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2010年12月30日木曜日

あずまくだりの旅

今年も暮れの帰省の時期になった。難波をあとにして江戸へ下向。

 上方からのあづまくだりなので帰省ラッシュにも巻き込まれずにゆったり帰ることが出来る。冬は視界が利くので超高速陸蒸気の旅もいいが、飛行機の旅が面白い。
 
 空飛ぶ時空移動マシーンは摂津の國、難波を飛び立つとすぐに、天空からはるか京の都を見下ろす。掌にもてあそぶように電脳暗箱ライカで師走の京都洛中洛外図屏風を切り取る。風神雷神の気分だ。

 やがて、尾張名古屋をひとっ飛びすると、もう左前方に真白き富士の嶺が視界に飛び込んでくる。これも電脳暗箱でバシャリと切り取る。伊豆の國を眼下に相模の國へ。

 しばし上方から江戸までの鳥瞰図パノラマを楽しむ。ああ,うまし國ぞ安芸津嶋大和の國は...

 時空移動マシーンはあっという間に武蔵の國、江戸の街に我を送り届ける。あの「天空の木」なる電波塔のその建設途上の姿を中空に眺めつつ地上に降りたつ。

 時は今...? かなり時間軸があちこちにズレたな。


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(伊丹を離陸して間もなく京都市上空)

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(伊豆半島、相模湾上空から富士山を望む)

2010年12月24日金曜日

博多、聖福寺と今津浦 ー栄西の足跡をたどるー

 博多は古代より大陸との窓口として栄えた商都であった。いま、来年の九州新幹線全線開業を目指して建設中の博多駅から大博通り沿いに走ると、祇園を過ぎて広い大通りの右手に壮大な寺院群が見えてくる。この辺りが御供所町だ。この辺りは博多における寺町であり、東長寺、聖福寺、承天寺などの壮大な伽藍が建ち並ぶ。

 承天寺は宋の商人で博多を拠点に活躍した謝国明が建てた。また聖福寺は日本初の臨済宗の禅寺として宋から帰国した栄西が開いた。大陸から持ち込まれた、うどんや、喫茶、ういろうの起源もここに発すると言われている。舶来品発祥の地という訳だ。

 このあたりは中世博多の時代には謝國明に代表される華僑、すなわち博多を拠点とした日宋貿易を動かしていた博多鋼主が多く居住した地域であった。1195年、帰国した栄西は、鎌倉幕府初代将軍の源頼朝より許しを得て、さらに博多鋼主の協力を得て華僑の居住地区であった博多百堂にに禅寺聖福寺を建てた。山門の扁額には後鳥羽天皇からもらった「扶桑最初禅窟」の文字が掲げられている。さらに栄西は後に京都で建仁寺を建立する。

 博多の聖福寺は塔頭38院を数え、寺内町を形成する大寺院であった。その後、戦国時代の戦乱や、その戦後復興たる博多の太閤割により、その寺域は大幅に削られたが、今でも塔頭6院を数える博多屈指の大寺院である事には違いない。今は臨済宗妙心寺派の寺院となっている。

 聖福寺は博多の東、石堂川ベリに位置しているが、この勅使門から真西に一本道が伸びている。その西の果てが博多総鎮守、櫛田神社だ。そう博多祇園山笠で有名な。聖福寺と櫛田神社を結ぶ線が、秀吉が後に行った太閤割り以前の博多浜の中心線であった。

 栄西は、二度目の渡宋の機会を博多湾の西に位置する糸島半島今津浦で待っていた。今津浦は現在は福岡市西区今津となっているが、当時の博多湾には博多津以外にもいくつかの浦や津があって大陸へ渡る船の風待ち港になっていた。江戸時代に入って鎖国で博多が寂れても、筑前国主黒田氏は博多の五カ浦を貿易港に指定して内国貿易、流通の拠点とした。

 話を戻して、栄西は渡宋の機会を待つ間に、その今津の誓願寺で発願文を起草している。今は静かな漁村であるが、当時はこのように大陸へ渡る僧や商人、船乗りが集まる国際港であった。今津のさらに北には唐泊地区があり、その名の通り、遣唐使が風待ちをする港であった所である。ここから向うはもう玄界灘。

 今津のある糸島半島は知られているように古代伊都国の所在地であった。今津湾の入口にそびえる小さな山、今山は当時伊都国を中心に北部九州全域に流通していた打製石器(石斧等の)の産地であった。今山自体が巨大な玄武岩が露出した岩山だ。ここが倭国の文明の中心であった北部九州の弥生の農耕を支える、石器農具の一大生産地であり、その富により伊都国が経済的優位性を保っていたと言われる。

 今津干潟は江戸時代に黒田藩が干拓を進めた後に残った今津湾とそれに付属する干潟で、カブトガニに自生地としても知られている。ここからは遠く糸島富士(可也山)を望むことが出来る。そして、箱崎から移転中の九州大学の新キャンパス、伊都キャンパスの一部が丘の上に望める。静かな干潟である。

 話は変わるが、この今津湾と今津干潟の間にかかる今津橋には思い出がある。私が幼稚園の頃だろうか、父につれられて釣りに来た事があった。当時は今川橋に住んでいたが、釣りの好きな父は、今津橋がよく釣れるという話を教室の人から聞き、日曜日に一人息子を連れて筑肥線で今宿まで行き、そこから昭和バスに乗って行ったのだろう。昭和バス、というと当時は何か糸島の田舎のバス、という印象があった。

 夏の熱い一日、父は釣れた魚を魚籠(びく)に入れて、橋の欄干から長いヒモを垂らして魚籠を下の水面下につけていた。まずまずの釣果であった。まだ小さな子供であった私は父の回りで駆け回るだけで釣りはしなかったと思う。しかしどんな魚が釣れたのか見たくて、その魚籠を引揚げて、中を覗こうとしたその時、水を吸って思いのほか重い魚籠は私の小さな手から滑り落ち、重みでヒモが切れてバッシャンと音をたてて水中に消えていった。流れは速くあっという間に魚籠は見えなくなった。父は向こうの方で麦わら帽子を被ってを無心に竿を垂れて、水面に漂うウキを見つめている。息子がトンでもないことしてくれた事も知らずに...

 私は悲しくなり、父のところへ「魚籠を落とした。ごめんなさい」と泣きながら走っていった。
 父は「ええっ!」と釣り竿をおいて、魚籠をぶら下げていた欄干の所までかけて来た。ヒモをたくし上げると、何の手応えもなくするするとヒモだけが上がって来た。
 父のがっかりした顔、一日中釣ってずっしり重くなっていた魚籠が消えた。

 「ばっさり」と一言。

 父は叱りもせず、釣り竿を担ぎ私の小さな手をしっかり握って夕焼けの今津橋をとぼとぼと歩いて帰っていった。

 今では立派な自動車専用橋と歩行者専用橋に分離されたコンクリート橋がかけられているが、当時は古い木造の砂利道の橋が頼りなげに一本架かっているだけであった。車なんぞ通っていた記憶もない。強い日差しと、ほこりっぽい砂利道と、潮風と、そして無情な水の流れだけが心に残っている今津橋。父をがっかりさせたという悔悟の念。それだけにやけに長い橋であったという印象がある。

 栄西の足跡をたどる今津、魏志倭人伝の伊都国、そのような事を知るのはもちろん、ずっと後の事である。




大きな地図で見る

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2010年12月15日水曜日

50年前のニューヨークへ時空旅 ーNew York City 50 years time differenceー

 我が思い出のニューヨーク。我が社の米州事業拠点にして海外事業スタートアップの地。家族とともに7年ほどを過ごした町。苦闘と栄光の町。この町を今から50年程前に父と母が訪ねていた。

父が亡くなり、遺品を整理していたら、その中からアメリカ時代の大量のスライド写真が出て来た。幾つかは生前にも見せてもらったことがある写真であったが、これだけ大量のフォトアーカイブがあるとは知れなかった。今見ると、どの写真も、父が戦後復興期の日本からの研究者として渡米し、彼の地で生き、苦闘した日々を写し出す一級の資料だ。当時、父はワシントン郊外のベセスダにあるNIH(National Institute of Health)の客員研究員として米国に赴任していた。これらのニューヨークでの写真は、学会で行ったときの写真だ。

スライドはカビが生えたものもあったが、大方は良い状態で保存されていた。専用のスライド保管箱(これも時代を感じさせる金属製の箱)にきちんとスライドごとにスペースを空けて保存されている。さすが几帳面な父のなせるワザだ。ほぼ全てのスライドは、父の愛用のカールツアイス社製コンタフレックス(当時流行ったレンズシャッター一眼レフカメラにキレの良いテッサー付き)で撮影。フィルムはコダクロームとエクタクロームのカラーポジだ。50年以上の時を経て今鮮やかに当時のニューヨークが蘇った。

アメリカが第二次世界大戦後の繁栄を謳歌し、そのアメリカとの戦争に敗れた日本は貧しく、その手の届かない豊かさにただただ憧れた1950年代後半。写っているものも、写したカメラも、フィルムも。今は過去のものとなってしまったが、古き良き時代のアメリカンテイストを醸し出すものばかりだ。当時、父は見るもの聞くもの新鮮な驚きを感じたに違いない。父のその後の人生の糧になったシーンもあっただろう。その後に、奇しくも私も米国に移り住み、経験したカルチャーショックを、父の経験と重ねて追体験をしてみたくなった。今回は父が遺してくれた50年の時空を超えたニューヨークの街をご紹介してみたい。

しかし、ここに再現されたニューヨークの町は、今とそれほど変わっていない感じがするのが不思議だ。特に敗戦後の焼け野原から復興した東京の大変貌ぶりに比べればなおさらだ。仔細に見ればこの風景の中にその後、新しい高層ビルが建ち、マンハッタンはより現代的になった。ミッドタウン42丁目のの煤けたグランドセントラル駅は真っ白に磨かれ、その上にはパンナムビルがパークアベニューをまたぐように建ち、ランドマークとなった。しかし、パンナムというアメリカ繁栄のシンボルエアラインはその後倒産し、消滅。ビルは保険会社の所有となった。ダウンタウンにはツインタワーの世界貿易センタービル(WTC)が建設され風景が一変した。それも2001年の9月11日の悲劇的な崩壊に遭遇し、姿を消した。50年もの間にいろんなことが起こり町の景観が変わった。時の流れを感じざるをえないが、基本的な街の風貌に変化は無い気がする。

父が、エンパイアステートビルの展望デッキからイーストリバー沿いの国連ビルと発電所を撮影した写真に驚いた。なんと私が2003年から2006年まで住んだアパートはこの火力発電所の右隣(南)にあった。ミッドタウントンネルのすぐ隣だ。もちろん50年前にはご覧の通りアパートはなかった。いまはこのあたりは高層コンドミニアムが林立している。そしてこの火力発電所はもう取り壊されてしまった。私の目の前で取り壊し工事が進んでゆくのを毎日見つめていた。まるで父は息子が50年後にすむ場所を指し示すようにシャッターを切ったのだろう。

しばし時空トラベルを楽しんでみよう。父が見た景色。私が見た景色。そこに時空を超えて、変わったもの,変わらないものが見えてくるだろう。




2010年12月11日土曜日

ライカの名(迷)玉 ズミルクス35mm f.1.4の威力

 ライカの名(迷)玉、ズミルクス35mm。個性的な写りで有名なレンズで、ポートレートなどでそのソフトフォーカスレンズ的な写りは私もハマっている。師走に入りクリスマスムードも高まる街角でのスナップで思わぬやんちゃぶりを発揮してくれたのでご紹介したい。ちなみにこのレンズはLeitz Canada製。銀鏡胴、無限大ストッパー付き、OLLUXフード付きの美品。レンズ自体も工芸品だ。ボディーはM9。

場所は大阪上本町。8月に新装開店なった上本町YUFURA。12月に入ってクリスマスイルミネーションが点灯となった夕刻5時頃、夜景が美しくなる季節だ。

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開放1.4での撮影。中心部のピントはしっかりしており、背景の点光源のボケは円形で美しい。しかしレンズ周辺部(特に左下のご注目)は点光源が流れてぐるぐる巻きになっている。

Summilux_35_f
同じく開放1.4で撮影。文字部分はふんわりとしたソフトフォーカスっぽい写りで、ズミルクスの特色が表れている。その周辺が渦巻き状膨らんでいるのがおもしろい。すだれ状にぶら下がっているLEDのイルミネーションなのになんでだろう?

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左上の写真は絞り5.6、左下の写真は絞り開放1.4で撮影。

下部のLEDイルミネーション部分の写りに注目。絞るとクリアーに写るが、開放ではやはり点光源が流れてぐるぐる回りになっている。全く違った表現になるのが不思議だ。

これを欠点と見るか特徴と見るか。欠点と言えば欠点だろうが、しかしそれをレンズの特徴として活用する方が面白い。現行のズミルクスはもっと現代的な写りで、こうした「欠点」も解消されているようだが、とにかくこんなにはっきり個性的なレンズはもう世の中に出ないだろう。

非球面レンズ、異常分散ガラス、多層膜コーティング、フローティング機構など、最新の贅沢な技術をふんだんに導入した最近のライカレンズではこのような個性は発揮出来なくなってしまった。良いことなのかどうなんだろう。

2010年12月10日金曜日

名残の紅葉 長谷寺編

 ただいま、北陸出張の帰りで、富山から大阪へのサンダーバード車中。
ドコモのモバイルルータを使えば、どんな所でもインターネットへのアクセスが可能。移動車内の空き時間を利用してネット作業中。Mac Book Airとの組み合わせは快適だ。

福井、富山の天候は荒れ模様。福井では明け方に雷雨と霰で目が覚めたかと思ったら、昼間は雨が降ったり晴れたり。富山に着くと陰鬱な寒空。しかし今朝は、起きるなり快晴。ホテルの窓からは立山連峰をはるかに望む。思った以上に高い山々だ。こんな変わりやすい天気は北陸独特の季節の変わり目の印だそうだ。いよいよ雪の季節到来だ。

ところで、先週末の紅葉巡りの最後は長谷寺。花の寺で有名な奈良初瀬の長谷寺。以前から、長谷寺全景を望むスポットがあると聞いていたが、それがどこか分からなかった。そこから撮ったという写真を見るとおそらく長谷寺本堂の真向かいのようだ。以前、與喜天満神社から桜の季節の長谷寺を撮影したが、角度がどうもその方向ではない。

ようやく地元のNPOが発行している初瀬街道散策マップを長谷寺参道の店でみつけ、この絶景スポットの位置を特定することが出来た。参道途中のいせみち、はせみち分岐の道標を右に曲り、橋を渡って向かいの山を少し登ると、頂きに愛宕神社というお社がある。ここからの眺めが、ちょうど長谷寺の真正面だ。しかも、この愛宕神社の紅葉がまだ見事。長谷寺本堂、五重塔、登廊辺りの紅葉は終盤だったが...

なんだか得をしたような気がした散策だった。長谷寺の名残の紅葉ご覧あれ。

2010年12月7日火曜日

名残の紅葉 京都東山編

 今年の紅葉はことさら美しかった。ピークの時期は11月下旬だったが、残念ながらいろいろ忙しくて京都の秋を堪能出来なかった。遅まきながら12月の最初の週末に八坂神社、高台寺、清水寺を回って最後の紅葉を楽しんだ。落葉してだめかな?と思ったがなんとかまだ間に合ったようだ。

 大阪から京阪特急で祇園四条まで。京橋からでは座れないので淀屋橋から乗った。駅を降りると南座を右手に見ながら四条通を八坂神社へ。この道はいつも狭い歩道に観光客があふれかえっている。そこへ「いかにも」という「京都らしさ」を売り物にしたお土産屋や飲食店がぎっしり並んで、観光客を吸い込んでいる。たいていは京都に関係ないお土産物を京都風にラッピングしているにすぎないが、これが東京方面辺りから来る観光客にバカ受けだ。店内は「ちゃってさあ」言葉で沸き返っている。

 外人観光客(ヨーロッパ系)の方が賢いかもしれない。彼等はこんな所で時間と金を費やさないで、知る人ぞ知る街角で、骨董品や和装、工芸品の工房などを見つけて入り浸っている。彼等の手にするガイドブックの方が私には興味がある。旅一つとっても日本人はまだ、アジア的なのかもしれない。隣国から札束握りしめて大挙して日本に押し掛けてくるの観光客を笑えない。

 ともあれ祇園、高台寺、清水寺コースは、観光客、修学旅行の定番コース。京都観光の初級編だ。ここに足を踏み入れる以上、文句は言うまい。

 紅葉は盛りを過ぎたとはいえ、樹によっては美しく赤や黄色の葉を錦のように織りなして美を競っている。但し人出もハンパではなく、清水寺など明らかに紅葉よりも人出が真っ盛り。清水の舞台からは人がはみ出さんばかり。舞台の底が抜けるんじゃあ、と怖くなったくらいだ。音羽の滝も長蛇の列。連れ合いは名残惜しそうだったが、私はサッサと立ち去っててしまった。

 京都は世界的な観光都市。しかし、もう少しゆったり静かな古都の晩秋を楽しみたいものだ。

2010年12月6日月曜日

追いかけるモデルのない時代へ 〜英国のリーダー像に何を学ぶか〜



 今年はNHKの大河ドラマ「龍馬伝」や、「坂の上の雲」で、幕末、明治期の日本人のヒーローがブームをよんだ。
 この閉塞の時代の指針にしようという事なのか、日常のなかの情けないリーダ達の言動に辟易して、非日常の英雄に夢を託そうというのか。多くの人が歴史ドラマを楽しみ、涙し、現状に悲憤慷慨する。ツイッター上で語り、なかにはエライ経営者までが「なりきり龍馬」ではしゃいだり、大騒ぎだ。

 たしかに、この時代のヒーロー達は古い時代の破壊者、変革者であり、破壊のあとの創造者であった。幕末の志士の変革へ情熱、明治の若者の成長への意欲。どれも今の日本に求められるものだ。しかし、当時の彼等と同じような行動が今求められるかと言うと、事態はそれほど単純明快ではない。今の混迷は明治維新の時期のそれとは大きく異なっている。

 一番大きな違いは、追いかけるモデルがないことだ。今から思えば明治期には変革のモデル、目指すべきゴールがはっきりしていた。何もしないと欧米列強の植民地になってしまうという恐怖心から生まれたエネルギーがある。そしてそこには欧米列強と言う明解なレファレンスモデルがあった。そして隣には、清國というこれまた明解な反面教師、負のレファレンスモデルがあった。

 ゴールやモデルがあればあとはやるべきことやる実行力の問題だ。殖産興業、富国強兵、西欧列強に追いつけ追い越せ。その為には古い仕組みを壊して、近代化に突き進む。もちろんそれを成し遂げるには強力なリーダシップが必要であったことは言うまでもない。ある種のビジョナリーリーダが求められた。旧制度、幕藩体制に押さえつけられていた階層の中からそのようなリーダーが出現した。そして彼等がが時代を変えた。そのハングリー精神が原動力だった。

 しかし、近代資本主義国家というゴール目指して突き進んで来た日本は、やがてその行く果てに「衰退への道」というフェーズを見てしまった。国家の栄枯盛衰は歴史の理だ。これからはかつてのような目指すべきゴールも、参照モデルも何もない。全くの無から、新たに政治や経済が突き進むべきゴールとモデルを自ら設定する必要がある。

 こうした時代のヒーローは、残念ながらみんなが憧れる幕末や明治維新の英雄達ではなく、別のパラダイムの創造者でなければならない。武市半平太を想起してもだめだ。坂本龍馬を待望してもダメだ。立身出世のモデル秋山好古や真之兄弟を自分達になぞらえてもダメだ。これからはゴールも、ビジョンも、モデルも誰も示してくれない。全くの未知の世界を突き進まねばならないわけだから。坂の上に追いかけるべき雲はない。

 イギリスの政治情勢をリードする二人の若き政治家、キャメロンとミリバンドを特集した日経朝刊の一面記事。「民主主義国はおそらくどの形態の政治よりも国民を指導し、鼓舞する卓越した人物を必要とする」(ブライス)という言葉が心に残る。

 そういう意味ではイギリスという国は、近代の最先端を走っている国だ。資本主義帝国主義の覇者大英帝国の時代を過ぎ、超大国の座をアメリカと言う新興国に明け渡し、さらに日本と言う新興国にも追いこされてしまった老大国。英国病などという汚名を極東の新興国日本に浴びせられたイギリス。しかし、マーガレット・サッチャーのイギリス政治経済の大手術を経て、次のステージをどのように作り出すのか。英国の若きリーダー達と、それを輩出する人材層は健在だ。そして世界中でイギリス人(いやUnited Kingdom各地の出身者)が活躍している。

 幕末明治期の若者達から学ぶべきことは沢山あるだろう。しかし、過去の歴史をただ振り返って慨嘆したり、英雄の出現を待望しても何も生まれない。日本は全く新たなパラダイムに突入しようとしている。アメリカもヨーロッパも日本も。過去の資本主義的な、帝国主義的なロールモデルを追いかけるステージは終焉を迎えつつある。それは新興国にまかせておけ。役者が変わるがいずれ歴史の中で新興国も我々と同じ道をたどる。

 資本主義「先進国」は「衰退」期を経て、次のロールモデルを誰がいち早く作り出して実行できるかの競争に突入するだろう。そしてそれをなし得るリーダー層をどれくらい幅広く生み出せるかが全ての競争の源泉になるだろう。その点でイギリスの「人づくり」に学ぶ点は多いと思う。

