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| キビタキ |
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| 飛んだ! |
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| 梅林坂 |
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| マンサク |
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| これはツバキかと思ったら「春さざんか」だそう! |
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| 百人番所 |
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| 百人番所 |
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| 17世紀のアンボイナ島(Wikipedia) |
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| 17世紀のアンボン砦(Wikipedia) |
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| 現在のアンボイナ島(Wikipedia) |
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| モルッカ諸島全域図 中心にAmbon(アンボン)とBanda Islands(バンダ諸島)の地名が見える |
アンボイナ事件
1623年、香料の一大産地であったモルッカ諸島のアンボイナ島で起きた事件は身の毛もよだつ凄惨なものだった。イングランドの商館長と館員、日本人傭兵が、オランダ商館のオランダ人によって拷問の末に処刑された。その拷問は書くのも憚られるような執拗で残忍なもので、その模様が図入りで記録として残されている。この商館員達の無惨な死がイングランドに伝えられた時には、国王ジェームス1世をはじめ国民全体が大きなショックを受ける。それまで友好国だと思っていたオランダに対する強い憎悪と非難が沸き起こった。この事件は、イングランドが東インド諸島(現在のインドネシア)の香料スパイス交易のサークルから撤退を余儀なくされた事件として記憶され、以降アジア進出のターゲットがインド亜大陸に向かうこととなる一大転換点となる。オランダはその東インド交易の覇者になるが、これがイングランドとオランダの間で3次ににわたる戦争を引き起こすきっかけとなり、さらに両国のその後の海洋帝国の明暗を分けることになる。
事件が起きたアンボンは、「香料諸島」として知られるモルッカ諸島のアンボイナ島の中心都市。現在でも同地域の州都である。戦時中は日本の海軍も駐留していた。イエズス会のフランシスコ・ザビエルも布教に訪れたことがある。最初にやってきたヨーロッパ人はポルトガル人で、1513年に香料の原生林獲得を目指して入植、原住民を駆逐して砦を築いた。のちに1605年にはオランダ人ステファン・ファン・デア・ハーゲンが入り、ポルトガル人を追い出し、多くのポルトガルに協力した原住民を殺害して砦を構築。1610〜1619年までオランダ東インド会社の拠点とした。のちに拠点は1000キロ離れたバタビアへ移転するが、オランダがナツメグ、クローブなどの香料交易を独占した。やがてイングランドとオランダの本国では、英蘭両東インド会社での共同開発の合意がなされ、1615年にイングランドはアンボンの近郊カンベロに居住地を設置した。しばらくはオランダのアンボン砦の一角を占めるなど共存していたが、香料争奪戦の激化に伴って対立が始まるのは時間の問題だった。本国における上層部の合意が現地まで上命下達で直ちに浸透するような時代ではない。現地で一攫千金、蓄財を狙う冒険的商人の個人的な欲望、利害や野心で物事は動く時代である。まして本国と現地の間のコミュニケーションは、実際の人の移動による書簡、報告書によるしかなく、往復に何ヶ月、あるいは何年もかかった。アンボイナ事件はこうした背景のもとで起こった。
この事件は日本人傭兵がオランダ砦の邏卒に砦の詳細を質問したことに端を発すると言われている。この日本人はオランダの砦を攻撃しようと計画しているイングランドのスパイだということで拷問にかけられる。彼は「七蔵」といい、傭兵として砦を警備するのに必要な質問をしただけであったが、苛烈な拷問でオランダの筋書き通りの自白を強要される。すなわちイングランド人は砦を攻撃してオランダ人を殺害する計画を立てているというもの。その結果、オランダのアンボイナ総督ヘルマン・ファン・スプールトは、イギリス商館長ガブリエル・タワーソン初め10人のイングランド人、9人の日本人を捕えて激しい拷問を加えた挙句に処刑してしまう。これが「アンボイナの虐殺」:Amboyna Massacreである。この事件は生き延びて本国に帰還できた2名のイングランド商館員によって報告されたことで明るみになった。イングランドでは、上述のように激しい反オランダ感情が燃え上がった。当のオランダ本国でもこの残虐行為が問題になっていたが、これは現地の商館員と傭兵が行ったもので上層部は預かり知らぬものとして黙殺した。しかし、現場におけるこのような残虐行為はこの事件だけではなく、現地人に対しては頻繁に起きていた。またバンタムのイングランド商館は絶えずオランダ人の襲撃の恐怖に怯えていた。案の定、アンボイナ事件はのちにオランダのバタビア総督ピーテル・ヤンスゾーン・クーンの、個人的野心からくるイングランド排除の謀略であったことが明らかになっている。彼は現地人やイングランド人や日本人が殺されることに何の痛痒も感じない冷酷な男であった。日本人傭兵「七蔵」はその陰謀に利用されただけであった。もっともこの時代の「冒険商人」とはそのような殺し合いを生き延びたものたちのことであった。
