ページビューの合計

2014年12月22日月曜日

映画「黒田、藩主やめるってよ」 〜大河ドラマ「軍師官兵衛」続編登場か?!〜

 今年のNHK大河ドラマ「軍師官兵衛」がついに大団円。かつて司馬遼太郎の「播磨灘物語」で描かれたものの、これまであまり歴史の主人公としてハイライトを浴びることのなかった人物にもかかわらずこれだけ話題になった大河ドラマも珍しい。史実と異なる、という論争も喧しいが、歴史ドラマとして楽しめるストーリー展開と、知られざる官兵衛の魅力がよく描き出されていて面白かった。それでいい。

 最終話は、黒田官兵衛孝高(如水)とその子長政二代で勝ち取った筑前国五十四万石。福岡城築城の復元CGも登場(なんと小さく右隅に天守閣らしき建物が...) しかし如水はそんなもので満足するつもりはなかった。関ヶ原で徳川東軍と石田西軍が争っている間に、九州から攻め上がって天下を取るという野望。しかし関ヶ原の戦いが予想より早く、たった1日で決着したので、せっかく九州を平定したのに、東へ攻め上る機会を失ってしまった。しかも息子長政の関ヶ原における活躍のせいで...皮肉なものだ。という筋書きだ。「内府殿がお前の右手を握って武功をたたえたというが、その時お前の左手はなにをしていたのだ」という如水の長政に対する有名な言葉も再現されている。

 これらエピソードは後世、福岡藩第3代藩主黒田光之の時、福岡藩の儒学者貝原益軒が表した「黒田家譜」に記述されているもの。ごたごた続きで藩政にほころびが出るなか、祖先の偉業を思い起こさせて奮起させようと書かれた「如水武勇伝」だ。如水に本当にそんな野望があったかどうか今となってはわからないが、藩祖が太閤、家康に一目置かれた英雄であることを強調する逸話として記録されている。初代藩主長政が家康に重用されていたのは間違いなさそうだ。関ヶ原以後の豊臣恩顧の大名、肥後熊本藩主加藤清正も安芸広島藩主福島正則も早くに徳川幕府に取り潰しにされているが、黒田長政だけは明治まで続く筑前福岡藩主の家系を残した。もっとも如水、長政の嫡流の血統を引き継ぐのは6代目継高まで。

 筑前黒田家では早くから正史としての「黒田家譜」が編纂されたので、比較的詳細な歴史を辿ることができる。黒田一族は、近江源氏佐々木氏の末裔(したがって黒田軍の旗印は近江佐々木の平四つ目紋に佐々木大明神)で、出身地が近江黒田の庄であったが、故あって備前福岡に移り住んだという。ちなみに我が一族のルーツも近江佐々木の末裔で、黒田とは祖先を共有していると我家の家系図にある。もっとも戦国時代には、武士が名のある家に仕官するする際に、自らのルーツが正統な血筋であることを証明するために、しきりに「系図買い」が行われたようだ。黒田家の出身地についても論争があり、元々は備前の土豪であるが由緒正しき宇多源氏の血を引く近江佐々木の一族である、としたのかもしれない。日本書紀の例をまつまでもなく、正史というものの性質上、その一族の系譜がいかに由緒正しき血筋で、天下を治めるにふさわしい祖霊を有しているか、ということを伝えるために記述されているわけだから、全てが史実であるとは言い切れない。文献による歴史研究にあたってその点を念頭に置いておく必要があることは言うまでもないが、黒田家祖先の必死の乱世生き残り作戦と、そういう戦国の時代背景を垣間見ることができて面白い。

 ところで、その後の福岡藩黒田家はどういう道を辿ったのか。如水、長政父子の活躍ののち、平和な時代になってからの三代目(第2代福岡藩藩主)はあの黒田騒動を引き起こした忠之だ。長政は、度量が狭くて粗暴な性格の長男の忠之ではなく、人望の厚い三男の長興(のちの秋月藩藩主)を福岡本藩藩主後継に決めていたが、栗山大膳(あの官兵衛/如水の右腕と言われた栗山善助の子)ら重臣に反対され、結局忠之を後継者とする。しかし、長政が生前危惧した通り、長政の死後、忠之は暗君/暴君ぶりを遺憾なく発揮し、如水、長政以来の重臣との間に軋轢が生じ、ついには御家騒動に発展する。当時幕府は外様大名の締め付けを強めており、主君と家臣の争いは、お家取りつぶしの格好の材料であった。これを案じた栗山大膳は、敢えて幕府に訴え出るという手段に出た。主家を守るための捨て身の行動であった。結果的には黒田家は、幕府により一旦領地召し上げとなるが、再び黒田に領地を与える、という苦肉の策によって救われる。黒田家を守ろうとこの御家騒動を幕府に訴え出た忠臣栗山大膳は、結局、騒動を起こした狂人として陸奥盛岡藩お預けとなる(盛岡藩では流人としてではなく忠義に人として遇されたという)。いらい栗山家は盛岡の地に足を下ろすことになる。如水から栗山善助が託されたあの赤合子兜も、今ではもりおか文化館に保存、展示されている。

 黒田二十四騎という最強家臣団もこの頃には散りじりになる。ドラマでも最後の付け足しエピソードみたいに触れられていたように、後藤又兵衛は長政との確執で黒田家を出奔し、大坂の陣で大坂城に籠城し戦死している。ドラマでいつも如水に寄り添っていた側近中の側近、栗山善助の栗山家は前述のとおり黒田家を去ることとなり、また井上九郎右衛門の井上家はその後黒崎城主となるが、忠之によって断絶させられる(いわゆる井上崩れ)。登場人物で、今でも福岡に子孫の方が残っているのは「黒田節」の主人公、母里太兵衛の母里家。また長く黒田家の家老を務めた三奈木黒田家だ。官兵衛が荒木村重の説得に向かい有岡城に幽閉された時に、牢に繋がれた官兵衛を手厚く面倒観た牢番の息子を解放後に家臣に取り立てている。これが三奈木黒田家の始祖黒田一成だ。

 忠之の時代の黒田騒動は、その後も尾を引き、三代の光之の時代になっても家臣とのゴタゴタが絶えず、かつての家臣団との結束を取り戻すことはできなかった。古株の家臣団に対する若殿の息苦しさもわからないではないが、結局家の結束を壊してしまったのでは何もならない。この頃、創業の精神を、と貝原益軒によって著されたのが、先ほどの「黒田家譜」である。光之の偉大なる祖先への回帰運動も功を奏さなかったようだ。

 こうして関ヶ原以来、徳川家/幕閣に信任のあった黒田家は徐々にその存在感を失ってゆく。かわって代々黒田家と対抗関係にあった細川家が九州における徳川の藩屏となってゆく。雄藩薩摩の島津家との関係を取り持つため肥後熊本藩に移封されたのもこのためと言われている。

 お世継ぎ問題も黒田家を悩ませた。如水の血筋が継承されたのは第6代継高まで。その後は御三卿の一つ、一橋徳川家からの養子が黒田を継ぐようになる。その後も京極家、藤堂家や島津家からの養子が藩主となるが、正室が徳川家から嫁すなど、徳川家の家系に取り込まれてゆく。福岡本藩の方はこうして如水の血脈は途絶える。

 しかし、如水/長政の血筋は長政の三男長興の秋月藩黒田家に引き継がれ、明治維新まで続く。こちらも途中で他家からの養子が藩主を継ぐが、女系で黒田の血統は継承される。そのなかにあの上杉鷹山の甥で高鍋藩秋月家から黒田家に養子に入った長舒がいる。ちなみに秋月氏は黒田入府前の秋月の領主で、島津方についていたが、秀吉の命を受けた官兵衛の九州平定時に降伏し、日向高鍋藩に移封された。黒田家への養子とはいえのちに旧領に返り咲いた訳だ。歴史の巡り合わせというほかない。この秋月藩も忠之によって一時福岡本藩への吸収合併の危機にさらされるが、藩主長興の機転により、福岡藩とは別に幕末まで幕府内にも独自の序列を保つ秋月黒田家として存続することとなる。

 福岡本藩に戻ろう。幕末期には薩摩島津家からの養嗣子として入った第11代藩主長溥は、年の近い島津斉彬と兄弟同様に育った。斉彬同様、英明な君主で蘭癖大名として名をはせる。しかし、薩摩、長州、土佐、肥前と並ぶ尊皇勢力を誇った筑前も、最後の最後に筑前勤王党一派を大弾圧し、家老の加藤司書らを処刑してしまう。これで西南雄藩には珍しく福岡藩は佐幕派と見なされ、維新に乗り遅れてしまう。さらに明治新政府になり、贋札事件で藩知事黒田長知はその職を追われる。如水、長政以来、あの黒田騒動をも乗り切って、一度も改易も断絶も受けなかった黒田家は、明治に入って最後の改易大名となる。しかも廃藩置県の前に...

