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2025年12月1日月曜日

ご近所の秋 〜蘇峰公園、養玉院如来寺、荏原法蓮寺、旗岡八幡社、戸越公園、品川歴史館・松滴庵〜

 


毎年この時期になるとカメラ小僧は忙しくなる。そう、紅葉や黄葉を求めて定点観測地点の色づき具合を観察しながらカメラ担いで出かける。日本には紅葉スポットがたくさんある。しかし、京都なんぞは最近はトントご無沙汰だ。オーバーツーリズム状態で人を見に行くのか紅葉を見に行くのかわからない状態。このシーズンの京都の混雑は別に今に始まった話でもないが、外国人ツーリストが日本に押しかけるブームが続いていて、紅葉の名所は凄まじい混雑。かつての経済大国の面影もすっかり薄れた日本。どんどん「安くなった」日本に来てお金をいっぱい使っていって欲しいが、地元民が入り込む隙間もなくなるほどだとチト困る。中国政府が「日本では中国人に対するテロの危険があるので渡航しないように」などとプロパガンダフェイク流しても、中国人民の皆さんは政府の言うことなぞ信用しない人たちなので、続々と押しかける。それで良いのだ。政府同士の喧嘩なぞ我関せず。民草は民草同士、仲良くやろう。

まあしかし京都は控えるとしよう。遠出するのも億劫だし東京で紅葉見物?日比谷公園、後楽園、六義園、皇居東御苑、皇居乾通通り抜け。こっちはこっちでいつも人ばかり。神宮外苑の銀杏並木もすごい人で大混雑、とニュースでやっている!東京という街は普段から人でごった返している。いやいやご近所で紅葉見物と洒落込むのが賢い選択だ。歩いて行ける所に感動的な紅葉スポットがあるじゃないか。地元住民も気がついていないだけ。ほとんど観に来る人もなく、紅葉独占状態。カメラアングルを考えながら試行錯誤していてウロチョロしていても誰の邪魔にもならない。曇ってきて光の具合が悪ければ出直せばいい。秋の紅葉見物。春の桜見物は地元に限る。幸せの青い鳥は遠くまで探しに行かなくても自分の住んでいるところにいるのだ。


蘇峰公園




















12月7日追加




大井大仏 養玉院如来寺












荏原法蓮寺/旗岡八幡社


















戸越公園












品川歴史館・松滴庵(12月4日追加)











街角の秋













(撮影機材:Leica SL3 + SIGMA20-200/3.5-6.3 DG。最近入手したSIGMAの10倍の高倍率ズーム。比較的廉価ではあるが、解像度も高く、広角から望遠まで様々な収差も良く補正されており、かつハーフマクロレンズとしても使える万能レンズ。Leica SL3の6000万画素センサーにも十分に応えてくれる。何より小型軽量なのが嬉しい。SIGMAの気迫が感じられる「お道具」だ。ありがたやま)

2025年11月19日水曜日

カール・ポパー『歴史主義の貧困』:Karl Popper ” The Poverty of Historicism” 〜歴史の行く末は予測できない?〜

 

Karl Popper (1902~1994)


歴史をめぐる旅人「時空トラベラー」としては避けて通ることのできない著作がある。カール・ポパーの『歴史主義の貧困』である。「歴史は未来を予測できない」と断じた著作である。

カール・ポパーは、オーストリア出身で、ナチ政権の弾圧を逃れてニュージーランド、イギリスへ渡り、ロンドン・スクール・オブ・エコノミクス:LSEで長年教鞭をとった20世紀を代表する哲学者の一人である。ファシズム批判、コミュニズム批判など全体主義批判で知られる。本書は戦前から戦後の冷戦時代に盛んに読まれた哲学書である。90年代のソ連崩壊以降の世界で最近はあまり読まれなくなったようだが、その科学哲学における「反証主義」理論の衝撃は今も衰えることはない。そして今再び注目を集めている。

私は、80年代初頭LSE修士課程在籍中に、一度だけこの著名な哲学者の講義を聞きに行ったことがある。せっかくLSEにいるのだからこのカール・ポパーの顔くらい見ておきたいという、まるで有名人を見に行くような軽薄な関心であった。今から思えばなんとも恥いるばかりの浅学非才の若造の行動であった。講義は「社会科学における合理性とは」と言った内容だったように記憶するが、どんな講義であったかしっかり覚えてもいないし、今回取り上げる『歴史の貧困』を読んだのもずっと後の、あの91年のソ連崩壊の時のことだ。「なぜ共産主義、社会主義は破綻したのか?」と言う分析、評論が相次いだ時だった。なんたる大馬鹿者!もったいないことをしたものだ。しかし若き日のあの出会いの思い出が、時空を隔てて我が記憶の底から蘇り心に強く響き始める。もう少し人生の前半で知っておくべきであったが、今からでも遅くはない。いや、歴史の反動や科学的合理性への懐疑など、21世紀の今(再び)起き始めた大きな哲学的思潮のムーブメントを考える時にこそ本書を読み返す意味がある。

「歴史に学べ」「歴史は繰り返す」「愚か者は経験に学び賢者は歴史に学ぶ」。人はよくそう言うが、確かに人間は過去に犯した過ちに学ばず、同じ過ちを犯す。歴史は様々なことを現在の我々に教えてくれる。また未来を予測すらしてくれる。前車の轍を踏まないよう未来を歩む、それが歴史を学ぶことの意義だと信じている。おそらくそれは間違っていないのだが、歴史の発展に何か普遍の法則や理論があるのだろうか。だから未来は予測可能だと信じているのか。社会科学は自然科学のような科学なのか。歴史学は科学なのか? 本書でポパーは「歴史の行く末は予測できない」「歴史的運命への信仰は迷信である」「歴史学は反証不可能であり科学ではない」と論証してみせた。理論物理学はあっても理論歴史学は存在し得ないと。社会科学の諸分野で、経済学を除いては、すべて物理学的な方法論を試みて成功したものはなかった。そうした自然科学的方法論の適用可能性を論ずるなかで、「歴史(法則)主義:Historicism」が適用可能な方法論であるかの如く扱われ、それが自明のことであるかのようにさえ考えられてきたことを批判した。さらにこの「歴史(法則)主義」がファシズムやナチズム、コミュニズムのような全体主義を引き起こしたと批判している。

歴史を学ぶことの意義を考えるにあたって、ポパーはこのような重要な問題を提起しているわけで、私にとっては衝撃的であった。本書の元となった論文の上梓は1944年である。そして英語版の初版刊行は1957年である。世界がファシズムと戦い、やがて勝利し、あらたなコミュニズムという全体主義の脅威にさらされた時期の著作である。彼は本書の献辞で、「歴史的運命の不変の法則というファシズム的、共産主義的信念の犠牲となったあらゆる信条の、あらゆる国の、あらゆる民族の無数の男たち、女たち、子供たちを偲んで」としている。彼の反「歴史法則主義」はこうした全体主義に結びついてゆく危険性への批判から始まっていている。これはもちろん歴史に学ぶことの重要性を否定するものではないが、歴史に科学的な法則を見出そうとする、一見合理主義的な考え方の落とし穴、あるいは科学哲学上の矛盾を指摘しているのである。

