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2021年6月19日土曜日
時空トラベラー The Time Traveler's Photo Essay (アーカイブス): 豊後杵築を散策する 〜高低差ファン垂涎の城下町〜
2021年6月12日土曜日
古書を巡る旅(11)A Diplomat in Japan:「一外交官の見た明治維新」〜倒幕/維新のシナリオライター? 若きアーネスト・サトウの記録〜
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| A Diplomat in Japan 1921初版 |
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| ラザフォード・オルコックの「大君の都」岩波文庫版 こちらは岩波から復刻版が出ている |
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| 最初の英国公使館が置かれた高輪の東禅寺 東禅寺事件の現場となる。 オリファントとサトウが滞在した |
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| Ernest Mason Satow (1843-1929) |
対日外交の主役はアメリカからイギリスへ
前回4月のブログ(下記参照)ではアメリカの初代駐日公使タウンゼント・ハリスの「日本滞在記」:The Complete Journal of Townsend Harrisを取り上げたが、今回はイギリスの外交官アーネスト・サトウの「一外交官の見た明治維新」:A Diplomat on Japanを紹介したい。これは彼の1862年(文久2年)の日本着任から、1869年(明治2年)の一時帰国までの記録である。すなわち幕末の動乱と明治維新直後までが語られている。ハリスの記録は、下田から江戸へ公使館を移したところまでとなっており、徳川幕府との外交交渉が主となっていて、その後の幕府の崩壊、新政府樹立には触れられていない。この対比は興味深い。というのもペリー、ハリスと日本の開国、そして通商条約締結を主導したアメリカにかわって、幕末から明治の対日外交の主導権はイギリスへと移っていったからである。タウンゼント・ハリスは徳川幕府を日本の交渉相手として尊重し、開国交渉を他の列強諸国に先んじて主導、日米修好通商条約を締結した。これが安政五カ国条約の雛形となった。しかし、こうした急速な開国の動きが尊王攘夷派の過激な活動の発火点となり、外国公館の襲撃(東禅寺事件)や外国人襲撃(ヒュースケン殺害など)へと展開してゆく。そしてついには井伊直弼の暗殺、開国派幕府官僚の解任へと繋がり、徐々に幕府の統治権威、対外代表権は揺らぎ始める。しかも幕府の外交を支えてきたハリスの帰国。さらには幕府は孝明天皇からの攘夷決行圧力と横浜閉港、安政条約締結五カ国からの開港圧力の板挟みになり、決断できない幕府の権威失墜と、外交的にも手詰まり状態になっていく。一方で、水戸、長州などの攘夷派によるテロは過激化し、ついは御所襲撃と天皇拉致企図にエスカレートする。しかしこうした「禁門の変」における長州の敗退、水戸天狗党の挙兵、天誅組/十津川の乱などの失敗、さらには幕府による第一次長州征討で「攘夷運動」も大きな転機を迎える。そして薩英戦争、馬関戦争を契機に、薩摩、長州は「攘夷」から「倒幕」へと舵を切り、新政府樹立へと政治的なムーブメントを転換させていった。こうした動きのさなか、各国外交団の中で主導的な位置に躍り出てきたのがイギリスであった。アメリカは1853年のペリー艦隊派遣以来、ハリスの活躍もあり対日外交の先手を取っていたにもかかわらず、その後遅れをとることになった。その背景にはアメリカの国内事情、すなわち南北戦争:The Civil War(1861〜64年)の勃発があり、終戦後もその後の国内建て直しに手間取ったという事情がある。しかし、それだけではない。イギリスの対日外交戦略の動きにそれが読み取れる。初代英国公使はラザフォード・オルコック。そして次にハリー・パークス、その通訳官/書記官として着任してきたのがアーネスト・サトウであった。パークスは日本の内戦状態(戊辰戦争)をみて、国際法上の「局外中立」を宣言し、欧米外交団をリードした。やがて内戦の収束を見て幕府(大君の旧政府)を見限り、天皇/薩長(ミカドの新政府)をいち早く承認(信任状提出)するなど、先が見通しにくい時局において先見的な洞察力と決断力を示した。すなわち自由貿易体制を担えるのは封建制と統制貿易を基盤とした幕府ではなく、新しい近代的政治体制を創出しようとする薩長勢力であることを喝破した。幕府の外交政策を推したアメリカに代わり、イギリスが対日外交の先頭を走ることとなった。
アーネスト・サトウはオルコック、パークスの二人の上司に仕え、この激動の日本で経験を積むこととなった。彼は1862年に日本に着任した。あの憧れのローレンス・オリファント(後述)の著作に啓発されて、彼の後任としての江戸着任であった。しかし、時はまさに外国人襲撃テロ事件が横行する不穏な幕末の日本。横浜上陸は多難な人生の幕開けであった。と同時に彼の日本の歴史の証人、いや新しい歴史の創造者としての数奇な人生の始まりでもあった。以来、通算して25年日本に在任した。
Sir Ernest Mason Satow: アーネスト・サトウの略歴
1843年(天保14年)ロンドン生まれ。父はスウェーデン、ドイツ、フランス、ロシアと当時の国際情勢から国籍が変わったが、イギリスに渡りロンドンに定住した。姓のSatowはスラブ系の希少姓であり、日本語のサトウ:佐藤と音が近いが偶然にすぎない。ただ、彼はのちに、この姓の故に日本人からは親しまれて、大いに親善友好に役立ったと書いている。日本名を「佐藤愛之助」と称した。
1861年(文久元年)サザンプトン出港、日本へ。(18歳)
1862年(文久2年)横浜着 江戸の英国公使館ラザフォードオルコックの通訳官として着任。のちに書記官に。(この間、生麦事件、第二次東禅寺事件、薩英戦争、馬関戦争、禁門の変、大政奉還、鳥羽・伏見の戦い、上野戦争など幕末の主要事件の生き証人となる。1865年にはハリー・パークスがオルコックの後任として着任。)
1869年(明治2年)明治維新を見届けてひとまず賜暇帰英(26歳)この間6年半の日本滞在の記録が本書。
1870年(明治3年)再来日。書記官として東京の公使館勤務(不平氏族の反乱、西南戦争、維新後の日本各地を旅行)
1883年8明治16年)賜暇帰英(13年滞在)
1884年 シャム総領事バンコック赴任
1885年 同 公使に昇任
1887年 帰英 弁護士資格(Barrister)取得
1889年 ウルグアイ公使
1893年 モロッコ公使
1894年(明治28年)日本公使として再び東京に赴任(日清戦争直後の三国干渉、対露政策、1902年の日英同盟 締結への準備)
1895年 爵位を授けられSir Ernestとなる。
1900年 清国全権公使として北京に転任(1904年日露戦争勃発)(6年滞在)
1906年 帰英 枢密顧問官(Privy Councillor)、ハーグ国際仲裁裁判書英国代表評定委員
1921年(大正10年) 本書をロンドンで出版
1929年(昭和4年)晩年の隠遁先、英国南西部のデボンシャー、オタリー・セント・メアリーで永眠(享年86歳)
生涯独身。正式な籍は入れなかったが日本には日本人の妻(武田兼)がおり子孫を残した。イギリス帰国後も、頻繁な手紙のやりとりや子弟の英国留学など家族としての交流は続いた。
(岩波文庫版「一外交官の見た明治維新」掲載の略歴を参考に編集)
開国まもない日本に憧れて江戸に赴任
