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2026年1月10日土曜日

日本文化とは何か? 〜外来文化の受容と変容の歴史(2)〜

 

鉄道という西洋近代合理主義の産物を受容し日本的な精緻さで変容するとこうなる?
河鍋暁斎の鉄道絵図(神奈川県立歴史博物館蔵)
北亜墨利加合衆国帝王献上貢物品(品川歴史館蔵)




「西洋近代合理主義」はどのように受容され変容していったのか?

前回のブログ(2025年12月27日 日本文化とは何か?〜外来文化の受容と変容の歴史(1))では、紀元前10世紀頃に始まると言われる稲作農耕文化の流入。5〜6世紀の儒教、仏教の伝来と受容と変容。16世紀のキリスト教の伝来と排除。そして19〜20世紀の西洋合理主義思想の受容。日本文化の3000年の歴史を駆け足で見てきた。明治期の「文明開花」と戦後の「民主化」。これもいずれも外からやってきた文化である。いわば西洋からやってきた「近代合理主義」教の伝来である。明治維新から150年、終戦から80年。このインパクトはまだ我々日本人には生々しい歴史体験として記憶されている。「惟神の道」「儒教」「仏教」という東洋思想に、「近代合理主義」という西洋思想は、どのように受容され変容してきたのか。歴史的時間軸で見るとまだ味わいつつ咀嚼している途上にあると言わざるを得ない。伝統だと思っている東洋的な価値観や習俗と、最近入ってきた西洋的な価値観、習俗との間のギャップはまだ解消されていない。少なくともこの変容は、既存文化を置き換えるフェーズ転換ではなさそうだし、徐々に上書される漸変的転換、いや日本独特の「習合」なのかもしれない。

ヨーロッパにおける神学から哲学へ、神の摂理から人間の理性へ、経験主義的思考を経た哲学や科学の進化。さらに産業革命の中から生まれた科学技術。そこから生まれた社会契約概念、法の支配、議会主義、民主主義、人権、自由平等、そして市場主義経済。このような近代合理主義思想は、西欧諸国の長い歴史の中から生まれてきた。そしてその具体的な成果は市民が戦いの中で獲得した権利であり理念であり市場である。それが19世紀の日本に、科学技術、法律、政治・経済・社会制度という形で怒涛の如く入ってきた。戦後はアメリカから民主主義と個人主義、グローバル・スタンダードと称するルールが入ってきた。いわば歴史的な獲得闘争を経験せずに結果だけがもたらされた。外から「与えられたもの」という人もいる。奇しくも21世紀の世界ではその西洋的合理主義価値観が大きく揺らぎ始め、歴史を巻き戻す動きが出現。先行きを見通すことは難しい状況になっている。正月早々、まさかという驚天動地のニュースが飛び込んでくるご時世だが、敢えて少し立ち止まって歴史を振り返り、あの外来文化の「受容」と「変容」の実相にふれ、来し方行末に思いを馳せてみるのも一興だろう。

ということで話を明治に戻そう。伝えた本家である西欧諸国の側から見た日本の「近代化」「文明開花」はどう見えたのか。「文明開花」とは「キリスト教化」することである。と信じて疑わなかったヨーロッパ人にとって、日本の「キリスト教化」しない「文明開花」はどのように見えたのか。受容し変容させたという日本文化、それを行った日本人の特質をどう見たのか?今回は明治期のお雇い外国人、ジャパノロジストのバジル・ホール・チェンバレンとラフカディオ・ハーンの、彼らが見た「受容」と「変容」の日本とは?を取り上げてみたい。前回と同様、彼らの「神と人間」という視点を「日本的なものとは何か」を考える縁(よすが)にしてみたい。


' Things Japanese ' 『日本事物誌」by Basil Hall Chamberlain in 1905

' Japan An Interpretation ' 『神国』by Lafcadio Hearn in 1904


(1)バジル・ホール・チェンバレンの Things Japanese:『日本事物誌』

以前のブログでも紹介した1905年版の『The Things Japanese:日本事物誌』序文で。チェンバレンは、現在(1905年当時)の日本を「古い日本は死んで去ってしまった」「日本は静かな家長制の中からやかましい西洋の競争の中に移された」と評している。1905年といえば革命(明治維新)から37年、日清、日露戦争に日本が勝利し世界を驚かせた時期である。これまでの西洋人の日本観は、「妖精の住む小さくて可愛らしいロマンチックな国」であり「繊細な芸術品に満ちたエキゾチックな国」であり、「素晴らしい進歩が起きている国」だが「このまま変わってほしくない国」だった。しかし気がつくと急激な大変化に直面、「日本は軍事的にも経済的にも西洋の脅威になるのではないか」と心配し始めた時である。「黄禍論」が叫ばれたのもこの頃である。チェンバレンは、「同じ人間が、ある時は日本の進歩を激賞したかと思うと、今度は日本がやり過ぎないかと心配する」。勝手なものだと。西洋人の日本に対する「エキゾチックな幻想」へのこだわりを批判するとともに「急速に変わってしまった日本」の脅威論にも異議を唱えている。もっと日本を冷静かつ客観的に観察せよというわけだ。「教養ある日本人は彼らの過去を捨ててしまっている。彼らは過去の日本人(部分的には今も過去の日本人なのだが)とは別の人間になろうとしている」と評しつつ、一方で「日本は捨てた過去よりも、残している過去の方が多いことは極めて明瞭である。革命(明治維新)そのものが極めてゆっくりと成長し、成熟していっているのだから」。そして「国民の性格は依然としてそのままであり、本質的には少しも変化していないのである」。「昔の武士階級の知的訓練は儒教の古典を暗誦することであった。その素養を育んだ彼らの息子達は、今日では西洋の科学の教えを受けている」として学びの基礎が変わっても知性の継承が行われていると述べている。また「日本人の外国を模範として真似するという国民性の根深い傾向は、12世紀前の行動を今日も同じく大規模に繰り返しているに過ぎない。あの時は中国文明に飛びついたが、今日では我々に飛びついている」。この辺りは皮肉満々である。古書を巡る旅(12)2027年7月10日チェンバレン著『The Things Japanese:日本事物誌』

「日本は昔の日本ではない。しかし日本人の性質は昔のままである」。こうしたチェンバレンの論評はヨーロッパ人読者に向けられている。「日本に対して昔の幻想を抱くのではなく、日本の西洋文明の受容と変容の実態を良く見よ!そしてヨーロッパがより深く日本について研究をできるよう、本書で諸問題に対する考え方を提示したい」としている。一方で日本人にとっては、「外来文化の受容と変容」という「日本らしさ」の本質とはどのようなものなのか。ヨーロッパ人研究者の目という写鏡で己の姿を見る機会が与えられたのである。まさに今まさに「激動の時代には何が起きるのか」「自己を見失わないようにするためにはどうすれば良いのか」を考えるための示唆に富む分析が散りばめられている。

チェンバレンは「日本事物誌」の中で「神と人間」という視点で日本文化について論評している。前回ブログでの折口信夫の「神と人間」論評と対比して読むと面白い。要約して紹介したい。

神道:

神道は宗教として言及されるが、宗教に値するものではない。まとまった教義もなく、聖書、経典もなく、道徳規約もない、習俗や慣習あるいは政治的儀礼と言って良い。最初期には神道という呼称すらない自然崇拝、祖霊崇拝であった。仏教が入ってきた6世紀以降に、(仏教に倣って)宗教的な形態(文字化された祝詞、拝殿を伴う神社建築)をとり始めた。そして仏教と習合していった。18世紀の江戸中期になると仏教や儒教などの外来宗教を排した「日本古来の」宗教として神道を位置付けようとしする動きが起こり、古事記注釈などの国学盛んになる。これがのちに幕末の尊皇攘夷、明治の国家神道の源流となる。しかし、神道が儒教や仏教の影響を受けていない日本古来の宗教であるという主張には無理がある。近代の神道は仏教と儒教に深い影響を受けているし、神道の聖典とされる古代の古事記すら中国文明の影響が色濃く見られるのは明白である。

儒教:

儒教は仏教より早い時期に日本に伝わった。孔子はあらゆる形而上学的飛躍を避け、宗教的な陶酔(神秘主義)に陥ることがなかった。宗教というよりは、主君への忠誠、親への孝行といった社会秩序を重んじる道徳観を説く、いわば政治の細部にわたる実践と道徳倫理の思想であった。日本の社会は今でもこの「忠」と「孝」という二本の基本的徳目で組み立てられている。仏教思想が広まっていった時期以降は、儒教は休眠期となり影を潜めていたが、江戸時代に徳川家康が儒教を重んじ、徳川幕府が儒学を官学としたことで復活した。支配者や親への盲目的服従という教えが古い封建的な思想に完全に適合したからだ。この頃には多くの著名な儒学者(伊藤仁斎、新井白石、荻生徂徠などの)が現れたが、儒教思想体系を発展させたり修正、変更したり、いわば日本的に「変容」する独創性はもたず、ただ忠実な解説者に過ぎなかった。したがって日本人の著した翻訳書や注釈書で読むに値するものは一つもない。明治以降の学校教育の改編までは教育の主要な伝達手段として続いたが、現在ではほとんど顧みられなくなってしまった。

仏教:

日本では長く国教的に扱われてきたが、不思議なことに一度も仏典の和訳が試みられた形跡がない。僧はサンスクリット語原典の漢訳のまま経を唱える(漢文の読み下し)。一般信徒は仏典を読めないし僧の読経に唱和するのみである。これは聖書が各国語に翻訳され誰でも読み親しむことができるキリスト教とは異なる点である。仏教は信仰というよりは哲学的な思想を持っているのだが、日本人は仏教の複雑な形而上学にはほとんど興味を示さなかった。しかし長く日本における文化形成と教育に大きな影響力をもった。哲学を除き信仰という点ではキリスト教と大きな違いがある。仏の恵み(慈悲)は無常を知って悟りを開くことによって受けることができる。キリストが身代わりとなって(救世主となって)受難したから人は救われるというものではない。仏道は、ただ自己滅却(煩悩解脱)により涅槃の境地に入ることが目的であって、キリスト教のような永遠の生命が目的なのではない。仏教の教えによれば絶対最高神や宇宙の創造神を否定する。日本に伝わったのは多神教的な仏教(大乗仏教)である。これが日本古来の神々(八百万の神々)との習合が進んだ理由である。

キリスト教:

16世紀にイエズス会ザヴィエルによって布教された。苦難の布教活動の成果が実り、一定規模の信者を獲得したが、結果的にはキリスト教は排除され受け入れられなかった。日本は禁教令を出し長い鎖国という微睡の時代に入った。この間日本でキリスト教は新しい信者を獲得することができなかった。明治になって禁教令が解かれ再びキリスト教が日本に入ってきた。カトリックだけでなく聖公会やプロテスタント各派が競って布教伝道活動を行っている。日本の近代化に大きな影響を与えたのは近代合理主義(科学や産業主義)とキリスト教である。しかし、伝道者たちの努力にもかかわらず現代でもキリスト教信者が増えないのは、布教活動がアジアにおける帝国主義的支配の先駆けとなることを求める本国の姿勢によることが大きい。これは16世紀におけるイエズス会やフランシスコ会などの布教活動が、本国スペイン・ポルトガルによる異民族の搾取、略奪、異教徒の文明破壊という領土拡大野望に利用されたのとあまり変わっていない。

