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2017年7月30日日曜日

Nikonのレンジファインダーカメラたち 〜Nikon創業100周年記念〜


 私のNikonカメラコレクションの中でもまず見ていただきたいのは、この美しい工芸品のようなカメラ達。Nikon、いやNIPPON KOGAKUの初期の距離計連動ファインダーカメラ達だ。まさにState of the Art Technologyだ。真鍮素材にクロームメッキのボディー。レンズ鏡胴も同じ素材でできている。精密なローレット加工のレンズのピントリングとシャッターダイアルやノブ。大口径の高性能な光学ガラス。メカニカルな光学製品の極致だ。もうこのような製品は世の中に出て来ないだろう。実は、この美人達はどれもかつて銀座の三共カメラやスキヤカメラに、ほぼジャンク品として並んでいた中古カメラだ。メカニカルカメラの良いところは「修理し整備すれば復活できる」ということだ。サビを取り、部品を取り替え、シャッター幕を張り替え、駆動部分は分解、清掃、注油。ファインダーガラスを分解してクリーニングする。さすがにレンズクリーニングはプロに任せたが、たいていは自分で出来る。分解工具もほぼ手製。こうして復活した歴史的名器をご披露できるのは中古カメラファンの無常の喜びだ。



Nikon S in 1950


 ニコンは戦後、大井工場での製造の主力を軍需品から民生品へと転換し、1947年には早くもカメラ製造に着手した。カメラ先進国のドイツのコンタックス、ライカというはるか手の届かない先行モデルを参考に、距離計連動ファインダー(Range Finder)式カメラ、Nikon I, Mを開発。1950年には改良版のSを市場に投入した。見ての通りコンタックスの外観にライカのメカニズムを詰め込んだ、と揶揄されるハイブリッドコピーであった。ボディー本体は鋳物で重い。フォーマットはライカ判よりもひとまわり小さいニッポン判。手に取るとずっしりとした手応えに、上質なクロームメッキ。メカニズムは精密でスムース。よくこんな小さなファインダーでピント合わせができたものだと感心するような距離計ファインダーだが、技術者の心意気を感じる。




Nikon S2 in 1953


 1953年になると、Sの改良版であるS2を開発、翌年リリースする。フィルムフォーマットも「本来の」ライカ判となり、外見はますますコンタックス然としたものとなるが、軽合金ダイキャストボディーで軽量化された。またS型の小さくて見にくいファインダーは、等倍のクリアーなブライトフレーム入りとなった。フィルム巻き上げはレバー式となり、速写性に優れる実用性の高いカメラとなる。標準レンズはゾナー式で解像度の高い優れたレンズ。本家のコンタックス、ゾナーに引けを取らないカメラに仕上がった。しかし、1954年に誕生したS2はたちまち過酷な運命に見舞われることになる。



Nikon SP in 1957

 S2が生まれた1954年、カメラ業界に衝撃が走った。そう、Ernst Leitz社が満を持してRange Finder式カメラLeica M3を発表。等倍ファインダーにレンズ交換に応じてブラートフレームが変わる究極の距離計連動カメラの登場だ。これに対抗できるカメラは出てこないだろうとまで言われた究極のカメラであった。しかし日本のカメラメーカーは果敢に挑戦し、M3に追いつけ追い越せとばかり、レンジファインダー式カメラの開発にしのぎを削った。NIPPON KOGAKUがLeica M3に対抗して出した答えが、この1957年に発表したNikon SPだ。28mmから135mmまでの画角に対応できる複雑な構造のレンジファインダーを搭載したカメラだ。その工夫されたメカニズムは驚愕だ。しかし、技術的に驚愕であってもプロやハイアマチュアに支持されるかは別問題。商業的には成功を収めることはできなかった。これ以降、NikonはRange Finderカメラ開発を諦め、ペンタプリズムとミラーを搭載する一眼レフカメラへと転換した話は有名だ。しかも、その転換が成功し、プロフォトグラファー御用達の一眼レフ、Nikon Fという時代の画期を生み出すこととなる。NikonがモデルにしたCarl ZeissやErnst Leitzは、その後トップランナーの地位を追われ、Nikonの後塵を拝することとなる。ちなみに、SPの廉価版として同年にS3が発表された。公式にはS2の後継機という位置付けであったが、上記のような強敵の登場によりS3はわずかな台数が製造されただけで終わっている。




