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2012年12月17日月曜日

40年の時空の隔たりは今...

 今日は、中学時代仲良くしていた悪友と40年ぶりに再会することが出来た。

長く音信が途絶えていたが、ひょんな事からネットでお互い大阪に住んでいる事がわかり訪ねて来てくれた。インターネットの効用を感じる団塊世代の私である。そう、団塊世代も後期に属する我々はネットを使うんだ。

お互い髪が薄くなったり、白くなったり、外目の形状は多少変わったものの、基本的には昔と全く変わらない友がそこに居た。40年の時空の隔たりが一挙に消滅し、中学時代にワープ。「どげんしよったとね?」

その後、彼が法学部を卒業して、兵庫県庁に勤務していたコトは知っていたが,私の方が、東京/ロンドン/ニューヨークを転勤し回っていたため、すっかり音信不通に。彼は最近めでたく定年退官し、役所の就職斡旋を断って行政書士として独立し,新たな人生を歩み始めたと言う。私の方も、長い海外転勤生活を終えて、第二のサラリーマン人生を大阪で送っている。お互いそんな年になった。なんせ40年だもんなあ。

語り尽くせない懐かしい中学時代の話や、旧友の消息、その後の人生について、時間が過ぎるのを忘れるほど話し込んでしまった。そして彼は、ぽつっとあの18年前の阪神大震災で、家族を亡くしたと語った。父上と奥さんを亡くされた。彼自身も被災したのだが、県庁職員として震災の救援、復興に身を投じた過酷な日々だったそうだ。もちろん初めて聞いた。ショックだった。

40年と一言で言っても,この40年はお互いに人生の最も忙しいピークの時間帯。目先の懸案事項で日々を過ごす事で精一杯だったあの頃、友の事を思いやる心の余裕も無かったあの時代のあの瞬間に、彼がそんな過酷な体験をしていた訳だ。そんな事も知らず、一見、昔のまま変わらない友との再開を無邪気に喜んだ自分を恥じ入った。40年という時間の経過は、やはり人の一生に大きな山坂を与えるのに充分な長さなのだ。

阪神大震災の時は、イギリスにいた。ロンドンのアパートで、夕食後いつものお気に入りのClassic FMを聞きながら,ベッドの上でくつろいでいた。突然の音楽の中断。「日本で地震があった」と簡単な臨時ニュース。「日本は地震が多いさ」と、あまり気にも留めず、聞き流していたが、「待てよ、ロンドンのラジオで日本の地震の臨時ニュース?」。すぐにテレビをつけるとBBCは、炎上する神戸の町、ひっくり返った阪神高速道路や、脱線転覆した電車の空撮映像(NHKのロゴ入)を延々と流していた。

テレビの向うの日本で起こっている未曾有の災難に戦慄した。しかしその瞬間に、その渦中で、我が友は大丈夫なのか、呻吟苦悩しているのではないか、と思いをいたすに至らなかった自分を今頃になって責めている。彼が神戸にいるであろう事は知っていたのだが、不思議にそのことと、この震災とが結びつかなかった。なんと自己中心的で、勝手な理解なんだ。

その後日本へ帰り、彼の消息が気になり、当時の新聞の被災者のリストを入手して恐る恐る探したが、名前は無かった。よかった。無事なんだ。もちろんその時は、彼の家族に不幸が襲っていた事を知る由もなかった。ちょうどインターネットが普及し始めた時期でもあり、彼の名前と兵庫県のキーワードで検索し、消息の手がかりを探し求めた。曖昧ながらもいくつかのそれらしい情報に行き当たったが、いずれも人違い、ないしは連絡取れず。当時はまだまだネットに公的機関の情報が公開される事も少ない時代だった。そうこうしているうちにその後の雑事にまぎれて、ウヤムヤになっていた。

皮肉な事に、彼が退職して独立し、事務所を構え、ホームページを公開した事で、消息が掴めたという訳だ。インターネットは40年の時空を超えて旧友を見つけ出してくれた。しかし、その結果、その友が体験した深い悲しみを知る事にもなった。ただ救いは、彼の残された家族である娘さんが、震災の苦難を乗り越えて、いまは立派に大学で研究者の道を歩んでいる話を聞いた事だった。40年という時間の重みを感じた。

