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2013年2月26日火曜日

最近の「時空トラベラー」御用達写真機事情 ーデジタルカメラの分かれ道ー

 スマホカメラとFacebookなどのSNSの普及に伴う、写真の「どこでも化(place shift)」、「いつでも化(time shift)」、「誰でも化(user generated contents)」には眼を見張るものがある。誰でも其の気になればアンリ・カルチェ・ブレッソンのように「決定的瞬間」が撮れる。ロバート・キャパのような「戦場写真」も市民のスマホからインターネットで配信される時代だ。豆粒のようなパンフォーカスレンズ(型押しプラスチック製)に極小センサー(これに500万画素を押し込んでいる)の組み合わせでも、普通の写真なら結構良く写る。カメラならわざわざ今日は「撮影するぞ」と意気込んで、鞄に詰め込んで外出しなければならない。スマホはいつもポケットに入ってる。しかもネットに常時繋がっている。キャンデットフォト革命だ。

 しかしこれは、「こだわり金属カメラ愛好家」、いや「守旧派」にとっては、憂慮すべき,嘆かわしい事態である。こんなカメラで事足れりとして欲しくない。いやこんなモノをカメラと呼ばないで欲しい。スマホやPCなどの液晶の小さな画面で一回観れば終わり、として欲しくもない。まして、スマホカメラ普及でデジタルカメラの売れ行きが低迷し,日本のお家芸であるカメラ産業が衰退して欲しくもない。

 そうしたカメラの商品としてのコモディティー化の動きの一方で、昨今、デジタルカメラも大きく進化し始めている。「写ればよい」、から徐々に枝分かれし、カメラ本来の持つ写真撮影の喜びを味わう、あるいはアート作品造りに貢献する製品が次々とリリースされ始めつつある事は喜ばしい事だ。写真のデジタル化に伴う二極化の動きが見え始めたようだ。日本のカメラメーカーの「カメラ」「写真」に対するこだわり、それを事業化する「企業家精神」はまだ健在だ。

 私はプロのフォトグラファーではないし、別にウデの良い自称「写真家」でもないが、カメラにはこだわりを持っているつもりだ。もともと銀塩写真機時代からのコレクターだし、「時空トラベラー」としての歴史を巡る旅にカメラは欠かせない。カメラの使用頻度も高い方だと思う。その「時空トラベラー」風景スナップの相棒は次の通りだ(言うまでもないが,全てのコメントはごく個人的な好みによる感想に過ぎない事をあらかじめお断りしておく)。


(1)Nikon D800E
 まず、「じっくり腰を据えて撮影」には、Nikon D800E+AF Nikkorレンズ群。フルサイズCMOSセンサーに、圧倒的な画素数とローパスレス化されたフィルター、高速画像処理エンジンによる、高精細、高解像、かつ豊かな諧調再現は風景写真に欠かせない相棒となっている。これさえあれば「なんもいらねえ〜」くらいだ。使用レポートは以前掲載したので割愛する。

(2)Fujifilm Xシリーズ(X-Pro1, X-E1, X100s, X20)
 お次ぎは、「ブラパチ散歩撮影」カメラ。デジタル一眼レフカメラ(デジイチ)ではチと大仰だというシチュエーション用だ。ここの選択肢が増えた事が,嬉しくもあり悩みの種でもある。どれにしようかな? 最近はもっぱら、FijifilmのXシリーズが主力である。このシリーズのカメラはどれも素晴らしい。レンズ交換式のX-Pro1, X-E1。これらは「じっくり腰を据えて撮影」機材にも充分なりうる。画素数こそNikonD800Eに比べれば少ないが、APS-Cサイズにローパスレスセンサーと最新の高速画像処理エンジン。秀逸なフジノンレンズ群。そして高品位な金属外装にユニークなハイブリッドファインダー(光学and/or電子ファインダー)もギミックではなく,ちゃんと実用的に使える。

 また、純正のライカMレンズ用マウントアダプターも用意されていて、Leica M9やM8ボディーに少しフラストレーション覚えている人にはうってつけだ。レンズの収差や歪曲を補正してくれる機能を利用する事も出来る。ライカレンズでライブビュー撮影出来る快感を味わえる。

 さらに35mm単焦点レンズ+APS-CサイズのCMOSセンサー搭載のX100と其の後継機種であるX100s。2/3センサー搭載のコンパクトズームX10と其の後継機種X20。どれも造りが良く愛用のカメラだ。今後の新ラインアップのリリースも楽しみなシリーズだ。Xシリーズについても過去にレポートしたので、これ以上の説明を割愛する。

(3)SONY Sybershot RXシリーズ(RX100,RX1)
 最近注目しているのはSONYのRXシリーズ、RX100とRX1だ。SONYは旧コニカミノルタのカメラ部門を買収し、本格的にスチルカメラに参入した。自前のセンサー開発技術による自社供給チップセットとあいまって、ユニークな製品が次々出てきた。αNEXシリーズなどは、APS-Cセンサー搭載のEマウントレンズ交換カメラ(いわゆるミラーレスカメラ)である。NEX-7は其のユニークなデザインと操作性で注目を浴びたが、正直、個人的にはあまり引かれない。レスポンスがよくない気がする。AF合焦速度、読み込み速度、いずれも不満足(ライカM9ほどではないが)。スナップ撮影時にフラストレーションが残る。また、ボディー形状がレンズに対して異様に薄くて小さい。これがデザイン上のユニークさなのだが、バランス、ホールドがいかがなものか。総じてソニーは軽小短薄にこだわっているようだが、カメラは小さければいいと言うものではない。ホールド性を高めるグリップ類も用意されていない(おそらくデザイン上のこだわりなのか)。不用意に触ってしまうボタン類には困りもの。特に動画撮影ボタンを知らないうちに押していて、気付くと延々と自分の足下と地べたが写っている、など観たくもないものだ(動画をオフにする事も出来ない。そもそも私にとってスチルカメラに動画は要らないから余計に)。

 1)SONY RX100
 Sybershot系列のRX100はカールツアイスの4倍電動ズームレンズのコンパクトデジタルカメラ(コンデジ)。これは結構いい。こんな小さなボディーにコンデジとしては大きな1インチCMOSセンサーを搭載し、高画質な写真が撮れる。ボケ味もコンデジにしてはよい。しっかりした金属外装ボディーにも好感だ。風景ブラパチ写真家にとって、意外にもメインの機材になりうる。始めは、NEX-7の印象がイマイチだったのであまり期待していなかったが、使ってみて気に入った。

 難点は、スイッチオン、オフのレスポンスの悪さ。常時スイッチオンにしておかねば,いざという時に「決定的瞬間」を逃してしまう。スイッチオフしてからも、なかなかレンズが収納されない。イラッとすること度々... また売り物の鏡胴の外周リングのフィーリングにもクリック感やメリハリが無い。ヌメ〜としている。軍艦部がフラッッシュサーフィスなのはデザイン的にはいいのだろうが、シャッターボタンと電源ボタンを指で探す間にチャンスを逃したり、間違って電源ボタンを押してレンズが引っ込んでしまったり... ボディーはやはり小さすぎてハンドリングが悪いが、これはコンデジだから許そう。特にGARIZのケースを付けるとホールドが少し向上する。

 2)SONY RX1
 次に、話題のRX1。カールツアイスの35mm f.2ゾナーT*という豪華な単焦点レンズカメラだ。しかも2430万画素のフルサイズCMOSセンサー搭載のモンスターコンデジ。コンデジとは思えない高画質を楽しめる。これだけでも話題性充分だが、さらに24万円というプライスタグ! ハイエンドフルスペックデジイチ並みだ。これでも入荷が追いつかないほどの注文殺到だそうだ。世の中ホントに景気が悪いのか... 

