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2010年12月30日木曜日

あずまくだりの旅

今年も暮れの帰省の時期になった。難波をあとにして江戸へ下向。

 上方からのあづまくだりなので帰省ラッシュにも巻き込まれずにゆったり帰ることが出来る。冬は視界が利くので超高速陸蒸気の旅もいいが、飛行機の旅が面白い。
 
 空飛ぶ時空移動マシーンは摂津の國、難波を飛び立つとすぐに、天空からはるか京の都を見下ろす。掌にもてあそぶように電脳暗箱ライカで師走の京都洛中洛外図屏風を切り取る。風神雷神の気分だ。

 やがて、尾張名古屋をひとっ飛びすると、もう左前方に真白き富士の嶺が視界に飛び込んでくる。これも電脳暗箱でバシャリと切り取る。伊豆の國を眼下に相模の國へ。

 しばし上方から江戸までの鳥瞰図パノラマを楽しむ。ああ,うまし國ぞ安芸津嶋大和の國は...

 時空移動マシーンはあっという間に武蔵の國、江戸の街に我を送り届ける。あの「天空の木」なる電波塔のその建設途上の姿を中空に眺めつつ地上に降りたつ。

 時は今...? かなり時間軸があちこちにズレたな。


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(伊丹を離陸して間もなく京都市上空)

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(伊豆半島、相模湾上空から富士山を望む)

2010年12月24日金曜日

博多、聖福寺と今津浦 ー栄西の足跡をたどるー

 博多は古代より大陸との窓口として栄えた商都であった。いま、来年の九州新幹線全線開業を目指して建設中の博多駅から大博通り沿いに走ると、祇園を過ぎて広い大通りの右手に壮大な寺院群が見えてくる。この辺りが御供所町だ。この辺りは博多における寺町であり、東長寺、聖福寺、承天寺などの壮大な伽藍が建ち並ぶ。

 承天寺は宋の商人で博多を拠点に活躍した謝国明が建てた。また聖福寺は日本初の臨済宗の禅寺として宋から帰国した栄西が開いた。大陸から持ち込まれた、うどんや、喫茶、ういろうの起源もここに発すると言われている。舶来品発祥の地という訳だ。

 このあたりは中世博多の時代には謝國明に代表される華僑、すなわち博多を拠点とした日宋貿易を動かしていた博多鋼主が多く居住した地域であった。1195年、帰国した栄西は、鎌倉幕府初代将軍の源頼朝より許しを得て、さらに博多鋼主の協力を得て華僑の居住地区であった博多百堂にに禅寺聖福寺を建てた。山門の扁額には後鳥羽天皇からもらった「扶桑最初禅窟」の文字が掲げられている。さらに栄西は後に京都で建仁寺を建立する。

 この博多の聖福寺は塔頭38院を数え、寺内町を形成する大寺院であった。その後、戦国時代の戦乱や、その戦後復興たる博多の太閤割により、その寺域は大幅に削られたが、今でも塔頭6院を数える博多屈指の大寺院である事には違いない。今は臨済宗妙心寺派の寺院となっている。

 この聖福寺は博多の東、石堂川ベリに位置しているが、この勅使門から真西に一本道が伸びている。この西の果てが博多総鎮守、櫛田神社だ。そう博多祇園山笠で有名な。この聖福寺と櫛田神社を結ぶ線が、秀吉が後に行った太閤割り以前の博多浜の中心線であった。

 栄西は、二度目の渡宋の機会を博多湾の西に位置する糸島半島今津浦で待っていた。今津浦は現在は福岡市西区今津となっているが、当時の博多湾には博多津以外にもいくつかの浦や津があって大陸へ渡る船の風待ち港になっていた。江戸時代に入って鎖国で博多が寂れても、筑前国主黒田氏は博多の五カ浦を貿易港に指定して内国貿易、流通の拠点とした。

 話を戻して、栄西は渡宋の機会を待つ間に、その今津の誓願寺で発願文を起草している。今は静かな漁村であるが、当時はこのように大陸へ渡る僧や商人、船乗りが集まる国際関門港であった。今津のさらに北には唐泊地区があり、その名の通り、遣唐使が風待ちをする港であった所である。ここから向うはもう玄界灘。

 今津のある糸島半島は知られているように古代伊都国の所在地であった。今津湾の入口にそびえる小さな山、今山は当時伊都国を中心に北部九州全域に流通していた打製石器(石斧等の)の産地であった。今山自体が巨大な玄武岩が露出した岩山だ。ここが倭国の文明の中心であった北部九州の弥生の農耕を支える、石器農具の一大生産地であり、その富により伊都国が経済的優位性を保っていたと言われる。

