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2017年5月30日火曜日

「出島の三学者」 ケンペル、ツュンベリー、シーボルト


 江戸時代、長崎出島のオランダ商館に滞在した「出島の三学者」と言われたのが、ケンペル、ツュンベリー、シーボルトだ。ケンペルは江戸時代元禄年間、第5代将軍綱吉の時代、ツュンベリーは第10代将軍家治、側用人田沼意次の時代、シーボルトは第11代将軍家斉時代(在位50年という長期政権)とそれぞれ滞在している。ケンペルからツュンベリーは85年、ツュンベリーからシーボルトは48年という時間の隔たりがある。。

 三人の共通点は、医者であり植物学者であり、博物学者であるという学者繋がり。オランダ商館に医者が必要であったことは理解できるが、植物学者が派遣されてきたことには事情がある。もちろん薬草として有用な植物の研究、植物薬品学が医学と切っても切れない学問領域であったことがあるのだが、世界中から珍しい植物を集めるplant hunterが活躍する時代に入っていたという背景もある。貴族や富豪の間で、世界中の珍品植物を集めるコレクターがいた。そうした需要、パトロンがあって、「未開の地」で出かける植物学者への期待も高かった。オランダ東インド会社付きの医者というポジションへの応募も多かったのだろうと推察される。

 もう一つの共通点は三人ともオランダ人ではないという点だ。ケンペルはドイツ人、ツュンベリーはスウェーデン人、シーボルトはドイツ人である。したがってオランダ語はネイティヴではなく、オランダ東インド会社就職に際して事前語学研修してから長崎にやってきた。むしろ長崎の和蘭陀通詞のほうがオランダ語が綺麗で訛りがなかったらしい。通詞に最初は彼らがオランダ人では無いのでは?と怪しんだが、オランダの山岳地方の方言だと言って押し通したらしい。干拓地ばかりで山などないのに、オランダ本国を知らない日本人は、それ以上詮索しなかった。このようにヨーロッパは国を越えて人が自由に往来していた。特に世界に進出していた海洋帝国オランダにとって、海外要員確保は大事な課題だっただろう。その一方で世界に出て行こうとする野心を持った人間にとってオランダは魅力的だっただろう。国策総合貿易商社の先駆けである、オランダ東インド会社は人気の就職先だったに違いない。ちなみに1600年、オランダ船リーフデ号で豊後に漂着して、その後家康の顧問になった「青い目のサムライ」三浦按針(William Adams)もオランダ人ではなくイギリス人だった。

 三人の中では、シーボルトがあまりにも歴史上有名で、日本に与えた影響の大きさとともに、当時のヨーロッパ、アメリカに日本学を広めた功績についても様々な研究や著作、小説やドラマで紹介されている。したがってここでは、屋上屋を重ねるような説明を控えておこう。

 しかしケンペルや、ましてツュンベリーについてはあまり知られていないので少々紹介しておきたい。

 ケンペルはヨーロッパにおける日本学のいわば開祖と言って良いだろう。彼の残した「廻国奇談」「日本誌」は、江戸時代の爛熟期である元禄時代、第5代将軍綱吉のころの日本を俯瞰、分析した貴重な資料だ。日本でも江戸期より彼の残した著作の研究は進められているが、「知る人ぞ知る」で、シーボルトほどの知名度はないかもしれない。その「日本誌」(The History of Japan) は彼の生前には出版されるに至らず、死後、その原稿を入手した英国王室付き医官ハンス・スローン卿によって英語版、仏語版、蘭語版が出版された。その原本は現在大英博物館に収蔵されている。またドイツ語版がドームにより出版(Geschichte und Bescreibung von Japan)された。このうちフランス語版がのちにディドロの百科全書に全面引用されるなど、その後の日本研究の「定本」となり、やがて19世紀のジャポニズムにつながってゆく。ケンペルの133年後に長崎に赴任したシーボルトや、163年後に来航したペリー提督も、この「日本誌」を事前に研究しており、彼らの歴史上に残した功績にも大きな影響を与えている。

 ケンペルはこの中で、将軍綱吉時代の対外政策(すなわちのちに「鎖国」と称される政策)について、肯定的に評価している。この記述が1801年に江戸の蘭学者志筑忠雄に紹介された。志筑は、この政策を「鎖国」という言葉を使って表現し、それが後に一般的に使われるようになったと言われている。ケンペル自身は「鎖国」という言葉を使っていないし、幕府も自らの政策を「鎖国」と称したことは一度もないのだが、この言葉が一人歩きしてしまったというわけだ。

 ケンペルは出島滞在中、商館長の江戸参府に2回同行して長崎から江戸まで旅をしている。この時の記録を邦訳したのが「江戸参府旅行日記」だ。将軍綱吉の前で「オランダ踊り」をやらされている様が挿画として紹介されている。

 一方の、ツュンベリーは、むしろ日本学や、日欧交流の歴史的な観点からの評価よりも、植物学者としての名声が先立っている。来日前、母国スウェーデンのウプサラ大学で世界的な植物学者リンネに学んだ。そのようなリンネの弟子で、当時のヨーロッパにおける植物学の気鋭の学者が鎖国下の日本、長崎まで赴任してきたところに興味を惹かれる。植物学者にとってそれほど日本は行ってみたい魅力的な国であったのだろうか。出島滞在中、梅毒の特効薬を用いて日本人患者の治療に劇的な効果を上げて、畏敬の念を持たれている。のちのシーボルトもそうであったように、蘭学、とりわけ蘭方医学の日本に与えた影響は計り知れないものがある。長崎出島にいわば閉塞された環境での研究であったが、日本のオランダ通詞や蘭学、蘭方医学を志す若者達に大きな影響を与え、彼らの協力もあり研究成果を上げた。帰国後「日本植物誌」を出している。