 我々日本の明治期の若者から学ぶべき点の一つは、彼等のどん欲な知識吸収力と行動力、理想に燃えた目線の高さ、ハングリーさと、そしてなによりも能天気までの「楽観主義」だ。そして今付け加えるべきは「創造力」すなわちオリジナリティーだ。明治の先輩達にかけている所だ。いずれにせよ、そういう点では「人」が国の基本だ。そしてその「人」こそ国の発展の原動力だし資源だ。そしてその「日本人」は日本という国の枠を超えて世界の様々な分野でリーダーシップを発揮するだろう。 この事を忘れたら日本人には未来はない。「自分が楽しければそれで良い」人生を送る人が大多数のなかで、高い理想と卓越したビジョンで「滅私奉公」する人材を育てなければならない。

2010年11月27日土曜日

Leica M9その後 点検完了

 以前報告した、Leica M9の気になる不具合(?)、点検修理完了。

 メールでライカジャパンに問い合わせていた事象は以下の通り。

 1)電源オフでもシャッターボタンを押すとLEDが明滅する。
 2)シャッターボタン半押しでAEロックが出来ない。
 3)シャッター半押しで露出補正リング回しても補正値が設定出来ないことがある。
 4)SDカード挿入でも「カードがありません」表示が出ることがある。
 5)再生時に画面ズームインして、スクロールすると他の画面に飛ぶことがある。

 メールでの回答では、5)についてはファームウエアーアップデートで解消されているとのこと。他は
基本的には実機を見て点検を勧めるとのことであった。

 以来、忙しくてなかなか修理点検に出せなかったが、ようやく昨日銀座のライカショップへ持参し点検を依頼。早速夕刻には、ライカショップより点検結果が電話で伝えられた。とても早い対応だ。

 1)については、上部基盤に作動不良があったとのことで交換修理。
 2)は、ソフトレリーズ時には半押しでシャッターが切れるのでAEロックは出来ない仕様となっているとのこと。標準/分離チャージで使用すればAEロックは可。
 3)露出補正リングは異常なし。但しシャッター押し方によりやや微妙なズレが発生することがある、とのこと。
 4)SDカードは基本的には指定カードを使用して欲しい。また、カメラで時々初期化をすることを推奨、とのこと。

 銀座のライカショップの対応はスピーディーでテキパキしていて、こちらの質問にも的確に答えてくれ、非常に好感が持てた。プロフェッショナルな印象で、だいぶ信頼感を回復することが出来た。
 無限大ピンと点検と調整もやってもらい、愛機は今朝宅配で早くも手元に届けられた。

 しかし、ショップの技術の方がコメントしていたように、SDカードの認識の有無が起こりうる点、時々カードの初期化しないと不具合が発生する可能性があることなど日本製のカメラではまず有り得ない点だ。こうした所は改良が必要だろう。またこの点に関して、ドイツ本国側からの正確な情報と説明が不足している印象を受けた。

 また、ソフトレリーズ設定ではAEロックが使えないことなど、マニュアルには一切記載がない(日本語版には追記されている)。これもショップ側は謝っていた。補正リングの問題も、微妙な押し加減が設定に影響するのでは使いにくい。まして基盤不良で電源作動不良が起きるのは論外だ。道具としての完成度に今一歩のブラッシュアップを期待する。

 とりあえず一件落着だが、ドイツライカ社は日本人スタッフの迅速なテキパキサービスに助けられ顧客を失わずにすんだ。日本人のプロダクト、サービスの品質に対する要求水準は非常に高く、本国の方はそれに対応するモノ造りに必ずしもなっていない事がある。それを補って、信頼性を担保しているのが日本のローカルスタッフのサービスだ,という事を知った一件であった。

 この逆は私の米国会社でのサービス品質管理プラクティスでいやという程経験したが... こういうギャップを乗り越えて本当のグローバル品質になってゆくのだ、とも。

2010年11月24日水曜日

紅葉散らすな御室戸の山

 今年の紅葉は例年にない美しさ。

 夏の猛暑で木が傷み、秋は短く寒さが急にやって来た今年。
 こんなときは紅葉はどうなるんだろうという心配をよそに、例年よりやや早く紅葉のシーズンがやって来た。それも鮮やかな赤や黄色の織りなす錦繍の秋。日照時と夜の寒暖の差が大きく,うれしい予想外の鮮やかな赤が浮かび上がって来た。

 関西に住む人の特権の一つは、この紅葉のシーズンを堪能出来ること。紅葉の名所がいたるところにある。特に奈良、京都の歴史を彩る紅葉風景は時空の旅人をワクワクドキドキさせる。もっとも短い期間にすべてを回ることが出来ないのが悩みの種。こんな贅沢を言える幸せ...

 それでも,今年の秋は高野山に始まり,室生寺、談山神社と巡ることが出来た。談山神社は奈良の紅葉名所としては超有名どころで、訪れた当日は車の大渋滞と人出でまいったが、その割にはイマイチであった。かえって桜井からの行き帰り、渋滞でのろのろ運転のバスの窓から見たの路傍の紅葉が素晴らしかった。

 去年は京都東山の南禅寺、永観堂、真如堂、今戒光明寺の素晴らしい紅葉を楽しんだ。今年は少し違う場所を探訪しようと三室戸寺を訪ねることにした。

 ここ京都宇治の三室戸寺は、ツツジ、石楠花、紫陽花、蓮、そして紅葉で有名な花の寺。京都は紅葉の名所が多いが、シーズンの人出でも有名だ。何しろ東京からも新幹線で2時間程で来れる。JRの「そうだ京都へ行こう」などと言うTVCMに誘われる東京の住人がいかに多いことか。

 幸いなことに三室戸寺はそれほどの混雑もなく,ゆっくりと紅葉を愛でることが出来る。穴場と言うにはちょっと有名過ぎるが,意外な穴場かもしれない。

 三室戸寺は西国観音霊場十番札所。約千二百年前の光仁天皇勅願により、千手観世音菩薩を御本尊として創建されたお寺である。京阪で中書島乗り換えで宇治線三室戸下車。徒歩15分。

 あまり能書きは要らないだろう。とにかく稀に見る今年の美しい紅葉スライドショーをご堪能下さい。

     暮れはつる 秋のかたみにしばし見ん 紅葉散らすな御室戸の山 ーーー西行法師



2010年11月21日日曜日

金沢 北のみやび

  先週は金沢に仕事で出かけた。出張であちこちへ行くたびに,地方都市のそれぞれの美しさと,文化の香りと、穏やかな人々の暮らしを垣間みることが出来るのは役得かもしれない。特に金沢などうらやましがられる出張先の代表だろう。忙しく駅/空港と出先とホテルの間を行き来するのだが,時間を見つけて垣間みるその町の佇まいにふれることは楽しい。

 考えてみれば明治維新以前は,地方都市は,単なる「地方」ではなくて,それぞれの国の大名の「お膝元」でありいわば「みやこ」であった。廃藩置県が行われ、中央集権で東京一極集中となってゆくのは明治以降の出来事だ。戦後の高度経済成長、さらにはグローバル化の中でそれが加速される。

 人々は豊かさを求めて,こぞって東京へ出てゆこうとした。いや田舎にいても次男坊以下は田畑もなく,働く仕事場もない。憧れの東京。「花の都、うれし楽し,夢のパラダイスよ東京」。イナカには何にもない、と自虐的な歌がはやり、東京へ出てゆく恋人の後姿に涙する。東京は生き馬の目を抜く激しい競争社会。脱落する若者もでる。故郷の山河を思い望郷の思いにとらわれる。しかし,帰る所はない。「故郷は遠きにありて想うもの...帰る所にあるまじや」だ。都会で孤独と戦いながら生きてゆく。時々は「ふるさとの訛なつかし停車場」を徘徊する。いつかは故郷に錦を飾ることを夢見て...

 そんな「東京」、「地方」という二分法、二元論が明治以降この国を支配して来た。
 気がつくとバブル崩壊。さしもの高度経済成長は過去のものとなり、20年もの経済停滞期を経験し、未だに立ち直れない。いち早く西欧流の近代化を果たしたアジアの優等生、アジア唯一の経済大国を自任して来た日本は,いまや中国や韓国、さらにはインドやASEAN諸国の目覚ましい経済成長を横目で見ている情けない状況に陥ってしまった。いや、そういう成長期を過ぎて、成熟した大人の時代を迎えたといっても良い。

 そんな時,心折れて、ふと我々が飛び出し、捨てて来た故郷、地方、田舎に目をやると,そこには破壊されずに残された文化や,心穏やかな風景、町並み、生活風習が残されているではないか。経済成長に取り残された地域であればある程,すなわち田舎であればある程、それが残されていることに気付く。

 なあんだ,こんな所に美と安らぎが隠れていたのか。そういえば忘れてたなあ。よくぞなくならずに今まで...まさに「美の壷」

 その美しい町の代表の一つが金沢だ。現代的な評価軸でいえば人口45万の政令指定都市にもなれない北陸の一地方都市に過ぎないが、かつては加賀前田家百万石の城下町で、京都や江戸にも負けない文化の華開いた町だ。兼六園に代表されるその繁栄の面影と雅な趣が今も町の随所に感じられる文化都市だ。こうした空気は雲州松江でも感じることが出来る。

 江戸期にはこうした独特の文化を育んだ「地方都市」が日本全国いたるところにあった。徳川幕藩体制は、基本的には地方分権の時代であった。重要伝統的建造物群保存地域に指定されている町はたいてい,こうしたかつて地方文化が花開き、物流や金融の中心として栄えた「地方都市」であった。皮肉にもその後の明治維新や戦後の経済成長などの激震に取り残された町である。不幸なことなだったのか,幸運なことなのか,その評価はこれからかもしれない。

 こうした町に共通の構成要件はつぎのとおり。城郭、大名庭園、藩校、武家屋敷、商家、町家、花街、寺社仏閣という「ハコもの」の道具立てが揃っている。それに「中身」たる偉人、文化人、芸能、食、職人技、工芸、そして祭り。こういった道具立てがなにがしか揃っている町がいまでも風格を保っている。金沢はその代表格だろう。

 ただ実態はなかなか「地方の活性化」につながっていないのが現実だろう。この経済低迷のアオリを受けているのはまさに「地方」都市である。しかし、従来型の経済成長モデルで考えるから旨く行かない。やっぱり東京型都市像を追いかけているからだろう。あるいは工場誘致、などという20世紀型産業構造を軸に「活性化」モデルを組立てるからだ。

 ここでも「活性化」モデルイノベーションを行わなければならない。そもそも「活性化」って、何を活性化することなのだろう?むしろ町毎の価値の多元性を再認識することが必要だろう。もちろん経済的な価値に繋げていくことが豊かさと成長のベースには必要だ。しかし、ある程度の経済的付加価値が保証されることがボトムラインであろうが、地方にはこれまでの経済成長を軸とした価値観にとらわれない新しい価値創造、資産の再評価、活用が求められよう。

 あれ?こんな評論家コメントを書くつもりではなかった。最後は、意に反して「NHK時論公論」風になってしまったが...

 とにかく金沢は素敵な街だ。秋晴れの好天にも恵まれた。兼六園、金沢城はもとより、橋場町、卯立山公園、近江町市場、犀川、浅野川、主計町... 高校生の時に旅し、出会った加賀乙女との甘酸っぱい思い出とともに。

2010年11月14日日曜日

女人高野室生寺 紅葉始まる

 高野山の紅葉を愛でたばかりだが、女人高野室生寺へ足を伸ばした。紅葉が見頃になったという。

 近鉄大阪上本町から急行で約一時間。室生口大野でバスに乗り継ぎ15分程で到着する。ただしバスは一時間に二本しかない。しかし,不思議なものでそれでもあんまり不便を感じることがない。だいたい急行の到着時間に連動しているようだし、石楠花の季節や、紅葉の季節には臨時バスも出て、それなりの対応がなされている。何より流れている時間がゆったりしていて、一時間に一本でも,二本でもそれなりに生活が回るようになっている。不思議なものだ。都会のように5分ごとに電車がやってくる便利さが、むしろ生活を忙しくしているのだろう。

 ちなみに奈良県内でバスを運行する奈良交通という会社はこのような閑散路線を多く抱えている。有名なのは日本一長い路線バス。奈良県の大和八木から、十津川村を経由して和歌山県の新宮まで走る路線を運営している。地域サービスの維持と収益確保に苦労していると思うが,観光客向けのサービスはきめ細かい。なにより運転手さんや補助の車掌さん(?)も気さくで,親切だ。

 バスは美しく黄色や赤に彩られた山肌を観ながら渓谷沿いを進み、深山幽谷の地室生寺に着く。室生寺は太古の室生火山群により形成された室生山の山麓に開かれた。このような神秘的な山と渓谷に囲まれたステージは、日本古来の神々のおわします磐座,神籠のイメージに近い神聖な場所。このような所に興福寺の高僧により、奈良時代後期から平安初期に開山された。本家高野山が厳しい女人禁制をとっていたため、女性でも参詣出来る真言道場として開かれ、女人高野と呼ばれるようになったという。
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 室生寺はその昔は、東の長楽寺,西の大野寺,北の丈六寺、南の仏隆寺を四門と呼び,この内を聖域としていた。参詣者はそれぞれの門から峻険な山を越え、渓谷を渡り、この室生寺へたどり着いた。今でもこれらの寺から室生寺に至る道は険しい山岳道だ。昔の人々の信仰への熱意,特に女性がこの険しい道のりを越えてこの地へはるばる参詣したことを考えると,この地の持つ引力の強さを感じざるを得ない。

 平安初期の建築である金堂の御本尊、一木造りの釈迦如来立像と、同じく一木造りの十一面観音菩薩が華麗で洗練された趣を持っている(国宝。室生寺のHPから引用)。金堂の諸仏は外陣から立ったまま拝観するのだが、この位置だとちょうど梁が釈迦如来の御尊顔を隠す形になっていてる。それでみんなしゃがみ込んで下からお顔を拝見する。少し残念だが、そもそも立ったままというのが間違ってるのだろう。

 しかし狭い金堂内に所狭しと並ぶ諸仏の佇まいは、このような深山幽谷の地に極楽浄土を見るような気がする。特にこの十一面観音立像は女性の信仰を集める優しい仏様だ。もう少し時代が下った平安中期以降に阿弥陀信仰が盛んになったとき、貴族がこぞって立てた阿弥陀堂の原型を見るようでもある。

 平成の台風で倒壊した後に再建された五重塔,これも平安初期の建築である。鎌倉期の建築である權頂堂をみてさらに奥の院までは石段を300段程登る。多くの観光客は、この急峻な石段を見て,奥の院へ登るのを諦めてしまうが,奥の院からの室生の里の眺めも捨てがたい。それに奥の院の御朱印はもちろんここでしか頂けない。それでもオジイちゃんオバアちゃんが手すりにつかまりながら,杖をつきながら,この石段を上ってゆく姿に元気をもらう。関西のお年寄りは元気!

 それにしても紅葉が美しいこと。石楠花で有名な鎧坂の辺りはから上はそれほど紅葉していない。權頂堂の前のもみじが紅葉するととても画になるのだがまだチト早い。山門周辺の銀杏と紅葉の赤と黄色のコントラストが際立っている。また,室生寺へ至る渓谷沿いの紅葉が素晴らしい。バスに乗ってると、オバアちゃん達が「みてみて、きれいやわあ」「うわー、すばらしわあ」と歓声あげてワアワアと盛り上がっている。気取らず素で室生寺への旅路を楽しんでる乗客と,ホントにきれいな景色にこちらも楽しくなってしまう。

 室生寺の入口の橋のたもとに橋本屋という旅館がある、今はもう旅館はやってないそうだが、自慢の山菜懐石料理を出してくれる。座敷の窓から赤い橋を見ながら昼食。なかなか美味しい。ここは写真家の土門拳が室生寺の諸仏の写真を撮り続ける為に定宿としたことでも有名。部屋には土門拳の撮った十一面観音の写真が飾られている。

 帰りは東海道自然歩道を歩いて室生口大野駅まで帰った。全行程1時間程で、室生寺からはしばらく上り坂が続き、栢野森峠を越えるとあとは、だらだらとした下りが続く。よく整備された石畳の道であるが,これが意外に歩きにくい。地中から湧き出る水と苔で滑りやすく,杖が必要だ。途中で拾った木の枝で杖にした。杉木立の中を延々と歩くので森林浴になるが眺望はきかない。かえってバスが走る道路沿いの方が渓谷に沿って歩くので景色が良いし,歩道も整備されているのでいいかもしれない。疲れたら,途中で走ってくるバスに手を挙げて乗せてもらうことも出来る。

 杉木立を抜けると自動車道路に出る。ススキを見ながら少し歩くと,大きな磨崖仏が渓谷の水の流れの向うにおわします。銀杏の黄色に彩られた大野寺の磨崖仏を拝ませていただき、室生口大野から帰途についた。

2010年11月10日水曜日

高野山 レジェンドの地に紅葉を愛でる

 秋の休日、連れ合いと初めて高野山へ行った。

 大阪難波から南海電車の特急「こうや」で1時間半ほどで極楽橋へ。なかな快適な電車だ。途中橋本からは勾配を登る山岳ルート。曲がりくねった渓谷沿いをくねくねといくつかのトンネルをくぐりながら登ってゆく電車。なんとなく箱根登山鉄道に似ている。極楽橋駅は標高514m地点だ。途中、九度山を通過。ここはあの真田昌幸、幸村親子が家康によって幽閉されていた所。

 極楽橋でケーブルカーに乗り換え山上の高野山駅へ。5分程で到着する。この駅は歴史ある木造駅舎。しかし,残念ながら慌ただしく山上バスに乗り換える為,ゆっくりと鑑賞する時間がない。バス専用道路と乗降広場だけで回りに見るべき所もなさそうだ。
 電車、ケーブルカー、専用バスという乗り継ぎルートは信貴山朝護孫子寺への行程と似ている。山岳宗教都市への交通は何処もおなじようだ。

 さて、山頂はにぎやかな宗教都市の感。それにしても道路は車の列で埋まっている。動かない。歩くのが一番。
山上バスは女人堂から金剛峰寺、根本大塔、大門へ行くか、奥の院へ行く2ルートで運行している。普段は一時間に1〜2本程度だが,この時期は臨時バスがピストン輸送しているので便利だ。

 お山は里より一足先に紅葉が始まっている。杉の古木に囲まれて金堂や根本大塔、西塔などの数多くの堂宇が立ち並ぶ壇上伽藍,さらに奥の院辺りの黄色、紅色の紅葉が目に鮮やかだ。黄色い葉が徐々に紅く変わっていくのだろうか、ハイブリッドな紅葉が多いように思う。遍路姿の参詣客がここかしこに。南無大師編照金剛の袈裟を羽織り、金剛杖を片手に金剛峰寺に参る姿が高野山の風景を独特なものにしている。

 ヨーロッパからの観光客も多い。彼等にとってもなんとエキゾチックで神秘的な聖地であることか。ちょうど我々がギリシャのデルフォイを訪ねた時に感じた霊感、東洋人である我々がオリーブの杜に包まれたデルフォイ神殿を目のあたりにして圧倒されたように、彼等も塔堂の力強さに心奪われ、高野山の一木一草に霊力を感じるはずだ。宗教の違いや人種、民族の違いを超えた「何か」を感じるはずだ。

 ここでは歴史的な史跡,というだけではなく、今に生きる信仰の場である。高野山真言宗総本山、教団本部所在地であり、多くの善男善女が訪れる祈りの場である。多くの巡礼は宿坊に泊まり時間をかけて塔堂伽藍に参詣する。

 高野山は真言宗の根本道場。弘法大師、空海が814年に開いた真言密教の聖地である。その後、真言宗は時代とともに分裂,集合を繰り返し、今や18宗派ありそれぞれに総本山があるそうだ。金剛峰寺は高野山真言宗の総本山。ちなみに長谷寺は真言宗豊山派の総本山である。

 空海は四国は讃岐の生まれ。四国八十八ヶ所巡礼(お遍路さん)などの弘法大師信仰は空海の説く法と彼の人徳、人望によるものだ。平安初期のもう一方の天才、最澄、天台宗を開いた伝教大師とともに遣唐使として唐に学び,帰国してそれぞれに仏教の奥義を説き,互いに激しく論争した。言うまでもないが比叡山延暦寺は最澄が開いた天台宗の根本道場だ。

 高野山は我が家にとっても身近な山であった。大阪に生まれ育った父にとって高野山は、学生時代の夏休みには友達と籠り勉強した思い出の地。大大阪の喧噪を離れて避暑に最適な所だけに,心静かに勉学に励めたのだろう。後の父の人生の基礎を育んだ土地と言っても過言ではない。祖母方の実家の墓所も高野山にある。こうしたことから祖母からしょっちゅう高野山の話を聞かされていた。やっとその伝説(レジェンド)の地、高野山に来れたわけだ。

 空海が今も瞑想していると言われる御廟のある奥の院。その2キロに及ぶ参道の両側は広大な墓地である。徳川家が高野山を菩提寺としたこともあり、多くの江戸期の大名が墓所とした。そうでなくても秀吉や信長などの歴史上の有名人物の墓が並んでいる様子は高野山ならでは。それ以外にも多くの一般の人の墓も、そして企業の墓がユニーク。物故従業員や創業者一族を祀るものが多いが、広告塔のようでもある。ロケットを墓石にしたS・M工業の墓地が威容(異様)を誇る。ここは宗派に関係なく墓を建てることが出来るそうだ。そして高野山に墓所を構えることが一種のステータスにもなっているようだ。ここも紅葉が美しい。静けさとは無縁の人出であったが...

