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2020年12月6日日曜日

生け垣が美しい里 〜伊豆奈良本散策〜

 


伊豆の奈良本は、伊豆半島の東海岸、天城山の麓に広がる山里である。現在の町名は賀茂郡東伊豆町。熱川温泉といったほうがわかりやすいかもしれないが、温泉街は伊豆急の熱川駅を下って海岸べりに位置しているのに対し、もともとの奈良本村は駅から山の方へ登った天城山麓に位置している。伊豆急線が開通する以前は、この奈良本村の真ん中を旧国道135号線が走っており、伊東から連絡する村内のバス停が唯一の公共輸送機関であったという。温泉に行く人達はこのバス停で下車し、各旅館から迎えの人が坂を上がって来て、荷物を持ってもらって坂を下って行ったそうだ。以前のブログ(下記参照)で紹介したので詳細は省くが、この里はかつての奈良時代の落人集落であったという。そのせいか人々はどことなくみやこ風で柔和な風貌と言葉使いである。温暖な気候と、明るい土地柄も相まって、その末裔が子々孫々暮らすこの里は雅さえ感じる佇まいである。里を散策していて気づくのは、立ち並ぶお屋敷が、それぞれ広大な敷地を有し立派であること。特に、美しく刈り込まれたイヌマキの生け垣が連なる独特の景観を生み出している。どのお屋敷も農家で、生け垣の内には松やみかんの木が形よく植えられ、色とりどりの花が美しく咲き誇っている。それぞれの家が、敷地外にみかん山やいちごのハウス、畑、山林を有していて、ここから野菜、果物、山菜やきのこを収穫し、さらに山で獲れるイノシシ、鹿などの肉を手に入れることができる。海の幸以外の山の幸はこの里、里山で自給自足できるそうだ。こうした地産地消の生活と、食を体験できるのが作右衛門宿山桃茶屋である。ここの名物「山家料理」は、実に素朴な素材を豪華に並べる、いわば里の「満漢全席」だ。このお屋敷も広大で見事に手入れされた母屋と蔵を有する古民家で玄関にそびえる山桃の古木が象徴的だ。奈良本の庄屋屋敷であった。

このイヌマキは、じつは千葉県の「県樹」に指定されている。房総半島の館山にもイヌマキの生け垣の家が多いと言われている。伊豆半島にもこれほどの生け垣のお屋敷が並んでいるのは、房総半島と気候風土が似ているからであろうが、他にもなにか文化的なつながりがあるのではないかと感じさせる。近世以降においては紀伊熊野、尾鷲や伊豆下田、安房の船乗りは、ともに同じ船に乗り込み沿岸航路の廻船業に従事していたという。江戸時代の漂流民の記録を見ると土佐、紀伊、伊豆、安房出身者がよく出てくる。また紀伊半島の漁民が伊豆半島や房総半島に移り住んだり、和歌山湯浅の醸造業者が千葉の銚子に移り住んだりした事実からも、この地域の交流が実証される。日本列島の太平洋岸の海洋民は黒潮貫くこの海を生活の場としていた。そう黒潮は紀伊半島、伊豆半島、房総半島をつなぐ「海のシルクロード」であったのだろう。そうしたつながりが、太平洋に突き出したこの3つの半島に同じような生活文化と風習、集落の景観を生み出したと考えても不思議ではない。古代において都の政争に破れ流刑の地にやってきた落人の末裔だけでなく、黒潮海洋民の末裔、そういった多様な血筋が混ざりあった文化と風土。それらが伊豆奈良本の里独特の景観を生み出しているのだろう。そう考えると、歴史はその表舞台に名を残す人物だけのものではなく、名こそ残さないが、確かな交流の痕跡を残す庶民、生活者がもう一面の主役であると感じる。この小さな、穏やかな、そして豊かな里を散策していてそう思う。


見事に刈り込まれた生け垣と門

城郭のように見えなくもない

アクセントにツワブキが彩りを添えている

門の刈り込みにはその家の特色が出ている


こちらは生け垣ではないが屋敷林
旧国道135号線沿線

奈良本の町並み

懐かしい赤いポストも現役

石仏様

作右衛門宿・山桃茶屋
元は奈良本の庄屋屋敷であった
ひときわ立派な屋敷と蔵が目を引く


奈良本の鎮守の神様
水神社
古代に奈良から移り住んだ人々が勧請し建立した。その由来が記されている。


御神木

御神木越しにみかん畑とリゾートマンション



曹洞宗の禅寺「自性院」みかん畑


「自性院」の六地蔵様








参考過去ログ:

2018年11月18日「伊豆奈良本散策」


(撮影機材:Leica SL2 + Lumix-S 20-60, Lumix S-Pro 200-400/4)