Nikon F in 1961

 1961年のNikon F。レンジファインダーカメラ路線を放棄し、ペンタプリズムとミラーを搭載した一眼レフカメラへと転換した第1号。ロゴマークが「NIPPON KOGAKU TOKYO」と刻印された最初期バージョンだ。これがこの後プロフォトグラファー用の定番カメラとなって、デジタル化される直前のF6まで製造される。そしてNikkorレンズは、世界的な写真家集団であるマグナム(Magnum)所属の多くの報道カメラマン達の絶大な支持を受け、特にLife誌のカメラマンであったDavid D. Duncanが朝鮮戦争やベトナム戦争での報道写真に活用したことで一気にステータスを確立した。Nikonのブランドが戦後のカメラ・レンズのdependable and durableの代名詞となる。ちなみに発売当初は、この三角形のペンタ部が、あるものを連想させて「縁起が悪い」と一部の人から批判されたという。もちろん日本だけでの話だが、そんなエピソードまで生み出した。。今はすっかり一眼レフの原器として定着した。


The first pentaprismSLR Nikon F
made by Nippon Kogaku Tokyo

ニコン大井工場101号館
戦前は海軍の光学兵器開発製造の拠点で、戦艦大和の測距儀はここで生まれた。
戦後、日本光学工業として民生品製造に転換する。1947年のニコンカメラ(ニコンI型)試作に始まる35mm判レンジファインダーカメラの時代を経て、一眼レフカメラ製造に着手し、1961年のニコンFを皮切りに、ニコンF3(1980年〜2000年まで生産)の途中までは、実際にこの101号館の中に生産ラインが存在していた。
昨年から取り壊しが始まり今は跡形もない。


 Nikonは今年創業100周年を迎えた。栄光の歴史に一つの区切りをつけるわけだが、その100年目はNikonにとってなかなか厳しい年となった。歴史は繰り返す。「驕れるものは久しからず。盛者必衰の理あり」。Nikonは今、経営の危機に直面している。大型のリストラを断行し、参入市場の選択と集中を始めている。デジタルカメラの時代に入り、技術も市場も大きく変化してゆく。デジタル化は製品のコモディティー化を加速させ、普及機はどんどんスマホに代替されてゆく。ハイエンド機は固定需要があるが、ミラーレス機やより高速で高画質で動画機との区分がないなものへと進化してゆく。プロフォトグラファーに絶大の信頼を得ているカメラの行く末が心配だ。Nikonというブランドは不滅だろう。かつてのLeicaがそうであるように。しかし、カメラがメカニカルな精密機械、いや工芸品的な技術で成り立っていた時代が終わり、ソフトウェアーで動く電子機器になってしまった時代、伝統のブランドを背負う老舗が生き延びるには大きなビジネスモデルイノベーションと、モノ造りからのパラダイムシフトを迫られるだろう。




2017年7月12日水曜日

Leica M10 ファームウェアー問題

 

Leica M10


 最新のライカM10をゲットしてから4ヶ月余り経った。その完成度に満足し、出番が大いに増して手放せない愛機になってきた。ところがその蜜月ムードに水を差すような出来事がまたぞろ発生しはじめた。ライカ社から見れば大した問題ではないのかもしれないのだが、バグが出はじめたようだ。

 ライカのこれまでのデジタルMはとにかく想定外のメジャー・マイナーを問わずバグが多かった。特にM8、M9は酷かったが、Type240では一連の改善でようやくバグがとれ安定した。バグに悩まされ続けたそのトラウマのせいか、M10になって、最初期バージョンでは珍しく何の問題もなかったのでホッとして嬉しかった。ところが悪夢の再来だ。SDカードのコンパチビリティーを改善するとした、ver.1.7.4.0が6月にリリースされた。SDカードの相性問題がまだあるのか?と訝しがったが、問題はそんなところとは関係ないところで発生した。この1.7.4.0をインストールしたとたん、不思議な症状が現れはじめたのだ。露出補正表示が、±0以外では設定値に関わらず、再生にすると常に−3を示すようになった。またISO感度をオートにセットして、絞り1.4開放、シャッター速度オートでシャッターを切ると、通常はISO100を選択する場面でいきなりISO1600になり、露出オーバーで画面が白飛びしてしまうカットが出現した。気になったのでFaceBook上のM10ユーザフォーラムをチェックしてみると、ISO感度オート設定での感度固定化の現象が報告されていていて、複数のユーザが同様のクレームをアップしている。問題はないとするユーザもいる。私の個体も特にその固定化には遭遇してない。また露出補正値が常に−3表示になる不具合も投稿されている。ISO設定の不安定さと関連があるのだろうか?ともあれver.1.7.4.0以降、不具合が出始めている模様だ。

