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2012年4月24日火曜日

法隆寺 夢殿 救世観音菩薩立像開扉

 「曇のち雨」という天気予報に反して、良い天気になった週末。法隆寺の夢殿の秘仏、救世観音菩薩像の春の御開帳に出かけた。法隆寺は何度も行っているが、救世観音像のお姿を拝観するのは初めてだ。

 この日は、観光客は意外に少ないものの、全国からの修学旅行生の団体でバス駐車場は満杯。山門前は各校の集合記念写真を撮る順番待ちで混雑していた。季節だし、定番コースなのだからまあ... しかし、これじゃあ秘仏公開も拝観者の長蛇の列で大変だろう、と少し引いていた。しかし、夢殿の救世観音の厨子を覗く小さな格子窓の前はそれほどの参拝客も居らず、やや拍子抜け。あんまり今日の秘仏開扉を知らない人も多いのだろう。特段「秘仏公開中」といった標識もなく、覗き込んでるオバちゃん達も「これが聖徳太子サンやて!なんやよう見えへんけど...」「アッチの桜がきれいやわ〜」と、わいわいにぎやかに通り過ぎてくれる。お蔭でユックリと拝観出来た。修学旅行の団体さん達は、ガイドの旗に従って,お行儀良く列を作って、夢殿の階段を上り、救世観音像の前に来ても立ち止まりもせず、チラ見で通り過ぎるだけ。渋滞無し。しかし、修学旅行ってなんなんだろう。多分、彼らは、法隆寺に来た事も、ましてや救世観音像をチラ見した事も、キット記憶となって残りはしないだろう。バスの中でガイドさんと歌った事や、宿で枕投げして騒いだ事は覚えていても。まあ修学旅行ってそんなもんさ。

 救世観音菩薩像。それは法隆寺の寺僧すら拝む事の出来なかった絶対秘仏であった。法隆寺東院伽藍の八角仏殿、夢殿の本尊として祀られたのは、622年の聖徳太子の死後、約100年後の奈良時代の739年の事である。太子の死後,一族はことごとく滅ぼされて、太子によって607年に創建された法隆寺も,太子の居住地であった斑鳩宮も荒れ果ててしまっていた。これを嘆いた行信僧都が、法隆寺の再建と、太子の斑鳩宮の跡地に、東院伽藍夢殿の創建、救世観音像を祀ったというのが公式見解である。

 しかし、この時代は、藤原不比等全盛の時代。時は平城京聖武天皇の治世で、不比等はその外戚として権勢を振るった。しかし、同時に、時の権力者藤原氏一族は、未曾有の災いに見舞われていた。一族の有力者が天然痘によりことごとく病死した。これは聖徳太子とその一族の呪いであるとして、これを鎮めるべく建立したのが東院伽藍であると言う。救世観音像は聖徳太子のお姿を映したものと言われている。仏というより生身の人間を写し取った立像、それを、祟りを封じるために八角堂である夢殿に押し込めたというのだ。以後1000年以上に渡って一度も開扉されない絶対秘仏として堅く「封印」されてきた。

 そして、明治の時代、1884年になり、フェノロサ、岡倉天心による厨子の開扉を迎える。460mにも渡る白布でぐるぐる巻きにされて厳重に封印されて来た救世観音像が、いよいよ1000年の時空を超えて姿を現した。厨子の鍵を開けると天変地異が起こると言い伝えられ、恐れられていたので、開扉の時には僧侶が一斉に逃げ出したとのエピソードが残る。しかし1000年も封印されて来ただけに、保存状態がよく,最後の一巻きを払うと,そこからは観た事も無いようなまばゆい金色の観音菩薩が姿を現したという。今観ても金箔がよく残っている。フェノロサは、その神秘的な表情を「東洋のモナリザの微笑」と賛美した。

 しかし、救世観音菩薩像は神秘のベールにつつまれた、むしろ不気味な存在として語られる事が多いようだ。その理由は,前述のような、東院伽藍創建にまつわる伝承や、1000年後の秘仏開扉時のエピソードによるところが多いが、その他にも、次のような救世観音菩薩像自体の特異性にもある。

