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2015年8月15日土曜日

戦後70年の終戦の日を迎えて

 今日、2015年8月15日は戦後70年目の終戦の日だ。暑い一日だ。しかしどこまでも澄み切った青い空。悲しみを忘れさせるような。

 8月は多くの魂があの世とこの世を彷徨う月。仏教でいうお盆の時期であり、先祖の霊魂が帰ってくる月である。しかしそれだけではない。8月は終戦の月である。先の大戦の最末期のひと月で大勢の人々が亡くなった。6日の広島原爆投下(9〜12万人が即日死、19万人が4ヶ月以内に死亡)9日の長崎原爆投下(7万4千人が即日死)、9日のソ連軍満州侵入(50万人の難民、死亡者不明)。その前の3月から6月の沖縄戦(捨て石作戦)で20万人、沖縄県民の4人に一人が死亡。3月10日の東京大空襲では一晩で10万人の市民が焼死している。そのほとんどが子供や母親や老人を含む一般市民であった。大勢の無辜の民が亡くなった。前線で戦い、戦死し、病死し、特攻で亡くなった人々も、もともと徴兵された普通の市民や学生である。戦没者慰霊の季節。

 開戦の判断と意思決定の是非と共に、終戦の判断と意思決定は時宜を得たものであったのだろうか。この時期になるといつも近現代史研究者や評論家やジャーナリストが、当時の講和の判断が迷走した事情をいろいろに分析しているが、少なくとももう一ヶ月終戦の判断が早ければこの何十万の一般市民は死ななくてよかっただろうと思う。国民を守るという判断基準がなかったのだろうか?国民を守らない国、軍隊とは何なのか?戦争指導者の責任の重大さを思わざるを得ない。これほどの負け戦(いくさ)を負けと認めず本土決戦に持ち込む方針を堅持し、「此の期に及んで」特攻攻撃による一撃講和で有利な条件で講和する道を模索していたという。その根拠のない楽観主義、あるいは現実を見ようとしない自己肯定主義。その間に人類にとっての最終兵器、禁断の原爆が使用され、何十万人も死に、ソ連の火事場泥棒参戦を許すことになった。結局、最後は無条件降伏。日本の戦争指導者の判断は正しかったと言えるのか。 なぜこのような日本有史以来の破滅を体験しなくてはならなかったのか。その総括はしたのか。中国や韓国に言われるからではなく、300万人とも320万人とも言われる自国民を犠牲にした戦争の歴史を忘れる事なぞ出来るのか。

 戦後70年目の終戦の日の安倍首相の談話が、彼の個人的な世界観、意思とは別のメッセージにならざるを得なかったことは皮肉だ。彼の内閣の支持率の凋落を考えての政治判断であったことだろう。しかし、もういい加減に謝罪し続けるのはやめにしたい、というメッセージも忘れずに付け加えられたところに本音が見える。当然、中国や韓国や旧連合国の反応は好意的とは言えない。どんなに謝ったって「許す」というメッセージは出さないだろう。少なくとも加害者側から言い出す話ではないというのが彼らの言い分だろう。もっとも彼らの反応自体も、それぞれの国の指導者が自国で置かれている政治的立場を反映した、自国民を念頭に置いた政治的なメッセージなのだ。常に外部に敵を作り、内政の矛盾から国民の目をそらせるのは、古今東西変わることなく続いてきた為政者の常套的国民支配術なのだ。そもそも国家・支配者の思惑と国民・市民の思いは必ずしも一致しない。戦勝国、敗戦国を問わず、否応無く国家の思惑で戦争に巻き込まれていった国民の悲惨な記憶は、もっと長い時間の中でしか咀嚼されて行かないだろう。自ら、あるいは親兄弟の体験に基づく感情が昇華して知恵になるには70年は短すぎる。

 明治維新以来、太平洋戦争の惨めな敗戦までの77年は、欧米の植民地化への脅威から、近代国家確立を急ぎ、殖産興業/富国強兵を国是とし、結果的に対外戦争を繰り返してきた年月であった。日清戦争、日露戦争、第一次世界大戦、満州事変に始まる泥沼の日中戦争、南部仏印進駐、真珠湾攻撃、太平洋戦争。そして敗戦。有史以来初めて外国に全土を占領され独立を失うに至った。明治維新の掲げた理念の結末はこういうことだったのか?これに対し、戦後の70年は幸いにも戦争のない平和な年月であった。振り返ってみると、明治維新以前の江戸時代の260年も対外戦争に関与しない、巻き込まれない平和な時代であった。太閤秀吉の朝鮮侵攻、明国侵攻などという国策は荒唐無稽で無謀なものであることを理解していたし、大航海時代の南蛮人、紅毛人との争いにも巻き込まれないように鎖国という外交政策で国を守ってきた。それ以前の歴史で対外戦争に出かけたのは663年の唐・新羅連合軍との朝鮮半島白村江の戦いだ。倭国は惨敗して逃げ帰ってきた。日本という国は対外戦争に懲り、自ら出かけて行って戦争する事を避けてきた歴史を持っているはずなのだが。ある意味、明治維新はその歴史を変えてしまったのかもしれない。今更このグローバル時代に鎖国などという選択肢はないことはいうまでもないが、さればこれから日本は本当はどういう国を目指していけば良いのだろう。軍事大国でもない、経済大国でもない。どのような世界から尊敬される国を目指すのか。

