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2024年12月20日金曜日

豆州下田物語 〜なまこ壁の港町には様々な歴史と物語が紡がれてきた〜

 

下田港と寝姿山

伊豆の下田は今年が開港170周年だそうだ。伊豆半島の小さな港町だが、これほど歴史と物語に溢れた街も少ないかもしれない。長い鎖国の眠りから覚めて日米和親条約で開国した日本の最初の開港地である。アメリカ東インド艦隊のペリーが上陸し、了仙寺まで軍楽隊と下田条約調印のために行進した町である。ロシアのプチャーチンが日露和親条約に調印した町である。その彼の旗艦ディアナ号が安政地震に遭遇。沈没し多くの乗組員を失うも戸田の人々の救助と軍艦建造で帰国した。遠征中に亡くなり、故郷へ帰ることができなかったペリー艦隊の水兵やプチャーチンのディアナ号の乗組員が眠る町である。その墓所は玉泉寺にある。吉田松陰がそのペリー艦隊に乗船して密航を企てるも、拒否されてやむなく断念。幕府に自首して捕えられた町でもある。日米和親条約/下田条約で開港の地となり、初代アメリカ領事ハリスが玉泉寺に領事館を開いた。不慣れな土地に赴任したもののなかなかやってこないワシントンからの便の到着を待ち侘びた波止場がここだ(ハリス日記)。好奇心旺盛なヒュースケンが街に繰り出し混浴を見に行ったり、犬に吠え立てられた町でもある(ヒュースケン日記)。異人蔑視と理不尽なゴシップから生まれた「唐人お吉」の悲しい物語の舞台もここだ。しかし、横浜が開港すると下田は閉港。歴史の表舞台から消えてゆく。そして「伊豆の踊り子」で学生がカオルと別れた波止場。その最後のシーンに胸を熱くした。そんな多くの歴史と物語を纏った下田。昔から江戸湾に入る船を監視する幕府の船番所があり、下田奉行所も置かれ風待ち港としても栄えた。江戸からは遠く離れていた。江戸の防衛という観点からは理想的だ。だから開港場に選ばれたのだ。立派ななまこ壁と伊豆石の商家や蔵が立ち並び、花街もある情緒あふれる港町であった。今も往時の繁栄を彷彿とさせる痕跡をあちこちに見出すことができる。下田の街並みに独特の景観を生み出しているなまこ壁の建物は、平瓦を並べて白漆喰で継ぎ目を埋めるもので、伊豆石と組み合わせたりして耐火性、防水性に優れている。伊豆半島の風土が生み出したのであろう。町割は寺や奉行所を基軸に小規模ながら碁盤の目に整えらえており、内陸の在郷町や宿場町とは異なる風情がある。しかしそのなまこ壁の建物もめっきり少なくなってしまった。

伊豆の隠れ家にゆく時には、必ず、東京から伊豆急下田まで直行して街を散策する。2時間半の道のりだ。ここまで来れば、さすがのインバウンドの嵐、オーバーツーリズムも無い。黒船祭りの時以外は静かな佇まいだ。地元の観光協会にとっては不満かもしれないがこれが我が心のデトックスコース。平野屋のハンバーグ、牛すじカレー、邪宗門のウィンナコーヒーとトースト、平井製菓のハリスのあんぱん、ページワンのモツェレラチーズパスタとトマトサラダ。それに駅前のインドカレーのテイクアアウト。なんで下田に来てイタリアンやインドなのか。ワサビじゃなくてカレーなの?金目鯛じゃなくてタンドーリチキンなの?ぐり茶じゃなくてウィンナコーヒーなのか?固定観念にとらわれない下田は「舶来物」にもオープンな街なのだ。しかし、海の幸、山の幸がいっぺんに味わえる奈良本の山家料理の山桃茶屋が閉店してしまったのが何よりも悲しい。

