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2025年1月1日水曜日

古書を巡る旅(59)『Orpheus Britannicus 』by Henry Purcell 〜没後330年を迎える年末年始はパーセル三昧で過ごす〜

パーセル肖像と第1巻表紙



私はクラシックの中ではバロック音楽が好きだ。これは高校生の時のヘンデルのオラトリオ『メサイア』の演奏会に合唱団の一員としてフルオーケストラとともに参加した体験に由来している。あの時の打ち震えるような感動が生涯忘れられない。あの経験をして自分が音楽の世界に行かなかったのが不思議なくらいだ。確かにあの瞬間、救世主Messiaが降りてきたのだが、音楽の守護聖人St. Cetiliaは現れなかったからだろうか。この『メサイア』はアイルランドのダブリンが初演で、アリア、レシタティーボ、合唱はドイツ語ではなく英語で歌われる。私も英語歌詞なので歌いやすかった。もっとも古英語表現が至る所にあって、それがまたワクワクした。若い心に響くヘンデルであった。それからというもの、ヘンデルはもちろん、バッハ、ヴィヴァルディ、テレマンなど、後期バロックの音楽、さらには初期、中期バロックのモンテヴェルディ、カブリエリ、コレッリ、クープランなどの音楽を渡り歩き、古楽器による演奏やイムジチ合奏団やパイヤール弦楽四重奏を聴きまくった。ある時ヘンリー・パーセルに出会って、イギリスにもバロックの作曲家がいたんだと知る。彼はヘンデルやヴィバルディの前の世紀、17世紀に活躍した中期バロックに属する。フランスやイタリアバロックの影響を受けているものの、フランス語、イタリア語、あるいはラテン語ではなく英語の宗教曲や頌徳歌を多く発表した。英語の歌詞は、単純にイギリス人にわかりやすい、ということだけではない。イギリスではジェームス1世の時代に欽定訳聖書(1611年)、すなわち聖書が英訳された。讃美歌、頌歌や典礼が英語で吟じられることはプロテスタントにとって重要なことなのである。パーセルもヘンデルもそうした欽定訳聖書を典拠として作詞、作曲をおこなったのである。

その後しばらくはパーセルを忘れていたが、イギリス留学中にウェストミンスター大聖堂とノーリッチ大聖堂でパイプオルガン演奏を聴き、それがパーセルだと知り感動したことをきっかけにハマり始めた。そもそもパーセルはかつてウェストミンスター大聖堂のオルガン奏者であった。その後90年代のロンドン勤務時代には、ちょうどパーセル没後300年で記念コンサートがイギリス各地で開催され、記念のCDが出たので夢中で聴いた覚えがある。トレバー・ピノック:Trevor Pinnockのイングリッシュ・コンサート:The English Concertが多くのバロック作品を演奏し、CDのコレクションを出した。パーセルの曲はポール・マクリーシュ:Paul McCreeshのガブリエリ・コンソート&プレイヤーズ:Gabrieli Concoert & Playersであった。いずれもドイツグラモフォンのアルヒーフシリーズ:ARCHIV ProduktionのCDで、トッテナムコート・ロードのHMVに通って買い集めたものだ。ロンドンの自宅に英国製オーディオセット(ArcamのバイアンプシステムにMission, B&Wのトールボーイスピーカ)を置いて、Hail, Bright Cecilia, Harmonia Scara, Fairy Queenなどを聴き、17世紀のイングランドに時空トラベルしたものだ。至福の時であった。

リタイアー生活を送るようになって、いつもお世話になっている神保町北澤書店で、なんとパーセルの「Orpheus Britannicus:オルフェウス・ブリタニクス」歌曲集の初版本を見つけた。2024年の「稀覯書フェアー」に出展されていたものである。ロンドンでは出会わなかったこのパーセル本との出会いは、時空を隔てた偶然といえば偶然だが、必然といえば必然、出会うべくして出会ったような気もする。ロンドン時代の心の友との30年後の神保町での再会。出会いとはそんなものだろう。