 藩祖如水、初代藩主長政の武勇伝に比し、その末裔の辿った道筋は決して華々しいものではない。あまり「運が巡ってまいりましたぞ」とはいかなかった。むしろ運を掴めなかったのかもしれない。しかし、これは黒田家に限らない。名門と言われる家系でも、代々名君が続くケースの方が稀だ。ましてお世継ぎ問題は大名家の最大の頭痛の種であった。徳川将軍家でもその事情は同様である。黒田家だけが悲劇に見舞われたわけではないが、早い時期に創業時の武勇伝を「黒田家譜」に残した分だけ、かえって後世の落魄ぶりが顕著に際立ってしまう。あの黒田二十四騎も伝説となってしまった。江戸後期の10代藩主斉清の時に二十四騎の絵が復刻され、今でも福岡や博多の町屋の神棚にも祀られているが、これは黒田家の体たらくを見かねた斉清が、黒田家創業の精神を思い起こさせるため、絵師に二十四騎一人一人の往時の姿を調査させ、忠実に再現したものだという。結果、より伝説として神格化されてしまったわけだ。

 初代は苦労して未踏の荒野を開拓して一家をなし、二代目はその初代の背中を見て育ったので一族隆盛の基盤を確かなものにし、しかしてその三代目は平和で安定した中で生まれて苦労を知らずボンボン育ち。創業以来の家臣にも愛想つかされ家を潰す。「唐様で売り家と書く三代目」だ。

 ビジネスの世界も同じだ。創業者のイノベーティブなビジョンと行動力、ハングリー精神。突破力。それを受け継ぐ創成期の後継者たち。やがては安定した大企業となりエスタブリッシュされた組織となり、攻めの経営から守りの経営へ。創業者の家訓だけは壁に貼ってあるが、いつしか創業の精神は失われる。組織防衛と自己保身にのみ知恵を回すトップとその取り巻きが続出するとき、その企業は終わる。今の日本に思い当たるところがあるだろう。

 大河ドラマ「軍師官兵衛」の続編を誰か企画しないかなあ。タイトルは「黒田、藩主やめるってよ」!? そんな映画ありえへんか!

黒田二十四騎図
あの井上九郎右衛門が城主であった黒崎の春日神社に奉納されたものだが
黒田大明神とともに神格化され神社の御祭神となっている



福岡城多聞櫓
47もの櫓を配した堅固な縄張りの福岡城も
今はこの多聞櫓と潮見櫓などの復元櫓しか残っていない。

秋月黒田家の城館
今でも城下町の原型を色濃く残す筑前秋月は福岡の変貌ぶりと対極を成す。

2014年12月19日金曜日

東京の夜景 Night Skyline of Tokyo

東京は夜景の美しい街だ。だが日本三大夜景には入っていない。長崎、神戸、函館が挙げられている。これらはいずれも稲佐山、摩耶山、函館山など、街を俯瞰できる展望場所があることが共通点だ。東京のように平地に広がる大都会は全体を見渡す場所がないことから、「三大」には選ばれないことが多い。せいぜい高層ビルやタワーの展望台から見渡すことができるくらいだが、この夜景は世界一だと思う。

3枚の写真は、新しくできた虎ノ門ヒルズの51階のレストランからのもの。冷たい雨にけぶる新橋/虎ノ門あたりの夜景にも情緒を感じるが、やはり雨が上がった後のクリアーな夜景は絶品。無数に輝くビルの窓の一つ一つに都会に住む人々の暮らしと思いが詰まっている。そしてひっそりと広がる漆黒の空間は、皇居の森。昼間とは違った生きた大都会の姿がそこにある。



左の暗闇は皇居の森


日比谷/丸の内界隈

冷たい雨にけぶる新橋/虎ノ門

2014年12月14日日曜日

思わず「大阪ラプソディー♪」 第二弾 〜師走の大阪は恋の街だった〜


 師走の大阪ヘ出張。LEDを発明した3人の博士のノーベル賞授賞式も終わった今日、その21世紀を変える青い光に包まれた大阪。「大阪光の饗宴2014」と名打ったイベントが街の中心部で展開中だ。ビジネスの街大阪、モノ造りの街大阪、コト起こしの街大阪、いや「宵闇の大阪はふたり連れ恋の街〜♪」
 残念ながら「ふたり連れ...」じゃなかったけれど。




過去のブログ《思わず「大阪ラプソディー♪」第一弾》はこちらから↓
http://tatsuo-k.blogspot.jp/2014/09/blog-post_18.html



道頓堀といえばグリコ。LEDに変わった新グリコ!動くようになった。
スーパー「玉出」のネオンもあったんだ...

御堂筋/道頓堀あたり

御堂筋なんば方面


大丸本館 奥には上本町がチラリと...


大丸本館の電飾

ヴォーリズ設計の建物はこの季節に合う佇まいだ

中之島公園


中之島公会堂
いつの時代も大阪のランドマークだ

中之島プロムナード
淀屋橋方向


法善寺


一夜が明けて。生駒に上がる旭日の光芒
二上山のシルエットも



2014年11月25日火曜日

なぜライカMにはズームレンズが無いのか? ~ライカMでズーム使いたい人に~

 ライカMにはズームレンズが無い。何故? 「何を今更。そんなのあたりまえだろう。光学レンジファインダー(距離系連動ファインダー)カメラにズームは無理。しかも単焦点レンズの画質を維持できないズームは不要」。そんな自明の問いに答える必要なし的な、ケンモホロロの返事が返ってきそうだ。

 後者は、かなり言い訳っぽく聞こえるが、ライカはとにかくズームレンズを造ってこなかった。かつて存在したライカの一眼レフカメラRシリーズ向けに、ズームのラインアップが用意されていたが、これらは日本のメーカー(シグマ、ミノルタ、京セラ)からのOEM。しかも概して高評価ではなかったようだ。確かに28−70mm標準ズームは歪曲収差もかなりのもので、ちょっと引いてしまう代物。よくライカ社がライカブランドで市場に出すことを認めたなと思う。それくらいライカ社にとってズームはどうでも良かったんだろう。

 ようやく自社製造で本格的なズームレンズを出したのは、コンパクト機X Varioが最初だ(中判一眼レフのSシリーズは別に)。これはなかなか良いレンズだ。デジタルになって収差や周辺光量の補正がボディー側で可能になったこともあり、ライカもようやくやる気になったのだろう。さらにミラーレスカメラであるTシリーズ向けに標準ズームを世に問い、年明けには広角ズーム、望遠ズームをリリースする予定(もっともいずれも日本製だそうだ)。しかし、いずれもMマウントではなく、フルサイズフォーマットでもなく、APS-Cサイズフォーマットでコンパクト、ミラーレス用だ。

 そもそもライカはM用にはズーム出す気はないようだ。いやいやMにはトリエルマーがあるではないか。28、35、50mmと、広角寄りの16、18、21mmの2種類がラインアップされている。しかし、これらはリニアに焦点距離が変化する「ズームレンズ」ではなく、3つの画角を選択する「3焦点レンズ」だ。

 まあ言葉の定義はどうでも良いが、レンジファインダーカメラでは、焦点距離、画角の移動に伴い、フレームがリニアに変化するファインダーなんぞ無理なのだ。この時点でレンジファインダーの限界を認識して方向転換を図る、なんてライカ社でもない。徹底的にレンジファインダーにこだわる。