日本人の信仰心について:

「日本人には信仰心がないのではないか」。これは多くの西洋人が異口同音に語ってきたことである。日本人は神社参拝と葬式仏教を何の違和感もなく日常的に行なっている。西洋キリスト教文化圏の信仰では考えられない事だ。しかしこれが直ちに日本人に信仰心がないということにはつながらない。これにラフカディオ・ハーンは猛烈に反対している。ただ一神教的な信仰の形がないだけで、我々には習慣とか習俗、儀式としか思えないような形で信仰心が表されているのだ。日本には「八百万の神々」がおり、一木一草にも神が宿っているのである。

「武士道」という新宗教:

チェンバレンは、日本が西洋文化礼賛、一等国へと突き進む中で、やがて日露戦争を境に、徐々に西欧文明一辺倒への懐疑に転じ、やがて、ひょっとすると西欧人よりも日本人の方が優れているのでは、強いのではという国粋的、愛国主義的ムードを高めてゆく。そういう変化を鋭く読み取っている。一心不乱に富国強兵、殖産興業に突き進み「一等国」を目指した先に見えた西洋文明への幻滅、不信感。そこから沸き起こり始めた「新たなる尊王攘夷」「国粋主義」「帝国主義」「民権から国権」というムーヴメント。その中で話題となりもてはやされている「武士道」は、つい数年前までは語られたことのない新思想であると彼は分析する。元々は武士の精神であったものが、革命(維新)で武家政治を否定し、武士を廃止し、その忠誠心を天皇に向けたにもかかわらず、新たに天皇(武人ではなく文人であるはずの)への忠誠心のために、「忠君愛国」「軍国主義」に向けた精神として、(武士でもない)庶民に「武士道」精神を押し付けている。これは西洋文化に対抗するために生み出された新たな「宗教」である。この「新宗教」を唱導したキリスト教徒の新渡戸稲造はそうは考えていなかったようだが、彼の意図とは別に受け止められ動き始めている。

西洋近代合理主義の受容と「日本人の特質」:

そして日本人は17世紀において「キリスト教」は受容しなかったが、19世紀には「西洋近代合理主義」は猛烈に受容し変容してきた。チェンバレンは、「日本人の特質」という章の中で、西洋近代文明に直面した日本人について観察、論評している。彼は「日本を批評することは感謝されない仕事である。そこから生じる自分への非難を避けるために、ほかの西洋人の論評を引用することにする」と皮肉を込めて言い訳している。この頃政府は言論に対する規制を強化し始めていた。これまでに日本に関する評論は数知れぬほど巷に溢れていた。東洋的な美術品に溢れるエキゾチックな国とする一方で、文明開花を西洋の猿まねだとする偏見に満ちた批判(ビゴーの風刺画のような)など、御雇外国人やヨーロッパからの商人、ジャーナリスト、短期旅行者、流れものまで、さまざまな外国人によるジャーナリスティックな日本観察が、これまたさまざまな書籍や新聞に掲載されている。センセーショナルに描けば描くほどどんどん売れる。今も昔も変わらぬ商業主義だ。しかしチェンバレンは、日清・日露戦争を経た「現代日本」についてもう少し現実的で冷静な観察がなされるべきであると指摘する。彼が選んだ評論には共通性がある。これが他者に代弁させた彼の日本観であることは間違い無いだろう。彼自身もこう言っている。「日本人は総合的に雄大なものを作るのに必要な素質も、幅の広い考え方も欠けているように思われる。それらは小さなもの、こぎれいなもの、孤立した物、小さな飾り物に表現されるにとどまる」。以下に本章で引用されたコメントをいくつか紹介したい。

W.アストン『日本文学史』:「日本人は、単に借用することで決して満足しない。美術においても、政治組織においても、宗教においてさえも、他国から取り入れたものは何でも広範囲に渡って修正を施し、それに国民精神の刻印を押すという習性を持っている」

C.ミュージンガー『日本人』:「特殊の才能(talent)は大きいが、創造的才能 (genius)は小さい」

P. ローウェル『神秘的な日本』:「並外れて明敏であるが、深く黙想的ではない」「高度に倫理的ではあるが高度に宗教的ではない」「日本人は創造性がかけているにもかかわらず、強い個性が目立つ。そして、外国からの輸入品がいつまでも外国のままの姿でいることに満足していない。」「抽象的思想を受け入れる能力を持たぬ」「礼儀正しさは、その奥底に精神的な活動が欠けていることを示す。活気にあふれた精神の持ち主なら、極めて厳格な礼儀作法に縛られていることはとてもできないであろう」

E. ケンペル『日本史』:「学問や文芸といった面で日本人に欠けているものは哲学的思索、音楽の調和、それに数学の論理である。道徳的には優れているが、思索的には無知で無頓着である」等々

このほかにもザヴィエルからウィリアム・アダムスなど16〜7世紀の先人たちの「日本論」を紹介している。明治期ではウィリアム・アストンとラフカディオ・ハーン(後述)の論評を激賞していることにも注目したい。また当時話題となったピエール・ロチの論評については「これが日本の全体の真相なのか?」、間違っているのは日本ではなく、悪口を言っているフランス人(ロチ)で、彼の理解力の欠如ではないか、とこき下ろしている。

日本人と中国人:

またヨーロッパの貿易商や銀行家による、中国人と日本人の比較論では、中国人の誠実で、信頼感のある商取引への賞賛に対し、日本人の不正や非能率、優柔不断な態度を嫌悪する評論が興味深い。チェンバレンは以下のように評している。「日本は観光客にとっては天国であるが、貿易商にとっては墓場である」。ただ、中国人と日本人に共通する特色がある。それは実利主義である。また「中国人は民族的誇りを持ち、日本人は国家的虚栄心を持つ」。すなわち、中国人はその悠久の歴史と文明に対する誇りを持つが、政治的単位としての国のために命を捧げるという理想には少しも関心がない。日本人は1000年の間に二度も自国のもの(文化)は全て捨ててしまったにも関わらず、抽象的には強烈な愛国主義者である。したがって、いざという時には実際の必要以上に勇敢である。中国人は名だたる現実主義者であるから、いざとなれば「三十六計逃げるが勝ち」である。

チェンバレンの総評:

これらの批評を整理すると、チェンバレンは、日本の長所としては、清潔さ、親切さ、洗練された芸術的趣味。短所としては、国家的虚栄心、非能率的習性、抽象概念を理解する能力の欠如を挙げている。日本人の模倣性については長所か短所か迷う。独創性がないと言えば短所だが、実際的(実用的)知恵の現れである、あるいは模倣が手の込んだ細部にまで浸透していることに驚嘆するという意味では長所だ。そして最後に、数々の雑誌や新聞に投稿されている付和雷同的な誇張と偏見に満ちた「特質」論が、あたかも日本国民全体の特質であるかの如き論調に強烈な皮肉をのべ違和感を示している。「これは歴史が示しているように、この国民が現在経つつある不安定な時期の特徴にすぎない。(中略)ヨーロッパが封建体制から抜け出した時も、全く同じ兆候を示したものである」と締めくくっている。うまくまとめたものだ。

チェンバレンは「歴史と神話」の章で、歴史と神話が区別なく語られる古事記の思想と背景を論評している。日本人の思想、日本文化の背景について、初めて古事記の英訳をなしたチェンバレンならではの鋭い切り込みである。興味深いのでぜひ以下を参照願いたい。古書を巡る旅(64)2025年5月17日 チェンバレン 英訳『古事記』


(2)ラフカディオ・ハーン(小泉八雲)のJapan An Interpretation:『神国』

ラフカディオ・ハーン(小泉八雲)は、本書で「神と人との関係」という視点で日本を論評している。本書は1904年の刊行で彼の最後の著作であり、日本論の集大成とも言えるものである。本書についての詳細は次のブログを参照願いたい。2025年7月5日古書を巡る旅(66)ラフカディオ・ハーン Japan An Interpretation:「神国」

ハーンの目線(要約):

これまで述べてきたチェンバレンの考察との対比で少し要約すると、日本の神道は宗教というより古来からの習俗、霊的感情を表したののである。儒教や仏教もうまく受け入れられていった。仏教が祖霊崇拝を否定しなかったことが大きい。ここが祖霊崇拝を排除しようとしたキリスト教との大きな違いである。また日本人が個人よりも家族や社会を大事にする性質を持っているのは、こうした古来からの祖霊崇拝による親や一族の祖先への感謝、恩恵を感じているからである。この点でチェンバレンが儒教の「忠」と「孝」の二大徳目が日本人の家族や社会を重視する性質の根源とみなしているのと異なる。ハーンは外来の仏教や儒教の影響を否定はしないが、より古来からの祖霊崇拝、自然崇拝に注目している。またハーンは近代合理主義一辺倒で日本の古来の伝統や精神を蔑ろにする傾向を嘆いている。これは、ヨーロッパ人が抱きがちな東洋的、日本的なエキゾシズムへの懐古趣味からではなく、かといって日本人の急速な欧化に対する反発からくる極端な皇国史観や国家神道に傾倒する国粋主義からでもなく、人間の根っこにある霊的な感性、自然への畏怖と敬意といった素朴な心情(GhostryとFairyの存在を信じる)を、そして、人種、民族に関わらず共有する普遍的な価値観が失われてゆくことへの哀惜の念からである。すなわちこれは日本のみの問題ではなく西洋文明の現実に潜む問題である、というのがハーンのメッセージである。ちなみに、ハーンが暮らした日本の街の中で最も愛したのは松江であった。勇ましい軍都熊本でも、華やかな開港場神戸でも、まして帝都東京でもなく。たった一年、そして初めて住んだ日本の街であった。そこは文明開花の波に洗われることもなく、古よりの日本人の心が西洋文明に曝されずに生き残っている街である。杵築の大社に守られた「八雲立つ出雲」、まさに「神国」である。

ハーン・チェンバレン論争:

ハーンはチェンバレンとは生涯にわたって交友関係を結び尊敬しあった。特にハーンはアメリカにいるときにチェンバレンの英訳『古事記』を読み、インスパイアーされて日本にやってきた。またハーンを東京帝国大学の英文学教師に推薦したのもチェンバレンであった。が、晩年には批判の応酬もしている(エリザベス・ビズランド『ラフカディオ・ハーン往復書簡集』チェンバレン『日本事物誌ラフカディオ・ハーン章』)。ハーンはチェンバレンの日本人の「神と人との関係」論は、アングロサクソンやキリスト教視点でのそれであり、キリスト教や仏教などの伝来以前からある、人類に共通する霊的感性や精霊、自然や祖先を神として崇める心を思い出すべきである。それは洗練された教義や聖典として継承され信仰されるものでは無いが、未開の習俗や邪教として排されるべきものではない。まさに我々が忘れかけている人間の始原的心である。日本にそれを発見したのだ。と批判している。