ペリー艦隊の日本遠征記にも初めて体験する日本の街、下田の様子が興味津々で描かれている。街を歩く水兵たちはどこへ行っても子供に追い回され、奉行所が取り締まると、今度はペリーが交流を妨げないでと抗議する。公衆浴場の混浴に仰天し、女性のお歯黒に嫌悪するヤンキーの異文化体験が面白い。下田に滞在していたハリスとヒュースケンの日記を読むとさらに面白い。下田奉行所の役人とのやりとりに最初は違和感を抱いたハリスも、次第に彼らの真摯な態度と、知性、品格をレスペクトするようになる。街が清潔で平和であることに驚いている。世界にこんな街はないだろうと書いている。ぺリー遠征記もハリス日記も米国全権代表としての記録なので真面目で歴史的には重要かつ興味深いが、ヒュースケン日記の方は彼の個人的な記録であり、彼の若さと好奇心旺盛な性格が現れていて、先ほどの犬に吠えられた話や異人に無頓着な猫に歓迎される(?)話に思わず笑ってしまう。

以下にヒュースケンの1857年2月26日付けの日記の抜粋を紹介しよう。

「役人の付き添いなしに一歩も領事館の外へ出かけることができなかった。(中略)奉行所に抗議すると、それはあなた方を民衆から守る為だという。可哀想なのは日本の民衆である。我々がそれほど恐ろしい存在だと仕向けられている。(中略)下田の住民は我々と話をしないよう厳重に命令されており、我々が街に出かけるときには、住民は戸も窓も締め切ってしまう。特に婦人は我々が近づくと、まるで人類の敵に出会ったように大急ぎで走り去る。(中略)たまたま大胆に近づいてくる女性があるとすれば、それはシワだらけの八十婆さんで、目が悪いので「異国の鬼」と「自国の人間」との見分けがつかないのである。日本では普通大人しい牛馬までが、我々に出会うと目が覚めたように元気になり、後ろ脚で立ったり、跳ねたり、重い荷物を積んでいるのに全速力で駆け出したりする始末である。犬などは、月に向かって吠えるだけの動物のはずなのに、何をどう間違えたか、我々を見るとひどく騒ぎ立て、町中が犬の大合唱になり、我々の後を追いかけて街外れまで来ると、そこで郊外の犬に吠える権利を譲渡するのである。猫だけは外国人に過酷な日本の法律には従わず、無頓着に我々を見つめている。この冷淡な動物だけが、我々の最上の接待役であるというに至っては、我々も随分落ちぶれたものである」


過去ログ:

2015年5月26日「ペリー艦隊日本遠征記」

2020年10月7日「最初の米国領事館、下田玉泉寺探訪:ハリス、ヒュースケン、お吉の物語」

2024年1月21日「ヒュースケン日本日記」


下田公園からの展望

いつの時代か不明であるが古い古民家が密集している様がよくわかる。
酒屋さん「土藤商店」の店先に掲示されている古写真

航海安全と豊漁を祈る




ペリーロード界隈

波止場と了仙寺を結ぶ300mほどの小径。ペリー一行が下田条約調印式に臨むために軍楽隊先頭に行進したことから「ペリー・ロード」と名付けられた。川端には古民家が並ぶ。元は港町の遊廓街であったところ。現在は古民家カフェやイタリアンレストラン、骨董店などとなっている。

ペリーロード

下田の名家、旧沢村家住宅


伊豆石の古民家


伊豆石の蔵



現在のペリーロードあたりの古写真(大正時代か)




開国ゆかりの寺巡り

了仙寺
ペリーとの下田条約締結の地

長楽寺
プチャーチンとの日露和親条約締結の地


最初に米国領事館が置かれハリスが駐在した玉泉寺
米国水兵、露国水兵の墓所もある



街中なまこ壁建築探訪

下田の街は、江戸末期には街の西の山手に位置した下田奉行所と八幡神社、寺院群を中心に、規模は小さいが碁盤の目状になっている。街中にはなまこ壁の商家や宿屋、酒蔵、漁具店などの古民家が今でもいくつか保存され残っている。一方で、店舗やアパートなどに改装されたり、取り壊された古民家も多く、なまこ壁の家は年々減っているように感じる。また、飲食店などは「なまこ壁風」看板建築のところもある。しかし本物を修景保存することも、新たななまこ壁を作るのも大変な努力が必要だろう。職人はいるのだろうか。下田は「伝統的建造物群保存地域」に指定されていないそうだから保存修景にもお金が出ないのだろう。


