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2019年3月31日日曜日

皇居乾通りから千鳥ヶ淵へ(第一章) 〜華のお江戸は桜花爛漫!〜



 2014年に始まった恒例の春と秋の皇居乾通りの「一般公開」が今年も実施され、坂下門から乾門までの800mの乾通りを通り抜けた。普段入れない皇居の敷地内に入れるのは、この春と秋の通り抜けと、新年や天皇誕生日の一般参賀の時だけである。我が家にしては珍しく、3月30日(土)の初日に参加。いつも「激混み」のニュースが聞こえてくるので早めに行ってみることにしたら大正解。花曇りで肌寒い1日であったことも幸いしたのか、待ち時間0分で流れに乗ってスムースに入ることができた。地下鉄二重橋駅近くの皇居前広場が集合地点になっていてそこから坂下門まで歩く。広場には規制線がとぐろを巻いていたが、今日は誰もここで待機させられることなく閑散としている。時間帯によってはすごい行列になるのだろう。並んだり待たされるくらいなら行かない方がマシ、という東京生活には極めて不向きな性格の私には嬉しい事態であった。

 坂下門を入ると、左に新宮殿がちらりと見える。ここでは外国大使の親任式や賓客との接受が行われるが、我々国民にとっては一般参賀が行われるほか、父の叙勲の時はここで親授式が行われた。その隣には宮内庁の風格ある建物が。コレは坂下門外から見えている建物だ。ここから並木道が続く。桜の本数は72本とそれほど多いというわけではないが、種類が多く手入れがよく行き届いている。さすが皇居内である。どれも満開を迎えている。通りに沿って歩くと、右手に蓮池濠と富士見櫓、富士見多聞が連なる。どれも現存する江戸城の遺構である。この堀と高い石垣と多聞櫓に守られているブロックが江戸城の本丸があったところ。今は東御苑として一般公開されているところである。ちなみに乾通りはかつての江戸城の西の丸、紅葉山、現在の吹上御苑のあるブロックを南北に通っている。徳川江戸城の時代と異なり、明治以降はこちらが皇居/宮城として整備された。桜や紅葉もさることながら見事な江戸城本丸の外観を西の丸側からを楽しむことができるのも乾通り散策の楽しみの一つだ。左手には太田道灌時代の遺構である道灌堀とその傍らの桜と新緑が美しい。秋は紅葉の通り抜けがある。コレもそれほど本数があるわけではないが見事な枝ぶりの木々の紅葉が楽しみである。この季節は紅葉の新緑が美しく、桜色とのカラーコラボレーションが素晴らしい。手入れの行き届いた常葉の松も見事で、高石垣と多聞櫓の白壁を背景にした松の古木のシルエットも風格を感じる。出口の乾門が近づくと、西詰門を右手に折れて東御苑(すなわち本丸)に抜けることもできる。このまま真っ直ぐ乾門に向かって進むと、右手に深い乾濠が見え、石垣に囲まれた堀に隔てられた本丸、天守台跡へと渡る橋が目に飛び込んでくる。結構な深さの堀に架けられている。北詰橋だ。いざとなると橋を落として本丸を守る、という防備の構造がはっきり見て取れる。江戸城はやはり守りの城なのだと認識させられた。

 乾門を出ると、突然人が多くなる。そう、ここは北の丸公園の南の端、ここからは東京の花見の人気スポット千鳥ヶ淵であるからだ。途中旧近衛師団司令部の赤レンガの建物を右に見て、首都高速を脚下に見ながら千鳥ヶ淵戦没者墓苑に向かう。この辺りから、靖国神社までのお堀濠端の狭い土手道「千鳥ヶ淵緑道」はギッシリと花見客で埋め尽くされる。この雑踏については改めてここに記述して紹介するまでもないだろう。桜満開といえばの恒例の光景である。一つ感じるのは以前に比べて訪日外国人観光客や在日外国人家族などの姿が多くなったということ。確かに彼らにとって、桜と皇居と雑踏、コレぞNippon !なのだ。

 (この続きは第二章で)



皇居前広場

坂下門


新宮殿

宮内庁



柳の新緑

江戸城富士見多聞


道灌濠


乾門に向かう人の波

常葉松


本丸に繋がる北詰橋


モミジの新緑とのコントラスト



皇宮警察
警備ご苦労様です


乾門

乾通り通り抜け案内図
皇居の航空写真



2019年3月26日火曜日

イギリスはヨーロッパなのか?









Rule, Britannia! Britannia, rule the waves:
Britons never never never shall be slaves.