 対抗馬は、先述のFijifilmのX100, X100sだが、こちらはAPS-CサイズCMOSセンサー。こちらも金属外装のクラシックなスタイルの高品位ボディーに明るいフジノンレンズで健闘していている。近接撮影にも対応。また28mmレンズアダプターがオプションにあり、35mmと全く同等の画質を維持出来る点は魅力的。RX1,X100sの両者は撮影結果に圧倒的な差がある訳ではないが、RX1はコンデジボディーに35mmフルサイズセンサー、というSONYの意地と根性を買う人用だろう。ちなみにFujifilm X100sの方は市場価格12万円程度とSONY RX1の半分。どう見る?

 RX1は、こじんまりとはしているが、剛性感のある金属外装に、太めのレンズ鏡胴というスタイル。レンズ一体型カメラであるために、レンズ設計、鏡胴設計に自由度が高く、フルサイズセンサーとの組み合わせによる高画質を極限化するとこういうバランスになったのだと設計者は言う。ややレンズサイズに対するボディーの小ささが気になる。手振れ補正機能も無いし、ファインダーも無いのでやはりホールド性に不安が。アクセサリーにMatch-Technical社のLeicMデジタル向けのフィンガーグリップにそっくりなパーツが用意されているが、ハンドグリップは用意されていない。これもデザイン重視だからか?

 ちなみに、このフィンガーグリップ、M-T社の特許、意匠侵害にはなってないだろうね,痩せても枯れても「世界のSONY」なんだから。もっとも、いくつかのボタンとレバーがこのグリップで隠れてしまわないように左右にフォールド出来るようになっているところや、アクセサリーシューから不用意に外れないようにロックがかかるようになっている点はさすがだ。オリジナルには無い改良の得意な日本製造業の面目躍如たるシロモノ(?!)。

 レスポンスはNEXシリーズに比べると良くなっている。また、不用意に動画ボタンを押してしまうミスをなくすために、動画オフ撮影機能がついた事は嬉しい。もっともNEXシリーズも6が出てより高速処理、レスポンスの向上が図られたようだ。やはりユーザからの不満が多かったのだろう。

 この圧倒的な単焦点レンズのボケ味や、高解像度を活かした写りには参るが、ただやはり私的「ブラパチ風景写真家」にとっては、ズームレンズは欠かせない。もちろんデジイチ+高倍率ズームを持ち出せばいいのだが、軽快にスナップを楽しむにはコンデジがいい。FujifilmとSONYの高級コンデジは超解像ズーム機能がついている。画質を損なわないで、光学ズームの倍率を補う、というデジタルズームで望遠撮影が手軽に楽しめるようになった事は嬉しい。RX1も単焦点カメラにも関わらず、20cmまでの近接撮影と、2倍までの(すなわち70mm)超解像ズームがついている。これはこれでいいが、画素数(LからSまでサイズダウン)を落としての望遠撮影にこれだけの高級単焦点カメラを使うのはやはり邪道だろう、と納得していない自分がいる。

 最後にバッテリーだが、RX100と共通の薄型。大丈夫か?やはり「満タン」表示は長続きしないようだ。予備バッテリーを持ち歩く事がおすすめとなる。ちなみに、充電はUSB経由でも出来る。


 以上が,最近気に入っている「相棒」カメラであるが、今後それぞれのカメラメーカーはどういう方向に進んで行くのだろう。NikonやCanonはハイエンド一眼レフ中心で行くのだろう。Leicaは次のMで、かなりデジタルカメラ度が上がるだろうが、まだ往年の光学レンジファインダーカメラの頂点の夢からは覚めきれないだろう。一方、SONYはそもそもどこへ行くのだろう。新しいコンセプトのカメラは挑戦的だが、カメラが本業のメーカーとは思えない。本業(家電?)が方向感を見失っているようだし、カメラをどのような立ち位置の商材とするのか、商品ラインアップ上の位置づけがよくわからない。やはり,今のところFujifilmがもっとも写真の老舗らしく、フィルム開発で培った画造りのノウハウと、光学技術に最新のデジタル技術を組み合わせてカメラの王道を極めるのだろう。カメラメーカーとしては後塵を拝してきたフィルムメーカの富士フィルムが、デジタル時代のハイエンド写真機造りをリードする。オモシロイ。このXシリーズは今後も多いに楽しみだ。

 ところで、私の理想の「ブラパチカメラ」スペックは次のようなものだ。
 1)金属外装の高品位コンパクトボディー(適度の重さとホールド感を維持した)。ポケットとは言わないが、常に鞄の中に入れて持ち歩ける事が大事だ。掌で転がして心地よいカメラ!
 2)画質には妥協はしたくない。ローパスレス・フルサイズセンサー(画素数は1600万画素以上であればよい)。
 3)24ー120mmくらいのf2.8の明るくて高品位なズーム(マクロ機能付き)レンズ。やはりズームは便利だ。開放ボケ味も欲しい。
 4)プログラムオートがあってもよいが、基本は絞り優先オートがあればよい。シャッタースピードセレクト、露出補正ともにクリック感のあるダイアル式で操作できること。
 5)測光方式は中央部重点(スポットがあればなお良い)。
 6)ファインダーは内蔵(外付けは邪魔だ)。ハイブリッド(電子/光学)がいい。
 7)電源立ち上げ、AF合焦、書き込み読み込みのレスポンススピードが速いこと。
 8)動画機能や使いもしないギミックの無い潔いカメラ。
 そしてもちろんコストパフォーマンスの良さが求められる事はいうまでもない。結構贅沢な要求だろう? 

 カメラ屋さんには使い手の感性をくすぐる「高品質、高付加価値商材」のプロデュース能力が求められる。使い手は,demandingな要求をドンドン作り手に突きつけて行く事が求められる。そして、作り手と使い手のそうしたインターアクションの結果、完成した良いものはドンドン買って、カメラ屋さんを元気にする事だ(もっとも、フトコロ的には最もハードルが高い要求だが... )!


