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2011年12月17日土曜日

教王護国寺東寺 ー空海の描く地上の宇宙ー

京都の東寺といえば、新幹線で京都駅を新大阪方面へ向うと、左手に五重塔が見える、あのおなじみのお寺だ。京都を代表する風景として、旅人、いやサラリーマン出張族、単身赴任族に親しまれている。しかし、実際に行ってみるのは、ウン十年前に父の車で連れて行ってもらった「しまい弘法の市」以来だ。

 東寺は平安京遷都の2年後の796年に造営が開始された。平安京の南、大極殿から真南に伸びる朱雀大路の羅城門の東に東寺、西に西寺が建立された。今は西寺は残ってないが,東寺の西に地名が残っている。遷都時の平安京大極殿は今の千本通り、JR二条駅付近にあったそうで、現在の京都御所は江戸時代に公家屋敷街に新たに造営されたものだ。このように後世、全体に京の中心が東によってしまった為、東寺の位置は今の御所の西を南北に走る堀川通のさらに西に位置している事になる。しかし、この東寺こそ、その遺構は平安京オリジナルの位置に存在し、それが現代の寺域となっている点でも貴重だ。
 
 東寺は天皇/国家が造営する官寺であった。奈良の平城京で言えば東大寺,大官大寺に相当する。当時の官寺は、鎮護国家思想のもと国家経営の根幹に関わる学問や海外文化の受容、消化を進める機関だったとも言える。今で言えば国立大学のようなものだろう。当時、僧侶は知識階級であり、官寺は学位の代わりに戒位を授け、公認の僧侶を世に輩出する機能を担っていた。東大寺や東寺はさしずめ東京大学、京都大学だ。筑紫の観世音寺は九州大学、下野薬師寺は東北大学みたいなものか。ちなみに、興福寺は藤原家創設の私寺だから、早稲田大学、慶応大学か。唐招提寺は海外からやってきたミッショナリー、鑑真創設の非官寺だからさしずめ上智大学か。

 そういうたとえの適否はさておき、造営途中の東寺は823年に嵯峨天皇によって空海に下賜される。中国留学から帰ったばかりの空海は真言密教の拠点として、この東寺を教王護国寺(王を教え国を護る)と名乗り、諸堂を整備した。高野山金剛峰寺は修行の場、教王護国寺は信仰の場という、真言宗の二大センターとして、その後の時代を生き続ける事になる。
 
 東寺は、現代においても、その象徴である五重塔はじめ、金堂、講堂、大師堂(御影堂)、食堂が建ち並ぶ京都でも屈指の大寺院である。その大伽藍の配置自体が、境内に曼荼羅の世界を表現したものだとも言われている。また、その大寺の佇まいは、平城京、奈良の都の大寺の風格を色濃く残している。平安遷都に伴い造営された官寺であるので、平城京の香りを引き継いでいるのだろう。そういう点で,他の京都の寺院とは異なった趣を感じることが出来る。

 しかし、これらの建造物はその後の歴史の流れの中で、焼失や破壊で創建当時のものはほとんど残っていない。それでも五重塔(国宝)は江戸時代初期、徳川家光の寄進によるもので、現存する日本の古塔中最高の塔である。堂々たる金堂(国宝)は豊臣秀頼寄進のもので、桃山時代の代表的建築だ。講堂(重文)は1492年に再建されたもの。このように度重なる再建でも、国宝、重文級の建築物が後世に残されているという事は、いかにその時代の権力者や民衆が、この寺を慕い敬っていたか、という証査でもあろう。

 このように建物群も目を見張る素晴らしさがあるが、東寺を有名にしているのは,講堂の立体曼荼羅(金剛界曼荼羅)であろう。大日如来を中心に居並ぶ五智如来、五菩薩、五大明王、四天王、梵天、帝釈天という二十一体の仏像が壮観だ。奈良の大寺の中心仏は釈迦如来であるが、真言密教の中心仏は大日如来。空海は真言密教を、一部の知識階級だけが観念的に理解出来る世界ではなく、民衆にもわかりやすいように可視化してみせた。この講堂にビジュアル展開した仏の世界は壮観である。空海がこの世に仏教世界、いや心象宇宙を再現して見せたものだ。なんという宇宙観... 今でも観るものを圧倒するが,当時はいかばかりであった事だろう。

 金堂の薬師三尊(薬師如来、日光菩薩、月光菩薩)とその基壇部にあしらわれた十二神将も、真言密教的な薬師信仰を留めるものとして名高い。その密教世界の姿も魅力的だ。桃山時代の再建であるが、十二神将には奈良時代の香りが残されているという。

 最後に,食堂に並ぶ、焼けこげた天の立像群に心打たれた。幾多の戦乱、火災,災害による破壊にもめげず、再建された金堂、講堂、諸仏の陰に、その災厄の犠牲となった生々しい黒こげの仏達の姿に、その天の憤怒の形相に、連綿として生き続ける法灯の強い歴史のメッセージを感じる。

  残念ながら,というか,例によって、諸堂内の撮影は禁止されており、立体曼荼羅も撮影出来なかった。しかし,これだけは是非観ていただきたい,という事で、東寺のパンフレットの写真のコピーを添付。したがってスライドショーは、外回りの写真ばかりである事をお断りしておく。







(撮影機材:Leica M9 Summilux 50mm f.i.4, Ricoh GRX Tri-Elmar 16-18-21mm f.4)

2011年12月6日火曜日

やっぱり紅葉は京都だ ー南禅寺、永観堂、哲学の道、法然院、真如堂、金戒光明寺ー

今回はいよいよ本丸、京都東山の紅葉の名所に出没。今年の紅葉は少し遅れ気味で、12月に入ってもまだ充分見頃だ。休日でようやく晴れ間が出たので、人出は多いが、まずまずこんなものだろう。この間の嵐山,嵯峨野ほどの混み様では無かった。

 やはり、色鮮やかな紅葉、黄葉が錦織りなす東山ルートは京都の中でも黄金ルートだ。

 まずは地下鉄東西線で蹴上下車。南禅寺の三門前の紅葉は今が最盛期だ。何時見ても素晴らしい。三門脇のオレンジっぽい紅葉は終わっていた。黒々とした門を背景にした紅葉のシルエットは最高なのだが,残念だ。人出も多いが、それがまたこの季節の景観のエレメントになっている。

 永観堂は相変わらずすごい人出だ。紅葉と言えば永観堂,と言われるくらいだからその美しさ、色乗りの良さも第一級だ。それにしてもこの時期、拝観料が跳ね上がるのは如何なものか。しかし、中に入らずとも、白い壁沿いの錦秋を楽しめる。見返り観音も拝観もせずに、外からこの名高い紅葉を堪能した。

 哲学の道はウン十年ぶりの散策。ここは疎水沿いの桜並木が有名である。あまり紅葉は多くないが、それでもチラホラと銀杏や紅葉が。山茶花も白やピンクの花が今を盛りと咲いている。あちこちでスケッチを楽しむ人々がいる。のどかな散歩道だ。

 法然院は、ふだんは静かな境内が人で溢れていた。茅葺きの山門の苔と、その背景に赤や緑の錦が広がる。その写真を撮ろうと、大勢の人がカメラを構えている。人がいなくなるのを待ってシャッターを切ろうと待ち構えているが,それは無理な注文だ。この時期は人も情景の要素に取り入れたほうがいい。ここはそれほど紅葉の名所という訳ではないだろうが、落ち着いた佇まいが好ましい。

 白川通を渡り、向かいの山へ登る。真如堂の紅葉はいつも素晴らしい。文句のつけ様が無い。ただ、五重塔を背景に、銀杏の黄色,紅葉の赤、常緑樹の緑が美しいアングルがあるのだが、今回は少し紅葉の鮮やかさがイマイチで一昨年見たときほどの感動に欠ける気がした。それでも永観堂と異なり、拝観料無しでこれだけの豪華な紅葉を楽しめるのはうれしい。

 最後に、金戒光明寺へ回り,鐘突き堂から京都市街地を見渡したあと、山門脇の紅葉を楽しみにして石段を下る。紅葉は鮮やかに色づいて素晴らしかったが、あいにく山門が修復工事中で覆いが懸かっており残念。前回時間切れで頂けなかった御朱印をもらって帰った。よく歩いたが、気持ちのよい一日であった。

 こうして今年は、花の寺三室戸寺の始まり、嵐山、東山諸寺、と京都の紅葉を満喫することが出来た。大和路の紅葉も捨てがたいが何しろ限られた時間に全てをまわることは不可能だ。次回の楽しみに取っておこう。


(撮影機材はLEICA M9 Summilux 50mm F.1.4, RICOH GXR+Tri-Elmar 16-18-21mm.)

2011年11月27日日曜日

秋晴れ。休日。紅葉真っ盛り。人出真っ盛り ー京都嵐山の紅葉ー

噂には聞いていたが、紅葉の季節の嵐山はその美しさも称賛に値するが、人出もすごい。それでなかなか足が遠のいていたが、昨日は初めてその雑踏に足を踏み入れた。

 阪急電車はこの時期、神戸方面から嵐山への直通特急電車を日に一往復走らせている。普段は十三で京都線に乗り換え、桂で嵐山へさらに乗り換えるのだが。これは便利だ。これで行ってみよう,という事になった。片道、約一時間。時間的には乗り換え時間を除けば、それほど速い訳ではないが、乗り換え無しが良い。しかし、そこでチョッピリ疑問がわいてくる。「十三でどうやって神戸線から京都線に乗り入れるのだろう」。答えは簡単。十三駅を少し梅田方面に出て、待避線に入り、そこから、スイッチバックして京都線に入る。夙川では一番後ろに乗ったが、十三でその結果一番先頭になったわけだ。

 このスイッチバック、鉄道マニアの間では、年一回のイベントなので人気があると見えて、先頭車の運転席後ろには、カメラを持った少年達、昔少年だったおじさん達で溢れ、スイッチバックの「決定的瞬間」をカメラに収めんと、狭い運転席の窓にカメラの砲列が... 何の事は無い。車掌と運転手が入れ替わって後ろ向きに走り出すだけなのだが、鉄道ファンの前で「それを言っちゃあオシマイよ」。

 夙川から一時間ほどで,無事嵐山駅に到着。この頃には電車は満員。駅のホームにどっと人が溢れ出て、一斉に改札と通って外へ。今日は日曜日。しかも久しぶりに秋晴れ。紅葉見頃。こうくれば、人出が少ないはずは無い。中之島、桂川の土手は人で鈴なりだ。渡月橋に至れば、左右の歩道を一方通行にしているが、歩行者で大渋滞。前へ進まない。ついつい車道に降りて歩く人も出て、車もほとんど通れない。「立ち止まらずにお歩き下さい」「車道を歩かないで下さい」のラウドスピーカーの連呼が嵐山中に鳴り響いている。

 嵯峨野の静寂光寺の紅葉を撮ろうと思って向ったが,途中で諦めた。あの狭い嵯峨野路への入口、竹林辺りで、既に歩行者大渋滞。で、諦めて天龍寺の庭園を散策する事に。正面口は入場するのに皆長い列を作っていたが、北口は全然並んでない。ラッキー!しかし,中へ入ると広い庭園が人人人... まあしょうがない。曹源池の回りはまるで日比谷野外音楽堂のように人がぐるりと囲んでいる。すごい人出だ。瞑想も何もあったものではない。

 まあ,世の中、震災、景気後退、欧州経済危機、タイの洪水被害、歴史的円高、政治の混迷...で心休まる事案が無い中、これでけの人が桂川のほとり、渡月橋の上、曹源池の回り、を紅葉を求めて集まっている。ここだけは、のどか、というか、刹那的な安息があるようだ。

 人出の多い所へ出かける事が嫌いな私にしては大英断の一日であった。それにしても秋晴れの青空に映える紅、黄、オレンジの紅葉は美しい。嵐山の山肌の錦は、鮮やかさにやや欠け、しかも、逆光でカラフルな山肌を期待する向きには若干フラストレーションがあったが、人出が多い分だけ紅葉は美しかった。秋の一日を楽しむことが出来た気がする。帰りは嵐電で四条大宮まで出て、さらに阪急河原町からの特急で梅田へ出て、メシ食って帰途についた。


(撮影機材はNikon D3s)

2011年11月23日水曜日

今年の三室戸寺の紅葉

 今年は夏の暑さと,秋になっても高温が続いた事もあり,秋の紅葉は遅れ気味と言われている。しかし、ここ数日の寒さで紅葉が一気に進んだようだ。京都奈良で比較的早く紅葉が始まる三室戸寺を今年も訪れた。

 あいにくの曇り空で昨年のような青空に映える黄葉、紅葉は楽しめなかったが、すっかり紅葉していた。曇りの日は光が拡散して均一に回り込み、風景写真撮る時には良い条件とされている。ただし、あまり空を入れると何となく眠い締まりのない写真になるので、それを避ける必要がある。それにしても青空に映える紅葉を期待している向きには少しがっかりだ。

 また今年の紅葉は少し色がくすんでいるのかもしれない。でも、こうして写真にすると意外にも鮮やかな紅葉になっているではないか。現地で見るイメージと,写真にしたイメージが異なる事は,ママあるが、大抵はイメージ通りに写ってないとがっかりする方だが,今回はむしろ写真の方が奇麗だ。

 三室戸寺は、「花の寺」とも呼ばれ、紫陽花や石楠花など四季折々の花を楽しめる事で無有名だが、意外に人出が少なく,ユックリと楽しめるのが良い。京都の有名観光地からはなれているのが幸い(災い?)しているのだろう。近くに宇治の平等院もあるのだが...

 今週末が京都,奈良の紅葉のピークだろう。カメラ磨いて出かけるぞ。


(撮影機材はNikon D3s)

2011年11月19日土曜日

奈良公園の秋 ー 人混みを避けると不思議な発見が...ー

ここのところ、仕事で出張が続き、なかなか秋の大和路散策が出来なかった。たまの週末のたんびに雨という不幸も重なっている。そして、西宮に引っ越したら,これがまた奈良が遠くなってしまった。以前は近鉄大阪上本町まで徒歩15分。近鉄阿倍野橋まででもJRで5分だったのに... 梅田経由で鶴橋まで一時間。この分だけ遠くなってしまった。この点が西宮に引っ越したデメリット。贅沢言っちゃいかんですが。

 先週の日曜日に久しぶりに奈良公園を散策。この日は晴れた。11月恒例の正倉院展を見たかったのだが、会期最終日前日の日曜日。混んでいない訳がない。案の定、奈良の街自体いつも見た事がないほど人で溢れている。そうだよね、秋の行楽シーズン、今日は特に貴重な晴れ間の日曜日。奈良国立博物館に近づくにつれ、ゾロゾロと動いていた人の塊が、列をなすようになって博物館の入口辺りで動かなくなって群れている。

 元来、私は人出で混雑する博物館や美術館というものには行く気がしない人間なのだ。東京上野に来る「なんとか展」、入場2時間待ちなどという展覧会には行った事がない。そういう贅沢な気性なので、今回も博物館の入口に出来た長蛇の列をみて萎えてしまった。トグロ巻いて並んでる... とりあえず中の状況を入口の係員に聞くと、「中が混雑してるんで入場規制してるんです」と、全うな返事。当たり前のように言われると、ますます並ぶ気がしなくなってしまった。こうして、毎年萎えていて、いまだに正倉院展を見た事がない。平日にでも行けば少しはましなんだろうが... そのうち完全リタイアーしたらそうしよう。

 そもそも、こうした美術品や、古文書、歴史的な遺物は落ち着いた静かな雰囲気の中でユックリと鑑賞したい。そしてその背景やたどってきたシルクロードに思いを馳せながら空想に耽る。これが博物館巡りの醍醐味のはずなのだから。アート鑑賞マニュアルその一、は「美の壷」を独り占めすべし。押すな押すな、で立ち止まらないで下さい、の会場警備の声に追い立てられるように見る。単に見た、というだけで終わる「見物」なら,行かない方がましだ。もっとも、そういうお高くとまった態度だと,きっと一生見れないかもしれないだろう。

 という事で、今回も正倉院展をパスして、新装なった東大寺ミュージアムを訪ねた。こちらは比較的ユックリと鑑賞出来た。聖武天皇の陰劔、陽劔の展示もあるではないか。三月堂改修に伴い日光、月光両菩薩もここにおわします。シルクロードをたどってきた戎の舞楽面も... その東大寺の大仏殿の裏手に当たる大仏池の黄葉、正倉院、戒壇院を回って帰途に付いた。

 写真家の入江泰吉氏も言っているように、奈良に行ったら、観光客の集まる「表」ばかり行かず、「裏手」行って下さい。そこここに奈良の魅力が隠れているんだから...そびえ立つ巨大な大仏殿を後ろから見た事ありますか?大仏池に写る紅葉、黄葉、そして若草山を眺めた事ありますか?正倉院を壁越しに見た事ありますか?戒壇院に筑紫太宰府の戒壇院の面影を見た事がありますか? そして、謎の近代建築が東大寺境内にあるのを知ってますか?

 人混み嫌いで、人と同じ事やるのが嫌で、そうして群れから離れてみると、「有名観光地」にもいろいろ不思議な発見がありますよ。群れて歩いていると人の背中しか見えないですよ。


(撮影機材は Fujifilm X10)

2011年11月11日金曜日

村の鎮守さま ー新幹線の車窓風景の妙はここだ!ー

 新幹線で東京から新大阪へ向う時、関ヶ原古戦場跡を過ぎ、滋賀県に入ると、右手の車窓からは近江八幡市が見えてくる。小さな山が田園地帯にぽつんぽつんと見え始め、いかにも歴史の故郷然としたアンジュレーションが続く楽しい車窓風景だ。たちまち佐和山城趾の看板、安土城趾→の看板が見える。いかにも戦国末期の山城構築に適した山々ではないか。五個荘の町並みも車窓をビュンビュン飛び去って行く。

 やがて穏やかな田圃風景の真ん中に形の良いこんもりした緑濃い杜が見えてくる。村の鎮守の神様だ。田圃のなかの一本道が続き,その先に小さな鳥居が見える。ところが,よく見るとこの鎮守様、鳥居と杜との間が新幹線と並行して走る東海道線でちょん切られているじゃないか。何とも無惨な... そんな「唖然」もつかの間、あっという間に風景は舞台転換して行く。新幹線,速すぎ!

