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2015年4月30日木曜日

亀戸天神 下町の天神さまは藤が満開

 この季節、藤があちこちで満開。美しい。東京下町の亀戸天神社は藤棚が境内所狭しと並ぶ景勝地。ふつう天神さまといえば梅の花だが、ここは江戸時代から藤の名所でもある。太鼓橋から、池の周りから、見事に枝垂れる藤棚を眺めるとこの季節の風を感じることができる。ここの藤は江戸時代から続く藤の子孫だそうだ。戦災で亀戸天神は消失し、藤棚も大きな被害を受けたが、そのなかから不死鳥のように芽を吹いて、再び命を繋いだ藤を育ててきたという。

 連休初日ともあって、境内は人でごった返す。つくづく東京はどこへ行っても人が多い。まして「名所」などと言われると、昔から江戸っ子は押しかけざるを得ない性質を持っているようだ。太鼓橋の上からは藤棚が一望に見渡せるて眺めが良い。しかし、せまい境内と人の多さは東京という町の縮図だ。亀戸天神名物の船橋屋の葛餅も、店の前は求める人が長蛇の列。「江戸っ子」、いや「東京人」、いや「全国から集まってきて現在東京に住んでいる人」は行列に極めて弱い。並んでりゃ、とりあえず並んでみる。並んでから「この先何があるんですか?」なんて聞いてる人がいる。行列が出来なきゃ「名所」でも「名物」でもないんだ。

 「とうりゃんせ、とうりゃんせ、天神さまの細道にゃ人がいっぱい!」

 この天満宮は別名、東宰府天満宮という。すなわち東の太宰府天満宮だ。菅原道真公の末裔が、筑前大宰府から正保年間(1640年)に江戸に天神さまを勧請して開いたのが起源という。境内には大宰府天満宮にならって赤い太鼓橋が配置されていおり、江戸時代の浮世絵にも亀戸のシンボルとして登場する。そして大宰府からもたらされた飛梅の子孫が植えられている。

 ちなみに、東京のもう一つの天神社、湯島天神は、雄略天皇による創建といわれる社に、南北朝時代になって、地元住民寄りあって、天神さまを勧請して合祀したのが始まりだそうだ。天神さまは庶民の人気ヒーローなんだ。


歌川広重
「名所江戸百景」の亀戸天神境内
拝殿前はぎっしりで身動きが取れない
太鼓橋の上からの境内の眺め

なんか不思議な位置から藤棚を見下ろす形

亀戸天神の新風景
こっちの「名所」も「行列ができる名所」だ

太宰府天満宮に倣って太鼓橋が

やはり美しい

白藤もまた良いものだ

善男善女の人の群れ



2015年4月28日火曜日

古代筑紫三海人族の謎(2) ー住吉大神の故地を訪ねて博多住吉神社へー

 前回書いたように、住吉三神(表筒男神、中筒男神、底筒男神)は、ニニギの禊で、安曇族の祖神である綿津見三神(上綿津見神、中綿津見神、下綿津見神)と同時に生まれた海神であるとされている。しかし「住吉族」とはどのような人たちであったのか?そもそも「住吉族」という一族はいたのだろうか? いや、住吉三神を祖神と仰ぐ一族の末裔ではなく、綿津見三神と一体(ペアー)の神であったので、安曇族と同族(むしろ同一神)、ないしは分家していったのではないかとも言われている。このように「住吉三神」の祭祀氏族は不明なのだ。のちに各地の沿岸の港「津」を守る男の神(筒男神。綿津見神は女神であるとする)を祀るために、それぞれ筑紫、長門、摂津と地域ごとに朝廷により氏族が配置されたという。やがては摂津の津守氏が、その名の通り各地の港津を守るための国家祭祀を行う住吉大社宮司として力を持ち、徐々に瀬戸内海を西遷し(安曇族が東遷してきた道を戻って)、ついには故地である筑紫那の津の住吉神、さらには壱岐,対馬の住吉神祭祀にも及ぶようになったという。

 こうして見ると海人族のルーツはやはり弥生の海を縦横無尽に行き来した、最も古く、かつ大きな勢力を持っていた筑紫の安曇族であったであろう。その後に安曇族は筑紫を離れ、信濃の国に移り,あるいは全国に離散して行く。ヤマト王権/大和朝廷に仕えた阿曇連も衰退してゆく訳だが、そういう一族の栄枯盛衰のなかで、それを継ぐ海人族が生まれて来た。すなわち安曇族から派生した一族の中から住吉大神や、宗像三女神・道主貴(みちぬしのむち)の神をいただく海人族が生まれたと考える。

 飛鳥時代から奈良時代にかけて、住吉大神は朝廷の航海守護神として、前述の津守氏の一族が神主として遣唐使船などに乗りこみ航海安全を守るようになった。飛鳥古京、平城京の外港たる難波津や住吉津を守る住吉大神が重要な役割を果たすようになる。しかし、津守氏は地元摂津の豪族田蓑宿禰の子孫と言われている。すなわち筑紫の安曇氏との血縁関係などは全くない。筑紫の海人族によってもたらされた綿津見三神とそのペアー神である住吉三神の祭祀は、この時代には地元の豪族にまかされるようになっていったのだろう。いやむしろ住吉神はヤマト王権/大和朝廷により、各地の港津を守る守護神として創出された神であると言ってよいかもしれない。

 記紀の記述では、神功皇后の三韓征伐では住吉大神が神功皇后を助け、新羅を平定して無事帰還させたとする。こうした経緯から全国の住吉神社には住吉三神の他に神功皇后が祀られていることが多い。大阪の住吉大社には4つの社があり、それぞれ「表筒男神」「中筒男神」「底筒男神」そして「息長帯比売命すなわち神功皇后」が祀られている。大和朝廷にとって重要な航海守護神を祀る社として位置付けられていった。その一方で安曇一族の綿津見神はいつの間にか大和朝廷の国家祭祀の舞台からは消えてしまった。