 今津干潟は江戸時代に黒田藩が干拓を進めた後に残った今津湾とそれに付属する干潟で、カブトガニに自生地としても知られている。ここからは遠く糸島富士(可也山)を望むことが出来る。そして、箱崎から移転中の九州大学の新キャンパス、伊都キャンパスの一部が丘の上に望める。静かな干潟である。

 話は変わるが、この今津湾と今津干潟の間にかかる今津橋には思い出がある。
 私が幼稚園の頃だろうか、父につれられて釣りに来た事があった。当時は今川橋に住んでいたが、釣りの好きな父は、今津橋がよく釣れるという話を教室の人から聞き、日曜日に一人息子を連れて筑肥線で今宿まで行き、そこから昭和バスに乗って行ったのだろう。昭和バス、というと当時は何か糸島の田舎のバス、という印象があった。

 夏の熱い一日、父は釣れた魚を魚籠(びく)に入れて、橋の欄干から長いヒモを垂らして魚籠を下の水面下につけていた。まずまずの釣果であった。まだ小さな子供であった私は父の回りで駆け回るだけで釣りはしなかったと思う。しかしどんな魚が釣れたのか見たくて、その魚籠を引揚げて、中を覗こうとしたその時、水を吸って思いのほか重い魚籠は私の小さな手から滑り落ち、重みでヒモが切れてバッシャンと音をたてて水中に消えていった。流れは速くあっという間に魚籠は見えなくなった。父は向こうの方で麦わら帽子を被ってを無心に竿を垂れて、水面に漂うウキを見つめている。息子がトンでもないことしてくれた事も知らずに...

 私は悲しくなり、父のところへ「魚籠を落とした。ごめんなさい」と泣きながら走っていった。
 父は「ええっ!」と釣り竿をおいて、魚籠をぶら下げていた欄干の所までかけて来た。ヒモをたくし上げると、何の手応えもなくするするとヒモだけが上がって来た。
 父のがっかりした顔、一日中釣ってずっしり重くなっていた魚籠が消えた。

 「ばっさり」と一言。

 父は叱りもせず、釣り竿を担ぎ私の小さな手をしっかり握って夕焼けの今津橋をとぼとぼと歩いて帰っていった。

 今では立派な自動車専用橋と歩行者専用橋に分離されたコンクリート橋がかけられているが、当時は古い木造の砂利道の橋が頼りなげに一本架かっているだけであった。車なんぞ通っていた記憶もない。強い日差しと、ほこりっぽい砂利道と、潮風と、そして無情な水の流れだけが心に残っている今津橋。父をがっかりさせたという悔悟の念。それだけにやけに長い橋であったという印象がある。

 栄西の足跡をたどる今津、魏志倭人伝の伊都国、そのような事を知るのはもちろん、ずっと後の事である。




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2010年12月15日水曜日

50年前のニューヨークへ時空旅 ーNew York City 50 years time differenceー

 我が思い出のニューヨーク。我が社の米州事業拠点にして海外事業スタートアップの地。家族とともに7年ほどを過ごした町。苦闘と栄光の町。この町を今から50年程前に父と母が訪ねていた。

父が亡くなり、遺品を整理していたら、その中からアメリカ時代の大量のスライド写真が出て来た。幾つかは生前にも見せてもらったことがある写真であったが、これだけ大量のフォトアーカイブがあるとは知れなかった。今見ると、どの写真も、父が戦後復興期の日本からの研究者として渡米し、彼の地で生き、苦闘した日々を写し出す一級の資料だ。当時、父はワシントン郊外のベセスダにあるNIH(National Institute of Health)の客員研究員として米国に赴任していた。これらのニューヨークでの写真は、学会で行ったときの写真だ。

スライドはカビが生えたものもあったが、大方は良い状態で保存されていた。専用のスライド保管箱(これも時代を感じさせる金属製の箱)にきちんとスライドごとにスペースを空けて保存されている。さすが几帳面な父のなせるワザだ。ほぼ全てのスライドは、父の愛用のカールツアイス社製コンタフレックス(当時流行ったレンズシャッター一眼レフカメラにキレの良いテッサー付き)で撮影。フィルムはコダクロームとエクタクロームのカラーポジだ。50年以上の時を経て今鮮やかに当時のニューヨークが蘇った。

