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2012年12月17日月曜日

40年の時空の隔たりは今...

 今日は、中学時代仲良くしていた悪友と40年ぶりに再会することが出来た。

長く音信が途絶えていたが、ひょんな事からネットでお互い大阪に住んでいる事がわかり訪ねて来てくれた。インターネットの効用を感じる団塊世代の私である。そう、団塊世代も後期に属する我々はネットを使うんだ。

お互い髪が薄くなったり、白くなったり、外目の形状は多少変わったものの、基本的には昔と全く変わらない友がそこに居た。40年の時空の隔たりが一挙に消滅し、中学時代にワープ。「どげんしよったとね?」

その後、彼が法学部を卒業して、兵庫県庁に勤務していたコトは知っていたが,私の方が、東京/ロンドン/ニューヨークを転勤し回っていたため、すっかり音信不通に。彼は最近めでたく定年退官し、役所の就職斡旋を断って行政書士として独立し,新たな人生を歩み始めたと言う。私の方も、長い海外転勤生活を終えて、第二のサラリーマン人生を大阪で送っている。お互いそんな年になった。なんせ40年だもんなあ。

語り尽くせない懐かしい中学時代の話や、旧友の消息、その後の人生について、時間が過ぎるのを忘れるほど話し込んでしまった。そして彼は、ぽつっとあの18年前の阪神大震災で、家族を亡くしたと語った。父上と奥さんを亡くされた。彼自身も被災したのだが、県庁職員として震災の救援、復興に身を投じた過酷な日々だったそうだ。もちろん初めて聞いた。ショックだった。

40年と一言で言っても,この40年はお互いに人生の最も忙しいピークの時間帯。目先の懸案事項で日々を過ごす事で精一杯だったあの頃、友の事を思いやる心の余裕も無かったあの時代のあの瞬間に、彼がそんな過酷な体験をしていた訳だ。そんな事も知らず、一見、昔のまま変わらない友との再開を無邪気に喜んだ自分を恥じ入った。40年という時間の経過は、やはり人の一生に大きな山坂を与えるのに充分な長さなのだ。

阪神大震災の時は、イギリスにいた。ロンドンのアパートで、夕食後いつものお気に入りのClassic FMを聞きながら,ベッドの上でくつろいでいた。突然の音楽の中断。「日本で地震があった」と簡単な臨時ニュース。「日本は地震が多いさ」と、あまり気にも留めず、聞き流していたが、「待てよ、ロンドンのラジオで日本の地震の臨時ニュース?」。すぐにテレビをつけるとBBCは、炎上する神戸の町、ひっくり返った阪神高速道路や、脱線転覆した電車の空撮映像(NHKのロゴ入)を延々と流していた。

テレビの向うの日本で起こっている未曾有の災難に戦慄した。しかしその瞬間に、その渦中で、我が友は大丈夫なのか、呻吟苦悩しているのではないか、と思いをいたすに至らなかった自分を今頃になって責めている。彼が神戸にいるであろう事は知っていたのだが、不思議にそのことと、この震災とが結びつかなかった。なんと自己中心的で、勝手な理解なんだ。

その後日本へ帰り、彼の消息が気になり、当時の新聞の被災者のリストを入手して恐る恐る探したが、名前は無かった。よかった。無事なんだ。もちろんその時は、彼の家族に不幸が襲っていた事を知る由もなかった。ちょうどインターネットが普及し始めた時期でもあり、彼の名前と兵庫県のキーワードで検索し、消息の手がかりを探し求めた。曖昧ながらもいくつかのそれらしい情報に行き当たったが、いずれも人違い、ないしは連絡取れず。当時はまだまだネットに公的機関の情報が公開される事も少ない時代だった。そうこうしているうちにその後の雑事にまぎれて、ウヤムヤになっていた。

皮肉な事に、彼が退職して独立し、事務所を構え、ホームページを公開した事で、消息が掴めたという訳だ。インターネットは40年の時空を超えて旧友を見つけ出してくれた。しかし、その結果、その友が体験した深い悲しみを知る事にもなった。ただ救いは、彼の残された家族である娘さんが、震災の苦難を乗り越えて、いまは立派に大学で研究者の道を歩んでいる話を聞いた事だった。40年という時間の重みを感じた。

2012年12月2日日曜日

Fujifilm X-E1デビュー ーコモディティー商材よさらばー

 待望のFujifilm X-E1が発売となり、予約一番でゲットすることが出来た。これは、前評判通りなかなかいいカメラだ。X-Pro1が画期的な製品であるだけに、その弟分で、より入手しやすい中級カメラ、という位置付けなのだが、むしろX-Pro1をブラッシュアップした優秀なハイエンド機種だと思う。最近のカメラはソフトウエアーで新たな機能の追加、高度化が出来る。X-Pro1で改良した部分は全てこのX-E1に反映されているし、ハードウェア部分も良く手が入れられていてより使いやすい道具に進化している。

 X-Pro1との大きな違いは、富士フィルム独自の光学/電子ハイブリッドファインダー(OVF+EVF)を省略し、代わりに、EVFに特化した点くらいだ。しかし、この有機EL電子ファインダーのクリアーな見えはX-Pro1のそれよりも格段に進化している。とうとう電子式ファインダーも実用的な品質に到達したなあ,と感じさせる。また視度補正が可能となった事も嬉しい。あとは、1/2、1秒の低速シャッタースピードが省略されているが、AFの合焦スピードがアップした。そういえば,内蔵ストロボがついている。基本、アベイラブルライト撮影の私には不要なものだが。この辺が中級機らしい。

 しかし、ハイブリッドファインダーを廃した分だけボディーサイズが一回り小さくなり、X100と同じくらいのサイズになった。これは私的には大歓迎だ。X-Pro1を見た時の第一印象は「デカイ!」であったから、X-E1でちょうど手になじむ最適サイズになったわけだ。マウントアダプターでライカのズミクロンやズミルクスを装着すると、ちょうど良いバランスとなる。これにハンドグリップを装着すれば、軽快だが精悍でホールドのよいマシンになる。道具は見た目のバランスも大事だ。ボディーカラーはシルバーメタリックが追加された、これはこれでライカぽくっていいが、今回はX-Pro1との組み合わせで使う事を考え、黒にした。少しマット気味の黒で気に入っている。

 同時に発売された、Xシリーズ初のズームレンズは16−55mm(28-80mm相当)f.2.8-4のフジノンスーパーEBCコーティングASPHレンズだ。画角はかなり保守的な範囲に留めているが、けっして安価なセットレンズ仕様ではない。性能的にはかなり信頼に足るレンズだ。富士フィルムはXシリーズのレンズラインアップを高品位な単焦点レンズから始めただけに、どんなズームを出してくるのか楽しみだったが、これはその期待を裏切らない出来だ。特に歪曲収差がほとんど感じられなくて、解像度も抜群。単焦点レンズに匹敵すると思う。このレンズには手振れ補正機能が搭載されている。富士フィルムのレンズは昔からプロ仕様で妥協が無いが、このXシリーズにかける意欲が感じられる仕上がりだ。ズームリングの回転はまた適度なトルクがあって、嬉しくなってしまう。最近のミラーレスのプラスチッキーで、スカスカ、ゴリゴリの回転鏡胴にはガクッと来るが、こういう所の造りの良さは、道具にこだわる人間の撮影気分に大きな影響を与える。

 しかも,感動的なのは、X-Pro1のOVF光学ファインダーモードでも、ちゃんとブライトフレームがズームにより変わる事だ。しかも、AF 時のフォーカスポイントのパララックス補正が出来る。さらに合焦部分は色が変わり示してくれるので、光学ファインダーでAFを使用してもピンぼけが発生しない(これはX-Pro1ボディー側のファームウエアーをバージョンアップする必要があるが、簡単にできる。)。これはスゴイ!いやあ日本人って凄いな!ハイブリッドファインダーがお金のかかった技術者のギミックでない事を証明している。これじゃあ,さしものライカの光学レンジファインダーも、さすがに時代遅れと言わざるを得ないだろう。歴史的に見れば、ついにライカのレンジファインダーを追いこしたのだ。

 レンズは、なるほどフィルムメーカーのレンズで、解像度、よく補正された収差はもちろん、色再現、色乗りが素晴らしい。少なくとも私はホホズリしたくなるほど好きだ。特にお得意のフィルムシミュレーションモードでは、いつもVelviaを選ぶ。フィルム時代からの私のお気に入りのVelviaがデジタルカメラでも選択出来るだけで嬉しい。風景写真ではこれだ。今年の秋の紅葉写真も,鮮やかさが良く再現され、気分よく京都,奈良を駆け巡ることが出来た。

 富士フィルムのXシリーズは、コモディティー化しがちなデジタルカメラの領域に,ハイエンドのニコン一眼レフ等とはひと味違う付加価値の高い商品群を提示した,という点でも画期的だ。ライカMが年明けに市場にリリースされるが、既にこれを遥かに上回る機能と道具としての出来ばえを備えたハイエンドカメラシステムが世界市場にデビューした訳だ。これは日本のモノ作りのあるべき姿を示す象徴的な出来事であり、素晴らしい事だと思う。日本もドイツもこれからはクオリティー重視の高付加価値製品で競争し、世界を二分する国になって行くだろう。安いだけなら,製造コストの安い新興国が強いに決まっている。

 これからは汎用化された技術の商品で、価格勝負するゲームからは抜け出さねばならない。デジカメがスマホに押されて、特にコンデジの売れ行きが頭打ちになっている。これは、アセンブルさえできれば誰でも創れる、安価でローエンドの商品で勝負するのではなくて、高品質で、イノベーティブな技術、高いブランドイメージで勝負する、ハイエンド商材で戦うべきだ,という事を示している。Xシリーズのカメラについている「Made in Japan」の刻印がそれを物語っている。

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  X-E1+Zoom Lens 16-55mm。正面から見るとファインダー窓が無いので,ライカMメディカルや、バルナックライカIGを彷彿とさせるルックスだ。シルバーメタリックもよいが、やはりマット調のブラックペイントを選択。

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 ライカマウントアダプターを使うと、新旧のライカレンズ資産が使える。純正アダプターを使えば、周辺光量、歪曲の補正設定が出来るほか、マニュアルフォーカスエイドも効果的に機能し、ある面でライカ本体よりも使い勝手がよい。銀鏡胴の沈銅ズミクロンにはシルバーボディーが似合うなあ。

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 (X-E1にライカマウントダプター経由でAPO SUMMICRON 75mmで撮影。ズミクロンを使って、EVFで露出補正結果を確認しながら撮影出来る喜び!)

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 (X-E1にライカマウントアダプター経由でAPO SUMMICRON 75mmで撮影。AFだと合焦しにくいこのような場面でも、MFで迷い無くピントを追うことが出来る。35ミリ換算で110mmとなる。)

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 (X-Pro1に新しいZoom 16-55mm装着で撮影。逆光でもフレアーが少なく、きれいなのはフジノンレンズとEBCコーティングのおかげ。フレーミングもEVFはもちろん、OVFでもブライトフレームが画角に応じて動く優れもの。)





2012年11月26日月曜日

古都の紅葉巡り第二弾  「そうだ奈良、行こう!」

 関西にいるとこの季節は忙しい。歴史に彩られた紅葉の名所があちこちにあるから、それを全部廻ろうとすると体がいくつあっても足りない。というか,無理。 しかし行きたい。ジレンマ。結局、人気スポットが集中する京都ばかり廻ることになってしまう。先日は荒天の合間の晴れ日を狙って高雄紅葉狩りを強行。意外にも混雑に巻き込まれる事も無く、青空に映える錦秋を満喫出来た。が、いつもこううまくゆくとは限らない。幸運だったと言うべきだ。人出を避ける事は難しい。

 人気の京都は、首都圏でのJR東海のキャンペーン広告「そうだ京都、行こう」ですっかりおなじみになって、我も我もと人が押し掛けてくる。とにかく東京から新幹線で2時間半で行ける京都はもはや首都圏の延長みたいなものだ。「いかにも」といった押し付けがましい「京都」に歓声を上げる、どこか出身地訛の「東京弁」。時に京都の観光地はフェイクとフェイクの交錯だ。これは本当の京都の姿ではない。

 それに比べると,奈良大和路は静かだ。首都圏からの観光客は意外に少ない。東京から直行できない事が幸いしているのだろう。日帰り出来ないし,泊まろうにも大きなホテルが無い。もちろん近鉄王国なので、大阪から日帰りする人は多い。難波、上本町から30分程で来れる。したがって有名な観光スポットは関西弁で満ち満ちている。古寺巡礼する人々は観光客というよりも、関西一円から、日常の信仰でお参りに来る善男善女だ。大和の歴史散策路や低山ハイキングコースは元気なオバちゃん、オッちゃんのパラダイス。外国からの観光客にとっても、京都は初心者コース。奈良は中級者コースだ。こんなに豊かな史跡と歴史的景観と美しい自然、里山、古代の物語りに満ちた土地なのに。

 このように奈良は日本を代表する古都であるにもかかわらず,意外に観光地としては京都ほどの賑わいが無いということになる。奈良から見れば、もっとアクセス、利便性、魅力をアピールして、出来れば滞在型のツアーを呼び込みたい所だろう。しかし、私のように、観光客でごった返す雑踏大嫌い人間にはパラダイスだ。紅葉の季節だってユックリと楽しめる。時空を超えた、あの日本草創の頃の空気に浸る気分的余裕が持てる。

 奈良の紅葉は素晴らしい。春日山を背景にした奈良公園の紅葉、黄葉の響宴は見事。休日は奈良県庁屋上が一般に開放されている。ここは意外に知られていない東西南北見渡せる絶景スポット。東大寺も春日大社も,若草山も、興福寺も、生駒山も,錦秋の奈良公園が360度見渡せる。奈良の雑踏ポイントは東大寺南大門から大仏殿への参道。ここを避ければあとは静かな秋を満喫出来る。入江泰吉が愛した大仏殿の裏から二月堂へ向う道を歩いて欲しい。知る人ぞ知る大仏池の紅葉、黄葉スポットも外せない。東大寺から春日大社へ向う神域を鹿と散策しよう。志賀直哉など、文人墨客が居を構えた高畑町を歩こう。

 何度も歩いた奈良。それでもまだ歩き尽くしていない奈良。家族から「また奈良に行くの?」と笑われる奈良。我ながら「また奈良か」と思う奈良。春夏秋冬いつでも奈良。
 今年もまたやって来た紅葉の美しい日本の晩秋。
 小さな声でつぶやく。「そうだ奈良、行こう!」



 奈良県庁屋上から展望する、錦をまとう東大寺大仏殿と二月堂。背景に春日の山々。




 奈良公園の紅葉は今が盛り。何気ない街角の紅葉の美しさも奈良の魅力。




 二月堂へ向う道。入江泰吉氏が愛し、多くの作品を残したこの辺りは紅葉の季節も美しい。




 若草山から春日大社へ向う途中の茶屋も錦に覆われる




 若い牝鹿達だろう。何を語らっているのか。静かな谷間に集う。


スライドショーはこちらから→

(撮影機材:SONY NEX-7, Zoom 18-200mm。プログラムモードでの撮影はなかなか鮮やかな発色だ。度々動画ボタンに親指がかかっているらしく、気付くと、揺れる自分の足と路面が長々と写っている。このボタン位置、何とかならないか?個人的には動画機能は不要なので、オフにすることが出来ると一番良いのだが。)

2012年11月20日火曜日

京都三尾(高雄山神護寺/槙尾山西明寺/栂尾山高山寺)に紅葉を愛でる

 今年の夏は猛暑であった。そしてなかなか秋らしい爽やかな季節がやって来なかった。「こりゃあ今年の紅葉は遅いぞ」「あまりきれいに紅葉しないんじゃあ」と心配していたが、11月に入ると急に秋が深まり、朝夕の寒さが増した。そして、むしろ例年より一週間ほど早く錦秋がやってきた。それも見事な。これはこれは...