 そこで1997年にリリースされたトリエルマーは、レンズ側に連動カムによってファインダーのフレームを50mm,35mm,28mmと切り変える機構を搭載した。これはすごいアナログでメカニカルな仕掛けだ。レンズの後部を見るとカムを動かすバネが見えている(壊れない事を祈る)。しかし、どう見ても一眼レフ+高倍率ズーム全盛時代に対抗するための苦肉の策にしか見えない。しかもこの機構だけで大きなコストアップ要因になっているだろう。現にその市場価格は並外れている。あくまでもレンジファインダーに固執するとこうなる。最近の発売になる広角系トリエルマーになると、そもそも内蔵ファインダーの画角外(28mmが限界)なので、そんな複雑な仕掛けは無くなったが、そのかわりとてつもない外付けファインダーを用意した。画角をダイアルで選択する。視差をダイアルで調整する。大きさはちょっとしたコンデジ並み、価格はミラーレス機並み!!M9ボディーに乗っけたその姿は「怪物」だ。とても軽快なスナップシューターとは言えない。ライカMの抱えるジレンマ、矛盾を体現したような様になる?別の見方するとライカ社の、土台はそのままにして「なんとかならんか」と苦闘,工夫するアナログでメカメカした解決策が楽しいともいえる。

 しかし、時代の潮目は変わりつつある、一眼レフですら、ミラーレスの台頭という挑戦を受けている。レンジファインダーで世界チャンピオンになったライカ。その挑戦に一眼レフという答えで打ち勝ち、ライカを抜いて世界チャンピオンになったニコン。そしていま、ミラーレス、ライブビューの登場だ。そう、ライブビューを導入したM Type240では、もはやそのようなレンジファインダーの限界、制約は無くなったはずだが、それでもMレンズにズームのラインアップは考えてないという。マクロレンズの開発や70cmの最短撮影距離を短くする予定もなさそうだ。ライブビューを取り入れてもなお、あくまでもレンジファインダーが主、ライブビューは従。どうしてもズームが欲しけりゃX,Tを買えってことのようだ。そこがライカだ。頑固だ。かつての商業的敗北(と思っているかどうか)を挽回できる絶好の機会が到来したにもかかわらずだ。あくまで自分で出来ることを大事にしつつ、クラウンジュウェルのレンジファインダー方式という「伝統の味」を守って行くつもりのようだ。毎度のコメントだが、「伝統」と「革新」のライカ的両立モデルを見守ってゆこう。



 そうはいっても旅先やスナップにズームは便利だし、デジタルになるとレンズ交換の度にほこりの侵入を気にしなくてはならない。なんと言っても最近のデジイチのズームの性能は格段に良くなっている。「なんとかMでズーム使えないのか」という懲りないライカ異端者の方々に付ける薬として、次の処方箋を:


1)ライカ社純正トリエルマーという手。

① M Tri-Elmar f.4 28,35,50mm ASPH

 M6フィルムカメラ時代の1997年から売り出され,今はディスコンになっている。中古市場でも常に品薄状態。出て来ても価格は新品価格よりもはるかに高いプレミアプライス。前期型(フィルター径55mm)と後期型(フィルター径49mm)があるが、レンズ構成(非球面レンズ2枚)は同じだ。それぞれの画角とも単焦点レンズに負けない高解像度はさすがだが、50mmで逆光ハレーションが出るのが気になる。かなり深いフードが必要だ。


初期型(フィルター径55mm)。
広角側でわずかにタル型の歪曲が認められるのと、50mmでフレアーが出やすく、逆光に弱い。
しかし各焦点距離とも単焦点レンズ並みのきわめて良好な解像度。
f値が4と暗いのと、最短撮影距離が1mであることを我慢すれば、とても便利なスナップシューター。
作例1:
28mmで撮影。少しタル型歪曲があるが,単焦点レンズと遜色ない写りだ。
作例2
50mm 開放F.4で撮影。
最短撮影距離が1mという「老眼」なので寄れない。
またSummicronやSummiluxのようにはボケないが、立体感は出ているし,解像度はなかなかのものだ。
作例3
50mm F.5.6でやや逆光気味に撮影すると結構ハデなハレーションが出る。
推奨フードは24mm用と共通のものだが、もっと深いフードが要る。
しかし,此の場合良い感じの効果を出してくれている。

② M Tri-Elmar f.4 16,18,21mm ASPH

 2006年、デジタル時代になってからの発売だが、M8,9の内蔵ファインダーではカバー出来ないし、ライブビューもなかったので、こんな(写真のような)外付けファインダーを併売している。ファインダーだけでも10万円という超高価レンズ。Type240になってようやくライブビューとEVFが使えるようになり、頻繁に持ち出せるレンズになった。インナーフォーカスや、焦点距離を替えると前群と後群が別々に動くなど、非常に凝った機構を持つ。これだけの広角でも、歪曲や周辺光量が極めて良く補正されており、隅々まで解像度の高い高性能レンズである事に疑問の余地はない。


M9に外付けファインダー載っけるとこのような凄まじい出で立ちになってしまう。
Type240のライブビュー(+EVF)であればすっきりした使い勝手の良い広角レンズとなる。
レンズ自体は歪曲も少なく周辺光量落ちも少ないきわめて優れたレンズだと思う。

作例4:
16mmで撮影。遠近感の強調に良い効果を出してくれる。解像度、諧調も抜群。
周辺光量不足も見られない。これは凄い事だ。驚愕のレンズだ!
作例5
18mmで撮影。狭い室内をパンフォーカスで撮ることが出来る。

作例6
21mmで撮影。素直な画造りが出来る。ライカらしいトーンも好きだ。


2)M Type240に純正RアダプターでR Vario-Elmar 28-70mmを装着するという手。

 このレンズはライカ一眼レフの廉価版R-Eとの組み合わせで1990年発売された。設計はライカ、製造は日本のシグマ。ライカにしては価格も安価である。初期型と後期型がある。初期型はフード内蔵型。しかしこのフードがスコスコですぐ引っ込んでしまうし、ピントリングを回すとレンズ前玉も回転するのでPLフィルターが付けられないなど、造りがしっくり来ない(発注元スペックのせいで、シグマのせいではないと思う)。後期型ではフードはねじ込み式に変更されたが、レンズ前玉は相変わらず回転する。ピントリングの回転トルクは改善され、ルックスもライカらしくなった。しかし、このレンズの難点は歪曲収差。28mmではタル型、70mmでは糸巻き型の歪曲が結構顕著。周辺光量も落ちる。これらを厭わなければ、ライカ純正で固めるこのソリューションは、ライカ正教徒にとっても納得のいく手だろう。はっきり言って、あんまり高い評価のズームレンズとは言えないが。

R Vario-Elmar 28-70 f.3.5-4.5(前期型)
内蔵フードがスコスコ。
撮影中すぐ引っ込むので役に立っていない

R Vario-Elmar 28-70 f.3.5-4.5(後期型)
フードはねじ込み式になった。
ルックスもライカらしくなりMとのバランスも良い。



 3)Mをあきらめ、ライカの他のシリーズを使うという手。

 Mレンズはスッパリ諦めましょう、XシリーズとTシリーズのズームがあるじゃないか、と割り切る手もある。案外合理的なソリューションだ。APS-Cサイズセンサーで、Xはレンズ固定のコンパクト、Tはレンズ交換式のミラーレスであるが、T シリーズも基本はXを踏襲しており、どちらのズームもデジタル時代に相応しい秀逸な出来だ。コンパクトでクセがなく良い結果をもたらすコストパフォーマンスの高い優秀なズームレンズだと思う。単焦点レンズ並みの高画質で3本のレンズを合わせた価格よりは安いのだし。もっともライカにコストパフォーマンスという評価基準は似合わない気もするが。使い勝手についての詳細は以前のブログを参照いただきたい。

① X Vario Vario-Elmar 28-70mm:Leica X Varioの使用感

② T Vario-Elmar 28-80mm:Leica Tの使用感


 最後に非純正Mマウントアダプターで他社ズームレンズを、という手があるが、これではもはや「ライカのズームで撮る」というボトムラインを踏み越えてしまうので、ここでは紹介しないでおこう。

 ここまで書いて、どこぞから「そんなにズーム使いたけりゃ、ライカMに手を出すなよ!」というライカ原理主義者の一喝が聞こえてきそうだ。


2014年11月19日水曜日

あの日、夕暮れの都府楼にブルートレインを見送る

 首都圏を襲った台風は、美しい夕景を残して東の海上へ去って行った。窓からその深い青に覆われ始めた空のその一部を茜色に染める残照を眺めていると、新幹線が西へと長い光の点を明滅させながら疾走して行く。博多行きの「のぞみ」だ。ふとあの日の、あの光景が脳裏にフラッシュバックした。40年前のあの日...