 この神社はどういういわれの神社なのか、以前から、ここを通り過ぎるたびに気になっていた。Google Mapで調べて見た所、ここは野洲市長島の長嶋神社だという事が分かった。野洲市 長島神社で検索すると「村の鎮守さま(野洲市)」ホームページに行き着く。これによると、野洲市には数多くの鎮守の杜があるが、この長島神社もその一つ。祭神は玉津姫命と菅原道真だという。但し、その由来は不明。神社自体のホームページはないが、どうやら古式豊かな拝殿が線路の向う側にあるらしい。何とも謎めいていて時空トラベラーの旅心をおおいにくすぐるタイムスリップホールだ。

 時速200キロ以上で疾走する新幹線からはじっくり観察する術もないが、何とも心ひかれる佇まいであることよ。日本人の心の拠り所である「鎮守の杜」ではないか。これまた田圃の真ん中を真一文字に走る東海道線が、この杜を横切っている所が、古代からのお社と江戸末期から明治にかけての近代化の中での村の鎮守さまの立ち位置を表している。鉄道通す時に、「鎮守の杜を迂回して欲しい」なんて誰も言い出さなかったのだろうか? この「無礼者」は何のてらいもなく鎮守の杜を分断している。だだっぴろい田圃の真ん中に、古代からの神社と明治近代化のシンボルである鉄道しか見えないので、余計にこの取り合わせの「妙」が目立つ。

 それでもこの鎮守の杜はその穏やかな古代の神の鎮座まします佇まいを今に残している。この長嶋神社のすぐ北に隣接して長島の集落が位置している。まるで肩を寄せあうように田園風景の中に存在している。長嶋神社はまさにこの「村」、長島の守り神だった、いや今も守り神なのだ。

 何時か訪ねてみたい。いや必ずカメラ持って行かずばなるまい。

 村の鎮守さまホームページ:
http://achikochitazusaete.web.fc2.com/chinju/yasu/giou.html

 あたりの地図:
http://shrine-temple.jp/print/15066




(長嶋神社の写真は残念ながらまだ撮れてません。この山は近江富士と言われる三上山。新幹線からは新大阪方向左に見える)




(やっと撮れました!ちょうど東海道線の電車が鎮守の森を横切るところです。)

2011年11月9日水曜日

九州は鉄道旅のワンダーランド

先日九州へ出張したときの写真です。宮崎から肥薩線で鹿児島中央、そして九州新幹線で博多まで。

 九州はJR九州のお抱えデザイナー(?!)水戸岡さんが企画する素敵な列車が縦横に走る鉄道ファン垂涎の「島」になりました。

 九州新幹線の全線開通も花を添え、まさに水戸岡マジック!車窓の景色がまた美しい。

 出張先の名古屋のホテルの34階から夜景を見ながら,これを書いてます。ここのところ国内出張続きで、なかなか時空旅日記が書けてませんので、一種ヒマネタで。

 ちなみに、写真をFlickrにアップしてみました。スライドショーそのものを貼付けることが出来ないみたいです(まだトライアル段階)。下記のhttp://wwwをクリックしてみて下さい。

http://www.flickr.com/photos/69382259@N04/sets/72157627919005303/

2011年10月25日火曜日

私の知らないニューヨーク散策 ービレッジ、ソーホー迷宮彷徨ー

 前回書いたように,私にとってのニューヨークとはミッドタウンであった。国連ビルのすぐ近くの我がアパートから休日に散策する場合でも南は34丁目辺りから、せいぜいマディソンパークまで。それより南にはあまり行った事がなかった。チャイナタウン、サウスストリートシーポート辺りは時々観光目的で行った。ミートパッキングディストリクトには仕事で行った事がある。150ハドソンには我が社のl重要施設があったのでよく行った。もちろんダウンタウン、ウオールストリート辺りは仕事でよく行ったが,その途中の通過スペースが全く私の頭の中では空白地域なのだ。

 グリニッチビレッジ、ソーホー、イーストビレッジ....名前は聞くがどの辺なんだ?その定義がハッキリしない。人によっては「何だもったいない,せっかくNYにいて」と言われそうだが。かつて東京から出張で来た本社の社長をビレッジの有名レストランへ案内した事があったが、リモドライバーが連れてってくれたので,今でもそれが何処なのか分からない。あそこは雰囲気抜群でロマンチックなところだった。ニューヨーカーが結婚のプロポーズする時に使うレストランだとか。少なくとも背広姿のオッサン達が集団でメシ食う所ではない。今から考えるとおかしな事を日本人サラリーマン達は場違いな場所でやってたんだな。銀座や原宿の中国人ご一行様を笑えない。

 そもそもミッドタウンから南へ下がり14丁目から西南へ向うと,いきなり通りが斜めに走り始める。ユニオンスクエアーまでは良いが、ワシントンスクエアーの西、ウエストビレッジ辺りになると,ミッドタウン的な整然とした東西南北の方向感がすっかり狂わされてしまい、自分が何処にいるのか分からなくなる。ルール違反だろうこの斜め45度の道は。しかも番号ではなく名前が一つ一つの通りについている。ブリーカーストリート。モートンストリート... 覚えられない...

 ビレッジ歩きのスタートは地下鉄BDFMのWest 4th Street駅!娘とその連れ合いが案内してくれた。彼等はグリニッチビレッジの住人なのでスイスイ歩き回る。この駅のすぐ近くに住んでいるのだが、私はいくら道を教えてもらっても、一人では娘夫婦のアパートにたどり着けない。ジェラート屋の角を右へまがり、パン屋の角を左へ入る。リゾットのおいしいレストランが見えたら、信号渡り緑の並木道の中を真っ直ぐに...なんて説明ではミッドタウンニューヨーカーは無理なのだ。数字で言ってくれ、37 and 1とか...

 ここへ来ると、ニューヨークは古い町だなあと感じる。ボストン、いやロンドンの下町にも劣らない歴史を感じる町並みだ。ロンドンのウエストエンド、メイフェアーほど都会的でハイソな雰囲気ではないが,都会の田舎,まさに村(ビレッジ)の雰囲気だ。カムデンタウン、ベルサイズパーク、ハムステッドって感じか?有名なアーティストの住宅やアトリエ、スタジオが並んでいる。セレブな街なのだろう。町並みはハーレムと似ている。古い4〜5階建てのタウンハウスの連続だ。ただ違いは廃屋になってるか否か。そう言うとビレッジ住人の顰蹙を買うかもしれないが、もともとハーレムもオランダ系移民の高級住宅街だったんだって。しかも、今はアポロシアターはじめNYのもう一つの観光名所になっている。

 緑濃く、住民が顔見知りで緊密なコミュニティーを形成している地域だ。住民の職業も、ビジネスマンや勤め人,というよりは、様々なアーティスト、俳優、学生。あるいは高等遊民。金持ちではないかもしれないが,生活の質を重んじ楽しむライフスタイルの持ち主達。素敵なレストランや,カフェも成金趣味でない所が良い。何気ない街角のカフェに超有名人がこれまた何気なく座ってる雰囲気が良い。カップルも男女とは限らない。堂々とゲイの集会場もある。それがまた街の文化になっている。人々はフレンドリーで他人行儀でない。ミッドタウン程のオープンさはないのかもしれないが、一度住人になれば皆友達だ。京都の町家や江戸の下町、田舎のコミュニティーの色合いが残っているのかもしれない。やはりビレッジだ。

 ソーホーはファッショナブルな店が建ち並ぶ洒落た街だ。有名ブランド店も多くて原宿表参道的な雰囲気だ。
 イーストビレッジは最近日本食の店が増えて、チョットしたジャパンタウンになっている。中でも博多ラーメンの一風堂が超人気店で、店の前には行列ができている。中は入った事はないが、ランチミーティングも出来るそうだ。博多とんこつラーメンでランチミーティングってどうなの?と思うが、これがNY流のラーメン食文化の消化方法なのだ。しかしビックリした!スシに続いてラーメンがトレンディーな日本食になっている。別に良いんだ。本家博多のラーメン屋の常連であるだけに、そのギャップに少しクラっとしただけだが...

 茶庵というレストラン/ティーハウスも洒落ている。ちゃんとした茶室を備えていて要望に応じてお茶を立ててもらえる。今までのステロタイプの日本食レストランはもうニューヨーカーには飽きられて、こうしたおしゃれで素材を活かした食文化が受け入れられ始めたんだろう。昔はイーストビレッジと言えばインド料理店のイメージだった(単に私の中で、だが)、やはり歩いてみるものだ。

 これからはビジネスマンからアーティストに変身だ!? 今までオレはニューヨークの半分以下しか知らなかったって訳だ。久しぶりのNY散策。けっこう目から鱗の経験だ。ハマりそうだ。

2011年10月23日日曜日

小粋なFujifilm X10  ーXシリーズ第2弾登場ー

富士フィルムの高級コンパクトXシリーズの第2弾、X10が発売になった。35mm単焦点レンズのX100が出た時に,次はズームか?と噂されていたものが、年内に出た訳だ。X100は発表から話題を呼び、一時は在庫不足でウェイティング状態だった。この成功に富士フィルムも意を強くしたのであろう。このようなきちんとしたカメラ造りはなかなか商用化しにくいものだが、経営陣の決断と,ユーザのサポートによる市場形成の成功をカメラファンとして多いに喜びたい。

 さてX10の主な特色だが、
1)28ー112mm相当の光学4倍ズームレンズを搭載。Fujifilmが誇るSuper EBCレンズである。f値2.0〜2.8の明るさ。全域で優れた解像度を実現。
2)コンデジによくある電動ズームではなく手動でズーミング。金属カムによるスムーズで確実なズーミングが可能に。往年のコンタックスフィルムコンパクトを彷彿とさせる。
3)2/3サイズの1200万画素EXR-CMOSセンサー採用。フォーサーズより小さく、高級コンパクトが採用している1/1.7よりは大きなサイズ。ちなみにX100はASP-Cサイズである。
4)ボディーは黒一色で、X100と同じ形状デザインを踏襲しているがサイズは一回り小さい。軍艦部もX100を引き継いでいる。天板、底板にマグネシウム合金を使用し、剛性感、重量感ともに他と一線を画す手触りとホールディング感を実現。
5)ファインダーはガラスプリズムを使用した本格的な高倍率光学ズームファインダーを採用。ただし、OVFのみで、撮影情報表示はない。X100の特色であったOVF,EVFのハイブリッドファインダーは搭載されていない。
6)液晶モニターは明るくクリアーで見え方は抜群。
7)シーンに最適なモードを自動選択するEXR設定が出来る。
8)X100同様、フィルムシミュレーションモード搭載。さすがフィルムメーカーのカメラ造りだ。

 手動ズームはスムースかつ確実。操作性に信頼感を感じる。また、ズームリングを28mmに回す事によってカメラの電源ONとなる。この辺の使用感は抜群で,カチッとした確実性が伝わってくる。

 ボディーサイズも、大きすぎもせず、小さすぎもせず、丁度手に収まる。一般的なコンパクトデジカメはそもそも小さすぎて扱いづらい嫌いがあるので、このくらいのサイズはうれしい。

 金属削り出しのリング、ダイアル類のクリック感もいい。不用意に動いたりしない。X100は露出補正ダイアルや電源スイッチがいつの間にか動いていて慌てる事があった。

 レンズの解像度はなかなか素敵だ。全域で素晴らしい画を楽しむことが出来る。センサーサイズに限界があるので、ボケには少々不利だが、明るいレンズなので望遠側でのポートレート撮影や、マクロではまずまずの結果を得ることが出来る。また、ズームレンズにありがちな樽型、糸巻き型の歪曲も少なく、周辺光量不足も少なくて単焦点レンズに匹敵する性能をたたき出している。マクロモードは通常マクロの他、1cmまで寄れるスーパーマクロも使えるのがいい。

 ちなみに、このX10から富士フィルム社製のデジカメブランド名、FinePicsを使用しなくなった。新しいXシリーズのスタートという意味合いを持たせるつもりなのであろうか。なんとなくパッと見ると、X10、X100は10倍、100倍に見えてしまうが...

 このごろの富士フィルムはなかなかマニアの心をくすぐる高品位なデジタルカメラを出してくる。これからも楽しみだ。しかもMade in Japanという信頼感を前面に出して。最近の他社のミラーレスやコンパクトはみな中国製やタイ製。時代だから仕方ないのだろう。しかし、いまや80%程の製品の製造をタイに依存しているニコンはこのたびのタイの洪水でヒヤリとした。幸いミラーレス新製品のニコン1は中国で製造していたので、タイで製造しているソニーのNEX-7のように発売延期の憂き目を見なくて済んだのだが...

 話がそれたが、ともあれX10はいいカメラだ。小気味の良いワクワクするようなカメラだ。何処へでも持って歩きたいハンディーさと質感、適度な重量感。ひょっとするとX100より使い勝手の良い小粋なカメラに仕上がっているかもしれない。予約しておいたので,発売とともに一番にゲット出来た。デジカメもようやく高品位な製品が市場に登場するようになり、家電製品化からの脱却に向い始めた事はうれしい。

(早速、神戸北野の異人館街散策でデビューしました。まずは作例をごらんあれ)



(通常マクロで撮影)




(スーパーマクロで撮影)



(望遠側で撮影。画質劣化は見られない)



(28mmで撮影。屋内でも諧調がしっかりしている)




(28mmで撮影。歪曲は少ない。)




(Lumix DMC-LX5で撮影。ブツ撮りがヘタクソでスミマセン...)


2011年10月20日木曜日

私の知ってるニューヨーク散策 ーミッドタウン徘徊ー

 4年ぶりにニューヨークへ行った。ニューヨークにいたときはあれ程頻繁に東京と行き来していたのに、一旦日本へ帰ると、なんとニューヨークは遠い街である事か... 

 私の活動拠点であったミッドタウンはビジネス、エンターテイメント、観光の中心だ。お金と時間さえあれば最高に楽しい所だ。逆にお金も時間もなければ冷たい街だ。ビジネスで成功して摩天楼のトップフロアーにオフィスを構えるのも,没落してホムレスになるのも紙一重。アメリカの繁栄の象徴かもしれない。その繁栄の輝きがまばゆい分、その影もはっきり見える街だ。世界経済の中心である金融街はダウンタウンのウオールストリートだと言われるが、最近は意外にミッドタウンに集まってきている。9.11以降特にその傾向が強い。日系の金融機関もミッドタウン集中だ。

 タイムズスクエアーは、ミュージカルと観光のメッカだが,ここにはモルガンスタンレー本社もナスダックもある。チョット場違いな感もしないでもないが、渦巻くネオン、いやデジタルサイネージのナカに株の値動きを流すティッカーや経済ニュースを流す電光掲示板(古い言い方だ!)が埋もれている事にご注意あれ。ウオールストリートで格差社会へのプロテストを呼びかけたデモ隊が集まっていたが、先週はこの一団がタイムススクエアーへ押し掛けた。これは単に人が大勢いる所でアピールしたいというだけでなく、金融業界の雄であるモルスタがいるからでもあろう。

 碁盤の目のような分かりやすい街路区画と林立する高層ビルが街の景観を形作っている。イエローキャブも最近はニッサンのハイブリッドに置き換わりつつあるようで,意外に奇麗な新車が走っている。これも街の景観を形付ける重要なエレメントだ。道路は相変わらずぼこぼこに穴があいている。所々赤白ダンダラ模様のチューブが路上に突っ立っていて,そこからスチームの白い蒸気が上がっている。ニューヨークの欠かせない光景の一つだ。 

 メトロポリタン美術館、近代美術館(MoMA)、グッゲンハイム美術館、フリックコレクションなどの世界の美を集めた施設も世界の富が集まるニューヨークを象徴する名所だ。目や、知性や、感性を楽しませるものだけでなく、人間の欲望の根源である食欲を満たす場所にも事欠かない。世界中のグルメを唸らせるレストラン。ビッグジューシーステーキ、オイスターバー、メインロブスター、ワイン、そして今やスシバーはニューヨークを代表する食のラビリンスになっている。路上ベンダーのプレッッツェルもホットドッグもワッフルもすべてアメリカサイズでカロリーオーバーは覚悟しなくてはいけないが...

 ともあれ、私にとってニューヨークと言えば,ミッドタウンのイメージだった。会社のオフィスも、ビジネスパートナーや取引先も、仕事もビジネスも,ショッピングも,エンタメも、観光も。そして住むのも... 何しろグランドセントラル駅から半径数キロ以内で生活していた。日本からの客がくれば観光も食事もこの辺で用が足りる。しかもほとんど歩いてまわれる範囲にあるのがうれしい。だからそれだけでこれがニューヨークだと思っていた。いや、これがアメリカだとさえ思っていた。

 セントラルパークはこのビルの林立するマンハッタン島の極めて人工的に切り取られた緑の公園だ。その自然とはかけ離れた長方形に区切られた「自然」がニューヨークらしい。ロンドンのハイドパーク、ケンジントンガーデン、リージェントパークとは成り立ちから違う。セントラルパークへ来ると、いたるところに大きな岩が露出しているのを目にする。このハドソン河とイーストリバーに挟まれた狭い島マンハッタンが、中洲などではなく、大きな一枚岩の岩礁である事を実感するだろう。

 別にここで観光ガイドを書こうという訳ではないが、やはりミッドタウンを描写しようとするとガイドブック的になる。それだけ皆に知られた世界的な街なのだ。欲望渦巻く街ミッドタウン、最高も最低も共存する街ミッドタウン、苦闘した街ミッドタウン、裏切りと背信の街ミッドタウン、ヤッターと叫んだ街ミッドタウン、楽しかったミッドタウン、思い出イッパイのミッドタウン。そういう感傷がガイドブックのナカにちりばめられた街ミッドタウン... 私にとってセンチメンタルミッドタウンになったのだ。昨今すっかり日本の影がこの街に薄くなってしまった分だけ余計に...



2011年10月6日木曜日

ならまちの秋 ー紅葉だけが秋じゃないー

 奈良のならまちはカメラぶら下げて散策するの良いエリアだ。何度行っても飽きない。ヒマさえあれば何度も訪ねている。当てもなくぶらぶら歩くと必ず何か新しい発見がある。

以前にも書いたように、ならまちは飛鳥から移転してきた元興寺の広大な寺域が時代を経て,町家街に変化したものだ。萩で有名な現在の元興寺極楽坊は、当時の僧坊の一部が改装されたものである。屋根の一部に飛鳥から移された古代瓦(行基葺き)が現存する事もよく知られている。

ならまち(すなわち旧元興寺境内)には、現在の元興寺極楽坊の他にも、十輪院、福智院や五重塔芯礎、本堂跡などの大寺院の遺構が多く残されているが、多くは町家に変化している。こうした町家を主体とする町並みは江戸時代後期から明治にかけて形成されたもののようだ。なかには今も商売をしているつくり酒屋、晒問屋、薬種店が軒を連ね、今西家書院のような豪壮な建物も現存している。今井町のような環濠集落としての成り立ちとは異なるが、元興寺境内という区切られた空間がこれほどの街に変容したという事実にも驚きだ。大和の町の成り立ちを探る。知れば知るほどその奥深さにワクワクする。

ならまちからチョット新薬師寺の方向、東へ行くと、そこは志賀直哉など、文人墨客の住まいとして名高い高畑町だ。ここに、小さな西洋アンティークの店を発見した。店主は自らフランスやイギリスに骨董買い付けに出かけ,気に入ったものだけを店内に並べている。ユニークなのは、この小さいが瀟洒なお店自体、店主夫婦が古屋を借りて,こつこつと仲間と古材を用いてリノベートしたという、とても味のあるお店だ。いかにも古民家という風情と西洋アンティークの絶妙の取り合わせ。このお店のウエッブサイトも写真満載で楽しい。こうした店主の方のライフスタイルにも憧れを覚える。

本格的な紅葉にはまだまだ早い季節。まるでタイムカプセルのようなならまちを散策すると、あちこちに夏の名残とともに,秋の気配が見て取れる。時代を超えて季節は移ろい行く。さしもの今年の猛暑も、ようやく秋の涼やかさに入れ替わっている。秋晴れの古都に懐かしい日本人の心と、それにうまく融合した新しい生活のスタイルを再発見することが出来た一日であった。つぎは何を発見するのだろう,楽しみだ。




2011年10月4日火曜日

熊本城 ー九州の首都の栄光は今...ー

 出張で熊本へ行った。九州新幹線の鹿児島中央、博多間全線開通に伴い,新大阪から3時間ほどで熊本へ直通で行けるようになった。「さくら」は素晴らしい列車だ。欧州の優等列車に引けを取らない品格と質感を持つ。九州島内の緑濃い筑紫平野を南へ疾走する姿は美しい。この九州新幹線の全線開通の日は3月12日。そう、東日本大震災の翌日だ。一切のセレモニーはキャンセルされ、しずかに開業した。しかし,それでもJR九州のあの開業CMは感動的で涙が出るほどだ。名作でしょう、あれは。

 ところで、新幹線開通で熊本は活気づいているのだろうか?熊本駅前の住宅地が公示価格高騰率が日本一になった,と報道されている所を見ると、少しバブルしているのかもしれない。市内でタクシーの運転手さんに聞くと,たしかに熊本駅から街中まで乗る客が増えた,と言っている。「じゃあタクシーとしては新幹線歓迎だね」というと。「なんも。いっちょんもうからんばい」。新幹線が来る前は、東京や大阪から来る客は、たいてい飛行機。しかも熊本市街からはるかにはなれた阿蘇山との中間(は少しオーバー?)に位置する熊本空港との間を乗ってくれるんで、タクシーウハウハ状態だったと... なるほど。

 熊本駅はそもそも都心から外れた所に位置している。城下町の常で,明治の頃の鉄道開通に際し,陸蒸気への期待と忌避が相半ばして,鉄道停車場は大抵が御城下の外れに造られた。ここ熊本もそういう事だった。確かに駅前には何もない。最近になって国の出先機関が入るビルが中心街から移ってきたという。さらに熊本初の超高層マンションが建設中だ。しかしなあ... 新幹線側にいたってはましていわんや。広大な空き地が広がる。ここが地価高騰率一位なのは0がスタートだからかあ、と妙に納得。

 熊本城は,疑いもなく名城だ。加藤清正が築城し,その後加藤家断絶後は細川家の居城となった。肥後細川は明治維新まで続いたにもかかわらず,この名城を築いたのは清正公(せいしょうこう)だと言う事実。加藤神社もあれば、清正公銅像もそびえる熊本。熊本人にとっては,清正公こそおいらの兄貴なのだ。細川さん,少しかわいそう。

 熊本城は西南戦争の時には九州鎮台として、官軍の拠点であった。土佐出身の谷干城率いる明治新政府軍が立てこもる熊本城を西郷軍は攻めあぐねた。田原坂の戦いなどの激戦の末、西郷軍は敗退。鹿児島の城山で自刃。こうして最後にして,最大の不平士族の反乱は終わった。しかし、この戦いのなかで熊本城の天守閣は燃え落ち、多くの櫓が破壊された。戦後(西南戦争の戦後)も破却が進むが、城跡は軍都熊本の基となる九州鎮台、のちの第六師団司令部として使われる。

 この頃から、熊本は九州の「首都」としての地位を固める。帝国陸軍はもとより、中央政府の九州出先機関はここ熊本にあつまり、旧制高等学校もいわゆるナンバースクール第五高等学校が熊本に設置される。ラフカディオ・ハーンや夏目漱石が教鞭をとった。なぜか九州帝国大学は福岡に持ってかれてしまったが,熊本は誰もが認める九州の中心であった。

 我が社もつい最近まで,九州総支社は熊本にあった。いまは九州本部は福岡に移転。ここは熊本支店に格下げ。往年のよすがを忍ぶものはその城を望む絶好のロケーションと偉容を誇る建物だけだ。ちなみに九州の拠点を福岡に移すにあたっては,熊本の地元からは猛烈な抵抗が予想された。まるで明治維新後に京都から明治天皇が東京へ「行幸」されたまま帰ってない(?)という例のように、最初は法人営業本部など営業拠点を福岡に移し、管理機能は熊本から移さない事で移転を進めた。しかし、本部長は熊本、福岡両方に椅子を持ち、行き来していたが、徐々にネズミの引越のように移り、結局最後は全てを福岡に移してしまったのだから、熊本人にすれば「やられた」という事だろう。京都人の気持ちがわかる?