BBC Proms HPより



 イギリスがEUからの離脱(Brexit)で混乱している。メイ首相の離脱案は二度にわたって議会で否決され、3月29日の離脱期限までに合意できる見通しは絶たれ、離脱延期を余儀なくされている。しかし、延期されても離脱案が議会で合意される見通しは立たず、このままだと「合意なき離脱」となる。混迷の中、政治が何も答えを出せない状況に国民はうんざりしている。そもそも前回の国民投票で、イギリスの有権者はこういう事態になることを予見していたのだろうか?当時のキャメロン首相は、国民投票やれば離脱は否決されると見ていたので、国民投票で離脱論議に終止符を打つつもりだった。しかし、答えは反対に出た。この見通しが誤っていたことになる。その上EUからの離脱はこれほど大きな混乱をイギリスにもたらすことになると国民は理解していたのだろうか。もう一度国民投票をやり直すべきだ、と言う声も上がっている。ある世論調査では、もう一度国民投票やるとしたら離脱反対が半数を超えるとの結果がでているという。ロンドンでは離脱反対の大規模なデモも起こっている。

 その前に、日本人が「イギリス人」として一括りにしている連合王国(正式国名はUnited Kingdom of Great Britain and Nothern Ireland)に所属する人々は、イングランド人、スコットランド人、ウェールズ人、アイルランド人にわかれている。「イギリス」という単一の国があるわけでも、「イギリス人」という単一民族があるわけでもない。スコットランドはもともと16世紀まではイングランドとは別の王様をいただく独立王国であった。アイルランドは長くイングランドに支配され苦悩の歴史を背負う国で、現在はカトリック系のアイルランド共和国(連合王国の一員ではない)とプロテスタント系の北アイルランドに分離され、後者は連合王国に属している。ウェールズは比較的独立の動きは少ないが、それぞれの地域は依然として独立志向を持っている。Brexitが起きると、スコットランドは連合王国からの分離独立の動きが加速される可能性がある。アイルランド共和国はEUに残るので、北アイルランドが、ふたたび連合王国からの離脱、アイルランド共和国との統合の動きが出る可能性がある。長い紛争の歴史のすえに沈静化しているカトリック教教徒とプロテスタント勢力との抗争が再燃し、かつてのIRAテロの悪夢が復活する恐れが出ている。このように「イギリス」は文字通り「連合王国」であり、もともと単一民族、一枚岩の国ではないのだ。これは大陸諸国においても多かれ少なかれ同様で、ヨーロッパ各国はそれぞれ、ヨーロッパ以外からの移民を含めて多民族国家である。

 しかし、それにしてもなぜイギリスではEUからの離脱がアジェンダに上がるのか。そして強い支持を得ているのか。なぜこんなに揉めるのか。そもそも戦後のヨーロッパ統合の動きにも、EUに加盟するときにもイギリスでは大きな論争が起こった。今でもヨーロッパ共通通貨ユーロ€には参加していない。日本人の我々はイギリスはヨーロッパの国だと思っているから、なぜこんなことが起きるのか理解できない。しかし、本当にイギリスはヨーロッパなのか?イギリス人は大陸諸国の人々と同じコミュニティーに属していると思っているのか? そこにはイギリス人の心の深層にいまだに脈々と流れる「ある観念」がある。これを知るために、イギリスという国の歴史を駆け足で振り返っておく必要がある。

 ブリテン島は古代ローマ時代にはケルト人やゲール人が住む辺境の島であった。その後、ローマ帝国に征服されブリタニア属領になるが、ゲルマン人の移動や、バイキング(デーン人)の侵入、さらにはノルマン人の侵入など、大陸からの絶え間ない異民族の侵入にさらされてきた島であった。歴史で習った様に、ようやく11世紀の「ノルマンの征服1066年」、すなわちヘースティングの戦いで土着の王ハロルドを大陸から侵攻してきたノルマンディ候ウィリアムが屈服させて、ノルマン王朝を打ち立て封建制度を基軸にイングランドを統一した。これ以降ブリテン島に異民族が侵入する歴史に終止符が打たれた。しかしこれ以降も、ブリテン島は紛れもなくヨーロッパ大陸の周縁部にあり、絶え間なく大陸との人の出入りがあり、王がブリテン島と大陸に領地を持ち、その攻防を繰り返し、その文化と歴史を共有する国であった。

 しかし、16世紀後半にはチューダ王朝のヘンリー八世、エリザベス一世の時代にイングランドは強力な絶対王政を確立し、ローマカトリック教会から分離独立して英国国教会(プロテスタント)を立てる。さらにはスコットランド王メアリーを処刑して、イングランド王がスコットランド王を兼任する。さらには当時、大航海時代を切り開いた大国スペインの無敵艦隊をビスケー湾に沈めて、七つの海を支配する世界帝国への道を歩み始めた。アメリカ植民事業を進め、1600年にはアジア植民事業を担う東インド会社を設立した。18世紀にはアメリカの独立でカナダ以外の北米植民地を失うことになるが、産業革命と植民地獲得により地球の東へ遠征を進めてゆく。

 こうして19世紀になるとヴィクトリア女王のもとイギリスはスペイン・ポルトガルに代わり大航海時代における覇者となり、アフリカ、中東、インド、ビルマ、マレー、オーストラリア、ニュージーランド、カナダ、さらには香港を植民地化して「日の沈まぬ大英帝国」全盛時代を誇った。いわゆるパクスブリタニカの時代だ。世界帝国としてのイギリスの時代は17世紀にビスケー湾を脱してから、第二次世界大戦で勝利したにも関わらず、多くの植民地が独立し、アメリカの時代(パクスアメリカーナ)を迎えることとなった20世紀中葉まで400年続いた。