 彼も出島滞在中一度商館長に同行して「江戸参府」している。第10代将軍家治治世、田沼意次が幕府内で権勢を振るっていた時代である。田沼は重農主義から重商主義へと政策転換を図ることに力を注ぎ、蘭学も奨励した。オランダ商館一行の将軍謁見も盛大に行われた。その時の記録である「江戸参府随行記」で、彼の記述はあまり私見や偏見を含まず、科学者らしい客観性を持って日本を観察した様子が見て取れる。ただ、江戸参府の機会以外は、出島から出ることが禁じられていたため、日本国における植物採集、植物学研究という観点からは限界もあり、これ以上はあまり成果が期待できないと考え、一年で帰国を願い出ている。

 帰国後、彼はウプサラ大学教授にもどり、「1770〜79年にわたる欧州、アフリカ、アジア旅行記」(スウェーデン語版1788〜1779年)を出版。このうちの3巻4巻に記された日本の部分が、邦訳された「江戸参府随行記」である。
そしてウプサラ大学学長に就任するなどアカデミアとしての生涯を全うした。



 以下、三人の肖像と略歴を掲載する。


ケンペル肖像
実は確かなものは残っていない。
これは後世想像で描かれたという
英語版Wikipediaより



ケンペル:Engelbert Kämpfer (1651-1716)

ドイツ人の医師、植物学者、博物学者
レムゴー出身
1690年オランダ東インド会社医師として長崎に
この間2度江戸参府
1692年バタヴィア経由で帰国
ライデン大学より医学博士
1712年、「廻国奇談」出版
1727年、彼の死後ハンス/スローンにより「日本誌」英語、仏語、蘭語出版
大英博物館に収蔵









ツュンベリー肖像
長崎歴史博物館蔵


ツュンベリー:Carl Peter Thunberg (1743~1823)

スウェーデン人の医者、植物学者
ウプサラ大学で植物学者の泰斗リンネに師事
1775年、オランダ東インド会社医師として長崎に
1776年、江戸参府
同年、バタヴィアへ帰参
1779年、帰国、ウプサラ大学教授
1781年、ウプサラ大学学長就任

なお、日本語では彼のスウェーデン名Thunbergを「ツンベリー」「ツュンベリー」「テュンベルク」「ツンベルク」などと表記することがある。







シーボルト肖像
川原慶賀筆





シーボルト:Phillipp Franz von Siebold (1796-1866)

ドイツ人の医師、博物学者、植物学者
貴族/医者の家系に生まれる
1823年、オランダ東インド会社の医師として長崎来訪。
来日後間もなく滝と結婚、イネをもうける
1824年、鳴滝塾創設
1828年、帰国に際し難破。その際に禁制の日本地図を持っていたことが発覚(シーボルト事件)
1830年、国外追放
1859年、開国後、オランダ貿易会社の顧問として再来日(息子アレキサンダーと共に)
幕府顧問に
1862年、帰国





平凡社東洋文庫の「江戸参府」三部作。

 シーボルト著、斉藤信訳「江戸参府紀行」
 ケンペル著、斉藤信訳「江戸参府旅行日記」
 ツュンベリー著。高橋文訳「江戸参府随行記」

 古書店めぐりでついに三部揃い踏みでゲットすることができた。どれも、ケンペル、ツュンベリー、シーボルトの世界周航旅行記や日本旅行記として後世、ヨーロッパ各国で出版されたものの中から、日本人研究者により江戸参府部分を抜き出して日本語訳したものである。シーボルト版はドイツ語版の翻訳で1967年斉藤信氏により初版が、ケンペル版はドイツ語版のいわゆるドーム本からの翻訳で1977年同じく斉藤信氏により初版が刊行された。さらにツュンベリー版についてはスウェーデン語ということもあり、1994年に、スウェーデン語に通じ、しかも薬史学の専門家である高橋文氏を得ることにより初版が刊行された。こちろん三人三様の日本に関する観察、分析、関心事、批判があるが、同じ長崎から江戸までの旅行記という横軸に、140年ほどの時間の経過を縦軸にとって比較しながら読むと面白い。

 ところでケンペルの「日本誌」の日本語訳は今井正編訳『日本誌 日本の歴史と紀行』(上下2巻)が1973年に霞ケ関出版より刊行され、その後、1989年に改訂増補版(上下2巻)、2001年に新版(7分冊)が刊行されている。ドイツ語のいわゆるドーム版を翻訳したもので、イギリスのハンス・スローン卿が手がけた英語版からの翻訳ではない。










2017年5月23日火曜日

大航海時代と日本 〜「長崎出島」は「鎖国」の象徴か?〜

 
ベランの「長崎の街と港」図
1750年
南北が逆になっている

日本の版画「肥州長崎之図」
1800年ころ
ケンペルの「出島の図」


 私の古書、古地図探訪の旅が終わらない。「時空トラベラー」は、古代倭国を飛び出して、大航海時代のジパングにも思いを馳せる。以前から探していた古地図、ベラン( Bellin, Jacques Nicolas)の「長崎の街と港」(Grundriss von dem Hafen und der Stadt Nangasaki)を入手した。1750年パリで刊行されたもの。プレヴォ(Antonine-Francois Prevost)が編集した「旅行記大全」(Histoire Generale des Voyages)の第10巻に収録されている。日本で言えば江戸時代中期、ヨーロッパ人が描いた鎖国時代の唯一の国際貿易港である長崎の都市地図だ。オランダ商館(オランダ東インド会社長崎支店)が置かれた出島がはっきりと描かれている。