 その後、ver.1.7.4.0のバグを修正するとしてver.1.9.4.0が7月10日急遽リリースされた。しかし、これは高速シャッターでの画面のブラックアウトを修正するためのもの、とかで上記の問題は全く改善されていない。ちなみに私の個体でプラックアウトは経験していない。が、そんな不具合もあったのか...と逆に不安が増す。

 ライカショップ銀座に持ち込む。サービス担当はこの露出補正の不具合については認識していなかったという。点検の結果、同社のテスト機の背面のLEDディスプレー上の露出補正表示にも同様の問題が再現されたとのこと。EXIFデータには適正な補正値が反映されているというから背面ディスプレー表示上の問題のようだ。またISO感度移動(固定?)による白飛び現象は、テスト機では再現されなかったという。

 結局ライカショップ銀座店のサービス担当は、この現象はやはり個体の問題ではなく、ファームウェアーの問題のようなのでドイツ本社に報告して修正するよう依頼するという。しかし修正には時間がかかり、おそらく次・次期のファームウェアーバージョンアップに間に合うかどうかだと。やれやれ、そのスピード感にもびっくりさせられる。とにかくファームウェアーアップデートの際にコーディング誤りかなにかでバグを発生させてしまったようだ。不具合を改善しようとして他に不具合を発生させてしまうという、何れにしてもお粗末の極みだ。ライカ社はやはりソフトウェアーで動くカメラはまだまだ苦手のようだ。

 当面、日々の撮影自体に大きな支障はなさそうだが、なんか信頼感がない。つねに何かしらの爆弾を抱えているような気分だ。また何が起きるかわからないという疑心暗鬼に陥ってしまう。毎度のことながら、高いカメラなのに...という愚痴もつい出てしまう。「ライカユーザは細かいこというな、嫌なら手を出すな」なんていうライカ一神教の傲慢は許されない。まさかこれも「ライカの味」なんていうんじゃないだろうな。

 ちなみに、同時に持ち込んだM9のCCDセンサーチェックでも保護膜剥離が発見され、対策済みセンサーに無料交換することになった。この以前から問題となっているM9固有のセンサー不良。そもそも車ならエンジン取っ替えリコールに匹敵するほどの欠陥なのだが。悠長なものだ。しかもこちらは換装のためにドイツ送りで、11月くらいに戻ってくる予定だとか(!!!)其の間の代替機も用意されていない。OMG !

 私の知己でプロのライカ使いは「デジタルのライカは使わない」と言い切っている。別にトラブルが多いからという理由を言ってはいないが、フィルムライカはシンプルで信頼感があると惚れきっている。こうなるとなんとなく説得力を持っているように感じ始める。私も素人ながら長年のライカユーザで、デジタルへ乗り換えた愛好家として少々のことは慣れているつもりだしライカの悪口は言いたくない。ネット上でライカを誹謗中傷しているコメントを見るとイラッとくる。単純に他社カメラと比較はできないからだ。しかし、こうソフト不具合やセンサートラブルが続くと、やはり疲れる。自分の選択は間違いだったのかと。ライカさん、しっかり頼むよ品質管理。

絞り開放1.4、シャッタ速度オート、ISOオート、室内照明下での撮影。露出補正+0.3
前後のカットではISO200となっているが、ここでは1600にシフトし白トビ(露出オーバーの赤点滅)
露出補正値は何故か−3を表示



2017年7月9日日曜日

箱根の関所 〜関所の歴史は意外に面白い〜


復元された箱根の関所


 なん年ぶりかで箱根を訪れた。週末いつも込み合うイメージの箱根も、梅雨時の平日はがら空き。箱根ターンパイクから元箱根、芦ノ湖畔、箱根関所、恩賜公園へ。さらに伊豆スカイラインを南下して伊豆の隠れ家へというドライブコース。爽快に走り抜ける。これだけ空いているなら車も良いものだ。箱根の関所が復元されていた。なかなか堂々とした佇まいの関所だ。考えてみると関所っていつごろどういう理由で設けられたのだろう。ふと「時空トラベラー」的な興味が沸き起こってきた。簡単に振り返ってみよう。