 それにしても秋雨前線通過に伴う一日おきの冷たい雨。天気が不安定だ。それにもめげず、その晴れ間をねらって、初めての京都高雄の三尾巡りを敢行。当たりだ! 雨続きだったせいか人出は比較的少なく、しかし紅葉は真っ盛り。貴重な晴れ間の青空に錦織なす紅葉が映える。また、この辺り独特の北山杉を背景にした紅葉風景も美しい。

 今日は、歴史のウンチクを語るのを止めて、紅葉写真をで楽しんでいただきたい。和気清麻呂さんも、最澄さんも、空海さんも、明恵さんも、この時期ばかりは、自らの波乱の人生を語るのではなく、ただ静かに高雄山の山懐に美しい日本の秋を愛でているのだから。ヤボはイケナイ。



(長い石段を登り終えると、神護寺金堂の紅葉が待っている。石段脇の紅葉は盛りの木と終わった木があったが、境内は紅葉真っ盛り。)



(辺りは「錦秋」という言葉がふさわしい高雄の秋。赤やオレンジや黄色の葉が青空に映えて美しさを際立たせている。)



(神護寺庭園。苔の緑に映える紅葉の落ち葉が美しい。散り紅葉はこれから。)



(清滝川に架かる西明寺門前の橋。川の湾曲が良い佇まいを醸し出している。)




(西明寺庭園の池にも秋が。静かな趣のある境内には大きな高野槙がある。)



(高山寺石水院の善財童子像。ここには有名な「鳥獣戯画」のレプリカが展示されている。ホンモノは国立博物館に展示されているとか。)

スライドショーはこちらから(帰りに寄ってみた南禅寺の紅葉もあります。こちらははほぼ見ごろだが、三門むこうの定番スポットの紅葉はまだ紅くなかった。)→



(撮影機材:Nikon D800E, AF Nikkor Zoom 24-120mm)

2012年11月9日金曜日

葛城の道を往く ーワカタケル大王,在地神にひれ伏すー

 日本古代史の中で、「王朝交代」説は戦後様々な学者によって唱えられてきた。戦前の「万世一系の天皇」説のアンチテーゼとして唱えられたものである。主な説は、3世紀に起こったと言われる三輪山の麓の三輪王朝(崇神王朝)から、河内王朝(応神/仁徳王朝)、6世紀になって越の国からヤマトに入ったという継体王朝へと変遷したというもの。しかし、この他にも、三輪王朝以前に奈良盆地の西の葛城山麓に有力な勢力がいて、葛城王朝を形成していたという説が唱えられている。

 この説では、古事記、日本書紀に記述されているが、その実在性が薄いと言われている初代神武天皇から9代開化天皇までの(10代崇神天皇より前の)、いわゆる「欠史八代」(在任中の事蹟の記述が無い)の天皇は、実はここ葛城を拠点に実在した可能性がある、とする。現在の奈良県御所市、葛城山から金剛山の麓に南北の連なる葛城地方は、古代豪族、葛城氏の拠点として知られる。さらに時を遡れば、鴨氏(京都の上賀茂/下賀茂神社や鴨長明の祖先)の故地として知られる地だ。

 ここには鴨一族縁の高鴨神社や高天彦神社があり、神話の世界を彷彿とさせる高天原の地名も残る。チクシの日向の高千穂と並ぶ、もう一つの天孫降臨伝承地となっている。また「欠史八代」の天皇の一人、神武天皇の三男で二代天皇に即位したと言われる綏靖天皇の高丘宮跡伝承地もあり、石碑が建っている。ちなみに「葛城王朝」説によると,神武天皇が王朝の始祖であるとする。

 なるほど、東の三輪山を神聖視する崇神王朝が、西の葛城山を神聖視する葛城王朝に対峙する、とする奈良盆地内の勢力変遷の考え方は、地政学的には面白い。奈良盆地には物部氏、巨勢氏、平群氏、蘇我氏、大伴氏などの有力豪族がそれぞれ山の麓(ヤマト)に本拠地を構えて対抗していた。後に蘇我氏が廃仏派の物部氏を滅ぼし、飛鳥にヤマト王権を支え、そして巳支の変(いわゆる「大化の改新」)で滅ぼされ、新興の中堅氏族である中臣氏(後の藤原氏)が取って代わりヤマト政権中枢に入り、奈良時代、平安時代を通じ権勢を振るう。このように日本古代史には、大王(天皇)の「権威」を、姻戚関係を持った(持てた)有力豪族の「権力」が支える構造が見える。

 「葛城王朝」説によれば、初代神武大王(ハツクニシラススメラミコト)以降の「欠史八代」の歴代天皇は、葛城山の麓にいた古い土着の鴨一族と姻戚関係をもって伸長し、奈良盆地に(すなわち倭国国中)に勢力を拡大したとする。そして、やがて3世紀には三輪山の麓を本拠地とするもう一人のハツクニシラススメラミコト崇神大王(第十代天皇)の三輪王朝に取って代わられた、と。

 5世紀に入ると、鴨氏に繋がる葛城氏が、河内に勢力を有する応神/仁徳大王(同一人物という説もある)の一族と姻戚関係に入り、ヤマト王権を支える有力豪族にのし上がったと言われている。そして5世紀の中国の史書に言う雄略大王(ワカタケル)などの「倭の五王」の時代へ。やがて、武烈大王で河内王朝の血統が途絶えたのか、応神大王の遠い血族である、と言われる継体大王が、6世紀初頭に遠く越の国からヤマトに入り継体王朝が始まるわけである。

 「欠史八代」の大王(天皇)の実在性を説明する「葛城王朝」説は、学説では主流となっておらず、いまだ多くの謎に包まれている。しかし、この葛城山、金剛山の麓を歩き、背後に甘南備た山々を背負い、東に奈良盆地、大和三山を展望すると、なるほどここも「国のまほろば」。有力な勢力がヤマト世界を睥睨しながら、時代の権勢を誇ったとしてもおかしくはない佇まいを持っているではないか。三輪山の麓から見渡す、あのヤマト国中に相対峙する,もう一つの世界がここに広がっている。

 それにしても古代の豪族達は平地を見渡せる山の麓(山処:やまと)が好きだったんだなあと、あらためて思いを巡らす。そういえば、この奈良盆地の平地にいた有力豪族というものを聞かない(下記の参考図を見ていただきたい)。平地にいて川のほとりに環濠集落を構えていたのは水耕稲作にいそしんだ弥生人の農民だけであったのだろうか。権力者一族は高見にいて生産とそれにより生ずる富を支配したのだろう。そういえば「三輪王朝」の拠点であった纏向の神殿遺跡も、微高地に位置しており、全く庶民の生活臭のない人工的な街区にあった。一方、農耕環濠集落遺跡である唐古鍵遺跡は、纏向から遠く離れた田原本の平地に広がっている。

 もう一つここ葛城の地に伝わる面白い伝承がある。一言主の存在だ。今は樹齢1600年と言われる巨大な大銀杏がシンボルとなっている一言主神社。ここに大神は祀られている。古事記と日本書紀でやや記述に差異があるが、古事記では、雄略大王が供を従えて葛城山に狩りに出かけ、この地を通りかかった時に、大王と同じ立派な身なりをした人物に出くわす。雄略は怪しんで「我は倭国の大王だ。お前は誰だ?」と聞いた。「我は一言主の神である。お前こそ誰だ?」と。雄略大王は恐れ入って、武器と供の衣服を差し出しひれ伏した、と。

 8世紀初に天皇支配の正統性を示すために編纂された、古事記や日本書紀に、雄略天皇(大王)が恐れいりひれ伏した神が葛城にいたということが記述されているわけだが、この出会いは何を意味するのだろう? いまだヤマト王権に服さない在地勢力がこの奈良盆地にいたという事なのだろうか? 雄略大王といえば、記紀にいうヤマトタケルの倭国平定伝説や、中国宋書にいう倭王武の上奏文「ソデイ甲冑を貫き、山河を跋渉して寧所にいとまあらず」、埼玉稲荷山古墳や熊本の江田船山古墳で出土した鉄剣に彫り込まれた「ワカタケル大王」の文字など、この時代の英雄伝の主人公であるといわれる。その雄略大王すらもおそれひれ伏した神とは?

 この一言主は地元の鴨氏の神であると言われている。当時の鴨氏や、後にその縁に連なる葛城氏は、先述のように、ヤマト王権に対する大きな影響力を有していたのだろう。応神/仁徳大王の河内王朝の歴代大王も葛城氏から后を娶り、その勢力を基盤にヤマト王権を維持してきたという。この雄略大王の一言主との出会いは、その有力な在地勢力との関係を示すエピソードなのかもしれない。




(アクセス:近鉄御所駅から,バスで櫛羅ないしは猿目橋下車で南へ歩く。あるいは風の森まで乗車して戻る方法も。バスの本数は少ないので事前に確認しておくこと。全コース徒歩で約10キロ強)




(参考:奈良盆地の豪族の分布図。このように奈良盆地を取り巻くように山裾に集中している。盆地中央に本拠地を持つ豪族が居ないのは何故だろう。)



(撮影機材:Nikon D800E, AF Nikkor 24-120mm, 80-400mm)

2012年10月26日金曜日

Leica Mという画期 〜MはやはりMなのか?〜

 今年10月のケルンでのフォトキナで、遂にライカM9の後継機種が発表された。M9の後継だから、「M10」だろうという大方の予想に反して、製品名は「Leica M」。これからはいちいちMの後に番号入れないで、「Leica M」に統一するのだそうだ(ちなみにType240という製品番号が付与される)。銀塩カメラMシリーズが初代のM3からM7で終わるまで50年かかっているのに対し、デジタル製品の商品ライフサイクルがどんどん短くなってきているので、これからの新製品リリースサイクルは(さすがのドイツメーカーであったも)短くなることを想定しているのか?
このLeica Mは2013年の初旬にいよいよ市場にリリースされるとの事だ。




(ボディーはシルバーとブラックペイントの二種。サイズはM8やM9と変わらない。液晶モニターが3.0型で大きくなり,ボディー背面の限られたスペースにかなり無理にはめ込んだ感がする。)
(写真はライカ社のホームページから引用)

さて、このLeica Mの特徴であるが、ライカ社のホームページから引用すると、

- 新開発の撮像素子による優れた描写力
- 新たにライブビュー機能およびライブビューフォーカス機能を搭載
- ライブビューでのピント合わせをサポートする「ライブビューズーム」機能と「ライブビューフォーカスピーキング」機能を搭載 
- 「ライカ RアダプターM」(別売)を装着することにより、ほぼすべてのRレンズをライカMで使用可能
- フルハイビジョン(1080p)動画撮影機能を新たに搭載
- 最高ISO感度が6400へ向上
- 高精細な92万ドットの3.0型液晶モニター、カバーガラスにはコーニング社のゴリラガラスを採用
- 高性能な画像処理エンジン「LEICA MAESTRO®」
- ほこりや水滴や湿気からボディを護するために、施された特殊なラバーシール
- 長時間撮影可能なバッテリー
- 評価測光、スポット測光
- より快適な操作性

すなわち、これまでのフルサイズCCDセンサーからより高精細な2400万画素フルサイズCMOSセンサーに変更し、画像処理エンジンをSシリーズにも実績を有する「LEICA MAESTRO」に。撮影素子の供給はこれまでのKodak社から,CMOSIS社に変更になった。ローパスフィルターレスは継承されている。ライカらしい画造りが期待される。

そして、一番の売りは、ついにライブビュー機能と、ライブビューによるフォーカス機能(これをアシストする拡大、フォーカスピーキング機能つき)を導入したことだ。さらにフルハイビジョンの動画撮影機能も追加した。これに伴い、これまでのM8やM9についているオマケのような見劣りのする液晶モニターを、高精細かつ大型の液晶モニターに変更した。また、オプションとしてアクセサリーシューに外付けの電子ビューファインダー(EVF)を装着可、とした。これらの機能追加とボディーレイアウト変更に伴い,操作系にも変更が見られる。

ライカ社も時代の流れには逆らえないのか,というのが正直な感想である。ただ、これは要するに(皮肉な言い方で恐縮だが)これまでのM8、M9のような、銀塩フィルムの代わりにCCDセンサーを撮像素子として詰め込んだ、極めてプリミティヴな「レンジファインダー式デジタルカメラ」から、やっと、ほとんどの日本メーカ製の「今のデジタルカメラ」並になった、ということだろう。カメラのデジタル化の進歩としては極めてスピードが遅いというか、保守的な印象だ。もちろんニコンやキャノンなどのデジタルハイエンドカメラとライカを単純に比べるのはセンスに欠けるとは思うが、しかし、ここまでライカも「デジタルカメラ度」が進むと、だんだん比較せざるをえなくなる。

CMOSセンサーは、今や日本製のハイエンドデジカメはほとんどが既に導入済み。画像処理エンジンもソースは日本の某リーディングカンパニーのものらしい。ニコン、キャノンのハイエンド一眼レフデジタルですら、ライブビューは定番機能となっている。まして,液晶モニターはようやく普及機並のサイズと精細度になった(これまでがショボ過ぎた)。外付けのEVFに至っては、Leica X2用のものを流用するという。しかも,オリンパス製らしい。どうも,削り出し真鍮をまとった金属Mボディーにプラスチック製の外付けファインダー付けて、「Electronic Vissoflex」などと称しているのは笑ってしまう気もする。今ならなぜFujifilmのXシリーズのようなEVF/OVFのハイブリッドファインダーを搭載しなかったのか?

さはさりながら、ここまでデジタルカメラ化が進むと、誰もが思うのが「これはLeica Mといいながら、もはやLeica Mじゃないじゃないか?」ということ。ライカ社の自慢の光学式レンジファインダー。その故にM(ドイツ語のレンジファインダーを意味する)を冠した光学レンジフィンダーカメラLeica M。ニコンやキャノンが、ついに追いつけず、諦めて一眼レフに方向転換したあのレンジファインダーカメラの頂点。しかし,今こうなったデジタル「Leica M」に、わざわざ光学レンジファインダー付けておく必要があるのか? フォトキナでのジャーナリストの質問に、「無くして欲しい,という声は無い」と開発者は答えたという。

何とも「Mの存在理由である20世紀前半の最先端技術にこだわり、その上に21世紀前半の先端技術を接ぎ木した、あるいは前世紀の技術革新のクラウンジュエルを残すとコウなった」というような。ここまで来たら、そろそろ20世紀的な「M」から21世紀の「D」(Digital)にシリーズ展開しても良いのではという気がする。多分しないだろうなライカ社は...

一方、保守的なライカファンからは、ライブビューや動画機能追加にかなりのブーイングが出ているようだ。なんとなく理解出来る。これに対するライカ社の答えは、「だからLeicaM-E(M9の廉価版)を同時に出した」と。答えになっているのかな? 一方、フィルム用Mカメラの製造は既に終了しているが、熱烈なファンのために若干ながら注文生産しているらしい。しかし、フォトキナでのジャーナリストの質問「ライカ社は最後のフィルムカメラメーカーになるのか?」に対し、開発責任者は「いや、最後のフィルムカメラメーカーはロモだろう(笑)」と切り返したという。やはりオールドライカは消え行くのみか。

私のようなシロウト趣味人にとっては,こういう面白い(というか、過渡的な)立ち位置のカメラがあってもいいと思う。商業的に成功するのかどうかは別問題だが。もっともM9やMPは商業的には成功したようで、既に投資回収出来たので、後継機種開発に向った、というのが会社側の説明である。

個人的には、このLeica Mは、実機をまだ観てもいないし,触ってもいないが、何となくこれまでのデジタルM8、9の完成度から想像出来るような気がする。おそらくニコンやキャノン、富士フィルム製に比べると,まだ中途半端な「ううン,イマイチ、隔靴掻痒...」的な。デジタルカメラとしてはまだ最新のレベルに追いついていないいんじゃないか。少なくとも価格に見合うだけの機能を実現しているか。言わせてもらえば「外付けEVFなんて止めてくれよ,今更... ミラーレスやコンデジじゃあるまいし。」また個人的には動画機能はいらない。

しかし,それでも素晴らしいライカレンズ資産をフルサイズでより使いやすくなるのは大歓迎だ。大型液晶モニターでのライブビュー撮影が出来るのは大きな進化だと思う。さらに、アダプターを介してRレンズを使用出来るのは嬉しい。眠っていたR資産の活用が期待出来る。もちろん、より高画質、高速処理、高機能であるならばそれにこした事は無い。正常進化である。今までの何とも言えないフラストレーション(イマイチ感)を少しでも解消してくれる事を期待する。さすがに,ライカだから許される、とか、使い手がカメラに合わせる事を期待する、とか、所有欲を満足させるブランド品だから、とかはもはや通用しない。価格に見合った実用品としての道具の使い勝手や質が向上するならば歓迎だ。

新製品LeicaMの発売は2013年初旬と言われている。多分,フォトキナバージョン(?)よりは少しはブラッシュアップされて市場にデビューするのだろうが、大きく仕様が変更される事はないだろう。新製品が出る前からこんな事言うのもなんだが、願わくば(多分次の製品では、かな?)、富士フィルム社製のXシリーズのような、ハイブリッドファインダーを搭載して欲しい。さらに、光学式レンジファインダーの限界から来る、Mレンズの最短撮影距離0.7mの呪縛から解放して欲しい。ましてオールドMレンズの最短撮影距離1mなどという「超老眼レンズ」は、さすがにライブビュー,あるいはEVF時代には古さを否めない。ちなみに、Fujifilm X-Pro1やSony Nex 7用に、ヘリコイド付きのサードパーティーレンズアダプターが出ている。これは泣けるほど嬉しい。オールドズミルクス50mmや35mmで近接撮影が出来るんだ(涙涙涙)。そのボケ味の美味しいコト。

ライカ社のように、保守的なユーザを大勢抱えて、しかもブティーク型の(ニコンやキャノンや富士フィルムなどの大会社に比べて、だが)のブランド品メーカにとって、技術イノベーションだけが、顧客を満足させるものではないし、会社の立ち位置を明確にする依って立つべきものでもない事は理解出来る。また、マス市場に進出して事業規模を拡大する事だけが株主の利益になる訳でもないだろう。まして利幅の薄いコモディティープロダクトは、製造コストの安いアジアの新興国にまかせておけば良い。会社経営のゴール、ビジョンという視点からも面白い会社だ。成功を祈る。

もちろん,先述のように、LeicaMシリーズをM3から使用し、コレクションしてきたマニアの視点からも,60年のMの歴史に画期となる新製品のリリースにはワクワクする。「デジタルカメラ度」が増すにつれ「ライカらしさ」は薄れて行くのだろうが、商品としてのカメラにとって、なにが「合理的」な答えなのか、それを考えさせられる不思議なカメラ、ライカ! 今後は,日本製デジタルカメラを追いかけるだけではなく、ライカならではの、ユニークで使い手を納得させる新しい価値を提示してくれる事を期待したい。



(ファインダーのブライトフレーム用採光窓は無くなり、M9チタン限定モデル同様LED照明方式に。ブライトフレームセレクターレバーも無くなった。ライカの赤ロゴマークが大きくなって真ん中に。)



(白いMのロゴと赤いライカバッチが目立つ。好みの分かれるところだ。M3などにあったフィルムリワインドレバーの位置に、ピント合わせボタンが)





(ハンドグリップにフィンガーループ(M9チタン限定モデルから採用)。これは意外に使いやすい。RレンズマウントアダプターにRレンズ、そして外付け電子ファインダーを装着するとかなりものものしいイデタチになる)


2012年10月24日水曜日

「くにのまほろば」ヤマト世界を見渡す ー龍王山登山ー

 以前から山辺の道を歩くたびに思っていたのは、その背後にそびえる龍王山に登れば、きっとヤマトが一望に見渡せるだろうなということ。ヤマト世界のランドマークになる三輪山が一番いいのだろうが、ここは聖なる山なので、入山するには三輪神社の許可を貰い、さらにいろいろ制約がある。まず写真を撮ってはいけないので、ブラパチ写真家の私にとってはなかなか辛い。だから隣に連なる龍王山が撮影にはベストだ。何時か登ろう、と。

 龍王山は,山辺の道の長岳寺、行灯山古墳(崇神天皇陵)の東にそびえる586mの山である。奈良盆地をグルリと取り囲む大和青垣の一つで三輪山に隣接する。邪馬台国近畿説に立てば、ちょうど卑弥呼の居たと言う邪馬台国の背後にそびえる山と言える。

