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2023年5月10日水曜日

古書を巡る旅(33)The Capital of The Tycoon「大君の都」〜ラザフォード・オルコックの見た幕末日本〜


「大君の都」全2巻
ハーフカーフ、マーブルボード装の美しい本である



幕末/維新史を研究するときに必須と考えられる、英国外交官三部作(アーネスト・サトウ、ハリー・パークス、ラザフォード・オルコック)のうち、これまで手に入らなかったラザフォード・オールコックの「大君の都」初版をついに入手することができた。神田神保町では見つけ出すことが出来ず、ネット検索で、札幌の古書店にあったのを取り寄せた。これでアメリカのペリー艦隊日本遠征記、タウンゼント・ハリス日記に始まる「幕末/維新」史の主要史料が揃った。オールコックの「大君の都」オリジナルはクロス装のはずだが、本書は革装、マーブル模様、ギルトという豪華な装丁である。蔵書票が添付されており、Hector Stewart Richardson Oramsと記された紋章がある。どこかの名家の蔵書であったのであろうか。蔵書家としてオリジナルの装丁に仕上げたのだろう。来歴、素性は不明である。各ページには読んだ形跡もあり、ところどころに鉛筆による下線が見受けられる。しかし、全体的には痛みもなく極めて上程度の古書だ。

The Capital of The Tycoon  A Three Years' Residence in Japan:「大君の都」。1863年にロンドンで出版された初版本。初代駐日イギリス公使オールコックの、1859年から1862年まで賜暇休暇で帰国するまでの3年間の日本滞在記である。この時期の日本は、1853年のペリー来航に始まる幕末の激動と混乱の時期で、15年後に訪れる幕府崩壊、維新の前夜という時代である。横浜開港後、特に攘夷派による外国人へのテロ事件(ヒュースケン殺害など)が横行し、生麦事件と薩英戦争、下関戦争が起きた時期である。以前紹介した初代駐日アメリカ領事タウンゼント・ハリスの日記が、1854年から1857年までの開国直後の事情を知る貴重な文献史料であるが、残念ながらアメリカ領事館の下田から江戸善福寺への移転で終わっている。したがって攘夷の嵐に翻弄される外交団については触れられておらず、このオールコックの記録はそれに続く詳細な幕末史を語る貴重な資料である。さらにオールコック離日後の、大政奉還、戊辰戦争、明治維新とその後の出来事を語った資料としては、アーネスト・サトウの「一外交官が見た明治維新」があり、またオールコックの後任の第二代駐日イギリス公使ハリー・パークスの「パークス伝」がある。こうしたハリスからオールコック、サトウ、パークスと一連の英米外交官による記録を読み進めることで日本の幕末/維新の流れを通史として俯瞰することができるというのも皮肉だ。もちろんすでに気付かれたように、この間、アメリカ領事ハリスの帰国に伴い、対日外交の主導権がアメリカからイギリスに移って行った様子も確認できるであろう。オールコックの業績は、もちろん幕末におけるイギリスの対日政策の立案と実行である。特に他国に先駆けて日本を開国に導いたアメリカのハリスが、あくまでも交渉相手として幕府を重視したのと異なり、早くも幕府の先行きを危ぶみ、Tycoon(徳川将軍)の絶対権力を疑問視した。彼は、幕藩体制を、これを彼の言うところの前近代的封建体制であり、それは絶対王政とは異なり、徳川将軍家以外の諸侯が政権を奪取することを可能とする体制であると理解した。とりわけ薩摩や長州といった反幕府勢力との接近、そして同盟による、政権交代を支援した。これも皮肉なことにイギリスと戦火を交えた相手であった。換言すれば、すでに西欧諸国の近代的政治体制、産業資本主義、グローバリズム、自由貿易体制の襲来に、東洋の諸国が「攘夷」などと言い募っていつまでも門戸を閉ざしているわけにはいかないことを知らしめ、政治体制、経済構造の変革を促した。中国においては武力行使による帝国主義的な方法を取り、オールコックはその先兵として働いてきたわけである。しかし、日本においては、本国の厳格なポリシーが適用され、武力行使は禁じられた。それをオールコックは守り、内戦勃発(戊辰戦争)にも、彼の後任ハリー・パークスはオールコックの政策を引き継いで「局外中立」を宣言。一貫して武力介入を避ける方針を維持した。幕府側(特に慶喜は)も列強諸国の介入を徹底して回避する方策をとった。これが日本における「革命」/「王政復古」の性質を決めたといったも過言ではない。唯一の例外が馬関海峡における四国艦隊砲撃事件である。この事件は「大君の都」には記載されていない(出版後の事件であった)が、この武力行使の決定には、オールコックの強いメッセージが込められているように感じる。それはアヘン戦争やアロー号事件での武力による開港、領土割譲や外国租界の設定で清朝政府を屈服させたやり方ではなく、近代的な武力を見せつけることで、「攘夷」の非合理性を可視化する演出あるいは戦略である。事実、結果的に交戦相手であった薩摩や長州は攘夷からイギリスとの同盟関係へと転換することとなったことは衆知の通りである。