ベランはフランスの地図製作者で地理学者であり、水路測量技師でもあった。ベランは、長崎のオランダ商館のドイツ人医師、ケンペル(Engelbert Kaempher:1690〜92年日本に滞在)の「日本誌」(彼の死後1727年スローンにより英訳され出版)に含まれる長崎図を元にこの地図を作成したと言われている(下段に掲載した2021年10月26日の「追記」参照)。ケンペルの原画に比べるとかなり簡略化して描かれている(上掲出のDejima図は1779年のいわゆるドイツ語のドーム版に収録されているもの)。1750年頃には出島と唐人屋敷地区の間の海を埋立、新たな幕府直轄の蔵屋敷が設置された(1800年頃の「肥州長崎之図」参照)が、ベランの図にはそれが描かれていない。やはり1636年、寛永年間に出島が造成された直後(あるいは1641年にオランダ商館が平戸からが出島に移された頃)の図がもとになっている証拠であろう(すなわち100年前の長崎の様子が描かれたもの)。長崎の地図は日本の製作者によるものは数多く出版されているし、幕末開港期、明治以降の復刻版も多い。しかし、江戸時代にヨーロッパ人が製作したものはなかなか見つからない。幕府が地図を国外に持ち出すことを禁じていたことが大きな理由であろう。ケンペルの原画というものも、日本の地図をもとにしたものではなく、彼自身のスケッチや見聞による復元であろう。それをもとに100年後に「復刻」したベランの図(もちろん本人が見聞したわけでもない)も、長崎の現状を正確に表したものとはいえないが、おおよその幕府関連の重要施設の配置は再現されている。幕府の「遠見番所」などは、広大な敷地を有する「兵舎」であるかのように誇張して描かれている。しかも湾の対岸にも大きな「兵舎」が描かれている。また、出島に比べ「唐人屋敷」地区が波止場を有した大きな施設であったように描かれているのが興味深い。

 今回は丸善雄松堂の古書カタログで見つけた。早速、丸善日本橋店のワールドアンティークブックプラザに問い合わせた。残念ながら現品は福岡店に展示されていて、しかも地元の大学から予約が入っているとのこと。しかし、より程度の良いものが2点入荷したと電話が入ったので見に行くと、一点は彩色が施された1752年のもの。もう一点が1750年の無彩色だが非常に程度の良いものであった。迷ったが無彩色版を購入した。以前から「長崎」、「出島」をキーワードに、ロンドンのセシルコート古書店街や、ニューヨークのマディソン街の古書店でも探したがなかなか見つからなかったものだ。探しているときはなかなか出てこないが、出るときは結構まとまって出るものだ。そしてやはり日本の古書店の方がこうした日本関連のものは見つけやすいのだろう。ペリーの「日本遠征記」を探していたときの時と同じ状況だ。



 なぜ「出島」が生まれたのか?

 誰もが知る通り、長崎は「鎖国時代」我が国唯一の対外貿易の窓口となった町である。徳川幕府の直轄地で、オランダと中国にのみに門戸が開かれていた。キリスト教徒(プロテスタントであるが)であるオランダ人は湾内に造成された埋立地「出島」に商館を置くことが求められ、キリスト教徒でない中国人は日本人と雑居していても構わないのだが、大浦の一角に居留地(いわゆる唐人屋敷)を置くこととした。ベランの地図を見ても出島が特異な扇型形状の人工的な施設であることがわかる。また、出島の南の(上の)対岸には中国人居留地区(唐人屋敷)が描かれている。この出島こそ、江戸時代の対外孤立策「鎖国政策」のシンボル的なランドマークと捉えられている。なぜこのような施設が生まれたのか。その本当の意味は何か。古地図が投げかける「問い」に挑戦してみよう。そのためには少々、大航海時代にユーラシア大陸の西端のヨーロッパからはるばる日本にやってきた人々の歴史を振り返ろう。日欧交流の歴史だ。


 ヨーロッパと日本との出会い。幻想から現実へ

 ユーラシア大陸の西端にいたヨーロッパ人にとって、かつて日本はユーラシア大陸の遥か東端、中国の向こうの海中に存在する謎に満ちた「黄金の国」であった。「宮殿は全て黄金の屋根で覆われ、無尽蔵に金が取れる夢の国だ」と。その国の名は「ジパング」。このような「おとぎの国」像は、13世紀マルコポーロの「東方見聞録」に記された記事が元になっている。こうして「黄金の国」ジパング求めてヨーロッパ人の大航海時代は始まった。そういわれるほどのブームを巻き起こした。マルコ・ポーロはイスラム商人の助けを借りながら、陸路で中国元王朝の都「大都」に到達した。そこで彼は周辺国事情を聞き書きしたものと思われる。そのなかの特筆すべき国、それが東の海中にあるジパングである。彼は実際にジパングへ渡ったわけではない。全て伝聞による情報というわけだ。未知の黄金郷へという野望に駆り立てられた冒険者が次々と船出していった。こうして東回りでジパングに向かうバーソロミュー・ディアスやバスコ・ダ・ガマの航路に対し、西回り航路を開拓するしようとクリストファー・コロンブスのジパング/インド到達航海が実行された。1492年の新大陸アメリカの発見(現在のカリブ海西インド諸島サンサルバドル島上陸)!?コロンブスは最後まで自分はインドに到達したと信じていた。さて次はジパングだ!と。実際はインドまで到達する途中の大西洋と太平洋の間に横たわる新大陸であることがわかった。歴史上の大誤解の一つだ。やがて、探していた金が採れることがわかり、黄金の国、エルドラードはアメリカ大陸にあったと熱狂することになる。そしてだんだん「黄金の国ジパング」が幻想であることがわかってくる。