一方、チェンバレンは、ハーンはあまりにも日本的な感性に共感を寄せ過ぎていて、日本人の心に流れる美しい精神を讃えるときに、ヨーロッパ人を比較対象に持ち出して悪者にする。それが公平な観察を歪めていると批判した。しかし、ヨーロッパ人は、幸いなことにそんな悪口にはへこたれない精神と復元力を持っているので何も心配していないと自己弁護している。チェンバレンは別の章でヨーロッパ人の不行跡について批判しているので彼一流の皮肉である。これに対してハーンは「私は東洋的、日本的というよりはケルト的なだけだ」「教会よりも森に霊的なものを感じるのだ」とコメントしている。

ハーンの「日本的なもの」に対する観察は、確かに多面的な事象の観察という点では偏りがあり、チェンバレンが批判するように日本への共感が客観的な(アカデミックな)分析を妨げていると言えるかもしれない。チェンバレンは、多くの資料や文献にあたり言語学的、比較文化論的に考察する、いわば比較研究アプローチを取った(いわゆる「書斎学派」)のに対し、ハーンは、文字資料や書籍によるだけでなく、伝説、怪談など民間説話など、その土地に伝わる伝承をその土地の人々から聞き、実際に現地を見て歩く。そこに「日本的なもの」を感じ取った再話作家であり、在野のジャーナリスト視点を持つ批評家である。ハーンもまた、いわば柳田國男や折口信夫のような民俗学的なアプローチを重視したと言っても良いかもしれない。そういう意味においてはハーン(小泉八雲)も官学、アカデミズムの人というより在野の人であった。


(3)私的総括

この西洋文明の側から見た日本の「近代化」への戸惑いと違和感は、おそらくかつて儒教や仏教を伝えた中国文明、インド文明の側から見た日本にもあったのだろうことを想起させて興味深い。文化・文明の「受容」と「変容」は本家から見ると異様なもの、あるいは滑稽なものに見えるのだろう。それにもかかわらず「日本化」は、もはや本家を離れ日本固有のものになろうとしている。あるいは岡倉覚三(天心)が『日本の目覚め』で述べたように、本家のインドや中国で失われてしまったものを日本で保存し、今に残して預かっているものもある。あるいは、既に日本に内包されていた変化の兆しが、西洋の「近代合理主義」文明の流入で一気に顕在化して加速的に進化したとも言えるかもしれない。いずれにせよ問題はその日本化されたものが普遍的な価値を持ち、世界に発信して受け入れられるまで昇華されたものかどうかだ。かつての軍事大国としての日本は潰えた。経済大国としての日本も衰微しつつある。これからは文化大国としての日本が花開く時代に入る。日本に西洋文明を伝えた本家の欧米諸国が、その近代合理主義、なかんずく民主主義、自由主義という歴史的な理念と価値観を毀損させ始め、時代を逆行しつつある今、日本が、その西洋文明が失いつつあるものを保存し、東洋文明に内包される理念と「習合」し、再び世界に戻す時期が来るであろう。文明・文化は相互に行き交うものである。これからは日本文化が世界で「受容」され「変容」される時代がやってくるに違いない。それこそ日本の新たな役割であり文明国の歩む道、新たな「文明開花」である。

最後に、岡倉覚三(天心)のあの言葉をここでも掲げておきたい。

「西洋人は、日本が平和な文芸にふけっていた間は、野蛮国とみなしていたものである。しかるに満州の戦場に大々的殺戮を行い始めてから文明国とよんでいる。」......「もしわれわれが文明国たるためには、血なまぐさい戦争の名誉によらなければならないとすれば、むしろいつまでも野蛮国に甘んじよう。われわれはわが芸術および理想に対して、しかるべき尊敬が払われる時期が来るのを喜んで待とう」(『茶の本』より)古書を巡る旅’47)2024年3月29日 The Awakening of Japan:『日本の目覚め』





2023年12月30日土曜日

古書をめぐる旅(42)エドワード・モース著「日本の住まい・その内と外」Japanese Homes and Their Surroundings 〜知のわらしべ長者が見た日本人の住まい〜

 

東京(20年前は江戸と呼ばれていた街)の俯瞰図




東洋美術家のビゲローへの献辞

Newton Hall Cambridge蔵書印



2023年も押し詰まった年の瀬。いつもの神保町の北澤書店で、エドワード・モースの日本に関するもう一つの著作を見つけた。最初の著作は、以前のブログ(下記参照)で紹介した「日本・その日その日:Japan Day by Day」(1917年刊行)であるが、これに先立つ15年前に、日本人の住まいと暮らしについての著作を発表した。これが、今回紹介する、1888年にボストンで刊行された「日本の住まい・その内と外」:Japanese Homes and Their Surroundings である。これは今は無くなってしまった貴重な江戸時代から明治初期の日本家屋とそこでの暮らしの観察記録である。いわば「生物学者が観た日本の建築と暮らし」である。彼の知的好奇心と収集、分類への情熱はとどまるところを知らない。これは古民家ファンにとっても貴重な参考書でもある。皮肉にも、日本にはこのような参考書が少ないという点でも希少であると言って良いかもしれない。モースは、生物学者として、腕足類貝の採集に日本にやってきて、3000年前の集落遺跡(大森貝塚)を発見し、この時代を縄文時代と名付けた。また、東大で生物学の教授として教鞭をとり、最新のダーウィンの進化論を伝え、日本の生物学、考古学の父を言われた。また、彼は生物学者、考古学者の枠を超えて、日本の文化に魅了され、その「美」と「価値」を再発見し、世界へ発信した。東大を辞めて1882年に再来日した時には、日本の陶磁器や工芸品、庶民の生活雑器や民具のコレクターとして名を馳せていた。彼が招聘したビゲローや、フェノロサ、岡倉天心らとともに日本の古美術の収集と保存に努めた。ボストン美術館の膨大な日本美術コレクション、特に浮世絵コレクションはビゲローの寄贈によるもの。セーラム・ピーボディー博物館の日本古民具の膨大なコレクションは、モースが寄贈したものだ。珍しい貝の採集に始まり日本美術のコレクションに終わる。以前のブログ(2021年9月5日古書をめぐる旅(13)「日本・その日その日:Japan Day by Dayで、私はこう締め括った。「私はモースを「研究界のわらしべ長者」と名付けておきたくなった」と。

ご維新から20年、明治の東京はまだまだ江戸の面影が色濃く残っていた。その街並みと建造物と、そこでの人々の生活。それは東洋と西洋に違いはあれ、彼の母国アメリカやヨーロッパにおいて、産業革命以降、押し寄せる近代化という物質文明の波で失われてしまった、あの時代の情景であった。かつての住まいとそこに育まれた暮らし、その集積である都市景観に想いを巡らすとき、pre-industrial revolution ageの名残がここ明治東京には残っている。やがて、この景観と暮らしも近代化の波をかぶり、無惨に失われるのも時間の問題に思えるし、日本人は過去を振り返ろうともせずに、西欧社会から入ってきた物質文明の受容に向けて突き進んでいる。しかし、現時点では「まだ」ここにその姿が残っている。これを観察し、記録しておく必要があると考えた。モノトーンの甍の波が印象的な東京の街並みが、失われた時代の記憶を甦らせた。これはこの頃日本を訪れた西欧からの訪問者が一様に感じた第一印象であった。むしろ失われた過去への愛惜の感覚であったと言っても良いかもしれない。現代の日本人にとってみても、戦後の昭和30年代頃までは幾分かは残っていた生活スタイルの名残を感じる人もいるだろう。私も、子供の頃に訪ねた祖父母の家の玄関や縁側や床の間の佇まいの記憶にそを見出す。それは非日常の古民家などではなく日常の住宅であった。明治のベアトの写真に写し取られた愛宕山からの東京(江戸)の景観はつい最近まであったのが、今やその痕跡を見つけ出すのも難しくなった。モースは、その簡素で抑制されているが、全体としては調和の取れたある種芸術的な佇まいと、飾り気がなく礼儀正しい人々の人柄に、真の豊かさとは何か、幸せとは何か。そこに西欧が獲得した物質的な繁栄とは異なるものを見出した。もちろんそうした、日本で発見した豊かさや幸せは、封建的社会制度、身分制度、古い因習という負の側面と表裏一体のものであり、近代化とは、そうしたものを含めて社会全体を変えてゆくムーヴメントであるのだが、これからの日本が、東京が、近代化という名のもとに変貌し、古き伝統を消し去ってゆくことに愛惜の念を抱いたとしても不思議ではあるまい。

日本の住宅は、西欧住宅のようにカラフルに彩色されない、内部も過剰に装飾されていない。木と土と紙の素材を生かした建具、壁や塀、自然や外部と親和性を保った家屋構造、狭い敷地に自然を取り入れた坪庭、家具を置かない畳の部屋、小さな床間と季節の生花、履き物を脱いで上がる部屋、細かい細工が施された欄間や襖、その引き手まで。全体には簡素な作りであるが、部分にこだわりを見せる。それがある種の調和をもたらす芸術性を持っている、とモースは述べている。簡素な作りは一見粗末になりがちだが、そうならない美意識と知恵には日本人の精神性すら感じる。茶室がその最たるものだと。建築家でも、大工でも、建築史家でもないモースが、外装から内装、外形構造と間取り、細かいパーツの意匠から、その使い勝手まで、仔細に観察し分析し、記録している。さらには工夫された大工道具と、職人の仕事ぶりの詳細まで、綿密な検証と考察を展開していることに驚きを禁じ得ない。彼は東京だけでなく、全国を旅して、各地の住宅、人々の暮らしを観察し記録している。西欧人がみたエキゾチックな日本という、ツーリスト的な観察や感想ではなく、そこに人類にとっての普遍の価値観と法則を読み取るという、生物学者の観察、収集、分類という習性を感じることができる。もちろん、「新種を発見した時の驚きと興奮!」というナイーブな歓喜がその知的好奇心の底に通奏低音として流れてはいることを見逃すことはできないが。

モースはまた、機械化によらない手仕事の美、生活の中で生まれてきたアーティスティックな工芸への憧憬をナイーヴに語っている。西欧の宮廷や貴族のマナーハウスを飾るジャポニズムブームの豪華な美術品ではなく、庶民の日常生活の中で生まれ、使い込まれた「お道具」や「手仕事」の中に美を見出す。こうした価値観はビゲローやフェノロサ、岡倉天心らの文化財保存運動、英国におけるウィリアム・モリスの「アーツ・アンド・クラフツ運動」に大きな影響を与え、さらには柳宗悦らの「用の美」、「民藝運動」へとつながってゆく。後述するように、彼の「博物学」的な観察眼と真理の探究の姿勢が垣間見える。本書に収録されている多くのイラストは彼自身の手になるものである。モース自身が「手仕事」の達人であったと言える。彼は左右両手使いであったと言われており、大学での講義の時にも自在に右手/左手を駆使して図を黒板に書いたという。イラストから伝わるその技巧だけでなく、博物学者らしい緻密な観察眼と、日本の文化や人々への愛情に満ちた眼差しが心を打つ。いくつかを下記に紹介したい。現代に生きる我々こそ、失われたあの時への、激しい憧憬と哀惜の念を感じるに違いない。


