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2015年5月26日火曜日

古書探索の楽しみ 〜「ペリー艦隊日本遠征記」縮約版〜





  
Narrative of the Expedition of an American Squadron to the China Seas and Japan, Performed in the Year 1852-54, Under the Command of Commodore M.C. Perry, by Order of the Government of the United States.

New York: Appleton, 1856.
[First trade edition] 1 vol. 


26:17cm, VII, 624 pages. With engraved portrait, 8 engraved-and 67 woodcut-plates, 11 partly folded lithographed maps, and various woodcuts in the text. Half cloth in contemporary style, title in gold on spine. Shortened edition of the official report of the famous Perry-Expedition, which lead to the end of the isolation of Japan against the western hemisphere.


 この書物は、フランシス・ホークスがペリー艦隊の日本遠征の公式報告書として編纂し、ペリーが監修して1856年に 全3巻で刊行された“Narrative of the Expedition of an American Squadron to the China Seas and Japan”(『ペリー艦隊日本遠征記』)を縮約したものである。

 都内の某古書店で偶然見つけた。以前から翻訳版や復刻版は見たことがあったが、この原書との邂逅を心待ちにしていた。古書店めぐりするたびに本棚を見て回り、店主に問い合わせてみたりしたが、これまで一度も出会うことがなかった。特にロンドンやニューヨークの古書店では、より遭遇する可能性が高いことを信じて探していたが、そこでも出会いは訪れなかった。こうして探していると見つからないものだが、出会いは突然やってくる。なんだ「君」は日本に居たのか。それも不思議ではないかもしれない。やはり日本人コレクターの方がこの本への関心は高いだろうから。


 ニューヨークのマディソンアベニューにThe Complete Travellerという旅行書/地理書/古地図専門の古書店があり、私の大好きな空間であった。店主は博識で日本関係の旅行書のコレクションも優れていた。Isabella Birdの「Unbeaten Tracks In Japan」の初版本はここで入手した。他にもLafcadio Hearnの初版本も豊富に並んでいた。しかし、この「ペリー艦隊日本遠征記」だけは、何度訪ねてもお目にかからなかったし、入荷情報もなかった。これだけ日米の歴史上有名な出来事のNarrative(記録)なのだから、当然古書店市場にはそれなりに出回っているだろうとタカをくくっていたが、現実はそう容易くはなかった。店主曰く「公文書だったので国立公文書館や大学図書館、博物館に収蔵されていて滅多に市場に出てこないのかもしれない」と言っていた。

 ちなみにこのThe Complete Traveller、この3月にニューヨークへ行った時立ち寄ったら、残念ながら2015年3月をもって閉店してしまっていた。マディソンアベニューにはまだ店があり、看板も出ていたが、「Closed」の張り紙が... まさにタッチの差であった。今後はネット販売中心でやっていくらしい。あの古書店独特の空気感と店主との会話、そして本棚に佇む美しい装丁の本達がたまらないのだが... どうも中古カメラ屋と古書店は実店舗販売が難しくなってしまったようだ。どんどん町から姿を消してゆく。悲しいことだ。


 The Complete Travellerのウエッブサイト

 確かに、日本でも翻訳版が岩波書店などから出されているし、横浜の開港資料館には3巻セットの公式報告書原本が収蔵されている。下田の豆州下田郷土資料館編纂の「ペリー日本遠征記図譜」も出回っていることから、図書館や博物館には収蔵されているのだと考えていた。しかし今回判ったのは、そうした公的な報告書だけでなく、いわゆる「市販本」が商用ベースで出版されていたということだ。今回入手できたのもNew YorkのAppleton社による「Trade Edition」(市販版)である。また、公式報告書は3巻からなる膨大な書籍であるが、ペリーの功績を多くの人々に伝えるために、より入手しやすく1冊にまとめた「Shortened Edition」(縮約版)が出版されている。


 入手した本にはTrinity College Libraryの蔵書印がある。それが米国コネチカット州ハートフォードのそれなのか、英国ケンブリッジのそれなのか、あるいはアイルランドダブリンのそれなのかは確認できないが、いずれにせよ大学図書館が放出(withdrawn)したもののようだ。なぜ放出したのだろう。
公式版3巻が入ったので市販版を放出したのだろうか。また表紙が中身に比して新しいので、装丁はオリジナルではなさそうだ。あるいは大学図書館で補修したものなのかもしれない。経年によるシミや変色はあるものの、書き込みやインク汚れのようなものは見当たらず、古書としては程度が良いように見受ける。あまり読まれなかったのか? そうした本の歩んだ道筋を想像するのも面白い。


 マシュー・カルブレイス・ペリー(Matthew Calbraith Perry:1794-1858)は15歳で海軍に入り1812年の米西戦争、地中海・アフリカ巡航、西インド諸島での海賊狩り、メキシコ戦争等を経て、1852年米国東インド艦隊提督(この提督は正式にはCommodoreでありAdmiralではない。また艦隊も当時はFleetではなくSquadronと称されていた)となった。やがて大統領フィルモアの命を受け日本と通商開始のために1853年浦賀に来航、久里浜に上陸して大統領の国書を将軍に伝達。翌1854年再び江戸湾に入り横浜で日米和親条約に調印、ついで6月には開港地となった下田を視察し、そこで追加条約(下田条約)に調印した。こうして鎖国日本の開国への道を開いたことは衆知の通りだ。 

 1855年1月帰国後、政府の委嘱を受けフランシス・ホークスに命じて編纂せしめたのが本書である。ペリー自身の航海日記と公文書を中心に部下の航海記や日記・報告書を用いて編纂、1856年に公刊された。この「遠征記」には色々異本があるようで、本報告書には、米国議会上院版と下院版の2種がある。その内容構成は第1巻は遠征記の本文、第2巻は諸調査の報告書類、第3巻は黄道光の観察記録である。また、先述のように市販版がNew YorkのAppleton社から出版されている。その縮約版の1856年初版が今回入手できたものである。