お吉が開いたという「安直楼」現在は閉店中

蔵を改装したカフェ(本日定休日)

いつまでこの佇まいを維持できるのだろうか
いずれ両隣のように駐車場になるかプレハブ住宅になるのだろう

原型を留めない建物

都会では見かけなくなったカメラ屋さんも健在

昭和モダンな地域センター「コミュニティーホール」

レストラン「平野屋」
幕末に「欠乏所」が置かれ、寄港する船に必要な物資を届ける場所であった。

創業時から変わらない「松本旅館」

窓枠はアルミサッシになったが

鈴木家「雑忠」邸宅
江戸時代の商家
見事な建物




日中にも関わらず人通りが無い商店街

老舗の酒屋さん「土藤商店」
備後鞆の浦の「保命酒」を扱う

伊豆石でできた酒屋さんの蔵

下田の名物喫茶店「邪宗門」

(撮影機材:Leica SL3 + Vario-Elmarit SL 24-90/2.8-4)




2024年12月14日土曜日

皇居お濠端 日比谷通りの秋 〜昭和な九州男児クンのノスタルジック東京〜




子供の頃、福岡に住んでいた。夏休みや正月にはよく東京の母方の実家に遊びに行ったものだ。父方の実家は大阪だったので交互に行った。福岡(なんばしよるとね)、大阪(なにしとんねん)、東京(てやんでえべらぼうめ〜)。それぞれの異文化コミュニケーションを味わったものだ。

東京は大きな街で、いつでもどこでも人で一杯である。ブルートレイン「あさかぜ」で17時間。博多から朝の東京駅に降り立つと、ホームも駅コンコースもものすごい人で埋め尽くされている。東京は人ばっかり!逆に帰りは、夕方の雑踏の東京駅を出発して一路博多に向かう。ネオン煌く有楽町界隈を車窓に見ながら。家路を急ぐ大勢の人々が有楽町駅のホームにぎっしりと立っているのが見える。夜が明けて山陽路を駆け抜けるときに見る途中駅は人影もまばら。長い旅路の末に関門トンネルをくぐり博多駅で降りても駅は閑散としている。はるけき距離に反比例した人口密度の差を実感したものだった。「東京は生馬の目を抜く競争の街だよ」と母が言った。そうだろうと思った。ぼんやり歩いていると突き飛ばされるし、満員電車はぎゅうぎゅう詰めで足を上げるとおろすところが無くなる。駅で電車のドアが開くと、後ろからドット押されて降りたくもない駅のホームに吸い出されてしまう。ぼんやりホームに立っていると今度は電車に乗り損なう。電車は長大編成で数分おきにやってくる。それでも満員だ。線路は複々線で電車が並んで走っていて、並走する電車の乗客と目が合う!乗り物といえば西鉄バスか市内電車しか乗ったことのない博多っ子にはびっくりするような街だった。そのエネルギーが日本の高度経済成長の原動力だった。

そんな九州男児くんにとって、皇居のお濠端の日比谷通りの街並みが格好良くて、「すごかあ!」「さすが東京バイ!」と驚いたのを覚えている。同じ高さの堂々たるビルジングが通りに沿って一列に並んでいる。堀を隔てた向かいは広大な皇居前広場。福岡や博多にはない壮観な街並みだ。高層ビル化した今もその景観は維持されていて、子供の頃見たあの堂々たる首都東京のイメージが残されている。東京に住むようになった今でも皇居外苑と日比谷公園と日比谷通りが東京の中で一番好きなところだ。子供の頃に刷り込まれた「東京らしさ」が満員電車のトラウマと共に記憶の底にこびりついているのだろう。一番首都らしい景観。皇居前広場の松の緑と広い空間。有楽町や銀座も近い。島倉千代子の「東京だよおっかさん...ここが二重橋」フランク永井の「有楽町で逢いましょう」石原裕次郎と牧村旬子の「銀座の恋の物語」。テレビの歌謡番組で聴いた東京の名所、繁華街はみなここだった。お上りさんの抱く東京のイメージにぴったりなのだ。今では渋谷や原宿、赤坂、六本木、いやお台場、ウラ原、吉祥寺なのだろうが、昭和な九州男児くんにとっては皇居、日比谷、有楽町、銀座なのだ。