ベアトの写真から描き起こした東京の都市景観。



日本の住居建築


東京の二階建て住宅 板塀に囲まれ、庭を持つ

京都の住宅の門構え

町家の坪庭と旅籠

茅葺き屋根

茅葺き屋根を葺く道具

茅葺き屋根の軒下の雨受け

客間の構造

農家の台所

履き物を脱いで部屋に上がるので下駄箱がある

縁側の戸袋と手水鉢

囲炉裏

引き出し、食器棚付きの階段

暖房は火鉢で

枕と就寝方法

タオルハンガーのシンプルさとデザインの多様性に感心している

客間/床間/書院

襖の引き手デザインのセンスに驚嘆

錠前 シンプルだが堅牢な構造


モースは正式な高等教育を受けていない研究者であった。こうした点で牧野富太郎博士を彷彿とさせる。しかし、猛烈なその収集と観察と分類へのエネルギー。止まることのない知的好奇心の背景には、この時代の博物学的な視点があったように考える。「博物学:Natural History」は、自然界を分類学的に捉える学問。動物界、植物界、鉱物界の「3界」を、採集/収集、観察、分類する学である。学校教育で言う生物学や地学の領域がそれに相当する。欧米では「Natural History:自然史」と言われていたものを、日本では明治になって「博物学」と訳した。リンネの植物分類学などが代表的である。大航海時代からプラントハンターが世界を巡って珍しい植物の採集に勤しんだ時代があった。彼らは、未知の固有種が豊富な日本に非常な関心を抱き、オランダ商館に赴任してきたテュンベリーのような、リンネの高弟である学者もいた。帰国後はウプサラ大学の学長となったような人物である。ケンペルもシーボルトも医者であり博物学者であり、そこから出発して、日本という国全般を俯瞰し、観察して、資料収集し、分析するをいう方向に進んでいった。アメリカのペリー提督は、日本への遠征に際しシーボルトから指南を受けている。モースも同じ博物学的視点とパースペクティヴで明治日本を観察し、世界と日本の双方に影響を与えた。しかし、博物学を構成する動物学、植物学、鉱物学は、20世紀に入ると、結晶解析や分子構造解析など、化学、物理学的な手法により実験的に証明することが研究の主流となっていった。さらには生化学、ゲノム解析による分子生物学の発達のため、博物学は「学」としては廃れてしまった。しかし、その一方であまりにも専門分化してしまった自然科学研究の姿勢が、自然界を全体的に俯瞰する視座を失わしめたとも言える。モースのような研究領域を超えて膨張する知的好奇心を受け止めるアカデミックな受け皿、あるいは大学研究機関における「講座」がなくなってしまった。いや、当時ですらモースのような研究者を受け止める大学がなかった。牧野富太郎や南方熊楠も同じだ。彼らのような知の巨人を見ていると、この溢れ出る知性、止まることを知らぬ好奇心を萎縮させないような俯瞰的視座の涵養と、それを可能ならしめる居場所が必要なのではないかと気づかされる。19世紀にはまだ自然哲学、自然史という18世紀的な視点がまだ息づいており、進化論を腕足類貝の研究で証明してみせた知の巨人モースにもそれがを見ることができる。その視点は過去のものではなく、むしろ今となっては新鮮に見える。この現代風に言えば、異分野の「生物学者」が著した「日本の住まいと暮らし」と言う著作の存在がそれを一層際立たせているように思う。

2021年9月5日古書をめぐる旅(13)Japan Day by Day, Morse


2023年10月29日日曜日

古書を巡る旅(39)リンスホーテンとモンターヌス そして東洋文庫「モリソン書庫」

 

東洋文庫モリソン書庫

東洋文庫ミュージアムで「東南アジア〜交易と交流の海〜」展をやっている。古書好き、東西交流史ファンには垂涎の展示会だ。ASEAN諸国との友好協力50周年記念イベントの一環のようだ。東南アジアは、16世紀に始まる大航海時代から19世紀の帝国主義の時代に、東西を結ぶ海洋交易の中継地域であった、そして東西文明の交差点であった。大航海時代以来「東インド」と称された地域を訪れた西欧人や、華僑、そして日本人。彼らの訪問記、見聞録、研究書などのの著作や地図が多く展示されている。ポルトガルの東進、ゴア、マラッカ、マカオを拠点とした東インド交易の支配。イエズス会によるキリスト教布教。スぺインのフィリピン支配。そしてそれに続くオランダの進出。そしてイギリスの大英帝国の時代へと続く。いわば株式会社「英蘭東インド会社」繁栄の時代である。こうした西欧史に言うところの、「大航海時代」「Great Discovery」の時代は、日本の戦国時代、江戸時代初期キリシタン禁教の時代である。やがては鎖国へと。皮肉なことに、この時代は日本における戦乱による難民の増加、朱印船交易の隆盛による海外進出、やがてはキリシタン追放により日本人が多く東南アジアに進出し、やがては鎖国により残留を余儀なくされた時代でもある。そこでは西からやって来たポルトガル人、オランダ人、イギリス人とも出会った。東南アジア(東インド)はこうした東西の邂逅の舞台であった。こうした時代を通史的に、俯瞰的に振り返ることのできる展示でもある。

私にとって注目の展示は、リンスホーテンの「東方旅行記」1596年アムステルダム刊や、トメ・ピレスの「東方諸国記」1515年、サンソンの「モルッカ諸島図」などの貴重な原典が展示されていることである。その他にもシャムで活躍した山田長政に関する記録(アーネスト・サトウ「山田長政事績合考」1896年東京)や、フィリピンの高山右近を殉教者として取り上げた書(カルディン「日本殉教精華」1646年ローマ)、さらには時代を大きく遡り、漂流の後に安南(ベトナム))の長官になった阿倍仲麻呂(698−770)について記述した、旧唐書(945年)の写本などが展示されている。「東西文明の邂逅」の舞台であった東南アジア(東インド)の姿が見えてくる。









カルディン「日本殉教精華」1646年ローマ
殉教者、高山右近に付いての記述

リンスホーテン「東方案内記」1596年アムステルダム



トメ・ピレス「東方諸国記」1515年ころ

サンソン「モルッカ諸島図」17世紀初頭

セネクス「インド・中国新地図」1721年ロンドン
イギリス東インド会社


ヤン・ハイヘン・ファン・リンスホーテン:Jan Huygen van Linschoten, 1562-1811

リンスホーテンは、以前のブログ(下記参照)でも紹介したが、16世紀末オランダのハーレムに生まれインドのゴアに移住してポルトガル商館で働いた商人、冒険者である。彼が、1569年にアムステルダムで刊行した「東方案内記」はオランダ、イギリスにとって貴重なアジア進出ガイドとなった。また日本に関する初めての包括的な記述をオランダにもたらしたことでも歴史的な意義を持つ。この初版本が、今回展示されている。当時のオランダはスペイン王家の植民地であり、プロテスタントの市民は弾圧されていたが、カトリックのオランダ人は、比較的自由な商業活動、交易が許されていて、アントワープやアムステルダムは、ハンブルクなどのハンザ同盟都市に対抗する海洋交易の拠点であった。また、航海と交易経験のあるオランダ人は、重宝され、盛んにスペインやポルトガルの海外植民地やゴア、マラッカ、マカオ、長崎などの海外拠点に進出していた。スペイン・ポルトガルに続く、オランダの海洋帝国発展へのロードマップは、すでにこの時期にその萌芽が現れていた。しかし、アジアに拠点を有していたポルトガル商館、イエズス会の活動記録は、完全機密、門外不出で、こうした情報が外に広がらないよう管理されていたので、このような案内記の出典が問われるところである。ただ、カトリック教徒のオランダ人にとっては、ポルトガル商人やイエズス会宣教師と共に活動することを通じて多くの海外情報に接する機会があったと考えられている。リンスホーテンもカトリックの家系で、インドのゴアでポルトガル商館に駐在していた。そこで、商館員、イエズス会士の報告書や手紙に接する機会があった。また日本に関する情報は、長崎のポルトガル商館に勤務経験があるオランダ人ヘリツゾーンから得ることができた。これらが「東方案内記」における「日本に関する一章」の重要な情報源であった。リンスホーテンの帰国後、オランダは長い独立戦争に勝利してスペインからの独立を勝ち取った。またリンスホーテン自身は、カトリックからプロテスタントに改宗した。本書は当然のことながら、新興海洋国家のオランダやイギリスにとっては垂涎のアジア案内書となり、オランダ語から英語やフランス語に翻訳されて、この時期の海外交易指南書の定本となった。日本に関する章は一章だけだが、その後、日本の平戸のオランド商館長となった、フランソワーズ・カロンの商館活動報告をまとめた「日本大王国誌」1661年)が出るまでは、唯一の日本関係情報源であった。既述のように、スペイン・ポルトガルの100年以上の海外進出実績と、その上に築き上げられた世界帝国が、それに続くオランダ、イギリス海洋帝国発展の揺籃であった。

リンスホーテンは、イギリスのハクルートと同じく、その地理学に関する功績を顕彰して、オランダでは19世紀に「リンスホーテン協会」が設立されている。


リンスホーテン「東方案内記」1569年アムステルダム版初版
書籍の全容を確認できる展示にはなっていないのが残念

リンスホーテン肖像


アーノルダス・モンターヌス:Arnoldus Montanus

オランダの大航海時代を代表するもう一人の著作家にモンターヌスがいる。残念ながら今回の展示には登場しないが、日本について大部の著作を著したオランダ人であるので、この機会に触れておきたい。彼についても以前のブログ(下記参照)で紹介したが、17世紀前半のプロテスタント聖職者で、「東インド会社遣日使節紀行」(1669年)という大著を著している。リンスホーテンの「東方案内記」と、この二つの著作の出版には100年ほどの時間差があるが、モンターヌスとリンスホーテンに共通するのは、両者とも出版を目的とした著作であること。それまでの記録集は、イエズス会や海外商館の活動報告や公信をまとめたものであって、出版を意図したものではなかった。読み物としての旅行記がブームとなった時期であった。そして、もう一つの共通点は、二人とも日本に来たことがないことである。リンスホーテンの方は、それでもインドのゴアで、ポルトガル人商人やイエズス会宣教師、オランダ人で日本へ渡航経験のある人物と接して、彼らから多様な情報を得ていたし、天正遣欧使節ともゴアで出会っているが、モンターヌスは、日本どころか、おそらくオランダを出たこともなく、日本やアジアとの情報接点を全く有していなかった。にもかかわらず、すでに出ていた著作や資料を参照し、大いなる空想力と、豊かな想像力を発揮してまとめた書籍となっている。特に、他を圧するのは、驚くほど多くの図版が掲載されており、ビジュアル的にもユニークな「日本ガイドブック」となっている点だ。長崎、平戸、大阪、京都、江戸と、日本の各都市、城、寺院、日本人の生活の様子を詳細に描いている。その描きかたは抽象的、観念的、ではなく妙に具体的で緻密である。まるで見てきたかのような具象性を有している。よく見ると、日本人には違和感のある奇妙な異世界、未知の文明社会という体ではあるが、どこか空想の中にリアリティーを見出してしまう不思議な世界だ。図版自体はアムステルダムの専門の絵師、版画家に描かせたのだが、彼らは何を見てこのような「写実的」光景を描き出したのだろう。誠に不思議な世界と言わざるを得ない。こうした著述業者の著作は、一次史料としての価値がない、と言われるが、実際には彼の著作は、当時のヨーロッパ世界に大きな影響を与えており、その観点から歴史的資料としての重要性は無視できないだろう。