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(Fujifilm X-Pro1。このハイブリッドファインダーを開発した技術者は天才か! あの越えられなかったLeicaMをはるかに越えている。レンズラインアップも益々充実して楽しみなシリーズ。改良バージョンが5月頃リリースされるとの報道も。)

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(Fujifilm X-E1シリーズ。X-Pro1の普及機版といわれるが、光学ファインダーを除けば、X-Pro1をファームウエアーでブラッシュアップした高機能版だ。サイズも一回り小さくなり取り回しがよい。ブラックとシルバーボディーが用意されている。純正マウントアダプターでLeicaMレンズが使える。)

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(Fujifilm X100s。X100の改良版。スプリットイメージファインダーにより、マニュアル撮影がよりやり易くなるなど、さらに「ファインダーによる撮影」にこだわった。新しい画像処理エンジンで高速かつ高画質処理。外見は変わらないが、中身が大幅に進化している)

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(FujifilmX20。X10の改良バージョン。シルバーボディーが加わった以外、外見は変わらないが、新しい画像処理エンジンでレスポンスの高速化、高解像度化が図られた。X10ではオマケっぽかった光学ファインダーにデジタル表示が加わり,より実用的なファインダーに変身した。他のコンデジに比べると少し大きな2/3サイズセンサー搭載とはいえ、依然小さなセンサーサイズだが、ユニークな画素配列とローパスレス化により、画質はフォーサース規格センサーと同等とうたう。)

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(SONY RX100。外見は他社のコンデジとあまり変わらないサイズと風貌だが、1インチCMOSセンサーを搭載した高画質コンパクト。外装にアルミ筐体を纏い高品位な手触り。レンズはカールツアイスのバリオゾナー。)

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(SONY RX1。カールツアイスの35mm F.2ゾナーT*単焦点レンズにフルサイズCMOSセンサー、というコンデジとは思えない高級仕様。お値段も高級!その分写りは最高!)

(写真はいずれもメーカーウエッブサイトから引用)

2013年2月17日日曜日

土佐の赤岡町 ー「あの頃の町」へ迷い込むー

 私の祖父は土佐人であった。その祖父は臨終の床の苦しい息でポツリと「ああ、赤岡のジャコが食べたい」とつぶやいた。あの頑固で無骨な祖父が「赤岡のジャコ」かあ。人間は死ぬ時には,薄れて行く意識の中で、生涯にあったいろいろな事を回想するのだろう。まるで走馬灯のように。祖父は自分が生まれ育った高知の「赤岡」を思い出したのだ。そういうものなのだ、人間って... まだ18才の少年だった私の心にその末期の言葉がこだまのように響いた。

祖父はいわゆる土佐の「いごっそう」、即ち頑固一徹な明治の男であった。次男坊で、高知商業卒業後、当時の日本一の経済都市、大大阪へ出て住友銀行に職を得た。大阪で一家を成し、私の父が生まれ、上町台地の一角、北山町に家を構えた。やがて脱サラ、起業して、道修町に製薬会社を創業。会社は順調に成長し,祖父は西宮の夙川に邸宅を構えるまでになった。当時の関西の立身出世物語だ。そして戦争。社員の多くを失い,創業パートナーを病気で失い、会社は廃業を余儀なくされた。高知から青雲の志を持って大大阪に出て掴んだ栄光と挫折。波乱の人生だった。

その祖父の「赤岡」である。「ジャコ」である。私は土佐人の血筋は引いているが、高知に住んだ事は無い。この歳になるまで、その謎の地名「赤岡」にも「ジャコ」にも関わりなく、祖父のようなビジネスマン人生を送って来た。今回仕事で高知へ出かけることになった。ふと、あの祖父の臨終の一言「赤岡のジャコ」が心に蘇った。「ところで赤岡ってどこだ?」「なぜジャコなのか?」。今まで疑問を疑問としてけ受け止めていなかったのに、急に「その疑問は解いておかねばならぬ」と思い始めた。人間やはりある歳にならないと心に響かないものがあるものだ。私もそういう歳になったという事か。

赤岡は、高知市の東、高知県香美郡赤岡町のことだった。いまは平成の町村合併で香南市となっているが、それまでは日本一小さな「町」として有名であったらしい。今はひっそりとした町だが、もともと高知城下に伍して栄えた在郷町、商業都市。上方や九州への回船業や製塩業、綿織物業(赤岡縞)が盛んな土地であったそうだ。そして赤岡の名物は「絵金」と「どろめ」だ。また謎の言葉が出て来たな。「絵金」とは、江戸時代末期から明治にかけて活躍した絵師金蔵のこと。芝居絵で名高い赤岡の有名人だ。こういう絵師を抱える事の出来る経済力を持った豪商が多くいた町だったということなのだ。そして「どろめ」とは、まさに「ジャコ」のことである。赤岡港に上がる「ちりめんじゃこ」が昔から名物だったのだ。しかし「絵金」の話は祖父から聞いた事無かったなあ。今みたいに有名になるとは思ってなかったのかもしれない。

ともあれ、これで「赤岡のジャコ」の謎がひとまず解けた。よし,行ってみよう祖父の故郷、赤岡へ。

高知からは、JR土讃線で御免(ごめん)まで、さらにそこから第三セクターの土佐くろしお鉄道ごめん・なはり線に乗り換え「あかおか」下車。高知駅からは約30分。この「ごめん・なはり」線(なんとも頭を低くした奥ゆかしいの名前が微笑ましいが)は高架鉄道で、太平洋沿岸を安芸、奈半利まで走る景観抜群路線だ。高知の生んだ漫画界の巨匠、やなせたかしのラッピング一両編成車両がユニークだ。海岸側にはオープンデッキが設けられた車両もある。

赤岡に着く。下車した人は私を含めて3人だけ。無人の高架駅だ。絵金さんの作品を収めた「絵金蔵」がほとんど唯一無二の観光スポットだから、まずはそこを目指してみよう。そこまで行けば町の案内があるだろう。少し歩くと、あったあった絵金蔵はコッチという看板が。しかしよく見るとその上に「現在臨時休館中」のはり紙。「なんじゃそりゃ?」ここまで来て絵金蔵が閉まってるんじゃあ他に行くとこないじゃないか... じゃあ、最近「弁天座」という歌舞伎小屋が再建されたと言う話を聞いていたのでそこへ行こう。なんだ、絵金蔵の隣だ。絵金蔵は2月イッパイ全面改装中とか。なかなか立派な美術館だ。隣の弁天座も、愛媛県内子町の内子座ほど大きくはないし、オリジナル建造物の再建でもないが、赤岡の意地を見せるような立派な芝居小屋だ。そこに絵金の芝居絵が2枚かかっている。

さて、町を歩く。小さな町だが、ここにはかなりの古民家、古い商家が並んでいる。土佐独自の水切り瓦の豪壮な屋敷や蔵が眼につく。かつて栄えた商業都市の残照を見る思いがする。また港の近くには本瓦葺きの純和風建築がずらりと並んでいる。漁業で結構豊かな家が多いのだろう。しかし、残念ながら多くの古い建物は老朽化がひどく,ほとんど廃屋になっていたり、改造されたり、あるいは完全に建替えられていたり。町の歴史的な景観が保全されているとは言いがたい状況だ。残念だ。重要伝統的建造物群保存地域に指定もされていないので、保存修景のお金も出ないのだろう。

横町という古い商店街に「おっこう屋」という雑貨屋さん(骨董屋と自称していないが)がある。建物は,江戸時代の脇本陣であったもの。店内は、文字通り「足の踏み場も無い」ほど、様々な雑貨(骨董?)が並んでいる。外からこわごわ覗いていると、ここのオカアさんが、「コーヒー入れるき、なかに入りや」。コテコテの高知弁だ。祖父や祖母の関西弁風高知弁を聞いていた私にとって、これはこれは、なんとnative Kochi-benに感動!