今回入手した「Orpheus Britannicus」はこれまでに作曲した一声、二声、三声のための歌曲を集めた初の全集である。1695年11月、パーセルのあまりにも突然の死にロンドン中がショックを受け、多くの弔辞や頌歌、詩が寄せられていた時期に、その偉業を顕彰しようと出版されたものである。2巻からなる合冊本で、第1巻は1698年初版(彼の没後3年目)、1706年第2版(新しく発見された曲を追補)である。第2巻は1702年初版で、第1巻(初版)を補完するものとされている。大型、フルカーフ革装の重厚な書籍で、まさに稀覯書と言って良いだろう。第1巻にはパーセルの肖像画とともに、未亡人フランシス・パーセルの献辞、ジョン・ドライデンのパーセルへの頌歌:Ode他、彼の師であったジョン・ブロウ、多く友人の弔辞が掲載されている。第2巻にはロンドンの著名な音楽出版人であったHenry Playfordの献辞がある。この後も1711,1712,1721年と改訂が続けられた。本書は彼を悼む人々によって生まれた、いわばパーセルメモリアル歌曲集である。ただ、彼の34年という短い生涯における作品の全てが明らかになっているわけではない。特に初期の作品はほとんどが散逸しており、今回紹介する「歌曲集」も、晩年の5年分の作品を集めたものだと言われている。本書も先述のように、追補、改訂が繰り返されており、いまだに研究者のあいだで。作品の発掘と整理が行われていている。Zナンバーでパーセル作品の整理を図ったアメリカの音楽学者フランクリン・ツィンマーマン:Franklin Zinmermanの研究が有名だ。彼は新たに発見された作品にはZNを付している。これからもZNナンバーの作品が次々と世に出ることを期待したい。

ヘンリー・パーセル:Henry Purcell (1659-1695) はいまだに謎に満ちた作曲家である。生まれはロンドン、ウェストミンスター近辺らしいが生い立ちもはっきりしていないし、あれほど人々に衝撃を与えた突然の死の原因も明らかでなく諸説ある。彼が生まれたのはイギリス激動の17世紀、清教徒革命のクロムウェルの共和制時代末期である。父と叔父がウェストミンスター大聖堂と宮廷合奏団の演奏者であったらしく、9歳頃に王室聖歌隊の一員となり音楽指導を受けたという。1674年、15歳の時にはウェストミンスター大聖堂のオルガン奏者で作曲家のジョン・ブロウ:John Blowに師事し作曲をはじめた。しかしこの頃の作品はほとんど残っていない。王政復古でフランスから帰還し、即位したチャールズ2世の抜擢で、1677年にはなんと18歳で王室弦楽合奏団の専属作曲家兼指揮者となる。国王の目に留まるのだからよほど才能が光っていたのであろう。また師匠であるブロウの後任としてウェストミンスター大聖堂のオルガニストにも就任。チャールズ2世は、王政復古とともに、衰退していたイングランドの音楽の復興に力を入れ、パーセルの才能を見出したと言われる。パーセルもこの頃チャールズ2世のためのOde:頌歌や、Anthem:讃歌を盛んに作曲し、さらに『Theodosius』などの大作を発表する。この時期が彼の全盛期で、主に宮廷向けの頌歌、祝祭音楽、中でもSt.Cetilia祝祭曲、宗教曲などを次々と作曲し名声を高めていった。1689年には彼の唯一のオペラ『ディドとエネアス:Dido and Aeneas』のロンドン初演が行われた。また1691年にドライデンの劇詩にパーセルが演劇、管弦楽、合唱、独唱をつけた「アーサー王:King Arthur」はセミ・オペラ作品として好評を博した。1688年の名誉革命で即位したメアリー2世には誕生日や祝祭のたびに曲を献上し、宮廷音楽家としての名声を欲しいままにした。1694年のメアリー女王崩御にあたっては、パーセルはその死を悼んで頌歌を献じ、葬送曲を作曲したが、その翌年1695年に彼も新しい世紀の到来を待たず短い生涯を閉じた。17世紀イギリスの音楽界に彗星のように現れた天才は、新世紀を見ることなくあっという間に時代を駆け抜けて行ってしまった。どこかモーツアルトを彷彿とさせる天才の生涯であった。

