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2014年5月30日金曜日

Leica Tの使用感ファーストインプレッション 〜AudiにはAudiのエンジンを!〜

今回はシルバーが先行発売。ブラックも追って発売される予定。
 5月26日、日本でも発売になった話題のライカTシリーズ。ミラーレス機戦国時代に殴り込んで来たドイツ製のニューフェース。例によって今回も実機を入手しテストする機会を得たので、取り敢えずのファーストインプレを。

ボディー:

 アルミ削りだしのボディは噂に違わず、ソリッドで堅牢感があり、金属質満点の素晴らしい手触り。シンプルで素晴らしいデザインだ。特にホールディングがとてもよい。眺めているだけでも上質感が伝わってくる。すぐ好きになった。重さも軽すぎず、重すぎず、適度な手応えでバランスがよい。この質感はたまらない。




 ライカは伝統的にラウンドボディーで、ず〜とこれが人間のエルゴノミクスに最もあった形状だ、と言い聞かされてきたが、正直ホールドには危惧があった。特に最近の厚みと重量を増したボディーとレンズ。それに外付けファインダーなどを付けると結構な重量(普及型のデジイチ以上に重い)があり、かつバランスもよろしくない。したがって必ずグリップを付けていたが。逆にコンパクト化されたカメラでは握るところを求めて、指が右往左往することも。Tは適度な指がかりとやや横幅のあるシェイプで気に入った。ちなみに、このボディーの削りだし、研磨の工程はポルトガルの工場で行われているそうだ。

 背後の液晶画面がAppleのiPadやiPhoneと同じ感覚で操作できるタッチスクリーンと話題になっているヤツだ。確かに、画面が広く操作しやすい。ピクトグラムも慣れれば分かりやすい。右手でグリップしても、誤ってボタン類に触れたり、タッチスクリーン誤動作を招いたりし難い位置取りになっている。
アルミ塊からの削り出しボディー

 レンズ:

 レンズはVrio Elmar T18−56mm f.3.5-5.6 ASPH.の標準ズーム(Madein Japanだが、メーカーは明かされていない)。外見は何となく普及型ズームのイメージで、軽くてMレンズなどと比べるとやや安っぽい感じがする。金属(アルマイト)ボディーだと言われているが、繰り出し鏡胴はプラスチックだろう。フードはプラスチック。絞りリング無しは想定内だが、距離計リングは距離目盛り無しで、富士フィルムXシリーズレンズに似ている(操作感もフードの形状も、レンズキャップも、一回り小型で簡素化したFujinon 18-55だ。ひょっとしたら?.....)。X VarioのAFとMFをリニアに切り替えられる距離目盛り付きのリングは良かったのに。またX VarioのVario Elmarは望遠端が70mmだが、最短撮影距離が30mmと近接撮影が出来、良好なMFのピントアシスト機能とあいまって、花の撮影などに威力を発揮できた。Tのほうは望遠端は84mmとなったが、最短撮影距離は45cm。広角側27mmの最短撮影距離30mmとなったので、やや近接撮影には不向きになってしまった。残念だ。

 外見は別にして、写りに関しては、ライカのレンズ設計チーム渾身の製品だというから、ライカ伝統のうっとりするような画質を大いに期待している。下記の作例を見る限り,かなりの高画質で、さすがという他ない。一方、デジタルカメラらしくボディー側ソフトでのレンズ補正も使っており、優等生的な写りだ。これまでの単焦点Mレンズのような個性は無くなった(ユーザとはわがままなものだ)。これから、いろいろなシチュエーションでじっくり撮り比べてみたいものだ。

 全体バランス:

 レンズを装着した姿は、一見ソニーα(旧NEX)シリーズだ。私はかつて、このNEXの、レンズ部分が大きくて、ボディーがスリムすぎるアンバランスな姿が嫌いで、所有していたNEXシリーズをレンズ共々売っぱらってしまった。まさかライカで復活するとは...(複雑な心境)。街を歩くとカメラ女子が首から下げているSONYミラーレスとLeicaTがオーバーラップするのはどうにも切ない。デジャヴだ。 特に黒鏡胴レンズはシルバーのスリムなユニボディーから飛び出して見え、バランスがどうなんだ? M用のシルバー鏡胴レンズをT/Mアダプターで装着するとサマになる。Tシリーズのズームレンズの場合、黒ボディー(7月か?とうわさされている)の登場が待たれる。

 しかし、新デザインのストラップ、カラフルなアクセサリー類と、フラッシュサーフィスのアルミインゴットボディー。ライカの新ズームレンズとの組み合わせは、あらたなブラパチファッションを提案しているようだ。街歩きカメラ女子にはピッタリの機材だ。ライカ好きのオジさん達に似合うか、チョット心配だが。

 操作感:

 さて、操作してみよう。
 おや?なんかおかしな操作感だ。

 まず液晶モニターが暗い。輝度設定が出来ないようだ。露出補正をマイナスにすると、暗くて見えなくなる。こりゃ困った。見難いモニターなのか?EVF使用が前提になっているのか?

 次に露出補正。私は露出補正を多用するのでこれは大事だ、しかし、タッチスクリーンから呼び出して設定し、しかもSETボタンを押さないとまた補正0の戻ってしまう。撮影中に4段階の手数をかけないと露出補正出来ないのでは間に合わないので、左のリングに割当てたいのだが。マニュアル読んで、やっと割当設定する。しかし、登録した設定がスイッチオフで初期設定(ISO設定)にリセットされてしまう。なんじゃこりゃ?

