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2015年12月28日月曜日

修猷館と西新町商店街、そして高取焼 〜我が青春の町は今〜

我々が通っていた頃の本館。六光星の校章が掲げられた塔がシンボルだった。
今は建て替えられて跡形もない...


現在の本館。当時の面影を残すため塔は復元されたようだ。正門は当時のまま。
随分立派な校舎と施設で恵まれた教育環境に見える。
きっとオンボロ、バンカラのイメージは薄らいだのだろう。

 修猷館は筑前黒田藩の藩校(東学問所)であった。その名は中国の古い歴史書「尚書」から引用され、「その猷(王者の道)を修める」という意味があるそうだ。古色蒼然たる名前は、子供の頃にはなにか硬派で恐ろしげな響きすらあった。しかし近所の修猷館のお兄さんは賢そうなのでそのギャップが不思議だった。藩校修猷館、バンカラ、弊衣破帽、げた履、六光星の校章。スポーツは剣道、柔道、ラグビーが強かった。ヨットも全国制覇したことがある。全国でも有数の進学校だ。要するに文武両道ということ。かといって受験勉強など特別な指導はなかった。本人が勝手に勉強するんだろといった気風であった。もちろん校則などというものもなく、自由闊達、自主性が何よりも重視された。県立であったので学区制があったのに越境入学が多かった。私が入学した時の同級生は福岡はもとより全国から来ていた。また、いわゆる修学旅行がなかった。かつてはあったが「ある事情」で廃止されたという。在学中、生徒会で修学旅行を復活してくれと決議したが、先生方から「お前らを修学旅行に連れて行くぐらいなら辞表を出す」とキッパリ断られた。てんでに勝手な行動をする奴らを引率するような牧童役は真っ平ごめん、というわけだ。最近は復活したとみえ、私がニューヨークにいた時に、「先輩の仕事を見学/意見交換させて欲しい」と学校から頼んできた。やってきたのは真っ黒に日焼けした精悍な面構えの男女10名。応対に出た米人秘書が一瞬ドン引きしていた。聞けば、手分けして世界各国で活躍する先輩方を訪ねているんだと!さすがだなあ。ちなみに先生の引率はなかった。やっぱり...

 全国には、米沢興譲館、福山誠至館、柳川伝習館、久留米明善校、熊本済済黌、鹿児島造士館、萩明倫館等々、藩校を起源とし、今もその名を校名にしている学校は多い。しかし、修猷館ほど卒業生の量質ともに多士済々な藩校も珍しいだろう。幕末の福岡藩は維新に乗り遅れ、多くの有為な人材を新政府に送り込めなかった。その無念の思いがそうさせたのか、明治以降、黒田奨学会とともに修猷館は、世界に羽ばたく福岡の若人の人材育成機関として、福岡県立に移管されたにもかかわらず黒田家や卒業生/同窓会の支援で隆盛を極める稀有な学校となった。黒田藩が城下町福岡に残した文化的な遺産のひとつだろう。

 戦前は男子校だった。戦後昭和24年に共学校になった。私の在学当時も女子(女史)は全体の10%くらいしかいなかった。クラスは男女共学組と男オンリー組に分かれる。ちなみに私は一年病気留年し4年も通ったのに一回も男女クラスにならなかった。別に羨ましくもなかったが...(負け惜しみ)。圧倒的少数の女子のほうが断然に男子を睥睨していたような気がする。いま社会で活躍する女性のなかで修猷館出身者が多いことを見てもわかる。最近は女子生徒の数が大幅に増えたと聞く。これからは女子力パワーの名門校になることは間違いなかろう。

 一方、西新にはもう一つ学校がある。西南学院。米国南部バプティスト連盟の宣教師により設立されたミッションスクール。中学高校は男子校。大学は共学校で、輝くような女子大生もいた。しかしバンカラ修猷生は目もくれなかった。いや正確に言うと相手にされなかった。汗臭い九州男児君ばかりだもんねー 近くに女子校もなく(城南線の電車で「練塀町」や「古小烏」「薬院」あたりの山の手まで遠征しないと女子校はなかった)、いやでもバンカラを標榜せざるを得なかったのかもしれない。