下田の公衆浴場の図
ペリー一行が最も驚いた光景の一つ
 また、俗に云う「風呂屋版」と云うのがある。同行した画家ハイネが描いたものを、黄・淡藍・墨の3色刷の砂目石版に複製した「下田の公衆浴場の図」(右図)入りの版である。ペリー艦隊一行が、女性のお歯黒と共に、この公衆浴場での混浴を、最も驚いた日本の習慣であると記述しているものである。公式な本報告書では、あまりの驚きにより(?)この図が掲載されていないものが多いと云う。ハイネ著のドイツ語版には、ハイネが写生したものを木版画にしたものがあり、今回の古書店にも並んでいたが、希少本扱いでとても手が出る値付けではなかった。コレクターズアイテムというわけだ。ちなみに今回入手した版にはこの「話題騒然」は掲載されていない(残念ながら...)。

 ペリーは遠征準備のため8か月間もの時間を掛けたという。その間、航海に必要な海図をオランダから入手し、日本に関する書籍を可能な限り収集して読破したという。これらの書籍の中には、シーボルト『ニッポン』やケンペル『日本誌』などが含まれている。 中でもシーボルトはペリーに書簡を送って日本との折衝のアドバイスををしている。
イントロダクションでは、かなりのページを割いて、これまで日本を訪れた過去の西洋人の活動の歴史が記述されていて興味深い。16世紀末の大航海時代のポルトガル人、オランダ人、ウイリアム・アダムス、イギリス人などの活躍、幕末のロシア人、アメリカ艦隊などの日本との関わりから説き起こしている点が興味深い。そうした歴史の上に成り立つ今回の偉業であることを印象付けたのであろう。

 ペリーの黒船来航は、日本を鎖国から開国に向かわせた歴史的な出来事であるが、一方で長い眠りからたたき起こされた側から言わせてもらうと、その強引な砲艦外交に対する批判もある。そもそもこの当時、鎖国していた日本をなぜ開国させようとしたのか。当時、七つの海を支配するイギリスを始め、フランスやオーストリア帝国などの欧州列強諸国はオスマントルコ帝国に関わる「東方問題」で日本に構っている余裕はなく、ロシアと新興国アメリカが日本の開国に関心を持っていたに過ぎない。しかもアメリカの関心事は、日本との交易というよりは、中国に向かう太平洋ルートの開拓であった。欧州の列強諸国がアジア/中国へと歩を進めた大西洋、喜望峰、インド、マラッカという南回りルートではなく、直接太平洋を横断して中国へ向かコースが重要であった。広大な太平洋を横断するためには、途中、食料や水、薪炭を補給し休息を取る寄港地が必要であった。さらに当時盛んであった米国捕鯨船の、薪炭、食料の補給、乗員の保護も重要な課題であった。このころはすでに帆船による遠洋航海に時代が終わり、蒸気船によるそれに移っていたので、航海の出先での燃料補給が喫緊の課題であった。ペリーが持参した大統領フィルモアーの親書に記されていた要求事項はこの補給のための寄港地を日本に開いてほしい、ということ。激動の19世紀帝国主義植民地争奪戦のなか、奇跡的に(?)極東で平和な生活を楽しんでいた日本を、無理やり開国させる欧米列強側の直接的動機は、皮肉にも(幸運にも)日本そのものがターゲットではなかった。


 しかし、この「日本遠征記」自体は歴史上の一大事件に関するその当事者達の詳細な記録であるだけでなく、当時の日本の社会・文化・自然等に関する観察記録でもある。さらには異文化との遭遇の記録である。そういう観点から読んでみると、現代の日本人の目からとても興味深い。黒船来航騒ぎといえば、度肝を抜かれた日本人の驚きばかりが伝えられているが、一方で、日本に上陸したアメリカ人の驚きも新鮮だ。彼らは、危険な未開の国々を経由する長くて困難な航海の後、たどり着いた地球の裏側にもう一つの文明国を発見した、と書いている。これは260年前に、オランダ船リーフデ号で豊後府内に漂着同然にたどりついた、イギリス人航海士ウイリアム・アダムスが、彼の航海日誌の最後に記した言葉でもある。まさにEast meets west. West meets east. 東西の文明の歴史的な遭遇である。

 さて、この本の表紙を開き、時空のドアーを開けて、ゆっくりと幕末の日本にタイムスリップしてみようと思う。古書探索はもう一つの「時空旅行」だ。



ペリー艦隊の日本への航海(横浜開港資料館資料より)







2015年5月14日木曜日

チクシ王権からヤマト王権への変遷はどのようにして起こったのか?

 チクシ倭国の時代:

 紀元前2世紀から紀元2世紀頃までの倭国は、北部九州の奴国や伊都国などのチクシの国々が中国王朝(この頃は前漢、後漢)との外交を主導し、中国の華夷思想にもとずく朝貢・冊封体制のもとで東夷の倭国という地域を統治するの権威を得てきた。この頃の東アジア的世界観では、圧倒的な文化力と経済力を持つ中国王朝の皇帝から冊封を受けることが、その地域での王権の維持に不可欠であった。北部九州チクシは列島の中で大陸に最も近く、人の往来も古来より盛んで、ことに弥生文化を代表する水稲稲作農耕が倭国で一番最初(紀元前10世紀頃)に入ってきた地域であり、最も先進的な地域であった。したがって、奴国や伊都国のような国がこれら倭国連合諸国において経済的優位性と外交的優位性を享受できたとしても不思議ではないだろう。