その時は、自分が大きくなってその「感動の」日比谷通りに建つビルで仕事するようになるとは思っていなかった。あの満員電車の日常の一人になり、日比谷公園が昼休みの憩いの場になるとも思ってなかった。ましてロンドンのシティーやニューヨークのパーク・アベニューのオフィスで仕事することになるなんて想像だにしなかった。東京どころか世界を股にかけて... 田舎から出てきた九州男児くんは随分出世したものだ。その日比谷ビルも昨年取り壊されてしまった。再開発という名の都市破壊で跡形もなくなった。時間はものすごいスピードで流れてゆく。人生は長いようであっという間の出来事である。まさに「一炊の夢」。昭和は遠くなりにけり。立身出世して故郷に錦を飾る。それが昔の人生のサクセス・ストーリだった。しかし、終わってみれば皆同じ。今更飾る錦もなし。この歳になって気づく。故郷は遠くにありて思うもの。帰るところにあるまじや。故郷は大きく変貌して今や大都会になってしまった。両親もいないし自分が住んでいた痕跡もない。懐かしい友人たちも60年も会わない、すっかり容貌が別人になっていて誰だか見分けもつかないし、彼らもまた私が誰だかわからない。まさに浦島太郎だ。竜宮城で乙姫様やタイやヒラメの舞踊りでもてなされた記憶はないが、気づくと手には玉手箱を持っている。きっとこれは開けてはならないのだろう。タイムトラベラーはここは我慢だろう。
























(撮影機材:Nikon Z8 + Nikkor Z 24-120/4)







2024年12月10日火曜日

古書をめぐる旅(57)『A Remonstrance of The Most Gratious King James I:ジェームス1世のローマ教皇への反論書』〜「王権神授説」による国王大権の擁護の書〜


ジェームス1世の紋章と「反論書」表紙



以前のブログ(2024年10月15日 ジェームス1世:「最も賢明にして愚かな国王」)でジェームス1世の事績を紹介したが、この王様は多くの著作を残したことでも知られている。スコットランドからイングランドにやってきてエリザベス1世の王位を承継。スチュアート朝を開いた。在位中はイングランド議会と対立し、コモンロー優位も受け入れない専制君主として君臨した。またカトリックと国教会とプロテスタントの融和を図るが、結局融和どころか対立を生み、息子チャールズ1世のの時代には内戦、挙句に革命へと繋がる道筋を引いてしまった。彼は政治と宗教にどのような考えを持っていたのか。その政治思想、統治理論を自らの筆で著した著作が、The Political Works of James I:「ジェームス1世政治論集」である。その内容は5篇の論文と演説集からなる。

    Basilikon Doron(スコットランド王時代に長男のヘンリー皇太子宛に書いた王としての政治指南書。ギリシャ語でLoyal Giftの意)

    The Trew Law of Free Monarchies(「自由な君主国の真の法」議会から助言も承認も受けない王権の絶対性を説く)

    An Apologie for  the Oarth of Allegiance(忠誠の誓いへの弁明)

    A Premonition to all Christian Monarches, Free Princes and States(全てのキリスト教君主と自由な王子と国家への悪い予感)

    A Defence of the Right of Kings, against Cardinall Perron(ローマ・カトリック枢機卿への王権擁護のための反論)

    Speech of 1603-1604

    Speech of 1605

    Speech of 1607

    Speech of 1609-1610

    Speech in the Star Chamber, 1616

彼の在位中の1616年に初版が出された。国王直属の印刷人James Montaguによる。300年ののちの1918年にハーバード大学の政治史学者Charles Howard McIlwainにより、現代語訳されて解説を加えたものが、さらにそのリプリント版が1965年に出版されている。