日本人傭兵の存在
ところでこの事件では日本人の存在が重要な鍵となっている。日本人がなぜこの時代にこのようなところにいたのか?それには当時の日本の国内事情が大きく関わっている。1615年に「大坂の陣」が終わり、主家を失った西軍の大量の浪人が発生していた時期である。浪々の身となったサムライの一部は、海外に流転して新たな生きる道を模索した。戦国時代から商人やキリシタンだけでなく、奴隷狩りで売られた農民や、多くの「敗残兵」たるサムライが海を渡り、ルソン、アユタヤなどで日本人街を形成し、やがて山田長政のように現地で勢力を誇った人物も現れる。またジャンク船を仕立てて東インド海域で交易/海賊を行ったものも記録されている(例えばオランダのファン・ノールト艦隊の「世界一周紀行」にも記録されており、この時、日本のジャンク船からリーフデ号の日本到達の情報を得ている)。オランダ人やイングランド人にとっては、よく切れる刀を持ち鉄砲も扱える、屈強で従順に仕事をする日本人のサムライは格好の傭兵候補であった。また「流浪のサムライ」にとっては、このような海外の修羅場はやり場の無い不満の捌けどころで、サムライとしての実力を発揮する機会とも捉えていたことだろう。こうした浪人がポルトガル船、オランダ船で東南アジアに送られた。事件のあったアンボイナ島にもまとまった数の日本人がいて、砦の中には少なくとも30名の日本人傭兵がいたと記録に残っている。日本人傭兵はオランダ、イギリス双方で雇われており、戦いの時は日本人傭兵同士が戦った。彼らは主に西軍の残党であったと言われる。このアンボイナ事件の発端は、先述のようにオランダに捕えられた「七蔵」なる人物の自白がきっかけとなっている。彼の出自についての記録はないが、一説に平戸の出身であるとも。アジア各地に進出してきた「南蛮人」「紅毛人」にとって「流浪のサムライ」が商館の護衛、敵対勢力からの防衛、さらには攻撃に大きな役割を果たしていたことがこの事件からもわかる。この時代、我々の想像以上に日本人が海外に出ていたし、しかしその多くは日本側の記録には出てこない。
ちなみに、このアンボイナ事件が起きた1623年には、イングランドは日本の平戸商館を閉鎖して撤退している。これは東インド市場からの撤退と軌を一にするが、この事件とは直接の関係はない。平戸は平戸で大きな問題を抱えていた。それは商館の財政破綻だ。すなわち先行するポルトガルやオランダに大きく遅れをとり、売るものがなく商売にならなかった。本国や東インドの拠点バンタムから荷を積んだ船の来航する頻度が減り、やがてはバンタムから撤退する。仕入れがなくなり、商売が見込めなくなっていった。こうした事態を見て本国では東インド市場からの撤退に合わせ、平戸商館閉鎖を決断した。最後まで撤退に抵抗した平戸商館長リチャード・コックスもついに断念し、商館員全員が日本を後にした。日英関係構築の先駆者である三浦按針(ウィリアム・アダムス)も手がなくなっていた。一方のオランダも平戸商館の業績は思ったほどではなく、やはり本国では撤退の議論があった。特に家光の鎖国政策で、オランダが平戸商館を破却して、長崎出島に押し込められることになった時には、本国は撤退を決断した。しかし商館長フランソワ・カロンの抵抗で留まることになり、結果的に240年後の開国まで、唯一のヨーロッパ世界の対日窓口として残ることになった。オランダ商館は、独占的に日本との交易ができたが、一方で商館長の江戸参府、「オランダ風説書」などの商売とは無関係な幕府への情報提供の義務も負っていた。初期の頃のビジネスは主にオランダの東インド交易の後方支援であったと言われている。先述のように、奴隷、日本人傭兵(敗残浪人)の植民地獲得戦争の最前線への供給はオランダにとって有益であった。オランダが「儲からない」平戸/長崎の商館を維持した背景にはこのような事情もあった。東南アジア交易圏における日本人の存在についてはさらなる研究が必要だ。
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| ファン・ノールト艦隊がボルネオ沖で遭遇した日本のジャンク船 (イザーク・コメリン「オランダ東インド会社史」1644年より) |
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| ファン・ノールトが出会った日本人サムライ(傭兵と思われる) (イザーク・コメリン「オランダ東インド会社史」1644年より) |
「東インド会社」というビジネスモデル
オランダとイングランドは、ともにプロテスタント国で、カトリック国のスペイン/フランスに対抗する点で利害が一致する同盟国同士であった。オランダは長くスペインの植民地であったが独立したのは1579年。それまでもアムステルダム、ロッテルダムやアントワープ(現在のベルギー)などの海洋交易都市を抱えていたし、スペインの海外進出に伴われて活躍するオランダ人商人も多かった。一方のイングランドがスペイン無敵艦隊を撃退したのが1588年。島国であるイングランドはスペインの海洋覇権を脱して活発に海に出るようになる。ウィリアム・アダムスがオランダのマフー艦隊の航海士として乗組、日本に到達した例でも分かる通り、イングランド人とオランダ人はともに協働して、スペイン、ポルトガルの後を追うように海外に出ていった。やがて国家として組織的に海外進出を行うために特許会社(国営企業ではなく独占権を与えられた私企業)を創設するようになる。その一つがアジア方面の事業を独占的に扱う「東インド会社」である。エリザベス1世は1600年にイングランド東インド会社を創設し、これに倣って1602年にオランダでも東インド会社が設立される。東インド会社は、世界初のジョイントストックカンパニー(株式会社)であった。