 このことは、紀元前1世紀の漢書(前漢)の「楽浪海中に倭人有り。分かれて百余国を為す。歳時を以って来たり献見す、と云フ」という記述、後漢書東夷伝の記述(57年の奴国王の朝貢「漢委奴国王印」、107年の倭王帥升の遣使)にあるのみならず、考古学的にも検証されている。紀元前1世紀の奴国の王都であるスク・岡本遺跡からは30枚もの前漢鏡やガラス装飾品、武具などの王の権威を示す中国皇帝からの下賜品が出土している。また、同時期の伊都国王墓と言われる三雲・南小路遺跡や井原・槍溝遺跡、さらには平原王墓遺跡からも、奴国王墓を上回るほどの前漢鏡、装飾品が出土している。また、福岡市早良の吉武・高木遺跡からは、紀元前2世紀頃の最初期の王墓らしき遺構が見つかっており、ここからも鏡・剣・勾玉という3種の神器に相当する遺物や、多数の大陸由来の遺物・威信財が出土している。中国の史書にはこのクニ(早良国ではないかと言われているが)に関する記述はないが、この時期にチクシには中国に朝貢するクニ・王がいた証左として注目されている。このように紀元前2世紀から紀元2世紀初頭までは、北部九州チクシ倭国の国々が中国王朝から冊封を受け、統治権威を有する、倭人社会、倭国連合の中心であったことを示している。この時代に、こうした威信財は近畿を始め、出雲・吉備などの地域では出土が見られない。

「漢委奴国王」の金印が出土した福岡市の志賀島
1世紀の「後漢書東夷伝」の記述を証明する発見であった。



紀元前1世紀の奴国王墓
金印を受けた奴国王の数代前の王の墓であろう
(春日市のスク・岡本遺跡)
紀元前1世紀の伊都国王墓
(糸島市の三雲・南小路遺跡)
2世紀前半の伊都国王墓
真東に神奈備の高祖山を望む東西軸の配置
被葬者は女性である可能性
圧倒的な威信財の数々が副葬されていた
(糸島市の平原王墓遺跡)







紀元前2世紀の吉野ケ里遺跡の復元神殿

巫女が神がかりとなって御宣託を聞く












その御宣託に基づいて王と一族の長が集まり意思決定する。






















ヤマト倭国の時代へ:

  ところが、2世紀後半から3世紀になると、こうしたチクシ中心の倭国の姿は徐々に変わって行き、ヤマト中心の倭国へと変遷してゆくようになる。史書の記述でいう「倭国大乱」を境にこの変異が起こっているようにみえる。例えば、考古学的にはこの頃になるとチクシにもヤマトから伝来した土器などが出現するようになるが、その逆は見られない。ある時期から倭国連合の中心がチクシからヤマトへと移ったらしいことをうかがわせる。3世紀後半の古墳時代になると、明らかにヤマトに大型の前方後円墳が出現し、初期のヤマトの古墳(ホケノ山、メスリ、黒塚古墳)からは多数の三角縁神獣鏡などの後漢鏡・魏鏡などの中国からの威信財が出土する。やがてこの前方後円墳という墓制はヤマト王権の倭国支配の権威の象徴として各地域の首長へ伝搬されてゆく。チクシで主流であった土坑墓や甕棺墓などの墓制はヤマトでは見られず、やがてはヤマトで出現した前方後円墳がチクシへも伝搬してゆく。

 魏志倭人伝の記述にあるように、「倭国大乱」の後、3世紀半ば(249年)に邪馬台国女王卑弥呼が、魏の明帝に使者を送り冊封された(親魏倭王)。その時に銅鏡100枚を下賜された。また、伊都国には王もいたが女王卑弥呼の代官、一大率が駐在して、大陸との通交、九州(チクシ倭国)の統括を行っているとされている。奴国を見ると、この頃には57年に後漢に朝貢した奴国王の末裔に当たる王の存在は記述されておらず、地方官僚の存在のみ記されている。すなわち伊都国も奴国も邪馬台国の支配下にあったことを物語っている。

 では、その邪馬台国はどこにあったのか?九州のどこかなのか、それとも近畿なのか。有名な邪馬台国論争だ。前者だとすると「倭国大乱」は北部九州を中心としたチクシ倭国内の争いである。後者なら「倭国大乱」は西日本の広範な地域を巻き込む争いであったろう。また、女王卑弥呼が支配したという30余国の範囲も大きく変わってくる。また卑弥呼の死後は「大いに塚をつくり」埋葬していることから、ヤマトの箸墓古墳がそれではないか。これは邪馬台国、卑弥呼が、チクシのクニ、女王ではなく、ヤマトに起こった(あるいは移動してきた)クニであることを推測させるものではないか、というのが邪馬台国近畿説である。後世、倭国の中心が北部九州を離れ、近畿に移ったことは明らかなのだが、問題は「何時」「どのように」ということだ。


3世紀古墳時代初期の箸墓古墳
卑弥呼の墓ではないかといわれる

箸墓古墳の背後にそびえる三輪山
同じく3世紀のメスリ山古墳
最古の古墳形式を確認できる貴重な遺跡

崇神天皇陵(行灯山古墳)
巨大な古墳が並ぶ大倭古墳群

 ちなみに、鏡は、統治権威を伝える威信財として重要な役割を持っていた。中国皇帝から下賜された複数(数十枚〜100枚)の銅鏡は、下賜された王が、さらに「中国皇帝から倭国王として冊封された証」として、さらに連合王国の地域の王や首長に「権威の象徴として」下賜する。という構造になっている。このような「威信財」を配ることで地域支配の権威を与える、という統治の仕掛けは、5世紀に入ってヤマト王権が次第に倭国全般のし支配圏を確立してゆく「倭の五王」の時代にも引き継がれる。埼玉県の稲荷山古墳や熊本県の江田船山古墳から出た「獲加多支鹵」(ワカタケル:倭王武、ないしは雄略大王)の文字が入った鉄剣などが、ヤマト王権が地方首長の地域支配を冊封した証拠だといわれる。


倭国大乱:

 話を戻すと、このようなチクシとヤマトの倭国支配の勢力逆転はいつ頃、どのように起こったのか?2世紀まではチクシが、3世紀以降になるとヤマトが倭国の盟主となっていった。魏志倭人伝によれば、男王の治世が7〜80年続いた後、2世紀後半(146〜189年頃)に「倭国大乱」で王がいない時期が続く。その「倭国大乱」とはどのような争いであったのか。なぜ騒乱になったのか(何を巡って争ったのか?)。邪馬台国の卑弥呼擁立により騒乱は収まったとされるが、前述のようにそれはチクシ倭国での話なのか、もっと広範囲に近畿ヤマトを含めてで起こったのか?。