 秋晴れの好天の週末、とうとうこの山に登ることが出来た。予想通りの素晴らしい展望である。まず、眼下には崇神天皇陵、景行天皇陵などの6世紀頃の大型古墳、三角縁神獣鏡が大量に出た黒塚古墳など大倭古墳群が。さらには卑弥呼の墓ではないかと言われる3世紀の箸墓古墳が見える。正面には二上山がそびえ。そのやや北の山稜の途切れるところに竹内街道の穴虫峠。さらに右(北)には信貴山、生駒山。左(南)に眼を転ずれば1000m級の葛城、金剛山を背景に、大和三山が展望出来る。まさに大和国中を一望出来る位置だ。

 龍王山登山には二つのルートがあるが、今回は崇神天皇陵脇から登るルートをとった(もう一つは長岳寺から登るルート)。途中、龍王山古墳群を抜ける。山道沿いに古い玄室が確認出来る古墳が一基あるが、ほとんどの古墳は鬱蒼とした森林の中に埋没してしまっていて視認する事はできなかった。6ー8世紀頃の横穴古墳が800基ほどあるそうだが、ほとんど調査が行われていない謎の古墳群。

 山道は、標識は整っているものの、結構なガレ場続きで歩くのに難儀する。しかも途中休憩するところも無いので意外に苦戦する。ゼイゼイいいながらやっと長岳寺奥の院の道標まで来た。しかしそれらしき堂宇も見当たらない。不動明王の石像といくつかの石碑が木立の間に見えるだけだ。

 さらに1キロほどで、4キロの登山道を上り切る。田龍王社まで来ると、何の事は無い、狭いながらも舗装された車道があって車で登ってきている人がいる。近郊登山によくある事だが、正直かなりガッカリする。格好はイッチョマエの山ガール達がキャーピーキャーピー車から降りてくる。「オーマイガット!」 逆に、山ばあちゃん(失礼)と山道ですれ違い、「こんにちわ」の挨拶を交わしたが、そのカクシャクとした姿に励まされたりもした。

 山頂は中世の龍王山城遺構となっており、南城と北城に分かれる。北城の方が広いが、南城の主郭跡が三角点のある龍王山山頂だ。ここからの展望が先述の通り素晴らしい。龍王山城は戦国時代に地元の豪族十市氏によって築かれた山城で、その縄張りは高取城を上回る広大なものであったという。しかし今はその面影を見つけようにも明確な痕跡が見当たらない。石垣などもほとんど残っておらず、高取城のように幕末まで続いた城じゃないので、遺構は自然に帰してしまっているのだろう。

 山頂から奈良盆地を見下ろすと、卑弥呼の神殿跡ではないかと言われる纒向遺跡は、ちょうどこの龍王山と三輪山を背後に、西向きに二上山の方向の東西軸に位置づけられている事がはっきり確認される。弥生時代末期から古墳時代、飛鳥時代の古代倭人の世界観が手に取るように分かる。この見渡せる範囲内の奈良盆地の中で宮都が転々と遷り、飛鳥古京、藤原京を経て平城京へと北上して行く。そして主要な豪族や渡来系の氏族の本拠地はこの盆地を取り巻く山々の麓に点在している。まさに「ヤマト」(山処:やまのあるところ)にムラ、クニがあった。

 ギリシャのデルフォイ神殿や、古代ローマのフォロロマーノ、中国の長安城のような空気とは異なる、まことにこの視野の範囲内の、山々に抱かれた自然の箱庭のような世界が古代ヤマト世界だったのだと。自然を征服するのではなく自然の中に「生えている」(共生している)姿が古代ヤマトだった。そして、外の世界とはあの二上山北の山稜の途切れる峠道のむこうの、難波、瀬戸内海、チクシを通じて繋がっていたのだと。これが此岸「国内」、彼岸「国際」二元論の原点かと。

 足下の悪い山道を下山し(途中で滑って転び、大事なニコンのズームレンズを岩にぶつけて壊してしまった。しかし本体のカメラボディーは傷がいくつかついたものの堅牢そのもの。さすがDurable, Dependable Nikonだ。)、山辺の道から二上山に沈んで行く太陽を観ていると、自らが感じうる自然の摂理に恐れ敬い、仏教伝来後には、西方極楽浄土を憧れた、古代倭人の宇宙観を感じる事も出来る。「やまとはくにのまほろば」とはこの姿,佇まいを歌ったものなのだ。


(撮影機材:Nikon D800E、 AF Nikkor 24-120, AF Nikkor 80-400、下山途中に滑って、転倒し24−120ズームレンズを壊してしまった。)


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(アクセス:JR桜井線(万葉まほろば線)柳本駅下車。柳本の街を通り抜け、崇神天皇陵から登るルートと長岳寺から登るルートがある。約4キロで山頂へ。)

2012年10月16日火曜日

秋のニューヨーク アート散歩 ー アート表現手段を我らの手に!ー

 今年の秋のニューヨークツアーは、私達夫婦にとってなかなかにノスタルジックな出来事であった。思いがけないところで思いがけない人にばったり出会ったり、旧友の家族とリラックスしたディナーを楽しんだり、昔の職場の仲間が集まってくれたり、ニューヨークが私にとってかけがえの無い故郷になっている事に改めて気付かされた旅であった。もちろん結婚してこちらで暮らしている娘夫婦に会えるという事が,13時間の飛行という長旅にもかかわらず、旅立ちを決断させる最大のインセンティブである事は間違いない(妻にとっては特に)。

  また、今回のニューヨークへのショートトリップはアートな旅でもあった。フォトグラファーとしての活動に取り組んでいる娘夫婦が参加している、The New York Art Book Fair 2012がちょうどLong Island CityのMOMA PS1で開催されていており、彼等の案内でツアーを楽しむことが出来た。写真やデザインや絵画そのものだけでなく、写真集や画集、デザインブックといった「本」がそもそも,新しいアート表現となっていることに気付かされる。特に最近のトレンドになっているZineやSelf publishing作品が数多く出展されており大変興味深い。

 IT(Information Technology)の発展、とりわけ、PCやスマートホン、安価で高性能なデジタルカメラ、高精細インクジェットプリンターといったデバイスや、高速インターネット、ソーシャルネットサービス(SNS)、デスクトップパブリッシング(DTP)、ストーレージサービス、クラウドサービスなどの技術とサービス、その可用性(availablity)が急速に発達したことが、こうしたトレンドに拍車をかけている事は間違いない。

 例えば、今までは写真家が写真集を世に出すためには、出版社にまず認められなくてはならなかった。出版は大変にコストのかかる「事業」であった。つまり、平たく言うと、出版物として商業的に成功する作品のみが世にでる。このため、学生や写真を志す若手や、私のようなシロウトフォトグラファーの数多くの、ユニークな作品や表現が世の中に知れる事はまず無かった。インターネット基盤とした、いわゆる「ネット」がこうした、いわばロングテール作品を数多くの人々に観てもらう新たな媒体となった。いこのネットがマーケティングの世界でロングテール市場とロングテールニーズをマッチングさせる媒体となっている事は世に知られているが、これはこうしたアートの世界でも同じ事。出版社や新聞や放送のような一方通行のマスメディアに対する、インターネットそれをベースとした双方向型ソーシャルメディアが生まれたインパクトは大きい。そこではあらゆるUser Generated Contentsが主流になる。あたらしい表現者が新しい表現を自由に発表し流通させる事が出来る。

 こうなると、アートブックやフォトブックは、廃れるどころか、ますます表現者の手に戻ってくる。それがZineであったりSelf Publishingであったり、Digital Fotobookであったりする。また、さらにはその最終成果物だけでなく、その制作過程にある、校正版やアイデアノートのような物がまたアート表現の一つになる。この世界の伝道師、Victor Siraは、これを「book dummy」と呼んでいるが、これがまた面白い作品だ。これまでの出版概念では絶対なかった。

 このようにメディアを表現者の手に取り戻し、多様な表現手段を駆使する新しいアートの世界が広がっている。こういう表現手段にあらたな価値が見出されてきている。これは、ネットでのいわばバーチャル世界の表現と,自作の印刷物となり、書店店頭に並ぶという、リアルの世界での表現が共存する事を意味している。そのインタラクティブな関係性がまた新たな表現世界を生み出す。

 そして、意外に日本では知られていない事は、日本はこの分野では先駆的なのだということ。しかも、こうしたアートシーンは東京ばかりではなく,京都や福岡といった特色ある地方都市での活動が注目されてきているということ。今回のNY Art Book Fair 2012でも福岡の若者達の作品と活動が取り上げられていた。また、去年秋、金沢の21世紀美術館を訪問した時には、Zineの特別企画展が催されていた。アートの「地方分権」は当然なトレンドだろう。世の中に認められるためには東京へ出て、メジャーデビューしなくては,というモデルは前世紀的なモデルになりつつある。

 かつて、生産手段を労働者の手に取り戻し、自由を我らに、富の再配分を公平に、というカール・マルクスの主張は、21世紀になってもまだ実現出来ていないが、表現手段をアーチストの手に取り戻し、自由な表現、表現機会を公平に、は実現に向けて着々と進んでいる。テクノロジーイノベーションがアートイノベーションを生み出している。

 もちろんアーティストが商業的に成功して生活が豊かになるかどうかは、別の問題である。しかし、これも新たな事業モデルが生まれつつある。Google やAppleが提供する「プラットフォーム」がロングテール市場ののビジネス革命を引き起こしている。音楽におけるCDや、ビデオのようなパッケージメディア、書籍,雑誌や新聞、テレビのようなオールドメディアが、その事業モデルの大きな変換点に立たされている時に、こうしたネット文化がビジネスに大きなインパクトを与えている事は間違いない。テレビでやっているから素晴らしい。大手出版社から出されている本だから面白い、有名人だからスゴイ、という与えられた一方通行の評価基準ではなく、自ら発信者であり受け手でもある「我々」が持つべき価値の評価基準にもイノベーションが求められている。マネーはそれについてくる。それがビジネスモデルイノベーションだ。

 こうしてニューヨークの街を歩いていると,この街にはそこここにアートが潜んでいる。ともすれば観光案内や絵はがき的になりがちな風景や、街の佇まいを,自分なりの視点で写真に切り取ってみる楽しみが増えた。私のようなシロウトフォトグラファーにとって自分なりの表現手段を獲得出来るという事、そしてそれを大勢の人々に観てもらうことが出来るという事は,とてもワクワクドキドキする。

NY Public Library 特集のNYC Subway車内
一瞬、どこにいるのか混乱してしまうほどだ...




(撮影機材:Fujifilm X10, X-Pro1, 35mm, 18mm,60mm Macro.このセットは街歩きのベストパートナーだ)

2012年10月12日金曜日

Narita-JFK Flight   Is 13 hours flight boring? 

 成田/JFK間の飛行時間は約13時間。米国法人の社長をやっていた時を含め、出張でプライベートで東京/ニューヨーク往復を何度やった事か。もっぱらANA便を利用するフリークエントフライヤーだ。別にANAになにか義理がある訳ではないがマイレージプログラムのせいだ。それと後発で国際線市場に参入した,という点でなにか共感するところもあった。ANAのニューヨーク便初フライトにも搭乗した。

 ANA10便は成田を午前11時に出発。飛び立つとすぐに太平洋に出る。水平飛行に移ると食事(何メシなのか不明だが)になり、やがて窓の外は暗くなり、カムチャツカ、アラスカ上空では真っ暗になる。そしてカナダ上空ハドソン湾あたりから夜が明け始め、五大湖上空にさしかかる頃にはもう着陸準備だ。ほとんどが地球の夜の時間を飛行する。明け方のカナダ上空の光景は美しい。同日の午前10時半頃JFKに着陸だ。日付が戻るので得をするが、その分一日が長い。

 逆にJFKからは、ANA9便は午後12時半に出発。マンハッタン、ウエストチェスター郡、ハドソン川に架かるタッパンジーブリッジ、コネチカット州グリニッチを見下ろしながら、やがてカナダのハドソン湾上空にさしかかる頃までには昼食が終わる。窓の外はいつまでも明るい。機内は睡眠をとる人のために窓のシェードを降ろさせられるが、実は成田到着まで,地球の真っ昼間を飛行する。翌日の午後3時半頃成田着だ。逆に一日損をするが、その日はすぐ寝る時間になる。

 偏西風、ジェットストリームの影響で西向きに飛ぶ成田方向の方がJFK方向よりもやく一時間強余分に時間がかかるが、いずれにせよ12〜3時間の長い長いノンストップフライトだ。以前は(1980年代初頭まで)は、ニューヨーク便もロンドン等の欧州便も、この大圏コースを取る場合は、必ずアラスカのアンカレッジでワンストップして給油していた。眠い中降ろされて、トランジットロビーでボーッとするしかなかった。外は凍てつく寒さだが,青空。マッキンレー背景にダイアモンドダストが眼にしみた。あとロビー内の立ち食いうどんと仁王立ちの北極熊の剥製がアンカレッジ空港の名物だった。

 もっとも,さらに昔(1950年後半)、父母達の旅は、羽田からJALのDC6プロペラ機で、ウエーキ島、ホノルルで途中給油しながらサンフランシスコまで飛び、そこから国内線に乗り換えミネアポリス経由でニューヨークへ、という24時間以上の長旅であった事を思い起こせば、13時間なんてどうという事も無い。当時の博多/東京間の寝台特急あさかぜ、さくら、みずほ、はやぶさ、がだいたい14時間ほどであった。

 話を戻して。しかし、私にとってこの時間はとても貴重で,ある意味忙しい時間だ。もちろん出張の時は、資料に目を通したり、会議原稿やメモを作成したり。機内で無線LANによるインターネットが利用出来た。これは良かった。この飛行時間と時差を有効に使えるからだ。メールを読んだり、返事を送ったり。ウエッブで検索したり。しかし、これで私の部下はかなり迷惑したようだ。ボスが出張で飛行中の13時間はは静かな時間であったはずが、その間にもメールが飛んでくる... もっとも、逆に機内からも衛星電話がかけられるので、私の東京のボス(S社長)の秘書からのメールで、電話しなくてはならない事もたびたび。やがて、いつの間にか機内無線LANサービスは無くなった。社員の苦情が原因だったのか? ちょっと残念だ。

 もちろん機内での過ごし方は,こうした仕事がらみばかりではない。食事も大事。映画も見たい。CAさんとの他愛のない会話も楽しい。したがって、あんまり寝ている時間はない。人によっては、機内で寝れたかどうかが重要と考える人もいるが,私は、ニューヨーク行きは朝着くので、少し仮眠出来ればいい。東京行きは夕刻着くので全然寝なくてもいい、という風に考えている。

 今回みたいにプラーベートな旅ではなおさら。機内で何をしようかわくわくする。このフライトでは、日頃見たいと思いながら、なかなか見る時間がなかった映画「Red Cliff」を鑑賞した。前編、後編あわせて5時間になるという超大作だ。こういう長時間フライトの機内でないとなかなか見れない。そしてこういうエンターテイメントが入ると、あっという間に13時間は経ってしまう。

 ジョン・ウー監督の「Red Cliff(赤壁)」は三国志のクライマックスである赤壁の戦いを題材とした映画。これをニューヨークへ飛ぶ機内で見る醍醐味は格別だ。時代は3世紀初の後漢朝末期。魏呉蜀が覇権を争う三国時代へと遷りゆく戦乱の時代だ。東海に浮かぶ倭国でも、倭国大乱を経て、邪馬台国の卑弥呼が魏に朝貢し、親魏倭王の印を親授された、と魏志倭人伝に記されている。
 
 主人公は後漢の丞相曹操(後の魏の創始者と言われている)、蜀を建てる聖君子劉備、その軍師諸葛亮孔明、そして呉の始祖孫権。この三人が覇権を争う物語りである事は言うまでもない。史書としての「三国志」は、後の晋の時代になって(晋は魏から政権の禅譲を受けたとされている)の陳寿が編纂したものだ。日本について記述された最古の歴史資料である、いわゆる「魏志倭人伝」の編者として知られているあの人物だ。比較的丹念に信頼出来る事実を拾い集め編纂された国史として後の世に評価されている。

 一方、庶民に人気のある物語り、三国志は、こうした史実をもとに後世に創作された「三国志演義」がベースになっている。もちろん物語りを面白くするための脚色がいたるところにちりばめられており、時代考証についてもおおいに異論があるわけであるが、英雄伝として現代まで親しまれている。

 話の軸は、悪玉:曹操と、善玉:劉備の戦い。劉備の稀代の名軍師諸葛亮が、孫権との反曹操同盟を成功させる。関羽や趙運、張飛といった伝説の英雄達が登場する壮大な軍記物語りだ。客観的な史実よりも,ワクワクする物語りの方が人気があるのは洋の東西を問わず同じだ。

 この映画「Red Cliff」も、この伝統的なシナリオに沿った筋立てとなっており、諸葛亮と名コンビとなる、劉備の総司令官周瑜とその妻小喬。それに懸想して略奪を狙う曹操。女だてらに敵地に乗り込み大活躍し悲恋に泣く劉備の妹尚香、といったヒロインの登場人物も物語りに色どりを添えている。諸葛亮役の金城武が好演している。いいな。そして、いよいよクライマックスの赤壁の戦いを迎える。壮大なセットと見事なカメラワーク。

 と、面白くてあっという間に時間が経ってしまったが、この中国映画もアメリカ映画同様、スペクタクルなスケールとするために使った「カネ」と「火薬」の量は半端でない。しかも、殺される人の数もハンパでない。戦いの中で虫けらのように人の命が扱われ、映画の部材として消費されて行く。使われた火薬の量に比例しての死屍累々にはうんざりした。

 映画の時代考証は、かなり脚色があって史実には必ずしも即していないだろう。しかし、奴国、伊都国や邪馬台国や、これらと争っていた狗奴国が名を連ねる倭国の時代でもある3世紀初頭。その同時期の中国大陸で、このような大規模な戦いが繰り広げられ、使われる戦術、武器、軍船、砦、衣装、食事、楽器、茶道等の大道具、小道具を見るとその素晴らしさに驚いてしまう。このあいだ見学した吉野ヶ里遺跡や、ヤマトの纏向遺跡を思い浮かべるとなおさらだ。映画だよ,とわかっていても時空を超えて、3世紀の東アジア世界を垣間みたような気にさせられた。