古代

 関所は、大化の改新の詔により設置されたのが最初だと言われる。東海道の鈴鹿関、東山道の不破関、北陸道の愛発関(後に逢坂の関)の三関がそれだ。律令体制による人民支配の手段として「本貫地主義」、すなわち公地公民の制、庚午年籍により戸籍を定め、租庸調などの税収を確保するために公民を特定の土地に固定しようというものだ。このように関所は公民が勝手に他国へ移動しないように監視したのが始まりと言われている。もちろん都の防衛や政治犯の逃亡を防ぐ、流民の都への流入を防ぐことが重要な役割になってゆく。壬申の乱の時には鈴鹿の関守が大海人皇子に味方し、近江への進軍を助けたというエピソードが残っている。また、時代は下るが、東北に落ち延びる義経を助けるため弁慶が関守冨樫正親の前で空白の勧進帳を読み上げ、冨樫もそれに気付きながら通行を許したという、有名な歌舞伎「勧進帳」の安宅の関は平安末期、鎌倉初期ころの関所だ。

中世

 すでに平安時代ころから律令制は崩壊に向かい、公民を土地に固定する本貫地主義や京の治安維持という軍事、警察より、朝廷や荘園領主、武家勢力、有力寺社などの権門、地域の支配者が通行料を取る目的で数多くの関所が設けられた。これが彼らにとっては貴重な権益になったのだが、諸国間の自由な通行、流通の妨げとなったことは言を俟たない。一方で、通行の安全と治安を守るという役割も果たしたという。しかし戦国時代には、こうした通行銭稼ぎの関所が衰退し、さらに織田信長や豊臣秀吉が天下統一を果たすと、諸国の自由通行、交易を盛んにするために関所を徹底して廃止した。既得権益を解体し、新しい自由交易/情報流通体制を企図したわけだ。信長、秀吉は国内外の交易による国富を目指す、当時としては革命的な政治指導者であり経済構造改革者であった。

近世

 江戸幕府が開かれると、軍事、警察目的で、幕府や各藩は再び関所を設置するようになる。秀忠は五街道の整備と合わせ、江戸を守り、徳川幕藩体制を維持するために交通の要衝に関所を復活。元和5年(1619年)に東海道の要衝である箱根の峠に関所を設けた。このほかにも東海道の新居関、中山道の木曽福島関、碓氷関が江戸へ通じる要衝を守る規模も大きく重要な関所とされた。さらに寛永12年(1635年)に参勤交代が制度化されると、全国の大名の行列を取り仕切る関所の役割がクローズアップされるようになる。さらに「入鉄砲出女」取り締まり、すなわち江戸に入る武器類と、江戸から出る女(大名の婦女子は江戸藩邸に留め置かれる人質であった)を監視することが重要な役割となった。こうした徳川幕府による参勤交代・大名支配の手段の一つとして、江戸期を通じて全国に53箇所あまり関所が設置されたという。こうした通行の監視は武家/大名に止まるわけではなく、一般の庶民の通行にも及んだ。庶民にはとんだトバッチリだったわけだ。

 箱根の関所は峻険な箱根山中に設けられ、山と湖に挟まれた狭隘な地形を通るように設計されている。それまでは御殿場ルートが一般的であったようだが、東海道整備とともにこの警備しやすい箱根ルートに付け替えられた。ゆえに旅人にとってはチェックの厳しい関所のイメージがあるが、のちにお伊勢参りなど、旅が信仰と行楽を兼ね、庶民にも広まると、通行手形があれば意外と自由に通行できたようだ。ただし関所破りは磔の刑。幾多の悲劇が語られている。そして箱根では「入り鉄砲」よりも「出女」の方が厳しくチェックされた。「あらためババア」が女性の髪の毛や身体検査をしたとされ、現在は人形で当時の模様が再現されている。幕府は箱根の芦ノ湖畔に関所を作ろうとした時、地元民の反対に直面した。ようやく、集落から少し離れた場所に東海道の箱根宿を新たに設けた上で関所を設置した経緯がある。現在の元箱根が、文字通りオリジナルの箱根の集落であった。ちなみに芦ノ湖は漁労禁止、進入禁止。高見番所から湖上を監視していた。関守は小田原藩の役割だった。

 明治に入って全ての関所が廃止された。国内は自由に行き来できるようになったわけだが、国と国をまたがる自由往来はまだまだ先のことだ。むしろ近代的な国民国家概念、主権国家概念などにより、国籍や国境が生まれ、通行はむしろ不自由になった感さえある。空港や港、国境の入国審査と税関検査が現在の関所であるわけだが、自由貿易協定やEUのような試みは、やはりこうした関所の長い長い歴史を考えると紆余曲折を経ることになるのだろう。パスポートという通行手形はしばらくは無くならない。





箱根関江戸口御門

関所の防御施設も復元されている
左上の高台には遠見番所が

大番所


遠見番所から関所と芦ノ湖を俯瞰する。

なんだか長崎港の古写真みたいな景観に見えてしまう...
観光用の帆船のせいだ


広重
東海道五十三次
箱根

東海道箱根峠道



2017年6月19日月曜日

伊豆下田は紫陽花に埋もれていた!