アメリカが第二次世界大戦後の繁栄を謳歌し、そのアメリカとの戦争に敗れた日本は貧しく、その手の届かない豊かさにただただ憧れた1950年代後半。写っているものも、写したカメラも、フィルムも。今は過去のものとなってしまったが、古き良き時代のアメリカンテイストを醸し出すものばかりだ。当時、父は見るもの聞くもの新鮮な驚きを感じたに違いない。父のその後の人生の糧になったシーンもあっただろう。その後に、奇しくも私も米国に移り住み、経験したカルチャーショックを、父の経験と重ねて追体験をしてみたくなった。今回は父が遺してくれた50年の時空を超えたニューヨークの街をご紹介してみたい。

しかし、ここに再現されたニューヨークの町は、今とそれほど変わっていない感じがするのが不思議だ。特に敗戦後の焼け野原から復興した東京の大変貌ぶりに比べればなおさらだ。仔細に見ればこの風景の中にその後、新しい高層ビルが建ち、マンハッタンはより現代的になった。ミッドタウン42丁目のの煤けたグランドセントラル駅は真っ白に磨かれ、その上にはパンナムビルがパークアベニューをまたぐように建ち、ランドマークとなった。しかし、パンナムというアメリカ繁栄のシンボルエアラインはその後倒産し、消滅。ビルは保険会社の所有となった。ダウンタウンにはツインタワーの世界貿易センタービル(WTC)が建設され風景が一変した。それも2001年の9月11日の悲劇的な崩壊に遭遇し、姿を消した。50年もの間にいろんなことが起こり町の景観が変わった。時の流れを感じざるをえないが、基本的な街の風貌に変化は無い気がする。

父が、エンパイアステートビルの展望デッキからイーストリバー沿いの国連ビルと発電所を撮影した写真に驚いた。なんと私が2003年から2006年まで住んだアパートはこの火力発電所の右隣(南)にあった。ミッドタウントンネルのすぐ隣だ。もちろん50年前にはご覧の通りアパートはなかった。いまはこのあたりは高層コンドミニアムが林立している。そしてこの火力発電所はもう取り壊されてしまった。私の目の前で取り壊し工事が進んでゆくのを毎日見つめていた。まるで父は息子が50年後にすむ場所を指し示すようにシャッターを切ったのだろう。

しばし時空トラベルを楽しんでみよう。父が見た景色。私が見た景色。そこに時空を超えて、変わったもの,変わらないものが見えてくるだろう。




2010年12月11日土曜日

ライカの名(迷)玉 ズミルクス35mm f.1.4の威力

 ライカの名(迷)玉、ズミルクス35mm。個性的な写りで有名なレンズで、ポートレートなどでそのソフトフォーカスレンズ的な写りは私もハマっている。師走に入りクリスマスムードも高まる街角でのスナップで思わぬやんちゃぶりを発揮してくれたのでご紹介したい。ちなみにこのレンズはLeitz Canada製。銀鏡胴、無限大ストッパー付き、OLLUXフード付きの美品。レンズ自体も工芸品だ。ボディーはM9。

場所は大阪上本町。8月に新装開店なった上本町YUFURA。12月に入ってクリスマスイルミネーションが点灯となった夕刻5時頃、夜景が美しくなる季節だ。

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開放1.4での撮影。中心部のピントはしっかりしており、背景の点光源のボケは円形で美しい。しかしレンズ周辺部(特に左下のご注目)は点光源が流れてぐるぐる巻きになっている。

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同じく開放1.4で撮影。文字部分はふんわりとしたソフトフォーカスっぽい写りで、ズミルクスの特色が表れている。その周辺が渦巻き状膨らんでいるのがおもしろい。すだれ状にぶら下がっているLEDのイルミネーションなのになんでだろう?

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左上の写真は絞り5.6、左下の写真は絞り開放1.4で撮影。

下部のLEDイルミネーション部分の写りに注目。絞るとクリアーに写るが、開放ではやはり点光源が流れてぐるぐる回りになっている。全く違った表現になるのが不思議だ。

これを欠点と見るか特徴と見るか。欠点と言えば欠点だろうが、しかしそれをレンズの特徴として活用する方が面白い。現行のズミルクスはもっと現代的な写りで、こうした「欠点」も解消されているようだが、とにかくこんなにはっきり個性的なレンズはもう世の中に出ないだろう。

非球面レンズ、異常分散ガラス、多層膜コーティング、フローティング機構など、最新の贅沢な技術をふんだんに導入した最近のライカレンズではこのような個性は発揮出来なくなってしまった。良いことなのかどうなんだろう。

2010年12月10日金曜日

名残の紅葉 長谷寺編

 ただいま、北陸出張の帰りで、富山から大阪へのサンダーバード車中。
ドコモのモバイルルータを使えば、どんな所でもインターネットへのアクセスが可能。移動車内の空き時間を利用してネット作業中。Mac Book Airとの組み合わせは快適だ。

