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2015年11月17日火曜日

有田磁器創業400年の街を徘徊す  〜静かな谷間の町で超絶の美は育った〜



陶祖 李参平記念碑から有田の町を展望

伝統的建造物群保存地域リストより


 有田は来年、磁器創業400年を迎える。朝鮮の役で肥前に連れてこられた朝鮮人陶工李参平を始祖にその歴史が始まった。彼は泉山に良質の陶石(カオリン)を発見し1616年有田に築窯する。その後江戸時代には肥前鍋島藩の育成・保護のもと、窯元が有田皿山・内山に集められ、皿山代官所が設けられた。また赤絵町を中心に鍋島染付が盛んになる。製品は主に伊万里の港から出荷されたので「伊万里焼」の名で流通した。日本国内はもとより、長崎のオランダ東インド会社を介して遠くヨーロッパまで輸出され、これが王侯貴族の垂涎の逸品として広まってゆく。ドレスデンのツヴィンガー宮殿は数多くの伊万里コレクションで有名だ。後に有田を手本にマイセン窯が開かれることになる。現代まで続く酒井田柿右衛門や今泉今右衛門(鍋島藩お抱えの赤絵付師)といった名工が生まれる。こうして伊万里焼は鍋島藩の重要な収入源となる。また、鍋島藩は、市場に流通する磁器を焼く私窯と、藩のために焼く藩窯を分け、後に技術の流出を防ぐために後者を伊万里の大川内山に集めて、藩専用に門外不出磁器を焼かせたことは以前のブログで紹介した通りだ。

 18世紀後半になると、これまで盛んだった磁器輸出の停滞が始まり、国内市場も瀬戸や美濃などの産地の台頭で有田苦難の時代となっていった。また、1828年の有田千軒の大火では壊滅的な被害を受けた。しかし、先人達の努力で、伝統の火を絶やさず、幕末・明治初期には、開国した日本の重要な輸出品としてその製造に力を入れる。ウィーン万博、フィラデルフィア万博への出展で海外市場マーケティングの経験と製品評価を積み、積極的な海外市場開拓が始まった。やがて廃藩置県により鍋島藩の皿山代官所が無くなり、藩の管理から離れる。こうして今度は地元の有力な事業家を中心に輸出陶磁器として、欧州の磁器製造技術や絵付け、デザインを逆輸入しつつ、新たな「有田焼」を生み出してゆく。その工芸品としての「超絶の美」は特にパリ万博で高い評価を確立することとなる。明治期の有田磁器は、江戸期の伊万里磁器(今では「古伊万里」とカテゴライズされている)と異なり、大皿や大壺などの生産が盛んになり、細密な絵付け、装飾的でデザインも凝りに凝った、いわゆる「超絶技巧」を駆使したものが多くなる。いわば西欧市場受けする色付け、デザインとサイズの製品が生み出されていった。

 こうして、鍋島藩お抱えでエクスクルーシヴな「伊万里焼」から、その伝統と歴史に裏打ちされながらも、グローバルな「有田焼」へと変身してゆく。まさにジャポニズム、今でいうクールジャパンここにありという訳だ。職人たちの熱いこだわりと心意気が感じられる。肥前有田内山、この静かな山間の街は世界に輝く至宝の里となった。

(参考)明治の磁器輸出の担い手

 香蘭社(深海墨之助、辻勝蔵、手塚亀之助、八代深川栄左衛門によって1875年設立
     された日本最初期の磁器製造販売会社)
 精磁社(1879年、手塚、辻、深海が香蘭社から分かれて創業。しかし1897年終
     焉。辻勝蔵が1903年に辻精磁社を設立)
 深川製磁(深川栄左衛門の次男深川忠治により1911年設立。) 

(参考)古伊万里伝統的技法の継承(いわゆる有田の「三右衛門」)