最近、その「東インド会社遣日使節紀行」中に掲載されているオリジナルの図版の一つ「江戸城図」を手に入れた。銅板エッチングの細密画である。書籍自体はレア本で入手は困難だが、図版は時々古書市場に出回る。平戸、長崎、大阪、堺、京都、江戸などの都市図や、風俗図、地図などがあり、緻密に描写されていることに驚く。原画がどこから来たものなのか不思議であるが、おそらくオランダ商館員が長崎から江戸への参府の際に見聞してスケッチしたものが元になっているのであろう。東インド会社の公式な記録や報告書は機密資料であり、門外不出のはずなので、おそらく日本に滞在する商館員の個人的な日記やメモを参照したものだろうといわれている。もっともイザーク・コメリンの大部の著作「東インド会社その起源と発展」全四巻(1644年刊)のように、明らかに東インド会社の内部資料と思われるものが典拠となっている出版物も出回っているので、社外秘の原則とは別に、様々なルートで情報が外に流出したのかもしれない。それにしても、この江戸城描写の精密さと、そこに描かれた人々の佇まいの奇妙なリアリティーに驚くほかない。長い行列はオランダ商館長一行の将軍謁見のそれなのだろうか。江戸城の構造について英語とドイツ語の訳註が記載されており、1670年の英訳版(John Ogilby訳)に収録の図版と思われる。今回の展示ではモンターヌスは展示されていないが、同時代の資料として貴重なものである。リンスホーテンから70年ほど後の著作であり、日本は「鎖国」の時代に入っていて、極めて日本関連情報が乏しくなっていた時期である。このあと日本に関する著作は、ケンペル「日本誌」1727年を待たねばならない。


モンターヌス「江戸城図」1670年版
英語、ドイツ語版
日文研フレデリック・クレインス教授の解説



以前のブログで、リンスホーテンとモンターヌスについてより詳細に紹介しているので、ご関心ある方はご参照願いたい。 2021年12月28日 東西文明のファーストコンタクト・カピタンの世紀〜オランダ人の日本見聞録〜


それにしても、いつ来ても東洋文庫ミュージアムのモリソン書庫は壮観である。書棚を眺めているだけでも感動するが、収蔵されている書籍を仔細に見てみると、殆どがヨーロッパ語で書かれたアジア、東洋関係もので、ロンドン・タイムスの北京特派員であったモリソンが在任中に収集してものである。よくぞこれだけの書籍を集めたものだと感心する。そしてこれらの貴重なコレクションの散逸を防ぐために、全巻を買い取って東洋文庫に保存した岩崎久彌の功績にも感謝したい。何よりも、大航海時代から帝国主義の時代に西欧人がこれだけアジアを探検、旅行し、研究し、その見聞録や、研究書、案内書を出版していることに驚く。ここに並んでいる書籍は、我々馴染みの著名な作者によるものだけではない。様々な経緯で東洋へやって来た、あるいは関わった未知の作者による、未知に地域の探検記も豊富である。これらをじっくり読むのも楽しいだろう。未発掘の文献もありそうだ。まさに、知の迷宮に分け入る探検だが。

東洋文庫な関する詳細は、以前のブログをご参照あれ:2015年6月8日東西文明の邂逅 知のラビリンス「東洋文庫」探訪



右にはペリーの「ペリー艦隊訪日記録」がある



(撮影情報:Leica Q3、館内の写真撮影OK)



2023年8月23日水曜日

「どうする家康」駿府外交編 〜「鎖国は祖法」?そんなこと決めた覚えは無いゾ!の巻〜

 

徳川家康


今年のNHK大河ドラマ「どうする家康」は、日本史で習った家康の意外な側面を描いていると話題になっているようだ。あまりにも優柔不断で強いリーダーのイメージがない家康と、それを取り巻く三河武士達の朴訥だが健気な忠義の姿(のちの徳川四天王)、裏切ったり戻ってきたりする家臣も。こうした人物描写を観ているのは確かに面白い。それにしても信長、秀吉、光秀の描き方ががあまりにも酷いのはいかがなものか。どれもイケすかない奴に描かれている。織田信雄はまるっきりバカ殿扱いされているし、どれも家康の引き立て役、ヒール扱いか?そもそも家康がなんとも「小者」に見えてしまうのもいただけない。秀吉の軍師、黒田官兵衛や、その息子長政など、秀吉、家康の家臣として活躍した重要人物も端折られている。前田利家、石田三成もだ。これから出るのかな?歴史ドラマには違いないが、それに仮託した娯楽劇画といったところか。どういう視聴者層を狙っているのだろう。

家康の意外な側面といえば、家康の晩年を、このドラマはどのように描くのか。後半を楽しみにしている。ともすれば家康といえば、信長、秀吉のもとで隠忍自重して我慢し、秀吉亡き後天下を取った「狸親父」というイメージがあって、しかも、江戸幕府を開くなりキリシタンを弾圧し、海外との通行を禁じる「鎖国」を始めた張本人という、外国嫌いで、マルドメのイメージがある。しかし、最近、ポルトガル、スペイン、イギリスやオランダの大航海時代の古書や史料を読み漁るうちに、そこでは日本では語られなかった、スペインやオランダ、イギリスと丁々発止やり合う「日本皇帝:Emperor of Japon」としての家康が描かれていることに驚かされる。特に、将軍職を秀忠に譲り、駿府で大御所となってからは、家康は「鎖国」どころか積極的に海外との交易を進めた日本の指導者として記録されている。家康の駿府政治/外交と言われるものである。このために駿府には多くの有能なスタッフ、顧問が家康の側近として侍っており、その中にはウィリアム・アダムスなどの外国人の顧問もいた。知られているように彼は三浦按針として旗本扱いで、領地、屋敷もあたえられ、家康の朱印状を持って海外との貿易にも従事していた。また、駿府には多くの外国からの使節が家康謁見に訪れている。今回はその外交政策について振り返ってみたい。


「鎖国は祖法」は誰が言い出したのか

そもそも「鎖国」は家康が始めたのか? 幕末、多くの外国船が日本近海に出没する時期に、幕府は「外国船打払令」を出して、イギリス船やロシア船を追い払った。またアメリカのペリー艦隊が江戸湾に出現して開国を求めた時も、幕府の役人は「そもそも我が国は「神君家康公以来、鎖国を祖法とする国である」と宣った。「祖法」とは家康が定めた家訓、いや国家方針で、幕府開闢以来、連綿と受け継がれてきた憲法のようなものだ、というわけだ。だから外国船は来てはならぬ!話し合いも交渉の余地もない。役人はこの「祖法」さえ唱えていれば何の外交判断も求められない、思考停止の免罪符となっていた。江戸時代も19世紀に入るとをそんなふうに利用されてきた。果たして家康はそんな「鎖国」という「祖法」を定めたのだろうか?そもそも「鎖国」という言葉を使い出したのは幕府ではなく、1690年に長崎に来たオランダ商館のケンペルが、幕府による統制管理貿易システムを形容したものだ。。それを蘭学者志筑忠雄が1801年になって「鎖国」と和訳したのが始まりだ。秀忠、家光が打ち出した禁教令、スペイン/ポルトガル船の来航禁止令、日本人の海外渡航。帰国禁止令、オランダの長崎出島幽閉などの、一連の政策を総称して「鎖国」と呼んだ。こうしているうちに世界の情勢は大きく変わり、19世紀幕末になって、日本近海が外国船でガヤガヤと喧しくなってくると、「鎖国」、「外国船打払令」、すなわち外国船の排除が、まるで伝統的な名誉ある孤立政策であり、「祖法」であるかの様に祭り上げられた。神君家康公はほんとにそんなこと決めたのか。大御所時代のいわゆる「駿府外交」を中心に振り返ってみよう。


家康の「駿府外交」とは 外交課題とグローバル戦略構想

家康は、駿府以前から外交の重要性には注目し、秀吉政権の五大老時代から、大国スペインとの関係について色々と策を持っていたようだ。家康が天下を取ると、秀吉の武力を背景にした、強硬な外交政策に対して、家康は、諸外国との融和的な外交、交易政策を取っていった。特に、秀吉晩年の文禄・慶長の役という、明国、朝鮮との関係に大きなダメージを与えた負の遺産の清算に取り組み、早くから関係回復を急ぐ必要があると考えていた。関ヶ原の戦い、大坂の陣、征夷大将軍就任、江戸幕府樹立、幕藩体制の整備と、戦いと内政に忙しかった家康は、一応の区切りをつけると早々と、将軍の座を息子の秀忠に譲り、徳川家による将軍職世襲の先例化に先鞭をつけてから、駿府に移り、大御所として内政、外交の諸課題に取り組んだ。特に外交面では以下の課題に取り組んだ。「駿府外交」という言われるものである。

1)明国との国交回復、講和 秀吉時代の負の遺産の清算

2)朝鮮との国交回復

3)琉球との関係再整理 薩摩藩による統治

4)東南アジア諸国との交易促進のために、朱印船貿易を開始

5)スペインとの貿易 メキシコとルソン、マカオの交易ルートに参入を企図 ヨーロッパへの道 スペイン国王フェリペ三世と国書交換

6)オランダとの貿易 平戸にオランダ商館開設 オランダ総督オラニエ公と国書交換

7)イギリスとの貿易 平戸にイギリス商館開設 イングランド国ジェームス一世と国書交換

8)ポルトガルとは従来通り長崎にて貿易

このように、対中国/朝鮮/琉球との関係修復と交易再開。アジアに進出してきたヨーロッパ諸国との積極外交/交易。日本商船の積極的海外進出。これが家康の駿府外交政策の核心である。これは後世の、いわゆる「自由貿易」を目指したものではなく、幕府の統制管理下における積極貿易策、国富の増大である。当時のイギリスやフランスの絶対王権の下で行われた重商主義的政策と同じである。家康の重商主義的外交政策と言っても良いだろう。その骨子は、中国、東南アジアとメキシコ・スペイン、そしてヨーロッパとの東西貿易体制を確立することである。そのために平戸(オランダ、イギリス)、長崎(ポルトガル)のほかに、新たに浦賀(スペイン、中国)を開港し、三港体制でグローバル中継貿易のハブ機能を果たす。さらにはイギリスと北西航路(北極海経由)を開拓し、浦賀にイギリス商館を置くというものであった。こ家康の戦略は特定の国を排除するのではなく、多国間貿易体制を構築することであった。ただ、この三港分散体制の背景にはスペイン、ポルトガルとオランダ、イギリスとの対立による紛争に巻き込まれることへの警戒もあったとも考えられる。中でも、新たに浦賀を、スペイン、中国との中継貿易の拠点港にすることが目玉であった。一方で、家康はキリスト教布教は許さず、「布教/交易分離」「交易重視」が外交政策の基本であった。こうした多国間貿易構想の背景には、これまでの東アジアにおける中国王朝中心の貿易体制、いわば華夷思想に基づく朝貢貿易システムを打ち破り、新たに、日本をハブとした開かれた東西交易システムを打ち立てようとしたことがあると考えられている。換言すれば、明国との国交回復は目指すものの、室町幕府時代の中国王朝との朝貢貿易である「勘合貿易」から脱して、日本をアジアとヨーロッパを見据えた新たな海洋国家に成長させようとした。