 その後、スペイン艦隊を率いたマゼランはその世界一周航海(1519〜22年)で、1521年にフィリピンに向かう途中ジパング島の近海を航行したが(航海日誌に記録がある)、寄って見ようともせず通過している。ジパング・パッシングだ。このころにはもはやジパング黄金伝説は幻想に過ぎないと考えられていた証左であろう。実際、16世紀初頭の日本といば室町時代後半。先の1467〜77年の10年にわたる応仁の乱で都は荒廃し、幕府統治能力が瓦解に瀕し、やがて戦国時代へ突入する時期である。そもそも資源に乏しく、農業生産力も(主として米であるが)自国の消費で手一杯。絹は中国からの輸入に頼る。銅銭や陶磁器も中国から輸入。金や銀や香料などの希少資源を求めて世界を徘徊する「大航海時代」の主役、略奪帝国主義者たちにとって「ジパング」はもはや魅力的な到達目標ではなかった。

 日本に最初に上陸したヨーロッパ人はポルトガル人であった。それは1543年(天文12年)種子島にやってきた。と言うより正確には「漂着した」。彼らはこのとき鉄砲を持っていたので、これが日本にとって、歴史の画期「鉄砲伝来」となった話は教科書にも出ている。鉄砲の伝来時期には諸説あるが、ともあれポルトガル人が意図せず「偶然」漂着し、期せずしてあのジパングとの交流が始まった。「おお!ここがあのジパングか!」と。しかし。これはポルトガルと日本の正式な外交関係、貿易関係の開始ではない。その後1550年ポルトガルのインド副王の使節が平戸にやってきて交易を求め、織田信長の庇護によりポルトガルとの「南蛮貿易」が始まった。

 次にやってきたのはスペイン人。すなわちイエズス会の宣教師フランシスコ・ザビエル一行だ。1549年(天文18年)鹿児島に上陸。もちろんカトリックを布教することが目的だ。上陸後、豊後府内(大分)や博多、山口などを経て都へと進む。大友宗麟などの九州の大名や都の織田信長などの新しもの好き権力者たちに受け入れられていった。もっとも彼らの直接的な関心はキリスト教よりも鉄砲や珍しい交易品の数々であった。ただスペイン国王はあまり日本との交易に関心を示さなかったようだ。国同士の交易に発展するのは、1591〜2年マニラからスペインの公式使節が来訪してからのことだ。これ以降、鎖国まで次々と渡来する宣教師に誘われる形で「南蛮人」が渡来する。

 やがてイエズス会宣教師の勧めで「天正遣欧少年使節」がローマに派遣された1582年(天正10年)〜1590年(天正18年)のことである。イエズス会の辺境の地の異教徒に対する布教活動の華々しい成果として。ローマ法王に謁見し、各訪問先では、珍しさもあって大歓迎された。あのジパングが、日本( Happon)となり、ヨーロッパ人が違った意味で大きな関心を抱くきっかけになった。このころの日欧交流の主役は「南蛮人」すなわちポルトガル人、スペイン人であった。「紅毛人」すなわちオランダ人やイギリス人が登場するのはこの後である。

 その次にやってきたのは、イギリス人ウィリアム・アダムズ。1600年(慶長5年)オランダ船リーフデ号の航海士として豊後府内に「漂着」した。のちの三浦按針である。徳川家康の外交顧問として日本に滞在し、士分に取り立てられ三浦半島に領地をもらった。同じくオランダ人ヤン・ヨーステン(のちの八重洲)も上陸。オランダとイギリスという新興国の人間がジパングに到達するようになる。そして彼らの情報に基づきやってきたのが、1609年、正式な国書を持ったオランダからの使節。家康から貿易朱印状を得て平戸に商館を開いた。最後に、1613年、ウィリアム・アダムスからの手紙に刺激されてバンタムのイギリス東インド会社からジョン・セーリスが平戸に来航。。国王ジェームス1世の国書を家康に奉呈し、平戸にイギリス商館を開いた。

 このように日本への来航時期を見ると、アメリカやアジアの他の諸国に比べ、かなり遅いことがわかるだろう。ポルトガル人の種子島漂着はバスコ・ダ・ガマのインドカリカット到達の45年後(正式な使節の来航は50年後)、スペイン人の日本到達は、コロンブスのアメリカ到達の57年後(正式な使節の来航は100年後)、マゼランの世界周航の75年後である。イギリスやオランダが遅いのは後発国であるから理解できるが、全体的に香料や金を狙って世界中を駆け回っていたポルトガルやスペインが半世紀遅れてようやく日本に到達したのは、それだけ日本への関心がなかったことの証左であろう。