 今回は一日駆け足で回ったが、やはり宿坊に泊まりゆっくりと過ごすべきだと感じた。今回は下見だ。また来よう。もう少し静かな時に...ゆっくりと心を無にして。

2010年11月8日月曜日

タイムカプセル 橿原・今井町の時空旅

学生時代に奈良を旅した時、驚きの光景を目にしたことが今でも忘れられない。

 近鉄大和八木から橿原神宮方面へ電車が進む。すぐに八木西口駅に着く。そこを過ぎるとやや高架になって国鉄桜井線と交差する。

 車窓からは畝傍山が見えていたが、ふと眼を転じると黒々とした甍の波が続く古色蒼然とした町並みが目に飛び込んで来た。その一画だけまるで時間が止まり、過去がそのまま何かの拍子に凍結保存されてしまった。そんな街並がマッシブに広がっている。街全体がタイムカプセルに閉じ込められたような佇まいだ。

 電車はドンドン速度を上げてゆき、あっという間に、その不思議な空間は視界から消えていった。そして私の記憶の片隅にその光景が刻まれたまま、それを脳の記憶装置から引き出すこともなく30年余が過ぎてしまった。

 そこは橿原市の今井町である。大阪に住むようになって学生時代から気になっていたあの不思議な街の面影、あのときの記憶がよみがえり、その街へタイムスリップすることにした。30年ぶりにあの電車から見た街に出かけた。




 室町時代後半14世紀に一向宗(浄土真宗)の道場(後の称念寺)がここに出来、今井町は寺内町としてスタートした。やがてこの中世環濠集落を母体に安土桃山時代には6町が周囲約3間の堀と土塁に囲まれた武装宗教都市が形成された。織田信長の一向宗攻めの後に、今井町は和睦し町の姿が後世に引き継がれることになる。

 江戸時代に入ると、寺内町には近在から多くの人が移り住み、在郷町として発展する。徳川幕藩体制の下で180年間天領となるが、住民には大幅な自治権が与えられ、町政は今西家、尾崎家、上田家の惣年寄により運営された。
このころから多くの商人が移り住み、木綿、両替商などで栄え、独自の通貨とも言える「今井札」の発行も許された。また大名相手の金融業も盛んになる。江戸時代初期には家千軒、人口四千人に達する繁栄を見たといわれた。

 しかし,そのような街は筑後の吉井、宇陀松山、五條、河内の富田林など日本の地方にあちこちにあるが、今の今までその街がこれほどまでそっくりそのまま保存されて残っていることが驚きだ。現在、伝統的な町家が全体の6割を占め、9件は重要文化財、3件が県指定文化財、6件が市指定文化財となっているという。

 今井町の町並み保存運動が起きたのは昭和30年ころからで、50ー60年頃には住民と行政が一体となって建物の修理、保存、修景、道路整備を行った。平成5年には、重要伝統的建造物群保存築に指定されている。

 街を歩いてみると,想像していた通りの不思議な空間がよく保存されている。かなり修復された建物が多い。昔のイメージを思い出し、崩れかかった町家や滅びの美を求めがちだが、思いのほか新しく整備が行き届いている。電柱の地中化も進み、道路もカラー舗装され、こぎれいな街になっている。

 しかし、ここは保存の為の街ではなく、人々が普段の生活を営む場である。公開されている町家にも住人がいて、日々の暮らしがそこにある。田舎の街にありがちな過疎化や、人がいなくなって空家化した建物が並んでいる様子はないように見える。

 NPO法人のボランティアの人に伺うと、ここに住みたいという人も結構多いが、住む以上は住民としての生活を営むことが条件とか。奈良市のならまちのようにレストランにしたり、カフェ開いたり、お土産やの改造したり、観光客向けの施設は歓迎されないとのこと。確かに食事する所が見つからない。お土産屋もない。観光地ではないのだ。

 重要文化財の今西家住宅を見学させてもらった。ここはかつて惣年寄りを努めた今西家の住まいである。しかし,その構えは住居というよりは、城郭のようだ。中に入ると、大きな土間があり、その前には座敷が三つ並ぶ。その中央の座敷には重厚な張り出し縁がある。ここはその昔は自治都市今井町の警察であり裁判所でもあったそうだ。いわばお白洲だったのだ。二階には簡易な牢屋もあった。やはり単なる住居ではないのだ。

 説明してくれた今西家のお内儀は、このような文化財に暮らす誇りと苦労を語って下さった。建物の維持管理と見学者のマナーに苦慮しているようだ。現代的な生活様式や快適さを求めることも我慢しなければならない。しかし、伝統ある今西家の末裔として歴史的な文化遺産を引き継ぐ気概を強く感じた。

 こうした建物の公開にもなかなかのご苦労があるんだ。訪問者は無責任に見て回って,生活者の立場を忘れている。住んでる人に言わせると「見せ物じゃないぞ」と言いたい所だろう。パブリックな場とプライベートな場と、なかなかきれいに一線を引くのは難しい。しかし、こうした町家は人の生活が今に引き継がれているからこそ貴重なのだ。博物館のように静態保存されたり、テーマパークのようなフェイクな町並みではない。だからこそ,見学する方もそれなりのマナーと見識を持つ必要がある。

 街に掲示されている「文化財、守れる人が文化人」の標語の前で立ち止まってしまった。

2010年11月2日火曜日

魅惑のズミクロン ライカM9の出来すぎたツレアイ

週末の「東大寺ワンダーランド散歩」の写真は,どれもライカM9+ズミクロン50mm,35mmで撮影。
一眼レフ+ズームレンズで撮影することに慣れていると、このレンジファインダーを通してみる景色はまた異なった趣がある。視点を変えて時空旅に出る時によい。

そもそもレンジファインダー機の性質から言って、
1)花などのクローズアップが出来ない(70cmまでしかよれない)。
2)茂みになった花や樹木のピント合わせに苦労する(二重像合致式の宿命)。
3)単焦点レンズだと自由にパースペクティブを変えれない(当たり前だが、体を動かせ)。
4)ファインダーとレンズとの視差があってフレーミングが難しい。
5)望遠系でのピント合わせが難しい。
6)ファインダーでボケが確認出来ない。

などの制約があるが、その不自由さが自ずとこのカメラで撮れる被写体と構図を決めることになる。大抵は50mmか35mmを装着して撮ることが多い。28mmになるとファインダーの中をぐるぐると見渡さないと全体が見にくい。外付けファインダーはカッコイイが、邪魔なので、結局この2本が常用レンズとなる。

 正直に言って、自然や風景写真にはやや不向きで、ポートレートやキャンデットフォト向きだと思われる。が、多少の窮屈さがあっても、単焦点レンズ、とりわけライカのズミクロンレンズの魅力からは逃れられないという弱みが使い手にはある。

 ズミクロン50mmを開放(F2)で撮る。被写界深度は非常に薄い。ピントの合った所の芯がしっかりしているのに対して、アウトフォーカス部分はなだらかにボケてゆく。背景のボケの美しさが魅力だ。ズミルクスのF.1.4だとさらにボケが楽しめる。ノクチルクスのF.1.1ならさらに...キリがない。被写体の立体感を強調する効果がある。
 また、M9はローパスフィルターを廃しているので、クリアーでシャープな画像が得られる。

手動でピント合わせするのだが、なかなかどうして、私の腕も劣ってない。ちゃんとピントが合ってくれている。慌てているときピンボケの山を築くこともないとは言えないが、合焦した部分のシャープさは最高だ。ただし手振れ補正なんて気の利いた装置は付いていないので、暗くてシャッタースピードが遅くなると時々ブレブレの写真が出来る。ごくごく当たり前の写真機の仕組みを思い出させる。もう一度修行をキチンと積んでいきたい,と思わせてくれる。

 いろいろと写真撮影の基本を思い起こさせるカメラだ。こうやって写真は撮ったものだ、などと。何しろライカレガシーと最新のデジタル技術を「見事に融合」させた道具なのだから。

 ズミクロンでの撮影上の問題点は、逆光時に薄いフレアーがかかって、コントラストが落ちる嫌いがある点だ。内蔵の短いフードを目一杯伸ばしてもなかなか解決しない。最新のコーティングを施したレンズに比べると、欠点と言えば欠点だろうが、使い方、撮影のセンスの問題とも言える。 最近のニコンのナノクリスタルコートのような高度なコーティングが施されていれば別だが、普通は撮影時に光を読んで撮る。「光を読む」クセ、を最近の自動化され、高価なコーティングされたデジカメは忘れさせてしまっている。極端な言い方をすれば,ただシャッター押せば一応の写真は撮れる。


ところで、このたびの撮影で気がついたのだが、M9はシャッターを静音モードに設定すると、シャッターボタン半押しでAEロックが出来ない。これは不便だ。で、結局今まで通り普通モードで撮影することにした。ちなみにシャッター音、チャージ音はどちらでも大して変わらない。正直言って違いが分からん。強いて言うならばM8.2の普通モードのシャッター音が一番静か。個体差があるのかな。これもライカだ。

 M9を使っていくうちにいろんな問題点に気がつき、いちゃもん付けて来たが、なんと言ってもレンズの魅力には勝てない。やはりズミクロンというレンズの秀逸さは何にも代え難い。だから文句言いつつもライカは手放せない愛機になってしまっている(期待ゆえの文句だ、どうでもいいカメラにはなにも言わない、などと子供や部下を叱る時の言い訳みたいだが)。ボディー側が早く完成度の高いものに成熟することを期待する。

2010年10月30日土曜日

東大寺ワンダーランド あなたの知らない鎮護国家の寺

 台風一過、といえば快晴の秋晴れを想像するが,豈図らんや今日は雨。うっとうしい天気だ。太陽光パネルで一日のエネルギーを充電する人間にとってこれは朝から元気が出ない。
 雨の飛鳥の里を散策するのも良いものだ。が、こんな日は奈良国立博物館の正倉院展を見に行こう、と鶴橋から近鉄奈良線に乗車。いつも鶴橋か上本町へ行ってみて、奈良線に乗るか大阪線に乗るかは実は行き当たりばったりであることが多い。
 奈良線の平城京趾を横切る電車からは、雨にも関わらず傘さした大勢の観光客でだだっ広い広場がいっぱいになってる光景が見える。恐るべし...平城遷都1300年イベント。いやな予感...。

 近鉄奈良駅に近づくと、車内アナウンスで、正倉院展で駅が混むから帰りの切符は行きに買え、とか、正倉院展の前売り切符を駅で売ってるから買え。100円安いぞ、とか、正倉院展へは便利な近鉄電車で、とか正倉院展、正倉院展、と連呼し始めたので、こりゃかなり混むぞ,と不安な気持ちに。とにかく休日は人が押せ押せで混み合う所には行きたくない。まして展覧会でゆっくり見れないんじゃあ何しにいってるのか分からない。東京上野の阿修羅展のようにショーケースに近づくのに1時間半待ち、なんて馬鹿げてる。興福寺へ行けば,フツウに諸仏の間におわします阿修羅像が...

 奈良駅を降りると、駅から博物館まで,ゾロゾロと人波が続く。「雨にも負けず,風にも負けず...」。貸し切りバスも列をなしているではないか。博物館に着くと、テントが出ている。そこに人の列がとぐろを巻いて切符を求めようと並んでいる。さらに館の入口には切符を持った人が外まで並んで中に入らんとしている。中は推して知るべし...

 こりゃあきまへんわ。ここは上海万博か!ぎょうさんの人たち、みな熱心だわ。こげん中には入りきらん。ヤオイカンバイ。

 で、次の選択ルートへ最適ルーチング。人出で賑わう道を外れて大仏殿横から戒壇堂へ退避。人の行かない所を探して時空トリップ。抜群のトラヒックコントロールだ。はやりのコグニティブWi-Fiも顔負け。

 戒壇堂は東大寺に設けられた受戒の場であったところ。唐僧鑑真が聖武天皇はじめ400人に授戒したのち、孝謙天皇の宣旨により造営された戒壇院がその起源。東大寺の他には、筑紫太宰府の観世音寺、下野薬師寺に戒壇院が設けられた。観世音寺の戒壇院の伽藍配置関係やたたずまいが似ているのは偶然ではないだろう。
 戒壇堂は今では四天王像が有名だ。天平時代の作品と言われる。もっとも創建当時の伽藍は過去3度の火災で灰燼に帰し、現在の建物は18世紀江戸時代に再建された。この四天王像も東大寺西門から後に移設されたものだと言う。
 しかしその堂宇はいかにも奈良の寺院らしい風格を備えている。拝観に来ていたご婦人の一人が、連れに「このお寺は何様式言うんや知らんけど、いかにも奈良のお寺やわ。京都のお寺とちゃうわ」と感想を述べる。さすが関西の人はお目が肥えていらっしゃる。太宰府観世音寺の戒壇院もこの東大寺戒壇院と比べると規模は一回り小さいが、その天平の面影を残していて時空を超えた繋がりを感じることが出来る。

 大仏殿の裏は,知る人ぞ知る東大寺のワンダーランドだ。写真家入江泰吉氏も、奈良へ行ったら表ばっかり歩かずに必ず大仏殿の裏へ行くべし。そこには奈良の美が隠れていると言ってた。確かに,時空の旅人のイマジネーションをかき立てる場所は,にぎやかな観光スポットでないほうがいい。もうすぐすると大仏池越えの赤や黄色の紅葉、銀杏が鮮やかに大仏殿を彩る光景を見ることも出来る。知る人ぞ知る絶景スポットもある。

 長い土塀と鬱蒼とした木立のおくには正倉院がある。今日は正倉院の外構公開日である。こちらは人もまばら。確かに正倉院御物を見る方が面白いので博物館は混んでいる、校倉造りの蔵何ぞ見ても面白くもないのだろう。訪れた見物人も「教科書で見た通りや」とケータイデジカメでヵシャーンと写真撮って帰っていくだけ。シルクロードの東の終着点、平城京の国際色豊かなお宝が満載の正倉院。その収蔵御物はその交流の歴史の証だ。しかし、黒々とした存在感をあたりに誇るマッシブな木造の蔵。正倉院の校倉造りの建造物自体も歴史の生き証人だ。

 東大寺の大鐘楼にたどり着く頃には雨がかなり降り始めた。この梵鐘も大きくてすごいがそれを支える黒々とした木組みが力強い。また、一本一本の柱を丹念に眺めると時を経た木造建築のたくましさ、命さえ感じる。
 柱の根元に雀が一羽死んでいる。かわいそうに,どうしたのだろう。人知れず腹這いで目を閉じて横たわっている。こんな雨の中、大梵鐘の柱のたもとに...「幸せの王子」の童話のつばめの話を思い出した。この雀は釈迦如来のお使いで大勢の人々に幸せを届け続けて息絶えたのだろうか。あわれ。合掌。

 雨が激しくなって来た。帰ろう。

2010年10月28日木曜日

失われた宝剣 聖武天皇のつるぎ

東大寺大仏殿の大仏の膝元から明治時代に掘り出されていた2振りの剣はその氏素性が不明で、大仏殿を建立する時の一種の鎮壇具と考えられていたが、このたび正倉院の宝物のリストである国家珍宝帳に記されていた聖武天皇の2振りの宝剣、「陽寳劔」「陰寳劔」と判明。X線解析の結果、それぞれの根元に「陽劔」「陰劔」の文字が判読されたことから結論に至った。

 この2振りの剣は「国家珍寳帳」から奈良時代に削除され(削除の付箋が残っている)て以来、長く行方不明とされていたが、今回の調査で,明治期にこの大仏の足下45cmから発見された長さ1m程の鉄製の2剣がそれであることが解明されたという訳だ。

 研究者は、おそらく聖武天皇崩御後に光明皇后が天皇愛用の2剣を、天皇思い入れの大仏の足下に埋納したのであろう、と解釈している。

 東大寺大仏殿は奈良を代表する著名な観光地であるが故に、何度も足を運ぶ機会があり、感動や新たな感慨をやや失っていた感がある。しかし、よく見る大仏の足下からこのような剣が出土していたことも知らねば、それが聖武天皇愛用の宝剣であったことももちろん知らなかった。確かにこの蓮の須弥壇は奈良時代オリジナルであるとは聞いていたが...

 おそらく、研究者の推理の通り、光明皇后が聖武天皇を忍んで死後に大仏の足下に奉納したものだろう。これにはいろいろな意味合いが隠されているのかもしれないが、少なくとも夫の生涯をかけた国家事業への思いを理解し、死後にその思いに応えようと、その志の成果に夫愛用の剣を埋めたという、妻の深い愛情を感じざるを得ない。男はその人生をかけた夢を妻や家族に理解されることが無上の幸せなのだから。



 大仏(毘盧遮那仏)も幾多の戦乱で破壊され変容を受けて現在の姿はオリジナルとはかなり違ってしまったと言われる。もともとは金色に鍍金された光り輝く金色仏であったという。須弥壇の線彫りの仏の像は奈良時代からのオリジナルだと言われており、おそらくはこれが大仏の姿であったのだろう。


Dsc_9675 この足下の須弥壇から、聖武天皇の2振りの宝剣が出土した。東大寺を訪れるたびにいつも見ている所だが、その奥にこのような物語が潜んでいるとは...じっくりと時空を超えた世界を心をカラにして見ることが大事だと悟る。
Dsc_9671
 世界最大の木造建造物だとされる現大仏殿も、江戸時代の再建で、オリジナルの2/3の大きさになってしまっている。過去の度々兵火で消失しその度に再建された。有名なのは鎌倉時代の重源による再建。平氏の南都焼き討ちで灰燼に帰した東大寺を再建した。南大門などの金剛力士像のだはこの時代の傑作。

 このように名所に隠された秘話が塗り込められていたことに歴史の奥深さと、人の心の時空を超えた共感を感じざるを得ない。私が死んだら私の愛用の「陽寳機」「陰寳機」、すなわちライカとニコンはロンドンのハイドパーク,ニューヨークのブライアントパーク、グリニッチのビニーパーク、そして福岡の大濠公園に埋めてくれ。誰も気がつかないだろうが...

