30分ほど。途中伊豆漁協にある「道の駅」で新鮮な地元ネタの寿司を楽しみながら、ゆるりと散策すれば遠くはない。「ハリスの小径」と銘打った海べりの道を進むと、吉田松陰がペリー艦隊の黒船に乗船しようと小船を漕ぎ出した弁天島がある。そこから玉泉寺ははすぐだ。


ハリス記念碑
星条旗掲揚の場所

ペリー艦隊乗員5名の墓
はるかニューポートの地を離れ、故郷に帰ることもなく此の地の土となった若者の霊よ安らかなれ

埋葬されている一人、サスケハナ号軍医の墓碑


下田港を見下ろす丘の上のアメリカ艦隊水兵墓所
心は海鳥となって空を飛び故郷へ

玉泉寺本堂
ハリスが健康回復のために日本で初めてミルクを飲用した記念碑が建つ

記念館に残るハリスとヒュースケンの提灯
彼らが下田で作らせたもの

安政地震/津波で破壊されたロシア艦隊ディアナ号、アスコルド号犠牲者の墓
若き水兵の魂よ安らけくと祈る


「ハリスの小径」に地元の小学生の画が掲げられている。



ニューヨーク市立大学:City College of New York

1847年、NYC教育委員会委員長であったタウンゼント・ハリスによって創設された。
高等教育を受ける機会に恵まれない庶民や、当時、宗教上の理由でアイビーリーグなど東部名門校に入れない若者向けに、収入や人種、宗教による差別のない公立の教育機関として創設されたフリーアカデミーを起源とする。その後シティーカレッジ:City College of New Yorkへと改組し、それを中核としてニューヨーク市立大学:City University of New Yorkが形成され、全米でも有数の規模の公立大学に発展している。ニューヨーク、マンハッタン北西のウェスト・ハーレムに美しいキャンパスを有し、コロンビア大学も近い。私立優位のアメリカにあって、公立の大学として全米でも高い教育レベルを誇る。卒業生、在籍生には、ケネディー政権の国務長官のヘンリー・キッシンジャー:Henry Kissinger、ブッシュ政権の国務長官のコリン・パウウェル:Colin Powel、前ニューヨーク市長のエド・コッチ:Edward Koch、インテル共同創業者のアンドルー・グローブ:Andrew Groveなどがいる。ノーベル賞受賞者も9名にのぼる。



大学の紋章


大学に掲げられている
創設者タウンゼント・ハリス肖像
我々が知る姿よりは若々しく凛々しい


現在のキャンパス

1900年当時の本館


参考文献:

タウンゼント・ハリス著「日本滞在記」上・中・下 岩波文庫
ヘンリー・ヒュースケン著「ヒュースケン日本日記 1855−1861」岩波文庫



2020年10月1日木曜日

江戸高輪の東禅寺 最初のイギリス公使宿館跡を探訪す 〜攘夷運動の直撃を受けた禅宗寺院〜



高輪 東禅寺
「最初のイギリス公使宿館跡」


東禅寺山門

 

1858年に大英帝国のエルギン卿全権使節団と幕府の間で日英修好通商条約が締結され、江戸に最初の英国公使館を設置することとなった。公使館は品川御殿山に建設されることとなるが、それまでのあいだ仮の公使宿館が高輪の東禅寺に設けられることになった。東禅寺は臨済宗妙心寺派の禅寺で、仙台藩伊達家、岡山藩池田家、日向飫肥藩伊東家など多くの大名家の菩提寺にもなっている古刹(1603年創建)である。しかし、幕末に初めての英国公使館となったことで、歴史の波に翻弄されることになる。品川駅から歩いても5〜6分のところにあり、近所の泉岳寺のように観光客や忠臣蔵ファンの参拝で賑わう「名所」ではないが、知る人ぞ知る幕末の歴史の舞台である。都心には貴重な静謐な境内に佇み往時に思いを巡らせてみよう。


初代公使オルコック着任(1859年)

初代の駐日総領事はラザフォード・オルコック:Ruterford Alcock(1809~1897)。彼は医者で外交官。1844年清国の福州領事、1846年上海領事、1855年広州領事を経て、1859年に初代の駐日総領事として開国間もない江戸に赴任する。のちに特命全権公使に昇格。