2012年12月2日日曜日

Fujifilm X-E1デビュー ーコモディティー商材よさらばー

 待望のFujifilm X-E1が発売となり、予約一番でゲットすることが出来た。これは、前評判通りなかなかいいカメラだ。X-Pro1が画期的な製品であるだけに、その弟分で、より入手しやすい中級カメラ、という位置付けなのだが、むしろX-Pro1をブラッシュアップした優秀なハイエンド機種だと思う。最近のカメラはソフトウエアーで新たな機能の追加、高度化が出来る。X-Pro1で改良した部分は全てこのX-E1に反映されているし、ハードウェア部分も良く手が入れられていてより使いやすい道具に進化している。

 X-Pro1との大きな違いは、富士フィルム独自の光学/電子ハイブリッドファインダー(OVF+EVF)を省略し、代わりに、EVFに特化した点くらいだ。しかし、この有機EL電子ファインダーのクリアーな見えはX-Pro1のそれよりも格段に進化している。とうとう電子式ファインダーも実用的な品質に到達したなあ,と感じさせる。また視度補正が可能となった事も嬉しい。あとは、1/2、1秒の低速シャッタースピードが省略されているが、AFの合焦スピードがアップした。そういえば,内蔵ストロボがついている。基本、アベイラブルライト撮影の私には不要なものだが。この辺が中級機らしい。

 しかし、ハイブリッドファインダーを廃した分だけボディーサイズが一回り小さくなり、X100と同じくらいのサイズになった。これは私的には大歓迎だ。X-Pro1を見た時の第一印象は「デカイ!」であったから、X-E1でちょうど手になじむ最適サイズになったわけだ。マウントアダプターでライカのズミクロンやズミルクスを装着すると、ちょうど良いバランスとなる。これにハンドグリップを装着すれば、軽快だが精悍でホールドのよいマシンになる。道具は見た目のバランスも大事だ。ボディーカラーはシルバーメタリックが追加された、これはこれでライカぽくっていいが、今回はX-Pro1との組み合わせで使う事を考え、黒にした。少しマット気味の黒で気に入っている。

 同時に発売された、Xシリーズ初のズームレンズは16−55mm(28-80mm相当)f.2.8-4のフジノンスーパーEBCコーティングASPHレンズだ。画角はかなり保守的な範囲に留めているが、けっして安価なセットレンズ仕様ではない。性能的にはかなり信頼に足るレンズだ。富士フィルムはXシリーズのレンズラインアップを高品位な単焦点レンズから始めただけに、どんなズームを出してくるのか楽しみだったが、これはその期待を裏切らない出来だ。特に歪曲収差がほとんど感じられなくて、解像度も抜群。単焦点レンズに匹敵すると思う。このレンズには手振れ補正機能が搭載されている。富士フィルムのレンズは昔からプロ仕様で妥協が無いが、このXシリーズにかける意欲が感じられる仕上がりだ。ズームリングの回転はまた適度なトルクがあって、嬉しくなってしまう。最近のミラーレスのプラスチッキーで、スカスカ、ゴリゴリの回転鏡胴にはガクッと来るが、こういう所の造りの良さは、道具にこだわる人間の撮影気分に大きな影響を与える。

 しかも,感動的なのは、X-Pro1のOVF光学ファインダーモードでも、ちゃんとブライトフレームがズームにより変わる事だ。しかも、AF 時のフォーカスポイントのパララックス補正が出来る。さらに合焦部分は色が変わり示してくれるので、光学ファインダーでAFを使用してもピンぼけが発生しない(これはX-Pro1ボディー側のファームウエアーをバージョンアップする必要があるが、簡単にできる。)。これはスゴイ!いやあ日本人って凄いな!ハイブリッドファインダーがお金のかかった技術者のギミックでない事を証明している。これじゃあ,さしものライカの光学レンジファインダーも、さすがに時代遅れと言わざるを得ないだろう。歴史的に見れば、ついにライカのレンジファインダーを追いこしたのだ。

