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2010年10月30日土曜日

東大寺ワンダーランド あなたの知らない鎮護国家の寺

 台風一過、といえば快晴の秋晴れを想像するが,豈図らんや今日は雨。うっとうしい天気だ。太陽光パネルで一日のエネルギーを充電する人間にとってこれは朝から元気が出ない。
 雨の飛鳥の里を散策するのも良いものだ。が、こんな日は奈良国立博物館の正倉院展を見に行こう、と鶴橋から近鉄奈良線に乗車。いつも鶴橋か上本町へ行ってみて、奈良線に乗るか大阪線に乗るかは実は行き当たりばったりであることが多い。
 奈良線の平城京趾を横切る電車からは、雨にも関わらず傘さした大勢の観光客でだだっ広い広場がいっぱいになってる光景が見える。恐るべし...平城遷都1300年イベント。いやな予感...。

 近鉄奈良駅に近づくと、車内アナウンスで、正倉院展で駅が混むから帰りの切符は行きに買え、とか、正倉院展の前売り切符を駅で売ってるから買え。100円安いぞ、とか、正倉院展へは便利な近鉄電車で、とか正倉院展、正倉院展、と連呼し始めたので、こりゃかなり混むぞ,と不安な気持ちに。とにかく休日は人が押せ押せで混み合う所には行きたくない。まして展覧会でゆっくり見れないんじゃあ何しにいってるのか分からない。東京上野の阿修羅展のようにショーケースに近づくのに1時間半待ち、なんて馬鹿げてる。興福寺へ行けば,フツウに諸仏の間におわします阿修羅像が...

 奈良駅を降りると、駅から博物館まで,ゾロゾロと人波が続く。「雨にも負けず,風にも負けず...」。貸し切りバスも列をなしているではないか。博物館に着くと、テントが出ている。そこに人の列がとぐろを巻いて切符を求めようと並んでいる。さらに館の入口には切符を持った人が外まで並んで中に入らんとしている。中は推して知るべし...

 こりゃあきまへんわ。ここは上海万博か!ぎょうさんの人たち、みな熱心だわ。こげん中には入りきらん。ヤオイカンバイ。

 で、次の選択ルートへ最適ルーチング。人出で賑わう道を外れて大仏殿横から戒壇堂へ退避。人の行かない所を探して時空トリップ。抜群のトラヒックコントロールだ。はやりのコグニティブWi-Fiも顔負け。

 戒壇堂は東大寺に設けられた受戒の場であったところ。唐僧鑑真が聖武天皇はじめ400人に授戒したのち、孝謙天皇の宣旨により造営された戒壇院がその起源。東大寺の他には、筑紫太宰府の観世音寺、下野薬師寺に戒壇院が設けられた。観世音寺の戒壇院の伽藍配置関係やたたずまいが似ているのは偶然ではないだろう。
 戒壇堂は今では四天王像が有名だ。天平時代の作品と言われる。もっとも創建当時の伽藍は過去3度の火災で灰燼に帰し、現在の建物は18世紀江戸時代に再建された。この四天王像も東大寺西門から後に移設されたものだと言う。
 しかしその堂宇はいかにも奈良の寺院らしい風格を備えている。拝観に来ていたご婦人の一人が、連れに「このお寺は何様式言うんや知らんけど、いかにも奈良のお寺やわ。京都のお寺とちゃうわ」と感想を述べる。さすが関西の人はお目が肥えていらっしゃる。太宰府観世音寺の戒壇院もこの東大寺戒壇院と比べると規模は一回り小さいが、その天平の面影を残していて時空を超えた繋がりを感じることが出来る。

 大仏殿の裏は,知る人ぞ知る東大寺のワンダーランドだ。写真家入江泰吉氏も、奈良へ行ったら表ばっかり歩かずに必ず大仏殿の裏へ行くべし。そこには奈良の美が隠れていると言ってた。確かに,時空の旅人のイマジネーションをかき立てる場所は,にぎやかな観光スポットでないほうがいい。もうすぐすると大仏池越えの赤や黄色の紅葉、銀杏が鮮やかに大仏殿を彩る光景を見ることも出来る。知る人ぞ知る絶景スポットもある。