海外進出当初の事業形態は、船主の出身地域やスポンサーごとにバラバラに船団を組み、一回の航海ごとに資金を集め、帰ってくると出資金を返還し利益を分配して解散する方式であった。しかし、アダムスのマフー艦隊の例のように、事業として悲惨な結果に終わることが多く、航海によって当たり外れが大きいまるでギャンブルのような事業であった。こうした問題を解決するために、オランダは資本を温存し航海ごとのリスクを分散させるために共同出資方式の連合東インド会社( 都市、地域をまとめた全国ベースの)を設立する。出資金も会社が解散しない限り返還しないので安定的に資本金を保有することができる。これが成功モデルとなり、大規模な船団で継続的な航海ができるようになった。一方のイングランドは、こうした経営改革が進まず、資金不足で規模の拡大ができず、遠洋航海に耐える大型船の建造も進まず、海外拠点の確保もうまくゆかず、なかなか収益を上げることができずに苦戦した。アンボイナ事件はこうした時期にイングランドのオランダに対する劣勢の象徴のような出来事として起きた。こうしたイングランドの劣勢を救ったのは、清教徒革命で王権を倒したオリヴァー・クロムウェルであった。彼がイングランド共和国護国卿になると、オランダ他外国船を海上輸送ルートから排除するための航海条例(1651年)を定めイングランドの航海権益を守るとともに、1656年には東インド会社の再建(株主総会制導入と株主へは配当のみで資本は返還しない)と船団の強化を支援。オランダとの競争力を高めていった。
この頃の交易は、イングランドやオランダが商船で自国産の毛織物などの交易品を持ってアジアに売りに行き、圧倒的に豊かなアジアの富、すなわち香料や、絹、貴重な皮革や、陶磁器や刀剣など高価な工芸品を手に入れる、というものであった。しかし、熱帯や温暖なアジアで毛織物は売れなかった。一方、先行するスペインやポルトガルは、本国の商品を持ち込むのではなく、南米のポトシや日本の石見の銀を手に入れて現地で買い付け、現地で売る、という中国、日本、琉球、東南アジアとの三角貿易で成功していた。このスペインやポルトガルの商圏に割って入る事ができなかった後発のイングランド、オランダは、結局はその「お宝を満載した」商船を襲って財物を強奪する、すなわち「海賊モデル」で利益を得ることになる。このため、商船といえども船団を組み大砲や鉄砲で武装し、また戦闘員も乗船するなど臨戦体制で出航していった。またエリザベス女王から私掠船:Privatiers(要するに海賊行為)許可を得て、いわば「王室公認の武装海賊」として海外に出かけた。東インド会社設立前ではあるが、ドレイクやホーキンス、ローリーが活躍した時代である。同じくキャベンディッシュ艦隊の世界就航で、アカプルコからルソンに向かうスペイン船を襲撃して莫大な財宝を奪い、ロンドンに凱旋して女王に献上した事例や、日本に到達したアダムスの乗船したオランダ船リーフデ号に武器弾薬が満載されていたのもそういった船団の実態を示すものである。日本でキリスト教の布教活動をしていたイエズス会宣教師が、イングランド人やオランダ人は海賊である、アダムスを処刑すべきである、と家康に訴えたのも、単なる反プロテスタント・プロパガンダというだけではなかった。実際そうした事実があったからだ。
しかしこうした「海賊モデル」「私掠船モデル」はいつまでも続くはずもなく、結局はオランダもイングランドも、王権主導の交易独占という重商主義貿易政策を維持しつつ自由主義貿易政策へと移行してゆく。といっても、トランプが保護関税を武器にして壊そうとしている今の自由貿易ではない。東インド(現在のインドネシア)、インド、西インド(現在のカリブ海諸国)北米大陸、の植民地化による資源と市場の収奪を旨とする、いわば「帝国主義的自由貿易」である。東インド会社は、そうした「植民地収奪モデル」の受け皿となっていった。まさにアンボイナ事件は、そうした東インド会社の現地出先である商館(砦)同志の、現地そっちのけの植民地争奪戦であった。そういう意味においては日本の長崎「出島」のオランダ東インド会社「日本支社長崎出島支店」は、日本側の統制下に置かれるという稀有な形の商館であった。またイングランドの東インド会社は、18世紀にはインドの綿布で大儲けするという、いわゆる「キャラコバブル」を経験する。この時の東インド会社総督が、重商主義経済学者としても知られるジョサイア・チャイルドである。自身もインサイダー取引で莫大な蓄財をしている。南海泡沫事件のようなバブル崩壊を経て、独占緩和による自由主義貿易政策へ転換してゆく。一方で18世紀末から19世紀に入ると、東インド会社の役割、機能が大きく変質し、国家に代わって立法権、徴税権、裁判権、軍事力を持って植民地経営を請け負う、いわば「インド統治アウトソーシング会社」化していった。これが1858年まで続いた。東インド会社の歴史的役割についての考察は、また別の機会に譲ろう。
「ナツメグからビッグ・アップル」へ イングランドとオランダの歴史の分かれ道
話を「アンボイナ島」に戻そう。そもそもヨーロッパにおける大航海時代の始まりのきっかけの一つが、この貴重なモルッカ諸島にしか自生しない香料を手に入れることであった。ナツメグやクローブなど貴重な香料を巡るポルトガル、オランダ、イギリスの争奪戦である。これらの香料は、ヨーロッパでは単なるスパイスではなく疫病の治療に有効と信じられていた。他にも肉の保存剤や、解毒薬として重用され、大量の金と交換され莫大な利益を上げることができた。この「スパイス戦争」が展開されたアンボイナ島、バンダ諸島の小さなルン島(上記地図参照、といっても地図にも記述されないほどの小島)は、全島がナツメグの自生地で、争奪戦の主要ターゲットであった。