 レンズは、なるほどフィルムメーカーのレンズで、解像度、よく補正された収差はもちろん、色再現、色乗りが素晴らしい。少なくとも私はホホズリしたくなるほど好きだ。特にお得意のフィルムシミュレーションモードでは、いつもVelviaを選ぶ。フィルム時代からの私のお気に入りのVelviaがデジタルカメラでも選択出来るだけで嬉しい。風景写真ではこれだ。今年の秋の紅葉写真も,鮮やかさが良く再現され、気分よく京都,奈良を駆け巡ることが出来た。

 富士フィルムのXシリーズは、コモディティー化しがちなデジタルカメラの領域に,ハイエンドのニコン一眼レフ等とはひと味違う付加価値の高い商品群を提示した,という点でも画期的だ。ライカMが年明けに市場にリリースされるが、既にこれを遥かに上回る機能と道具としての出来ばえを備えたハイエンドカメラシステムが世界市場にデビューした訳だ。これは日本のモノ作りのあるべき姿を示す象徴的な出来事であり、素晴らしい事だと思う。日本もドイツもこれからはクオリティー重視の高付加価値製品で競争し、世界を二分する国になって行くだろう。安いだけなら,製造コストの安い新興国が強いに決まっている。

 これからは汎用化された技術の商品で、価格勝負するゲームからは抜け出さねばならない。デジカメがスマホに押されて、特にコンデジの売れ行きが頭打ちになっている。これは、アセンブルさえできれば誰でも創れる、安価でローエンドの商品で勝負するのではなくて、高品質で、イノベーティブな技術、高いブランドイメージで勝負する、ハイエンド商材で戦うべきだ,という事を示している。Xシリーズのカメラについている「Made in Japan」の刻印がそれを物語っている。

Fujifilmxe1
 
  X-E1+Zoom Lens 16-55mm。正面から見るとファインダー窓が無いので,ライカMメディカルや、バルナックライカIGを彷彿とさせるルックスだ。シルバーメタリックもよいが、やはりマット調のブラックペイントを選択。

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 ライカマウントアダプターを使うと、新旧のライカレンズ資産が使える。純正アダプターを使えば、周辺光量、歪曲の補正設定が出来るほか、マニュアルフォーカスエイドも効果的に機能し、ある面でライカ本体よりも使い勝手がよい。銀鏡胴の沈銅ズミクロンにはシルバーボディーが似合うなあ。

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 (X-E1にライカマウントダプター経由でAPO SUMMICRON 75mmで撮影。ズミクロンを使って、EVFで露出補正結果を確認しながら撮影出来る喜び!)

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 (X-E1にライカマウントアダプター経由でAPO SUMMICRON 75mmで撮影。AFだと合焦しにくいこのような場面でも、MFで迷い無くピントを追うことが出来る。35ミリ換算で110mmとなる。)

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 (X-Pro1に新しいZoom 16-55mm装着で撮影。逆光でもフレアーが少なく、きれいなのはフジノンレンズとEBCコーティングのおかげ。フレーミングもEVFはもちろん、OVFでもブライトフレームが画角に応じて動く優れもの。)





2012年11月26日月曜日

古都の紅葉巡り第二弾  「そうだ奈良、行こう!」

 関西にいるとこの季節は忙しい。歴史に彩られた紅葉の名所があちこちにあるから、それを全部廻ろうとすると体がいくつあっても足りない。というか,無理。 しかし行きたい。ジレンマ。結局、人気スポットが集中する京都ばかり廻ることになってしまう。先日は荒天の合間の晴れ日を狙って高雄紅葉狩りを強行。意外にも混雑に巻き込まれる事も無く、青空に映える錦秋を満喫出来た。が、いつもこううまくゆくとは限らない。幸運だったと言うべきだ。人出を避ける事は難しい。

 人気の京都は、首都圏でのJR東海のキャンペーン広告「そうだ京都、行こう」ですっかりおなじみになって、我も我もと人が押し掛けてくる。とにかく東京から新幹線で2時間半で行ける京都はもはや首都圏の延長みたいなものだ。「いかにも」といった押し付けがましい「京都」に歓声を上げる、どこか出身地訛の「東京弁」。時に京都の観光地はフェイクとフェイクの交錯だ。これは本当の京都の姿ではない。