「おっこう屋」とは「奥光屋」だそうだ。奥深い所にある光を,という意味を込めたと。ここは一種の町の社交場になっているようだ。町おこし活動の拠点でもあるそうだ。ここに山のように散らかっている(失礼)無数の品々は、どれも町の古い蔵や町家から出てきたものだそうだ。皿、壷、着物、家具、グラス、ランプ、掛け軸、置物、柱時計、電話機、蓄音機、クラシックカメラ等等等等等等..... 見れば見るほどお宝満載の不思議なラビリンス。ウラには庭があり、そこにも「お宝」が散乱している。かつて脇本陣であった事を示す立派な蔵もある。オカアさん、「怖くて開けてない」と。

昨今,次々と町の古民家が取り壊され、蔵が消え、若者が居なくなり、町に残る年寄りも古い家を維持すことが出来なくなる。こうして、家に伝わるお宝をここに持ち寄って売ってもらうことになるのだと。また、売上の一部は、町の古い建物の維持保存の資金になっているそうだ。重伝建地区の指定もされてないので、行政からの補助金も出ない。住民のある種の「景観保存」自衛策なのだ。しかし、入ってくるほどには出て行かない(売れない)そうだ。そうだろう、この「在庫」の山は.....

オカアさんにコーヒー入れてもらいながら赤岡の話を聞いた。私の祖父がここの出身で、臨終の時「赤岡のジャコが食べたい」と言い残した話をすると感動してくれた。「ジイちゃん、ええオトコやっつろうね」「赤岡は、今はこれバアのチンマイ町になっちゅうけんど、スゴイ町やきにね」「赤岡は情念の町ぜよ」「その頃(祖父の少年時代)はもっと賑わッチュウロウね」。話が止まらない。祖父が当時どの辺に住んでいたか,今となってはもちろん知る術も無いが、オカアさん、「いっつも皆で集まって昔の事聞きユウキ、知っチュウもんがおるかもしれんロウ。聞いちょいちゃらあ」と言ってくれた。このオカアさん、ホント「ハチキン」(土佐のしっかりした女性のこと)や!

以前、あの赤瀬川原平や藤森照信、南伸坊等の「路上観察学会」の面々が赤岡にやって来て、「赤岡不思議幻灯会」なるまち歩き会を催したそうだ。このオカアさんは、その時の記録をまとめた「犬も歩けば赤岡町」(赤岡探偵手帳)という本の発行人になっている。私も歩いてみてわかったが、確かに赤瀬川先生の好きそうな町だ,赤岡は。町には不思議な「トマソン」が至る所に。ちなみにこの本、古い銭湯の建物を移築保存するための資金集めだったそうだ。無事お金が集まって「風呂屋が残った」。めでたしめでたし。

今の赤岡は、7月の「絵金祭り」とともに4月の「どろめ祭り」が有名だ。「どろめ」は先ほどの説明通り「ジャコ」のことだが、どろめ祭りは、一升瓶で酒の飲み比べをするいかにも高知らしい祭りだそうだ。昔はどろめ(ジャコ)で一升酒飲んだのだろう。ちなみに祖父は「下戸」だった。お猪口一杯でとスグ真っ赤になって「火事場の金時」になっていた。さぞや若い頃は酒で苦労しただろう。父も私もその下戸の血を引いているのでよくわかる。高知出身だ、九州出身だというだけで、何の根拠も無く「酒は強い」と決めつけられる理不尽さ... でも、どろめ(ジャコ)の方は、大好きだったに違いない。赤岡漁港近くにどろめの老舗三浦屋が天日干しの工場と直営店舗を開いている。「ははあん、ここのがうまいんだ,キッと」。急に祖父が懐かしくなって涙が出そうになった。

結局、祖父の少年時代の暮らしの痕跡を見つける事は出来なかったが、祖父の「あの頃」の町を訪ねることが出来た。祖父を育んだ「赤岡」。ジャコが名物である事も現認出来た。ハチキンのおカアサンにも会えた。native Kochi-benを聞く事も出来た。滅び行く栄光の赤岡をなんとかしなくては,とがんばってる人々の活動にも触れた。建物や町並みが壊されて行く中で、赤岡の遺産が集積された骨董屋さんががんばっている。祖父の故郷を「どげんかせんといかん」。また来よう、我が家のルーツを感じる旅に。私が今ここに居るのも、祖父がこの町で育ったからだ。


(追記)

今回、行きは大阪から飛行機で高知へひとっ飛び。帰りは土讃線経由で岡山から新幹線で帰った。四国はこんな狭い島なのに、山山山..... 瀬戸内沿岸から太平洋沿岸の高知に出るにはこの山隗の波を越えねばならぬ。鉄道も道路も大変な難工事だったことだろう。今は本四架橋で瀬戸内海をひとまたぎで岡山へ。日本の土木技術のすごさを見せつけられる。そういえば,祖父母も父も,大阪から高知への里帰りの行き来は船だったと言っていた。陸路よりも便利で速かったんだろう。土讃線が出来たのはかなり新しい事のようだ。

機上から見ると、所々山肌や谷間にへばりつくように集落が見える。人の営みの執念に凄みを感じる。四国山脈を飛び越えると、すぐに目の前には無限に広がる太平洋。幾重にも重なりあう山並と広大な太平洋に挟まれた狭い帯状の平地に人が住む高知。ボンバルディアは剣山を越えられるのか,というような低空飛行でようやく高知空港に降りる。そして、帰りは地べたの土讃線で。三次元で四国を体感する。トンネルと鉄橋の連続。しかし上空から見る以上に沿線には集落や道路が続き、人跡未踏という感じでない事を改めて現認。大歩危小歩危は秘境の空気に満ちているが、山の中にある阿波池田駅の構内の広さには人々の開拓の歴史を感じる。高知はやっぱりすごい所だ。人はハングリーにならざるを得ない。自ずと外向きにならざるを得ない。坂本龍馬のような人物が出ても何ら不思議ではない土地だという事を改めて感じた。