このグローバル戦略構想実現のためには、まず最初に、秀吉時代の文禄・慶長の役で関係が断絶した明国、朝鮮との講和と国交回復(貿易の再開)に取り組まねばならなかった。まず朝鮮との国交回復に取り掛かった。また明国に朝貢していた琉球王国との関係再構築に取り組む。また、アンナン、シャムなど東南アジア諸国から日本との交易の期待が高まり、日本の商船が東南アジア諸国に進出することを奨励し、幕府の公認貿易許可書である朱印状を発行した(朱印船貿易の開始)。これは、相手国に幕府の朱印状を持っている商船、商人とだけ貿易をするように求めるもので、幕府の管理貿易であるともに、かつて近隣諸国に恐れられた倭寇対策でもあった。これには大坂や堺、博多、長崎の豪商も参入し、また諸藩も商人の海外進出を支援して朱印船貿易に参入した。朱印状は日本人だけでなく、長崎のポルトガル人宣教師、ジョアン・ロドリゲス(30年以上長崎に滞在し「日本教会史」などの著作がある)もイエズス会財政立て直しのために、朱印状を得て貿易に乗り出した他、ウィリアム・アダムスやヤン・ヨーステン、クァッケルナック/サントフォールトなど、オランダ船リーフデ号の元乗組員で、その後日本に定住した人物も、家康の朱印状を得て、東南アジア各国との交易に出かけている。

一方で、スペインがマカオ、フィリピン・ルソンとメキシコ・アカプルコの間に航路を開設したことを見て、家康はその航路の中間にある日本の浦賀を中国との貿易の中継地にする提案を、フィリピン・ルソン経由でスペインに打診する。この三国間貿易のビジネスモデルは、スペインは自国の金銀を流出させることなく、日本の銀で決済することで中国から産物を買い付け、其の売却で大きな利益を得ることができる。日本はその中継による利鞘を稼ぎ、為替利益が得られる、という「三方良し」モデルである。以前、ポルトガルが長崎を拠点にこの三角貿易モデルで大きな利益を得ている。また、石見銀山の開発に必要な鉱山技術、精錬技術をスペイン(ポトシ銀山で実績のある)から導入することも重要な国家戦略であった。これは家康が秀吉政権の時代からスぺインに打診していたと言われている。こうして、家康は、石見銀を決済通貨とし、中国の絹を主力交易品とした、中国、東南アジアとメキシコ、スペイン、ヨーロッパを結ぶ東西交易圏を設け、その中継貿易のハブとして日本を位置付けた。家康は具体的に、ウィリアム・アダムス(三浦按針)に命じて、伊東で初の洋式外洋帆船を建造させた。またアダムスをアドバイザーに浦賀湊を国際的な貿易港として整備させたと言われている。日本に漂着したスペインのフィリピン総督ドン・ロドリゴに、家康のスペイン国王宛の親書を持たせて、浦賀港からこの船でメキシコに送り出している。太平洋を横断した初めての日本船となる。家康はこのようなグローバル・ジャパン構想を持っていたわけで、駿府にはヨーロッパ各国、琉球、朝鮮、東南アジア各国から大御所への謁見を求める使節が訪れる様になっていった。


駿府外交の変容と家康の死

しかし、家康の構想は、次第に修正を迫られる事態となってゆく。まず、朝鮮との国交回復には成功し、対馬の宗氏の仲介で朝鮮通信使交流が始まった。また、琉球の薩摩勢力への組み入れにも成功する。しかし、この朝鮮、琉球を介した明国との国交回復、貿易復活は、明国側の頑強な拒絶(いわゆる「海禁政策」)により挫折する。その後、国と国との勘合貿易ではない、私貿易の唐船は寄港する様になるが、ポルトガルが中国と日本とヨーロッパの三角貿易で大儲けした様な高収益構造にはならなかった。中国が本格的な貿易相手になるには、1644年の明朝の滅亡、清朝の成立を待たねばならなかった。

もう一つの柱であるスペインは、もともと日本との交易にはそれほどの興味を抱いていなかったが、中国との中継貿易と、銀山開発いう日本側の提案には興味を示した。ただ、すでにポルトガル領マカオにその拠点を有していた(この時期ポルトガルとスペインはスペイン王がポルトガル王を兼任し合邦している)こと。また彼らの植民地である南米(現在のボリビア)ポトシ銀山からは良質で豊富な銀が採れたこと。そして、フィリピンとメキシコの航路(彼らにとっては自植民地間ルート)を独占していた彼らにとって、日本の中継はそれほど魅力的ではなかった。銀山開発は取れ高の半分をスペインに上納するならOKという法外なもので家康は乗らなかった。したがって、スぺインにとってより重要なことは、日本でのキリスト教の布教であった。布教させるなら交易しても良い。そしてプロテスタント勢力であり、私掠船(海賊行為)による被害で敵対するオランダ、イギリスの日本での活動は絶対に受け入れられなかった。こうして、1611年にスペイン王フェリペ三世の親書を持って駿府の家康に謁見したセバスチャン・ビスカイノとの交渉は、「交易と布教の両立」、「オランダ/イギリスの排除」この2点をスペインは頑強に主張して譲らず、「キリスト教布教禁止」と「オランダ/イギリス排除は絶対受け入れない」とする日本とは平行線で、結局交渉は決裂した。ビスカイノは失意のうちに日本から立ち去る。仙台藩からメキシコ/スペインへ使節として派遣された支倉常長もスペイン王に会うことすらできず帰国する。この交渉決裂の直後、1612年に家康は「寛永の異教令」、すなわち禁教令を出してキリスト教を禁じた。これは、スペイン側のあくまでも日本での布教にこだわる意図に対して手を打ったもので、交易も禁ずるのちの「鎖国」政策の一環としての禁教令とは異なるものであった。

一方、キリスト教布教を前提としないプロテスタント国のオランダとの通商は、アダムスの仲介で成功した。この関係は幕末まで240年続く。イギリスとの関係も、やはりアダムスの尽力で交易が始まった。家康は、スペインの貿易相手としての魅力を評価していたが、一方で、(キリスト教布教の危険性とは別に)スペインに独占的に貿易をコントロールされることを避ける必要性も感じていた。そこで、スペインに敵対するオランダ、イギリスの存在意義を評価した。優れたバランス外交と言って良い。偶然とはいえ、アダムスの登場は家康にとって僥倖であったと言っても良いだろう。しかし、アダムスと家康が構想したイギリスとの北西航路開拓は、イギリス側からの探検、開拓も進まず、またイギリスはアンボイナ事件以降、オランダとの東インド市場で競争に敗れて、平戸の商館を閉鎖し、1623年には日本から撤退する。ウィリアム・アダムスという「歴史の奇跡」ともいうべき人物を得ながら、イギリスはこのチャンスを活かすことができなかった。この「平戸撤退」が後に、その50年後の1673年、イギリス船リターン号で、サイモン・デルポーが、国王チャールズ2世の親書を携えて、再び交易を求めて長崎に来航したときの幕府の対応に影響を与えた。オランダ商館の情報により、チャールズ二世の王妃が、カトリックのポルトガル王の王女である事が分かり、それを理由に交易を拒否したとされている(オランダにチクられた?)。しかし、イギリスは、家康の朱印状の有効性を主張したが、家康の許可を得て平戸に商館を開設したにもかかわらず、一方的に撤退した事を咎めた。対日本貿易を独占していたオランダの妨害工作と言って良いだろう。これによりイギリスとの交易再開は、幕末の1854年のエルギン卿使節による日英和親条約締結を待たねばならない。しかし、この時の長崎奉行の対応はイギリスに好意的なもので、イギリス船の入港を許し、家康の朱印状を持っていたので、幕府の許可はすぐに出るだろうと考えていたようだ。家康の朱印状から60年ほど経った、いわゆる「鎖国」時代であったが、この頃はまだ「祖法」を振りかざした「外国船打払令」のような、有無を言わせぬ排外政策は取られていなかった様子が見える。一方で、オランダとイギリスの対立により、徐々にオランダの世界市場における相対的位置が低下。イギリスがムガール帝国への進出、清国へのアプローチなど、のちの「大英帝国へのロードマップ」を描き、步を進めた始めた時期でもあった。オランダが日本の唯一の海外情報源であったことの意味を考えさせる出来事でもある。

こうして結局、家康の駿府外交政策の重要な柱であった、明国との講和とスペインとの交易、浦賀港ハブ化構想は実現しなかった。アダムスの仲介で実現したオランダ、イギリスとの通商関係樹立は実を結んだものの、1623年にはイギリスも撤退。何より1616年には、その家康が没し、駿府外交政策は大きな変容を余儀なくされた。


「鎖国」への道

二代将軍秀忠は家康の駿府外交政策を引き継がなかった。家康の死の直後、1616年8月に、「元和二年八月八日令」により、キリスト教禁教、バテレン追放令、外国船の寄港は平戸、長崎に限り、浦賀を閉港する。ただし中国船はこの限りにあらず。諸大名によるヨーロッパ諸国との直接貿易禁止、朱印船の渡航対地の制限など、大きく駿府外交政策の転換に舵を切る。いわゆる「鎖国」政策の始まりである。家康の外交顧問として重用されたウィリアム・アダムス(三浦按針)も、領地は安堵されたものの、秀忠からは遠ざけられ、平戸で1622年に没している。

また、次の三代将軍家光は、さらに「鎖国政策」を推し進め、1624年にはスペイン船の来航禁止。1633年、日本人の海外渡航禁止、帰国禁止、帰国すれば死罪。1635年中国船の来航は長崎に限定。1639年、ポルトガル船来航禁止。1641年、オランダ商館の平戸閉鎖、長崎出島への移転、と一連のいわゆる「鎖国政策」を完成させる。西国大名の台頭と、キリシタンの流入を恐れるあまり、海外に進出した日本人の冒険的商人たちや、航海者、戦国の日本を飛び出して海外に活路を開こうとした若者たちは、帰国の道を閉ざされ、帰国すれば死罪という過酷な仕打ちが待ち受けることとなった。やがて海外拠点に形成された日本人街も消滅してしまう。この間1637〜8年には「島原の乱」が勃発し、キリシタン弾圧と内政強化(幕藩体制の強化)を加速させ、ますます世界に向けて国を閉ざす。家康のグローバル戦略の成果は、長崎出島に押し込められたオランダとの通交だけになってしまい、幕府統制管理下に置かれた長崎出島が、幕末までの200年余り唯一の海外への窓口となった。こうして、家康が構想し、押し進めた、いわば重商主義的な日本のグローバル成長戦略、海洋国家としての世界への雄飛というビジョンは、その息子と孫によって幕引きされてしまった。