 それに比べると,奈良大和路は静かだ。首都圏からの観光客は意外に少ない。東京から直行できない事が幸いしているのだろう。日帰り出来ないし,泊まろうにも大きなホテルが無い。もちろん近鉄王国なので、大阪から日帰りする人は多い。難波、上本町から30分程で来れる。したがって有名な観光スポットは関西弁で満ち満ちている。古寺巡礼する人々は観光客というよりも、関西一円から、日常の信仰でお参りに来る善男善女だ。大和の歴史散策路や低山ハイキングコースは元気なオバちゃん、オッちゃんのパラダイス。外国からの観光客にとっても、京都は初心者コース。奈良は中級者コースだ。こんなに豊かな史跡と歴史的景観と美しい自然、里山、古代の物語りに満ちた土地なのに。

 このように奈良は日本を代表する古都であるにもかかわらず,意外に観光地としては京都ほどの賑わいが無いということになる。奈良から見れば、もっとアクセス、利便性、魅力をアピールして、出来れば滞在型のツアーを呼び込みたい所だろう。しかし、私のように、観光客でごった返す雑踏大嫌い人間にはパラダイスだ。紅葉の季節だってユックリと楽しめる。時空を超えた、あの日本草創の頃の空気に浸る気分的余裕が持てる。

 奈良の紅葉は素晴らしい。春日山を背景にした奈良公園の紅葉、黄葉の響宴は見事。休日は奈良県庁屋上が一般に開放されている。ここは意外に知られていない東西南北見渡せる絶景スポット。東大寺も春日大社も,若草山も、興福寺も、生駒山も,錦秋の奈良公園が360度見渡せる。奈良の雑踏ポイントは東大寺南大門から大仏殿への参道。ここを避ければあとは静かな秋を満喫出来る。入江泰吉が愛した大仏殿の裏から二月堂へ向う道を歩いて欲しい。知る人ぞ知る大仏池の紅葉、黄葉スポットも外せない。東大寺から春日大社へ向う神域を鹿と散策しよう。志賀直哉など、文人墨客が居を構えた高畑町を歩こう。

 何度も歩いた奈良。それでもまだ歩き尽くしていない奈良。家族から「また奈良に行くの?」と笑われる奈良。我ながら「また奈良か」と思う奈良。春夏秋冬いつでも奈良。
 今年もまたやって来た紅葉の美しい日本の晩秋。
 小さな声でつぶやく。「そうだ奈良、行こう!」



 奈良県庁屋上から展望する、錦をまとう東大寺大仏殿と二月堂。背景に春日の山々。




 奈良公園の紅葉は今が盛り。何気ない街角の紅葉の美しさも奈良の魅力。




 二月堂へ向う道。入江泰吉氏が愛し、多くの作品を残したこの辺りは紅葉の季節も美しい。




 若草山から春日大社へ向う途中の茶屋も錦に覆われる




 若い牝鹿達だろう。何を語らっているのか。静かな谷間に集う。


スライドショーはこちらから→

(撮影機材:SONY NEX-7, Zoom 18-200mm。プログラムモードでの撮影はなかなか鮮やかな発色だ。度々動画ボタンに親指がかかっているらしく、気付くと、揺れる自分の足と路面が長々と写っている。このボタン位置、何とかならないか?個人的には動画機能は不要なので、オフにすることが出来ると一番良いのだが。)

2012年11月20日火曜日

京都三尾(高雄山神護寺/槙尾山西明寺/栂尾山高山寺)に紅葉を愛でる

 

今年の夏は猛暑であった。そしてなかなか秋らしい爽やかな季節がやって来なかった。「こりゃあ今年の紅葉は遅いぞ」「あまりきれいに紅葉しないんじゃあ」と心配していたが、11月に入ると急に秋が深まり、朝夕の寒さが増した。そして、むしろ例年より一週間ほど早く錦秋がやってきた。それも見事な。これはこれは...