 救世観音菩薩はそもそも観音菩薩の中には列せられていないという。すなわち仏ではない、というもの。確かにその顔立ちは柔和で俗世離れした慈悲に満ち満ちた観音菩薩のそれではなく、鼻が高く、唇が厚く、生々しく人間くさい表情である。聖徳太子の姿を模したものではないかと言われる所以である。また、よく指摘されるように、その光背が直接救世観音の頭部に釘付けされている事も異様さを感じさせられる。当時の仏師がこのような工法を通常としていたのか? そこに呪いを封じる意味合いを読み取ろうとする解釈がうまれる。 飛鳥時代の創作(一説に634年?)であると言われているが、その由来や制作者についての伝承がない不可思議な観音菩薩像である。そして、聖武天皇の時代に、藤原氏によって創建された東院夢殿に安置されたといわれているが、それまでの100年間はどこに祀られていたのだろう。ちなみに、夢殿の八角形は天皇陵墓にも見られるように墓を表すといわれる。そのようなところに拝礼のために仏像を安置する事はないと言われている。

 聖徳太子とその一族そのものが、神秘のベールにつつまれている事もあり、そこから、太子ゆかりの救世観音像にも様々な謎めいた解釈、想像、言い伝えがつきまとう。その代表が梅原猛氏の「隠された十字架」である。救世観音像は太子信仰のためではなく、聖徳太子の怨念を封印するために創造されたというのが氏の論点である。

 確かに、救世観音は我々が慣れ親しんでいる後世の菩薩や諸仏の心安らぐ御姿、表情とは異なる。しかし、これは飛鳥仏に共通の、アルカイックスマイル、杏仁型の眼、厚めの唇、すらりとしたやや猫背の姿体である。法隆寺御本尊の釈迦三尊像や百済観音像とも共有するこれらの表情には,今の感覚からすると異様な印象を持っても不思議ではない。だからといって、それが直ちに「怨念」の表情に結びつくものだといえるのだろうか。

 それにしてもなお、何故、太子没後100年余経た時代に、太子一族を抹殺した蘇我氏ではなく、その蘇我氏を滅ぼすのに貢献した藤原氏の一族が、太子の祟りを恐れ,その魂を鎮めるためとして、法隆寺の東院に夢殿を建立したのか。しかも、天平文化華やかなりし時代(752年には東大寺毘盧遮那仏開眼供養がとり行われる)に、100年以上も前の飛鳥仏「救世観音菩薩像」を、どこかから持ち出して祀ったのである。謎めいている。

 薄暗い堂内の厨子におわします救世観音は身の丈が178cmというから、ほぼ現代人の等身大だが、意外に小さく見えた。お顔は飛鳥仏特有のアルカイックスマイル。確かに人間的なお顔立ちだ。金箔も美しく、とても1300年余の時間が経過した御仏とは思えないお姿。しかし、小さな格子窓の金網からは、献台や献花で全身像が見えないのが残念だ。本当は大宝蔵院で百済観音像と並んで拝観出来ると良いのにと思う。それでは秘仏の値打ちが無いのかもしれないが、呪い、祟り、恨みなどの仏の慈悲の世界にふさわしくない形容詞をかぶせられて、不気味がられるよりは、飛鳥文化の花、東洋の美の代表として親しまれるほうが良いのではないかと思う。


 (撮影機材:Fujifilm X-Pro 1, Fujinon Lens 18, 35, 60mm)

2012年4月18日水曜日

初瀬のお山は花盛り ー長谷寺の桜ー

 去年は、桜の季節に間に合わず、青紅葉を楽しんだ長谷寺。これはこれで目に鮮やかな新緑が感動であったが、今年は見事、桜花全山満開の華々しい初瀬の里を散策する事ができた。開花は例年に比べ一週間以上の遅れだ。

桜井から、三輪山、巻向山系と外鎌山に挟まれた谷間を東へ続く初瀬街道。難波、大和、京から伊勢参りに通る,伊勢本街道でもあり、古くから大和と東国(古代の東国は伊勢尾張を指した)を結ぶ、交通殷賑な谷間の街道筋であった。