 この七つの海を支配した大英帝国の栄光はイギリスの人々の記憶から消え去ることはない。かつてあのローマ帝国の属領であったブリタニアは、そのローマ帝国をも遥かに凌駕する大帝国になったという記憶がイギリス人の国家意識の基層にある。いまやヨーロッパの一国となってEUのルールのもとでこじんまりと余生をおくる老大国。そんな人生でいいのか?と言う思いは意外に強い。そういったノスタルジアだけでなく、かれらはヨーロッパの大陸諸国よりも、かつての大英帝国諸国(戦後の英連邦)、換言すれば、英語を母国語とする人々、女王陛下をいただく立憲君主制、議会制民主主義の母国たるプライド、英国風のライフスタイルに共感してくれる人々との連帯感の方が強い。イギリス人一人一人の周囲を見回しても、家族や親戚、知人がアメリカやオーストラリア、南アフリカにいることは普通である。インドで生まれ、あるいはシンガポールや香港で生まれ育った経験を持つイギリス人も実に多い。そういう意味で「イギリスはヨーロッパではなく大英帝国、いやBritish Commonwells」なのだ。すでにかつての植民地は独立していても、その共通言語英語と共通の君主と共通の政治制度、共通の文化的バックグラウンドという紐帯は、地理的に近いヨーロッパ地域との紐帯よりも強いのである。ドイツやフランスの支配的影響力のもとにあるEUよりも、アメリカ・カナダやオーストラリア・ニュージーランド、南アフリカとの自由貿易圏を築いてゆきたい。そんな心情がイギリス人の底辺に潜んでいる。こうした考え方は、戦後これまでも多くのイギリスの政治家や政治思想家によって夢想され、語られてきた。近いところではBrexitを強力に進めてきたBolis Johnsonもその一人だ。いわゆるAnglosphereやCUNZACという概念だ。すなわちイギリスからの移住植民地(カナダ、オーストラリア、ニュージーランド、南アフリカそしてアメリカ)を中心にしたBritish Dominion(英連邦)で纏まる「新たな大英帝国共栄圏構想」である。これにはインドやビルマ、マレー半島や香港は入っていない。あまり現実的な「構想」であると思われてはいないようだが、今でもそういうレトリックが語り継がれているところに、この構想(妄想)の根強さがある。

 余談だが、ウォルトン作曲の「英語諸国民の歴史のための行進曲」という曲がある。これはウインストン・チャーチルの著した「英語諸国民の歴史」を堂々たる行進曲にしたものだ。英語を共通言語とする世界、すなわち大英帝国の歴史を高らかに歌った作品だ。ロンドンのロイヤルアルバートホールで毎年夏に開催されるクラシック音楽の祭典、Promsで必ず演奏される曲である。このPromsは単なる音楽祭ではない。大英帝国の栄光をみんなで共有し、思い起こし、讃えようという一種の国威発揚イベントだ。参加者全員がユニオンジャックを打ち振り、感涙に咽びながら声を合わて「威風堂々」「Rule Britannia !」を斉唱する。ここにはイギリス人の心の安らぎと未来への高鳴りを感じる世界が広がっている。戦争に負けた日本にはあり得ない愛国的高揚感が堂々と披瀝されている。この辺が戦勝国イギリスと敗戦国日本の違いだ。歴史に対する悔悟の念が感じられないこのストレートな心情表現には違和感も感じるが、少なくとも負ける戦争は絶対すべきではない、といつも感じさせられる。

 この様な戦後のイギリス人の心情の底辺にうごめくかつての栄光へのノスタルジアや愛国心に基づく「観念」を読み解くと、今回の様なBrexitは必ずしも不思議な動きではないことをある程度は理解させられる。たしかにかつての大英帝国構成地域やAnglosphereの現在の市場規模はイギリスにとって無視できない。しかし、だからと言って、現在の地政学的環境の変化、経済活動や市場のグローバル化、アジア地域の経済躍進の時代に、時間を巻き戻してかつての大英帝国に戻せるのだろうか?肝心のアメリカはトランプが大統領になった時点で、America Firstを取り、どこの国・地域であれ二国間貿易協定を主張して譲るつもりはない。カナダは大西洋を隔てたイギリスやフランスよりも、国境を接したそのアメリカとの二国間自由貿易連携にしっかりと取り込まれてThe Americasの国として生きている。オーストラリアやニュージーランドは発展するアジア経済圏の中で生き残る道を、移民政策の転換も含め突き進んでいる。かつての移住植民地は遠く離れた母国イギリスとの歴史的、精神的な紐帯はともかく、それぞれの地政学的な立ち位置を認識して新たな生き方を歩み始めている。そういう21世紀の時代にこの様な愛国心(ナショナリズムと訳すならば)を前面に出して物事を整理、理解、決定してゆくやり方は、結局アメリカのトランプのAmerica Firstとなんら変わりはない。あるいはヨーロッパ大陸諸国におけるナショナリズム、反移民を謳う政党が多数の支持を獲得しポピュリズム政治に傾斜してゆくのと同じ道ではないのか。ロシアや中国の様な専制的指導者が国際的な融和と協調よりも、自らの支配権力の確立と自国利権優先主義を推し進めていることには危機感を覚えるが、それ以上にこれに対抗するはずの「自由と民主主義のアライアンス」が崩壊の危機に瀕する事態に戦慄する。法の支配、議会制民主主義、基本的人権の尊重、自由平等主義など、人類がその歴史の中で血で贖いながら築き上げてきた「普遍的価値」が音を立てて崩れていくのを看過するわけにはいかない。イギリスはその「普遍的価値」を生み出してきた国の一つではなかったか。そういう意味で、こうした昔の大英帝国の残影を求める動きは時代錯誤であるばかりでなく、これまでの人類の努力を水泡に帰す恐れのあるムーブメントの一端を担う可能性はないのか。これが杞憂であることを祈る。