 おそらく「倭国大乱」は当時の東アジア情勢の流動化が原因であろう。後漢王朝も末期に入り、184年の黄巾の乱、それをきっかけとした後漢王朝の滅亡は、朝貢していた周辺諸国に、地域支配権の攻防、それに伴う戦乱や、亡命、難民の発生など大きな影響を与えた。倭人社会においても、漢王朝の冊封を受けていたチクシ倭王(奴国王・伊都国王)が、その統治権威を失い、争いになっただろう。また、稲作農耕や武器として必須の戦略資源である「鉄」は当時朝鮮半島南部でしか入手できなかったが、その入手ルートや資源権益を掌握していた北部九州のチクシ倭王がなんらかの理由で争いに破れ、倭国内陸のヤマト倭王に権益を奪われてゆく。また、大量の亡命者や難民が列島に押し寄せて混乱した可能性もある。そういった倭国の国際環境の変化に伴う王権の揺らぎが倭国連合盟主争いの実態ではないかと考える。やがて邪馬台国の「鬼道をよくする」シャーマン卑弥呼を倭国連合の霊的権威として担ぎだしてようやく乱が収まった。すなわち、中国との外交権、地域の武力支配権の争いを、祭祀権をもって収めた。武力で治らないと、その上の権威を持ち出して妥協させるというのはいつの時代にも取られる和平手段だ。

 邪馬台国が近畿ならば、57年のチクシ奴国王の後漢への朝貢、107年の倭王帥升(伊都国王であろうと言われている)の朝貢から100年足らずの間に近畿地方に北部九州チクシを凌駕する近畿ヤマトが生まれたことになる。漢に代わる新しい中華王朝魏の冊封を受け、なんらかの形で半島の製鉄利権を獲得し、ヤマト・邪馬台国は、大陸に最も近い先進地域である北部九州チクシの奴国や伊都国に代わって、大陸から遠く離れた奈良盆地に外交力、武力を持ったクニを出現させた。ということなのか?そしてそれがヤマト王権に繋がっていったのだろうか。

 一方、倭国支配の中心はチクシからいきなりヤマトへ飛んだわけではなく、出雲や吉備、あるいは越にも有力な国が生まれる。ヤマトに発生した古墳時代の先駆けとしての墳墓形態(四隅突出型という大型墳丘墓)や祭祀形態(特殊器台という土器)を生み出したこれらの国々が、ある時期、倭国の中心的な位置を占めた可能性もある。やがてはヤマトに協力、服属することで倭国の統一の第一歩となった可能性がある。このころ考古学的には、青銅器祭祀から墳墓祭祀へと移行する過程で、いわば「弥生時代」から「古墳時代」へと移行する時期である。これらの国々がその移行プロセスを象徴する国々であったのだろう。ちなみに倭国統一の過程で、チクシは比較的最後までヤマトに服属しなかったように見える(6世紀のチクシ磐井の乱が最後の抵抗だった)。あるいは神功皇后の三韓征伐エピソードは、熊襲掃討の過程で出てきたことになっている。この時も熊襲征伐の後にチクシをようやく平定し、さらに三韓征伐に向かったと考えられる(もっともいつの時代の事績なのかは不明であるが、そういったチクシ平定に手こずった記憶に基づく記述である可能性がある)。


ヤマトの起源は?:

 そもそも山々に囲まれた内陸の盆地であるヤマトでは、弥生世界でどのようにクニが形成されていったのだろうか?もともとヤマト盆地に発生した弥生の農耕集落・ムラが成長していってクニになったのか?あるいは、西から移動してきた勢力によってある時期に形成されたクニなのか?意外にわかっていない。

 奈良盆地の中心部に位置する(古代奈良湖のほとりの湿地帯に形成された)唐古・鍵遺跡は弥生初期(吉野ケ里遺跡などのチクシの大規模環濠集落跡と同時期、紀元前3世紀頃)の大環濠集落跡であるが、これがのちの邪馬台国ないしはヤマト王権に発展していった形跡はないといわれている。環濠集落は古墳時代までには消滅し、その跡地には古墳が築造され、中世になると武士団が砦を築き、農村集落が形成されている。一方、3世紀頃、三輪山の山麓に形成された纒向遺跡は東西軸に配置された宮殿・神殿を中心に水路が巡らされ人工的に建設された「都市」のようで、全国各地の土器が出土するなど、人が倭国各地から集まってきた様が見える。「共立された女王卑弥呼の都」らしい雰囲気が溢れている。卑弥呼の神殿と思しき遺構からは、祭祀に用いられたと思われる桃の種が大量にみつかるなど、中国の神仙思想の影響を受けた有様が見て取れる。もちろん3世紀後半から始まったと考えられている箸墓古墳(卑弥呼の墓ではないか、と言われる)のような巨大古墳群の築造がヤマトの独特の景観を形作るようになる。

 しかし、ここヤマト倭国には弥生社会に典型的な高地性集落も環濠集落も(唐古・鍵遺跡の他に)見つかっていない。北部九州チクシ倭国の国々はほとんが環濠集落を特色としていた。瀬戸内沿岸に展開するムラ/クニは高地性集落を特色とする。すなわち稲作農耕社会であり、その土地、水と民、富の集約と支配を巡っての争いを想定したムラ/クニを形成していた。それが(魏志倭人伝が描く)弥生時代を象徴する倭国の姿であった。ヤマトにはそれがない。すなわち弥生のクニの香りがしない。纒向や箸墓はもっと新しい時代の遺跡ではないのか(ヤマト王権成立時期以降)、と邪馬台国九州説の学者は唱える。箸墓古墳も纒向遺跡も3世紀ではなく、4世紀以降の遺跡であるとする。すなわちヤマト王権初期の遺跡だという。