 博多の住吉神社は那の津(博多)に鎮座している。博多古地図(鎌倉時代の図で住吉神社に絵馬として奉納されている)によれば日本第一住吉大明神とある。現在では大阪の住吉大社が全国の住吉神社の総本宮とされているが、古書には博多の住吉神社が「住吉本宮」とあり、住吉大神祭祀のルーツである事を物語っている。現在は博多駅に近い内陸部に鎮座する神社となっているが、博多古地図を見るとわかるように、元々は深く湾入した冷泉の津の南岸、那珂川が流入するところに鎮座していた(ちなみに現在の地名「蓑島」は文字通り島であったことがわかる。)。神社は西向きで、一の鳥居の前に現在も残る竜神池は、当時の湊、冷泉の津の名残である。応神天皇を祀る箱崎八幡宮とともに筑前國一宮である。

参考:日本三大住吉とは、筑前博多の住吉神社、長門下関の住吉神社,大阪の住吉大社をいう。また日本三大八幡とは、豊前宇佐八幡宮、筑前箱崎八幡宮、山城石清水八幡宮をいう。



住吉神社に奉納されている絵馬
鎌倉時代の博多古図
南北が逆さまに描かれている
住吉神社境内に掲げられている博多古図の説明図
上記の絵馬を解説している。
深く湾入した冷泉の津のほとり、那珂川の河口に鎮座していた
左が博多浜、沖の浜


江戸時代に描き起こした博多古図
南北を戻した図になっている
住吉神社が下半部のやや右に詳細に描かれている。

現在の博多中心部
上部には福岡空港、博多駅、左にはキャナルシティー、手前は渡辺通
真ん中の緑の部分が現在の住吉神社境内
かつて住吉宮の門前に広がっていた「冷泉の津」はすっかり失われてしまった。
日本第一住吉神社


一の鳥居の前に位置する龍神池
「冷泉の津」の痕跡と言われている。

大阪の住吉大社本宮

住吉大社の太鼓橋


2015年4月22日水曜日

古代筑紫三海人族の謎(1) ー安曇(阿曇)族のふるさと志賀島を訪ねるー


志賀島は安曇族の故郷だった:

 博多湾に伸びる海の中道の先に志賀島がある。志賀島は本土と砂嘴で繋がる珍しい陸繋島である。これが博多湾を天然の良港にし、独特の穏やかな風景を作り出している。子どもの頃いつも家の窓から博多湾を抱くように伸びる海ノ中道と志賀島、そしてその隣にポツンと浮かぶ能古島を眺めて育った。夏になると市営渡船に乗って海水浴へ。サザエのつぼ焼きと枇杷の味が懐かしい。海ノ中道には米軍の雁の巣キャンプがあった。ここは車で通り抜けることが出来た。ゲートを通ると一瞬にしてアメリカンな世界へワープできた。福岡・博多の人間にとってはこの景色は故郷の原風景のようなものだ。しかしこの小さな島が古代史において重要な役割を果たしたランドマークであることは、ずっとずっと後になって知った。

 志賀島といえば、金印が出土した場所で有名だ。また元寇の時の激戦地でもあった。しかしそれだけではない。古代海人族安曇族(阿曇族)の故地である。海人族?安曇族?信州安曇野の?なんで博多湾の志賀島? 博多の人間にもあまり知られていない。ここは律令制下では糟屋郡阿曇郷であった。すなわち志賀町(現在は福岡市東区)には阿曇族の祖先神、綿津見三神が祀られる志賀海神社(しかのうみじんじゃ、しかのわたじんじゃ)が鎮座ましましている。もともとは島の北の勝馬に本宮があったが,現在の砂嘴の付け根の志賀町に遷宮された。今でも志賀島全体が神域とされている。


志賀島と海の中道
細長い砂嘴でつながっている。
手前が博多湾、向こうが玄界灘

 古事記では、黄泉の国から帰ったイザナキは「筑紫の日向(ひむか)の橘(たちばな)の小戸(おど)阿波岐原(あわぎがはら)」で穢れを祓う禊を行い、その時アマテラス、ツキヨミ、スサノオの三貴子が生まれたとされる。また同じく、阿曇族の祖神、綿津見三神、住吉族の祖神、住吉三神も生まれたとされる。そこは宮崎県の日向地方に比定されるのが通説といなっているが、以前にも述べた理由からここ博多湾近郊であると考える。

 この志賀島・博多湾を拠点に活躍した古代の海の民、海人族が安曇族である。大陸との交易に重要な役割を担った安曇族のルーツは、おそらく大陸から渡ってきた人たちだろう。このころは現代のような国民国家という概念も国境という概念もない、したがって国籍などという制度もないので、倭人、韓人、漢人という区分けもはっきりしなかった。朝鮮半島や中国沿岸と日本列島を股にかけ、対馬海峡や玄界灘を我が庭のように暮らしていた人たちが居た。彼らは航海、漁労の技術を、そして大陸からの移住者を運び水稲農耕技術を北部九州に伝搬させた。いわゆる弥生初期の「倭国」あるいは「倭人」は朝鮮半島南端と北部九州にかけての海峡国家ないしはそこで生活する人々の総称で有った可能性もあると言われている(中国最古の地理書「山海経」にでてくる倭は朝鮮半島南部地域を指すとされる)。

 1世紀になると列島側の「倭」にも日本列島、朝鮮半島、中国大陸との間を航海、通交できる人々がいただろう。だからこそ「倭」の「奴国王」は洛陽にいた後漢の光武帝に使節を送り金印をもらうことが出来た。3世紀漢滅亡後、「倭」の「邪馬台国女王卑弥呼」は魏の皇帝に朝貢・遣使ができた。大陸にルーツを持つ海人族、安曇族が「倭国」において大きな役割を果たしたのではないかと思われる。