2019年3月23日土曜日

脱「売り家と唐様で書く三代目」企業への道

 

先行きの見えない「不確実性」の時代に向かう企業経営
これには大企業も中小企業もない


 一昨年から、とある中堅専門商社の社外取締役を引き受けている。古くからの友人が三代目社長をやっている会社で、非上場のオーナー会社だ。創業者は一代で会社を立ち上げ、大手企業と取引関係を築き上げ、業界に存在感を確立した。二代目はそれを成長させ海外に事業を拡大した。そして三代目で転換期に直面。典型的な創業家三代記の世界だ。事業承継、business continuityという私にとっては、これまでの経験では推し量れない、企業小説でしか知らない世界に足を踏み入れた感じだ。

 まず最初に感じたことは、会社経営といっても世の中は、理屈や法制度通りには動いていないということ。教科書に書いてある株式会社のガバナンスの「あるべき姿」と「現実にある姿」との間には大きなギャップがあるということ。法律を逸脱しているという意味ではなく、法律上の「建前」は必ずしも「現実」をよく説明していないということだ。オーナー社長会社における取締役会の役割や監査役の果たすべき責任と権限とは何か?社外取締役や社外監査役の導入など、上場企業を前提としたガバナンスルールは、どこまで非上場企業に当てはまるのか。会社法や各種契約法などの法制度とは別にも、収支決算などの会計システム、財務管理など必ずしも資本の論理や、経済原理に基づいて回っているとは限らないということ。すなわち「資本主義的合理性」を根本としているはずの法制度や会計制度がそのまま企業経営を規定する原理原則でもないということ。まして人事制度などかなり教科書とはかけ離れた運用となっている。確かに規模の違いによる経営スタイルの相違もある。

 40数年間奉職したNTTのような元官業/独占の巨大企業とは、ある意味で全く異なる会社カルチャーである。一流大学出の優秀な人材が全国から集められ、本社採用と地方採用という階層的人事制度で運営される巨大組織(中央政府官僚の採用制度のアナロジーなのだが)。民営化されてからはそうした人事制度は全廃され、資本主義的な合理性、企業官僚主義的な合理性により組織、経営機構が構築、運営されている。日本政府をはじめ世界中の資本家・投資家が株式を保有する多国籍な上場会社。巨大な組織の一員として、その組織独特のロジックで仕事するもの言わぬ集団。社長といえども数年で交代するので個人の個性は見えない。最先端の研究開発に巨額な金を使い、目まぐるしく進む技術革新と、それによる事業モデルの変遷を生み出してきた集団。グローバル化による厳しい競争にさらされつつ全世界から巨額の売り上げ高と利益を生み出す多国籍会社である。しかし、これはこれでまた独特の世界で、全て教科書通りのルール、資本主義のロジックで回っているかと言われればそうとも言えない。世間には必ずしも通用しないこの組織独特の「見えないロジック」「見えないルール」がある。

 一方で、この会社は、創業者とその一族によって日本の成長基幹産業である自動車業界、産業用機器業界に軸足を置き、まさにゼロからスタートして年商350億円の企業に成長してきた。創業者の人柄・個性とそれを軸とした人脈で大企業との取引関係を確立していった経営スタイル。政府による信用保証も、補助金や官需に頼ることもない、取引先企業による発注コミットメントも売り上げ保証も何もない。しかし上場していないので、上場企業に課せられる様々な法規制、上場ルールに縛られることはなく、株主からの圧力やハゲタカファンドによる敵対的買収の危機にさらされることも回避してきた。その一方、当然の様に株主へのコンプライアンスや説明責任などの関する意識は薄い。営業が全ての専門商社である。その手法は、現場主義による取引仲間重視。主に宴会とゴルフでの人間関係の開拓と維持で、ある意味昭和の日本的経営の典型であるとも言える。人脈による大企業の下請けとして永年の信頼関係と取引関係に依存するビジネスモデルといってもよい。契約概念も会社法でいうガバナンスもそこそこで動いているような自称「株式会社」である。しかし、公私の境が曖昧なオーナー一族によるどんぶり勘定の放漫経営とは無縁である。所有と経営の分離には配意されている。この辺は創業以来の歴代社長の矜持である。きちんと毎年利益を上げ、資金的にも余裕のある実に堅実な経営をしている。社員は社長への忠誠心で仕事する。与えられた仕事を日常の目線でこなし、極めて現実的な問題解決能力で持って成果につなげることのできる優秀なサラリーマンだ。取締役、執行役員などの役員ポジションは忠誠心と営業成果で獲得するサラリーマン出世コースのご褒美なのだ。したがってみんな現場出身のハンズオン役員である。秘書にかしずかれて役員室に座って、会議して、資料見て判断し、指示だけしている役員ではない。そのいっぽうで、取締役としての善管注意義務による経営責任、ガバナンス、コンプライアンスという意識は薄い。なんでも責任は社長なのだから。

