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2013年1月27日日曜日

古代の大国「吉備」 ー四道将軍吉備津彦の吉備津神社探訪ー

 日本の古代史を明らかにする過程で、大陸から伝播した弥生の文明が北部九州(チクシ)から近畿(ヤマト)へと伝播して行く途中に登場する、いくつかの重要な国々の存在を無視する訳に行かない。それは筑紫国であり、筑紫の日向国であり、出雲国であり吉備国である。これらの国々は、魏志倭人伝に記された邪馬台国への道すがらのクニグニと一致するのか否か、どこに比定されるのかが常に日本古代史の論争になっているが、日本側の資料である記紀や風土記に出てくるこれらの国々は、確かにその実在の痕跡を今に残している。

 筑紫がヤマト王権の勢力下に入るのは、8世紀に編纂されたヤマト側の正史である日本書紀によれば、6世紀継体大王の時代の「筑紫の国造」磐井の「反乱」平定の時期であると言われている。弥生時代以降、文明先進地域である筑紫の「反乱」と「平定」は、出雲の國譲り神話のような神代の出来事ではなくて、比較的新しい事件として記述されている。多分、筑紫の磐井は「ヤマトから任命された国造」でも無ければ、この事件は「ヤマトへの反乱」でも無く、ヤマトとは別の大国筑紫の大王であったのだろう。ヤマトレジュームへの対抗勢力であり続けたのであろう。

 一方、日向平定の時期は明確ではないが、熊襲(邪馬台国と対立した狗奴国は熊襲勢力であろう)やその後の隼人と呼ばれた人々が統一大和に完全に服属するのは8世紀の奈良時代に入っての事、すなわち日本書紀編纂後のことだ。なぜそのような「蛮夷の地」日向が、天孫降臨の地、神武天皇東征の出発点であり、日本の発祥の地とされたのかは古代史の謎の一つだが,そのことはまた別途。ちなみに東北の蝦夷(エミシ)が大和に服属するのは8世紀末、奈良時代末期から平安遷都の時期だ。

 出雲は大国主の國譲り神話に象徴されるように、ヤマト王権成立過程で、その巨大な勢力をヤマトとの連合、いわば「國譲り」という形のアライアンスで安堵したのだろう。そのシンボルが「雲太」と言い習わされる出雲大社の巨大神殿であり、大和の大三輪神社である。いずれにせよ記紀に記述された「神話」の時代の話で、「歴史」的な検証が出来ていない時期であるが、ヤマト王権成立の極めて初期段階で起きたエピソードの一つだ。

 吉備は出雲とは少々異なる道を歩んだようだ。吉備津彦神社に伝わる伝承では、この辺りを支配していた悪者、温羅(ウラ)一族を吉備津彦が退治して、困っていた地元の民を救った、とされている。吉備津神社には温羅が投げたといわれる大石と吉備津彦が放った矢が当たって落ちたと言われる岩や、捕えられた温羅の首を埋め、今でも叫び声が聞こえると言われる鳴釜がある。8世紀に編纂された日本書紀や古事記においては、もともと吉備は朝鮮半島新羅からの渡来人に支配されていた地域であったが、崇神大王が全国平定のために使わした四道将軍の一人吉備津彦が、地元の渡来系の温羅一族を滅ぼしてヤマト王権の支配下にしたことになっている。崇神大王(天皇)は日本書紀に記述されている最初の実在が想定される天皇(ハツクニシラススメラミコト)であり、この征服劇が史実であるとするならば、おそらく3世紀後半から4世紀前半の出来ごとではないかと推定されている。

 これが「桃太郎の鬼退治」の物語りのルーツと言われる伝承である。この近くに「鬼が島」のモデルと言われる古代山城「鬼城」がある。ヤマト勢力の吉備津彦以前の地元の支配者(温羅など渡来系豪族なのか)の拠点であるとも、ヤマト勢力の吉備制圧の出城であるとも、あるいは7世紀の大陸からの侵攻に備える山城(筑紫の大野城、基城などのような)とも言われている。いずれにせよ吉備はヤマト王権に平定されたという歴史が伝えられている。