現代においてイギリスの音楽家といえば、ビートルズが圧倒的存在感を放っているが、クラシック界では(ビートルズもすでにクラシックの域に入っているが)、20世紀のベンジャミン・ブリテン:Benjamin Britten (1913-1976)とパーセルくらいしか一般には思い浮かばないだろう。パーセル没後にロンドン中心に活躍した音楽家はヘンデル:George Friedrich Haendel (1685-1759)であるが、彼はドイツ生まれでハノーバー朝イングランドに帰化した作曲家であり、確かに英語のオラトリオ『メサイア』の作曲家としてイギリスでも親しまれているが、厳密な意味でイギリスの音楽家とはみなされていないだろう。ブリテンはパーセルの曲を青少年向けに翻案した作品が多く、パーセルあってのブリテンと言っても過言ではないだろう。そういう意味ではパーセルこそイギリスを代表する古典作曲家と言って良い。惜しむらくは、あと2〜30年長生きして18世紀にも活躍していれば、宮廷向けだけでなくオペラや劇用音楽にその作品の領域を広げ、さらにバロック音楽の大家としての名声を得ていたであろう。残念ながら日本ではあまり演奏もされないし歌われることも少ない。評伝や研究書も少なく評価が行き渡っているとはいえない。もったいないことだ。17世紀イギリスが産んだ天才音楽家の曲がもっと演奏され、聴かれても良いのではないかと思う。

今年はパーセル没後330年である。年末恒例の国民行事「紅白歌合戦」もほとんどが知らない曲ばかりになってしまった今、そして世界中で「神の摂理」と「人間の理性」が混沌として先行きが不安なゆく年くる年を、パーセルにどっぷり浸って過ごす。オリジナルの楽譜と歌詞を参照しながらパーセル三昧でCDを聴く。しばしの心のデトックス。亦楽しからずや。




フルカーフ革装の大型本である 2巻合冊

第1巻第2版表紙

第2巻表紙

ジョン・ドライデンの追悼詩:Odeが掲載されている

歌曲リストと楽譜




Jill FeldmanによるOrpheus Britannicus歌曲集CD

YouTubeチャンネルで視聴できるHenry Purcell Orpheus Britannicus

2024年12月28日土曜日

「ふるさとは遠きにありて思うもの」 〜年末の帰省ラッシュが始まった!〜

 今日から帰省ラッシュが始まった。年末恒例の新幹線、飛行機と高速道路の混雑模様が報道されている。我がご近所も人気が少なくなり、街が急に静かになったようだ。

東京という街はある意味「出稼ぎ」の街だと思うことがある。我々もそうだった。田舎から出て来て学校に入り、あるいは就職し、仕事して家を持って家族を養う。だから盆暮には子供を連れて田舎の両親のもとに帰省したものだ。これが昭和な高度経済成長時代の日本だった。しかし、あれからウン10年。気づくとすでに故郷には親も親しい友もなく、帰る故郷がいつの間にか無くなってしまった。駅や空港に迎えに来てくれた両親の孫を抱き上げる嬉しそうな顔。それを思いだすとあの慌ただしい帰省ラッシュが懐かしくさえ思う。それもも昭和老人の昔話になってしまった。

今や「ふるさとは遠きにありて思うもの」の心境である。今いるここが故郷なのだと。子や孫が遊びに来てくれるここが田舎なのだと。間も無く嵐がやってくる。で、今のうちに静かなご近所、昭和な街をゆっくり散策するとしよう。

















2024年12月26日木曜日

古書を巡る旅(58)『The Black Ship Scroll:黒船絵巻』 〜アメリカ人との初めての出会いはどう描かれたか? 黒船に乗って来た日本人漂流民Sam Patchとは?〜