(高知独特の水切り瓦のある蔵。台風などの風雨から建物を守る高知ならではの工夫。赤瀬川原平がこれを見て「トマソン」と間違えたそうだ。さもありなん話だ。)




(新装なった弁天座。なかなか赤岡の気合いがこもった芝居小屋だ。この向かいが絵金蔵。こちらは改装のため臨時閉館中。残念。)




(横町の雑貨店、おっこう屋さん。店内は赤岡のお宝満載。その奥深さはまさに迷宮。ハチキンのオカアさんが居る店。)




(土佐くろしお鉄道ごめん・なはり線あかおか駅。高架のプラットホームからは美しい瓦屋根の家並が見渡せる)




(ボンバルディアで四国山脈をひとっ飛び。幾重にも重なる山並みの向こうに高知が)

スライドショーはここから ⇒



大きな地図で見る

アクセス:土佐くろしお鉄道ごめん・なはり線あかおか駅下車。徒歩5分程で絵金蔵。高知からはJR土讃線で御免乗り換えで。高知から直通列車もある。所用時間約20分。

2013年2月13日水曜日

筑紫古代史の謎宮を歩く ー 香椎宮探訪 ー

 香椎宮は社伝では仲哀天皇9年(200年)、熊襲征伐の途中橿日宮(かしひのみや)で仲哀天皇が急逝したため、神功皇后がその地に祠を建て天皇の神霊を祀ったのが起源とされる。さらに後に養老7年(723年)、神功皇后自身の神託により朝廷が社殿の造営を始め、神亀元年(724年)に竣工したと伝える。この2つの廟をもって香椎廟とする。万葉集には神亀5年(728年)、大伴旅人らが香椎廟を拝んだ後に詠んだ歌が収録されており、少なくとも香椎廟はそれ以前から存在していたとみられる。香椎廟は、天皇の「廟」であり、他の神社とは異なる扱いを受けていた。延喜式神名帳には記載がない。ただし、『続日本紀』などの文献には香椎廟・香椎宮・樫日宮・樫日廟などと見える。古くから朝廷の崇敬厚く、伊勢神宮、宇佐神宮に次ぐ扱いを受けている。

 記紀によれば、仲哀天皇は神功皇后とともに九州熊襲征伐に出向き、橿日宮に行宮を置いた。そのとき神功皇后が神懸かりとなり「西の海の向こうに宝の国(新羅)があるので、そちらへ行け」との神のご宣託を伝えた。しかし仲哀天皇は、それをいぶかしがり「西にそのような国は見えない」として疑ったため、神の怒りに触れ急死したとされている。神功皇后はその亡骸を棺に入れ、椎の木にかけ葬った。するとその椎の木から香しい香りが四方に漂ったので「香椎」と呼ばれる事となった。それが現在古宮として残る香椎廟であるとされている。

 その後、神功皇后は夫の仲哀天皇にかわり、男装して、お腹の子供(後の応神天皇)の出産を遅らせるべく、石を腹に巻き、軍勢を率いた朝鮮半島へ出陣したとされている。これが神功皇后の「三韓征伐」の伝承である。無事、戦わずして新羅を服属させ、百済,高句麗も朝貢を約束させ、九州に帰還した。その際、三宝を地中に埋めて国家の安泰を祈り、そこに杉の小枝を置いたのが、今の香椎宮のご神木、綾杉の大木であると。ちなみに神功皇后が(のちの応神天皇を)出産した地が宇美八幡宮であるとされ、また赤子のオシメを換えた地が志免であるとされている。さらには、香椎にほど近い名島海岸には、神功皇后が「三韓征伐」から帰還した時の軍船の帆柱が化石になって残る「帆柱石」がある。戦前はこれが結構人気の博多名所の一つであった。もちろんこれは古生代の自然の珪化木の化石だ。これはこれで地質学的には珍しい標本だが...

 筑紫にはこのような神功皇后ゆかりの地があちこちにある。むしろ畿内よりも筑紫の方が多いような感さえする。地元には親しまれる古代史の英雄ではあるが、しかし、この伝承には様々な歴史上の謎が含まれている。

 まず、仲哀天皇(タラシナカツヒコノスメラミコト)は、欠史八代の天皇同様、実在性が疑われている天皇の一人とされている。そもそも実在性が疑問視されている日本武尊(ヤマトタケルノミコト)の子だとされている事。しかも誕生年は西暦換算では、日本武尊が能褒野で死に、白鳥として天に昇って行ってから36年後の生まれである事などから、後世に創作されたのではないかと言われている。また、日本の正史である日本書紀で、天皇が神罰で急死したというエピソードにはどのような意味が含まれているのだろう。

 また神功皇后(オキナガタラシヒメノミコト)はただ一人皇后として記紀にその事績が記され、歴代天皇と同等に扱われた女性であるが、やはり其の実在が確認しにくい。在位は西暦に換算すると201ー269年とされ、ちょうど魏志倭人伝に記述のある倭国邪馬台国の時代を相当するため、卑弥呼ではないか、いや、その後の台与である、とか諸説があるが、いずれも根拠に乏しい。むしろ記紀編纂時(8世紀前半)に、後世の斉明天皇の九州行幸と筑紫朝倉宮での崩御、息子の天智天皇の白村江の戦いや、持統天皇をモデルに、時代をさかのぼって朝鮮半島への出兵エピソードを創出したものだ、という見解もある。また、そもそも畿内ヤマトからやって来たのではなく、ヤマトに対抗する筑紫倭国の大王であったのだ、という説も。邪馬台国九州説に繋がる論考だ。

 しかも、この記紀の「三韓征伐」伝承によれば、それまで九州の西の海中に朝鮮半島が存在している事を当時の倭国の支配者である大王(天皇)が知らなかったことになる。神のご宣託により初めて知った国だと。しかもその存在を疑ったと。2世紀から3世紀初頭といえば、中国の歴史書(魏志倭人伝、後漢書東夷伝)と照らし合わせると、「倭国大乱」、邪馬台国女王卑弥呼、其の後継の台与の時代に相当することになる。西暦239年には卑弥呼が帯方郡を通じて魏に使者を送り、「親魏倭王」の称号を受けている。さらに遡れば西暦57年には筑紫の奴国王(あるいは委奴国王)が漢の武帝から「漢委奴国王」の印綬を受けており、以前から倭国が朝鮮半島や中国と朝貢関係、交流を持っていた事実が示されている。さらに、この時代にはまだ三韓(新羅、百済、高句麗)は成立していない。このように記紀のこのくだりは後世の創作だとしても、当時の倭国の東アジア情勢認識とも一致しない。どのような意図のもとに記述された伝承なのか謎だ。

 当時の倭国(日本)と中国、朝鮮半島との交流については、中国の前述の歴史史料で確認するしか方法が無い。日本で記紀が編纂される8世紀以前に、残念ながら日本には文字で表された記録は残っていないからだ。