しかし歴史は時に国家を皮肉な方向へと導くことがある。アンボイナ事件を契機に香料をめぐる東インド市場(現在のインドネシア)から撤退したイングランドは、インドまで後退することを余儀なくされたが、そこで思わぬチャンスを掴む。扱い商品が香料から綿へと変異してゆく過程で、綿の戦略的価値に気づく。以降、イングランドはインドの綿糸/綿布、北米の綿花栽培とアフリカの奴隷貿易を主軸とするようになる。これが、やがてアメリカ植民地での綿花栽培をアフリカからの奴隷労働で賄い、イングランドで加工して綿製品にし、インドという一大消費地に売る、という「グローバル加工貿易モデル」を打ち立てて成功する。このサイクルが製糸、綿織物工業、エネルギー、動力、輸送に必要な技術革新を促し、「産業革命」をリードする世界の工場の地位を確立してゆく。すなわち大英帝国への道を歩み始める。「ナツメグから綿へ」「災い転じて福となす」「転んでもただで起きない」である。
一方のオランダは東インドの香料貿易の覇権を確立したことで、これまた思わぬ運命を辿ることになる。アンボイナ事件をきっかけとするイングランドとの3度にわたる戦争が起き、最初はオランダ優位に進んだが、フランスの介入など度重なる対外戦争でオランダ本国の凋落が始まる。それに伴い東インドなど海外植民地を一時的にイングランドなどに奪われることになるが、やがてそれを取り返す。その象徴とも言える「取り替えっこ」ディールがあった。第二次英蘭戦争終結の1667年ブレダ条約で、先述のバンダ諸島のルン島(ナツメグの一大産地)がイングランドからオランダに返還され、代わりに北米大陸のマンハッタン島(ニューアムステルダム砦)がイングランドに割譲される。この時点では、オランダは念願の香料産地を取り戻すことができ、イングランドはナツメグの産地を放棄して、寒冷で不毛の島、マンハッタン島を手に入れるという残念な取引:Dealであった。英蘭戦争は必ずしもイングランド優位の戦いではなかったことがわかる。しかし、周知の如くこの不毛のニューアムステルダム砦は将来のニューヨークとなる。そして先述のような綿花生産、貿易での北米植民地の発展という大化けにつながることになる。この取引:Dealを、イギリスのノンフィクション作家のジャイルズ・ミルトンは、彼のベストセラー小説「スパイス戦争」Natherniel's Nutmegの中で、「ナツメグからビッグ・アップルへ」と表現している。さらに香料は、イングランド人がその種子をモルッカ諸島から持ち出してシンガポール、セイロン島など他の交易に適した場所のプランテーションでの栽培を可能にした。モルッカ諸島領有の戦略的重要性が失われ、香料そのものの希少性も薄れて市場価値が急落することになる。「スパイス戦争」の時代が終わりを迎えようとしていた。
16世紀末から17世紀初めには手を携えてスペイン、ポルトガルに立ち向かって海外に進出したイングランドとオランダ。イングランドがこの後大英帝国への道を歩むことになるのとは対照的に、オランダ海洋帝国の覇権は衰えを見せ始める。17世紀の3度の英蘭戦争と、18世紀のアメリカ独立を支援するオランダとの第4次英蘭戦争。さらにフランス革命後はフランス共和国の支配を受け、バタビア共和国に。やがてフランス第3帝政のルイ・ナポレオン時代にはフランスの衛星国オランダ王国に。そして1810年にフランス直轄領ネーデルランドとなる。ちなみに、19世紀の長崎オランダ商館は、正式にはフランス領・ネーデルランドの出先であった。日本人がどの程度までそうしたオランダの実情を認識していたかは不明であるが。オランダはその後再び独立を獲得し、第二次大戦までオランダ領東インドとして植民地支配をし続けた。そして第二次世界大戦では(あのオランダ人に嵌められて虐殺された日本人傭兵「七蔵」の故国)日本に占領される。日本の敗戦で植民地を回復したものの、この日本のオランダ駆逐がきっかけとなって、インドネシアの独立運動でオランダの300年余にわたる苛烈な植民地支配は終わりを迎える。ちなみにこの独立闘争に日本人現地残留兵が参加している。
付記:イングランドの17世紀
17世紀のイングランドは、チューダー朝最後のエリザベス1世、スチュアート朝ジェームス1世、チャールズ1世、清教徒革命でクロムウェル護国卿、王政復古でチャールズ2世、ジェームス2世、名誉革命によるウィリアム3世/メアリー2世と100年間に目まぐるしく君主/元首が変わった。カトリック、国教会、非国教会プロテスタント(ピューリタン、プレスビテリアン)という宗教対立。イングランド、スコットランド、アイルランドの「三王国戦争」という激動の時代であった。一方、上述のように、対外的にはスペイン、フランスというカトリックの大国の脅威のもと、プロテスタント国で同盟国であったはずのオランダと、やがて海外進出をめぐって激しい覇権争いを展開し、3度にわたって戦争した時代であった。しかし、第3次英蘭戦争終決の手打ちの証として、1677年に政略結婚したオランダのウィレム3世とイングランドのメアリー2世が、1688年にはイングランドの共同統治者としてロンドンに凱旋する(いわゆる「名誉革命」)。なんとも皮肉というか理解に苦しむ英蘭関係だ。こうしたイングランドを取り巻く複雑に絡み合った国内外のカオスが大英帝国萌芽の時代を形作っていたのであった。我々日本人は古事記の創世神話になぞらえて、「天沼矛(あめのぬほこ)」でこのカオスをかき混ぜると、その矛先から滴り落ちた雫の中から、近代国民国家、民主主義、自由貿易体制、そして帝国主義が生まれたのだと理解することにしよう。
参考(1)英蘭戦争とは
イングランドとオランダの海洋覇権をめぐる争いで、基本は艦隊同士の海戦であって陸上戦はなかった。また18世紀になってアメリカ独立戦争をめぐるオランダとの戦争が起こるが、これを第四次英蘭戦争とみる歴史家と、これは別の出来事と見る歴史家に分かれる。
第一次英蘭戦争(1652〜1654)
クロムウェルの航海条例によるオランダ船の輸送ルート排除とこれに抵抗するオランダとの戦い ジェームス1世時代のアンボイナ事件の補償を求める ウェストミンスター条約で停戦
第二次英蘭戦争(1665〜1667)