福井、富山の天候は荒れ模様。福井では明け方に雷雨と霰で目が覚めたかと思ったら、昼間は雨が降ったり晴れたり。富山に着くと陰鬱な寒空。しかし今朝は、起きるなり快晴。ホテルの窓からは立山連峰をはるかに望む。思った以上に高い山々だ。こんな変わりやすい天気は北陸独特の季節の変わり目の印だそうだ。いよいよ雪の季節到来だ。

ところで、先週末の紅葉巡りの最後は長谷寺。花の寺で有名な奈良初瀬の長谷寺。以前から、長谷寺全景を望むスポットがあると聞いていたが、それがどこか分からなかった。そこから撮ったという写真を見るとおそらく長谷寺本堂の真向かいのようだ。以前、與喜天満神社から桜の季節の長谷寺を撮影したが、角度がどうもその方向ではない。

ようやく地元のNPOが発行している初瀬街道散策マップを長谷寺参道の店でみつけ、この絶景スポットの位置を特定することが出来た。参道途中のいせみち、はせみち分岐の道標を右に曲り、橋を渡って向かいの山を少し登ると、頂きに愛宕神社というお社がある。ここからの眺めが、ちょうど長谷寺の真正面だ。しかも、この愛宕神社の紅葉がまだ見事。長谷寺本堂、五重塔、登廊辺りの紅葉は終盤だったが...

なんだか得をしたような気がした散策だった。長谷寺の名残の紅葉ご覧あれ。

2010年12月7日火曜日

名残の紅葉 京都東山編

 今年の紅葉はことさら美しかった。ピークの時期は11月下旬だったが、残念ながらいろいろ忙しくて京都の秋を堪能出来なかった。遅まきながら12月の最初の週末に八坂神社、高台寺、清水寺を回って最後の紅葉を楽しんだ。落葉してだめかな?と思ったがなんとかまだ間に合ったようだ。

 大阪から京阪特急で祇園四条まで。京橋からでは座れないので淀屋橋から乗った。駅を降りると南座を右手に見ながら四条通を八坂神社へ。この道はいつも狭い歩道に観光客があふれかえっている。そこへ「いかにも」という「京都らしさ」を売り物にしたお土産屋や飲食店がぎっしり並んで、観光客を吸い込んでいる。たいていは京都に関係ないお土産物を京都風にラッピングしているにすぎないが、これが東京方面辺りから来る観光客にバカ受けだ。店内は「ちゃってさあ」言葉で沸き返っている。

 外人観光客(ヨーロッパ系)の方が賢いかもしれない。彼等はこんな所で時間と金を費やさないで、知る人ぞ知る街角で、骨董品や和装、工芸品の工房などを見つけて入り浸っている。彼等の手にするガイドブックの方が私には興味がある。旅一つとっても日本人はまだ、アジア的なのかもしれない。隣国から札束握りしめて大挙して日本に押し掛けてくるの観光客を笑えない。

 ともあれ祇園、高台寺、清水寺コースは、観光客、修学旅行の定番コース。京都観光の初級編だ。ここに足を踏み入れる以上、文句は言うまい。

 紅葉は盛りを過ぎたとはいえ、樹によっては美しく赤や黄色の葉を錦のように織りなして美を競っている。但し人出もハンパではなく、清水寺など明らかに紅葉よりも人出が真っ盛り。清水の舞台からは人がはみ出さんばかり。舞台の底が抜けるんじゃあ、と怖くなったくらいだ。音羽の滝も長蛇の列。連れ合いは名残惜しそうだったが、私はサッサと立ち去っててしまった。

 京都は世界的な観光都市。しかし、もう少しゆったり静かな古都の晩秋を楽しみたいものだ。

2010年12月6日月曜日

追いかけるモデルのない時代へ 〜英国のリーダー像に何を学ぶか〜



 今年はNHKの大河ドラマ「龍馬伝」や、「坂の上の雲」で、幕末、明治期の日本人のヒーローがブームをよんだ。
 この閉塞の時代の指針にしようという事なのか、日常のなかの情けないリーダ達の言動に辟易して、非日常の英雄に夢を託そうというのか。多くの人が歴史ドラマを楽しみ、涙し、現状に悲憤慷慨する。ツイッター上で語り、なかにはエライ経営者までが「なりきり龍馬」ではしゃいだり、大騒ぎだ。