中国の史書による倭国に関する記述を要約すると、

 1世紀半ば:後漢書東夷伝によれば、倭の奴国王が光武帝に使者を送り「漢委奴国王」称号を受ける。
 2世紀初から半ば:倭国王師升後漢に遣使。また倭国大乱ののち、卑弥呼擁立して倭国安定。
 3世紀半ば:魏志倭人伝によれば、卑弥呼が魏に使者を送り「親魏倭王」称号を受ける。卑弥呼の死後、また乱れたが卑弥呼の養女台与を立て再び安定。魏のあとの晋に遣使。
 4世紀:倭国に関する記述がふっつりと消え、空白の4世紀に。ただ、朝鮮半島で見つかった好太王碑文によれば、倭国軍が百済、新羅と戦って勝利した,と言う記述が。
 5世紀:宋書によれば、倭の五王が遣使。倭王武(記紀にいう雄略天皇ではないかと言われる)の「ソデイ甲冑を貫き山河を跋渉して寧所にいとまあらず...」。朝鮮半島における倭国の権益を認めるよう要望し安東将軍や鎮東大将軍の称号を得た。

 1〜3世紀の混乱した情勢の中で生まれた、祭政一致(ヒメ/ヒコ)制による邪馬台国を盟主とするクニの連合国家「倭」が、4世紀には朝鮮半島に進出し、5世紀には歴代男王による倭国の武力統一、さらに倭国外の朝鮮半島における権益を中国王朝に認めさせようとする武断的な国家「倭」に変貌する。この間一体どのような変化が倭国に起こったのだろうか。政祭一致の邪馬台国のよる倭国連合は、いつしかヤマト王権による統一倭国へと変遷して行ったのであろうか。チクシ倭国がヤマト倭国と統合された,と推論する説もある。

 中国の史書は、当時の倭国の動向を知るよすがになるが、なかなか日本側の記録との一致が見られない。すなわち日本書紀や古事記の記述との事績、時間双方の乖離がある。そもそも記紀には邪馬台国も卑弥呼も出て来ない。一方、中国の史書には神功皇后による「三韓征伐」エピソードに相当する記述が見当たらない。前述の史書のどの事象を示唆しているのか不明である。例えば、神功皇后が3世紀の在位とすると卑弥呼が朝鮮出兵したことになるのだろうか。あるいは、神功皇后が魏に朝貢し「親魏倭王」の称号を貰ったことになるのだろうか。どちらも考えにくいだろう。倭国が朝鮮半島伽耶国に権益を持ったり、百済と同盟関係を結んだり、唐/新羅連合軍との白村江での戦いに敗れたりするのは5〜7世紀の事だ。神功皇后は実在したのだろうか。

 既知の通り、日本書紀は8世紀に編纂された日本の正史であり、天武天皇、持統天皇が壬申の乱後の倭国,日本における天皇支配の正統性を記したもの。主に当時の超大国である唐と対等の外交交渉を行うために整備した国史である。したがって、当時の国の正史とはそのようなものであるが、時の支配権力、統治権威の正統性を示す事が主たる目的であり、客観的な史実を公正に記述するものではない。その点では中国の史書も同様であるが。

 中国の史書で仲哀天皇や神功皇后についての記述が見えるのは時代をずっと下って10世紀(日本の平安時代)の唐時代の新唐書になってからだ。これはおそらく日本側の正史である日本書紀を参照したのであろう。いずれにしても神功皇后、仲哀天皇とはいかなる人物だったのか。実在性は如何。 だとすると、香椎宮古宮に祀られているのは誰なのか? 河内王権の始祖ともいわれる応神天皇はどのような血統から生み出されたのか... 新たな謎がわいてくる。もっとも神功皇后は神の子を宿した聖母(しょうも)であるとも伝えられており、応神、仁徳天皇の聖君子を演出するストーリなのかもしれない。

 素晴らしい香椎造の本殿、古宮、ご神木の綾杉を参拝して、帰途につく。来る時はJR香椎駅から香椎線で宇美行き(宇美八幡のある)に乗り換え、一駅目の香椎宮前で下車。帰りは並木の美しい表参道を通り、JR香椎駅、西鉄香椎駅方向へ歩いた。この両駅間の道は、そう、松本清張のミステリー小説の傑作「点と線」の舞台となったところだ。人気の無い真っ暗闇の道を香椎海岸へ歩く男女二人。「寂しい道ね」という女の声を聞いた通りがかりの人の証言が謎解きのヒントになる,あの場面だ。今はJRも西鉄も高架駅となり、あたりはにぎやかな商店街となっていて、「点と線」の面影はない。今ここに朴訥な九州男児、福岡東署の鳥飼重太郎刑事が居れば、ポツリと神功皇后の「点と線」の謎も解いてくれたかもしれない。




(香椎宮の綾杉。神功皇后が「三韓征伐」からもどり、国家安泰を祈って三宝を埋め、その上に杉の小枝を置いたものが綾杉になったと伝承されている)




(香椎造の本殿。香椎宮だけの独自の建築様式。江戸時代に筑前藩主黒田氏によって再建された建物)



(仲哀天皇が祀られている古宮には棺掛けの椎木がご神木として鎮座ましましている。この椎木が香しい香りを発した事から「香椎」の名が出たと言われる)




(香椎宮の表参道。鬱蒼とした並木に覆われた参道は、昔は香椎浜に続いていた。今は浜は埋め立てられ面影が無い)




(松本清張ミステリーの傑作「点と線」の重要な舞台となった国鉄香椎駅と西鉄香椎駅をむすぶ道。当時は人気の無い真っ暗な道であったが、今は両駅とも高架となり賑やかな商店街になっている)

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(撮影機材:Fujifilm X- E1, Fujinon Zoom 18-50mm)

 アクセス:JR鹿児島本線香椎駅、西鉄貝塚線香椎駅ないしは香椎宮前駅から徒歩10〜15分。JR香椎線香椎宮前駅から徒歩5分。


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2013年2月5日火曜日

播州龍野 ー露の風の城下町ー

 龍野は播磨の国、揖保川沿いの静かな城下町。姫路からJR姫新線乗り換えで約15分。山陽本線沿いではない所がポイントだ。最寄りの本竜野駅は龍野の旧市街からは徒歩で20分ほどの川向こうにある。明治の頃、日本各地で鉄道が開通し始めた時の地元の人々の反応は様々だった。大抵は近代化の恩恵を複雑な気分で恐る恐る手にとって見たのだろう。鉄道の駅は必ずと言ってよいほど町外れに出来た。その町が古い城下町であればあるほど... 龍野も例外ではないという事を、まず駅をおりて実感する。町まで遠い...