6世紀の欽明天皇の時代,百済から仏教が初めて伝わった地とされる海柘榴市(つばいち)。三輪山の南,現在の桜井市金屋を大和盆地の起点に、北へ向うと三輪山麓、龍王山麓の山辺の道。すなわち初期ヤマト政権の故地である纏向へ。南へ向うと古代大王ゆかりの磐余(イワレ)道。、東へ向うと、この初瀬街道。河内(第二次ヤマト政権、すなわち河内政権)から進出して来たと言われる5世紀の雄略天皇や武烈天皇の宮趾が並ぶ地域だ。歴史の道である。

長谷寺はその初瀬街道に沿った初瀬山の山腹に位置する。8世紀前半奈良時代に創建されたと伝承されているが、正式な記録は無い。平安時代には、官寺である東大寺の末寺,あるいは興福寺の末寺として朝廷の直轄寺院であった。その後、真言宗の寺院となり,現在では真言宗豊山派の総本山だ。女人高野室生寺はここからさらに東へ向い、深山幽谷の地にある。こちらも真言宗室生寺派の寺となっている。

御本尊は身の丈10mをこえる一木造りの十一面観音菩薩。本堂自体が巨大な観音様の厨子のようになっている。南に張り出した舞台(拝殿)から拝む十一面観音は圧巻。まして本堂内陣で足下から見上げるそのお姿は思わずひれ伏したくなる神々しさ。俗世の煩悩の中で苦悩する我々を慈悲溢れるまなざしで救って下さる。古来より参詣者が絶えないのも宜なるかな。

平安時代には観音信仰の高まりとともに、長谷詣でが盛んになったと言う。奈良時代の仏教は鎮護国家思想のもとの官寺での国家仏教。平安時代に入ると、貴族の阿弥陀信仰や観音信仰が盛んになり、さらには俗世での苦悩を救い,来世を信ずる庶民の信仰の拠り所へと変遷して行く。長谷寺の歴史はそれを現わしているように思う。

今は、長谷寺は「花の御寺」と呼ばれ、それぞれの季節の花々が美しい、大和路でも人気のお寺だ。特にこれからの季節は、新緑の中にひときわ美しく咲き誇る牡丹が見事。399段の登廊の両側を飾る色とりどりの牡丹は豪華、妖艶、華麗。しかし、この桜の季節の長谷寺も素晴らしい。初瀬山が全山桜花で埋め尽くされ、その合間に本堂や登廊、五重塔が埋もれるように佇む様は息をのむ。長々とした能書きはこれで止めるので、スライドショーをご高覧あれ。


(対面の山上の愛宕神社からの長谷寺全景。この位置は、桜に埋まる初瀬街道、長谷寺を一望出来る絶景ポイント。)





(撮影機材:Nikon D800E, Nikkor AF Zoom 28-300mm。 愛宕神社、與喜天満宮からの遠景を中心にまとめました)

2012年4月16日月曜日

大野寺の枝垂桜

今年は大野寺の枝垂桜は、開花が遅れ、4月中旬になってようやく満開となった。枝垂桜は染井吉野や山桜に比べて、早咲きで、去年は4月初旬には満開であったものを。當麻寺西南院の枝垂桜も今年は開花が遅かったようだし、又兵衛ざくらも佛隆寺の枝垂桜もこれからだ。

 それにしても素晴らしい。まるでピンクの流れる滝のように咲き乱れている。淡いピンクの小糸枝垂桜と濃いピンクの紅枝垂桜の大木が剣を競い合う様が見事だ。幸い朝方曇っていた空も、昼から晴れ、青空が広がって来た。桜は花曇りもイイが、やはり青空を背景がいい。

 大野寺はこの季節、桜だけでなく、モクレン、椿、レンギョウ、ユキヤナギ、サンシュユ、等が一斉に咲く花の寺である。普段は静かな境内、宇陀川の対岸の磨崖仏、弥勒菩薩にお参りする人がいるくらいで、この先の室生寺へ向う参詣者が多いのに、この時期ばかりは、大勢の人々が狭い寺の境内に集まり見事な枝垂桜を楽しんでいる。

 狭い道に観光バスとマイカーがひしめき合って大渋滞。そこへ室生口大野駅前を出て、室生寺へ向う奈良交通の定期バスがさしかかる。乗客はあまり乗っていない。渋滞に阻まれて、大野寺前を通過するだけでどれくらい時間がかかるのだろう。

 また,普段は入山料などはないが、この時期は400円(去年まで300円だった)を払う。まあ、これほどの見事な桜と花に埋もれる境内を維持するのは大変なはずだし、入山料は妥当だと思う。