ぺリー提督肖像
ペリー自身は髭がなかったにも関わらずこのご面相に


下田といえば、最近面白い本を見つけた。アメリカ人作家、オリバー・スタットラー:Oliver Statlerの、『Shimoda Story:下田物語』(1969年刊)と『The Black Ship Scroll:黒船絵巻』(1963年刊)である。スタットラーは太平洋戦争で日本との戦いに従軍し、戦後、連合国進駐軍で日本に長年滞在し下田にも2年滞在したこともある。両著ともペリー来航、開国直後の下田でのアメリカ人と日本人の出会いを描いた著作として興味深い。『下田物語』ではタウンゼント・ハリスの事績、人物像など彼独自の視点でまとめた著作で、発表当時に話題になった。今回紹介する『黒船絵巻』は、ペリー艦隊乗員が下田に上陸した時のエピソード、下田の人々が初めて見たアメリカ人への驚きと、街角で日米の人々が交流する模様が日本人の無名の絵師の極めてナイーヴな観察眼と筆で描かれている。その一連の絵をスタットラーが絵巻物風に仕立てて英語で解説している。ペリー艦隊に同行した画家ウィリアム・ハイネが遺した数々の日本のスケッチはアメリカ人が初めて見た日本として『ペリー艦隊日本遠征記』などでも有名だが、これらの日本人絵師の「異人遭遇記」も負けず劣らず新鮮で驚きに満ちている。初めて出会ったアメリカ人をどう観察したのか。そしてその日本人の目線をアメリカ人作家スタットラーはどう見たのか、なかなか興味深い。ペリー肖像など完全に髭だらけの天狗のようなご面相に描かれているが(ペリーは髭を生やしていないにも関わらず)、おそらく絵師は直接ペリーと会っていないので伝聞に基づいて描いたらこうなった!のだろう。実像よりも印象。いや、虚像という勿れ。この絵には日本人が心で受け止めたある意味での「実像」が描かれている。下田の街の人々とアメリカ人水兵の「出会い」の場面はまさに「未知との遭遇」「異文化コミュニケーション」そのもの。しかし、そこに描かれている人物は、さっきのペリー像と違って、意外に普通の顔をした普通の人に描かれていることに気づく。妄想と実像のギャップであろうか。スタットラーが語るように、歴史的事件としての国と国との出会いとは別に、人と人との出会いの一瞬、一瞬がなんとも微笑ましく愉快だ。この時の日米邂逅を記念して現在でも下田では、毎年5月に「黒船祭り」が盛大に催されている。当時のペリー艦隊の上陸と軍楽隊行進が横須賀米海兵隊により再現され、了仙寺での条約調印式の再現劇、日米の仮装パレード、街角でのパフォーマンス、フードコートなど楽しいイベント満載だ。日米市民レベルの交流は下田のレガシーになっている。

一方で、『黒船絵巻』には複雑な思いの人物も登場する。ペリー艦隊一行の一人に「日本通詞マトウ」なる人物が描かれている(下記図参照)。実は彼はペリー艦隊に同行した唯一の日本人漂流民である。まず日本人漂流民が黒船に乗船していたことに驚かされるが、確かに『ペリー艦隊日本遠征記』にその記述が確認できる。彼はSam Patch と皆から呼ばれた。著者のスタットラーは本名がMato Sanpachi(マトウ サンパチ)ではないかと書いているが、のちの調べで本名は仙太郎(1832年天保3年〜1874年明治7年)という播磨の船乗りだった事がわかった。

仙太郎は、あのジョセフ・ヒコこと浜田彦蔵と同じ兵庫の栄力丸の乗組員で5歳年上。1850年に遠州灘で遭難、漂流ののちにアメリカに辿り着き、のちに彦蔵らと共にアメリカから、日本へ送還すべくハワイ経由でマカオ、香港へ移された人物である。この時、彦蔵はペリー艦隊には乗船せず、アメリカに戻り帰化している。仙太郎だけが香港からペリー艦隊サスケハナ号に乗船して日本へ向かった。『ペリー艦隊日本遠征記』によれば、艦隊では簡単な通訳や乗員のサポートとしてよく働いたようだ。この時22歳。日本到着後、ペリーは幕府側の通詞、森山栄之助から、Sam Patchの帰国許可が出ており身の安全を保障するから日本に留まらせるように依頼されたが、ペリーは本人次第だと答えた。そして本人は死罪を恐れて帰国しなかった(役人との面会では「平身低頭するだけで何も言葉を発しなかった」と書かれている)。結局ペリー艦隊と共にアメリカへ戻る。アメリカでバプテスト洗礼を受ける。のちにペリー艦隊ミシシッピ号の乗員であったジョナサン・ゴーブル:Jonathan Goble(1827-1891)がバブテスト教会の宣教師として日本に渡るときに使用人として同道し、1860年帰国を果たしている。この時28歳。しばらくは横浜外国人居留地から一歩も出ずに暮らしたようだ。横浜パブテスト教会の創立メンバーに名を連ねている。その後、いくたびか雇い主が代わり渡米ののち、最後はお雇い外国人ウォーレン・クラーク:Edword Waren Clark (1849-1907)(ラトガース大学でのウィリアム・グリフィスの友人)のコック、使用人となり1871年に再帰国。静岡や東京に移つり東京で死去。享年42歳。故郷に身寄りもなかったため東京の法華宗の寺に葬られた。