筑紫三海人族:

 古代筑紫には安曇族の他にも次のような海人族がいたと言われている。いわゆる「筑紫三海人族」である。記紀にその祖霊神誕生の記述がある。

(1)安曇族:綿津見三神(イザナキの禊から生まれた上綿津見神、中綿津見神、下綿津見神)を祖神とする。志賀島の志賀海神社に鎮座。
(2)住吉族:住吉三神(綿津見三神と同時にイザナキの禊から生まれた表筒男神、中筒男神、底筒男神)を祖神とする。那の津の住吉神社(あるいはその奥にある那珂郡の現人神社)に鎮座。
(3)宗像族:宗像三女神(アマテラスとスサノオの誓約から生まれた)を祖神とする。すなわち綿津見/住吉三神の姪(?)に相当する。宗像郡の宗像大社に鎮座。

 それぞれの筑紫の海人族の祖神は、記紀編纂の中で皇祖神天照大御神を最高神とする「神々」体系のシステムにビルトインされている。ヤマト王権の確立、そして大和朝廷の成立時期になると、各地の氏族・豪族は、その一族の祖神を、皇祖神アマテラスに近い位置取りをするべく競う(天皇家との姻戚関係を持てる氏族)ようになり、公式記録である記紀に記述してもらう事は一族の権威を伝えるために極めて重要な事であった。


謎の安曇族:

 こうして安曇族はその存在を8世紀の編纂になる記紀に記述してもらう事に成功したため、現在までその一族の存在が記録として残った。しかし、その存在は謎に満ちている。紀元前の倭国/奴国の時代から、対馬国、壱岐国、奴国といった対馬海峡、玄界灘を中心に活躍していた弥生の海人族であり、宗像族などよりは古い海人族だったようだ。しかし、後世には住吉族や宗像族のようにヤマト王権確立後に航海・交易に関わる国家祭祀を執り行う氏族としては存続しなかった。そして筑紫から遠く離れた、しかも海のない信濃国の安曇郷にその名を残すことになる。何が起きたのか?

 安曇族は豊玉媛の子阿曇磯良を祖と仰ぐ。対馬に起源を持つ海神豊玉彦の子孫とされる。さらに遡ると、呉・越時代の呉王朝の末裔で、王朝交代の混乱に伴って日本列島に亡命してきた一族との地元伝承がある。こうしたことから後漢書東夷伝で記述のある1世紀の奴国(後漢の光武帝から金印を受けた)は安曇族が建てた国ではないか?と唱える説がある。 一方、のちの魏志倭人伝に記述のある「倭国大乱」では阿曇族は邪馬台国とともに奴国を滅ぼした?とする説もある。いずれも明確な証拠がない上での推論だから、論争してみても始まらないが。


金印と安曇族:

 さらに志賀島からは、後世(江戸時代黒田藩政時代に)後漢書東夷伝に記述のある「漢委奴国王」の金印が発見された(志賀海神社のある志賀集落からわずかに1キロほど離れた海岸べりの段丘の畑から出土したといわれる)。なぜ奴国王の金印が志賀島(奴国の範囲内ではあろうが,王都のあった岡本:スク遺跡辺りではなく)から出土されたのか論争を呼んでいるのは周知の通りだ。安曇族の故地であり志賀海神社の神域である志賀島から出たが故に、安曇族と奴国の関わりについて以下のような推論がなされ、古代史ファンを沸かせている。

 通商窓口説:安曇族の国である奴国の航海通商の窓口たる志賀島に公印があったのだ。
 隠匿説:「倭国大乱」で邪馬台国に滅ぼされた奴国王が逃亡の際隠匿した。
 墳墓説:安曇の族長(奴国王?)の墓に副葬された。

 隠匿説が有力であるようだが,ここでは深く立ち入らない。当面、何かの物証が出るまでは歴史ロマンの領域にしておく方が良いかもしれない。

金印出土地
倭の奴国から見た当時の世界観を表している


奴国と安曇族:

 金印を受けた奴国があった1世紀頃の北部九州は大陸との窓口で、航海・漁労・水稲農耕といった弥生型の文化が流入する列島内でもっとも先進的な地域であった。志賀島の金印発掘の他にも、福岡市南部から春日市にかけて広がるスク・岡本遺跡の王墓からは前漢鏡、ガラス玉、剣(三種の神器?)などの副葬品が多数出土し、この一帯は紀元前1世紀頃の王都の遺構だとされる。すなわち「漢委奴国王」の数代前の奴国王の時代だ。また金属機器・ガラス製造のハイテクコンビナート、比恵遺跡・金隈遺跡など奴国の生産工場遺跡群も発見されている。こうした考古学的な物証からこの博多湾沿岸地域が後漢と交流していた倭国の盟主「奴国」であったとことは間違いがない。しかし、それ以上の奴国の実態(近隣の伊都国や邪馬台国との関係など)、奴国王は誰なのか?いつ頃,どのようにして奴国王は消えたのか?(3世紀の魏志倭人伝には奴国の記述はあるが王の存在は記述されていない)等、いまだに解明されてない事も多い。

 この頃博多湾沿岸を拠点に大陸や列島各地との通行・交易に活躍していた海人族、安曇一族がこうした奴国の隆盛に大きな役割を果たしていたのは事実だろう。しかし,だからと言って安曇族が奴国を建てたというのはどうだろう。奴国は確かに大陸と通交し、その便益を最大限活用して「倭国」の盟主になったのだが、基本的には水稲農耕社会だ。海人族よりも農業生産手段と人民を支配していた族長の国だったであろう。