NHKニュース2010年10月25日
http://www3.nhk.or.jp/news/html/20101025/k10014811911000.html

2010年10月17日日曜日

初瀬街道を行く

 秋の好天の週末、今出かけるなら奈良平城遷都1300年記念で平城宮跡か、あるいは明日香巡り。NHKも特集を組んで奈良が盛り上がっている。観光客が押し寄せている様子がテレビから流れてくる。しかし、そうなればなるほどへそ曲がりの「時空トラベラー」はそんな所へは絶対出かけない。人でごった返している所へ、なんでわざわざ出かけるんだ。しずかに更けゆく秋をめで、時空を超えた古代世界に一人で浸る。それが好き。で、初瀬街道を歩くことにした。

 初瀬街道は泊瀬街道とも呼ばれ、桜井,三輪から長谷寺へ向う参詣道。かつては宇陀を通る伊勢本街道に対して、伊勢へのバイパス街道でもあった。桜井では古代の横大路、難波へ向う竹内街道につながっていた。壬申の乱では大海人皇子が伊勢から大和に攻め上った道でもある。
 今回は近鉄大和朝倉駅から長谷駅までの一駅分を歩いた。一駅と言ってもこの辺りの一駅は長い。あちこち寄りながらの道行きだが長谷寺に到着まで約2時間半の行程だ。

 両側を山に挟まれた緩やかな上り道で隠口(こもりく)の泊瀬(初瀬)と呼ばれた訳が分かる。左手には三輪山、初瀬山、纒向山と続く山塊が迫り、右手には多武峰、外鎌山、鳥見山を見て歩く谷間の街道。しかし、初瀬川沿いのこの辺りは豊かな田園地帯でもある。いつもは電車から見下ろす谷あいの平和な田園集落。歩いてみると刈取りの始まった田んぼ、柿が色づき始めた軒下。コスモスも満開。穏やかな道すがら、両側の山々を見上げる。今日は近鉄電車が山裾を走っていくのを見上げる。

 初瀬古街道は車の通行の多い国道165号に平行したりクロスしたり、縫うように進む。たいていは古くからの集落の中を抜けるのどかな道だ。途中には神社や天皇の宮跡がある。万葉歌碑も多いところだ。白山神社の辺りの台地が雄略天皇の泊瀬朝倉宮跡と言われており、万葉歌碑が建っている。また十二柱神社は武烈天皇の泊瀬列城宮跡と言われている。いずれもそれを特定出来る考古学的な裏付けはないが、日本書紀に記述のある激動期の大王宮が、今はのどかな風景のこの辺りに造営されていたのだろう。すなわち雄略大王とその子清寧大王で河内王権の皇統が途切れ、さらに播磨王権系統の武烈大王は暴虐の大王として日本書紀に描かれ,何らかの皇統の断絶が起こったことを意味すると言われている。そして突如、継体大王が越国から大和に入国してくることになる。

 十二柱神社には相撲の始祖ケハヤの石塔がある。この辺りは出雲という集落である。古代出雲国から来た人々が住んだ地域だったと言う。ちょうど十二柱神社秋の大祭の日で。静かな集落に山車が出て太鼓の音がにぎやかになっていた。子供達が山車に乗って太鼓を叩き、後ろからチョコチョコとついて回ったり。若いおかあさんが小さな子の手を引いたり、だっこしたりして山車に続く。微笑ましい光景だ。家々からはお年寄りが山車を見ようと軒先に出て、年一度の小さな祭りを楽しんでいる。それでも静かな集落で,山車が過ぎると再びシーンとした空気に満たされる。

 ここ出雲集落はまた出雲人形で有名。かつては長谷寺詣でや十二柱神社参拝の土産として盛んにつくられた素朴な土人形だ。しかし、いまや窯元は水野家一軒になったしまったという。窯元を訪ねようと探したが分からなかった。ちょうど家の前で祭りの神輿が過ぎるのを見ていたかわいくて上品なおばあちゃんに訪ねたら,とても丁寧に行き方を教えてくれた。ただ、もう跡を継いだ人も病気で今はやってないと聞いた,と教えてくれた。

 国道沿いの出雲バス停の近くに水野家は見つかったが、やはり誰もいない。「大和いづも人形」の看板だけがひっそりと掛かっていた。残念。京都の伏見人形もとうとう丹嘉一軒になってしまった。

 さらに国道沿いを歩くと長谷寺の参詣道との分岐点に至る。車が瀑走する国道を歩くのは少しも楽しくない。参詣道に折れてホッとする。今日は與喜天満神社の大祭の宵宮。家々には提灯や幔幕が出されていて祭りの気分でワクワクさせる。長谷寺はこの季節はボタンも紅葉も桜もなくて少し寂しいが、その分参詣者も少なくゆったりと散策出来る。

 與喜天満神社の長い階段を昇ると夜の灯明の準備が進められていている。頂上の神殿にたどりつくと、立派な御神輿が拝殿前に鎮座ましましている。拝殿では地元の長老や祭りの役員さんたちがにぎやかに談笑して、祭礼の始まるまでの時間を楽しんでいる。ここからは今歩いて来た初瀬街道を西の方向に見おろすことが出来る。「こもりくの初瀬」とはよく言ったものだ。絶景だ。

 参詣道の途中で初瀬街道筋のジオラマを出している古民家があった。中から若者が出て来て,この民家を開放しているので見ていって下さい、と。早稲田の学生がNPO法人と古民家保存の活動中なのだそうだ。若い建築学生達が長谷の町並みと古民家を壊さないように、と熱心に語ってくれた。築150年のこの古民家はついこの間まで持ち主が住んでいたが、引っ越ししたので取り壊して駐車場にする予定だとか。なるほど駐車場...か。手っ取り早く金になり、そして永遠に150年の建築は葬り去られる。かといって所有者を非難も出来ない。私が学生生活を送ったイギリスのケントやサセックスの古民家(こちらは築200年から300年も珍しくない)の長寿、現役ぶりと、つい比較してしまう。何が違うんだろう... 確かにイギリスは古くてイワクツキの幽霊が住んでる古民家などプレミアプライスで市場に出るお国柄だ。

 参道の「いつかし」という茶店で出雲人形を売っている。店の女将に聞くと、「いつかし」とは古い姓で「厳樫」と書くのそうだ。その名を歌った万葉歌碑まで店の前に建っている。ここの江戸時代の家屋を建て直した時に,庭から出雲人形の型がたくさん出てきたそうだ。それでこの型を使ってこのオカアさんが自ら人形の復活を果たした。「出雲の水野さんの所はもうやってない」と厳樫さんも言っていた。やはりそうなんだ。ともあれこの「厳樫出雲人形」は表情は実に素朴だ。相撲と太鼓持ちを買い求めた。「庭から出たお宝だ。いつまでも造り続けて下さいよ」と言うと、「土産は今は人形よりも草団子ばっかりになってしもうた」と嘆いていた。

 今来た初瀬街道を西に向って帰る。はや山々の間に夕陽が真っ赤に空を染めて沈まんとしている。秋の夕暮れはつるべ落とし。国道を横切ってだらだらと坂を昇り近鉄長谷寺駅にたどり着く。しばし西の三輪山と鳥見山の間に沈みゆく夕陽にみとれる。

 駅のホームには誰もいない。駅が赤く染まっている。特急,急行通過待ち2回の後にようやく大阪難波行きの準急が来た。6両編成の電車にはほとんど誰も乗ってなかった。

2010年10月15日金曜日

Fukuoka Bayside City 新たなる創造へ

 先週の全国規模のコンファレンスは福岡の新しい顔、シーサイド百道にあるヒルトンシーホークホテルであった。4000名を超える参加者が集まる大規模な会議であった。
これまでは横浜のパシフィコ横浜や神戸のポートアイランドシティーで開催されて来たものが,今年は福岡で開催された。

 この辺りはまるでリゾートのような心地よさを持ったエリアだ。あるいはシカゴのレイクショアードライブを彷彿とさせる。あるいはワシントンDCのタイダルベイスンか。サンフランシスコのフィシャーマンズワーフか、ロスのサンタモニカか,ホノルルのワイキキビーチか、と言うと褒め過ぎかも。少なくとロンドンのドックランドエリアよりはかっこいい。特に博多湾の美しさが近代的な都市景観にマッチしている。

 福岡には大きなコンファレンスの出来るホテルが少ないのが欠点だが、ここシーホークは十分欧米やアジアの新興都市のそれに対抗出来る設備と景観を有していると思う。

 特に、ここシーサイド百道はアジア太平洋博覧会で新たに埋め立てられ,人工的に創出された新都心だ。しかし、その設計思想は新しいビジネス拠点と、住み心地のよい住空間と、豊かな自然と、人工的ではあるが海岸線をけがさない景観との調和が活かされているように思う。福岡市が取り組んだ成功事例と言われている。

 だいたい役所が取り組んだ再開発プロジェクトで旨く行ったものは少ないがここは例外だろう。その成功に気を良くして取り組んだ二番煎じの上川端地区再開発や巨大な人工島アイランドシティーのプロジェクトとよく比較される。同じ時期に民活で行ったキャナルシティーの成功もあってますます、あとの二者のケースが悪く言われる。

 私の幼少期を過ごした懐かしい今川橋や、樋井川、百道や地行の海水浴場はなくなってしまったが、後世に誇れる新しい福岡の顔が出来た事が嬉しい。すっかり変わってしまったのに何度来てもなつかしさえ覚えるのが不思議だ。確かに、博多湾に浮かぶ志賀島や能古の島、玄海島の風景は今も昔も変わらずにある。

 ところで日本にはコンファレンスシティーという概念が薄い。いまだにせいぜい京都くらいが日本を代表する「国際会議」都市だったりする。国際的なコンファレンスを誘致する動きは世界の主要都市やリゾートの間で活発だが、なぜか日本ではあまり活発でない。欧米では大掛かりなコンファレンスやトレードショーは地元にとって大きなビジネスチャンスなのだ。シンガポールや香港もそうだ。それを見逃す方はないのだが。

 福岡は,おそらく日本におけるこうしたコンファレンスシティーの代表格になってもおかしくないと感ずる。
まず、成長著しい東アジアの国々とのアクセスがよい。釜山とは3時間の高速船で直行で結ばれている。飛行機ではソウル、大連、北京、上海、香港へは東京よりも近い。福岡空港は世界でももっともアクセスのよい空港の一つだ。新幹線は東京や大阪のみならず鹿児島を繋ぐ。高速道路網も整備され九州各地の神秘的なリゾートへも簡単に到達出来る。

 福岡市には20世紀的な重厚長大産業をシンボライズする工場群が見当たらない。海に面した日本の都会は,たいてい海岸ベリがこうした工場で占拠されている。お隣の北九州市とよく対比されたものだ。皮肉にもこれらがなかったことが21世紀的な町の発展には幸いする。なにより町の規模が適度で洒落たカフェや素敵な食事を提供するレストランが多い。しかもとてもリーズナブルなプライス... 町並みが美しい。祭りや芸能などの文化の香り豊かな土地柄である。学生が多く若者の町である。水辺が美しく都市の景観に彩りを添えている。まるでリゾートと言ってもよい雰囲気を持っている。歴史的な景観や自然豊かな風景が破壊されずに残っている。世界的に見ても非常にバランスのとれた都会と言えよう。

 福岡に足りないものは、国際級のホテルだ。それと自分たちの町がそのようなポテンシャルを持った町だ、という市民の認識だ。そしてそのポテンシャルを活かそうという行動だ。世界的に見ても福岡は決して遜色のない魅力を持っている。もう少しブラッシュアップすればさらに言うことはない。過去の歴史を振り返ると中世博多の黄金の日々を除くと、特色のない平凡な地方通過都市,支店文化の町であった時代が長いので世界的に知る人が少ないだけだ。
 これからだ、さらなる進化を遂げるのは。かつて大航海時代のオランダの地図にはIaponiaの西に島にFacataという都会が記されている。再び世界地図に福岡/博多が復活するのだ。

 故郷である福岡がこのように大きく変貌し、さらにグローバルな評価を得られる町に発展して行くと思うと興奮する。決して東京を向いてその都市の進化の過程を真似をしては行けない。look eastではなくてlook west.だ。独自の道を創造することだ。アジアに向けて開いた国際都市としてのアイデンティティーを確立することだ。

2010年10月10日日曜日

長崎くんち 

 福岡,長崎と,出張だった。

 福岡の街の変容ぶりと、都市景観の落ち着きには来るたびに驚かされる。福岡の都心部には高層タワーマンションなどの町並みを猥雑にする建築物がない。ビルの高さが一定に保たれているので整然とした落ち着きが保たれているのだろう。何よりも空が広いので気持ちよい。これは福岡空港が都心に近い所にあり,建物の高さ規制が適用されているためだ。航空機の騒音には悩まされるが、日本一便利な空港と低層ビル群。これが福岡の都市の特色となっている。アメリカのワシントンDCの都市景観も同じような理由で福岡に似ている。

 コンファレンスのあったシーサイド百道のヒルトンシーホークホテルが唯一の高層ビル,と言っても良いくらいだ。
 百道の都市景観は素晴らしい。穏やかな博多湾と能古の島、志賀島、そして糸島半島に囲まれた人工的な海浜都市景観。自然と都市の調和がよく保たれていてリゾートに行かなくても十分ゆったりとした時間を過ごせる。
 子供の頃、樋井川のほとりから父のこぐボートに乗って百道の海水浴場へ連れて行ってもらったあの時の景観は既にないが...

 長崎へは来年3月開業予定の九州新幹線にあわせて大規模な立て替え工事を行っている博多駅から特急で2時間強。将来長崎新幹線が開通しても1時間半かかるようだ。やはり遠い。東シナ海に面したいくつかの入り江が天然の港として、中国、南蛮、紅毛貿易の拠点になっていた。この辺りは地形が入り組んでいて、山も多く、複雑な海岸線が続き、平戸におけるポルトガル、オランダ、イギリス貿易に始まり、長崎に落ち着くまで、いくつかの入り江を点々と交易港にして来た歴史がある。

 鎖国政策後の長崎は幕府によって管理された国際貿易港であった。新教国のオランダと中国だけが貿易相手国として長崎入港を許された。中国上海には近いが、九州の西の果ての、しかも陸路では江戸から遥かに遠い地に築かれた港町であった。幕府直轄の天領で、長崎奉行の支配下にあり、筑前黒田藩と,肥前鍋島藩が交代で警備にあたった。

 10月の7,8、9日の三日間は長崎くんちのまっただ中で、町中が祭り一色であった。ちょうど長崎支店に到着した時におくんちの蛇踊りが「庭先回り」で来ていた。7年に一度「踊り町」の順番が回ってくるそうで、来年が弊社支店のある出島町がその番となる。準備が大変と聞く。しかし、長崎ならではの祭りに参加出来る栄誉を担う楽しみもある。

 長崎の祭りは国際色豊かでエキゾチック。意匠を凝らした山車だけでなく、有名な蛇踊りや、本踊りやお囃子の行列の華やかで、南蛮、紅毛、唐のフレーバーを加えたし好はエレガントでもある。あでやかなきれいどころの踊りが色気と華やかさを盛り上げる。

 見せ場の中心はもちろんお諏訪様(諏訪神社)だが、八坂神社、中央公会堂前広場でも楽しめる。しかし、早くから座席券を手に入れなければならない。他にも中央公園広場では無料で誰でも見ることが出来る。もちろん山車が市中の役所や企業、店を回る「庭先まわり」を市内いたるところで楽しむことも出来る。とにかく町が祭り一色になる。夏の精霊流しも風情ある祭りだが、くんちの雰囲気は最高によい。


2010年10月4日月曜日

Leica M9 Titan発売だそうだが...

 ライカの限定品商売の一つでM9のチタンボディーが12月に全世界500台限定で売り出される。

 今年のドイツのFotokinaで発表された。

 フォルクスワーゲンのデザインチームとのコラボ製品で、「ドイツ」テイストいっぱい、金属度満載のチタンボディー。なかなか魅力的なデザインに仕上がっているではないか!同じくチタン外装のSummilux 35mmがついてくる。また、従来のネックストラップではなく、肩からかけるガンベルトのようなホルスターに装着して持ち歩くようになっている点も斬新。 詳細はウエッブサイトで確認してもらえればよい。

 ライカは伝統的にこうした限定品商売が大好きだ。M7のエルメス版もその一つだ。外装にお金かけて付加価値として高額商品化する。これも商品のコモディティー化を避ける一つのやり方だろうが、特定マニア(アメリカの借金金持ち、中東の大金持ち、日本の小金持ち、中国の成金等)向けに商売する会社、という企業イメージが定着している。

 しかし,一方、我がM9は相変わらず使い込むたびにいろいろと不安定な症状が現れていて、イマイチ信頼感に疑問無しとしない。安くない値札は本当に本体の価値に相応の価格なのか...? せっかくレンズ群が秀逸であるのに、ボディー性能がミスマッチな感じが...

 最近気がついた事象として一番ビックリしたのは、SDカードを挿入したのに、ボディー側が認識しない(「SDカードが入ってません」表示)何回か抜き差ししてるうちにようやく認識。
 ボディーの中で「接点の接触が悪い」なんて、昔の安物の家電製品みたいなことが起こっているのだろうか?アナログな真空管ラジオみたいに「叩けば直ります」か?

 二つ目は、電源スイッチをオフにしているのに、シャッターボタンを押すと、液晶モニター右下のLEDが明滅する。ちなみに私のM8では起こらない。別に撮影に不具合はないが、なんで?まさか電池の消耗が早い原因の一つになっていないだろうな。気持ち悪い。

 以前報告した再生時の拡大スクロールで、画面が飛んでいく件も,相変わらずだが,いつも起こる訳ではない。ホワイトバランスの不安定さは言い飽きた。

 こうした我々の業界用語で言う、「時時断」「TOK (Test OK)」的な不具合が散見される。こういう「完成度」具合が一番困る。こうした「バグ」は実際の撮影には影響ない,とはいえ、不安要素として精密光学器械の信頼感を大きく阻害する。

 外装をチタンにしてフォルクスワーゲンチームに多額のデザイン料払い,それをマニアから回収するのもいいが、デジタル機器としての中身を充実強化して完成度を上げて欲しい。Nikon製品を形容するdurable, dependableを思い起こして欲しい。そうでないと,ライツ家創業以来の伝統であるはずの、一生もの、末代ものの製品は生まれない。子孫に「これはとっくに壊れて動かないけど、昔はカメラだった。今はチタンの文鎮だよ」と説明しなくてなならなくなる。おじいさんは「何に金払ったのかねえ」なんて言われたくない。


http://jp.leica-camera.com/photography/special_editions/m9_titan/

2010年9月29日水曜日

山辺の道 古代「国道一号線」を歩く

 学生時代に一人旅でこの「山辺の道」を歩いたことがあった。
 この時は天理から入り、石上神宮を起点に桜井方面へ南下するルートを取った。

 当時は大学紛争まっただ中、世情も騒然としていて、自分自身の立ち位置をともすれば見失いがちだった。いろいろと自分の将来や世の中の矛盾や、学生らしい懊悩に苛まれて心身ともに疲れてディプレッション状態にあった。

 日常から一刻も早く離れて、非日常の中に身を置きたいと願った。一種の現実逃避だ。のどかな何も考えなくていい所で一人で居たいと思った。古代史の世界に埋もれて、和辻哲郎の大和古寺巡礼、井上靖の天平の甍などを読みあさっては、滅びの風景に憧れ、入江泰吉の写真集に救いと安らぎを見出していた。

 そうした中で、思い立って「山辺の道」を歩く旅に出かけた。

 当時は、山辺の道などそれほどの話題にもなっておらず、訪れる人も稀であった。すれ違う人もほとんどなく、のどかな田舎道をのんびりと歩き、桜井へ向った。秋晴れの気持ちのいい日だった。大和棟の民家と刈入れの済んだ田園、所々に点在する歴史の痕跡。非日常に身を置くには最高のセッティングであった。

 竹内集落の辺りで一人旅の女性に出会った。彼女はにこり笑って挨拶をしてくれた。彼女は私とは逆に桜井から歩いて来たと言っていた。こんな所を歩いている同好の友という共感、人なつかしさ、そして二人とも歩き疲れていたのもあって、しばし座り込んで話が弾み時間がたつのを忘れた。何の話をしたのか今となっては思い出すすべもないが,他愛のない話だったに違いない。東京のD大学の学生だと言っていた。美人という程ではないが端正な顔立ちの知的な女性であった。やがて、それぞれの目的地に向って歩を進める時間が来た。別れを言ってそれぞれ背を向けあって歩き始めた。

 たんたんとした出会いと別れであった。それっきりその彼女とは人生で二度と出会うことは無かった。しかし、時間がたつにつれ、その淡い思い出が美しく増幅されてゆく。あの時の彼女は山辺の道の延長線上にどんな人生を歩んでいるのだろう。今もその端正な後ろ姿を思い起こすことが出来る。クリスタライゼーションという奴だ。

 それから、たしか箸墓古墳近くまで歩くと,日も西に傾き、二上山を赤く染め始めた。息をのむ美しい光景だった。入江泰吉の二上山残照である。しかし、急に人恋しくなり、それ以上歩き続けることが出来なくなってしまった。疲れもあるが、不思議な孤独感に襲われた。秋の夕暮れに途中棄権だ。そのまま桜井線のディーゼルカーで奈良へ帰った。案外一人になりたいなどと言って旅に出る自分を、客体化してみて喜んでいただけなのかもしれない。結局たわいのないセンチメンタルジャーニーだった。ともあれこの時の古代ロマンの一人旅は未完に終わった。

ところで,「山辺の道」って何時頃できた道なのだろうか。最近は歴史散歩やハイキングコースとしてつとに人気が高い山辺の道であるが、歴史を辿ろうとすると、以外に文献や資料が少ないことに気付く。

 古事記にその名が初めて現れることから,日本で最古の官道であると言われているが、それは景行天皇と崇神天皇の陵墓の位置を説明する際に出てくるだけで、山麓を縫うように進む道、というくらいの意味なのではないか。これが本当に計画的に整備された官道だったのか... 多分縄文時代から弥生時代にかけてこの辺りに住む人々の生活道路だったのかもしれない。初瀬川、大和川を介して難波津とつながっていたと言われる現在の桜井市金屋の海柘榴市(つばいち)から三輪を抜けて纒向(まきむく)や布留(ふる)の集落を繋ぐ通り道だった可能性はある。

 推古天皇の時代に奈良盆地(大和国中)を南北に走る「上ツ道」「中ツ道」「下ツ道」の3本の官道が整備され、さらに東西軸で難波へ向う「横大路」が整備されている。また厩戸皇子の斑鳩から飛鳥へと斜めカットする「筋違道」も整備されている。これらの道は飛鳥故京と藤原京、平城京を結ぶ計画的な道路として直線で結ばれているが、山辺の道は整備された道、というよりは踏み分け道であり、幾度かルートも替わった可能性もある。オリジナルのルートがどのようなものであったのかも確認されていない。

 今、歩いてみると確かに東に聖なる三輪山、龍王山を仰ぎ見ながら、西には大和国中を見渡し、大和三山、二上山、金剛山、生駒山を展望する抜群の景観道路である。その道すがらには,景行天皇陵や崇神天皇陵、巻向遺跡、箸墓古墳、黒塚古墳、布留遺跡があり、この地がヤマト王権発祥の地であるらしいたたずまいを見せてはいる。

 のどかで牧歌的な散策道である。結局、後世の人々が、古事記の記述からこの道にロマンを託して「山辺の道」と命名したのかもしれない。たしかに歴史上のいわれはこの際どうでもいいくらい心和むロマンチックな風景の連続であった。花が美しい。歴史の痕跡をそこかしこに感じることの出来る道である,というだけで十分な気がする。

 今回の旅は秋の実り豊かな山辺の道を歩いた。稲穂もコウベを垂れて豊穣の秋を演出している。鱗雲を天高く見上げるさわやかな秋晴れだった。学生時代の旅で求め、挫折して感じることの出来なかった心の安らぎを得ることが出来た。そして時空を超えたヤマトの風景の美しさに心打たれた。

 この旅は一人ではなかった。素敵な彼女が道中一緒だった。旅は一人も良いが、感動を共有出来るパートナーがいるとまた違う。私の昔のガールフレンド、すなわち今私の妻となってくれた連れ合いがともに歩いてくれたからだ。

2010年9月27日月曜日

元興寺とならまち 日本最古の仏教寺院は今...