駐日英国公使のオルコック、パークスが清国の領事から日本に転任してきた中国通の腕っこきの外交官であるのに対し、サトウは、最初から日本への赴任を目指して外交官になった。このA Diplomat of Japan:「一外交官の見た明治維新」は、1921年(大正10年)ロンドンで出版された。晩年になってからの著作であるが、彼の抜群の記憶力とその時代の文書、日記やジャーナルに基づき正確に復元されている。彼が1862年(文久2年)から1869年(明治2年)までの期間、外交官としての日本駐在第一期(彼曰く、我が生涯で最も興味ある期間)の日本での体験、見聞を綴った回想録である。なんと当時サトウは19歳から26歳の青年であった。その内容はまるで歴史の現場に立って日本の幕末明治史を振り返るようなビビッドな記述に溢れている。冒頭に彼が日本を目指した理由が記述されている。彼がロンドンのユニバーシティーカレッジの学生(16歳)であったときに、図書館で出会ったローレンス・オリファントの「エルギン卿遣日使節録」(下記ブログ参照)に感銘を受けて日本に憧れたという。ちょうど募集があった外務省の日本語通訳生試験を受けて見事合格した。この時期は大英帝国は植民地インドにおける反乱の勃発、清国におけるアヘン戦争、アロー号事件など血生臭い戦争が相次ぎ、大英帝国の海外進出、植民地経営にも明るい未来というよりは暗雲と流血の事態が見え始めた時期であった。そんななか、新たに開国した極東の島国、日本の姿に、西欧諸国は一種の憧憬と新鮮な感動を覚えた、これはエルギン卿の秘書官であったオリファントが清国に続いて日本を訪れて、その記録である「エルギン卿遣日使節録」に(特にインド、中国との対比において)日本を東洋の暗黒の中に忽然と現れた「光」のように描いたことにも表れている。若き学生であったアーネスト・サトウは強い感銘を受けた。そして憧れた。江戸着任後のサトウにオルコックは、雑用に忙殺されるのではなく、日本語と日本の実情を研究するよう十分な勉強の時間を与えた。日本語を漢学と蘭学の素養のある武士から習った。これがのちのジャパノロジスト、サトウを産む基礎となった。オルコックは優れた上司だった。サトウはオルコックに大いなる尊敬と感謝を示しつつも、おそらく彼にとって一番勉強になったのは、実際の外交交渉、通訳、文書翻訳の現場の仕事であったろう。彼の能力を遺憾なく発揮した。
日本の現実 外国人襲撃という攘夷の嵐
こうして憧れの日本に着任したのであるが、しかし、現実の日本はそのような夢のような国ではなかった。サトウ(当時19歳の若者)が降り立った日本は、先述のように外国人へのテロが横行する「攘夷」の時代にあった。着任の一週間後には英国民間人が薩摩藩士に斬り殺される生麦事件が起き、さらに英国公使館が襲われた第二次東禅寺事件が起き、これを端緒とした薩摩藩との薩英戦争、長州藩による四国艦隊砲撃事件に端を発した馬関戦争、数々の攘夷派による外国人殺傷事件(彼自身も襲われている)の真っ只中にあった。彼の著作の前半は、着任早々にこうした血生臭い事件の後処理、首謀者の逮捕と処刑、賠償金の請求、責任の追求などの幕府や薩摩、長州との交渉の模様が細かく記載されている。ここでは然るべき英国の権益の確保と居留民の安全の確保を要求する断固とした外交官の姿勢が見て取れる。テロ犯人の処刑(Harakiri)にも立ち会っている。また英国艦隊の鹿児島砲撃という薩英戦争には彼自身も参加しており、鹿児島湾での砲火の応酬と、英国艦船の被害、薩摩船の拿捕、その中での五代才助、寺島宗則との出会い、交渉模様などが記述されている。また馬関戦争では、伊藤俊輔、井上聞多(遣欧使節の一員でこのとき急遽帰国していた)との交渉、全権代表高杉晋作との交渉模様が記録されている。しかし、この時のこうした外国留学経験を有する、あるいは海外へ雄飛する若き薩摩人、長州人との出会いが、のちに彼らの倒幕、維新決行の英国側の支援者、アドバイザーとしての「アーネスト・サトウ」の登場につながってゆく。双方ともに20代の若者である。若い感性にお互いに共鳴しあったのであろう。それにしても「攘夷」とはなんであったのか?幕藩体制の矛盾が生んだ下級武士フラストレーションが、折りからの排外的な尊王思想と結びつき、開国に伴う物価高騰や外国からの感染症の蔓延など直接的に目に見える「敵」外国人に向かったテロリズムが攘夷であった。しかし、やがてはこのムーブメントは先述のように「倒幕」へと目的が鮮明化していった。
Tycoon:大君による支配(徳川幕藩体制)の終焉を確信
若きアーネスト・サトウはそうした激動の日本において、やがては倒幕、新政府樹立を陰で支える(シナリオライティングしたとさえ言われる?)英国外交官として、またたぐいまれなる日本学者:ジャパノロジスととして歴史に名を残すことになる。徳川幕府に象徴される武士を頂点とする封建的、重農主義的な政治経済体制(幕藩体制)がすでに機能を失い、19世紀に世界的に展開し始めた産業主義、帝国主義的な自由貿易体制にとって、こうした旧体制はもはや排除されるべき障害以外の何者でも無いものとみなされた。こうしたグローバル市場経済(現在の自由貿易体制とは異なる植民地を想定した帝国主義的なそれではあるが)の中にあっては東洋諸国も「太平の眠り」に身を委ねていることを許さなかった。徳川幕府を頂点とする幕藩体制はもはやこうした新時代に対応できない政治体制であることをオルコック、パークス、サトウは感じ取った。ここはフランス公使ロッシュが最後まで徳川幕府を支持し(イギリスに対抗する意味でも)、結局明治新政府における外交戦で英国に敗退した点と大きく異なる。またアメリカ公使タウンゼント・ハリスも幕府との交渉を優先した。しかし、先述のように日本の開国においては先駆的、主導的な役割を果たしたアメリカも、本国の内戦(南北戦争)勃発で外交が停滞し、ハリスの帰国を契機に英国の後塵を廃することになってしまった。こうした英国の外交戦略の基本は、清国において大英帝国の求めるグローバリズムに頑なに抵抗した東洋的秩序「中華思想/朝貢冊封体制」を武力で崩壊させた動きの延長線上にある。したがって日本においてはTycoon:大君/徳川幕府の幕藩体制の機能不全を見て、これを打倒する動きを支援し、Mikado/天皇を新たな君主といただく中央集権的な新政府体制への変革「明治維新」「王政復古」へと転換すべきことを確信していた。ただ清国で行ったような強引な武力行使ではなく、いわば「革命勢力」支援という形でことをなした。こうして16世紀末に西欧人が初めて日本と出会った時(ファーストエンカウンター)以来の支配者、Tycoon:大君(将軍)は19世紀のセカンドエンカウンターによりその座を降り、Mikado:天皇の時代に移行することとなった。ただ、インドや清国のような武力とアヘンによる直接的な植民地支配への動きではなく、大英帝国の同盟国として関係再構築する動きとなっていった。そしてこれがのちに日英同盟へと発展していった。両国にとっての仮想敵はユーラシア大陸の北辺から南下を試みるロシアであった。後述する。
維新の志士との交流と人脈形成
彼の記録によると、幕末動乱の中で、我々が知る西郷隆盛、大久保利三、小松帯刀、勝海舟、桂小五郎、後藤象二郎、坂本龍馬などの維新の英傑といわれた薩摩、長州、土佐などの諸藩の志士、そして開明的な幕臣の多くが彼とかなり頻繁かつ濃密に接触していた様子が記録されている。あるときは交渉相手として、あるときは非公式の会合で。彼の側からも接触していたが、志士の側からのアプローチがこれほど多かったのかと認識を新たにさせられた。一種の「サトウ詣」が行われていたようだ。年代的に見てもほぼ同じ世代である点が面白い。やはり日本語が堪能であったことが大きな要因であっただろう。しかし、それだけでは無い。先述のように、彼は歴史的な事件の現場に多く立ち合っている。薩英戦争、馬関戦争、禁門の変、鳥羽・伏見の戦い、慶喜の各国公使謁見、そして慶喜の大坂城脱出。上野戦争、まさに神出鬼没で、歴史の現場に立ち会いその情報収集活動たるや凄まじいものがある。また当時日本に駐在していた各国公使館員の中でも、彼ほど日本の地理や社会、文化、人脈に長けていた人物はいなかった。時代の動きを俯瞰的に把握していた。後に新政府において活躍する若き人士が寄ってくる所以であったのかもしれない。特に薩摩、長州は薩英戦争、馬関戦争以降、英国との関係を強めてゆくうえでもサトウの存在は大きかった。彼が維新を仕掛けたのではないか、などと今流行りの「陰謀論」がまことしやかに語られる所以であろう。影のフィクサーとまでは言わないにしても少なくとも彼がイギリスの外交官として倒幕、明治維新に果たした役割の重要性は否定できない。イギリスのインテリジェンス機能はこの時すでに健在であったようだ。
明治になって日本への2度目の赴任となったサトウは、その人脈と豊富な知見に着目した新政府高官(若き維新の志士たちであった)から、帰化して政府官僚のポストにつかないかという誘いや、明治政府の外交顧問のポストのオファーがあったと記述している。彼の知見、人脈から見れば宜なるかなである。しかし彼は、どのような名誉なポジションであれ、たとえ高額の報酬であれ、日本の新政府に出仕するつもりはない。なぜなら「私は女王陛下に忠誠を誓った公僕であるから」と述べている。彼は最後まで「女王陛下の外交官」として日本の歴史的な転換に関わった。それは正しい選択であった。
大英帝国の対日外交戦略の実相