 江戸時代、明治維新、戦前とあまりぱっとしない通過都市であった福岡はいまや人口150万を数える政令指定都市、九州の中心都市に発展。逆に新幹線が開通しても熊本は通過都市になってしまう可能性すらある。あるいはストロー現象で客が博多駅や天神の商業施設に吸い取られる。先ほどの熊本駅前の地価高騰も博多へ30分という通勤の便利さからか?? 

 九州新幹線で、鹿児島は多くの観光客を集めているようだが、熊本は,県の代表クマゴン(いやクマモン)が県知事に伴われて大阪に出張、熊本をアピールしてきたにもかかわらずその成果は... 先ほどのタクシーの運転手さんも「熊本はなんも観るもんはナカでっしょ」と切り捨てる。熊本城は?水前寺公園は?と水を向けると、「二つ観たらそれで終わりたい」と冷たい。食べるもんは旨いし,水はいいし...とさらにゴマを擦ると「馬刺と辛子レンコンだけですたい」。肥後モッコスらしい反応。取りつくシマもない。ミもフタもない。それを言っちゃあオシマイよ。まあまあそういわずに、この清正公の名城見るだけでも熊本に行く価値充分ですよ。木造で再建された本丸御殿も昭君の間も眼を見張る美しさですよ。緑の山と清流に包まれた壮麗な平山城、熊本城。本当に凄い城です。国の宝です。熊本人よもっと地元に誇りをもって。来年は九州で3番目の政令指定都市にもなるんだしね。道州制が導入されたら熊本が九州の首都に返り咲き...かな?


2011年9月26日月曜日

Ricoh GXR Mount A12 ーライカレンズ資産活用プラットフォーム登場ー

 予約入れてたGXRのMマウントアダプターをついにゲット。すなわちリコーGXRでライカMマウントレンズが使える待望の製品だ。APS-Cサイズの1230万画素CMOSセンサーを搭載しており、レンズ焦点距離の1.5倍となる。コンデジクラスのコンパクトなボディーで名レンズを堪能出来る。縦走りフォーカルプレーンシャッターと静音電子シャッターの両方が搭載されており、最速1/8000秒の電子高速シャッターも利用出来る。撮影シチュエーションにより選択出来る事もユニークだ。

 当然,往年のクラシックレンズや、銘玉、クセ玉を装着して楽しむ事も出来る。この時気になる周辺光量不足や歪曲収差を補正する機能もついている。もちろん,クセ玉を補正せずにそのまま使ったり、さらに周辺光量を落として個性的な作画を試みる事も出来る。クラシックレンズが現代のデジタル技術とマッチングして新しい表現方法を手に入れることが出来た訳だ。

 また、ライカM8、9同様、ローパスフィルターがないのでとてもクリアーでキレの良い画像が得られるのがうれしい。手振れ防止は当然ボディー側に。ライカMにはない細かいセッティングも可能だ。なによりライカレンズの像をライブビューで見れる事自体に感動する。液晶モニターの解像度もM8、9のそれよりもはるかに高く、よりクリアーな画像を確認しながら撮影出来る事でワクワク感も高まる。

 ベストマッチングはやはり広角系レンズか。21mmスーパーアンギュロンも後玉の出っ張りにも関わらず装着可能で全ての機能が動作可能。Mボディーでは装着出来ても測光不可だった。特にTri-Elmar-M 16-18-21が出番を得たという感じだ。これでブラパチ試写した銀座の写真。こういうノーファインダーでのキャンデットフォトに最適。軽量で手に収まるサイズで、ライカのような気負いを持たなくても気楽に撮れる。

 マニュアルフォーカスをアシストする機能がついている。拡大表示だけではなく、フォーカス部分をハイライト表示する事によってピントを知らせる。広角系レンズの場合はチョット分かりにくいが,標準、中望遠の場合はピントの合う範囲まで確認出来便利だ。

 レンジファインダーがついていると,逆説的だが、いちいちファインダーを覗かなくては、という強迫観念にとらわれてしまう。かといって、ライカMボディーについている標準のファインダーでは28mmがせいぜい。Tri-Elmar付属のファインダーはまるでカメラの上にもう一つカメラ載っけたみたいな形相となり、およそ軽快なスナップシュータとはほど遠いカメラになってしまう。

 GXRももちろん、オプションのEVFをアクセサリーシューに装着して,ファインダーでの撮影も可能だ。新しい撮影スタイルをとれる事が新鮮だ。例えば、ノーファインダー撮影で、時々液晶ライブビューでフレーミングしながら何枚も取るスタイルが心地よい。

 とうことで遂にライカレンズの出番が多くなったぞ。やっぱりM8、9のオールドスタイルのレンジファインダーボディーにこだわった撮影スタイルもいいが、しょぼい液晶モニター(画素数が粗い、遅い、ライブビューができない)や、トラブルの多いSDカードとのマッチング等等、まだまだ解決すべき課題が多いライカMデジタル。高価なプライスに見合った性能なのか疑問を禁じ得ないが、ライカファンはこんな事くらいで文句は言わないのだろう。しかし,このリコーGXRのようなカメラが出てくると,もう少しなんとか出来るんじゃないの?と言いたくなる。

 ライカはカメラの王様だが、どうしても「あの王様は裸だ!」と思わず叫んでしまった童話の子供の気持ちが分かるように気もする。。ライカよ,謙虚にシロウトの意見に耳を傾けよ。




 ライカズミクロン35ミリを装着した姿。最もコンパクトで取り回しの良い組み合わせだ。これで約52ミリの標準レンズ画角が得られる。




 トリ・エルマーの16ミリで撮影。24ミリの画角となる。ちなみに、この写真はレンズのディストーションが出てるんではなくて,このビルの在りのままの姿。これくらいの広角になると被写界深度が深く,ノーファインダーでほぼパンフォーカスで撮れる。


2011年9月25日日曜日

友泉亭探訪 ー「城下町」福岡に大名文化は残っているか?ー

 筑前福岡は、関ヶ原以降に豊前中津から筑前国主として入府した黒田長政が開いた城下町だ。筑前藩52万石という外様の大藩の藩府だ。しかし、発展著しい現代の福岡市を尋ねて、福岡が城下町であったというイメージが希薄なのは何故だろう?黒田官兵衛(如水)の軍師としての活躍や、その忠臣、母里太兵衛がモデルとなっていると言われる「酒は飲め飲め...」の黒田節(黒田武士)を聴いて「ああそうだよね,黒田は福岡だよね」という事になるが... 町を歩いてみると,他の城下町と比べて福岡には城下町の痕跡があまり残っていないような気がする。もちろん舞鶴城は如水(官兵衛),長政父子が築いた名城であるが、平城で熊本城のような壮麗さはない。極めて実用的な合理性重視の縄張りだ。城下町は城の北の博多湾に面した細長い狭い土地に形成されていて、山城中心に城下町が四方八方に広がる他都市とも異なる。。金沢の兼六園や、岡山の後楽園、高松の栗林公園、熊本の水前寺公園,鹿児島の嚴仙園、水戸の偕楽園といった、名園といわれ今日まで残る大名庭園もない。高取焼のような藩用窯はあるが、隣の肥前鍋島藩の藩用窯ほどの規模ではない。金沢の能などの芸能、金箔などの工芸、松江の茶道のような文化の痕跡も薄い。博多織、博多人形はお隣さんの博多のもの。祇園山笠、どんたく、松囃子などのお祭りもお隣さんのもの。

 黒田の殿様は歴代どのような殿様だったのか。豊臣秀吉の名軍師黒田官兵衛(如水)、関ヶ原で東軍に勝利をもたらした、その子長政。この藩祖父子の軍師、知将のイメージから、質素堅実を旨とし、あまり文化芸能にうつつ抜かす家系の匂いはしない。しかし、かといってただ無骨なイメージもない。江戸期の長く続いた天下太平の時代には何をしていたんだろう。加賀前田の殿様のように武力に金を使わず文化芸能に金を使い徳川幕府への忠誠心の証にしていた,という風でもない。薩摩島津の殿様のように密かに琉球を通じて海外の文物を取り入れ、国力を蓄えていた様子もない。

 隣の博多が商人の街としての長い歴史と文化を継承しているのに比べ、城下町福岡は関ヶ原以降に建設された新興都市で、祭りも芸能も、工芸も食文化も,博多の商人文化に飲み込まれているような気がする。他藩のような壮麗なお城や有名な大名庭園もないので、今となっては城下町としての観光資源にも乏しいということになる。金沢や熊本や松江を見て,そのように感じていた所、福岡市が黒田家ゆかりの友泉亭趾を公園として整備し市民に公開している、という話を聞いた。こりゃ是非行ってみよう,という事で出かけた。

 友泉亭。懐かしいその「地名」に、まず反応した。私が小学校5年生から高校3年生まで過ごした福岡市別府。その南、樋井川を隔てた田島に友泉亭という所があった。油山を望み、樋井川に面したのどかな半分住宅地、半分農地といったエリアだった。実は黒田家の別邸があった所であり,その名称「友泉亭」が「地名」として残ってきた事を今頃になって知った。

 その友泉亭は黒田家六代藩主継高公が宝暦四年(1754年江戸時代中期)に、この樋井川東岸の田島村にもうけた別邸であった。当時の敷地は現在の友泉亭公園の敷地の約10倍を有する広大なものであったようで、樋井川東岸の別邸に続く道路は、領民の通行が禁止されていたと言う。しかし屋敷は、割に質素で実用的な建物が池畔に並んでいくつか建っていたようで、豪壮な大名御殿を想像するとがっかりするようなものだったらしい。

 この友泉亭趾は、その後の歴史の流れの中で様々に変遷し、明治維新後は一時小学校になったり、樋井川村役場になったりしている。その後は荒廃の危機に瀕していたが、筑豊炭坑御三家(貝島、麻生、安川)の一つ貝島炭坑の創業者貝島太助翁の息子健次郎氏が敷地を買い取り,ここに邸宅を建てた。今残っている邸宅と庭園はその貝島邸の遺構をもとに昭和56年に福岡市が公園として再整備したものだ。

 敷地には池泉廻遊式庭園が整備されており見事。一見の価値有りだ。四季折々の花や樹木が広い敷地に適度な密度で配されており心地よい。池に面した書院造りの大広間でいただく抹茶は美味しい。東京の黒田家から寄贈され、移設された庭園池畔の根府川石の一枚岩が豪壮だ。室内には筑前福岡出身で、中央政府で活躍した官僚、政治家である、金子堅太郎、広田弘毅が揮毫した「友泉亭」の額も残っている。庭園内には茶室如水庵がしつらえられているが,これは昭和56年公園として開園時に建てられたものだそうだ。由緒を感じる素晴らしい邸宅と庭園である。しかし、此れ等はいずれも貝島家によって整備されたもので、残念ながら黒田家友泉亭を彷彿とさせる遺構らしいものはほとんど見当たらない。

 福岡の都市景観の中で、黒田家ゆかりの藩主邸宅や武家屋敷よりも、炭坑王の残した「御殿」の方が有名なのは、明治期以降の福岡という街の成り立ちを示しているような気がして面白い。この友泉亭公園も先述の通り、貝島別邸が原型となっている。かの有名な筑豊の伊藤伝右衛門邸は大名屋敷よりも立派な門構えを持ち、飯塚に現存している。再婚離婚劇で名を馳せた妻、柳原白蓮の為に、福岡天神町に建てた伊藤別邸(通称あかがね御殿)も武家屋敷を圧倒する構えであったそうだ。そういえば、天神町から大名町、赤坂門にかけての旧電車通り沿いに延々と続く築地塀のお屋敷街があったのを記憶している。いまはその気配すら残っていないが。現在も高級住宅街とされる福岡の山の手、薬院、高宮、浄水通辺りのお屋敷街も元の住人はたいがい炭坑主であった。その炭坑も高度成長期に入ると廃れ、石炭御殿も次々取り壊されて消滅... マンション街になってしまった。時の流れを感じずにはいられない。

 このように城下町の武家屋敷的景観は炭坑主達によってある時期まで継承され,石炭産業の衰退、炭坑の閉山とともに消滅して行ったと言っても良い。福岡はこうして城下町としての景観や佇まいを失ってきた。黒田家が戦前まで福岡に有していたと言う浜の町別邸も戦災に遭い、福岡城の武具櫓を移設したという豪壮な邸宅とともに様々な家伝来の文物、品々が焼失したそうだが、いくつかは福岡市博物館に収蔵展示されている。しかし福岡という街全体を見渡すと、「城下町」「大名文化」の痕跡はあまり残っていない。敢えて探すと、藩校東学問所「修猷館」が現在も九州を代表する名門県立高校としてその歴史と伝統を継承している事だろうか。

 友泉亭公園は、福岡市の城下町としての福岡復活プロジェクト(そのようなものがあるのかどうか知らないが)の一環なのだろう。その試みは舞鶴城内の病院、裁判所、平和台球場の転居移転。城跡公園としての再整備。大濠公園の能楽堂、日本庭園などの建設(これも立派な庭園だが、歴史的な由緒はなく、全く新規に企画設計された現代の庭園だ)と連動するものなのだろう。その努力は多とするが、何とも武家文化、城下町文化の残存率が低過ぎるのがいかんともしがたい。一方で舞鶴城に創建当時あったとされる「幻の天守閣」再建、などという構想もあるそうだが、あまり大きな市民レベルの運動にはなっていないようだ。藩祖黒田孝高(官兵衛/如水)長政父子、その家臣団で勇名を馳せた母里太兵衛、栗山善助、井上九郎右衛門、後藤又兵衛の黒田二十四騎などが、筑前入府時期に名を残した割には、城下町としての福岡のプロファイルはあまり高いものとはいえず、最後は、明治維新に乗り遅れてしまうなど「悲劇の城下町」なのかもしれない。



 

2011年9月19日月曜日

Ginza. Center of Universe

 バブル崩壊、GDP世界3位に後退、右肩下がり、震災、放射能汚染、電力不足、企業の海外脱出、政治の漂流、就職難民、草食系男子... 元気のないニッポン。もう日本は終わりか?

 そんなときは銀座に行こう! ここは世界の中心、宇宙の中心。世界中探しても、いや宇宙中探しても,こんなにキラビやかで、クリーンで、時代の最先端を行く街はない。東洋の伝統と西洋のモダニズムと日本独特の美学とが共存する街。夜と昼とで違う顔...

 ニューヨーク、ロンドン、パリ、ローマ、みんな素敵な街だ。上海、香港、シンガポール、中華文化圏も負けてない。しかし、この東京の広大な都市域と人口集中度合いと、その割にクリーンな街、効率的な交通システムによるスムースな移動。多少ごちゃごちゃしてるが近代的な町並み、カオスが進化してカオスを脱している。まさに奇跡だ。銀座はそのシンボル。

 そう,リフレームしてみよう。少し視点とアングルを変えて見てごらんなさい。新しい未来の姿が見えてくるぞ、日本と日本人の...