 6月は伊豆下田が紫陽花に埋もれる季節。今年は梅雨入りしたにもかかわらず、快晴の爽やかな日が続く。紫陽花には雨が似合う、とはいうもののやはり晴れるにこしたことはない。ここ下田公園は全山紫陽花に覆われる。いつものペリーロードの川沿いにも見事な紫陽花が。下田は歴史と自然と人情が絶妙にブレンドされたの街なので、「時空トラベラー」の大好きな街トップリスト上位にいつもランクインするのだが、不思議に紫陽花で有名なこの街をその最盛期に訪れたことがなかった。

 下田公園は下田市街地の南のはずれにある。海に突き出した小高い山全体が公園になっている。ここは戦国時代には北条氏方の出城、下田城があったところで、豊臣秀吉軍と激戦が繰り広げられた。したがって下田城址公園とも呼んでいる。ペリーが上陸した港から少し坂を上がると開港記念広場がある。この背後に控える山が全山紫陽花山になる。山を覆い、谷を埋め尽くす色とりどりの紫陽花。なんと15万株あるそうだ。一目で「おおっ、すご〜い!」とおもわず感嘆の声を上げてしまう圧巻の光景。東京近郊の有名な紫陽花の名所でこれほどのボリュームと密度を誇るところはあるだろうか。そして一番は人出。いや、すごい人出なのではなく、人影もまばら。広いせいもありゆったりと時間を過ごせることに感動。こんなマッシブなアジサイ山を独り占めに近い状態で堪能できるとは。鎌倉の明月院の紫陽花は2500株だそうだが、紫陽花よりも見物客のほうが多いじゃないかというあの混雑ぶりを考えると嘘のような贅沢さだ。紫陽花の手入れをしてくれている公園管理の人もとてもフレンドリーで、かつ観光地にありがちな押し付けがましくもなく気持ちよい。この景観に感動の声を上げていると、「ゆっくり楽しんでいってください」と声をかけてくれた。聞けばまだ全てが満開ではないそうだ。むしろ満開期よりも、開花間近のの花芽も混じるこの時期が一番フレッシュで、色も鮮やかなのだそうだ。確かに。

 ただ、これだけの景観をファインダーで切り取るのは思った以上に難しい。どこを撮れば良いのか、キョロキョロしてしまいカメラが「迷い箸」状態だ。広角で狙うか、望遠でアップするか。快晴なので手前の紫陽花と遠景の下田富士や寝姿山と街並との明暗コントラストが大きく苦労する。遠景に露出を合わせると、花は暗くなり、花に露出を合わせると遠景は飛んでしまう。結局手当たり次第撮りまくって駄作を重ね、そうして選びきれないもどかしさ。圧倒的な景観を目の当たりにして興奮し、視座を失ってしまう。何を表現しようというのか。そこに情感は写し出されているのか。綺麗な花を綺麗に撮ることは、現代のデジタルカメラを持ってすればそれほど難しいことではない。花が綺麗であればあるほど、景色が「すごい」ならすごいほど、そこに何を読み取るのか。まだまだ腕とセンスと選択眼を磨かねば。今回は満足のいくベストショットがない。


いくつかのショットをご紹介。まずはペリーロード沿いの紫陽花














次は、いよいよ下田公園の紫陽花たち

開国記念碑







寝姿山遠望















下田港



下田富士遠望















(使用機材:Leica SL + Vario Elmar 24-90)



2017年6月4日日曜日

東山魁夷の京都 その今は...

東山魁夷「年暮る」
1968年(昭和43年)
山種美術館蔵

2016年(平成26年)2月同じアングルで撮影
ホテルオークラ京都(旧京都ホテル)から


 川端康成が「今のうちに京都を描いておいて欲しい。そのうち京都は無くなる」とある画家に懇願したのが昭和30年代後半1965年頃だと言われている。その画家とは東山魁夷である。東山魁夷は大自然の中の静寂と優しさの世界をモチーフとする風景画家としてその名声を博していた。その代表作がこの1982年に描いた「緑響く」。東山魁夷といえば思い浮かべるのがこの作品だろう。川端康成はその世界に陶酔し、ぜひ東山魁夷に古都の情緒を後世に残して欲しいと思った。

