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2012年11月26日月曜日

古都の紅葉巡り第二弾  「そうだ奈良、行こう!」

 関西にいるとこの季節は忙しい。歴史に彩られた紅葉の名所があちこちにあるから、それを全部廻ろうとすると体がいくつあっても足りない。というか,無理。 しかし行きたい。ジレンマ。結局、人気スポットが集中する京都ばかり廻ることになってしまう。先日は荒天の合間の晴れ日を狙って高雄紅葉狩りを強行。意外にも混雑に巻き込まれる事も無く、青空に映える錦秋を満喫出来た。が、いつもこううまくゆくとは限らない。幸運だったと言うべきだ。人出を避ける事は難しい。

 人気の京都は、首都圏でのJR東海のキャンペーン広告「そうだ京都、行こう」ですっかりおなじみになって、我も我もと人が押し掛けてくる。とにかく東京から新幹線で2時間半で行ける京都はもはや首都圏の延長みたいなものだ。「いかにも」といった押し付けがましい「京都」に歓声を上げる、どこか出身地訛の「東京弁」。時に京都の観光地はフェイクとフェイクの交錯だ。これは本当の京都の姿ではない。

 それに比べると,奈良大和路は静かだ。首都圏からの観光客は意外に少ない。東京から直行できない事が幸いしているのだろう。日帰り出来ないし,泊まろうにも大きなホテルが無い。もちろん近鉄王国なので、大阪から日帰りする人は多い。難波、上本町から30分程で来れる。したがって有名な観光スポットは関西弁で満ち満ちている。古寺巡礼する人々は観光客というよりも、関西一円から、日常の信仰でお参りに来る善男善女だ。大和の歴史散策路や低山ハイキングコースは元気なオバちゃん、オッちゃんのパラダイス。外国からの観光客にとっても、京都は初心者コース。奈良は中級者コースだ。こんなに豊かな史跡と歴史的景観と美しい自然、里山、古代の物語りに満ちた土地なのに。

 このように奈良は日本を代表する古都であるにもかかわらず,意外に観光地としては京都ほどの賑わいが無いということになる。奈良から見れば、もっとアクセス、利便性、魅力をアピールして、出来れば滞在型のツアーを呼び込みたい所だろう。しかし、私のように、観光客でごった返す雑踏大嫌い人間にはパラダイスだ。紅葉の季節だってユックリと楽しめる。時空を超えた、あの日本草創の頃の空気に浸る気分的余裕が持てる。

 奈良の紅葉は素晴らしい。春日山を背景にした奈良公園の紅葉、黄葉の響宴は見事。休日は奈良県庁屋上が一般に開放されている。ここは意外に知られていない東西南北見渡せる絶景スポット。東大寺も春日大社も,若草山も、興福寺も、生駒山も,錦秋の奈良公園が360度見渡せる。奈良の雑踏ポイントは東大寺南大門から大仏殿への参道。ここを避ければあとは静かな秋を満喫出来る。入江泰吉が愛した大仏殿の裏から二月堂へ向う道を歩いて欲しい。知る人ぞ知る大仏池の紅葉、黄葉スポットも外せない。東大寺から春日大社へ向う神域を鹿と散策しよう。志賀直哉など、文人墨客が居を構えた高畑町を歩こう。

 何度も歩いた奈良。それでもまだ歩き尽くしていない奈良。家族から「また奈良に行くの?」と笑われる奈良。我ながら「また奈良か」と思う奈良。春夏秋冬いつでも奈良。
 今年もまたやって来た紅葉の美しい日本の晩秋。
 小さな声でつぶやく。「そうだ奈良、行こう!」



 奈良県庁屋上から展望する、錦をまとう東大寺大仏殿と二月堂。背景に春日の山々。




 奈良公園の紅葉は今が盛り。何気ない街角の紅葉の美しさも奈良の魅力。




 二月堂へ向う道。入江泰吉氏が愛し、多くの作品を残したこの辺りは紅葉の季節も美しい。




 若草山から春日大社へ向う途中の茶屋も錦に覆われる




 若い牝鹿達だろう。何を語らっているのか。静かな谷間に集う。


スライドショーはこちらから→

(撮影機材:SONY NEX-7, Zoom 18-200mm。プログラムモードでの撮影はなかなか鮮やかな発色だ。度々動画ボタンに親指がかかっているらしく、気付くと、揺れる自分の足と路面が長々と写っている。このボタン位置、何とかならないか?個人的には動画機能は不要なので、オフにすることが出来ると一番良いのだが。)

2012年11月20日火曜日

京都三尾(高雄山神護寺/槙尾山西明寺/栂尾山高山寺)に紅葉を愛でる

 

今年の夏は猛暑であった。そしてなかなか秋らしい爽やかな季節がやって来なかった。「こりゃあ今年の紅葉は遅いぞ」「あまりきれいに紅葉しないんじゃあ」と心配していたが、11月に入ると急に秋が深まり、朝夕の寒さが増した。そして、むしろ例年より一週間ほど早く錦秋がやってきた。それも見事な。これはこれは...