 柿右衛門様式:酒井田柿右衛門(私窯、濁手、柿右衛門赤)14代
 鍋島様式:今泉今右衛門(鍋島藩窯、お抱え絵付け師、鍋島染付)14代人間国宝
 源右衛門様式:館林源右衛門(260年前に築窯。衰退。昭和45年に6代源右衛
        門が再興。海外ともコラボしながら新しい「有田焼」を生み出し
        ている)

 こうして創業以来400年もの間、栄枯盛衰はあったものの、連綿と有田磁器を生み出し、育んできた。ビジネスコンティニュイティー、すなわち事業継続の基本となるのは、やはり「伝統と革新」。それはここでも当てはまる不変の法則だった。

 平成3年に有田内山は伝統的建造物群保存地区に指定される。町を歩くと、有田駅から上有田駅付近まで続く細長い通りの両側に家並みが続く。表通りは江戸期の町家と明治期の洋館、大正期の商家と、昭和に入ってからの建物と、各時代の建造物が多様に混ざり合いつつも、美しく調和した町並みを形成している。また表通りから一歩裏に入るとトンバイ塀(窯のレンガの廃材などを利用した塀)の町並みが残されており、工房や工場、窯元が軒を連ねる独特の景観を作り出している。またそこには生産活動に従事する匠やその家族の人々の日々の生活がある。過去を封じ込めた「歴史的景観保存地区」ではない。ここは現代を生きる町なのだ。

 一方、表通りに出て、世界の香蘭社や深川製磁の本店ショールームをめぐるのは楽しい。眼に眩い日本の至宝が現代的なセンスを纏い並んでいる。もちろん古伊万里の陳列館では、その至宝の原器たる磁器名品の数々を楽しむことができる。谷あいの静かな町に400年の伝統と歴史が今も保存され、かつそれが時間とともに熟成されて、新たな美を生み出し続ける。今もアクティブに革新的な製品を世界に発信し続けている町だ。歴史的景観として保存されるだけでなく、今に生きるモノ作りの町、いや超絶技法の町なのだ。

 この日も、町にはヨーロッパ諸国からの訪問者が多く見られた。深川製磁の陳列館に横付けされたバスからは、シルバーカップルの一団が降りてきた。長崎に寄港したクルーズ船からのツアー客だそうだ。なかなか魅力的なツアーだ。裏通りにはバックパックの若者達が一軒一軒工房を巡っている。有田駅の観光案内所ではフランス人の家族連れが説明を聞いている。地元のガイドさんや駅員の人たちも、立派に英語やフランス語で応対している。ここは国際都市なのだ。陶磁器の聖地、ジャポニズムのルーツの地らしい交流が楽しい。

 日本のものづくりのあり方が問われている。高度な生産技術で、低コスト化・低価格化を実現した日本のモノ作りの技術は大したものだが、そういう競争優位性はもはや日本だけのものではなくなって久しい。さらにコスト競争による安い大量生産品はますます利益を生み出しにくくなり、逆に競争優位性を失う。また、最新技術はすぐに古くなってしまう。コモディティー化のスピードは早い。むしろ高付加価値、誰にも真似できない技術(テクノロジー)/技(わざ)/芸(アート)の領域に入ってゆく必要がある。こうした感性を刺戟する商材はすなわち誰にでも買えるという分けではない。「手のかかった本物」はそれなりの対価を求める。誰でもできる、誰でも買える、はもはや競争優位にはならない。この人しかできない、この会社しかできない、ここでしかできない「差異化ポイント」が「高付加価値」か「コモディティー」かを分けることになる。しかし、そんなことは言い古されて当たり前のこと、誰もが分かっていること...のはずなのに、ではそれが具体的になんなのかが分かっていない。