今回紹介するのは、その「政治論集」にも含まれている最後の論文で、同じ年に独立した一冊として出版された、'A Remonstrance, Defence of the Right of Kings':「反論 国王大権の擁護に向けて」である。1616年のケンブリッジ大学の印刷・出版人であるCantrell Leggeによる出版である。今回、この貴重な1616年の初版本を入手することができた。いつもお世話になっている神保町の北澤書店である。これは」書庫の奥に長らく忘れられたように潜んでいたそうで、ジェームス1世関連の古書を探していたため「発掘」された一冊である。我が蔵書の中で最も出版年代が古い。ちなみに、CiNiiで検索すると日本では一冊のみが岡山大学図書館に登録されている。

本書には次のような長いタイトルが付けられている。

A Remonstrance of The Most Gratious King James I. King of Great Brittaine, France, and Ireland, Defender of the Faith, For The Right of Kings, and The Independence of Their Crownes Against an Oration of The Most Illustrious Card. of Perron, Pronounced in The Chamber of The Third Estate, Jan. 15.1615

Printed by Cantrell Legge, Printed to the University of Cambridge, 1616

和訳すると

「最も慈悲深い国王にして、グレート・ブリテン、フランス、アイルランドの国王、信仰の守護者であるジェームス1世の、王の権利とその王位の独立について、最も著名なペロン枢機卿の1615年1月15日の第三部会における演説に対する反論」

この書は1615年にフランス三部会の平民(都市ブルジョア)部会:The Chamber of Third Estateにおけるローマ・カトリックのペロン枢機卿の演説に反論したものである。すなわちこの演説は国王と世俗の皇嗣の王位の正当性への異議と廃位を示唆するローマ教皇の考えを示したもので、これに真っ向から反論したものである。元々ジェームス自身によりフランス語で書かれたものを英訳した。この中で、まず巻頭言でペロン枢機卿の演説に関して12項目にわたる疑問点を指摘した上で、本文で4章に分けて枢機卿の主張の問題点を詳細に分析し、聖書や歴史的背景に遡り、逐一反論している。残念ながら今回は内容を詳細に紹介するところまで解読できていない。とはいえ圧倒的な筆力とボリューム、そこに現れる熱量ににジェームスのこの議論に関する強烈な執着を感じる。先述のハーバード大学のMcIlwain教授の解説によれば、主張の骨子は、国王大権はローマ教皇から与えられたものではなく、その王位は教皇からは独立したものであるということ。すなわちそれはDivine Right of Kings、すなわち神から直接に統治を付託されたものである。それは聖書の創世記に由来するものであるということに尽きる。すなわち「王権神授説」の正統性を論証、力説し、王権に対するローマ・カトリック教会の介入を否定した書である。その論拠、歴史的背景などこれを実証的に解読するには盛んに引用されているラテン語やギリシャ語、さらにはヘブライ語で書かれた神学書や教義書の知識、史料批判がないと理解できない。ここでは、後世の研究者の評価、すなわち国王ジェームス1世により「王権神授説」を理論化したイギリス政治思想史上重要な著作であり、ローマ教皇との関係についてヨーロッパ各国の王に大きな影響を与えた書であることを紹介するにとどめたい(先述の1918年、1965年の「ジェームス1世政治論集」再版の解説を参照願いたい)。

そもそもジェームスはスコットランド王時代から多くの著作をものし、知性的な国王という面を有していた。その著作は魔女狩りや火炙りの刑を肯定する「悪魔論」や、先述の王権神授説を思想的バックボーンにした「政治論集」で、啓蒙主義、近代合理主義というより、かなり中世的な思想を引きずったものである。彼の政治理論の根本にある「王権神授説」:Dvine Right of Kingsは、聖書のアダムに由来する「家父長的王権思想」がその基礎にある。国王は父であり、臣民は子である。国王は頭であり国土は胴体である。といった主張である。ジェームス1世の王位を継いだ次男のチャールズ1世は父に輪をかけた「王権神授説」信奉者で、この時代にロバート・フィルマーにより理論化された。のちにジョン・ロックが「市民政府論」で一章を設けて徹底批判した思想である。国王は全ての責任を神のみに負う。全ての権能は直接神から授かったもので不可侵である。ローマ教皇から統治権威を授かったものでは無いし、臣民の議会により付託、承認されるものでもない。したがって国王大権は教皇からも議会からもなんら拘束を受けることはない。また法は国王が神の名において定めるものであって、国王は法の上にある。この王権神授説は、絶対王政を正当化する思想・理論として、当時は各国の君主に支持されていたこと、そしてローマ教皇権威からの離脱を宣言したイングランド国王自身による著作であるという点で時代の画期をなす論文と言って良いだろう。