一方でまた、そうした日本の幕末/維新史に与えた影響とは別に、オールコックのわずか三年の滞在期間中に、日本中を精力的に巡り、外国人として初めて富士山にも登り、数多くの日本人と接し、膨大な日本美術品を収集し、英国におけるジャポニズムのブームを巻き起こした功績にも触れねばなるまい。ロンドン博覧会へ幕府使節団派遣や日本美術品コレクションの出展は彼の企画であった。日本の文化に対する欧米諸国の理解の増進に貢献したといえよう。かといってオルコックが日本を、東西文明「ファーストコンタクト」時代のルイス・フロイスなどポルトガル宣教師やウィリアム・アダムス(三浦按針)などのように、地球の反対側に見出したもう一つの文明国、と見做した訳ではない。かといってケンペルやツンベリー、シーボルトのような学者的好奇心で見ていたわけでもない。彼にとって日本は興味を引かれる芸術品にあふれた魅力的な世界ではあったが、決して西欧文明に対抗するようなものとは見做さず、12〜3世紀の古い封建制が東洋的に変容して支配する世界であり、またキリスト教的な「神の救いがもたらされない未開の異教徒」であり、文芸作品の繊細さは我々のそれの足元にも及ばないと看做している。オルコックの「大君の都」は、魅力的な芸術、工芸作品への愛着を除いては、全巻を通じて日本(幕末、すなわち1860年当時の)への辛辣な批判書となっている。このような評価の視点は、当時の西欧人の東洋観の基底にある価値観の表明であったとも言える。これはのちの明治になってから来日した「御雇外国人」が示した日本理解にも引き継がれている。例えば著名なジャパノロジスト、バジル・ホール・チェンバレンですら同様の視点が示されている。ただ、彼の著作「日本事物誌」ではオルコックの日本論を批判しているが。またラフカディオ・ハーンのようにそれに真っ向から異論を唱えるジャパノロジストも現れるのだが。本書にはオールコックの日本観、日本人観が克明に記述されているが、それは彼が信じる神の愛による慈しみの目ではない。キリスト教的世界観、価値観はどこまでもついてまわる。現代の多様性を重要な価値とする世界観とは異なる。それにしても彼の文章は「悪筆」の誹りを免れないだろう。段落もなく、長々と叙述が続き、話題が変わってもそのまま書き続けるので非常に読みづらい、メリハリのない書きっぷりと、意味不明な比喩の連発に悩まされる。これは英文読解力という語学能力の問題ではないと自分を慰めることができる。