筑紫三海人族のその後。

 (1)安曇族:近畿へ移住した阿曇連はヤマトで大王の側近として活躍した。一方、筑紫に残っていた一族は、527年の筑紫磐井の乱では磐井(筑紫の大王)側につき、敗戦後、筑紫を逃亡し信濃国安曇郡を建郡(穂高神社に奉祭)。「チクシ王権」対「ヤマト王権」の戦いであった「筑紫磐井の乱」では、筑紫王である磐井は殺され,その息子葛子は糟屋の屯倉(みやけ)をヤマト王権側に提供して恭順する。安曇一族は筑紫を捨て、以前の交易仲間のツテをたどって、いまだヤマト王権の支配が及ばない信濃に逃亡、さらには後世の「平家の落人集落」宜しく,全国に「あずみ」集落が出来る(安曇野、渥美、飽海、熱海、安住、滋賀、志賀...)。またヤマト王権に仕えた阿曇一族も663年の白村江戦いで渡海出陣した氏族の長比羅夫が戦死して一族は衰退して行った。

 (2)住吉族:瀬戸内沿岸、やがては摂津の住之江に勢力を広げ、現在の住吉大社あたりを本願地とする(住吉神社は、那の津、下関、兵庫、摂津と瀬戸内沿岸の「津」があった所に鎮座)。やがて摂津の「津守」氏がヤマト王権とともに勢力を拡大し、航海通交の守護神として国家祭祀を司る。特に大和朝廷の使節である遣唐使船の守護神として乗船し渡唐している。

 実はこの住吉三神を祖神とする「住吉族」とはどのような一族であったのか。あまり分かっていない。むしろ本当に住吉三神を祖神とする一族がいたのかすらわからない。住吉三神は綿津見三神とともにイザナギの禊から生まれた。すなわちセットで現れた神とされている。これは何を意味するか。那の津(日本第一住吉神社)に拠点を置いていたらしいが、一説に阿曇族(粕屋郡阿曇郷の志賀海神社)の一族で、分家的存在であったとも言われている。またどのような理由で東へ移動して摂津に拠点を移した(東遷した)のか,そしてどのようにヤマト王権の国家祭祀を司る氏族になって行ったのか。住吉大社の津守氏とは誰なのか? 一説に曰く、三神はオリオン星座による航海術のシンボル。阿曇族は外洋航海(大陸への航海)を主に取り扱い、住吉族は内海航海(玄界灘沿岸から瀬戸内)をもっぱらにしたのでは。安曇族が筑紫を去って後に外洋航海に進出?むしろ津守氏になってから摂津から筑紫へ西遷したとする。

 (3)宗像族(胸肩氏/胸形氏):沖の島における国家祭祀を司る一族として出てくるのは4世紀以降。ヤマト王権が百済との通交を求めて半島へ出兵する時期だ。安曇氏に比べると比較的新しい在地豪族と言えるかもしれない。一説に曰く、ながく玄界灘の制海権を握っていた安曇族のもとで働き、そこで航海術を学び蓄積して行ったのでは?沖の島が大陸との航海の中継地点とするには、沖の島から朝鮮半島までの距離が長過ぎる。対馬海峡の速い海流の中を壱岐、対馬を経由しながら行くのがもっとも妥当な航路(まさに阿曇氏の本拠地を経由する)とされ、やはり安曇氏が筑紫を去ってからその後を引き継いだのではないか、と。

 527年の磐井の乱では、安曇族と異なり筑紫磐井に加担せず、ヤマト王権に本領安堵される。その後も筑紫を出る事無く地元の氏族として存続する。ヤマト大王の后を出すなどヤマト王権との結びつきが強い(アマテラスの言葉:男神であるニニギの子孫を守れ、という)。特に大陸との通交・国家祭祀を司る一族(「海の正倉院」と言われる沖の島祭祀遺跡)としてヤマト王権/大和朝廷にとって対外交渉を司る重要な筑紫在地豪族として繁栄する。瀬戸内の厳島(宗像三女神の一人、イチキシマ姫)神社はその流れ。


チクシ倭国からヤマト倭国への変遷の軌跡:

 このような筑紫三海人族の盛衰の軌跡は,チクシ倭国からヤマト倭国へと変遷して行った動線に寄り添う伏線のように見える。「倭国」チクシ王権のルーツは奴国であったろう。奴国の名は3世紀の魏志倭人伝には出てくるが、奴国王の存在は見えない。すでに、あの「倭の奴国王」は居なくなっていて、チクシ「倭国」の中心は北部九州のいずれか(隣の伊都国や磐井の本拠地八女地方あたり?そこがチクシ邪馬台国であったのかもしれないが)に移っていたかもしれない。奴国が邪馬台国に敗れ、やがては近畿ヤマト王権へと変遷して行く過程の最後の抵抗が「筑紫磐井の乱」であったと考える。ヤマト王権が倭国を曲がりなりにも統一支配する兆しを見せるのは5世紀以降(それまでの呪術的支配から武断的支配に移行した「倭の五王」、「ヤマトタケル東征、西征伝承」の時期以降)であろうから。この時期はまだヤマト対チクシの対立構造が残っていたと思う。安曇族・住吉族(いずれもイザナギの禊から生まれた綿津見三神、住吉三神の子孫)の筑紫出奔、アマテラス体制へのビルトインは、チクシ倭国がヤマト倭国に凌駕されて行った過程、ないしは邪馬台国がチクシからヤマトに移って行った過程の出来事の一つを物語っているのかもしれない。


住吉神社/宗像大社/志賀海神社の今:

現在、博多(那の津)の住吉神社は筑前國一宮(戦前は官幣小社)として、また、全国2900社余の住吉系神社の第一神社として崇敬を集めている。大阪の住吉大社(戦前は官幣大社)は現在ではその全国住吉社の総本宮となっている。宗像大社(戦前には官幣大社)は、全国に7000社あると言われる宗像社、厳島社の総本宮として名声を誇る。しかし、志賀海神社(戦前の官幣小社)は全国の海神社、綿津見神社の総本宮ではあるが、ひっそりと志賀島にその安曇族の祖神の鎮座地としての佇まいを残している。一方、信濃の国の安曇郡の穂高神社は一族の祖神(綿津見神、阿曇連比羅夫)の新しい鎮座地となる。古代筑紫の海を駆け抜けた海人族、安曇族はこうして信濃の民となった。