本書の序文で、「歴史主義」の矛盾を次のように指摘して批判する。

(1)人間の歴史の道筋は知識の成長に大きく影響される。

(2)合理的または科学的な方法により、人間の知識が将来どのように成長するかを予測することはできない。

(3)従って、人間の歴史の将来の道筋を予測することはできない。

(4)このことは、理論物理学に対応する歴史の社会科学である理論歴史学が成立不可能であることを意味する。歴史の発展に関して、歴史的予測の基盤となりうる科学的理論というものはありえない。

(5)それゆえ、「歴史的発展の理論」、すなわち歴史主義の方法の根本目的は誤って構想されている。歴史主義は破綻する。

論点の根本は(2)で、「成長する人間の知識というようなものがあるとするなら、明日にならなければわからないことを、今日予知することはできないのである」。まさに予測不能な未来を論理的に予測することの矛盾を説いている。歴史の法則というようなものが未来に起きる必然を言い当てることはできないのである。

振り返ってみると、学生時代に学んだマルクス経済学。まずは入り口でフリードリヒ・エンゲルスの『空想から科学へ』を読まされる。社会や歴史の発展には法則がありそれに従って進んで行く、それはまさに空想ではなく科学であると。そしてカール・マルクスは、上部構造は下部構造が規定する。すなわち経済が政治活動や思想、宗教を決定付けると。資本主義が成熟すると、「持てるもの」と「持たざる者」という階級間の矛盾が生まれ階級闘争が起き、やがて資本主義は「徒手空拳のプロレタリアート」が生産手段を所有するという共産主義へと移行すると論じた。ヘーゲルの弁証法、唯物史観による「歴史法則」を説いたのである。「そうか、世の中は科学的な法則により動いているのか、歴史には発展理論があるのか」。ナイーヴな学生の頭には魅力的で理路整然とした説明であった。世の中の仕組み、歴史理論が分かったような気がした。若者が熱狂するはずである。また、自然科学の新発見であるダーウィンの進化論に触発されたハーバート・スペンサーの「社会進化論」にも「適者生存論」にも、社会や歴史の発展段階を科学的、合理的に説明する説得力を感じたものだ。

しかし、ほんとにそうなのか。社会科学は検証可能な出来事が繰り返される「合理性」を持った科学なのか。普遍的法則で歴史上の出来事は説明できるのか。そして未来を予測できるのか。この疑問はやがて、現実の社会では理論や法則に従ったとは思えない、検証不可能で再現性のない事象が出現し、むしろ矛盾に満ちた歴史が紡がれてゆくことを知ることとなり、より深まっていった。矛盾が取り除かれない事象は科学的に検証不可能なのではないか。ポパーが言うように確かにそこには「歴史(法則)主義」の落とし穴、矛盾があるのかもしれない。そう気付かされた。すなわち閉じた世界での宿命論的、決定論的歴史論は危険であるということを。

なぜマルクスが言うように資本主義が極限まで発展したイギリスではなく、資本主義すら経験も成立もしなかった農奴制国家、帝政ロシアがいきなり共産主義国家になったのか。なぜプロレタリア階級の理想政治のはずが独裁者による恐怖政治になったのか。なぜ歴史の発展段階における必然とされた社会主義、共産主義は100年も経たないうちに崩壊し世界から消えたのか。なぜ中国では共産主義崩壊後もプロレタリア独裁政党は生き残り、しかも専制的な国家資本主義国家に変質したのか。マルクスやレーニンの理論と矛盾するではないか。理論的に実証されたはずの出来事が次々と瓦解する、あるいは非合理的な変質を遂げ、矛盾したまま存在し続ける。歴史は科学なのか。

一方でファシズムやナチズムはどうか。歴史法則に則った合理的必然なのか。いやむしろ歴史法則の必然性を否定し、カリスマ的な独裁者による「意思」と「行動」により「人種的競争」における勝利を勝ち取り、「優越人種」が「劣等人種」を淘汰するといった「非合理的歴史観」いや「空想」に立っている。すなわちコミュニズムのいう「合理的歴史観」の台頭に恐れをなして沸き起こってきた、いわば恐怖に対する対抗理論である。現代の「陰謀論」のルーツと言って良い。たしかに両方(いわゆる極左、極右)とも、民主的な討論を嫌い、反対者を弾圧する独裁主義、あるいは全体主義である点は共通するが。ポパーの言う、歴史(法則)主義、歴史的運命の不変法則が全体主義を生み出す危険性があるという主張。それはコミュニズム(マルクス・レーニン主義)の歴史観には当てはまっても、ファシズム、ナチズムの非合理的歴史観には当てはまらないのではないか。そもそも科学的な「実証」も、ポパーが言う「反証」も不可能な「空想」に過ぎないのだから。あるいはダーウィンの「適者生存」理論を誤って解釈、借用したに過ぎないと言って良い。もちろん開かれた世界での議論を否定して閉じられた世界で主張される決定論的、運命論的「歴史法則」が危険な誤りであることに異論を挟む余地はない。

再び世界は今、陰謀論を振りかざす極右(ファシズム、ネオナチ)の台頭、選挙など民主主義的システムを利用して全体主義的な思想、体制が生み出される事態に直面している。民主主義やリベラリズムの衰退を懸念するそんな歴史の反動の時代を迎えている。一方で、経済的格差が極大化する社会に於いては、イデオロギーの左右の対立よりも、中間層の失われた所得階層ピラミッドの、ほんの一握りの上層と大多数の下層の対立がより大きな問題となっている。新たな「階級闘争」である。そんななかで新自由主義経済システムの矛盾を指摘し、富の偏在から再分配を実現しようという「社会主義」が見直され始めている。ここでは「全体主義的な社会主義・共産主義」ではなく「民主的な社会主義・民主社会主義」を目指そうという、保守主義への対抗思想である。左右のポピュリズムの台頭だ。またAIの進化に伴い発生する雇用機会の喪失、労働価値の低下、それにともなう格差社会、すなわち科学的合理性への懐疑、経済合理性への強烈な疑問が湧き起こっている。専制主義・権威主義と民主主義・リベラリズムの分断。経済成長と科学技術発展の果実を独占するトップ・オブ・ピラミッド(TOP)と、その富を享受できないボトム・オブ・ピラミッド(BOP)の分断。さらに言えばAIを使う人とAIに使われる人との分断。こうした分断と対立の構造も変化し始めている。

そういう予測不能な時代にポパーから何を読み取るのか。今は200余年前の「フランス革命前夜」「産業革命」の時代の状況に似ており、「歴史は繰り返す」とする世のコメンテータの論調がある。これは一聞するとわかりやすいように思える。しかしそれは「歴史のアナロジー」ではあっても、そこに「歴史の法則」を見出すことはできない。ポパーの「反証主義」が現代においても答えを導き出す手立てとなりうるのか。私はこの著作から、新たな思考のための視点を得ることができたが、まだ確たる答えをそこから得ることはできていない。しかし歴史に「法則」は見出せなくとも、少なくとも「教訓」は見出せるに違いない。ゆえに歴史を学ぶことの意義は失われることはない。ポパーもそれを否定しているわけではなく、それを「理論」「法則」と主張して誤った答えに到達することに警鐘を鳴らしているのである。いわば「理路整然と結論を誤る」。さらに本書についての世の読書人の評価を聞きたいものだ。