 このような漢帝国崩壊にともなう、三国の戦乱の時代、なぜその魏の陳寿は中華帝国を取り巻く夷荻についての記述を国史に残したのか? 倭人/倭国については他の蛮夷の国々と比べ、比較的詳細に述べられている。一説には、当時の三国の緊張関係のなかで、蜀と呉に対峙する魏はその東の海に倭国という強力な同盟国(多少誇張してでも)を有している。その倭国は大乱の後に連合し、その王が魏の皇帝の徳をしたって朝貢して来た。倭国王すなわち邪馬台国の卑弥呼を親魏倭王として柵封体制に組み入れた事を天下に示しておく必要があった。というもの。いわば我々の背後に軍事同盟を持つ強国が居るぞ、というわけだ。

 その解釈の是非については何ともコメントするすべもないが、当時の華夷思想では、中華帝国/その皇帝の権威は、その皇帝の「徳」によるもの。その「徳」は遠く周辺の蛮夷の国々にも知れ渡り、その「徳」を慕った蛮夷の酋長や王が中国皇帝に朝貢してくる。その国々が遠ければ遠いほど、その数が多ければ多いほど皇帝の「徳」が高く、中華帝国を治める権威が備わっている,と考えられていた。三国が中華帝国中原を治める権威、レジティマシーを争っているなかで、魏の主張を史書の形で陳寿が明文化したとしても不思議ではあるまい。

 ちなみに蜀と呉を連合させた稀代の軍師、諸葛亮は倭国の事を知っていたのだろうか? 倭国を反曹操連合に組み入れ、挟み撃ちにする戦略を考えてみた事はなかったのだろうか? もしそうなっていたら東アジアの歴史は書き換えられていただろう。ひょっとしたら金城武の諸葛亮は倭国から渡来した人物じゃないか,などと、荒唐無稽な夢想も楽しい。

 ニューヨークへの飛行中に、ふと気付くと3世紀の三国志の時代、倭国の時代にタイムスリップしていた。全編を見終わった頃には、夜が明け始め、窓の外に朝日に輝く茜色の雲と、雲間から無数の湖沼が点在するカナダの大地が見える。間もなくJFKだ。他機が飛行機雲を一直線に引っ張りながら,高速でANA機とクロスして行った。NY上空はあいにく厚い雨雲に覆われている。今日はマンハッタンは見えないな。ANA機は幾重にも重なりあった雲の中をドンドン降下しながらJFKにアプローチする。まだ見えない,まだ見えない、地上が見えたと思ったら,あっという間に雨の滑走路にタッチダウン。

 さあ、三国志、魏志倭人伝という3世紀の世界に別れを告げて、いよいよ今度は21世紀のニューヨークへとワープするぞ。


(撮影機材:FujifilmX10)



(飛行ルート。いわゆる最短の大圏コースだ。)


2012年10月10日水曜日

柳生街道(滝坂道)を往く

 奈良県の柳生の里は、徳川家剣術指南役、柳生石舟齊、宗矩、十兵衛などの柳生一族の故地。荒木又右衛門や宮本武蔵等も訪れた剣豪の里である。JR奈良駅前からバスに乗り、50分ほどで柳生の里へ直行できる。そこから円城寺、峠の茶屋春日石仏群と柳生街道を下って、高畑町に出るコースが柳生街道散策の一般的なルートであるようだ。

 今回は、逆に春日大社の社家町であった高畑町から入り、春日石仏群までのショートコースを往復した。いわゆる滝坂道だ。ここは能登川の渓流沿いの石畳道。ゆるく登りとなっているが標識等もよく整備されていて歩きやすい。連休最後の晴天の一日とあって、中高年カップルや山ガール、子供連れの家族などとすれ違う。やはり柳生の里まで行き、そこから下ってくる人が多いようだ。

 柳生街道は、昔から奈良と柳生の里を結び、さらには伊勢方面とも結ぶ比較的通行の殷賑な街道であったようだ。石畳を敷き詰めたのは何時の頃か不明だが、当時としてはよく整備された街道であったのだろう。しかし、石畳は水に濡れると滑りやすく、歩きにあまり苦痛を感じない私も、意外に難儀した。堅いソールのウオーキングシューズじゃなくて、昔のわらじの方が足裏で一つ一つの石をグリップしながら歩けて滑らないのかもしれない。

 ここは石仏が多い石仏街道でもある。まず高畑町から入ると「寝仏」にで会う。石畳の脇に岩が転がっており、よく見ると仏像が斜め横に刻まれている。おそらく山腹から滑り落ちてきたのだろう。チョット分かりにくいお姿だ。

 さらに進むと街道の左手上の崖に「夕日観音」と「三体地蔵」が刻まれている。石畳の街道からはさらに急峻な道無き道をよじ上らねばならないが、近づくと「夕日観音」はかなり立体的な石仏である。「観音」と呼ばれ人々に親しまれているが、よく見ると弥勒如来像である。「三体地蔵」はそれなりに痛んでいるが、三体とも錫杖を手にした姿がよく確認出来る。

 さらに柳生の里方面へ歩を進めると、狭い渓谷対岸の大きな岩の壁面に刻まれた三体の磨崖仏「朝日観音」がある。これも中心は弥勒如来で左右に地蔵菩薩を脇侍として配している。街道からもよく拝むことが出来る。

 そして滝坂道を進むと大きな杉の木が現れ、その杉の大木を中心に道が三叉路に別れている。この辻に立つのが「首切り地蔵」である。身の丈180cmほどの大きな石像で、首のところで折れている。これを人々は荒木又右衛門が試し切りをした跡であると言い伝えている。いかにも剣豪の里へ続く道すがらの伝承らしい。

 近くには能登川の源流である地獄新池があり、その周りに春日山磨崖仏と地獄谷磨崖仏がある。春日山磨崖仏は岩をくり抜いた洞窟に三体仏や地蔵が彫られており、結構どれも傷みが激しい。特に弥勒三尊像は、残念ながら二体のご尊像が破壊されている。まるでバーミヤン石窟寺院をタリバンが破壊したような痛々しい有様である。現在この石窟は金網で囲まれ保護されている。写真が撮りにくいが、皆考える事は同じで、金網の一部がちょうど良い角度で広げられていて、レンズがハマるようになっている。

 いずれも平安末期から鎌倉時代の作とされている。おそらくもともとは、誓多林や忍辱山(いかにも仏教の聖地にちなんだ地名だ)に向う弥勒信仰や山岳信仰に起源があったのであったのだろう。しかし時を経るに従い、街道を往く人々の通行の安全を守ってくれる「観音様」や「お地蔵様」として拝まれたのだろう。街道沿いの石仏を、庶民は日常の生活を見守って下さる有難い、親しみやすい仏様と解釈したのだと思う。

 今回は、ここで滝坂道を引き返した。この道は学生時代に一度歩いた記憶があるが、あまり詳細を覚えていない。きっと奈良のガイドブックかなにかを見て行ってみよう、くらいの感覚で訪れたのだと思う。「昔はものを思わざりけり」である。それはそれで良いのだと思うが、若い時には気付かなかった事や、感動しなかった事でも、この年になると感ずる何かに出会うことがある。

 しかし「一度行った事がある」というだけの記憶も大事である。こうして時を経ての再訪が、学生時代とは違う「美」や「やすらぎ」を感じ、知らなかった歴史を発見させてくれる。そしてさらなる未知への興味をかき立ててくれる。若い頃にあちこち旅をし、訳も分からず知識を詰め込む。そうした事に無駄は何も無い。それが時とともに記憶の中で熟成してゆく。だから年齢を経るという事も悪くはない。時空旅行はなお続く。



(柳生街道の他に、奈良市内各所の秋の風情を合わせご覧下さい。撮影機材:Nikon D800E, AF Nikkor 24-120mm.いつもながらブラパチ風景写真には最適のコンビです)


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(JR奈良駅からバスで柳生の里まで直行。あるいはバスで破石町下車、高畑町を抜けて柳生街道(滝坂道)を登る)

2012年9月26日水曜日

日本最古の稲作環濠集落 板付遺跡 ー弥生のクニのルーツー

 日本に稲作が伝わってきたのは何時か?狩猟採集が生活の基盤であった縄文時代は、どのように水稲農耕生活の弥生時代に変遷して行ったのか。縄文時代と弥生時代では人種の交代があったのか。縄文時代から弥生時代へのフェーズ転換は、考古学上の論争が活発なテーマの一つである。

 従来、弥生時代は紀元前500年頃に始まるとされてきたが、最近の研究ではさらに500年ほど遡り、紀元前1000年頃ではないかという説が有力になっている。これは大陸から水稲農耕の技術、農耕文化が日本列島に入ってきた時期を問うことでもある。シロウトには考古学にまつわる様々な科学的な年代測定法の詳細は分からないが、どうも弥生時代は我々が習ったよりも早い時期に始まり、長く続いたようだ。

 しかし、古代史好きの私がなぜ弥生時代にこだわるかと言うと、後漢書東夷伝や魏志倭人伝に登場する紀元1〜3世紀の奴国や伊都国、邪馬台国は、こうした稲作農耕を生活の中心にした弥生のムラ、クニであった。そうした個々のクニはどのように発生、形成、発展し、さらに全国に展開していったのか、さらに、どのように倭国連合に発展し、古墳時代、大和王権に時代に突入していったのかを知るには,弥生時代の歴史、とりわけ水稲農耕が西から東へ伝搬して行った足跡を知っておく必要があると考えた。「日本文化の東遷」伝説の考古学的な検証だ。大陸から伝搬したと言う農耕は最初、北部九州に根付き、チクシ時代を築く。それが200年足らずのうちに近畿へ倭国の中心が遷り、大和王権の確立という、いわばヤマト時代へと移行する。その変遷の謎を解くヒントもそこにあるかもしれない。

 詳細は省くが、最近、研究者によって、農耕の東遷は考えられている以上にゆっくりしたものだったという見解が示されている。特に九州南部や東北地方に農耕文化が伝搬するのには様々な時間経過と紆余曲折があったという。言ってみれば縄文型の狩猟採集文化から弥生型の農耕文化へは、スパッと切り替わった(いわゆるフェーズ転換)訳ではなく、長く縄文型生活は継続し、徐々に、あるいは部分的に弥生型が入って行った地域(主たる食料生産ではない園耕地型というそうだ)と、農耕が入って行ったがまた縄文型に戻ってしまった地域(例として、東北の寒冷地域等で稲作に失敗して)もあると言う。ただ北部九州から近畿への伝播は割に短期間に進行したとも言われている。その場合、近畿へ遷る過程で、その途中の中国地方や四国地方での大型農耕集落があったのだろうか。後の出雲や吉備はそういった弥生型のムラ、クニの発展形だったのだろうか。この辺りの考古学的な検証はまだのようである。

 また人種的にも、北部九州では、縄文人の特性を備えていない、別人種の人骨が弥生遺跡から発掘されているケースがあるが、いわば原日本人(縄文人)が、外来の人々との交流、混血の中で徐々に農耕を取り入れて行った様子がうかがえるという。すなわち、イギリスブリテン等におけるゲルマン人の進入や、不断の異民族の進入、そしてノルマンの征服により,原住民ケルト人がブリテン島辺境に追いやられて行った歴史とは異なり、大陸から別人種が大量に入り込んできて原日本人を征服したり、人種が入れ替わったわけではないようだ。

 もちろん大陸との間には多くの人の行き来があったのは間違いない。今のように国境という概念も国民国家概念も無い時代であるから、倭人と漢人と韓人との区分けもそれほど明確な訳ではなかったことだろう。しかし、大陸からの征服民族が日本列島に侵入してきて(もう少し後の時代のヤマト王朝騎馬民族説のような)縄文とは全く異なる弥生時代に塗り替えてしまった、という考古学的な証拠は出ていないようだ。

 福岡市の板付遺跡はつい最近まで、日本最古の稲作環濠集落跡として考古学上の画期的な遺跡とされてた。子供の頃の歴史の教科書でもそう習ったような気がする。年代測定法で紀元前500年くらいの遺跡であるとされている。しかし、その後、福岡市周辺には江辻遺跡や菜畑遺跡といった、さらに古い稲作遺跡が見つかり、先述のような弥生時代の始まりがさらに500年遡ってしまう事となった訳だ。

 さは然り乍ら、この板付遺跡の重要性はいささかも揺るぐ事は無い。紀元前500年頃に既に高度な稲作が行われていたり、二重環濠による集落を形成し(後の時代の吉野ヶ里や唐古鍵の原型のような)、墓制についても有力者とその他の墓では副葬品が異なっている等の,既に身分の差が確認されていたり、倭国の時代にさかのぼること500年前に既にその原型が現れていた事に驚く。いわば弥生倭国のルーツである。さらにいえば現代に至るまで,稲作農耕文化を引き継ぐ日本の原点と言ってもいいだろう。

 現在板付遺跡は、福岡市の手で環濠や竪穴式住居が復元保存されている。また近くの福岡市埋蔵物文化財センターには出土品の保存展示がされている。しかし、両方とも訪問には不便なロケーション(街中にも関わらず)で、旧国道3号線沿いの福岡空港近辺に位置している。周りは国道沿いのカーディラーと大規模公営住宅団地が立ち並ぶ、という、観光客が気軽にアクセス出来るロケーションではない。現に、埋蔵物文化財センターのその日も、誰も訪問者はいなかったし、訪問記帳を見ても日に数人(しかも県外の訪問者は稀)程度。係の人も居るに居るが、説明する風でもなく、デスクに座ってパソコン観ているだけ。案内窓口の女性は愛想が良くて板付遺跡への道順等丁寧に説明してくれた。しかし壁のタイルがはげ落ちているなど、寂れた感じだ。

 板付遺跡の方はさらに寂しくて、ちょうど復元環濠内の雑草刈りをやっている最中であった。かなりの量の雑草が積上げられていた,という事は、昨日まではかなり雑草に覆われていたということか。弥生展示館は縦穴住居を模した立派なハコモノ行政の産物であるが、こちらは人が誰もいない。「こんにちわ」の声もむなしく、応答が無いので中へ勝手に入ると、電気が消されていて真っ暗。目が慣れてくると、遺跡のジオラマや出土品の弥生土器や、比較的有名な弥生人の足形等が展示されている。最初から最後まで、途中でモップもって入ってきた掃除のおばさん以外、人に会う事は無かった。

 福岡市はこうした日本の国家や文化の起源ともいうべき遺跡や、出土品の宝庫であるが、あまりそのように認識されていない。もっと脚光を浴びていいような気がするが...  別に観光資源としてもっと活用すれば,というつもりは無いが、近畿地方の古代史ファン向けのサービス(展示施設、参考資料、ボランティアの説明員(時々熱が入りすぎる嫌いもあるが)、散策コースの整備等)がそれぞれの自治体ごとに充実しているのに比べるとかなり寂しい。

 板付遺跡のすぐ近くには1世紀の奴国の都跡であると言われる比恵/那珂遺跡や、南に行くと奴国王墓やハイテク工場跡が見つかった須玖/岡本遺跡がある。福岡市やその南の春日市は弥生時代、倭国の時代の遺跡が広く分布しており、いかにも日本の先進地域であった事を彷彿とさせる。いかんせん、都市化による遺跡破壊と発掘の難しさに直面しており、なかなか全貌を解明するまでには至っていない。それにしても,日本の国家/文化の発祥の地である事は明らかにされているのだし、いわばチクシ時代の遺跡に満ちあふれている事をもっとアピールしたらいいのに,と思ってしまう。また、歴史学においても考古学においても、日本の原点である「チクシ時代」をもっと研究する必要があると思う。




(板付遺跡の空撮敢行!? 福岡空港(板付空港)離陸するとすぐ右手に見えるのです。)


(撮影機材:NikonD800E, AF Nikkor 24-120mm)

2012年9月24日月曜日

阪堺電車で行く住吉大社(すみよっさん)

 大阪市内に唯一残る路面電車、阪堺電車。天王寺駅前から浜寺公園、住吉公園へ向う上町線と、恵比須町から堺へ向う阪堺線の2系統が運行されている。沿線は大阪のディープサウス、まるで昭和の空間だ。映画「Always3丁目の夕陽」の世界だ。電車の窓から見える建設中の阿倍野ハルカスが、建設中の東京タワーの画にかぶる。

 今回は天王寺駅前から住吉大社まで約15分の路面電車旅。運賃は均一で200円(290円から値下げされたらしい)。その住吉大社は全国の住吉社の総本宮で摂津国一宮。博多の住吉神社、下関の住吉神社とともに三住吉と呼ばれる。ちなみに博多の住吉神社は筑前国一宮で、一番古い創建といわれている。

 お社は住吉三神と神功皇后を祀り、四本宮ある。三本宮が東西一列に並び、第四本宮は第三番本宮の北に建つというユニークな住吉造り。正面の鳥居は西向きで、かつての難波津を向いている。博多の住吉神社も冷泉の津に面して西向きであったといわれるように、住吉三神は海運、海軍の神様である。住吉大社は神功皇后の三韓征伐の無事帰還の際に創建された由。という事で伝承では西暦200年の創建ということになる。すなわち魏志倭人伝の邪馬台国卑弥呼の時代、ということになるのだが。

 辺りは関西独特の神社仏閣の周辺に出来た街の雰囲気を色濃く残している。四天王寺や大阪天満宮辺りにと同じ匂いがする。お参りの人々は文字通り老若男女を問わない。反りのキツイ太鼓橋を欄干に掴まりながら「きいつけや」「急ぎなや」などと声かけながら渡る。四本宮を一つ一つ柏手を打ってお参りする。お参り済んだら「たこ焼きよばれていこか」となる。かなり年配のおトーさん、おカーさん夫婦も、チョット怖いオッチャンも、ヒョウ柄のオバちゃんも、ヤンキーのニイちゃん、ネーちゃんも、ここへ来ると皆救いを求める神の赤子だ。街角にはあちこちに地蔵堂があるように、大阪の街には庶民の信仰が満ち満ちている。「神と仏の違いなんか関係あるカイ」ちゅうわけや。そこにあるのは、どっちゃかちゅうと極楽浄土ではなく現世利益のような...