2011年9月15日木曜日

芦屋 旧山邑邸(現ヨドコウ迎賓館) ーフランク・ロイド・ライトの贈り物ー

 阪神間は関西の住宅地として昔から人気があるエリアである。特に西宮7園(甲陽園、苦楽園、甲風園、甲東園、昭和園、香櫨園、甲子園)と呼ばれる地域や、六麓荘、奥池に代表される芦屋は昔から関西の高級住宅地として名高い。いや日本を代表するセレブなエリアと言ってよいだろう。こうしたエリアは大きな経済力を持った大都市があって初めて成立する。ロスアンゼルス郊外のビバリーヒルズ、ニューヨーク郊外のグリニッチなどがその例だ。戦前、大大阪と呼ばれ、金融、製造業、商業等、日本の経済の中心であった時代の繁栄ぶりを彷彿とさせる邸宅街がいまでもこの辺りに広がっているわけで、当時の大阪、神戸がいかに大きな財力を持っていたか,改めて実感する。。

 芦屋、西宮は六甲山の東に位置し、北に甲山(西宮7園の「甲」の字は甲山から来ている)、南には瀬戸内海を控える、なだらかな傾斜地である。その間を武庫川、夙川、芦屋川などの短い河川が山から海へと急流となってそそいでいる。全くリゾート地の条件を満たした地勢だ。しかも大阪/神戸の間を、東海道線はじめ、阪急、阪神が30分程で結んでおり、交通至便。大阪や神戸の富豪、素封家がリゾートとして開発して住み始める理由は説明しなくても分かる気がする。

 その芦屋には(それゆえ)、明治,大正,昭和初期に建てられた素封家の邸宅が今でもいくつか残っており、芦屋川のほとりの高台に自然と調和して佇む旧山邑邸(現ヨドコウ迎賓館)はその代表と言ってもよい歴史的な建築物だ。かのフランク・ロイド.ライトが設計している。芦屋川を挟んで反対側には旧三和銀行の前身である山口銀行の創業者山口家の邸宅も残っており、現在は山口文化会館、滴翠美術館として公開されている。

 残念ながら、芦屋、西宮の邸宅街でも、時代の変遷とともにこうした広大な敷地を有する邸宅は減少を続けている。こうしたお屋敷は、一億総中流、富豪のいなくなった時代では、個人で所有、相続するには手に余るものとなり、企業に売却されたり、やがてはバブル崩壊とともにその企業も遊休資産売却で、バランスシートを軽くしたり、経費の穴埋めをしたりの必要上、不動産ディベロッパーに売却、そう、「マンション建設」の格好の敷地となる。こうして古い文化的な価値がありそうな邸宅も、短期的な経済的価値を生み出すであろうマンションへと建て替えられて行った。こうして、この辺りの景観も大きく変貌しつつある。もっとも芦屋は景観保護に力を入れている自治体ではあるが。

 日本にライトが残した数少ない建築文化遺産であるこの邸宅も、こうした再開発という名の破壊の危機に直面した。一度は「マンション用地」として売却が決まりかけていたそうだ。山邑家が手放してから、いくつかの人手を転々として、終戦直後は占領軍の倶楽部として使用されたり、ヨドコウが買い取ってからは、社長公邸、社員寮などに使われていたそうである。 しかし、厳しい経済情勢のなか、ついにはヨドコウが売却を決意して、建物は取り壊される事が決まっていたようだ。それを当時こうした建築文化遺産を守ろうと言う機運が高まる中、市民の活動、県や市の支援もあり、ヨドコウの社長の決断で保存が決まったそうだ。ここでも市民の地道な運動とともに、企業の社会貢献活動に対する意識の高まりが、「保存」「市民への公開」という成果として結実している。なかなか経営環境が厳しい中での決断だったのであろう。敬意を表したい。

 この邸宅の創建当時の山邑家は、櫻正宗のブランドで知られる灘五郷の酒造会社で、帝国ホテルの設計の為に来日中のアメリカの建築家フランク・ロイド・ライトに自邸の設計を依頼した。建物は大谷石で飾られているが、躯体はRCコンクリート造り。戦前としては珍しい造りだと言う。山肌に沿うように建物が一階から四階まで配置され、エクステリアもインテリアもライトらしい装飾に満ち満ちている。テラスからの展望は素晴らしく、芦屋川に沿った芦屋の街が一望に見渡る。北は遠く大阪まで展望出来る。南は六甲山系の緑が眼に鮮やかで海と山に囲まれた別荘地の佇まいだ。内部には和室が3室有り、ライトもこの日本的な建築エレメントに触発されたようだ。

 この建物の特に際立っている点は、自然との調和に配意されていることだろう。芦屋川から見上げても,小高い山の緑の中に埋もれていて、辺りを睥睨するような威圧感はない。また、室内からも、ライトらしい装飾に縁取られた窓に,まるで絵画がはめ込まれているような緑溢れる風景が。玄関も、車寄せはあるがドアは小振りで、訪問者をアットホームな気分にさせてくれる。玄関脇の大谷石で造られた大きなプランターは四季の花で埋め尽くされている。

 今やライトの建築は日本には現存するものでは3件しか残っていない。このヨドコウ迎賓館と自由学園明日館、旧林愛作邸(現電通八星苑)のみだ。旧帝国ホテル本館は愛知県犬山市の明治村に正面玄関のみが再建「展示」されている。明治以降日本にやってきた外国人(特にジョサイア・コンドル、ウイリアム・ヴォーリスなど)が設計した近代建築はその多くが破壊の危機に直面していた。しかし最近ようやく,狂気のようなバブル経済、エコノミックアニマルのメンタリティーを卒業したのか、文化の分かる大人の日本人になりつつあるのか、近代建築遺産を有形文化財として保存される事が多くなってきた事は歓迎すべきだ。それでもまだ,人知れず消えて行く建築文化遺産は数知れないだろう。

 景気が良くて、金が回ってるときの方が、こうした文化財の保存にも金が回ってきそうに思うが、実はより金を生む資産に化けさせようと再投資する、すなわち古い文化遺産を破壊する方に働いてきた。人間の経済的欲望には際限がない。むしろ金金と言わなくなってようやく、自分たちが今までないがしろにしてきた別の「価値」を取り戻そうとする動きがむくむくとわき起こってきているような気がする。こうした「文化的」なものに価値がある事に気づき始めたのだ。むしろこうした「文化的価値」がこれからの経済的な価値を生む源泉にすらなって行くのだろう。ヨーロッパの国々を見ててそう思う。日本も向う気ばっかり強い若造から、少しは落ち着いた違いの分かる大人の国になってきたか。イギリスの域にはまだまだ達していないがね。



2011年9月12日月曜日

大山崎山荘美術館 ーOyamazaki Villa Museum of Artー

 最近ちょっと美術館巡りが続いている。今回は京都府乙訓郡大山崎町にあるアサヒビール大山崎山荘美術館。

 この山荘美術館の本館は、大正7年に実業家加賀正太郎によって建てられた、英国ハーフティンバー様式の建物だ。英国の生活様式に憧れて建物を本格的に設計、建築した。この時代には好事家のお金持ちがいて、後世に素敵な文化遺産を多く残してくれている。関西には実業家の手になる近代建築が特に多い。

 しかし、こういった個人の邸宅、庭園の運命は数奇。その後、人手に渡り、最後はお定まりの不動産ベローッパーよるマンション建設の為の取り壊しの危機に。こうした事態に際し、地元住民の方々を中心に保存運動が起こり、京都府、大山崎町が動いた。その甲斐あって、アサヒビールが買い取り、行政とともに建物と庭園を修復、保存。山荘美術館として存続が決まったと言う。地域住民の方々と地元行政のご努力、そして企業のこうした意思決定にも賞賛を贈りたい。

 自分もマンションに住んでいるが,マンションってなぜかこういうときは悪者の代表だ。歴史的な文化遺産や、景観、自然を破壊する「再開発」プロジェクト、というイメージが常につきまとうのは何故? 商業主義的な金儲けの産物だから? 経済合理性優先の面白くない鉄筋建造物デザインに走るってるから?「マンション」という言葉自体が、その本来の意味とはかけ離れた集合住宅(いずれはスラム化する?)イメージが定着しつつあるから?いずれにせよこの山荘が「マンション」なんかにならなくてよかった。

 ここが何故「アサヒビール」大山崎山荘美術館なのか?という疑問が少しだけ解けた気がする。 しかし、山崎と言えばサントリーウイスキーの創業の地。 東海道線からも,新幹線からもサントリー山崎ディスティラリー(醸造所)が見える。いわば山崎のランドマークである。だのにそのすぐ隣になぜアサヒビールなのか。まだすっきりしない。アサヒビールには企業メセナ発想があったからなのか。サントリーはその地元の環境保全、景観保全のもくろみに何故乗らなかったのか? 加賀正太郎家はニッカウヰスキーとも縁があったそうだ。

 ここ大山崎は天王山の麓、木津川、桂川、宇治川が合流する景勝の地。これらの河川を源流として、やがては淀川として大阪に流れ込む古来より交通の要衝である。現在でも、京都と大阪の間の交通の重要ポイントで、新幹線、JR東海道線、阪急京都線、名神高速道路、国道一号線が狭い回廊にひしめき合っている。淀川を隔てた対岸には京阪が走っている。 特に、この山崎では新幹線と阪急京都線、JR東海道線が接近平行して走っており、各々の優等列車の華麗な走行ぶりが鉄道ファンの間では「山崎の合戦」と呼ばれて、人気の「撮り鉄」スポットになっている。

 歴史を遡れば、あの本能寺の変の後、明智光秀の軍と羽柴秀吉の軍が激突した場所である。山崎の合戦,天王山の戦いの古戦場でもあることはつとに名高い。中国攻めから急ぎ取って返し(いわゆる中国大返し)、京に向けて攻め返した秀吉軍を、そうはさせじと、ここ京都の入口にほど近い山崎で迎え撃った光秀軍。この狭い回廊はそういう歴史の重要な局面の舞台にふさわしいしつらえである。結果、光秀は敗れ、逃走中に落武者狩りの一団に首を取られてしまう。三日天下はここに終わり、秀吉は天下取りにむけてまさに「天王山」を迎えたわけだ。

 話を美術館に戻そう。ハーフティンバー様式の本館は、アサヒビール社長の山本為三郎のコレクションとして、河合寛次郎、濱田荘司、バーナード・リーチなどの民藝運動の作品も数多く展示されている。また、この時期は企画展として、創作椅子の展示会が行われていて、「自由に座れる作品集」に人気が集まっていた。そのせいか思った以上に訪問者が多く、この日は混み合っていた。

 また、安藤忠雄設計の新館は、モネの睡蓮のコレクションが展示されている。この新館は、本館や周囲の庭園、緑地を雰囲気を害さないように,且つ、モダンな雰囲気を醸し出すように、ガラスとコンクリート打ちっぱなしの建物で、半地下構造となっている。安藤忠雄らしい辺りの佇まいとの調和を重んじる建物だ。

 二階のテラスから一服のコーヒを楽しみながら、三つの河の合流する様や、遠くの山々を展望する気分はとてもよい。川中に連なる堤防の上には桜並木が延々と続き,その季節にはさぞや素晴らしい景色であろう。イギリスにいた頃、週末には起伏にとんだ丘が連続するKentやSussexの田舎へドライブし、Manner House(貴族の館)を訪ねて回った事を思い出す。そうした風景と佇まいを、英国帰りの加賀正太郎はここ大山崎に再現したかったのだろう、とその心情がよくわかる気がした。私もこんな所で,こんな家を建てて、イギリスの思い出に浸って暮らしたいものだが、加賀正太郎と違って今の私に出来るのは、都会のマンション(あの、文化と景観を破壊すると嫌われる)で、せいぜいWedgewoodのポットとティーカップで紅茶を入れて、スコーンを食し、「ああ!イギリスはいい!」と嘆息するくらいのことだ。



2011年9月3日土曜日

金沢21世紀美術館 ー21st Century Museum of Contemporary Art, Kanazawaー

 仕事で金沢に来るたびに、なんてうらやましい街だろうと思う。仕事の合間の断片的な時間でしかその「うらやましさ」の片鱗を味わうことが出来ないのだが。もちろん兼六園や金沢城、東茶屋街、浅野川の清流、卯辰山公園、犀川.....そして加賀流能、伝統工芸、食文化... 室生犀星、泉鏡花... その文化的な資産の豊富さにいつも圧倒される。 そして今回は、仕事の合間に金沢21世紀美術館を訪ねた。一見伝統的な城下町の雰囲気にマッチしないコンテンポラリーアートミュージアム。しかし、今人気のアートスペースだ。どうして「地方都市」金沢はこんなに豊かな文化に恵まれているのか?

 前田の殿様は、徳川幕府に慮って武力の強化に金を遣わず,文化芸能、庭園にお金を使ったからだ、と地元の人は説明してくれる。400年余という時間が培った伝統が今に生きているのだろう。また町並み優雅なのは戦災に遭わなかったからだともいう。

 それにしても関ヶ原の戦い以降に,各地に領国を得た徳川幕藩体制の大名達は,それぞれの領国統治にふさわしい藩府、城下町を建設した。現在の「地方都市」はその多くが,そうした「関ヶ原戦後」に建設された城下町が起源となっている。しかし、よくよくそれぞれの町を見比べてみると、当時の建設者にして統治者であった殿様の戦略と文化センスによって、町の風貌が全く異なっている事に気付く。

 城下町として美しく,文化を伴って現存している町の代表格は金沢だろう。松江も美しい城下町だ。おそらく金沢と並ぶ文化度の高い城下町だろう。熊本は城が立派だ。姫路も城が有名だが,町は戦災で破壊されてしまった。大阪や名古屋は大都会になりすぎて城下町という風情が薄れてしまっている。岡山の後楽園、高松の栗林公園、水戸の偕楽園も大名庭園として有名で殿様の残した文化の香りを現代に引き継いでいる。萩も鹿児島も西南の雄藩の首都として、やや武ばった城下町の風格を今も保っている。仙台、高知、広島、松山も外様の大大名の城下町だ。

 一方、わが故郷,福岡も黒田五十二万石の城下町だが、福岡が城下町の趣を残す街だ,とあまり認識されていないのは何故だろう? ここの城は縄張りの名人、黒田如水、長政親子の築城になる名城だが、朝鮮式の平城で威風堂々足る風格に乏しい。如水の「平時に壮麗な天守閣や石垣はいらん」という合理主義が後世に「観光資源」を残さなかったのかもしれない。かといって大名庭園もない。有名な大濠公園は福岡城の外堀を明治以降勧業博覧会会場として整備したものだ。あまり大名起源の文化、芸能もない。食文化も,芸能も,祭り、工芸も隣の博多の商人文化におされている。黒田藩の残したもの、修猷館くらいか?先の大戦では博多は空襲で焼けたが、福岡は戦災に遭ってない。だのに城下町の名残はほとんど残ってない。かつて大名町あたりは重臣達の武家屋敷の趣を残す町並みが残っていたが、いつの間にか完全に消えてなくなってしまった。なぜ? あまり黒田公の「伝統」を残そうと言う気分の少ない影の薄い城下町だ。

 城下町金沢の文化度の色濃さに比して、城下町福岡のそれは如何。もともとの城下町としての創建者の思想に違いがあるのかもしれない。そしてその思想がその後の街の変遷の中で継承されて行ったのだろう。取りこぼした文化の量、文化受容度の高低は、オリジンの町づくりの伝統を引くのだろうが。「比較城下町研究」がこれからの時空トラベルのテーマになりそうだ。

 話題がドンドンそれてしまった。金沢21世紀美術館の話だ。伝統文化の城下町のこのコンテンポラリーミュージアム。この金沢の文化パワーはいったいなんなんだ!いまや全国から人を集める人気観光スポットの一つになっている。それは金沢の他の観光スポットと組み合わせて回るのに良いからではなく、この美術館に行く為にだけ金沢に来てもいいくらいの魅力を持っている。

 そして,この美術館は、一部の教養ある趣味人資産家のコレクションを基礎に創設されたものでもなく、自治体が市民の税金を使って建てた「箱もの公共投資」の産物でもなく、市民の出資による財団が建設、保有、運営している点でもユニークだし、金沢市民の文化的な成熟度を感じさせられる。

 建築設計は、妹島和世+西沢立衛/SANAA。今最も注目される建築家達だ。まず建物自体が現代美術作品だ。金沢市の中心部に位置し,誰でもいつでも立ち寄れる公園のような美術館を目指しているという。その意図は見事に成功していると思う。建物は裏も表もない円形のガラスの筒の中に複数のエリアが設定されている。好きな所へ行き、回遊を楽しめばよい。美術館巡りで結構楽しみなのはショップとレストランだ。私はこのしつらえのセンスで美術館の好き嫌いが決まる。ここのレストランは特に洒落ていて、コーヒーを飲んだり、簡単な食事をしたり,語らったりすること自体がアートになる。

 ちなみに、もともと、この美術館の敷地にはは金沢大学付属小学校中学校があったそうだ。金沢大学も金沢城内にあったが郊外に移転して、あの壮麗な櫓がが復元されている。こうした都市の模様替えによって伝統的なゾーンと新しい集いの場を生み出した自治体の構想力と都市設計のセンス、パワーもすごい。金沢駅のデザインも素敵だ。金かけ過ぎという批判もあるやに聞いているが、この頃はやりのエキナカショップやデパートで人がごった返した商業施設化し、駅本来の動線や風格を無視した品のない中央駅ではなく、堂々としたアート作品になっている。これも金沢の玄関にふさわしい文化度シンボルだと思う。

 こうした街全体が伝統的な町並みと、伝統工芸、伝統食文化と、コンテンポラリーなアートパワーをみなぎらせている街は、日本にはそう多くはないだろう。まるでヨーロッパの街の匂いがする。金沢という街の人々のセンスの良さとそれを街の資産として継承、発展させてゆくパワーを感じさせられた。次回は仕事抜きで、ゆっくり街全体を見て回りたいものだ。



2011年8月28日日曜日

三輪山 ー日本最古の神社 大神神社ー

 この夏はいろいろな事が重なり、倭国邪馬台国への時空旅が出来なかった。引越、入院、猛暑... しかしようやく時間が出来,西宮の新居から桜井経由で三輪山、大神神社を訪ねた。天王寺の旧居より,一時間程余分に時間がかかる。奈良,大和路がすこし遠くなったのが悲しい。

 三輪山は大和王権成立にとって重要な神域である。神社自体に本殿はなく、拝殿のみ。まさに甘南備型の三輪山自体がご神体。その秀麗な円錐形の山容はまさに自然崇拝の古代神道を思わせる秀麗な山だ。この古神道の自然崇拝の聖地が、後の天皇中心の国家体制確立の結びついて行く。皇祖神である天照大神を伊勢神宮に祀る以前の本邦最古の神社であるといわれている。

 さらに大国主命ゆかりの古社である所が興味深い。日本書記の記述によれば、出雲の国譲りで大和王権の傘下に入る意思決定をしたのがこの大国主命。その見返りに壮大な出雲大社を出雲の地に建てる事をを大和王権に認めさせたという。日本書記は天武持統朝に編纂されたいわば大和王権の正史。壬申の乱後、天皇支配の正統性を認めさせる為に編纂した日本書紀、古事記であるから、多くの意図的な創作があり,史実とは一致しないとするのが通説であるが、大和王権が神代の昔から倭国全域を容易に統治できた訳ではない事は、この出雲の國譲りの一説を見ても分かる。

 それにしてもその出雲の大豪族、いや大王であった大国主命がなぜ、ここ三輪山の麓(ヤマト:山の麓)、すなわち大和王権の故地に祀られているのか?伝承によれば、大国主命が国の運営(何処の国なのか?)で悩んでいる時に大物主大神が現れ,自分を大和の三輪に祀ればその悩み解決して進ぜよう、と。そこでこの三輪山の麓に大神神社を建て主神として祀る。大和と出雲。この二つの古代大国の統合に大国主命が果たした役割の重要性を想起させるエピソードが日本書紀に隠されている。

 一方、大物主大神は蛇の化身(蛇神)で、日本書紀によれば、倭トトヒモモソ姫命(漢字変換不能)のもとに通い結婚して子をもうけた。姫は夫の姿を見た事がなかったので,ある日その姿を確かめる為に、櫛の入った小箱を開けるとそこには蛇がいた。これを見て姫はショックを受け自害してしまった。その姫の墓が、昼は神が造り,夜は鬼が造った、と言われる大きな塚、箸墓古墳だ。卑弥呼の墓ではないかとも推測されている古墳だ。一方、大神神社には巨大な杉の木があり,ここにご神体の蛇が住んでいるとされている。実際、最近まで白蛇がこの杉の大木の根元に生息していたようだ。

 このように大神神社辺りは、いろいろと神話と現実と政治的意図と素朴な自然神信仰、空想や説話が混在していて不可思議な神秘的な雰囲気を漂わせている神域である。日本古来の神道は、山や岩や杉の木などの自然物,一木一草に神が宿ると信じられた自然崇拝。あるいは精霊信仰、祖先霊の崇拝という多神教の世界である。6世紀の仏教伝来までの間、それを大和王権の確立に取り込んで行った、その原型がこの大神神社である。

 ちなみに三輪山にはいくつかの神の宿る神籠、磐くらがあると言われている。古神道の原型をこの目で確認してみたいものだが、三輪山への入山は基本的には禁止。許可を得ると入山出来るが、山中では写真撮影禁止、植物や石などの持ち出し禁止、飲食禁止だ。筑紫の海上の浮かぶ孤島、宗像大社の沖津宮にも同じような古来からの禁足地としての掟がある。であるが故に、結果的に古代祭祀遺跡として貴重な考古学的資料がかなりよく保存されていている。この沖の島は海の正倉院と言われているが、三輪山も巨大なタイムカプセルなのだ。

 この後、古代の道「山辺の道」を北上して石上神社まで行く予定であったが、突然のゲリラ豪雨に見舞われ、JR三輪駅への逆戻りを余儀なくされた。「ついてないな」と思ったが、その後益々雨は激しくなり、ついには雷雨となり短時間集中豪雨が奈良、大阪地方を襲った。三輪山の神が私の「山辺の道」への時空旅を止めたのだろう。このまま行ってたらひどい事になっていたに違いない。ちなみに主神の蛇が住むと言う杉のご神木は古来より雨をもたらすご神木だそうだ。



 大神神社鳥居(三輪明神の表記)



蛇神の住むという杉のご神木



 このご神木を詣でる人々も多い



 甘南備型の美しい山容の三輪山



 ゲリラ豪雨に見舞われた環状線鶴橋駅


2011年8月6日土曜日

西宮夙川へ ー我がルーツへの旅 第2章ー

 今日は広島原爆忌。今年もまたギラギラと照りつける太陽、間断なく聞こえる蝉の鳴き声、あの日もこんな日だったんだろう。毎年暑いこの季節に一瞬の業火に焼かれた人々の苦しみを思う。ことしはさらに福島が放射能汚染被害の地に。多くの人々が苦難の道を再び歩み始め、日本全体が食料の放射能汚染への恐れ、原子力発電所の再開時期の不確かさと政治の混迷による電力事情の不透明さから、日本の製造業を中心とする産業界への大打撃。日本はますます負のスパイラルに...