 大野寺の創建は謎にみちている。伝説の行者、役小角が創建し、後に弘法大師空海が堂を建立した,と言われるが、確かな記録は残っていない。室生寺が興福寺の僧により創建されており(後に真言宗の寺となり、女人の参詣を許した事から、女人高野と称されるが)、やはり興福寺に関連のある寺ではないかと言われている。今は真言宗の寺院であり、大野寺も室生寺の末寺であった時期があるという。

 桜の季節が終わると,新緑の季節だ。この宇陀川沿いの山肌が、爽やかな風と陽光につつまれ、若葉と山藤に彩られて,ホントに美しいく輝く。実は、桜もイイが、新緑に季節が一番好きだ。楽しみだ。



(滝のような枝垂桜に圧倒。逆光で+2露出補正。)



(撮影機材:Nikon D800E, Nikkor Zoom 28-300mm.ローパスレスバージョンの解像度は抜群だ。モアレは、一度だけ特別な条件下で発生したが、今のところ気になるほどではない)
 



2012年4月11日水曜日

夙川は桜がきれいだ ーマルーンの疾走 阪急電車ー

 関西に赴任して、初めての夙川の桜、今年は寒さが続き、台風並の暴風雨があったため、春の訪れが待ち遠しかった。関西では、ようやく4月の第一週の週末7日、8日に桜が七分咲きとなった。出張でとんぼ返りした東京では、千鳥ヶ淵の桜はすっかり満開であったが。

 ここ夙川河畔は、河川土手2.7kmに1,700本の桜が見事に咲き誇っている。普段は通勤、通学客が中心の阪急夙川駅も,このシーズンだけは花見客でごった返す。夙川駅は一部が夙川に架かっているので駅のホームからも桜が見れる。駅を出てすぐに左手へ折れるともう夙川土手だ。この時期、ちょうど新入社員、新入生の歓迎会シーズンでもあり、狭い河畔沿いの緑道公園には花見のブルーシートが敷き詰められ、あちこちで若い声が響き、にぎやかな集団で足の踏み場も無い。ようやく春の訪れだ。

 しかし、桜って不思議な樹だと思う。一年のほとんどの時間を、日本の風景のなかで、ひっそりと目立たず潜んでいるのに、この季節、一週間だけは,世の中の風景を一変させる。思いっきり一斉に変える。日本中こんなにあちこちに桜があったのか、と気付かされる。そして一気に散り行く。日本の国花であるという事をあらためて認識させられる。

 ここ夙川沿いも、日頃は松並木の方が目立っていた。松は常緑であるだけに、花の咲いていない桜の樹は逆箒にしか見えなかった。松も最近は松食い虫の被害で以前よりは少なくなってしまったようだが、桜並木と松並木のコラボレーションがここ夙川の景観をシンボライズしている。

 幼少期に、夙川の祖父母の家で遊んだうっすらとした記憶の中にも、阪急の線路沿いの松並木のイメージは残っているが、あまり桜並木の記憶は残っていない。きっと、春に遊びに行った事が無かったのだろう。

 阪急電車は、伝統のマルーン。上品なカラーの車両で阪神間の山の手を疾走する関西を代表する私鉄だ。車両形式とデザインを統一し、時が遷ってもボディーカラーを変えず、編成美を保っている。高級感漂う木目調の室内とゆったりしたモケットシートも素敵だ。かつては関西の高級住宅街を走り,「阪神間モダニズム」を象徴するチョットお高くとまったイメージだった。乗客の顔が違う,なんていわれた時期もあった。

 西宮七園に代表される高級住宅街の誘致や宝塚歌劇団の創設は、小林一三氏の企業家としてのビジョンと、文化人としての価値観を見事に体現した電鉄事業経営の産物であった。関西ならではの先進性であった。また、新しい試みにも躊躇せず、自動改札や動く歩道をいち早く導入したのも阪急だった。

 しかし、今の阪急梅田駅辺りの動線の混乱ぶり一つとっても、あの見事なシャンデリア輝く、広いコンコースを知っているものにとっては「どうなってしまったんだろう,阪急は...」という溜め息しか出て来ない。関西経済の地盤沈下と、沿線のマンション、アパートなどの集合住宅の増加に伴い、乗客もサラリーマン化して、朝夕のラッシュ時は、首都圏ほどではないが混雑度も結構なもの。必然的にマナーも「関西我れ先ルール」がここでも幅を利かせることとなる。また沿線には学校が多く、学生が多いので、若くて活気があるのはいいが、なんか「特別な」が無くなって、「普通の」電車に変わってしまった感がある。いつまでも過去のノスタルジアに浸っているわけにはいかないが...