 青春時代。筑紫の国大宰府都府楼。刈入れの終わった田園風景。すっかり秋も深まった天拝山に沈む夕陽。無実の罪で太宰府に左遷された菅原道眞公が京の都の帝を遥拝したその山のシルエットを背景にブルートレインが駆けてくる。「ピョー」っと悲しい汽笛を鳴らしながら、ヒンヤリした空気を切り裂いて東へ走り去って行く。西鹿児島発の「はやぶさ」だ。明日の朝には雑踏の東京駅に滑り込むんだ。過ぎ去って行く赤いテールランプとヘッドマークを見送りながら。夢と可能性に満ち満ちた東京へ。彼女の待つ東京へ。こんな所でくすぶってないで新しい世界へ飛び出すんだ!俺の居場所はここにはない。日常世界からの脱出。上昇志向。ハングリー精神。滾る若い心。怖いものは無い。高度経済成長真っ只中の時代の田舎の少年のきわめて単純な思考回路。

 大学は東京、と何の迷いもなく決めていた私にとって、時代の激動はそれを許さなかった。学園紛争もクライマックスを迎えたその年、その大学では入学試験を中止せざるを得なくなるという前代未聞の出来事がおこる。で、両親や恩師など周りの説得で地元の大学を受験することになった。私は受験の前年には病気して一年休学しているし「無理するな。ちょうどいいじゃないか。何も東京へ行かなくても」という説得。「取り敢えず地元大学へ入っとけ。嫌ならまた受験し直せばイイんだよ」という気休めの説得。が、そんな事にはならない事を知った。結局、同様に学園紛争真っ只中の地元の大学に入学し、荒れ果てたキャンパスに5年通った(在籍した)。その結果、生涯の良き師、良き友をたくさん得ることが出来たことは幸いであった。人生はどこでどのように変わるのかわからないものだ。こうして波乱の学園生活を終え卒業。いわば5年の執行猶予期間を経て東京へ。今の会社に入った。

 あれから40年。東京どころかロンドン、ニューヨークを拠点に、世界を股にかけたサラリーマン人生であった。成熟した欧州諸国をくまなく歩き廻った,貧困と金満が併存する発展著しいアジアを歩いた。広いアメリカを飛んだ。英国留学も果たし、authenticとquality of lifeという大人の生き方を知った。いろんな人と出会った。尊敬できる人も、できない人も。しかし、皆一様に自分の人生を必死に生きている。世の中の「最高」も「最低」も観た。「外からの視点」を持てるようになった。文化、価値観の多様性を左脳、右脳に刻み込んだ。青二才も打たれ強い性格になった。会社では良い上司に出会った。良い仲間にも恵まれた。そして米国法人の社長にもしてもらって、本社の役員にも取り立ててもらった。会社の、そして業界の有り様を決める仕事もさせてもらった。それなりのサラリーマン出世コースを歩いて来れたと言って良いだろう。もちろんいろいろな挫折もあったし、理不尽に泣いた事もあったが、総体として会社人生と自己実現との両立も出来たように思う。幸運に恵まれた。思えば遠くに来たもんだ。あの時の彼女とも一緒になれて、子宝にも恵まれ、東京23区(田園調布ではないが)に我が家を持ち、幸せな家庭を築くことが出来た。二人の子供達もそれぞれの路へ巣立って行った。そして今年は遂にジイジになった。なんと幸福な人生ではないか...


 我が家の窓から夕景のなかを西へ疾走する新幹線を見ている自分がいる。憧れの東京へ疾走して行ったあの時のブルートレインの勇姿と重ねながら、気がつくとサラリーマン人生も終わりを迎え、老境に一歩を踏み入れた一人の男がいる。ふと、都会の生活に負けたわけではないのだが、なぜか急に望郷の念がわき起こる。充実した人生だったのだが、ふとそのなかで何か大事なものを忘れて来たような、失ってしまったものがあるような気がして、妙な寂寞感を感じている自分。夕闇迫る静寂な時間と空間のなか...

 がむしゃらに走ってきたサラリーマン人生は突然終わりを迎える。時計の針が0時をさすように、なんのためらいもなく自動的に。これからは、誰かがあなたの時間の使い方を決めるのではなく、あなた自身が好きなように決めていい。これからは私のスケジュール表を管理する有能な秘書もいない。貴重な時間を浪費させるイライラするようなヤツもいないし、ツマラナイ会議もない。時差調整に悩まされるロングフライト出張もない。だから、好きに時間を使って人生を楽しめば良い。「自分の時間を会社に売って対価を得る」というサラリーマン型人生モデルは終わったのだ。ご卒業おめでとう! さて、急にそう言われても...  周りはこれからは趣味に生きろ、という。しかし、趣味は本業が忙しいから趣味になり、息抜きになるのだ。毎日趣味で暮らせ、と言われると、今度はそれが本業になり、ストレスになりそうだ。これってサラリーマンの生活習慣病だ。

 取り敢えずこれから心落ち着けることのできる自分の居場所はどこにあるんだろうと考える。毎日通う「勤務先」もなくなる。私にとって東京は戦いの場であった。そして世界へ撃って出るベースキャンプだった。その限りでは刺激的で生き生きと心を滾らせる格好のステージであった。ビジネスで付き合った人の数は知れない。パートナーもライバルも... 名刺の数は整理しきれないほど。しかし、その人脈はこれからの人生に役立つのか。所詮gesellschftの人のつながり。金の切れ目が縁の切れ目、「肩書き」に用事がなくなって行き来が無くなった人の数の方も半端でない。しかし、戦線を離脱してみると、戦場に安らぎの場などあるはずもない。猛烈に突っ走っていた自分が、突然急ブレーキかけて前のめりに転びながら、高ぶっていた気持ちがだんだんクールダウンしてくるにつれ、東京の殺伐とした日常から脱出したい。気がつけばそんな心境になっている。突然の帰国命令でニューヨークから帰ってから過ごした関西での5年間の生活は殺気立った戦闘モードを冷ますには十分な期間だった。その中で煮え滾る心とは別の安らぎを愛でる心が芽生えたことに気付かされた。大和路、京都、そしてナニワというヤマト倭国の世界。さらにその時の彼方にあるチクシ倭国の世界。我がふるさと。世界を駆け巡ってふと日本に帰ってみると、なんとここは素敵な国なんだと。


 そして久しぶりに故郷、筑紫(チクシ)を訪ねる。ここは倭国・日本(ひのもと)発祥の土地であった。今まで気付かなかった美と安らぎがあちらこちらに潜んでいる事に気付く。あのとき、しゃにむに脱出を試みた故郷。若い時には目もくれなかった海の美しさや田園の豊かさ。食の豊かさ。人の暖かさ。歴史の厚み... あのとき顧みなかったもの、打ち捨てて来たものが今頃になって、あちこちでキラキラと輝いていやがる。なんともったいない事をしたんだろうと感じる。人生のなかで時を重ねることによっても見えてくるもの、感じることが出来るものがあることに気づかされる。そうだ故郷へ帰るか? いやいや、ああして故郷を出て行った私にとって居場所はあるのだろうか。故郷の人達にとって故郷を捨てた人間に差し伸べる手はないに違いない。遠くを旅して、長い旅路の末に今頃になって妙に里心がついた自分には厳しい故郷の現実が待っているのだろう。故郷の雑踏の町角に立って見回すと、辺りは見知らぬ人ばかり。ふと見ると我が手には玉手箱が... 夢の竜宮城でもらった玉手箱が。開けてはならぬ玉手箱が。

 自分の居場所を日常の中に見いださず,いつも非日常のある場所を夢見る自分。現実逃避なのか。いや、そういう日常に満足せず埋没しないハングリーな心が、これまでは戦いの原動力であったのだが。しかし、今聞こえてくるのは、「今いる所で生きなさい」という声。「故郷は遠きにありて思うもの 帰る所にあるまじや。」と室生犀星は歌う。じゃあ、まだなにかお役に立てることがあるはずだと執着してみる。しかし退役老兵が、戦いの続く戦場に立ち尽くしながら、便便と自分の居場所を探す。この勘違いは悲しい。「老兵はただ去り行くのみ」。「I shall return.」じゃなくて「a point of no return!」。葛藤と不安が行き交うこの人生の通過点。明日の夢に繋いでくれた、あのブルートレインはもうない。夢とは不可逆なものだ。これから私を待っているのは心の居場所を求めて彷徨する人生なのだ。それを受け入れるもまた良しだ。