1989年アメリカでのペーパーバック版

日本語訳は2013年初版 日経BP社刊
岩坂彰訳、黒田東彦解説


ポパーの「反証主義」Falsificationism

ポパーの科学哲学思想の基本は「反証主義」である。すなわち科学における「実証主義」:Positivism or Critical rationalism、「帰納法」:inductionに対する、「反証主義」:Falsificationism、「演繹法」:deductionである。

彼は、科学的理論の正当性は、それが正しいことの証拠を挙げる「実証」ではなく、それが間違いであることの事例の検討、すなわち「反証」により決定される。反証事例が挙げられない理論は科学ではない。科学と非科学を線引きするものは「反証可能性」である。ポパーは、経験主義:Empiricismの系譜上にあるベーコン、ロック、ヒュームの「帰納と実証」ではなく、「演繹と反証」によって科学の当為(あるべきこと:Sollen)を基礎付ける。すなわち「反証可能性」がない理論は科学ではないとする。

「科学的真理」とは、現段階であらゆる反証事例の検討に耐え抜いた「仮説」であり、それはいずれ反証される「暫定的な真理」である。ニュートン物理学が光速度と量子の発見によって否定されたように。一つの実証は他の実証により覆される。科学の進歩は「実証」ではなく「反証」により実現されると考えた。

ポパーの「歴史法則」「社会進化の法則」「歴史発展の理論」などが科学的な理論ではないという指摘は、すべて彼の「反証主義」から自然に導き出される結論である。

ちなみにポパーの言う「歴史主義」は、哲学史でいうところの「歴史主義」すなわちHistorismと区別する意味でHistoricismと称している。日本語訳としては「歴史法則主義」とした方が理解しやすい。



2025年11月15日土曜日

御殿山、八ツ山橋界隈のイチョウ並木 〜第一京浜は黄葉のドライブコース〜




東京と横浜をつなぐ産業、生活の大動脈、国道15号線。通称「第一京浜国道」。普段は季節感を感じることが少ない忙しい道路だが、この季節になると品川、八ツ山橋界隈の銀杏並木が美しく色づき、普段とは異なる景色が広がる。三菱開東閣の森、そして反対側の延々といつ終わるともしれず続く品川駅再開発のクレーンを背景に、目にも鮮やかな銀杏並木が出現する。都会に秋の訪れを感じる一瞬だ。











御殿山下のJR回廊。 新幹線、東海道線、京浜東北線、山手線が走り抜ける大動脈。江戸時代には将軍家の御殿があり、庶民にも開放された桜の名所であった。江戸名所百景にも取り上げられた。しかし幕末のお台場建設の土取りで山が切り崩され、維新後は鉄道開設のため、さらに開鑿され御殿山は消滅した。ここも「近代化」の犠牲になった名所の一つである。




現在の御殿山庭園。わずかに残された江戸の桜の名所「御殿山」の痕跡。春には桜が今も美しく咲き誇る。秋は紅葉の名所でもある。しかし東京都心の紅葉シーズンはたいてい12月初旬。ここもまだまだ紅葉には早い。

紅葉はまだまだ先だ


庭園の滝の紅葉もまだ緑





(撮影機材:Leica SL3 + Sigma 20-200/3.5-6.3 DG このSIGMAの高倍率ズームは比較的廉価なレンズであるが、広角側が20mmから始まる便利なレンズ。非常に解像にも優れており高画素機SL3でも遜色ない、歪曲収差、周辺光量落ちもうまく補正されている。28~85mm域ではマクロ的撮影も可能な万能レンズ。軽量で取り回しにも優れブラパチの友としては最高だ)


2025年11月3日月曜日

古書を巡る旅(72)Yone Noguchi『Lafcadio Hearn in Japan』〜なぜ日本語が不自由なラフカディオ・ハーンが名作『怪談』を生み出せたのか?〜

 

「Yone Noguchi, 野口米次郎 日本人」と自筆で書かれている(Wikipedia)


なぜラフカディオ・ハーンは日本語が十分にわからなかったにもかかわらず日本人の心情や日本文化の基層を理解し、後世に残る「怪談:Kwaidan」「日本の面影:Glimpses of Unfamiliar Japan」「神国:Japan An Interpritation」などの多くの名作を生み出すことができたのか。そして日本だけでなく欧米はじめ世界中で大きな反響を起こし、今なお読書人の愛読の書となっているのか。これは私の中では一つの謎であった。文学作品というものは普通は言語で理解し構想し、言語で表現され、言語で読まれるるものであるはずである。しかし、彼は日本語の古い伝承物語の原典を読むことも、土地の古老の語りを聞き取ることもできなかった。にもかかわらず日本人以上に日本人の心を理解し、それを英語で表現し伝える「再話文学」の金字塔を打ち立てた。そして彼が語る日本人の心情が人間の普遍的な感性として世界中で受容された。なぜ?どうやって?

それゆえに、かつてはハーンはほんとうに日本を正しく理解し、正しく伝えているのか?という懐疑と批判があったことも事実である。これはアメリカで出版されたハーンの伝記の中で辛辣なハーン批判が展開されたことがきっかけであった。これを受けてアメリカの新聞、雑誌の書評で批判され論争となったこともあった。すなわち、彼の日本文化論は完璧なものではないのではないか。したがって小説や文学作品としても不完全であるというもの。

これに対し、ハーンが日本文化理解の正しさとその深い洞察力と感受性を存分に備えていると、日本の立場から反論したのが野口米次郎(Yone Noguchi)である。世界的に著名な詩人である野口は、ハーンへのこのような評価や懐疑に関する論争に、しばしばアメリカやイギリスの文学界、言論界の友人から、日本におけるハーンの評価について意見を求められてきた。彼自身、若き日に渡米しアメリカやイギリスにも長く生活し世界を巡った、日本を代表する国際人であり文化人である。Yone Noguchiとしてその作品が日米欧のみならず世界中で高い評価を受けているバイリンガルな詩人、文芸評論家である。その彼のハーン評は欧米の文芸人士にとって興味深いものであったろう。この求めに喜んで応え、世に問うたのが本書、『Lafcadio Hearn in Japan』である。1910年にロンドンと横浜で刊行された本書は、ハーンに敬意を表し、小泉家家紋入りの日本伝統の和綴本となっている。

野口は、その序文のなかで、ハーンが日本語を十分に理解しておらず、書くこともしゃべることも十分でなかったとの批判があるが、彼の日本語文献の解読は、多くのアカデミックな日本人アシスタント(literary assistants)のサポートにより極めて正確であり、その真意や繊細な情緒も正しく理解されていること。そして夫人の小泉セツの日本の民話や怪談の口頭伝承や文献収集などのサポートが、ハーンの言語を超えた啓発、インスピレーションにとって極めて肝要であったとして、このような批判に真っ向から反論している。またハーンには小説家や詩人としての想像力が欠如している、との批判に対しても、彼のイマジネーションとそこから紡ぎ出されるロマンの世界が、我々日本人が忘れていたものを思い出させてくれた。まるで「魔法のような想像力」によってである。そしてハーンのロマンは新たな日本の伝説となり、その作品はやがては遺産となるだろう。このように反論している。

