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2024年9月1日日曜日

古書をめぐる旅(55)『フランシス・ベーコン書簡集』(2) 〜続編:フランシス・ベーコン VS. エドワード・コーク〜



Edward Coke and Francis Bacon
National Portrait Gallery


前回のブログで、このベーコン書簡集が、「偉大なる哲学者」としてではなく、王権への追従と処世術に長けた「卑しむべき政治家」としてのベーコンの姿を知る上で貴重な資料だとして紹介した。しかし、この書簡集の価値はベーコンの名声を貶めることにあるわけではない。その重要性は、王権に対する議会の優位性、コモン・ローの優位性と『法の支配』というイギリスの立憲君主制の成立の歴史、世界に影響を与えた近代政治思想、憲政史の成立経緯を知る上での貴重な歴史文献であるという点においてである。この書簡集に度々登場する彼の政敵エドワード・コーク:Edward Cokeとの法律論争、政治対立にそれを知ることができる。

時空トラベラー  The Time Traveler's Photo Essay : 古書をめぐる旅(54)『フランシス・ベーコン書簡集』 〜偉大なる哲学者と卑しむべき政治家〜: 『ベーコン書簡集:Letters of Sir Francis Bacon』1702年初版 ジェームス1世治世時代の書簡集 国王ウィリアム3世への献辞 『学問の発展:Advancement of Learning』1605年初版  1829年刊 "Dove's ...



フランシス・ベーコンとエドワード・コーク:

この書簡集で最も興味を惹かれるのは、フランシス・ベーコン(Attoney General:法務長官)とエドワード・コーク(Chief Justice of Court of Kings Bench:王座裁判所首席裁判官)という二人のライバルの熾烈な戦い、すなわち絶対王権擁護派とコモン・ロー/議会優位派の争いにまつわる書簡である。世に言う「ベーコン vs コーク」論争という歴史上の司法権論争、政治闘争の顛末が、ベーコン側の視点で描かれていることである。具体的な裁判事案において、国王大権を重視した判決を求めるベーコンと、コモン・ローに基づく判決を出そうとするコークの法律論が生々しく記述されている。ベーコンは国王やその側近のバッキンガム公(当時はまだサー・ジョージ・フィラー:Sir George Villier)へ盛んに手紙やメモを送り、国王への忠誠と、法律論争における自説の正しさを強調している。またコークに対する長々とした意見書が残されており興味深い。後世の英米法の歴史、政治思想史を知るものとしては、ここに表出するベーコンの主張が「法の支配」「立憲君主制」「議会制民主主義」の持つ価値観への対抗概念としての「国王大権の優越」として描かれている点で興味深い。一方のコークの反論はベーコン書簡集には採録されていない。しかし、彼の思想と理論は彼の著作と判例集に明確に表明されており今に伝わっている。コークは国王からの「王は法律の枠外だ」という叱責に対して「国王といえども神と全ての法律の下にある」という、13世紀の著名なローマ法学者ヘンリー・ブラクトン:Henry de Bractonの法諺を引用して反論している。これは「法の支配:Rule of Law」「法の優位性:the Supremacy of Law」として近代憲法の基礎となる法理論である。この時ベーコンは国王の法務長官として、『国王大権の優位:the Authority of the Crown』を支持し、コモン・ローの優位は王権を危うくする法理だとしてコークを激しく叱責している(詳しくは後述)。結局、コークは敗れて王座裁判所主席判事を解任される。こののちコークは法曹界を離れ政界に転じ、議会の中心的人物として絶対王権に対峙することとなる。一方のベーコンは国王の信任を得て大法官へと大出世する。さらに子爵、男爵に叙せられる。まさに彼の処世術が功を奏し、念願の宮廷官僚トップに登り詰め、貴族に列せられた瞬間であった。しかし、そのベーコンに思いがけない結末が待っていた。司法界で失脚させられたコークは議会をリードし、ついにベーコンを収賄の罪で告発して、大法官解任、ロンドン塔送りにという劇的な幕切れとなる。国王に救済されてロンドン塔を出獄したもの、ベーコンはこののち公職には復帰せず、余生を執筆活動と自然観察、科学の実験に没頭する。大法官ベーコンのキャリアは終わり、哲学者、科学者ベーコンはこうして生まれた。

一方のコークは、こののちジェームス1世の息子で王位を継いだチャールズ1世に対し、1628年「権利の請願:Petition of Right」を起草し、「清教徒革命」の起点となった。イギリス憲政史、政治史に残る「立憲君主制」、すなわち王権に対する議会とコモン・ロー優位、「法の支配」という現代につながる憲法思想、政治思想の登場である。やがて議会により1688年にオランダからイングランド王に招かれたオレンジ公ウィリアム(即位してウィリアム3世)とメアリー2世はこれを受け入れ、「権利章典:Bill of Rights」に署名する。これが名誉革命である。この『ベーコン書簡集』は、1702年に出版され、この国王ウィリアム3世に献呈された。こうした歴史の上に成立した王権であることを認識すべしという趣旨なのであろう。まさにこの書簡集の出版と国王への献呈自体が歴史的な出来事と言っても過言ではない。このようにベーコンは政治的敗者となり、コークは憲政史上に名を残すこととなった。これが「偉大なる哲学者」ベーコンのもう一つの姿であった。ただこの書簡集の編者であるロバート・スティーブンス:Robert Stephensは、「コークはあまりにも有能で偉大なる法律家であった。ベーコンは法律家としてはそれには及ばなかったが、偉大な哲学者で科学者であり、その政治的な敗北にもかかわらず、払われるべき敬意に変わりは無い」と解説している。


「ベーコンVS.コーク論争」その要点と顛末:

論争の要点をまとめると、ベーコンの、国王大権を絶対視(the Authority of the Crown)。王権神授説を支持し絶対王政擁護という立場。すなわち議会と裁判所は国王大権の下にあるという考えに対し、コークは中世以来のイングランドの伝統であるコモン・ローと裁判所の独立、議会/庶民院の優位(the Suprimacy of Law)を主張。王権といえども法の下にある、すなわち議会と裁判所は王権の下にはないとした。イングランドは13世紀の「大憲章:マグナカルタ」以来、スペイン、フランスなど大陸諸国に比べ、議会に対して王権が相対的に弱いという歴史を歩んできた。しかし、とはいえ王権と議会の間には常に緊張関係が続き、この17世紀初頭のチューダー朝からスチュアート朝への転換期という絶対王政下の議会と司法、その王権との関係に改めて論争を巻き起こしたのが、この『ベーコン vs コーク論争』であった。

ことの発端は裁判所の管轄争いであった。1606年コークは民事高等裁判所主席判事:Chief Justice of Common Pleasに就任し、コモン・ロー重視を鮮明にした。コークはコモン・ロー裁判所として民事高裁、王座裁判所、財務府裁判所の権限を拡大。エクイティ/衡平法裁判所である大法官裁判所:Court of Chancelie、国王の行政部裁判所である星室庁裁判所:Court of Star Chamber、、国教会の裁判所である高等宗務官裁判所:Court of High Commissionなどのコモン・ロー以外の裁判所の権限拡大の動きと対立した。また「コモン・ローに反する制定法は無効である」とし、王権よる恣意的な立法に対する違法性(違憲性)を主張した。また国会の立法権に対するコモン・ロー裁判所の優位も主張した。これはのちにイギリスでは踏襲されなかったが、アメリカ合衆国憲法に定める(日本国憲法にも定めがある)「違憲立法審査権」につながる法理である。そもそもスコットランドから来た国王ジェームス1世は「王権神授説」の信奉者であり、イングランドの伝統であるコモン・ローを理解しようとしていなかった。ベーコンは国王大権擁護の立場に立ちこうしたコークの法思想を批判。国王ジェームス1世に議会や裁判所との関係について法的な助言送り支援した。ジェームス1世は、1613年にはコークを王座裁判所主席裁判官:Chief Justice of  Court of King's Benchに昇進させた。これは一見栄転のようでいて、コークを自分の目の届くところに置くとともに、無報酬に近い名誉職ポジションへの異動させた左遷であった。一方ベーコンは国王直下の権力ポストである法務長官:Attoney Generalに昇進する。

1616年、国王の側近サマセット伯爵ロバート・カーの殺人事件裁判では、ベーコン(国王の法務長官:Attoney General)とコーク(コモン・ロー裁判所としての王座裁判所主席裁判官:Chief Jastice of the Court of King's Bench)は、最初は協力して、訴追、裁判手続きを進めたが、その裁判過程で「裁判所は国王大権の擁護者たるべし」というベーコンと、「裁判所は国王と人民の調停者たるべし」とするコークの思想的な対立が鮮明になってゆく。また国王が裁判に介入しようとする動きに対し、コークは「法解釈は国王ではなく裁判官に任せるべきだ。なぜなら彼らは法律の専門家であり、イングランドの慣習法、判例法に関する知識と経験を有しているから」と反撃した。また、ベーコンは、裁判官は国王によって任命されるのだから、いかに強力な権限があると言っても他の廷臣と同様に国王の指示に従うべきである(「君主の下の獅子:Lion under the Throne」論)と。さらに、そもそも王権は神の意思に由来するもの(王権神授説)であり、「法は国王が作るもの」したがって「国王は法律の上にある」とした。これに対し、コークは裁判官が国王の恣意で解任されるようなら公正な裁判はできないとその独立性を主張。また、先述のように「国王といえど神とすべての法律の下にある」(ヘンリー・ブラクトンを引用)、なぜならば「法が国王を作った」と反論した。ベーコンは、コークの法理論、コモン・ロー裁判所の独立は国王大権を危うくする危険思想であるとして非難。この論争は法律問題ではなく、コークが政界における権力の増大を図ろうとする政治闘争だとして個人攻撃にまで発展した。結局ジェームス1世はベーコンの助言を聞き入れ、コークは王座裁判所主席裁判官を罷免され司法界を追放される。前述の通り、ベーコンはその後、国王の絶大なる信頼を得て1616年には枢密顧問官、1617年には国璽尚書、1618年には宮廷官僚のトップ大法官:Lord Chancelorと順調に出世階段を駆け上る。ベーコンは「人間の理性による真理」を説く経験論哲学の開祖であるが、同時に「神の啓示のよる真理」も否定しなかった。『科学』と『宗教』の二元論。これは彼の哲学的思索から生まれた論理的帰結なのか、それとも政治的処世術の中で培われた功利主義的帰結なのか。

ただ、コモン・ロー裁判所に対するエクイティー(衡平法)裁判所という司法の二重構造はイングランド独特のものであり、元々は中世以来のコモン・ローによる法の固定化と、判断結果の妥当性に関する不満(特に商業活動の活発化・資本主義の伸長に伴う)に対する対策として、大法官裁判所が国王の慈悲や調整を求める「請願」を受け付ける場として現れたことに始まる。国王の行政部裁判所(星室裁判所など)もチューダー朝時代にはそのような「衡平」の観点から運用されていた。したがってエクイティー裁判所自体が反動的な裁判所であったわけではなく、むしろ法の進化に伴う産物であったことは注意しておかねばならない。しかし、チューダー朝時代にうまく機能していたエクイティー裁判所や行政部裁判所が、スチュアート朝のジェームス一世、チャールズ1世になって、「王権神授説」に基づく国王大権の絶対性擁護の場として利用され始め、コモン・ロー裁判所と対立するに至った。国王大権の専横への臣民の不満がこのような争いに発展した。それがベーコン vs コーク論争の実態であった。