東山魁夷「緑響く」
1982年
長野県信濃美術館蔵


 一方で、東山魁夷はその「国民的風景画家」としての名声に反して自分の中では葛藤に苛まれていたという。川端康成が「懇願する」、人の手が入った都市、日本の文化のエッセンスに満ちた京都を描くことに逡巡していたという。結局、心を決めて京都へロケハンに出かけ、幾つかの名作を生み出すことになる。新しい東山魁夷ワールドを開くことになるわけだ。その旅の最後に描いたのがこの「年暮る」。町家の甍に深深と降り積む雪。晦日の京都は歩く人の姿もなく、わずかに町家の窓から漏れる明かりと、道路端に駐車する一台の車が、この静かな雪の大晦日を過ごす人々のこの町にあることを示唆している。町に漂う静けさ。こういう京都という町の描き方もあるのか、と。東山ブルーの極致である。ただよく見ると軒下の壁は青緑で描かれていて、雪景色と町家の甍のコンビネーションから来る雪あかりの町にほどよい引き締め効果を与え、全体に独特の落ち着きを醸し出している。東山魁夷は、この界隈の風景を描くにあたって江戸時代の与謝蕪村の描いた「夜色楼台図」に着想を得たのではないかと言われている。しかし、その構図には空もなく、山もない。ただ雪降りしきる町屋の甍が連なる光景が切り取られている。

 私も京都での定宿にしているホテルオークラ京都、かつての京都ホテル。その東山側の部屋からは賀茂川を隔てて東山一帯が展望できる。カメラのファインダーで覗くと、まさに「年暮る」に描かれた要法寺を含む町の一角を切り取ることができる。東山魁夷もこの旧京都ホテルの屋上(旧館)からスケッチしたと言われている。「年暮る」を見た途端、京都ホテルからの景色を思い出したのも宜なるかな。

 「年暮る」が描かれてから半世紀。今、同じ場所に建つホテルの窓から東山界隈を見回すと、川端康成がいみじくも予見した通り、京都はその伝統的な町の景観を失ってしまった。時代の流れと言って仕舞えばそれまでだが、東山魁夷が描いた京都の町屋のとうとうたる甍の波は消え去っていた。わずかに要法寺の甍にその痕跡を残すのみだ。東山魁夷は、川端康成が危惧したように家並みは失われても、この寺は残るのだろうと予想して画の上部に据えたのかもしれない。

 京都はその1200年の歴史の中で、度々の戦乱や災害で町が焼かれ、破壊され、荒廃した。しかし、その度に再建され、日の本のミヤコ、ミカドの住まう帝都として繁栄を維持してきた。そしてその伝統的な街並み、景観は、つい最近まで継承されていた。しかし、先の大戦(といっても「応仁の乱」ではないぞよ)で戦火に巻き込まれることもなく、生き残ったこの町が、平和と繁栄を謳歌した時代に、これほどまでに破壊されるとは。戦争も騒乱も人間のなせるワザであるが、カネで地上げするのも人間の業なのだ。物欲煩悩止まるところを知らず、か。



与謝蕪村「夜色楼台図」
1778年(安永7年)〜1783年(天明3年)頃の作品
京都賀茂川の西岸三本木町の茶屋から眺めた雪の夜景だとか。
しかし実際の風景を写実的に描いたのではなく、蕪村の心象風景を描いたのだろう。


2016年2月
夜景
一本の光の道は南禅寺参道

2016年2月
翌朝
東山三条は曇っている



2017年5月30日火曜日

「出島の三学者」 ケンペル、ツュンベリー、シーボルト


 江戸時代、長崎出島のオランダ商館に滞在した「出島の三学者」と言われたのが、ケンペル、ツュンベリー、シーボルトだ。ケンペルは江戸時代元禄年間、第5代将軍綱吉の時代、ツュンベルクは第10代将軍家治、側用人田沼意次の時代、シーボルトは第11代将軍家斉時代(在位50年という長期政権)とそれぞれ滞在している。ケンペルからツュンベリーは85年、ツュンベリーからシーボルトは48年という時間の隔たりがある。。

 三人の共通点は、医者であり植物学者であり、博物学者であるという学者繋がり。オランダ商館に医者が必要であったことは理解できるが、植物学者が派遣されてきたことには事情がある。もちろん薬草として有用な植物の研究、植物薬品学が医学と切っても切れない学問領域であったことがあるのだが、世界中から珍しい植物を集めるplant hunterが活躍する時代に入っていたという背景もある。貴族や富豪の間で、世界中の珍品植物を集めるコレクターがいた。そうした需要、パトロンがあって、「未開の地」で出かける植物学者への期待も高かった。オランダ東インド会社付きの医者というポジションへの応募も多かったのだろうと推察される。