 そしてこのワンダーランドを結ぶチンチン路面電車だ。質屋やパチンコ屋の広告を派手派手しく塗りたくった電車。これがいやが上にも、大阪を大阪らしくしている感じがする。よそ行きのすまし顔とは違う「大阪の品格」や。東京の都電荒川線とも,地方の路面電車とも違う独特の佇まいを醸し出すのが阪堺電車だ。時空トラベラーが思わず小躍りしてしまうぶらり旅だ。


(撮影機材:Fujifilm X-Pro1 )


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2012年9月23日日曜日

飛鳥古京はようやく秋に ー多武峰から石舞台へ続く道沿いに棚田を愛でるー

 今年は猛暑であった。9月に入っても連日30℃を越える暑さが続いていたが,ここへ来てようやく秋らしくなった。刈入れ前に棚田を見ておかねば、と電車に飛び乗った。桜井で降りて、バスで談山神社まで行き、そこから石舞台古墳へと下る,あの道をとれば飛鳥の里を遥かに見渡しながら,美しい棚田の世界を堪能出来る。しかし、桜井駅からのバスは一時間に一本だけ。乗り過ごしてしまった。では、と、石舞台古墳まで行き、そこから逆に多武峰方向へだらだら坂を上る事にした。

 飛鳥の棚田は、稲穂がコウベを垂れて、豊穣の時を迎えた。ただいつもは彼岸花が咲き誇るこの季節、稲淵の案山子祭りの週末を迎えても、いまだ咲き始めで少し寂しい。それでもポツポツと咲き始めた真っ赤な彼岸花が畝を彩り始めている。

 飛鳥は穏やかだが豊かなな日本の秋を迎えた。去年は稲淵の棚田を巡ったが、今年はこうして多武峰から石舞台古墳への道すがらの棚田を巡った。この道は中大兄皇子と中臣鎌足が、蘇我氏打倒の密議を行った多武峰,御破裂山(かたらい山)へと通じる道。今は平和な日本の原風景のような景観が保たれている。


(撮影機材:Nikon D800E, AF Nikkor 24-120mm f.4, AF Nikkor 70-200mm f.2.8)

2012年9月17日月曜日

吉野ヶ里遺跡 ー魏志倭人伝に描かれた倭国の風景ー

 佐賀県神埼郡の吉野ケ里遺跡は、弥生時代(紀元前5世紀〜紀元3世紀)における日本最大規模の環濠集落遺跡だ。弥生前期、中期、後期全ての遺構が同一場所で確認されたユニークな遺跡だ。また、周囲2.5キロのV字型の外壕に囲まれた敷地面積40へクタール(福岡ドーム6個分)の大型集落がこのような完全な形で発掘され復元されている例は珍しい。現在でも穀倉地帯である広い佐賀平野(広義には筑紫平野)のど真ん中だからこそ、破壊もされず1700年も地下に埋もれていたのだろう。

 昭和51年に神埼工業団地の造成を始めるために地下を掘ったところ,このような巨大な弥生のムラ、クニの跡を発見したわけだ。その後、県は工業団地開発を中止し発掘調査と史跡としての整備に切り替えた。バブル真っ盛りの時期としては苦渋の決断であったのだろうが、バブル崩壊後、空白の20年が過ぎた今となっては正しい決断だった。観光資産の少ない佐賀県としては貴重なお宝が隠れていたわけだ。工業団地だと、今頃電力不足問題と、グローバル化に伴う生産の空洞化で、廃墟になっていたかもしれない。

 現在、史跡公園として再現、整備されている環濠集落遺構や98棟におよぶ建物群は、集落が最盛期を迎える弥生後期、3世紀初めのものである。すなわち、あの魏志倭人伝に出てくる卑弥呼の邪馬台国、倭国の時代である。当時の集落内にはおよそ300人が暮らし、周辺のムラを合わせるとクニ全体では約5,400人が住んでいたと推定されている。邪馬台国が8万戸、奴国が5万戸、伊都国が1.5万戸というから、それに比べると小振りなクニであった事になる。発見当時は、吉野ヶ里は邪馬台国ではないか,と騒がれたが、これはチクシ倭国のクニの一つであろう。美祢国ではないか,という説もある。

 いずれにせよ、弥生時代後期の邪馬台国の時代のクニがこのような形で発掘され、当時の魏志倭人伝で描かれた倭国のクニやムラの姿が、より具体的なイメージとして捉えることが出来ることに興奮を覚える。奈良県の唐古鍵遺跡や、福岡市の比恵、那珂遺跡、須玖岡本遺跡等は、現代の都市化のなかで、その原型を留める事無く、かつ発掘も道路や家、ビルの建設改築工事にともなって、部分的にトレンチを掘って確認する事しか出来ないので、全体像を把握、可視化するのは容易ではない。それに比べると吉野ヶ里は奇跡に近い。

 いよいよ中に入り,史跡を見学すると、水稲農耕を基軸とした弥生のムラ、クニの生産、流通、政治、祭祀、そして人々の生活の姿がコンパクトなジオラマのようにまとまっている。

 まず、逆茂木と深い壕と高い木柵に隔てられた環濠内、その入口の門には木製のトリが3羽ととまっている。奈良県の唐古鍵遺跡の望楼にも再現されている。青銅器祭祀具とともに何らかの霊的な意味があったのだろう。現在の神社の鳥居はここから来ているのだろうか。

 南内郭は王の一族と有力支配階級の居住地区。木柵に囲まれ、高い望楼により防備を固めた一角だ。しかし,その住居は竪穴式住居で、意外に粗末。権力者であるが故に所有できたであろう鉄製品が出土していることから、王の家とされている。それにしても高床式の宮殿のような建物を想像していたのだが。

 北内郭は政治、祭祀を執り行うクニの中枢地区。主祭殿は高床式の巨大な建物。このクニの中心的なランドマークだ。厳重な柵は、外から中の様子をうかがえないように板が隙間無く建てられており、さらに門から中へは曲がりくねった通路を通らねば行き着かない。ここでは農耕に必要な暦や作業を決めたり、祭祀を執り行ったり,王や有力者、周辺のムラの長等が集まり,クニの重要な意思決定が行われた。その際,物事の判断の重要な根拠となるのは、神懸かりとなって祖先の霊や神の意志を伝える巫女の言葉であった。すなわち魏志倭人伝に言う「鬼道」であろう。すなわちヒコ(男の王)とヒメ(女の巫女)による政祭一致の体制だ。

 南には農耕に携わる人々の生活の場、ムラが。ここは壕等の特別な施設に囲まれておらず、竪穴式住居数戸に高床式倉庫という塊が散在する,日本各地で発掘されている一般的な弥生住居跡と同様の形式となっている。環濠の外側には赤米や黒米などの古代米の水田が広がっていた。

 また生産物を保管したり、他のクニや外国との交易を行う倉と市の広場は、クニの富の蓄積と、流通による富の交換、新たな価値の創造が行われた重要な場所である。弥生の時代も後期になると、単に採集生活から定住農耕へ移行した時代から、生産手段の所有と富の占有、流通、交易、これを取り仕切る権力者、クニが出現した時代となった。ここはその事を示す場所である。

 中のムラには、祭祀や農耕に必要な鉄器や青銅器、ガラスなどを生産する特別な技能を持った工人達がいた。多くは大陸から何らかの理由で倭国へ渡来したハイテク技能集団と、その倭国の弟子たちだったのだろう。

 そして北の果ての郭外には、王が埋葬されたという北墳丘墓を中心とした甕棺墓地。この墓地と神殿は南北軸上にある。しかし、奴国や伊都国などのチクシ倭国でも見られるこの甕棺を主体とする集合墓の形式が,その後の北部九州で古墳へと繋がる痕跡は無い。少なくとも大和地方に見られる3世紀の巨大古墳のイメージに繋がるミッシングリンクは見つからなかった。

 こうして見ると、この吉野ヶ里環濠集落には、北には祖霊を祀る神聖な地、その軸上に祭祀を行う主祭殿、そして南に人民が住む一般居住地、という中国式の南北軸思想が現れている。大和の纏向遺跡の神殿跡とおぼしき建物が、三輪山/二上山を結ぶ東西軸上に配置されている事と対照的だ。なぜだろう。後の6〜7世紀の飛鳥の宮殿はみな中国式の南北軸配置に変わって行くのだが。

 吉野ヶ里が、典型的な弥生後期の(倭国の時代の)ムラ、クニであるとすれば、纏向遺跡は(同時期の集落遺跡であるとしたら)かなり異様だ。方角もそうだが、環濠もなく、農耕の跡も無く、人々の生活臭は全く感じない。この弥生時代の環濠集落とはかなり趣の異なる遺跡だと感じる。また祭祀を行ったとされる主祭殿の形式も、吉野ヶ里と纏向ではかなり異なる。吉野ヶ里規模のクニでさえ,主祭殿は高床式の三層構造の巨大な建物であるのに、もしも纏向が邪馬台国の首都であったのだとすると、その神殿とされる建物は、柱も細く,低層の(簡素な?)建物である。むしろ後世の宮殿の建物(飛鳥の板蓋宮等のような宮殿を彷彿とさせる)の形式に近いような感じがする。

 ところで、この吉野ヶ里のクニはその後はどうなったのだろう? ある日こつ然と姿を消してしまったと言われている。環濠は埋められ、耕作は放棄され、何らかの理由で住人がムラを捨てたようだ。奈良県の弥生遺跡、唐古鍵環濠集落は,その後も比較的長い間形を変えて、村落として続いたようだが、吉野ヶ里は何故姿を消したのだろう。新しい謎がまたわき起こってきた。


















(吉野ヶ里公園HPより転載)






(撮影機材:Nikon D800E, AF Nikkor 24-120mm)


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2012年9月2日日曜日

えひめ内子町散策

 愛媛県の内子町は松山市からJR予讃線特急で約30分ほどの山の中にある。伝統的建造物群保存地域に指定されている八日市・護国地区は、その昔大洲と松山を結ぶ街道沿いに発展した街だ。江戸時代後半から明治にかけて、ハゼの実から取れる木蝋生産の中心地として栄え、品質の高い内子産のWaxは世界中に輸出された。江戸藩政時代は伊予大洲藩6万石の領地となり、一帯は典型的な中山間農村地帯であるが、伝統的に木材、木炭、コウゾ、ミツマタ、ハゼなどの林産物の集散地であった。また大洲藩は和紙を専売品とし、紙漉業者を中心とした家内手工業の街でもあった。

街並は、塗り籠めの白漆喰と黄土の大壁、なまこ壁、ベンガラ格子の重厚な建物が、約600mの街道沿いに、約120軒立ち並んでいる。このうち91軒が伝統的建造物として指定されている。

なかでも、明治以降に木蝋生産で財を成した上芳我邸住宅、その本家に当たる本芳我邸住宅などの豪邸が並び、この町がいかに経済的に繁栄したかを物語っている。さらに、大正5年に創建された木造の劇場、内子座は、その経済的繁栄が、人々に芸能、芸術、娯楽を愛する余裕を生みださせ、このような田舎に(失礼)、このような豪壮な劇場を残した。この他にも、伝統工芸の和蠟燭や、鋳物のろうそく立て等の工芸品を造る工房、和紙の店、塗り壁/鏝絵職人の工房、大正時代の薬舗を再現した店舗などが並び、美しい景観とたくみの里の雰囲気を保っている。

それにしても、このような街の景観や、内子座のような建築物を今に守り続ける地元の人々の努力は並や大抵ではないだろう。もともと昭和51年に街の住民の方からの発案で、まだ「景観」という言葉が定着していない時期に,早くも町の景観の調査、保存の動きが出てきたと言う。その後のいわゆるグリーンツーリズムの草分け的な町である。ドイツのローテンブルクと町並み保存に関して市民ぐるみの交流があるとか。ローテンブルクは以前行った事があるが、ロマンチック街道の美しい町である。日本が高度経済成長真っただ中の時代であった。なぜ日本にはこんな美しい町がないのだろう。古い物はドンドン破壊されて、若者は皆こぞって都会へ出て行く時代であった。思えば,私の町並み景観を巡る旅はこの頃始まった。そして、今、奇しくも伊予内子に至ったという感動を噛み締めている。

また内子座も、一時は老朽化で取り壊しが決まっていたようだが、これも住民の活動で,保存、再建がなされた。しかも、動態保存である。今でも、毎年8月に文楽公演、2年に一回歌舞伎公演が行われるとか。その他にも、様々な芸能や,地域のイベントに利用され、讃岐の金毘羅座にも引けを取らない有力劇場に発展しているところが驚きだ。

東京首都圏や大阪関西圏にも決して近くない,このような山間部の町に、これだけの文化的な遺産が、ただ静態保存されるのではなく,生活の場として動態活用されている様は驚き以外の何ものでもない。「観光地」としての経済効果を狙うなら、都会から人が押し掛けてくれなくてはならない。しかし、それでは、静かで落ち着いた佇まい、という資産が破壊されてしまう。経済的自立化と静溢な環境。この矛盾を解決する「町の活性化」はなかなか難しい。

内子を廻って感じたのは、やはりそこに住む人々がその日常の生活をこつこつと維持している事。そして皆で町の景観を大事にして、誇りの持てるコミュニティーを作り上げようとしている事。それが町を「動態保存」する最良の方法だということだ。行き交う人々の顔が皆明るくて、柔らかな事が印象的だった。中学生や小学生は,すれ違う旅人に「こんにちわ」と挨拶してくれる。学校や家でそのように教育しているのだろう。そしてそれをキチンと守っている子供達。

今回は時間もなくて,周辺の農村部を廻ることが出来なかったが、そこでも米作中心の農業から、新たな物流システムを活かした近郊農業へ転換し、田畑が荒廃するのを避けている。その美しい農村風景を維持しているほか、屋根付き橋や石畳の道などの、農村の生活資産を活かした,新たなエコツーリズムへ展開していると言う。

補助金や,観光客の落とすカネだけでは、美しい景観,安らかな佇まいは長続きしない。住む人の内なるパワーこそがこうした,日本の原風景を維持する(いや再生する)ことができるのだろう。そこにこれからの日本が、あたらたな価値を見出し、創造し、再生産する道があるのを観たような気がする。ITや交通の発達が、じつは上手に使えば,こうした価値再生産の手助けになるであろう事も感じた。




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(交通:JR予讃線(内子線)特急宇和海で松山から約30分。各駅停車だと約一時間。特急は一時間ごとに出ているので便利。岡山方面から来る特急に、松山で接続している)




(撮影機材:Nikon D800E, AF Zoom Nikkor 24-120mm)

2012年8月29日水曜日

今年も元薬師寺のホテイアオイが咲いた

 残暑厳しいこの季節、大和路花散策の楽しみは元薬師寺のホテイアオイ。毎年この時期に地元の小学生が休耕田にホテイアオイを植える。ホテイアオイは日本の原生種ではないが、この飛鳥時代の大寺、薬師寺の廃墟跡を埋め尽くす様は、不思議に藤原京の栄華を彷彿とさせる光景となっている。

 今は、金堂の大きな礎石が民家の庭先に並び、左右に西塔,東塔の土段と芯礎が残るのみの、寂寞感漂う元薬師寺跡であるが、その廃墟感と、それを埋め尽くす薄紫の涼やかな花の色、さらに、それを取り囲む一面の稲田の緑、青い夏空を背景にした大和三山の広がりという舞台設定。やはり「大和は国のまほろば」だ。

 この薬師寺は、天武/持統天皇が,藤原京(新益京:あらましのみやこ)造営に伴い創建したもの。やがて、694年の遷都からわずか16年ほどで新都は廃され、平城京へとさらに遷都される。これに合わせて薬師寺も、平城京西ノ京の現在の位置へと移転する。しかし、平城京への移転後も平安時代頃まで、本薬師寺としてこの地に存続したようだ。

 乙巳の変(645年)、白村江での敗戦(663年)、壬申の乱(674年)、と日本の歴史を変える動乱を経て、ようやく新しい国家体制が確立しつつあった時代。倭国の飛鳥から日本国の新益京へと脱皮した時代だ。日本の新たな転換点に創建された元薬師寺の跡を今はホテイアオイが埋め尽くす。


(元薬師寺金堂跡からホテイアオイの群生を楽しむことが出来る)




(元薬師寺の伽藍配置。金堂跡、東塔跡、西塔跡が現存している)






(藤原京配置図。天香具山、耳成山、畝傍山の大和三山に囲まれている。薬師寺の位置も確認出来る)


(撮影機材:Nikon D800E, AF Zoom Nikkor 24-120mm)

2012年8月27日月曜日

邪馬台国と奴国 ーチクシ連合国家はヤマト連合国家に変遷したのか?ー

 先週は福岡平野の春日市奴国の丘歴史資料館に奴国王墓を訪ねた。今週は大阪に戻り、早速、疑問に思っていた、1世紀の奴国を中心とするチクシ連合国家と、3世紀の邪馬台国を中心とするヤマト連合国家へ変遷があったのか、あるいは両者には断絶があるのかを明らかにすべく、以前にも訪れたことのある奈良県の橿原考古学研究所付属博物館を訪問した。

 奴国の丘歴史資料館では,弥生の奴国が当時の倭国世界において、いかに先進的な国であったかを知った。さて、その奴国は、魏史倭人伝の世界(3世紀半ば)になると、邪馬台国卑弥呼の代官が治める王のいないクニに成り下がってしまった。何時頃、邪馬台国なるクニ、卑弥呼なる女王が北部九州を治めるまでに力を蓄えたのか? それを知る手がかりとして、水田農耕文化は、倭国内をどのように北部九州から近畿へ伝搬していったのか? 弥生の時代、北部九州と近畿の文化的、経済的な格差はあったのか? 何時頃近畿地方は,その格差を埋めて、は北部九州を支配するような先進地域となったのか? あるいは、早くから大陸との交渉があった北部九州を上回る先進文化圏が、すでに近畿地方に存在していたのか? ヤマトの弥生集落、唐古鍵遺跡は邪馬台国だったのか? 纏向遺跡は邪馬台国なのか?