 しかし、こういう会社は3代目社長となれば、社員の忠誠心も、古参の社員からだんだん薄れていく。若い不慣れな社長への不信感、また社長の感じる古参の幹部の目の息苦しさ。親分子分的なカリスマ的求心力は失われてゆく。よくあるパターンである。したがって、役員の総取っ替えにはじまる経営の刷新、オーナー社長によるトップダウン経営から、取締役会を活性化させた「近代的」経営に脱皮しようと模索を始めている。私が社外取締役に招聘されたのもそういう経営改革の一環というわけだ。さらに事業を取り巻く環境も、タイミングよく(!)激変の時代を迎え、本業の収益と利益が縮退してゆく。あれよあれよという間に事業は先の見えない「不確実な時代」へ突入している。

 よくこの会社の社長から、「うちの会社は遅れているでしょう」「経営が前近代的でしょう」と問われる。「うちはNTTのような大企業とは違いますから」という。たしかに「遅れている」面がないとは言わないし、「違いがある」ことも確かだ。株式会社という制度的なフィクションを身にまとった個人商店的な側面が残っているのも事実。しかし逆に、驚くほど経営の意思決定スピードが早く、顧客や市場に極めて近い経営陣という特色も持っている。なによりも能書き言ってる暇があれば顧客の所へ行け!という現場主義には驚嘆する。こういう点は官僚的思考に陥り、「現場から遠い経営陣」のジレンマに陥っている「大企業病患者」は見習うべき点である。またオーナー社長は、名刺に書いてある「代表取締役社長」の持つ意味が、大企業系列のサラリーマン社長のそれとは遥かに異なる。まさに過酷で孤独なポジションだ。非上場会社、有限責任とはいえ経営に失敗すれば、個人としても会社と社員の運命に様々な責任(ほぼ無限の)を負わねばならない。サラリーマン社長は社内の人事ルールによって退任すれば(クビになれば)すむ。どちらも日本の経済を支えてきたモデルであり、日本の企業の現実の姿なのだ。どちらが進んでいる、遅れているという問題ではない。ビジネスモデルイノベーションも、ガバナンスもコンプライアンスも一様ではない。今更ではあるが、この歳になって世の中は多様である。様々な異なる価値観や思考様式、プロセスで動いていることを改めて認識させられた。頭でわかっていてもそういう実態を知らずにここまでやってきた自分を知る。これまで世界を相手に、言葉の通じない(語学という意味だけではない)連中と丁々発止やってきたつもりであったが、ふと足元を見ると知らないもう一つの世界が広がっている。この会社に何らかの貢献ができる様に勉強し直しだ。まさに「日暮れて道遠し」だが。

 世の中は激しく動いている。ものすごいスピードで不確実で予測不能な世界へ突き進んでいる。これまでの成功モデルが、右肩上がりの本業が続いてゆく時代ではない。その長年やってきた本業がグローバリズムとデジタルトランスフォーメーションにより、あっけなく過去の遺物になる時代である。これは巨大企業であれ、中小企業であれ、公平にその波をかぶる。この会社の三代目社長もガバナンスの刷新を行うと同時に、持続可能な事業とするためには、事業モデル・収益構造の見直し、すなわちビジネスモデルイノベーションに取り組まなくてはならないと考えている。これを可能ならしめる経営資源の再配分を行わねばならぬと決意している。ある意味で三代目とはそういう巡り合わせに出くわすように出来ているのである。ところが問題は、そうした認識が社内で共有できなかったり、できたとしてもさらにはどうやって経営の舵取りをしたら良いのかわからない。これまでの様に、やることがはっきりしていて、ある意味何も迷うことなく与えられたゴールに向かって走ればいい時には、先述の現場第一主義、顧客第一主義はワークする。「客先から学ぶ」「現場に商売の種が落ちている」と言われてきた。しかし、その顧客の事業も、取引先の事業もこれまでの様にはいかなくなったときにどうするのか。取引先も顧客も生き残りを模索している。これからの「現場主義」とは、ともに問題解決(ソリューション)に取り組むことができるパートナーシップを組めるかどうか、すなわち「共創関係」が組み立てられるかが試されることになる。

 しかし、ビジネスモデルイノベーションにも大きなハードルが待ち構えている。本業はターゲットとしている産業分野が限定されていて、扱う商材は、部材、素材中心のB to Bサプライヤーモデル事業である。昨日の高付加価値商材は今日のコモディティー商材。製品の陳腐化が急速に進む分野である。あるいは技術イノベーションや社会イノベーションにより、たちまち扱い品の需要がなくなる可能性すらある。収益モデルは、伝統的な「仕入れ価格」「流通コスト」に「利益」を上乗せする「物販」モデルだ。利益を出すにはコストカットしかない。このままでは高付加価値化(高い利益率)やサービス化(収益モデル転換)への事業モデル転換が困難だ。まさにオールドエコノミーの世界で呻吟する商売になってしまう。そして、新しいモデルに転換し、切りすすめる人材の確保が大きな課題だ。三代目社長は少し本業と距離を置いて、世の中を見渡してみる余裕と視野をもつ経営をしなくてはならない。そして、本業がキャッシュカウ(収益と利益を生み出す牛)であるうちに、内部留保があるうちに、3〜5年先を展望した新たな事業モデルと収益源を開拓しておく必要がある。そのための投資をしておく必要がある。しかし中小企業は高い授業料を払って経験を積む時間的余裕も財務的な体力もない。試行錯誤して遊んでいる余裕はないのだが。それでも「時間を買う」投資をしておく必要がある。この場面にこそ、オーナー社長の果敢な決断とリーダーシップが求められる。レガシーを守っているだけでは先はない。