最後に、岡倉天心の「茶の本」に記述された言葉を引用して筆を置きたい。

 「西洋人は、日本が平和な文芸にふけっていた間は、野蛮国と見なしていたものである。しかるに満州の戦場に大々的殺戮を行い始めてから文明国と呼んでいる。--------- もしわれわれが文明国たるためには、血なまぐさい戦争の名誉によらなければならないとするならば、むしろいつまでも野蛮国に甘んじよう。われわれはわが芸術および理想に対して、しかるべき尊敬が払われる時期が来るのを喜んで待とう。」



夏の盛りに花を愛でることなく劫火に倒れた人々に一輪の芙蓉を捧ぐ



2015年8月12日水曜日

東海道品川宿散策 〜あの広重の街はどこへ〜

「時空トラベラー」の写真は歴史の風景を写し取ることをメインターゲットとしている。歴史の風景を撮るということは、いわばその時代の心象風景を切り取るということだ。現代に残る神社仏閣や、史跡、古墳、城跡の写真をただそのまま撮るのでは、記録写真、記念写真、観光写真になってしまう。一方、山や、海や、川といった美しい風景は、その光との出会いの瞬間を見つければそれだけで感動的な写真になる。しかし、「歴史の心象風景」と言った途端に、フォトグラファーにとっては甚だ壮大なチャレンジとなる。心のフィルム(いやセンサー)を繊細に働かさなければならなくなる。風景が醸し出す空気、余情、風情、情感といった、そもそも目に見えないものを感じて、それをデジタルカメラという極めて現代的な光学機器で切り取る作業なのだ。しかも現在と過去という時間の差を越えなければならない。その時代の人々の心のうちに分け入ることが必要となる。ここが普通の風景写真とは異なる点だ。そのためには、その時代の歴史や文化に対する理解と共感が不可欠となる。単に美しい写真を撮るのではなく、そこに流れる風情を読み取り、自分の感じたストーリーを表現しなくてはならない。これはマエストロ、入江泰吉先生の大和路心象風景から学んだ心構えだ。「入江泰吉の世界」が私の写真の原点と言って良い。もちろん、奥が深くて全くもって先生の域になぞ到達もできないが。少なくともこれからも、この難しい課題に挑戦し、表現できるよう心がけて精進していくつもりだ。

 そういう意味では、なるべく写真に現代の造作物や人が入ってはいけない。それらを避けるように撮り、できるだけ時空を超えたその時代の空気を切り取ろうとするが、現代の社会においてそれは、ほとんど困難な作業となる。入江泰吉先生もそれを心がけて何十年も大和路を取り続けることになったと述べておられる。昭和20年代くらいまでは大和路にもまだ古代の景観の面影があった。確かにあの頃の先生の白黒写真には古代の空気と情感が溢れている。今は豊かな田園風景が広がるパースペクティヴの中に「古代都市の滅びの佇まい」という飛鳥の心象風景を見てとることができた。宅地化されて規格住宅が立ち並んだのではそうした心象風景は蘇ってこない。現代の大和路は景観保護と、歴史遺産保護のために開発が規制されたが、それでも甘樫丘から見渡す飛鳥はすぐそこまで宅地開発の波が押し寄せ、今にもその津波にのまれる寸前に、ようやく止まっているという感じだ。まして、そのような景観の破壊はこの東京のような都市部においておやだ。

 話を今日の本題に移そう。今回は東海道五十三次第1番目の宿場町、品川宿散策である。江戸四宿の一つで、お江戸日本橋から京三条大橋までの東海道という日本の最も重要な幹線道路の最初の宿場町だ。街は目黒川を挟んで北品川、南品川に分かれ、1600軒、7000人が居住する殷賑な街であった。街道の宿場町というだけでなく、江戸時代を通じて江戸近郊の遊興の地(ここは江戸御府内ではない)として人気があり、近くには花見の名所御殿山もあった。人が集まれば遊廓も賑わい、遊廓があれば人も集まる... 品川は吉原に並ぶ幕府公認の遊廓があり、それは戦後まで続いたという。今は、品川駅の南側、八つ山橋から、北品川、新馬場、青物横丁、立会川さらには鈴ヶ森と昔の道幅で旧東海道が連なっている。しかしかつて多くの人々が往来し、殷賑を極めた品川宿の面影はなく、本陣、脇本陣もその痕跡(広場になり碑が立っているが)を止めていない。幕末には勤皇の志士等が集った土蔵相模がつい最近まで残っていたが、なぜか取り壊されてしまった。今や品川宿は極めて今時の地域の商店街といった風情になっている。