 修猷館/西南学院、両校はかなり対照的な隣人だ。教室の窓からすぐ隣に西南学院が見える。冬になると蔦のからまるレンガ造りの瀟洒な校舎の煙突からは煙が立ち上る。窓は全部閉まっている。全館暖房中だ。こっちは、戦前の歴史的建造物。鉄筋とはいえ古い校舎は隙間風がスースーよく通る。教室にはストーブもなし。海からの風が吹きつけ寒い、とにかく寒い。なのに窓は開けっ放し。閉めてても寒いのでせめて明るく!

 しかし、最近行ってみたらあの歴史的な校舎が完全に無くなって建て替えられている。立派で堂々とはしているが平凡な今風の校舎に。惜しいことだ。なんか福岡人って、歴史的建築遺産にあんまり頓着しない傾向にあるようだ。街中には意外に近代建築遺産が少ない。都市景観にどこか重みがないのはそのせいか。中心部にあった古い堂々とした銀行の建築物や旧博多駅舎、ネオゴシックの県庁舎や市庁舎だって全部取り壊されてしまった。思いっきりがいいのか。価値がわかってないのか。九州大学も伊都キャンパス移転に伴って箱崎の校舎の取り壊しが盛んだ。明治後半に我が国第三番目の帝国大学として創立され、堂々たる名建築が立ち並んだ箱崎。これだけの歴史地区が廃墟になる様は哀れとしか言いようがない。修猷館よお前もか... 学校ってのは校舎が新しけりゃいいってもんじゃないだろう。伝統校ほど歴史を感じる建築物をシンボルにしているのに。


当時は市内電車貫線が正門前のこの道を走っていた。今では「サザエさん通り」なんてのが出来た!

正面の塔屋に六光星
この旗の配列は同じだ。

旧制中学修猷館時代の正門
石柱の文字にわずかに伝統の痕跡が残っている。
今の東門付近に保存されている

 その我が母校、修猷館があるのが西新町:江戸時代に福岡城下、樋井川の西の松原に新たに形成された町だ。それまでは樋井川にかかる今川橋が城下町の西の果てだった。幕府の一国一城令により廃城になった黒田家の支藩、直方の東蓮寺藩の家臣たちを福岡本藩の城下に住まわせるために新たに開発した新市街だそうだ。やがて唐津街道沿いに町が広がっていった。いまでも古い商家が残り、姪浜宿あたりまでは古い町並みがかろうじて残っている。

 また鎌倉時代にはモンゴル・高麗の大群が博多湾に来襲してきた。いわゆる元寇である。二度目の来襲ではこの辺りに上陸してきたが、先の来襲以降、防塁が築かれ鎌倉御家人たちは九州の武士団の助けでなんとか防衛を果たした。一部、陸上戦の激戦地となった祖原山や日本側の前線基地となった紅葉八幡などの元寇ゆかりの遺跡がある。西南学院のキャンパス内には防塁跡が保存されている。電車が走ってたころは「西新町」の次に「防塁前」という電停があった。

 明治になるとお城の大手門にあった藩校東学問所修猷館が西新町に移転、福岡県立中学修猷館となる。さらに西南学院が同じく西新町に移転してきた。こうして新興武家屋敷だった街が学生の町となった。

 西新商店街はいまでも賑やかな商店街。有名なのは、糸島のおばちゃんリヤカー部隊の露店。常設だ。すぐ西隣りの旧糸島郡(今は一部が福岡市西区、一部は糸島市に。倭国の時代の伊都国、志摩国のあったところ)は福岡の台所と言われる近郊農業地帯。新鮮な野菜、果物、花、そして魚が取れる。おばちゃんたちが朝早く起きて大きな背負い籠を担いで、筑肥線に乗って、市内に行商に来たのが始まり。西新町はロケーションとしては一番便利で、こうした「市」が出来たのは全く不思議ではない。

 もう一つの名物は、修猷館生御用達「蜂楽饅頭」という回転焼き(今川焼きとも太鼓焼きともいうが我々はこいう呼んだ)屋さん、当時は小さな店だったが、今でいうイートインコーナーがあった。なにより綺麗なお姐さんがいた。いわゆる看板娘!生意気な修猷館生にも優しく接してくれた。「あれから40年?!」。いまは大きくて立派な店になり結構な繁盛店に。そう、「行列のできる店」になっている。天神の岩田屋本店のデパ地下にも出店してるそうだ。あの看板娘さん、どうしてるんだろう?