 それにしても、このような列島内部の盆地に位置しながら大陸との交流は誰が取り仕切ったのか?後世、チクシの安曇族(住吉族)や宗像氏がヤマト王権の大陸との通交を取り仕切るが、ヤマト初期(チクシと覇権を争っていた時期)には誰がそれを行ったのか。それがなければチクシに代わって倭国連合の盟主にはなれなかったはずだし、帯方郡を通じての魏への朝貢もできなかったはずだ。

唐古・鍵遺跡
紀元前3世紀ころのヤマト盆地最古の稲作農耕環濠集落跡


竜王山から望む奈良盆地
古代にはここが左の図のように湖だった
正面に二上山
古代奈良湖推定図
唐古・鍵遺跡や纒向遺跡の位置に注目



三輪山に日が昇り
二上山に日が沈む
東西軸の宇宙観であった
纒向遺跡の発掘
卑弥呼の神殿ではないかと言われる遺構。
しかし、本当に卑弥呼の時代の遺構なのか。弥生の匂いがしない。
背後には三輪山がそびえる

 我々はヤマト、すなわち山々に囲まれた奈良盆地の長閑で箱庭のような舞台が日本の誕生の地、日本文化発祥の地だと考えている。もちろんそれは事実だ。ある時期以降、ヤマト王権が列島支配権を確立してゆく過程で、奈良盆地が倭国・日本という国家の揺籃の地になっていったことは間違いない。しかし、これまで見てきたように、実はヤマトが、何故、いつ頃、倭国・日本の中心となっていったのかはまだ十分に解明されていない。謎に包まれている。そもそも列島の文化の発展は、少なくとも弥生時代には入ってからは水稲農耕文化がたどったように、大陸に近い北部九州を起点に西から東へと伝搬していった。大陸の文化圏や交易圏と切り離して倭国の成長は考えられない。そうした文化的な権威や資源、経済権益をいかに獲得・独占するかが倭国の支配者の争いの核心であった。あるいは、若狭湾や越前といった日本海側に大陸から人がやって来て、琵琶湖を経由して奈良盆地に大陸文化が入ってきたことも考えられる(後世の渤海使のように)が、やはりチクシ、瀬戸内海、摂津、河内、奈良盆地ルートほどの太いパイプの通交ルートではなかっただろう。このいわばゴールデンルートがそのまま倭国における列島支配拠点移動のルートでもあったのではないかと思う。北部九州チクシから近畿ヤマトが中心となっていった訳だが、そのプロセスはまだ解明されていない。日本の古代史は、大事な点でまだまだ多くの謎に満ちている。

 倭国の各地には。チクシとヤマトだけではなく、様々なムラやクニが発展し国が存在していたであろう。こうした国々は日本列島(主に西寄りに)に広範に存在し、その連合(倭国連合)の中心は、大陸に近い(文明に近い)地域(北部九州)から、次第に内陸へ、東へと移動していった。ある時期になると国内の経済活動が活発になり、むしろ倭国内の生産や物流の結節点のような国が中心になっていったのかもしれない。それが近畿ヤマトであった。事実、その後の倭国・日本は、19世紀のみやこの関東への奠都まで、近畿を中心とする歴史を持つことになる。歴史がそのロケーションの合理性を証明して見せた訳だ。

 今回は、あえて8世紀初頭に編纂された日本側の歴史書である日本書紀や古事記の記述には触れなかった。もちろん必ずしも中国の史書に記述されている記事全てが正確で信頼に足るとは考えないし、ある時期の限られた情報による「倭国」像である。しかし8世紀以前に記述された文献資料としては中国の史書しかないこと。また、編年体で記述されているので、これら史書の記述と考古学的発掘成果の突合による時代考証が比較的可能であることから、古代史を研究する手法においては貴重であると考える次第である。

古代伊都国は今...



2015年5月6日水曜日

古代筑紫三海人族の謎(3) ー宗像族の故地を訪ねて宗像大社へー

 宗像三女神とはどのような神なのか?:

 安曇族、住吉族と辿って来た筑紫の三海人族の謎を巡る旅の最後は、宗像族の謎である。記紀神話によれば、宗像三女神(田心姫神(たごりひめのかみ)、たぎ津姫神(たぎつひめかみ)、市杵島姫神(いちきしまひめ))はアマテラスとスサノヲの誓約(うけい)から生まれ、「海北道中(宗像より朝鮮半島に通じる道)」に降臨した。また宗像大神には「道主貴(みちぬしのむち)」の別称がある。「最高の道の神」という意味である。このような別称を持つ神は、他には天照大神(大日め貴(おおひろめのむち)」と大国主命(大己貴(おおなむち)のみである。すなわち国家の創世神話に登場する最高神クラスの位置づけとなっている。「出雲神話」や「日向神話」に相当する「筑紫神話」を語らない記紀にあって、ヤマト王権確立期のこのような筑紫の宗像三神の扱いは何を意味しているのであろうか? 以前にも述べたように記紀では、筑紫倭国(中国の史書に出てくる奴国や邪馬台国など北部九州の国々)、あるいは筑紫の神々が、ヤマト王権/大和朝廷のルーツであると言う認識は一切示されていない。むしろ筑紫倭国とヤマト倭国とは王統の断絶があるということを示唆しているのでは?とさえ考えたくなる。その中で宗像大神だけは特別に位の高い神として取り扱われている。なぜなのか?