 飛鳥から藤原京、さらに平城京、と遷都するたびに実は、首都にあった建物の大規模な移転が行われていた。宮殿や官庁の建物は柱や瓦までが大々的に新京へ運ばれている。その他にも重要な官寺である大官大寺や薬師寺の移転は大事業であった。藤原京に建立された薬師寺が、平城遷都とともに現在の奈良西ノ京に建物をそっくり移転されたことは以前に述べた通りだ。

 現在の奈良市のならまち。その古い町並みと落ち着いたたたずまいが魅力的で観光名所になりつつある地域に元興寺という寺がある。大寺院の多い奈良にあってこじんまりした境内で、今では秋の萩と桔梗で有名な寺となっているが、この元興寺こそ、時をさかのぼること588年に飛鳥の地に蘇我馬子によって建立された法興寺(飛鳥寺)がその前身である。

 仏教が中国、朝鮮半島を経て倭国に伝来したのが欽明大王の538年(552年とも言われている)。崇仏派の蘇我氏と排仏派の物部氏が争い、蘇我馬子と厩戸皇子が、排仏派の物部守屋を討ち果たして、我が国に仏教が受け入れられるようになった、と歴史で教わった。そうして蘇我氏によって我が国初の正式な仏教寺院が飛鳥の地に建立された。これが法興寺(飛鳥寺、後の元興寺)である。その歴史的な寺院が平城京遷都にあわせて奈良へ移転したのである。

 しかし、法興寺は天皇家発願の官寺ではなく、蘇我氏の寺,すなわち氏寺である。しかも蘇我入鹿は乙巳の変で中大兄皇子に誅殺された、いわば朝敵である。その寺がどのような理由、経緯で新京へ移転出来たのか興味あるが、詳しいことは分かっていない。

 現在の元興寺は往時の規模を遥かに下回る規模でしか残っていない(左下の平城京へ移転時の元興寺境内図参照。青色の→部分が極楽堂、禅室に改造されて現存)。しかし、飛鳥の地から移転された当時を偲ぶものとしては、ならまちの中に残る大塔の跡、西小塔院跡、現在の元興寺境内の極楽堂、禅室などしかない。このうち極楽堂と禅室の屋根瓦の一部数千枚が,飛鳥の法興寺移転に伴い運ばれた日本最初の瓦であり、丸瓦の「行基葺き」と言われる古来の葺き方を今に残している。

ちなみに、今のならまち全体が,ほぼ当時の元興寺境内であった訳で、平城京における元興寺の勢力を示している(左の図参照。赤い部分が現在はならまちのなかに史跡として点在している)。しかし後の時代に寺が衰退するとともに,寺域に民家が建ち並び始め、今のならまちが形成されたと言われている。

 奈良時代には元興寺は南都七大寺の一つに数えられ、墾田による格付けとしては東大寺に継ぐ地位を誇っていたという。いずれにせよ何時の頃からか元興寺も官寺としてのステータスを保証されるようになっていたものと考えられる。我が国初の仏教寺院という歴史を背負っているが、朝敵蘇我氏の氏寺でもあった法興寺(元興寺)が大きな発言力と影響力を持つに至る歴史の謎はやがて解明されるだろう。

 都が平安京に移った平安時代前半までは元興寺も仏教界に指導的な役割を果たしていたようだが,平安後期から天台宗、真言宗の台頭、朝廷ではなく貴族との特別な関係を持つ寺院などが勢力を有することとなり、次第に他の官寺同様、衰退が始まる。その後は中世の智光曼荼羅を祀る浄土信仰や聖徳太子信仰などの庶民の信仰の力によって命脈を保ち現在に至っている。1998年には「古都奈良の文化財」の一つとして世界遺産に指定されている。

 当時の寺は宗教施設ではあるものの、外国の最新の思想、文化、技術、芸術を学ぶ,総合大学のようなものでもあった。官寺はいまでいう国立大学、氏寺は私立大学のようなものといえよう。

 外来の宗教である仏教が、鎮護国家の中心となる宗教と位置づけられるのは天皇親政を確立した天武天皇の時代だ。この頃に薬師寺や大官大寺が官寺として建立され、やがて平城京に移って聖武天皇によって東大寺が建立され、筑紫の観世音寺、下野の薬師寺が東大寺とともに、授戒をする3戒壇が設けられ、全国に国分寺、国分尼寺が建立される。こうして中国や朝鮮半島に負けない文化国家としてのいわば国立大学のネットワークが全国に広まっていった。

 一方、蘇我氏建立の法興寺や、聖徳太子建立の法隆寺、四天王寺、さらには唐の高僧、鑑真和上建立の唐招提寺、藤原氏建立の興福寺などは氏寺、私寺でいわば私立大学である。

 しかし、何時の時代もそうであるが、常に「官立」が中心という訳ではない。やがては時の権力者として権勢を振るう藤原氏のように、「官」すなわち朝廷に対抗する一大勢力をなす。興福寺は藤原氏の氏寺として平城京の東に外郭を張り出して建立されている。

 またその一方で、時の権力者の氏寺ばかりが勢力を維持し続けるのではなく、庶民の信仰や帰依により発展し、現在まで存続している法隆寺や四天王寺のような寺もある。興福寺が明治期の廃仏毀釈の嵐の中で破却され、消滅に近い状況になったのに対し、これらの寺は庶民の信仰に支えられて今も法灯を絶やしていない。

 元興寺の今の姿は、飛鳥時代の権力者蘇我氏の氏寺という性格や、南都七大寺としての官寺のステータスを誇っていた時代の姿ではない。中世に至り智光曼荼羅を本尊とする南都浄土信仰を中心とした、庶民に支えられた信仰の場とし栄え現在に至っている。時代とともに権力者は栄枯盛衰うつろい行くが、庶民の力は永遠に不滅だ。


 

(平城京における寺院配置。東郭に興福寺と並んで広大な寺域を有していた元興寺。このようないびつな形をした都の造営には藤原氏の影響力が強いと言われている。平城宮の東への張り出し部分は藤原系の皇族の居住地域。平城京の東への張り出し部分は藤原氏の興福寺の所領というわけだ。
(奈良文化財研究所資料から)



2010年9月14日火曜日

飛天の眼 倭國ヤマト世界を見渡す

 大阪伊丹空港から東京羽田空港へ飛ぶ飛行機は、離陸するとすぐに、神戸上空で大きく左旋回しながら大阪市上空に達し、そのまま水平飛行で、左手に京都を見下ろしながら生駒山を越えて奈良盆地を横切り東山中の大和高原を飛び越えて、伊勢湾、三河湾へでる。

 古代大和の地は,西に生駒、金剛山地を隔てて河内、難波。東に東山中、伊勢。南に吉野山地、紀伊山地を隔てて熊野。北に山城,のちの京都といった国々、地域に囲まれた盆地である。
 すなわちこの飛行機から今見えている大和盆地(あるいは奈良盆地)が大和国中である。

 ここが古代大和、倭国、日本の創世の舞台となった。上空から見渡してみると海には難波の津を介して瀬戸内海へつながっているが、概して山に囲まれた内陸の狭い盆地、箱庭のようなクニである。
 外敵(大陸から,という意味)の侵入から容易に守られる平和な地域である。

 日本書紀に描かれた、神武天皇の東征に出てくる難敵ナガスネヒコの生駒山も、迂回した熊野、吉野の山中からヤタノカラスに導かれて進軍した大宇陀も見える。厩戸皇子の斑鳩の里も大化の改新の舞台飛鳥も、壬申の乱で大海人皇子が進軍した伊勢、吉野のルートも、そして藤原京、平城京も全てが一望に見渡せる。

 これが古代日本人の世界だったのだ。三輪山から日が昇り,二上山に日が沈む宇宙観も空から見るとこれくらいの範囲の話なのだ。たしかに南にそびえる熊野山系、吉野の山々の重畳を眺めるとこの方角が神々の聖域であると信じられて来たことが分かるような気がする。しかしこの山の向うに広がる太平洋のかなたには、という感覚は薄かったのだろう。

 伊勢は大和国中からは遠い。東山中の山々,大和高原を抜けてはるか東にある。何故ここに大和政権の中心である天皇家の皇祖神、天照大神が鎮座ましましたのか,空から見ると不思議な感じもするが、それでも紀伊半島という見渡せる範囲の世界の話だ。

 その箱庭的なスケール感に比べると,九州の筑紫や日向は大和からは遥かに遠い。まして朝鮮半島や,中国は気が遠くなるほど遠い世界の果てである。それでもこの狭い地域の中で,血なまぐさい権力闘争が起き、大王が替わるたびに都を点々と遷すことが繰り返されていた。この盆地を見下ろしていると人間の業を感じない訳に行かない。まして大和の地にいる倭人がはるばる外の世界に出てゆくことは,大きな冒険であったに違いない。いや逆に、遠い九州や大陸から、土着の勢力と対立したり融合したりしつつ、この大和の地に人々が何らかの理由で移り住み定住勢力となったのかもしれない。

 おそらく大陸に近い筑紫の倭人達は、大和の倭人達に比べれば遥かに朝鮮半島や中国と日常的に行き来していて、人種的にも混血が進んでいたことだろう。いや倭人とか渡来人とか言う概念は後世の歴史学者が名付けた分類であって、九州北縁に住まう人々、朝鮮半島南縁の人々には、そのあいだに大きな海峡こそあれ縦横無尽に行き来していたことだろう。晴れた日には壱岐対馬が展望出来、対馬からは朝鮮半島が望める地ならではである。

 それに比べると大和の地形は山々に囲まれ、農耕集落を営むのに適したのどかな地形だ。「大和は国のまほろば」であり、「うまし国ぞ大和の国は」なのだ。政権基盤はこのような経済基盤が確保出来る、安心安全なロケーションにこそ存在する必要があったのだろう。大陸に近い筑紫の地は、最先端の文明に接する先進地域ではあるが、同時に文明の衝突する不安定な地域でもある。後に倭国軍が白村江の戦いに唐/新羅連合軍に敗れて敗退し、その後天智天皇は大陸からの本土侵攻を恐れて九州から瀬戸内にかけて長大な防衛線を築いた。確かにこのような国際情勢の影響を直接受ける地域は落ち着かない。

 魏志倭人伝に記述のある倭人のクニが存在していた時代に、何らかの形で東へ優勢なクニ(それが邪馬台国なのかどうかは知らないが)が移ったのだろう。その東征過程で生まれた出来事を脚色して編集されたのが古事記の神武天皇東征神話であろう。

 いずれにせよ、この眼下に広がる小宇宙で育まれた世界観が日本人のDNAに深く刻み込まれていることは間違いない。グローバル化の影響を適当な距離を置いてマネージ出来る居心地の良いクニ造りを求めて... arms length philosophyだな。これからの時代、日本がそれでモツかどうかは疑問だが。

 そんなことを考えているうちに、機は遠州灘を過ぎ,やがて左手に富士山を見下ろしながら東京へ向った。

2010年9月5日日曜日

時空トラベルのゲートウエイ タイムスリップホール発見!

 九州の佐賀、福岡を巡って、ANA便で大阪へ帰る。9月になっても猛暑の続く中での出張。疲れた体を狭い座席にゆだね、ぼんやりと積乱雲が林立する高度一万メートルの世界を見つめていた。

 すると、薄暮の空の東の一角から茜色の光が射しているのを発見した。不思議な光景だ。時刻は午後6時半。太陽はまさに沈まんとして西の空を茜色に染めているというのに、機の行く手、東の空に夕焼けのような光芒が....  思わず吸い込まれていきたいような衝動に駆られる光景だ。

 そう、これが時空トラベルへの空の玄関口、タイムスリップホールなのだ。あの光は時空を超えた彼方の異次元世界から漏れ出ている光なのだ。話には聞いていたが、これがそうなのか... 初めて見た。
 後ろに座っていた乗客が「あれは何?」と不思議な光芒に声を上げていた。

 過去に飛行機が行方不明になって、機体も発見されなかったケースがいくつかあるが、これら消息不明機のほとんどは、このタイムスリップホールに突入したのだという。星の王子様のサンテグジュペリも北アフリカを飛行中に行方不明になっている。おそらくこのホールに飛び込み異次元世界へワープしたのだのだろう。意図的にであるのか、アクシデントだったのかは分からないが。

 私の乗ったANA機は、このホールを右手に見ながら、そのまま一路伊丹空港へと飛行を続けた。異次元世界からの光芒はやがて機体後方へと消えていった。あのまま突入していたら、と思うとワクワクするような、残念なような、恐ろしいような... 機長のこの時のタイムスリップホール突入回避の判断はおそらく正しかったのだろう。乗客を異次元世界に連れてゆくのではなく、日常世界に何事もなく送り届けるのが彼のミッションなのだから。

 ふと気づくと、機は大きく旋回して伊丹空港へと着陸態勢に入っていた。すっかり日が落ちた下界には生駒山の黒々とした暗黒の部分と、人々の生活の営みを象徴する明かりに溢れる東大阪の町がくっきりとした境界を隔てて広がっている。

「ああ良く寝た。もう大阪か...」

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「現?」

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「夢?」

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「現?」

2010年9月1日水曜日

Leica M9その後 無限大ピントがズレてる...!

 箱入り娘」的な使い方ではあるが、最近出番が増え始めたM9。どうしても好きな風景写真ではニコンの出番が圧倒的だが、少し違う目で見てみようという時、M9は登場する。

 M9は最近ファームウエアーのアップデートも行われてバージョン1.138となった。しかし相変わらずいくつかのプログラム上のバグが散見されて,撮影現場での即戦力としての信頼感に欠ける。ホント何時になったら完成するんだ,と言いたくなる。サクラダファミリアみたいに完成予定はない,という答えかな?

 ホワイトバランスの不満はもう諦めた。マニュアルでやる,と決めたからもういい。しかし、電源オンにしてすぐにシャッターが降りないのには参る。瞬間を切り取るスナップシューターたるM9がこれではいきなり意欲をそがれる。常時電源はオンにしておけ,という事か?バッテリー消耗の早さは横に置いといて...か。

 液晶モニターでの画面チェックで、拡大再生時に、十字バーで画面上をスクロールすると,スクロールされずに画面が替わってしまう。しかもギザギザモザイク模様! 常時発生しない所がソフトバグなのか回路の問題なのか。新しいファームウエアーでも直ってない。ううん...

 プログラマブルな所にまだまだ問題が残っている。ライカ社の光学カメラメーカーからの技術的なリソースシフトがまだ進んでないことを伺わせる。超高級カメラだというのに...日本製のコンパクトデジカメに完全に負けている(同じライカでもライカV-Luxシリーズはパナソニック製なのでこうした問題はない)。

 ところが、最近この「箱入り娘」M9のレンジファインダー像の無限大ピントがズレているのを発見した。遠方の建物のアンテナを見ると左右に像がズレているではないか! 中古のM3やM4では時々この不具合が出たが、いずれも中古カメラ店での調整で完治した。 しかし、最新のデジタルM9でもこのような問題発生に愕然。しかも先述のように、大事に大事に真綿でくるむようにして使っているM9のレンジファインダーが狂っている...

 冷静に考えてみると、これはデジタルか、フィルムかとは関係ないことだ。そもそもレンジファインダーの構造は、装着したレンズの距離リングをまわすことによってレンズ後端にあるカムの傾斜が、ボディー側のコロを回転させながらアームを前後させファインダーの二重像を合致するように調整する、というもの。したがって衝撃に弱いのは事実。

 この方式は革命的な距離連動式ファインダーを導入した戦前1930年代のエルンスト・ライツ社のバルナックライカから変わることなく継承されている伝統技術なのだ。これはこれで凄いことだ。この技術でどうしてもライツ社に勝てなかった日本のカメラメーカーが戦後一眼レフに転向して世界を席巻することになった話は有名だ。

 しかし,この機械的なメカニズムでレンズの距離情報をボディー側の光学ファインダーに伝達する、という20世紀的な技術革新が、画像の処理を撮像センサー上でソフトウエアーで行う21世紀的な技術革新と同居している所がまた凄い。デジカメになってもライカMシリーズのアイデンティティーのようなものだ。これをなくしたらライカじゃないんだろう。

 かつて光学カメラメーカにとって光学ファインダーの優秀さが大きな技術/製品の差異化要因だった。ライカのレンジファインダーしかり、ニコンの一眼レフファインダーしかり。しかし、最近のデジタルカメラは次第に,光学ファインダーを不要にしつつある。コンパクトデジカメでは既にファインダーは省かれているが、ハイエンドのデジタル一眼レフからも取り除き、コンパクトで取り回しの良いボディーづくりが主流になりつつある。美しい光学ファインダーから覗く像のワクワク観は過去のものになるのか。これは単なるノスタルジアの問題なのか?

 話を戻して、この伝統の距離計連動レンジファインダーを構成する部材を見てみると、コロは偏芯構造となっており、V字型のアームの先端に取り付けてある。これをレンズ側のカムが押すわけだから、経年的に、あるいは外部からの衝撃によっては当然コロの偏芯軸ズレ、あるいはV字型アームの変形が起こりうる。そうすると距離計にズレが発生する訳だ。

 コロはマイナスネジで固定されていて、調整メンテ出来るようになっている。一方、V字型アームは堅い金属固型の部品で調整出来ないが、力を加えると比較的容易に変形しそうだ(Vの角度が変わる)これじゃあ狂いがちだよね。

 実際、このM9のコロとV字アームをいじっていると,いつの間にか無限大ピントズレが直っている。驚きだ。
 いや構造を知るとビックリはしないが、こんな程度のモノかという驚きが。 
 これで一件落着!、なわけはない。また何時狂うかわからないという事だ。ううん、何とも悩ましい仕掛けだ。M3やM4の時もバルナックの時も調整に出した記憶があるが、M9になってもおなじかあ。この問題は解決してないんだ。

 金属部材の精密なリンケージによるメカニカル距離計連動ファインダー搭載、という、当時のカメラの常識を破壊したこのライツ社家伝の「破壊的イノベーション」も、さすがにもはや精度確保の限界を越えることは出来なくなっているのだろう。

 やはりM9はライカだ,とあらためて実感した。けっしてがっかりしてはいない...と,自分に言い聞かせる。
 デジタル技術に接ぎ木したメカニカルなこの仕掛けに付き合っていこう、と。イノベーションのジレンマを実体験する良い教材としても... それは納得出来る言い訳かもしれない。

(参考)
Disruptive Innovation and The Leica History.
 Leica Cameras in Deep Trouble.
http://www.slideshare.net/Christiansandstrom/leica-cameras-in-deep-trouble-presentation?type=powerpoint 

2010年8月30日月曜日

元薬師寺にホテイアオイの群生を愛でる そして三輪へ

 (第一部)元薬師寺にホテイアオイの群生を愛でる

 8月ももう終わりだというのに今年の夏は半端でなく暑い。関西では35℃以上の猛暑日がもう14日も連続している。異常としか言いようがないこの暑さ。

 しかし、この暑さは、夏の終わりの風物詩、元薬師寺のホテイアオイ開花にとっては最高の条件。先日藤原京跡から回った時には、藤原京の睡蓮が咲き誇っていたが、元薬師寺のホテイアオイはまだまだ。チラホラ開花した株もあった程度。

 今日こそは絶好のホテイアオイ日和。晴天、気温朝から30℃超。週末珍しく早起きして、近鉄鶴橋から大阪線に乗り、大和八木経由、橿原線の畝傍御陵前まで「時空エキスプレス」に乗る。駅からは東に炎天下を15分程歩くと元薬師寺跡だ。

 見えた見えた、一面のホテイアオイの群生。いっぱい咲いている。1.7ha程の休耕田に約14,000株のホテイアオイが植えられている。地元の畝傍北小学校の生徒達が植えたものらしい。ホテイアオイの花は一日花。朝一斉に開花して夕刻には花の命を終える。翌日には新しい花がまた咲く...このように群生していても結構はかない花なのだ。しかも、日照時間や気温などによって咲いたり咲かなかったりする。一斉に咲いても翌日はチラホラしか咲かなかったりする。しかし、今日はこの天気だ。盛大な咲きっぷり。

 既に、何人かのカメラ小僧(オヤジ)が思い思いに自慢の愛機を構えて写真撮影に余念がない。思ったよりデジタル一眼レフはニコン派が多いようだ。皆一様に地べたに這いつくばって撮っている。美しい花弁をクローズアップしながら,背景の畝傍山も入れてやろう、という意図だ。だいたいわかるシロウトのアングルは。コンデジの人も多いが、こういう人は車でサアッときて写真とってサアッと帰ってゆく。デジ一持ってる人は「地べた這いつくばり」派、オバさんカメラマン(ウーマン)も多い。中には杖付きながらやってきて、風景のど真ん中にドッカと立ち尽くして、やおらバッグからデジ一取り出して周りを撮ってるオバさん(おばあさん?)もいる。「ちょっとどいてくれよ」「あなた、ホテイアオイ風景のど真ん中に入っているよ」。しかし元気だ、いくつぐらいだろう。

 すっきりと青い空、キレギレの白い雲、緑の木立に薄紫色の涼やかなホテイアオイの花が群生する様は壮観だ。しかもここは1300年前の薬師寺の古跡。暑さを忘れてこちらもニコンD3s(今日は気合い入れて来た)を取り出し撮影開始。標準ズームと望遠ズーム(85−400mm)で戦闘開始。これだけ群生するとどう切り取るかなかなか難しい。