 長い土塀と鬱蒼とした木立のおくには正倉院がある。今日は正倉院の外構公開日である。こちらは人もまばら。確かに正倉院御物を見る方が面白いので博物館は混んでいる、校倉造りの蔵何ぞ見ても面白くもないのだろう。訪れた見物人も「教科書で見た通りや」とケータイデジカメでヵシャーンと写真撮って帰っていくだけ。シルクロードの東の終着点、平城京の国際色豊かなお宝が満載の正倉院。その収蔵御物はその交流の歴史の証だ。しかし、黒々とした存在感をあたりに誇るマッシブな木造の蔵。正倉院の校倉造りの建造物自体も歴史の生き証人だ。

 東大寺の大鐘楼にたどり着く頃には雨がかなり降り始めた。この梵鐘も大きくてすごいがそれを支える黒々とした木組みが力強い。また、一本一本の柱を丹念に眺めると時を経た木造建築のたくましさ、命さえ感じる。
 柱の根元に雀が一羽死んでいる。かわいそうに,どうしたのだろう。人知れず腹這いで目を閉じて横たわっている。こんな雨の中、大梵鐘の柱のたもとに...「幸せの王子」の童話のつばめの話を思い出した。この雀は釈迦如来のお使いで大勢の人々に幸せを届け続けて息絶えたのだろうか。あわれ。合掌。

 雨が激しくなって来た。帰ろう。

2010年10月28日木曜日

失われた宝剣 聖武天皇のつるぎ

東大寺大仏殿の大仏の膝元から明治時代に掘り出されていた2振りの剣はその氏素性が不明で、大仏殿を建立する時の一種の鎮壇具と考えられていたが、このたび正倉院の宝物のリストである国家珍宝帳に記されていた聖武天皇の2振りの宝剣、「陽寳劔」「陰寳劔」と判明。X線解析の結果、それぞれの根元に「陽劔」「陰劔」の文字が判読されたことから結論に至った。

 この2振りの剣は「国家珍寳帳」から奈良時代に削除され(削除の付箋が残っている)て以来、長く行方不明とされていたが、今回の調査で,明治期にこの大仏の足下45cmから発見された長さ1m程の鉄製の2剣がそれであることが解明されたという訳だ。

 研究者は、おそらく聖武天皇崩御後に光明皇后が天皇愛用の2剣を、天皇思い入れの大仏の足下に埋納したのであろう、と解釈している。

 東大寺大仏殿は奈良を代表する著名な観光地であるが故に、何度も足を運ぶ機会があり、感動や新たな感慨をやや失っていた感がある。しかし、よく見る大仏の足下からこのような剣が出土していたことも知らねば、それが聖武天皇愛用の宝剣であったことももちろん知らなかった。確かにこの蓮の須弥壇は奈良時代オリジナルであるとは聞いていたが...

 おそらく、研究者の推理の通り、光明皇后が聖武天皇を忍んで死後に大仏の足下に奉納したものだろう。これにはいろいろな意味合いが隠されているのかもしれないが、少なくとも夫の生涯をかけた国家事業への思いを理解し、死後にその思いに応えようと、その志の成果に夫愛用の剣を埋めたという、妻の深い愛情を感じざるを得ない。男はその人生をかけた夢を妻や家族に理解されることが無上の幸せなのだから。



 大仏(毘盧遮那仏)も幾多の戦乱で破壊され変容を受けて現在の姿はオリジナルとはかなり違ってしまったと言われる。もともとは金色に鍍金された光り輝く金色仏であったという。須弥壇の線彫りの仏の像は奈良時代からのオリジナルだと言われており、おそらくはこれが大仏の姿であったのだろう。