 私は子供のころ西新町の東隣りの今川橋に住んでいた。今川橋には西鉄電車の車庫があり、かつてはここが市内電車の終点であったという。それが西新町より更に西の姪浜、室見まで伸びた。西新町は、市内電車、城南線と貫線の分岐点であった。映画館や積文館書店があり、ボーリング場もあった。商店街だけでなく賑やかな街だった。やがて修猷館に通うころには私は樋井川の上流の別府に引っ越し、六本松からここまで電車通学していた。電車の分岐点であっただけでなく、昔から唐津街道の要衝として賑わう街であった。今でも福岡市の西の副都心と考えられている。一時は地元老舗デパート岩田屋の西新店がオープンしたが、やがて閉店してしまった。そんな副都心、なんて気取った町柄ではないのだ。普通ならデパート・スーパーなど大型店舗ができて商店街がシャッター通りになるのだが、ここでは逆。商店街がいまも健在。その後デパートもスーパーも建たないという、珍しい賑やかな商業地であり続けている。


西新商店街


紅葉八幡
蜂楽饅頭
修猷館生御用達

商店街から福岡タワーが見える
かつては百道の海水浴場だったところだ

???このカオスな佇まいがいいなあ!

西新商店街名物リヤカー部隊
糸島のおばちゃんが新鮮な野菜や果物、花、魚を運んでくる常設露店
この頃は糸島のおばちゃんもファッショナブル。
当時はモンペに久留米絣、頭には手ぬぐいのほっかむりが定番だった。

 西新商店街を更に西へ行くと、中西商店街、高取商店街、藤崎商店街と延々1.4Kmも商店街が続く。賑やかな下町の佇まいを今も残している場所だ。高取商店街辺りまで来るとかつての唐津街道の商家、町屋が今も残っている。やがて姪浜宿も間近だ。忘れてならないのは高取焼の窯元があることだ。ビートルズやベンチャーズに熱狂していた高校生の私に、陶磁器など興味があるはずもなく、もちろん一度も訪ねたことはなかった。しかし、この歳になると「なんだこんなところにお宝が...」と気づく。早速訪問。住宅街の真ん中に、高取焼味楽窯はある。この日はあいにく誰もおらず、陳列館もガランとしていた。登り窯を見学させてもらい早々に引き上げた。この登り窯は有田や唐津で見たものと遜色のない大層立派なものであるが、ここでも、この窯が使われることはもはやないそうだ。

 高取焼は、黒田長政が文禄・慶長の役で朝鮮から連れてきた陶工「八山」(ぱるさん)が筑前藩内に開いた窯である。筑豊の鷹取山で開いたのが最初であるが、その後、窯は藩内を転々移り、小石原の窯は現在でも八山直系の子孫が営んでいる。高取焼は筑前黒田藩の藩窯として幕府への献上品などに用いられたため、さらに福岡城下に近いところに陶工が移り住むよう命ぜられて窯を開いた。これが現在の高取焼味楽窯につながっている。地名、高取町も高取焼からきている。この高取焼味楽窯の特色は、茶入れなどの茶器にあるという。極めて薄い陶器をろくろで生み出す技は一子相伝。福岡藩も、隣の佐賀藩や唐津藩に負けずとも劣らない藩窯を持っていたことを誇るべきであろう。