 ホワイトバランスオートで室内ミックス光源のもとで試写すると、やたらに黄色くなる。角度を変えて撮影してもなんか不自然な発色だ。オートで「色が暴れる」という、M8出たての頃の安定しないホワイトバランスが復活したような...不安がよぎる。

 やれやれ、もうその時点で、暗澹たる気分で、カメラを投げ出したくなったが、ふと開封の儀を厳かに執り行ったあと、転がしてある箱を見ると、ファームウエアーをアップグレードしてください、との5月19日付けメモが入っている。工場出荷時のファームウエアーのバージョンが1.0 。買ったばかりなのに既に古いのか?ユーザの手に届くときにはバージョン1.1にアップグレードしなくてはならない。ライカ社HP(これもライカ100周年記念で最近更新したらしく、デザインは素敵になったが日本語サイトがしばらく工事中であった。)で、このアップグレードで何が改良されるのか調べる。「T本来の機能が十分に発揮できるようになります」と書いてある...。いちいち引っかかるようだが、本来の機能が十分発揮できない状態で出荷してしまいました、ということを言ってるのか。

 まあいい、とにかくアップグレードすると(インストールに90秒ほどかかったので結構なファイル容量のようだ)、先ほどのおかしなバグや不具合が消えた。なんだか別のカメラになったような気分だ。工場出荷時にバグ取りが間に合わなかったのか?

 バージョン1.1での使用感。気を取り直して:

 Tに搭載されている1630万画素のAPS-CサイズCMOSセンサー(SONY製)や画像エンジンMAESTROは基本的にはX Varioと同じものを使い、T用にチューンしたと、ライカ社開発担当は言っている。

)しかし、同じAPS-C CMOSセンサーのライカなら、個人的にはX Varioの方が好きだ。何と言っても画が美しい。解像度、画の立体感、時々Mを越えているんじゃないか、と思うほどだ。望遠側での近接撮影時のボケ味も最高。同じセンサー、画像エンジンを流用しながら,Tは何をどうチューンしたんだろう。やはり固定レンズ+専用ボディーのXならではの味だったのか。もちろんちょっと触ったぐらいで結論出すのは早計だが。

2)直感的には、ソニーや富士フィルムのミラーレス機の方がきめの細かい配慮と、確実な操作感、信頼感があるように感じる。もちろんTのタッチスクリーンによる操作はユニークだが、実際の撮影現場での使い勝手が気になる。使い込みがいるんだろうな。

3)液晶モニターは大きくて視認性が良い(バージョン1.1で輝度調節も可能になった)が、意外にピントの山が掴み難い。やはり外付けのEVF(Visoflex)を買えってコトか? 特にMFでのピント合わせはX Varioの方が使いやすい。X VarioのMFアシストは外付けEVF使わなくても十分で、優れている。晴天の屋外の光あふれるなかでの液晶モニターでのピント合わせはキツい。EVF内蔵はなぜパスされたのだろう。まさかVisoflexという往年の仕掛けにこだわった訳ではあるまい。

4)AFが遅い。コントラストAF一本で、位相差AFを取り入れない一世代前のAFだ。ピント精度は高いが、速度が遅い。暗いとピントが合わない。その他にも苦手なシーンがありそうだ。X Varioは(それに備えて?)リングをそのまま回すとMFに切り替わり、かつMFアシスト機能が働いて、ピント部分の像が拡大される。これが実際の撮影現場では、撮影作業が滞らず非常に便利である。Tではそれが無くなって、いちいちタッチスクリーンでAF/MFを切り替える必要がある。もっとも、はじめからTもXも、最近の富士フィルムXシリーズやソニーαのように、AF合焦スピードが速くて、サクサクいってくれれば問題ないのだが。せめて遅い分を補完するためにマニュアルでの操作性でカバーしたXは良かった。

5)タッチスクリーンでの再生(Play)画面のスクロール(ページめくり)が遅い。X Varioよりはマシになったが。電源オンから起動まで1秒くらいかかる。M240よりはマシだが。全体にレスポンスがまだ遅い。いまだスローなカメラという印象だ。一枚一枚じっくり撮ってください、ゆっくり見て下さい、ってことか?せっかくタッチスクリーンにしたのだからサクサク感が欲しい。レスポンスが悪いとリズムが出てこない。

6)手ぶれ補正なし。何故入れないのか?何かライカポリシーに引っ掛かるのか?特に暗いズームレンズでは必需機能だろう。ましてこれから望遠ズームも登場予定というのだから。

7)センサークリーニングなし。発表会で、会場からの質問に対し、「センサーがむき出しなのだから、ユーザでも掃除しやすいはず」。全く答えになってない。さらに「ただし、あまりこするとセンサー傷つけるので、自分でやらずサービスに出してください」この矛盾した回答には笑うほか無いが。センサーむき出しでレンズ交換が怖い。

8)そして、このユニークなデジタルカメラの操作を習熟するには分厚くて「親切な」アナログ記述のマニュアルが手放せない。しかし、字やピクトグラムが小さくて、老視が進む世代であるライカ愛好家には虫眼鏡も手放せない。ちなみにApple製品にはマニュアル無いよ。


 総合的感想:

 一言で言うと素晴らしい金属ボディーに納められたレスポンスが悪いスローなデジカメ。シャッター音は軽快で、金属ボディーに閉じ込められた籠り感もあって静かだ。もちろん、ボディーは適度な重量と手触りで、掌で転がして感じる快感は最高のものだ。剛性感もあり道具としての完成度も高い。しかし、その素晴らしい容器に入っている中味のデジタルカメラの完成度はどうなのか?ライカもデジカメ創り始めてもう何年になるのだろう?パナソニックと組んでデジカメの技術的なノウハウはかなり吸い取ったはず。独自にXシリーズを開発し、独り立ちもした。このTシリーズでミラーレスに参入し、デジタルカメラとしての機能はかなり大きな進化を遂げたのは確かだが、それでもまだミラーレス先行各社製品の背中は遠いような気がする。ライカTよりもはるかに安い他社ミラーレス機が、ライカTよりも高機能だなんて。ライカファンの歯ぎしりを知ってほしい。

 Tシリーズのボディーデザインや、これから出てくるケースやストラップなどのアクセサリー類はアウディデザインチームとのコラボだとか。ライカは、BMWやフォルクスワーゲンなどドイツの高級車メーカーとのデザインコラボを次々に打ち出してきている。ドイツ製品の上質で高級なイメージを前面に出して行く戦略だろう。さすがだ!

 しかし、アウディのボディーに、ポロのエンジン積まないで欲しい!アウディにはアウディのエンジンを搭載して欲しい!