 一方で,宗像三女神は、綿津見三神、住吉三神がイザナギの禊から生まれたのとは異なる誕生ストーリーで語られている。アマテラスもスサノヲもこのイザナギの禊から生まれたとされている。すなわち宗像三女神は綿津見神、住吉神からみると、いわば姪の位置づけ?で生まれている。また、アマテラスに反逆するスサノヲが「清き心」の証拠として三女神を生み出したストーリーには、どのような含意があるのか。宗像三女神を祖神と戴く宗像族は、スサノヲの子孫である大国主命の出雲の出であるとか、あるいはスサノヲは新羅に現れた神であり、したがって新羅との結びつきを示唆するとする説も語られている。いずれにせよ宗像三女神は大陸との航海の安全守護神、その祭祀氏族である宗像氏は、その国家のための祭祀を執り行う氏族である。しかし、この位置付けは、あくまでもアマテラスの威光のもとで、すなわちヤマト王権・大和朝廷の権威によって与えられたものである。記紀ではアマテラスは宗像三女神に「神勅」を与えている。すなわち「筑紫に降臨し、天孫を助け,よく祭祀を受けよ」と。すなわちヤマト王権/大和朝廷を筑紫にあって助けるために生まれて来たのだと。この「神勅」は現在も宗像大社に掲げられている扁額に記されている。まさにこれが宗像大神の位置付けを表している。

 高宮祭場と沖ノ島祭祀:

 また考古学的視点で見て行くと、宗像大社には、貴重な古代祭祀跡が現存しており,文献史学のミッシングリンクを繋ぐ様々な遺物が出ている。海を生活の場とする古代海人族の祭祀遺跡は,今でも神聖な祈りの場として敬いと畏れを持って祭られている。

 まず、本殿から奥へ進むと高宮祭場がある。宗像大神降臨の地とされている。沖ノ島と並び宗像大社の中でももっとも神聖な場所であり、古神道の原型たる磐座の姿を今に伝える稀な祭場である。同様の磐座を宇佐神宮や三輪神社に見ることができる。おそらく8世紀にアマテラスを皇祖神とする「神の体系」ができる以前の、地域ごとの部族、氏族の自然崇拝の姿を現しているものだろう。すなわち海の民である宗像族が、危険の伴う航海や、漁労の安全や生活の安定を祈って、神が降臨する磐座を守ってきたのだろう。稲作農耕の神とは又違った祭祀の形態があったのだろう。

 そして、注目を浴びるのは沖ノ島祭祀である。宗像大社(辺津宮)の鎮座する田島、神ノ湊の沖60キロの孤島、周囲4キロほどの沖ノ島には田心姫神が祀られる沖津宮がある。ここは朝鮮半島への航路の途中にあり、航海の重要な目印、ないしは寄港地であったと言われている。ここには貴重な祭祀跡があり、中国、朝鮮半島からの伝来品である銅鏡、金製指輪、馬具、土器などが手つかずのまま祀られていた。(現在は宗像大社神宝館に国宝を含む8万点が収蔵されている)。なぜこのような祭祀がここで執り行われたのであろうか。古来より「お言わずの島」と言われ、島であった事,見た事を一切語ってはならない。島から一木一草をも持ち出してはならない、とされて来た。女人禁制で、今でも宗像大社の神官以外は立入が禁じられている(神官も海中で禊をしてから上陸する)神聖な神の島である。

 この「海の正倉院」と言われる沖ノ島はようやく昭和29年からの3次に渡る調査でその謎が徐々に解明されてきた。島で見つかった奉納品(全てが国宝指定)をみると4世紀から9世紀まで祭祀が行われていたようだ。9世紀に遣唐使廃止以降、祭祀が行われた形跡がなくなる。祭祀の形態が時代によって異なるのが大きな特色である。初期は「岩上祭祀」、それから「岩陰祭祀」となり、やがて「半岩陰祭祀」「露天祭祀」と変遷して行く。これが何を意味するのか。諸説あるが、後述のように、もともと地方氏族の祭祀であったものが,やがて中央政権の国家祭祀へと変遷して行った過程を示しているのではないかと言われている。

 通説では、沖ノ島はヤマト王権/大和朝廷の朝鮮半島/中国との通交を守る国家祭祀の遺構であると言われている。しかしヤマト王権支配が筑紫に及ぶのは、6世紀の筑紫磐井の乱以降だと考え、航海安全を祈る地方氏族祭祀であったものが、ヤマト王権の筑紫支配が強まるとともに国家祭祀へと遷移して行ったものだとする説もある。現在祭祀跡から見つかった遣納品には中国だけでなく、朝鮮半島の新羅や百済の文物が多数含まれており、大陸との通交を生業としていた宗像族と朝鮮半島諸国の王朝、航海民が共に航海の安全を祈念して奉納したものであった可能性もある。それがやがて筑紫磐井の乱以降、敗れた磐井側についた安曇氏が筑紫を去り、ヤマト王権に呼応した宗像氏が筑紫に残って外交祭祀を執り行うようになったのではないだろうか。

 宗像氏とはどのような氏族だったのか?:

 このようなヤマト王権・大和朝廷の国家祭祀を担った宗像族のルーツはどこなのだろう。筑紫磐井の乱以前の筑紫倭国における宗像氏の実像とは?3世紀以前の奴国・邪馬台国の時代、彼らはどのような姿であったのだろう。

 魏志倭人伝には3世紀の「倭人」が入れ墨をして水に潜り漁労にいそしんでいた様子が描かれている。水中での作業はサメやウミヘビなどの危険が伴い,これを避けるために体や顔に入れ墨をしていたと言われる。海人族は航海だけでなく漁労に携わっていたであろうから、そうした入れ墨をした人々が居た可能性がある。一説には「宗像」は、もともと「胸形あるいは胸肩」と記していて、これは胸に入れ墨をした人という意味があるらしい。