 原子力と言う人間が作り出した技術は、技術的にも倫理的にもコントロール不能の技術となってそれを生み出した人類に災をもたらすことを改めて浮き彫りにした感がある。原子力の平和利用だからよい、安全だ,核アレルギーはよくない、と思っていたのだが...

 そんな時に天王寺から西宮に引越した。実は引っ越し前日に緊急入院、というオマケ付きだ。ようやく回復し昨日退院してきた。退院すると引越はすっかり終わっていた。家内が孤軍奮闘。暑い中を病院への見舞いと、引越の片付けと両方こなしてくれた。また彼女に借りを作ってしまったぞ。夫婦間の勢力バランスが崩れるきっかけにならねばよいが...(笑、汗)

 ところで,ここ新居のある西宮夙川は阪神間の閑静な住宅街。となりの苦楽園、芦屋六麓荘などは言わずと知れた日本のビバリーヒルズ、グリニッチコネチカット。阪急神戸線沿線、阪神間でもこの辺りはとりわけ人気のエリア。私立の超有名校もひしめき合い、学生の町でもある。

 実は夙川は、私の祖父母が天王寺、豊中と移り住んでようやく家を持てた所だ。祖父は,今で言うベンチャー起業家だったといってもよいような経歴の持ち主である。土佐の高知から一念発起して戦前の日本最大の経済都市、大大阪に出てきた。銀行マンからスタートし、やがて独立して道修町に製薬会社を起業。努力の甲斐あって事業が成功して,夙川に家を持った。関西のサクセスストーリそのものだ。しかし、戦争と言う想定外(?)の事業環境変化に、若い従業員の大半を戦地へ持って行かれ、奮闘の甲斐も無く遂に戦後は事業を再開することが出来ずに廃業。祖父は私財を売り払って借金を返し、奈良へ引っ込んで隠居した。もちろん夙川の豪邸(?)もだ。

 私は生まれたばっかりの時に夙川の家にいたらしいのだが,もちろん覚えている訳は無い。かろうじて赤ん坊の私を抱く祖父母の写真が残っており,それが夙川の家だと後で知った。そんな夙川に,住む事になった不思議。そもそも3年前に祖父母の立身出世物語のスタート地点、大阪天王寺北山町の近くに住む事になったこと自体が不思議な縁を感じたものだ。今回、祖父の人生の頂点だった夙川にまた移り住む事になる不思議。運命と言うか、祖父母に呼ばれたと言うか...

 父が生まれ育った大阪天王寺を振り出しに、予期せず祖父の足跡を歩む事となり、関西という土地のエリア毎のキャラクターを時空を超えて感ずる事となった訳だ。関西生活、次なるフェーズへ、ワクワクドキドキの時空旅行を続けて行くことにしよう。






2011年7月20日水曜日

博多駅三代物語 ー人参町は今...ー

 JR博多シティーが開業して4ヶ月。九州新幹線全線開業と新駅ビル企業に沸く話題のスポットだ。法事で福岡へ行ったので寄ってみた。行きはANAで福岡空港着。帰りをその新装開業なった博多駅から新幹線で帰るというコースをとった。

第一印象。大阪駅のようなスケール感は無い。ありゃやり過ぎだけど福岡と大阪の都市の規模の違いか。一言で言うと駅ビルが前より一回り大きくなって、中にお約束の駅デパート、ショッピングモールが出来た,という感じ。特段の驚きも感激も無いビルじゃないか。とは言え、その賑わいは確かにすごい。福岡に新しい商業地域が出現した。天神も顔負けの集客力だ。駅前は従来とさほど変わりなく、大博通りと住吉通りという大通りに沿ってオフィス街が広がる。天神周辺のような複合的な商業地域の連続性は無い。

駅前から正面に向うと人気の観光スポット、キャナルシティーがあり、ここと博多駅を広い通りで結ぼうと言う構想があるらしいが、その為に駅前にある磯崎新設計のインド砂岩で出来たユニークな銀行本店ビルを壊そうとして,猛反対にあったとか。この辺が文化に対する感度の差が現れる所だから,福岡市民のみなさん、役所にまかせてると文化遺産を失いかねないですからご注意を。

私の知ってる博多駅は,今の祇園辺りにあった。古風なちいちゃなルネッサンス様式の駅ビルで。今なら有形文化財登録していただろうに、という素敵な建物だった。ただ、不釣り合いな「日本食堂」の新館が継ぎ足された奇妙な駅舎と化していたが。駅前には松下電器の巨大な電球のイルミネーションが輝いていたのを覚えている。駅構内には輪タクやダットサンのタクシーが並び、赤帽が客待ちをする。プラットフォームはすぐ改札口から見えたし、駅弁売りが声をはり上げてホームを歩き回っている光景がまぶたに残っている。

あるとき,その博多駅の裏の何にもない畑の中に,突如巨大な駅ビルの建設が始まり、新博多駅(三代目だそうだ)が開業。そこは人参町という地名であった。そう人参畑がひろがるようなホコリっぽいところ。とにかくでかい建物だった。だって回りになんにも無い殺風景な場所だったから。駅前は再開発され、今の大博通りと住吉通りというまるで無駄にだだっ広い通りが出来た。その真ん中を市内電車が走っていた。

その三代目博多駅が今回、同じ場所に建て替わって四代目となったという訳だ。そういう意味で一世代前の博多駅が人参町の畑の中に出来た時程のインパクトは無い。地元の老舗デパート井筒屋が不振で撤退した代わりに、関西から阪急デパートが進出。東急ハンズが九州初出店。福岡から見れば初物づくしかもしれないが、東京や関西から見ればか代わり映えのしないオールドプレーヤばかり。もともと地元志向の強かった福博のデパート勢力図が「中央」の資本に取って代わられたという事がニュースなのかもしれない。

もっとも工事は大変だったようだ。在来線、新幹線を日常通り運行しながら、九州最大の乗降客を誇る駅機能を損なう事無く、その横に九州新幹線を工事し、新しいホームを新設し、さらにその上に新駅ビルを建設する。最新の工法とプロジェクトマネジメントの偉大な成果なのだ。称賛に値するプロジェクトだった。

しかし,それでもなにかあっけない気がする。JR博多シティーの売りである屋上の「つばめの杜広場」も千住博プロデュースの市民による手作りタイル壁も、巨大な商業主義にはかすんでしまう。確かにつばめの杜広場展望デッキからの博多の町の景色は新鮮だが、この屋上はデパートの屋上と何が違うんだろう。家族連れが列をつくってミニ「つばめ」の電車に乗るのを待っている。ベンチや飲み物を提供する店もある。デパートが週末の家族のレジャーランドだったあの頃と何も変わっていない光景だ。

そういえば5〜6年程前に再開発なった天神の西鉄福岡(天神)駅、ソラリアプロジェクトでも、地元の名門岩田屋がターミナルデパートの地位を捨て、天神電話局跡に移転。ソラリアビルには東京から三越が出店してきた。天神の交差点のランドマークだった旧岩田屋本店は、閉店後長く地元のT学園の所有物として無為の時間を過ごし、老醜を九州一の繁華街にさらしていた。最近、新装なって、これまた東京から西武グループのパルコが入った。今さら、パルコでもないだろう、三越でもないだろうに。

同様に、いまさら博多駅に阪急でもないだろう、東急ハンズでもないだろう... これが躍進著しい東アジアの玄関口、福岡の顔なのか?? ミニ東京化、大阪化という、福岡と言えど結局は地方都市の宿命みたいなものを背負っているのだろうか。

しかし、そうしたセンチメンタルな感情とは別に、あたらしい博多駅は九州新幹線の全線開業とあいまって、すごい集客力を持つようになった。鹿児島、熊本からストロー現象よろしく、買い物客を博多駅に吸い込む。みな博多駅から一歩も出ずに買い物して帰って行くのだとか... 博多港国際ターミナルに到着する韓国からの買い物客は天神と博多駅のどっちに行くのだろう。福岡空港からはどちらも地下鉄で一本でいけるが、博多駅はなんと言っても空港から二駅目という信じられない利便性だからなあ。

こうしていろいろ意見はあるが福岡市には天神と博多駅と言う二つの大きな商圏が出現したわけだ。もともと福岡市は、商業都市、国際貿易都市である博多と、関ヶ原以降に入府してきた黒田氏の城下町、福岡のツインシティーだった。鎖国による博多の没落、さらには明治維新に乗り遅れた福岡藩の冷や飯食いで、戦前は九州の通過都市としての悲哀をなめてきた福岡市が、ようやくかつての栄光の日々を取り戻しつつあるのかもしれない。二つの商圏の誕生はその再生のシンボルなのかもしれない。

それにしてもJR九州の経営感覚と行動力はすごい。水戸岡氏を起用して素敵な電車を走らせて,鉄道の楽しさ,かっこうよさを復活させただけでなく、集客効果を最大限活かして、周辺事業で成長戦略へ転換!連結ベースで発足以来の念願の黒字化を達成出来る見込みだとか。

九州の国鉄なんて,かつてはダサクて、不便で、汚くて、サービス最低の乗り物だったのに。市民の日常的な足としてではなく、大阪や東京へ行く時に乗る「汽車」、すなわち「あさかぜ」「「さくら」「みずほ」「はやぶさ」という看板特急のイメージはあったが、鹿児島本線や筑肥線を走る「汽車」は日に何本しか走らないし、駅は便利な所には無いので、用事で乗る事を想定していなかった,というのが本音だった。それをJR九州は変えた。

鉄道事業は、「焼き鳥の串」というのが私の持論だが、この天神と博多駅の賑わいを見てるとそれを実感する。
鉄道が客を集め、商売の機会を創る。焼き鳥の串は焼き鳥が焼き鳥である為に重要な役割を果たしているが、それだけでは価値を生まない。鉄道だけでは大きな利益を生みにくいコモディティー事業だ。しかし、一方、鶏肉やネギやつくねだけでは焼き鳥にはならない。両方相まって付加価値を生むのだ。すなわち鉄道を走らせて、エキナカビジネスやリゾート、住宅,地域開発などの周辺ビジネスで儲ける。人を集める工夫が大事だ。そしてそれを収益機会に仕立てる、なあんてね...

ビジネスとしての鉄道事業と地域再開発のシナジーという、商業的な経済合理性だけではなくて、歴史や文化に結びつくような価値の実現には、更なる価値イノベーションが必要のようだ。 門司港駅の建物ような気品と風格はもう駅には期待出来ないのだろうか。東京では赤煉瓦東京駅の復元工事が来年完了する。辰野金吾博士の残してくれた建築の復活を楽しみにしている。

ルネッサンス風建築の二代目
旧駅の南に移転した三代目


リニューアルオープンした四代目



2011年7月9日土曜日

奈良菅原の里 喜光寺に今年も睡蓮が咲いた

 関西地方も昨日梅雨が明けた。スキッとした青空に夏の太陽がギラギラと輝く。暑い!

 去年も訪ねた喜光寺へ。ここはこの時期、美しい睡蓮で有名。去年も暑かったが、境内に並ぶ丹誠込めて育てた睡蓮の数々...一つ一つ見て回ると誠に心洗われるひとときを感ずる。睡蓮は早朝に開花し、日が昇ると花を閉じてしまうが、まだいくつかの花は開いていた。近くの唐招提寺の古代蓮も咲き始めている事だろう。

 喜光寺は行基が奈良時代に創建し、東大寺のミニチュア版である事でも有名だが、もともとは、菅原寺と呼ばれていた。この地は菅原一族の地であり(現在の住所表示も奈良市菅原町)、さかのぼれば菅原氏の祖先に当たる土師一族の地でもある。菅原道真はここで生まれている。現存する菅原神社がその地であると伝承されている。

 平安京での立身出世、栄華を極めた生活から、一転して藤原氏の陰謀による失脚で、遠く筑紫の太宰府の地に果てた道真が生まれ育った里を訪ねる。太宰府は我が故郷であるだけに、この時空旅は心に沁みるものがある。太宰府天満宮の牛がここ菅原天満宮にもいるのが微笑ましい。

2011年6月27日月曜日

京の町家 ー「文化遺産」が創造する新しい価値 ー

 京都の町家は毎年2%の割合で消滅しているという(財団法人 京都市景観・まちづくりセンター調査)。今や人口140万の近代的な都会になってしまった京都市は次々と商業ビルやマンションが建ち並び、1000年の都の面影も、そこに息づく人々の生活も消滅の危機に瀕している。

 先の大戦の空襲による破壊からまぬがれて貴重な文化遺産が救われたというのに、平和な時代になって経済的な繁栄を享受する時代に入って、皮肉にも町が破壊されてゆく。

 幸か不幸か,いまや経済の停滞で、少し破壊のスピードが止まったかに見えるが、それでも親から引き継いだこのような不動産や家業を持ちきれなくなっている人は依然として多い。この場合売るに売れず、買い手もいない、家屋は空家のまま荒れるにまかせる,という事になりかねない。

 このように町家に住み続ける上での問題点は
 1)相続税などの税制の不備。
 2)耐震、防火などの観点から現代の建築基準法に適合してない。
 3)町家の補修、新築などの技術が継承されていない。
 4)材木、部材等のの流通システムが不備。
 5)町家に住み続けるライフスタイルが欠如。
 等が上げられている(財団法人 京都市景観・まちづくりセンター)

 いずれにせよ,このような町家、そこでの生活に経済的な価値が認知されてないことが破壊に繋がっているように思われる。もちろん文化的な価値は認識する人が増えているが、それだけでは「文化遺産」は守れない。何らかの経済合理性、サバイバルモデルが必要だ。

 こうした貴重な宝を守れと立ち上がって京町家の保存と活用に取り組みもなされている。大学と提携して学生に研究の場として活用してもらったり、若手のアーティストに安い賃料で貸して、工房やアトリエとして使ってもらったり。もっとも、レストランやカフェやお土産やに改造して、町家の伝統的な佇まいや、そこでの生活を破壊してしまっては何もならない。なんとか町家を町家として住めるように、あるいは伝統的な商売の場として活用できないか? いわば「動態保存」だ。

 そうした活動を展開する人々の中に、中にアレックス・カー氏がいる。彼はアメリカ人で京都の町家を何軒も借り上げ、リノベーションして、国内外のツーリストに泊まってもらう「事業」を始めている。この場合、改造は最小限にして、町家の基本的な構造としつらえとアメニティーはそのままに、京都の伝統的な生活を楽しんでもらうよう工夫を凝らしている。同時に現代の生活にも不便を感じない「近代化」を計って都市生活の快適さをも実現している。例えば、紅ガラ格子と障子窓はそのままに、内側にガラスを張り、静穏性の保持と、空調がきくようにしている。なかなかいいアイデアだ。

 アレックスの考えの基本は、京町家は日本の宝であるのに何故壊す? その使い方によって新しい価値と文化を生み出す,という事に尽きるように見受ける。日本の文化の普遍性に日本人が気付かず,外国人にその価値を認められて初めて気付く,という事は何もこのことに限った話ではない。ここ京都でも住民や日本人からこうしたアイデアが出て来なかったことに無念さを覚えるが、誰のアイデアでも歓迎である。

 もっとも、この事業を運営する「庵」のマネジャーの方に伺うと、いろいろご苦労があるようで、こうした宿泊施設は「ホテル」や「旅館」では無いので、賃貸物件として取り扱われているそうだ。一泊でも賃貸借契約を結ぶ。食事の提供は出来ない、歯ブラシや浴衣は置けない..などの「規制」が存在していると言う。法律が想定する形態ではない、というわけだ。

 奈良の今井町のようにそこに住む人々の生活が連綿と続いている場合は別として(もちろんそこにも過疎化や、高齢化の問題が存在していることは看過し得ないが),京都のような都市化したエリアでの伝統的な生活の維持にはなかなか難しいハードルがある。と同時にこのような地の利を生かした利用形態もありそうだ。

 古い文化遺産に何らかの新しい価値付けをしなくてはならないだろう。建築家やアーバンプランナーの出番だ。また、そのような建物や町の佇まい,暮らしが有する伝統的価値を再定義し、それを都市の付加価値(tangible value)に変える、あたらしい「事業モデル」を創出することが必要だ。ここは文化的素養とビジョンを持った企業家の出番だ。税金とボランティアで負担する「保存」費用分の捻出で、「静態保存」するだけでは限度がある。かといって、商業主義に身をゆだねる訳にもいかない。知恵の出しどころだ。これこそ、古い価値を新しい価値創造に用いるイノベーションだ。そしてお金が回る仕組みを作り、一過性の「懐古趣味」に留めないビジネスモデルイノベーションだ。それが新しいライフスタイルとして定着して行けば,伝統がさらに次の伝統へと継承されて行くだろう。

2011年6月19日日曜日

大阪駅物語 ーカオス梅田の進化ー

 今年の5月に梅田の大阪駅がリニューアルオープンした。連日すごい人出で、久しぶりに大阪も大都会になった感じがする。こういうと大阪人は怒るが。これで東京並みの人出の町となった。

 大阪の町は江戸時代の町衆の北組、南組の区分、また御堂筋の北御堂、南御堂のように、南と北、いや、「ミナミ」と「キタ」に大別出来る。キタの中心はなんと言っても梅田。これがまたややこしい。大阪駅前と言わずに「梅田」という。ちなみにミナミの中心は難波。こちらも南海,近鉄,地下鉄御堂筋線、少し離れてJRが集まっている。
 キタは阪急電車のターミナル駅も「梅田」。阪神電鉄のターミナル駅も「梅田」。地下鉄御堂筋線も「梅田」。唯一JRだけが旧国鉄時代から駅名は「大阪」。地元では「梅田」と言えば大阪駅周辺のことだ。

 その「大阪駅」が大きくリニューアルされて大阪の新名所になった訳だ。元来大阪は、大坂城を始めとして、世間の人をビックリさせる建造物を造って自慢する傾向があるが、この新「大阪駅」ビル、いやいや、Osaka Station Cityは、その大阪の歴史上もアッと驚く建造物の筆頭に数えることが出来るだろう。駅が南北の大型デパートに挟まれサンドイッチ状態なのはまだしも、プラットフォームの屋根の上にさらに巨大な屋根をかぶせる、という、「屋上屋を重ねる」をやってしまっている。その割には電車待ちでホームに立っていると雨の日はしぶきが降りかかる、という苦情が絶えないなど、「どないなってんねん?」度も満点だ。

 まだまだこの辺りの再開発は終わって無い。大阪駅の北側にあった(今も少し残るが)旧国鉄の北ヤードの再開発が着々と進んでいる。ワールドカップ誘致の目玉に、ここにデッカいサッカースタジアム建設するプランが発表され度肝を抜いたのは記憶に新しい。幸か不幸かワールドカップの日本誘致は失敗に終わり,この計画もウヤムヤになったが、成功してたらどうなってたんだろう。建設資金の当ては無い計画だったのだから... そんなことは横に置いて、ビル群はドンドン建設ラッシュ。ここに大阪一の新たなオフィス街が登場する。しかし、誰が入るねん... このご時世。

 そもそも梅田はJR大阪駅の脇腹に突き刺さるように阪急が駅やデパートやショッピングモールを張り出している。、阪神デパートは駅前に堂々と店を構えて,一種独立峰を為しており、その地下が阪神電車の駅となっている。しかしそこへ,地下鉄御堂筋線、谷町線、四つ橋線がテンデに「梅田」「東梅田」「西梅田」駅を開設しそれぞれと大阪駅、阪急、阪神各線へのを乗り換えの利便の為に地下街で結んだ。その結果としての地下街の迷路ぶりが悪名高いが、これで地上というか、空中と言うか、全ての次元で迷路状態になった訳だ。全く人の動線を考慮に入れた造りとなってない。

 子供の頃、梅田の地下街の迷路ぶりを経験してショートSF小説を書いたことがある。我ながら良く出来た話だ、と自画自賛していたが、学校での夏休みの宿題作品展では全く評価されなくて悔しかった覚えがある。話は単純。梅田の地下街の雑踏を歩き回っているうちに迷い、ふと気がつくと東京の八重洲の地下街にいた,というもの。時空を超えた,と言いたかった... ダメかな?