 伊万里大川内山を巡った時も感じたが、「有田」「伊万里」を所有するということにはなにか特別な体験がある。人に語りたくなる物語がある。そしてそういうものを生み出してきた町や里を巡ることにもう一つの体験と物語が生まれる。ここ有田内山に来て、静かな谷あいの町を歩き、伝統と歴史と、その世界的な評価に裏打ちされた名品に酔いしれる。そうするうちになにかヒント(すなわち差異化とはなにか?)が見え隠れしているような気がしてくる。技術(テクノロジー)/技(スキル)/工芸(デザイン)/芸(アート)、人々を感動させる要素はどのようなプロセスで生み出されてゆくのか。モノより体験、あるいはモノを通じての自分のストーリーを語る。Tell your story! あるいはモノにそういう新しい世界を体験する。案外、日本再生のヒントは佐賀にあり!かもしれない。



 以下、有田での写真をアップしてみた。上で述べたような体験、物語を写真で表現しようと試みたが、やはりそうした有田の情景・情感を伝える力量の不足を強く感じる。写真の数が多ければ多いほど、言葉数が多ければ多いほど、伝えたいメッセージは曖昧になる。今の自分の限界だから仕方ない。ともあれご覧あれ。

 (1)明治期に創立となった、香蘭社、深川製磁、精磁社を巡る。それは江戸の伝統を今に伝える三右衛門(柿右衛門、今右衛門、源右衛門)の窯、工房を巡る旅に加えられるべきもう一つのハイライトだ。ちょうど佐賀県立九州陶磁文化館では「明治有田 超絶の美 万国博覧会の時代」展を開催中だった。明治期に海外に輸出された有田ブランドはこの三社が競い合って確立されたものであったことがわかる。

香蘭社本店
香蘭社展示館からの眺め


深川製磁本店

深川製磁のロゴマーク富士山


深川製磁本店横には年季の入った工房が

辻精磁社
代々禁裏御用達の辻家が元祖

 (2)表通りを一歩中へ入ると、そこには「トンバイ塀」に囲まれた工房や工場、窯元が軒を連ねる路地が続く。こちらの方が有田の伝統的な街並みなのかもしれない。















(3)再び表通りへ。

有田内山地区の街並み
江戸時代、明治、大正、昭和とそれぞれの時代の建物が混在する
その多様性の調和が町の歴史の熟成を感じさせる


今泉今右衛門
江戸時代の建物がそのまま使われている

陶山神社参道
JR佐世保線が横切る

大鳥居は有田焼

陶祖 李参平を祀る
扁額には有田焼の大皿が

これも有田焼の狛犬
本殿は町を見渡す山の上だ


陶祖 李参平記念碑
ここから有田の街が一望に見渡せる

有田駅近くの川にかかる橋
JR有田駅

 (4)佐賀県立九州陶磁文化館では、前述のように「明治有田 超絶の美 万国博覧会の時代」展開催中であった。ここはこうした企画展のほか、九州全域の陶磁器の歴史、コレクションを総覧する常設展示を行っている。陶磁器の歴史がわかりやすく展示されていて勉強になった。そのほかにも見所満載で陶磁器マニアにとっては見逃せない。中でも古伊万里の「柴田夫妻コレクション」は必見。

佐賀県立九州陶磁文化館から展望する有田の町

少し黄葉が始まった




圧巻!

充実した旅の心地よい疲れを癒してくれる一幅の画




2015年11月9日月曜日

我が国最古の王墓 吉武高木遺跡 〜魏志倭人伝以前の倭の王国「早良国」探訪〜


飯盛山の山麓に広がる「吉武高木遺跡」
発掘後は埋め戻され「やよいの風」史跡公園として整備が進められている。

神奈備型の飯盛山
我が国最古の王国「早良国」のランドマークだ

 朝鮮半島、大陸への玄関口である博多湾に面した地域は早くから稲作文化が我が国に入ってきた(狩猟採集文化である縄文時代から、稲作農耕文化である弥生時代への転換というパラダイムシフトが起こった)先進地域であった。その博多湾の西側の室見川に沿って、早良(さわら)平野がある。それほど広い平野ではなく、通常福岡平野の一部と認識されている。ここに古代「早良国」の王墓と思しき遺跡(吉武高木遺跡)が発見された。いまは大福岡市の早良区・西区になっているが、昭和までは早良郡であった(ちなみに周辺が糸島郡、那珂郡、筑紫郡であった)。古代においては油山で隔てられた隣の奴国(那珂川沿いの福岡平野)と境を接し、西は飯盛山、叶岳、高祖(たかす)山などの日向(ひなた)山系を介して伊都国(糸島平野)と、南は背振(せふり)山系を介して吉野ヶ里遺跡のある佐賀平野だ。