 それにしても秋雨前線通過に伴う一日おきの冷たい雨。天気が不安定だ。それにもめげず、その晴れ間をねらって、初めての京都高雄の三尾巡りを敢行。当たりだ! 雨続きだったせいか人出は比較的少なく、しかし紅葉は真っ盛り。貴重な晴れ間の青空に錦織なす紅葉が映える。また、この辺り独特の北山杉を背景にした紅葉風景も美しい。

 今日は、歴史のウンチクを語るのを止めて、紅葉写真をで楽しんでいただきたい。和気清麻呂さんも、最澄さんも、空海さんも、明恵さんも、この時期ばかりは、自らの波乱の人生を語るのではなく、ただ静かに高雄山の山懐に美しい日本の秋を愛でているのだから。ヤボはイケナイ。




(長い石段を登り終えると、神護寺金堂の紅葉が待っている。石段脇の紅葉は盛りの木と終わった木があったが、境内は紅葉真っ盛り。)








(辺りは「錦秋」という言葉がふさわしい高雄の秋。赤やオレンジや黄色の葉が青空に映えて美しさを際立たせている。)




(神護寺庭園。苔の緑に映える紅葉の落ち葉が美しい。散り紅葉はこれから。)





(清滝川に架かる西明寺門前の橋。川の湾曲が良い佇まいを醸し出している。)





(西明寺庭園の池にも秋が。静かな趣のある境内には大きな高野槙がある。)





(高山寺石水院の善財童子像。ここには有名な「鳥獣戯画」のレプリカが展示されている。ホンモノは国立博物館に展示されているとか。)


(撮影機材:Nikon D800E, AF Nikkor Zoom 24-120mm)


(三尾点景)












































2012年11月9日金曜日

葛城の道を往く ーワカタケル大王,在地神にひれ伏すー

 
葛城古道

日本古代史の中で、「王朝交代」説は戦後様々な学者によって唱えられてきた。戦前の「万世一系の天皇」説のアンチテーゼとして唱えられたものである。主な説は、3世紀に起こったと言われる三輪山の麓の三輪王朝(崇神王朝)から、河内王朝(応神/仁徳王朝)、6世紀になって越の国からヤマトに入ったという継体王朝へと変遷したというもの。しかし、この他にも、三輪王朝以前に奈良盆地の西の葛城山麓に有力な勢力がいて、葛城王朝を形成していたという説が唱えられている。

この説では、古事記、日本書紀に記述されているが、その実在性が薄いと言われている初代神武天皇から9代開化天皇までの(10代崇神天皇より前の)、いわゆる「欠史八代」(在任中の事蹟の記述が無い)の天皇は、実はここ葛城を拠点に実在した可能性がある、とする。現在の奈良県御所市、葛城山から金剛山の麓に南北の連なる葛城地方は、古代豪族、葛城氏の拠点として知られる。さらに時を遡れば、鴨氏(京都の上賀茂/下賀茂神社や鴨長明の祖先)の故地として知られる地だ。

ここには鴨一族縁の高鴨神社や高天彦神社があり、神話の世界を彷彿とさせる高天原の地名も残る。チクシの日向の高千穂と並ぶ、もう一つの天孫降臨伝承地となっている。また「欠史八代」の天皇の一人、神武天皇の三男で二代天皇に即位したと言われる綏靖天皇の高丘宮跡伝承地もあり、石碑が建っている。ちなみに「葛城王朝」説によると,神武天皇が王朝の始祖であるとする。

なるほど、東の三輪山を神聖視する崇神王朝が、西の葛城山を神聖視する葛城王朝に対峙する、とする奈良盆地内の勢力変遷の考え方は、地政学的には面白い。奈良盆地には物部氏、巨勢氏、平群氏、蘇我氏、大伴氏などの有力豪族がそれぞれ山の麓(ヤマト)に本拠地を構えて対抗していた。後に蘇我氏が廃仏派の物部氏を滅ぼし、飛鳥にヤマト王権を支え、そして巳支の変(いわゆる「大化の改新」)で滅ぼされ、新興の中堅氏族である中臣氏(後の藤原氏)が取って代わりヤマト政権中枢に入り、奈良時代、平安時代を通じ権勢を振るう。このように日本古代史には、大王(天皇)の「権威」を、姻戚関係を持った(持てた)有力豪族の「権力」が支える構造が見える。

「葛城王朝」説によれば、初代神武大王(ハツクニシラススメラミコト)以降の「欠史八代」の歴代天皇は、葛城山の麓にいた古い土着の鴨一族と姻戚関係をもって伸長し、奈良盆地に(すなわち倭国国中)に勢力を拡大したとする。そして、やがて3世紀には三輪山の麓を本拠地とするもう一人のハツクニシラススメラミコト崇神大王(第十代天皇)の三輪王朝に取って代わられた、と。