 それでも、相変わらず阪急電車は都会的でカッコイイし、沿線の景色は素晴らしい。夙川から芦屋川、六甲へ向かうと、六甲山、その麓の緑濃い住宅街、起伏ある路線を西へ疾走するその姿はまさに優等列車の風格だ。震災の影響もあってか、沿線の桜並木も松並木もすっかり少なくなってしまったが、この時期、桜花とマルーンの阪急電車、はよく似合うと思う。


(撮影機材:Fujifilm X-Pro 1,  Fujinon 18, 35, 60mm, X10)

2012年4月6日金曜日

竹内街道を行く(太子町山田大道)

 以前、竹内街道の奈良側,すなわち近鉄南大阪線磐城駅下車で、葛城市の長尾神社から竹内集落までを散策した事があった。この時は、菅原神社から竹内峠を越えて、太子町まで歩くつもりであったが、途中が歩道も無い国道166号線での峠越え、ダンプカーが曲がりくねった道をビュンビュン走り抜けるので、歩くのを諦めた。

 古道散策はクルマ無しで願いたいものだ。時空を超えるイメージに合わないのと,危険でノンビリブラパチどころではない。そこで,今回は上ノ太子駅から、南河内郡太子町,すなわち近つ飛鳥側からの散策を楽しんだ。太子町、磯長(しなが)の里は前回の「時空トラベラー」で紹介した通り、聖徳太子の御廟を始め、王陵の谷と言われ,天皇陵墓の多いところである。駅からは金剛バス(一時間に一本ぐらいしか無い)がちょうど間に合い、太子前バス停まで乗車。叡福寺聖徳太子御廟を参拝してから、六枚橋まで歩く。これも車道を歩いたのでは面白くないので、路地を入り一本メインストリートから中を歩く(これが古道歩き、町並み散策の鉄則)。

 太子町春日集落の古い町並みを愛でながら、六枚橋から、いよいよ竹内街道の標識に従い、左手に二上山を仰ぎ見ながら、ゆるい坂道を上り始める。道はいたるところに標識が整備され,さらにお勧めルートがわかりやすいように、カラー舗装、石畳となっているが、チと整備され過ぎで,古道の趣が薄れてしまっているかな。まあ,贅沢いわずダラダラと上り坂を行く。

 この辺りは大和棟の民家が多いところと聞いていたが、今は少なくなってしまっているようだ。それでも風格ある古民家が点在する街道を歩くと、徐々に高低差を感じる峠道になり、ビューポイントの山本家住宅あたりでは、遠く河内平野、PLタワーのある富田林辺りまで見渡すことが出来る。ここは山田字大道地区。まさに古代官道、「大道」が地名として残る集落だ。しかし,残念な事に、建物は改築されて現代的になってしまったものが多い。それ故か、この辺りはその歴史的な重要性に比して、「重要伝統的建造物群保存地区」に指定されていない。朽ち果てた土蔵や古民家が街道沿いに無惨な姿をさらしているのは、趣があると言えばあるが、むしろ哀れだ。

 大道旧山本家住宅はその中でも,古民家の修復保存活動がうまくいって、見事に大和棟が復元されている例の一つだ。ちょうど訪れた日は運良く一般公開日であった。オリジナルに忠実な「完全復刻」大和棟の農家住宅。室内も農作業する庭先も、まるで今も生活中であるかのようにディスプレーされ、籾殻までそのまま保存修景されている。訪れる人も無く、私一人で往時の生活を彷彿とさせてくれる贅沢な時間を堪能する。江戸末期の豊かな農家の姿だ。


(大道/竹内街道ルートマップ:大阪府のホームページから転載)