先述のようにコークは司法界から追放された後、活躍の場を議会:Parliamentへ移し、下院:House of Commonの議員(MP)として王権と対峙してゆく。当時の下院は、ジェントリー層(平民の地主)出身者で占められており、王権に対する議会の持つ憲政上の立場をよく理解していない議員が多く、またコークのような法律の専門家が少なかったことから、彼はメキメキと頭角を表してゆく。そしてジョン・ピム:John Pym(のちにコークの後継者となる)、ジョン・エリオット:John Eliot(のちに投獄され獄死する)などの有力議員の信頼を得て支持者を増やし議会をリードする。国王ジェームス1世の失政を糾す「大抗議:Protestation」を起こし、ピムと共に投獄される。やがて、1628年にジェームス1世の後任、チャールズ1世の時代になると、国王の専制主義的統治に異を唱え、「権利の請願:Petition of Rght」をピム等の議員と起草。議会を無視した課税、借金、法律に寄らない逮捕、拘束に対し抵抗など、王権の専横を止める動きに出た。1642年のピューリタン革命の引き金を引いた。コークは、1215年にジョン王が署名した歴史的な「大憲章:Magna Carta」を貴族や聖職者の権利を守るためだけのものではなく、すべての臣民を守るためのものであるとして、歴史的なドキュメントに再び光を当てた。「大憲章はその上に王を持たない」と論じた。この思想が『権利の請願:Petition of Right』を生み出した。彼は1634年に亡くなり、生前に清教徒革命も王政復古も名誉革命も見ることはなかったが、彼の思想と行動は1688年の名誉革命の時に国王ウィリアム3世が署名した『権利章典:Bill of Rights』につながった。ただ、コークは王権そのものを否定することはなく、彼の死後に起きたクロムウェルの共和制のイデオローグとはならなかった。むしろ王政復古:Restoration後の『立憲君主制』への道に導く役割を果たした。コークが近代法において「法の支配:Rule of Law」の原則を打ち立てた功績は大きい。ジョン・ロックと並ぶ近代民主主義の父と言って良いだろう。


ベーコン書簡集に滲み出る臨場感:

ベーコン書簡集には、政敵エドワード・コーク宛の手紙が2通採録されている。1通は長々とした手紙で、貴族らしく極めて婉曲で、トーンとしては親愛なる友への助言という形をとっているがかなり厳しい論調の手紙になっている。三つの問題点を指摘しているが、基本は、先述の論争ポイントにあるように、国王大権を守れ、それが国王に任命された裁判官の務めであるという主張で貫かれている。またコモン・ロー体系の判例集としての不完全さと、法としての客観基準とするための整備、編集の必要を述べている(のちにコークの「判例集」に対抗してベーコンとしての判例集」Report編纂を試みている)。さらに、法律家としての敬意は払うが間違いを放置すると好ましくない結果が自身に跳ね返るだろうと、婉曲ではあるが警告に近い助言をしている。長文ではあるがこの書簡からだけでは、後世に整理された「ベーコンvsコーク」の論点は美文の中に埋もれていて、現代の凡人にはクリアーに理解できないのが悲しい。一方で、国王への手紙では、裁判所の管轄権をめぐる争いについて自説を展開し、いかに自分が国王に忠誠心を持っているか、国王大権の擁護者であるかを繰り返している。コモンロー裁判所と大法官裁判所の管轄権についても、コモンロー優位の危うさ、さらに「その危険思想に対する警戒感」を申し立て、コークの罷免を助言するなど、生々しい攻防のありさまが描かれている。これらの書簡を読むと、歴史の現場にタイムスリップして「ベーコン vs コーク論戦」をライブで観戦する感がするが、17世紀イングランド宮廷における論争とはこのようなレトリックで行われていたことを知ることができる。現代でもイギリスのインテリや教養人は論争で大声をあげたり感情的に相手を誹謗中傷することは品格に欠けることと考えているが、その中身は辛辣で強烈な皮肉に満ち溢れている。その伝統のルーツを見る感がした。

また、この書簡集には、やはり国王ジェームス1世宛の手紙が多数採録されている。公務に関して書簡(報告、連絡、相談、許可、同意)を送ることは宮廷官僚の業務執行上の義務でもある。まして王権に追従する廷臣としては不思議なことではないだろう。ベーコンが国王と議会と裁判所の関係を調整しようとする努力の跡が見える。興味深い書簡に、ベーコンが自分の著作『Novum Organum』を国王ジェームス1世に献呈した時の書簡と、それに対するジェームス1世の礼状がある(1620年10月)。ベーコンは、この前の著作『Advancement of Learnings』でも述べているが、本書でもいわば『科学立国政策』を国王に提言している。そのような中世的な神学の世界から脱した科学的な革新国家が、英邁な君主によって導かれる姿を理想として描いている。ジェームス1世はベーコンの著作のファンであった様子が返信からわかる。王権神授説の信奉者で、魔女狩りを支持する『悪魔論』を書いた王であるが、ベーコンの語る、科学の可能性に興味を示す合理主義的なインテリ国王の側面を覗かせている。また、ベーコンもそんな国王を「史上稀なる(伝説のソロモン王にも劣らぬ)英邁で開明的君主」と持ち上げることを忘れていない。国王への追従はとどまるところを知らぬ。文字通り「陛下の慎ましやかなるしもべ:Your humble servant」、「最も従順なる家臣:Your most obedient subject」ベーコンである。

またベーコンの後ろ盾であり、ジェームス1世の寵臣であったジョージ・フィラー:Sir George Villier(のちにバッキンガム公爵)宛の手紙も数多く採録されている。これもベーコンが宮廷内で出世し生き延びてゆくには欠かせないコレスポンダンスであることは言うまでもない。よく知られる『ベーコン政治マニュアル』は数回の手紙に分かれている。ベーコンは1618−1620年にバッキンガム公宛に、国政運営、議会対策、裁判所対策など広範な国政に関する留意点をまとめ、バッキンガム公が国王中心の政治を担うに相応しい政治家になるよう助言する、いわば国政指南書を贈り続けた。しかしバッキンガム公はこのベーコンの助言を十分に理解せず、国王の寵愛をいいことに派閥政治、情実政治、身内優先の特権政治に終始し議会と対立。コークがリードする議会から弾劾を受ける。結果としてベーコンもこれに巻き込まれることとなる。先述の通りベーコンは1621年、議会から収賄の罪で告発され、有罪となってロンドン塔送り、大法官解任となるが、彼の失脚は、こうしたバッキンガム公の政治スキャンダルが引き金となり、スケープゴートにされてしまったとも言われている。この書簡集の背景で蠢いていたベーコン失脚のシナリオが徐々に透けて見えるようでスリリングだ。

書簡は、政治や公務にとって重要なコミュニケーション媒体であり、公的な記録としての性格も持っている。また引退後に書く自伝的な著作とは異なり、まさに現役真只中のリアリティーと臨場感に溢れている。この「ベーコン書簡集」は、さらに名誉革命で即位したウィリアム3世に献呈されており、二重の意味で歴史研究に欠かせない重要史料である。ベーコンの書簡は、ギリシャ哲学、スコラ哲学、ラテン語の人文系素養と科学的知識を持った知性と教養の人、上流階級ならではの表現で書かれており、多くの格言、詩、偉人の言葉の引用が散りばめられている。また、婉曲な表現や暗喩、尊敬語や謙譲語が多用され、国王を持ち上げ、へり下り、バッキンガム公を持ち上げ、コークをこき下ろす内容が美しい修辞法によって綴られている。それはあたかも一編の詩のようである。しかし、現代の人間にとっては一読しただけでは意味不明な表現が多く、加えて17世紀初頭の古文書の英語解読には難儀する。もっとも現代の役所の公文書も繁文縟礼あるいは玉虫色表現で、結局何をいっているのか意味不明なものが多いのでそういう点では似たり寄ったりとも言えなくはない。それにしても古文献解読には訓練と古典に関する知識、教養が不可欠だ。よく、報告書やプレゼンテーションは「アナログで書くのではなくデジタルで書け」などと諸先輩方にご指導賜った現代の組織人にとっては、そもそもアナログで書く文章とは、凡人の筆による「言語明瞭意味不明」な文章ではなく、このような「美文」のことであったかと、妙に感心させられおかしい。若き日に携わった労使交渉の記録や妥結書の玉虫色の表現を「労働文学」などと揶揄していたのをふと思い出す。



参考文献:

1)ウィンストン・チャーチル「英語諸国民の歴史:A History of English Speaking Peoples」1956年刊 第2巻「The New World」2024年7月5日「古書をめぐる旅(52)」チャーチル「英語諸国民の歴史」

第2巻の『ジェームス1世時代』のパラグラフで、ベーコンとコークの論争が現代的視点で解説されていてわかりやすい。ベーコン書簡集の17世紀英語と修辞法に難儀すると、このチャーチルの著作が良き解説書に見える。チャーチルはコークの役割をより高く評価している。ここではベーコンを経験論哲学/科学の父というより王権擁護派の宮廷法務官僚と看做している。概してイギリス、アメリカの憲政史、政治史的視点で見るとコークの果たした役割の方が重要視されており、このチャーチルの評価が定説なのであろう。「ベーコンにお会いしたければ哲学の部屋へお越しください。こちらではちょっと...」と言っているようで。

2)英米法概説』田中和夫 有斐閣 昭和46年初版、48年改訂

学生時代の英米法に関する基本書である。第3章の「法の支配」でエドワード・コークの紹介と、コーク vs ベーコン論争が取り上げられている。第6章の「コモン・ローと衡平法」で歴史的背景、論点が詳細に解説されている。




エドワード・コークに対する助言、意見

バッキンガム公への政策提言

国王ジェームス1世への「Novum Organum」献呈

国王ジェームス1世からのベーコンへの礼状




エドワード・コーク:Edward Coke略歴:

Edward Coke (1552-1638)

法律家。政治家にして、コモン・ロー・議会の国王権力に対する優位性を理論化し、『権利の請願』を起草したイギリス憲政史を飾る功労者。法律家、政治家としてはベーコンよりもコークの方が歴史(近代法制史、政治史)に名を残している。

1552年 ノーフォーク、ノリッジに生まれる(ベーコンは1561年生まれ)
1567年 ケンブリッジ、トリニティー・カレッジ卒業  オックスフォードと異なりプロテスタント色が強い
1572年 インナーテンプル法曹学院卒業
1578年 法曹資格取得
1589年 下院議員にHouse of Common
1592~1594年 法務次官:Soliciter General
1606-1613年 民事高裁主席裁判官:Chief Justice of Court of Common Pleas 
コモン・ローの優位を説く
1613−1616年 王座裁判所主席裁判官:Chief Justice of Court of King's Bench 
1614年 ケンブリッジ大学 High Steward(副学長)
1616年 国王、法務長官:Attoney General ベーコンとの対立で解任。
同年 ベーコンは大法官:Lord Chancelorに
1620年 ピューリタン、アメリカへ移住開始(ピルグリム・ファーザーズ)
1621年 法曹界を去り議会:House of Common議員(MP) 王権と対峙。
同年 ベーコンは議会からの汚職告発で大法官解任 引退
同年 国王に対する議会の「大抗議」Protestation」 同志のジョン・ピムと共に投獄
1626年 ベーコン死去
1628年 新国王チャールズ1世に対し、『権利の請願:Petition of Right』起草 議会の承認無き課税、法律無き逮捕を禁ずる。イギリス革命:Civil Warの口火を切る
1629年 政界を引退
1634年 死去(82歳) 彼の後継者ジョン・ピムが『反絶対王権』闘争を継続
1640年 チャールズ1世 短期議会 議会無視を続ける
1642−1649年 ピューリタン革命 国王チャールズ1世処刑、クロムウェルの共和制
1660年 王政復古 チャールズ2世即位
1688年 チャールズ2世追放 名誉革命 ウィリアム3世/メアリー2世即位 『権利章典:Bill of Rights』に署名