 しかし、それは宗像氏に限った話ではなく、安曇一族についても同様であったに違いない。宗像族のルーツは不明で、筑紫倭国の時代(3世紀以前)にどのような存在であったのかは十分には分かっていない。先述のように、記紀の記述から推測して、その出自について出雲や新羅との関係も語られている。古代海人族としては対馬や壱岐、志賀島を拠点として、対馬海峡/玄界灘をわがに庭のごとく通交していた安曇族の方が古いであろう、宗像族はその中から生まれて来た海人族であったのかもしれない。「住吉族」も(以前のブログで述べたように)、元々は安曇族の中から出て来た(あるいは同じ)海人族と考えられているが、後にヤマト王権により,摂津の住之・住吉を拠点に大陸までの航路を守る航海守護神として住吉大神が創出され、摂津の津守氏を祭祀氏族としたとも考えられている。しかし宗像族はあくまでも筑紫の神ノ湊、鐘崎辺りを拠点とし、筑紫を出た形跡はない。磐井の乱後ヤマト王権の筑紫支配が進んだ頃からヤマトに呼応した一族である。そういう点では安曇族が磐井の乱以降、筑紫を去り、空白となった筑紫の海を取り仕切るようになった海人族なのかもしれない。

 その後の宗像氏:

 宗像氏は、ヤマト王権・大和朝廷の中で、有力な地方豪族としての地位を高めて行く。649年、大化の改新で国郡制がひかれた時に、宗像氏は宗像神郡(令解集では伊勢、出雲、宗像他8神郡)の大領および宗像大社大宮司に任じられた。以降、戦国時代の混乱で宗像宗家が断絶するまで900年余のあいだ筑紫の名門氏族として存続する。宗像氏は徳善の時に娘を天武天皇の妃とし、外孫、高市皇子をもうける。天皇の外戚として大和朝廷に寄り添って行った。そういう経緯から天武/持統朝で編纂が始まった記紀に、宗像氏の氏族神である宗像三女神の記述を加える事に成功したのであろう。すなわちアマテラスの子孫である天皇家と、スサノヲの子孫である出雲族という、由緒正しき系譜を有する氏族という一族の歴史を認めさせ、筑紫における支配的地位と大陸との通交を取り仕切る権威を大和朝廷から得た。宗像一族の首長の古墳と言われる宮地岳古墳や津屋崎古墳群は、ヤマト王権/大和朝廷治下の地方大豪族の栄華を物語る。

 平安時代後期から鎌倉時代になると末裔は武家化してゆく。南北朝時代、応仁の乱など混乱の時代を生き延び宗像大社大宮司家として筑紫に勢力を保持する。しかし、さらに時代を下ると戦国大名宗像氏として九州における戦乱の渦中に立たされる事となる。当時の筑前は少弐氏、大内氏、大友氏、島津氏、龍造寺氏の間の騒乱に時代で、やがては太閤秀吉による九州平定へと進む激動の時代であった。そのなかで宗像氏は立花道雪との対立、小早川隆景の筑前入国による領地没収などで本家は断絶、一族は離散してしまう。こうして古代よりその名を歴史に刻んだ筑紫の海人豪族宗像氏は時空の彼方に消えて行った。



 エピローグ:

 ここまで、安曇族、住吉族、宗像族と、大陸との通交を担った筑紫の三海人族の栄枯盛衰の歴史を追いかけてみた。そこに何か倭国成立のヒントが隠れていないか。筑紫倭国からヤマト倭国への変遷を示すエピソードが隠れてないか。そう思って三海人族の世界に分け入ってみたが、やはり想像以上にその歴史は謎に包まれている。住吉族や宗像族のように、ヤマト王権支配が筑紫に及んで後の歴史を語る文献や祭祀遺跡は目にすることができるが、それ以前の(主に奴国・邪馬台国の時代3世紀以前)の姿は霧の中に霞んでしまう。安曇族がどうも一番古くて長い歴史を持つようで、1世紀の奴国の栄枯盛衰に関わりがあることは推測できるが、それも、不確かな伝承による推理の域を出ない。大陸との通交に海人族が果たした役割は極めて重要であったことは確かだと思う。しかし、それが「倭国」の成り立ちにどこまで関わったのか。まして奴国の滅亡や邪馬台国の台頭、さらには邪馬台国からヤマト王権への変遷という、激動の古代史の謎に迫るにはまだまだ「海人族」の実態、ルーツ、筑紫王権との関係などわからないことが多すぎる。かじってみたが歯が立たない、覗いてみたが真っ暗、というのが本音だ。浅学非才、まだまだ勉強不足であるが、これからもこれらの問題意識を念頭に時空旅を続けたいと思う。




 エピソード:

 1905年5月27日、この沖ノ島沖でロシアバルチック艦隊は東郷平八郎の連合艦隊に撃破された。日本海海戦である。この時、宗像大社の神官とその小使いの少年が沖ノ島にいた。戦いが始まったその時、神官は必死の戦勝祈願。少年は木に登って海戦の一部始終を見ていた。のちにその戦況を報告したと言われている。海戦当事者以外の唯一の目撃者・報告者である。日本側の勝利に終わった時、神官と少年は感涙に打ち震えていたという。さすが海人族の末裔らしいエピソードだ。



宗像大社へのアクセス:

宗像大社は全国6200社の宗像社、厳島社の総本宮である。戦前の官幣大社。宗像大社辺津宮は福岡県宗像市田島の釣川の河口、神湊に鎮座している。三女神はそれぞれ、沖津宮(沖ノ島)、中津宮(大島)、辺津宮(宗像郡)の三宮に鎮座している。
 宗像大社本宮へは、JR東郷駅からバス(一時間に2本ほど)ないしはタクシー。宗像大社前バス停には福岡天神バスセンターからのバスも止まる。帰りのバスを確認しておかないとタクシーはなかなかこない。ちなみに門前には広大な駐車場あり(自動車の安全祈願に訪れる人多し)。
 中津宮(大島)へは神ノ湊からフェリー。沖津宮は立ち入り禁止。ただし年一回、日本海海戦の記念日5月27日に抽選で200名のみ(女人禁制なので男子のみ。島上陸前に海中で禊が必要)渡ることができる。
 10月の「みあれ祭」神事の船団海上パレードが有名。


本殿に掲げられている「神勅」

沖ノ島祭祀跡

沖ノ島(沖津宮)