 話は戻る。駅はシンプルであるべきなのだが、無理矢理集中させて,人が集まるのでそこに、商業施設を創ったり、こちゃこちゃした細工、小道具、仕掛けが多すぎて、スッと電車に行き着かない。エキナカがデパ地下になってしまっている。表から北側のヨドバシカメラにいけないことが最近苦情となっているようだが、そんなことだけに留まりそうもない。何処を歩いてるのか分からなくなる。行き止まりが意外に多い。大丸、三越伊勢丹、何タラ言うファッションビル、やたらに人を集めているが,それぞれどう違うのかよくわからん。人間の欲望と見栄と公共建築とが渾然とするとこのようなカオスがうまれるのだろう。

 そんな中で右往左往してる人を見てるのが面白い。都会のフロアーの模様の上をまるでマスゲームをさせられるように行き交う人々。一列に並ばされたり、ランダムに行き来させられたり。天井に吸い込まれたり。「時空の広場」はワンダーランドだ。ふとホームを見下ろすといつもの電車待ち行列に並ぶ乗客をを「上から目線」で楽しむことが出来る(大阪のホームでも並ぶようになったのは格段の進歩だが)。部分部分を見ると楽しく美しく都会的だが,全体最適のプロデュースが出来てない。今の日本の状況の縮図のような駅の中で、人々は「大阪も変わったやろ」「めっちゃおもしろいわあ」「ごっついなあ」などといいながら出口の無い回遊を楽しんでいる。

 近鉄大阪上本町駅の隣に出来た上本町Yufuraでの写真がおまけでついてます。こちらのキーワードは「自転車」。駅前の放置自転車の数がハンパでない...のはともかく。駅コンコースをママチャリが走り抜ける町... 「自転車での通り抜けお断り」という張り紙をこのようなターミナル駅で初めて見た。

2011年6月16日木曜日

室生の郷 滝谷菖蒲園

 梅雨時の大和路の花と言えば紫陽花と菖蒲。紫陽花は矢田寺や久米寺が有名だが、梅雨時はどこへ行っても紫陽花はきれいでいい。ここ室生の郷にある「花の郷」滝谷菖蒲園は様々な花が季節毎に眼を楽しませてくれる,まさに桃源郷のような静かな花園だ。今回は残念ながら,紫陽花にはチと時期が早くて、あまり咲いてない。そのかわり菖蒲と睡蓮が盛りだ。クレマチスも珍しい種類の花がまだ咲いている。

 滝谷菖蒲園は近鉄大阪線三本松駅からバスで8分程、歩いても20分程の室生の郷の谷あいに位置している。ここはかつては女人高野室生寺への参詣道の途中であり、伊勢街道、榛原宿から室生寺へ向う人々が通った道だ。今はハイキングコースとしても人気がある所のようで、いたるところに道標が整備されている。

 しかし,山と谷が織り為し,人気のない所である。集落も見当たらず、道の駅の新しい建物が妙に辺りの風景にそぐわない感じであることを除くと、誠に鄙びた地域である。やたらに菖蒲園の看板が道路沿いに立ち並んでいるが、このような所に商業的な意味で成功する施設を創ることは難しいに違いない。よくこんな美しく花に満ちあふれた花園を創ったものだ。作り手の花への愛着と、この地への強い思い入れを感じずにはおれない。

 この時期、近鉄三本松駅から菖蒲園行きの臨時バスが一時間に2本出ていて、車でない人には便利。行きも帰りも乗客は私を含めて2人というのんびりムード。あいにくの雨だが、山肌がぬれ、新緑がしっとりと美しい。山頂は室生路独特の煙霧に覆われて,龍穴神社の龍神様が里山に雨をもたらしてくれている。狭い谷あいの道をガタゴトと進むこと8分で菖蒲園に到着する。

 ここでは非常に多くの種類の菖蒲を楽しむことが出来る。同時に販売もしており、販売コーナーに植わっている菖蒲をそのまま分けてくれる。売り手もアルバイトの女の子のようなドシロウトではなく、オジさんオバさんが、菖蒲の育て方、楽しみ方を丁寧に教えてくれる。商売でやっている,というよりも、好きでやっている,という感じがして、それがいい。しゃべり出すとチと話が長過ぎるが、ホントに好きなんだなあ...

 スライドショーをご覧あれ。

2011年6月7日火曜日

Voigtlander Nokton 25mm f0.95という画期 ー不思議が写るレンズー

 往年の名玉フォクトレンダーのノクトン。コシナからマイクロフォーサースフォーマット用に新たなノクトン25mm(35mm換算で50mm)が限定生産で市場に出された。

 なんと開放F値が0.95。ライカのノクチルクスf1よりもわずかに明るい。フィルム感度が上げられない昔は、カメラメーカ各社は明るい開放F値のレンズ(いわゆる高速レンズ)の開発にしのぎを削った。オリジナルのフォクトレンダーのノクトンは1.5だった。アベーラブルライトでの撮影を標榜するライカがノクチルクス0.95を出して世の中をビックリさせた。キャノンやズノーもf1や0.95を出して日本の意地を示した。そこまでではなくてもf2なら普通、f1.8でまあまあ。f1.4は高級レンズ、ニコンのf1.2は高嶺の花、と標準レンズのグレードに関係する数字でもあったのは事実だ。

 いまやデジタル時代で撮像センサー感度も上がり、しかも800,1600以上の高感度でもノイズの少ない画質を保証出来るようになった現在、あまり高速レンズのニーズは少なくなり、しかもズームレンズ全盛でせいぜい2や2.8なら明るい方になってしまっている。

 しかし、いや、こんなときだからこそ、単焦点レンズでF値が明るいレンズで撮ってみたい、という衝動に駆られる。ここの所にニコンも矢継ぎ早にデジタル一眼レフ用のニッコール50mmf1.4、f1.8を出して来ている。やはり単焦点レンズの歪曲収差の少なさ、ボケ味の美しさが再びマニアにもてはやされている訳だ。

 一方、CCDやCMOSセンサーのサイズが通常の35mmフルサイズセンサーに比べると小さい、ASP-Cやマイクロフォーサーズ、さらにはコンデジの1/2、1/1.7サイズでは、美しいボケ(英語でもBokehという!)があまり期待出来ない。そこでこのノクトン25mmf0.95みたいな、マイクロフォーサーズでも美しいボケが楽しめるレンズの登場が歓迎されることとなる。

 このレンズは25mmだから35mm換算で50mmの標準レンズだが、最短撮影距離はなんと0.17(17cm)。ここまで寄れる標準レンズは稀だ。ノクチルクスなど1mという遠視(老眼?!)だ。したがってかなりの近接マクロ撮影が可能となる。しかも、この開放F値0.95と近接撮影距離0.17の組み合わせで、今まででは考えられない思いがけない画像表現が可能となっている(とにかく下の写真を見て下さい)。

 道具としてのレンズ鏡胴の造りもソリッドで秀逸。ずっしりした真鍮素材に黒鏡胴。ローレットの刻みもエッジが立っていて心地よい。回転トルクが適度にあって,しかも滑らか。絞りリングのクリック感も素晴らしい。絞りバネは10枚で正円に近い。これがボケの美しさを生み出している。なんと言っても外見での一番の魅力は大きな瞳。この瞳に見つめられるとイチコロ。これに付属の金属製の大型フードが付いてくる。

 なんともマニアックなレンズだこと。遊べる。




(夜間室内照明下、開放で撮影。アウトフォーカス部分のとろけるようなボケ...)




(昼間室内照明下、開放で撮影。なぞなぞ1:これはなんでしょう?金塊ではありません。)




(昼間室内照明下、開放で撮影。なぞなぞ2:これはなに? これはわかるね。)




(昼間晴天時屋外、絞り2.8で撮影。昼間は開放にするとシャッター速度がついて行かない...)

なぞなぞの答え:1はクチャクチャにしたチョコレートの包み紙。2は机の上のボールペンとポストイット。 以上、わかりましたかな?

2011年6月5日日曜日

大阪中之島公園バラ園

 堂島川と土佐堀川に挟まれた中之島公園。明治24年(1891年)に大阪市に初めて建設された公園である。中之島自体は西はロイヤルホテルや大阪大学医学部趾があるビジネス街。淀屋橋界隈は大阪市役所、大阪府立図書館、中之島公会堂、東洋陶磁器美術館。そして、難波橋から天満橋方面には中之島バラ園が広がっている。天神橋が渡る辺りは公園の先端に噴水もあり、パリのシテ島にも比肩しうる風景となっている。

 ここは水の都大阪の都心のオアシスだ。難波橋から階段を下るとそこはバラ園。天神橋から天満橋を望む中洲の先端部まで都心にしては広々としたバラ園と芝生広場が広がっている。バラは珍しい種類のものも数多く咲いている。

 今日は梅雨の合間の晴れ。大勢の人がこのお天気とバラに誘われて集まって来ている。皆一様の携帯カメラで写真撮っている。私は携帯カメラはカメラと認めてないが、こうして皆が「カメラ」を日常的に持ち歩いて、ふとした風景や、心に留まったアイテムをカシャリと撮る。撮りたいと思った時に何時もカメラを持っているということが大事だが、結構傑作が沢山撮れていることだろう。携帯カメラ普及も悪いことではない。

 ともあれ咲き乱れる美しいバラの花々をご覧あれ。

2011年6月3日金曜日

大阪城京橋口 〜つわものどもの夢のあと〜

 大阪城公園の東北にそびえ立つOBP (Osaka Business Park)のビル群、大阪の新しいビジネス拠点として住友、パナソニックなどの地元企業が中心となって再開発した新都心は、かつては幾多の戦いの場であった。

 大和川,寝屋川、猫間川などの合流する中洲地帯であったこの一帯は、弁天島とよばれ、古くは石山本願寺攻略戦や大坂の陣の古戦場であった。淀どのの遺体を埋葬した祠があるとされている。江戸期には大坂城代の京橋屋敷がおかれ、さらに時代が下り、明治維新後は,ここには大阪造兵工廠が設けらる。1945年8月15日のアメリカ軍の猛爆撃で壊滅するまで東洋一の兵器工場として有名であった。

 私が子供の頃(小学校低学年ころ)、祖父母のうちに遊びにくるときは、大阪駅から鶴橋まで環状線で移動し、そこから近鉄で奈良のあやめ池まで行くのだが、京橋駅周辺、森ノ宮駅周辺には広大な工場の残骸が広がっていたのを記憶している。戦後の再開発はなかなか進まなかったようで、終戦から15年経った1960年時点でも、大阪の街の中に広大な廃墟が横たわっているような状況だった。

 戦前の大阪は日本一の商業都市であり大大阪の繁栄を享受していたが、同時に「東洋のマンチェスター」と称せられる程の工業都市でもあった。街中にも様々な工場があって、当時の絵はがきや名所地図を見ると煙突マークがいたるところに見受けられる。江戸時代にさかのぼると住友家の銅の製錬所が島之内にあったくらいだ。

 そして、この大阪造兵工廠がその最たるものであった。しかし、考えてみると当時は大阪の街のど真ん中にこのような巨大な兵器工場が存在していたなど驚きだ。大阪城そのものがもともと要塞として構築されたことは知っているが、明治以降は城内に大阪鎮台、のちに帝国陸軍第四師団司令部が設けられ(今でも中世欧州の城風の建物が残っている)、その周辺にこのような砲兵工廠や化学工廠、被服工廠などの軍関係の工場が取り巻き、まるで軍事要塞の様相を呈していた。大阪は軍都でもあったのだ。

 ようやくこのような廃墟が整理され再開発が進んだのは1970年代に入ってからのこと。現在は高層のオフィスビルの他、いずみホール、ホテルオークラ、大阪城ホールが建ち並び、公園も整備されて市民の憩いの場にもなっている。環状線にも「大阪城公園」駅が新設された。森ノ宮駅にはJRの電車区が設けられている。

 ちなみに大坂城京橋口には太閤秀吉の時代には、壮麗な漆塗り屋根付きの京橋御門が架けられていたらしい。これは、当時太閤秀吉が大坂城の北東、すなわち京への玄関口に、天皇の行幸を迎える為の橋を架けさせたものだという。そのような壮麗な橋は現存していないが、確かにこの辺りは大川、淀川の通じて京への玄関口であった。

 さらに幕末の時代、戊辰戦争に敗北した幕府軍の総帥徳川慶喜が密かに大坂城を脱出したのもこの京橋門だと言われている。大川に出て八軒家浜から船にのり江戸へ逃げ帰った。

 このように多くの戦にまつわる土地だが、いま、OBPの高層ビルの最上階から展望すると、大阪の街は美しい。深い緑に包まれた大阪城を眼下に見て、大川にかけられた天満橋、天神橋、難波橋を望むことができる。大阪が「水の都」と称せられる訳がよくわかる。特に夜景が美しく、天神橋のライトアップされた二重橋はまるでパリのシテ島に架かる橋のようだし、洲の先端から30分ごとに吹き出す噴水すら見える。西側には堂島、中之島辺りのオフィス街の夜景が広がっている。かつての様な大大阪の繁栄は無くなってしまったが、平和で近代的な街に生まれ変わった。




(新緑美しい大阪城公園。その南側から天守閣とOBP(Osaka Business Park)を望む)




(OBPツインタワービルの最上階から大阪城公園を見下ろすことが出来る。京橋門が見える)




(夕闇迫る大阪城天守閣。城の南側にはNTT西日本本社やNHK大阪放送局、大阪歴史博物館が見える。さらに向うに通天閣がライトアップされているのが見える)



(西に眼を転ずると堂島、中之島辺りの大阪のビジネスの中心街を見渡すことが出来る。平和で美しい都会の夜景だ)




(こうして見るとこの辺りが、かつてはいくつもの川に囲まれた水運の重要拠点であったことがわかる)






(水の都大阪。ライトアップされた天満橋、天神橋が美しい。特に天神橋と中洲の光景はパリのシテ島の風景を彷彿とさせる)

2011年5月20日金曜日

Finepix X100の使用感

最近X100にハマってる。コンパクトでセンサーサイズもデジイチ並みの大型(ASP-C)で画質が良い。コンデジの小さなセンサーでは1000万画素などかなり無理して押し込んでる訳だが、やはりこれくらいのサイズだとゆとりが出る。さらに35mm固定焦点レンズは風景からスナップまでオールラウンドにこなせる画角で変な歪曲収差などが少ない。

 こうした固定焦点レンズでレンジファインダーカメラだと,最短撮影距離が物足りないものだが、ここはハイブリッドファインダーの強みで、EVFかモニターダイレクトではパララックスもなく、10cmまで寄れる「マクロ」モードがついている。花の撮影などに強みを発揮する。これは撮影の範囲を広げてくれる大きなメリットだ。

 固定焦点レンズは、また開放時のボケがいい。このフジノンレンズは特にボケが美しい。ただ,少し開放でマクロ撮影するとフレアーがかかったような感じになる。これはこれでソフトフォーカス的に使えて,上手に活用すればいいと思う。

 お蔭でライカM9の出番が少なくなった。あるいはM9は50mmを常用レンズにして、広角35mmとマクロはX100、と組み合わせでいくと良い。水平出しの機能もあり、役に立つ。M9で撮ると後で傾きが気になるようになる。M9は撮影者のウデを問われるカメラだが、X100はそれを補ってくれる。

 バッテリーの持ちが悪いような気がする。もしかしたら電源スイッチが割に簡単に動くので、鞄などに入れた時に不用意にスイッチが入ってしまうせいかもしれない。また、ハイブリッドファインダーでEVFを多用すると電力消費が進むのかもしれない。いずれにせよ予備バッテリーを携行する方が安心だ。

 また,細かい点だが、露出補正ダイアルは好ましいが、補正0クリックをメリハリつけるか、赤いメモリにするなどしてくれるとより使い良くなる。

 総じて、なかなかいいカメラが出て来たな,と思う。久々に納得出来る道具だ。やはり写真専業富士フィルムならではだ。フィルムモードでプロビア、ベルビア、アステアが選べるなんて,フィルム派の痛いとこ突いている。

 出たばかりでなんだが、後継機種が楽しみだ。あまりギミックをこてこてに盛り込まず、撮影道具としてブラッシュアップされて行くことを楽しみにしている。




(背景のボケ味が好きだ。花を浮き立たせてくれる)




(パンフォーカス気味に写る35mm独特のパース。色味はベルビアを選んでいる)




(開放マクロでの撮影はこのようにフレアーがかかってソフトフォーカスっぽくなる。)

2011年5月17日火曜日

春日大社と興福寺 藤原氏という系譜

 奈良の春日大社と興福寺は考えてみると不思議な取り合わせだ。いわば同じ敷地に併存しているShinto ShrineとBuddism Temple。どちらも藤原氏の創建になる神社と仏教寺院である。少し過去の歴史を振り返ってみよう。後の時代の神仏混合の考えによる神宮寺や寺の守護をする鳥居のような併存とは違って、新興の外来思想、宗教である仏教が我が国に伝来してわずかに150年程の時代に新興国日本の新都平城京に、私人として創建したものだ。この頃の仏教は平安時代以降のそれと違って、庶民の苦悩を救ったり,現世利益を唱えたりする考えではなく、天皇中心政治の基本にある、いわば鎮護国家の考え基づいた国家統治の為の思想、知識の体系であった。そしてその中心は東大寺という官寺である。

 藤原氏は知られている通り、いわゆる「大化の改新」で中大兄皇子を助けた中臣鎌足の子孫であり、摂関家としてその後の歴史の中で血統を絶やすことなく、現代の世まで続いている。もともと中臣氏はその名の通り、大臣でも大連でもなく、飛鳥ではそれほどの権勢を得た一族ではなかった。乙巳(いっし)の変(「大化の改新」は史学的には最近ではこう呼ばれている)での勲功が認められ、天智天皇から藤原姓を賜って以降、平城京、平安京の両時代に権勢並びなき程の栄華を極めることになる。

 この中臣鎌足の出自は諸説あるようだが、河内の枚岡辺りの地方豪族で、後に飛鳥に出てきて中央政界にデビューすることとなる。明日香の小原の里に藤原神社がひっそりと建つが、この辺りを拠点に大王家に徐々に近づき、大化の改新(乙巳の変)で頭角を現したようだ。中大兄皇子との出会いでも、皇子が蹴鞠で脱げた履物を,鎌足が拾って,恭しくさし出した時に初めて「そはたれか?」と聞かれているくらいだから、位の高い人物とはいえない。

 そもそも、乙巳の変は、グローバル派で、外来の宗教である仏教を積極的に倭国に導入しようとしていた蘇我氏と、古来の神を崇拝すべきだとする、物部氏の対立に遠因がある。廃仏派の物部氏を蘇我氏が滅ぼし、飛鳥に倭国初の仏教寺院(飛鳥寺)を建立。その後に大王家でも推古大王、厩戸皇子(聖徳太子)による仏教中心の国家造りを進めるなど,いわばグローバル派が政権の中枢を握ることとなる。

 しかし、飛鳥政界はこの蘇我氏の外交政策を支持する勢力ばかりではなく、蘇我氏は宮廷クーデターで、中大兄皇子、中臣鎌足、倉山田石川麻呂らによって誅殺されることになる。これは見方によればグローバル派の一掃であり、守旧派の復権でもある。中臣氏は、物部氏や大伴氏に近いとされ、廃仏派に属すると見られている。