 対日貿易を巡る競争と禁教令

 その当時、日本との貿易を牛耳っていたのはポルトガルである。彼らは中国(明)のマカオを拠点として、明と日本との中継貿易で巨大な利益を上げていた。すなわち新たに発見された日本の石見銀山の銀で、中国の絹や陶器などを買い、日本に輸出してまた銀を得る。そのマージンを取って利益を得るという商社的な貿易。これは当時、日明のい直接貿易が倭寇問題で停止(明国の鎖国状態)されていたという背景がある。その隙間を狙った旨みのある貿易であった。当初はマカオを拠点に活動していたが、やがて平戸、長崎に進出し、貿易量は拡大の一途をたどりポルトガルに莫大な利益をもたらした。それはポルトガル本国との貿易額を遥かに上回った。

 ここに割って入ろうとしたのがスペインから独立したばかりの新興国オランダだ。ポルトガルはこの頃すでにスペイン王の支配下にあったが、ブラジル植民地の獲得、メキシコやペルーからの金、銀供給も確保して繁栄を誇っていた。そこへこの明、ポルトガル、日本の三角貿易で高い利益率の商売が成功したわけだ。一方、イギリスやオランダは新興勢力としてアジアや新大陸(アメリカ)における交易参入、さらには植民地覇権に意欲を燃やしていた。ホームのヨーロッパにおけるプロテスタント勢力とカトリック勢力との争いも背景にあり、旧勢力であるスペイン・ポルトガルとの争いが、アウェーである東洋にも飛び火した格好だ。この新興国の対日貿易進出競争は徐々に熾烈を極めることになる。

 一方、同じ新興勢力であるオランダとイギリスの競争はオランダに軍配が上がる。イギリスは、日本市場参入に失敗し、結局平戸の商館をたたみ撤退する。のちに再チャレンジする動きもあったが、ただイギリスはこののちアメリカや中東、インド、インドシナ、中国、オーストラリアと、七つの海に君臨するに広大な大英帝国を築き始めていて、徐々に極東の日本に手を伸ばす余裕も、インセンティヴも薄れていた。一方のオランダは、そうしたライバルの撤退という幸運も有之、何と言っても対日貿易の高収益は魅力的であった。こうして極東の日本との貿易を独占するインセンティヴも優位な立ち位置も併せ持っていた。

 やがてオランダは日本からポルトガルの追い出しを始めた。ポルトガルが築き上げた高利回りの貿易利権を奪おうというわけだ。徳川幕府も初期にはポルトガルとの貿易を認め、長崎の出島はポルトガル人が最初の住人であった。オランダは新教プロテスタントの国であり、そもそもスペインやポルトガルの旧教カトリック国とは対立していた。そこでオランダ人は、ポルトガル/スペイン人宣教師による「日本征服」謀略説の流布を始める。こうしたオランダ人の讒言により、幕府は1612年禁教令を出した。そこへ1637年にはキリシタンや農民の反乱である「島原の乱」が勃発し、オランダのプロパガンダの正しさを証明することとなった。幕府はますますキリシタン禁教に取り組むこととなる。1639年にはポルトガル船の入港禁止とポルトガル人の追放、と、いわゆる一連の「鎖国政策」を進めた。こうして幕府はポルトガルに代わりオランダをその統制貿易の相手に選んだ。ポルトガルはそれでも幕府に対して交易を認めてくれるよう使節を送ってきたが、幕府はこれを拒絶し、使節を処刑している。ついにオランダは対日貿易を独占することに成功した。もっともオランダにとってはかなり屈辱的な管理貿易(出島に押し込められ、年一回江戸参府を義務つけられ、将軍家に臣下の礼を取る、など)であったが、それを補ってあまりあるだけのメリットがオランダにはあったようだ。一方、幕府側から見るとオランダとの貿易量は中国との貿易量の半分程度であったが、量よりも文物・知識・情報の質を重んじたのであろう。


 こうして「出島」が生まれた。

 徳川幕府は長崎を唯一の国際関門港に指定して幕府直轄領とする。そして1634年から出島築造に着手し、1636年完成する。こうして湾内に人工的な埋立地を設け、周囲を壁で囲み、市街地とは一本の橋でのみ繋がる「出島」を設けた。その橋のたもとには奉行所を置いた。前述のように当初はポルトガル人がこの出島の住人であったが、禁教令以降一連の「鎖国令」によりポルトガルを追い出し、オランダ、中国(明、清)のみを貿易相手国に指定。1641年にはオランダ人(東インド会社)を平戸から移して長崎の出島に押し込めた。こうして徳川幕府は統制貿易体制を敷き貿易と海外情報を独占した。いわば「長崎出島統制貿易特区」の創出である。

 出島のオランダ商館長は幕府に対して海外情報を定期的に提供することが義務つけられていた。これが「阿蘭陀風説書」である。オランダ商館長は自国の貿易利権を守るために積極的にこの求めに応じた。当然オランダに都合の悪い情報は入っていなかったし、長崎奉行所の通詞も、内容を吟味しながら幕府の提出する情報を取捨選択していたようだが、海外情勢の把握/分析に役立つ貴重な報告書であった。徳川幕府は、これにより「鎖国時代」初期にはキリスト教の動きに、後期には西欧の近代化の動きに細心の注意を払った。一方で、オランダ商館によるオランダ東インド会社バタビアへの報告書や、商館付きの医者であり科学者であった、ケンペル、ツンベルク、シーボルト(出島三賢人と言われた)が歴代著した「日本誌」「江戸参府記」は、「鎖国」下の日本の事情を知る貴重な情報源となった。先に掲出のベランの「長崎の街と港」地図もケンペルの「日本誌」から引用したものだ。のちにペリーが黒船を連れて浦賀に来航する際には、ケンペルとシーボルトの本を買い集めて十分に事前準備してきた。シーボルトはペリーに書簡を送り、対日交渉への助言をしている。このあたりの事情は彼の「日本遠征記」に詳しく書かれている。