 大道は図の通り、大和の飛鳥から西に走る大道、二上山麓の竹内峠を越え、河内飛鳥から堺へ向い、そこから真北の難波に宮へ向う難波大道へと繋がる古代の官道である。推古天皇の時代に造られたと言われ、難波津から瀬戸内を通じて、筑紫、朝鮮半島、中国、さらには天山南路のシルクロードをへてインド、ペルシャ,ローマ帝国へと繋がる「文明の回廊」、その東の端でもある。東西交流の歴史を表す様々な文物、そして仏教、律令制などの政治制度、技術、などがこの道をへて飛鳥にもたらされた訳である。その中の葛城竹内集落から竹内峠を越えて太子町山田、羽曳野市飛鳥をへて堺へ向うルートを「竹内街道」と呼称しているようである。

 時代を下っても様々な歴史の舞台となった道である。、孝徳天皇が難波宮で取り残されて憤死し、飛鳥古京へ越えれなかった道であり(孝徳天皇陵はこの竹内街道沿いの山田にある)、斉明天皇の新羅征討のための、筑紫進駐の軍を進めた道であり、壬申の乱の時には大海人皇子進軍のルートとなり...  大和と難波を通じて外界とをを結ぶ重要な交通の要衝であった。また、都が奈良盆地から北のカドノの平安京に遷都した後は、伊勢参りや大峰山参りの参詣道として,庶民にも親しまれる街道となって行った。

 しかし、この官道が造られる以前から、4ー5世紀の築造と思われる古市古墳群(応神天皇陵とされる誉田山古墳が最大の古墳)と百舌鳥古墳群(仁徳天皇陵とされる大山古墳が最大の古墳)を結び、二上山から東西軸上の奈良盆地の大倭古墳群を結ぶ線上にあり、古くから人の往来が盛んであったであろうと想像される。三輪山山麓の初期ヤマト王権(崇神王権)と河内王権(応神王権)の変遷を巡る「王権の断絶」論争の謎を解くカギとなる舞台であり,考古学的にも興味の尽きないエリアだ。

 今、大阪の私のオフィスは難波宮にすぐそばにある。ここから眺めると、上町台地も河内平野もビルと住宅に埋め尽くされて、古代の面影は無いが、それでもここから河内平野のむこうにかすむ二上山ととその麓に広がる高地の風景は、はるけき飛鳥古京に思いを馳せる眺めであり、はるばる大陸からの長旅の果てに難波にたどり着いた賓客や渡来人にとっては,これから向う倭国の都を夢想して心高鳴る風景であたことだろう。また、これから波頭を越えて、彼の地、彼の国へ旅立つ人々にとっては、振り返って別れを惜しむひと時の風景でもあったのだろう。



(撮影機材:Fijifilm X-Pro 1, Fujinon 18, 35, 60mm)





2012年4月3日火曜日

河内飛鳥 王陵の谷 ー もう一つの飛鳥 ー

 日本の古代史には、不明な点が多く、様々な論争がある。何も邪馬台国論争ばかりではない。4世紀に現れたという、河内政権(王朝)の存在もその一つだ。崇神天皇に始まる初期ヤマト王権(三輪政権/王権)と、4世紀の応神天皇・仁徳天皇に始まる河内政権/王権とは連続しているのか?あるいは断絶があったのか?というものだ。

 中国南朝の宋の史書(488年)に記されている倭の五王の時代が河内政権/王権の時代なのだろうか。五王の一人、倭王「武」は雄略天皇ではないかと言われているが、4世紀は中国の史書にも倭人の記録が無い空白の時代と言われている。しかし、「空白の時代」は必ずしも倭国の停滞の時代を意味するものではなく、むしろこの時代は三輪山の麓に佇む初期ヤマト政権の時代から、ヤマトの国家の統一と発展に向けた画期的な時代であったのでは、とされている。そこには王朝の連続があったのか、あるいは新たな王朝が起こり、既存勢力が打倒されたのかが論争となっている。

 記紀にあるヤマトタケルによる東国、熊襲征討伝説や、前述の倭王武の「ソデイ(変換不能)甲冑を貫き山河を跋渉し寧所にいとまあらず」、埼玉や熊本の古墳で見つかった鉄剣の「ワカタケルの金石文字」等、ヤマトが次第に国家として日本全体に広がっていった事を示す状況証拠が見つかっている。しかし,いかんせんそれを証明する文献や資料が整ってない,謎の時代でもある。