5世紀に入ると、鴨氏に繋がる葛城氏が、河内に勢力を有する応神/仁徳大王(同一人物という説もある)の一族と姻戚関係に入り、ヤマト王権を支える有力豪族にのし上がったと言われている。そして5世紀の中国の史書に言う雄略大王(ワカタケル)などの「倭の五王」の時代へ。やがて、武烈大王で河内王朝の血統が途絶えたのか、応神大王の遠い血族である、と言われる継体大王が、6世紀初頭に遠く越の国からヤマトに入り継体王朝が始まるわけである。

「欠史八代」の大王(天皇)の実在性を説明する「葛城王朝」説は、学説では主流となっておらず、いまだ多くの謎に包まれている。しかし、この葛城山、金剛山の麓を歩き、背後に甘南備た山々を背負い、東に奈良盆地、大和三山を展望すると、なるほどここも「国のまほろば」。有力な勢力がヤマト世界を睥睨しながら、時代の権勢を誇ったとしてもおかしくはない佇まいを持っているではないか。三輪山の麓から見渡す、あのヤマト国中に相対峙する,もう一つの世界がここに広がっている。

それにしても古代の豪族達は平地を見渡せる山の麓(山処:やまと)が好きだったんだなあと、あらためて思いを巡らす。そういえば、この奈良盆地の平地にいた有力豪族というものを聞かない(下記の参考図を見ていただきたい)。平地にいて川のほとりに環濠集落を構えていたのは水耕稲作にいそしんだ弥生人の農民だけであったのだろうか。権力者一族は高見にいて生産とそれにより生ずる富を支配したのだろう。そういえば「三輪王朝」の拠点であった纏向の神殿遺跡も、微高地に位置しており、全く庶民の生活臭のない人工的な街区にあった。一方、農耕環濠集落遺跡である唐古鍵遺跡は、纏向から遠く離れた田原本の平地に広がっている。

もう一つここ葛城の地に伝わる面白い伝承がある。一言主の存在だ。今は樹齢1600年と言われる巨大な大銀杏がシンボルとなっている一言主神社。ここに大神は祀られている。古事記と日本書紀でやや記述に差異があるが、古事記では、雄略大王が供を従えて葛城山に狩りに出かけ、この地を通りかかった時に、大王と同じ立派な身なりをした人物に出くわす。雄略は怪しんで「我は倭国の大王だ。お前は誰だ?」と聞いた。「我は一言主の神である。お前こそ誰だ?」と。雄略大王は恐れ入って、武器と供の衣服を差し出しひれ伏した、と。

8世紀初に天皇支配の正統性を示すために編纂された、古事記や日本書紀に、雄略天皇(大王)が恐れいりひれ伏した神が葛城にいたということが記述されているわけだが、この出会いは何を意味するのだろう? いまだヤマト王権に服さない在地勢力がこの奈良盆地にいたという事なのだろうか? 雄略大王といえば、記紀にいうヤマトタケルの倭国平定伝説や、中国宋書にいう倭王武の上奏文「ソデイ甲冑を貫き、山河を跋渉して寧所にいとまあらず」、埼玉稲荷山古墳や熊本の江田船山古墳で出土した鉄剣に彫り込まれた「ワカタケル大王」の文字など、この時代の英雄伝の主人公であるといわれる。その雄略大王すらもおそれひれ伏した神とは?

この一言主は地元の鴨氏の神であると言われている。当時の鴨氏や、後にその縁に連なる葛城氏は、先述のように、ヤマト王権に対する大きな影響力を有していたのだろう。応神/仁徳大王の河内王朝の歴代大王も葛城氏から后を娶り、その勢力を基盤にヤマト王権を維持してきたという。この雄略大王の一言主との出会いは、その有力な在地勢力との関係を示すエピソードなのかもしれない。




(アクセス:近鉄御所駅から,バスで櫛羅ないしは猿目橋下車で南へ歩く。あるいは風の森まで乗車して戻る方法も。バスの本数は少ないので事前に確認しておくこと。全コース徒歩で約10キロ強)




(参考:奈良盆地の豪族の分布図。このように奈良盆地を取り巻くように山裾に集中している。盆地中央に本拠地を持つ豪族が居ないのは何故だろう。)