ハーンが言語としての日本語を習得していなかったことが、日本文化の理解になんら支障をもたらすものではなく、むしろ、それゆえによりハーンの人間への共通理解、共感が、日本人の基層に横たわる霊的な感性や心情と共鳴し合い、より深化された理解を得ることができたことを野口は指摘している。すなわち、心から心へと言語を介さずにストレートに伝わったに違いないと。言語化できるものには限りがある。それを超えた理解をするためにはむしろ言語が妨げになることすらあると断じている。すなわち言語化することでイマジネーションが特定の言葉に固定化されてしまうことがある。セツ夫人がハーンに語り聞かせた英語/日本語混じりの怪談や民話のなかに、日本人の心情や、日本文化の基層にある自然崇拝、祖霊崇拝の宗教観が漂っており、ハーンはそれを音感や佇まいとして鋭く受け止め、その真髄と普遍性をうまく心で掬い出したと解説している。まさに文学の持つ芸術性の一端をハーンは垣間見させてくれた、と野口は感じたに違いない。

本書はこうした「ハーン論争」に対して一石を投ずるために、元々はNew York Sun, JapanTimes, Atlantic Monthlyに投稿した評論に、野口の評価を裏付ける論拠として、さらにハーンに関するエピソードを新たな章として加えて一冊にまとめたものである。

第1章「A Japanese Appreciation of Lafcadio Hearn:ラフカディオ・ハーンその日本における評価」では、野口はハーンを日本文学における現代(1910年当時)の上田秋成であると評している。上田秋成は江戸後期に活躍しや読本作家で、あの怪奇小説「雨月物語」の作者として後の山東京伝や曲亭馬琴などの職業作家に大きな影響を与え、日本の文学史にその名を刻んでいる。野口は、その日本文学界における巨匠、上田秋成に準え、ハーンは「耳なし芳一」の作者として長く後世に記憶され、日本の文学界に影響を与え続けるだろうと書いている。事実、現代ではそのような評価が定着している。ハーンの日本文化理解に懐疑的な論評や、小説家、詩人としてのイマジネーションの欠如云々、といった批判に真っ向から対峙する一文である。

また第2章「A Japanese Defense of Lafcadio Hearn:ラフカディオ・ハーン日本からの弁護」では、アメリカで出版されたハーンの伝記がハーンの姿を正しく伝えていないと批判している。そもそも野口は「伝記」というものには明と暗があり、とくにその暗部として、伝記作家の悪趣味が、読者に本人への共感をしばしば妨げることがあるとして、「伝記」と言う形態で評論すること自体に不快感を示している。ハーンの友人であったとするジョージ・グールド:Dr, George M. Gouldが刊行したハーンの伝記、『Concerning Lafcadio Hearn』を取り上げ、個人の手紙を無断で公開するような暴露趣味は、本人の実像を歪めるだけでなく、筆者の意図するハーンの評価を貶めるものとはならず、むしろ筆者 自身の評価を貶めるものとなっていると痛烈に批判している。

野口はまた新たな章を付け加え、「Mrs. Lafcadio Hearn's Reminiences」:小泉セツ夫人の回想録、そして子供たちの回想録。「Lafcadio Hearne at Yaizu」:ハーンが夏に子供を連れて海水浴によく訪れた焼津の漁師、音吉(「音吉だるま」のモデル)の思い出。「Mr. Otani as Hearn's Literary Assistant」:ハーンの松江時代の教え子で帝国大学英文科在学中の助手、のちに著名な英文学者、俳人として活躍する大谷繞石(ぎょうせき:正信1875〜1933)との交友エピソードを紹介している。さらに「lafcadio hearn in His lecture Room」:帝大研究室でのハーン、そして帝大最後のあの感動的な最終講義について紹介する中で、ハーンの文学、芸術の背景にあるいわば人的ネットワークのユニークさ、アカデミックコミュニティーの誠実さ、そしてハーンがいかに日本の庶民や若者に感動を与えたかを紹介している。先述の「セツ夫人の回想録」の中で、「夫は、日本の民話や怪談の古書を読み聞かせるときに、文章を読むのではなく自分の言葉で話してくれるよう度々頼んだ」と述べている。ハーンが耳から得られる感性、いわば音感による心情理解を重視していたエピソードだ。そしてその豊かなイマジネーションと想像力は死してなお止まることを知らぬげに溢れ出ようとしているのだと。セツ夫人の回想録の最後に述べられている言葉が象徴的である。「ハーンの未完の物語は彼が亡くなった後もまだまだ彼の書斎の机の引き出しに暖められている。何日か、何ヶ月か、あるいは何年も寝かせてからまた聞き始める。少なくとも彼の心の中にはまだまだ多くの物語が未完のまま仕舞われているはずだ」。ハーンの物語は生前の既出の書籍や原稿、書簡にとどまらないのである。

特に、野口は、先述の通りアメリカで盛んに試みられていたハーンの書簡集や伝記を出版することに懐疑的であった。これにはハーンの生涯の友人であったエリザベス・ビスランド:Elizabeth Bislandによる、現代でも定番とされるハーン書簡集や伝記:『The Life and Letters of Lafcadio Hearn』についても同様であった。ハーンの書簡を掲載してプライバシーを侵害したり、それによって誤ったイメージを定着させることを懸念している(注:ビスランドは出版後に日本のハーンの家族小泉家を訪ね、以後交流を続けその伝記の印税収入を家族に送っている。その内容についても「ハーン伝」の定本として現在では肯定的に受け止められている)。上述のグールドの暴露本的な伝記出版については、ハーンとその家族の日本での支援者であるミッチェル・マクドナルド:Mitchel McDonald(アメリカの退役軍人で横浜グランドホテルの創業者)も同様に不快感を示しており、ハーンに関する手紙や原稿を返還するよう交渉を行なったと言われている。ハーンとグールドは最初は友好的な関係で書簡の交換を行なっていたが、徐々に考え方の違いが明らかになり、最後は没交渉となった。そのような人物がなぜハーンの伝記や書簡集を出そうとしたのか。野口は、本書を刊行するにあたって、その序文で「わたしは伝記を書くつもりはない」と断っており、「ハーンの様々な人的交流のエピソードを紹介する中から彼の「人となり」や文学/芸術的な感性の背景にあるものを描くことが目的である」としている。本書が「ラフカディオ・ハーン伝」と位置付けられることを嫌った。