この時のイギリスが、かつて清国でとったようなアヘンによる市場撹乱と武力による植民地化といアプローチを採らなかったのは、もちろん日本側の志士たちが「前車の轍を踏まない」という覚悟と慧眼、そしてその対抗力が大きいことは言うまでも無いが、オルコック、パークス、サトウといったイギリスの外交官の現地日本の事情に即した外交政策があったことも否定できない。これは英本国政府の方針でもあったようで、むしろオルコックが馬関戦争で下関砲台を砲撃し、長州藩を降伏させたことが本国政府の方針(日本国内/近海で自衛以外の場合を除いて武力行使を禁じる)と異なる、として日本公使を解任されている(ちなみに薩英戦争時はオルコックは本国へ一時帰国中であった)。サトウはこの解任は理不尽だとして憤慨しているが、武力による紛争介入を極力避けようとする本国の方針があったことがわかる。ちなみにオルコックはこのあと清国全権公使に栄転している。こうした外交方針は後任のパークスにも引き継がれ、倒幕勢力を支援するが直接的に武力介入することはなかった。また、最後の将軍慶喜の大阪脱出と恭順について、サトウは著作の中で「とても容認できない負け方」「ヨーロッパにおいてもこのような不名誉な降伏は受け入れられないだろう」と述べている。一方で天皇を敬う慶喜が、徳川体制最後の将軍として幕引きの役割を担い、ミカド:Mikadoを国家の君主と認め、大政奉還により大君:Tycoonの地位から降りたこと、国内が内戦状態となることを避けるために、新政府軍に対して幕府側からの抵抗をやめるように動いたことを評価もしている。慶喜自身は後年、徳川家の影響力の存続よりも、英国やフランスなどの列強の内戦介入を避けることが最優先であったと述べている。戊辰戦争時には駐在各国は局外中立の立場をとっていたが、混乱すると自国居留民保護や権益保護を名目に内戦に介入してくるケースが十分想定されるので(清国の例をあげるまでもなく)、とにかく内乱状態に陥ることをを避けることが必須と考えた。結果的にはフランスは徳川幕府とともに敗退し、イギリスは薩長とともにあって明治維新の影の立役者となったが、外国軍隊が具体的な戦闘に介入してくることはなかった。。こうして日本は列強の介入による混乱と植民地化を避けることができた。大英帝国の戦略も、資源のない国日本の植民地化よりも徳川幕藩体制を見限って、日本を全近代的な封建制国家から近代的な国家へ脱皮させることによって、その日本を大英帝国の極東におけるアライアンスに組み込む。これが緊迫する国際情勢にあって英国の国益に資する(対ロシア、対フランス戦略上)との考えであった。まさに「地球儀を俯瞰した」戦略思考である。ただ皮肉なことに、そのよちよち歩きの子供であったはずの日本が1902年の日英同盟と米国の戦費支援(戦争公債引き受け)で1904年の日露戦争に勝利すると、やがて朝鮮、満州の地に勢力を広げ始め、中国における権益を脅かされるまでに成長する。1914年の第一次世界大戦で日本は日英同盟に基づきドイツに宣戦布告し、終戦後はドイツが持っていた山東半島、青島の権益を得ることとなる。こうして徐々にイギリス、アメリカは日本に対する警戒感を抱き始めることになる。1922年のワシントン軍縮会議の後1923年には日英同盟は更新されることなく消滅する。時代は第一次世界大戦の勝利に貢献したアメリカが大英帝国に代わるリーダーの時代へと転換してゆく。こうした事態の変遷を、晩年のサトウはどのように見ていたのであろうか。
ジャパノロジストとしてのサトウ
サトウは、このA Diplomat in Japan:「一外交官の見た明治維新」だけでなく、日本の文化/芸術/言語/地理/歴史関係、日英外交史に関する数多くの論文/著作を残しており、日本学者:ジャパノロジスとしても名を残した人物である。のちにこうした一連の著作の成果が評価されてオックスフォードから博士号が、またケンブリッジから法学博士号が贈られれている。興味深いのは旅行案内で著名なMurray社から1884年に刊行されたA Handbook for Travelers in Central and Northern Japan, London, 日本語訳は東洋文庫の「明治日本旅行案内」である。共著ではあるがこんな旅行案内書が書けるほど日本国内を知り尽くしていることに驚く。また個人的に興味深い著作にThe Voyage of Captain John Saris to Japan 1613:「ジョン・セーリス艦長の日本への航海」1900年ロンドン刊がある。17世紀初頭に、英国人航海士ウィリアム・アダムスが日本にやってきた時代に、英国艦隊のジョン・セーリスが通商を求めて徳川家康/秀忠に英国王の親書を持って来日した際の記録。当時の航海日誌や手紙を掘り起こし、日本人研究者とともに文献研究を進めた著作である。イギリスのハクルート叢書の一巻として著された。これは近世日欧交流史研究という歴史学者の仕事そのものである。その研究姿勢と探究心に驚嘆する。ちなみにこの中で、彼はウィリアム・アダムスの功績についてあまり紙幅を費やしていない点が興味を惹く。これは外交官としての立場からくる評価なのか、それとも彼独自の歴史観のゆえか。
こうした、のちにジャパノロジストと呼ばれる人材の輩出の基礎にあったのは、先述のような初代公使オルコックの公使館員に日本語と日本研究に十分な時間を与えるという方針があった。これは後任のパークスにも引き継がれ、サトウやミットフォード、アストンなどの日本専門家を生み出す。こうした「日本語研究」「日本研究」そして「人材育成」が公使館の重要な任務の一つとして位置付けられていた。いわばオルコック/パークス・スクールである。こうした方針は、日本に限らず中国やインドなどでも行われていて、というよりその経験が日本に持ち込まれたといって良いのかも知れない。こうした地域研究(Regional Study)や開発研究(Development Study)、植民地経営研究はイギリスのアカデミズムの一分野となり、ロンドン大学アジア・アフリカ学院(SOAS:School of Asia and African Studies)がその中心となっていった。これが大英帝国経営戦略にとって重要な研究であったことは言うまでもない。ただ、イギリスにおける日本研究は、「日本学」としては確立されず、対日関係に課題が発生する都度の研究となったようだ(日英同盟、日露戦争、第一次世界大戦、第二次世界大戦、戦後日本の高度経済成長など)。この辺の事情、「イギリスにおける日本研究」は項を改める必要がある。
ところでサトウに限らず、日本にやってきた外国人の日本語習得能力、文化吸収力、理解力、そして発信力には舌を巻く思いだ。バジル・チェンバレン、ラフカディオ・ハーンなどのジャパノロジストの先駆者から、戦後のサイデンステッカー、ドナルド・キーン、さらには現代のロバート・キャンベルに至るジャパノロジストの系譜には感銘すら受ける。アメリカの場合は戦争中の日本語情報将校を育成した海軍ボルダー学校の卒業生、すなわちオーティス・ケリー(GHQ、のちに同志社大学教授)、エドワード・サイデンステッカー(コロンビア大学教授、川端康成作品の英訳)、デルファー・ムック(占領地テニアン島の日本の子供向けのテニアン・スクール創設)、ドナルド・キーン(コロンビア大学教授、日本に帰化)などの、いわゆるボルダー・ボーイズがいる。日本はどうだったのか?その話はまた別途。
参考:過去の関連ブログ
2020年9月25日 古書を巡る旅(6)「エルギン卿遣日使節録」
アーネスト・サトウが読んで日本に憧れるきっかけとなったローレンス・オリファントの著作
2020年10月1日 江戸高輪の東禅寺 最初のイギリス公使館跡を探訪
日本初のイギリス公使館跡、東禅寺事件の現場となり、オリファントが重傷を負った場所
2021年4月14日 古書を巡る旅(10)The Compete Journal of T.Harris 伊豆下田玉泉寺から江戸麻布善福寺へ
日本初の米国領事館が置かれた下田玉泉寺と江戸麻布善福寺。タウンゼント・ハリスの「日本滞在日誌」の紹介
2021年6月4日金曜日
コロナワクチン狂騒曲「上は三流でも現場力はすごい!」 〜日本を支えているのはエリートではない?〜
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| 東京大手町の自衛隊大規模接種センター |
コロナワクチンの高齢者への接種が始まった。はじまるまでは混乱の極みであったが、ようやくぼちぼちと接種が進み始めた。ここへきて日本の接種の遅れが顕著となり、それを内外から批判されているからか、首相は7月末までに高齢者接種を完了させると言い出した... 遅きに失するとしか言いようがないが、そもそもワクチンは全て海外からの輸入頼みで、必要な数量の確保がまだできていない。自治体への配分もどういう基準でなされているのか、余る自治体があるかと思えば、全く焼け石に水程度しか入ってこない自治体もある。概して大都市への配分は微々たるもの。接種は市区町村に丸投げでその対応がまちまち。予約システムもにわか開発(業者丸投げ)で仕様もまちまち、医師看護師確保もまちまち。高齢者が予約すら取れずに右往左往する。接種が早々と終わったところがあるかと思えば(概して小さな町村)、なかなか進まないところ(概して大都市)も。ちまちま、まちまち...