揖保川にかかる龍野橋から旧市街を見渡す。戦国時代の城づくり、城下町づくりに共通するエレメント、小高い山と川。辺りを睥睨する山上に石垣を巡らして堅固な山城を築き、その山麓に城下町を開く。そして、川を掘りに見立てて城を守る。ここ龍野も戦国時代の赤松氏が鶏籠山(けいろうさん)に城を築き,その山麓の揖保川沿いに城下町を開く、という典型的な城下町ロケーションだ。

江戸時代に入り、信州飯田から移封されて来た脇坂氏の龍野藩5万3千石の城下町となる。時代は既に徳川幕府の支配が確立された時期で、城も戦国時代の要塞、砦の機能はもはや不要のものとなる。また諸大名も幕府の眼を恐れて壮麗な城造りを控えるようになった。脇坂氏は入封とともに、鶏籠山の山頂ではなく、その山麓に縄張りをする。山を背に正面を石垣で囲んだ居館といった風情の平山城となっている。脇坂氏は明治維新まで代々藩主として龍野を治め、維新後に多くの藩主が東京へ移住した後も龍野に戻っている。旧武家屋敷地区に居宅を構え昭和初期まで居住したそうだ。今も「脇坂屋敷」としてその敷地が残っている。

脇坂氏といえば、あの浅野内匠頭の刃傷事件で,御家断絶になった浅野家の赤穂城を幕府の命令で受け取りに行った大名である。忠臣蔵の物語りの中でも、脇坂出羽守は浅野びいきであり、ふだんから吉良上野介を快く思っていなかったとされている。松の廊下での内匠頭刃傷のおりに、斬りつけられて逃げる上野介と出羽守は交錯し、その家紋が血で汚された事を怒り、上野介を「無礼者めが」と叱責したというエピソードが伝えられている。どこまでホントかはわからないが、同じ播磨の赤穂と龍野はお隣さんと言ってよいほどの距離。どちらも5万石ほどの外様大名である。親近感を持っていてもおかしくない。また赤穂城開場時の大石内蔵助はじめ,赤穂藩家臣の潔い引き際。その後の隠忍自重、艱難辛苦のすえ武士の忠義を示した討ち入りに、庶民大衆を始め、多くの武家も喝采を送る中,特に浅野/赤穂浪士シンパの大名の存在が,忠臣蔵の話に花を添える名脇役としてもてはやされたとしてもおかしくない。

この美しくたおやかな龍野の城下町は、こうしたお隣の赤穂浪士達の義挙に花を添える脇役としての歴史を伝える訳であるが、むしろそのエピソードよりも、一般には三木露風の唱歌「赤とんぼ」で有名な町だ。戦前の哲学者で治安維持法で検挙され獄死した三木清もこの龍野の出身。旧制第一高等学校の寮歌「嗚呼玉杯に花受けて」の作詞者で歌人の矢野勘治もそうだ。こうした文人を輩出した龍野とはどのような町だったのか。

一方、龍野を代表する産業は世界のブランド、ヒガシマル醤油。房州野田のキッコーマン醤油に対峙する龍野の淡口醬油だ。関西の味の原点を生み出した町でもある。そして、そうめんの名品ブランド、揖保の糸。ここは明治以降も時代から忘れ去られた,歴史のタイムカプセルに収められた城下町としてではなく、伝統産業を世界に広める近代産業への脱皮を実現した現代の町としても発展している。

龍野には有名な本屋さんがある。伏見屋さんだ。絶対訪ねる価値有りだ。明治34年(1901年)に建てられた白壁の商家を一歩中に入ると、ぐるりと廻廊が巡らされ、天井には採光用の天窓が並んでいる。吹き抜け2階建てのユニークな店内のしつらえが眼に飛び込んでくる。この建物は今も現役の書店として営業中である。ご主人に「写真撮らせてもらっていいですか?」と伺うと快く承諾して下さり、しかも接客の合間にこの店の説明をして下さった。二階の廻廊にも本棚が並び(昔は教科書の仕分けに使われていたそうだ),廻廊から伸びた針金のフックは一階を照明するランプが吊るされていたとか。明治にこの建物を発想した人もスゴイが、今にこの建物を引き継ぎ、家業を継続している人もスゴイ。なんだかBusiness Continuity Planningってこういうことではないか、という気がしてきた。

ご主人が下さった一枚のプリントにこの伏見屋さんの歴史やエピソードが記載されている。明治/大正期には龍野は大阪、京都、奈良といった関西と山陰地方、出雲を結ぶ街道の途中にあり、伏見屋さんは書籍だけではなく,紙や油その他の物資の流通にも携わっていたそうだ。以前は出雲の人がわざわざ龍野まで書籍を探しに来たり、戦時中、某大学教授が疎開して研究に没頭する時は伏見屋のある龍野に居を移したり、様々なエピソードに事欠かない一種の文化流通の拠点であったようだ。さらに歴代のご主人や奥様も若い人達の教育や、文化活動の支援にも尽力されたそうだ。

ご主人にチョット失礼な質問をしてみた。「今も現役の本屋さんとしてやって行くご苦労は?」 ご主人笑いながら「今でもこの町の方々の本の注文はウチに頂けるし、学校向けの教科書の取り寄せや配布もやらせていただいてるのでなんとかやってます」と。まさに現役なのだ。この日も、中学生の女の子が学習参考書の注文に来ていた。自転車でやって来たおかあさんが取り置きしてもらって雑誌をうれしそうに受け取って帰ったり,ご主人は結構忙しそうであった。 ご商売の邪魔をしてはいけない。早々にお礼を行ってその場を辞した。

出版の衰退とか,活字メディアの衰退とか言われているが、やはり「本」は文化の源泉なのだ。本屋さんは本を通じて人が交流する一種のサロンなのだ。三木露風、三木清等の多くの文化人を生んだ龍野の文化的背景のかなり大きな部分を担って来たのだろうと思う。AmazonやGoogleにはマネ出来ない「実在」が確かに息づいている。

もう一つ,龍野には和菓子屋さんが多いのも気になった。松江や金沢のように、武家や商家の間で盛んであった茶の湯文化の町には素敵な和菓子屋さんが多い。きっと龍野もそういった文化の香りを和菓子に留めているのだろう。白壁の本屋と和菓子と醤油と赤とんぼ。日本だなあ。




(脇坂氏5万3千石の居城、龍野城。城と言うより,防備を巡らした居館という造り。明治維新後破却されたが、戦後一部が再建された。これはその再建隅櫓)




(鶏籠山麓の龍野城趾から城下町を見渡す。お城はあまり高い位置ではないので威圧感が無い。ヒガシマルの醤油蔵が見える)




(伏見屋書店。明治34年(1903年)に建てられた吹き抜け2階建ての店舗。二階の回廊と天井の採光窓が明治の建築とは思えないモダンさを醸し出している。)




(和菓子屋さんが多い龍野の町。茶席にふさわしい和菓子の他にも、薄口醤油を売りにした饅頭などユニークな商品が並ぶ)




(ヒガシマル醤油の醤油蔵。延々と続く白黒の壁と,水路が龍野の街の独特の景観を生み出している。)