ラフカディオ・ハーン:小泉八雲は、国や文化や人種、民族を超えて、近代文明が忘れさせてしまった人々の心の底流に潜む神、精霊、あるいは妖精や迷信の存在を思いださせ、その多様性と普遍性を表現した。彼はカトリックでもプロテスタントでもなく、キリスト教布教以前から欧米文化の深層にある霊的なもの、アニミズム、自然崇拝の心を思い出させ、それを霊的な経験として異文化の人々とも共有することがでることに気づかせた。そのハーンの原体験は幼少期のケルトであり、またニューオーリンズで体験したクレオールでありブードゥーであり、その漂泊の旅の終着点で出会った日本の民間信仰、習合した神や仏、そして怪談であり民間伝承であった。それは言語化された知識として「理解するもの」ではなく、心で「感じるもの」であった。しかし、ハーンが偉大であるのは、その「感じるもの」をさらに言語化して人々に伝えたことである。のちに再話文学の金字塔と評価される所以である。それこそ野口が言うように「魔法のような想像力」によって文字として残し後世に伝えた。彼はケルトの語り部でもなければ、ブードゥーの司祭でもない。そして神道の巫女でもない。しかし彼らの口頭伝承や民間の伝承から得られたストーリーや「感じたもの」すなわち「感性」を言語化して「知性」として定式化した。しかしそれは民俗学や宗教学の論文としてではなく、文学作品としてであった。そうすることで国境を超えた人々に繰り返し読み継がれることができるようにした。そこが比較言語学者でキリスト教徒として日本を見つめたバジルホール・チェンバレンの日本理解と異なる点であろう。ハーンは単なる日本贔屓のジャパノロジストではない。「私は日本的なのではなくケルト的なのだ。教会より森に霊性を感じるだけなのだ」。著作『神国』でハーンはそう述べている。そういう意味で野口米次郎も同様の感性を共有できたのだろう。ゆえにハーン共感した。ゆえに偏見に基づくハーン批判に反論した。この著作を通してそれを強く感じた。そして私の中にわだかまっていたハーンの謎が少し解けたように思うと共に、ますますハーンの世界に引き込まれてゆく自分を発見する。。


参考過去ログ:

2025年9月17日 古書を巡る旅(69)小泉八雲「英文学史」講義録

2025年7月5日 古書を巡る旅(66)「神国:Japan An Attempt of Interpretation」

2020年6月12日 古書を巡る旅(2)ラフカディオ・ハーンを訪ねて


野口米次郎:Yone Noguchi (1875〜1947)

明治、大正、昭和初期に活躍した英詩人、小説家、評論家、俳句研究者。海外の文芸思潮の日本への紹介、海外への日本文化の紹介に貢献し大きな足跡を残した。

英語での作品、著作を数多く発表して、岡倉天心、新渡戸稲造、内村鑑三と並び、欧米諸国において日本の知性を代表する人物の一人として知られている。

1893年、慶應義塾を中退して18歳で渡米 サンフランシスコ、パロアルト、シカゴ、ニューヨークで多くの文人に教えを受け、スピリチュアルなコミュニティーにも参加した。その交流の中で多くの詩や評論などの文芸作品を発表し、才能を開花させて行った。さらには1902年にはロンドンへ。イエイツやロゼッティ、バーナード・ショーなどと交流。1905年帰国後には慶應義塾の英文科教授 1913年に再渡英、1914年オックスフォード講師 1919年アメリカ全土で講演旅行 1935年頃からアジア研究に傾斜、インドに滞在 各地でタゴール、ガンジーなどの多彩な人物と出会い、交流を深めてきた。

野口米次郎自身は、生前のラフカディオ・ハーン:小泉八雲とは直接の交流はなかったようだが、ハーン没後の小泉家とは交流があり,第3章「Mrs. Hearn's Reminiscences:小泉セツ夫人の回顧」にその様子が描かれている。野口のアメリカ人のパートナー、レオニー・ギルモアは、一時期ハーンの長男の英語の家庭教師を務めていたことがあるようだ。ちなみにアメリカの著名な建築家、彫刻家であるイサム・ノグチ(1904~1988)は野口米次郎とレオニーの子供である。

2016年11月15日 イサム・ノグチ美術館探訪記





ケース(左)付き日本伝統の和綴本
小泉八雲家家紋「下げ羽の鶴」






2025年10月27日月曜日

Leica M EV1登場 〜M型ライカから光学レンジファインダーを取ったら何が残るのか?〜

 

Leica M EV1  (Leica Camera AGウェッブサイトより)


Leica M11 Silver(比較用)

フィルム時代のLeica MD



10月3日、以前から噂されていた電子ビューファインダー搭載のLeica M EV1ついにが発表になった。Mシリーズの新製品登場!しかしどうしてあまり興奮しないのだろう。なぜか物欲が全く刺激されない。したがって「速攻予約」とはならなかった。

M EV1は、M11から光学式距離計ファインダー(レンジファインダー)を取り除き、Leica Q3の電子ビューファインダー(576万ドットEVF)に置き換えたもの。言ってみれば「ミラーレスM」である。もともとMにミラーはないので、ニコンのような一眼レフからペンタプリズムとミラーを取り除いたカメラとは異なり、「レンジファインダーレスM」ということになる。それ以外の基本スペックはM11と全く同じ。EVFによりバッテリー使用時間がM11より短くなり、貼皮がQ3と同じダイアモンドパターンに変わり、ISOダイアルが廃止された。レンジファインダーがなくなった分、ボディーが薄くなり重さが494gと若干軽くなった。価格はM11よりは若干低く設定されている。やはり高価な光学プリズムと繊細なメカでできているレンジフィンダーはコスト高なのだ。

私は保守的なMユーザではないし、レンジファインダーに拘ってもいないので、電子ビューファインダは歓迎だし、SL3やQ3でそのメリットを大いに享受している。しかし、このM EV1にはどうも惹かれない。まず外見がセクシーじゃない。Mから正面のファインダー窓がなくなり、それに伴う段差もなくなり、さらにISOダイアルも無くなった。怪談に出てくる「のっぺらぼう」みたいでショックを受けた。にもかかわらず、レンジファインダー用の測距窓だけは残している。セルフタイマーの点滅ライトだという!?またフレームセレクターレバーは残し、デジタルズーム(1.3倍、1.4倍)セレクターに使える。一眼レフカメラと異なりレンジファインダーカメラは「ミラーレス化」すると、ファインダー窓のある特徴的な外見は大きく変容を強いられる。デザイン的な工夫がないと、ただ「レンジファインダー」を取っただけの姿になりむしろ痛々しい。フィルムライカの時代にファインダーのない「のっぺらぼう」モデルもあったが、医学用などの特殊用途向けであった。伝統的なデザインとスタイル。それに最新技術を組み合わせる。デジタル化の過程でライカMはその試行錯誤の歴史を歩んできたが、今回もその次のステップへの一里塚なのだろう。

それにしてももう少しなんとかならなかったのか。フジフィルムのようなハイブリッドファインダーは考えなかったのか?Mからファインダー窓を取ったらMじゃない。むしろQシリーズ(元々レンジファインダーを前提としてないところからスタートしたデザイン)でレンズ交換できるモデルを追加して欲しいとさえ思う。幸いM11は継続発売されるし、レンジファインダー機は無くならないので、モノクロ専用モデルや液晶省略モデルと同様の、いわばMの派生モデルの位置付けなのだろう。またM EV1とあるので近い将来に改良版の2が出るのだろう。どんな答えを出すのか期待したいが、MはMのままでよい。当面、Mレンズ資産を「ミラーレス」で使いたければSL3ボディーがあるので問題ない。