Dsc_9675 この足下の須弥壇から、聖武天皇の2振りの宝剣が出土した。東大寺を訪れるたびにいつも見ている所だが、その奥にこのような物語が潜んでいるとは...じっくりと時空を超えた世界を心をカラにして見ることが大事だと悟る。
Dsc_9671
 世界最大の木造建造物だとされる現大仏殿も、江戸時代の再建で、オリジナルの2/3の大きさになってしまっている。過去の度々兵火で消失しその度に再建された。有名なのは鎌倉時代の重源による再建。平氏の南都焼き討ちで灰燼に帰した東大寺を再建した。南大門などの金剛力士像のだはこの時代の傑作。

 このように名所に隠された秘話が塗り込められていたことに歴史の奥深さと、人の心の時空を超えた共感を感じざるを得ない。私が死んだら私の愛用の「陽寳機」「陰寳機」、すなわちライカとニコンはロンドンのハイドパーク,ニューヨークのブライアントパーク、グリニッチのビニーパーク、そして福岡の大濠公園に埋めてくれ。誰も気がつかないだろうが...

NHKニュース2010年10月25日
http://www3.nhk.or.jp/news/html/20101025/k10014811911000.html

2010年10月17日日曜日

初瀬街道を行く

 秋の好天の週末、今出かけるなら奈良平城遷都1300年記念で平城宮跡か、あるいは明日香巡り。NHKも特集を組んで奈良が盛り上がっている。観光客が押し寄せている様子がテレビから流れてくる。しかし、そうなればなるほどへそ曲がりの「時空トラベラー」はそんな所へは絶対出かけない。人でごった返している所へ、なんでわざわざ出かけるんだ。しずかに更けゆく秋をめで、時空を超えた古代世界に一人で浸る。それが好き。で、初瀬街道を歩くことにした。

 初瀬街道は泊瀬街道とも呼ばれ、桜井,三輪から長谷寺へ向う参詣道。かつては宇陀を通る伊勢本街道に対して、伊勢へのバイパス街道でもあった。桜井では古代の横大路、難波へ向う竹内街道につながっていた。壬申の乱では大海人皇子が伊勢から大和に攻め上った道でもある。
 今回は近鉄大和朝倉駅から長谷駅までの一駅分を歩いた。一駅と言ってもこの辺りの一駅は長い。あちこち寄りながらの道行きだが長谷寺に到着まで約2時間半の行程だ。

 両側を山に挟まれた緩やかな上り道で隠口(こもりく)の泊瀬(初瀬)と呼ばれた訳が分かる。左手には三輪山、初瀬山、纒向山と続く山塊が迫り、右手には多武峰、外鎌山、鳥見山を見て歩く谷間の街道。しかし、初瀬川沿いのこの辺りは豊かな田園地帯でもある。いつもは電車から見下ろす谷あいの平和な田園集落。歩いてみると刈取りの始まった田んぼ、柿が色づき始めた軒下。コスモスも満開。穏やかな道すがら、両側の山々を見上げる。今日は近鉄電車が山裾を走っていくのを見上げる。

 初瀬古街道は車の通行の多い国道165号に平行したりクロスしたり、縫うように進む。たいていは古くからの集落の中を抜けるのどかな道だ。途中には神社や天皇の宮跡がある。万葉歌碑も多いところだ。白山神社の辺りの台地が雄略天皇の泊瀬朝倉宮跡と言われており、万葉歌碑が建っている。また十二柱神社は武烈天皇の泊瀬列城宮跡と言われている。いずれもそれを特定出来る考古学的な裏付けはないが、日本書紀に記述のある激動期の大王宮が、今はのどかな風景のこの辺りに造営されていたのだろう。すなわち雄略大王とその子清寧大王で河内王権の皇統が途切れ、さらに播磨王権系統の武烈大王は暴虐の大王として日本書紀に描かれ,何らかの皇統の断絶が起こったことを意味すると言われている。そして突如、継体大王が越国から大和に入国してくることになる。