 福岡平野に散在した弥生集落が集合、発展して奴国を形成して行った。そしてその奴国が、水田農耕文化、それに伴う灌漑、治水、土木、生産管理等の技術、気象観測や祭祀ノウハウ、そして、農機具や祭祀に必要な器具の生産技術,とりわけ金属製品の製造、大量生産技術の中心地になって行ったこと。そうした経済力、政治的権力確立の背景には、1世紀中盤に後漢の光武帝に遣使して金印を得て、柵封体制に組み込まれる事により倭国の支配権を確立したという史実があった訳だ。そうした後漢書東夷伝に記された時代(1世紀中葉)の倭国世界。当時の一大先進国であった奴国の時代、倭国内では東の中国地方や近畿地方への水田農耕文化の伝播、弥生農耕集落の分布状況はどうなっていたのだろう。とりわけ大陸文化からはなれていた近畿地方はどんな状況だったのだろう。

 橿原考古学研究所付属博物館では、奈良県を中心に、多くの発掘調査の成果を展示しているが、とりわけ関心を持って見学したのは、奈良県を代表する弥生時代のの環濠集落跡である唐古鍵遺跡と、3世紀の纒向遺跡についての展示であった。説明員の方が、丁寧に私の疑問に答えて下さり非常に勉強になった。

ポイント:

1)田原本町の北で見つかった唐古鍵遺跡は、筑紫の吉野ケ里遺跡などと同じ時代(紀元前2〜3世紀)の、3重環濠に囲まれた広大な弥生農耕集落跡であるが、それが邪馬台国の集落であったり、のちに三輪山の麓の纏向へ移ったりした(あるいはつながりがある)ような証拠は見つかっていない。むしろ中世頃まで純粋に農耕集落として継続していた形跡がある(後記:環濠集落は古墳時代には消滅し、跡に古墳が築造されたり、中世には村落が形成されたりしたようだ)。

2)ヤマト地方の弥生農耕遺跡からは、木製農機具や狩猟のための鏃などは大量に出土しているが、金属器具は少なく、石器や樫のような木製品である。大陸からの技術導入が直接的であった北部九州に比べ、遅れた農耕文化?と言い得るかもしれない。むしろ縄文的な採集生活と断絶が無い。一方、祭祀に用いたらしい銅鐸は大量に出土しており、北部九州の銅鉾とは異なる文化圏である事を示唆している。

3)水田稲作農耕が北部九州から伝搬した時期は比較的早かったようで、北部九州と近畿ではあまり時間的な格差は無いようだ。大阪府の池上曽根遺跡もその頃の大規模な弥生農耕集落跡である。

4)弥生の稲作農耕集落は北部九州から近畿地方に至るまで、出雲、吉備を含め、比較的広範囲に分布している。しかし、魏志倭人伝に出てくる國に比定されてもおかしくないような大規模な集落跡は、やはり北部九州と近畿地方に。

5)一方、3世紀の古墳時代初期の纒向遺跡からは農耕集落跡は見つかっていない。人工的に造成された水路や、建物、土木工具類が見つかっているが、工事現場や飯場的な様相である。3世紀と思われる箸墓古墳のような初期大型前方後円墳が周囲にあり(大倭古墳群)、これらの工事のために人が集められた可能性も。さらに尾張や吉備等から持ち込まれたと思われる土器が出土していて、各地から人が集まった(集められた)形跡がある。あきらかに弥生農耕集落とは異なる成り立ちだ。

6)一昨年発掘された纏向の「神殿跡」らしき建物も、意外に柱が細く(弥生時代の唐古鍵遺跡の建物よりも貧弱)、「こりゃムラの集会所じゃあ?』と本音を言っている人もいるとか。もっとも、東側のJR桜井線、さらに東の住宅地の発掘が進めば,さらに大型の居館跡が見つかり、新たな発見があるかも?

7)纒向遺跡を「邪馬台国」と呼ぶかどうかは別にして、どうやら倭国のあちこちから人が集まった、いわば新たに建設された「新首都」のような佇まいだと感じる。倭国が「卑弥呼を共立し」まとまったという記述に符合するのか? いずれにせよ,弥生の稲作農耕集落の発展形ではなさそうだ。

8)弥生時代の奴国の先進農業地域、先進工業地域といった性格と比較すると、弥生の近畿は後進地域であり、この時代から200年ほどの時間経過の間に、急速にキャッチアップして、大陸の直接の影響下にあった先進文化地域北部九州を追い抜いて、支配下に治めるほどの力がヤマトに備わったのかどうか? 古墳時代以前のそうした,急速な「弥生イノベーション」の痕跡は必ずしも見つかっていない。特に、大陸からの人の移動や,それに伴う技術、文化の近畿への直接移入(北部九州、瀬戸内海経由ではなく、例えば若狭湾、琵琶湖経由?)があったのかどうか不明。

9)「倭国大乱」の後の3世紀も、邪馬台国が経済力や武力で倭国を統一した訳ではなく、「鬼道」の巫女である卑弥呼を各国が「共立」して和平協定を結んだわけで、邪馬台国女王卑弥呼は「倭国統合の象徴」にすぎなかったはずだ。だからこそ,その権威を認めさせる(倭国連合の構成メンバー国に)ために、魏王朝(楽浪郡帯方郡の公孫氏を通じて)に使者を送って柵封を受けたのだろう。邪馬台国がその後のヤマト王権に繋がって行ったのかどうかは不明,と言わざるをえないだろう。


10)弥生時代後期の北部九州に多く見られる甕棺墓は、奈良盆地ではほとんど見つかってない。古墳時代以前は方形集合墓が中心でで、木棺が多い。古墳以前の王墓(須玖/岡本遺跡の奴国王墓や平原遺跡の伊都国王墓のような)も判然としない。墓制から見る王制の性格もかなり異なるようだ(あるいは、奈良盆地には他と隔絶した「王」はいなかったのか?それほどのクニはまだなかったのか?)。

 お約束の「邪馬台国はどこにあったのか?」という問いは別にして、1世紀中盤の奴国全盛時代と、倭国大乱を経て、3世紀中盤の邪馬台国が倭国を支配した時代へと、200年弱の間に、倭国の中心が北部九州から近畿に移ったのだとすると、その動機、過程は依然として謎に包まれている。稲作農耕文化の東遷は明らかだが、それに伴う金属機器(鉄製農機具)製造技術の伝播はどうであったのだろう。稲作伝播と同様に急速に東へ伝わったのか? 大陸では漢王朝が滅亡し、柵封諸国が混乱のなか(多分これが「倭国大乱」の原因だろう)、魏呉蜀の三国時代を迎えた中国。その混乱の後に新しい倭国を統合するクニ、邪馬台国があらわれ、その女王卑弥呼が「親魏倭王」として魏に柵封された。そしてそのクニは,北部九州ではなくて近畿地方の大和盆地にあったとすると...  突然に近畿が倭国の中心になるということになる。そこには歴史に大きな時間的、地理的ギャップがあるように思う。「鉄」をめぐる支配権争いがチクシとヤマトであったとする説もある。

 一方、邪馬台国九州説に立っても,邪馬台国に相当するような大きなクニの痕跡は今のところ九州では見つかっていない。話題の佐賀県三養基郡の吉野ケ里遺跡は、弥生時代後期の大規模な環濠集落であり、何らかのクニの中心であったのであろうが、位置が異なるし、卑弥呼の王宮らしき遺構も、大掛かりな古墳(「おおいに塚をつくる」)も見つかっていない。墓制は北部九州に特徴的な甕棺墓、集合墓である。まして「親魏倭王」の金印も,封泥も見つかっていない。福岡県山門郡あたりから何か見つかれば、また九州説が再燃するのだろうが、その場合は,何時,何故,邪馬台国が九州から近畿地方へ遷移したのか、どのようにチクシ連合国家がヤマト連合国家に変遷したのか、はたして日本書紀にいう「神武天皇の東征」伝説は、その変遷の記憶を後世に創作したものなのだろうか、等等が次の疑問としてわき起こってくるであろう。

 位置論争は、昨今の考古学的な発掘や年代測定成果からは、邪馬台国近畿説に少し分があるような気がする。わたし自身は福岡の出身で,子供のころは、特段の根拠も無く邪馬台国は九州にあった(あって欲しい)と思っていたが。しかし、日本の成り立ちを追い求める過程で、問題をあまり「邪馬台国はどこにあったのか?」という形にしてしまうと、取りこぼされてしまう課題がいっぱい出てくるような気がする。「邪馬台国」は魏志倭人伝に記述があるだけで,しかもその位置に関する記述は,魏の使者が直接足を踏み入れた、見たわけではなく、伊都国の役人からの聞き書きらしい。倭人は女王の居る場所を意図的に遠隔地設定した可能性もあり、正確ではない。しかもそれを検証出来る文献史料は無い。したがって、その解明は客観的な考古学データによるべきところを、主観的な希望や期待感も入り交じった「推理」となる。推理小説のように面白く、夢としては膨らんでも,結局はそれぞれの比定候補地による「邪馬台国誘致合戦」になってしまう。世に邪馬台国論争の本はゴマンと出ているが、どの説にも決定的な根拠、証拠は無いから、奇想天外なストーリでも売れる(その方が売れる)。

 「邪馬台国はどこにあったのか?」 まあ、しばらくはその問いは封印してみた方がいいような気がする。結果はあとからついてくるような気がする。

(弥生時代の環濠集落、奈良盆地の中にある田原本の唐古鍵遺跡の復元楼閣。纒向遺跡や大倭古墳群のある山裾(山処:やまと)ではなく,平地にある)



三輪山を観ながら走るJR桜井線(万葉まほろば線)纒向遺跡も箸墓古墳もこの沿線だ。



(卑弥呼の墓ではないかと言われる箸墓古墳。年代測定法により3世紀半ばの古墳とされており、ちょうど卑弥呼の時代に近い。やまとととひももそひめのみことの墓として宮内庁が管理する陵墓であるので内部への立ち入り調査は許されていない)





(奈良県立橿原考古学研究所付属博物館。近鉄畝傍御陵前駅から歩いて5分だ)



(2010年の纒向遺跡の神殿跡発掘現場。JR巻向駅の線路脇で発掘調査が進んでいる。後ろに見える山が三輪山。西には二上山を望む。纏向の神殿跡はちょうど三輪山を東に、二上山を西に、という東西軸の配置となっている)



2012年8月20日月曜日

卑弥呼出現以前の漢委奴國王  ー弥生の大国奴国の大王はどこへ行ったのか?ー

 古代史の定番歴史書、3世紀の三国志の魏志倭人伝に出てくる奴国。現在の福岡平野にあった戸数2万余戸を数え、7万戸の邪馬台国を除くと倭国中最大の国である。現在でも「那の津」、「那珂川」等の地名にその名の痕跡を残す奴国である。しかし、倭人伝の記述によると、この当時、奴国には邪馬台国の女王,卑弥呼の代官である、兜馬こ(角篇に瓜)(ジマコ)、副官の卑奴母離(ヒナモリ)が配置されていたが、王の存在が記述されていない。隣の伊都国(福岡糸島半島あたり)は戸数1万余戸ほどだが、卑弥呼の時代になっても代々王がいて、一大率という強大な権限を与えられた卑弥呼の代官が駐在していたと言う。倭国大乱の後、倭国のクニグニは邪馬台国の女王卑弥呼を共立して、ようやく、いわば「連合王国倭」(The United Kingdom of Wa)の成立で戦乱が収まる。卑弥呼は西暦238年には魏に使者を送り「親魏倭王」に任じられている。だが、その「連合王国」を形成する国々のなかの最大の国である奴国の王はどこへ行ってしまったのだろう。

 卑弥呼の魏の柵封、「親魏倭王」の受任をさかのぼる180年ほど前の、西暦57年には、奴国王は後漢の光武帝に使者を送って,漢の柵封を受け、金印をもらっている。これは5世紀に編纂された歴史書,後漢書東夷伝に記されており、その記述を証明する現物の金印が博多湾に浮かぶ志賀島で発掘されている。おそらくこの時代には、奴国は後漢と交流する事の出来る力を持ち、後漢から倭国全体を統治する事を認められた、いわば倭の盟主のような存在であったのであろう。その権威を後漢の光武帝から認めてもらったのが、あの「漢委奴国王」の金印である。

 そのような権勢を誇った奴国王は、180年ほどの間に史料から消滅してしまった。どのような運命を辿ったというのだろう。奴国王が光武帝から金印を受けた丁度50年後には、倭面土国王帥升等がやはり後漢に使節を送っている。この「倭面土国王帥升等」がどこの王なのか、一人の王なのかは不明だが,おそらくはチクシの王(伊都国?奴国?)であったのだろう。しかし、400年続いた漢帝国が滅亡すると,東アジア秩序に大きな政治混乱が起こった。後漢の柵封体制に入っていた倭国の王達は権威を失い混乱した事であろう。「倭国大乱」は、こうした時勢を受けて起こった可能性がある。後漢のあとの三国分裂の時代、陳寿が記述した三国志魏志倭人伝には,先述のように奴国王は出て来ない。あの金印はその後行方をくらまし,時代を下ること1700年後の江戸時代、1784年に黒田家治世の筑前福岡藩、志賀島の石の下から、地元の百姓によって偶然にも発見される事になる。

 ところで,奴国とはどのような国(クニ)であったのか? 記録に現れる奴国は1世紀から3世紀半ばに存在していたと見られるが、弥生中期から徐々にクニを形成して行ったのではないだろうか。春日市北部の弥生時代中期の遺跡,須玖岡本遺跡は弥生の大国、奴国の王都跡ではないかと言われている。紀元前一世紀頃の遺跡だとされている。明治32年、家屋の建築工事中に奴国王墓が発見された。大きな石蓋の下に甕棺を納めたた墳丘墓であった。中からは前漢鏡3枚や青銅器、ガラス璧等の多くの副葬品が出土していること、周辺には墓が無く単独の墳丘墓である事等から、被葬者は奴国王であろうとされている。あの後漢から金印を受けた奴国王の数代前の王であるといわれている。さらに、ここから3キロほど北へ行った比恵遺跡、那珂遺跡からも大規模な集落跡が見つかっており,ここが王都であったと言う説も唱えられている

 奴国は,現在の福岡市西部の西新遺跡あたりまで広がっていたと見られ、いくつかの衛星集落を包含する大きなクニであったようだ。特に須玖/岡本遺跡では、青銅器やガラス器の工房が集中して発掘されている。弥生の農耕遺跡だけではなく、こうした大規模な先進生産遺跡が集積されている状態は全国でも抜きん出ている。特に須玖遺跡からはこれらの鋳型の出土数が突出しており、さらに須玖坂本地区からは3000㎡にも及ぶ青銅器工房群が見つかっており、奴国の王都はいわば当時のハイテク産業の一大コンビナートの様相を呈していた。

 弥生前期(最近では縄文後期ではないかといわれている)の福岡平野には、日本でも最初期の水田稲作農耕跡である板付遺跡を始めとして、比恵遺跡、那珂遺跡などの環濠を巡らした集落や、磨製石剣、石鏃を副葬した墳墓が広範囲に見られる。おそらく、この時代はまだ各集落間の格差はそれほど大きくなくて、川の流域の低湿地に水田を創り、丘陵地や微高地に集落を形成していた。そのうち,30ほどのムラが出来、中期頃にはムラの間に格差が出始め、中期後半には須玖/岡本遺跡から王墓が出現する。このようにこれらのムラが一人の権力者(首長)のもとに集合しクニを形成し、やがては国(王)となる。それが奴国であろう。このころの国(クニ)の大きさは、後律令時代の「県」(アガタ)とほぼ同じだと言われている。律令時代の県(アガタ)はそのまま現在に至るまで郡(コウリ→グン)に引き継がれているから、当時の国を実感するには現在の郡の範囲を知れば良いことになる。すなわち、奴国は筑紫郡(那珂郡,蓆田郡が統合して出来た)の範囲ということになる。伊都国は糸島郡、早良国は早良郡というように。


奴国の権力機構は、農業生産の管理、収穫物の集積保管、流通を司り、農耕に必要な土地の開拓と水の管理、微高地を削っての定住地の造成、さらには農機具や祭祀に必要な器具,すなわち石器や青銅器さらには鉄器の生産を行う力を持っていた。農耕生産開始初期には伊都国の今山の玄武岩鉱脈が石器の一大生産地として存在し、広く九州から中国地方に至る遺跡から今山産石器が出土している。しかし、さらに生産性を向上させる新技術,すなわち金属農具が導入される。こうした器具の製造技術は人とともに朝鮮半島からやって来たのだろう。特に銅やすず、鉄の原材料を安定的に供給を受けるには朝鮮半島や中国大陸の資源が必要であったのだろう。奴国王が強大な権力を持っていたのも,こうした技術や資源を後漢帝国に保証されていたためではないか。

 しかし、奴国王が金印を授かって180年ほどの間に、倭国に大乱があり、奴国王は邪馬台国や近隣国に覇権を奪われ、殺されたのか,逃走したのか。ともかく新生連合王国倭の世界から奴国王は姿をくらましてしまう。前述のように奴国は邪馬台国卑弥呼の代官が治めるようになった。奴国王の権威の象徴たる金印は、おそらく、王が逃亡途中に志賀島の石の下に隠し、来るべき再起の時に備えたのかもしれない。そしてやがては、弥生のハイテク産業コンビナートとしての機能も停止して行く。

 時代は弥生時代から、3世紀の古墳時代へと移り、倭国の中心も北部九州から近畿地方へと移って行った。卑弥呼の邪馬台国が近畿地方にあったとすると、この百数十年の間に倭国の中心がいかにして「チクシ」から「ヤマト」に移って行ったのか、その変遷の過程はいまだに古代日本史の謎であるが、王墓の形態変遷を見ると考古学的には明らかに、北部九州と近畿では形態が異なったように思える。先程述べたように、奴国王の墓は、古墳ではなく甕棺墓であった。方形の墳丘の中心に甕棺に入れて埋葬し、その上に上石を置く形だ。甕棺墓は土壙墓、木棺墓とともに北部九州には広く発掘されている。吉野ケ里遺跡からも多くの甕棺墓が見つかっている。

 一方、奈良盆地や河内平野に展開する王墓は3世紀半の築造と言われる箸墓古墳を始めとして、以降、大型化する前方後円墳が特色である。いわゆる古墳時代の幕開けである。九州に見られる古墳は、多分に大陸の影響を受けているものの、明らかに九州がヤマト王権の権威に従い始めて以降のものである。

 こうして時空を追って行くと、「倭国大乱」、奴国の消滅は、倭国の中心が北部九州から近畿へ変遷して行く(チクシ時代からヤマト時代へ移り行く)過程に何か大きなヒントを残しているのかもしれない。ちなみに同時代の出雲の遺跡からは戦乱によると思われる傷ついた人骨が大量に発掘されているのに、ここ奴国の遺跡からは、いまのところそのような血なまぐさい痕跡は多くは確認されていない。倭国大乱のなかでの奴国滅亡、というシナリオにもまだ謎が残る。歴史の空白のなかに奴国王は姿をくらませてしまったようだ。「漢委奴国王」の金印を残したまま...