最後のブルートレイン。故郷と東京を繋ぐ夢の架け橋はもう今は無い。


西へと疾走する新幹線。あのとき夕景を切り裂いて東へ疾走していったブルトレの勇姿と重ねながら眺める。


2014年11月13日木曜日

日本最古の都市 博多 〜博多遺跡群が語り始めた二千年都市の諸相〜

 博多は古代より現代に至るまで,栄枯盛衰はあれ、2000年有余、途切れる事なく続いた日本最古の都市である。しかし意外にこの事を知る人は少ない。日本のどの街より長い歴史を持ち、その繁栄の記憶を今に伝え、さらに未来に向けて発展してゆく街である。日本という国家の発祥の地と言って良い。飛鳥古京や平城京は歴史の舞台から姿を消し、千年の都、京都よりも古く、江戸開府四百年なんて若造は足下にも及ばない。他にこのような都市が日本にあるだろうか。

 1977年、福岡市営地下鉄建設工事に先立って、大々的な「博多遺跡群」の調査が始まった。福岡市という発展著しい大都会の地下に眠っている「博多」の複合的な遺構の全容解明にとって、地下鉄工事は千載一遇のチャンスであった。これを契機に、30余年になる今でも博多地下都市の発掘は続いている。想像通り日本の成り立ちを解明するために不可欠は情報が閉じ込められた遺跡群であることが分かってきた。3メートルも掘ると弥生時代の奴国の遺跡にぶち当たる。さらに掘ると縄文時代の集落跡が出てくる。弥生時代のムラ、クニ、古代奴国、筑紫太宰の外港那の津、中世博多、近世太閤割の博多、江戸期の黒田藩政下の博多と重層的に遺跡が出現する。3メートルの地層に2000年の都市の歴史が重なるまさに時系列的タイムカプセルである。皮肉な事に、歴史の中に打ち捨てられ、自然に還ってしまった街であれば,発掘はそれほどの困難を伴わなかったであろう。佐賀県神埼郡で見つかった吉野ケ里遺跡のように広大な環濠集落が田圃の地下にそのまま「弥生のクニ」として封印され,それをほぼ完全な形で掘り出す事も出来た。しかし、博多は現在を生きる活気ある街だ。どんどん新しいビルが建ち,地下鉄が掘られ、高架道路が建設され。考古学者には悩ましい環境に存在する遺跡群である。それだけに今を生きる博多の全容解明を進める意味も大きい。博多の歴史が重ねて来た時間とその重みを思い知らされる。またそれは日本の成り立ちの歴史とともにあった事を思い知らされる。


発掘調査地点。徐々に分かってきた博多浜、息浜の町割り
(福岡市教育委員会報告書より)

住吉神社に奉納されている絵馬
南北が逆さだが、冷泉津、草香江津が描かれ、博多浜、息浜の町割りが描かれている。
中世以降の博多の地形とは大きく異なる
江戸時代黒田氏の城下町の博多
太閤割りがはっきり残っており、それによって山笠の「流れ」が決められている。
(九州大学古地図アーカイブより)



 博多2000年の歴史を駆け足で振り返ってみよう。

 紀元前に稲作農耕文化が大陸から伝わり,弥生の時代が始まったのも此の地だ。日本列島最古の稲作農耕遺跡、板付遺跡は今も街中に保存修景されている。そのすぐ近くには紀元前一世紀頃の奴国の工房遺跡、都市遺跡である比恵遺跡が、その南の春日丘陵には奴国の王都跡、王墓跡と考えられる須玖・岡本遺跡が見つかっている。さらに100年ほど時代を下ると中国の史書、後漢書東夷伝に「倭」の「奴」という国が登場する。記述よれば、現在の博多にあった奴国の王は西暦57年に後漢の光武帝に使者を送り「漢委奴国王」の金印を受けている 。これが文字に書かれた最初の博多の歴史、すなわち倭国の初見である。また魏志倭人伝には3世紀、奴国には二万戸あったとしている。倭国の大国で、邪馬台国,と投馬国に次ぐ戸数である。また、中華王朝の動乱や朝鮮半島三国の争いなどによって大陸からの多くの人々の移入、渡来があった。まだ倭国にとって「世界」とは朝鮮半島、中華文化圏という東アジア世界が全てであった時代のことである。

 飛鳥,奈良時代になると、近畿地方の飛鳥京、平城京に権力基盤を置くヤマト王権があ出現し、北部九州の筑紫を支配下に置くようになる。ヤマト王権は地域支配の拠点である屯倉や大陸への窓口としての筑紫大宰を設けるようになる。那の津/博多津はその外港として重要な役割を果たす。律令制が確立するにつれて、博多津は太宰帥(律令官制としての太宰府長官)が直接管理する交易都市として、遣唐使の出立地、唐物輸入の窓口など、外交窓口、国際貿易港として繁栄する。湾頭に設けられた筑紫鴻臚館はその中心であった。一方、大陸情勢が緊迫すると,大陸への出兵拠点、逆に大陸からの侵攻を防ぐ防衛拠点としてもその役割を果たした。

 平安時代に入り,徐々に律令制度が崩れ始め、朝廷の直轄機関である大宰府による官製貿易、外交防衛機能が弱まると、今度は都の権門や貴族の荘園や寺社を中心とした私貿易が盛んになってゆく。特に博多における交易から上がる莫大な富と貿易利権に着目したのが平家の棟梁、平忠盛。その子清盛は、平家繁栄の基盤として南宋貿易を独占すべく、自ら太宰大弐の官職を求め、博多に大型の宋船が入港できる人口港「袖の湊」を整備したと言われている。

 鎌倉時代に入ると、多くの華僑が博多津に移り住み、南宋杭州出身の謝国明のような冒険的海商が博多に拠点を設け唐房/大唐街(すなわち中華街)を形成する。そして博多綱首として、いわば総合商社のような役割を果たし日宋貿易を一手に仕切る。博多遺跡発掘では大量の陶磁器や輸送用の壷、宋銭が見つかっている。日宋貿易が盛んであった様子を物語る遺物は、中国の杭州や寧波でも多く見つかっている。そこには「日本国太宰府博多津」の文字が。元寇では、元・高麗軍は博多・太宰府をめがけて来寇し、博多は戦場となり、灰燼に帰す。しかし華僑の財力でたちまち復興する。此の頃,中国からは禅宗が伝わり、栄西の聖福寺、聖一国師の承天寺が博多に建立される。これらの巨大寺院の建立にも博多綱首の存在が欠かせない。うどん、ういろう、茶、そば、饅頭、博多織の原型となる絹織物などが伝来したのも、この頃の博多だ。

 室町時代になると、勘合貿易による明との交易が始まり、博多には日本人の豪商が現れる。しかし明は倭冦対策や国内事情から一種の鎖国政策をとり始め、かつての中華思想にもとずく朝貢貿易の形を要求するようになる。足利義満が「日本国王」の称号を得て天龍寺船を出したり、南朝の征西将軍懐良親王を「日本国王」に柵封したりして、遣明船を受け入れたのはこうした事情による。しかし、宋、元の時代のように博多綱首や商人による私貿易は以前程活発な交易が期待出来なかった。そこで朝鮮貿易や、琉球との中継貿易を通じた南方貿易も博多商人が手がける。一方、京に近い堺が都の外港としての役割を果たし始めると博多と競い合う。しかしこの頃から日本全体としての交易は活発になり、自治権を得た博多・堺の両都市は益々発展する(自由貿易競争は良い事だ)。また16世紀後半、大航海時代に入るとポルトガルやイスパニアなどの南蛮船がしばしば日本に漂着ないしは来訪するようになり、やがて南蛮貿易が始まる。当時日明貿易(勘合貿易)が明国の一種対日鎖国政策(倭寇問題が原因と言われる)のため、朝貢貿易の形態をとり、かつ日本には数年に一度の「朝貢」しか許さないという状況であった。そこにマカオを拠点とするポルトガルが両国の間を取り持つ中継貿易という形で参入し、巨額な利益を上げた。なんとポルトガル本国の貿易を上回る利益を上げたとも言われている。また。ポルトガルは16世紀末に発見された石見銀山の豊富な銀産出量(南米ポトシ銀山が発見されるまでは世界一の産出量であった)を獲得するために、明や朝鮮、安南、ジャワなどの産品と日本の銀とを交換する貿易が活発となる。石見銀山の開発に力を注いだのは、博多の豪商神谷宗湛であった。

 戦国時代には,博多の貿易利権を巡って周防の大内氏や豊後の大友氏、肥前の龍造寺氏や薩摩の島津氏などの守護大名、戦国大名らがお互いに争い、博多は再び戦場となり灰燼に帰す。やがて豊臣秀吉が天下統一を果たすと,石田三成、黒田官兵衛が博多の町を復興させる(太閤割り)。再び神谷宗湛、島井宗室、末次平蔵、大賀宗久などの豪商が活躍する「博多黄金の時代」を迎える。此の頃イエズス会宣教師も博多に来て布教活動を始めるが、極めて大都市で裕福なので布教しにくい都市だと記している。後にキリシタン大名黒田氏が国主となると博多には教会が建てられる。黒田如水の葬儀は壮大なキリスト教式であったと言う。大航海時代後半の覇者であるオランダやイギリスで発刊された地図には平戸Firado、堺 Sacayと並んで博多Facataが記載されている。太閤秀吉は、ポルトガルのフスタ船で博多湾から復興した博多の街を視察した後、姪の浜でイエズス会宣教師コエリョと多いに歓談したと伝えられている。しかし、秀吉はこの姪の浜会談の数日後に博多でキリスト教禁教令を発布している。なにがあったのだろう?