アヘン戦争の後の中国での15年の赴任期間中、租界の管理や領事裁判権など、英国の植民地政策の遂行、権益確保と拡大に成果を上げたと言われる。また上海領事時代にはさらなる英国の権益拡大のため、次の戦争を本国に提言し、のちのアロー戦争のきっかけを作ったと言われている。とまあ、かなり帝国主義的権益拡大の尖兵として活躍した人物だ。

江戸に赴任した時の当面の日英間の外交課題は、まず、兵庫、新潟、江戸、大阪の開港であった。しかし国内事情がそれを許さず、ことは容易に進展しなかった。これは朝廷と幕府の間で開港に関する合意が全くなされなかったことによる。やがてオルコックはこうした事情を理解し、幕府の釈明のための遣欧使節派遣を支援し、開港開市延期覚書を締結する。と同時に徳川幕府の統治能力の低下を感じ取った。幕府との関係強化に力を尽くすが、しだいに日本における情勢の変化、すなわち外国人排斥といった攘夷運動の激化。そして倒幕へとフェーズ転換してゆく様を見て取っていた。1862年、のちにジャパノロジストの一人として活躍するアーネスト・サトウ:Ernest Satowが通訳生として江戸に赴任してくる。

オルコックは1863年、本国へ一時帰国し「大君の都」をロンドンで出版する。日本は清潔で豊かな国であると絶賛する一方、日本人は異教徒、偶像崇拝者で神を信じない。我々とは異なり地獄へ落ちる「劣等民族」とも評している。これは当時のキリスト教徒の異教徒に対する定番の評価であったであったろうが、ちと現代の多様性尊重の価値観から見ると人種差別主義者に見えてしまう。

1865年、下関事件(馬関戦争)の後処理をめぐって駐日公使を解任される。中国での経験に基づき、強硬に軍事的な圧力をかけるよう本国に進言したが、日本まで兵站を伸ばす余力はないとして拒否された。しかし、清国公使に転出(栄転)。後任には彼の清国駐在時代の元の部下ハリー・パークス:Harry Smith Parkesが着任する。時代は、1867年の慶喜の大政奉還、1868年の鳥羽伏見の戦いと、日本の政治情勢の舞台転換が劇的に進み、徳川幕府の瓦解と、薩摩/長州連合を軸とした維新政府樹立の動きが明確になってきた。こうしてフランスは幕府を支援したが、英国は薩摩/長州側に立つ方向へ転換する。


「尊王攘夷」の嵐吹き荒れる

オルコックの在任中は、外国人にとっては大きな危険が伴う時代であった。1854年の米国ペリー提督との間で結ばれた日米和親条約で長崎、下田、函館が開港され、ついで横浜が開港。さらなる開港と通商の拡大を目指して1858年の安政の五カ国条約(英米仏露蘭各国との間で修好通商条約)が締結された。これにより欧米各国が日本に進出し在外公館を江戸に開こうとした。しかし時の孝明天皇は、先の米国との「和親条約」は別として、「夷狄」である外国人が「神国日本」に足を踏み入れる「通商条約」締結には真っ向から反対。「異人を入れるなんてもっての外や」と嫌悪感を示した。この辺りは清朝の「中華思想」「華夷思想」に基づく外国への対応と同類のスタンスであった。しかし幕府は勅許なしで条約締結を強行する。時の幕府大老井伊直弼の独断先行、反対派の弾圧「安政の大獄」、大老暗殺「桜田門外の変」、幕府権威の失墜、と繋がって行った歴史は誰もが知るとおりである。英国のアヘン戦争に始まる中国における欧米列強の植民地化への道、という隣国の事態を目の当たりにして、かねてから幕府の急速な開国の動きに反発していた尊王攘夷派の活動が活発になり、駐在してきた外国の外交官や商人を襲撃する事件が多発するようになる。1861年には麻布の善福寺にあったアメリカ領事館(タウンゼント・ハリス:Townsent Harris)の通訳ヘンリー・ヒュースケン:Henrry Heuskenが攘夷派浪士と思われる侍に殺害される事件が起こり衝撃が走る。英国を代表してやってきたオルコックとオリファントにとってのここ東禅寺を拠点とする日本での第一歩は、波乱と苦難の時代の始まりでもあったし、また彼らの存在がこうした攘夷運動のきっかけとなったともいえる。命を狙われる日々であった。しかし、排外運動と外国人襲撃に満ち満ちた清国で大英帝国の先兵として修羅場をか掻い潜ってきた彼らにとって、そんなことは想定内であったことだろう。