 この元(本)薬師寺は藤原京造営の時代、610年に天武天皇が皇后(のちの持統天皇)の病気平癒を記念して建立した官寺である。のちに710年に平城京へ遷都となった時には、この薬師寺が、今の西ノ京の地にそのまま移築された。現在の東塔はこの元薬師寺から移築された東塔そのものだと言われている。

 いまは、ここ元(本)薬師寺跡には金堂跡(礎石が並んでいる)、東塔跡(芯礎を囲んでこんもりとした木立が)、西塔跡(田んぼの中に土まんじゅうのような基壇跡が)が、当時の伽藍配置そのままに残されている。西ノ京と同じ広さの境内が一面のホテイアオイの田んぼに変わっている。

 1300年の時空を超えた大寺の痕跡とそれを埋め尽くすようなホテイアオイの薄紫の花の群落。西には金剛山系の山々を背景に畝傍山が、東には大和青垣山系がこの地を取り囲んでいる。大和国中を彩る風景。たまらんなあ。

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 (第2部)そして三輪へ

 早起きしたこの日はこの後、時間もたっぷりあったので、さらに桜井まで電車に乗り、そこでJR桜井線(最近、「まほろば線」と改名)に乗り換えて一駅目の三輪まで足を伸ばした。大和の東の神聖なる神奈備型の山、三輪山。山自体がご神体である大神神社に参拝。ここの祭神は大物主神。ここ大和の地主神である。蛇に姿を変えて、やまとととひももそひめと結婚したとされている。この媛こそ箸墓の主である。ここは仏教伝来以前の倭国の世界だ。自然、精霊を祀る日本古来の宗教世界だ。三輪展望台へ登る。そこから大和三山、大和国中が、そして日が沈む西の方角に,もう一つの神聖なる山、二上山を展望した。

 去年の11月に巻向遺跡で発掘された3世紀半ばの神殿とおぼしき建物群は、三輪山を背に、二上山を正面に、東西軸上に配置されていたのが確認されている。時期が魏志倭人伝に記述されている邪馬台国の卑弥呼の時代と一致していることから、卑弥呼の神殿発見(?)と騒がれた。箸墓古墳が卑弥呼の墓であるとの説も年代が近い,というのがその根拠になっている。三角縁神獣鏡が多く出土した黒塚古墳もここから北へ向った田原本にある。邪馬台国近畿説の証拠や舞台装置はそろったような感じもあるが、まだまだ状況証拠の域を出ない。

 この東西軸の建物配置の思想は、ここから見渡せる藤原京や、その後の平城京、平安京が南北軸上に配置された「天子南面す」の設計思想に基づく都であったのと異なる。中国から神仙思想や、道教や風水の思想が伝わる以前の土着の古代倭人、弥生人はごく自然に日が昇る東、日が沈む西を基軸に自分たちの世界を理解していたのだろう。ここ三輪山の麓に立ってみてその世界観が理解出来たような気がする。

 こうして三輪山の麓から二上山のある西を望むとこの大和国中も邪馬台国の時代から、飛鳥を経て藤原京、さらには平城京の奈良時代へと移り変わる、そうした時空を超えた風景に見えてくる。このすぐ北には箸墓古墳や巻向遺跡や大和古墳群が山辺の道沿いに並んでいる。倭国、邪馬台国発祥の地だ,と言われるとそのような気がする景観とたたずまいだ。もっとも九州の八女地方や山門地方のそれも極めて大和地方と似ている。古代倭人はこのようなセッティングに神を感じ、安らぎを覚えたのだろう。

この狭い見渡すことの出来る範囲が当時の倭人の世界だったのだろう。現代の日本人には当時の倭人のDNAが引き継がれているのだろうか。

2010年8月21日土曜日

伊豆 奈良本の庄

 夏休みはいつもの隠れ家、伊豆奈良本へ。といっても、大阪へ転勤となってからはなかなか行きにくくて、ほぼ2年ぶりの伊豆行きとなった。

 伊豆は近畿からはいまでも遠い。まして奈良や京都に都があった時代にはとても簡単に行ける所ではなかった。伊豆国は奈良時代には駿河国から別れて一国となった。国分寺は三島、国府も三島におかれたと言われるが、その遺構は発掘されてない。いずれにせよ都から見れば、伊豆は文字通り遥か東国、天さかる鄙である。今でも新幹線で新大阪から東京へ向う途中、三島の手前の右側の車窓から海中に牙牙たる山並みが続いているのが見える。これが伊豆半島だ。伊豆半島は海に大きくせり出した山なのだ。

 奈良本は伊豆半島東海岸、相模湾沿いの賀茂郡の里である。
ここに永年のなじみとなっている作右衛門宿、山桃茶屋がある。今では伊豆急行線の熱川駅から車で急な山道を上れば20分程で到着する。海辺の温泉街からは遥かにはずれていて山に囲まれた狭い里の静かな集落の中にある。もともとこの地の庄屋の屋敷であったそうで、立派な古民家とナマコ塀の蔵が美しく手入れされた庭とともに、ここがこの地域の有力者の屋敷であったことを彷彿とさせてくれる。一日に2組しか泊まれない露天風呂の宿と、しし鍋、へらへら餅などのひなびた郷土料理を食べさせてくれる大きな古民家の座敷料亭と...あまり人に教えたくない隠れ処という風情である。

 地元の人々は、奈良本はその昔、奈良時代に政変や権力闘争を逃れて移り住んだ都人の隠れ里であったと言う。確かに日本の秘境地域に点在する平家の落人部落を感じさせるたたずまいに似ている。都からの距離感、しかしどこか雅な空気感がここにも漂っている。奈良本は山里であるが,同時にのどかな海の見える里である。その点で九州の椎葉村のような山々で隔絶された環境でいかにも秘境という雰囲気はない。いや海と山に隔絶されてはいるが、かえってそれが明るいリゾートの雰囲気を醸し出している。

 今でこそ国道135号線や伊豆急行線で伊東から先へも行きやすくなったものの、その昔は伊豆の峻険な山々を越え、海岸の断崖絶壁に身の危険をさらしながら来なくてはならない秘境であった。
 川端康成の「伊豆の踊り子」でも、旅芸人の一行と山道を歩き、天城トンネルを抜けて下田へ向う道中の様子が描かれている。東京へはもっぱら下田から船、というのは踊り子の最後のシーンを思い起こせば理解出来る。

 奈良時代以降,伊豆は権力闘争に敗れた人々の流刑地でもあった。源頼朝が伊豆に流された話は有名だが、それ以外にも歴史上多くの悲劇がこの伊豆の地に伝わっている。特に都から遠く離れた東海岸の賀茂郡と伊豆七島は「遠流」すなわちもっとも重い流刑の場所であった。左遷と言うとよく引き合いに出される九州の太宰府だが、都の最も位の高い人々の赴任地であって、中央政界からは都落ちだが、立派な官職を得ることの出来る土地だったので比べるべくもない。

 奈良本もひょっとすると,落人の隠れ里というよりも、こうした都での政治闘争に敗れ、送られて来た人々の末裔が住み着いた場所だったのかもしれない。闘争に敗れた我が身をはかなみ、世間に恨みを抱き送られた流刑地。赦免の日も来ぬまま彼の地に留まり、しかしこの地に最後は安らぎを見出したのかもしれない。

 穏やかで暖かい人々。緑濃く、ひんやりとした空気、河鹿が鳴き、21才の老猫が迎えてくれる、変わらぬ里の静けさに心癒されて過ごす。今は都会での心身の疲れを癒すリゾート隠れ里だ。ひょっとするとここは「愛の流刑地」なんだ。いや、そういう意味ではなく...





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(夏の夜の海を彩る花火。伊豆今井浜は今、若者や家族連れで賑わい、海辺の一夜のイベントで盛り上がる)




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(蓮の花が伊豆の地に散った都人とその末裔の想いを乗せて咲き誇る。人気のアトリウムに咲く蓮が今は人々を癒してくれる)

2010年8月15日日曜日

2010年 8月15日 65回目の終戦記念日

 今日は65回目の終戦記念日。

 今年も暑い暑い鎮魂の夏がやって来た。

 毎年8月15日、先の戦争で亡くなった人々の御霊を慰め、不戦を誓う。

 日本人だけでも310万人もの人々が犠牲になった,日本の歴史上類を見ない悲劇。

 アジア太平洋地域の人々に多大なる惨禍を与えた先の大戦。

 明治維新でアジア諸国の中ではいち早く近代化を果たし、アジアの盟主たらんとした日本。
 
 戦争でアジアの人々を苦しめ、日本人自身を苦しめ、破滅の道を歩んだ日本。

 戦後、奇跡の復興を成し遂げ高度経済成長を遂げた日本。

 そして21世紀に入り、中国や韓国やインドの経済発展に追いつかれ追い越されようとする日本。

 戦争で亡くなった大勢の人々は今、彼の地からこの日本をどう見ているのだろうか。

 65年目のこの夏,東京には新しい建造物が建設中だ。

 出来上がれば、世界一の高さを誇る電波塔となるという。

 その名も「東京スカイツリー」。

 地上デジタル放送用の塔だが、今更21世紀の世界に高さを誇る電波塔が必要なものなのか。

 光ファイバーや高速モバイルを使ったブロードバンド時代に...

 2010年8月15日、終戦から65年目の今日のこの日、東京の空にそびえる建設中の東京スカイツリー。
 
 せめて戦争の犠牲となった人々の鎮魂のモニュメントたれ。

Photo
(浅草吾妻橋から,隅田川越しに建設中の東京スカイツリー)
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(アジア諸国からの観光客で賑わう浅草寺山門から望む東京スカイツリー)

2010年8月12日木曜日

奴国、伊都国、末盧国幻影(福岡・博多シリーズ第2弾)

 中国の三国時代、英雄達が活躍した三国志の時代だ。魏の陳寿が編纂した史書。その倭人の条(魏志倭人伝と呼ばれている)は、日本国家の起源を知る上で重要な邪馬台国の記述がある唯一の文献資料として有名だ。

 そこには朝鮮半島の東の海上に浮かぶ倭人の国、女王卑弥呼が都する邪馬台国に至る道のりと国々の様子が描かれている。その道程の記述から邪馬台国が九州にあったのか、近畿にあったのか大論争になっていることは有名だ。

 この倭人伝に記されている国々のうち,ほぼ位置が特定出来ている国は対馬、壱岐を除くと、末盧国(松浦半島)、伊都国(糸島半島)、奴国(博多湾)の3カ国だけである。とりわけ奴国については魏にさかのぼる漢の時代の史書「後漢書東夷伝」に倭の奴国王が朝貢したことが記述されており、そのとき漢の光武帝が奴国王に与えた金印「漢倭奴國王」が江戸時代に博多湾の志賀島から出土していることから、文献上の記述が考古学的な物的証拠で証明された貴重な例とされている。

 博多ベイサイドプレイスから博多湾内をクルーズするレストランシップマリエラに乗船。古代の奴国と伊都国の幻影を追いながら水辺都市福岡の景観を楽しんだ。
 このクルーズ企画自体は、MATfukuokaという、福岡の近現代建築を探訪する「建築ツアー」イベントの一つで、福岡の都市景観を海から見て回ろうという画期的なものである。これに便乗した。

 福岡はこれまであまり知られていなかったが、世界中の著名な建築家が設計、建築した建造物作品が集積している都市である。磯崎新、黒川紀章、前川國男、アルド・ロッシ、シザー・ペリー、等々。これら建築物を文化的な景観,文化的資産として見直し、福岡という町の付加価値創造に役立てようという志のもとに、福岡の若手建築家、建築学生たちがプロデュースした活動がMATfukuokaである。建築物と都市景観を新たな福岡の魅力として再発見しようというなかなかユニークな試みであるし、何よりも参加して面白いツアーである。

 こうして海から福岡を見ると奴国の時代からこの博多湾が大陸への重要な窓口であったことがあらためて体感出来る。中世に栄えた港湾都市博多は、元寇や戦国の争乱など幾多の戦火による破壊を乗り越えて江戸時代の鎖国でその役割を終えるまで、日本を代表する国際貿易都市として発展してきた。大航海時代のオランダの世界地図にもFacataの名前が刻まれている。遣唐使の時代から謝国明のような華僑商人、神屋宗湛、大賀宗九などの豪商が活躍した「博多の黄金の日々」だ。

 その後鎖国時代に入り、博多の国際貿易港としての役割は長崎に移り、しばらくは停滞の時期に入る。終戦直後は大陸からの引き揚げ船の着く港となり、日本人がかつて体験したことのない未曾有の悲劇の舞台ともなった。博多湾には戦後間もなくから博多埠頭や須崎埠頭などの港湾施設が設けられ、香椎沖には最近アイランドシティーにコンテナ埠頭が新設されてガントリッククレーンが並ぶ姿が、再び新たな国際港湾都市福岡への再生の印象を強く主張している。

 目を西に転ずると、シーサイドももちから姪の浜のマリノアの都市景観は、新しい水辺都市福岡を強く印象付ける。大きな港湾施設を設けず、工場もなく、水辺をコンクリートで護岸せずに人工ではあるが砂浜で縁取り、福岡タワー、シーホクホテル、福岡ドームなど斬新なデザインの高層の建築群が軒を連ねる。今川橋に住んでいた子どもの頃,この辺りは地行浜、百道浜の海水浴場だった。近場の海水浴を楽しんだものだ。そこをアジア博(よかとぴあ)の時に埋め立てて新しい人工海浜都市、シーサイドももちが生まれた。近代的で自然と調和した都市生活、という福岡での暮らしを形容するにふさわしい景観となっている。

 博多湾は志賀島を陸地と繋ぐ長大な砂州、海ノ中道に囲まれた静かな内海になっている。その志賀島と能古島の間からは玄海島が望め、ここが天然の良港であり、朝鮮半島、大陸へのゲートウェーであることをあらためて感じることが出来る。また西には今津湾、糸島半島の可也山(糸島富士)が夕陽に染まり、古代の伊都国の残照を見る思いがする。

 船から陸地をぐるりと見渡すと、古代の倭国の国々(ムラムラ)の舞台はこのように博多湾という意外と狭いエリアであったようだ。邪馬台国の卑弥呼の代官、一大率が駐在したという伊都国もこの博多湾を囲む糸島半島の付け根あたりに位置していた。平原遺跡や三雲南小路遺跡、井原鑓溝遺跡など、大陸伝来の副葬品が大量に出土した遺跡群が集まる場所である。魏志倭人伝に登場する伊都国の存在を考古学的に証明するものだろう。

 さらに西へと歩を進めると、末盧国のあった唐津、松浦半島となる。ここは福岡から地下鉄乗り入れで1時間余の所だ。昔は国鉄筑肥線であったが、福岡市地下鉄開通と同時に電化され、姪の浜から西は地上を走る。景色の美しい路線だ。伊都国のあった糸島半島を過ぎる頃、右手に美しい海と島が織りなす海岸線が車窓に広がる。この美しい風景に囲まれた豊かで平和な風土が古代から人々を寄せ付けて国家(ムラ)を形成したとしても不思議ではない。晴れた日には壱岐が望める。やがて虹ノ松原と鏡山が優美な姿を展開する。万葉時代から時空を超えて続く景観に見とれてしまう。

 この唐津は「唐津焼」で名の知れた土地でもある。中里太郎右衛門窯が現在も窯元として古唐津伝統の作品を生み出している。朝鮮唐津や高麗唐津など茶器として古唐津は外せない。他にも若手作家が多く育ち、駅前にはギャラリーには様々な「唐津焼」の作品が並んでいる。古代末盧国時代から大陸との交流が盛んであった土地の記憶を、こうした伝統陶器に重ねることができる。

 青い空、青い海、白砂青松、緑の島々... 近代的で個性的な建築群と都市景観... このような自然と都会、時空を超えた歴史と未来が織りなして美しい景観を生み出している。今も昔もアジアへのゲートウェーというポジションは変わってない。アジアの時代にこの福岡がどのように発展してゆくのか楽しみだ。

2010年8月11日水曜日

福岡と博多 ツイン・シティーの栄枯盛衰 (福岡・博多シリーズ第1弾)

 福岡と博多はそもそも別の街であったことをどれだけの人が知っているだろう。古くからの博多っ子ですらよくわかってない人がいるくらいだし、まして転勤族が多い福岡市民はあんまり考えたこともないだろう。別に知らなくても日常の生活に支障はないからどうでもいいのだが。しかし,そこには栄光の歴史と皮肉な運命と、衰退からの復活と再生のシナリオが隠されている。いろいろ教えられることがいっぱい隠れている。知るは楽しみなり。いざ時空旅へ!

 博多は中世に繁栄した我が国随一の国際貿易都市である。さかのぼれば太宰府の外港、那の津に起源を発し、大陸との重要な交通の要衝として発展した。遣唐使船もここ那の津で風待ちしてから出航し、那の津へ戻って来た。みやこにいた平清盛は太宰大弐の官位を自ら要求し、ここに袖の湊を開き宋との貿易を独占した。後に元寇で博多は戦火に焼き払われるも、謝国明など博多百堂の華僑豪商等によって復興し、中世には大友氏、大内氏、島津氏の利権争いの場となる程の繁栄を極めた。さらに戦国時代の戦乱で街がたびたび焼き払われ、一時衰退したが、豊臣秀吉によって復興された。神屋宗湛、島井宗室、大賀宗九などの博多を代表する豪商達が活躍する時代となる。「博多の黄金の日々」である。このような1300年余の歴史を持った街である。また博多の街を3m掘ると、江戸時代、近世、中世、古代から、弥生の集落、「クニ」の遺跡が重層的に発掘される。このように「博多遺跡」は3mの地層に2000年の歴史が積み重なるという稀有な遺跡だ。そう、博多は日本最古の都市なのだ。


今の博多の町割りはこの秀吉によってなされたもので、「流れ」という通りを南北に走らせた碁盤の目のような縄張りは「太閤割り」と呼ばれる(博多古地図参照[出典:福岡県立図書館])。秀吉のお膝元、大坂の船場の町割りと同じである。今でも博多祇園山笠の「流れ」はこの太閤割りに基づいている。

 一方、福岡は関ヶ原の戦い以降、豊前中津から入国してきた黒田長政によって新たに開かれた城下町だ。あの天才軍師黒田官兵衛(この頃には隠居して如水と号した)とその子、長政によって縄張りされた。官兵衛は秀吉の下で博多復興の指揮を取っていた訳だから、息子長政が筑前国主となって、博多に戻ってきたのも何かの縁であったのだろう。福岡400年余の歴史は長いが、博多に比べれば歴史の浅い町だと言えよう。

 黒田長政は筑前入国に際し、最初は博多、箱崎の東方に位置する小早川隆景が築いた名島城に入った。しかし手狭で52万石の大藩の城下町としては拡張性に欠けるとして、新たな場所を探した。結局、博多とは那珂川を隔てた西の警固村福崎に城を構えることとなった。ここを黒田一族の出身地備前福岡にちなんで「福岡」と名付けた。

 城は天守閣を設けず(一説には、あったが破却されたともいう)、石垣も一部にしか用いない平城だ。黒田氏が朝鮮出兵時に、難攻不落で、攻略に手こずった晋州城をモデルとしたと言われる。周囲を歩いてみると石垣も低く、堀も浅い一見無防備な城に見える。また、新たに建設された城下町部分は狭い作りとなっているが、博多という既存の大商業都市を取り込んでいる。西は草香江の津を背に(その一部が今の大濠公園)、北は細長い城下町を挟んで海に面し、東は那珂川を隔てて博多の街。さらには博多の外側に出城を配し、南は山、という攻めにくい構造となっている。戦国の世の山城とは違った新しい時代に即した、いかにも城づくりの名手,如水、長政親子らしい合理的で優美な縄張りだ。

 ちなみに福岡城(舞鶴城と呼ばれている)は、奈良時代から平安時代に設けられた外交、官製貿易のの拠点、太宰府の筑紫館(ちくしのむろつみ。別名、鴻臚館)があった所に築城されている。これは、当時そこが鴻臚館あとであることを知って築城した訳ではなく、戦後になって、城内の旧平和台球場跡から当時の館跡が発見され、現在も発掘が続いている。もともとこの辺りは博多湾を見下ろす高台に位置している。偶然なのだが、何時の時代にも、支配者は高台に陣取るものらしい。



新しく建設された城下には、上級家臣団が住む大名町、中下級武士が住む地行町、唐人町や、新たに樋井川の西に開発された西新町などが形成され、さらに豊前中津や播州から商人や職人を集め、大工町、呉服町(博多の呉服町とは別)、簀子町など、博多とは異なる町人町を配している。

 このように博多と福岡は全く性格の異なる都市であり、発生の時期も経緯も異なっている。那珂川の中洲を隔てて並存した、日本では珍しい双子都市である。ちなみに、博多の東には石堂川を隔てて箱崎,千代の松原があり、ここは箱崎八幡宮を中心に形成される寺社町として発展してきたところで、福岡とも博多とも一線を画した地域であった(福岡城参照[出典:福岡県立図書館蔵])。

 江戸時代に入ると鎖国令により、古代より続いた博多の国際貿易港としての役割は終わり、その役目は肥前長崎に移る。あれ程鼻息の荒かった自治都市博多も、徐々に黒田藩の城下町の一角をなすようになる。海外に雄飛した博多の豪商は姿を消してゆき,長崎をその活動の場とするか、新しい国主黒田氏の御用商人となった。徳川幕府は博多を直轄領とはせず,黒田の支配にまかせた。その黒田も隣の肥前佐賀藩の鍋島とともに幕府の命により長崎勤番の任務につき,博多より長崎の警備に多くの時間と費用をかけた。またそこで得られた海外の知識や技術を藩の権力機構に内包していった。

 明治になって、城下町福岡と商人町博多は合併し福岡市となる。議会で一票の差で新市の名称は「福岡市」となったという。今は博多の名は区制移行後の「博多区」とJR「博多駅」に残すのみであるが、しかし、福岡出身者は外へ行くと「私は博多っ子です」と自己紹介する。福岡部に住んでたか、博多部にいたかを問わずである。外では博多と福岡はどちらでも通用する名称であるが、「福岡」と「博多」はどう違う?という、うんちく話の好きなご仁に格好の題材を提供している。このブログのように...