本書には多くのイラストや挿画が掲載されている。その中には当時流通していた日本の浮世絵などから引用したものも多く、特に庶民の生活スタイルや風俗習慣に関するものが多数引用掲載されている。こうして見てみると、この頃の江戸の浮世絵師のビビッドな描写とウイットに飛んだ表現は西欧人でなくとも大いに感じるものがある。ましてオールコックも、すっかりこの日本のアルチザンにハマったことであろう。しきりに引用している。日常的に見る庶民の生活の様子がまるでスナップ写真のように記録されているので、彼が日本人の事細かな風俗、習慣を言葉で説明するよりも、絵で見せる方がより効果的で説得力あると考えたのであろう。実際、江戸の浮世絵師の表現は写真のようなリアリティーがあるし、漫画のような親しみやすさが溢れている。また一方では、「ロンドン画報」の特派員画家である、チャールズ・ワーグマンの絵もふんだんに掲載されている。これは貴重である。ワーグマンの好奇心に満ちた観察眼と細密な描写には驚かされる。長崎街道を旅する途中で出会った人々の日常を、これは取りこぼしてはならじ、とばかりにスケッチし彩色絵にしている。特に富士山登山の様子を描いたものは貴重である。この頃の登山はいかなる装束と装備で行ったのかがよくわかる。庶民の生活の様子も写実的に描かれており、まだ写真技術が普及していなかった時代には貴重なビジュアル表現であった。その描写は浮世絵師に負けていない。またオールコック自身も絵の心得があり、彼自身によるスケッチも含まれている。文章が悪筆なだけに、イラスト集としてパラパラ眺めるだけでも楽しい。彼のイラストは秀逸なので、そもそも漫画版「大君の都」を再版してくれたら、とさえ思うほどだ。冗談だが。


背表紙

ここにもマーブル模様


蔵書票

表紙 ワーグマンの筆になる「村の美人」

箱根からの富士山

吉原からの富士山
富士登山

小田原とあるが...

大坂

村の生活模様

長崎街道の宿場

旅の途中の小休止

嬉野温泉

日本地図

武士の身支度

警護の若い武士

女性の剃刀

浮世絵からの引用
庶民の日常
彼は日本人の休息の取り方は我々にとっては苦痛でしかない、と驚いている

食事中の船乗り 「魚の骨」が...

Sir Rutherford Alcock  (1809-1897)


ラザフォード・オールコックの略歴:

1809年ロンドン西郊外の医者の家に生まれる

1830年 イートン校卒業後、外科の開業医免許取得

1832年から軍医としてスペイン反乱鎮圧に従軍 しかし病気のため辞任

外務省に入省し東洋勤務を志望


清国時代(1844〜59年)

1843年 廈門領事館一等書記官

1844年 福州領事

1846年 上海領事 イギリス租界の設定 領事裁判権、関税制度に活躍

1855年 広州領事 首相パーマストンに、第二次アヘン戦争ともいうべきアロー号戦争を進言、実施(1856年)


日本時代(1859〜1864年)

 1859年 初代駐日総領事 のちに特命全権公使に 麻布の東禅寺に英国公使館開設

長崎に入港したのち、江戸、開港予定地である神奈川、函館など視察

1860年 富士山登山 愛犬トビーが熱海で熱湯を浴びて死去 地元での手厚い埋葬に感動

1861年 ヒュースケン殺害事件 江戸から横浜へ移転、1ヶ月後に江戸に戻る

1861年 ロシア軍艦の対馬占領に対応、幕府の許可を得て9月に英艦隊を派遣してロシアを対馬から退去させた。

1861年 7月第一次東禅寺事件 攘夷派浪士14名がイギリス公使館を襲撃 辛くも難を逃れたが、一等書記官オリファント、と長崎領事モリソンが負傷

兵庫開港延期に反対するも、事態を察し幕府遣欧使節団を支援。この頃幕府の権力の低下を実感する

1862年 ロンドン万博に幕府使節団を派遣、日本館出展。彼の日本美術コレクションを出展。英国におけるジャポニズムブームのきっかけとなった。賜暇休暇で帰国。この時サーの称号を得る。

1863年 「大君の都」をロンドンで出版

1864年  日本に帰任

留守中に「生麦事件」1862年9月

「薩英戦争」1863年8月 イギリス公使代理のジョン・ニールが賠償金を幕府から取り、その上でイギリス艦隊とともにを鹿児島に乗り込み砲撃戦となる 本国から批判

1863年 下関事件、1864年8月 四国艦隊下関砲撃事件勃発 下関砲台占拠

日本に帰任したオルコックは、長州藩による攘夷継続が長崎貿易に大きな影響を与えること、幕府の開国政策に影響を与えかねない(横浜閉港の動き)との危惧。また幕府に西欧諸国の武力を示す必要から長州藩への懲罰攻撃を決定。しかし本国は日本との全面的武力衝突に発展することを危惧し攻撃を否認と訓示。しかし訓示が届く前に攻撃開始となり、砲台が四国艦隊の陸戦隊に占拠された。