「吉武高木遺跡」の位置と
博多湾周辺の弥生遺跡
(神泉社刊 シリーズ「遺跡を学ぶ」024から引用)

 1984年の発掘調査で、ここ吉武高木・大石地区において甕棺墓、木棺墓が大量に見つかった。いわば甕棺ロードともいうべき墓群からは多くの銅剣や銅戈が副葬品として出土している。中でもその中核墓ともいうべき3号墓には「銅鏡、勾玉、銅剣」の三点セットが副葬されていた。この他を圧する威信財の出土は「王」の存在を想起させる。そして、のちの天皇家の「三種の神器」の原型とも考えられる三点セットに世間は色めき立った。またすぐ近くからは大型の高床式と思しき建物跡(高床ではないとする説もある。用途は未だ不明だが居館跡ないしは祭殿跡ではないかとも言われている)も発見されている。弥生中期の始め(紀元前2世紀頃)の遺跡と考えられ、紀元前1世紀の奴国王墓と考えられる須玖岡本遺跡や伊都国王墓と考えられる三雲南小路遺跡よりもさらに古い。こうしたことからいわば「我が国最古の王墓」の発見と騒がれた。


副葬されていた「三種の神器」
(福岡市文化財HPより)

 ここは我が国最古の王国「早良国」の跡ではないかと考えられている。王国といっても、明確に統治の権威と権力を有する「王」がいて「国」の体をどの程度までなしていたのかは不明だが、少なくとも水稲農耕社会の初源的な形の集落、ムラ、都邑、クニ、国が形成され始めた時期であっただろう。その首長(おさ)はなんらかの民を統治する権威を有し、その墓には他より厚く埋葬され、その権威を示す威信財が副葬されたのであろうと考えられる。前述の奴国王墓や伊都国王墓には前漢皇帝から与えられた銅鏡など漢物が副葬されている。この吉武高木遺跡の中核墓に副葬されていた「三種の神器」がどこから与えられた(由来した)「威信財」なのかがこれからの研究課題のように思われる。なかでも多紐細文鏡(たちゅうさいもんきょう)は、後世でてくる前漢鏡や後漢鏡と異なり、さらに時代が古い。首から紐でぶら下げて光にかざす目的に作られようで、シャーマンが呪術に用いたものらしい。朝鮮半島に同様のものが見つかっていて、朝鮮半島由来のものであろうと推測されている。また、出土した勾玉は糸魚川産の翡翠である。当時チクシとコシに交流があった証だろう。そうした「三種の神器」の出自を知ることで埋葬されている「王」とはどのような存在であったのか徐々に解明されてゆくことだろう。

 一方、「倭国の王」は中華思想(華夷思想)、すなわち中華皇帝の徳を慕って蛮夷の王たちが朝貢し、皇帝が朝貢してきた王たちにその地域の支配の権威を与える、という冊封体制ができてから出現するものであり、それ以前には「王」は存在しない、とする考えもある。確かに「倭人世界」を構成する国々が、競って中国皇帝(漢、魏、晋など)に朝貢し、「王」として冊封されるのは紀元前1世紀以降、奴国や邪馬台国の時代になってからのことだ。しかし、それ以前に倭のクニグニの首長が、統治の権威をさらに上位の権威から認証される形式はなかったのだろうか。仮に「王」の権威を象徴するものでないとすると、副葬されていた三点セットはどういう意味を持つのだろう。