 この海外情報独占体制を通じ、徳川幕府は朝廷、諸大名に比べ、海外情報を一元的に入手することができた。江戸後期に至り、ロシア、アメリカの艦船が近海に出没するようになってからも、長崎を通じてその動きを事前に把握している。1853年の米国ペリー艦隊の来航も事前に把握し、準備を進めていた。幕末期に中国の清朝がイギリス始め西欧列強に侵略される様子も知っていた。朝廷はもとより、諸藩は海外情勢に触れる機会も無く、ただ日本近海に外国船が頻繁に出没する現実を目の当たりにして警戒心を抱くようになっていた。そういう中で、ペリーの黒船来航に驚愕し、翌年、幕府が締結した日米和親条約(開国)にショックを受けた。彼らは世界の情勢を十分に知るすべがない中で、現実が先行する状況であったわけで、幕府の対応を非難し「尊皇攘夷」を叫んだのも理解できる。海外情報に接していなかった諸藩は、幕末になって慌てて藩士を「長崎留学」に出したりして、キャッチアップを図ろうとしたが、幕府の情報優位性は圧倒的であった。ただ例外は、薩摩藩の琉球貿易、対馬藩の朝鮮通信(外交・交易)、松前藩の蝦夷交易があった。中でも薩摩藩は琉球貿易を通じて幅広い海外情勢に接する機会を持っていた。こうした体制を「鎖国」と呼んでいるが、実は「鎖国=孤立」とは限らない。

 そもそも「鎖国」という言い方が正しいのか、最近は議論になっている。具体的には1612年の「寛永異教令(禁教令)」や、1633年の日本人の海外渡航禁止・帰国禁止、1639年ポルトガル船入港禁止など、数次にわたって出された幕府の命令をまとめて「鎖国令」と称している。そもそも「鎖国」と言う言葉自体は、幕府が使っていたものでもなく、先ほどのケンペルの「日本誌」に出てくる第五代将軍綱吉時代の対外政策を記述した部分を、のちに江戸時代の蘭学者志筑忠雄が一言で「鎖国」と訳したことが始めだと言われている。上述のように「鎖国」下の日本においても、長崎という外世界へのウィンドウを独占した徳川幕府は、考えられている以上に正確に海外情勢を把握していた。「出島」というアイソレートされた埋立地が、「鎖国」すなわち「孤立」政策の象徴のように見られるのだが、現代のように自由貿易が原則であるグローバルエコノミーの時代とは異なり、近世においては国家や権力者が貿易を独占する管理貿易/統制貿易は珍しいことではなかった。「出島」をその象徴と見て、江戸時代を通じて「鎖国政策」により世界から「孤立」していた、と断ずるのは誤りであろう。歴史を「鎖国」か「開国」か、白か黒かという「二分法」で片付けることに等しい議論だと思う。


 そして「出島」時代の終焉へ

 このように幕府は海外の動向を、諸藩よりは正確に把握していたが、結局は倒幕へと時代は動くこととなった。これは徳川幕府が西欧列強諸国との対応に失敗したから、圧力に屈したからということでも、西南雄藩の方が世界に目覚めていて進歩的であったからということでもない。幕府崩壊の真の理由は別のところにあった。徳川政権は、西欧列強の資本主義、帝国主義的な動きを把握し、国家の近代化の必要性を十分認識していても、結局は、武士が農民を支配する「米本位」の農本主義経済、その統治機構である「幕藩体制」がすでにこうした時代のイノベーションに対応できない枠組みになっていた。徳川幕府主導の近代化を図ろうとすれば、自らの体制を否定するところから始めなけらばならない状況になっていた。端的に言えば、支配階級であるはずの武士を食わしていけなくなっていたからだ。その旧体制(アンシャンレジーム)の象徴である武家政権徳川幕府の打倒、各地の藩の解体へと時代が進まざるを得なかった。倒幕を進めた西南雄藩とて、当初、藩主たちはアンシャンレジームの中での徳川家に代わる「政権交代」と捉えていた嫌いがある。「いやそうじゃない」と気づいたのは倒幕推進の若い下級武士たちであった。自分が所属する(ないしは出身の)藩を含む幕藩体制こそ打倒の対象になっていった。もちろんそのきっかけを作ったのは西欧列強の日本への外圧であったことは間違いない。そして世界に開かれた長崎がそうした「草莽崛起」の若者たちが集まる中心都市になったことは不思議ではない。

 だが一方、平安時代末期の平清盛以来、750年続いた「武家による統治」の仕組みを変えるのは大変なことであった。長年続いた「統治権威は朝廷」「統治権力は幕府」という二元統治体制は半ば「日本の美風」ですらあったわけだから。徳川幕府も最後には「大政奉還」すなわち統治権力を天皇に「お返しする」ことで「美風」を守ったわけだ。しかし、徳川家が「政権を返す」だけではことは収まらない。徳川家に取って代わる「武家」の統治者が出てきたのでは革命的ではない。同時に諸大名も「藩籍奉還」「秩禄処分」、究極的には「廃藩置県」ということになる。要するに武家の世の中は終りだとわからせる仕組みが必須であった。天皇を中心とする「一君万民」の統治体制の復活を宣言する。そしてこれまでの藩主・大名は天皇を守る藩屏としての「華族」に組み入れられる。すなわち「そもそも天地開闢以来、日の本は天照大神の皇孫、天皇が支配する国」であるという、永年忘れ去られていた「あるべき姿」を思い起こさせること。その原点に帰る「尊皇思想」以外に永年の武家政権を終わらせるイデオロギーはなかった。そこに1200年前の古代律令制の仕組みを持ち出して「王政復古」を唱えなければならなかった理由が有る。その1200年前の古代統治体制の復活と19世紀的国家の近代化が一体となった明治維新(Meiji Restoration)の姿がある。そこに「維新」と「復古」が同居すると言う矛盾が生じた。