 十二柱神社には相撲の始祖ケハヤの石塔がある。この辺りは出雲という集落である。古代出雲国から来た人々が住んだ地域だったと言う。ちょうど十二柱神社秋の大祭の日で。静かな集落に山車が出て太鼓の音がにぎやかになっていた。子供達が山車に乗って太鼓を叩き、後ろからチョコチョコとついて回ったり。若いおかあさんが小さな子の手を引いたり、だっこしたりして山車に続く。微笑ましい光景だ。家々からはお年寄りが山車を見ようと軒先に出て、年一度の小さな祭りを楽しんでいる。それでも静かな集落で,山車が過ぎると再びシーンとした空気に満たされる。

 ここ出雲集落はまた出雲人形で有名。かつては長谷寺詣でや十二柱神社参拝の土産として盛んにつくられた素朴な土人形だ。しかし、いまや窯元は水野家一軒になったしまったという。窯元を訪ねようと探したが分からなかった。ちょうど家の前で祭りの神輿が過ぎるのを見ていたかわいくて上品なおばあちゃんに訪ねたら,とても丁寧に行き方を教えてくれた。ただ、もう跡を継いだ人も病気で今はやってないと聞いた,と教えてくれた。

 国道沿いの出雲バス停の近くに水野家は見つかったが、やはり誰もいない。「大和いづも人形」の看板だけがひっそりと掛かっていた。残念。京都の伏見人形もとうとう丹嘉一軒になってしまった。

 さらに国道沿いを歩くと長谷寺の参詣道との分岐点に至る。車が瀑走する国道を歩くのは少しも楽しくない。参詣道に折れてホッとする。今日は與喜天満神社の大祭の宵宮。家々には提灯や幔幕が出されていて祭りの気分でワクワクさせる。長谷寺はこの季節はボタンも紅葉も桜もなくて少し寂しいが、その分参詣者も少なくゆったりと散策出来る。

 與喜天満神社の長い階段を昇ると夜の灯明の準備が進められていている。頂上の神殿にたどりつくと、立派な御神輿が拝殿前に鎮座ましましている。拝殿では地元の長老や祭りの役員さんたちがにぎやかに談笑して、祭礼の始まるまでの時間を楽しんでいる。ここからは今歩いて来た初瀬街道を西の方向に見おろすことが出来る。「こもりくの初瀬」とはよく言ったものだ。絶景だ。

 参詣道の途中で初瀬街道筋のジオラマを出している古民家があった。中から若者が出て来て,この民家を開放しているので見ていって下さい、と。早稲田の学生がNPO法人と古民家保存の活動中なのだそうだ。若い建築学生達が長谷の町並みと古民家を壊さないように、と熱心に語ってくれた。築150年のこの古民家はついこの間まで持ち主が住んでいたが、引っ越ししたので取り壊して駐車場にする予定だとか。なるほど駐車場...か。手っ取り早く金になり、そして永遠に150年の建築は葬り去られる。かといって所有者を非難も出来ない。私が学生生活を送ったイギリスのケントやサセックスの古民家(こちらは築200年から300年も珍しくない)の長寿、現役ぶりと、つい比較してしまう。何が違うんだろう... 確かにイギリスは古くてイワクツキの幽霊が住んでる古民家などプレミアプライスで市場に出るお国柄だ。

 参道の「いつかし」という茶店で出雲人形を売っている。店の女将に聞くと、「いつかし」とは古い姓で「厳樫」と書くのそうだ。その名を歌った万葉歌碑まで店の前に建っている。ここの江戸時代の家屋を建て直した時に,庭から出雲人形の型がたくさん出てきたそうだ。それでこの型を使ってこのオカアさんが自ら人形の復活を果たした。「出雲の水野さんの所はもうやってない」と厳樫さんも言っていた。やはりそうなんだ。ともあれこの「厳樫出雲人形」は表情は実に素朴だ。相撲と太鼓持ちを買い求めた。「庭から出たお宝だ。いつまでも造り続けて下さいよ」と言うと、「土産は今は人形よりも草団子ばっかりになってしもうた」と嘆いていた。