主要な著作:

『判例集全13巻』:Reports 1600-1615,1656 イギリス慣習法の基礎をなす
『イギリス法提要全4巻』:Institute of the Law of England 1628-1644

文学のシェークスピア、哲学のベーコン、法律のコーク。



2024年8月28日水曜日

品川歴史館リニューアルオープン!〜新設された「モース・ライブラリー」がおすすめ〜

 

新設された「モース・ライブラリー」

モース博士の原点 腕足類二枚貝の標本

日本庭園を見渡せる


品川歴史館は、関東大震災後に安田財閥の安田善助邸として開かれた屋敷跡。戦後は電通の吉田秀雄邸や、その後記念館を経て、昭和60年に品川区立の歴史館として開館した。その品川歴史館がこの度大幅に改修されて、4月にリニューアル・オープンとなった。今回、常設展示もリニューアルされ、これまでのモース博士の大森貝塚関連の展示や、品川宿のジオラマ展示がメインから、大森貝塚に代表される縄文時代の出土品から始まり、江戸時代の品川宿の繁栄ぶり、仏教寺院関連の文化財、明治の殖産興業の遺構など、系統的でより歴史の流れに即した時系列展示に入れ替わった。さらに特筆すべきはエドワード・モース博士を記念するライブラリー「モース・ライブラリー」が新設されたことだ。モース博士の肖像写真と業績を顕彰する資料(腕足類二枚貝標本も展示されている)の展示はもとより、博士に関する図書、大森貝塚を中心とした考古学著作、資料が保管/展示されている。ただ、以前あったモース博士の代表著作「Japan Day by Day」などの英文原著の展示が見当たらない。どこかへ仕舞われてしまったのだろうか。書架に並んでいるのは和訳されたものばかりで少々物足りない。また、膨大な日本の民俗資料(モースコレクション)を収めているマサチューセッツ州セーラムのピーボディー・エセックス・ミュージアム関連の展示もない。モースは帰国に際し、大森貝塚関連考古学資料と収集した書籍の大半を東京帝国大学に寄付し、現在は東京大学総合研究博物館所蔵、あるいは大学図書館所蔵となっている。したがって残念ながら品川歴史館に保存されているものはごく限られているのだろう。今後の収集と内容の充実を期待したい。

ここには安田善助邸時代の遺構である書院と庭園、そして茶室「松滴庵」が遺されている。今でも区民に開放されていて茶会などのコミュニティー・イベントに使われている。庭園には珍しい水琴窟もあり、その涼やかな音色を楽しむこともできる。美しい日本庭園を望む図書室で、ゆっくり書籍に親しみ、モース博士の業績に思いを馳せながら過ごす体験は至福の時間である。池上通りを鹿嶋神社の杜を左に見ながら、大森方面に少し歩くと「大森貝塚遺跡庭園」もあり、お散歩コースとしても魅力的だ。品川区民としては、近くにまた良い居場所ができたことは嬉しい。



2019年11月6日「安田善助邸、松滴庵」探訪

2021年9月5日「古書をめぐる旅(13):モース博士著「Japan Day by Day」

 2023年12月30日「古書をめぐる旅(42)モース博士著「Japanese Houses and Their Surroundings」



池上通り側の外観

展示内容も一新


夏休み最後の週、小学生が見学に

茶室「松滴庵」





書院


水琴窟


2024年8月15日木曜日

終戦から79年目の夏〜今年もまた酷暑と台風の終戦記念日〜

 



今年も終戦の日がやってきた。79年目の夏である。先の大戦で亡くなられた方々の霊に哀悼の誠を捧げたい。今年の終戦の日は、1ヶ月以上続く猛暑と日向沖地震とそれに続く南海トラフ警戒警報騒ぎ、そして台風の首都圏直撃か?という自然の猛威の中で戦没者追悼式が行われた。去年の8月15日のブログを見たら、ほぼ去年も同じ猛暑と台風下の式典という事情であったことが記されている。年齢を重ねると忘れっぽくなるが、こうした地球温暖化による異常気象が常態化しつつあることに気付かされる。この時期になるといつも戦争に関する反省が繰り返される。誰もが「戦争だけは絶対にいかん!」とお題目のように唱えるが、問題解決への道のりは、戦後79年も経っているのに程遠い。世界は戦争が常態化し始めている。カントは『永久平和論』で「人類の歴史において平和が常態で戦争が非常態なのではない。戦争こそ常態であった」と述べている。平和状態がデフォルトではなく、それは努力しないと維持できないのだと。今年の長崎の原爆死没者慰霊祭には原爆を落としたアメリカとヨーロッパ4カ国の大使は出席しなかった。式典にロシアを呼ばなかったのは良いが、イスラエルを呼ばなかったのはいかん!と。あっちは侵略だが、こっちは自衛だから、と。戦争は皆自衛のため、正義のためという。この戦争は侵略のための戦争だなどとは誰も言わない。ここでは正義とは相対的なものだ。人道主義は地に落ちた。民主主義は危機に瀕しているし、核の脅威はさらに現実のものとなっている。

日本のリーダー、責任者不在の意思決定プロセスという組織風土も相変わらずである。今年はその典型的な出来事があった。終戦の日の前日、岸田首相が突然、次期自民党総裁選挙には出馬しないことを表明した。この突然の退陣発表で、自民党の中でも大混乱しているらしいが、早速それなら次は私が俺が、が出て来て騒がしい。一国のリーダーとして責任を最後まで取る気概はあるのか。岸田氏の退陣は、安倍前首相の暗殺で、自民党のカルト集団旧統一教会とズブズブの関係が露呈し、さらに派閥ごとの政治資金の裏金横流しの常態化という金まみれの自民党の実態が白日の下に晒され、ついに岸田内閣の支持率は20%を切ってしまった責任をとる形だ。しかし、岸田氏が総裁を辞めたからと言って、自民党が変わるのだろうか。日本の政治が主権者である国民の付託に応えうるものになるのだろう。自民党内部のロジックでまた総裁が決まる。分裂した野党には政権担当能力がない。戦局が悪化して本土が米軍の空襲で脅かされるようになったので責任をとる、として内閣総辞職した東條英機首相を思い出す。「責任を取って辞める」は、ある意味「投げ出す」のと同じだ。反省していない。あるいは反省はしているが反省にはなっていない。責任者はいるが責任はとっていない。これが日本のリーダーの姿と組織風土だ。

そんな今年の終戦の日。戦没310万同胞は彼岸でどのように思っているだろう。今の日本、再び「やむをえず」「仕方なく」戦争に突き進んだ戦前の時代を繰り返すような予感がする。あの時、ずるずると起きてしまった戦争を収束する決断力も行動力もない。明らかに継戦能力が壊滅したにも関わらず、一億総特攻とか一撃講和とか言って戦争を止めようとしなかったのはなぜか。また1945年6月22日に終戦の聖断が下されたにもかかわらず、無条件降伏が8月15日まで引きずったのはなぜか。この2ヶ月の逡巡の間に原子爆弾が広島、長崎に落とされ、和平交渉の仲介を期待したソ連が中立条約を破って満州に侵攻し、連日の本土の無差別都市空襲が繰り返された。死ななくてもよかったはずの人が何十万人もこの間に死んだ。誰も戦争をやる決断もしないが止める決断もしない。その総括はしたのだろうか。声のでかい奴が勝つ。他は沈黙して声を上げない。そしてその声のでかい奴は責任を取らない。沈黙した奴らは、悪いのはあいつだ!と指をさし、沈黙の責任を取らない。結局は原爆とかソ連参戦といった外部条件(外圧)によって意思決定が促されないと(追い詰められないと)決めない。「待機主義」「傍観主義」である。だからアメリカの歴史教科書では今でも「原爆投下」が戦争を終わらせたのだと書かれている。戦争を始めた軍部や戦争を止めなかった政府は自ら終戦の意思決定せず、最後は天皇の聖断を持ち出す。外圧や超越的権威がないと動かない。しかも意思決定プロセスにおける国民不在が決定的だ。いや「国体護持」が、日本側のポツダム宣言受諾の唯一の条件であったことは、権威主義が民主主義を凌駕していたことの証左であろう。戦後はマッカーサーが天皇を上回る超越的権威・権力であり全てを決める。「国民主権」を謳う日本国憲法は「マッカーサーに押し付けられた憲法」だと言う人がいるが、あの時日本人が民主的な憲法を自らの手で生み出し得たのか。戦後79年、様々な幸甚が重なり、日本は戦争に巻き込まれなかったし、急速な経済成長で明治維新以来念願の「一等国」になったが、そのバブル終焉もあっけないほど早かった。どこかに「あの時の不安」が息を潜めて潜んでいるような予感がする。それはある時突然表に現れる。国が経済的に潤っているときは良いが、その富の分配が国民全てに行き渡らなくなると話は変わってくる。

「この道はいつか来た道」


2024年8月10日土曜日

古書をめぐる旅(54)『フランシス・ベーコン書簡集』(1) 〜偉大なる哲学者と卑しむべき政治家〜

『ベーコン書簡集:Letters of Sir Francis Bacon』1702年初版

ジェームス1世治世時代の書簡集表紙

名誉革命で即位したウィリアム3世への献辞


『学問の発展:Advancement of Learning』1605年初版 

1829年刊
"Dove's English Classics"シリーズとして刊行された小型本



美しい革装の手帳サイズ小型本

Sir Francis Bacon (1561~1626)  (Wikipediaより)
1618年大法官就任の頃の肖像か


「偉大なる哲学者」ベーコン:

 フランシス・ベーコン:Sir Francis Bacon(1561〜1626)は、ルネ・デカルト:Rene Descartes(1596〜1650)と共に17世紀を代表する哲学者である。「知識は力なり:Scientia est potentia:Knowledge is power」という言葉で知られるイギリス経験主義哲学(Empiricism)の祖、そして科学の父である。自然の動きを観察、思索し、そこから導き出される知識を理性の道具として実利に活用する。すなわち実験や観察を用いた科学研究の重要性を説いた。そうした外部から得られる経験知、そこから真理を引き出すという帰納法(induction)による認識論を出発点とする経験論哲学の祖である。ベーコンは近代哲学と科学の発展に大きな影響を与え、ホッブス、ロック、ヒューム、ニュートン、スミスなどイギリス啓蒙主義思想の源流ともいうべき人物である。中でもロックはベーコンの経験主義哲学を体系化した(2024年2月10日ジョン・ロック全集)。ベーコンの代表的な著作に『学問の進化』1605年、『随想録』1612年、『ノヴム・オルガヌム』1620年、没後に発表された『アトランティス』1627年、などがある。また、ベーコンは生前にその知の体系化に挑んだが未完であった。しかしその挑戦はのちのボルテールやディドロなどの百科全書派に影響を与え、引き継がれた。一方のデカルトは絶対的な真理を求めるために全てを疑ったのちに残るもののみを真理とした。代表的な著作が『方法的懐疑』である。「我思う故に我あり:Cogito ergo sum」という有名な言葉に代表されるように人間の内なる理性を出発点とする演繹法(deduction)による合理論哲学の始祖とされる。しかしどちらも真理の認識の根源を、中世のスコラ哲学的な『神の摂理』や『信仰』という人間の外的権威ではなく、『理性』や『感覚』という人間自身の内面に見出した。こうして真理の認識が宗教の呪縛を脱し、近代哲学、科学が始まった。そういう意味でもベーコンは17世紀イギリスが産んだ、世界を変えた『偉大なる哲学者』である。