 ペリー来航、日米和親条約締結の翌年、1855年、日蘭和親条約が締結され、その翌年には「出島開放令」でオランダ人の長崎市内への出入りが自由となる。1859年、出島オランダ商館が閉鎖され200年余の歴史に幕を閉じた。こうして歴史的な役割を終えた出島は明治期に徐々に周囲が埋め立てられ、島ではなくなってしまった。最近、この出島自体とそこにあった建物などの復元作業が進められている。



復元された出島跡

出島の外壁も復元された

出島の外周部。右側は海が埋め立てられた部分

オランダ商館内部






明治になってから建てられた長崎内外クラブ(左手)と出島神学校(右手)

 以下、「長崎歴史文化博物館」収蔵の阿蘭陀絵図(川原慶賀作)から。200年余にわたる出島のオランダ人の存在は長崎に独特の文化を生み出した。






2021年10月26日 追記

ケンペルの「日本誌」The History of Japanの英語版初版(スローン版1727年ロンドン)に、「長崎出島図」が掲載されており、べランの出島図(1750年)はこれを元にしていることが判明した。したがってドイツ語ドーム版の図(上記の簡略図)とは大きく異なっていることが判明。おそらくべランはこの英訳初版から翻訳したフランス語版から引用したのであろう。

ケンペル「日本誌」(英訳スローン版1727年初版)の
復刻版(グラスゴー版1909年)から
ベランの「長崎の街と港」図
1750年
南北が逆になっている

2017年5月2日火曜日

葛飾柴又帝釈天 〜寅さんだけじゃないよ〜




 連休初日は、快晴の爽やかな1日。遠出の予定などないので、近場で済まそうと辺りを見回す。柴又帝釈天はどうだ、ということになった。谷根千、根津神社に続く江戸の名所巡りって訳だ。「時空トラベラー」はせっかく東京にいるんだから、京都や奈良大和路ばかりでなく、もっと江戸を探訪しよう。
 
  柴又の帝釈天は日蓮宗の寺である。経栄山題経寺が正式名称。創建は江戸時代初期の寛永6年(1629年)。もとは房州中山法華経寺が起源とか。その後、庶民の帝釈天信仰が盛んになった江戸時代中期以降、参道に茶店や川魚料理の店が立ち並び門前町をなした。このころから寺は地元の人々から「帝釈天」と呼び習わされるようになったという。本来、帝釈天は仏を守る「天」であり、本尊は祖師堂(旧本堂)に安置されている日蓮宗のお題目「南無妙法蓮華経」を中心に諸仏の名前を配した「大曼荼羅」だ。この帝釈天は、もともと日蓮聖人のお手彫りと伝わる帝釈天板本尊が長らく行方不明となっていたが、安永8年1779年に本堂修復の際見つかった。以来、その日が庚申の日であったことから庚申参りや帝釈天信仰が庶民の間で盛んになったと言う。現在の境内の配置は二天門を入ると正面が帝釈堂。その右手がご本尊を祀る祖師堂(旧本堂)、その後ろに開山堂となっており、まるで寺の主役が入れ替わったかのようになっている様がわかる。こういう、後世に信仰の対象が代わり、その結果伽藍配置にも変化が現れる。どこかで見たようなこのパターン。そうだ奈良大和路の当麻寺だ。本来真言宗の寺で南北軸に、御本尊弥勒仏を祀る金堂、講堂が配された極めて奈良仏教に伝統的な伽藍配置であった。しかし後世、平安時代に入り阿弥陀信仰が盛んになるとともに、中将姫が織ったとされる當麻曼荼羅を祀る曼荼羅堂が西側に建てられ、ついにはこれが本堂のようになり、参詣者の利便のためにと東側に山門が付け替えられることとなった。



ここ柴又帝釈天も、帝釈堂は昭和4年の再建だそうで、二天門は帝釈堂の正面に位置している。現在の境内案内図(右図)を見ると、やはり旧本堂(現在は祖師堂)の正面に南大門がある。創建時はこちらが伽藍配置の中心軸だったのだろう。のちに庚申参り、帝釈天参りが盛んになると、本堂の左手に帝釈堂を建てたのだろう。最初は小さなお堂だったのが次第に大きなお堂に建て替えられていったのかもしれない。そしてその正面に参詣者を迎える二天門を配した。やがてその二天門に通じる参道が門前町に発展したのだろう。長い歴史の中で庶民による信仰が寺の性格や伽藍配置を変えるということは珍しいことではないようだ。こうして境内をじっくり眺めてみると色んな歴史の変遷があって面白い。