このカメラでどのような撮影体験ができるのだろう。言うまでもなくカメラは写真撮影にとってとても大事な「お道具」なのだから、まずその「良い仕事しているお道具」に惹かれなければワクワクする撮影体験もできない。スマホで代替できない所以だ。技術的な合理性だけでは感性は刺激を受けない。「今日はこれを持って街に出よう!」と言う高揚感を刺激してくれる「お道具」。それがライカの魅力のはずなのだ。次を楽しみに待とう。ちなみに今年はライカ100周年だそうだ。その節目のM EV1。次の100年に向けてのスタートか。

ちなみにLeica MのMは、Messsucher、すなわち「距離計」を意味する。


正面のファインダー窓と段差がなくなった
背面

軍艦部 正面の段差がなくなった分だけ薄くなった。ISOダイアルがなくなり寂しくなった


電子ビューファインダ 視度補正できるがまるでQ3のファインダーだ。
しかしQ3に比べると突出が抑えられ、枠も擦れに強い素材に変更されている。


12月12日追記:

やっぱり気になってゲットした。Map Cameraでも「在庫あり」。しかも早くも中古まで出ている。意外に人気薄なのかも。早速使ってみたがやはりEVFは便利だ。特にSummilux50, 35最新版の近接撮影では威力を発揮する。マクロアダプターもようやく日の目を見ることになる。外付けのEVF, Visoflex2(370万ドット)よりは数値の上でも解像度は良い(576万ドット)。ただSL3のEVFも同じ解像度であるが、MEVIより明るくて見やすい気がする。なぜなのか。良くも悪くもファインダーはQ3のそれだ。考えてみるとQ3ではファインダーを覗いて撮る事が少なかった。背面液晶画面での撮影が多かった。Mの場合は、マニュアルでのピント合わせが必須だからファインダーに頼らざるを得ない。そこで気づく解像度とファインダーの見え方。やはり光学ファインダーのようなわけにはいかない。またネット上で言われているバッテリーの減り方は確かにM11に比べれば早いが、通常のブラパチでは十分1日もつので問題はない。心配なら予備バッテリーを持ち歩けば良い。また一部のファンのコメントで、電源オンからの起動レスポンスが悪い(遅い)との指摘がある。しかしあまり感じない。ましてスリープからの立ち上がりも悪くない。M11と差して変わらない。確かにNikon Z8に比べると遅い。初期の頃のデジタルMに比べれば格段にレスポンスは良くなった(昔が悪すぎたので飼い慣らされたのか?)。ボディーの作り、クオリティーは思ったより悪くない。光学ファインダーが取り除かれた分ボディー単体だと確かに軽くなった。しかしレンズ付ければ誤差範囲。ライカは手にずっしりする方が良い。無理に軽薄短小にしないところがライカなのだ。ファインダーはQ3にくらべ、突出部を抑え、窓枠も擦り傷のつきにくい素材に替えているようだ。M EV1は「実用機」になった感じだ。これからブラッシュアップして「お道具」に仕立ててゆくのか。

ちなみにボディー正面の「のっぺらぼう」対策として、元レンジファインダー窓があったところに黒いマスキングテープを窓枠の形に切って貼ってみた。史跡「レンジファインダー跡」として過去の歴史に想いを馳せる。ついでに赤バッジもマスキングすると、精悍なMの風貌がとりもどせる。これは気に入った!

「レンジファインダー旧跡」にマスキング


EVFになって便利になったのは花の写真、近接撮影だ。。とくに密集した草花の撮影時の二重像合致式ファインダーは難しかったが、ピント合わせが格段に改善した。しかし、それにしてもNoctilux, Summilux系レンズで撮影してあらためて気づいたのは、開放、近接撮影のピント合わせの難しさだ。Mは手ぶれ補正もなくAFもないカメラなのだということ。ファインダーでピント確認しながらマニュアルで撮って結果を背面液晶で確認する。やはりピントハズレ、手ブレがある。ポスプロ時にPCの大画面で確認すると余計にピントズレが気になる。特に開放時の撮影では被写界深度が薄く、手が震えたり体が揺れたりするだけでピントがズレる。これはEVFになっても解決しない。撮影時にCapture Assistantで拡大したり合焦部をハイライトさせたりすると、むしろ余計にピントの山が見にくくなくなる。何枚か撮ってピントの合ったものを選ぶしかない。しかし、これは写真撮影の基本に立ち返り、撮影の現場でしっかりカメラをホールドして体を固定して被写体を凝視すべし、ということに尽きる気がする。AFや手ぶれ補正ありきに慣らされた撮り手の問題だ。きちんとした撮影にはやはり修行が必要なのだ。EVFになってもあらためて写真の基本に帰らせてくれるのがMカメラでの撮影だ。


作例:


花が密集したシーンはMの二重像合致式のOVFが苦手とする被写体。
EVFが威力を発揮する。しかし開放でのピント合わせはやはり練習がいる。狙ったところにピントが来ていない。それにしてもこの立体感はさすが!

Summilux50/1.4の最短撮影距離は45cm。一段絞った。
葉っぱを手に持って撮影出来るような距離になったが、手ブレとピントがなかなか曲者。風が吹いても体が揺れてもピンボケ!これも修練がいる。何枚か撮った。
しかしこの背景ボケは味がある。


開放で撮影。ピントの合った部分とボケのとろけるような背景のコントラストが好きだ。
M型ライカとSummiluxでこれが撮れるようになったことは嬉しい。


EVFでピント合わせの練習
Summilux 35mm f.14開放絞りで
拡大すると手前の葉のエッジ部分にピントが合っている。







(カメラの写真はLeica 社HPから引用)

2025年10月20日月曜日

古書を巡る旅(71)The Life of Sir Isaac Newton :『ニュートン伝』 〜近代科学の祖にして最後の魔術師?〜


The Life of Isaac Newton 『ニュートン伝』


ニュートン肖像(1698年)Wikipediaより


アイザック・ニュートンとは何者か?