スコットランドからやってきたジェームスは、王権に対抗するイングランド議会:Parliamentやコモン・ロー:Common lawを理解もせず、受け入れもしなかった。一方で自身はカトリックの出でありながらローマ教皇の権威を認めず、イングランドの宗教権威はイングランド国王にあるとするヘンリー8世以来の首長主義、国王至上主義の姿勢を堅持している。本書もまさにその立場を表明してものである。もともとヘンリー8世のローマ・カトリックからの離脱も、宗教上の教義解釈の相違というよりは政治的(自身の離婚を認めないローマ教皇への抵抗)であり、プロテスタントの宗教改革とは無縁のものであった。ヘンリー8世はむしろマルチン・ルターの教義解釈に反論しており、ローマ教皇から称賛されていたくらいである。この頃はカトリックと国教会には共通点と相違点が混在しているように見える。イングランド王がイングランドにおける宗教権威の最高位にあるとしたものの、国教会の典礼もカトリックに準じたものであった。この点ではジェームス1世も同様である。ただジェームスは欽定訳聖書(1611年の英語版聖書)を編纂させている。これは、ルターのドイツ語聖書印刷と並び、ラテン語聖書を自らの権威の根源として聖職者が独占したローマ・カトリック教会に対するインパクトは画期的である。一方でイングランドのカルバン派プロテスタント(ピューリタン)はカトリックとも国教会とも相容れず、独自の主張で対立した。スコットランドではカトリックに対抗するカルバン派(ユグノー派)プロテスタント、長老派(プレスビテリアン)が勢力を伸ばすなど、各派入り乱れての混乱の時代であった。この頃のヨーロッパ各国は、宗教改革やローマ教会/教皇からの国家(王権)の独立を進める王の登場で、ローマ・カトリック教会、教皇の権威が衰退した時代である。やがてはカトリック教国のフランスですら「朕は国家なり」の王が登場してくる。ジェームス1世のこのローマ教皇への「反論書:Remonstrance」がそうした時代の到来を如実に物語っている。

ちなみに17世紀のこの時代、ブリテン島ではアイルランドのカトリック勢力とスコットランドのカトリック、長老派勢力、イングランドの国教会とピューリタンとカトリックの三つ巴の争いに、イングランド、スコットランド、アイルランド三王国の争いが加わり混乱の時代を迎えていた。後世の歴史家はこれを「清教徒革命:Puritan Revolution」の時代と呼んでいたが、最近では「三王国戦争:Wars of Three Kingdoms」とか、「ブリテン革命:British Revolution」と呼んでいる。この中でチャールズ1世処刑とクロムウェルの共和制を「清教徒革命」、そして王政復古、そして立憲君主制を確立した権利章典、「名誉革命:Glorius Revolution」までのイングランド内戦と革命を「イギリス革命:English Revolution」と総称するようになった。名称はともかくジェームス1世の「王権神授説」による専制君主政治が、議会、コモンロー裁判所との対立。そしてカトリック、国教会、プロテスタントの三つ巴の争いを引き起こし、そしてその子チャールス1世の暴政が、こうした内乱と革命を引き起こした。やがてその帰結として絶対王権が制限され、その理論的支柱であった「王権神授説」は否定され、ロックが唱える「社会契約説」や「王権にたいする抵抗権」の時代へ。そしてアメリカ植民地とフランス王国は共和制へ、イギリスは立憲君主制(「君臨すれども統治せず」)へと遷移してゆくこととなる。ジェームス1世の皮肉な歴史上の役割を象徴するのが本書である。








ジェームス1世の欽定訳聖書