 3世紀以降に著された中国の史書、すなわちよく知られている後漢書東夷伝や魏志倭人伝に記述のある、末盧国、伊都国や奴国、その他の「分かれて百余国をなす」とされる倭国の中にこの早良国は出てこない。おそらくその記述の300年以上前に博多湾岸に存在した国・クニなのだろう。その後なんらかの事情があって、倭人伝が記述される頃までには隣の奴国に吸収され消滅したものと思われる。また漢の皇帝から金印をもらった奴国王も、魏志倭人伝の時代(3世紀)になると邪馬台国・伊都国(卑弥呼の代官一大卒が駐在する)に従属するクニになっていた可能性がある。実は一時邪馬台国ではないかと騒がれた吉野ヶ里も倭人伝の百余国に属するのか、どのクニに比定されるのか未だ定まっていない。史書に記述のない弥生のクニの一つであったのだろうか(のちの三根郡、三根国に比定する説もあるが)。紀元前2世紀から1世紀は中国では秦が滅び漢の時代に移ってゆく時代である。当時の「倭国」には史書に記述のない多くのクニグニが存在し、合従連衡を繰り返していたのであろう。いわば原始的な弥生の「王国」(ムラオサのいるクニ)が存在し互いに争う混沌とした時代を形成していたのかもしれない。こうした弥生のクニグニの実態は、文献資料がない以上、考古学的な研究成果から徐々に解明されてゆくのだろう。

 さてこの早良平野の吉武高木遺跡の現場に立ってみると、まず驚かされるのが、その「弥生的」ロケーションセッティングだ。わずかに高低差のある微高地に遺跡は存在しており、周囲を見渡すことができる。すなわち西の背後にそびえる秀麗な三角錐の飯盛山。そして東側には豊かな水量を誇る室見川が流れる。この佇まいには何かを感じずにはおれない。特に飯盛山はヤマトの三輪山や伊都国の高祖山、奴国の油山のような神奈備型の山容だ。すなわち山自体がご神体であったであろう。飯盛山には現在飯盛神社(下社、中社、上社)がある。社伝にはこれは平安時代初期に創建された、とあるが、元は飯盛山自体がご神体であったにちがいない。ご神体山と微高地と川。これぞ弥生の国(クニ)の原風景だ。いやさらに遡れば、縄文的なアニミズムの香りを残している。

 また遺跡発掘現場に立って東、すなわち奴国の方向を振り向くと、そこには私の子供の頃から見慣れた油山が聳えている。博多湾、志賀島から福岡市街を展望すると、この油山が、思いの外秀麗で、どっしりと存在感を持った神奈備山であることを知る。さらには福岡タワーなどの高層建築が並び発展著しい福岡市街地が広がっている。西には飯盛山、その脇には叶岳などの日向(ひなた)山系が。この日向峠を越えると高祖山を見ながら糸島平野、すなわち伊都国へと抜ける。また南に目を転ずると脊振の峰々が壁のように連なっている。この険しい山に分け入り、三瀬峠を越えると佐賀平野の吉野ヶ里遺跡にたどり着く。北は博多湾に浮かぶ能古島がすぐ目の前に見え、その向こうは玄界灘を経て大陸へとつながる大海が広がっている。しかし、早良平野はそれほどの規模を持つ平野ではなく、周辺に西新町遺跡や野方遺跡など、奴国の衛星都市的な集落遺跡が発見されていることから、隣の「大国」奴国に併呑されるのは時間の問題だったのかもしれない。

 この辺りは現在は福岡市の西のベッドタウンで、数々の高層マンションが立ち並び、都市高速道路や市営地下鉄が走っているが、昔は田んぼと畑しかないのどかな田舎であった。その急速な都市化に伴う開発要請が、地下に眠る弥生の痕跡を時空を超えた現代に晒すきっかけになっている。まだまだ知られざる弥生の世界が埋もれているに違いない。私の子供の頃には早良郡が存在したが、いまは福岡市に合併され、早良区にその名を残している。そう「早良(さわら)」という名前そのものが古代から連綿と続いている。隣の糸島郡だってそうだ。伊都国と志摩国。なかなか古代の情景を可視的に再現することは困難でも、その地名の記憶が、その存在を確かに感じることができる地域だ。