 なにもスペックてんこ盛りの日本製のコンデジのように、使いもしないギミックをいっぱい盛り込んで欲しいと言ってるわけではない。シンプルでイイ。せめてデジタルカメラの現時点でのスタンダード、基本性能(高画質を活かし切る、サクサク感、キビキビ感、信頼感)は押さえて欲しい、と言ってるだけなのだが。

 「素晴らしいエンジニアリングワークの、ガッカリなデジカメ」と、あるブロガーが評していたのが心に刺さる。そこまでとは言わないが、あたらずと言えど遠からずだろう。こうしたミスマッチパラダイムからなかなか脱出出来ないライカのデジタルカメラ..... 有名デザイナーチームとのコラボや高級イメージ路線はいいが、早くブラッシュアップされたデジタルカメラの基本性能を実現させてほしい。これがライカが示すデジタルの世界標準だ、という。何時までも「持っていて見せびらかす道具」の域を脱せないでいると、そのうち飽きられる。ライカは一生モノの使い込む道具だったはずだ。



ライカ100年。Tの背面に"LEICA CAMERA WETZLAR GERMANY"と。創業の地に戻って、新たな100年に向けて再出発した同社。その誇りと,未来に向けての決意を込めたロゴタイプにCongratulations! 




 Vario Elmar中心の作例。レンズの外見は少しシャビーになった気がするが、さすがに描写性能は素晴らしい:


望遠84mm相当。画面の歪曲もないし解像度も高い。


広角27mm相当。隅々までクリアーで歪曲も、周辺光量落ちもなく気持ちよい画だ。ボディー側で補正をしているらしい。


Vario Elmar望遠側84mm相当で撮影。開放5.6だが背景が奇麗にボケて、しっかり立体感がでる。ピントが合った所の解像感がスゴイ。


T/MアダプタでApo Summicron M 75mmを使用。さすがアポズミクロンの解像感。焦点距離が100mm相当になり最短撮影距離70cmでも、寄って撮影すると背景のボケがかなりくる


同じ花をVario Elmar 84mm相当で撮る。最短撮影距離45cm。上の写真と背景のボケに違いが。しかし花の立体感はよく出てるし、合焦部分の解像度は文句ない。


2014年5月28日水曜日

下田公園の紫陽花

下田公園の紫陽花が咲き始めました
下田公園は紫陽花の名所。黒船祭の期間は、まだ紫陽花の季節ではないが、こんな珍しい花が咲き始めていました。

下田公園展望台から眺める下田港の景観は圧巻。このすぐ手前にペリー提督が上陸し、下田条約締結のため了仙寺まで行進した。
展望台からの下田港全景



最初の開港場 伊豆下田 〜ペリー提督が歩いた街〜


 今回は第75回黒船祭開催中である伊豆下田に出没。5月16〜18日にかけてペリー艦隊一行の下田上陸、日米和親条約下田条約締結を記念して日米友好のパレードなど、いつもは静かな下田の街が国際色豊かなお祭りで賑わう。ペリー上陸地点(Perry Point)では、下田の姉妹都市でペリー提督の出身地である米国ロードアイランド州ニューポートからは市長が出席。メモリアルセレモニーでスピーチした。また、米国陸軍座間キャンプから在日米陸軍軍楽隊、横須賀基地からは米第七艦隊軍楽隊、海上自衛隊横須賀基地軍楽隊、地元中学生、幕末の仮装行列などがにぎやかに市中パレードを行った。小さな町の狭い通りでのパレードなので観客もパレード参加者も一体となった和気あいあいとした雰囲気が醸し出されていた。米陸軍軍楽隊の「星条旗よ永遠なれ」と、海上自衛隊軍楽隊の「軍艦マーチ」が共存していて時の流れを感じさせる。沿道のおじいちゃんおばあちゃんは「軍艦マーチ」と旭日旗(軍艦旗)のパレードに手拍子。やっぱそうなんだ。たしかに血湧き肉踊るなあ。でも、パレードに参加しているアメリカ人の子供の「Konnichiwa, Minasan, Konnichiwa」の連呼に沿道からやんやの拍手。このパレード一番のかわいい人気者であった。

 了仙寺では、ペリー一行と幕府代表との下田条約調印セレモニー再現劇が観客を喜ばせていた。街中では踊りや演奏会や、ストリートパフォーマンスが繰り広げられる。通りは歩行者天国になっていて町内ごとにいろいろイベントが企画され、アメリカの水兵も焼きそば食べたり、ゲームに参加したりで、和やかな雰囲気だ。やがてパレードも終わり、静かな下田公園の展望台に登る。そこから眺めた、眼に鮮やかな新緑に包まれた下田港は美しかった。夜になると湾で花火が打ち上げられた。

 ところで、なぜ開港場第一号が下田だったのだろう。

 ペリーは1853年の第一次来航では江戸湾内の久里浜に上陸し、浦賀奉行所が接遇した。しかし、幕府の交渉一年猶予の要望を受け退去する。翌年1854年に約束より半年早く(ロシアの日本への接近を警戒したと言われている)再び江戸湾に現れ、この第二次来航では幕府が指定した横浜に上陸した。そこでひと月ほど、幕府側全権であった林大学守と交渉したのち、日米和親条約の主たる条文(12か条)の締結が行われた。これが神奈川条約だ。さらに、ペリー艦隊は早速開港地となった下田に場所を移し、実況検分をかねて滞在する。そこで残りの条文(13か条)の締結した。これが下田条約だ。

 下田は伊豆半島の南端に近い港町で、江戸からはかなり離れている。江戸時代には江戸と諸国を結ぶ回船の風待ち港として栄えた。ここには幕府の御舟番所、下田奉行がおかれ、最盛期には年に3000隻の廻船が入港したという。実際は今の下田港ではなくて、少し南の大浦に舟番所が置かれていたという。今は下田東急ホテルが見下ろす静かな浅瀬の内海だ。やがて、江戸湾内の船舶往来が盛んになると1720年に奉行所は相模浦賀に移され、下田は寂れてしまった。天保年間に入り、外国船の来航にそなえるため、再び下田奉行がおかれ、浦賀・下田体制で警備にあたるようになる。しかし、とても江戸や大阪といった主要都市との通商、幕府との交渉に便利な位置ではない。なぜ下田が選ばれ、なぜペリーはそれを承諾したのか?