 やがて徳川氏の江戸時代になるとキリシタン禁教令、鎖国となり、1500年以上続いた国際貿易港、博多はその栄光の歴史の幕を降ろさざるを得なくなる。「博多冬の時代」の始まりである。江戸幕藩体制下では、博多に代わって肥前長崎が唯一の海外への窓口となる。新たに黒田氏の城下町の一部となった博多は、海外貿易に携わった商人の一部は長崎に移り、あるいは黒田氏の御用商人となって、国内流通を担う五箇浦廻船事業に携わるなど、筑前國府福岡城下の商都博多として発展の道を歩み始める。

 明治維新後の開国、近代化の中で、博多はかつての国際貿易港としての輝きを取り戻す事は出来なかった。近代化を目指して欧米列強諸国との交易の時代を迎えた日本にあっては、博多のように朝鮮半島や中国大陸に向いた日本海側の港よりも、太平洋側の港湾が脚光を浴びる時代となっていた。したがって開国時の開港地には旧来からの長崎のほか、神戸、横浜、函館が選ばれたが博多は選ばれなかった。市制がひかれた時も、その市の名称は、一票差で「博多市」から「福岡市」となった。

 終戦後は博多港は大陸からの引揚船の入港地として、未曾有の敗戦という歴史の悲劇を味わうこととなる。「岸壁の母」「大地の子」... 様々な戦争の悲劇の舞台となる。国際的な港湾都市は,いつも歴史の光の部分だけを担って来た訳ではない。

 しかし、21世紀に入り、流れは再びアジアの時代へ。韓国や中国との行き来が活発になると,博多は国際港としての輝きを取り戻しはじめた。いまや博多港は日本一の旅客数を誇る国際港であるし、またアジア観光のクルーズ船の人気寄港地の一つとなっている。経済成長が鈍化し、少子高齢化で人口減少が切実な日本。地方都市は衰退あるいは消滅の危機にひんしているが、福岡市だけは、人口増加を続けている。いまや人口150万の政令指定都市である。イギリスのある調査機関が最近発表した「世界で住みやすい街ランキング」では、日本からは東京、京都と並んで福岡が見事上位ランキング入りしている。

 このように2000年の時間を駆け足で振り返ってみると、博多は、倭国/日本の歴史の中で、つねにユーラシア大陸からの文明の窓口としての地位を保ち続けて来たという事を改めて認識する。中国、朝鮮半島に近いというその地政学的な重要性は古代,中世、近世に至るまで変わらなかった。しかし、大航海時代を迎えると、ユーラシアの西の端から西欧諸国のアジア進出が盛んになり、博多にもその波が押し寄せる。やがて、その西欧列強の脅威から日本を守る鎖国政策で240年国を閉ざすこととなるわけだが、その「太平の眠り」から目覚め,辺りを見回すと世界の様相は一変していた。「近代化」という文明の波は、中国、朝鮮半島からではなく、太平洋を越えて欧米からやって来た。博多の大陸からの文明の窓口という地政学的な価値が相対的に低下してしまった。こうして京都や江戸を中心とした日本史の視点から俯瞰すると,博多は地方都市の一つに過ぎなくなってしまった。しかし時は今、グローバルな経済・文化の潮流が、再びアジアへとシフトし始めている。特に中国やインドの経済成長が目覚ましく、非近代的で「遅れた文明」として顧みられなかったアジアが目覚め、再び歴史の表舞台に躍り出てくる。日本は今そういう歴史の転換点に立っている。日本の歴史は世界の歴史と無縁に積み重ねられたわけではない。博多遺跡群の発掘成果からは、日本史を世界史的な視点から再理解する事の重要性を確信させる遺物が続々と出ている。博多は、だからこそ栄枯盛衰はあれ2000年も続いたのだということを理解する。まさに都市の変遷自体が悠久の時の流れを物語る歴史遺産なのだ。少なくとも福岡市民はそのことを知り、誇りにして欲しいものだ。東京(博多人のいう「中央」)ばかり観て憧憬したり反発したりする時代は終わったのだ。

Think Globally, Act Locally.


現代の博多港。海外からのクルーズ船の人気寄港地だ。
古代の博多津・冷泉津は画面右下に位置していたが、今では完全に市街地に飲み込まれている。


承天寺は博多綱首謝国明の尽力により建立された禅寺
祇園山笠の起源はここ

方丈の石庭
大海に浮かぶ島を表す

承天寺通りに2014年に建立された「博多千年門」
博多の出入り口にあったと言う「辻堂口門」をモデルに復元したもの。
左右は承天寺の境内
謝国明の墓
大きな楠に囲まれてしまったことから
地元では「大楠様」として親しまれている。



中庭
博多塀を背景に謝国明の石碑



平清盛が開いたと言われる「袖の湊」跡
かつての渡唐口は
博多リバレーンのビル群のなかに
痕跡を残すのみ


博多の総鎮守 櫛田神社
平忠盛が管理を任されていた鳥羽院の荘園、肥前神崎の荘にあった櫛田神社のご神体を博多に勧請したものとの言い伝えがある。
博多祇園山笠が有名だが今日は博多おくんちの日

ご神体を牛車に乗せてパレード

お稚児さんの晴れ姿

大博通り
博多駅から博多港に通じる博多の中心通り
右手には唐から帰国した空海が開いた真言宗の東長寺

扶桑最初禅窟 聖福寺
宋から帰国した栄西により建立された日本最初の禅寺

うどんが日本に初めて伝わったのも博多。
「かろのうろん」は博多弁で「かどのうどん」
博多ラーメンばかりが名物ではない。

参考文献:
http://www.amazon.co.jp/中世都市・博多を掘る-大庭-康時/dp/4874156649



2014年10月27日月曜日

伊都国探訪 〜「筑紫の日向の高千穂のクシフル岳」をのぞむ王都を訪ねて〜

 
 糸島は福岡市西の郊外の農村地帯で、豊かに広がる糸島平野と、筑紫富士といわれる可也山、白砂青松の海岸線、二見が浦、芥屋の大門といった名所もある自然豊かな「田舎」だ。糸島というと、福岡育ちの私にとって、西新町商店街にやってくるリヤカー部隊のおばちゃん、新鮮採れたて野菜の行商のおばちゃん、「お花よござっしょ」といいながらウチを回って来てくれたおばちゃん、絣のもんぺに手ぬぐいで頰っ被り。日焼けした元気な「おばちゃん」のイメージがを思い浮かべる。いつもお花を買うおばちゃんがそういえばホタルくれたっけ... 