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(撮影機材:Nikon D800E, AF Nikkor 24-120mm いつものブラパチ風景散歩のベストパートナー。)



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アクセス: JR新幹線、山陽線の姫路からJR姫新線本竜野下車。徒歩20分で揖保川を渡り,旧市街へ。町中散策は特に地図などなくても十分に楽しめるが、駅の案内所に散策マップがおいてある。

2013年2月3日日曜日

平福と利神城

 兵庫県佐用町の平福は、江戸時代初期に池田氏が築いた山城、利神(りかん)城の城下町として建設された。利神城はもともとは戦国時代に赤松氏が砦を設けたのが起源だと言う。その後一国一城令により廃城となり、平福は旗本の直轄領となり、平福陣屋、代官所がおかれた。城下町としての性格は薄れ、因幡街道/出雲街道の分岐点、佐用川沿いという交通の要衝に位置していた事から、在郷町、宿場町として発展する。なんと300軒の8割が屋号を持っていたという。また因幡鳥取藩の本陣も置かれた。その後明治以降は、鉄道が通らなかったために,交通の要衝、商業地としての地位が低下し,次第に時代から忘れ去られて行った。1994年になってようやく智頭急行線が開通し,平福に駅が出来たが、もはや往年の繁栄を取り戻すことはなかった。

なんと言っても平福を象徴する景観は、赤土壁の土蔵を中心に、川屋敷や商家が続く佐用川沿いの家並だ。最近は「川端風景」として観光名所にもなっているが、まだまだ知名度は低く穴場的な存在だ。第一、ここへ来るにはなかなか大変。今は車で来れば比較的簡単なのだろうが、ここの地理的な距離感、旧街道と川の町の雰囲気を知るにはローカル線の旅がなんと言ってもおすすめだ。

初めてこの美しい町並みを見たのは、鳥取から大阪へ向う智頭急行線、スーパーはくとの車窓からであった。「宮本武蔵」(もちろん武蔵の生まれ育った)という駅を過ぎ、佐用川沿いに走ると、右手の山麓に広がるこじんまりした町並み、さらに佐用川のほとりに土色の土蔵が並んで居る風景が眼に飛び込んで来た。なんと心を奪われる風景。こんな山の中の小さな町に,往時の繁栄の記憶がひっそりと保存されている。まるで南欧の田舎の風景を彷彿とさせる、どこかエキゾチックな景観でもある。それ以来,是非一度行ってみたいと恋いこがれた。

先述のように、平福はもともと城下町として建設された。佐用川を隔てて東に山があり、ここに山城、利神城があった。智頭急行線のトンネルの上に「利神城跡」の看板が見える。山上に見事な縄張りで石垣が築かれているそうだが、残念ながら集中豪雨で石垣が崩れ落ち、登山禁止になっている。播州、但馬など中国地方にはこうした山城があちこちに築かれている。去年登った和田山の竹田城も良く佇まいが似ている。山上の壮麗な石垣、麓の城下町... そういえば備中松山城を抱える備中高梁もそうだ。

今回は姫路からJR姫新線で本竜野に行き、播州龍野の散策を楽しんだ後、憧れの宿場町平福を目指す事にした。本竜野からは播磨新宮まで各停で行く。そこで佐用行きに乗り換える。姫新線はその名の通り姫路から岡山県の新見までの路線であるが,地元の足として細切れにローカル各停を走らせているが、既に急行等の直通の列車はないそうだ。通学の高校生と買い物のオバちゃんが乗客の主体。乗ってたオバちゃんが、話しかけて来て、そんな事を教えてくれた。人なつっこくて優しい人達だ。

佐用はJR姫新線と智頭急行線の分岐点。ここから智頭急行線各停(一両ワンマンカー)で鳥取方面へ一駅乗れば平福だ。平福駅は立派な駅舎が利神城の麓にそびえているが、無人駅。観光案内所辺りで地図もらおう,と思っていたが人っ子一人居ない。近畿の駅百選の一つとか。宮本武蔵が初めて13才で決闘した場所ということで、その看板と記念写真用等身大武蔵がポツンと。下車したのは二人の高校生と私だけ。高校生は駅舎内の庇の下に留めてあった自転車に乗って颯爽と町並みに消えて行った。小雪の舞い散る駅には私一人。深閑とした空気に急に寂しくなった。

しかし、町自体は非常にコンパクトで地図はいらない。まずは車窓から観た土壁の町並みへ行ってみよう。しかし、ちょうど日は西に傾き、早くも山間の家並は陰に入って来ている。佐用川に架かる天神橋からの土蔵撮影ベストアングルは、真逆光!ああ、もっと早く来るべきであった。しかし、それでも赤土色の土蔵が美しい。あの心を奪われた川端の景観が目の前にある。やっと来たぞ,はるけき平福へ!

ちょうど佐用川の浚渫作業が行われていて、水が濁っている。勝手に清らかなせせらぎをイメージしていたので裏切られた感があったが、水量豊かな脈々とした川の流れがかえって、土蔵から高瀬舟に荷物を積んで,忙しく各地に出荷していた往時を彷彿とさせる。旧因幡街道と国道が接する辺りに現代の「道の駅」があり、そこに平福本陣跡がある。国道が街中を外れて走っているために、旧因幡街道沿いの静かな平福宿の町並みが往時のままの残されているのが嬉しい。明治以降、鉄道が通らなかったため、かつての街道随一の繁栄を誇った平福宿は衰退し、であるが故の静けさと,美しい佇まいをタイムカプセルに留めている。近代化以前の日本の原風景。

薄暗くなって来た無人の平福駅で、佐用へ行く電車(いやワンマンDL車)を待っていると,もう一人乗客とおぼしきオトウさんが、駅に向う一本道を歩いてやって来た。「寒いねえ」「かなんなあ、雪降ってきましたなあ」と話しかけて来た。都会と違って、これだけ誰も人がいないと,お互いの存在を無視し得ない。しばらくたわいない話で列車が来るまでの時間をつぶす。これから上郡まで行くと言う。私は佐用乗り換えで大阪へ帰る、と。こうした知らぬ人同志の何でも無いコミュニケーションが無くなってしまった現代人が、この地に似合わない事を実感した。




(てんじん橋からの川端風景。ちょうど日が西に傾いてしまい逆光に)




(赤土色の土壁が美しい。どこか南欧の小さな町の風景を彷彿とさせる)




(土蔵は川岸から船で荷物を積み出せるようになっている。)




(利神城のある山裾に智頭急行線が走る。スーパーはくとが通過中。)

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(撮影機材:NikonD800E, AF Nikkor 24-120mm)


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アクセス:JR山陽線上郡から智頭急行線各駅停車で約40分。平福下車。大阪からはスーパーはくとで佐用下車、乗り換えで平福下車で約一時間半。駅からは徒歩5分ほどで川端風景。