 それだけ日本の古代史解明には、文献史学的には困難がつきまとう。推古天皇が編纂させたという天皇記/国記は、巳支の変の蘇我宗家滅亡時に失われたとされ、8世紀の天皇制確立期に、その正統性を内外に誇示する目的で編纂された日本書紀と古事記が、ほぼ唯一無二の日本側での文献である。戦前には記紀の記述が日本の古代史の全てである,とされ、神話の世界から天照大神一族の子孫である神武天皇に始まる万世一系の天皇制が史実であると理解されていた(あるいは理解させられていた)。

 戦後は、日本古代史をより自由かつ客観的に研究できる環境が出来た。しかし、依然として、その記紀の記述を検証するための主な文献としては中国の史記、朝鮮半島の史記しか無い。この辺が文献史学の困難さを示している。一方、考古学的な物証で補強するにも限りがある。特に宮内庁が管轄する天皇陵墓はいまだに,考古学的な調査が許されず、幾多の古代史論争に考古学的な側面から解明のメスを入れる事も出来ていない。

 話がドンドンそれて行く。河内政権/王権の話に入り込むとそれだけで別に稿を起こさなくてはならなくなるのでこのヘンにしたい。今日の話は、聖徳太子の時代、7世紀初頭、河内にもう一つの飛鳥があった,河内が日本古代史の謎を解くための重要地域であった,という事に留める。

 現在の大阪府南河内郡太子町、羽曳野市辺りは「近つ飛鳥」と呼ばれている。竹内峠、長尾峠を越えた向こう側の(大和の)飛鳥は「遠つ飛鳥」と呼ばれている。日本古代史においては、三輪、飛鳥、藤原京、平城京と、奈良盆地の中でヤマト王権が遷都、発展して行ったかのごとく錯覚しがちだが、上述のように、4世紀5世紀まで時代を遡れば、河内が大和に匹敵する古代史の重要地域である事は百舌鳥古墳群の巨大古墳の出現を見ても明らかだろう。

 大阪阿倍野橋から近鉄南大阪線の電車に乗り、上ノ太子駅下車。ここをスタートに太子町を散策した。駅周辺は大阪の通勤圏内という事で、奈良盆地以上に開発が進み、第2阪奈道路の高架橋や新興住宅が建ち並び,もはや時空トラベラーとして古代の面影を探すのも容易ではない。しかし、いつもは大阪のオフィスの窓から遠望する二上山、葛城山が、今日は眼前にそびえる。歩を進めて行くうちに景観が徐々に変わって行き、タイムスリップしてゆくことが出来る。推古天皇の時代に建設されたという、飛鳥宮から難波宮に至る古代の大道、すなわち横大路、二上山の脇を抜ける竹内街道、堺から真っ直ぐに北へ伸びる難波大道。その途中の山の鞍部を越えた河内側の一帯が、「河内飛鳥」、「近つ飛鳥」と呼ばれるエリアである。

 この古代官道、竹内街道散策については,別に書く予定だ。今の太子町一帯は古代から「磯長(しなが)の里」あるいは「磯長谷」と呼ばれており、ここには、聖徳太子御廟/叡福寺、敏達天皇陵、用明天皇陵、推古天皇陵、孝徳天皇陵がある。五枚の花弁に例えて「梅鉢御陵」と呼ばれている。この他にも、聖徳太子が派遣した遣隋使、小野妹子、乙巳の変の立役者の一人、倉山田石川麻呂(蘇我氏の傍流家)など、王家ゆかりの人々の墓もあり、「王陵の谷」とも呼ばれている。

 しかし、何故に、大和飛鳥を宮都とし、歴史の表舞台で活躍した日本古代史のスター達の墓が、ここ山を隔てた河内の飛鳥にあるのか。もちろん聖徳太子伝説はいたるところにある。太子創建の難波の四天王寺、斑鳩の法隆寺はもとより、ここ河内飛鳥にも、叡福寺(上ノ太子)、野中寺(やちゅうじ)(中ノ太子)。大聖勝軍寺(下ノ太子)が太子信仰の場として今も参詣者を集めている。しかし、太子は生前、自分の墓所をここ河内の磯長の地と決め、陵墓建設を進めたという。その太子御廟を守る為に後の建立された寺が叡福寺だ。今見ると太子の墓は円墳であり、母である穴穂部間人皇后と、妃とともに埋葬されていると言う。