1864年12月25日 訓令違反を問われて駐日公使を解任され、本国召還。

その後彼の判断が正しかったと名誉回復されたが、駐日公使へは復職せず、後任としてハリー・パークスが江戸に着任。


第二次清国時代(1865〜69年)

清国全権公使に栄転 1865年


1869年の帰国後は、王立地理学協会の理事長、イギリス北ボルネオ会社会長などを歴任

執筆活動に勤しむ。

1897年ロンドンにて没


彼の駐日全権公使としての事績、幕末の歴史的な事件についてはこれまでのブログ(下記に列挙)を参照願いたい。特に「江戸高輪東禅寺 最初の英国公使館」にはオールコック着任から退任までの出来事をまとめた。


過去の関連ブログ:

2022年12月16日 古書を巡る旅(28)アーネスト・サトウとミットフォード

2021年11月28日 古書を巡る旅(18)「ハリー・パークス伝」

2021年6月12日 古書を巡る旅(11)「一外交官が見た明治維新」アーネスト・サトウ

2021年4月14日 古書を巡る旅(10)「タウンゼント・ハリス日記」

2020年10月7日 伊豆下田玉泉寺 最初の米国領事館

2020年10月1日 江戸高輪東禅寺 最初の英国領事館

2020年9月25日 古書を巡る旅(6)「エルギン卿遣日使節録」ローレンス・オリファント



参考:「大君の都」幕末日本滞在記(上)(中)(下) 山口光朔 訳 岩波文庫

2023年5月1日月曜日

新緑の自然教育園を散策する 〜「葦原中つ国」に「青人草」現る!〜

新緑が輝く森を歩く

 

白金の国立自然教育園は、正式には国立科学博物館附属の分園である。ここは4〜500年前の室町時代には地元の豪族「白金長者」の居館跡と言われ、江戸時代には讃岐高松藩の下屋敷。明治になると陸海軍弾薬庫、大正時代には白銀御料地。戦後の1949年に、全域が天然記念物に指定されて公園として都民に公開された。「白金長者」が如何なる人物であったのか、江戸時代になってからの文書にその伝承があるだけで詳細は不明である。「今は昔、お屋敷に白金をしこたま溜め込んだ長者様がいたそうな。それでここが白金と呼ばれるようになったとさ」といった民話の世界の話のようだ。敷地内に古い土塁が残っており、ここが城ないしは砦として構築されていた時期があったようだが、時代の特定はできていないようだ。園内の高松藩下屋敷の痕跡は、他の大名屋敷のような遺構が顕著に残っているわけではなく、巨大な松や、庭園に作られたであろう池の痕跡にその面影を見出すくらいで、ほとんどが自然に帰っている。白金御料地の面影は、その南西部の旧朝香宮邸跡(現在の東京都庭園美術館)に留めている。現在は、下記写真のように、白金台地に、ぽっかりと緑の塊が取り残されたような自然の森となっており、大都会の真ん中の貴重なオアシス空間である。その南西の一部が、先述の東京都庭園美術館(旧朝香宮邸跡)、東の一部が駐日台北経済文化代表部(旧亜東協会)、老人ホームとなっている。

森歩きが大好きな私にとっては、貴重な空間である。鬱蒼とした広葉樹林と水生植物園、水辺の湿地帯、路傍の珍しい草花を一つ一つ観察しながら歩く。そんな時間に癒される。まさしく「葦原中つ国」を彷彿とさせる湿地帯に佇めば、我々が「青人草」であることを思い出させてくれる。



自然教育園HPの表紙より

自然探索路入り口

意外に目立たないところにある

黒松

「物語の松」旧高松藩下屋敷の松であろう

スダジイの巨木

ムクロジの巨木


ショウブ

ノイバラ

チョウジソウ

チョウジソウ

ヤマブキソウ

ゼンマイ

キジムシロ

二人静



「葦原中つ国」の姿、斯く在らん

ひょうたん池

「葦原中つ国」に「青草人」一人



園内図(自然教育園HPより)



(撮影機材:Nikon Z9 + Nikkor Z 24-120/4)







2023年4月23日日曜日

古書を巡る旅(32)Poetical Works of Lord Byron :バイロン詩集 全6巻 〜ロマン派詩人の詩集は工芸品だ〜

 