当時の漂流民が、帰国を熱望しながらも、帰国後の死罪を恐れて逡巡し帰国をギリギリで忌避した様子がよく分かる。ジョセフ・ヒコの自伝(下記過去ログ参照)にも同様の葛藤と究極の選択が描かれている。ヒコはアメリカ市民権をとって開国後の日本に帰国(アメリカ領事館に赴任)している。有名なジョン万次郎は勇敢にも幕末の日本に帰国して投獄、詮議を受けている。もう一人の漂流民オットソン(山本音吉)も帰国を断念しイギリスに帰化。上海に住みアロー号事件ではイギリス兵として参戦した。その後エルギン卿のイギリス艦隊に通訳として乗船し日本に向かい日英条約交渉で活躍するが、帰国はしなかった。自らの責任で漂流民となった訳でもないのに、過酷な運命の下に置かれた彼らへの理不尽な仕打ちに同情を禁じ得ない。今回見つかったSam Patchこと仙太郎の心の葛藤は如何許りであったか。どのような心境で下田の地を踏んだのだろう。日本まで帰っていながら下田を去る時どのような心持ちであったのか。そして念願叶って帰国した後、どのような人生を歩んだのか。ジョン万次郎やジョセフ・ヒコのように歴史に名を残すことはなかったが、黒船に乗って来た日本人漂流民Sam Patchの一生を別途追っかけてみたい。

古書を巡る旅(48)2024年4月7日 「The Narrative of A Japanese :ジェセフ・ヒコ伝

2022年5月22日 「下田黒船祭

古書探索の楽しみ2015年5月26日 「ペリー艦隊日本遠征記」

この日本人漂流民、仙太郎:Sam Patchと、のちに宣教師として日本にSam Patchを伴ってやってくるジョナサン・ゴーブル:Jonathan Goble も、この『黒船絵巻』に下田に上陸したアメリカ人「マトウ」、「ゲブル」として日本人絵師に描かれている(下記参照)。

Sam Patch:仙太郎に関する書籍は多くはない。'Sentaro Japanese Sam Patch' by Calvin Parker があるので参考まで。


日本の女性と仲良くなりたいと、遊郭に押しかけて遊女にいじられるアメリカ人

艦隊には写真家も同行しており、日本人には初めてのカメラも登場する
「アメリカ国王への一覧に備へんと心を酌る図」


左は酒を飲んで踊るアメリカ水兵。振りに日本の歌詞が付けられている
右は洗濯するアメリカ水兵。港では洗濯女が洗ってくれるものだが、異人には近寄らなかったので自分で洗ったと

喉が渇いたので一杯所望したら、鬢付け油(椿油)だったので吐き出しているアメリカ水兵

街角で餅つきに挑戦するアメリカ水兵
婦人は腰が引けているが面白がっている

日本通詞マトウ
日本人漂流民、仙太郎のことである
Sam Patch(サンパチ)と呼ばれていた
少し憂いを帯びた顔をしているような

ゲベル
Jonathan Goble
のちにバブテスト教会宣教師としてSam Patchと共に日本にやってくる


ヒンテンデアル
随行画家ウィリアム・ハイネのことらしい
スケッチをしているところをスケッチされた


一方、これはウィリアム・ハイネが描いた下田の風景 了仙寺のあたりか
スケッチするハイネに子供が群がっていて役人が追い払っている

1963年初版


2024年12月24日火曜日

Who is Terence Conran?  Making Modern Britain 〜テレンス・コンラン展探訪〜

 



東京ステーションギャラリーで「テレンス・コンラン展」が開催されている。「Who is     Terance Conran? Making Modern Britain」と題したコンラン卿の足跡を辿る展覧会である。10月12日から開催されているが、年末のギリギリで駆け込んだ。年明けの1月5日に終了だ。