今は福岡市営地下鉄が姪の浜から西唐津まで乗り入れしている。かつて海岸べりの単線でのどかなローカル線、筑肥線ディーゼルカーしか走ってなかったところが複線電化し、10分ごとに電車が走るようになったことから、糸島は発展著しい福岡のベッドタウンに変貌しつつある。さらに九州大学がキャンパスを糸島(住所でいえば福岡市西区だが)に移転中で、山のなかに広大なビル群が出現している。前原市と周辺町村合併で出来た糸島市の中心、筑前前原(まえばる)駅からは、なんと天神まで30分、博多駅まで45分、福岡空港までも50分という、首都圏、関西圏では信じられないようなアクセスの良さ。それでも博多湾、玄界灘に沿って走る車窓からはは美しい白砂青松の海岸を楽しむことができるシーニック路線だ。

 そんな田舎から都会のベッドタウンに変身中のここ糸島は、古代には伊都と志摩二カ国(縣)が存在し、3世紀の中国の史書、有名な魏志倭人伝にでてくる伊都国のあったところである。伊都国を含む北部九州は、朝鮮半島、大陸に近く稲作農耕文化が上陸した、いわば倭国、日本の発祥の地であるだけに遺跡の宝庫である。古代史ファンには無視できない聖地である。しかし、奈良大和や筑紫太宰府などに比して観光地としてはハイライトを浴びていない。筑紫倭国の時代の遺跡は、例えば奴国の比恵遺跡、須玖岡本遺跡、などは都市化した街中なかに埋没してしまっているし、伊都国の遺跡も広汎な糸島平野に点在しており、車が無いとなかなか回るのが大変だ。市営バスもあるが、日に数本しか運行してない。それが伊都国探訪をためらわせる原因になっていたのだが。

伊都国歴史博物館横の川原川河岸には
魏志倭人伝の一節が
ネットでレンタサイクルがあることを知り、今回は前原駅前で電動アシスト付き自転車を借りで回った。歩道、自転車道がよく整備されていては走りやすかったのがうれしい。しかし、史跡巡りをする人も、一部の古代史マニア中心で、なかなか一般の人のハイキングコースとしては定着していないようだ。週末だというのにレンタサイクルも観光案内所も閑散としている。案内標識も車で来る人には親切だが、ハイカー、バイカーにはチト不親切。何度も道に迷う。

 倭人伝に描かれた伊都国は3世紀、邪馬台国の女王卑弥呼の代官である「一大率」が置かれ、大陸との外交使節の接受を行い、筑紫を統括する役割を持っていたと記述されている。ちょうどその400年ほど後にヤマト王権の出先としておかれた大宰府と同じような位置づけであったようだ。魏からの使者は、この伊都国までやってきて滞在し、伊都国の役人からの聞き書きで、あの倭人伝に記述のある当時の「倭国」の有様、女王国邪馬台国までの道のりを記述したものと考えられている。

 倭人伝によれば、3世紀当時の筑紫倭国には2万戸を擁する奴国があり、1万戸の伊都国よりも遥かに大きく、邪馬台国に次ぐ人口を有する大国であった。奴国といえば、後漢書東夷伝に、1世紀(53年)に、奴国王が後漢の光武帝に朝貢し、「漢委奴国王」の」金印を授かったとある。現に福岡市の志賀島から江戸時代にその金印が出土している。古代史上注目の二カ国、伊都国と奴国の関係がどのようなものであったのかも興味深い。

 糸島地方は古代史(弥生時代から古墳時代、奈良時代)の遺跡の宝庫である。年代重層的に遺跡が見つかっている。注目すべきは、あまりにも有名な魏志倭人伝に描かれた3世紀の伊都国の遺構よりも、さらに古い弥生の倭国(紀元前4〜2世紀)の有様を彷彿とさせる遺跡が多いことだ。しかも大陸に近い地域であることを反映して、前漢・後漢、楽浪郡、朝鮮半島との交流を示す遺物が膨大であることも大きな特色だ(これらは伊都国歴史資料館、東京国立博物館に収蔵されている)。さらに稲作農耕文化の移入を示すさらに時代をさかのぼる農耕遺跡も見つかっている。著名な遺跡だけでも考古学的に年代を整理しておかねばならない。古い順に並べると、

1)石ヶ崎支石墓(紀元前4〜前2世紀)

 朝鮮半島に多いドルメン(支石墓)である。昭和24年の発掘調査では、支石墓一基、甕棺墓23基、土壙墓3基が見つかっている。上石は3.2m×2.8mの巨大なもので、副葬品として碧玉製管玉12個が出土すると言う珍しい支石墓。弥生時代早期の有力者とその一族の墓ではないかと考えられている。弥生時代中期(紀元前1世紀〜3世紀)の墓制としては、朝鮮半島の影響を引き継ぐ支石墓(ドルメン)が多く、伊都国エリアに多くの遺構が見つかっている(志登支石墓もそうだ)。大陸から水稲農耕を持ち込んだ人々の墓制であり、墓制一つとっても伊都国には大陸との交流の痕跡がいたるところに見える。
石ヶ崎支石墓遺跡
こんもりした茂みは一見古墳のように見えるが,支石墓を中心とした弥生初期の集団墓地である。

2)三雲南小路王墓(紀元前1世紀の王・王妃墓)

 江戸時代(文政5年1822年)に一号甕棺が、昭和50年1975年に新たに2号甕棺が発見されている。銅鏡22枚以上、翡翠勾玉、ガラス勾玉、管玉などが出土している。一号甕棺からは銅鏡35枚、銅剣、銅戈、銅矛、勾玉、管玉、璧、金銅製四葉座飾金具が出土したと伝わる。弥生時代の墓としては巨大なもので、周溝が廻らされた方形の墳丘墓であったこと。他に例を見ないほど大量に出土した銅鏡は全て前漢鏡であり、豪華な副葬品を持つことから一号墓は王の、2号墓は王妃の墓と考えられている。


三雲南小路遺跡
墓の周りには周溝も検出されている


3)井原鑓溝王墓(紀元 1〜2世紀の王墓推定地)

 江戸時代(天明年間1781〜1788年)、筑前福岡藩の青柳種信により著された「柳園古器略考」に、怡土郡井原村鑓溝で多数の銅鏡が甕棺から出土した記録が残っている。銅鏡21枚(前漢鏡)、巴形銅器3個、刀剣、鎧板などが出土したとある。現在は残念ながら散逸し残っていないが、これほど豪華な副葬品から三雲・南小路王墓に埋葬された王の何代か後の伊都国王の墓であろうと考えられている。現在遺跡の場所は不明で、推定地の農地に標識があるだけ。

井原鑓溝遺跡推定地に立つ案内板。風化が激しく読めない。
ひどいものだ。案内板自体が遺跡化している。

 川原川と瑞梅寺川に挟まれた、これらの二つの王墓遺跡を含むエリア(三雲・井原遺跡)が伊都国の国邑、すなわち王都であったと考えられている。その広さは南北1キロ、東西700mと、ほぼ吉野ヶ里遺跡に近い規模の拠点集落であった。その他にも伊都国内には衛星集落散在していた(今宿五郎江・大塚遺跡)。


4)平原(ひらばる)王墓(紀元2世紀=3世紀?の王墓)

 伊都国王都であった三雲・井原遺跡の西、瑞梅寺川を隔てた微高地、曽根丘陵にあるのが有名な平原王墓である。1号墓は方形周溝墓で、2号墓は円形周溝墓である。高祖山(たかすやま)、早良(さわら)国へぬける日向(ひなた)峠を真東に見て、西を頭に埋葬されていた。銅鏡40枚、鉄剣一本、ガラス製勾玉、メノウ製管玉などが多数が副葬されており、他の墳墓をよせつけない規模。なかでも直径46.5センチの内行花文鏡(傍製鏡)が5枚見つかっており、一つの墓から出土した銅鏡の枚数、品質は弥生時代では日本一を誇っている。副葬品は武具よりもネックレスやブレスレットのような装飾品が多いことから、被葬者は女王(ひめみこ)ではないかと考えられている。卑弥呼のほかにも女王が統治した国があったとういうことか。あるいは、こここそ邪馬台国女王卑弥呼の墓だとする見解もある。
平原遺跡
奥に墳丘墓が見える

 平原遺跡は在野の考古学者原田大六氏により発掘調査がなされた。高祖山、日向峠、平原王墓の関連を天孫降臨と結びつける説を展開。氏はアマテラスの墓だと結論づけたと言う。原田氏とともに発掘調査に携わったという地元の方に、たまたま現地でお会いし、発掘当時の話しをいろいろ伺った。当時はアマテラスも卑弥呼も代々何人もいたのでは?と。女王あるいは巫女が統治の権威であった時代だったのかもしれない。