ベーコンのもう一つの顔とは?:

しかし、ベーコンにはもう一つの顔がある。それは絶対王政時代のエリザベス一世、ジェームス一世の側近にして大法官まで上り詰めた宮廷官僚、極めて世俗的な政治家としてのそれである。イギリス絶対王権からイギリス革命へと向かう激動の時代、王位継承闘争、カトリックと国教会とピューリタンの血みどろの戦い、コモン・ローと議会と王権の戦いの中で、徹底して王権に追従する毀誉褒貶の多い政治家であった。最後は汚職の罪でロンドン塔へ送られ解任される。

ベーコンは、熱心なプロテスタントの家庭に生まれ、父はニコラス・ベーコンで、ヘンリー8世、エリザベス1世の国璽尚書、大法官という宮廷の高官を務め、母は名門貴族出身でカルバン主義のプロテスタント。いわば二世政治家である。ケンブリッジのキングスカレッジに進むがギリシャ哲学より自然研究に傾倒し中途退学。法律家になるためにグレイ法曹学院へ。在籍中に駐フランス大使に伴われ、フランスに3年滞在。帰国して法律家になり、23歳でエリザベス女王治世下で下院議員となる。女王の側近の一人秘書官フランシス・ウォルシンガムの下で諜報活動に携わる。やがて女王の寵臣エセックス伯爵の庇護を受け顧問となるが、1601年にエセックス伯が失脚して処刑されると、一転してエセックス伯を断罪する側に回る。しかしエリザベス治世時代には議会における失策で女王の不興を買い出世できなかった。1603年、スコットランド王であったスチュワート家のジェームス6世がイングランド王に即位してジェームス1世になると今度は、この王権神授説を唱えカトリックの王に取り入ろうとする。スコットランドからやって来てイングランドで半ば孤立していたジェームス1世の熱心なサポーターとなった。ベーコンは国王大権を重視する絶対王政擁護の立場に立ち、絶対君主で啓蒙君主がベーコンの法律家たちに支えられる体制が一番効率的であると考えた。しかしこの主張は非現実的であまり広く受け入れられたとは言えない(ウィンストン・チャーチル「英語諸国民の歴史」)。ベーコンは、コモン・ローによる「法の支配」、議会を重視するエドワード・コークという政敵と対立した。やがてコークを司法界から追い落とすと1618年には最高位の大法官(Lord High Chancellor)に任ぜられ、ヴェラム男爵に。続いて1621年にはセント・オルバンス子爵に叙任され国王の寵臣となって出世する。しかし、同年に議会から汚職の罪で告発され、罰金、ロンドン塔送り、公職追放、たった3年で大法官解任となる。国王の救済により4日で出獄するが、公務に復帰することなく閑居して執筆活動や科学実験に没頭した。ある雪の日にロンドン・ハイゲートで帰宅途中、鶏肉を雪の中で保存できないかという実験を思いつき、その場で地元の農夫から鳥を買ってきて実験した。その時の風邪がもとで1626年にこの世を去った。あくなき探究心と実践の人であったというエピソードとして後世に伝えられている。哲学者ベーコンの実業は宮廷官僚、法務官僚、政治家であった。


「卑しむべき政治家」?:「ベーコン書簡集」に見る彼の実像

こうしたベーコンの徹底して王権に追従する姿勢と、終生猟官運動に身をやつした世俗的な功利主義者としての生き様を窺い知る資料の一つに、今回紹介する『ベーコン書簡集』がある。この「書簡集」は王室歴史家のRobert Stephens(1665-1733)によって、ジェームス1世治世下の宮廷官僚ベーコンの手紙やメモが採録編纂され、没後76年の1702年に初めて公開、出版されたものである。ベーコンは前述のように、後世に影響を与えた著名な著作を多く残しているが、この1702年初版の書簡集は意外にもあまり取り上げられる事が少なく、極めて貴重な古書である。彼の思想を知る上だけでなく、当時のイングランドの政治情勢、イギリス法の成り立ちとその後の『イギリス革命』につながる時代背景を知る史料としても貴重なものである。また興味深いのは、本書は『名誉革命』後の立憲君主制の時代に上梓されたもので、オランダからイングランド王位についた国王ウィリアム3世への献辞がある。ベーコンの書簡やメモを振り返って、これまでのイングランド王室の事績を知り、現在、未来を考える参考になるものと信じる旨の言葉が添えてある。出版のタイミングと、この献辞の存在により、この書簡集の歴史的価値が明確になる(ちなみにウィリアム3世の死去に伴い、この献辞を取り除いた版があるようだ)。そこにはベーコンの国王ジェームス1世や国王の寵臣バッキンガム公など宮廷諸侯に対する、国政や法律、人事に関するさまざまな意見やアドバイスなどが書簡や覚書の形で記録されていている。政敵であるエドワード・コークへの手紙も掲載されていて興味深い。しかし、その行間ににじむのは、彼の哲学思想に通底する『知識は力なり』の意は、政治思想的には「知識(知性・理性)を持った人物(王)が力(権力)を持たねばならない」という絶対王権の擁護(啓蒙君主への期待を含め)の論理に見えてしまう。そのベーコンの姿は、偉大なる哲学者のイメージというより、国王への追従と処世術にたけた世俗の政治家、法律家というイメージである。また、1605年に国王ジェームス1世に献呈された『学問の発展』:Advancement of Learningにも、科学の発展に如何にジェームス1世のような英邁かつ開明的な国王が貢献しているか、を繰り返し強調するなど、ここでもとめどなく王権にへつらう姿が見える。こうしたベーコンの姿勢を、「最も輝ける、最も賢明な人物、そして最も卑しむべき人物」と、イギリスが誇る詩人で風刺家のアレキサンダー・ポープは評している。現代でもこのポープの評価が定着しているようで、日本における政治思想研究者である原田鋼も、ベーコンの人物像を「科学的思索力と世俗的な適応力との間のズレをこれほど顕著に示した思想家は数少ないであろう」と評している(『西洋政治思想史』)。近代哲学・科学の祖とは言え、日本ではデカルトほどの人気がないのはこのせいなのであろうか。また、ヘンリー8世時代、1529年に処刑された大法官トマス・モアが、国王権力に対してコモン・ローの独立を主張した硬骨漢として歴史に名を残し、支配階級トップの大法官という地位にありながら、庶民的な視点とヒューマンな精神を失わなかったとの評価に比べ、どう見てもベーコンは道徳的に優れた人物には見えない。偉大なる哲学者」、「卑しむべき政治家」。どちらもベーコンの実像であるが、この両者に矛盾はあるのだろうか。バートランド・ラッセルは、「ベーコンは当時の人物としては特に他者に比べて劣った人物であったわけでないし、かといって優れた人物であったわけでもない。言ってみれば道徳的には普通の人物であった」(『西洋哲学史』)と評している。当時の宮廷内では王権へのへつらいや政敵を貶める陰謀、賄賂など普通のことであったから、それだけで特に卑しむべき人物というわけではないということのようだ。ただラッセルは、ベーコンのこうした極めて世俗的な政治家としての生き方が、ベーコンの哲学者としての功績に一定の影響を及ぼしたと批判的評価をしている。ラッセルはベーコンの主治医で血液循環論を打ち立てたハーヴェイの「彼は大法官のように哲学を書いている」という言葉を引用し、「ベーコンが世俗的な成功に対する関心がもう少し無かったら、哲学者としてもっと優れたことがやれたであろう」と評している。


魔術から科学へ:

実はベーコンという人物は今なお謎に満ちたところがある。シェークスピアはベーコンのペンネームであるとか、『薔薇十字団』という秘密結社の会員として暗躍したとか、ハイゲートの実験の時の風邪で死んだのではなく、生きて密かにドイツへ逃亡した、といった伝承がまことしやかに語られている。これは彼が生きた時代は、暗い中世から光溢れるルネッサンス、そして科学的合理性の近代への通過地点で、ベーコンのような知性が経験した複雑で矛盾に満ちた『境界の時代』であったという背景を理解する必要がある。ラッセルの批判にこういうのがある。「ベーコンは学問の進化の中で数学を十分に説いていない。あえて避けているようである。また科学的アプローチを重視したが、当時科学がなしつつある多くのものを見落としている。コペルニクスを無視し、ケプラーすら無視している。これは科学に対する怠慢である」(『西洋哲学史』)と。経験論(実験、観察による)と数学という哲学的問題が潜んでいるが、実は17世紀初頭のイギリス社会はまだ『魔女狩り』が盛んに行われていた。ともすれば科学が錬金術と同義であったり、数学が占星術や魔術と同一視されたルネッサンス期の考えを引きずっていた時代であった。まさにベーコンが開こうとした『魔術から科学へ』の時代の前夜であった。彼が仕える国王ジェームス一世も、即位前に「悪魔論」1598年を著して『魔女狩り』や『火焙り刑』を支持していた。さらに神の意思による王権の絶対性を主張する『王権神授説』(フィルマーが唱導し、ロックが「政府二論」で批判した)の信奉者でもあった。こうした時代の空気の中、知識人や思想家が魔術や妖術と関わることを避け、そのような嫌疑をかけられることを恐れた。ベーコンはそんな『魔女狩りパラノイア』が蔓延する17世紀初頭のイギリスで科学的学問の進歩の重要性、人間の理性に基づく真理を説いたのだが、それには多くの困難と危険が伴い、その中で慎重に進めなければならなかったに違いない。まして国王に追従する廷臣としては、処世術としてもその言動には慎重を期したことだろう。ベーコンの汚職の告発と投獄、大法官解任は、身内優先、情実政治で議会の反発を受けていた国王の寵臣、バッキンガム公の宮廷内のスキャンダルのスケープゴートにされたものであるが、こうした「魔術から科学へ」というセンシティヴなコンテクストの中で理解すべきであるとする見解もある。しかし、ベーコンが世俗の処世リスクを恐れず果敢にそのような妄執の時代に挑戦していたら、「科学への怠慢」とか「道徳的には普通の人物」とか「哲学者としてもっと優れたことがやれたはず」などというラッセルの批判は受けなかったことだろう。ベーコンは、彼の代表的著作『ノヴム・オルガヌム』の中で、「知識」こそが「イドラ」(偶像)、すなわち間違った先入観や妄想を排除して真理にたどり着く源泉である、とした経験論哲学を唱導したにもかかわらず、彼自身が「イドラ」に取り囲まれ、脅かされて、それに沈黙を強いられた人物になってしまった。