東禅寺事件(第一次:1861年5月28日)(第二次:1862年5月29日)

攘夷派が最初のターゲットとした外国人高官は英国公使オルコックであった。水戸藩出身の浪士14名が、彼を狙って英国公使宿館となっていた東禅寺を襲撃する。彼らは品川宿に結集し、船で海からから東禅寺に押し入った(当時は海岸近くに立地していた)。この時辛うじてオルコックは難を免れるが、一等書記官のオリファントと長崎領事のモリソンが重傷を負った。やがて二人とも本国へ送還となる。この時、東禅寺の警備に当たっていたのは郡山藩、西尾藩、そして幕府講武所の総数200名ほどとされる。彼らは果敢に応戦し警備兵1名が殺害され数名が負傷した(応戦せず傍観したという説もあるが、彼らはこの時の奮戦を評価されて幕府から褒美をもらった記録がある)。14名の浪士たちはその場で討死したもの、逃亡途中で自刃したものが出たほか、ほとんどが捕縛されて処刑された。数名が逃走したものの、その後坂下門の襲撃事件で死亡したり、天誅組の決起で死亡し、明治以降まで生き残った人物が2名ほどいると言われている。オルコックは厳重抗議し、幕府は賠償金を払い警備兵を増強することでまずは一件落着となった。これを機にオルコックは公使館を横浜に移した。そしてその翌年、1862年5月29日(丁度一年後)に、こともあろうに英国公使宿館の警備にあたっていた松本藩の侍が、自分たちの役割への不満から東禅寺の代理公使や英兵を襲ったが取り押さえられる事件が起きる(第二次東禅寺事件)。此の時はオルコックが本国へ一時帰国中で、代理公使のニールが横浜から東禅寺に公使館を戻していた。こうした公使館や英国人の安全確保のために、英国水兵の公使館への増強と常駐、英国軍艦の横浜港常駐を幕府に認めさせた。中国で排外運動や外国人殺害事件ののちにとった措置と同様なものである。そんななかまたしても大事件が起きる。


The Illustrated London News, 0ct.21, 1861
乗馬用の鞭で応戦するオリファント
(Wikipediaより)


生麦事件(1862年)と薩英戦争(1863年)

1862年9月14日の「生麦事件」である。オルコックが本国へ一時帰国している最中の出来事であった。東海道の神奈川生麦あたりで、江戸から京都へ向かう薩摩藩の島津久光の行列に、横浜居留地の英国民間人4名が乗馬のまま、脇にも避けもせず突っ込んで行き、行列をかき乱した挙句、制止を振り切った逃げようとした。警備の薩州兵がそれを排除しようとして一名が殺され2名が負傷。この事件は、当時の欧米の新聞では、日本の貴族に敬意を払わず無礼な行動に走り、現地の法も秩序も理解しない無作法な英国人が引き起こした事件と報じられた。外交官や公館を狙った東禅寺事件と異なり、当初は民間人の不注意が引き起こした事件と捉えられていたが、この事件は攘夷派を激昂させ外国人襲撃を正当化する口実を与えたほか、幕府や薩摩藩側の事件処理の不手際から、英国、幕府、薩摩藩の政治問題に発展する。それが決着しないうちに、1863年7月に英国艦隊が鹿児島に押しかけ、それを薩摩藩が砲撃したのを皮切りに薩英戦争となった。鹿児島城下が英国艦隊の艦砲射撃で焼かれ、薩軍の軍艦、砲台も壊滅的な打撃を受けたが、薩摩藩も果敢に反撃し、英艦隊も数隻の軍艦を失うなどの損害を出した。

大英帝国の中国やインド、アジア諸国での振る舞いは幕末の日本にも伝わっており、英国の武力を背景とした理不尽な要求や暴虐ぶりが強く警戒されていた時期であった。むしろ「黒船」による「砲艦外交」と言われた米国ペリー艦隊による開国要求、日米和親条約の条件のほうが受け入れられやすいものであったと考えられ、孝明天皇の日米和親条約は黙認しても、英国をはじめとする通商条約を勅許しなかった背景にはこうした英国への強い警戒心があったと考えられる。しかし、薩摩藩はこれをきっかけとして急速に英国に接近してゆく。