住吉族、宗像族については続編で。乞うご期待。

志賀海神社はこの志賀集落の山麓に鎮座している
島全体が神域とされている


志賀海神社拝殿
綿津見三神を祀る

遥拝所

宮司阿曇家住宅と参道
奥が志賀海神社

現代の海人たち出漁

志賀島から福岡市街地を望む
古代奴国の姿は大きく変貌した。しかし、昔も今もアジアへのゲートウエーである事に変わりはない。

志賀島を後に一路博多港へ

現代の高速船は博多と韓国釜山を3時間半で結ぶ

博多湾の夕景
左が能古島、右は志賀島
この間を抜けると玄界灘に出る

糸島半島(古代伊都国)夕景
可也山のシルエットが美しい

夕闇迫る博多湾
これぞ「筑紫の日向の橘の小戸のあわじがはら」の風景だ。


スライドショーはこちらから→


撮影機材:SONY α7II+SONY AF Zoom E-Lens 24-240mm

参考:志賀海神社のHP




2015年4月12日日曜日

なぜ古事記・日本書紀には卑弥呼が出てこないのか? ー記紀編纂の時代背景を読み解くー


 日本の古代史、とりわけ古代倭国の成り立ちを文献史学の観点から知ろうとしても、限られた資料しかない。中国の資料としては、最古の地理書、山海経に「倭」が出てくる(日本列島の倭であるか議論あり)、紀元前1世紀の漢書には「百余国」の「倭」が出てくるほか、1世紀頃の倭国の様子を記述した後漢書東夷伝、3世紀の倭国の様子を記述した三国志魏志倭人伝と、その後の5世紀の晋書、宋書などがある。一方、倭国側(日本側)の資料としては、8世紀初期に編纂された古事記、日本書紀くらいしか見当たらない。その元となったと言われる帝記(大王の記録)、旧辞(各氏族豪族の記録)については4〜5世紀の編纂だが、散逸し現存していない。

 ところが厄介なのは、これら数少ない文献資料であるこの中国の史書にある「倭国」の記述と、日本の記紀の記述とのあいだに共通点がなかなか見出せない事である。中国の史書より後に編纂された記紀に(史書を参照したと思われる引用が神功皇后の項に一箇所出てくるが)、本文に中国側の史書に記された内容が全く反映されていない。例えば,記紀には邪馬台国も卑弥呼の存在も出て来ない。奴国や伊都国の存在にも言及していない。奴国王が後漢の光武帝に朝貢して「漢委奴国王」の金印をもらった(江戸時代になって志賀島から発掘され、奇しくも後漢書の記述を証明する物証が出た訳だ。)ことも、倭国王(伊都国王?)帥升が遣使したことも、卑弥呼が魏の明帝に遣使して「親魏倭王」の印綬をもらった事も記述がない。5世紀の「倭の五王」の朝貢・遣使の記録もない。あるいは逸失してしまった帝記、旧辞(記紀の元ネタ)にはそのような記述があったのだろうか?それを記紀編纂時に「誤りを正す」として改ざんしたのだろうか?資料が残っていない今となっては確認しようもないが。

 何故なのか?

 一説に曰く,後漢書や魏志倭人伝に出てくる,奴国、伊都国、邪馬台国などの筑紫の国々(いわばチクシ王権)と、大和地方に興ったヤマト王権とは別の王統であって、その系譜に連続性はないからだとする。したがってヤマト王権、やがては大和朝廷の正史である日本書紀にも、天皇の記である古事記にも、チクシの国々の話は出て来ない。チクシが登場するのはヤマト王権がチクシにその支配権を及ぼした後の話だけだ。と。ちょっと気になる説だが、果たしてそうであろうか。ここではそういう説もある事を紹介するに留めるが、知る限り,ヤマト王権がチクシ王権を打倒したという明示的な記述も考古学的証拠もない。また逆に、チクシ王権が東遷してヤマト王権を樹立したという明確な証拠もない。中国の史書に出てくる「倭国大乱」(2世紀後半)や、日本書紀にある「筑紫磐井の乱」(6世紀前半)、記紀に出てくる「神武東征神話」などの事件・エピソードが何を意味しているのかの検証が必要だろう。

 記紀編纂の時代背景を知るべし。 

 そもそも歴史書というものは必ずしも史実を客観的に記述するものではない。むしろ、「天皇」の記である古事記にしても、「天皇」が支配する国「日本」の正史である日本書紀も、その時代の為政者の統治権威の正当性と、それによる統治の意思を内外に表明するため編纂されたものである。その時点での政治権力者にとっての「正しい歴史認識」の定本として編纂された。日本書紀や古事記を読み解くには、それが編纂された時代背景、政治背景を知らねばならない。時代は、645年の乙巳の変(いわゆる大化の改新)、663年の白村江での敗戦、672年の壬申の乱を経て、天武天皇即位。天武/持統天皇時代へ。「倭国」から「日本」へ、大宝律令の制定、公地公民制、天皇中心の新国家体制の確立、といういわば国の有り様を大きく変えようという、いわば「大宝維新」の時代であった。

(参考:以前書いたブログ:讃良大王(ささらのおおきみ)持統天皇、維新大業の足跡をたどる

 記紀編纂の時代背景としては以下のような事情があった。

 国内的事情:
*氏族・豪族集合体国家(まだ国家の体をなしていなかった)から天皇を中心とした中央集権的な国家体制の確立へ。
*氏族に共立された大王(おおきみ)から神の子孫、天皇(すめらみこと)へ。
*律令制(大宝律令)による律令国家(法治国家)の確立。
*私地私民制から公地公民制へ(氏族豪族の経済・権力基盤を崩し天皇中心へ)。
*八百万の神々(各地の氏族・豪族の神々)から、皇祖神天照大神を最高神とする神々の体系化。