それでも日本の接種率はまだ全国民の2%程度で、世界の中でも最下位レベル。アメリカはすでに41%、イギリスが39%になっており、1日の感染者数も激減しているしイギリスは死者数0となった。課題はさらに接種率を上げて国レベルの集団免疫をいかに早く獲得するかに移っている。すでにロックダウン解除が進み、経済活動が再開されている。そこで日本の政府は今度は接種率を上げるために、高齢者でなくとも接種を進めるとして、64歳以下を対象に、企業、職場や大学での接種を今月から始めると言い始めた。政治や役所の人のフリを見ないと動き出さない体質丸出しだが、それにしても口で言い出すのは勝手だが、やるのは現場の人間だということをわかっているのか。結局、実行は「現場力」頼みだ。しかしこうなると接種率という数字を上げるために、高齢者の接種は完了した(「完了」ではなく「終了」させる!?)として先を急ぐつもりなのかと勘ぐりたくなる。まだ接種できてない高齢者がいるのに切り捨てなのか?まさか弱者切り捨てて数字だけ上げるつもりではないだろうな。何と医療従事者ですらまだ接種が完了していない。依然として上の方は思考プロセスと判断基準の混乱が収まっていないようだ。本当にどうしてこんなに情けない国になってしまったのだろう。
なのにオリンピックだけは強行しようとしている。この背景にはIOCのゴリ押し(IOCのコーツ発言「緊急事態でもやる」)があるということもわかってきたが、それに抵抗できないホスト国政権トップの情けなさ、優柔不断。いや本音は「止めるとオレの政治生命がヤバイ」が原因であることもわかった。政府専門家分科会の尾身会長もついに、「こんなパンデミックでは普通はオリンピックなどやらない」と言い出した。医師もオリンピックへ協力は今の状況ではできない、と協力辞退を言い始めている。大会ボランティアもすでに2万人が辞退した。国民の間でも世論調査では80%以上が中止か延期。ネット上での開催反対署名も50万件を超えた。金と政治にまみれたオリンピック。国民の理解が得られないオリンピック。誰のための何のためのオリンピックなのか。仮に感染の問題が薄らいだとしても、とっくにオリンピックの開催意義を失われている。あと50日に迫っているのだが、すっかり色褪せて興醒めとなったオリンピックは果たしてどんな塩梅になるのか楽しみだ。じっくり観察させていただく。TOKYO2020は後世にどんなオリンピックとして記憶されるのだろう。少なくとも「人類がコロナに打ち勝った証」とか「こんな時だからこそ人類が分断を乗り越えて」とか評価されることにはならないだろう。
このコロナパンデミック騒動では「上は三流でも現場力はすごい!」を実感させられた。この言葉は日経ビジネスの5月25日のコラムに掲載された河合薫氏の表題をもじったものである。まさに、指摘の通りこれが日本の底力だ。一旦やると決まれば現場はどんどん動く。人は知恵を出す。きめ細かい配慮や、行き届いた心配り、「おもてなし」など本領発揮である。しかし、そこへ至るまでの上部の意思決定プロセスとコミットメントがグダグダであることが多い。これは政治の世界でも、官僚の世界でも、企業の世界でも言える。今回のパンデミックは大きな組織におけるリーダーの役割と責任と能力の問題を白日の元に晒した。現場や社会の実情を見もせずに、現場から遠く離れた会議室の机上で抽象的な現状分析をして、具体性のない判断をし、結果を直視しない。かといって大局的なビジョンもなく、突破力もないリーダーたち。そもそも大きなエスタブリッシュされた組織ほどその閉鎖組織独特の(外部からは窺い知れぬ)ロジックが優先されて、それに基づく人事でトップや幹部が決まり、その人物がそのロジックに基づき意思決定する。そういう仕組みが、いざというときには役に立たないということを見せつけられた。すなわち「頭の良い人たち」が集まって「頭の悪い結論に至る」である。いわゆる進学校から一流大学を出てとんとん拍子でエリート街道まっしぐら。もちろん人にもよるが、不測の事態に対応する能力や、何もないところで新しいゴールを設定して結果を出す能力は涵養されてこなかったのが日本の社会的エリートだ。結果に対する責任の負い方も知らない。失敗するリスクを避ける「大過なく任期を全うする」が金科玉条である。今回のケースは、現役時代の理不尽と無力感、隔靴掻痒を覚えた経験を思い出させる。エリートではないが、いくばくかの組織を率いる地位にいたこともある自分を顧みても、苦い出来事に「心当たり」がある。適切かつ合理的な意思決定ができなかったことに愕然とさせられたこともある。理にかなった結果がついてこないのだ。こうした失敗はたいていは現実に起きていること、起きるであろうことを正しく認識していなかったことに起因している。あるいは理解していても、判断する際のロジックが現場の実態とかけ離れていることが多かったように思う。結局「合理的な」判断と意思決定とは、現場の問題をストレートに解決するものでなくてはならない。当たり前のことのようであるが、それができていないのが現実である。トップやリーダは、その結果生じる組織内ロジック違反の理不尽さを受け入れる覚悟と度量が必要だ。あのときに投げかけられた「エライ人はいざというときには役に立たない」という言葉がいま、脳内をぐるぐると駆け回り、心中をかき乱す。自省しても時すでに遅しである。
2021年5月12日水曜日
「根拠のない楽観主義」「神風」は日本の宿痾なのか? 〜「この道はいつか来た道」〜
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| 「かくて日は沈み 一将功ならずして 万骨枯る」 |
コロナパンデミック対策、ワクチン接種で混乱が続いている。感染は大型連休を前に大波である第四波を迎え、政府は重い腰を上げて3回目の「緊急事態宣言」を出した。短期集中と称し連休明けの5月11日に終わる予定だったが、東京に限らず大阪や兵庫など関西圏は変異ウィルスによる感染者数が首都圏を上回り、しかも重症患者が急増し医療崩壊の瀬戸際となるありさま。さらには福岡、愛知など地方の都市中心にこれまでにない感染者数を記録し続けている。まさに全く感染が収束する見込みはなく、毎日6000人以上の感染者数を記録し、死者数も1万人を突破するなど止まるところを知らない勢いである。したがって緊急時事態宣言を福岡、愛知にも広げ31日まで延長することとした。しかし、度重なる「緊急事態宣言」や「蔓延防止対策」、「休業要請」と「時短要請」での乱発で、人々は何がいけなくて何がいいのかわからなくなっている。国民は自粛疲れというよりは徹底しない小出しの「自粛要請」の連打に「オオカミ少年」状態で、パンデミックを押さえ込む効果が薄れてきている。いくら総理大臣や担当大臣、自治体の首長が「密を避けて」「協力をお願い」などと言っても人流は一向に減らない。事業者側は休業要請や時短要請に応じてもその補償は不十分である。一方でワクチン接種は遅れに遅れて、医療従事者の接種率もまだ23%。高齢者(対象者3600万人)の第一回接種率など1%未満と、世界でもっともワクチン接種が遅れている国のグループに属しているという体たらくだ。厚労省のワクチン認可も遅すぎる。緊急事態に対応したものではない。ワクチン確保は完全に失敗した。そしてワクチン接種体制も混乱中だ。もちろん世界中どの国も未曾有の出来事で失策や試行錯誤はあるものの、トップがリーダーシップを発揮してその失敗に学び、軌道修正していった国もあることを知るべきだろう。日本の状況は一時は感染爆発で対策に失敗したと言われたアメリカやイギリスが、バイデンやジョンソンのリーダーシップで急速にワクチン接種を進めて感染者数の激減を実現させているのと対象的だ。
ワクチン開発競争から取り残され、その確保に失敗し、その結果としての接種の遅れは今更だが、市町村などの自治体に丸投げされている接種体制も混乱と人員不足を来たし、高齢者向け接種体制など、ある種の惨劇を見るようだ。インターネットも、スマホも使ったことのない75歳以上の高齢者にネットでの予約を強い、それができないなら電話で予約。その電話は何度かけても繋がらない。困り果てて役所の窓口に押しかける老人たちは、ここでは受け付けないと門前払いされて、途方に暮れ立ち尽くす。まさにワクチン難民だ。可哀想で涙が出てくる。そもそもいつになったら高齢者接種が終了できるのか、その目標も明確でない。首相はそういう批判を受けて今日になって「7月までには完了させる」と言ったそうだが、言うだけなら誰でもできる。それをやるのは現場の市町村と医療従事者。国はやれるための具体的な施策は示さない。国民に「お願い」しかしない政治リーダー。政治は何を行わなくてはいけないのか分かっていないようだ。政治の無為無策、迷走、思考停止、暴走は目を覆いたくなる。
感染は変異ウィルスがいまや大層を占めて拡大している。検疫体制が脆弱でイギリス型変異ウィルスの日本への侵入食い止めに、ここでも失敗した。あっという間に増え、いまや感染の80%はこのイギリス型変異ウィルスだと言われている。ウィルスは感染が拡大するに伴って変異が進むと言われているから、とにかく早期に感染数を抑える必要がある。これに失敗するとインドのように変異ウィルスによる感染爆発が起きる。インドでは1日の感染者数が40万人を超え、1日の死者数が3600人という恐ろしい事態となっている。もちろん医療は崩壊し、医者に見てもらえないまま死亡する人が出ている。そして死者の火葬すらできない。このインド型が入ってくると目も当てられないことになる。一時はアメリカやイギリス、EU諸国がこの危機にあったが先述のように、初動の失敗を反省して、トップのリーダーシップで対策を一変させて抑え込みに成功しつつある。
日本は「民度が高い」国だから、「ファクターX」の国だから、感染など広がらないのではなかったのか?コロナで1万人の死者が出ているのに「さざ波程度で笑わせるな」と宣った某内閣参与がネットでバッシングされている。この民を見下した態度...そんな人間が政権中枢にいる驚き。こういう事態においてもなおオリンピックを強行しようとする。「選手には無料のワクチン接種と医療従事者を選手村に常駐させて、必要なベッドも確保する。絶対に感染させないから安心してくれ!」とオリンピック委員会。「それができるならまず我々にしてくれよ!」と国民。ますます平和の祭典から離れてゆく。一方で開催強行に反発する一部の人間がSNSで、オリンピックに向けて努力しているアスリートに大会不参加表明を押し付けようとする。民心の乱れも引き起こし、高いはずの「民度」はどうなっていくのか。
国民に「お願い」しかしない政府、自治体とは何か?自助、共助ばかり「お願い」して公助はなし。「お願い」の内容は日々支離滅裂の度合いを増してゆく。感染が収まらないのは国民の自粛度が足りないからだ。政治の怠慢を通り過ぎて、無能を露呈し始めている。効果の出ない優柔不断な小出しの「打ち手」。専門家に相談して決める」と言いながら専門家の言うことは聞かない。科学的なエビデンスによる判断よりは、政治的な判断が優先する。世界最高を謳う医療先進国の医療崩壊。科学技術先進国のはずがワクチンは開発から製造まで全て海外からの輸入頼み。そして確保の失敗から来るワクチン不足。見たくない現実を毎日見させられる etc.etc.etc.