 The best way to predict future is to invent it. アラン・ケイの言葉だ。今こそ創業の初心に帰る、第二の創業期なのだ。これは企業が大きいか小さいかは関係ない話だ。昨日の大企業が明日の破綻企業。昨日の個人企業が明日の大企業。どちらの可能性もある。「売り家と唐様で書く三代目」とならぬ様、特に創業家企業は正念場である。



2019年3月16日土曜日

「琳派」とジャポニスム 〜ニッポンが西洋美術の潮流を変えた時代〜

畠山記念館に残る島津家屋敷時代からの黒松
樹齢250年の古木だ


 畠山記念館の冬季展「光悦と光琳 ー琳派の美ー」を観に行ってきた。以前にも茶道具の展覧会に行ったところである。ここは茶の湯に関わるコレクションが充実しており、敷地内に複数の茶室もある東京都心には稀有な空間であるが、琳派のコレクションにも貴重な逸品が多いようだ。茶道の侘び寂びとは別の装飾的でデザイン性に富む琳派の作品もまた日本文化のもう一つの側面である。

 展観内容は
パンフレット引用:「琳派の祖とされる本阿弥光悦(1558〜1637)と、光悦誕生の100年後に生まれた尾形光琳(1658〜1716)。マルチな才能を発揮した二人はアートディレクターの一面も持ち合わせています。さらに光悦と刺激的な共同制作を行った俵屋宗達(生没年不詳)と、光琳の弟、尾形乾山(1663〜1743)の絵画や工芸品も厳選してご紹介いたします。時を超えて人々を魅了する琳派の美のかたちをご堪能ください。」

 琳派とは?代表的なアーティストは、

本阿弥光悦、俵屋宗達(安土桃山時代、江戸時代初期)
尾形光琳、乾山兄弟(光悦誕生の100年後、死後21年後の誕生)
酒井抱一(1761〜1829 光琳死後の45年後に誕生。江戸琳派)

 このようにそれぞれが生きている間に師弟関係にあったり、時代を共有したりしていない。生きた時代がずれている。重要なのは、琳派は徳川将軍家お抱えの狩野派のような連綿とした家系による芸風の承継ではなく、時代を超えて「私淑」による承継であるという点。光琳が光悦/宗達を後世に伝え、その画風を承継し、抱一が光琳に私淑してこれをさらに承継するという。これが琳派である。明治以降もこの流れは引き継がれていく。さらにそのインパクトは日本だけでなく、西洋の芸術家にも私淑されて承継されていった点がなお重要である。19世紀のヨーロッパにおけるジャポニスムブームの始まりである。最近はやりの表現方法だと、芸術におけるクローズドイノベーションとオープンイノベーションの違いに近いのかもしれない。

 琳派は芸術作品としてだけでなく、その作品の持つデザイン性、装飾性が特色である。それは写実的表現ではなく、より抽象化された表現、デフォルメされた造形により表現されている。しかも襖絵や扇絵などの絵だけではなく、書、工芸、茶器などの総合芸術である。宗達の下絵に光悦の書が配される作品や、光琳の絵と乾山の工芸作品に代表されるコラボレーション。アートディレクターと言われる所以である。

 19世紀オーストリアのウイーン分離派のグスタフ・クリムト(1862〜1918)は、長い鎖国の時代に終止符を打ち世界に門戸を開いた日本の文化の流入に驚き、感動する。特に琳派や浮世絵に大きな影響を受け、1900年には分離派主催のジャポニズム展がウイーンで開催された。これには江戸琳派の酒井抱一がまとめた「光琳百図」がヨーロッパに伝わって当時の画家たちに大きな感動を持って迎えられたことが大きいと言われている。このように琳派は西欧美術に大きな影響を与え、北斎、歌麿、広重の浮世絵とともに西洋絵画の写実主義から印象主義、さらにはモダニズムへの転換を促した。

 概略的にいうと、西洋美術のモチーフが主として人間であるのに対し、東洋美術のモチーフは木や花、動物などの自然であると言われる。ルネッサンス以降、西洋では人間の力と精神の芸術表現に傾倒していくのに対し、東洋では古来より自然とともに生き、自然を崇拝するというアニミズム的な宗教観の反映なのだろうか、枯淡な梅の枝であったり、川の流れであったり、いわば「花鳥風月」が重んじられた。西洋美術のムーブメントに一石を投じ、大きな転換の契機となったのがジャポニスム運動であった。こうして印象派の絵画だけではなく工芸やデザインや装飾にも自然をモチーフとした新しいデザインが盛んに取り入れられるようになっていく。さらにモダニズム、アールヌーボー、アール・デコの時代へとつながってゆく。

 この展覧会は特段、琳派とジャポニスムにハイライトを当てた展示企画ではないし、この展示会場のどこにも琳派が西洋美術へ多大の影響を与えたといった企画者のメッセージは感じられない。しかしそうした押し付けがましさがない分だけ、遠く西洋の芸術家たちがこうした東洋の琳派の芸風に「私淑」した、その原点がこの静謐な日本文化の空間に充満している様を見て取ることが求められているような気がした。