 それにしても秋雨前線通過に伴う一日おきの冷たい雨。天気が不安定だ。それにもめげず、その晴れ間をねらって、初めての京都高雄の三尾巡りを敢行。当たりだ! 雨続きだったせいか人出は比較的少なく、しかし紅葉は真っ盛り。貴重な晴れ間の青空に錦織なす紅葉が映える。また、この辺り独特の北山杉を背景にした紅葉風景も美しい。

 今日は、歴史のウンチクを語るのを止めて、紅葉写真をで楽しんでいただきたい。和気清麻呂さんも、最澄さんも、空海さんも、明恵さんも、この時期ばかりは、自らの波乱の人生を語るのではなく、ただ静かに高雄山の山懐に美しい日本の秋を愛でているのだから。ヤボはイケナイ。




(長い石段を登り終えると、神護寺金堂の紅葉が待っている。石段脇の紅葉は盛りの木と終わった木があったが、境内は紅葉真っ盛り。)








(辺りは「錦秋」という言葉がふさわしい高雄の秋。赤やオレンジや黄色の葉が青空に映えて美しさを際立たせている。)




(神護寺庭園。苔の緑に映える紅葉の落ち葉が美しい。散り紅葉はこれから。)





(清滝川に架かる西明寺門前の橋。川の湾曲が良い佇まいを醸し出している。)





(西明寺庭園の池にも秋が。静かな趣のある境内には大きな高野槙がある。)





(高山寺石水院の善財童子像。ここには有名な「鳥獣戯画」のレプリカが展示されている。ホンモノは国立博物館に展示されているとか。)


(撮影機材:Nikon D800E, AF Nikkor Zoom 24-120mm)


(三尾点景)












































2012年11月9日金曜日

葛城の道を往く ーワカタケル大王,在地神にひれ伏すー

 
葛城古道

日本古代史の中で、「王朝交代」説は戦後様々な学者によって唱えられてきた。戦前の「万世一系の天皇」説のアンチテーゼとして唱えられたものである。主な説は、3世紀に起こったと言われる三輪山の麓の三輪王朝(崇神王朝)から、河内王朝(応神/仁徳王朝)、6世紀になって越の国からヤマトに入ったという継体王朝へと変遷したというもの。しかし、この他にも、三輪王朝以前に奈良盆地の西の葛城山麓に有力な勢力がいて、葛城王朝を形成していたという説が唱えられている。

この説では、古事記、日本書紀に記述されているが、その実在性が薄いと言われている初代神武天皇から9代開化天皇までの(10代崇神天皇より前の)、いわゆる「欠史八代」(在任中の事蹟の記述が無い)の天皇は、実はここ葛城を拠点に実在した可能性がある、とする。現在の奈良県御所市、葛城山から金剛山の麓に南北の連なる葛城地方は、古代豪族、葛城氏の拠点として知られる。さらに時を遡れば、鴨氏(京都の上賀茂/下賀茂神社や鴨長明の祖先)の故地として知られる地だ。

ここには鴨一族縁の高鴨神社や高天彦神社があり、神話の世界を彷彿とさせる高天原の地名も残る。チクシの日向の高千穂と並ぶ、もう一つの天孫降臨伝承地となっている。また「欠史八代」の天皇の一人、神武天皇の三男で二代天皇に即位したと言われる綏靖天皇の高丘宮跡伝承地もあり、石碑が建っている。ちなみに「葛城王朝」説によると,神武天皇が王朝の始祖であるとする。

なるほど、東の三輪山を神聖視する崇神王朝が、西の葛城山を神聖視する葛城王朝に対峙する、とする奈良盆地内の勢力変遷の考え方は、地政学的には面白い。奈良盆地には物部氏、巨勢氏、平群氏、蘇我氏、大伴氏などの有力豪族がそれぞれ山の麓(ヤマト)に本拠地を構えて対抗していた。後に蘇我氏が廃仏派の物部氏を滅ぼし、飛鳥にヤマト王権を支え、そして巳支の変(いわゆる「大化の改新」)で滅ぼされ、新興の中堅氏族である中臣氏(後の藤原氏)が取って代わりヤマト政権中枢に入り、奈良時代、平安時代を通じ権勢を振るう。このように日本古代史には、大王(天皇)の「権威」を、姻戚関係を持った(持てた)有力豪族の「権力」が支える構造が見える。