御殿山英国公使館焼討ち事件(1863年)

そうしたなか、1863年1月31日、品川の御殿山に建設中であった英国公使館の建物が焼き討ちにあい焼失する。これは「攘夷」を決行しない幕府の態度に業を煮やした高杉晋作、久坂玄瑞、井上馨、伊藤俊輔(博文)ら長州の尊王攘夷派による犯行であった。先述のように東禅寺は仮の公使館であった。オルコックは幕府に本拠となる英国公使館の建設と貸与を求め、これに応じた幕府が日本人の棟梁に建築を依頼した。建物はオルコックが指示した洋風建築であった。御殿山は風光明美な江戸っ子の人気の行楽地で、春には桜の名所であった。お台場の建設のために山が崩されたとはいえ、江戸っ子に馴染みの場所を外国人に提供することには大きな抵抗感があったという。そうしたことからも攘夷派がシンボル的に焼討ちした可能性もある。これによりオルコックは東禅寺から移転できなくなり、安全を考慮して横浜へ公館を移した。のちには再び御殿山で建設が始まり、今でも東海道線/新幹線の海側線路脇にイギリス公使館跡のプレートが残っている。


馬関戦争と四カ国艦隊下関砲撃事件(1863年、1864年)

さらに長州藩は、1863年、関門海峡を航行する欧米の艦船に無警告で砲撃、大きな損害を与えた。いわゆる下関戦争/馬関戦争である。この背景には同年までには「攘夷決行」せよとの孝明天皇の将軍家茂への圧力があった。幕府は武力による「攘夷」ではなく、横浜居留地や公館の閉鎖という措置を考えていた(実行する気はなかったが)のに対し、天皇の意を体して長州藩は外国艦船への武力攻撃を実行した形だ。その翌年1864年には、その報復として四カ国艦隊が下関を砲撃する。この砲撃で長州藩の艦船と砲台は完全に無力化され、砲台が占領される。先述の薩英戦争と並び列強諸国の圧倒的な武力を目の当たりにする事件であった。停戦交渉では長州藩は彦島の割譲を要求されたが、高杉晋作が断固拒否して停戦条件には盛り込まれなかった。彼は、かつて見た香港島の有様のことを思い出した。


攘夷運動の終焉と薩長連合成立による倒幕運動

このように東禅寺事件を端緒とする日本国内に吹き荒れた排外的な「尊王攘夷」運動も、これ以降、長州藩も、薩摩藩も、武力による「攘夷」では問題は解決しないことを悟り、薩長連合による討幕に向かうことになることは知られている通りだ。清国における攘夷(排外運動、外国人殺傷)の嵐が、かえって欧米列強の清国内における軍隊の駐留(武力保持、行使)や、開港地における軍艦の常駐、外国人居留地(租界)拡大、領事裁判権の要求につながっていったこと。統治能力を失った清国政府の機能不全が国内の分断や政治空白を招き、それが植民地化を加速し、国家が瓦解に瀕していったことからおおいに学習した。そして、オルコックがいみじくも読んだように幕府が統治権威と権能を失い、ある意味で清国と同様の道を日本も歩む可能性があった。しかし、反幕府勢力は分裂せず、「小異を捨てて大同につき」連合を組んで倒幕に向かうこととなる。これが清国の悲劇的な事態とは大きく異なる点であった。これまで対立してきた薩・長両藩が同盟を結び、西南雄藩の中核となって討幕へと向かい明治維新を成し遂げることとなる。この頃(1865年)オルコックの後任として赴任してきたパークスは、前任者の視点と政策を引き継ぎ、薩長倒幕勢力、そして明治新政府との関係を強化してゆく。中国で、巧妙に清朝政府の弱点を突き、戦争を手段として大英帝国の権益をしたたかに拡大していった、腕っこきの職業外交官、オルコックもパークスも、日本では、こうした動きをよく見て戦略を変えてきた。自分たちの中国における「成功体験」に固執して、同じ打ち手を日本で無定見に進めることはしなかった。そこには試行錯誤もあったが、のちに日英同盟と日露戦争の勝利につながる大英帝国の戦略のしたたかさ、外交能力の高さを見せつけられる思いだ。とともに日本の維新先達の目線の高さと、視野の広さ、そして歴史と世界に学ぶ学習能力の高さに驚嘆する。マクロ的に俯瞰する視点を持ち、それにより有能で手強い「外交官」たちをも味方にしていった。これが国家の分裂と外国の植民地化を防いだ。