 とここまで来ると福岡城下の西の果て、旧早良郡、糸島郡との境だ。







筑前藩高取焼窯元
「味楽窯」

 ともあれ、「あれから40年?!」なのだからすっかり辺りも変わってしまった。浦島太郎なのだ。樋井川は臭くて汚い川だったが、いまは綺麗になった。今川橋も古い木造橋で電車が上を通るとグラグラ揺れた。やがてコンクリート橋に架け替えられたが、砂埃舞う未舗装の電車道がしばらく続いた。「サザエさん通り」なんて通りが出来た(修猷館東門の横を百道海岸へ)長谷川町子が一時期住んでいて、百道の浜で磯野一家を構想したという。そんなことがあったなんて全く知らなかった。百道の海水浴場も地行浜も埋め立てられて新しいウォータフロント新市街が出来た。湾岸を都市高速道路が走ってるではないか!気分はまるでシカゴのレイクショアードライブ、ニューヨークのヘンリーハドソンパークウェー! 住んでいた海辺の我が家のあったところも、いつの間にかすっかり内陸の殷賑な地区になってしまっている。それにしてもこのウォーターフロント、シーサイドももち、すっかり福岡の新しい顔になっていて、近未来的な都市景観を生み出している。福岡ってかっこいい町になったなあ!しかし、子供の頃凧揚げした地行浜も、毎夏大腸菌汚染度が気になっていた百道海水浴場も、父が百道海水浴場からボート借りてきて子供の私を迎えに来てくれた樋井川河口の防波堤も無くなってしまった。あの頃のあの町。でもやっぱり記憶の中の西新町と今川橋は、いまだに当時のままだ。市内電車が走り、海水浴場があって、六光星の校章つけた学帽かぶった若者が闊歩し、蜂楽饅頭で放課後を過ごしている修猷館生がいる街だ。血気と汗と涙と夢とに満ち溢れた若者の町... 枯れてしまった今の私には眩く輝くような街だ。



2015年12月21日月曜日

初冬の大和古寺巡礼(3)元興寺 〜冬紅葉を巡る旅〜

飛鳥の法興寺から移設された日本最古の瓦ぶき屋根(行基葺)

 今年もいよいよ押し詰まってきた。様々な煩悩に苛まれた一年だった。そういった、ざわついた気持ちのまま、初冬の大和古寺巡礼の旅に出た。そこには別の時間が流れる世界があった。いつものことではあるがまたまた資本主義世界とは異なる世界観に心洗われる。大阪での仕事を終え、限られた時間ではあるが、唐招提寺、長谷寺と巡り、ここならまち元興寺極楽坊の智光曼荼羅にたどり着く。

 ここはわが国初の仏教寺院、飛鳥の法興寺が元である。それが平城遷都にともないこの地に移り元興寺となった。当時は広大な敷地を有する有力な寺であったが、時代とともにその寺域は狭まってゆき、旧元興寺境内の大半はやがて人々の生活の場に変わっていった。いまならまちと呼ばれている地域がかつての元興寺境内である。わずかに往時を偲ぶ僧房の一つが今の極楽坊である。ここは、夏にはサルスベリや酔芙蓉、桔梗に彩られ、秋には萩で有名な寺であるが、この季節求めてきた冬紅葉は見当たらない。寒々とした曇天の空に彩りはない。今ここにあるのは滅びの美を象徴する行基葺の古代屋根瓦と、板碑の中心に立つ慈愛に満ちた地蔵菩薩、そして堂内の暗闇に光を放つ曼荼羅世界だ。

 元興寺の今の姿は、飛鳥時代の権力者蘇我氏の氏寺という性格や、南都七大寺としての官寺のステータスを誇っていた時代の姿ではない。中世に至り智光曼荼羅を本尊とする南都浄土信仰の中心となった。かつての仏教伝来にまつわる権力闘争や南都七大寺として朝廷の中枢を担っていた時代は歴史の彼方に去り、浄土信仰、聖徳太子信仰、弘法大師信仰、地蔵信仰など庶民に支えられた救いの場として栄え現在に至っている。時代とともに権力者は栄枯盛衰うつろい行くが、庶民の力は永遠に不滅だ。庶民が守り続けた微笑みを絶やさない地蔵菩薩と曼荼羅が放つ仏の光が乾いた心を満たしてくれる。