 展示会場を出ると、そこには樹齢250年の堂々たる黒松の巨木が枝を広げている。ここが、江戸時代には薩摩島津家の屋敷であったその名残の古木である。まさに光琳や抱一が盛んにアートディレクターとして活躍していた時代からここにあって辺りを睥睨していた。幕末には蘭癖大名で島津斉彬の祖父である島津重豪の江戸屋敷であった。明治維新後は同じ薩摩出身の外務卿寺島宗則の邸宅となり、さらに荏原製作所創業者である畠山一清(即翁)の屋敷となった。のちに敷地の半分が政財界の迎賓館たる般若園となるが、やがて廃業、売却され、今は西洋風の「白亜の殿堂」が建っている。あのSバンクの創業者S正義の迎賓館であると言われている。それぞれの時代の権勢を誇るVIP達の夢の跡に今も孤高を姿を保つ黒松の巨樹は、確かに人間の刹那的な栄枯盛衰を超えた存在の確かさを物語っている。その青空に枝を張る雄々しい巨樹の姿の美しさは神々しさすら覚える。琳派が伝え、ジャポニスムの唱導者たちが心を奪われた美を象徴するモニュメントなのだと訴えているかのように。


俵屋宗達「風神雷神図屏風」
京都建仁寺(京都国立博物館蔵)
のちに尾形光琳が模写し、さらにそれを酒井抱一が模写している

尾形光琳「紅白梅図屏風」


グスタフ・クリムト「生命の木」

グスタフ・クリムト「フラクタルな風」



2019年3月1日金曜日

お江戸の最高峰「愛宕山」登頂記 〜美しい都市景観とは?〜


愛宕神社の急階段
愛宕山登頂の難関はココ!
これだけは間垣平九郎の昔から変わっていない


 愛宕山(あたごやま)という名称の山は全国あちこちにある。本家は京都の愛宕山で山頂には「火伏せ(防火)の神様」として崇敬を集める愛宕神社の総本宮がある。こちらは標高294mの山で京都市の西、嵐山の奥に位置している。愛宕山は東京にもある。こちらは江戸/東京のランドマークとも言える山で、標高26m。これでも自然の山としては23区内の最高峰だ。山頂にはやはり「火伏せの神様」愛宕神社がある。ここの表参道の急階段は、江戸時代の講談「出世の階段」の英雄、曲垣平九郎の馬による登頂でも有名な階段だ。現在でもこの階段は下から見上げると壁のようにそそり立っている。上から見下ろすとまるで垂直の断崖絶壁のようで思わず転がり落ちそうになる。愛宕山を低山と侮るなかれ。都心の低山攻略の最初で最後の難関だ。

 江戸時代から明治初期には山頂の愛宕神社境内から江戸市中が一望できた。江戸っ子の行楽地としても人気があったところである。幕末から明治初期に横浜に滞在したフェリーチェ・ベアトが、ここから撮影した江戸市中のパノラマ写真を見ると、当時の江戸がいかに美しく整然とした街並みであったことがよくわかる。高さが統一された重厚な黒瓦屋根が連なる武家屋敷。しかも邸宅ごとに十分なスペースが確保できたゆとりある街並み。武家屋敷街ならではのある種荘厳な景観だ。庶民の暮らす下町の長屋街はこうはいかなかっただろうが、日本橋の商家街も別の意味で統一感のある街並みを形成していた。度重なる火事に見舞われた江戸の町は、耐火構造の瓦葺き、しっくい壁の屋敷に建て替えられていった。これが江戸を独特の景観を持つ街にした。これだけの武家屋敷があったからこそ、御一新後に新たな帝都東京を建設するにあたって、中央官庁や、学校、軍隊、事業会社用のまとまった敷地が確保できた訳だ。江戸は東京となり、近代化の名の下に大きく変貌していくことになる訳だが。このころの愛宕山からは武家屋敷街だけでなく所々にみどりの杜が見える。正面奥には浜御殿(現在の浜離宮庭園)の杜が、右手には芝増上寺(芝公園)の緑が見える。そして品川の海を見通すことができる。

 こうしてみると今の東京にかつての江戸の面影を求めることはほとんどできない。今、愛宕山山頂に立って見渡してみるといい。そこにはベアトが見た江戸の町はない。そもそも愛宕神社の展望台に立ってもほとんど視界は効かない。この江戸の標高26mの最高峰「愛宕山」は、今や高層ビルの谷間になってしまっている。江戸と今の東京は全く別の街になった。もしベアトが生きていてカメラ担いで東京の愛宕山を再訪したら「ここはホントに愛宕山なのか?」「江戸は何処へ行ってしまったのか?」と言うに違いない。こんなに街の風貌が一変してしまった都市も世界中見渡しても少ないのではないか。