ロンドン塔投獄は偉人への道?:

このように偉大なる哲学者であるベーコンの実人生は、宮廷官僚、政治家として王権力への追従と、政敵との争いという世俗の垢にまみれたものであったのだが、世俗の混沌の中でもがいた人物は彼だけではない。以前のブログ(2022年9月12日ウォルター・ローリーのエッセイ集で紹介したウォルター・ローリー:Walter Reighleyも、同じ時代を生きた廷臣の一人である。ローリーは政敵やスペイン大使の讒言によりロンドン塔に13年間幽閉され、その獄中で『世界史』(History of the World)や論考集などの後世に残る名著を書いている。またロンドン塔内にマラリアの治療薬を開発するために実験施設を設け研究に勤しんだ。科学の時代の到来を示唆するエピソードを残している。それは彼の新大陸植民地開拓にかけた情熱の冒険者、宮廷における知性、詩人として人望を集めた実人生の集大成ともいうべきものであった。断頭台に立ったローリーは、首切り役人に斧を見せるよう求めて、「よくキレる斧は劇薬だが、全ての病を解決してくれる」と述べて颯爽と冥界へ旅立った。その死刑執行はスペイン王の圧力によるものであったが、その適法性をイングランドのコモン・ローで根拠付けをしたのは他ならぬ法務長官ベーコンと主席判事コークであった。またベーコンに先立つ100年前にヘンリー8世のカトリック離脱に反対した、時の大法官トマス・モア:Thomas Moreは、コモン・ローの王権からの独立を主張し、大法官を辞任。国王の怒りをかい1529年に死刑判決を受けた。彼は従容として残虐な処刑に赴きつゆと消えた。モアは、先述のように大法官という宮廷官僚のトップに立つ高位高官であったにもかかわらず、庶民の目線を持ち続けたヒューマニストでもあった。人々が自由で平等に暮らす、社会主義的な理想国家「ユートピア」を描き出したことが彼の思想を表している。ベーコンも科学の発展した国、理想国家「アトランティス」を描いて見せたのは偶然ではないだろうが、モアとは違いその目線の先に絶対王権の安定以外の地平は見えていなかった。科学の発展は誰のものだと考えていたのか。王政復古後の専制的な王権に抵抗した啓蒙思想家でホイッグ党(議会派)の創始者の初代シャフツベリー卿:Lord Shaftesburyもロンドン塔へ送られ、保釈中にジョン・ロック:John Lockeと共にもオランダへ亡命し、やがて帰国して名誉革命に繋げた。ベーコンも政争に巻き込まれて、最後はロンドン塔に送られるが、日頃の国王への追従が効き、国王に救出されて3日で出獄している。絶対王権と闘いロンドン塔、断頭台、亡命、が後世に『偉人』と評価されるための通過儀礼だとすれば、ベーコンが王権に抵抗して亡命するか断頭台のつゆと消えていたら、もっと彼の評価が上がったのかもしれないというのは妄想だろうか。ちなみに彼の政敵、エドワード・コーク:Edward Cokeも絶対王権と戦い続け、失脚、ロンドン塔投獄ののち、1628年歴史的な「権利の請願:Petition of Right」を起草し、イギリス法制史、政治史に名を残した。当時はこのような血生臭い宮廷内の政治闘争の物語は枚挙にいとまがないが、その苛烈な人生を歩んだ人物が何を成し遂げ、後世にどのように評価されてきたかには違いがある。


脱線話 大伴家持のこと:

最後に話が脱線するが、出世競争に翻弄された偉人といえば思い起こすのは、日本の奈良時代における偉大なる万葉歌人、大伴家持のことである(2023年4月10日大伴家持と万葉集)。ベーコンの時代を遡ること900年前の人物であるが、彼は万葉集に多くの秀歌を残し、最終的には万葉集の集大成を行なった人物として歴史にその名が記憶されている。しかしその実人生は、名門の大伴一族の当主として、宮廷官僚として、皇位継承争いや藤原一族との激しい権力闘争に巻き込まれ、出世栄達、失脚、左遷、復活、そして死後の官位剥奪。そして復権という、これでもかという浮き沈みの激しい人生であった。ベーコンの場合との違いは、彼のような処世術にたけた政治家ではなく、むしろ宮廷権力闘争に翻弄されつつも、隠忍自重して一族の名誉と国家的な文化遺産だけは守り通した点であろう。しかし、ベーコンにしても家持にしても、このような俗世における権力闘争や世渡り人生の中から、どうしてこのような世界に大きな影響を与えた哲学思想や、今なお心に響く文学作品が生まれるものなのだろうか。心身ともにストレスフルな日常から、しばし逃避し、哲学的思索に耽ったり、自然の観察や実験に没頭したり、詩歌の世界に身をゆだねたりすることは心のカタルシスを得る上でも必要なことであったのかもしれないと凡夫は思うのだが。不本意な失脚ののち、残された人生を思索と著作活動に当てることは波乱の人生を観照し総括する上でも有意義であろう。偉大なる思想や文学作品はそんな徒然のなせる技だったのか。それにしても人間はまだまだ不思議な存在だ。『偉大なる哲学者』と『卑しむべき政治家』という二面が一人の人格に具現する。経験論的にも合理論的にも認識し得ない真理があるようだ。西田幾多郎のいう、第三の認識、超理性的認識論による説明が必要なのか。ベーコンの人生は彼の経験論哲学、科学的手法、帰納法では説明できない。


参考文献:

この機会に学生時代の教科書や参考文献を引っ張り出してきて、50年ぶりに読み返してみた。学生時代には理解が及ばなかったことや、資本主義的合理性の中で実利を求めて駆け足で過ごし、世渡りに呻吟する中で、看過したり、取りこぼしてきたことが如何に多いことかとあらためて気付かされる。特にラッセルを読み返してみると、当時としても学生にとってはわかりやすい筆致で哲学を解説する書として人気があったが、そのわかりやすい文章の中に深淵なる真理が語られていることに気付かされる。読み物風に通読するのでなく、あらためて問題意識を持って熟読玩味したい。『パンのための学問』から離れて少しゆっくりこうした古典や歴史に触れる時間が持てることに感謝し勉強し直してみたい。ベーコンや大伴家持ほどではないが、誰の人生にもそれなりの波乱とストレスがあった訳だし、凡夫たる自分自身も彼等に倣って残された時間を先人の境地に立ち返り、知識を再整理し、思索し、駄文にまとめてみるのも悪くないだろう。「小人閑居して善を為さず」の所業となるかもしれないが。

西田幾多郎 『哲学概論』岩波書店 京大の哲学講義教科書

原田剛 『西洋政治思想史』学生社 これは学生時代の必読書であった

バートランド・ラッセル 市井三郎訳 『西洋哲学史』みすず書房 当時一番影響を受けたイギリスの哲学者

この「ベーコン書簡集」:Letters of Sir Francis Bacon 1702年刊行の初版は、ネットで検索してもヒットしない。現在古書市場ではなかなか見当たらない。かつて米国の古書店で取り上げられたことがあるが現在では削除されているようだ。英米の大学図書館に「ベーコン書簡」として検索できるものはあるが、後の時代に編纂されたベーコン全集に収録されたものか、ほとんどが20世紀に入ってからの研究者による論文による引用だ。和訳本も見つからない。日本の大学図書館で1702年『書簡集』初版本を収蔵しているのは岡山大学図書館だけである(国立情報学研究所CiNii Books)。本書の稀覯性が気になる。

2024年7月28日日曜日

古書をめぐる旅(53)『The Mikado's Empire:皇国』ウィリアム・グリフィス著 〜近代日本史学の始まりの書〜





晩年のグリフィス夫妻肖像写真


今回はWilliam Elliot Griffis:ウィリアム・エリオット・グリフィスの著作「The Mikado's Empire:皇国」を紹介したい。著者のグリフィスはアメリカのオランダ改革派教会の宣教師である。ラトガース大学の出身でそこで教鞭を取っていたが、越前福井藩藩校「明新館」に招聘されて来日したお雇い外国人教師である。版籍奉還に伴い福井藩が無くなると東京の大学南校へ移る。彼の略歴、幕末維新時期の活躍、功績についてはこれまでのブログ(後掲)で述べてきたので、それを参照願いたい。本書は彼が日本から帰国したのちの1877年にNew York:Harper & Brothersから出版された第二版。初版は前年の1876年。以降重版を重ね、ラフカディオ・ハーンも来日に際して持参している。

本書『The Mikado's Empire:皇国』は、2部構成となっており、第1部が日本史概説。第2部が彼自身の日本滞在記である。彼の主著ともいうべき重要著作である。今回は第1部の日本史概説を中心に読み進めてみた。日本という国の成り立ちを古代に遡り解説し、そこから現代の(明治の)日本の姿を、「王政復古」「Mikado:天皇」の国の出発という視点で描いている。明治天皇が近代日本を統治する英邁な君主であると敬愛の念を示し、その天皇制のルーツと、その後日本が辿った天皇・貴族・武士との緊張関係の歴史、そして統治権威と統治権力の二元構造を述べている。彼は福井藩に招聘されていたが、版籍奉還、すなわち幕藩体制の崩壊(雇い主の福井藩の消滅)、封建体制からの決別という日本史の大転換期に身を置くこととなった。日本が近代化を進める国家体制として、天皇主権国家としてスタートするという歴史の現場を目の当たりにした。しかし、国学の流れを汲む尊皇攘夷思想に影響された日本人とは異なり、近代科学者、あるいはプロテスタントの合理的神学理解として、この王政復古を見つめている。明治天皇を敬愛するも、一方的な皇国史観や専制君主制を受け入れたわけではなかった。西欧諸国ではこの頃すでに近代的な国民国家が成立しており、国王を戴くイギリスも立憲君主制国家であり、まして独立戦争、南北戦争を経験したアメリカは共和制の人民主権国家である。グリフィスはその世界から日本にやってきた知識人である。特に紀元前660年に遡るとされている皇統の紀元を記述する歴史書、日本書紀と古事記に触れ、その史料批判を行なっている点に興味を惹かれる。彼が歴史学者であるという認識は現代でもあまり共有されていないかもしれないが、以下に述べるように、彼の本書で展開された日本史概説が日本の歴史学研究に与えたインパクトは大きい。そういう点で、この著作は、幕末・維新期にやってきた外国人の数ある日本見聞録の一つと片付けてしまうことはできないと考える。