 17世紀後半、イギリスで活躍したアイザック・ニュートン(1642〜1727)。ケンブリッジ大学トリニティー・カレッジに学び、のちに教授となる。哲学者、自然科学者、天文学者、物理学者、数学者、光学者、神学者、政治家、造幣局長官。数々の経歴を持つ彼は、総じて言えば自然哲学(Natural Philosophy)、すなわち後の自然科学(Natural Science)の祖であり、科学革命を起こした人物として歴史に名を刻んでいる。哲学と諸科学が未分化であった時代に自然科学を打ち立てたと言っても良い。中でも教科書で学んだように「万有引力の法則」「光のスペクトル分析」「微分積分」ほニュートンの三大発見と言われている。また天体観測用の反射望遠鏡を開発したことでも知られる。しかし、彼の歴史における事績とその評価は、このような教科書に書かれているような事柄だけなのか。もっと違う横顔があるのではないか。少し異なる角度からニュートンの実像に迫ってみたい。


『プリンキピア』と「万有引力の法則」

1687年に著された主著『プリンキピア:Principia』。すなわち『自然哲学の数学的諸原理』のなかで彼は、「われ仮説をつくらず」。「あくまで観測できる物事の因果関係のみを示す」として、当時主流と考えられていたデカルトの自然哲学の仮説の理論的矛盾を指摘した。つまり「引力はなぜ発生するのか」「何のために存在するのか」といった問いには答えず、「引力の法則」がいかに機能するかの説明に徹した。形而上学的問題を避け、予測、計算、検証可能な普遍原理を追求した。これまでの自然哲学はギリシアのアリストテレス以来のスコラ哲学に基づく形而上学的な宇宙、自然理論が主流であった。そこにデカルトの演繹論に基づく合理主義的自然理論が勃興してきて、物事の運動、重力には必ず何か究極的な原因があるはずで、それを「エーテル」の圧力や渦動に求めた。しかしニュートンは、実験や観測で実証され得ないものを原因とすることを批判した。すなわち思弁的、観念的な仮説に過ぎずないもので証明しようとする矛盾を指摘した。自然を観察、観測、実験に基づく実証的な方法で解明し理論化し、それを数式化することで一般法則を見つける。近代的な自然科学(Natural Science)が始まった瞬間である。

ニュートンといえば「万有引力の法則」:Law of Universal Gravitationの発見であろう。それは世の中にどのようなインパクトを与えたのか、それまで長く自然を支配する運動法則は天上界のそれと地上界のそれは別であると考えられていた。これはガリレオの地動説が認められてからも依然として有力な考え方であった。しかしニュートンは『プリンキピア』の中で質量、運動、慣性、力の定義を行い、三つの基本法則(慣性の法則、運動方程式、作用反作用の法則)を打ち立てた。いわゆる「ニュートン力学」と言われるものである。地上でリンゴが落ちる引力(重力)も天体を動かす引力(重力)も同じであるということ(万有引力:Universal Gravitation)を理論化してみせた。デカルト主義の哲学者、科学者は、重力や運動には何か究極的な原因があるはずで、演繹的思索の果てに、それを宇宙に充満するエーテルの力だと結論付けた。いっぽうでケプラーは磁場の力をその原因であると主張した。しかしそれらを証明する証拠は何も見つかっていないとニュートンは「プリンキピア」において指摘した。こうしてニュートンはこれまでのガリレオ、ケプラーなどの先人が発展させてきた物理学を「ニュートン力学」として体系付け、これにより古典物理学は完成を見たと考えられている。20世紀における新たな物理学的発見、すなわち「相対性理論」や「量子力学」により「ニュートン物理学」で説明がつかなかった領域があることが明らかになったが、それでも我々の日常の事象を説明する理論としての価値は不動のものである。今年は「量子物理学」発見から100年の節目である。


「プリンピキア」初版の表紙


ペストが産んだ世紀の大発見

この「万有引力」理論発見のきっかけてなったとされる「りんごの木」の話は、今でも伝説的に語り継がれる逸話である。かれは1665年から1666年にかけて、ペストの二回目の大流行でケンブリッジ大学が休校となりやむを得ず田舎に避難していた。この時期に大学を離れ、自然豊かな環境(おそらくリンゴの木もあったのだろう)でゆっくりと思索に耽った。そのなかから生まれたのが「万有引力の法則」である。「リンゴの落下」はその象徴として伝説になった。「光学スペクトラム」「微積分」もこの時の思索からアイデアが生み出されたとされる。後世にニュートンの「創造的休暇」と呼ばれたもので、ペストというパンデミックが思いがけない時間を与え、それが思いがけない歴史的な成果を生んだ。現代のコロナパンデミックは、後世に何か創造的成果を生み出す機会になったのであろうか?これからの世界に何らかのインパクトを与えるニュートンのような人物が現れ、画期的発見、考察、理論が姿を表すのだろうか。それを楽しみにしたいものだ。


イギリス経験論哲学の継承者

彼がケンブリッジで学生、教授として活躍した時代は清教徒革命から1660年の王政復古。さらに1688年の名誉革命の時代である。政治的には激動の時代であったが、イギリス啓蒙主義が起こり、経験論的な哲学思想、科学的な合理主義が主流となっていった時代でもある。やがて産業革命の時代、大英帝国躍進の時代へと変化してゆくその前夜と言って良い。一方でニュートンの理論(『プリンキピア』で論じられた)は大陸の自然哲学者からは認められなかった。むしろ怪しげな実験や観測手法を用いるオカルトの一種とみなされたこともあった。ニュートンの思考方法とアプローチは、デカルト合理主義(演繹法的)とは異なり、フランシス・ベーコン、ジョン・ロックの経験論哲学(帰納法的)を起源とする。フランシス・ベーコンは以前にも紹介したように、デカルトとは対極にある。ベーコンが「知は力なり」、実験や観察を重視する実証的な手法(帰納法)による合理性を唱えた最初の哲学者であるのに対し、デカルトは「我思うゆえに我あり:Cogito ergo sum」、すなわち人間の理性を第一原理とし、それを全ての出発点と考えた(演繹法)。ベーコンの経験論哲学はジョン・ロックによって体系化され大きな影響を受けた。、ニュートンはそのロックとは交友関係にあり、二人の間に多くの書簡が残されている。ニュートンはまさにこのイギリス経験論哲学の継承者の一人でありその実践者である。そしてその果実が『プリンキピア』なのである。

2024年8月10日「古書を巡る旅(54)」ベーコン書簡集(1)


人間の感性とロマンの破壊者?

このようにニュートンは近代合理主義、科学の時代を生み出した輝かしい人物として評されている。ここまでは教科書に記述された我々が学んだ定番のニュートン像である。しかし、彼は科学革命を起こした近代科学の祖であり、理性の価値を高めたとされる一方で、人間の感性のもたらす価値を相対的に後退させた元凶とみなされることもある。産業革命後の科学万能、合理主義万能に対する反発は、文学や芸術の分野から起こり、ロマン主義の復活とともに沸き起こって行った。スウィフトの『ガリバー旅行記』に出てくる架空の国「ラピュタ」も科学万能主義への痛烈な皮肉である。19世紀ヴィクトリア朝時代末期には・ジョン・ラスキの「自然に帰れ」という思想や、アール・ヌーヴォーのウィリアム・モリスなどその影響を受けたロゼッティ兄弟の、いわゆる「ラファエル前派」のグループが、ニュートンを「文学の詩情の破壊者」と公言して、科学万能主義や合理主義への反動運動を起こした。ウィリアム・ブレイクの詩集『ミルトン』にはニュートンをイメージした挿画があしらわれ、人間のロマンと感性を破壊した象徴として描いている。ただ、このムーヴメントは20世紀に入ると衰微して、世紀末的芸術思想とみなされるようになるが、近代合理主義、科学万能への批判が出るたびに、その「元祖」ニュートンが象徴的に槍玉に上がる。人間の理性(頭)と感性(心)、合理主義とロマン主義。この二項対立は、圧倒的な技術革新(イノベーション)、科学万能、技術優位の動きが加速した20世紀、21世紀にこそ先鋭化しがちなテーマである。しかしこの二つは相剋しつつもブレンドし合う「糾える縄の如し」である。この論争はこれからの世界でも繰り返し起こるに違いない。「産業革命」の次の「情報革命/デジタル革命」の時代を生きる我々の現代的な課題、例えば「AIと人間」といった二項対立に持ち込みがちな問題も、歴史的に俯瞰してみる視座と思考回路が求められる。これもニュートンが扉を開いた新たな自然哲学(自然科学)、科学革命が引き起こした哲学上の課題であろう。21世紀の現代に世界中で起きている科学の進歩、民主主義、資本主義にまつわる諸問題の理解、分析、解決を試みる際に、イギリス経験主義哲学の系譜の上に花開いたジョン・ロック(民主主義)、アダム・スミス(資本主義)とともにアイザック・ニュートン(科学)もその哲学思想の原点に帰って理解し、その現代的意義を再評価してみることは有益な試みである。