お地蔵様は身近にあって庶民を守ってくださる仏様。
関西は地蔵信仰が今でも街角の地蔵堂に息づいている。
なんと優しいお顔

智光曼荼羅
(堂内撮影禁止なので堂外から撮影。罰当たりお許しください)
仏の宇宙観を表現した曼荼羅がご本尊
誰が手向けたのだろう




飛鳥法興寺から引き継がれた古代瓦(行基葺)
日本最古の瓦屋根

秋には萩の寺として知られる元興寺極楽坊


元興寺極楽坊
旧元興寺の僧房の一つ

鶴福院町からの興福寺五重塔
ここもかつては旧元興寺境内であった。
元興寺は興福寺と境を接していた。

旧元興寺境内の東
猿沢池に接するあたり

(撮影機材:LeicaSL+ Vario Elmarit 24-90mm f.2.8-4)

以前のブログ:
「元興寺とならまち」 〜日本最古の仏教寺院はいま〜2010年



2015年12月18日金曜日

初冬の大和古寺巡礼(2)長谷寺 〜冬紅葉を巡る旅〜



 初瀬の里に長谷観音菩薩を参拝する。この身の丈10m超、一木造りの十一面観世音菩薩立像の堂々とした立ち姿と慈愛に満ちた眼差しは、やはり資本主義的合理性に疲れた心には救いである。この観音像は平安時代に二体作られ、一体はここ初瀬の長谷寺に安置された。もう一体は観音の慈愛が他の人々にも届くようにと海に流されたという。これが相模国に流れ着き、もう一つの長谷寺が造立されそこに安置された。鎌倉の長谷観音である。こういう現代的合理性では到底理解できない伝承にいたく感銘を受ける私は、かなり観音菩薩の愛に包まれているのだろうか。物事の道理とは超越的な経験や言い伝えに基づく理解であることがあるのだ。

 長谷寺は「花の御寺」と言われる美しい寺。春の桜、五月の新緑と牡丹。初夏のシャクナゲ。そして秋の紅葉。冬の雪と寒牡丹。四季折々に息を呑むような大和路初瀬の里の美しい時を演出してくれる。しかし、錦秋の煌めきが終わった晩秋から初冬にかけてのこの季節、「花の御寺」は静寂の時を迎える。いつものような華やかさはないが、この時期こそ心静かに観音様に手をあわせることができる。境内に観光客の姿は途絶え、参道の名物くさもち屋も三輪にゅうめん屋も手持ち無沙汰な季節となる。長谷寺もこの時期に大舞台の修理、仁王門の修理を急いでいるのか、覆いが被せられている。拝観受付の女性は「スンマセンなあ、せっかくお出でやしたのに」と。「いやいやいいんです。こんな静かな長谷寺を求めてきたんですから」   

 長谷に来るといつも初瀬川を隔てた向かいの山頂の愛宕神社に登る。ここからは長谷寺の全景が見渡せる。この季節はこのあたりの名残の紅葉、冬紅葉が美しい。過ぎ行く紅葉の季節。落ち葉が敷き詰められ寂寞とした林の中にきらめく季節の残光を見る。今ここから展望する堂宇は、あの桜や紅葉に埋もれた長谷寺の姿ではないが、大舞台の奥で観音菩薩が衆生を救わんと光を放っているのが見えるような気がする。

 長谷寺に向かう参道を少しそれて、與喜天満宮参道の階段を登る。二の鳥居あたりから見下ろすことのできる初瀬街道も人や車で溢れる季節と違って静かである。ここはかつて伊勢詣の伊勢本街道初瀬の宿であった。観音信仰と伊勢詣。旅する平安みやこ人憧れの地、ここから展望する谷あいの街道筋は往時を忍ばせる景観をよくとどめている。遠くに旅の僧が一人、鳥見山を遠望する白く輝く街道を西に向かって歩んでいる。長谷寺参詣を終え、これから大和の霊場に向かうのだろう。長谷寺は西国三十三所観音霊場の根本霊場なのだ。



長谷寺十一面観世音菩薩立像
(長谷寺公式HPより引用)