王政復古後のチャールズ2世の時代 国王の弟ヨーク公(のちのジェームス2世)参戦 フランスがオランダと同盟 しかしペスト、ロンドン大火で厭戦 ブレダ和約で終戦 イングランドはバンダ諸島放棄、代わりに北米ニューアムステルダム割譲(「ナツメグからビッグ・アップルへ」)
第三次英蘭戦争(1672〜1674)
フランスのオランダ侵攻 チャールズ2世はフランスに加担して参戦 国民の戦争反対、議会の親仏路線への抵抗 ウェストミンスター条約でオランダと和睦 その証として1677年にオランダ・ウィレム3世にヨーク公(のちのジェームス2世)娘メアリー(のちのメアリー2世)政略結婚 皮肉にもこれが「名誉革命」の布石となった
| 第一次英蘭戦争 |
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| 第二次英蘭戦争 |
参考(2)ジョン・ドライデンの詩劇「アンボイナ」。
事件から50年後の1673年、チャールズ2世がフランスのオランダ介入を助けるために参戦した第三次英蘭戦争の只中、反オランダ機運を盛り上げる「アンボイナ事件」を題材にした悲劇をドライデンが発表し話題になった。古書を巡る旅(60)ドライデン劇詩集。しかし、議会は国民の不満を背景にこの戦争に反対し、1674年にウェストミンスタ条約で停戦した。その和睦の証がウィレム3世とメアリー2世の結婚であった。
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| JR大井町駅 |
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| 空には羽田着陸の飛行機が、地上には高層ビル建設のクレーンが |
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| 東急大井町線駅に隣接する「大井町TRUCKS」 |
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| それにしてもどこも変わり映えしない「規格品のプレハブビル」ばかり |
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| JR大井町駅と東急大井町駅 品川駅方面を展望 |
| 「東小路」入り口 |
| この人気店も火事に見舞われた |
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| ドライデン肖像と表紙 |
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| 総革装エンボスの大型本 |
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| 第1巻表紙 |
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| 第二巻表紙 |
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| ドライデンの真骨頂「劇詩論」 |
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| 1623年の「アンボイナ事件」を題材にした悲劇 |
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| John Dryden (1631-1700) |
ジョン・ドライデンとは
著者のドライデン:John Dryden(1631-1700)は、17世紀後半、イングランドの王政復古時代に古典主義文学の大御所として名声を博した人物である。多くの詩・韻文、戯曲、批評、翻訳を発表し、この時代はのちに「ドライデンの時代」と呼ばれた。1668年には王室桂冠詩人に、また1670年には王室年代記編纂官に選ばれる。しかし、そのような名声と裏腹に、彼はその時代の権威者のもとで主流となる政治信条、宗派を信奉するなど、日和見主義者との批判も受けたことでも知られる。クロムウェルが護民卿となりイギリスで初めての共和制を引いた時には、ケンブリッジを出たばかりのドライデンは、彼自身がピューリタンの家系に生まれたこともあり、クロムウェル政権を熱烈に支持しその共和制政権に加わった。1658年にクロムウェルが亡くなると、彼の葬儀に共和主義者であったジョン・ミルトン:John Milton (1608-1674)と共に参列し、彼を礼賛する頌徳文「Heoique Stanza」を捧げている。しかし1660年に王政復古でチャールズ2世が亡命先のフランスから帰国しイングランド王に即位すると、今度は新国王に祝意を表すため「Astraea redux」を献辞している。さらにチャールズ2世の弟で、カトリックを信奉するジェームス2世が即位すると、カトリックに改宗している。しかし、1688年のいわゆる名誉革命でジェームス2世がフランスへの亡命し、代わってプロテスタントのオレンジ公ウィリアム(ウィリアム3世)とメアリー2世が即位すると、イギリスにおける政治体制が立憲君主制へと移行し、国教が英国国教会となる。ドライデンはカトリックから改宗しないまま王室桂冠詩人の地位を失う。ドライデンはその政治的キャリアを失い失意の人となったが、その後も強かに作品を発表し続けた。彼は時勢に阿る道徳的に劣った人物であったのであろうか。いや、統治者が激変する不安定な時代としては普通のことだったのだろう。ちょうどジェームス1世時代の知性であったフランシス・ベーコンがその時の王権にへつらう宮廷官僚であり、同時に偉大なる哲学者であったように。