 今でも博多と福岡の違いは祭りにその痕跡を残している。博多祇園山笠は博多の祭りで那珂川を渡って福岡部には入らなかった。博多総鎮守の櫛田神社の祭りだ。今でこそ新天町辺りに飾り山が並べられているが、世が世なればこれは有り得ないことだった。もう一つの博多を代表する祭り、博多松囃子とそこから生まれた「どんたく」も博多商人の祭りだ。祭りが多いのは博多の特色だ。今はお囃子のパレードは福岡市中央区の中心部天神、渡辺通をにぎやかに通るが、ここは博多ではない。城下町福岡の東の端っこだ。しかしここから西へは祭りの列は進んでゆかない。そういえば城下町福岡の祭りって、あまり聞いたことない。

 博多っ子はプライドが高く、福岡の人間が「博多は...」とか、「博多じゃあ...」と言うと、「ナンバ言いよおとか」「博多は山笠のあるけん博多たい」と、お定まりのセリフが返ってくる。県外へ行って「ご出身は?」と聞かれると、つい「博多です」と言ってしまう。何となく「福岡です」と言うと通りが悪い気がしてしまう。あるいは「福岡のどこですか?」と更問いが来るのがめんどくさい。しかし、那珂川と石堂川に挟まれた博多以外の「福岡市」で生まれ育った人は、自らを「博多っ子」と言っておきながら、なんか引け目を感じる。東京に住んでるからといって皆が「江戸っ子」という訳ではないのと似た感覚だ。

 話は変わるが、筑前福岡藩は明治維新に乗り遅れた藩である。明治新政府には福岡出身者の重鎮は少なく、九州の中でも長崎や熊本、小倉、門司に比べて存在感の薄い通過都市の悲哀を味わうことになる(福岡がこんなに発展するのは戦後のことである)。高等教育機関でも旧制高等学校ナンバースクールは、第五高等学校は熊本。第七高等学校は鹿児島だ。ただ九州帝国大学の誘致に成功したのは当時の福岡としては快挙と言わざるを得まい。

 そもそも幕末には福岡藩には家老の加藤司書や平野国臣、月形洗蔵などの筑前勤王党の志士がキラ星のように活躍し、薩摩や長州に並ぶ「尊王攘夷」勢力の中心であった。長州征伐では幕府軍の侵攻を停めさせ、幕府寄りであった薩摩と、倒幕派の長州の仲を取り持つなど、薩長連合(坂本龍馬の功績であるとされているが)を画策するなど幕末激動の時代の主役の一翼を担っていた。また京都での政変により下ってきた「七卿落ち」、すなわち倒幕派の公家たちは、長州藩、そして筑前太宰府に身を寄せている。

 しかし、勤王倒幕派が主流であった筑前福岡藩も、藩内の佐幕派の巻き返しに遭い、明治維新を2年後に控えた年に、加藤司書はじめ、倒幕派のほぼ全員が粛正されてしまう。野村望東尼が姫島に流されたのもこの時だ。

 黒田は外様とはいえ、関ヶ原合戦では徳川の東軍に組し、長政は東軍勝利に貢献したことで家康から筑前52万石を与えられている。薩摩の島津や長州の毛利が西軍の主力で、関ヶ原で敗走し、後に徳川に赦免された「西軍の残党」であったのとは異なる。この点は同じく徳川に土佐一国を与えられた外様の山内に似ている。黒田の幕末に置ける尊王倒幕のスタンスは、山内容堂が最後まで佐幕か倒幕か迷いに迷っていたのと同じ状況だ。ちなみに倒幕で活躍した武市半平太や坂本龍馬などの土佐勤王党は、そのほとんどが、かつて徳川に滅ぼされた長宗我部遺臣の子孫、山内レジームでの下士、郷士である。考えてみれば怨念とは恐ろしいものだ。毛利も島津も長宗我部も、関ヶ原の恨みを260年後に晴らした訳だ。

 福岡藩にはこうした土佐藩のような旧領主の家臣たちはいなかった。黒田如水(官兵衛)、長政父子を祖とあおぎ、いわば創業以来、君臣の結束が固かった黒田家(黒田二十四騎に代表される)も、三代目忠之の時の黒田騒動(殿のご乱心に栗山大膳が主家を見限る)に象徴されるように、父祖の代から黒田家に忠誠を尽くしてきた古参の家臣団との間に亀裂が入り、徐々に結束力が弱まってゆく。また、後世には嫡子に恵まれず、官兵衛、長政の血脈は途切れる。こうして他家(徳川、京極、島津など)からの養子が藩主の座につくようになる。

 黒田の最後の殿様、長ひろ(さんずいに専)は薩摩島津からの養子で、島津斉彬とは甥叔父の関係であった。蘭癖大名で、開明的な君主であったが、最後の最後で倒幕には組しなかった。日本の近代化の必要性、勤王の志は理解を示したものの、藩内の過激派、筑前勤王党一派を持て余し、土壇場で粛正して徳川幕府に忠誠を示した。徳川慶喜の大政奉還の数ヶ月前、明治新政府発足の2年前のことである。皮肉にも、同じく佐幕か倒幕かで逡巡していた土佐の山内容堂(大政奉還を建白する)とは対照的だ。激動の時代にあって、先を見抜く眼力、大局的に時代を読む見識、時宜を得た的確な判断をすることの難しさを教えている。これは単なる運不運では語れないだろう。リーダーには運を掴む力も必要なのだから。

 不幸はさらに続く。明治新政府になってから、福岡藩知事の黒田長知は、贋札事件の責任を問われ、廃藩置県を待たずに藩知事の地位を追われる。替わって皇族から有栖川宮タルヒト親王が藩知事となる。贋札発行は当時、財政逼迫事情から、各藩では密かに行われていたようだ。しかし、このように新政府に発覚してしまい、関ヶ原以来260年続いた大藩の藩主が更迭されるという前代未聞の事態を招いたのは福岡藩だけだった。皮肉にも幕藩体制崩壊直後の「改易」である。

 いやはや、先を読む眼力を備えた天才軍師と言われた藩祖如水(官兵衛)は、彼岸からどのような思いで、こうした子孫(といってもとうに血脈は途切れているが)の引き起こした「不手際」を観ていたのであろう。殿のご乱心による改易の危機を、身を捨てて切り抜けた忠臣栗山大膳も、あの世で泣いていることだろう。

 このように歴史をひもとくと、那珂川を隔てた二つの双子都市は、奇しくもともに時代の変遷に伴う苦渋を味わった。博多は鎖国政策により、古代から続いた日の本随一の国際貿易都市としての黄金の日々を失い、福岡は明治維新に乗り遅れたため、地方通過都市への転落を余儀なくされ、明治新体制では、福岡人は西南の雄藩出身者の後塵を拝することとなった。栄枯盛衰は歴史のことわりとはいえ皮肉なものだ。

 しかし、戦後の福岡の発展には目を見張るものがある。連合国占領軍GHQは九州の拠点を熊本ではなく福岡に定めた。これがキッカケとなり、戦後、明治以来の福岡の地位が逆転することとなる。マッカーサーは、上述のような福岡の明治維新における歴史的な経緯などを考慮する立場には無いし、知りもしなかっただろう。ただ朝鮮半島にも近い「極東アジア」における福岡の地政学的なメリットを勘案して拠点に選んだのだろう。彼は古代から続く博多・那の津の東アジア的な役割を歴史に学んだ訳ではないが、結果的に福岡・博多のポジションの重要性をよく認識していた。

 今や人口150万を突破し、名実共に九州随一の大都市に発展し、九州の盟主に躍り出た福岡市。特にアジアの時代、21世紀に入って、福岡・博多が再び東アジアの中核都市として世界に開かれたハブになる日がやってきた。東京を向いたドメスティックな「支店文化の町」ではなくこの歴史的双子都市が、かつてのようなグローバルな舞台設定の中でどのように発展してゆくのか楽しみだ。

2010年8月9日月曜日

デジタルオリンパス・ペンF復活 F.ズイコーレンズ再び...

 オリンパスのE-P1は、マイクロフォーサースフォーマットのデジタルカメラで、一眼レフ特有のペンタ部がないコンパクトな外観で人気商品の一つだ。

 往年のオリンパス・ペンFの外見もペンタプリズムを廃し、ダッハプリズムという当時画期的な光学技術を用いたスマートな独特のボディー形状となっていた。そういう意味では、デジタル化されて同じ外見を継承したことはファンにとって嬉しい限りだ。

 ただ、往年のオリンパス・ペンFユーザは、お小遣いをコツコツ貯めて買いそろえたペンF用のコンパクトなズイコー交換レンズ群を付けて撮りたいではないか。それでこそデジタル化したオリンパス・ペンFの復活だ。

 ペンFは35mmフィルムの半分、すなわちハーフサイズ用カメラなので、35mm換算でレンズ焦点距離は40mmなら1.3倍の約50mm相当となる。フォーサーズフォーマットなら2倍となるので、40mmのFズイコーレンズは80mmの中望遠レンズとなるはずだ。

 ところが、意外にペンF⇔マイクロフォーサースマウントアダプターがない。
オリンパスからもパナソニックからも純正アダプターはラインアップされてない。その他のブランドメーカーからも、このF用だけがリリースされていない。
どうやら香港製のモノがある、無名のガレージメーカが出しているそうだ、という噂は聞いていたが、実際にお目にかかることはなかったので、ほぼ諦めていた。

 先日、福岡へ行ったとき、時々ぶらりと立ち寄る天神のカメラ屋のショーケースを覗いてみると、たまたま発見。探している時はないが、忘れた頃に見つかるもんだ、こういうたぐいのモノは。

 どこの製造か全く表示もない(PEN-m4/3と白抜きで刻印してるが)が、とりあえず使ってみる。
ボディー側のマウント外周にはローレットが切ってあり取り付け時の手がかりがよい。カチッと装着。しかし、レンズ側のマウントが甘い。ガタガタする。取り付けたズイコーレンズのフォーカスリングをまわすと、マウントロックが外れてしまう。無限大ピンとも少し甘い。工作精度はいまいちだ。

 写りはさすがに、最新のデジタル専用のレンズのようなシャープさとコントラストの良さはないが、「そうそうこんな写真だったよ、あの頃撮ったのは...」というノスタルジックなテイストが出ている。シーンモードでポップアートを選んで撮ると面白い。遊べる。

 しかしFズイコーレンズ装着した姿はなかなかのもの。コンパクトでスマートなE-P1ボディーにコンパクトなFズイコーレンズ。とにかく「デジタルオリンパス・ペンFの完成です!」マウントリングの出来上がりは「いただきました、☆三つです」とはいかないが、Fズイコーレンズ群を生かせるデジタルオリンパス・ペンFの復活にマニアックな一人喜びの感動を味わってる。

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2010年7月31日土曜日

新益京(あらましのみやこ)藤原宮趾

 新益京といってもピントこないが、藤原京と言えば教科書で習っただろう。しかし日本書紀には「藤原京」という名前は出てこない。飛鳥浄御原宮から遷都した新たな都は「新益京」(あらましのみやこ)と記されている。藤原の名はその宮殿をさすとされる。女帝持統天皇は日本で初めての本格的な都城、藤原京(新益京)を造営、694年に遷都した。

 持統天皇の夫であった天武天皇は、壬申の乱の後、天皇親政を敷き、皇祖神天照大神を伊勢神宮に祭り、「公地公民制」を定め、割拠する豪族の上に立ち、King of Kings, Lord of lordsとして天皇を中心とした国家体制を構築。遣唐使を中止し、仏法と律令制に基づく「近代的な」大国「日本」を築くことに力を注いだ。「倭」から「日本」への大きな転換である。

 この時代は、その1200年後の日本の歴史のもう一つの転換点、明治維新の時代に似ている。国際情勢の緊迫、大国や列強の外圧への恐怖。内乱。天皇中心とした統一国家体制への変換。新たな国家を律する法体系の整備、首都移転。「富国強兵」「殖産興業」という「近代化」を計った点でも共通する。いや、明治維新時の尊王攘夷思想は、この時代の宮廷「革命」に範を求めたものかもしれない。事実その後の歴史の中で天皇は政治権力の表舞台から徐々にフェードアウトしてゆき、再びその表舞台に踊り出すこととなったのは明治維新の時である。それ故の「王政復古」であった。

 話は戻り、持統天皇はその夫の意思を継ぎ、新生日本を象徴する首都の造営に力を注いだ。それまでは狭い飛鳥の地であらたな天皇が即位するたびに点々と宮殿を移していたのを、いわばpermanent residentを設け、宮殿を中心に唐に習った壮大な都を形成することとした。これより平城京へ遷都する710年まで文武天皇、元明天皇の三代に渡り都を営む。ここに外国風の飛鳥文化とは異なり、日本としてのアイデンティティーを主張する白鳳文化が花開いたわけだ。後に菅原道真が説いた「和魂漢才」の原点がここにある。

 藤原京は、畝傍、耳成。香具山の大和三山を包摂する東西南北条坊制に則った広大な都城であった。大極殿、朝堂院などの宮殿は平城京とは異なり、都城の中央に配置されている。都には薬師寺(平城京に移転する前の)、大官大寺が建立された。都城を囲む城壁や堀はなかったようだが、南には朱雀門趾が発掘されている。270pxfujiwarakyo2

 諸外国からの使節はこの都の壮麗さに目を見張ったことであろう。しかし、先に述べたように、都はわずか16年で、奈良盆地の北、平城山の平城京へと再び遷都される。その理由は謎に包まれた部分が多いが、一説にはその地形の水はけの悪さがあげられている。宮殿の位置する地点は盆地の中央で、南西に比較的小高い山を抱える地形から、宮殿地域は常に水が流れ込む場所に位置する。当然汚水の滞留が起こり、疫病発生の原因となっていたと言われる。

 そんなお粗末な... ということは、そもそも都市計画が初手からずさんだった,という事なんだろうか。大国としての体裁を整えることを急ぎすぎたのか?ともあれ現在、大極殿あとの基壇が残されており、そこに立ち周囲をぐるりと見渡すと、ここは奈良盆地の中央。北に耳成山、東に香具山、西に畝傍山が展望出来る。大和国中ど真ん中で、都のロケーションとしては理想的なのだが、いかんせん水はけまでは考えなかったのか。

 今は、国指定の史跡となっており、発掘が続いている。広大な原っぱになっており、野球少年達が真っ黒になって元気にグラウンドよろしく走り回っている。その空き地の一部に地元の人々が、蓮田を設けて、いつも夏のこの季節は珍しい蓮の花の競演を楽しむことが出来る。また、黄色コスモスの群生もあり、古代を忍びつつ花々を楽しむ絶好の場所となっている。

 しかし、このクソ暑い猛暑のただ中、日差しを遮る場所もない野っパラで蓮にカメラ向けてる酔狂なヤツは我一人。車でやって来て「ここやここや」といって降りて、「あっついなあ」と汗ふきながらそそくさと蓮見てまた車に戻る人以外、訪れる人もない。蓮もコスモスも盛大に私一人の為に咲き誇ってくれている。「夏草や強者どもが夢のあと」だ。おおっと、カメラが熱くなってる。


2010年7月24日土曜日

トラトラトラ 信貴山朝護孫子寺

 暑い、暑い、連日の猛暑。35℃越えも珍しくない毎日。

 信貴山朝護孫子寺は国宝の信貴山縁起絵巻図で有名だ。
近鉄上本町からは大阪線河内山本まで準急で。そこからは信貴山線にのりかえ、二駅目の(終点の)信貴山口まで。ここの線は電車が二両編成で20分ごとのピストン輸送してる。信貴山口からは今度は西信貴山ケーブルで高安山へ。そこからさらにバスで15分程。ちなみにこのバスは40分毎に出発。別にケーブルカーにも連絡していない。

 関西の人たちには人気のご利益満載の寺にしてはなんと行きにくいこと。
もっとも、クルマで行けば早いとか。たしかに立派な有料道路と広々した駐車場が整備されている。従って私のとったルートで行く人は少ないのか、ケーブル+バスの乗客は私含めて4名。どんなに寺は空いてるかと思いきや、結構な人出。やっぱりクルマかあ。
 私のように基本が徒歩の旅人にはこのゆるゆるした時間効率の悪いプロセスも楽しみの対象だ。そもそも旅はそのプロセスも重要な要素だから。

 朝護孫子寺はトラが守護神。今年は寅年で私は年男。やっとお参りに来ることが出来た。入り口におなじみのシンボル「世界一の大福寅」が参詣の人々を迎えてくれる。しかしこの寅、よく見ると新しいものだ。大阪で商売やってる人の奉納だ。大阪やなあ。

 縁起を見ると聖徳太子ゆかりの古刹だが、山上の寺域には様々な現世利益の仏様や神様が所狭しと並んでいて多くの参詣客で賑わっている。ここだけは明治期の神仏分離の影響を受けなかったのか、寺の入口に大きな鳥居が立ち、灯明燈籠がずらりとな並ぶ。大きな栢ノ木がご神体の栢ノ木稲荷など古代精霊信仰の名残だろう。

 関西ってなかなかに日常の生活の中に社寺詣でが重要な行事として入り込んでいて面白い。大阪や京都の街中にもあちこちにお地蔵様が祀られているのを見ることが出来るくらいだ。多くの善男善女はそれぞれに家内安全、商売繁盛、不老長寿、健康増進、恋愛成就、安産etc.をお願いする為にやってくる。ここはなにからなにまでone stop shoppingで祈願出来る場所として賑わっている。それが行楽と兼ねている所にお寺参り、神社参りの原型を見るような気分がする。

本堂の舞台からは奈良盆地が見渡せる。気持ちいい。新たな人生の発進と行くか。トラトラトラ。


2010年7月20日火曜日

大阪・上町筋 昔の町家景観の痕跡を探る

 江戸時代、元禄年間の古地図により大坂の街をマクロ的に俯瞰すると、上町台地の北に位置する大坂城、これを中心とする武家屋敷が立ち並ぶ城下町部分と、その西に広がる、土佐堀川、東西横堀川、長堀川に囲まれた大商業地である船場、その南の島之内。さらに商業地が拡張した西の西船場、北の堂島、天満という商業都市部分がある。さらには天満や平野町、四天王寺辺りの寺社町が大坂城のの南北を守るように形成されている。

 上町筋(うえまちすじ)は今も昔も上町台地を南北に走る幹線路で、ちょうど東側城下町部分の武家屋敷地区と、西側商業地区部分、本町の町家地区とを隔てる道路になっている。さらにこの道を南に下ると西側には谷町筋周辺の寺町地区、南の四天王寺終点に至る。

 この上町筋は私の通勤経路でもある。バスに乗って町並みを眺めていると、ビルやマンションの合間に点々と古い切妻の町家が生き残っているのに気付く。特に道の西側に顕著であるのは、先程述べた江戸期の街割りの残映であろうか。あるものは見るも無惨に改造され、あるものは取り壊されてその残影のみを残し、あるものは見事に補修復元され。しかし都市近代化の波にのまれ、数の上からも間もなく全てが消えてなくなるであろうことを予見させる状況だ。風前の灯という奴だ。

 都市の景観は、近代化だけでなく、戦争や災害、バブル期の地上げに伴い大きく変貌して来た。江戸/明治期の町並みがドンドンなくなってゆく。東京日本橋や銀座辺りはもはやその痕跡すら見つけるのは困難になっている。間口の狭いペンシルビルが乱立している姿に往時の面影を求めるのみである。しかし、ここ大阪上町筋は、よく見るとこうしたビルの谷間に取り残されたように町家が存在し、やがてこれらもマンションに建替え間近であっても、まだ今は残っているではないか。そしてこの点と点を繋いでゆくと、線となり、繁栄の大坂、上町筋の町並み景観が蘇ってくるではないか。

 こうした時空を超えた空想は楽しい。感動だ。まるでCG再現のような江戸期から昭和初期の天下の台所、大坂の上町筋の景観が蘇って来る。大阪は時代の痕跡を今にとどめながら生きている街だ。京都のようにそれを売り物にしていない分だけ、妙にリアリティーと想像とが時空を超えて交錯している街だ。

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(町家は間口が狭く奥行きの深い、いわゆる「うなぎの寝床」だ。いかにも町家壊して建てましたという風情の、ひょろながマンションビルの奥行きを見るとよくわかる。現存する町家は切妻造りでどこも平入(軒下に玄関を設けている)となっている。ビルの谷間に点々と残された町家を追っていくと町並みの線が脳内で視覚的つながり、昔の上町筋の町並みを想像することが出来る。)



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(無惨にも切り取られた町家。その跡は現在駐車場に。しかし、切り取られた部分の後ろをご覧あれ。昔の町家の奥がどのような構造であったのか、その屋根のラインがシルエットで教えてくれる。まさにA瀬川G平先生のトマソン芸術だ。)


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(このように美しく修復されて使われている町家もある。しかもちゃんと両側に立派なウダツが上がっている。クーラー室外機が惜しいが。この建物の所有者と住人の方々の文化センスをうらやましく思う。建築や町並みへの愛着と景観保存への深い理解を感じる。同時にこの建物をこのように維持するご苦労を思う。)


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(一つおきに古い外観を残した町家と改造された建物と。時代に応じて幾度かの外観変更があったのだろう。外装の看板建築を取り除けば往年の町家外観がまだ残っているのではないかと思う。しかし今後、この連続した家並が復活することはないのだろう。残念だが... 子供の頃読んだ「小さな家」という童話を思い出す。アメリカの童話作家が書いたニューヨークの街の発展の中に取り残された小さな一軒家の話だった。)

2010年7月19日月曜日

西ノ京 睡蓮を巡る 喜光寺、唐招提寺、そして薬師寺遠望

 やっと梅雨が明けた。各地に集中豪雨と土砂崩れの災いをもたらした今年の梅雨。被害に遭われた方々にお見舞い申し上げます。

 夏の花と言えば、ムクゲ、酔芙蓉、百日紅... 睡蓮も今の季節だ。
睡蓮は朝花が開いて、夕方には花を閉じてしまう。また花の命は2ー3日。はかない。
しかし、6月の下旬位から8月上旬位まで、次々と異なる種類の蓮が花をつけるので、割に長く楽しめる。
蓮の台に仏がおわす。まさに...