 現在、遺跡発掘現場は埋め戻されているが「やよいの風」史跡公園として整備工事が進んでおり、2016年の完成を目指している。飯盛山を始め、周囲を神々しい山々に囲まれた古代のまほろばを感じるロケーションだ。「やよいの風」とはよく命名したものだ。自治体もようやくこうした遺跡の価値を認識し始めたのだろう。歓迎すべきことだ。

 福岡はこうした古代の史跡の宝庫である。我が国発祥の地である。しかしそれが意外に認識されていない。それは都市化が著しく、それとわかる(可視化できる)ランドマークが整備されてこなかったことによると思う。またそうしたストーリーを紡ぎ出してプロデュースする努力を怠ってきた。いつまでも辛子明太子と博多ラーメンの街でもないだろう。我が国最初期の稲作集落跡である板付遺跡。須玖岡本遺跡や比恵遺跡など、古代奴国王都、王墓、鉄器製造の初期遺跡などの重要な史跡が集まっている。まさに我が国発祥の地といっても過言でないのに、そうしたことを考古学ファンなど、一部の知る人しか知らない。あの「金印」以外、福岡市民の何人がそれを知っているのだろう。そういう福岡人の私も、福岡に住んでいるときはあまりよくわかっていなかった。福岡市博物館、埋蔵文化財センターなどと連携した周遊コースなどを整備して欲しいものだ。古代倭国ツアーができる。

 1日歩き回って立ち止まる。早良平野の「やよいの風」を感じて辺りを見渡すと誰もいない。ふと子供の頃通っていた小学校の校歌を口ずさんでいる自分に気がついた。「背振の峰を仰ぎ見る 明るい窓のあけくれに 文化の香り身に受けて...」。そういえば福岡市の学校の校歌には背振の峰を歌ったものが多い。

筑前國郡絵図早良郡
江戸時代のもの
(福岡県立図書館蔵)
ほぼ古代早良国の範囲であった
東が那珂郡(古代奴国)
西が怡土郡(古代伊都国)
南が肥前国吉野ヶ里

博多湾からの現在の福岡市展望
正面の山が油山、その左(東)が奴国、その右(西)が早良国
背後にそびえる山並みが脊振の峰々

奴国の背後にそびえる油山は海から見ると堂々とした山容だ

飯盛山
太古には山自体がご神体であったのだろう
飯盛神社参道からの眺め

飯盛山中腹の飯盛神社中宮鳥居

飯盛山からの展望
シーサイドももち、福岡タワー、福岡ドームが見える
かつて古代那の津のあったあたりだ

飯盛山山腹に飯盛神社中宮の大鳥居が見える

まさにご神体山という佇まい

北、すなわち博多湾方向には能古島が見える
「吉武高木遺跡」発掘現場から飯盛山を望む
日向峠を越えると伊都国
「吉武高木遺跡」から東に油山を望む
この先が奴国
「吉武高木遺跡」から南には背振山系を望む
山の向こうには吉野ヶ里遺跡
史跡公園化が進められている
那の津の夕景


チクシの母なる川
豊穣の筑後平野を育む筑後川
 邪馬台国はこの地にあったという九州説が説得力を持つ風景だ




 アクセス:
 市営地下鉄七隈線次郎丸駅下車。徒歩50分。バス乗り換えなら(四箇田団地行き。本数は割に多い)田村町バス停下車徒歩15〜20分。あるいは天神、博多駅から西鉄路線バス四箇田団地行き直通を利用する手も。遺跡への表示が少なく、はっきり言って非常にわかりにくい。今後ハイカーやバイカーにも親切な表示の整備を期待したい。バス停から飯盛山を目印に室見川を渡る。広い田畑の中をひたすら歩く覚悟が必要。しかし、それが爽快なのであるが。