「ドライデンの時代」は、1660年の王政復古:Restration後の文芸、演劇が活況を呈した時代である。その中心にドライデンがいた。クロムウェル共和政時代は、清教徒的な禁欲主義政策で劇場や演劇が衰退した時代であった。エリザベス朝文化の精華とも言うべき、シェークスピアやベン・ジョンソンすらも演じられなくなる。しかし、チャールズ1世の帰国と王政復古により、停滞していた演劇を中心とする文芸活動が一斉に復活し、音楽界ではヘンリー・パーセル:Hnery Purcellのような天才が見出される時代であった(古書を巡る旅(59)Orpheus Britannicus by Henry Purcell)。むしろ贅沢三昧の宮廷の風潮を背景により享楽的、退廃的な風刺詩や劇が生まれるなど一種の反動の時代と言って良いかもしれない。こうした時代にドライデンは多くの叙事詩や英雄詩や、時代を辛辣に語る風刺詩:Satierで名声を博した。1667年にはペスト流行、ロンドン大火災、そして第二次オランダ戦争という時代の空気を謳った叙事詩『驚異の時代』:Annus Milabilisを。また『劇詩論』:Dramatic Poesies(本書収録)により画期的な演劇評論を展開し、この時代の文壇の大御所の名を欲しいままにした。そうした活躍から1668年には「王室桂冠詩人」に選ばれた。60年代から70年代にかけては劇場用作品の執筆が中心で、彼の作家としての主な収入源となった。『当世風結婚』:Marriage A-La-Mode1672のような喜劇や、当時のオランダとの海洋覇権をめぐる戦争を背景にした歴史悲劇『アンボイナ』:AMBOYNA 1673、『全て恋ゆえに』:All for Love1677などの悲劇が代表作で成功を収めた。また敬愛するミルトンの叙事詩『失楽園』の劇詩化に取り組み、The State of Innocent 1674~1677を発表する(古書を巡る旅(21)ミルトン「失楽園」)。一方で劇作家としての名声が高まるとともに、むしろ劇場外で詩人としての名声を得ようと努力した。『アブサロムとアキフェルト』1681のような風刺詩において秀逸な作品を残した。1682年には国教会の立場からイエズス会とカルヴィニズムの両極端を批判する風刺詩『平信徒の宗教』:Religio Laiciを発表。その直後にかカトリックに改宗する。また、当時シャフツベリー卿により主導された反王党派のホイッグ党を批判する風刺詩『メダル』:The Medalを出している。ドライデンは王党派の詩人である。しかし彼が開いた独特の風刺詩の境地、文芸批評は、同時代のアレクサンダー・ポープ:Alexander Pope (1688-1744)や、後世のサミュエル・ジョンソン:Samuel Johnson (1709-1784)に大きな影響を与えた。ジョンソンは彼を「イギリス文学批評の父」と賛美した。またオペラや歌曲として後世に名を残すことになるドライデンの劇詩作品も忘れてはならないだろう。同時代のヘンリー・パーセルとの共作であるオペラ『アーサー王』:King Arthur 1691年のほか、ヘンデルが1736年にドライデンの詩を原作とした『アレキサンダーの饗宴』:Alexander's Feastを作曲。これは『メサイア』に並ぶヘンデルの代表作の一つとなっている。
このように「ドライデンの時代」とは、王政復古後のイギリスの文学の一つの頂点の時代であった。それはシェークスピアやミルトンという時代の画期を成した人物の次に現れたドライデンのそれであった。しかし、先述のように、彼の評価はその時代の政治情勢や宗教対立と無縁ではなかった。ミルトンに心酔しクロムウェル共和制を支持したピューリタンのドライデンは、王政復古とともに王党派の詩人となった。そしてカトリック王ジェームス2世の即位とともにカトリックに改宗する。ゆえに名誉革命で失脚する。まさに「ドライデンの時代」は「イギリス革命の時代」と表裏一体であった。「知性受難の時代」と言っても良いかもしれない。同じく激動の時代に巻き込まれた哲学者/大法官ベーコン(徹底して王権に追従し、ポープが「最も偉大で最も卑しい人物」と評した)や、詩人ミルトン(ピューリタン、共和主義者を貫き王政復古後悲惨な晩年を送った)のような後世に受け継がれる名声をドライデンは勝ち得たのだろうか。ドライデンは、ベーコンやミルトンのように「政治的敗者」となっても「知性の勝者」となったといえるのであろうか。あるいは19世紀ロマン主義時代にも名声を勝ち得たポープとはどこが違ったのか。時代の寵児、ビッグネームがのちにイギリスで久しく忘れられることになる。彼が再び評価されるのは20世紀に入ってからである。その歴史的評価は如何。文学的評価は如何。
日本におけるドライデンの受容
我々日本人にとって、ドライデンは比較的馴染みの薄いイギリス作家である。シェークスピアやミルトン、ポープの作品は知っていても、現代まで語り継がれる彼の代表作は何かと問われると思いつかないだろう。なぜなのか?イギリスにおいても、19世紀ビクトリア朝時代には、17世紀の詩人といえばポープの方が評価され、ドライデンは取り上げられることが少なくなっていた。その再評価がなされたのは20世紀になって、アメリカのT.S.エリオット:Thomas S. Elliott (1888~1965) が、ドライデンの政治的、宗教的変節にもかかわらず「ドライデンの存在が全ての18世紀のイギリスの詩の元祖であり、彼なくしてイギリスの数百年に及ぶ詩の歴史を正しく評価することはできない」と礼賛したことによると言われている。したがって19世紀後半(明治期)に欧米の文化を盛んに取り入れた日本では、御雇外国人教師でドライデンを取り上げることも稀であった。ドライデンの作品や業績があまり伝わることもなかった。したがって翻訳者も研究者も少なかった。英国留学で多くの英文学作品を研究し、持ち帰った夏目漱石もドライデンをほとんど取り上げていない(東北大学所蔵の「漱石文庫」には後世の評伝が一冊あるのみ)。シェークスピア作品全巻の翻訳を手がけ、日本の近代演劇の祖ともいうべき坪内逍遥もドライデンの劇詩、演劇評論を取り上げていない(翻訳論でドライデンの影響を受けたとする研究がある。