 喜光寺は唐招提寺の北、西大寺の南の両寺の中間くらいに位置している。この辺りは奈良市菅原町。古くは菅原一族の発祥の地で菅原道真公の生誕の地でもある。この寺も創建時は菅原寺と呼ばれていた。有名な大寺に隠れて普段訪れる人も多くはないが、寺の縁起によれば721年行基菩薩により創建された。748年に聖武天皇が参詣された際にご本尊より不思議な光が放たれた、それを喜ばれた天皇が喜光寺を改名された、と。

 ご本尊は平安時代の阿弥陀如来であるが、創建当時のご本尊が何であったかはわかっていない。
行基はその後東大寺造営を指揮しているが、この喜光寺の本堂を見ると、どこかで見たことのある建物だということに気付く。そう、東大寺大仏殿の縮小版だ。行基はこの本堂を参考として大仏殿を建てたとされる。

 喜光寺はこの季節、様々な種類の睡蓮で華やぐ。鉢植えの睡蓮が境内に並び、大仏殿の「試みの堂」を背景にこの世の極楽浄土を出現させたような美しさだ。この日は残念ながら、出足が遅くなってしまい、到着したのが正午。閉じてしまった花も多かったが、それでも白やピンクの花々が咲き誇っていた。この花の白、ピンク、葉の緑、そして花心の黄が絶妙のバランスだ。またまだつぼみのほんのりとしたピンクも美しい。

 唐招提寺の睡蓮は、その本坊庭園の大賀博士の古代蓮が有名だが、こちらは当日は公開されておらず残念。これを期待して来たと思われる観光客も門を閉じた本坊庭園の中を覗き込んで「今日はあかんなあ。ホンマやったら奇麗で」と語り合っている。寺のサービスであろうか、本坊玄関周りに数鉢が並べられて観光客の目を楽しませてくれていた。しかし、誠に鑑真和上の志の高さと慈悲の心に、静に咲き誇る睡蓮は文字通り花を添える。

 この日は、花の写真撮影の常として重い望遠ズームレンズを担いで行ったので、ここまで来たら以前行った大池越えの薬師寺を景観を撮りに行こうと考えた。
ここは薬師寺の東塔、西塔、金堂全てを池越えに望むことが出来、しかも背景に若草山と春日奥山を展望出来る絶景ポイントだ。入江泰吉はじめ著名な写真家のショットにもここからのものがある。

 梅雨明けの暑い夏の日差しをもろに浴びながら、近鉄の線路を渡り田んぼと住宅街の中をてくてく歩く。暑い! 汗が吹き出る。出がけの女房の「帽子かぶって行きなさいよ」という、母親の子供に対する注意じみた言葉がしみじみ思い出された。

 ようやく大池にたどり着いた。誰もいない。我ながら酔狂な...と、思わず笑ってしまった。

 以前来た時には、あまり天気がよくなくて薬師寺も背景の若草山も霞んでいた。しかも手持ちのカメラは古いライカM4に50ミリズミクロンのみ。ちょっと引きが足りなくて悔しい思いをした。

 今日は太陽もちょうど西から射している。再建された西塔の朱と金色の水煙が美しく光る。しかも東塔はこれから解体修理で十年程お目にかかれないそうだ。遠くの山肌のグラデュエーションもいい。今回は、ニコンの70ー400ミリ望遠ズームでじっくり撮ることが出来た。こういう風景写真はやはりニコンD3sの存在感が光る。重い機材を担いで来た甲斐があった。

 写真撮り終えると、それを待っていたかのように一人の若者が近づいて来た。差し出された名刺を見ると読売新聞の奈良支局の記者でSさんという。私が一生懸命写真撮ってるんで、ちょっと話を聞かせて欲しいということで。奈良の風景の特集記事を連載しているとのこと。こんな私に奈良の風景、歴史やウンチクなどしゃべらせると終わらないことを、この若い記者はすぐに悟ることとなった。

 たいがいしゃべりたいことしゃべって、お蔭さまで私としては楽しいひと時を過ごすことが出来た。心理学で言うカタルシス状態。彼は貴重な時間を素人のオヤジカメラマンに費やされて大いに迷惑だっただろう。この場を借りてお詫びいたします。あの時はスンマセンでした。良い記事書いて下さい。

2010年7月15日木曜日

源氏物語宇治十帖とパンクロックの世界

 平等院のある宇治川のほとりは、源氏物語宇治十帖の舞台となった美しい土地である。宇治橋を渡ると、豊かな水量を誇る宇治川がとうとうと流れ、緑濃いなだらかな山々に囲まれた文字通り山紫水明の地。平安の時代に藤原の道長が都を離れ別邸を築いた地である。

 平等院は1052年に道長の別邸跡に、関白藤原頼通によって創建された。当時は多くの塔堂伽藍が立ち並ぶ壮観な地域であったが、今では現存するのはわずかに鳳凰堂のみとなってしまった。この世界遺産鳳凰堂は当時の浄土信仰ブームにのっとり阿弥陀仏を安置する阿弥陀堂として建立されたもの。言うまでもなく十円玉で有名。

 飛鳥や奈良を散策して来た目から見ると、京都やここ宇治はその景観背景が大きく違っていることに気付く。

 まず時代背景を比べてみると、
奈良時代が主として唐の文化を積極的に取り入れて国づくりに励んだの時代であったのに対し、唐からの文化を日本風に消化発展させた時代。いわば唐風文化に対する国風文化の時代に移り変わっている。菅原道真の進言により遣唐使が廃止されたことがきっかけとなり、これまでの唐の文化をコピーすることから脱却した時代である。

 従って建造物も日本独特の寝殿造り。庭園も日本庭園の原型とも言える箱庭的な庭園が出現している。また、末法思想による浄土信仰が盛んになり、阿弥陀仏を安置する阿弥陀堂など貴族を中心に多くの私寺が建立された時代でもある。奈良の建造物が国の威信をかけた官寺、天皇発願の寺が中心であったのに比べるとその違いが面白い。

 さらに、風水の考え方に影響を受けた都の設計、ロケーション設定でも平安京は、平城京と異なり、山と川の織りなす山紫水明の地が選ばれている。特に「水」が重要なエレメントになっている。ここ宇治もその宇治川と橋とたおやかな山々が景観の重要な要素となっている。奈良盆地に繰り広げられた都の景観には大きな川がない。藤原京はその水はけの悪さから廃都となってしまっている。平城京でも「橋」という構造物がその時代の権力や文化を象徴することはなかった。

 一方、国風文化の時代に生まれたひらがなは中国から輸入された漢字の草書体を使った日本独特の文字で、特に宮廷の女性達によって用いられ新しい文学作品が生まれる。日本の小説を代表する最高傑作、源氏物語はその一つ。その最後の編、宇治十帖は光源氏の子孫の時代の物語。薫大将と匂宮という二人のプレーボーイが主人公として登場する。ここロマンチックな宇治の地を舞台とした「いい加減にしろ」と言いたくなるような「草食系男女」の恋物語だ。

 「京都大作戦」と銘打ったロックコンサートはこの宇治市にある広大で緑豊かな山城運動公園で開かれた。メジャー、インディーズを含め50バンド程が結集。会場は平等院鳳凰堂の位置する宇治川のすぐ東の山の中。梅雨時期の貴重な晴れ間、しかも夕刻の屋外ライブもいいものだ。これくらい広くて山の中なら周りに迷惑もかからない。

 我がスタンスパンクスの熱い爆音とメッセージに久しぶりに酔いしれる。洋風文化オリジンのパンクロックミュージックだが、スタパンの「日本語パンク」をここ宇治の地で楽しめるのも何かのエニシ。これぞ現代の国風文化。

 それにしても雅な源氏物語宇治十帖の世界とパンクロック、そぐわない気がするが、どうしてどうして、会場には全国から大勢の汗臭い「薫大将」や「匂宮」が集まり、もののけ姫みたいに化けた橋姫の群れとで現代の王朝絵巻が繰り広げられている。阿弥陀如来もこの世に出現した西方極楽浄土を暖かく見守っている。52体の雲中供養菩薩もダイブ、モッシュこそしないが伸びやかに様々な楽器を奏で舞っている。

2010年7月9日金曜日

霊峰富士 弥生人は富士に神を感じた

日本人の自然崇拝、精霊信仰を象徴する富士山。山自体がご神体として崇められてきた。

また日本人の心情、日本の風景を代表する山でもある。
今は少なくなった街のお風呂屋さんの背景には必ずと言っていいほど富士山の画があった。

東京から新幹線でぶっ飛ばして来ると、新富士駅の手前からこんな(写真のような)富士山の姿が車窓を流れる。
屹立する煙突は文明社会と神域とを隔てる結界でもなく、「ご神木」でもない。幾重にも張り巡らされた光ファイバーケーブルは、ここが磐座であることを示す注連縄でもない。
しかし、この風景は原日本人のスピリチュアルな関係性に何かを言いたげである。

世界自然遺産としての富士山の登録は、そのゴミ問題などで見送られたことも記憶に新しい。
ならば文化遺産としての富士山なら登録されるのだろうか。
別に世界遺産にならなくてもいいが、日本人の誇り、心の安らぎの拠り所のままでいて欲しい。

工業化による経済成長の恩恵を受けた農耕弥生人の末裔、現代ニッポン人。
経済成長も緩やかな時代へ移行し、脱工業化社会などと呼ばれる社会への突入がさけばれて久しい現代ニッポン。
山や岩や一木一草に神を感じる弥生スピリットに少し回帰する時期かもしれない。

父が臨終の床で、「ああ、富士山があんなに奇麗に見える」と小さくため息をつきながら嬉しそうにつぶやいた。
夢を見たのだろう。幻覚である。
生前に富士山のことなど語ったこともない父が、意外だった。
きっと父が見た富士山はこれではなかっただろう。弥生人が見た富士山だったのだろう。



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2010年6月23日水曜日

久米寺の紫陽花

このブログ「時空トラベラー」を始めて、ちょうど一年が経った。

振り返ってみると、第一号が「大阪四天王寺の紫陽花」第二号が「矢田寺の紫陽花」。
6月の梅雨時に「創刊」しただけに紫陽花特集で始まったこの時空トラベル。

この一年、主に奈良のあちこちを歩き回って楽しませてもらった。しかし、この時空トラベル、奥深くてなかなか終点が見えない。3次元、4次元の世界をさまよい歩くが目的地の先に、また新たな謎の路が続いている。
こうして果てしない時空旅、迷宮旅は続く。

一周年特集号は「久米寺の紫陽花」というわけだ。

久米寺は奈良県橿原市、近鉄橿原神宮駅のすぐ横にある寺。
久米の仙人、そう、空中飛行しているとき川で洗濯する美しい娘の白い足を見て、通を失って墜落した、あの普通のオヤジの原点のような仙人で有名な寺だ。

寺自体は、真言宗御室派の寺院でご本尊は薬師如来。創建は聖徳太子の子、来目皇子と言われるが、由来は不明であるらしい。発掘によると奈良時代初期の瓦が出土していることからその時代の創建ではないかと言われている。

しかし、なんと言ってもこの久米仙人の話がユーモラスだし、人間臭くていい。実在のモデルがいたのだろうか。

この話の後日談を知ってる人はどれくらいいるだろう。この仙人、結局還俗してこの娘と愛でたく結婚したそうな。煩悩を解脱するのでなく現世利益を得た訳で、めでたしめでたし。

今は紫陽花とツツジで有名な名所になっている。この日も「あじさい祈祷」で大勢の善男善女、老若男女が押し掛けて、本堂で紫陽花の花が描かれたお札を頂く順番を待っていた。
関西では、人々にとって歴史的な寺院も単なる観光の対象ではなく、祈りという日常の生活の中の一部になっていることをここでも発見することが出来た。人々の顔が朗らかに見える。煩悩を解脱した聖人のそれではなく、久米仙人のようなそれだ。

2010年6月22日火曜日

鎮守の森

 日本の農村の原風景は、広い田圃にこんもりした森。そこには小さな鳥居とお社。
童謡の世界で刷り込まれた日本人の原風景。

「村の鎮守の神様の
今日はめでたい御祭日
ドンドンヒャララ ドンヒャララ
ドンドンヒャララ ドンヒャララ
朝から聞こえる笛太鼓」

 東京と大阪を新幹線で往復する道すがら、車窓を流れる田園風景の中に、こうした「鎮守の森」を発見する。とくに米原と京都の間の近江地方の田園、里山にこのようなこんもりとした森と鳥居を多く見ることが出来る。

 最近は里山の破壊が問題になっている。里山はその昔には、村人の生活に必要な薪や落ち葉、キノコなど自然の恵みを生み出してくれる共有の場所(入会地)であった。しかし、エネルギー源としての薪に頼る時代ではなくなり、その経済的な価値が薄れると、徐々に里山が放置され、荒れ果て、やがては開発の波にのまれて消えてゆく道をたどりつつある。

 しかし、一方このような「鎮守の森」は信仰の場であることもあり、むやみに破壊してはいけない(バチが当たる、祟りがある)という抑制が働くのであろうか。東京や大阪のような都会のビルの谷間にも突然鳥居とお社が残されていることがある。こうして、田舎ヘ行けば行く程、田んぼの中に木立が残されている光景を目にすることが出来る。そこに日本人の信仰が引き継がれ、古代から今日にまで続く土地の人々の信仰と祭りの軌跡がまさに時空を超えて存在し続けていることに感動を覚える。

 ところで「鎮守の森」というのは、Wikiによると、「かつては神社を囲むようにして、必ず存在した森林のことで杜の字をあてることも多い。」と説明している。神社を遠景から見ると、たいていはこんもりとした森があり、その一端に鳥居がある。鳥居から森林の内部に向けて参道があり、突き当たりに境内や本殿が設けられている。森林の中央部が位置するようになっていて、森の深い方に向かって礼拝をする形になっている。鎮守の森は里山と並んで日本の原風景である。

 現在の、神社神道(じんじゃしんとう)の神体(しんたい)は本殿や拝殿などの、注連縄の張られた「社」(やしろ)に鎮座ましましており、それを囲むものが鎮守の森であると理解されているが、本来の神道の源流である古神道(こしんとう)には、神籬(ひもろぎ)・磐座(いわくら)信仰があり、森林や森林に覆われた土地、山岳(霊峰富士など)・巨石や海や河川(岩礁や滝など特徴的な場所)など自然そのものが信仰の対象になっている。

 神社神道の神社も、もともとはこのような神域(しんいき)や、常世(とこよ)と現世(うつしよ)の端境と考えられたエリア、神籬や磐座のある場所に建立されたものがほとんどで、境内に神体としての神木や霊石なども見ることができる。そして古神道そのままに、奈良県の三輪山を信仰する大神神社のように山そのものが御神体、神霊の依り代とされる神社は今日でも各地に見られ、なかには本殿や拝殿さえ存在しない神社もあり、森林やその丘を神体としているものなどがあり、日本の自然崇拝・精霊崇拝でもある古神道の姿を今に伝えている。

 神道は仏教伝来以降の神仏混合や、天皇制による公地公民制の国家樹立の為に伊勢神宮を神の頂点にに位置づける動きや、さらには明治以降の国家神道の考え方に基づく廃仏毀釈、神仏分離、神社統合により、日本の土地に根ざした古神道の姿が見えにくくなってしまった。農耕を中心とした村、クニの守り神としての神道、産土神とか鎮守神とかいった土地に根ざした信仰、あるいは信仰以前の風習が、様々に変容してしまった為に、原始自然崇拝、精霊信仰としての神道がどのようなものであったのかわかりにくくなっている。

 このような神道の基本は縄文時代以来の自然崇拝、精霊崇拝であり、一木一草に神が宿る、八百万の神々といった多神教的な信仰である。そこには宗教的な教義や「教え」を記す書(仏典、聖書、コーランのような)はなく、一神教的なカリスマ指導者(仏陀、キリスト、ムハンマドのような)もいない。このような自然崇拝、精霊信仰は決して珍しくない(ケルト、ネイティブアメリカン等)が、それが形を変えつつも神道という宗教として現代まで続いているのは珍しいという。

 今、世に名高い神社や、由緒正しき官幣社など、明治維新後に格付けされた神社以外に、日本の各地にかろうじて残っている「鎮守の森」を訪ねると、こうした古神道の姿が時空を超えて蘇って来るような気がする。

 下記の写真は奈良県橿原市の本薬師寺跡近くの「鎮守の森」だ。見渡せば畝傍山や遠く金剛、葛城の峰峰、東山中の山並みに囲まれたヤマト国中。田植えを終えたのどかな田園地帯の真ん中に、こんもりとした、しかし小さな木立が残る。「春日神社」の石柱。木立の中には石造りの鳥居と狛犬二体。石灯籠二本。土塀に囲まれた小さなお社の前面に木造の拝殿が立っている。拝殿には奉納された絵馬がいくつか掲げられている。昭和8年建立と記されているから、比較的最近の再建だ。おそらくこの森は古代から守られ残されて来た神域なのだろう。そこに代々の農耕にいそしむ村人が代々、祠や社を建てて村の繁栄と安全と豊作を祈り続けたのだろう。

 農耕の民として自然を敬い畏れる、祖先を敬い、村落共同体の守り神を崇拝する、そのような原始宗教の祈りの場が今に伝えられていることを目の当たりにして、あらためて心が熱くなる。「鎮守の森」こそ、古代へワープする時空トラベルの入口だったのだ。






身近な森の歩き方―鎮守の森探訪ガイド身近な森の歩き方―鎮守の森探訪ガイド
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2010年6月19日土曜日

藤原鎌足を巡る明日香の旅(2)多武峰談山神社

今年はまだ談山神社に行っていない。ちょうど一年前の田植え時、桜井からバスで談山神社へ行き、そこから明日香、石舞台まで歩いたことを思い出す。ヤマト国中を見下ろしながらのケモノ道、暗雲たれ込める二上山に大津皇子の怨念を感じ、権謀術数渦巻く飛鳥の地がなんとのどかで平和な里であることか。一番印象的な時空散策であった。

ここ談山神社は多武峰とよばれ、藤原鎌足を祀る神社だが、元々は妙楽寺という寺であった。
明治期の廃仏毀釈の動きなかで、僧侶は還俗、寺は神社となった。

しかし、境内に立ち入るや否やその建物の配置、たたずまいは伝統的な神社のそれではなく、仏教寺院のそれであることが見て取れる。ご神体を祀る本殿や鳥居は後の創建であり、藤原鎌足像を祀る拝殿は、明らかに仏教寺院の本堂。ランドマークの桧皮ぶき十三重塔はまさに仏教のシンボルだ。ご本尊はどこかへ移されてしまったのだろう。
廃仏毀釈という「文化大革命」の痕跡はここ談山神社にも残されている。

談山神社の背後には御破裂山というすごい名前の山がそびえている。
名前が示すように、太古には火山であった。時々天変地異や争乱の前に山が揺れた、と語り継がれた山で、いかにも鎌足ゆかりの多武峰にふさわしいおどろおどろしい山である。

ここは、いわゆる「大化の改新」の談合を行った場所として語り継がれており、中大兄皇子と中臣鎌足が密議をかわした峰が山頂近くに残っている。また、鎌足の墓もある。

この御破裂山に登り頂上の古墳から明日香が一望できる。なるほど、宮廷クーデタを語るには良いロケーションだ。西には二上山が望め、ヤマト国中が手に取るように見渡せる。飛鳥の宮の背後にそそり立つ場所であり、鎌足生誕の地、大原のさとからも近い。この倭国ヤマトという小さな世界の中での歴史的な出来事を思い起こさせるには絶好な舞台設定だ。それにしても箱庭的風景であることよ。

御破裂山を下り、明日香石舞台方面へ、向う。ちょうど田植えの時期で、明日香を見下ろす傾斜地の棚田はどれも水を張って鏡のように美しい。豊かな明日香の山里を彩る花々も美しい。所々で何かを燃やす煙が立ち上っている。
青い山と水を張った棚田のグラデュエーションがまことに美しい。

うまし國ぞ安芸津島ヤマトの国は...