 今来た初瀬街道を西に向って帰る。はや山々の間に夕陽が真っ赤に空を染めて沈まんとしている。秋の夕暮れはつるべ落とし。国道を横切ってだらだらと坂を昇り近鉄長谷寺駅にたどり着く。しばし西の三輪山と鳥見山の間に沈みゆく夕陽にみとれる。

 駅のホームには誰もいない。駅が赤く染まっている。特急,急行通過待ち2回の後にようやく大阪難波行きの準急が来た。6両編成の電車にはほとんど誰も乗ってなかった。

2010年10月15日金曜日

Fukuoka Bayside City 新たなる創造へ

 先週の全国規模のコンファレンスは福岡の新しい顔、シーサイド百道にあるヒルトンシーホークホテルであった。4000名を超える参加者が集まる大規模な会議であった。
これまでは横浜のパシフィコ横浜や神戸のポートアイランドシティーで開催されて来たものが,今年は福岡で開催された。

 この辺りはまるでリゾートのような心地よさを持ったエリアだ。あるいはシカゴのレイクショアードライブを彷彿とさせる。あるいはワシントンDCのタイダルベイスンか。サンフランシスコのフィシャーマンズワーフか、ロスのサンタモニカか,ホノルルのワイキキビーチか、と言うと褒め過ぎかも。少なくとロンドンのドックランドエリアよりはかっこいい。特に博多湾の美しさが近代的な都市景観にマッチしている。

 福岡には大きなコンファレンスの出来るホテルが少ないのが欠点だが、ここシーホークは十分欧米やアジアの新興都市のそれに対抗出来る設備と景観を有していると思う。

 特に、ここシーサイド百道はアジア太平洋博覧会で新たに埋め立てられ,人工的に創出された新都心だ。しかし、その設計思想は新しいビジネス拠点と、住み心地のよい住空間と、豊かな自然と、人工的ではあるが海岸線をけがさない景観との調和が活かされているように思う。福岡市が取り組んだ成功事例と言われている。

 だいたい役所が取り組んだ再開発プロジェクトで旨く行ったものは少ないがここは例外だろう。その成功に気を良くして取り組んだ二番煎じの上川端地区再開発や巨大な人工島アイランドシティーのプロジェクトとよく比較される。同じ時期に民活で行ったキャナルシティーの成功もあってますます、あとの二者のケースが悪く言われる。

 私の幼少期を過ごした懐かしい今川橋や、樋井川、百道や地行の海水浴場はなくなってしまったが、後世に誇れる新しい福岡の顔が出来た事が嬉しい。すっかり変わってしまったのに何度来てもなつかしさえ覚えるのが不思議だ。確かに、博多湾に浮かぶ志賀島や能古の島、玄海島の風景は今も昔も変わらずにある。

 ところで日本にはコンファレンスシティーという概念が薄い。いまだにせいぜい京都くらいが日本を代表する「国際会議」都市だったりする。国際的なコンファレンスを誘致する動きは世界の主要都市やリゾートの間で活発だが、なぜか日本ではあまり活発でない。欧米では大掛かりなコンファレンスやトレードショーは地元にとって大きなビジネスチャンスなのだ。シンガポールや香港もそうだ。それを見逃す方はないのだが。

 福岡は,おそらく日本におけるこうしたコンファレンスシティーの代表格になってもおかしくないと感ずる。
まず、成長著しい東アジアの国々とのアクセスがよい。釜山とは3時間の高速船で直行で結ばれている。飛行機ではソウル、大連、北京、上海、香港へは東京よりも近い。福岡空港は世界でももっともアクセスのよい空港の一つだ。新幹線は東京や大阪のみならず鹿児島を繋ぐ。高速道路網も整備され九州各地の神秘的なリゾートへも簡単に到達出来る。