「坪内逍遥におけるドライデン受容の研究」佐藤勇夫1981年)。東京帝国大学英文科の初代教師、ラフカディオ・ハーン(小泉八雲)の英文学講義では、ドライデンを取り上げているが、ミルトンとポープの間に挟まれた存在と紹介しており、偉大ではあるが、何かを生み出した(invent)イノベーティヴな詩人と言えるのか、と厳しい評価を下している(小泉八雲『英文学史』北星堂書店1970年刊)。ビクトリア朝イングランドのドライデン評価が端なくも明治期の日本の文学界に映し出されている。今でも日本におけるドライデン研究者は多くない。彼の著作の翻訳もその名声に比して多いとは言えない。最近では、ドライデンを翻訳論や演劇評論の研究対象として取り上げる研究者がいる(「劇詩論研究」2006九州大学芸術工学研究院・大島久男)。ドライデンは詩人、劇作家としてだけではなく、先述のようにギリシア、ローマなど古典の翻訳家としても活躍し、また演劇評論やジャーナリズムのなかった時代に演劇批評家としても活躍した。彼の『劇詩論』は現代の演劇論、演劇批評のルーツとして、あるいは古典翻訳方法論の開拓者として評価する研究が進んでいるようだ。今回の書籍を「発掘」紹介していただいた北澤書店の先代の店主、北澤龍太郎氏は、東京帝大英文科出て、お茶の水女子大学や都立大学で教鞭をとった英文学者で、日本では数少ないドライデン研究者であった。今回、そんな北澤書店にゆかりある由緒ある古書を手にすることができたのは誠に光栄であり、この歴史的な書籍を後世に次いでゆく責任を痛切に感じる。
職業作家と出版事業者の出現
ところでドライデンは王室桂冠詩人という栄光の座を追われてから、どのように著作活動を継続できたのだろう。桂冠詩人は国や宮廷のためにかなりの量の詩作を求められる代わりにその名誉と収入が確保(大した額ではなかったとも言われるが)されていたわけだが、桂冠詩人の地位を追われるということは、作家として詩人として収入の途が閉ざされることになるわけだ。この頃から詩作から離れて戯曲、翻訳(翻案)作品に力を入れた。しかし、戯曲の方はあまり成功せず、収入が乏しかったようだ。そこで転じて古典作品の翻訳家として、1697年ローマ時代の『ウェルギリウス全集』:The Works of Virgil、ホメロス、ホラチウス、ボッカチョ、チョーサーなどの古典の翻訳、韻文で翻案した『古今寓話集』:Fables, Ancient and Modern 1700年を出す。以前のブログ(古書を巡る旅(17)「聖フランシスコ・ザヴィエル伝」)で紹介した『ザビエル伝』1688年もこうした翻訳作品の一つである。こうした作品を世に売り出せるようになった背景に、新たに台頭してきた出版事業者の存在がある。
この時代は出版事業が発達して、文筆を生業とするいわば職業作家が生まれた時代である。それまでの17世紀中葉(清教徒革命以前)は、詩や散文などの文芸作品は貴族や聖職者などの上流階層の嗜み、あるいは政治的な意思表明の文書として書かれ、出版人は存在したが、限られた上流階級コミュニティーに配布されるにとどまり、それを多くの人々が読むことはこと稀であった。また印刷法という出版を統制する法律やそれを執行する星室庁などの言論統制機関があって、文芸作品や政治的なパンフレットを誰もが自由に印刷したり出版したりすることはできず、出版事業は宮廷や教会とそこにつながる印刷、出版人(組合)が取り仕切る世界のものであった。詩作や論文、そして出版は密接に政治や宗教にリンクしていた。しかし、これを壊し「出版・言論の自由」の空気を生み出したのが1649年の清教徒革命であった。この革命は、先述のようにピューリタン的な禁欲主義の影響で、演劇や音楽、文芸活動の衰退を招いたが、一方で、皮肉なことに王政復古後、いわば「出版の自由」の勢いに火がつき、結果的に読者層も新興のジェントリー層や都市富裕層などに拡大し、商業活動としての出版事業が成長産業になっていった。先述の印刷法も星室庁も1696年には廃止される。こうした規制緩和と宮廷や貴族といったパトロン、政治や宗教といった束縛からの脱却により、作家にも自由な著作活動と出世のチャンスが生まれ、いわば新たな「文芸復興」の時代になっていった。同時代の詩人、アレクサンダー・ポープはその一人であったと言われる。彼はドライデンに影響を受けた当代一流の詩人であったが、桂冠詩人でも、宮廷の官僚の地位にあったわけでもないので、自由な立場から批判的詩作、彼独自の視点による古典翻訳に取り組み評価を得るようになっていった。当然、有力なパトロンも少なく経済的には困窮していた。しかし、ポープは『イリアス・オデッセイ集』の翻訳や、『シェークスピア全集』の編纂などの大作を出したことでも知られ、その収入で生計を立てることができた。これを可能にしたのは出版・販売事業者:Publicher/Booksellerの存在である(この頃は出版と書店が未分化であった)。ポープは出版事業者と手を組み、作品の原稿を書くときに、事前に予約を募りお金を集め、出版時に予約者に本を売るという方法をとった。出版人にとってもそれを元に印刷業者:Printerに発注できる。また出版人に代わって作家自体が売り歩くわけで、富裕層を新たな読者層として開拓できるメリットがあった。17世紀のクラウド・ファンディングと言っても良いかもしれない。
ドライデンとトンソン