古書の楽しみの一つに、美しい装丁の本との出会いがある。もちろん原典に当たるという古書の本来の楽しみも大事ではあるが、その時代の装丁家(Bookbinder)による工芸品のような本に出会うとクラクラする。かつてロンドンの古書店街で目を引いたのはこのような「書籍という工芸品」であった。これで古書に目覚めたと言っても過言ではない。以前から、神田神保町の北澤書店のネットカタログに掲載されていた「バイロン全集」が気になっていた。バイロンの詩というより、そのロマン派詩人の全集のなんと美しいことか。そのルックス、佇まいにすっかり魅了されてしまった。書店で何回か手に取って見せてもらう機会があったが、その手触り、革装の風合い、香り、なんともいえない。緑濃いケントのマナーハウス(邸宅)のオーク調家具で埋め尽くされた書斎に並べればピッタリだ。「装丁で買う」ということにどこか後ろめたさがあって、しばらくは購入を躊躇っていたが、ついに、その美貌にフラフラと誘惑されてしまい我が家に連れて帰ることになった次第である。この全集の居場所がケントのマナーハウスでなくて、東京のマンションで良いのか、という問題はあるが。

そういえば、その昔ロンドンで「キーツ詩集」を手に入れたが、これもアール・ヌーヴォーの美しい装丁の背表紙が「手招き」していたからだった。今回も、明らかにこの6巻の背表紙が手招きしていた。キーツやバイロンの詩が好きだから、ロマン派の詩に憧れる文学青年であったからという訳でもないのに、彼らの「詩集」に魅せられてしまった。しかし、概してロマンチックな詩集がそれに相応しい美しい装丁を纏っているのは、ある意味で自然なのかもしれない。美しいデザインで装丁された詩集であれば、なお一層、蔵書としての愛着も深まる。私のこれまでの古書コレクションは、主にテーマが日欧交流史と英国史、経済学書関連が主体である。歴史的な資料としての価値はあるが、豪華というよりむしろ古色蒼然とした風合いの古書が多い。もちろん英国を代表する作家、シェークスピア、サミュエル・ジョンソン、チョーサー、ミルトンなどの歴史的な著作もあって、こちらは魅力的な外装デザインであるが、やはりロマン派詩集はもう一つ違う異彩を放っている。

ヨーロッパの出版文化において、歴史に名を残す著者はもちろん、出版社と、プライベート・プレス、装丁家の存在を忘れてはならない。イギリスの出版事業は、以前のブログでも触れたように16世紀には成立していた。出版文化には、その出版人の存在、役割が非常に重要であったことはそこでも述べた。しかし、出版事業の発展とともに製本技術も進化し、さらに蔵書としての価値を高める装丁に手間をかけることも盛んになっていった。活版印刷技術が普及して多くの人々が活字に触れることができるようになったとはいえ、書籍はまだ高価で誰でもが所有することができるものではなかった。一種のステータスシンボルでもあった。勢い、豪華な装飾を書籍に求める動きが出てきても不思議ではない。ところで、この全集の美しい装丁は誰がどのような経緯で手がけたのだろう。今回は少しだけ、この「バイロン詩集」をネタに、著者ではなく、出版に関わったプレーヤーについて考察してみたい。その一つがロンドン大手出版社ジョン・マレー社:John Murrayである。そしてもう一つが、地方都市カーライルのチャールズ・サーナム社:Charles Thurnam and Sonである。


バイロン卿:George Gordon Byron, 6th Baron Byron FRS (1788〜1824)

とはいえ、一応バイロンの紹介もしておかねばなるまい。あまりにも著名すぎて、改めてここで事細かく紹介する必要もないだろうし、今回はバイロン卿が主役ではなく、出版社、装丁家が主役であるから、ごく簡潔に。