 柴又帝釈天は、山田洋次監督の人気映画シリーズ「男はつらいよ」には欠かせない柴又のランドマークであることは言うまでもない。笠智衆の御前様がいかにも箒持って出てきそうだが、こんな寺の変遷のことまで考えて映画を観ていた訳ではない。賑やかで江戸の下町情緒たっぷりの門前町にある甘味処、「くるま菓子舗」が舞台となってストーリーが展開されるおなじみの映画だ。その時代の代表的なマドンナと各地の風光明媚な景色と土地土地の人々の暖かさ。江戸情緒豊かで、人情味溢れる家族や近所の人たち。全国各地を旅して回る風来坊の「寅ちゃん」。突然故郷の柴又に帰ってくきてドタバタを巻き起こす毎回同じパターンの恋と失恋ばなしだが不思議に飽きない。安心して観てられる。おいちゃん、おばちゃんが妹さくら一家とともに暮らすこの茶店のモデルとなった店がいまも参道にある。この裏にタコ社長の印刷工場があるかどうかは知らないが、あっても不思議ではない町の佇まいだ。この参道は京成柴又駅から帝釈天の二天門までの比較的短い通りであるが、並ぶ店は、どれも老舗ばかりだ。映画のモデルになったという高木屋老舗を始め茶屋、和菓子屋や川魚料理の店や、仏具を扱う店。観光地にありがちな「なんちゃってレトロカフェ」や土産屋もない。スタバもコンビニもない老舗ローカルビジネスオンパレードである処がすごい。

 この「男はつらいよ」寅さんシリーズ映画は、ロンドンで貧乏留学生やってた頃よく観た。英国在留の日本人コミュニティが中心となって様々な文化活動をしていた欧日協会が定期的にCharing Crossの映画館で無料上映していた。日本文化を広めることが目的であったはずだが、見に来ていたのは望郷の念に駆られた英国在住の日本人ばかりだったような。当時、私も若かったが、お金もなく、故国を遠く離れ距離的にも心理的にも日本ははるけき彼方であった。当時の英国にとって日本はFar Eastの遠い国。日本食レストランもHanover Sq.にあった「さくら」くらいしかなく、日本人観光客向けの「法外プライス」の天ぷらそばなど、貧乏学生にはそうそうあり付けなかった。あんまり自分は望郷の念などないつもりであったが、なぜか「寅さん」は毎回見に行った記憶が有る。映画が終わって「寅さんワールド」にどっぷり浸り、雪駄、腹巻スタイルの寅次郎になりきった気分で外へ出ると、そこは夜の帳が下りたロンドンのチャーリングクロスの雑踏。目の前から柴又帝釈天参道の賑わいも、寅さんもさくらも御前様も、夢幻のようにかき消されてしまった。その時空を超えるワープ感がたまらなかった。

 帝釈天の話に戻るが、ここの帝釈堂外壁全面を飾る木彫レリーフが圧巻!帝釈堂外壁全体をガラスの壁で囲み、その中を彫刻ギャラリーとして見学できる。ケヤキの板に彫り込まれた超絶技巧の透かし彫りの数々。10の法華経説話を視覚化した木彫レリーフは、その無彩色モノトーンの写実的描写が圧倒的なリアリティーを持って法華経世界を心に訴えかけてくる。ちょうどカラーよりもモノクロの写真の方が時にメッセージをストレートに伝えるのと同じだ。これらは大正末期から昭和初期の木彫の名人たちの作品だそうである。欄間にはさらに細密な動植物や獅子頭の彫刻が施されており圧倒される。ヨーロッパの古い教会や聖堂を飾る石造レリーフには目を見張るものがあるが、この帝釈堂の木彫レリーフはこれに匹敵するか、あるいはそれを越える強烈なメッセージを今に伝えていると思う。木彫だからこそより細密に仏や聖人の姿や動植物の有様を描写できるのだろう。こうした「木の文化」が「石の文化」に十分対抗できるヘリテージとして後世に残されて行くことだろう。文化財や国宝には指定されていないそうだ。もう少し時間を経て、歴史の埃がたまらないとダメなようだ。しかし写真撮っても良いし、拝観も割に自由だ(300円払うが、レリーフと庭園も回廊に沿って楽しめる)。これ見に来るだけでも十分にご利益がある気がする。





最近、さくら像もできた
京成柴又駅の寅さん像


帝釈天の門前町
「寅さん」のホームグラウンドだ

昔ながらのおせんべい屋さん



総檜造りの帝釈堂を巡る外壁には、法華経説話を表した木彫ギャラリーとなっている。
その見事な超絶技巧はヨーロッパの聖堂のレリーフに引けを取らない。




客殿、庭園に向かう回廊

大庭園「邃渓園:すいけいえん)

菖蒲が咲き始めた

矢切の渡し
江戸川を渡る渡し船。演歌の題材になった



 「葛飾柴又寅さん記念館」/「山田洋次郎ミュージアム」ノスタルジック探訪。「男はつらいよ」のセットやジオラマがうまく並んでいて「寅さん」「山田洋次監督」ファンなら文句なしに楽しめる。懐かしい昭和な下町に引き込まれて行く。しかしここから外へ出ても映画の世界そのままな昭和な帝釈天参道を歩くことになる。ここではウチソトのワーブ感がないのが嬉しい。


くるま菓子舗
寅さん、居眠り中


タコ社長の印刷工場



涙の別れ









巨匠山田洋次監督


帝釈堂
二天門




京成金町線柴又駅

(撮影機材:Leica SL + Vario Sonner 24-90. ボディー+レンズで3キロを超える重量は街角スナップにはこたえる。ズームでも機動力が落ちてしまう。やはりこういう場面ではLeica M10システムの方が良かった。ただレリーフのクローズアップではズームが活躍した。)