 このように、雷山川、瑞梅寺川と川原川の間に広がる伊都国王墓遺跡は魏志倭人伝に記述のある「代々王あり」という記述を考古学的に実証するものと考えられている。弥生時代において類を見ないほどの多数の前漢鏡、後漢鏡、傍製鏡が出土されており、おなじ弥生時代(紀元前1世紀)の遺跡である須玖・岡本遺跡の奴国王墓よりはるかに多い。ここには強大な権力と権威を備えた王がいたのではと思われる。前述のように、須玖・岡本遺跡に葬られている奴国王の数代あとの王が、1世紀には後漢の光武帝から「漢倭奴国王」の金印を授かっている。この頃は奴国が強力な王権を維持していたのであろう。しかし、その200年ほど後の魏志倭人伝に描かれた世界になると邪馬台国、投馬国に次ぐ二万戸の大国、奴国の存在は記述されているものの、王の存在が消えてしまう。一万戸の伊都国には「代々王がいる」と。しかも邪馬台国の女王卑弥呼の代官「一大率」がとどまる国となる。長い間奴国と伊都国は筑紫倭国の覇権をを競っていたのかもしれない。

 3世紀になるとその両国とも邪馬台国(九州にあったのか近畿にあったのかはさておき)の支配に属すことになる。この200年の間に何が起こったのだろう。 後漢皇帝から柵封を受けていた奴国王の倭国における力が「倭国大乱」ののち衰退し、邪馬台国女王卑弥呼が魏皇帝から柵封を受け、その筑紫支配、外交窓口の代官「一大率」が伊都国に置かれていたという史実。それからさらに400年の後のヤマト王権の筑紫支配の出先として、筑紫官家、筑紫大宰、太宰府、筑紫鴻臚館が儺縣、かつての奴国に置かれたという史実。この辺りを解きほぐすことから邪馬台国の位置、筑紫から大和への倭国中心の変遷の過程がかいま見ることが出来るのではないかと思う。

 ちなみに倭人伝に記述のある時代の伊都国の遺跡はまだ特定されていない。例えば一大率がいたであろう府庁や、伊都国王の居館、魏使を迎えた鴻臚館、船着き場のような施設の発見が待たれる。
王墓の真東には高祖山と日向峠が
東西軸を意識した配置となっている

 
5)古墳群(4〜6世紀)

 伊都国や奴国などの北部九州筑紫には、近畿大和地方とは異なり甕棺墓、墳丘墓が多く見つかっている。伊都国の北の背振山脈を越えたところにある吉野ケ里遺跡に多く見つかっている土壙墓、周溝墓なども、こうした弥生時代の甕棺墓群遺構だ。北部九州に於ける初期王権の墓は支石墓から甕棺墓・墳丘墓が中心で、大型の古墳が出現するのは3世紀後半(?)以降のヤマト王権が近畿に出現し、筑紫にもその支配権をのばし始める時代(古墳時代4世紀以降)のものである(ヤマト王権の権威を示すために地方の豪族に古墳を造ることを許すという形)。伊都国でも築山古墳、端山古墳を始め約60もの前方後円墳が確認されている。この頃になると伊都国がヤマト王権に従う時代に入ったことを示している。こうして伊都国は消滅し律令体制下の伊覩縣となってゆく。

端山古墳

築山古墳













6)高祖神社(創建時期は不明)

 怡土郡の惣社として崇敬を集めており、主祭神はホホデミノミコト、タマヨリヒメノミコト、オキナガタラシヒメノミコ:神功皇后である(北部九州には神功皇后と応神天皇を祀る神社が多い)。これは7〜8世紀記紀編纂時期以降(すなわち皇祖神アマテラスを頂点とする神々の体系化以降)のことだろう。それ以前の在地の神の姿は消されてしまったのだろうか。それとも単に記録が残っていないだけなのか。高祖山を背に太陽の昇る東を遥拝するスタイルは、大和三輪山と同じスタイルだ。すなわち神は高祖山に降り立ち、山中に磐座があったのかもしれない。この美しい甘南備型の高祖山自体がご神体山であった可能性は無いのか? 元々の縄文的自然信仰と、大陸から移り住んできた人々の弥生的な穀霊神降臨信仰が結びついたのが高祖山(高祖神社)では?と想像してみたくなる。

高祖神社大鳥居
今日は高祖夜神楽の日だ
社殿は中世に原田氏によって建てられた





6)怡土城(8世紀奈良時代)

 8世紀奈良時代に大宰大弐であった吉備真備によって高祖山に築かれた古代山城である。この時代になると、倭国は国号を日本と変え、天皇中心の中央集権的支配体制が平城京を首都として確立し、律令制の下でかつての伊都国は筑前国伊覩縣(あがた)さらに、伊覩郡(こおり)という地方組織として組み込まれてしまう。筑紫九州と大陸との外交を統括する役所、太宰府が設けられ、そこの長官(形式的には大宰率だが)が、中央政府の命により伊覩に城を築いた訳だ。何のために築かれたのか不明だが、当時新羅との関係が悪化したので、その侵攻に備えて築いたのではと言われている。「続日本紀」に築城の責任者、期間が記録されている。城壁は石垣と土塁が太宰府大野城のように西側山麓に残っているが、大野城のように全周取り囲んでおらず、工事途中で中止した、とか西からの侵攻を防ぐにはこれで十分とか、諸説ある。鎌倉時代以降はこの地をおさめた原田氏の居城「高祖城」として糸島平野を睥睨していた。なお,北部九州に多く見られる「神籠石」については、いまだに謎の古代構造物であるが、朝鮮式古代山城であろうと考えられている。伊都国では雷山の神籠石が有名。


怡土城の土塁が残る
怡土城趾碑
高祖山山麓に碑が建つ


 







平原王墓からは高祖山が真東に見える
此の山が天孫降臨の「筑紫の日向の高千穂」なのか

天孫降臨神話の起源:

 ところで、平原王墓には、鳥居のような柱の跡が残っており、そこに立って周囲を見渡すと、真東に高祖山と奴国へと続く日向峠。西には加布里湾。北には志摩半島の山々を隔てて朝鮮半島に続く玄界灘。南は雷山などの背振山脈が壁のように立ちはだかっている。三瀬峠を越えれば吉野ヶ里だ。太陽は日向峠から昇り、加布里湾に沈む。すなわち、奈良盆地と異なり北と西が海に面しているが、先述のように、大和の三輪山と二上山という東西軸と同じ宇宙観がここにも出現している。いやこちらの方が起源としては古いのかもしれない。

 この高祖山、日向峠、クシフル岳こそ、記紀に言う天孫降臨の地ではないかという説がある。原田大六氏だけでなく、記紀にある「筑紫の日向」は宮崎県の日向ではないのではとする研究者は多い(以前のブログ「アマテラスは宮崎出身?それとも福岡出身?」、「筑紫の日向(ひむか)は何処? 〜天孫降臨の地を探す〜」をご参照あれ)。「筑紫の日向の高千穂のクシフル岳...」は伊都国の真東にそびえる高祖山(高千穂とは固有名詞ではなく「高くて尊い山」という意味)である。太陽はこの高祖山の日向峠から昇り、加布里湾に沈む。アマテラスは太陽の神、稲作農耕神である。縄文世界であった日本列島に、大陸から稲作農耕文明が入ってきて、次第に縄文人と弥生人が融合し、定住し、ムラが出来、クニグニが生まれ、やがてそれらが争い、まとまり倭国が出来てゆく。その稲作農耕文明の入り口が伊都国を含む筑紫、北部九州であったわけだから、アマテラス一族の天孫降臨の地がこの筑紫にあったと考えるのは合理的に思える。朝鮮半島には天から穀霊神が降臨し、その子孫が王となったとする神話が伝承されている。稲作農耕文明(鉄器製造、灌漑、土木工事技術、気象天体観測、環濠集落、支配秩序)の移入に伴い、定住生活と降臨神話に基づく自然信仰、祖霊信仰も入ってきた。倭国の起源がここにあると考える。

 記紀にはニニギノミコトが天から三種の神器とともに「筑紫の日向の高千穂のクルフシダダケ」に降臨してきたとき「此所は韓国(からくに)に向かい,笠沙の御前を真木通りて、朝日の直刺す国、夕日の日照る国なり。故、此の地は甚吉き地」との詔を発している。これぞまさに高祖山、日向峠から望む玄海灘の光景である。

甘南備型の高祖山。その山中には高祖神社、山麓には怡土城跡
どこかで見たことがある「国のまほろば」の佇まいがここにもある

南に目を転ずると峰々が織りなす背振の山並み

北西には筑紫富士といわれる可也(かや)山。
朝鮮半島から渡って来た人々が伽耶を懐かしんで命名したとの言い伝えもある。
北には糸島半島の山々
建設中の九州大学伊都キャンパスのビル群も見える


川原川と背振の峰

高祖山・高祖神社へ続く道