19世紀イギリスの詩人。シェリー:Percy Bysshe Shelley (1792~1822), キーツ:John Keats (1795~1821)と同世代のロマン派詩人である。「今世紀最大の天才」とゲーテは称賛している。彼の詩は繊細でしかも、反世俗的、世の中に対する皮肉と批判精神に満ちたものである。またギリシャ文明に対する憧憬に満ちており。後述のように彼の地で短い生涯を終えた。その短い人生において多くの詩を書けたのは、非常に着想から書き起こしまでが早かったからだと言われている。日本でも明治以降、最も知られた西欧の詩人の一人である。与謝野鉄幹の「人を恋ふる歌」の4番に、その名が引用されていて、西欧文化のアイコンのような存在であったことが窺い知れる。

「ああ われダンテの奇才なく バイロン ハイネの熱なきも 
石を抱(いだ)きて野にうたう 芭蕉のさびをよろこばず」

ジョージ・ゴードン・バイロンは親戚の爵位と領地を相続し、第6代バイロン男爵となったが、ケンブリッジの学生時代から悪友と放蕩のかぎりを尽くし、その後も社交界でのスキャンダルに満ちた人生を送ったことで知られる。結局イギリスに居れなくなり出奔。スイス、ジェノア、ヴェネチアなどを放浪したが、変わらぬスキャンダラスな日々を送った。ギリシャ独立戦争に私人として参加し、軍団を率いることになるが、現地にて戦闘ではなく病死する。36歳であった。本書はそのバイロン卿の、「バイロン卿詩集」新版全6巻:Poetical Works of Lord Byron A New Edition,  6Volumes。出版者:London: John Murray, Albermarle Street、1855年の版である。





ジョン・マレー社:John Murray

この「バイロン全集」を出したジョン・マレー社は、1768年創立のイギリスの出版社。現在でもロンドンで出版事業(Hodder Headline社の傘下となったが)を行うイギリスを代表する出版社の一つと言っても良いだろう。ロンドンは今でも出版業界の世界的な中心の一つである。

同社は、初代ジョン・マレーが1768年ロンドン、アルパマール街に創設。その子のジョン・マレー2世:John Murray(1778~1843) はバイロンや、キーツ、シェリーなどの当代の若手の詩人やジェーン・オースチンなどの作家の良き理解者、支援者として彼らの作品を多く出版し、文芸作品の出版社としての地位を確立した。次のジョン・マレー3世はダーウィンの「種の起源」「ヴィーグル号航海記」などの重要な書籍を多数出版した。しかし、ジョン・マレー社を世界的に有名にしたのは、当時上流階級で流行していた旅行ブーム、グランドツアーに当てて、旅行ガイドブックシリーズ「Murray's Hand Book」(通称Red Bookとして愛された)を企画出版したことだ。ジョン・マレー3世自身、若い頃から世界を旅し、その経験からより正確で、実用的な旅行ガイドの必要性を痛感していたという。これがヒット商品となり、ドイツのべデカー社のガイドブックと共に2大ガイドブックの地位を獲得した。現在も、このRed Bookシリーズを古書店で目にすることも多い。これは日本にも大きな影響を与え、幕末から開国間もない明治期に、幕府や明治政府の遣欧、遣米使節などにとっては海外渡航必携のバイブルとなった。また一方で、マレー社は、いち早く開国まもない日本のガイドブックを出版し、訪日外国人の最初の信頼できるガイドブックとなった。初版は、アーネスト・サトウ執筆、編纂のサトウ版(1884)である。続編としてサトウから引き継いだバジル・ホール・チェンバレン版(1901、1903、1907、1913)が改訂シリーズとして出版された。また、チェンバレンの重要著作「日本事物誌」:Things Japaneseも同社の出版である。

話を戻すと、手元の「バイロン全集」は、1855年に出版された全6巻の全集である。ジョン・マレー2世時代に初版(1832年)が出版され、その後、幾度かの改訂、重版された人気のシリーズであった。本書はジョン・マレー3世になってから改めて新版:New Editionとして出版されたものだ。同社の代表的な全集であり発行部数も多いが、現在古書市場に出回っている装丁には様々なものがある。一つとして同じものが無いと言って良いほどのヴァリエーションがあり、それぞれに異なる装丁家が手がけたものであると考えられる。装丁デザインは出版元のマレー社の手を離れているように見える。