桂冠詩人の地位を失ったドライデンもこのモデルを取り入れて、すでに得られていた名声を生かして第二の創作活動人生を歩んだ。ロンドンの著名な出版人で、のちに「近代出版事業の父」と呼ばれたジェイコブ.トンソン:Jacob Tonson(1655-1736)と組んで、ミルトンの『失楽園』舞台版などを売り出した。先述の『ザヴィエル伝』もトンソン出版だ。今回紹介する本書もドライデン没後の1701年にトンソンにより出版、販売されたものである。この二人は新しい出版企画を生み出し、まず共同作品とも言うべき『ドライデン・トンソン版英国詩歌集』全6巻:The Dryden-Tonson Miscellanias 1684-1709を世に出す。これはドライデンを編集者としたアンソロジー集である。続いて先述の『ウェルギウス全集』『古今寓話集』といった古典の翻訳、翻案作品の出版を手掛けた。トンソンはドライデンを著名編集者として売り出し、複数の選者や訳者を集め、連載シリーズで出版する。いわばサブスク型の出版物を生み出した。ドライデンはこの出版で多額の報酬を得ることができたし、出版が商業的にも成功を収めることができる事業であることを証明した。もっともドライデンの方は自分の取り分が少ないとトンソンにクレームする手紙が残っているようだ。ともあれトンソンは出版事業の新しいビジネスモデルを作った人物と言われている。また、この頃になると著作権や版権概念が生まれ、シェークスピアの版権を買い取るなど事業を拡大し、当時の文化サロン「Kit-Cat Club」を創設したことでも知られる。これまでの宮廷や教会、それと結びついた出版事業者というクローズドな世界、パトロン依存の芸術や著作活動から脱却する、いわばイギリスにおける新たな出版文化の開花といっても良いかもしれない。ちなみに今年の「大河ドラマ」の主人公として話題となっている江戸の出版人にしてプロデューサー、蔦屋重三郎出現の100年前の話である。蔦重こそ、日本における太田南畝、滝沢馬琴、十返舎一九などの初めて職業作家を産み育てた人物である。
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| Jacob Tonson (1655-1733) |
(巻1)
An Essay of Dramatic Poesie :劇詩論 1668
The Wild Gallant 野生の色男 1663
The Rival Ladies
The Indian Emperour, or The Conquest of Mexico 1665
Secret-Love, or The Maiden Queen
Sir Martin Marr-all, or The Feign'd Innocence
The Tempest or The Enchanted Island テンペスト 1667 シェークスピア作品の翻案
An Evening's Love, or Mock-Astrologer 1668
Tyrannick Love, or The Royal Martyr 1669
The Conquest of Granada グラナダの征服 1670
Marriage A-la-Mode 当世風結婚 1672
The Assignation, or Love in a Nunnery
AMBOYNA アンボイナ事件 1673
The State of Innocence and Fall of Man ミルトン「失楽園」のオペラ台本 1677
(巻2)
Aurenge-Zebe or The Great-Mogul ムガールの大王 1675
All of Love or The World well Lost アントニーとクレオパトラの翻案 1677
Limberham or The King Keeper
OEDIPUS 1679
Troilus and Cressida, or Truth Found too Late
The Spanish Fryar, or The Double Discovery
The Duke of GUISE
ALBION and ALBANIUS 1685 オペラ台本
Don SEBASTIAN King of PORTUGAL 1690
AMPHITRYON 1690
CREOMENES The Spartan- Hero
King ARTHUR, or The British Worthy アーサー王 1691 ヘンリー・パーセル作曲セミオペラ
Love Triumphant, or Nature will Prevail
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| 西がJapon:日本, その東にある島がLugnagg:ラグナグ ちなみに「ガリバー旅行記」に出てくる国々はJapon:日本以外はどれも架空の国 |
不老でない不死。老いさらばえて「その結果積み重なった無駄に強大な自尊心で周囲を見下す低俗な人間」。「人を人として尊敬しない人間」。こんな人間で満ち溢れ、彼らにコントロールされる世界。死こそが人間に与えられた救済だという。このカリカチュアライズされた世界こそディストピアだ。18世紀の作家、ジョナサン.スイフトの強烈な皮肉を21世紀に生きる我々はどう受け止める?
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| パーセル肖像と第1巻表紙 |
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| フルカーフ革装の大型本である 2巻合冊 |
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| 第1巻第2版表紙 |
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| 第2巻表紙 |
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| ジョン・ドライデンの追悼詩:Odeが掲載されている |
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| 歌曲リストと楽譜 |
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| Jill FeldmanによるOrpheus Britannicus歌曲集CD |