(甕棺を中央に埋葬し上石でフタをした奴国王の墳丘墓の構造。明治34年に家屋の建設中に偶然に見つかった。)















(奴国の丘歴史資料館における奴国王埋葬状況の展示。前漢鏡等の副葬品も展示されている。)



(発見された上石は奴国の丘歴史資料館の庭に保存展示されている。このエリアには甕棺や住居跡の発掘状況が保存展示されている。)


(撮影機材:Nikon D800E, AF Nikkor 24-120mm)

2012年8月14日火曜日

伊万里秘窯の里 大川内山を巡る ー「違いの分かるオトコ」の窯元散策ー

 「伊万里焼」と「鍋島」と「古伊万里」と「有田焼」の違いをご存知ですか?私は今回の旅でようやく分かってきたような...気がします。まずは大川内山のご案内を。

1675年から廃藩置県の1871年まで、大川内山は肥前佐賀鍋島藩の御用窯がおかれていた。ここでは独特の磁器製造技術を藩外にに流出させないように,この三方を奇峰に囲まれた谷あいに陶工達を移り住まわせ,関所を設けて人の出入りを監視したと言う。秘窯と言われる所以である。その窯からはカネに糸目を付けない最高品位の焼き物「鍋島」が生み出され、朝廷や将軍家、諸大名などへの献上品、贈答品として鍋島藩の権威をいやが上にも高める役割を果たした。伊万里焼は、Imariブランドとして海外,特に欧州の王侯貴族の人気を博し、入手を競う垂涎の品となっていった。伊万里港から各地に積み出される伊万里焼、鍋島は、長崎のオランダ東インド会社の主力輸出商品をなり、後にドイツのマイセンに影響を与えたことはつとに有名だ。

さて,そのような御用窯も明治の廃藩置県に伴い廃止されたが、その歴史は現在に至るまで継承され、現在は30数軒の窯元が、隠れ里のような谷あいの集落でその伝統の技法を受け継いでいる。

大川内山は伊万里市からさらに車で15〜20分ほどの山中にある。伊万里までは、福岡天神バスセンターから直行バスで1時間30分。頻発しているのでここまでは便利だが、伊万里駅前から出るはずの大川内山行きバスは、一日に5本程度。この日は天神からのバスが5分ほど到着遅れで,出発したあとだった(乗客もほとんどいないのに5分くらい待ってるってことはしないようだ)。つぎは2時間後。よってタクシーしか選択肢は無い。

大川内山入口の伝統産業館前でタクシーを降りる。いきなり伊万里焼で出来た橋がお出迎え。豪華で見事な物だ。しかし,辺りを見回すと、切り立った大屏風奇岩に囲まれた、とにかく秘境感漂う隠れ里だ。鍋島藩は明代の景徳鎮の官窯を模してこの地に御用窯を造ったそうだ。カンカン照りの夏の朝。観光客も人っ子一人いない。伊万里焼の風鈴が人気の無い静かな里涼やかに響き渡っていた。30数軒あるという窯元ひしめく鍋島藩窯坂を歩く。なかなか趣のある町並み。しかし、これを一軒一軒全部見て回るのは至難の業だ。登窯、藩窯公園、藩役屋敷跡、清正公堂、関所跡等を見て回り、入口の伝統産業会館と伊万里鍋島焼会館へ戻り、なかで涼みながらワンストップで鍋島、古伊万里、そして現在の伊万里焼コレクションを見て回った。もっともこれじゃあ、ここまで来る意味ないのだが。会館の係の人に「窯元全部は廻れませんねえ」とぼやいたら、「初めての方はここを観てから、気に入った窯元へ行くというのがいいんじゃないですか」と。なるほど。アドバイス通り、その後、御庭焼窯、泰仙窯、青山窯、魯山窯等を見て回った。

日本の陶磁器生産の歴史は,朝鮮の役(文禄、慶長の役)に始まる。この時に朝鮮から連れて来られた陶工達が技術を伝えた。、なかんずく李参平は唐津や有田で窯を開き、日本での陶磁器生産の元祖となった。最初は唐津辺りで陶器を手がけたようだが、後に有田で磁器に適した陶石の鉱脈を発見し、本格的に磁器の生産を始めた。有田には李参平の墓や、彼を陶祖として祀る陶山神社がある。

こうして有田で磁器の生産が盛んになり,多くの陶工が育って行った。酒井田柿右衛門などの現代にまで続く名工が生まれたのも有田だ。有田で生産され、それを外港である伊万里から出荷したので、「伊万里焼」と呼ばれていた。その後、塩田、波佐見、三川内等での生産も盛んになり、「伊万里焼」は商品として民間の窯で大量に造られるようになり、全国に出荷されていった。ちなみに,唐津焼は磁器(石もの)ではなく、陶器(土もの)である。筑前の小石原焼,高取焼も陶器だ。

しかし、鍋島藩は,先述のようにその高度で洗練された技術を門外不出のものとし、藩専用の特注品を造るために、藩窯を伊万里の郊外の大川内山に設けた。陶工達は関所や役人に守られ(監視され)、分業体制で最高のものを造った。陶工達は武士同様に藩から禄を受け,名字も許されたそうだ。そこで生産されたものが「鍋島」(色鍋島、鍋島染付、鍋島青磁)と呼ばれた。しかし、生産量は年間5000個と決められていた。一方、民窯で生産されるものは年間10万個だったと言うから、いかに「限定生産」であったかが分かる。

藩窯廃止後、その伝統を受け継いだのが現在の「伊万里焼」である。江戸期から明治初期に伊万里から出荷された有田製造の磁器を,これと区別する意味で「古伊万里」と呼んでいる。

一方、現在,有田で造られている磁器を「有田焼」と呼んでいる。どうも「伊万里焼」「鍋島」「古伊万里」「有田焼」の関係と区別がはっきり理解出来なかった。「有田焼」は、現在でも柿右衛門など、伝統の技法と名品を継承しているが、香蘭社や深川製磁のように、明治期の日本の花形輸出品を製造する会社組織も店を構えている。これらも海外に名の知れた有田ブランドである。

さて、おさらいです...

伊万里焼:
江戸期に伊万里港から出荷された有田、塩田、波佐見、三川内などで焼かれた磁器一般の名称。すなわち、産地の名称ではなく、出荷された港の名称を冠したものである。しかし、現在の「伊万里焼」は鍋島の伝統を受け継ぎ、大川内山で焼かれている物をいう。

鍋島:
江戸期に鍋島藩の御用窯(大川内山)で焼かれた、いわば特注品をいう。色鍋島、鍋島染付、鍋島青磁のジャンルがある。

古伊万里:
現在の伊万里焼と区別するために、江戸期から明治初期にかけて焼かれた伊万里焼をいう。

有田焼:
一般に有田で焼かれる現在のものをいう。すなわち地名由来の名称(波佐見焼、三川内焼も同様)である。

以上、参考になりましたでしょうか?

(大川内山産業振興会HPより)








(撮影機材:Nikon D800E, AF Nikkor 24-120mm F.4)

2012年8月13日月曜日

夏空のANA機編隊飛行?!

 お盆の帰省ラッシュの日、福岡から東京へANAで飛んでいた。瀬戸内海上空、岡山辺りで、ふと窓から左を見ると、ANA機がもう一機、やや下を平行して飛んでいるのが目に入った。意外に近い。ニアミス...というほどではないのだろうが、こんなに近くに他機が見えたのは初めてだ。

以前、やはりANAでニューヨークJFKへ向う途中、左後方から米空軍の戦闘機がANA機の下を右前方へ斜めに横切って行ったのを見た事があった。あの時はあっという間に戦闘機は過ぎて行き、鋭い航跡だけが青空に漂っていたのが印象的だった。

並走は当機とスピードを変えずに兵庫県の明石大橋上空まで続き、並走機はそこで左旋回、下降して行った。多分伊丹に向っていたのかもしれない。夏空に繰り広げられた編隊飛行ページェントであった。


岡山上空で左舷下にANA機が並走しているのを発見。クリアーに見えている。高度差はどれくらいなのだろう。



兵庫県姫路市上空まで、ほぼ同速度で並走。なかなか見事な「編隊飛行」だ。



明石海峡大橋上空で、左旋回、下降して行った。伊丹行きなのだろうか?


2012年7月29日日曜日

真夏の唐招提寺に古代蓮を愛でる

 暑い!連日35℃超の真夏日。ここのところ「今まで経験した事の無い猛暑」の日々。こんな時に唐招提寺に蓮の花を見に行く酔狂な人はいないだろう。近鉄西ノ京駅を降りると、観光シーズンには定番の薬師寺、唐招提寺コースを巡る観光客で混雑するこのエリアも、今日は人影もまばら。こんなに静かな唐招提寺を初めて訪ねた。拝観料を払おうと窓口へ行く。ふと見ると、係のオジさん座ったままお休みになってる。声をかけずにジッとしていると,やがて私に気付いて、「あっ、失礼しました」と。暑いし,拝観者はいないし....居眠りしてしまうでしょう。しかし,確かに暑い。入場券を買うと,私も南大門の松林の木陰で少々一休み。

  この暑い夏の季節は,少し北に向ったところにある喜光寺の蓮も人気だ。また藤原宮趾の一面の蓮畑も見に行きたかったが,さすがに炎天下,遮るものも無い宮跡まで歩く事を考えたら,メゲてしまった。それでも去年はそこへ行った。暑くて暑くて手にしたカメラが焼け石のように火照っていた。大極殿跡の木陰でほとんど休んでいたっけ... しかし,大和三山に囲まれた藤原宮趾に広がる一面の蓮は壮観だった。

 唐招提寺の蓮は、数こそ限られていて、喜光寺や藤原宮趾ほどの壮観さはないものの、その歴史的事績にまつわる品種では外せない蓮鑑賞スポットだ。1300年の時を経て蘇った大賀博士の古代蓮はじめ、中国から送られた品種や、鑑真和上ゆかりの蓮が有名だ。そもそも蓮は沼の泥水に大きな蓮の葉を広げ、気高いピンクや白の花が凛として咲き誇る姿が美しい。唐招提寺はその開祖、鑑真和上の気高い志と生涯を思い起こさせるにふさわしい蓮の寺である。一輪一輪の「蓮の台(うてな)に仏様がおわします」世界を体感する極めて適切なステージであると思う。

 2009年に平成の大修理が完成し、落慶法要を迎えた国宝の金堂も、いまでは何事も無かったかのように,天平の甍、創建当時のままのエンタシス列柱を伸びやかに再現している。解体修理のなかで、用いられている軒の木材が781年に伐採されたものであるという事もわかった。金堂建立時期を特定する有力な手がかりの一つと言えよう。10年をかけた大修理であるが、あっけないほど元のままの金堂が目の前に佇んでいる。そこが何とも素晴らしいではないか。

 意外に、というかさすがにというか、この暑いさなか,唐招提寺を訪ねる中国人旅行者が多かったのが印象的であった。それも団体の買い物ツアーのついでに,という感じではなく,明らかに個人旅行でという風体だ。なかには子供を連れて来ている人もいる。偉大なる自国の聖人の足跡を訪ねて来たのだろう。鑑真は、近代から今日にいたる日本と中国の関係をどのように眺めているのだろうか。おそらく国と国との関係性よりは,私人としての志を高く持つ事と、仏の教えをこそ学ぶべきである、と言ってるのだろう。暑さを忘れ、時空の隔たりを忘れるひと時であった。


(撮影機材:Nikon D800E, AF-S Nikkor 24- 120 ED)

2012年7月17日火曜日

飛鳥古京散策 ー飛鳥時代とは?ー

 飛鳥時代は、大和の飛鳥の地に天皇の宮殿がおかれた、6世紀末(592年)の推古天皇治世から、8世紀初頭(707年)の持統天皇時代までをいう。この時代は天皇が替わるたびに宮が建て直されて、狭い飛鳥の地を転々と遷った。この遷都遷宮の習慣は、以前の崇神天皇に始まる三輪王朝時代、応神天皇に始まる河内王朝時代から引き継ぐものであるが、飛鳥時代には大きな変換点を迎えることになる。

飛鳥時代の歴代天皇とその宮は次の通りである:

推古天皇(女帝)  :豊浦宮、小墾田宮
舒明天皇      :岡本宮、田中宮
皇極天皇(女帝)  :小墾田宮、板蓋宮
孝徳天皇      :小墾田宮、難波宮
斉明天皇(重祚女帝):小墾田宮、板蓋宮、川原宮、岡本宮
天智天皇      :岡本宮、大津宮、小墾田宮、板蓋宮
天武天皇      :浄御原宮
持統天皇(女帝)  :浄御原宮、藤原宮

この中には、火災による遷宮も含まれている。また645年の乙巳の変(いわゆる大化の改新)後には、一時、宮は飛鳥の地を離れ、孝徳天皇は難波の難波長柄豊碕宮、天智天皇は近江の大津宮へ遷ったが、孝徳天皇は難波にて崩御。天智天皇は結局飛鳥に戻っている。また、このように女帝の時代でもある。

最近の考古学的な発掘調査の結果、飛鳥時代の後半は、板蓋宮に一期から三期に渡って宮殿が造営されたらしいことが確認され、徐々に一カ所で宮殿を建て替える方向へ変わって行ったようだ。天武天皇の浄御原宮は、板蓋宮に建て直され、穢れを除くために佳字に改名したというのが現在の定説になっているようだ。

さて今、この飛鳥浄御原宮跡地(伝承)に立ち、あたりをグルリと眺めてみると、飛鳥は山や丘に囲まれた狭い地域だ。今の行政区域で言えばまさに奈良県高市郡明日香村内で、転々と宮を遷したことになる。そして日本の古代史を彩る重大な出来事や、歴史舞台の主人公達の生き様、死に様がここに凝縮されている。そう、国家としての「日本」はここから始まった。

推古天皇の摂政、厩戸皇子(聖徳太子)が政務を執ったのはここ飛鳥の地。十七条憲法もここで書かれた。しかし太子は飛鳥に居住せず、離れた斑鳩の地からここ飛鳥に通ったとされている。現在の法隆寺若草伽藍跡のあるところに斑鳩宮があったと言われている。その理由は明らかではないが、母方の一族である蘇我氏との軋轢が背景にあるとの説がある。飛鳥は蘇我氏一族が支配的な地位を保っていた土地でもある。太子の死後、蘇我氏は太子の息子である山背大兄皇子を攻め、一族は滅亡している。その背景は古代史の謎の一つだ。

皇極天皇の時代、645年の乙巳の変の蘇我入鹿の暗殺はここ板蓋宮がその現場だ。ここからは、蘇我宗家の居館があった甘樫丘が北西のすぐそこに見える。事ある時にはすぐに駆けつける事の出来る距離だ。中大兄皇子と中臣鎌足がクーデターを密談したという多武峰の御破裂山は、宮殿の東にそびえている。この山頂からは宮殿、蘇我氏居館を含め飛鳥の地を一望に見渡すことが出来る。

聖徳太子が生まれた館、後の橘寺も、蘇我氏が初めて創建した仏教寺院である法興寺(飛鳥寺)も指呼の間にある。飛鳥寺の傍らには蘇我入鹿の首塚がある。蘇我馬子の墓とされる石舞台古墳も多武峰へ向う道すがらだ。また当時はまだ中級官僚であった中臣氏の小原の里は飛鳥坐神社の東にある。

天智天皇崩御後に起こった、672年の壬申の乱。天智天皇の弟である、大海人皇子が吉野に逃れ、再起して東国(伊勢尾張)から進軍して飛鳥に入り、天武天皇として即位した歴史の舞台もここだ。

しかし、当時の東アジア情勢、特に朝鮮半島情勢とそれに関わる唐帝国の動向は、倭国を大陸の東辺部にあるアイソレートした島でいる事を許さなかった。せいぜい狭い奈良盆地のなかの、さらにその南東の山あいの一角という狭い「世界」での権力闘争に明け暮れる、いわば「のどかな時代」は終わりを告げる。斉明天皇と中大兄皇子(後の天智天皇)は、倭国の盟友百済の救援のために朝鮮半島に出兵した。しかし663年の白村江の戦いで唐/新羅の連合軍に大敗し、ほうほうの体で逃げ帰る。今度は大陸の超大国唐による本土侵攻の脅威にさらされる事となる。こうしたグローバルな情勢変化に伴うヤマト王権存亡の危機が「国家」を意識させるようになる。

やがて唐の倭国本土侵攻は無いことが認識され、先述の壬申の乱も終結し、天智天皇と大化改新の功労者である中臣改め藤原鎌足を中心とする武断政治から、天武天皇/持統天皇のいわば天皇親政、律令政治への転換が果たされると、むしろ積極的に唐に学び、国家体制の強化(律令制の整備)、国家の権威を示す正史の編纂(記紀編纂)、経済基盤の確立(公地公民制、租庸調、班田収授法などの税制、土地改革)、仏教を中心とした社会基盤確立(鎮護国家)に取り組む。そして、国号を「日本」とし、唐の則天武后に承認させるに至る。さらに国家の威信をかけ、唐の長安を手本とした王城建設に着手する。すなわち藤原京(新益京)建設である。天皇を中心とした中央集権体制強化(皇祖神天照大神、King of Kings)が図られたのもこの時期である。こうした歴史的なイノベーションが意思決定されたのが、ここ板蓋宮(のちの浄御原宮)である。なんだか明治維新に似ていないか?