 もう一つの共通点は三人ともオランダ人ではないという点だ。ケンペルはドイツ人、ツュンベリーはスウェーデン人、シーボルトはドイツ人である。したがってオランダ語はネイティヴではなく、オランダ東インド会社就職に際して事前語学研修してから長崎にやってきた。むしろ長崎の和蘭陀通詞のほうがオランダ語が綺麗で訛りがなかったらしい。通詞に最初は彼らがオランダ人では無いのでは?と怪しんだが、オランダの山岳地方の方言だと言って押し通したらしい。干拓地ばかりで山などないのに、オランダ本国を知らない日本人は、それ以上詮索しなかった。このようにヨーロッパは国を越えて人が自由に往来していた。特に世界に進出していた海洋帝国オランダにとって、海外要員確保は大事な課題だっただろう。その一方で世界に出て行こうとする野心を持った人間にとってオランダは魅力的だっただろう。国策総合貿易商社の先駆けである、オランダ東インド会社は人気の就職先だったに違いない。ちなみに1600年、オランダ船リーフデ号で豊後に漂着して、その後家康の顧問になった「青い目のサムライ」三浦按針(William Adams)もオランダ人ではなくイギリス人だった。

 三人の中では、シーボルトがあまりにも歴史上有名で、日本に与えた影響の大きさとともに、当時のヨーロッパ、アメリカに日本学を広めた功績についても様々な研究や著作、小説やドラマで紹介されている。したがってここでは、屋上屋を重ねるような説明を控えておこう。

 しかしケンペルや、ましてツュンベリーについてはあまり知られていないので少々紹介しておきたい。

 ケンペルはヨーロッパにおける日本学のいわば開祖と言って良いだろう。彼の残した「廻国奇談」「日本誌」は、江戸時代の爛熟期である元禄時代、第5代将軍綱吉のころの日本を俯瞰、分析した貴重な資料だ。日本でも江戸期より彼の残した著作の研究は進められているが、「知る人ぞ知る」で、シーボルトほどの知名度はないかもしれない。その「日本誌」(The History of Japan) は彼の生前には出版されるに至らず、死後、その原稿を入手した英国王室付き医官サー・ハンス・スローンによって英語版、仏語版、蘭語版が出版された。その原本は現在大英博物館に収蔵されている。またドイツ語版がドームにより出版(Geschichte und Bescreibung von Japan)された。このうちフランス語版がのちにディドロの百科全書に全面引用されるなど、その後の日本研究の「定本」となり、やがて19世紀のジャポニズムにつながってゆく。ケンペルの133年後に長崎に赴任したシーボルトや、163年後に来航したペリー提督も、この「日本誌」を事前に研究しており、彼らの歴史上に残した功績にも大きな影響を与えている。

 ケンペルはこの中で、将軍綱吉時代の対外政策(すなわちのちに「鎖国」と称される政策)について、肯定的に評価している。この記述が1801年に江戸の蘭学者志筑忠雄に紹介された。志筑は、この政策を「鎖国」という言葉を使って表現し、それが後に一般的に使われるようになったと言われている。ケンペル自身は「鎖国」という言葉を使っていないし、幕府も自らの政策を「鎖国」と称したことは一度もないのだが、この言葉が一人歩きしてしまったというわけだ。

 ケンペルは出島滞在中、商館長の江戸参府に2回同行して長崎から江戸まで旅をしている。この時の記録を邦訳したのが「江戸参府旅行日記」だ。将軍綱吉の前で「オランダ踊り」をやらされている様が挿画として紹介されている。

 一方の、ツュンベリーは、むしろ日本学や、日欧交流の歴史的な観点からの評価よりも、植物学者としての名声が先立っている。来日前、母国スウェーデンのウプサラ大学で世界的な植物学者リンネに学んだ。そのようなリンネの弟子で、当時のヨーロッパにおける植物学の気鋭の学者が鎖国下の日本、長崎まで赴任してきたところに興味を惹かれる。植物学者にとってそれほど日本は行ってみたい魅力的な国であったのだろうか。出島滞在中、梅毒の特効薬を用いて日本人患者の治療に劇的な効果を上げて、畏敬の念を持たれている。のちのシーボルトもそうであったように、蘭学、とりわけ蘭方医学の日本に与えた影響は計り知れないものがある。