 もともとペリー来航の目的は日本との交易もさることながら、太平洋を隔てて中国との航路を確保することであった。当時の米国は欧州列強に伍して中国進出をめざしていて、大西洋、喜望峰、インド。マラッカ海峡経由アジアという南回り航路に代わる、太平洋ルートの開拓に国運をかけていた。その航路上にある日本は米国船への食料・薪炭補給、乗員の休息、漂流民の救助保護拠点の確保という点で重要であった。当時の外航船は外輪蒸気船で、すでに西太平洋には多くの米国船が出没していたが、航続距離の点で途中補給拠点が不可欠であった。

 またその多くは捕鯨船で、当時、鯨油をとるための捕鯨は米国の一大産業であり、世界中の海に乗り出してクジラを捕りまくっていた。そんなときに大事な西太平洋で鎖国や外国船打払なんかしておられては困る、というのが彼らの論理だ。ペリーは日本との通商をまず狙うのではなく、まず太平洋航路確保のために、日本を開国させることに力点を置いたのだろう。捕鯨船や商船の太平洋航路における避難港、食料、薪炭補給基地としては、外洋に面している下田、箱館がむしろ適していた。ペリーも、実際に下田と箱館に実地検分に出かけてそれを評価した。

 ちなみに、アメリカ東海岸のボストンやニューポートには今でも往時を偲ぶ捕鯨博物館がある。この頃からクジラの乱獲が進み、世界の海から鯨資源が枯渇し始めたのだ。当時の日本では土佐や紀州あたりで漁民はせいぜい、小舟に乗って近海で細々と鯨をとっていた程度であった。こう振り返ってみると、かつて資源を枯渇するまで大量に捕りまくったアメリカや西欧諸国に、今更日本の捕鯨活動を非難されるいわれなど無い、とつい感情的になってしまう。ちなみに土佐の漂流民、ジョン万次郎はアメリカの捕鯨船に沖ノ鳥島で救助され、船長のホイットフィールドに伴われてアメリカで生活し、教育を受けた。その後、幕末の鎖国日本に命がけで帰国し、幕末から明治初期に活躍したた話は有名だ。という訳で、小笠原諸島まで自分の庭先のようにアメリカ東海岸を基地としたの捕鯨船が往来していた。


  ペリーはポーハタン号を旗艦とした6隻の黒船で下田に入港し、湾内に停泊した(写真は下田ロープウェーのパンフレットから)。そこから上陸し(現在Perry Pointとして記念碑が建っている場所)、幕府との交渉場に指定された了仙寺まで、軍楽隊を先頭に行進した。この間わずかに800メートルくらいの距離である。現在は川沿いに古い街並の残る下田の名所になっている。ペリーロードと名付けられている。当時のイラストレイテッドロンドンニュース、ペリー日本遠征記等の記事や挿絵に了仙寺や川や橋が描かれており、今もあまり風景が変わっていないことに気づく。

 ペリー一行は日本の実情、下田港の有用性を検分するために街のあちこちを見て回っている。「ペリー日本遠征記」には、寺での水兵の葬儀の模様や、街の物売りの様子など、仔細に記述されていて、物珍しげに見て回った様子が窺える。なかでも公衆浴場が男女混浴である様を見ておおいに驚いている(ペリー日本遠征記に挿絵がある。よほどビックリしたのだろう)。街を歩き回る際、役人につきまとわれて迷惑した話や、地元民は好奇心旺盛で、友好的に乗組員たちと言葉を交わした様子が描かれている。役人が地元民に戸を閉めて家に閉じこもっているように指示したことにペリーが抗議したことも記述されている。また食事の供応で、食前酒として出された保命酒が評判が良かったようである。今でも市内の創業100年の酒店土藤商店で売られている。元々は備後鞆の浦の名産で、老中阿部正弘が福山藩主であったことから江戸幕府にも献上されていたそうだ。下田でも奉行所が取り寄せたものだとか。

 1856年、タウンゼント・ハリスが初めての駐日米国領事として下田に着任し、玉泉寺に日本初の米国領事館が開設された。するとハリスはすぐに「領事裁判権」を幕府に認めさせて、いわゆる不平等条約の走りとなる第二次下田条約を締結した。1858年、彼が全権として交渉を始めた日米通商修好条約で、ようやく通商のための港として、長崎、兵庫(神戸)、神奈川(横浜)、新潟、函館が指定開港場となる。この条約が、日本側にとって「関税自主権」「治外法権」という課題を将来に残す不平等条約と言われるものだ。いずれにせよ、ようやく日本が米国にとって、単に港を開くだけでなく、通商相手国として登場することになった。

 当時のアメリカの対アジア戦略は、イギリス、フランス、ロシアといった列強諸国のアジア植民地進出に対抗して、中国・日本との自由貿易を推進することが戦略であった。遅れてきた資本主義国としては選択肢があまり無かったのだろう。ハリスはその交渉の全権をまかされていた。幕府は同時にイギリス、フランス、オランダ、ロシアとも通商修好条約を締結した。「関税自主権」が日本側に無いことで、日本からの輸出品の関税は高く、相手国からの輸入品の関税は安く設定され、構造的には輸入超過で通商条約による貿易上のメリット(貿易収支黒字)が望めなかった。一方、欧米諸国からの機械や武器などの輸入品を安く手に入れることが出来たので、結果的に産業の近代化に役立ったとの見方もある。日清戦争終結後の1899年、新たな日米通商航海条約が締結され、ようやく懸案の不平等条約は解消される。

 話を下田に戻すが、下田の街には、当時外国船向けに必要な物資を提供する「欠乏所」が設けられた。薪炭・食料などの必需品だけでなく日本の特産物などの土産品も扱われていたようだ。正式の条約発効前に、入港する外国船との「事実上の交易」を許すものであった。今、その跡地は平野屋というナマコ壁のしゃれたレストランになっている(ここのハンバーグはうまい)。また、初めての外国船に開かれた港として、坂本龍馬など、維新の志士が若き日に下田を訪ねている。吉田松陰はここからアメリカ密航を企て、黒船に夜陰に乗じて乗船する。ペリーもその志を是とするも幕府役人に引き渡されている。