 聖徳太子の父、用明天皇、その兄すなわち太子の叔父、敏達天皇もここに御陵がある。そして太子が摂政として輔佐した、叔母の推古天皇の陵墓もここだ。ともに巨大な方墳である。なぜ陵墓なのに前方後円墳や八角墳でないのか、という考古学的な研究テーマもある、また宮内庁管理の陵墓比定地が果たして本当に太子や推古天皇の陵墓であるのか、先述のように調査されていないために論争がある。現に推古天皇の本当の墓は、近くの二子塚古墳であるという地元の言い伝えがある。が、それはさて置いておいて、なぜこの一族は河内に安寧の場を求めたのか?

 一説には、ここ河内の磯長は蘇我氏の発祥の地であるという。乙巳の変で蘇我宗家が滅ぼされるまで、天皇外戚として権勢を振るった蘇我一族はここから、山を越えて大和の飛鳥に進出したのだという。その蘇我氏ゆかりの故地、河内飛鳥の磯長が、蘇我一族の血筋を引く用明天皇、推古天皇、太子の心の故郷になったのだ、という説だ。ここには蘇我馬子創建と伝わる寺院跡もある。

 蘇我氏の出自については、渡来人の末裔だとか、大和曾我辺りの豪族だ、とか、諸説あって定まらないが、いずれにせよこの河内磯長谷辺りも勢力範囲だったのだろう。この地は大和飛鳥と難波宮、さらには瀬戸内海を通じて、筑紫、朝鮮半島,中国、さらにはインド、ペルシャ、ローマ帝国へと通じる、いわば文明の回廊(シルクロード)の東端に位置する重要な場所であった。蘇我氏はこうした外来の文物、文化、技術をいち早く取り込む格好の位置を確保し、渡来人や帰化人をオーガナイズして、守旧派の抵抗勢力、大伴氏や物部氏を打倒して、飛鳥にイノベーションを起こしたグローバル派だった。その最たるものが仏教の導入であった事は改めて言うまでもないだろう。

 冒頭に触れた、河内政権の始祖,すなわち応神天皇の御陵はここから近い古市古墳群の中のもっとも大きな前方後円墳である誉田山古墳が比定されている。仁徳天皇陵は竹内街道の終点で、かの有名な百舌鳥古墳群の大仙古墳が比定されている。両方とも群を抜く巨大古墳である。ちなみに人民から慕われたという仁徳天皇の宮は、難波の上町台地の高津宮とされている。

 これら河内政権の応神天皇に始まる代々の天皇(正確にはまだ天皇制を確立しておらず,大王と呼ぶべきか)が活躍した時代は4世紀後半から5世紀であり、武烈天皇で一旦血統が途切れたらしく、越の国(現在の越前福井)から(応神天皇の血筋を引くと言われるが)継体天皇が大和に入っている。やがて継体王朝系譜の欽明天皇の血を引く敏達天皇、用明天皇、推古天皇、聖徳太子へと繋がってゆく。こうして「血統の断絶」を見ると、7世紀前半の人、聖徳太子は河内政権/王権の大王達と血統的な繋がりはないだろう。ただ、この地を支配した母方の蘇我氏との縁で河内と繋がっているのだろう。

 この時期は大和飛鳥に統一王権が収斂されつつあった時期であって、4〜5世紀の河内政権/王朝の時代はすでに終わり、河内に独自の王朝や政権が存立していた訳ではない。やがて、大化の改新、壬申の乱をへて、都も奈良盆地内で、藤原京,平城京と遷都して行き、「ヤマト王権の倭国」が、「天皇中心の日本」に変わってゆく。河内は蘇我氏の故地、王陵の谷、太子信仰の地となった。もちろん、奈良盆地に都がある限り、百済人も、新羅人もここを通り、遣隋使も、その答礼使も、後の遣唐使も通った、大陸との交流の要衝としての意味が失われる事はなかった。




(大阪府南河内郡太子町辺りの地図。敏達天皇陵は画面左に外れている)


(撮影機材:Fijifilm X-Pro 1,Fujinon 18,35,55mm)