 彼も出島滞在中一度商館長に同行して「江戸参府」している。第10代将軍家治治世、田沼意次が幕府内で権勢を振るっていた時代である。田沼は重農主義から重商主義へと政策転換を図ることに力を注ぎ、蘭学も奨励した。オランダ商館一行の将軍謁見も盛大に行われた。その時の記録である「江戸参府随行記」で、彼の記述はあまり私見や偏見を含まず、科学者らしい客観性を持って日本を観察した様子が見て取れる。ただ、江戸参府の機会以外は、出島から出ることが禁じられていたため、日本国における植物採集、植物学研究という観点からは、これ以上はあまり成果が期待できないと考え、一年で帰国を願い出ている。

 帰国後、彼はウプサラ大学教授にもどり、「1770〜79年にわたる欧州、アフリカ、アジア旅行記」(スウェーデン語版1788〜1779年)を出版。このうちの3巻4巻に記された日本の部分が、邦訳された「江戸参府随行記」である。
そしてウプサラ大学学長に就任するなどアカデミアとしての生涯を全うした。


 以下、三人の肖像と略歴を掲載する。


ケンペル肖像
実は確かなものは残っていない。
これは後世想像で描かれたという
英語版Wikipediaより



ケンペル:Engelbert Kämpfer (1651-1716)

ドイツ人の医師、植物学者、博物学者
レムゴー出身
1690年オランダ東インド会社医師として長崎に
この間2度江戸参府
1692年バタヴィア経由で帰国
ライデン大学より医学博士
1712年、「廻国奇談」出版
1727年、彼の死後ハンス/スローンにより「日本誌」英語、仏語、蘭語出版
大英博物館に収蔵









ツュンベリー肖像
長崎歴史博物館蔵


ツュンベリー:Carl Peter Thunberg (1743~1823)

スウェーデン人の医者、植物学者
ウプサラ大学で植物学者の泰斗リンネに師事
1775年、オランダ東インド会社医師として長崎に
1776年、江戸参府
同年、バタヴィアへ帰参
1779年、帰国、ウプサラ大学教授
1781年、ウプサラ大学学長就任

なお、日本語では彼のスウェーデン名Thunbergを「ツンベリー」「ツュンベリー」「テュンベルク」「ツンベルク」などと表記することがある。







シーボルト肖像
川原慶賀筆





シーボルト:Phillipp Franz von Siebold (1796-1866)

ドイツ人の医師、博物学者、植物学者
貴族/医者の家系に生まれる
1823年、オランダ東インド会社の医師として長崎来訪。
来日後間もなく滝と結婚、イネをもうける
1824年、鳴滝塾創設
1828年、帰国に際し難破。その際に禁制の日本地図を持っていたことが発覚(シーボルト事件)
1830年、国外追放
1859年、開国後、オランダ貿易会社の顧問として再来日(息子アレキサンダーと共に)
幕府顧問に
1862年、帰国







 東洋文庫の「江戸参府」三部作。

 シーボルト著、斉藤信訳「江戸参府紀行」
 ケンペル著、斉藤信訳「江戸参府旅行日記」
 ツュンベリー著。高橋文訳「江戸参府随行記」

 古書店めぐりでついに三部揃い踏みでゲットすることができた。どれも、ケンペル、ツュンベリー、シーボルトの世界周航旅行記や日本旅行記として後世、ヨーロッパ各国で出版されたものの中から、日本人研究者により江戸参府部分を抜き出して日本語訳したものである。シーボルト版はドイツ語版の翻訳で1967年斉藤信氏により初版が、ケンペル版はドイツ語版のいわゆるドーム本からの翻訳で1977年同じく斉藤信氏により初版が刊行された。さらにツュンベリー版についてはスウェーデン語ということもあり、1994年に、スウェーデン語に通じ、しかも薬史学の専門家である高橋文氏を得ることにより初版が刊行された。こちろん三人三様の日本に関する観察、分析、関心事、批判があるが、同じ長崎から江戸までの旅行記という横軸に、140年ほどの時間の経過を縦軸にとって比較しながら読むと面白い。

 ところでケンペルの「日本誌」の日本語訳は今井正編訳『日本誌 日本の歴史と紀行』(上下2巻)が1973年に霞ケ関出版より刊行され、その後、1989年に改訂増補版(上下2巻)、2001年に新版(7分冊)が刊行されている。ドイツ語のいわゆるドーム版を翻訳したものである。