 しかし、下田は横浜開港の6ヶ月後に閉鎖される。わずか5年の開港場であった。もとより通商拠点としては考えられていなかったためか、外国人居留地や貿易商の進出も無かった。また、1858年の日米修好通商条約が締結されたことに伴い、ハリスは初代公使となり、下田玉泉寺の領事館を引き払って、江戸麻布の善福寺に公使館を設け、遷った。こうして開国騒ぎで歴史の表舞台に躍り出た下田はもとの静かな港町に戻った。江戸時代には、先述のように横浜村より下田のほうが活気ある港町であった。横浜は、東海道の神奈川宿ハズレの名も無き小さな寒村であった。横浜村は幕末から明治にかけて開港場として急速に開発され、欧米式の港湾設備が建設され、外国人居留地が設けられ、西欧文明の玄関口としての役割を果たした。我が国初の鉄道も新橋・横浜間に開通。いまや日本第二の人口を有する大都市に発展した。

 下田は、戦後になるまで鉄道が無く、伊東から下田までの伊豆急行線が開通したのは昭和36年(1961年)のことである。それまで天城山越えの下田街道以外、唯一の交通手段は船であった。川端康成の小説「伊豆の踊り子」の有名なラストシーン、東京へ帰る学生と、踊り子の別れのシーンはこの下田港の岸壁が舞台である。皮肉にも初めての外国への開港場となった下田も、明治の近代化、昭和の敗戦(海軍基地があり空襲は受けた)、戦後のバブル、という歴史の荒波に翻弄されることなく、ある意味取り残された感がある。かつてペリーが歩いた下田はいまは、温泉や海水浴場と文学作品(「伊豆の踊り子」「唐人お吉」)、そしてアメリカとの交流の痕跡をとどめる観光の街になっている。アメリカ人であふれかえる黒船祭のにぎわいが、一瞬、栄光の歴史のフラッシュバックのように過ぎ去って行った。



(ペリー提督上陸地。Perry Point。黒船祭のメモリアルセレモニーが開催。下田市の姉妹都市で、ペリー提督の故郷ロードアイランド州ニューポート市長がスピーチ)








(ペリー艦隊一行の下田上陸、行進を思い起こさせる。日米軍楽隊を先頭に華やかなパレードが繰り広げられる)


「HeyYou!そこで何やってんだ、パレードにも参加せずもう飲んでるのか?」




(亜米利加東印度艦隊の水兵も、今の第七艦隊の水兵のように下田上陸を楽しんだのだろう)





(下田条約を締結した了仙寺で、その日米交渉の再現劇が催される)





(昔ながらの家並が続くペリーロード界隈。ペリー上陸地点から了仙寺へ向かう通り沿いだ)



(下田公園展望台からの下田港)




(同じポイントからの古写真。大正初期の写真だとか)



(ペリー日本遠征記の挿絵。下田条約が調印された了仙寺門前あたり風景。今もあまり変わっていない。)



紫陽花


このブログ、テスト再開します。
紫陽花の季節になりました。歴史の現場を巡り、その風土と景観を楽しみながら、時空を旅します。折り折りの花や緑がそれに彩りを添える事でしょう。写真をたくさんアップしますのでお楽しみに。


2014年5月16日金曜日

倭国の「神」と「仏」 〜「倭国」から「日本」へ〜

1)八百万神という多神の世界

 「倭」の神は弥生以来の水稲耕作社会を基盤とした農耕神である。その自分たちが生きる土地に豊穣をもたらす穀霊神、土地と一族を守る産土神である。それはまた一木一草に神宿る自然崇拝であり、一族の祖先を祭る祖霊崇拝でもある。すなわち多神教世界である。八百万の神々がいた。稲作は北部九州に大陸から伝わった生産技術、生活様式であり,在来の縄文的な狩猟採集生活を営んでいた原住民との間に徐々に融合が進んで行ったと言われている。以前からの自然崇拝信仰(土偶に見られるような)もあったのだが、定住農耕生活の開始とともに新たな農耕神が古神道の中心になっていったのだろう。しかし、そうした自然崇拝、祖霊崇拝の古神道の姿はいつから皇祖神アマテラスを中心とした神社神道に替わって行ったのだろう?

 弥生時代から「倭」の時代、稲作農耕社会にとって、生産手段たる土地の所有、水源の確保、天変地異、天候の予測、土木技術、農具とりわけ鉄器生産確保、労働力としての人民の確保と統率、生産管理、収穫物(富)の流通、保管、分配、蓄積。やがては奪い合い、戦いなどをマネージできる支配者が現れる。生産集団はムラになりクニになる。その集団を守る神が創造される。神の意思をを伝え、祭りを執り行う司祭や巫女がムラやクニの意思決定に重要な役割を果たす。こうしてムラ、クニの数だけ、氏族、豪族の数だけ神がいるという多神の世界が出現した。いわば「私地私民制」の時代の倭国はそうした多元的なムラやクニの集合体であった。

 やがてそのなかから、クニグニの争いによる資源の消耗を避けるために、複数の氏族・豪族や王により共立された大王が生まれる。倭国連合の盟主邪馬台国の女王卑弥呼もそうした大王の一人だったのだろう。しかし、その大王は,全ての土地,人民という生産手段を支配し、富を囲い込む権力を手中に収めるには至っていなかった。認められていたのは、神と通じる事により地上の政(まつりごと)を決めるための宣託を行う祭祀者としての「権威」であった。

 古神道の世界では、神は天にいて,時々地上に降り立つ。神は姿も無く言葉も発しない。教えも説かない。神の降り立つ岩、石、樹、森、山など、神籬、磐座、よりしろに、人々が祭礼を行うために集まったのが古神道の原型である。それは稲作という生産活動を行い、生活を営むムラの近くにあった。後にそこに遥拝所として社が建てられ神社になってゆく。ご神体山やご神木、鎮守の森は神社の建物を守るものではなく、その山、木、杜そのものが神のよりしろであったのだ。今でも田舎の小さな村の鎮守の杜には、そうした弥生の,倭国の神のよりしろの佇まいを良く残している所がある。神社の建物に凝り出すのはずっと後のことなのだ。また、神社には仏教寺院の仏像のような偶像崇拝の対象は存在しない。