 対外的事情:
*唐・新羅との白村江戦いでの敗戦。その後の国家基盤の建て直しと富国強兵策。いわば安全保障体制整備。
*中国の唐帝国とは一線を画した独立した倭国、いや新しい「日本」を宣言(国家としてのアイデンティティーの表明)。
*天から降臨した神の子孫である「天皇」(天帝)が治める国家、という統治理念宣言。
すなわち、これまでは地上世界を支配する天帝は中華皇帝しかいなかった。蛮夷の国々はその徳を慕って朝貢し、皇帝からその地域の支配圏を認証してもらう(冊封体制)という華夷思想が、この東アジア的宇宙観、世界秩序であった。そこにあらたなもう一つの「日本(ひのもと)の天皇」が支配する宇宙の存在を宣言した。
*換言すれば中華王朝の朝貢・冊封体制からの離脱。


 したがって日本書紀の歴史認識の根幹は、倭・日本の起源は、決して中国皇帝に朝貢し、よって冊封された王たち、すなわち後漢書東夷伝や魏志倭人伝に記述されているような「倭」(自ら名乗ったわけでもない)の奴国王や伊都国王、邪馬台国女王卑弥呼などを祖先とする国ではない。その昔、大陸から渡来した人たちや、彼等の子孫が北部九州や日本列島に定住して水稲農耕をもたらし、形成したムラ、クニが起源となった国ではない。天皇は天から降臨した神の子孫である。太陽神•農耕神アマテラスの子孫である。すなわち自らがその統治の権威と権力を有する存在であって、中国皇帝から柵封された(権威を保証された)「蛮夷の王」ではないぞ、と。「豊葦原瑞穂の国」は、決して中国から伝来した水稲農耕文明が生み出した倭国/日本のことではない。天皇の祖霊神である高天原(天つ国)の神々(天神)が創造した、まさに「葦原中つ国」のことなのだ、と。中国側の視点(華夷思想に基づく蛮夷の国)から記述された史書を引用しなかったのは、このような「歴史観」(あるいは政治思想的主張)が記紀の基本的メッセージとしてあったからではないかと考える。


 倭国/日本の文明はどこから来たのか?

 そのような正史「日本書紀」に書かれた公式ストーリー、政治的主張にもかかわらず、稲作農耕文化が大陸から伝搬してきたこと、鉄資源を大陸に求めるなど、倭国の文明は大陸由来であることは否定しがたい事実である。北部九州を中心に板付遺跡や菜畑遺跡などの初期弥生の農耕集落遺跡が見つかるなどの考古学的発掘がそれを証明している。そもそも「日本書紀」を記述する文字自体が中国からの輸入によるもの。日本書紀は漢文体で、主要な部分は渡来系の史人によって正しい漢文で書かれている。そして、新生「日本」は、世界思想としての仏教を鎮護国家の法とし、中国の律令制を導入し、中国風の都城を建設した。このように大陸文化(さらには人)の流入/受容により倭国が形成されてきた、というのが「正しい歴史認識」であろう。

 しかし、歴史とは先述のように、その時の政治意図に基づいて解釈され利用され創作されるものだ。まして新興「日本」が対外的にその国のアイデンティティーを主張しようという「正史」においておやである。そこで、「大陸伝来」「渡来人」によって水稲農耕文化がもたらされ、原住民であった縄文人と徐々に融合しながら弥生の国々が生まれた、という代わりに、「天から降臨してきた神」によって創造されしものとした。天孫降臨神話の創出である。

 こうした王権が天や神に由来するという国家創造神話は珍しいものではない。朝鮮半島の初期王朝にも穀霊神が天から降りてきてその子孫が王であるという神話がある。後世のヨーロッパにおける王室の権威も、神の子孫だと主張しないまでも、神から与えられた権威/権力という王権神授説から来ている。皇帝、王や天皇という世俗の最高権威は、それを越える天地創造神の存在によってのみ維持されるものなのだ。「神は人を造りたもうた。その神は人が造った。」


 日本版中華思想

 ちなみに、大陸における様々な戦争、政治的闘争、王朝交代の結果,倭国に渡来して来た(亡命して来た、あるいは難民として渡って来た)人々がいる。その他にも大陸と日本列島との間には様々な人の行き来があった。現代のような国境もなければ、国民国家や国民という概念もない時代である。彼等が倭国に様々な技術や文化,ライフスタイルをもたらした。しかし、こうした事実は、記紀においては、彼等は、決して亡命や難民、流民としてやって来たのではなく、天皇の徳を慕って、倭国(日本)へ渡来した「帰化人」であると説明された。これはまさに中国の華夷思想を我が国に持ち込んだものに他ならない。


 このような背景,すなわち中華世界に対抗する「日本版の中華思想」に基づき編纂されたのが記紀である。そういう前提で理解すれば,中国の史書の記述をそのまま引用しない訳が分かるだろう。ゆえに記紀では後漢や魏に朝貢した奴国王も倭王(伊都国王?)帥升も邪馬台国女王卑弥呼も、宋書に記述されている倭の五王も出てこない。記紀編纂にあたり中国の史書を読んだ形跡はあるが、「不都合な真実」を本文には引用はしない。あくまでも中華帝国とは独立した「天皇が支配する」「日本(ひのもと)」であることを強調する意図があったのだろう。