まあ、日々のニュースを見ていると、理念と言葉を持たない政治リーダーの迷走に次々と「文句」「皮肉」を言いたくなって止まるところを知らない。戦後の団塊世代にして70年安保/学生運動時代をくぐり抜けてきた昭和老人にとって老人性パラノイアを増進する怒りは精神衛生上良くないからこの辺にするが。
振り返ればこの道はいつか来た道。宣戦布告もなく政治の意思決定もないままずるずると拡大していった日中戦争。合理的に考えれば勝てないことが分かっていたのに、日露戦争勝利という僥倖で憶えた「一撃講和」戦略で勝てると信じて開始した対米戦争。ドイツが降伏し、日本の負けがはっきりしているのに、全く当てにできるはずもないソ連に仲介による講和を期待した外交。連日の都市空襲、沖縄の陥落、広島の原爆投下、長崎の原爆投下、それでも「本土決戦」「一億総玉砕」を叫んで戦争を止めようとしなかった軍部。軍部独裁と言いながら軍部は終戦の責任を取らない無責任体制。終わらせ方のシナリオを持たずに始める戦争。最後は、超人的なパワー「神風」が国を守ってくれる。「神州不滅」神話に逃げ込む。そんなバカなと思いつつも、どこか漠然と万に一つの僥倖を期待する。そんな「根拠のない楽観主義」もまた日本人の宿痾なのか。政治のリーダーは国民を守ってくれないどころか国策戦争に駆り立て、最後は「お国のために死ね!」と言うのみであった。空襲があっても、老人、女性、子供しか残っていない市民を避難させるのではなく、バケツとハタキで消火せよ、と焼夷弾降り注ぐ街中にからの退去を許さなかった。こうした意思決定のプロセスと根拠を検証して、前者の轍を踏まない、後世に教訓として残すことができているのか。これをきちんと総括しないまま、戦後の冷戦構造の中での免罪符、その結果としての「高度経済成長」などに浮かれて、かつての失敗と責任と贖罪を忘却の彼方に追いやってしまう。こうした歴史に学ばない国の行く末は心許ない。ただこれは、中国共産党や韓国/北朝鮮の為政者たちが言う「正しい歴史認識」などとは全く異なる「歴史認識」であることを付言しておきたい。
今回のコロナパンデミックの混乱をみて、この国はこのままでは戦争になったら勝てない国だと確信した。逆説的だが、だから戦争をやってはいけない国だ。「有事」「戦時」と言う概念が日常の思考回路、制度や意思決定プロセスに存在してない。アメリカやイギリスなどの、かつての戦勝国には「平時」からこれがある。「戦時」「有事」を論じることががタブーではないし、「平時」の社会/経済システムに「有事」対応がビルトインされている。勝って兜の緒を締めよなのか、戦争慣れしているのか。またイスラエルのような準戦時体制下の国や、常に地政学上の緊張感に晒されている台湾の、コロナパンデミックへの対応は迅速かつ効果的であることを目の当たりにした。平和ボケした日本にそれを求めるのは難しいのかしれないが。今更ではあるが戦争は武器を使って軍隊が戦うだけではない。サイバーセキュリティーもパンデミックも戦争だ。ワクチンの日常からの確保は有事への備えである。経済戦争という有事にも対応遅れが出てくることになる。まあリーダーシップと責任なき政治に殺されるのはまっぴらごめんだというのが国民の本音だ。少なくとも今回、この国のリーダーにはその発する言葉とは裏腹に、国民の命と生活を守ると言う目線が乏しいことに残念ではあるが気付かされた。そんなどさくさに紛れて、国民目線を持たない無為無策の政治屋が憲法改正論議をリードしようとしているとすれば危険極まりない。国民をどこへ連れて行こうとしているのか。この国は主権在民の民主主義の国だということを主権者である我々がしっかり思い出して、主権者として振る舞わねばならない。そうでないとどこかの隣人のように選挙もない専制民主主義人民共和国になってしまう。彼らは我らの体たらくを見て、「だから民主主義なんて役に立たないのさ!」と悪魔の高笑いをしている。
2021年5月5日水曜日
「目黒インテリア通り」を歩く 〜ブラタモリ風「なぜ目黒通りはインテリア通りになったのか?」〜
目黒通りは、山手通りとクロスする大鳥神社交差点から、碑文谷、自由が丘あたりまでの数キロの間は「家具屋通り」あるいは「インテリア通り」と呼ばれている。なんと60〜70店ほどの様々な個性的な家具屋、インテリアショップが並ぶ。日本はおろか世界的に見てもこれだけの家具、インテリア関連ショップが建ち並ぶ通りはユニークだという。なぜこのような家具屋街、インテリア通りになったのかについては、後ほど解明してみたい。さて、JR目黒駅の西口を出て長い権之助坂を下り、目黒川を渡って歩くと山手通りとの交差点、大鳥神社を過ぎる頃からはまた上り坂となる。この通りは結構な高低差があることに気づく。この界隈は古くは目黒川を谷筋とする地形に開かれた街並みということになる。ちなみに目黒通り沿いに「元競馬場前」というバス停がある。ここには1907年(明治40年)から1933年(昭和8年)まで目黒競馬場があった。ここで日本初の日本ダービーが開催されたが、わずか開催2年で閉鎖となった。ここには1マイル1600メートルのコースがあったが手狭であったことと、周辺が住宅地化していったことから、競馬場は府中に移転し現在のJRA中央競馬会東京競馬場となった。今でも重賞レース「目黒記念」にその名残を見出すことができる。住宅がびっしりと建ち並ぶ現在の街並みを見ると、ここに競馬場があったこと自体が不思議な感覚だが、かつては手狭な競馬場とはいえそれなりの広さを確保できる余裕があったのだろう。わずかにトラックのカーブの痕跡が住宅街の路地に残されている。
ここでブラタモリ風「タモ手箱」が登場する!お題は「なぜ目黒通りはインテリア通りになったのか?」Ready? Go!
この通りは横浜から都心に向かう幹線道路で、沿線には自由が丘、碑文谷、学芸大学などの高級住宅地があり、セレブ御用達の店やレストランなどが立ち並んでいた。中でも目黒通り沿線には多くの外車ディーラーが並び、かつては「外車通り」との異名を持っていたという。一説では、そんなセレブ通りだから高級な家具/インテリアショップが進出してきたという。が、ちと話が出来過ぎていてやや「都市伝説」的である。もちろんそうした顧客向けの家具/インテリア店が存在していたことは事実であろうが、実際にはバブルの時代を過ぎ、その外車ディーラーの多くが撤退し、その跡地にインテリア関係の店が進出してきたというのが真相のようだ。確かに一定の敷地を確保できるし、地域柄からもセンスの良い顧客層がいるだろうということでこうした店が集まってきたとしてもおかしくはない。またフランスの雑誌ELLE DECOに取り上げられて海外でも一時話題になったことでますます出店が増えていったという。評判が評判を呼ぶという相乗効果だ。しかし出店している店は、必ずしもセレブ御用達の高級店ばかりというわけではなく、時代の移り変わりを反映して最近は若い世代向けやカジュアルで個性的でユニークな店が多い。北欧、イタリアン、ブリティッシュ、アメリカンから和風、アジアン... アンティークからレトロモダンな家具屋、オーダーメイド家具やインテリア装飾を手がける工房もあり、決して敷居の高いお店がズラリというわけではない。むしろ小洒落た小型の店舗も多く、ロンドンのポートベロやエンジェル、カムデンタウンのような骨董市的なテイストを漂わせる店も多くブラブラと見て回るだけでも楽しい。また通りにはこれまた素敵なカフェやレストランも並んでいるので歩き疲れたらふらりと寄るのもまた良い。
今回は、GEOGRAPHICAという英国アンティーク家具、骨董を扱う比較的大型のお店を訪ねた。三階建てのロフト風の建物で、地下には重厚なマホガニー家具、一階は洋骨董、二階がカフェ、三階にはオークやウォールナットの書斎家具が並ぶという英国好き、ブリトラ(British Trad)にはたまらない豪華な店だ。直営の工房を併設していて英国で買い付けた骨董家具の修復、補修を行っている。ちょうど「Travel Notes」という旅行をテーマとしたフェアーを開催中で、旅行書や19世のガイドブック、ポストカードなどのアンティーク小物、英国伝統のティーカップ、銀スプーンなどの食器、アクセサリーなどが比較的手頃なプライスタグで並んでいた。今回はいつもお世話になっている神保町の北沢書店さんがコラボ出店していて、素敵な洋古書を展示、販売。これまたクラシックな本棚に並んでいた。アンティークな英国家具と革装の洋古書のマッチングは最高で、まるで19世紀英国のカントリーハウスの書斎にいるかのような佇まいであった。この時期英国旅行など叶わぬ「時空トラベラー」にとって至福の時間を過ごすことができた。店内にはカフェレストランもあり、折からの連休で、しかも緊急事態宣言中の「遠出自粛期間中」でもあり、家族連れで賑わっていた。であるからして我々「前期高齢者」は遠慮して退散した。
それにしても東京は奥深い。まだまだ未知のゾーンがあちこちに潜んでいることを再認識した散策であった。
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| JR目黒駅西口を出て権之助坂を下る |
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| 目黒川にかかる目黒新橋 |
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| 目黒川の桜はもう終わりで新緑が眼に染みる |
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| 立派な石柱を持つ橋だ |
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| 「元競馬場前」バス停 |
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| 目黒インテリア通り |
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| 古民家活用の骨董店 |
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| タイ国大使館 |