愛宕神社参道の冬紅葉





愛宕神社参道







この左手に長谷寺を展望できる


愛宕神社からの長谷寺全景
全山桜に埋もれる季節の光景は圧巻だが



遠くに近鉄電車が伊勢に向かって爆走する




與喜天満宮参道


長谷寺参道を見渡すことができる。


初瀬街道
鳥見山を過ぎると桜井、大和国中へと続く

長谷寺登廊





本堂大舞台

(撮影機材:Leica SL+ Vario Elmarit 24-90mm f.2.8-4)


以前書いたブログ:
「初瀬のお山は花盛り」ー桜の長谷寺を行くー2012年




2015年12月16日水曜日

初冬の大和古寺巡礼(1)唐招提寺 〜冬紅葉を巡る旅〜


資本主義に疲れると、大和古寺巡礼に出るとよい。特に人気の少ないこの季節は静かに曼荼羅の世界観に浸ることができる。

西の京は文字通り平城京の西に位置する。近鉄大和西大寺から一駅目の西の京駅を降りると、ここには薬師寺と唐招提寺という大和路の人気古刹が並び立つ。奈良市内からは随分と離れた郊外のような感覚だが、実はこちらの方がかつての平城京郭内で、現在の奈良市中心街や東大寺。興福寺のあるあたりは外京、すなわち平城京の東に突き出た別区のような地域だ。

ここ西の京駅に降り立つ人は、たいてい矢印に従ってまず薬師寺を拝観し、時間があれば唐招提寺へゆく。しかし私の場合なぜか順序が逆だ。唐招提寺へは必ず向かうが、薬師寺は時にはスキップしてしまう。今回もそうだった。何故なのか?あまりたいした理由は思い浮かばないのだが、なんとなく唐招提寺の方が好きだから。何故好きなのか?「好きだから好きなのだ」という「理由にならない理由」。あえて言うならば開祖鑑真和上の私を捨てて公に身を投じた波乱の人生を偲ぶにふさわしい落ち着いた佇まいだからか。

2009年に修理復元された唐招提寺金堂は天平の甍とエンタシスの木柱をそのままに、まるで改修されたことを感じさせないほどの元通りさ。何事もなかったかのように元の場所に静かに佇んでいる。一方の薬師寺は立派な朱塗りの金堂や西塔が再建され、目にもまばゆい伽藍がそびえ立っている。こちらは新築と言っていいほどの新しさだ。そして創建時のオリジナル建築物である東塔も「とうとう」囲われて修復作業中。元祖高田好胤師の説法・勧進プロジェクト始め、野外ライブも開催されるイベントフルなお寺だ。古刹のイメージを求める私にとってどちらが好きか、と言われれば...

人気の少ない初冬の唐招提寺はとりわけ静かで奥ゆかしい。その空気のなかには天平の時間が流れている。この季節の冬紅葉に鑑真和上の遺徳を偲ぶ。鑑真和上廟の苔にはらはらと散る紅葉、色のない風景の中に輝く冬紅葉の黄色い葉は、錦織りなす紅葉とは異なり、その激しく波乱に満ちた人生と、やがて訪れる静かな心の平和を象徴するようでよい。ここには私利私欲に満ちた資本主義のロジックを忘れさせてくれる心象世界が広がっている。


唐招提寺山門
昔ながらの佇まいだ。
入江泰吉氏のモノクロ写真の時から変わっていない。手前の道が舗装されたくらいか。

2009年に修復再建された金堂。
このシンメトリーな均整のとれた建築様式はこの寺を象徴している。
名残の紅葉が色を添える








鑑真和上霊廟









金堂のエンタシス列柱


唐招提寺門前から薬師寺を遠望する
(撮影機材:最新のLeica SL+Vario Elmarit 24-90mm f.2.8-4。とても重い組み合わせだがさすがの写り。特にズームながらその重さに釣り合う高画質に驚嘆する。)


以前書いた唐招提寺に関するブログ:

そうだ鑑真和上に逢いに行こう」2013年

真夏の唐招提寺に古代蓮を愛でる」2012年