軍事的外圧に屈した後に、むしろ敵国の政治,文化、技術、経済システムを吸収し、国の姿を創り直して行く事業が始まるという、いわば「日本型パラダイムシフト」とも言われるモデルはこのとき形成された。1200年後に起こった「黒船来航」をきっかけとする開国、倒幕運動、維新動乱のなかでの攘夷運動、「馬関戦争」「薩英戦争」で大敗をくらった薩長の攘夷から西欧列強に学ぶ近代化への一大転換。そして明治維新(「王政復古」はこの飛鳥の時代の天皇中心政治への復古を目指したものである)。そして日本史上最大の敗戦「太平洋戦争」後の米国指導の下での日本再生。いずれも、日本人のメンタリティーに潜む、のどかで居心地の良い「飛鳥」「大和」的パラダイムを、外的要因により大きく変換させて次のステージへシフトさせた歴史である。

あらためて飛鳥という、この狭い箱庭のような地域の有する独特の景観と風土が、日本という国家の原点である事を再認識させる。当時の中国の歴代王朝が勝手に名付けた、蛮夷の民の住む地域としての名称「倭」から、当時のリーダーが自ら国家意識を持って称した国号「日本」への国家形成運動が起こった。飛鳥はこれらを育んだ胎内であり、生まれ出た若い国家の揺籃であったのだという事に気付かされる。

しかし、であるが故にであろうか、日本が次のパラダイムシフトを求められている21世紀のこの時代に、この地を訪ね、のどかで緑溢れる風景、ゆったりと流れる空気、あちこちに現存する歴史の痕跡、よぎる古代の出来事の記憶。これらに触れ、「飛鳥という小宇宙」に身を置くと、ふと心が安らぐのは、原始倭国人のDNAが呼び覚まされるからだろうか。生来そういう空気と適度な囲まれ感を求めているのだろうか。ただ、それを「日本人の心の故郷、飛鳥」などというキャッチフレーズで片付けたくないが、そういう原点から再スタートして,新しいパラダイムを切り拓くエネルギーを放出させる力にしたいものだ。そのためにはこの倭国から日本への転換の歴史に学ぶことが多いと思う。

(話は変わるが、江戸時代、徳川幕藩体制のいわゆる「鎖国」時代や、菅原道真進言で、遣唐使を廃止した後の平安時代は、日本が独自の文化を育みながら(世界的にみれば)停頓していた時代かもしれない。平安時代は400年弱、江戸時代は約260年続いた。外敵に侵攻もされず平和な時代が長く続いた珍しい歴史だ。特に16世紀後半から17世紀の大航海時代のスペイン、ポルトガル、さらにはイギリス、オランダの極東進出を、小国ながらうまくコントロールしつつ、日本を外敵の進入から守り、かつ、貿易利権は独占するという、巧妙な「鎖国」政策を行って来た徳川幕藩体制の外交手腕は特筆に値するかもしれない。その政策が、19世紀の幕末まで260年余も続いたことが奇跡だった。それが破綻にひんした時、そこからパラダイムシフトするエネルギーを失ってしまっていたのが徳川政権崩壊の原因だったのだろう。)




(撮影機材:Nikon D800E , AF Nikkor 24-120mm, 70-400mm)



2012年6月16日土曜日

福岡城と鴻臚館 ー半島に築け時代の館をー

 忙しい一週間が終わり、やっと週末に。しかし,季節は梅雨。今日から本格的に雨が降り出した。時空トラベラーもこの週末は自宅引きこもり。ってことで、出かけずに,ブログ書き。

 福岡城は別名舞鶴城とよばれ、黒田如水、長政父子の築城になる名城だ。関ヶ原の後、その功績を認められた長政が徳川氏から筑前52万石を与えられ、豊前中津から筑前に入国した。最初は小早川隆景が開いた名島城に入城したが、領国経営には手狭という事で、那珂郡警固村福崎に地に新たな城を築き、城下町整備を開始した。ここは当時は博多湾に突き出した半島のような場所で、東は古代の冷泉の津を隔てて博多の町、西は湾入する潟(草香江)、北に博多湾、南に赤坂山、大休山という要害の地であった。ここを黒田家ゆかりの備前福岡にちなんで「福岡」と命名した。


 城郭の形式は、黒田長政が朝鮮出兵時に知った晋州城を参考にしたという平城である。天守台、本丸、二の丸、三の丸の四層構造で、47の櫓が設置されていた。加藤清正築城の名城熊本城のような壮大さは無いが、合理主義者の如水、長政らしく、戦国乱世の城ではなく、平時の城としての実用性と合理性を体現した城だと言われている。外濠は浅く、城壁は低く、部分的には石垣も無い構造だが、隠密等が進入しようとしても浅すぎて隠れることが出来ず、高い石垣が無いので見つかりやすい構造となっている。西側はかつての草香江の入り江をそのまま利用した広大な大堀を配し(現在の大濠公園。ちなみにここが公園として整備されたのは明治以降)、北は博多湾を埋め立てて武家屋敷や町人町を配す。東は古代からの商業町博多。那珂川まで中堀(紺屋町堀)、肥前堀を配した(いずれも埋め立てられて現存しない)。南は大休山と(現在の南公園を含む桜ヶ丘エリア)いう縄張りであった。

 よく話題になる天守閣は建てられたのかという疑問だが、「無かった」というのが定説のようになっているが、だが「あったが破却された」という記録も。現在も立派な天守台跡が残っている。最近、観光の目玉として、天守閣「復元」の話も話題に上っているようだが、イマイチ盛り上がりに欠けているようだ。そもそも、お城自体,もっとキチンと整備しないと,石垣は草ぼうぼうで,崩れかけているところすらある。47あったという櫓の位置や、遺構の確認、検証も必要だろう。少なくともホームレスのブルーシートが点在するようでは城跡公園としては如何なものか。国立病院の移転、平和台球場の廃止、そして高等裁判所の六本松移転等、徐々に城内の城跡公園としての整備が進んでいるが。




福岡城内配置図 福岡県立図書館蔵



江戸時代の城下町福岡と商人町博多


 明治維新以降は城内には、一時福岡県庁がおかれたが、のちには陸軍の練兵場や兵舎がおかれ、屋敷や多くの櫓が破却された。戦後は、一世を風靡した「野武士軍団」、西鉄ライオンズのフランチャイズ、平和台野球場や、福岡国際マラソンの平和台陸上競技場、国立病院、福岡高等裁判所、戦後復興住宅などが立ち並び、堀と石垣の一部が残されたものの城としての様相が薄れてしまった。子供の頃見た、お堀越しの石垣上に平和台球場の大きな照明塔が立ち並ぶ光景を思い出す。また47あった櫓もほとんどが無くなり,唯一潮見櫓が大手門脇に復元されたが、最近ではこれは潮見櫓ではないとの見解が有力。また、祈念櫓が復元されたが,これも最近の研究ではオリジナルか否か疑わしい、と。大手門(下の橋御門)が不審火で焼失したが、これを最近復元した。しかしこれもオリジナルの形が不明とのこと。このように福岡城の詳細は資料も不十分で,これだけの大大名の居城にしてはあまりにも記録が残っていない。


博多古図。
右が冷泉の津,博多、左が草香江。半島部が警固村、平尾村。その先端に現在の西公園がある。
当時は島だったのだ。
住吉神社に奉納されているもので、時代は判明していない。

鴻臚館想像図。福岡市教育委員会パンフレットより。
このように博多湾に突き出した岬の先端に立地していたようだ。
左上の島は現在の西公園

 ところで、この福岡城内に飛鳥時代、奈良時代、平安時代(7世紀後半〜11世紀前半)にもうけられたという鴻臚館があったのでは、という説を唱えたのは、九州帝国大学医学部の教授であった中山平次郎。大正時代の事である。それまでは、江戸時代以降、鴻臚館は博多の呉服町付近にあった,という説が定説であった。1987年の平和台球場の外野スタンド工事の時に地中から遺跡が出て来た。これが古代筑紫館、鴻臚館の跡である事が発掘により判明した。中山博士の予測通りであった。

 その後平和台球場は廃止され、その後では鴻臚館の発掘作業が現在も続いている。しかし、先程も述べたように、この地は古代には冷泉の津と草香江の挟まれた半島のような地形で、博多湾に突き出していた。「警固(けご)」という地名が示すように、天智天皇の時代に663年の白村江の敗戦後の倭国防衛の最前線の那の津に警固所が設けられ、防衛拠点とした。そして戦時の緊張関係が和らぐと,今度は大陸との交流の拠点として鴻臚館を設置した訳だ。後世,偶然にも同じ地に黒田父子が福岡城を構築したことになる。このような半島のような地形を人々は歴史の舞台に好んだのだろう。大阪の上町台地も往時は難波津と河内湾に挟まれた半島状の台地であった。その先端に四天王寺や難波宮、石山本願寺、そして大坂城が次々と設けられた。時代が変われどもそのような立地が好まれたようだ。


 (撮影機材:FujifilmX-Pro1, Fujinon Lens 18, 35, 60mm)

2012年6月3日日曜日

筑後柳川 ー水郷と白秋のまち。そしてうなぎのせいろう蒸しー

 川下りと北原白秋で有名な水郷柳川(柳河)は、筑後南部、立花氏13万石の城下町だ。しかし、あまり「城下町」という印象は薄いかもしれない。むしろ倉敷や佐原のような、漠然とした商業町のイメージがある。一つには水郷地帯に築かれた平城で城跡がはっきりしない事があろう。観光写真も、殿の倉や並蔵のような水路沿いの蔵屋敷のイメージを強調している事もあろう。ちなみに、筑後国は江戸時代は北部が久留米有馬藩21万石で、筑前国のように黒田家が一国支配する体制とは異なっていたようだ。

 立花家は、もともと九州の有力大名大友家の重臣であった。立花宗茂は、筑前立花城主の立花(戸次)道雪の娘で、8才で主家に安堵されて女城主(城督)となったギン(門構えに言)千代の婿養子として、高橋家から入った(あの岩屋城主高橋紹運の嫡男だ)。島津氏との戦いでの功績が豊臣秀吉に認められて、筑後柳川13万石の大名に取り立てられた。しかし関ヶ原の戦いでは西軍側に組したため、敗戦後は徳川から家臣共々領地を追われ,浪々の身になってしまった。替わって三河岡崎から田中吉政が入国し、現在の濠割を巡らせた柳川城下町の基礎を造ったと言われている。しかし、田中氏は跡継ぎが居らず、20年あまりの領地支配の後、御家断絶。徳川に恭順した立花氏が再び元の領地に入国するという異例の展開となった。立花家は幕末まで続き、明治維新後も柳川に留まり、現在の御花(旧立花邸)の当主である。こうしてことから最近は「敗者復活」「よみがえり」の聖地として若者に人気があるらしい。戦国ものの漫画、劇画の題材に取り上げられているためだ。

 柳川は大きく、柳川城内、その東北に位置する柳河城下町、西の沖端町の三つに分かれる(添付の古地図は上下が東西方角になっているので、左上が柳河城下町、右下が沖端となる)。これらの町割りは現在も、掘割と小路でそれと確認出来る。柳川城内も掘割ではっきりとその範囲がわかるが、天守は現存せず、城壁もあまり残っていない。沖端は沖端川に面した湊町であったが,現在も沖端漁港となっている。


「御花」は観光の中心であるが、先程も述べたように現在も旧藩主立花家の邸宅である。堂々たる大広間を持つ屋敷と広大な庭園、松涛園、そして明治期に元藩主が好んで建てた洋館が、ここでも正門の向こうにそびえている。屋敷の大広間から眺める白亜の洋館は、妙にマッチしていいる。

 北原白秋の実家は沖端に位置している。立花邸からそれほど遠くないところにあるが、この辺りは城下町というよりは、もう漁港の雰囲気である。近くには櫂や櫓を売る古い店があったが、今回行ってみると、きれいに改装されてお土産屋さんになってしまっていた。沖端漁港は、今はコンクリート護岸工事で整備されてしまったが、昔は、有明海の干満差の大きい港で、干潮時には泥底が露呈した上に多くの小型の漁船が乗り上げている光景が独特の景観を呈していた。昔ながらの風情をいつまでも残すという事は難しいものだ。ただ、木造の水産橋が、朽ち果てた橋脚をさらしていて、やつれ感を漂わせている(ちなみにこの橋は車両通行禁止。しかし、人は渡っていいようだが、何時崩落してもおかしくない有様だ)。

 柳川といえば、うなぎのせいろう蒸しが名物だ。子供の頃、両親に連れて行ってもらって初めてせいろう蒸しを食べた事を覚えている。たしか若松屋という店だった。今も掘端にある。せいろう蒸しとは、せいろうにご飯を盛り,その上にうなぎの蒲焼きを乗せてタレをかけてフタをして蒸す。味がしっかりとうなぎとご飯に沁みてアツアツをふうふう言いながら食べる。うまい!なかなか東京や関西ではお目にかかれない。博多には中洲川端に店がある。名古屋のひつまぶし、なんぞというお茶かけて食うみたいなヤツはあちこちで目にするが、この柳川の伝統うなぎ料理はまだ全国区ではないのか。

 しかし,それにしても柳川の水路,掘割は網の目のように街中に張り巡らされている。川下りの船はあちこちに乗り場があって、船頭さんの語り口を楽しみながら船下りを楽しむ観光客で賑わっている。このように,昔は水路が極めて重要な交通、輸送手段だった。河口や大きな河の支流や運河沿いに物流拠点として発展した町が全国あちこちに見られるが、ここも沖端川を経て有明海につながっていた。

 現在の柳川市の玄関口は、西鉄天神大牟田線の柳川駅。福岡天神から特急で45分ほど。駅は観光の中心である御花や白秋生家のある地域からは離れているが、船下りの乗船場が近い。バスで行く手もあるが、掘割沿いにぶらぶら散策するのも良い。歌碑巡りしながら、船下りしてる人たちを岸辺から見るのも悪くない。柳川は先にも述べたように、よくその町割りと掘割が、今に至るまで珍しくも残された城下町なのだから、ゆったりと、小路や街道を巡るまち歩きが、実は柳川を知る一番良い方法なのだ。そこには隠れた「美」がここにも、あそこにも... 。



(撮影機材:FujifilmX-Pro1, Fujinon 18mm, 35mm, 60mm)

2012年5月28日月曜日

Nikon D800E登場! ー'E'は「いいね!」ー

 これはモンスターマシーンだ。36.3メガピクセルという、D3s, D700の約三倍の画素数を誇る高解像度マシーン。しかも、D800Eはローパスフィルター機能を無効化して、より解像度を上げた機種。モアレ、偽色の心配をする向きもあるが、すでにLeica M9やRicoh GXR 12ライカマウントアダプター等,ローパスレス化しているし、ニコンにこのラインアップがあっても何らおかしくない。風景中心に撮っている私には,例えば、樹々の葉の一枚一枚がより精彩に写し取れる、古色蒼然たる古代建築の木の質感がシッカリ切り取れる方が良い。もはや中判カメラの画質の領域に入り込んでしまったような感じさえする。ワクワク。

 普通のD800にすべきか?、それともD800'E'にすべきか? 「That is the question.」と、カメラ雑誌等で論じられているが、問答無用。より高精細に一歩でも近づけようという、たゆまぬ技術の革新と,果てしない欲望を満たす努力に軍配を上げる。妥協する必要は無い。最初から'E'を予約した。もっとも「普通」も'E'も発売当初から、「想定外の」予約殺到で供給不足が続いている。予備バッテリ注文したら,こちらも入荷見通し無し!(コッチはリコール問題で)。じゃあと、立て位置グリップ用のD4と共用のリチウムイオンバッテリーを購入したら、今度はその「フタ」が入荷3ヶ月待ち..... なんじゃそりゃ!しばらくはグリップに単三アルカリ電池入れて予備にせざるを得ない。

 これだけの高解像カメラになると、相棒のレンズを選ぶ必要がある。いわゆるレンズのアラ(欠点)がそのまま写るからだ。ニコンは推奨レンズを16本リストアップしているが、最近の金リング付きのレンズならどれでも良さそうだ。また、風景写真ではレンズに手振れ補正機能があっても、三脚が必須になりそうだ。益々,重装備で散策しなけりゃならなくなる。高精細は辛い。

 しかし、問題は、いずれにせよその画素数の大きさ。今度のニコンの画像エンジンはこんなヘビーなデータでも,さくさくと処理してくれる優れものだが、当然メモリーカードの容量は最低32Gくらい欲しい。コンパクトとSDカードのダブルスロットになっているのは助かる。そして、PCやネット環境にも大きなインパクトを与える。まず、現状のシステム環境、すなわちMac Book AirやiMacの4G程度のメモリーサイズでは処理がかったるくてイライラする。そしてHD、フラッシュストレージの容量がすぐに足りなくなってしまう。今ある外部HDに、1Tbくらいの外付けのHDを追加する必要がある。

 そもそも、MacのPreviewもiPhotoもApetureもD800のRawにまだ対応してくれていない。AdobeのLightroomもまだ未対応だ。ネット上ではPicasaもそもそもRaw未対応、JPEGでもサイズに制限があって、D800のファイルは半分くらいに落とさないと受け付けてくれない。Flickrが最近、大容量ファイルもそのまま受け付けるサービスを始めると発表したが、せっかくD800のような高画素機がリリースされ、アクセス回線も光ファイバーのフレッツ光ネクストになっているのに、ネットの写真サイトも早く大容量化に対応して欲しいものだ。クラウド時代のサーバー容量の問題だろうが。

 少なくともD800のRawに関しては、今のところ付属してくるビューワー、ViewNX2でしか見ることが出来ないのはフラストレーションだ。もっともiPhotoで36.3メガのRaw観るなよ、かも。

 このように高画素モンスターマシーンの登場は画期であるが、システム環境のグレードアップを伴わなければ、その本来のパワーを十二分に発揮出来ない。FaceBookやPinterestにアップするくらいの写真ならコンデジ1200万画素で充分だ。もっともiPhoneやiPadなんぞを「カメラ」と一緒にして欲しくないが... 本来ならA3やA1に引き伸してこそ高画素が生きるのだ。サは然り乍ら、Mac上で観るD800Eで撮ったJPEG画像のキメの細かい画質は異次元の写真に見える。なにかこれまで見えなかったものが見えるようになった、写せなかったものが写せるようになった感じがする。

 これからも、このD800E担いで、ますます「...山河を跋渉して寧所に暇あらず...」になりそうだ。それにシステム環境グレードアップへの設備投資を迫られるのが頭痛の種に...




(D700の後継機種,というよりは、全く新しいシリーズといった方が良い。見かけほど重くはないが、良いレンズを装着するとなるとそれなりのパワーリフティング状態に。体力をつけておこう。)

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(ローパス機能無効化の有無の違いは、これではわかりにくいが、よりディテールが再現できるようになった。)