2)唯一最高神アマテラスの出現

 しかし、4世紀にはいってヤマトの大王(ヤマト王権)が徐々にその倭国の支配権を拡大する中で、他の豪族や氏族と異なる支配の正統性と権威を獲得しようとする。最初は、東アジア世界の中心であった中華王朝への朝貢、柵封による倭の支配権の認証を得る事であった。1世紀の漢倭奴国王や3世紀の親魏倭王卑弥呼の時代から続くこうした中華帝国皇帝による統治権威の認証は、華夷思想に基づく東アジア世界秩序のスタンダードな形式であった。なにも倭国に限った話ではない。5世紀の倭の五王の時代には倭国王の柵封認証は朝鮮半島南部の支配権にまで及ぶ事となる。

 倭国を実質的に支配する中央集権的な力を備えるには、さらに300年以上の時間が必要であった。頭角を現した有力豪族蘇我氏を倒し、朝鮮半島白村江の闘いに敗北し、倭国存亡の危機に直面し、さらには国内最大の内乱、壬申の乱を経て王位に就いた大海人大王(天武天皇)の時代を待たねばならない。大王/天皇を中心とした国家体制の整備のためには、まず多くの氏族、豪族が支配する土地と人民、すなわち「私地私民」制を廃して、天皇の「公地公民」制確立、という経済政治体制の大変革が必要であった。そしてそのためには、私地私民体制のイデオロギーである八百万の多神の世界から、それらの神々の上に立つ神、すなわち他の氏族豪族の神々の上に位置する唯一最高神の創造が必要であった。しかもこの天から降臨して来た唯一最高神の子孫が大王/天皇であるという、新たな統治の正当性イデオロギーが不可欠であった。

 こうして皇祖神天照大神という八百万の神の上に存在する唯一最高神が創造され、その天上界から最高神の命を受けて降臨してきた神の子孫が地上の支配者たる天皇であるというストーリが組立てられた。従来からの在地の神々や氏族豪族の神々は、その最高神やその子孫の様々な営みから生まれ出てきたものとする、いわば八百万の神々の「再定義」「体系化」が進められる。それを明文化したのが日本書紀や古事記に表された神話の章である。しかし、本当は前述のように、弥生以来の歴史的経緯からみると、まず八百万神々(多くのムラ、クニ、氏族、豪族)がいて、後に皇祖神天照大御神(大王、天皇)が生まれた。

 このように皇祖神アマテラスの創造、天孫降臨神話は7世紀後半の天武/持統天皇時代に、天皇中心の新しい国家統治体制の確立を目指して「開発された」ストーリーである。このストーリーを描いたのは、天皇親政をとり、側近をあまり持たなかった天武天皇の唯一の忠臣(右大臣も左大臣もおかなかった)中臣大嶋であると言われている。巳支の変で功績のあった中臣鎌足の子,藤原不比人はまだ幼く、権勢を振るうまでにはまだ時間があった。大嶋は鎌足の直系ではなく、傍系であったが、中臣氏は天照大御神に仕える天児屋根命の子孫であるとする。これが後の藤原一族の天皇側近としての長きに渡る栄華を保証する「立ち位置」を示す重要な根拠であった。

 皇祖神天照大神は、天皇の宮のある大和ではなくて、大和を遠くはなれた東国の伊勢に鎮座する。なぜ伊勢に鎮まったのか。天皇は自らの祖霊神を身近な宮廷の地に祀らなかった。一説に壬申の乱と関係があると言う。吉野を脱出した孤立無援の大海人皇子を救ったのは、大和の東にいた伊勢大神であった。代々伊勢神宮の神官を務める渡会氏の祖先である伊勢の豪族勢力が、大海人皇子を助け,近江京を攻め、大和に凱旋。飛鳥に王位継承を可能ならしめたと言われている。この伊勢大神が天照大神に同体化された。皇祖神アマテラスの登場は、大海人皇子、天武天皇の即位のプロセスに深い関係を持っているようだ。ちなみに神武天皇の東征伝説も、この時の大海人皇子の戦い、大和凱旋のルートをモデルにして創作されたともいわれている。

3)仏教の受容

 一方、仏教は6世紀半ばに百済の聖王によって倭国にもたらされたが、当然ながら時の欽明大王は異国の神の受け入れには慎重であった。いかに時代がグローバル化し世界思想たる仏教が東アジア世界の潮流であったとしても、弥生的な鷹揚さを持った多神世界であった当時の倭国であっても、容易に新しい外来思想を受け入れる事は出来なかった。しかし渡来人コミュニティーを背景に持つ蘇我氏は積極的に導入を推進、飛鳥に法興寺を建立する。廃仏派の物部氏らと対立したのは既知の通りだ。やがては用明大王の時代、蘇我氏が物部氏を打倒し、聖徳太子、推古大王の時代に至りようやく大王家が仏教を取り入れることになった。特に蘇我一族につながる聖徳太子は篤く仏教を信奉し、斑鳩宮に法隆寺を建立した。蘇我氏は倭国に革命的な思想を持ち込んだ。弥生的な多神教世界に一神教を持ち込んだのだから。やがて蘇我一族の内紛としての聖徳太子一族(山背大兄王子一族の抹殺による)の血脈の断絶、巳支の変による蘇我宗家の滅亡へと歴史は大きく転換するが、仏教の法灯は生き続ける。

 本格的に仏教を受容した最初の大王は欽明大王であった。それ以降、仏教寺院は私寺(蘇我氏の法興寺、聖徳太子の法隆寺のような)としてではなく、官寺として造営されるようになる。天武/持統時代には大官大寺や薬師寺が建立される。すでに仏教伝来からおよそ一世紀以上の時間を要している。国家統治の理念として、鎮護国家思想が取り入れられるのはさらには聖武天皇時代の東大寺大仏建立を待たねばならなかった。