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| GEOGRAPHICA |
目黒通りのインテリア/家具ショップコミュニティーのポータルサイト。目黒インテリアショップスコミュニティー:MISC
(撮影機材:Leica SL2 + Lumix-S 20-60/3.5-5.6)
2021年4月22日木曜日
復元なった常磐橋を愛でる 〜江戸城常盤橋御門跡は意外なトレンディースポット!?〜
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| 東日本大震災の被害から復旧し完成した石造二重アーチの「常磐橋」 対岸に見えるのが江戸城常磐橋御門の遺構である枡形石垣 「常磐橋公園」として整備されている |
東日本大震災で被災し、大きく変形してしまった常磐橋が復旧工事を終えて姿をあらわした。白い御影石の橋柱に黒い鉄製の欄干、二重アーチ式の石造橋でオリジナルに忠実に修理復元された。とても美しい橋である。おそらく東京の橋の中でも一二を争う「美橋」ではないか!江戸時代は日本橋川に架かる木造橋で江戸城の常盤橋御門正面につながっていた。明治になって帝都景観の近代化の波に乗って、多くの橋が石造橋に掛け替えられ、この常磐橋も見事な二重アーチ橋に架け替わった。現在の橋はこの時の石造橋が原型であり、関東大震災や東京大空襲を生き延びてきたものである。ちなみに同じ日本橋川にかかる日本橋もこの頃に現在の石造橋に架け替えられた。こちらも日本の土木工学の粋を集めた美しい橋であることは言を俟たない。今後、同時に復旧工事が行われている常盤橋公園の整備が完了すると、いよいよ5月上旬を目処に一般公開される予定だ。
この常磐橋は見ての通り石造アーチ橋で、長崎の眼鏡橋や筑前秋月城下町の石造アーチ橋にその構造がよく似ている。また幕末の鹿児島城下には甲突川に大きなアーチ式石橋が五橋架けられていたが、そのデザイン、構造は驚くほど常磐橋に似ている(下記写真参照)。九州にはこのほかにも肥前、肥後にも通潤橋のような多くの石橋が現存しており、これらはその堅牢さと美しさから、今なお日常生活を支えるインフラとして利用されている。鹿児島の甲突川五橋は台風、増水から守るためにまとめて「石橋記念公園」に移設、復元されている。明治の頃の常盤橋の架け替えに関する詳しい記録は残っていないが、おそらくその姿と構造からこうした九州の石造アーチ橋技術のレガシーを背負っていると考えられる。帝都東京の「近代化」事業の任にあった薩摩出身者の指導のもと、こうした石造架橋の技術を持った九州の石工が集められ、設計や築造に携わったのであろう。関東大震災ののちには、帝都復興事業の一環として震災復興建造物が推奨され、街の再区画も行われ、すぐ隣に歩道と車道を備えた新しい常盤橋(旧来の「常磐」橋と区別する意味で「常盤」の字が用いられている)が架けられた。このため一時は、損傷を受けた古い常磐橋とこれにつながる常盤橋御門の遺構を取り壊す計画が持ち上がった。これを救ったのが、今年の大河ドラマのヒーロー、渋沢栄一である。彼の財団が橋の修復と、枡形石垣を活用した常盤橋公園の整備に資金を提供した。で、彼の銅像が常盤橋公園に建てられているわけだ。ここはいまや知られざる東京のトレンディースポットなのである。
この界隈は日本の資本主義の中心である。常磐橋の正面には辰野金吾設計の日本銀行の重厚な建物が聳え、日本初の外為専門銀行であった横浜正金銀行跡(のちの東京銀行本店)、三井本館(現三井住友銀行)、三越本店などの明治以降の近代化建築遺産ともいうべき、壮麗な石造建築群が林立している。常盤橋公園に屹立する渋沢栄一像の目線の先には、彼が創設した日本初の国立銀行、第一国立銀行や東京証券取引所があった。その日本橋兜町は、まさに日本の資本主義発祥の地にして、バブル崩壊以降、衰えたりとはいえ世界の資本市場の一角を担う地域である。一時はロンドンのシティー、ニューヨークのウォール・ストリートと並ぶ三大株式市場と呼ばれたこともある。現在、常盤橋地区は「常盤橋プロジェクト」と称して、新たな高層ビルを中心とした街区の再開発計画が進んでいる。三菱地所のプロジェクトである。丸の内/大手町が三菱主導の街作りであるとすれば、日本橋は三井主導の街作りであるのだが、大手町からの三菱の「越境」開発が進行中というわけか。いや日本橋川がルビコンなのか?それはともかく、これからの日本はどのような姿になるのか、日本の資本主義はどこへ向かうのか。渋沢栄一は常磐橋の一角から何を見て何を思っているのか。
参考過去ログ:2019年4月10日「飛鳥山の旧渋沢栄一邸訪問」
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| 現在の常磐橋と過去を比較してみよう |
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| 明治初期、木造橋が取り壊される前の様子 |
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| 常盤橋御門も破却され、二重アーチ式石造橋にかわった「常磐橋」 |
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| 江戸切り絵図の常盤橋 |
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| 関東大震災復興事業で新たに築造された「常盤橋」橋柱 「常磐」に変わって「常盤」の字が刻まれている |
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| 現在の「常盤橋」 後方は市街地再開発事業「常盤橋プロジェクト」の現場 |
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| 長崎の眼鏡橋(wikipediaより) 二重アーチ式はこの眼鏡橋のみで中島川にはこのほかにも単アーチ型の石造橋がある |
| 筑前秋月城下の石橋(福岡観光案内HPより) 江戸時代中期に秋月黒田藩が長崎から工人を招いて築造した 花崗岩製で築造以来200年一度も流失したことがない |
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| 鹿児島甲突川五橋の一つ「西田橋」(鹿児島県立石橋記念公園HPより) 幕末に薩摩藩により肥後石工の中から名工を選び出して築造されたアーチ式石造橋群 現在は五橋とも保存のため、「石橋公園」に移築されている。 |
3)常磐橋界隈散歩
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| 常磐橋公園の渋沢栄一像 |
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| 兜町に建てられた三井ハウス、のちに第一国立銀行 |
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| 新緑の日銀本店 |
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| 辰野金吾設計の日本銀行本店 安全第一! |
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| 三井本館 江戸桜通りは桜が終わり新緑が美しい季節に |
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| 三越百貨店 日本銀行側からのショット。屋上の金字塔が見える |
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| そして現在の日本橋 |
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| 1964年以来、頭上を走る首都高速の高架橋も間も無く撤去される |
2021年4月14日水曜日
古書を巡る旅(10)「タウンゼント・ハリス日本日記完全版」:The Complete Journal of Townsend Harris 〜伊豆下田玉泉寺から江戸麻布善福寺へ タウンゼント・ハリスの足跡をたどる旅〜

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| 麻布善福寺にある タウンゼント・ハリス、初代米国公使館跡碑 益田孝、藤原銀次郎が献納し朝倉文夫が彫刻した |
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| 裏面 |
今日は一日雨模様。コロナ感染もいよいよ第四波が来て不要不急の外出は憚られる。こんな日は以前にゲットした古書を読んで過ごそう。そして自宅「時空旅」に出よう。
今回の古書を巡る旅はタウンゼント・ハリス:Townsend Harrisの「タウンゼント・ハリス日記」:The Complete Journal of Townsend Harrisだ。本書は、日本滞在中に書き記した日記をニューヨークシティーカレッジ(ハリスが来日以前に創設した学校で現在のニューヨーク市立大学)の前学長マリオ・コセンザ:Dr. Mario E. Consenzaが採録、編集して1930年に出版したものだ。ハリスの死後、彼の姪からニューヨークシティーカレッジに寄贈されたハリス直筆の日記や関連書類が原典になっている。その後1959年に第二版(改訂版)、そして1968年に第三版が出されている。今回、1959年の第二版をも同時に入手した。この第二版には当時の駐日米国大使ダグラス・マッカーサー2世:Douglas McArther IIが序文を寄せていることが印象的である。その中で、マッカーサーは、日米関係の発展に貢献したコセンザと笠井重治に触れている(後述する)。この1930年初版の編者コセンザによる献辞には「To The Peace of The Pacific」とある。この年は重要な歴史的意味を持っており、この時期にハリスの日米友好親善に果たした功績に思いを致すことの意義を考えてみるべきであるというメッセージが込められている。1930年(昭和3年)はニューヨーク証券取引市場の大暴落(世界大恐慌の始まり)、日本は満州事変前夜、泥沼の日中戦争に突入するキナ臭い時代の幕開けの年である。振り返ると日本はペリー来航、ハリスの来日による開国から明治維新による近代化を果たし「一等国の道」を歩み始めた。しかし「富国強兵」路線にのって日清、日露の戦役に勝利してからは満州の荒野に戦火を拡大していった。そして軍国主義の道をまっしぐらに突き進むこととなる。こうした日本の有り様とその行く末を心ある人々は危惧していた。ハリスの日記をここで持ち出して、そのメッセージに仮託しこの時代の暗雲漂う空気に解き放った編者の日米友好親善の思いには並々ならぬものがあっただろう。なおこの本の日本語訳は「ハリス日本滞在日記(上)(中)(下)」坂田精一訳 岩波文庫があるが、絶版となっており古書でしか入手できない。