本書の第一部は、近代的史学研究手法を持ち込んだ最初の日本史概説とも言える。 歴史研究の要諦は歴史資料(古文書や史書など)の記述を鵜呑みにせず、その編纂の時代背景や編纂者の意図などを読み解くことで史実を特定してゆく、いわゆる史料批判が基本である。当時すでに当たり前のこととされていたこの歴史研究姿勢を最初に日本に持ち込んだことに大きな意義がある。その後、帝国大学に史学科ができて、その初代教授にドイツから招聘された御雇外国人が就任した。外国人教師が史学科の初代となった理由は、こうした近代史学研究手法を日本に伝えることにあった。明治日本では、物理や化学、あるいは医学のような自然科学領域においては『科学的手法』『近代合理主義』を取り入れるのに躊躇はなかった。一方で歴史や文学、法律・政治・経済のような人文・社会科学研究領域に『科学的手法』を取り入れるには時間がかかった。こうしたアプローチをとった初期の研究者は外国人であり、いわゆるジャパノロジストを呼ばれたアーネスト・サトウ、ジョージ・アストン、バジル・ホール・チェンバレンなどのイギリス人が名を連ねる。アメリカ人にもその先駆的役割を果たした人物が登場する。その一人がこのウィリアム・グリフィスである。これ以降、久米邦武、津田左右吉(「神代史の新研究」1913年、「古事記と日本書紀の新研究」1919年)など日本人研究者の中に、こうした科学的手法による歴史研究、史料批判が定着し、そうした研究姿勢が主流になってゆく。しかしそれは大正デモクラシーの時代を待つ必要があったし、軍国主義傾向が強まるにしたがって、そうした研究姿勢が筆禍事件の餌食になっていったことを忘れるわけにはいかないだろう。

元々グリフィスの専門は歴史学ではなく、プロテスタントの宣教師であり、かつ化学や物理を教えるために福井藩に招聘された科学者であった。しかし、彼の日本史概説は彼が元々持っていた科学的な研究手法や合理的思考法が日本史研究においても存分に発揮されたものであると見ることができよう。特に、先述のように日本書紀や古事記の神話と歴史の区分の曖昧さ(むしろ神話を歴史的事実であるとする筋立て)は、記紀編纂の時代背景や当時の政治的な環境、為政者の政治的な意思に着目して読む必要がある。結果、「神武は実在しない創作された初代天皇」との見解を明確に示すなど、今では定説となっている記紀解釈を提示した。日本古代史研究における史料批判、科学的史学研究の嚆矢となった。グリフィスは、古い神話を歴史だと信じている人ばかりではなく、今や日本人でも、欧米に留学したり、近代的知識と合理的思考に触れた人なら、同じ答えに辿り着くとしている。日本古代史の研究はこれに続きチェンバレンの1882年(明治15年)の古事記英訳、1887年(明治20年)のアストンの日本書紀の研究に繋がってゆく。しかし、チェンバレンは歴史と神話を区分せず、いわば神話学的な視点から古事記を世界の神話と比較して、そこに日本に固有のストーリーはないと論じるなど、グリフィスの歴史学研究アプローチとは異なっている。1903〜1925年に刊行されたJames Murcoch:ゼームス・マードックの「日本史」全3巻(2022年8月1日 The History of Japan, by James Murdoch )は、ジャパノロジストによる最初の体系的な日本通史と言われているが、ここにはグリフィスと同様の史料批判手法が用いられているほか、日本書紀と古事記を中国王朝や朝鮮半島の歴史書との比較研究を展開している。しかし、グリフィスのこうした明治初期の研究成果は日本の歴史学会からはあまり評価されていないようだ。アジア協会や日本史学会創設に尽力し、多額の寄付をしたにもかかわらず、設立メンバーには選ばれず、いわば学外者として関与するにとどまっている。学会の閉鎖性というべきか。今日でもグリフィスが近代的な日本史研究の先駆者の一人であるという認識は薄いようだ。

彼は幕末・明治期の御雇外国人に関する研究にも力を入れ、招聘者のリスト(今でいうデータベース)を作成した。本人はもとより、その親族や友人、子孫、子弟などからも詳細な聞き取りを行い、日記や手紙、政府内外の記録など文献資料にも当たる網羅的な研究である。これは母校のラトガース大学図書館のグリフィス・コレクションに収蔵されている。その中から前回紹介したフルベッキ伝やタウンゼント・ハリス伝などが生まれている。こうした研究活動や著作発表は、実証的な史料収集と事実(史実)を特定する活動を軸とした歴史学研究の成果というべきものである。現在でも幕末維新史研究の重要な史料となっている。こうした功績から日本政府から叙勲を受けている。グリフィスを明治初期における『お雇い外国人教師』の一人、ジャパノロジストとひとくくりにするのではなく、グリフィスの歴史研究者としての評価をより正しく認識する必要があると思う。そういう意味でもこの『The Mikado's Empire:皇国』は日本史研究の歴史の画期となる著作であると考える。


2022年1月22日「古書をめぐる旅(19)』フルベッキ伝

2024年1月28日『古書をめぐる旅(44)』タウンゼント・ハリス伝









追記:なぜ『日蓮の法難』の図が巻頭に登場するのか?

グリフィスは、本書の巻頭に『日蓮の法難』の図を掲げている。これは、鎌倉龍ノ口で役人が日蓮を処刑しようとしたが、突然現れた輝く光が刀を砕いて斬首できなかったというエピソードを描いたものだ。日蓮の受難と超自然パワーを表すもので、いわばキリストの受難と復活を彷彿とさせるものがあると感じたのであろうか。彼は日本の仏教史における日蓮の存在を高く評価している。日本の仏教は、6世紀の伝来以来長く庶民の信仰からは遠い存在であった。難解な教義や哲学的思索などを説いた仏典の理解には、サンスクリット語や漢文が解読できることが必須で、インド・中国から渡来した高僧や、中国で学んで帰国したエリート留学僧によって学ばれ、伝達され、国家統治の思想(鎮護国家思想)として天皇をはじめとする政治的支配層に共有された。グリフィスは、のちに空海の出現を一つの日本仏教の画期とし、同時期の最澄の、いわば『比叡山スクール』に育てられた弟子たちの出現(のちの鎌倉仏教の開祖たち)に着目している。グリフィスは「仏教はキリストのいないカトリックである」と書いている。すなわち救世主がいない教義(ドグマ)というわけだ。面白い表現だ。かつては聖書はギリシャ語やラテン語で書かれていて、カトリック修道院で学んだ僧だけが、教義を解し教えを布教した。そういう点では仏教もカトリックも庶民は経典や聖書を読むことができなかった。仏教ではその教えを庶民に説く布教者も限られていたので、仏教が庶民の来世の救済や現世利益への信仰というコンテクストで受容されることもなかった。13世紀の鎌倉時代に入って現れた革命的な宗教者で、比叡山スクール出身の日蓮は、既存宗派を論破し、法華経こそが仏教の最高の経典であり、庶民は難しい経典を読まなくても「南無妙法蓮華経」を唱えれば成仏できる(救済を得ることができる)と説いた。既存の観念を打ち破る画期的な論法は、民衆の心を捉え、そして時の権力者に恐れられるのが常である。日蓮は権力や他宗派による弾圧にも屈せず宗旨を貫いた。グリフィスは、日蓮を「仏教中興の祖」であるとしている。16世紀のキリスト教伝来の時にもイエズス会宣教師にとって最大の難敵は日蓮宗のBonzu:坊主・僧侶であったし、今でもキリスト教布教にあたって越えるべきハードルのひとつだと考えている。一方で、親鸞を日本仏教のプロテスタントだと見做していることも興味深い。浄土宗の開祖である法然も「南無阿弥陀仏」と唱えれば誰でも極楽往生できると説いている。いずれも比叡山に学んだ新仏教宗派の開祖であり、来世の「救済」を説いたことで仏教の新たな地平を開いた。キリスト教プロテスタントの宣教師らしい評価なのであろうか。宗教改革のリーダーであるルターやカルバンの姿を投影したのかもしれない。

その一方で、グリフィスの日本の宗教、仏教や神道に関する眼差しは、この時期に日本にやってきた外国人のそれとはことなっていることに気づく。すなわち、キリスト教以外の宗教をエキゾチックではあるが野蛮な信仰、習俗と見る。『文明開花』とは『キリスト教化』することであって日本の『文明開花』は単なる西欧の模倣であると見る。すなわち外的なものが変わっても内的なものが変わらねば単なる模倣である。いわば『キリスト教vs異教徒』という二項対立の視点である。いわゆるジャパノロジストの中にも多かれ少なかれこのような深層理解が潜んでいることが多い。しかし、グリフィスはプロテスタントの宣教師であるにもかかわらず、仏教や神道を相対化して理解することができるジャパノロジストの一人である。先ほどの日蓮、親鸞論などもその象徴であろう。こうした観点で日本に接した人物のもう一人は、ラフカディオ・ハーンである。彼の眼差しとグリフィスの眼差しには共通するものがあるように思う。どちらも日本人の宗教観や日常の宗教行事に親近感と慈愛の目を持って接している。いやむしろ宗教や信仰の問題というよりは日常生活に根ざした習俗の中に自然に対する畏敬や祖霊に対する敬いの心を見出した。ただ、二人の違いは、グリフィスがキリスト教宣教師であるのに対し、ハーンはキリスト教に懐疑的、ケルト的である。グリフィスとハーン。この二人の日本観。またチェンバレンやサトウのそれについてはまた別の機会に詳しく比較考察してみたい。


『日蓮の法難の図』が巻頭に掲載されている


2024年7月14日日曜日

「カメラの聖地」大井町散策 第二弾 〜ついにニコンが帰ってきた!の巻〜

ニコン新本社/イノベーションセンター完成図(報道発表資料から)

工事中の新本社屋(6月7日現在)



時空トラベラー  The Time Traveler's Photo Essay : 「カメラの聖地」大井町散策 〜Nikonのある町〜: こんな昭和な街並みも残る  大井町と聞いてどんな街をイメージするだろうか? 競馬場?大井埠頭?元京浜工場地帯?大井町阪急?きゅりあん? 鉄道ファンなら(といっても中高年以上)国鉄大井工場か。少なくともさしたる名所旧跡も見当たらないし、はやりのお洒落なお店もない...(2017年3月10日のブログ)

ニコンは7月11日、今月7月29日に新本社とイノベーションセンター(研究開発センター)を港区港南から品川区西大井に移転、開業すると発表した。Nikon Fなどの歴史的な名機を生み出した旧大井工場跡地という、ニコンの前身の日本光学工業の創業(大正6年)の地である。2017年の工場取り壊しの後長く空き地になっていたが、2022年から新社屋建設工事を始めていた。

ニコンファンにとっては、ライカが創業の地ウェツラー:Wtzlarに本社、ライツ・パーク:Leitz Parkを開業したのと同様の感動を持って迎えられる出来事だ。日独のカメラのライバルであり、世界の二大ブランド、ニコンとライカが、ついに創業の地に戻った。ライカといえばWetzlar Germany、ニコンといえばOi Japan。これは歴史的なことだ。ライツ・パークは今やウェツラーの名所となっており、世界中のライカファン憧れの聖地となっている。この『ニコン・パーク』もニコン・ミュージアムを併設するので、大井は新たなニコンファンの『聖地』として世界から巡礼者が多く訪れることであろう。スマホ全盛時代にあっては、ハイエンド・カメラはイノベーティブな精密機器であるだけでなく、高級ブランドとして、特にブランド価値の高いニコンやフジフィルム、ライカは高い付加価値を持つ商品を生み出す企業に変容しているのだ。憧れのカメラの聖地をめぐる旅。これはマニアにはたまらない。

と同時に、地元住民としては、かつて『京浜工業地帯』の中心の一つとして賑わった大井町に、ニコンの最新の研究開発センターとミュージアムを備えた新本社が戻ってきたことは歓迎すべきことである。ニコン社員の通勤ルートであったJR京浜東北線大井町駅から続く「光学通り」の先に、文字通り光学機器のメッカが再生されたわけだ。現在ではJR横須賀線、湘南新宿ラインの西大井駅が開業し、新本社はその駅前に位置するので、こちらが最寄り駅となる。かつての貨物専用の品鶴線が通る昭和なモノ作りの工場地帯から、大井町、西大井が世界のニコン、レジェンドとイノベーションの中心に進化する第一歩であることを祈りたい。地元にそれほど大きな雇用を創出することはないだろうが、高度成長期の活気が去り、シャッター通り商店街が連なるワクワク感が薄れていたこの地域に、新たな『輝き』が生まれることを期待したい。

ちなみに、ニコン経営陣にそんな『聖地』回復!などという意図があるのかどうかは分からないが、地元のニコンファンはこのように勝手に興奮し舞い上がっている次第である。


2024年7月11日 ニコン報道発表資料





光学通りと西大井本通りの交差点




AI処理で電線を消去した画像
どこかおかしい!?