 このように仏教が天皇により国家統治の理念として受容されてゆく道のりは険しいものがあった。しかし、仏教は神道の神と違い、姿形、言葉を持って人々と接する神であり、現世利益という点では共通するものの、教えを説く神である。しかも、限られた地域や一族だけの神では無く、多神教でもない。その教えは無為無辺であり、私地私民制的な分立体制を打ち破る公地公民制、統一国家の思想としては最適でもあった。またビジュアルとしても異国風の堂々たる寺院建築と美しい威厳に満ちた仏像が人々を引きつけ、権力者の権威を可視化させる効果があった。こうした中央集権的な「公地公民制」移行を目指す勢力に取って、仏教ははまたとないシンボルでありイデオロギーとなっていった。

4)「倭国」から「日本」へ

 このように氏族豪族が群有割拠する倭国の分断化された「私地私民」の体制を打破し、大王(やがては天皇)を中心とする律令制、公地公民制による中央集権的な国家体制の確立に必要な思想、理念が求められた。これが皇祖神天照大神を最高神とする八百万の神々の体系化(それを正史として明文化させた日本書紀)と、外来の神(思想)である仏教による鎮護国家思想である。国家統治ディシプリンとして、経済改革、政治改革の中心理念として確立されていった。分権から集権へ。これが「日本」という国家の始まりの姿であった。「倭国」から「日本」へのパラダイムシフトである。

 やがては大王は自らを天皇と名乗り,倭国は日本と国号を変える。これは,中華帝国の皇帝が支配する宇宙以外に東アジア世界にもう一つの天帝が支配する宇宙がある事を宣言したものだ。自ら名乗った訳でもない「倭」という国号を捨て、太陽神の子孫が統治する日の出る国「日本」を名乗る。これは中華帝国の柵封体制からの離反を意味する。日本はこの時中国皇帝の柵封国家から独立国家となることを宣言した。

 我が国に現存する唯一の正史である「日本書紀」や「古事記」は、7世紀後半から8世紀初頭の、こうした時代背景のもとに編纂された「国史」なのである。天武/持統帝の明確な天皇中心の新しい国家理念に基づく歴史観の発露であった。歴史書は必ずしも史実を客観的に記述したものではない。そこに採択された神話は素朴な民間伝承説話と異なり、一定の明確な意図を持って取捨選択されあるいは創作されるものである。国家の正史と称されるものの編纂にはそれなりの意思/意図の表明が込められている。したがってその編纂には権威と権力が必要である。そういう意味において正史は政治的な文書である。そうした時の権力者が、自らの権威と支配の正統性を明文化するために表した文書が「正史」である。さらに中華大宇宙に対抗する日本小宇宙を宣言するには「正しい国史」を整え,対外的に示す事も必要であった。文献歴史学とは、そうした史料の背景を理解し、批判的に読み込んで行くものである事は、いまさら言うまでもないであろう。「歴史認識」とはそうした為政者の意図を知る事である。

 参考文献:「飛鳥時代 倭から日本へ」田村圓澄著。明解な記述で一読をお勧めする。



(吉野ヶ里の祭礼殿では巫女が神のご宣託を伺い、隣室の王にそれを伝える。政(ヒコ)祭(ヒメ)制の原初的な姿だ)



  (大宇陀阿騎野の里の神社。田圃の中に鎮守の森が残る典型的な倭国の神の姿だ)



(大和當麻の里の神社。大きなご神木が弥生の時代からここに神のよりしろとして存在し続けている)



(明治の近代化により、東海道線に境内を分断されてしまった近江長嶋神社。しかし鎮守の森の姿を今に良く残している)



(元薬師寺跡に近い田圃の中に古来からの姿を残す「鎮守の森」。春日神社)



(神聖なる磐座、神籠、神のよりしろとしてしめ縄により結界された場所。これが原始神道の祭祀の姿であった)


時空トラベラー記事「鎮守の森」を合わせてご覧下さい。
URL: http://tatsuo-k.blogspot.jp/2010/06/blog-post_22.html

2014年5月9日金曜日

ライカはライカ故に尊し? 〜デジタルカメラのライカ的進化〜

 ライカよ、お前もか!
ついにライカも激戦のミラーレスデジタルカメラ市場に参入した。先日発表されたAPS-Cサイズセンサー搭載、レンズ交換式のライカTだ。5月26日発売開始だそうだ。フジフィルムやソニー、パナソニック、オリンパス、そして老舗のニコンやキャノンまでがこぞって参入し、いよいよ差違化戦略が難しく、またしても価格破壊を起こしつつあるミラーレス市場に、今、打って出る真意はなにか?他とは比べ物にならない魅力的なカメラに仕上がっているのか?

 いつものことながら、価格合理性の考え方の少し違う富裕層を狙い、価格に敏感な「消費者」はターゲットにしてない図式が見えている。ライカが狙う市場は他とは違う。それならいっそうのこと奮発してフルサイズCMOSセンサーを搭載すれば良かったのに、と思う。この誰もが思いつく疑問に対するライカ社の答えの中に、Tシリーズが狙う顧客層の姿が見える。すなわち「我々がターゲットにしている顧客はフルサイズだかAPS-Cサイズだかにはこだわらない。美しい写真を美しいカメラで撮る喜びを感じることが出来るか。持つ喜びを感じることが出来るか。これはそういうカメラに仕上がっていると信じている」と。ようはフラッグシップM,Sのようなプロ向けではないが、日本製のようなコスパをいう消費者向けでもない、ということだ。フラッグシップMには少しハードルが高すぎる(価格も、使いこなしも)という層を狙ったライカワールドエントリーモデル、と位置づけているそうだ。Mよりは少しハードルを下げたシリーズ、という設定のようだ。エントリーといっても、そもそものバーは高い。

 たしかにM240のようにボディーだけで80万円を超える価格設定に比べれば、かなりのバーゲンプライスかもしれないが、日本製のコストパフォ−マンス抜群のミラーレス機の約2倍の価格設定はいかがであろうか?別売りの交換レンズも結構なお値段だ。そろえるとなると結構なラグジュアリープライス。余程なにか無いと手が出まい。それが「ライカ」ブランドだ、ということなのか?その価格合理性を説明できる価値を訴えられているのだろうか?まだ実機に触ってないので、使用感などは分からないが、各国で行われた発表会/デモでのレポーター、カリスマブロガーたちのコメントは、例によってなかなか高評価のようだ。