ローレンス・オリファントの功績、アーネスト・サトウの登場

ところで東禅寺事件で負傷した「親日家」ローレンス・オリファントは、先述のように無念の気持ちを抱きつつ英国へ送還された。傷は完全には癒えなかったようで、後遺症に苦しんだと言われている。帰国後は下院議員になり日本から来た留学生(薩摩藩英国留学生等)の支援活動に従事して若手の育成に心を砕いた。一方で神秘主義的な宗教観に傾倒してゆき、アメリカのコミューンに移住したり、ユダヤ人の定住化に取り組んだりする。また彼の著した「エルギン卿遣日使節録」が、18歳の若きアーネスト・サトウの日本への憧れを呼び起こし、やがて彼は外交官として日本へ赴任する。そして、駐日特命全権公使へとキャリアアップの道を歩む。サトウは結局25年間に住み、日本で家族を持ち、明治期の日本に大きな足跡を残した外国人の一人となる。彼は多くの日本に関する著作を後世に残こし、ジャパノロジストの一人として日英両国に影響をあたえた。オリファントの無念と日本への愛惜の気持ちははこうして世代を跨って後輩に引き継がれ実を結んだと考えたい。


東禅寺の今

幕末に海外の公館として指定された江戸市中の寺院は、その後時間的な変遷を経てその様を変え、あるいは消滅してしまった寺院もあるという。今では信じられないことであるが、外国人に汚された寺として、檀家や菩提寺とする大名旗本が去ってゆくなど、衰退に瀕した寺院も多いという。そんな中で高輪の東禅寺は、周辺の都市化の影響で寺域の縮小や、建物の改変はあるものの、現在でもよく当時の姿を残していると言われる。都心にあって静謐な環境を維持する古刹である。特に英国公使宿館として利用された僊源亭(せんげんてい)や池泉回遊式庭園は、ほぼ当時の姿のままで残っているようだ。柱には東禅寺事件当時の刀傷や、鉄砲か槍でできたと思われる傷跡が残っていると言われている。残念ながら見学できるところは限られていて、山門脇に「最初のイギリス公使客館」の石碑と、説明板が設置されているが、境内は立ち入る人も少ない。客殿や僊源亭、庭園は公開されていないので立ち入れない。関東大震災や戦災にも遭わず残った貴重な遺構であり、国指定史跡にもなっているのに残念だ。往時をしのぶよすがは、その静寂に満ちた境内と、そこに漂うあの「時代」の空気くらいであろうか。たしかにオルコックもオリファントもここに立っていた。若きサトウもこの空気を吸ったのだと。ここから日本という国と人々を見つめた。そしてその鬱蒼とした境内の静寂の中から「分断は崩壊への一本道である」と言っている声が聞こえる。ここを死に場所と心得て切り込んできた攘夷の志士達の「排外的なテロでは問題は解決しない」という声もハッキリ聞こえる。激動の時代を振り返るにふさわしい静謐さである。


山門から境内へ続く参道

本堂
かつては海を望む場所に建っていたことを示す
「海上禅林」の扁額

三重塔


玄関周辺
創建当時のままだと言われている

都心にあって緑濃い境内


英国公使宿館として使用された「僊源亭(せんげんてい)」はこの奥


オリファント著「エルギン卿遣日使節記」
英国公使宿館と紹介されている

初代公使ラザフォード・オルコック
Rutherford Alcock

第二代目公使ハリー・パークス
Harry Parkes

ローレンス・オリファント
Laurence Oliphant

アーネスト・サトウ
Ernest Satow

参考図書:

ラザフォード・オルコック著「大君の都」幕末日本滞在記 上・中・下 岩波文庫

ローレンス・オリファント著「エルギン卿遣日使節記」新修異国叢書 雄松堂

アーネスト・サトウ著「外交官の見た明治維新」上・下 岩波文庫