「葛城王朝」説によれば、初代神武大王(ハツクニシラススメラミコト)以降の「欠史八代」の歴代天皇は、葛城山の麓にいた古い土着の鴨一族と姻戚関係をもって伸長し、奈良盆地に(すなわち倭国国中)に勢力を拡大したとする。そして、やがて3世紀には三輪山の麓を本拠地とするもう一人のハツクニシラススメラミコト崇神大王(第十代天皇)の三輪王朝に取って代わられた、と。

5世紀に入ると、鴨氏に繋がる葛城氏が、河内に勢力を有する応神/仁徳大王(同一人物という説もある)の一族と姻戚関係に入り、ヤマト王権を支える有力豪族にのし上がったと言われている。そして5世紀の中国の史書に言う雄略大王(ワカタケル)などの「倭の五王」の時代へ。やがて、武烈大王で河内王朝の血統が途絶えたのか、応神大王の遠い血族である、と言われる継体大王が、6世紀初頭に遠く越の国からヤマトに入り継体王朝が始まるわけである。

「欠史八代」の大王(天皇)の実在性を説明する「葛城王朝」説は、学説では主流となっておらず、いまだ多くの謎に包まれている。しかし、この葛城山、金剛山の麓を歩き、背後に甘南備た山々を背負い、東に奈良盆地、大和三山を展望すると、なるほどここも「国のまほろば」。有力な勢力がヤマト世界を睥睨しながら、時代の権勢を誇ったとしてもおかしくはない佇まいを持っているではないか。三輪山の麓から見渡す、あのヤマト国中に相対峙する,もう一つの世界がここに広がっている。

それにしても古代の豪族達は平地を見渡せる山の麓(山処:やまと)が好きだったんだなあと、あらためて思いを巡らす。そういえば、この奈良盆地の平地にいた有力豪族というものを聞かない(下記の参考図を見ていただきたい)。平地にいて川のほとりに環濠集落を構えていたのは水耕稲作にいそしんだ弥生人の農民だけであったのだろうか。権力者一族は高見にいて生産とそれにより生ずる富を支配したのだろう。そういえば「三輪王朝」の拠点であった纏向の神殿遺跡も、微高地に位置しており、全く庶民の生活臭のない人工的な街区にあった。一方、農耕環濠集落遺跡である唐古鍵遺跡は、纏向から遠く離れた田原本の平地に広がっている。

もう一つここ葛城の地に伝わる面白い伝承がある。一言主の存在だ。今は樹齢1600年と言われる巨大な大銀杏がシンボルとなっている一言主神社。ここに大神は祀られている。古事記と日本書紀でやや記述に差異があるが、古事記では、雄略大王が供を従えて葛城山に狩りに出かけ、この地を通りかかった時に、大王と同じ立派な身なりをした人物に出くわす。雄略は怪しんで「我は倭国の大王だ。お前は誰だ?」と聞いた。「我は一言主の神である。お前こそ誰だ?」と。雄略大王は恐れ入って、武器と供の衣服を差し出しひれ伏した、と。

8世紀初に天皇支配の正統性を示すために編纂された、古事記や日本書紀に、雄略天皇(大王)が恐れいりひれ伏した神が葛城にいたということが記述されているわけだが、この出会いは何を意味するのだろう? いまだヤマト王権に服さない在地勢力がこの奈良盆地にいたという事なのだろうか? 雄略大王といえば、記紀にいうヤマトタケルの倭国平定伝説や、中国宋書にいう倭王武の上奏文「ソデイ甲冑を貫き、山河を跋渉して寧所にいとまあらず」、埼玉稲荷山古墳や熊本の江田船山古墳で出土した鉄剣に彫り込まれた「ワカタケル大王」の文字など、この時代の英雄伝の主人公であるといわれる。その雄略大王すらもおそれひれ伏した神とは?

この一言主は地元の鴨氏の神であると言われている。当時の鴨氏や、後にその縁に連なる葛城氏は、先述のように、ヤマト王権に対する大きな影響力を有していたのだろう。応神/仁徳大王の河内王朝の歴代大王も葛城氏から后を娶り、その勢力を基盤にヤマト王権を維持してきたという。この雄略大王の一言主との出会いは、その有力な在地勢力との関係を示すエピソードなのかもしれない。




(アクセス:近鉄御所駅から,バスで櫛羅ないしは猿目橋下車で南へ歩く。あるいは風の森まで乗車して戻る方法も。バスの本数は少ないので事前に確認しておくこと。全コース徒歩で約10キロ強)




(参考:奈良盆地の豪族の分布図。このように奈良盆地を取り巻くように山裾に集中している。盆地中央に本拠地を持つ豪族が居ないのは何故だろう。)