タウンゼント・ハリスは、日本史の教科書でも有名な人物なので改めて紹介するまでもないが、1854年、ペリーが結んだ日米和親条約に基づき、初代米国総領事として下田に赴任。続いて1858年の彼自身が全権代表として結んだ日米修好通商条約に基づき初代駐日公使となった人物。激動の幕末に日本にやってきて、徳川幕府との通商条約締結、通商のための開港を交渉したアメリカの全権代表である。大老井伊直弼の違勅(朝廷の勅許を得ない)による条約締結(1858年)、これに伴う攘夷運動の激化、そして安政の大獄(1858年)。桜田門外の変(1860年)で直弼暗殺と、ハリスは激動の幕末を生きたアメリカ側の歴史の証人である。ハリスは生まれも育ちもニューヨーク。生粋のニューヨーカーであり、教育者であり、上海で貿易に携わる民間人であった。職業外交官ではない。
彼の人物像や、下田における活動ぶり、通訳のヒュースケンや唐人お吉の物語、日本初の米国領事館が置かれた玉泉寺訪問記などについては以前書いたブログを参照願いたい。2020年10月7日「伊豆下田の玉泉時日本初の米国領事館跡を探訪する」今回は謂わばその続編である。
この本は彼が日本滞在中に書いた日記を編集したものである。日本の印象や出会った人々への思いだけではなく、アメリカ側から見た当時の日米交渉の実態を生々しく記述している点で貴重な歴史文書である。日本での記録は1856年8月21日の伊豆下田上陸、柿崎の玉泉寺での米国領事館開設から1858年6月9日で終わっている。したがって同年7月29日の江戸での日米修好通商条約交渉/締結、1859年の麻布善福寺での米国公使館開設、ヒュースケン暗殺(1861年)の前で途切れている。この歴史の画期ともいうべき江戸での出来事(4年滞在している)の模様の記録が、なぜか彼自身の言葉で書き綴られた資料として残っていないのは不思議でもあり、残念でもある。編者のコセンザ博士によると、以降の日記は遺族から寄贈された中には存在しないし、彼が晩年を過ごしたニューヨークの下宿からも発見されなかったという。ハリスが、この重要な時期の出来事を日記に記さなかったとは考えられず、おそらくハリスの遺品整理のどさくさで散逸してしまった可能性がある、としている。これらが発見されれば文字通り新たなページを追加することができると。しかし、既存日記だけでもその交渉過程と下田と江戸での日々の記述が、まるでその時代にタイムスリップしたような鮮やかさで蘇る。ハリスは健康上の理由で1862年には駐日公使を辞し帰国した。帰国申し出に際しては、ハリスとの個人的な信頼関係を築くことができた幕府要人側からも強い慰留があった。まさに欧米列強諸国に先駆けて日本に駐在し、幕府と交渉し、尊王攘夷運動で命を狙われながらも、米国のために全権代表としてミッションを完了させた。と同時に日本の新しい時代への幕を開けた人物と言ってよい。
ハリスは日本側の資料やその後の歴史小説などでは、列強の力を背景に開国を迫る強権的な異人の代表のように語られ、排外的な尊王攘夷運動の引き金となった人物として描かれることが多い。今年のNHK大河ドラマ「青天を衝け」でも悪辣な異人「ハルリス」として尊王攘夷派の憎悪の対象であり、「異人を江戸に入れるな!」というスローガンの対象として登場する。また交渉に当たった幕府側役人は無知蒙昧、優柔不断で、「異人の言うなりの」弱腰官僚と描かれがちで、水戸や薩摩や長州の尊王攘夷派が、如何に開明的で先進的であったかを強調する歴史観を表明する舞台回しに使われることが多い。しかし当時の幕府は日本の外交窓口を独占しており、諸藩以上に海外事情に明るく、ある意味開明的で、先進的な考えを持った有能な幕府官僚を有していた。上述のような一方的なステロタイプ「幕府像」「異人像」は、のちに明治維新を、さらには薩長藩閥政府を正当化する視点によるものであることは、後世の歴史検証で明らかになっている。歴史は「善と悪」というような二項対立を軸にした勧善懲悪小説のような見方では正しく理解できないものである。ハリスという人物の評価も見直されてしかるべきであろう。例えば、下田における「唐人お吉」の物語など、ハリスを好色な異人と描くことで、面白おかしい物語にして小説本の売り上げを企図する出版社の思惑や、昭和初期の戦争に向かう時代に入ってからは、反米感情を煽る世相の反映であろうと考えられる。彼の日記にはお吉のことは触れられていない。彼はその堂々たる体躯や強靭な意思の持ち主であるという評価に反して、日本に来てからは体調を壊し、病弱な面を見せていた。このため看護できる医者か看護師を幕府に要請していた(ヒュースケン日記に記述がある)。それを下田奉行所の役人は下衆な忖度で何人かの女性を領事館に派遣し、その一人に吉がいたとされる。が、彼女は3日で返されている(下田奉行所側の記録)。また彼の出身地であるニューヨークにおいては教育者、教育行政に携わった人物としての名声(前回のブログで紹介したように現在のニューヨーク市立大学の創設者である)や、聖公会に属する厳格なクリスチャンとして生涯独身を貫き、高潔な精神の涵養を生涯追及したことなど、ほとんど日本の歴史書では紹介されない。ハリスが時にはかなり強引な手法で交渉を進めてことは事実であろう。幕府にとって手強い交渉相手であったことは想像に難くない。それはアメリカ全権代表として外交交渉では当然のことで非難すべきことではない。丁々発止やり取りするのが国を背負った外交交渉である。幕府もしたたかな外交交渉でハリスを困惑させていた様子が彼の日記から読み取ることができる。むしろ当時の日本における過激な攘夷思想こそ、倒幕のスローガンとしては機能しても、新しい日本の再生スローガンとしては機能していない。その歴史的な意味を見直す必要があると考える。そろそろ攘夷派中心の幕末歴史観を改める必要がある。もっとも一種の通過儀礼ではあるが、隣の清国の過激な排外運動/攘夷運動の結果を日本人はすぐに学習し、欧米流近代化へと舵を切っていったことは正しい判断と選択であった。ただどこかで道を間違えて戦争まっしぐらの道を選択してしまうが。先述のようにそのような時期にこの本が出されたことの意義は大きいだろう。
また、彼の日記には条約締結交渉の進捗状況に関する幕府側への苛立ちや不信感を書き記してはいるものの、交渉相手であった幕府側の開国派の官僚、外交官である堀田正睦(閣老)、井上清直(下田奉行)、岩瀬忠震(江戸の外交官僚)、通訳官であった森山多吉郎などの人物評も興味深い。初期においては警戒感(嫌悪感と疑惑)をもって接していた様子が随所に読み取れるが、次第にその人物像、能力を評価し、しまいには相互に好感を持って接した様子がわかる。特にハリスが直接的に頻繁に条約締結交渉をした岩瀬忠震についてはただならぬ手強い外交官であると高く評価している(岩瀬忠震は小栗忠順、水野忠徳とともに「幕末三俊」と称された)。ハリスが日本に対してレスペクトをもって接したことの第一の理由には、こうした理非をわきまえた優秀な人物の存在があった。条約交渉では、いわゆる治外法権(問題になるだろうと身構えていていたが、幕府側が問題なしとしてあっさり認めたのでハリス自身がそれで良いのかと疑問視した様子が記載されている)や関税自主権(こちらも幕府側は税率そのものに固執して自主権の問題には触れなかった)など、後世に大きな課題を残したものもあるが、この当時の日本(幕府)が置かれていた立ち位置、幕府の力量としては(清国などと比べても)最小限の譲歩にとどめ、続く安政五カ国条約の雛形となり、列強の植民地化の芽を摘み取る結果となった。これは(後述する通り)ハリスの貢献が大きいのと、幕府側のギリギリの交渉が最後の砦を守った形になった。こうしたことから、岩瀬忠震は後にハリスに謝辞を述べてる。後世に漫然と伝えられているように、彼らは外交を知らぬ蒙昧で頑迷固陋な幕府官僚ではなく、訳のわからぬ幕府内のロジックだけで動くようなダラ官でもなく、まして問題を前にして思考停止してしまうような凡庸な人物でもない。高い目線と広い視野を持ったインテリジェンスあふれる手強い相手であった。このようなハリスと岩瀬の交渉と決着が、イギリスに先んじてその後の日本と列強諸国との外交関係のフレームワークを決める鍵となったと言っても過言ではない。激しい交渉を繰り広げた両国当事者の間に個人的な信頼関係が生まれたことは彼の日記の記述からも伺い知れる。