朝貢・冊封体制の変遷

 こうした中国皇帝への朝貢。/柵封による倭国支配の権威付け、という東夷蛮国的秩序は、実は「倭の五王」の時代から徐々に崩れ始めていたようだ。五番目の倭王武は中国皇帝からもらった「安東将軍」という称号を不服とし(高句麗王よりも低い称号だと)、より高い称号(官位・将軍位)を求めたが受け入れられなかった。当時の倭国は、朝鮮半島における権益を主張して、それを中国皇帝に認めさせることに注力していたようだ。それが認められない状況が明らかになるにつれ、朝貢をためらい始めたようだ。すなわち、当時の倭国王には中国を中心とする東アジア的国際秩序に疑問が出てきた。むしろ中華皇帝に対抗して、自らを「治天下大王」と称するようになったり、のちに「天皇」を名乗るようになる。事実、その後、遣隋使派遣まで100年以上に渡って中国皇帝への朝貢使の派遣は途絶える。

 やがて知られているように600年には「遣隋使」が派遣される。小野妹子が携えた推古天皇/聖徳太子から随の皇帝煬帝への親書に「日の出る国の天子日の没する国の天子に申す。恙なきや」とあり、煬帝が「無礼な蛮夷の輩」と怒ったという。これは「日の出る、日の没する」に怒ったのではなく、「天子」がこの世の中にもう一人いる,と言って来た事に怒ったものだ。この世の中に「天帝」は中国皇帝ただ一人、という世界の常識に挑戦したからだ。その後の遣隋使、遣唐使を含め20余回使節が中国との間を往来しているが、いずれも中国皇帝からの「官位」「将軍位」を求めてはいないし、受けてもいない。すなわち遣隋使・遣唐使は「朝貢使・冊封使」ではない。随/唐はこれを朝貢使として扱ったが、倭国側はいわば文化使節(学問僧や留学生)と捉え、もっぱら先進文化の吸収と倭国への持ち帰りを優先した。こうした「日本版中華思想」の創造への系譜が、天武/持統帝の時代の「天皇」宣言、そして日本書紀/古事記における天孫降臨、皇祖神による支配権威の宣言に繋がって行った。


 では記紀は「倭国」いや「日本」発祥の地はどこだと考えているのだろう。

 記紀の建国神話によれば、天孫降臨の地(ニニギ降臨の地)は、「筑紫の日向(ひむか)の高千穂のクシフル岳」である。これは現在の宮崎県日向地方の高千穂(鹿児島説もあるが)だと解釈されている。そしてニニギの子孫である神武天皇は日向の美々津から船出して東征し、年月をかけて近畿大和地方に入り、橿原に即位して朝廷を開いた、というのが日本建国ストーリーだ。すなわちルーツは宮崎だと。弥生時代初期に大陸から水稲農耕文明が伝わり、鉄器が伝わり、様々な文化が伝わり、多くの渡来人が移り住み、弥生のムラ•クニが出現した北部九州ではなく、南方の黒潮海洋民族を起源とする漁労(海彦)、狩猟・採集(山彦)を生産基盤とする縄文文化と生活形態を色濃く残す熊襲・隼人の地、日向がルーツであるという。ここでも筑紫の奴国、伊都国や邪馬台国のあった北部九州が丁寧に除かれている。記紀編纂時点でまだヤマト王権に完全に服属していない熊襲・隼人の地であること、さらにはまだ律令制下の日向国も成立していない時点であることを考えると、なぜこうした建国のストーリーを語ったのか疑問が湧いてくる。

 さらに記紀神話は次のようにも語る。イザナギが黄泉の国から戻り、穢れを落とすために禊をした。その時多くの神々が生まれた。そしてアマテラス・ツキヨミ。スサノオの三貴子が生まれた。同時に綿津見三神、住吉三神も生まれた。それが「筑紫の日向(ひむか)の橘(たちばな)の小戸(おど)のアワギガハラ」だという。したがってこれも宮崎県日向地方がその地である、と読ませている。ちなみに綿津見三神、住吉三神とも筑紫の那の津を拠点とした安曇族、住吉族の祖霊神である。

 しかし、この神話の編に出てくる「筑紫の日向(ひむか)」がどこなのか?これはやはり北部九州(筑紫)のどこかだと考えるのが合理的だろうと思う。以前のブログで述べたように(筑紫の日向(ひむか)は何処?)、「日向(ひむか、ひなた)」という地名は、太陽に向かう方向を示していて、列島内のいたるところに同様の地名がある。また「高千穂」も必ずしも地名ではなく「気高く神々しい山」を指していて、これも神奈備型の山はいたるところにある。「橘」も地名ではなく海に飛び出した鼻/岬であるとすれば、これまたいたるところに見出される。問題は「阿波岐原」と「クシフル岳」だが、ここがどこかはわからない。いろんな説があるが特定は難しい。しかし、ここで言えるのは必ずしも宮崎県や鹿児島県ではなく、大陸に近い北部九州の福岡県や佐賀県といった地域のどこかではないかということだ。おそらく記紀の編者は、三貴子誕生の地、天孫降臨の地を設定するにあたり、倭国の本来の発祥の地を認識していたと思う。それは列島内で最初に稲作文化が入ってきた場所、すなわち北部九州である、と。しかし、それでは「天孫降臨」族が建国したクニにならない。大陸から渡海してきた異邦人が建国したクニになってしまう。したがって「筑紫」(元々は九州全体を指していたが、記紀編纂時期には北部九州と認識され始めた)ではあるが日向(太陽に向かう地)の高千穂(天つ神が降臨するような気高い山)という、抽象的な地名にした。地名に隠された本当の故地をあえて謎解き風に記述したのかもしれない。