グローバル・ヴィジョナリー・リーダーとしての家康

我々が教えられてきた「日本史」の教科書的には、家康といえば、信長、秀吉に続く「天下統一」の事績が強調される。そしてキリスト教の脅威から日本を守るために鎖国した江戸幕府初代将軍とみなされている。しかし、世界史的には、見てきたように、家康は、大航海時代/大発見時代という世界のトレンドを視野に入れて、海外戦略を立案、実行した日本の「皇帝:Emperor」とみなされていたことを忘れてはならない。「鎖国」どころか、むしろ積極的に海外との交易を広げ、日本人の海外進出を進め、ヨーロッパとの交易を促進するために平戸、長崎に加え浦賀に港を開設するなど、日本がグローバル化する世界市場で生き残り、成長する道を模索した。そういう目線と視野を持った、今風に言えば、グローバル・ヴィジョナリー・リーダーであったと言えるだろう。しかし、彼の後継者は、その外交戦略を引き継がず、むしろ、国を閉ざす「鎖国」の道を選んだ。日本側の資料(江戸時代に編纂された「徳川実紀」等の、いわば徳川家の公式記録)には、その様な世界情勢に目を向けた「国際派」としての家康のプロフィールや事績は消され、家康を東照大権現として神格化して、家康の子孫たちが進めた「鎖国政策」のルーツを神君家康公に求め、徳川幕藩体制を維持するために、代々守り継ぐべき「祖法」であるとした。

しかし、家康の外交政策の事績は、海外の資料に顕著に見ることができる。宣教師の報告書や手紙、オランダ/イギリス商館の記録、手紙、アダムスの手紙、オランダ使節ニコラース・ボイクの報告書、イギリス使節セーリス航海記録などヨーロッパ側に残されている公式、非公式の記録、あるいはそうした一次史料を研究した後世の歴史家の著作に描かれた家康は、日本側の資料からは見えてこない「意外な姿」で描かれている。言ってみれば、彼は、大航海時代に新興の海洋国家として、重商主義的政策により、新興国であったイギリスの発展をリードした、エリザベス一世のような絶対君主と対比される人物として描かれていることが興味深い。例えば、ジョン・セーリスの駿府、家康への謁見記録には、その皇帝の尊厳ある佇まいにひれ伏し、その城がイギリスよりも壮麗であることに感動している様が記述されている(「ジョン・セーリス日本航海記」)。駿府の家康は「皇帝:Emperor」で、江戸の将軍秀忠は「王:King」と理解されている。駿河:Surugaはロンドンよりも大きく殷賑な都会で、街は清潔に整備されている。皇帝に謁見を求める諸外国の外交使節たちが、順番待ちで列をなしている。皇帝との謁見では、イングランド国王ジェームス一世の親書を皇帝に直接渡そうとして、アダムスに嗜められ、側近が皇帝に渡す礼儀となっている事に戸惑っているが、守備よく皇帝から貿易許可書をもらい、日本にイギリス東インド会社の商館を開くこと許可されたことに感謝している。次に、セーリスは、将軍秀忠に謁見するために、駿河から江戸に旅立ったが、その途中の街道は極めてよく整備され景色が美しい。そして江戸:Yedoは駿河:Surugaよりもさらに大きな都会であると書いている。もう一つ、スペイン人の見た家康像で、面白いエピソードとして紹介したいのは、スペインの宣教師が本国に送った報告書の中で、「日本の皇帝、家康が民間の商船に与えた朱印状は、決して相手の領土や植民地を侵略したり、艦船を襲撃して財物を奪ったりする事を許可するものではない。ただ相手国との貿易により商業的な利益を得ることが目的である」と報告していることである。イングランド国王の私掠船許可状(いわば海賊行為の公認)とのアナロジーを懸念する必要はないと本国に注意喚起しているわけだ。イングランドやオランダの私掠船に襲撃されて大きな被害を受けていたスペインらしい報告だ。しかし、家康の朱印船貿易の担い手である、日本人の航海者や商人達が、イングランドのホーキンスや、ローリー、ドレイク、キャベンディッシュのような冒険的航海者として世界に羽ばたいていたら、日本の江戸時代はもっと違った時代になっていただろう、と密かに妄想する。

だが、やはり、家康の10年余りの駿府外交だけではそれは無理であった。残念ながら、後継者にその器量と目線がなく、有力な重商主義的な経済思想家も、彼の意志を継ぐ重臣も生まれなかった。家康に育てられた航海者、冒険的商人たちは、花咲く前に海外に打ち捨てられた。東インド会社のような株式会社も生まれなかった。結局、家康の後継者たちは、重商主義的な貿易拡大という積極策による幕府政権の強化よりも、封建領主的な守りの姿勢、幕藩体制強化に傾倒していった。海外との貿易が持続可能な国家事業として育つにはもう少し時間が必要だった。そういう間に「鎖国」してしまったのでその成長のチャンスはなくなってしまった。それにしても、家康は、天下統一、江戸開府の「将軍」であっただけでなく、世界史に名を残す日本の「皇帝」であったことは記憶されるべきであろう。そして、日本史的にもその事績を再評価すべき時が来ているのではないか。日本とイングランド。こうしたユーラシア大陸の東西両端に出現した絶対君主の政策と事績は、其のありようの違いこそあれ、同時代を共有する歴史のSynchronicity(共時性)、Co-Incidences(共に事を起こす)の典型的な事例の一つである。この後に日本とイングランドがたどった道は大きく異なってしまったが。日本史を世界史の視点で見直すことで、新たに発見することは多いし、未来を見据える視点を養うこともできる。



参考:家康の駿府外交政策関連の年表

1600年 オランダ船リーフデ号豊後に漂着 のちにウィリアム・アダムス(三浦按針)、ヤン・ヨーステン(八重洲) 家康の外交顧問に

1600年 関ヶ原の戦い 征夷大将軍に

1603年 江戸幕府 江戸開府

1604年〜 日本商船の海外渡航の許可 ルソン、アンナン、トンキン、シャム、カンボジアなど19地域と「朱印船貿易」を開始

1605年 将軍職を秀忠に譲り、駿府へ。1607年駿府城修築 大御所政治、駿府外交の始まり

1606年 朝鮮との国交回復 講和成立

1607年 朝鮮通信使に接見

1606〜1609年 薩摩が琉球侵攻し支配下に

1610年 琉球国王尚寧 家康に謁見

1610年 明国に勘合貿易復活を要求 拒否

1614年 琉球国王を仲介に明国との国交回復を打診するも拒否

1609年 オランダ・オラニエ公の使節来訪 アブラハム・ファン・デン・ブルック、ニコラス・ボイグが家康に謁見 オランダと交易開始 アダムスの仲介で平戸にオランダ商館開設

1609年 スペイン船漂着 フィリピン総督ドン・ロドリゴ 家康に謁見

1610年 ロドリゴ、アダムス建造の船で、家康のスペイン国王宛の親書を持ってメキシコへ帰国

1611年 スペイン国王フェリペ三世の親書を携えてセバスチャン・ビスカイノ来訪 家康謁見 しかし交渉決裂

1612年 これを受けて、寛永異教令 キリスト教布教の禁止 ただ、これは「鎖国」の前触れではない

1613年 仙台藩の支倉常長 メキシコへ 1615年スペイン本国へ

1613年 イギリス国王ジェームス一世の親書を携えてジョン・セーリスが家康に謁見 イギリスと交易開始 アダムスの仲介で平戸にイギリス商館開設 浦賀案は実現せず

1614〜15年 大坂の陣 豊臣家滅亡

1616年 家康、駿府にて没す

1616年 家康死後、秀忠により「元和二年八月八日令」キリスト教禁止 ヨーロッパ船は平戸、長崎に限定 諸大名による海外貿易の禁止 朱印船貿易の制限 「鎖国」への第一歩

1620年 ウィリアム・アダムス 平戸にて死去

1623年 イギリス 平戸から撤退 

1623年 家光、第三代将軍に 矢継ぎ早の「鎖国政策」

1624年 スペイン人の来航禁止

1633年 日本人の海外渡航、帰国の禁止

1635年 中国船の寄港は長崎に制限

1637〜38年 島原の乱

1639年 ポルトガル船の来航禁止

1641年 オランダ商館の平戸閉鎖、長崎出島へ いわゆる「鎖国政策」の完成


参考:過去の関連ブログ

2022年1月8日 東西文明のファーストコンタクト カピタンの世紀②イギリス

2021年12月28日 東西文明のファーストコンタクト カピタンの世紀①オランダ


2023年5月10日水曜日

古書を巡る旅(33)The Capital of The Tycoon「大君の都」〜ラザフォード・オルコックの見た幕末日本〜


「大君の都」全2巻
ハーフカーフ、マーブルボード装の美しい本である



幕末/維新史を研究するときに必須と考えられる、英国外交官三部作(アーネスト・サトウ、ハリー・パークス、ラザフォード・オルコック)のうち、これまで手に入らなかったラザフォード・オールコックの「大君の都」初版をついに入手することができた。神田神保町では見つけ出すことが出来ず、ネット検索で、札幌の古書店にあったのを取り寄せた。これでアメリカのペリー艦隊日本遠征記、タウンゼント・ハリス日記に始まる「幕末/維新」史の主要史料が揃った。オールコックの「大君の都」オリジナルはクロス装のはずだが、本書は革装、マーブル模様、ギルトという豪華な装丁である。蔵書票が添付されており、Hector Stewart Richardson Oramsと記された紋章がある。どこかの名家の蔵書であったのであろうか。蔵書家としてオリジナルの装丁に仕上げたのだろう。来歴、素性は不明である。各ページには読んだ形跡もあり、ところどころに鉛筆による下線が見受けられる。しかし、全体的には痛みもなく極めて上程度の古書だ。