またハリスは条約勅許が未だになされない状況を見て、統治権力のトップである江戸の将軍:Tycoonの他に、統治権威のトップである天皇:Mikadoの存在についても十分に理解し、その二重統治構造が国内の不安定化の原因になりかねないことも見通していた。したがって開港の遅れについても、その事情が幕府側から説明され、ハリスもその国内事情を理解し、性急にことを進め、交渉相手である幕府の立場を危うくするのは得策ではないとの判断を示している。一方で過激な尊王攘夷運動の高まりを見て、今は開港を急ぐ時期ではないとも判断し、その旨本国に報告している。この辺りは清国相手に武力を用いた強引な交渉(恫喝)で、アヘン戦争後の南京条約、アロー号事件後の北京条約を結ばせ、次々と開港、居留地を認めさせた(事実上植民地化した)イギリスの手法を、西欧諸国の東洋進出の歴史の汚点であり後世に禍根を残すものと考えた。このような清国やインドにおけるイギリスの振る舞いや、それに追従するフランス、ロシアの強引な行動をそのまま日本に持ち込めば、日本(幕府)はひとたまりもないと危惧した。また一方で、この「植民地化」の動きは、新興国であったアメリカにとっての太平洋航路開設と、東洋貿易(自由貿易)参入への中継地としての日本の重要性に鑑み、憂慮すべき事態となることとの判断であった。このハリスの情勢認識とアメリカの権益を守る全権代表としての義務感が、先述のような(不平等条約ではあるものの)日米修好通商条約を生み出した。そしてそれが雛形となった安政五カ国条約が生まれた。このことが結果的に日本を「植民地化」「アヘン貿易の毒牙」から守ることになったと評価することもできる。日記にはこの辺りの情勢分析と判断、なかなか連絡が取れない本国の説得(日本に着任してから一年以上ワシントンからの連絡がないという苛立ちを隠せない様子が記述されている)など、その苦悩と疑心暗鬼、それに打ち勝とうとする使命感などの心のうちが記述されている。その後、大老井伊直弼の就任と彼による、一橋派の堀田正睦や岩瀬忠震などの開国派官僚/外交官の解任(井伊自身は必ずしも積極的開国派ではなかったと言われる)。そしてその井伊直弼の暗殺と、幕府内が混乱し外交政策に空白が生じていく。これに幕府を重んじ、ある意味での対英仏蘭露交渉に当たっての外交顧問的な役割を果たしてきたハリスの帰国(1862年)が続き、やがては幕府の国内外の統治能力に大きな疑問符がつき始め弱体化が加速していったと言ってよい。そして最後の将軍慶喜により徳川幕府による統治体制の幕引き(1867年の大政奉還)の時代に入ってゆく。以降、対日外交が弱体化したアメリカに代わって外交主導権を握ったイギリスは、薩摩との繋がりを深め、討幕運動支援へと向かい、フランスは幕府とのつながりを深めていったことは歴史で習ったとおりだ。そして初めて日本を開国へと向かわせたペリー以来、ハリスの活躍で対日外交をリードしてきたアメリカは、国内の内戦(1861〜65年の南北戦争)の勃発もあり、その影響力が相対的に後退し、倒幕、明治新政府樹立に向けてイギリスの影響力が増してゆくことになる。先述のようにハリスの日記は1858年で途切れており、また1862年には離任し帰国しているので徳川幕府の末路について、彼の日記から読み取ることはもとよりできない。もし彼の日記の散逸した部分が発見されるとこれは興味深い資料となろう。ニューヨークに戻ったハリスはこうしたその後の日本の歴史の流れをどのように観察していたのだろうか。ハリスが去った後、外国側からの視点で幕末史、明治維新史を紐解く資料は、1861年に江戸に着任した駐日イギリス公使ラザフォード・オルコックの著した「大君の都」:The Capital of The Tycoonや、アーネスト・サトウ:Ernest Satowの一連の著作に引き継がれることになる。
ハリスの日記には開港地に関する交渉過程が詳細に記述されていて興味深い。彼は当初11カ所を開港するように要求していたが、岩瀬忠震との交渉で4カ所に絞られている。幕府側のギリギリの交渉に折れた形だ。既に開港されていた下田の他、1859年に開港された長崎、横浜(神奈川)、函館と開港が遅れた神戸(兵庫)の他に、江戸(品川)、大坂(摂津、堺)、新潟の名前が候補地に上がっている。ハリスは殷賑な商業都市である大坂(摂津、堺)にご執心であった様子だが、京都に近いことからそれが難しいことも予知していた、これが兵庫開港の遅れの原因であったことも理解していた。下田は横浜開港と共に閉港されることになった。ちなみに、なぜか古代より対外交易の重要港であった博多は一度も検討の候補に上がっていない点が興味深い。長崎に近いこととや、鎖国200年の間にすっかりその歴史的役割を終え今日的な価値が薄れてしまった様子が垣間見える。
また余談ではあるが、1858年からの江戸での滞在中の記録には毎日のように「地震」が記録されている。ハリスは、この経験したことのない天変地異にかなり動揺していた様子が手にとるようにわかる。のちになると揺れが小さいものは慣れて気にならなくなったようだが。この時期は1854年のペリー来航以前の嘉永年間から安政年間にかけて日本各地で大きな地震が頻発した。もちろん各地で大きな被害が出ている。1854年には伊豆戸田に寄港中のロシア艦ディアナ号が津波で遭難し、大勢の乗組員が死亡している(下田玉泉寺にその遭難下士官、水兵の墓所がある)。また1855年の江戸安政地震では江戸城が大きな被害を受け、水戸藩の藤田東湖も死亡している。ハリス江戸滞在中もこうした一連の安政地震の余波は続いていたことを表す貴重な記録である。
ところで先述のように1959年の第二版では、当時のマッカーサー駐日米国大使(あのマッカーサー元帥の甥)が序文を寄せているが、そこにこの本の編者であるDr. Cosenza:コセンザの長年の友人であるJiuji Kasaiなる人物の名が引用されている。この人物に関しては寡聞にして知識がなかったが、笠井重治(1886−1985)は戦前から日米友好に尽力してきた山梨県選出の衆議院議員であった。戦前に旧制山梨中学からアメリカのシカゴ大学に進学し、ハーバード大学の行政大学院(今で言うケネディースクール)卒業後、日米開戦前の排日運動盛んな米国で日米友好親善の重要性についての講演を続け、一方で、反米感情高まる日本でも講演を行い、太平洋の平和:The Peace of The Pacificを熱心に説いて回った人物である。米国に多くの友人を持ち、この本の編者Dr. Cosenza:コセンザもその一人であった。そしてこの「ハリス日記」の出版にも協力した。戦前の国会議員選挙に何度も出馬したが、大政翼賛会に属さなかったため何度も落選して苦労している。戦後、衆議院議員に当選した。GHQのマッカーサー元帥にも幾度も嘆願書や提案書を出し、日本統治のアドバイスや善政を引くよう要望し続けた。その時の縁で、マッカーサー駐日米国大使にその日米友好への努力が高く評価され序文で言及されている。日米文化振興協会の会長を務めた。故郷山梨県には彼の記念碑があるそうだ。ちなみに今回手に入れた1930年の初版本は、なんとこの笠井重治の蔵書であった(蔵書印と蔵書ナンバーがある)。彼は多くの日米関係史に関する蔵書を有していたようだが、そのいくつかが手放されて現在は古書店に並んでいる。中でも因縁深いこの一冊、彼の思いの詰まった一冊を不肖私が手に入れたというわけだ。まさにThe Peace of The Pacificを願う笠井とコセンザ。その記念すべき書籍。何故古書市場に出回ることになったのかは不明だが、なんという出会いであることか。これだから古書を巡る旅はやめられない。
2020年10月7日「伊豆下田の玉泉時日本初の米国領事館跡を探訪する」
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| 上が1968年の第三版 下が1930年の初版 |
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| 第三版の表紙デザイン |
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| 初版本の見開き表紙とハリス肖像 |
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| 編者コセンザの献辞 "TO THE PEACE OF THE PACIFIC" 時代の転換点である1930年という年に向けたメッセージである |
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| 第3版に寄せられたマッカーサー駐日大使の序文 Jiuji KasaiとDr. Consenzaの名前が引用されている |
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| 初版本のJiuji Kasai:笠井重治の蔵書印 |
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| 柿崎(玉泉寺のある)から見た下田の街 |
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| 1856年に下田の玉泉寺に開設されたアメリカ領事館 日本で初めて掲揚された星条旗 |
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| 下田玉泉寺の領事館跡記念碑 渋沢栄一の寄付になるもの |
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| アメリカ公使館が置かれた善福寺の写真 有名な大銀杏の説明もある |
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| 現在の麻布山善福寺参道 なんとも異様な光景だが... |
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| 善福寺唐門 |
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| 今日は幼稚園の入園式 |
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| 善福寺本堂 |
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| 銀杏の樹下に佇むハリス記念碑 |
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| 善福寺の逆さイチョウ 戦災で大きな被害を受けたが復活した ハリスがいた時代から有名であった |
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| 福沢諭吉夫妻の墓 |

































