 ある建築家が、東京は刻々とその都市の風貌を変えてきた。長い歴史の記憶が今に生きるローマやパリやロンドン、ウィーン、北京とは違う町なのだ。したがって古い景観や建築物を守るよりも、どんどん新しい建物にして全く違う街にした方が東京らしい、と言っていたのを思い出した。ずいぶん大胆で乱暴な言い方で、まるで建築屋さんが食って行くためのロジック丸出しに聞こえる。しかし事実、愛宕山山頂から展望できたかつての江戸の都市景観は、明治の「近代化」、大正の関東大震災、昭和の東京大空襲、戦後の東京オリンピック、バブル地上げで、すでに跡形も無くなってしまった。そして今もなお変貌中である。まるで自己増殖するアメーバのように、人間の意志とは無関係に終わりのない遷移のプロセスを今も歩み続けている。これが同じ都市だろうか?というほど変貌を繰り返してきた。もともと木と紙でできた日本の建物は、石とレンガでできた建物と違い何十年、何百年も持たない。基本的には火事や、地震や、水害、戦乱でほぼその痕跡を残さず消滅する構造だ。建物は「不動産」ではなく「動産」、いや「消費財」なのだ。平和な時代の江戸の町も度々大火に見舞われたが、それに備えて木場には大量の木材が備蓄されていたし、鎮火後はすぐに大工が建物を建て始めた。庶民の家はもともと火事を前提とした作りになっていて、江戸火消しの消火活動も破壊消火、すなわち取り壊して延焼を防ぐものであった。建物は消費財。そうした消費行動によって、材木問屋と大工は成り立っていた。さらに大火の度に都市再開発が行われ、住民の移転による新しい街が生まれた。そうして復興の度に江戸は人口が増え都市として大きくなっていった。リサイクルシティー江戸はそういう風に金が回る世界でも有数の経済都市であった。現在でも、相続税対策で売却された一軒の邸宅跡地には、たちまち三階建の狭小プレハブ建築が4〜5軒ギッシリと建つ。それが火事で焼けても地震で倒壊しても、土地所有者が変わって建物が取り壊されてもすぐに跡地には新しい建物が建つ。家はプレハブメーカーが製造する工業製品、すなわち耐久消費財だ。。高層ビルですら赤坂プリンスホテルのように、芸術的な解体工法で消滅し、跡地にはたちまち新たな高層ビルが出現する。そうして日本の経済は回り、GDP成長にも貢献できるんだというわけだ。それならそれで、いっそどんどん変えてやれッて訳だ。歴史的な建築物の保存・活用や街並みの修景・保存に力入れるよりもそのほうが東京らしいと。彼の建築家のご高説にも一理ありそうに聞こえる。災害や人災や破壊に抗しきれない無力さに対する居直り、一種ヤケクソ論理であるのだが。

 しかし、仮にそうだとしても、東京というダイナミックに変貌する都市景観はセンスの良いものなのだろうか?美しい、住み心地よい街に進化して行っているのか。とてもそうは思えない。乱立するタワーマンション群と三階建狭小住宅群。土地の所有権が細分化され狭い間口のビルが繁華街に乱立し、道路は幹線道路を除くと昔のままの狭くて規則性のないシステムが基本的には踏襲されている。利便性を追求するあまり、理解を超える複雑系システムになってしまった公共交通機関網。そこへ一極集中で人口過密。そんな生活空間での暮らしが「あこがれのアーバンライフ」なのだ。

 いっぽうで、アーティストを自認する建築家は自分が設計しデザインする一個一個の建物には念を入れた意匠を凝らすが、それがあたりの景観と調和がとれているか、都市全体の住環境の価値増大に貢献しているかはあまり関心を払わない。むしろ奇抜なデザインの建築物を自分の表現、作品として誇示しているのとしか思えないものもある。(消費財なので)どんどん建ててどんどん壊せば良い。未来永劫残る作品にはならないのだから実験してやれというわけか。都市景観というスコープで考える建築家がどれほどいるのか?建築学には都市開発、都市計画、都市デザインという研究領域もあるのだが。なぜソレが生きた都市を日本に見つけることができないのだろう。都市における狭小住宅も、一見それぞれの建物は狭い土地を効率的に使い、小洒落たデザインであるが、結果、地域が防災上懸念される木造密集住宅地化していることには考慮が払われていない。そしてこの「小洒落た」建物群が100年続く美しい都市景観に成熟してゆくのか、江戸の長屋文化のような地域コミュニティーを形成してゆくのか、そんな視点で見ている人はまるで誰もいないかのようである。木を見て森を見ない、部分最適、全体不最適な街になっているのではないか。もはや一建築家、都市設計者の手をこえて自己増殖する街になってしまったのか。都市計画を担当する行政も、不調和の調和に身を任せ、レッセフェールによる資本のロジックの前に膝を屈してしまったのか。東京は見えざる神の手による予定調和が創造する街なのであろうか。


壁のようにそびえる参道階段


幕末の愛宕神社参道



明治の愛宕山地図


ベアトが愛宕山から江戸市中をパノラマで撮影した写真。


Edo Panorama old Tokyo color photochrom.jpg
By フェリーチェ・ベアト - Colored Photochrom print (Wikipediaから借用)

5枚の写真を繋ぎ合わせてパノラマにしている。
北方向
東方向(着色されているものを掲載)
南方向
明治期の愛宕山展望台の絵葉書


こちらは現在の東京(浜松町の貿易センタービルからの展望)。ちなみに愛宕山からはほとんど展望は期待できない。

愛宕山(この正面やや右)は高層ビルの谷間に埋もれてしまった。
浜松町世界貿易センタービルからの展望
このビルも建て替えられることになっている。
この景観の中に江戸の面影を見出すのは難しい