みあれ祭
毎年10月に行われる船団パレード
宗像海人族の伝統を今に伝える神事

宗像大社辺津宮参道

辺津宮拝殿

高宮祭場への道

高宮祭場

磐座


高宮祭場への道
高宮祭場への道




沖津宮、中津宮を祀る
第二宮、第三宮

伊勢神宮の遷宮後の建物を移築したもの
唯一神明造

宗像大社の杜

沖津宮(沖ノ島)

中津宮(大島)




2015年5月4日月曜日

新緑の「三渓園」散策 ー古建築の粋を集めた名園ー

 時々、人間って妙な生き物だと思う事がある。人間は何かを集めたがる動物である。コレクションをして楽しむ動物である。集めたものに囲まれて暮らす。これが非常に心地よいと感じる。そんな動物は他にいないだろう。そもそもモノを「所有する」という欲望は他の動物にはない。人類が長い時間をかけて大脳皮質に刻んだ特質なのだ。 この傾向は女の子よりも男の子に強いと言われる。そういえばあなたが男の子だったなら、あるいは男の子を持つ親ならば、小さいときからいろんなものを集めた経験があるだろう、そういう子供の姿を見つめてきたことだろう。めんこ、ビー玉、牛乳の蓋、チョロQ、石コロ、チョウチョ、虫、化石、キーホルダー、ワッペン、バッジ、ブロマイド、古銭、切手、筋肉マン消ゴム、etc.etc. まあよく色々集めるものだ。大抵は引っ越しの時にウン年ぶりに物置から出て来て、「おお!懐かしい!」としばし感慨に耽るが、やがて「ええい、眼をつぶって捨てよう」となる。大人になると、カメラ、萬年筆、時計、ビンテージカー、根付け、パイプ、盆栽、カンナ、骨董品、フィギュアー、ワイン... 子供の頃手に入らなかったお金がかかるものに執着するようになる。「物欲煩悩留まる所を知らず」。大抵はツレアイとケンカになる。購入費用の捻出とそれらの保管スペース、という極めて現実的な諸課題を解決しなくてはならないからである。

 世の中には幸せな人たちもいる。そんな諸課題を,課題と受け止める必要がない人たちである。資産家になると,古美術品、陶磁器、掛け軸、書画、茶道具など文化財級のものを集めるようになる。そうなると個人の所有欲、物欲の域を超えて,究極的には文化財の保護者としての役割を果たし始める。そして個人で「美術館」や「ギャラリー」を開くようになる。その極みはヨーロッパの王侯貴族、メディチ家のような大富豪。ロックフェラーやモルガンなどのニューヨークの大富豪など。こうして、その時代に繁栄した国の富裕層のもとに世界のお宝は流れてゆく。

 しかし、いかに文化財コレクターといっても、古建築を集める人はそう多くは無いだろう。しかも、京都や鎌倉から重要文化財級の古建築、古民家を収集し、自分の邸宅に移築する。もちろんそれらを収容するのだから半端な敷地では足りない。ただそこに並べれば良いのではないから、そこに古建築を配置するにふさわしいステージとしての庭園を造る。

 横浜本牧にある「三渓園」は、明治/大正期に横浜の生糸/製糸貿易で財を成した原三渓(富太郎)の古建築コレクション庭園である。東京湾に面した「三之谷」という谷あいの地にに、広さ約175,000平米という広大な土地を手に入れ、自らの邸宅と庭園を設けた。京都/鎌倉などから歴史的な建造物を17棟集め、四季折々の自然と調和した見事な日本庭園を開く。その一部を公開し(外苑)、一部を私邸(内苑)とした(のちに内苑も公開)のが三渓園だ。

 このような古建造物を集めた施設としては、東京たてもの園や明治村、民家園などがあるが、三渓園は、保存を目的として集めて来た博物館とは異なる。篠山紀信は「博物館/美術館/ミュージアムはアートの墓場だ」と言った。確かに、とりわけ建築物という作品はまさに,あるべき所にあって,その役割を果たしているからこそ意味がある。いわば「動態保存が望ましい」のだが、現実には打ち捨てられて、壊されてしまうよりは「静態保存」で良いから残した方が良い。そういうことで博物館的な施設に移築、収容されることになる。必ずしもベストの解決策ではないが。

 そういう視点で三溪園を見つめてみると、これらの古建築は。この場にその住処を見つけうるのか?ここは本来あるべき場所なのか?という問うてみたくなる。しかし、ここのしつらえには、あたかも古の昔からもともとここにあった建築物であるかのような佇まいを感じる。「いやここにあって新たな命を生きるのだ」と言ってるように思われる。たしかに現地で忘れ去られ、朽ち果てるか,破壊されるかという運命から救われた面はあるだろう。しかし,それだけではない。ここは古建築に新たな命を吹き込む不思議な空間だ。単なる金持ちの道楽で、趣味が高じて集めてみたのではない、本当の数寄者の懲りようだ。

 三渓は、芸術文化に造詣が深く、芸術家、文学者などの幅広い文化人と交流し、三渓園は一種の近代日本の文化を育むサロンのような役割を果たしてきた。現在もその重要な役割を担い続けている。横浜という名もない寒村が、明治以降、西欧文化の流入する開港地として急速に表舞台に出て来て、今や人口で日本第二の大都市になった。そんな歴史の浅い新興都市に、唐突に集められた歴史的建造物群という感がないでもないが、であるが故にこそ、こうした文化サロンが必要であっただろう。ご維新以降、関東が日本の中心に位置するためには、関西財界のパトロンに負けない文化活動の拠点の創造が必要だった。そういう財界人の矜持というようなものが経済都市には必要なのだ。

 コレクターもこれくらいまで極める事が出来ると世の中に役立つんだが、資産家でないばかりか,教養もなく徳も文化に対する感性も薄い凡夫ではどうにもならない。もちろん三溪ほどの人物とは比較にならないことは言を待たないが、世の中の役に立つ見込みのない収集品は個人の趣味の域を出る事は出来ない。やはりツレアイの諫言通り、がらくた化したコレクションは処分するか...