The Capital of The Tycoon  A Three Years' Residence in Japan:「大君の都」。1863年にロンドンで出版された初版本。初代駐日イギリス公使オールコックの、1859年から1862年まで賜暇休暇で帰国するまでの3年間の日本滞在記である。この時期の日本は、1853年のペリー来航に始まる幕末の激動と混乱の時期で、15年後に訪れる幕府崩壊、維新の前夜という時代である。横浜開港後、特に攘夷派による外国人へのテロ事件(ヒュースケン殺害など)が横行し、生麦事件と薩英戦争、下関戦争が起きた時期である。以前紹介した初代駐日アメリカ領事タウンゼント・ハリスの日記が、1854年から1857年までの開国直後の事情を知る貴重な文献史料であるが、残念ながらアメリカ領事館の下田から江戸善福寺への移転で終わっている。したがって攘夷の嵐に翻弄される外交団については触れられておらず、このオールコックの記録はそれに続く詳細な幕末史を語る貴重な資料である。さらにオールコック離日後の、大政奉還、戊辰戦争、明治維新とその後の出来事を語った資料としては、アーネスト・サトウの「一外交官が見た明治維新」があり、またオールコックの後任の第二代駐日イギリス公使ハリー・パークスの「パークス伝」がある。こうしたハリスからオールコック、サトウ、パークスと一連の英米外交官による記録を読み進めることで日本の幕末/維新の流れを通史として俯瞰することができるというのも皮肉だ。もちろんすでに気付かれたように、この間、アメリカ領事ハリスの帰国に伴い、対日外交の主導権がアメリカからイギリスに移って行った様子も確認できるであろう。オールコックの業績は、もちろん幕末におけるイギリスの対日政策の立案と実行である。特に他国に先駆けて日本を開国に導いたアメリカのハリスが、あくまでも交渉相手として幕府を重視したのと異なり、早くも幕府の先行きを危ぶみ、Tycoon(徳川将軍)の絶対権力を疑問視した。彼は、幕藩体制を、これを彼の言うところの前近代的封建体制であり、それは絶対王政とは異なり、徳川将軍家以外の諸侯が政権を奪取することを可能とする体制であると理解した。とりわけ薩摩や長州といった反幕府勢力との接近、そして同盟による、政権交代を支援した。これも皮肉なことにイギリスと戦火を交えた相手であった。換言すれば、すでに西欧諸国の近代的政治体制、産業資本主義、グローバリズム、自由貿易体制の襲来に、東洋の諸国が「攘夷」などと言い募っていつまでも門戸を閉ざしているわけにはいかないことを知らしめ、政治体制、経済構造の変革を促した。中国においては武力行使による帝国主義的な方法を取り、オールコックはその先兵として働いてきたわけである。しかし、日本においては、本国の厳格なポリシーが適用され、武力行使は禁じられた。それをオールコックは守り、内戦勃発(戊辰戦争)にも、彼の後任ハリー・パークスはオールコックの政策を引き継いで「局外中立」を宣言。一貫して武力介入を避ける方針を維持した。幕府側(特に慶喜は)も列強諸国の介入を徹底して回避する方策をとった。これが日本における「革命」/「王政復古」の性質を決めたといったも過言ではない。唯一の例外が馬関海峡における四国艦隊砲撃事件である。この事件は「大君の都」には記載されていない(出版後の事件であった)が、この武力行使の決定には、オールコックの強いメッセージが込められているように感じる。それはアヘン戦争やアロー号事件での武力による開港、領土割譲や外国租界の設定で清朝政府を屈服させたやり方ではなく、近代的な武力を見せつけることで、「攘夷」の非合理性を可視化する演出あるいは戦略である。事実、結果的に交戦相手であった薩摩や長州は攘夷からイギリスとの同盟関係へと転換することとなったことは衆知の通りである。

一方でまた、そうした日本の幕末/維新史に与えた影響とは別に、オールコックのわずか三年の滞在期間中に、日本中を精力的に巡り、外国人として初めて富士山にも登り、数多くの日本人と接し、膨大な日本美術品を収集し、英国におけるジャポニズムのブームを巻き起こした功績にも触れねばなるまい。ロンドン博覧会へ幕府使節団派遣や日本美術品コレクションの出展は彼の企画であった。日本の文化に対する欧米諸国の理解の増進に貢献したといえよう。かといってオルコックが日本を、東西文明「ファーストコンタクト」時代のルイス・フロイスなどポルトガル宣教師やウィリアム・アダムス(三浦按針)などのように、地球の反対側に見出したもう一つの文明国、と見做した訳ではない。かといってケンペルやツンベリー、シーボルトのような学者的好奇心で見ていたわけでもない。彼にとって日本は興味を引かれる芸術品にあふれた魅力的な世界ではあったが、決して西欧文明に対抗するようなものとは見做さず、12〜3世紀の古い封建制が東洋的に変容して支配する世界であり、またキリスト教的な「神の救いがもたらされない未開の異教徒」であり、文芸作品の繊細さは我々のそれの足元にも及ばないと看做している。オルコックの「大君の都」は、魅力的な芸術、工芸作品への愛着を除いては、全巻を通じて日本(幕末、すなわち1860年当時の)への辛辣な批判書となっている。このような評価の視点は、当時の西欧人の東洋観の基底にある価値観の表明であったとも言える。これはのちの明治になってから来日した「御雇外国人」が示した日本理解にも引き継がれている。例えば著名なジャパノロジスト、バジル・ホール・チェンバレンですら同様の視点が示されている。ただ、彼の著作「日本事物誌」ではオルコックの日本論を批判しているが。またラフカディオ・ハーンのようにそれに真っ向から異論を唱えるジャパノロジストも現れるのだが。本書にはオールコックの日本観、日本人観が克明に記述されているが、それは彼が信じる神の愛による慈しみの目ではない。キリスト教的世界観、価値観はどこまでもついてまわる。現代の多様性を重要な価値とする世界観とは異なる。それにしても彼の文章は「悪筆」の誹りを免れないだろう。段落もなく、長々と叙述が続き、話題が変わってもそのまま書き続けるので非常に読みづらい、メリハリのない書きっぷりと、意味不明な比喩の連発に悩まされる。これは英文読解力という語学能力の問題ではないと自分を慰めることができる。

本書には多くのイラストや挿画が掲載されている。その中には当時流通していた日本の浮世絵などから引用したものも多く、特に庶民の生活スタイルや風俗習慣に関するものが多数引用掲載されている。こうして見てみると、この頃の江戸の浮世絵師のビビッドな描写とウイットに飛んだ表現は西欧人でなくとも大いに感じるものがある。ましてオールコックも、すっかりこの日本のアルチザンにハマったことであろう。しきりに引用している。日常的に見る庶民の生活の様子がまるでスナップ写真のように記録されているので、彼が日本人の事細かな風俗、習慣を言葉で説明するよりも、絵で見せる方がより効果的で説得力あると考えたのであろう。実際、江戸の浮世絵師の表現は写真のようなリアリティーがあるし、漫画のような親しみやすさが溢れている。また一方では、「ロンドン画報」の特派員画家である、チャールズ・ワーグマンの絵もふんだんに掲載されている。これは貴重である。ワーグマンの好奇心に満ちた観察眼と細密な描写には驚かされる。長崎街道を旅する途中で出会った人々の日常を、これは取りこぼしてはならじ、とばかりにスケッチし彩色絵にしている。特に富士山登山の様子を描いたものは貴重である。この頃の登山はいかなる装束と装備で行ったのかがよくわかる。庶民の生活の様子も写実的に描かれており、まだ写真技術が普及していなかった時代には貴重なビジュアル表現であった。その描写は浮世絵師に負けていない。またオールコック自身も絵の心得があり、彼自身によるスケッチも含まれている。文章が悪筆なだけに、イラスト集としてパラパラ眺めるだけでも楽しい。彼のイラストは秀逸なので、そもそも漫画版「大君の都」を再版してくれたら、とさえ思うほどだ。冗談だが。


背表紙

ここにもマーブル模様


蔵書票

表紙 ワーグマンの筆になる「村の美人」

箱根からの富士山

吉原からの富士山
富士登山

小田原とあるが...

大坂

村の生活模様

長崎街道の宿場

旅の途中の小休止

嬉野温泉

日本地図

武士の身支度

警護の若い武士

女性の剃刀

浮世絵からの引用
庶民の日常
彼は日本人の休息の取り方は我々にとっては苦痛でしかない、と驚いている

食事中の船乗り 「魚の骨」が...

Sir Rutherford Alcock  (1809-1897)


ラザフォード・オールコックの略歴:

1809年ロンドン西郊外の医者の家に生まれる

1830年 イートン校卒業後、外科の開業医免許取得

1832年から軍医としてスペイン反乱鎮圧に従軍 しかし病気のため辞任

外務省に入省し東洋勤務を志望


清国時代(1844〜59年)

1843年 廈門領事館一等書記官

1844年 福州領事

1846年 上海領事 イギリス租界の設定 領事裁判権、関税制度に活躍

1855年 広州領事 首相パーマストンに、第二次アヘン戦争ともいうべきアロー号戦争を進言、実施(1856年)


日本時代(1859〜1864年)

 1859年 初代駐日総領事 のちに特命全権公使に 麻布の東禅寺に英国公使館開設

長崎に入港したのち、江戸、開港予定地である神奈川、函館など視察

1860年 富士山登山 愛犬トビーが熱海で熱湯を浴びて死去 地元での手厚い埋葬に感動

1861年 ヒュースケン殺害事件 江戸から横浜へ移転、1ヶ月後に江戸に戻る

1861年 ロシア軍艦の対馬占領に対応、幕府の許可を得て9月に英艦隊を派遣してロシアを対馬から退去させた。

1861年 7月第一次東禅寺事件 攘夷派浪士14名がイギリス公使館を襲撃 辛くも難を逃れたが、一等書記官オリファント、と長崎領事モリソンが負傷

兵庫開港延期に反対するも、事態を察し幕府遣欧使節団を支援。この頃幕府の権力の低下を実感する

1862年 ロンドン万博に幕府使節団を派遣、日本館出展。彼の日本美術コレクションを出展。英国におけるジャポニズムブームのきっかけとなった。賜暇休暇で帰国。この時サーの称号を得る。

1863年 「大君の都」をロンドンで出版

1864年  日本に帰任

留守中に「生麦事件」1862年9月

「薩英戦争」1863年8月 イギリス公使代理のジョン・ニールが賠償金を幕府から取り、その上でイギリス艦隊とともにを鹿児島に乗り込み砲撃戦となる 本国から批判

1863年 下関事件、1864年8月 四国艦隊下関砲撃事件勃発 下関砲台占拠

日本に帰任したオルコックは、長州藩による攘夷継続が長崎貿易に大きな影響を与えること、幕府の開国政策に影響を与えかねない(横浜閉港の動き)との危惧。また幕府に西欧諸国の武力を示す必要から長州藩への懲罰攻撃を決定。しかし本国は日本との全面的武力衝突に発展することを危惧し攻撃を否認と訓示。しかし訓示が届く前に攻撃開始となり、砲台が四国艦隊の陸戦隊に占拠された。

1864年12月25日 訓令違反を問われて駐日公使を解任され、本国召還。

その後彼の判断が正しかったと名誉回復されたが、駐日公使へは復職せず、後任としてハリー・パークスが江戸に着任。


第二次清国時代(1865〜69年)

清国全権公使に栄転 1865年


1869年の帰国後は、王立地理学協会の理事長、イギリス北ボルネオ会社会長などを歴任

執筆活動に勤しむ。

1897年ロンドンにて没


彼の駐日全権公使としての事績、幕末の歴史的な事件についてはこれまでのブログ(下記に列挙)を参照願いたい。特に「江戸高輪東禅寺 最初の英国公使館」にはオールコック着任から退任までの出来事をまとめた。


過去の関連ブログ:

2022年12月16日 古書を巡る旅(28)アーネスト・サトウとミットフォード

2021年11月28日 古書を巡る旅(18)「ハリー・パークス伝」

2021年6月12日 古書を巡る旅(11)「一外交官が見た明治維新」アーネスト・サトウ

2021年4月14日 古書を巡る旅(10)「タウンゼント・ハリス日記」

2020年10月7日 伊豆下田玉泉寺 最初の米国領事館

2020年10月1日 江戸高輪東禅寺 最初の英国領事館

2020年9月25日 古書を巡る旅(6)「エルギン卿遣日使節録」ローレンス・オリファント



参考:「大君の都」幕末日本滞在記(上)(中)(下) 山口光朔 訳 岩波文庫