光学通り

JR西大井駅

ニコン報道発表資料より


(撮影機材:Nikon Z8 + Nikkor Z 24-120/4)

2024年7月5日金曜日

古書をめぐる旅(52)『A History of the English-Speaking Peoples:英語諸国民の歴史』Winston S. Churchill:チャーチル著 〜 イギリスはヨーロッパなのか?第二弾〜


Winston S. Churchill  A History of English-Speaking Peoples, London, 1956~58

Sir Winston S. Churchill (1874~1965)
(Wikipedia)



今日、イギリスは総選挙の結果が明らかになり、労働党が大勝し14年ぶりに政権交代となった。首相となるキア・スターマー:Kier Starmerは労働者階級出身で中道左派。専制主義と極右ポピュリズムの亡霊が世界を覆う世の中で、議会制民主主義の母国イギリスで中道政権が圧倒的な票差で選ばれたことは意義深い。ただ、イギリスでも大敗した保守党の票の一部をファラージ率いる民族主義新党Reformが奪い議席を確保した。内政問題山積のイギリスで、スターマーが外交にどれほどの力量を発揮できるのか未知数だと言われている。外交政策はヨーロッパとの関係を重視する立場ではあるが、労働党政権になっても保守党政権時代に国民投票で決まったBrexitは変わらないだろう。ただアメリカでトランプが大統領になると英米関係には大きなギャップが生まれることだろう。これをどう乗り越えるのか。これからイギリスはどこへゆくのか?そして迷走のアメリカこそどこへゆく?

2019年3月26日のブログ、 時空トラベラー  The Time Traveler's Photo Essay : イギリスはヨーロッパなのか?: のなかでウィンストン・チャーチルの著作『英語諸国民の歴史』に言及した。まさにこの時世に合わせたように、その全4巻を入手することができたので紹介したい。この混沌とした時代にチャーチルの歴史観と政策の現代的意義を噛み締めてみたい。1956年に初版がロンドンで刊行された。チャーチルは政治家としてだけでなく、著述家、歴史家としても名を残しており、『第二次世界大戦回顧録全6巻』1948~54やこの『英語諸国民の歴史全4巻』1956~58などの大著を世に出しており、1953年にはノーベル文学賞を受賞している。もっとも本人は文学賞ではなく、政治家として平和賞を望んでいたそうだが。


本書の構成:

イギリスという国の成り立ちから、エリザベス一世の絶対王政、イギリス革命の時代、大英帝国の成立、ヴィクトリア朝まで、旧大英帝国とその植民地、自治領(ドミニオン諸国)、すなわち英語を共通言語とする国々の歴史を4巻にまとめた、いわばパクスブリタニカ通史である。

第1巻:ブリテンの誕生:The Birth of Britain
第2巻:新世界:The New World
第3巻:革命の時代:The Age of Revolution
第4巻:偉大なる民主主義:The great Democracies

ブリテン島は古代ローマ時代にはケルト人やゲール人が住む辺境の島であった。その後、ローマ帝国に征服されブリタニア属領になるが、ゲルマン人の移動や、バイキング(デーン人)の侵入、さらにはノルマン人の侵入など、大陸からの絶え間ない異民族の侵入にさらされてきた島であった。ようやく11世紀、1066年の『ノルマンの征服』で大陸から侵攻してきたノルマンディ候ウィリアムが、土着のサクソン王ハロルドを破り、ノルマン王朝を打ち立てイングランドを統一した。これ以降ブリテン島に異民族が侵入し王朝が交代するする歴史に終止符が打たれた。しかしブリテン島はヨーロッパ大陸の周縁部という地理的、地政学的な立ち位置から、絶え間なく大陸との人の出入りがあり、イングランド王がブリテン島と大陸に領地を持ち、その攻防を繰り返し、その過程でフランスの領土を失った失地王ジョンが、貴族の議会によりマグナカルタを認めさせられるなど、近代につながる政治思想、政治制度、法治主義という文化と歴史の発祥の地となった。16世紀後半にはチューダ王朝のヘンリー八世、エリザベス一世の時代にイングランドは強力な絶対王政を確立し、ローマカトリック教会から離脱して英国国教会(プロテスタント)を立てる。さらにはスコットランド王メアリーを処刑して、イングランド王がスコットランド王を兼任する。さらには当時、大航海時代を切り開いた大国スペインの無敵艦隊を破り、ヨーロッパの辺境国から七つの海を支配する世界帝国への道を歩み始めた。新大陸アメリカ植民事業を進め、アフリカからの奴隷貿易により北米植民地の綿花を輸出商品に育てた。1600年にはインド植民事業を担う東インド会社を設立した。17世紀には王政の廃止で共和政移行、王政復古、ピューリタンによる革命など、『イギリス革命』の時代となり、名誉革命、権利の章典で立憲君主制への道を歩み始める。18世紀にはアメリカの独立でカナダ以外の北米植民地を失うことになるが、産業革命と植民地獲得により地球の東へ遠征を進めてゆく。こうして19世紀になるとヴィクトリア女王のもとイギリスは大航海時代における覇者となり、オランダから奪った南アフリカ、西インド諸島、中東、インド、ビルマ、マレー、オーストラリア、ニュージーランド、カナダ、さらには香港を中国から割譲され植民地化して「日の沈まぬ大英帝国」全盛時代を誇った。帝国主義、いわゆるパクスブリタニカの時代だ。

そして本書には記述されていないが、そのイギリスの時代(パクスブリタニカ)は20世紀に第二次世界大戦で勝利したにも関わらず、多くの植民地が独立し、アメリカの時代(パクスアメリカーナ)を迎えることとなり終焉を迎える。そして冷戦時代をアメリカと共に生きてゆく道を歩み始める。チャーチルはそのイギリスがたどった歴史を俯瞰する中から、戦後のイギリスの立ち位置を指し示してきた。


『アングロ圏構想』という妄想?

本書で描かれたこの七つの海を支配した大英帝国の栄光の歴史はイギリスの人々の記憶から消え去ることはない。かつてあのローマ帝国の属領であったブリタニアが、そのローマ帝国をも遥かに凌駕する世界帝国になったという歴史の記憶がイギリス人の国家意識の基層にある。そして英語が世界の共通言語になったという自負。Brexitは、そんな栄光のイギリスはヨーロッパの一国となってEUのルールのもとでこじんまりと余生をおくる老大国でいいのかという思いは意外に強い。そういったノスタルジアだけでなく、かれらはヨーロッパの大陸諸国よりも、英語を母国語とする人々、共通の君主をいただく立憲君主制、自由主義に基づく議会制民主主義、コモンロー、英国風のライフスタイルに共感してくれる人々、国々との連帯感の方が強い。そういう意味でイギリスはヨーロッパ、EU:European UnionではなくBC:British Commonwealthなのだ。すでにかつての植民地は独立していても、その共通言語英語と共通の自由主義的、民主主義的政治制度、共通の文化的バックグラウンドという紐帯は、地理的に近いヨーロッパ地域との紐帯よりも強いのである。そんな心情がイギリス人の底辺に潜んでいる。こうした考え方は、戦後これまでも多くのイギリスの政治家や政治思想家によって夢想されてきた。いわゆる「アングロ圏:Anglosphere」という概念あるいは構想だ。同じような構想にCANZUK:Canada/Australia/New Zeeland/United Kingdomというのもある。すなわちイギリスとイギリスからの移住植民地(カナダ、オーストラリア、ニュージーランド)、すなわち旧自治領・ドミニオン諸国(British Dominion)。それにアメリカ合衆国を加えた、いわば「アングロサクソン共栄圏構想」である。これには大英帝国の属領としての南アフリカ、西インド諸島、インドやビルマ、マレー半島、香港は入っていない。白人中心の移住植民地、あるいはそこから独立した国の集まりである。あまり現実的な構想であると思われてはいないようだが、今でもそういうレトリックが語り継がれているところに、この構想(妄想)の根強さがある。

ウォルトン作曲の『英語諸国民の歴史のための行進曲』という曲がある。これはウインストン・チャーチルの『英語諸国民の歴史』を堂々たる行進曲にしたものだ。英語を共通言語とする世界、すなわち大英帝国の歴史を高らかに歌った作品だ。ロンドンのロイヤルアルバートホールで毎年夏に開催されるクラシック音楽の祭典、プロムス:Promsで必ず演奏される曲である。このプロムスは単なる音楽祭ではない。大英帝国の栄光をみんなで共有し、思い起こし、讃えようという一種の国威発揚イベントだ。参加者全員がユニオンジャックを打ち振り、感涙に咽びながら声を合わて「威風堂々」「Rule Britannia !」を斉唱する。戦争に負けた日本にはあり得ない愛国的高揚感が堂々と披瀝されている。この辺が戦勝国イギリスと敗戦国日本の違いだ。歴史に対する悔悟の念も遠慮も感じられないこのストレートな愛国表現には違和感も感じるが、少なくとも負ける戦争は絶対すべきではないと感じさせられる。

この様な戦後のイギリス人の心情の底辺にうごめくかつての栄光へのノスタルジアや愛国心に基づく観念を読み解くと、Brexitは必ずしも不思議な動きではないことを理解させられる。たしかにかつての大英帝国構成地域(英連邦とドミニオン諸国)の現在の市場規模は依然としてイギリスにとって無視できないだろう。しかし、現在の地政学的環境の変化、経済活動や市場のグローバル化、アジア地域の経済躍進の時代に、時間を巻き戻してかつての大英帝国時代の観念に戻ることはない。肝心のアメリカは再びトランプが大統領になった時点で、自国中心主義:America Firstを取り、どこの国・地域であれ二国間貿易協定を主張して譲るつもりはないし、ヨーロッパの安全保障を請け負うつもりもない。カナダは大西洋を隔てたイギリスやフランスよりも、国境を接したそのアメリカとの二国間自由貿易連携にしっかりと取り込まれてThe Americasの国として生きている。オーストラリアやニュージーランドは発展するアジア経済圏の中で生き残る道を、白豪主義の放棄、移民政策の転換も含め突き進んでいる。安全保障はイギリスではなくアメリカに依存している。かつての移住植民地は遠く離れた母国イギリスとの歴史的、文化的、精神的、そして言語的な紐帯はともかく、それぞれの地政学的な立ち位置を認識して新たな生き方を歩み始めている。そういう21世紀の時代にナショナリズムを前面に出して物事を整理、理解、決定してゆくやり方は、結局アメリカのトランプのAmerica First, Make America Great Againとなんら変わりはない。あるいはヨーロッパ大陸諸国におけるナショナリズム、反移民を謳う極右政党が多数の支持を獲得しポピュリズム政治に傾斜してゆくのと同じ道ではないのか。ロシアや中国の様な専制主義国家が国際的な融和と協調よりも、自らの支配権力の確立と自国利権優先主義を、武力行使を含めて推し進めていることに危機感を覚えるが、それ以上にこれに対抗するはずの『自由と民主主義のアライアンス』が崩壊の危機に瀕する事態を見たくない。人類がその歴史の中で血で贖いながら築き上げてきた『普遍的価値』が音を立てて崩れていくのを看過するわけにはいかない。イギリスはその『普遍的価値』を生み出してきた国ではなかったか。アメリカはその『普遍的価値』を新大陸に実現するために独立戦争を戦った国ではないのか。