2024年2月10日古書を巡る旅(45)「ジョン・ロック全集」、 

2023年1月5日古書を巡る旅(29)「アダム・スミス全集」


ウィリアム・ブレイクの描くアイザック・ニュートン
産業革命後の科学万能時代を批判する意図で描かれた


ニュートンの実像: 近代科学の祖?最後の魔術師?

しかし、ニュートンのこうした歴史上の偉人、レジェンドとしての姿は、後世に人々によって形作られたものである。ただその人生は観察や実験、数理的定式化、自然科学的な合理性では説明がつかないものであった。大学でのロバート・フックとの「万有引力」発見の先取り争いなど、学究生活のゴタゴタで疲弊し、長く勤めたケンブリッジの教授のポジションを捨てて下院議員として政界入りしたり、王立造幣局長官のポジションに移ったり。これはまた彼の実績が経済的に評価されない(報酬という面で)ことへの不満の現れでもあったと言われる。哲学者、科学者ニュートンの姿はどこへ行ってしまったのか。政治家としては活躍しなかったようだが、そこには行政官としての力量を発揮し、贋金作り撲滅に没頭するニュートンがいた。晩年には王立協会の会長に推挙され、死後は国葬を持ってウェストミンスタ寺院に埋葬されるという栄誉によくするが、人間ニュートンは世俗の煩悩から解放された孤高の存在ではなく、むしろその中で呻吟し一時は精神を病む生身の人間であった。また「南海泡沫事件」(17世紀イギリスのバブル崩壊事件)で有名な投機目的の南海会社に巨額の投資をして失敗し財産を失っている。「わたしは天体の動きは計算できるが、人々の狂った行動は計算することはできない」という名言を残したことでも知られる。

20世紀に入り、1936年にニュートンの遺稿が大量に見つかりオークションにかけられ、その半分を経済学者のケインズが落札した。驚くことにその大半は錬金術やオカルトに関する論文だった。また彼は神学においても著作を残しており「ヨハネの黙示録」など独自の終末論を展開した。自然哲学と同じくらい神学にも力を注いだ。彼はニュートン物理学を確立したが、それがキリスト教の教義と矛盾するとは全く考えていなかった。ケインズはその著書『人間ニュートン』のなかで、数学と天文学は彼の仕事のほんの一部に過ぎず、彼が最も興味を抱いたテーマではなかった。「ニュートンは理性の時代の最初の人ではなく最後の魔術師である」「古代/中世に片足を置き、もう片足で近代科学への道を踏んでいる」と評している。17世紀は確かに近代科学が始まった時代で、まさにニュートンがその扉を押し開いたのであるが、まだ中世の残滓を多く引きずった時代でもある。半世紀前のフランシス・ベーコンが苦闘した「魔術から科学へ」の時代からそれほど進化していない時代と言っても良いだろう。左はさりながら、このことでニュートンの哲学者、科学者としての業績が過小評価されるものではない。


デヴィッド・ブルースターの『ニュートン伝』

本書は19世紀のスコットランド人で、セント・アンドリュース大学総長、エジンバラ大学総長などを勤めたデービッド・ブルースター:Sir David Brewster (1781〜1868)による『ニュートン伝』である。彼はブルースター角(偏光角)と屈折率の関係の発見(ブルースターの法則)、色の三原色定義や万華鏡を生み出した著名な光学研究者、物理学者である。このブルースター版『ニュートン伝』は、ニュートン研究にとって重要な著作の一つであり、彼が後世に残した業績の一つである。彼自身が光学研究者であることからか、この評伝もニュートンの光学者としての功績からスタートしているが、万有引力、微積分の研究など、自然哲学(自然科学)の祖としての評価、偉大なる科学界の先達を顕彰する評伝となっていることは不思議ではない。もちろん20世紀における新たな物理学の発見、すなわち「相対性理論」「量子力学」の成果以前の著作であるので、あくまで古典物理学の世界での話ではある。また先述のケインズの「ニュートン最後の魔術師」説について、その一面を示すエピソードについては言及がない。ただ神学者としてのニュートンについては一章を設けており、神学と近代科学が両立しうるものであることをニュートンは疑っていなかったとしている。またベーコンの経験論の影響を受けたと言われるが、ニュートンが実践したのは「実験」と「観察」だけでありその経験論哲学はベーコンとは異なる独自のものだとも評している。ニュートンに関しては数多くの伝記作家や科学史家の評伝があるが、光学研究の泰斗が著したという点でユニークである。しかし、ニュートンの多面的な人物像を描き出していることも指摘しておきたい。

この書は1831年の初版、1855年の改訂版を元に1868年のブルースター死去後に、王立グリニッチ天文台のW. T. Lynnによって改訂、編集されたものである。出版社はCall & Inglis (London, Edinburgh)で、出版年は記されていないが1870年代以降であろう(蔵書者による1881年というメモ書きがある。恐らく入手した年ではないか)。イギリスのこうした書籍にしては珍しく索引:Indexがついておらず、少なくともこの版に関しては学術的な研究書として刊行されたものではないのではないか。装丁も豪華で、ブルークロス装に金文字、四方金のアール・ヌーヴォー調の外装を纏った美しい書籍である。科学者による「近代科学の祖」の伝記としてはやや不釣り合いにも見える、先述のよう反合理主義、科学万能主義への反発が文芸、芸術界で沸き起こった時期の刊行である。まさにアール・ヌーヴォーの全盛期に入ろうという時代、そのアール・ヌーヴォーを纏った『ニュートン伝』。これは科学界から文芸/芸術界への何らかのメッセージなのであろうか。あるいはただ読書家向けの愛蔵版を企図した出版社のコマーシャリズムに過ぎないのか。ある意味で時代を映し出す不思議な書籍を残したものだ。考え落ちなのだろうか。

参考: CiNiiによれば日本では東北大学図書館、山梨大学図書館に収蔵されている。


ニュートン肖像と表紙(彼の生家だとある)


ニュートン式反射望遠鏡




アール・ヌーヴォー調の豪華なデザインの装丁

Sir David  Brewster(1781〜1868)