 記紀には「出雲神話」「日向神話」はあるが「筑紫神話」がない。すなわち筑紫(大陸への窓口、北部九州)がヤマト王権、皇統の発祥の地・我が国のルーツであるという認識は示されていない。筑紫の国々の歴史は抹殺されてしまっている。あえて大陸からの人や文化の移入や、わが国における弥生的な稲作農耕文明の発祥の地という歴史的記憶を想起させる北部九州筑紫ではなく、遠い内陸の南九州の、むしろ縄文的な文化を色濃く残す「日に向うどこか」の「気高い山」が「天孫降臨」の地であるとして神秘性を演出して見せた。こうして中華王朝/文明からは独立した国家「日本」、もともと日本列島に「自生」した「豊葦原瑞穂の国」を描き出して見せたのかもしれない。


追記エピソード:

 記紀によれば、神功皇后は三韓征伐したという。その夫、仲哀天皇は「海の向こうの新羅を攻めよ」という神からのお告げがあった時、「そんな国は見えない」とその存在を疑ったために神罰で死んでしまった、と。この記述によればその頃の(どの頃なのか特定できていない?)天皇は新羅の存在を知らなかった事になっている。その存在を神のお告げで知り、さっそく遠征して服属させたとする。このような、いわば「日本版華夷思想」が描かれている。まして中国の皇帝に朝貢したなんてめっそうもないこと。という歴史認識(一説に曰く。女王が魏に遣使したことを記している。ここが唯一日本書紀が中国の史書の記述に言及している部分)が読み取れる。

 ちなみに神功皇后の子、応神天皇は三韓征伐から戻って、筑紫の宇美(魏志倭人伝に出てくる「不弥国」といわれている)で生まれたとされている。北部九州縁の天皇だ。筑紫がルーツの住吉系の神社のご祭神は先の住吉三神のほか、神功皇后、応神天皇が祀られる事が多い。北部九州には神功皇后/応神天皇をご祭神とする神社が多いのはこのためだ。この「三韓征伐」という勇ましい事績が、歴史上のどの時代の誰の事跡に関連しているのか不明である。一説に、672年の斉明天皇・中大兄皇子の白村江出兵の話が過去に投影されているのでは?と言われている。こちらは新羅を服属させるどころか、唐・新羅連合軍に敗北して逃げ帰っているわけである。また卑弥呼は神功皇后であるとする説を唱える人もいる。しかし、では卑弥呼が朝鮮半島に出兵して新羅を服属させたと言うのだろうか。あるいは神功皇后は魏の明帝に朝貢して「親魏倭王」の印綬を受けたというのだろうか。どちらもかなり無理があるように考えるが。





日本初の正史である「日本書紀」

天皇の記としての「古事記」

いわゆる「魏志倭人伝」





2015年4月1日水曜日

お江戸の町は花盛り。

 東京の桜は4月を待たず満開となった。28、29日の週末にはまだ5分咲きくらいだったが、気温の急激な上昇と晴天で一気に満開へ向かった。週が明けてしばらくはお花見日和の晴天が続いたが、週後半からは雨になるので花散らしになるだろう。定番のお花見スポット、千鳥ヶ淵へ行ったが、平日にもかかわらず見物客でごった返している。今年目立つのは外国人観光客。Hanamiを楽しんでいる。せいぜい日本の最高の季節を満喫して帰ってほしいものだ。

 この時期は、普段見慣れた都会の日常の風景が一週間だけ非日常の風景に変わる。通勤通学で通る最寄り駅への道も、このときばかりは「お花見ロード」。桜って考えてみると不思議は樹だ。普段は全く目立たず、どこに桜があるのか意識することもないのに、一年でこの時期だけ一斉に咲き、その存在を誇示する。こんなところにも桜がいたんだあ!と。桜は町の景色を一変させる力を持っている。人々の気持ちも切り替えさせてくれる。長くて寒い冬が終わり、暖かい春を迎える喜びに満ちている。桜を見上げている顔はそういった希望と安堵の顔だ。今年も春が来たぞ...  そしてあっという間に散りゆく。水面に浮かぶ花筏。散華の美も見事。そして新緑の季節へ。この時期は慌ただしい。

 そう思ってみると東京には桜が多い。江戸の名残だろう。上野寛永寺、墨田川堤、飛鳥山、愛宕山、御殿山、など江戸庶民の娯楽、お花見の名所が今も残っている。残念ながら御殿山は、黒船来航の時に急遽設けられたお台場用の土採りと、明治期の鉄道開通の時に山が切り崩されてほぼ無くなってしまった。千鳥ヶ淵や靖国神社などは明治以降の桜名所だ。それ以外にも地元の街のいたるところに桜が植えられている。

 戦前、東京市長であった尾崎行雄が日米友好の徴に贈ったワシントンポトマック川の桜は、東京と同じソメイヨシノであったが、こちらは一週間どころか一ヶ月くらい咲いていたように思う。なかなか散らない桜というのも妙なものだ、と思ったものだ。同じ桜でも風土によってその散り方が違う。日本とアメリカという風土の違いが、日本人、アメリカ人の心情の違いを表しているのだろうか。

 奈良、京都など関西はまだ開花したばかりだから、東京の桜の方が早い。奈良公園の氷室神社の早咲き垂れ桜は満開だそうだが、吉野のお山もこれからだ。又兵衛桜や佛隆寺の桜はもっと先だ。お江戸の桜とは違った風情があっていいものだ。

 それにしても、さくらさくらで、少々花酔い状態だ。桜には魔物が潜む。人を狂気に導く魔力がある、と言ったのは坂口安吾だったか。「桜の森の満開の下」では恐ろしいことが起こる、と。なにか心落ち着かなくなるのはそのせいなのか。満開の桜にただ浮かれて心ここに在らずなのかと思っていたが...


千鳥ヶ淵




平日にもかかわらずこの人出

大森貝塚庭園

JR大森駅への道







いつもの通勤路も花盛り
猥雑な駐輪場も画になる
八重洲さくら通り





日本橋野村本店前

日本橋



平日、曇天、強風、葉桜、にもかかわらずこの人出(上野公園)

目黒川
品川付近は静かで桜を独り占めできる