チャーチル『英語諸国民の歴史』が伝えるものは?:

ウィンストン・チャーチル著『英語諸国民の歴史』(1956~58年刊)が、こうした『アングロ圏構想:Anglosphere』の元祖のように取り上げられがちである。しかし彼がこれを表した時代は1956年、冷戦真っ只中という時代である。単純に大英帝国の夢よもう一度!などというナイーブな愛国的妄想を抱くほどチャーチルは未熟でも愚かでも懐古趣味でもない。アングロサクソンの栄光の歴史を賛美しつつも、通史として英語諸国民が築き上げ、引き継いできたレガシーを振り返ることで、彼は、今差し迫っているソビエト共産主義国家の脅威に対抗するために、これからのイギリスとコモンウェルス諸国が生き残る道を説いているのである。とりわけ、イギリスの目の前に立ちはだかっているアメリカ合衆国(イギリスから生まれた)との付き合い方について示唆しているのである。英語諸国民のレガシーとは何か。アメリカとそれをどのように守り継いでゆくのかということである。

チャーチルは『英語諸国民の歴史』のなかで『アングロ圏:Anglosphere』という概念を使わず,『英語を使用する諸国民:English-Speaking Peoples』という概念を用いている。彼は、英語を使用するアングロサクソン民族の政治的・文化的業績を賞賛している。アングロサクソンは絶えず戦争に勝ち,貿易を拡大し,自由・安全保障・福祉を促進したが,それらはすべて自由主義的な政治文化と制度のおかげであると述べる。彼は,アングロサクソンの文化的優位性を信じていたが,他の民族に対して人道的に振る舞う義務があるという自由主義的な信念も持っていた。それゆえ,彼はナチス・ドイツによるアーリア人の優越性や反ユダヤ主義を鋭く批判し,イギリスはヒトラーに対して最後まで戦うと宣言したのである。第2次世界大戦が勃発すると,チャーチルはアメリカがヨーロッパ戦線に参加するように説得した。しかし、アメリカがイギリスに対して行った支援は,イギリスの戦争遂行を支えるために必要な政策であると同時に,アメリカが自由主義的な国際秩序の形成を推進し、大西洋憲章に示された民族自決の原則をヨーロッパの帝国主義国,特にイギリスに尊重させるために必要な政策でもあった。アメリカはイギリスの戦争遂行を支援する一方で、イギリスはアメリカによってその帝国主義的野心を放棄するよう圧力をかけられる。ここでチャーチルは英米が共有する歴史的紐帯を思い起こさせるためにためのレトリックとして英語諸国民の共通の歴史と将来の団結について言及した。チャーチルにとって、英語を共通言語とする英米の深い歴史的関係を強調することは,植民地帝国は解体に向かうが、イギリスの利益を保護し,アメリカの野心を尊重する新しい国際秩序を形成するための基礎であり,西側諸国の安全保障と繁栄を守り,自由主義的文明の新時代を築くために必要なものであった。そして、本書ではその歴史的根拠を語っているのである。

チャーチルが英米の特別な関係を初めて公にしたのは,戦後の1946年3月5日にアメリカで行った歴史的な「鉄のカーテン」演説であった。この演説のなかでチャーチルは「英米は議会制民主主義や自由主義、コモンローという共通の遺産によって結びつけられており,それは数世紀にわたって進化し,これまでの幾世代の移民によって世界各地に伝道されて来た」と壮大な叙事詩をアメリカ国民に語りかけたチャーチルのこの歴史観は人々の心を打つものであったし間違ってはいない。脱植民地化は大英帝国を崩壊させたが,自由,民主主義,法の支配といった『普遍的価値』を共有する緩やかに結合した共同体を残したからである。「鉄のカーテン」演説は,英語使用諸国民がナチス・ドイツのファシスト枢軸に対して勝利し,彼らが新たに直面するソビエトの共産主義に対する戦争(冷戦)に乗りだす時に行われた。まさに戦後レジームを創造した重要なリーダーの一人がチャーチルであった。

チャーチルは戦後レジームの中でのイギリスの勢力圏を次のように示した。第 1の勢力圏は英連邦:British Commonwealth,第 2の勢力圏はドミニオン諸国とアメリカ,いわば『アングロ圏:Anglosphere』、第3の勢力圏は連合ヨーロッパ( United Europe)であり,イギリスはそれらの勢力圏の結節点にあると主張した。しかし,チャーチルにとって,連合ヨーロッパ、のちのEUへの関与は,冷戦下におけるイギリスの安全保障と英米同盟への関心に比べれば 低くならざるをえなかった彼にとって核心的な問題は、ソ連、共産主義の侵略の可能性があるなかで、アメリカが西ヨーロッパに防衛的な関与を続けるか否かであった。現代のNATOの置かれた状況に類似する。一方で、確かに 1960年代になると,アングロ圏やコモンウェルス市場はイギリスにとってそれほど大きな経済的利益を生まなくなり,イギリスが連合ヨーロッパの一員となって再出発することを望む声が大きくなった。そしてEUに加盟することとなった。しかし,アングロ圏構想は消え去ることなく冷戦終結後に復活することになるのである冷戦終結後の世界においても、依然としてソ連の残滓であるロシアの専制主義と領土的野心の危険性は薄れておらず、むしろウクライナ侵略に見られるような剥き出しの軍事力による脅威が増している。そんな中イギリスとその仲間達にとって安全保障の観点からアメリカが(ヨーロッパ諸国よりも)、以前にも増してより重要であるという認識が生まれることも不思議ではない。その重要性を強調し、アメリカの繋ぎ止めに、チャーチルが用いた『英語諸国民』が共有する普遍的価値観というレトリックとして強調してみせることの重要性が再認識されている。アメリカには今も昔も、基本的にはヨーロッパや他国のことに関心を払わない自国優先の伝統がある。トランプの『America First』は今に始まった話ではない。しかし、アメリカは民主主義と自由、法の支配、自由貿易という『普遍的価値』を共有する国として、戦うべき相手が現れた時には勇猛果敢に登場してきた(ナチスドイツ、ファシズム、共産主義との戦い)。それは、その登場を促したチャーチルのような有能な政治家にして歴史思想家がいたからとも言える。残念ながら今のトランプを『普遍的価値』や自由のための戦いに引っ張り出せる現代のチャーチルはいるのだろうか。新首相スターマーにそれを期待したいが、トランプを大統領に選んでしまうアメリカ人の心を打つレトリックで『普遍的価値』に基づく紐帯を語れるのか。もはやチャーチルの『英語諸国民』というレトリックは、『deal』を叫ぶトランプには通用しないだろう。そもそも『普遍的価値』をトランプは共有しているのだろうか。世界は新たな局面に入りつつある。


日本への眼差し:

ところで、チャーチルは本書で日本をどのように位置付けているのだろうか。もちろん日本は「英語諸国民の国」ではないし、大英帝国の植民地であったこともないので、本書の主題の一つではない。索引で見ると「Japan」は全4巻通じて2箇所しか出てこない。日露戦争と第一次大戦後の建艦競争と軍縮交渉の場面だけだ。日英両国の歴史の17世紀のファースト・コンタクトも19世紀のセカンド・コンタクトにも触れられていない。それにしてもチャーチルは日本に関する知識も関心もはそれほど高くなかったようで、そもそも極東の外交課題には多くの関心を寄せていなかったようだ。しかし日英関係の長い歴史、イギリス王室と日本の皇室の交流を重視しており、彼の意識の中では東洋における国の中で日本は別格の扱いであった。現実の外交政策では、もっぱらヨーロッパやクリミアにおける対ロシア政策において日英同盟が極東側からロシアを牽制するのにちょうど良い同盟であると考えていた。日本が引き起こした満州事変についても、大英帝国がインドでとった帝国主義的な手法と共通するものであって理解を示し、日本の利権確保がイギリスの利権に影響を与えるものでない限り、非難する意図はなかったと言われている。またアジアにおける旧移住植民地・ドミニオン諸国(オーストラリア、ニュージランド)の安全保障の観点からも日英同盟は重要であった。しかし、満州権益、アジアの自由貿易確保に強い利害を有し、日本の帝国主義的な大陸進出に懸念を抱いていたアメリカ(そしてドミニオン諸国の一員であったカナダ)からの強力な圧力を受けて、アメリカとの関係を重視する立場から1921年イギリスは日英同盟を破棄した(更新しなかった)。さらに満州事変から日中戦争へと事態が拡大してゆく中で、中国におけるイギリス利権に脅威が感じられるとアメリカに背中を押され反日政策に転換していった。もともと歴史上も日英両国は良好な関係にあったし、ユーラシア大陸の東西両端に位置する島国という共通点もあり、ロシアという共通の仮想敵を抱え、利権をめぐって対立する関係でもなかった。それだけにチャーチルにとっては、日本を敵対国と見ることには抵抗があり、戦争直前まで日本融和策を取ろうとしていた(駐英大使重光葵の回想)。ホームであるヨーロッパにおいてナチスドイツやソ連の共産主義のような脅威に備えることと、第一次世界大戦後、急速に力をつけてきたアメリカとどのように安全保障上のアライアンスに組み込むか、といった問題こそチャーチルの核心的課題であり、それに比べると日本は良くも悪くもプライオリティーの高い課題になりにくかった。しかし、日中戦争の拡大で中国におけるイギリスの権益が脅威にさらされ、資源を求めて南方進出して来た日本にアジアの帝国植民地が攻撃されるに至っては、アメリカと歩調を合わせざるを得ない所へ追い込まれた。ダメおしはイギリスの正面の敵ナチス・ドイツと日本が同盟を組むに至ったことである。のちにチャーチルは「回顧録」で日英同盟を破棄したことは間違いであったと回想している。日本の親英米派を見捨てて、日本を孤立させナチスドイツに走らせてしまった。歴史にタラレバはないというが、あのとき、チャーチルを含め日英両国の指導者にもう少し歴史を振り返り、将来に向けて俯瞰的な視野があれば、その後の歴史は変わっていたかもしれない。明治維新以来の同盟関係にあった日英両国。イギリスを味方につけることが出来なかった日本。アメリカに唆されて日本を見放したイギリス。敗戦国のリーダーとして処断された親英米派の広田弘毅や近衛文麿の悲劇とともに、戦勝国のチャーチルの政治家、歴史家としての評価も、この点においては減点されなければなるまい。


Volume I: The Birth of Britain

Volume II: The New World

Volume III:  The Age of Revolution

Volume IV:  The Great Democracies

ヘンリー8世時代のヨーロッパ

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