 しかし、吉備は奈良盆地で発掘された3世紀の纏向遺跡の土器や、箸墓古墳の特殊器台に吉備由来のものが出土している事で理解されるように、ヤマトに大きな影響を与えた国であった。またその後の歴史の中でも、奈良時代の吉備真備(吉備下ツ道の真備)のような,平城宮の朝廷に影響力をもつ有力な高官を輩出する勢力があった。畿内に近い吉備は大和との緊密な関係を持っていたのであろうが、どのような歴史を紡いで来たのか詳細は依然謎が多い。

 このようにヤマト王権の成立には長い時間がかかり、幾多の有力なクニグニ、在地豪族との激しい抗争があった。その間、各地域の群雄割拠状態であったのだろう。決して天孫降臨の権威を背景とした大王が権力を行使して、東遷しながら次々とその他のクニグニを服属させて行ったというようなリニアーな歴史ではない。日本書紀においても神武天皇の大和入りの苦戦,その後の歴代天皇による国土統一への遠く険しい道のりが語られている。

 ようやく天皇中心の統一ヤマト国家体制が整備されたのは、実に7世紀、壬申の乱に勝利して即位した天武天皇、その后、持統天皇の時代になってからのことだ。律令制の導入。天照大神の皇祖神化、公地公民制導入。仏教による鎮護国家思想導入。そして天皇制確立と、これを歴史的に権威付けるための古事記、日本書紀(記紀)の編纂。我々が現在入手可能なこれらの資料は,そうした時代背景を担って編纂された歴史書だから,それを理解して読み進めなければならない。

 吉備津神社はこの前述のような吉備の歴史を語る上で重要な神社である。主神は大吉備津彦命である。吉備はその後、備前、備中、備後の三国に分かれるが、この吉備津神社は三備一宮である。近くに、これと対を為すように吉備津彦神社があり、こちらは備前一宮とされている。この辺りは、中国地方独特のなだらかな甘南備型の山々に囲まれた穏やかな景観を持つ地域だ。吉備津神社への道は美しい松並木に縁取られ、その長い参道が吉備の盆地を貫いている。不思議なデジャヴ(擬視感)を覚える。まるで大和盆地や筑紫平野のような景観である。古代倭人達はこのような甘南備の山々に神を感じ、太陽と川からの水の恵みによる稲作生産活動を営み、微高地に集まって暮らした。弥生の稲作農耕文化から生まれたクニの原型は、このような共通する地形,景観,風土の中に形成されたのだろう。



(吉備津造の本殿。国宝である。)




(荘厳な拝殿。主神は大吉備津彦命。すなわち四道将軍吉備津彦である。)




(松並木が続く長い参道は、古代吉備国の物語りへのタイムトンネルとなっている。)




(参道からは甘南備型の山が望める。筑紫や大和の風景に重なる。不思議なデジャヴを体感する。)

アクセス:JR岡山駅から吉備線総社行きに乗り約20分。吉備津駅下車。駅前から続く松並木の参道を徒歩15分。


写真集はここから→






































(撮影機材:Nikon D800E, AF Nikkor 24-120mm)

2013年1月12日土曜日

秋篠寺に伎芸天に会いに行く ー 今年の大和路散策はここから始まる ー

 秋篠寺。その名の響きの涼やかさに心浮き立つ寺だ。そう、年の始めの大和路散策の第一歩ににふさわしい寺だ。

 近鉄大和西大寺駅を出て、西大寺の築地塀に沿って歩き、そこから、細い「歴史の道」をたどって近鉄の踏切を渡り、真北へ向うとこんもりした森の中に秋篠寺がある。入江泰吉氏の写真に名残をとどめる昭和20年代の風情を,現在のこの辺りに求めるのは無理だが、それでも新興住宅街を抜けると、刈取りの終わった冬枯れの田圃を通る細い道。枝ばかりが冬空にそびえる柿の木。秋篠の里という名前の響きに相応しい佇まいが少しは残っている。

 秋篠寺は平城京の西北、その秋篠の里にひっそりと佇む。光仁天皇勅願より奈良時代の宝亀7年、西暦776年に創建。造営は桓武天皇に引き継がれ,794年の平安遷都とほぼ期を一にして完成を見たという。地元の豪族秋篠氏の寺を勅願寺にしたとも言われる。もとは東西に塔を擁し、南の西大寺と寺勢を競う大寺院であったそうだが、今はこじんまりと静かな境内。周りを競輪場や少年院や新興住宅街に囲まれた雑木林の中に、かろうじてその歴史の痕跡をとどめている。