 ここには滅びの美しさや、詫び寂びはない。歴史の風情を感じる景観は少なくなってしまった。建物はすっかり今時のものに建て替わってしまい、狭い間口の土地の区画だけが残った。古い町家を探すのも困難だ。つい200年ほどの時間を遡り夢想することも難しいほどに変貌してしまった。ここでは現代的なものを排した写真はもはや撮ることはできない。かつて訪ねた東海道五十三次の48番目の宿、鈴鹿の関宿(以前のブログ、鈴鹿の関宿をご覧あれ)は、往時のままの家並みと町割が残っていたが、首都東京の品川にそれを期待するのは無理だろう。やはり都市化するということは、景観を一変させるということだ。飛鳥は危ういところで大阪のベッドタウン化という都市化をストップして歴史的景観がなんとか残った。鈴鹿の関宿は、幸か不幸か都市化の波に取り残されたために貴重な歴史景観が残った。

 しかし、こうした古い建物や景観を博物館的に残すだけでは、未来に引き継ぐ歴史遺産にはならない。そこに生活があり、人がいなければ街として未来に残ってゆくことは難しい。鈴鹿の関宿も家並みは古いが、今を生きる生活の場として人々の暮らしが続いているからこそ街並みが維持されているのだ。ここ品川も、江戸の香りはおろか、昭和の香りも徐々に失せつつあるんじゃないかと心配になる。東京に多くなっているシャッター通り商店街化という衰退だ。地元の人々や商店街の組合や行政が、品川宿の歴史と伝統を生かした町興しに頑張っている。今月、空き店舗を利用して若者たちが「旅」をテーマとしたKAIDO Book Cafeを開店した。日経新聞にも取り上げられちょっとした話題になっている。小さな一歩かもしれないが、新しい宿場町文化と賑わいの復興を歓迎したい。


歌川広重
東海道五十三次品川宿

歌川広重
品川宿海上図
現在の品川宿
道幅は江戸時代のままだそうだが、街並みに往時の面影を見いだすのは難しい。


しかし、今でもそばや江戸前の魚介を食わせる店は多い
慶応元年創業の「はきもの」丸屋
品川宿の面影を残す数少ない店の一つ


看板建築
関東大震災後にできた類焼防止の建築様式
こうした昭和の家並みもわずかしか残っていない。
江戸時代の宿場町の面影を残す品川寺
街道の山手側にずらりと寺町が形成されていて現在も残っている。

今月、品川宿の空き店舗に若者たちが「旅」をテーマとしたKAIDO Book Cafeをオープンした。
新しい宿場町文化と賑わいの復興を歓迎したい。







2015年8月9日日曜日

アール・デコ建築の粋 〜旧朝香宮邸の美と技法を愛でる(第二弾インテリア編)〜

 東京都庭園美術館はアール・デコ展開催中。以前来た時(アール・デコ建築の粋 〜旧朝香宮邸の美と技法を愛でる〜)には建物内部の撮影ができず、フラストレーションが溜まったまま帰ったので、今回は出直しというわけだ。日によって写真撮影が許されていることを知った。今日はやっと心置きなく撮影できた。アンリ・ラパン、ルネ・ラリックなどのフランスのアール・デコ作品と、それを東京に移植して根付かせた日本の匠が出会うとこうなった。フランスのアール・デコと日本のアール・デコを楽しめる。いわばジャポニズムの里帰りだ。この展覧会、さすがにフランスからの訪問者が多い。若いフランス人の学生に感想を聞いてみた。「トウキョウという東洋の街でパリに出会った!」と。コメントが出来過ぎだ。まあ、まずは写真をお楽しみあれ。

ダイニングルーム
イヴァン=レオン・ブランシェの壁面レリーフ、ルネ・ラリックのシャンデリア

テーブルセッティング
黒のテーブルに白い食器と銀のカテラリーが素敵だ。


アンリ・ラパンの香水塔を背景に
セーブル製陶製



ホール
アンリ・ラパンの内装設計

ルネ・ラリック


ルネ・ラリックの玄関のガラスレリーフ
撮影者が真ん中で一生懸命身を細くして隠れているのがご愛嬌だが

 インテリアを彩るパーツはフランス直輸入のものが多いが、日本の匠の手になる作品がまた素晴らしい。フランスのアール・デコと日本のアール・デコのコラボレーションだ。


イヴァン=レオン・ブランショ作
大理石レリーフ「戯れる子供達」
マックス.アングラン作エッチングガラス扉



日本伝統の模様「青海波」






 ラジエータグリルカバーなどの装飾金物達。

 これらは宮内省内匠寮技手のデザインにより電気鋳造で作られた。居室や階段など館内のいたるところに施されており素敵なアクセントになっている。アンリ・ラパンの内装デザインの重要な構成要素になっている。

 これらのオーナメントは日本の匠によるアール・デコ作品。こうして日仏両匠の見事なコラボレーションが全体の意匠をさらにエレガントなものに仕上げている。。



マントルピースカバー

「香水塔」上部装飾の内側にはランプが仕込んである。


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