Murray's Hand Book Japan
Red Bookとして親しまれた






私家版出版:Privete Pressと製本/装丁家:Bookbinder

一方で、イギリスにおける出版、書籍文化において重要な役割を果たすプレーヤーには、前述のロンドンの大手出版社のほかに、私家版出版(Private Press)や製本/装丁家(Bookbinder)がいる。洋古書の装丁は、私家本として特注する場合のほか、出版時の装丁を蔵書家が、自分用に特注して改装することがある。あるいは、新刊でも仮綴、アンカット(ページが切られていない)のままで販売し、装丁は別注、という本もあった。自家の書斎に蔵書として保有するにあたって、より自分好みの美しい装丁にする、あるいは、貴重な古書に長期の保存に適した補修と改装を行う。こうした需要に応えるのが装丁家:Bookbinderの仕事であった。とりわけ19世紀ヴィクトリア時代の特注版、私家版で著名な工芸家のウィリアム・モリスのケルムスコット・プレスや1920年代のノンサッチ・プレスなどが知られている。あるいは、モリスのArts & Crafts運動に影響を受けたチジック・プレスなどが、比較的手に届きやすい限定出版を手がけた。これらは、本自体を工芸品、あるいは芸術作品として限定制作あるいは特注生産する、いわば本という工芸品を生み出す「工房」である。変わったところでは「豆本」というミニチュア版の書籍を専門にする工房もある。大量に印刷/製本する大手出版社とは異なる、いわばカスタムメイドの「高付加価値型」事業モデルである。このジャンルについては、書誌や芸術/工芸:Arts & Crafts運動に関する研究が出されており、また美術館などで企画展が開かれることも多い。

それ以外にも装丁、修復を専門とする「装丁家」(Book Binder)がある。この歴史は長く、中世の教会における羊皮紙に書写された祈祷書などに木製の表紙を取り付け、これに金属加工の装飾や鍵を施すなどの装丁があった。その後、活版印刷普及期に至ると、一種の職人技、手仕事による工芸品と言って良いような装丁を手がける工房が現れる。この頃になると木や金属ではなく、カーフ革やベラム革を貼った表紙が用いられた。現代でも新刊本の工場における量産型の印刷、製本とは異なる手仕事の装丁は人気もあり、出版文化の伝統継承一つとなっている。しかし、意外にもこうした「職人」達の名声が後世に残ることはなかなかない。その理由は、こうした本の装丁デザインが出版事業にとって(印刷、製本と違い)革新的な技術ではなく、装丁デザインが書籍にとって主流となる収益モデルとみなされなかったこと。一方で、装丁デザインは、名のある芸術家と言われる人たちの仕事ではなく、街のアルチザンの仕事とみなされていたこと。こういった背景があるとする研究者もいる(後述の参考書)。こうした工房は、もちろんロンドンやエジンバラのような出版文化の中心地にもあったが、地方都市における出版や書籍販売、巡回図書館といった事業と合わせて行われる場合もあった。イギリスには都市部とは別に、地方にはその土地の領主、地主やマナーハウス・オーナーなど、芸術文化のパトロンとなるような上流階級やジェントリーなどの富裕層が存在し、蔵書家需要があった。都市や地方に関わらずそれなりの市場があったことになる。そうした書籍の装丁にこだわる伝統と文化は現代まで引き継がれ、ヨーロッパ、特にフランスでは手作りの製本や、修復が必要な古書の改装を手がける装丁職人やそれを育成する学校まで出来ている。またイギリスでは大英博物館/大英図書館やオックスフォード、ケンブリッジなどには古書の保存、修復、改装の専門部門がある。美術品の保存、修復と同じ扱いである。Bookbinding領域の研究はまだまだ十分ではなく、製本技術史とともにデザインや工芸の技法の歴史についてもより詳細な研究が進められようとしている(参考となる研究書に、A History of English Craft Bookbinding Technique, authored by Bernard Middleton: Oak Knoll Press and The British Library 1996がある)日本にもこうした西欧流の技法を学んだ「装丁家」:Bookbinderが生まれているという。