 たしかに、この時代のヒーロー達は古い時代の破壊者、変革者であり、破壊のあとの創造者であった。幕末の志士の変革へ情熱、明治の若者の成長への意欲。どれも今の日本に求められるものだ。しかし、当時の彼等と同じような行動が今求められるかと言うと、事態はそれほど単純明快ではない。今の混迷は明治維新の時期のそれとは大きく異なっている。

 一番大きな違いは、追いかけるモデルがないことだ。今から思えば明治期には変革のモデル、目指すべきゴールがはっきりしていた。何もしないと欧米列強の植民地になってしまうという恐怖心から生まれたエネルギーがある。そしてそこには欧米列強と言う明解なレファレンスモデルがあった。そして隣には、清國というこれまた明解な反面教師、負のレファレンスモデルがあった。

 ゴールやモデルがあればあとはやるべきことやる実行力の問題だ。殖産興業、富国強兵、西欧列強に追いつけ追い越せ。その為には古い仕組みを壊して、近代化に突き進む。もちろんそれを成し遂げるには強力なリーダシップが必要であったことは言うまでもない。ある種のビジョナリーリーダが求められた。旧制度、幕藩体制に押さえつけられていた階層の中からそのようなリーダーが出現した。そして彼等がが時代を変えた。そのハングリー精神が原動力だった。

 しかし、近代資本主義国家というゴール目指して突き進んで来た日本は、やがてその行く果てに「衰退への道」というフェーズを見てしまった。国家の栄枯盛衰は歴史の理だ。これからはかつてのような目指すべきゴールも、参照モデルも何もない。全くの無から、新たに政治や経済が突き進むべきゴールとモデルを自ら設定する必要がある。

 こうした時代のヒーローは、残念ながらみんなが憧れる幕末や明治維新の英雄達ではなく、別のパラダイムの創造者でなければならない。武市半平太を想起してもだめだ。坂本龍馬を待望してもダメだ。立身出世のモデル秋山好古や真之兄弟を自分達になぞらえてもダメだ。これからはゴールも、ビジョンも、モデルも誰も示してくれない。全くの未知の世界を突き進まねばならないわけだから。坂の上に追いかけるべき雲はない。

 イギリスの政治情勢をリードする二人の若き政治家、キャメロンとミリバンドを特集した日経朝刊の一面記事。「民主主義国はおそらくどの形態の政治よりも国民を指導し、鼓舞する卓越した人物を必要とする」(ブライス)という言葉が心に残る。

 そういう意味ではイギリスという国は、近代の最先端を走っている国だ。資本主義帝国主義の覇者大英帝国の時代を過ぎ、超大国の座をアメリカと言う新興国に明け渡し、さらに日本と言う新興国にも追いこされてしまった老大国。英国病などという汚名を極東の新興国日本に浴びせられたイギリス。しかし、マーガレット・サッチャーのイギリス政治経済の大手術を経て、次のステージをどのように作り出すのか。英国の若きリーダー達と、それを輩出する人材層は健在だ。そして世界中でイギリス人(いやUnited Kingdom各地の出身者)が活躍している。

 幕末明治期の若者達から学ぶべきことは沢山あるだろう。しかし、過去の歴史をただ振り返って慨嘆したり、英雄の出現を待望しても何も生まれない。日本は全く新たなパラダイムに突入しようとしている。アメリカもヨーロッパも日本も。過去の資本主義的な、帝国主義的なロールモデルを追いかけるステージは終焉を迎えつつある。それは新興国にまかせておけ。役者が変わるがいずれ歴史の中で新興国も我々と同じ道をたどる。

 資本主義「先進国」は「衰退」期を経て、次のロールモデルを誰がいち早く作り出して実行できるかの競争に突入するだろう。そしてそれをなし得るリーダー層をどれくらい幅広く生み出せるかが全ての競争の源泉になるだろう。その点でイギリスの「人づくり」に学ぶ点は多いと思う。

 我々日本の明治期の若者から学ぶべき点の一つは、彼等のどん欲な知識吸収力と行動力、理想に燃えた目線の高さ、ハングリーさと、そしてなによりも能天気までの「楽観主義」だ。そして今付け加えるべきは「創造力」すなわちオリジナリティーだ。明治の先輩達にかけている所だ。いずれにせよ、そういう点では「人」が国の基本だ。そしてその「人」こそ国の発展の原動力だし資源だ。そしてその「日本人」は日本という国の枠を超えて世界の様々な分野でリーダーシップを発揮するだろう。 この事を忘れたら日本人には未来はない。「自分が楽しければそれで良い」人生を送る人が大多数のなかで、高い理想と卓越したビジョンで「滅私奉公」する人材を育てなければならない。