 この後、斉明天皇、中大兄皇子は、そのグローバルな認識の誤りから朝鮮半島政策に失敗し、白村江で唐/新羅の連合軍に歴史的大敗を期す。斉明天皇がこの戦争の前線基地の筑紫の朝倉の宮で崩御し、その後を継ぎ即位して天智天皇となった宮廷クーデターの立役者中大兄皇子は、唐/新羅の侵攻をおそれ、太宰府に大野城と基城、水城を築き、飛鳥に通じる要衝に地にも砦を築かせているが、結局は大陸からの侵攻はなく、むしろ軍事的な備えよりも,中華帝国に負けない国家としての体制の整備を急ぐ必要性を痛感している。この意味に置いては蘇我氏は早くから東アジア的視点から倭国経営を展望していた開明派であった。むしろそういったグローバルな視点を嫌う守旧派がクーデターで一度は国家の舵取りを取り戻したが、結局は失敗に帰したともいえる。

 この国家体制確立事業は天智天皇の時代には完成せず、むしろ壬申の乱の後に天智天皇の弟である天武天皇、その皇后で皇位を承継した持統天皇の時代になって律令制度の整備、公地公民の制、仏教による鎮護国家の思想、天照大神を皇祖神とする「天皇」制の確立が実現することとなる。ここではっきりと外来の仏教が国の理念を支える中心的な思想/宗教として位置づけられることになった。この時期、天武、持統両帝は天皇親政をとり、藤原氏などの主要豪族は政治の中枢からは排除されていた。また遣唐使がこの時期廃止され「日本風」の文化の醸成時期でもあった。

 しかしこうした流れの中で、藤原氏は徐々に勢力を蓄え、元明天皇の平城遷都、藤原不比等の時代には遂に聖武天皇の后に自分の娘の光明子(光明皇后)を入内させるまでにいたる。

 この間、国家の中心的思想,宗教は仏教から神道へ、そして、再び仏教が復権、と言うように揺れ動いたが、先に述べたように、仏教を国家宗教とする鎮護国家方針、と天皇が八百万の神々のトップに立つ天照大神の子孫である、という皇祖神思想が並立して倭国の、そして国号を改めた「日本」の国家統治の基本理念となる。

 こうした天皇中心の国家形成の中核を支えたのが、かつての開明派蘇我氏を滅ぼした、守旧派であった藤原氏であった訳だ。その藤原氏は平城遷都後に、条坊制の京にわざわざはみ出した東郭を設け、そこに藤原一族の氏神である春日大社と、外来宗教である仏教寺院興福寺を創建する。

 春日大社は在地神のいた春日山をご神体とし、東国の鹿島神宮と香取神宮から、それぞれ神を招き、さらには一族のルーツの地、河内の枚岡神社よりもう一体の神を遷座させている。五月の春日大社はその美しい藤の花で彩られるが、藤は藤原氏の紋所であり、一族を象徴する花である。当時の天智天皇から「藤」の一字を姓に冠することを認められ、藤原と名乗った由緒正しき正統の証でもある。

 しかし、時代は変われど、日本という国は、常に外からの異文化の受容に関して国際派と国内派とが争う歴史のようだ。この二分法はこのころ出来たものなのか。そして、いつも国際派は滅ぼされ、冷や飯食わされて表舞台から姿を消させられるが、やがては、国際派が実現しようとした価値観が見直されて、日本の地に定着して行く。皮肉なことにその国際派がかざした理念の復活を担うのは,実は国内派の一族、末裔である。面白いものだ。文化の融合には時間が必要,と言ってしまえばそれまでだが。藤原氏の二つのシンボル、春日大社と興福寺が並んで立っているのを見てそう思う。



 (春日大社の砂ずりの藤。本来ならば2メートル程の長さで,地面の砂をするくらい長い,と言う意味で名付けられたものだが,今年は春先の寒さがたたり、長さが足らないのと,花が終わりに近づいているのとであまり名前のような勢いがなかった。)



 (燈籠の列は春日大社のシンボル。参道の石灯籠の列も趣があるが、本殿脇の回廊沿いの金色の燈籠は赤い柱と良いコントラストで美しい。)



 (珍しい八重の黒龍藤。春日大社付属の万葉植物園に咲く。本来遅咲きの藤の一種なので,今頃がちょうど見頃であった。それにしても八重の藤を初めてだ。)



 (同じく万葉植物園の白野田の藤。これも遅咲きの品種で、今が盛りであった。長い花が美しく園内のあちこちで咲き誇っていた。)




 (万葉植物園の池にかかる橋桁の藤。おそらく九尺藤だろう。丈が短いが池畔に咲く楚々とした風情も、これはこれで良い。)

2011年5月15日日曜日

當麻寺お練り供養 ーおねり第2弾ー

 新緑美しい當麻の里。さわやかな風が吹き渡っている。

 5月14日は當麻寺の練り供養の日。中将姫を二十五菩薩が極楽浄土へ迎える、という。日本のあちこちで行われる「おねり」の元祖がここ當麻寺の練り供養だという。
ついこの間、大阪平野の大念仏寺のおねりを観たばかりだ。おねりづいてる。おねり第2弾!

 実は事前にあまり調べもなく,行き当たりばったりで出かけたので,何時から始まるのか、どのようなプログラムになっているのか分からないまま午後一時頃ぶらりと到着。おねり開始は午後4時だ!3時間も時間をつぶさなくては... 當麻寺や當麻の里は幾度か来ているのでこの辺りの大抵の名所は見てしまっている。

 有名な西南院の牡丹と石楠花がそろそろ終盤を迎えていたが、なかを覗いてみた。門を入ると眼に飛び込んで来たのは西塔を背景に白い大きななんじゃもんじゃの木。見事なものだ。山肌にも新鮮な緑と細かい白い花をつけた木が素敵なグラデュエーション模様を描き出している。

 それにしても今日は五月晴れの良い天気。次は竹内街道の方向へ散策する。以前、竹内街道から當麻寺へ歩いたことはある。緑が鮮やかになり、いたるところに花が咲いて山の景観をを美しく彩っている。瓦堂池の辺りに黄色い菖蒲が咲いている。新緑が常緑樹の濃い緑と水面に映えて美しい。竹内古墳群を中心に造成された史跡の丘公園は手入れがなされてないので荒れ放題だが、山そのものは新緑で美しく彩られている。かえって人が手を入れない方が良い。自然を生かすつもりの自然破壊になりかねない。

 取って返して、今度は當麻の里へ降りての田圃や畑を散策すると二上山を背景に甍の波に鯉のぼりがたなびく。童謡を思い出すのどかで平和な光景が広がる。路傍の花がけなげに咲いている。當麻寺の二塔が里の向うにそびえていて、昔からここは極楽浄土に近いあこがれの地であることを物語るような風景だ。

 この初夏を思わせる天気の中での散策で結構のんびりした時間を楽しむことが出来たので、そろそろ當麻寺へ戻る。後一時間でお練り開始だ。

 境内にはすでに大勢の人が集まって来ている。集落のはずれの普段はのどかな農道には車がイッパイ路上駐車している。当麻寺駅からの参道はぞろぞろと大勢の参拝客が寺へ向う。老若男女を問わずこんなに大勢の参拝客が集まった當麻寺は初めてだ。参道と境内には店がたくさん出ている。普段は静かな里が今日はにぎやかだ。

 おねりは本堂からのびる来迎橋という,長い渡り廊下を通り、阿弥陀堂で折り返して本堂へ戻る。一時間程のおねりなので中将姫の輿が出て、短いお稚児さんの行列が終わると、わりに早く次々と二十五菩薩のお出ましとなった。この間の平野の大念仏寺の二十五菩薩のお出ましに先立つ2時間の様々な行列、とは違ったのでホッとした。

 また、平野の大念仏寺のおねりでは専門の僧が菩薩役となっているが、當麻寺では地元の一般の人が選ばれて参加するのだそうだ。写真を撮っていると、おばあさんが「えろうすんまへんが、ウチの人がおねりに出てるんでっけど写真撮ってもらえまへんやろか」と声をかけて来た。もちろん喜んで「いいですよ」。伺うと、地元の人でもなかなか希望通りにいかず、これに参加出来るのはかなり晴れ晴れしい出来事だそうだ。この人の場合,「ようやくこの歳になって番が回って来ましてん」と言っていた。お年は聞かなかったが...

 そういえば,ここでは必ず菩薩に紋付羽織袴の付き添いの人が並んで歩く。菩薩様が一人ではないのは面を着けて渡り廊下を歩くのが危ないからだろうか? 菩薩役の人もシロウトだからか、なんかたどたどしい歩き方だったり、お面がズレてて、菩薩様が首を傾げているように見えたりで、微笑ましい。

 写真を撮る時は事前によく調べるべきだった。撮る方向によってはこの付き添いの人が邪魔になって菩薩のお顔が見えない。ううン、やっぱり行き当たりばったりはイカン。でも一応の写真は撮れたと思う。後で郵送すると、お礼の手紙に、ご自身が撮った牡丹の写真が添えてあった。なんとも心が和む。こちらこそありがとうございました。

 やはりここも観光客と言うよりは近隣の人々が集まって来て年に一度のおねり供養を楽しむ、という雰囲気であった。別にお年寄りや寺の檀家や講の団体さんばかりではなく、家族連れはもちろん若者のデートコースにもなっているようだ。一見場違いな今風のカップルもいる。子供達はカラフルな水飴を練ったり、これまた赤や黄色のかき氷食べたりしながら、キャピキャピと楽しげに駆け回っている。古来から宗教行事と地元の娯楽が一体であったことを目撃したように気分だ。せんとクンが何げなくいて,手を振っている。子供達にはエライ人気で、「せんとく〜ん」の黄色いかけ声が五月晴れの境内に響き渡っていた。

アクセスマップ:
http://goo.gl/maps/8MVo









2011年5月5日木曜日

摂州平野郷 万部おねり

 大阪市平野区。天王寺からJR大和路線各駅で二駅目の平野は、今は大阪の街に飲み込まれてしまっているが、戦国時代に形成された摂津の自治都市、環濠集落平野郷であった。関西にはこうした環濠集落がいくつか今もその痕跡を残している。富田林、大和今井町、郡山の稗田、番匠集落、山辺の道の萱生、竹内集落、等々。平野は大阪の都市化の波に洗われてその痕跡をかなり消し去られているが、それでも杭全神社の付近に掘割の趾が残り、町割り、古い商家にかすかにその面影を留めている。

摂津の国平野は平安時代初期には坂上田村麻呂の子の広野麻呂が朝廷からその武勲をたたえられて下された荘園、杭全荘、のちに広野荘がその起源とされている。平野(ひらの)の地名はこの広野(ひろの)から転じたものだとか。ちなみに町の北側には杭全神社が鎮座増しましている。杭全と書いて「くまた」と読むのだそうだ。我が家の近くを走る市営バスの行き先が「杭全」と表示されているが、これをどう読むのかずーっと分からなかった。調べようともしてなかったという方が正しいが。「くいぜん」?「くいまた」?などと... これが読めるようになったのはつい最近のこと。ということは私もかなり大阪人になって来たぞ。

 織田信長に抵抗して形成された自治都市、環濠集落、平野郷が最も栄えたのは戦国の世がようやく収まりつつあった豊臣時代、さらには徳川時代初期。いくつかの街道が交差する交通の要衝で,町には13の木戸があったという。南蛮貿易では堺と並び、末次氏などの豪商を輩出。木綿の生産などで豊かな富の集積地となった。秀吉が大坂の町を建設する時に、大坂城と四天王寺の間の上町台地上に平野郷からその一部が移住して平野町を形成したと言われている。いまは寺町となっている上町筋と 谷町筋の間が平野町だったらしい。

 平野の環濠の北西に大念仏寺という寺がある。融通念仏宗総本山で、今年が開宗900年になるという古刹だ。ここは年一度5月1〜5日に行われる、「万部おねり」で有名な寺だ。そのハイライトは、阿弥陀如来の下でこの世で苦しむ衆生を救うとされる25の菩薩が阿弥陀如来のおわします本堂へ集合する「おねり」。25の菩薩は専門の僧侶がそれぞれの菩薩役となるなかなか豪華なおねりだ。

 稚児行列から献花献茶、踊り、講、僧侶、総代の行列が二十五菩薩のおねりに先立ち、2時間を超えるパレードだ。近郷近在から集まった善男善女がその「おねり」を取り囲み、あたりは南無阿弥陀仏の念仏に包まれる。観光イベントとしてはあまり知られていない分だけ、まさに日々の生活に寄り添った宗教行事の雰囲気が漂っている。
 
大阪のような大都会の片隅に、このような祈りの生活が息づいていることに時空を超えた関西という地域の奥深さを感じる。そして二十五菩薩の神々しい黄金のマスクが阿弥陀仏の功徳をもたらしてくれるようである。



2011年5月1日日曜日

新緑の長谷寺と室生寺を巡る

長谷寺と室生寺は私の大和路散策の定番コース。どの季節にも違った佇まいを持った大和の古刹だ。しかし、この二寺を同時に回るのは意外に大変だ。長谷寺は近鉄長谷寺から徒歩15分程。急行は普段は停車しないので、桜井で乗り換えだ。また、室生寺は近鉄室生口大野から普段は一時間に一本程度のバスで15分程渓谷をさかのぼる。

 この連休の時期のいいのは、近鉄の急行が長谷寺駅に臨時停車すること。そして長谷寺と室生寺の間を奈良交通が直行臨時バスが15分ごとの出発で結んでいること。今回は上六から長谷寺まで近鉄急行で直行し、その臨時バスで室生寺へ向い、帰りはバスで室生口大野まで、そこから近鉄急行で上六まで一本で帰る,というコースで一日に二寺を拝見することが出来た。

 長谷寺は「花の御寺」として四季折々に美しい花で包まれることで有名だが、この季節は牡丹が有名だ。特に登廊の両側に咲く牡丹は長谷寺を象徴する花だ。そして女人高野室生寺は言うまでもなくこの時期は石楠花。鎧坂両側の見事な石楠花が有名だ。

 しかし、今年はやや花牡丹も石楠花も開花が遅れているようだ。石楠花はそれでも薄いピンクや白い花を開かせて見頃を迎えつつあるが、長谷寺の牡丹はチラホラで寂しい。一昨年来た時は同じ日で、牡丹は満開だったが...

 実はこの時期の圧巻は,青紅葉などの新緑だ。塔堂、堂宇を飲み込まんばかりの新緑の大海に長谷寺も室生寺も埋もれてしまう。この若々しく瑞々しいうまれたばかりの緑の美しさを堪能することが出来る。

 長谷寺は真言宗豊山派総本山。西国観音霊場第八番。御本尊の十一面観音菩薩は身の丈十メートル余。近江の国高島から来た楠の霊木を用いた木造漆箔造り。見上げるお姿に誰しも心の安らぎと感動を与えてくれるお姿。あでやかな牡丹を瑞々しい新緑に包まれた長谷寺。平安貴族のあこがれの地であったことが不思議ではない。

 長谷寺からは初瀬街道を直行バスで走り。室生川沿いの渓谷の新緑の連続にため息をつきながら室生寺へ。深山幽谷のこの地に開かれた山林修行の寺は女人の参詣を許したことから「女人高野」と呼ばれたことは周知の通り。金堂内陣におわします諸仏のお姿はこのような奥深い山と渓谷に囲まれたこの地に極楽世界を出現させている。なかでも本尊の一木造りの釈迦如来立像、ほぼ等身大の一木造り十一面観音菩薩立像が有名。土門拳のモノクロ写真作品を思い起こす。

 室生寺の五重塔は屋外に建つ塔としては最小のもの。平成10年の台風で大きな損傷を被ったが、平成12年に修復落慶した。鬱蒼とした杜に凛として佇むその姿は、いつも大和路を行く旅人のあこがれの光景だ。

 限られた時間で堪能出来た。しかも、連休初日というのに、それほどの観光地ラッシュはなく、人でもまあまあ。この辺が首都圏の観光地と異なる所だ。やっぱり関西はヤメられない。



 

2011年4月24日日曜日

新緑の奈良散策

 桜が華々しく咲いて、華々しく散って行くと、なんだか宴の後、春が終わってしまったような静けさとなる。しかし、春はこれからが本番だ。

 遅咲きの八重桜、ハナミズキ、山吹、レンゲ畑...そしてみずみずしい新緑。奈良、大和路はこの頃の緑が一番美しい。さらに五月に入ると、室生寺の石楠花、長谷寺の牡丹、春日大社の砂ズリの藤...等々、豪華な花の響宴が続く。

 昨日までの雨も止んで、今日は久しぶりの快晴。心地よい風が大和の國中を吹き渡っている。今、青紅葉が美しく輝き始める季節の到来だ。奈良公園や春日大社の杜、高畑町辺りを散策すると、眼の覚めるような青紅葉が迎えてくれる。ふと,眼を転ずると、新緑とまだ咲いている山桜と濃い常緑樹の緑とが綾なす春日山原生林、若草山が奈良にみずみずしい春の訪れを告げている。

 いろいろとあって,今年は桜を堪能出来なかったが,その分,煩悩から解き放たれ歩く新緑の奈良公園、春日大社の杜、高畑町界隈。久しぶりに心が躍った。巡る季節、再生、新しい生命の息吹を感じる春だ。

 奈良市写真美術館に立ち寄り,入江泰吉氏の「万葉四季の花」2巻を手に入れた。



2011年4月16日土曜日

都内某所の春 ーFinepix X100の実力ー

 桜はパッと咲いてパッと散って行った。しかし、そのあとには春がそこかしこに。東京は思っているより四季の移ろいを感じる街だ。会社の行き帰り、家の回りにも,思わぬ所に春は潜んでいる。

 これらの写真は、富士フィルムの話題の新製品Finepix X100で撮影した。フィルムモードはVelvia。その鮮やかな色再現は,デジタルになっても健在だ。フィルムメーカーのトップの富士フィルムならではの発色マネジメントノウハウがこのマシーンに再現されている。フィルムカメラからはなれられなかった人間にはうれしい新製品。

 X100はとってもハンディーで街歩きのお供に最適だ。しかも高画質。クラシックなスタイル。いいねえ。それにライカなどのレンジファインダーカメラは最短撮影距離70cmが限界。ちょっと古いズミクロンやズミルクスでは1mだ。こんな遠視じゃあ,花はアップで撮れない。マクロで10cmはうれしい。しかも開放のボケ味もいい。ちょっとフレアーがかかってね。

 バッテリーが意外に早くなくなる。要注意!予備を必ず持参しましょう。


2011年4月12日火曜日

花の大阪城  太閤さんの夢のあと?

 今年も大阪城公園に桜の季節がやって来た。

 東日本大震災からちょうど一ヶ月。未だに多くの人々が行方不明。復興も緒に就いたばかり。福島は原発事故の収束見通しも立たず,今日はとうとうチェルノブイリ事故に並ぶレベル7になってしまった。まだまだ前途多難の日本だが春は確実にやってくる。

 会社から近い大阪城公園は、いくぶんお花見自粛ムードだが、それでも花見を楽しむ人々であふれた。桜は今年も精一杯咲いた。石垣とお堀と天守閣を彩る桜の樹々。典型的な日本の春のシチュエーションだ。東京なら皇居、千鳥ヶ淵と桜。お城と桜は欠かせ得ない舞台装置。

 満開をやや過ぎた今日は、お堀に花筏があちこちに漂っている。そういえば樹々の根元にも桜吹雪が... 風情たっぷりに散りゆく桜。これもまたよい。

 ところで今見えているこの大阪城、太閤さんの夢のあと。なにわ大阪のシンボル的存在だが、現存の縄張りは1615年大坂冬の陣、その翌年の夏の陣の後に徳川によって全く新たに構築された徳川の大坂城である事を知る人は意外に少ない。大阪のシンボルにケチを付けるつもりはないが、今の大阪城は豊臣秀吉の大阪城ではないのだ。

 冬の陣の後に外堀さらには内堀までは埋め立てられ、その後の夏の陣で天守閣は焼失し、本丸や西の丸などの城内の構造物は徹底的に破却され、埋め戻されている。その跡に石垣も全く新たに組み直し、壮麗な天守閣を建設した。要するに豊臣色を完膚なきまでに抹消して新たに建てられたのが今の大阪城だ。偉容を誇る巨大な城は、徳川の時代をなにわに誇示するかのように再建されたものだ。

 豊臣大坂城はいまや完全に地下に封じ込められて,日の目を見る事は無くなってしまった。豊臣時代の石垣はわずかに北西の角、ドーンセンターの辺りに見えるくらい。

 いまは大阪市民の憩いの場、観光名所となり、内外の観光客で賑わう。...というものの,震災以降、中国、韓国の観光客がぱったり来なくなった。観光バス用の駐車場は閑古鳥鳴く。太閤さんも徳川さんも,あくびしてはるワ。


アクセス:
http://goo.gl/maps/35yL

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2011年4月10日日曜日

Fujifilm Finepix X100 レンジファインダーデジカメのあるべき姿?