チャールズ・サーナム社:Charles Thurnam and Sons

今回の美しいバイロン全集の第1巻の表紙見開きには、北イングランド・カンバーランドの州都カーライルのチャールズ・サーナム社:Charles Thurnam and Sons社のステッカーが貼られている。同社は19世紀に、この地域で書籍販売、書式などの文具販売。出版、装丁、巡回図書館などの事業を行なったファミリー企業であったようだ。それほど著名な事業者であった訳では無さそうで、古書市場に頻繁に登場する名前ではない。しかし、この当時の地方の書籍関係の事業者がどのようなものであったのかの一例として興味深い。このステッカーの意味は取次書店としてのそれなのかもしれないが、装丁を手がけた場合にも添付される。どちらなのか定かではないが、書籍販売にあたって、同社が地元の蔵書家の注文に基づいて、全集の外装をデザインし、材料を選び、装丁家に発注して仕上げた可能性もある。先述のように、もともと仮綴状態、アンカット状態で版元から出されていたものだったのかもしれない。いずれにせよ、この時代の出版物は、版元の出版社の装丁が、蔵書家のオリジナルデザインに仕立てられることが多い。例えば、初版本は簡素なクロス装であったものを、豪華な革装に仕立て直すなどである。貴重な書籍、歴史的に評価を得るような古書については特に、凝った装丁に替えて、愛蔵書として代々長く家宝とする。同社は。地元の蔵書家にそのような書籍取次販売と、装丁サービスを提供していたのであろう。このバイロン全集は、表紙、背表紙はイエロー・オーカー:Yellow Ocherのフル・カーフ(総革)にマーブル模様の裏地、Five raisedと呼ばれる背表紙(麻糸による五段綴じの堅牢な製本技法)、モロッコ革のタイトル、金箔押しという懲りようで、見事な仕上がりである。どこかのマナーハウス:邸宅の書斎に鎮座していたのかもしれない。ちなみに蔵書票は添付されていないので、元の所有者を知ることはできない。

話はそれるが、この事業者についてネットで調べて見ると、このバイロン全集の出版経緯とは別に、ヴィクトリア朝時代の地方の出版業界の事情を伺い知ることができるエピソードが見つかった。Charles Hutchinson Thurnam (1796~1852), Carlisle, Cumberland、 Bookseller, Printer, Binder and Publisher  Circulating Libraryに関する紹介論文である。出版事業がロンドンやエジンバラ中心であった19世紀の時代に、北イングランドの地方都市カーライルで出版、書籍販売を手掛けたCharles Thurnamの成功談なのであるが、こうした地方都市での出版事業の難しさと、それに伴う19世紀商業道徳の問題を提起したケーススタディーとして、地元の歴史研究家に取り上げられている。ロンドンの大手出版社との版権争奪争い、著作権をめぐる争い、地元の同業者同士の取次や版権をめぐるトラブル、訴訟問題の顛末である。このThurman氏は商売上手で、人格も円満とされている一方で、商業道徳にもとる手法を駆使して成功した人物として記憶される、という不名誉を背負った。この郷土史研究家は、市場競争においては私利私欲ではなく、アダム・スミスの言う他者への共感や、倫理観念の重要性に言及して、このThurnamケースを、ヴィクトリア朝時代における成金趣味への皮肉、商業道徳の向上という視点から取り上げているのが興味深い。ここで「アダム・スミス」が引用されるとは思っていなかったが、ヴィクトリア・バブルもそうなのであろう、「欲望の資本主義」が頭をもたげる時代にはスミスが登場して警鐘を鳴らす。時代は繰り返すのだろう。蔵書家向けの装丁サービス、まさに書籍を工芸品に仕上げる技(わざ)が光るこの逸品なのだが、その背景に、このような思わぬエピソードが隠れていたわけだ。これも古書にまつわるストーリー探訪の旅の面白さだ。


裏表紙の下部に「CHAS. THURNAM & SONS, CARLISLE」


総革(Full Calf)の豪華な仕様

伝統的な5段のレイズドバンド(raised band)
の背表紙(Spine)

モロッコ革のタイトル

金箔押の背表紙


綴じ部分の緻密な仕事ぶり


天井部分もマーブル柄
表紙/裏表紙の周囲にも金押し模様を施すこだわりよう
まさに工芸品


どこか日本の蒔絵を見ているような感覚になる...

見返し部分は、この時代にブームとなったマーブル模様



イエロー・オーカー(Yellow Orcher)の革装


コーナーまで緻密なデザインが施されている


アール・ヌーヴォー様式の「キーツ詩集」背表紙