私にとってはコンランといえば1980年初頭の留学時代にロンドンの街角で見た「Habitat」というインテリアショップ。トラッドな街ロンドンにあって随分とモダンで洒落た店舗だと感動した思い出がある。フランス人の友人がこの店をすごく気に入っていて教えてくれたので行ってみた。ちなみに私が「ハビタット」と発音したら、彼に「アビタ」と直された。そしてその10余年後の1990年代にロンドン勤務時代の日々に、今度はコンランがプロデュースした話題のモダン・ブリティッシュのレストランを楽しんだ思い出がある。時代は変わった!「イギリスのメシは不味い」なんて誰が言ったんだ?!フィッシュ&チップス、キドニーパイしかない?確かに80年初頭は、私自身が貧乏学生であったこともあり、イギリスで美味いものを食った覚えがない。そこで覚えた味はアジアンエスニック、チャイニーズとインディアンだ。さすがの大英帝国レガシー。田舎をドライブして、ふと立ち寄った村のパブのホームメイドなイングリッシュ・ブランチも美味かった。しかし10年経ちイギリスもEUに加盟して安価な生鮮食料品がドット域内から入ってくると食事の質が確かに変わった。私自身の懐も多少は豊かになったこともある。そして美食の探求に洋の東西はない。ましてフレンチやイタリアンが全てではない。コンランのレストランはフレンチ、イタリアン、中華、和食、インド、世界各地のフュージョン料理であった。それをイギリス風にアレンジしたまさにモダン・ブリティッシュ。彼はブリティッシュキュイジーヌに新風を吹き込んだし、それが世界の人々に受け入れられた。彼のレストランはロンドン名所になった。フランス人のシェフも料理修行に来ていた。しかも、レストランのロケーションにもこだわった。テムズ川沿いのバトラーズ・ワーフ倉庫跡、タイヤ会社のミシュラン旧本社ビル、セントジェームスの地下のレジェンダリーなダンスホールなど、ロンドンの歴史と伝統ある建物をうまく生かして再生した。そうしたプラットフォームがまた新しい文化を生み出した。それが実におしゃれだ。東京のように古い伝統建築物をどんどん壊して、何の変哲もない高層ビルに建て替える再開発とは大違いだ。このセンスの違いはどうして生まれるのだろう。日本も今や外国人ツーリストが押し寄せる国になったが、本当の文化力を発揮し、それが普遍的のものとして世界に認められ受容されるにはまだまだ時間がかかりそうだ。今はただ経済力が衰退したので割安感で押しかけているようにしか見えない。日本は軍事大国、経済大国の次は文化大国しかない。そういう文化人、企業家がもっと生まれないものか。


「テレンス・コンラン展」の様子。基本的に撮影禁止であったが、一部の展示が撮影可であったので雰囲気だけでも味わっていただきたい。


東京ステーションギャラリーエントランス
丸の内南口
コンランショップ再現



バートン・コートのコンランの自宅での生活紹介





ロンドンのコンランプロデュースのレストラン達

1)Le Pont de la Tour, Chop House in Butlers Wharf

タワーブリッジ麓のバトラーズ・ワーフ、昔のテムズ川沿いの倉庫街であったところをリノベーションし、レストランとデザイン・ミュージアムを開設した。いわばウォーターフロント再開発の先駆けである。古い建物を取り壊すのではなく、再利用する。東京の天王洲アイルや横浜の赤レンガ倉庫はその影響を受けたのか、雰囲気が似ている。とにかくテムズ沿いに聳えるタワーブリッジ見ながらのディナーはロンドン生活のハイライト。家族でもよく出かけたが、日本からの来訪客を案内するにも最高であったことは言うまでもない。



'Le Pont de la Tour'
which means 'Tower Bridge'

Chop House



2)Quaglino's St. James's

セントジェームスにある昔のダンスホールを改装したレストラン。店内に入ると、まず美しい下り階段が目に飛び込んでくる。そこから見渡す階下のフロアーが美しい。階段をゆっくりと降りながら自分のテーブルへ案内される。まるで自分がスポットライトを浴びながらステージに登場する主人公になったよう感覚に浸れる心憎い演出。ちょっと知られた有名ダンスホールだったというその記憶とレガシーをうまく受け継ぐセンスが素敵だ。





Quaglino's St. James's


3)Bebendum the Michelin House on Fulham Road in Chelsea

ミシュランタイヤのイギリス本社のアールデコ建築をコンランが気に入りついに買い取ってレストランに。コンランショップも入っている。とにかく建物が素晴らしい。良い舞台が名優たちの演技を盛り上げてくれる。食事を楽しむと言うことはこういうことだとイギリス人に教わった。ロンドンが食文化の中心になるなんて10年前には考えられなかったことだ。保守的と受け止められがちなイギリス文化の多様性と革新性の象徴のようなレストランだ。



Bibendum
the Michelin House on Fulham Road in Chelsea







以下は、日本のレストアー、リノベーションの象徴、東京駅赤煉瓦駅舎。これはなかなかの出来栄えだ。世界一混み合う駅のこの余裕。日本もやればこういう事ができるのだ。壊すばかりが能じゃない。今回の「コンラン展」にふさわしいヴェニューだ。新しいモダン・ジャパニーズが生まれる予感も。


東京駅丸の内南口









ギャラリーを出るとそこは師走の東京駅



(撮影機材:Nikon Z8 + Nikkor-Z 24-120/4)
レストラン写真はそれぞれのレストラン・ウェッブサイトからの引用。