 開発段階から話題になっていた為、発売開始以降ずっと品不足であったX100。その品不足にさらに拍車をかけたのが、東北地方の大震災だ。生産停止に伴う供給不足が続いていたがようやく生産再開とか。グッドニュースだ。それでも予約販売でなかなか入手困難。そんななか、一足早くマップカメラで限定入荷品をゲット出来た。予約もせずにゲット出来たのは幸運。

 インプレッション,気付いた事を思いつくままに:

 「高品位カメラ」をうたっているが、サイズ、見かけは、往年のフィルムコンパクトカメラ。キャノネット、コニカ、ミノルタハイマチック、ペトリ35などを彷彿とさせる。あるいは一世を風靡したコンタックスG1、2にも通じるものもあるが、基本的には良く写る普及型コンパクトカメラといった印象だ。

 しかし,デジタル全盛の今の時代に登場してくるとなかなかユニークなポジションに位置する。デジイチ、コンデジとは全く異なるジャンルを作り出した感がある。画質はデジイチ、コンパクトさはコンデジのそれ。しかも絶滅危惧種のレンジファインダー付き。ある意味ライカの良いライバル、あるいはライカの進化の方向を示すプロトタイプとなっていると思う。

 マグネシウム合金製のボディーで、ロゴマークがきちっと刻印されている。軍艦部はシルバーの荒めのメッキ仕上げ。もう少し梨地のきめが細かければライカの高級感に近づいたかもしれない。しかし,持って歩いているとなにか意外に高品位な姿を垣間みる事も出来る。特に専用の切りかき付きのフードを装着すると一段と「出来る」カメラに見える。なにか不思議な雰囲気を持っている。正面からだけ見ていて感じるどうも安っぽい(失礼)雰囲気だ。正面の内蔵ストロボによるものだと思う。これは要らないな。

 X100はさすがフィルムメーカ大手の富士フィルムが手がけたデジカメだけあって、往年の「カメラ」の雰囲気を大事に再現している。確かにあの頃の「コンパクト35」カメラと並べてみると、同じ匂いがする。その手触りと金属感触も我々の年代にはなじみの感触だ。しかし、よく見ると,その外見とは別に、カメラはここまで進化したと感じさせる仕上がりとなっている事に気付く。

 撮像センサーは通常のコンデジのような小さなものではなくAPS-Cサイズのデジイチ用を装備しているから、画質は良い。フィルムモードを選択出来るのが富士フィルムらしい。プロビア、ベルビア、アスティア、モノクロを選択出来る。

 レンズはフジノン23mm F.2固定。35mm換算で約35mmの広角で使いよいサイズ。最短撮影距離は80cmとちょっと物足りないが、マクロモードで10cmまでよれるのでこれはいい。開放マクロでは少しフレアーがかかり、かつてのズミルクス35mmの開放撮影時のようなふんわりした感じの画になる。レンズフィルター径が49mmで、あの頃のコンパクトレンズシャッターカメラのコパルやセイコーのシャッターユニット使用のレンズ共通の49mmののフィルターがそのまま使える

 最大の特徴であるハイブリッドファインダーであるが、光学ファインダー(OVF)では当然ながらパララックスが生じるが、これを補正する機構はついていない。近接撮影などでは電子ファインダー(EVF)に切り替わるようになっており、ハイブリッドファインダーのメリットを最大限生かしている。OVF, EVF,液晶モニター撮影の切り替えはマニュアルでは勿論の事、ファインダー脇のセンサーで顔を近づけると自動切り替え出来るほか、正面のレバーで切り替える事も出来る。レンズシャッター機であるが、スイッチオンでシャッターが開きTTLでのEVF、液晶モニターでの画像確認が出来る仕掛けとなっている。

 ハイブリッドファインダーはレンジファインダー機の向うべき方向を示しているような気がする。よく見えるファインダーは写真の写し手の感性を刺激する重要な仕掛け。最近のコンデジがファインダーを廃止しているのは寂しい。かといってフォーサースのようにEVFだけだとなにかすっきりしない。OVF, EVFそして液晶画面の3種類を切り替えて自在に使える,という事が新しいデジタルカメラのジャンルを作り出している。特にライカのようなレンジファインダー機のデジタル化の方向を示していると思う。同様にバックの液晶の画質も重要。ライカのそれはあまりにもお粗末。今の普及型のデジカメの水準と比較しても取って付けたようなオマケ液晶だ。感性を刺激しない。

 シャッターダイアルは軍艦部にあり、フォーカルプレーンシャッター機のレイアウト。クリック感もあり好ましい。また、同じ平面に位置している露出補正ダイアルは良い。ただ知らないうちに動いている事がある。

 気になるのは、電池がガタガタすること。また挿入方向が間違っててもカチッと収まるのは如何なものか。時々スイッチオンで起動しないのはこのせい?だとするとこれはチとお粗末過ぎる。

 とにかく、富士フィルムらしい,古くて新しいコンセプトのカメラが出た事は歓迎だ。もともとフィルムメーカーらしくカラーマネジメントのノウハウをしっかり蓄積して来ただけに、その発露であるFinepixシリーズの発色、画造りは好きだ。家電化するデジタルカメラに飽き飽きしていた私には写真の楽しみがまた広がった。




(往年のフィルムコンパクトカメラと比べてみて下さい。すっかり溶け込んでるね。それにしてもあの頃のコンパクトカメラの完成度の高さを改めて認識。)




(折しもサクラが満開。ベルビアを選択して鮮やかな一枚を楽しむことが出来る。花曇りでハッキリしないコントラストでもこの鮮明度がたまらない。フィルム時代から好きな発色だ。こうしたシチュエーションでも10cmまで寄れるのがうれしい。)

2011年4月5日火曜日

今年も當麻寺の桜が咲いた ーがんばれニッポン。春は必ずやってくるー

 3月11日以来、日本は未曾有の震災に見舞われて元気がないけど、いろんな再生への可能性も見えている。日本人の強さも見せつけている。

 大和路の當麻の里の桜が咲いた。當麻寺の護念院の枝垂桜が今年も見事に咲き誇っている。

 「サクラサク」いい言葉だ。元気が出る。

 日本人の心情をシンボライズする花が、今年も一斉に咲き始めた。

 春の来ない冬はない。

 がんばろうニッポン!がんばろう自分!




アクセス:
http://goo.gl/maps/3MCR

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2011年3月22日火曜日

東北・関東大震災に思う ー東京と大阪を行き来して見えてくるものー

 この世の地獄を見てしまった。未曾有の大震災は想定を上回る規模でやって来た。

 3月11日のM9.0の大地震、大津波から11日が経ったがまだ有効な手が打ててないと言っても良いくらいの混乱ぶりだ。被災地で亡くなった方々のご冥福を祈るとともに、難を逃れた方々へのお見舞いを申し上げたい。そして一刻も早い生存者の発見、救助を祈る。

 いまだに12000人以上もの人が行方不明だ。亡くなった方、行方不明の方は2万人を超すだろうと言われている。その中でも被災から9日目にして、16才の孫が80才のおばあちゃんを護りながら、救助を求めて助けられた。この少年の必死の姿に胸が詰まる。まだまだ生きている人たちが大勢いるはずだ。がれきの中をもう一度よく探してくれ。まだあの中に助けが来るのを待っている人が必ずいる。

 また被災地への救援物資がなかなか避難場所に届かない。燃料がないのでトラックが動かない。気温が氷点下なのに暖房もない。食物も来ない。飲み水もない。毛布も着るものもなかなか届かない。薬がない。医者も足りない。もちろん電気は来ない。携帯は繋がらない。道路は復旧してないので、人々は廃線同様のの高台の鉄道線路を歩いて移動している。そうしているうちに避難場所で亡くなる方々が出始めている。避難出来たからと言ってた助かったとは言えないなんて惨過ぎる。震災後10日以上立っても復興を語るどころか、救援の手が届いていない状況が続いている。救援物資は日本各地から続々と送り出されているのに、現地へ届かない。何処で止まっているのか?

 追い討ちをかける福島原子力発電所の瓦解、放射能漏れ。現場では最悪の事態を避けようと必死の努力にも関わらず危機的状況はいっこうに脱する気配を見せない。海外メディアをこの放射能漏れの行く末を注視しているが、予断を許さない有様に、自国民の退避、自国の原子力発電所計画の見直しを始めており、さらに日本の経済の先行き不安による株価低落が、現実のものとして起きている。図らずも日本のグローバル市場における影響の大きさを見せつける結果となっている。

 しかし,福島の原発周辺の住民の方々は厳しい避難生活を強いられ、放射能汚染を恐れて救援物資輸送も近づかない、という。やがて首都圏への放射能汚染拡散の恐れが、じわじわと現実味を帯びて迫って来ている。今の所直ちに健康への影響が表れる事はないのだが、首都圏の停電の続発と物流の混乱が、その不安心理をますますあおっている。こういう事は理屈ではない。もちろん為政者は市民の不安を収める努力をすべきだが、情報公開により次々に公表される新事実は市民の心理を揺さぶる。だからといって情報統制では、大本営発表の時代に戻ってしまう。これからは市民の側も情報公開時代の情報の受け止め方を心得ておく必要がある。

 しかし,市民は今のところ浮き足立っていない。海外メディアから、日本人がこのような困難に際しても冷静で秩序と助け合いを重んじる態度が賞賛を浴びているが、そんな言葉に甘えていてはダメだ。政府の対応の遅れがそのような日本人の評判を一変するかもしれないのだ。日本人だって、座して死を待つ程お人好しではない。杞憂である事を祈るが。お上がなんとかしてくれる、という漠然とした期待感があるだけなのだ。誰も何ともしてくれない社会では自分でなんとかせざるを得ない、略奪、暴動という手段をとっても。政府が崩壊しても、なお秩序正しく事態を乗り越えるのは、そんなに容易ではない。

 たしかに誰も経験した事がない、想定外の大災害ではあるが、この混乱を収束させて,国民をまとめて行くリーダーシップこそいま必要だ。日本人は先ほどの話のように、現場ではいろんな知恵と力を出して助けいあ、励ましあって危機を乗り越えて行く力を発揮するのだが、それに甘えてリーダー達がパニックになって大声張り上げたり、手をこまねいているようでは救い様がない。リーダーの資質と能力、責任の取り方について考えさせられる。それこそ命をかけてもらわねばならない。危機管理に置いてプライオリティー付けが出来ているのか? この国は大丈夫か?と。

 一方、首都東京の有様は,もう一つの懸念要素だ。停電、交通機関の麻痺、食料不足。チェーンメールなどのデマ情報流布。市民は比較的落ち行いているとはいえ,相対的に見れば首都圏の日常生活、経済活動は大きくダメージを受けていると言わざるを得ない。少なくとも心理的には、このままでは何かが崩れてしまう、という漠然とした不安に苛まれ始めている。残念ながら地方と違って「オレはここで死ぬんだ」という人はどれくらいいるのか。故郷は常に東京以外にある住民達だ。仕事があるから居る、住む理由が無くなれば人はいなくなるだけだ。ゲゼルシャフトなのだ。

 日本の全人口の10%が集中する東京都。その周辺を入れると3000万人を抱える首都圏。そこで、福島原発の停止が電力供給に危機的な状況を生み出している。総電力需要を賄えない状況が続いている。計画停電による混乱。電車まで止まってしまう停電。「帰宅難民」で身動きが取れない都心。首都圏はその経済活動と生活を麻痺させている状況だ。たちまち起こるスーパーやコンビニでの物不足。なんで被災地でもないのに食料が来ないのか。被災地の人々がないものを分け合って、我慢しあって、励ましあい、助け合う姿とあまりにも異なる。買い占め、出荷停止、風評被害、振り込め詐欺の復活。本当に日本人は称賛に値すると言えるのか。

 電力供給の問題が致命的だ。いくら駅の電気を消しても、職場で節電しても、家庭で電気を消しても、当分電力問題は解決しない。とくのこれから夏場に向けて,決定的な電力不足が予想されていて、東京千代田区、中央区、港区の3区を除いて全ての地区で計画停電をせざるを得ない状況だと言う。そうなれば東京全体が麻痺する恐れがある。3区にはほとんど人はが住んでいない。3区以外から通勤して行政や経済活動に従事出来る人の確保が困難になるからだ。

 これまで寸分違わず動いていた交通システム、情報通信システム、物流システムが少し狂うだけで、首都の全体システムが機能不全に陥るだろうという予感は、頻繁に起こる山手線、京浜東北線の運転見合わせによる大量の人々の混乱でも充分に分かっているはずだ。3月11日の「帰宅難民の日」はその総仕上げみたいなものだった。少なくとも十全な経済活動が大幅に制約を受ける事は間違いない。東京を脱出する企業、人々が続出しそうだ。早くも外資系企業はその事業機能の一部を関西や香港,上海に移しつつある。もちろん原発事故の危機からの脱出も大きな要因になっているが。

 こういう中で今、東京と大阪を頻繁に行き来していて感じるのは、大阪など関西圏はいたって平穏だ,という事。停電の心配もない。交通機関の乱れもない。食料の買いだめもない。極めて日常生活が日常的に進んでいる。また心無しか,震災以降新幹線も飛行機も東京便が空いている。羽田空港が閑散としている。品川駅が薄暗くて沈んでいるのに比べ、新大阪駅はやたらに混んでいる。九州新幹線開業で、さくらやみずほが新大阪に乗り入れるようになったこともあるからだろう。新幹線開業に沸く余裕があるわけだ。同時期に全線開業した東北新幹線はずたずたでようやく部分復旧しているのと対照的だ。

 東日本と西日本はまるで国境を越えて別の国に来たような感じすらする。阪神大震災を乗り越えた関西の人々にとっても、この東北関東大震災は人ごとではない大災害だが、心情的な物事の理解とは別に日本全体の機能保全を考えると、この西日本の平穏さには少し安堵する。ここでは経済活動、行政、社会生活が維持出来ているのだから。これだけの大災害でも日本の半分はまだ生きている、というのが正直な感想だ。東日本の復興の兵站を荷なえるに違いない。

 リスク分散,という言葉が頭をよぎる。あまりに東京を中心とした首都圏に人、モノ、金、交通,情報インフラが集中しすぎているのが日本の実態だ。南東北が電力、食料、部品製造などの首都圏の生命線を支えている事も分かった。以前から言われているように、このままでは東京が壊滅したら日本は生き残らないだろう。わかっちゃいるけどヤメられない,過度の集中。「デブスモーカー理論」だ。やはり、これを機に、これまでも語られ尽くして,実行出来ないでいる首都機能の分散、経済活動拠点の分散、流通、情報インフラの東京一極集中の見直しが必要だろう。

 小松左京の「日本沈没」の最後のシーンは、たしか、シベリアの荒野を行く長い長いシベリア鉄道貨物列車で、目的地の当てもなく運ばれて行く大量の日本人難民の姿だった。そんな事が現実のものにならないよう打ち手はいくつもあるはずだ。

2011年3月11日金曜日

余震続く東京で

 大阪から東京へ飛んだ。午後一時過ぎに羽田に着陸。目的地へは午後二時半頃についた。
部屋に入ったとたんに,大きな地震。しかも揺れが長い。今まで経験した事もない揺れ。初めて経験するこんな大規模な地震。東北地方太平洋沿岸でM8.8という日本での観測史上最大の地震発生だった。

 NHKは以降終日地震報道。仙台上空からの空撮ですごい映像をライブで流している。大津波警報が出された三陸海岸、仙台。みるみる凄まじい波が港を洗い、船という船を陸地へと押し上げたかと思うと、瞬く間に陸上の車が色とりどりの浮き輪のように流され始める。そのうち、家屋やありとあらゆる地上の構造物が波というか、まるで生きているアメーバのように、黒い波がうねりと言うか一体となって住宅街,きれいに耕された耕作地、ビニールハウス、道路、橋、学校をなめ尽くす。静かだ。何事も無いかのように静かに地表を舐めてゆく。その合間を,車が逃げ惑う有様が、ふと恐怖感を与えるて我に返る。諦めて道路上に放置されている車は瞬く間にそのアメーバに飲み込まれて行く。あの流されてゆく車に人は乗っているのだろうか。あの家に人はいるのだろうか。おそろしい.....

 これを書いている間にも、東京では余震が続く。東京での揺れは長周波地震動だという。長い。立っていられない。窓の外を見ると電柱が大きく揺れて,電線や電話線がむち打つように波打っている。向かいのビルの人々が机にしがみついているのが見える。外へ飛び出した人々はカタマッて立ち尽くしている。ふとお台場方面の空を見ると黒い煙が見える。テレビを見るとどうも火事が起きたようだ。不安に拍車をかける。先ほど大阪から着陸寸前に見た千葉の京葉工業地帯のガスタンクが爆発し炎上中だ。都内でも数十件の建物が倒壊しているという。

 今日は金曜日。夕方のラッシュが始まった。「帰宅難民」という言葉が脳裏をよぎる。JR各線は運転休止、私鉄,地下鉄も運転再開見込みなし。新幹線は東京/新大阪間が運転取りやめ。羽田空港,成田空港は閉鎖。バスも運休。案の定タクシー乗り場は長蛇の列。東京,新宿、渋谷、品川の各駅には行き場を失った人々がただただ群衆となって立ち尽くしている。それにしても私は不幸中の幸い。地震の一時間前に無事羽田に着陸した。タクシーにも乗れて目的地にすんなり着いた。もっとも,ここでスタック。自宅へ帰れなくなってるが。

 NHKは官房長官の談話を流し、帰れない人は無理に帰るな。道は歩道も含めて大渋滞。途中,情報もない、水もない,休む所もないので、二次被害に遭う恐れあり、と。以前から想定されていた通りの事態となった。想定していたが,何も手は打てないことも明らかになった。学校や体育館が一夜を明かす場所を提供する動きが出て来た。

 よる9時になった。テレビは、依然として帰れない人々が大勢、新宿駅や新橋駅前広場で所在なげに佇んでいる有様を流している。JR東日本は本日中の運転再開はない、と発表。駅のシャッターを閉めてしまった。追い出された大勢の人が外にたむろしている。日比谷通りは動かない車の光の列とその間を歩き回る人の群れを映し出している。

 それにしてもこういう時こそ,今はやりの文明の利器、携帯電話の出番、のはずが、全く繋がらない。メールもimodeも全くだめ。家族の安否確認が出来ない。たしかに、あの黒山の集団がみんな携帯電話持っていて,一斉にかけると繋がる訳はない。役に立たない。繋がるのは,公衆電話。そう、忘れ去られつつある、あの公衆電話。何処にあったっけ?カードなんか持ってないけど。これが繋がる。Mac Book Airからインターネットも結構繋がる。ポケットルータ経由だとネットに繋がる。こりゃあいい。TwitterやFacebookで情報が飛び交ってる。外にいてテレビ見れない人や,携帯繋がらない人はこれだ。NTT東日本、西日本のありがた味が分かる。伝言ダイアルサービスや,公衆電話無料も始めた。こういう時のNTTは信頼感がある。

 東北の被害状況が気になる。あんな津波にソウナメにされた集落は何人の人たちが無事避難出来たのだろう。津波の中で木の葉のようのもみくちゃにされながら流されていたライトのついた軽自動車には人が乗っていたのだろうか?怒濤のような津波の先端を車で全速で走ってた人は逃げ切れたのだろうか?流されていた家から火が出ていたけど住んでいるヒトは逃げたのか?まだ被害の全貌は明らかになっていない。しかし,徐々に痛ましい情報が入り始めている。

 幸い私の家族はいろんな奇跡と幸運が重なり無事だったが... 私はゆっくりと出先の会議室の一室を借りて、このブログを打ちながら夜明かしだ。明日はどうなる事か。