 秋篠寺を有名にしているのは、もちろんその寺の静かで美しい佇まいであるが、そのほかに金堂におわします伎芸天を忘れてはならない。もともとこの寺は南都仏教法相宗。そのご本尊は薬師如来。平安時代の作と言われる日光、月光菩薩を従えた天平の寺だ。平安時代には真言宗となったが、現在はどの宗派にも属さない単立の寺となっている。現在の薬師如来坐像は鎌倉時代の作。いまや御本尊以上に人気のこの伎芸天も、頭部は天平時代そのままの脱活乾漆造であるが、胴体部分は、後の鎌倉時代の木彫による補作だという。しかし,実にうまく補修されたもので、この女性的な姿体は実に調和が取れていて美しい。一説に鎌倉時代の天才仏師快慶が廃墟の中から天の頭部を掘り出して胴部を継ぎ足したものだとも言う。明確な証拠は見つかって無いが、そう考えるのも一興だろう。明治以降、「東洋のミューズ」と称されるようになったが、別に西洋のミューズに例える必要は全くない。「秋篠寺の伎芸天」でよい。

 本堂はこじんまりした建物である。創建当時の金堂は失われ、かつての講堂を鎌倉時代に修復して本堂とした。国宝である。ところでずいぶん鎌倉時代に再建されたり、補修された寺や仏像が奈良には多い。これは平安末期の平家と藤原摂関家との権力闘争、平家と源氏との争乱、保元、平治の乱で南都の寺は数多く焼かれたり破壊されたからだ。鎌倉時代に入って、源頼朝の支援を受けた重源により再建された東大寺がその復興伽藍の代表格だ。運慶、快慶等の仏師が活躍した時代だ。その後の時代になると16世紀の戦国時代の戦乱での破壊がある。そして、明治維新後の国家神道による廃仏毀釈で破壊された(興福寺や内山永久寺など)。秋篠寺も明治期の廃仏毀釈の嵐の中でに荒廃が進み現在の姿となった。

 こうした時代の幾多の荒波を思い起こすと、それらをくぐり抜け、時空を超えて現代にその法灯を継ぐ秋篠寺のような文化遺産を大事にしなくてはいけないと思う。そして伎芸天は信仰の対象としての仏像、天であるだけではなく、興福寺の阿修羅像等と同様に、日本人の美意識を体現する美術作品として、あるいは、まさに伎芸=Art/Entertainmentあるいは、「技」technologyと「芸」artを具現化するシンボルとして愛され続ける。

 ところで、この秋篠寺の南門を出た所に、八所御霊神社(はっしょごりょうじんじゃ)が鎮座している。ここには崇道天皇(早良親王)始め、井上皇后、奈良時代末期の皇族皇子、橘逸勢、藤原広嗣、吉備真備などの高官が祀られている。秋篠寺の鎮守として780年に八所神社創建され、後の平安遷都後の880年に八所御霊神社となったという。 秋篠寺の創建と何か関わりがあるのだろうか? 一説にいわく。これらの皇族高官は、皇位継承、平安遷都に伴う政変で失脚、権力の座から遠ざけられた人々である。彼等の怨念を鎮めるために祀ったのだ、と。太宰府へ流された菅原道真の怨霊を鎮めるために天満宮(北野天満宮)を創建したのとおなじことだ。そもそも770年の称徳天皇崩御ののち、藤原百川による光仁天皇即位に当たって、呪詛の疑いをかけられた井上皇后の廃后、二人の皇子の変死等の事件が起こり、その後に天変地異が続いた。そうした中での勅願寺秋篠寺の創建である。現在の静かで落ち着いた佇まいの秋篠寺にも、奈良時代から平安時代へ移行する過程での権力闘争と、その中で敗れた側の怨念が見え隠れするようだ。







(伎芸天。胴部は鎌倉時代の木造による補作。しかし、なんという美しいバランス)





(秋篠寺本堂。御本尊の薬師如来ほか諸仏がおわします。伎芸天もここに)



(南門への道。門外の右手に八所御霊神社が)



(八所御霊神社。秋篠寺の鎮守社)

 スライドショーはここから⇒



秋篠寺南門

















南門



近鉄西大寺駅
平面交差で各線が合流、分岐する忙しい駅



(撮影機材:Nikon D800E, AF Zoom Nikkor 28-300mm)