 アルミブロックから削りだし、手作業で磨きだしたモノコックボディー(ユニボディーと称している。この制作行程を40分に渡り見せる「退屈な」ビデオクリップCMも公開中)とフラッシュサーフィス、iPhoneのようなタッチパネル式の操作性。ストラップやプロテクターケースのようなユニークなアクセサリー群。モノとして魅力的な仕上げになっているようだ。要するにお金持ちの物欲、所有欲をくすぐる魅力は満載のようだ。オレのは人のとは違うんだ、という。これを「ドイツ製」のデジタルカメラだ、と。私の持つ「ドイツ製」の質実剛健な一生モノのイメージとは違う気がするが。かなり日本製のギミック満載に近づいた気がする。しかしデザインでシンプルさを主張しているところはユニークなのかもしれない。アウディデザインチームとのコラボだそうだから、車でいえばカブトムシフォルクスワーゲン、カメラでいえばライカM3といったプロトタイプ型ドイツ製品とは異なった世界を打ち出そうとしているのだろう。あるブロガーは「Appleがデジカメを造るなら多分こういうカメラになっただろう」と。ライカのアップル化?タッチパネルによるカメラの操作性は、撮影現場ではどうなんだろう。

 肝心の写りはどうだろう。APS-CサイズCMOSセンサーと画像処理エンジンはX Varioと同じと言うから、特段の進化は無いが、悪くはなさそうだ。発売前のβ機でのサンプル画像を見る限りX Varioの高画質を維持しているように感じる。レンズ固定のXシリーズでは飽き足らない層向けに、レンズ交換式Tシリーズを設定した訳だが、成功するか?このX Vario、きわめて評価のわかれる機材で、ライカラインアップの中でトップセールとはいえないが、そのズームレンズの写りは出色だと思う。ズームレンズに対する私の偏見を見事に打ち砕いてくれた。それゆえにX Varioに対する偏見も打ち砕いてくれた。そのDNAを引き継いであるなら、かなり期待出来るか?それに操作性の向上が図られているならこれはBuyだろう。

 同時発売となる別売りの交換標準ズーム、バリオ・エルマーはX Varioでは固定の27−70mm(3.5-6.4)であったが、27-85mm(3.5-5.6)相当とやや使い勝手が向上(?)したようだ。それでもスペックだけ見るとどう見ても「セットレンズ」のそれだ。交換レンズ式となることで、歪曲収差やボケや周辺解像はどうだろう?多分ボディー側で補正するんだろうな。まあ期待したい。今回新しくTマウントを開発して、今後Tレンズラインアップを増やすそうだ。Wetzlarの新工場に新たなラインを新設したというから、小さなカメラカロッツエリアとしてはかなりの設備投資、経営の意気込みを感じる。しかしレンズはドイツライカの設計(設計者Dr. Kalbeだという)、製造は日本(メーカーは不明。パナソニックではない、とのコメントもあるが)である。早速、ネット上では「残念ながら日本製」とか、「This is not made in Germany at all.」とか、ライカ原理主義信者らしい反応が散見されるのが微笑ましい。ドイツの設計、日本の製造、なんて世界最強のレンズじゃないか...てな、合理的な説明では納得しないマニアが顧客なのだから、ライカも大変だ。

 ちゃんとMレンズ資産をこのTボディーで活用できる術も用意されている。ライカ社純正のM/Tアダプターがオプションで発売予定だ。APS-Cセンサーなのでやや望遠系になるが、50mmズミクロンが最短撮影距離0.7cmの75mm中望遠になる。ちなみに、私の嫌いな外付けEVFファインダーも売り出される(プラスチック製でGPS機能付きで8万円だって!)。アルミ削りだしの高品位ボディーにマッチするのか? まして、Fujifilm X-Proの内蔵ハイブリッドファインダー(これはスゴイ発明だと思う)に到底太刀打ち出来るとは思えない。

 フラッグシップシリーズとは別の系統を設けること自体、一眼レフというフラッグシップを持つニコンやキャノンでもやっているラインアップ戦略で目新しいことではない。ライカもレンジファインダー機Mシリーズでは、従来からのコンサバな顧客の意向を尊重して、あまり大胆なモデルチェンジをせず(せいぜいM240程度)、新たに設けたミラーレスでズームレンズや望遠レンズ、AFなどの可能性を広げ、新たな顧客層を取り込もうとしている。しかし、前述のようにミラーレス市場は飽和状態。そこに今あえて参入する場合の立ち位置。差異化戦略。付加価値訴求。どのように実現するのだろう。

 時あたかもライカ100周年。これまではライカはその伝統的なブランド価値を前面に出してきたが、このTシリーズではあらたに、商品の革新性を打ち出してきた。タッチパネル式ユーザインターフェースという... デジタルカメラという技術的には枯れてきてコモディティー化の域に達しようとしている商材で勝負するには余程の「確信・革新」が無いと勝てない。これまでみたいに「ライカはライカであるが故に尊し」とはいかない。デジタルカメラとしての機能に追いつき、追い越せたのか?ライカの提案するイノベーションとは? 新た次の100年のスタートを切れるのか。でもやはり、ニッチ市場を狙っているんだろうな。ライカだから買う。ドイツ製だから買う、という客層を。カメラ市場のパイの拡大に繋がると良いのだが。





(アルミ削り出しのユニボディー。ボタン,スイッチ、十字キーなどがなくてフラッシュサーフィスで美しいデザインだ。一瞬ソニーNEX-7に見えたのは錯覚か?)





(ブラック仕上げ。この方が黒鏡胴レンズとの相性が良いように思うが,手にした質感を早く味わってみたいものだ)





(背面の液晶タッチパネルで操作設定する。iPhoneなどのスマホ利用者には違和感がない操作感だろう。実際の撮影現場での操作性はどうなのだろう?)

製品写真はライカ社のHPからの引用。