 福岡市には20世紀的な重厚長大産業をシンボライズする工場群が見当たらない。海に面した日本の都会は,たいてい海岸ベリがこうした工場で占拠されている。お隣の北九州市とよく対比されたものだ。皮肉にもこれらがなかったことが21世紀的な町の発展には幸いする。なにより町の規模が適度で洒落たカフェや素敵な食事を提供するレストランが多い。しかもとてもリーズナブルなプライス... 町並みが美しい。祭りや芸能などの文化の香り豊かな土地柄である。学生が多く若者の町である。水辺が美しく都市の景観に彩りを添えている。まるでリゾートと言ってもよい雰囲気を持っている。歴史的な景観や自然豊かな風景が破壊されずに残っている。世界的に見ても非常にバランスのとれた都会と言えよう。

 福岡に足りないものは、国際級のホテルだ。それと自分たちの町がそのようなポテンシャルを持った町だ、という市民の認識だ。そしてそのポテンシャルを活かそうという行動だ。世界的に見ても福岡は決して遜色のない魅力を持っている。もう少しブラッシュアップすればさらに言うことはない。過去の歴史を振り返ると中世博多の黄金の日々を除くと、特色のない平凡な地方通過都市,支店文化の町であった時代が長いので世界的に知る人が少ないだけだ。
 これからだ、さらなる進化を遂げるのは。かつて大航海時代のオランダの地図にはIaponiaの西に島にFacataという都会が記されている。再び世界地図に福岡/博多が復活するのだ。

 故郷である福岡がこのように大きく変貌し、さらにグローバルな評価を得られる町に発展して行くと思うと興奮する。決して東京を向いてその都市の進化の過程を真似をしては行けない。look eastではなくてlook west.だ。独自の道を創造することだ。アジアに向けて開いた国際都市としてのアイデンティティーを確立することだ。

2010年10月10日日曜日

長崎くんち 

 福岡,長崎と,出張だった。

 福岡の街の変容ぶりと、都市景観の落ち着きには来るたびに驚かされる。福岡の都心部には高層タワーマンションなどの町並みを猥雑にする建築物がない。ビルの高さが一定に保たれているので整然とした落ち着きが保たれているのだろう。何よりも空が広いので気持ちよい。これは福岡空港が都心に近い所にあり,建物の高さ規制が適用されているためだ。航空機の騒音には悩まされるが、日本一便利な空港と低層ビル群。これが福岡の都市の特色となっている。アメリカのワシントンDCの都市景観も同じような理由で福岡に似ている。

 コンファレンスのあったシーサイド百道のヒルトンシーホークホテルが唯一の高層ビル,と言っても良いくらいだ。
 百道の都市景観は素晴らしい。穏やかな博多湾と能古の島、志賀島、そして糸島半島に囲まれた人工的な海浜都市景観。自然と都市の調和がよく保たれていてリゾートに行かなくても十分ゆったりとした時間を過ごせる。
 子供の頃、樋井川のほとりから父のこぐボートに乗って百道の海水浴場へ連れて行ってもらったあの時の景観は既にないが...

 長崎へは来年3月開業予定の九州新幹線にあわせて大規模な立て替え工事を行っている博多駅から特急で2時間強。将来長崎新幹線が開通しても1時間半かかるようだ。やはり遠い。東シナ海に面したいくつかの入り江が天然の港として、中国、南蛮、紅毛貿易の拠点になっていた。この辺りは地形が入り組んでいて、山も多く、複雑な海岸線が続き、平戸におけるポルトガル、オランダ、イギリス貿易に始まり、長崎に落ち着くまで、いくつかの入り江を点々と交易港にして来た歴史がある。

 鎖国政策後の長崎は幕府によって管理された国際貿易港であった。新教国のオランダと中国だけが貿易相手国として長崎入港を許された。中国上海には近いが、九州の西の果ての、しかも陸路では江戸から遥かに遠い地に築かれた港町であった。幕府直轄の天領で、長崎奉行の支配下にあり、筑前黒田藩と,肥前鍋島藩が交代で警備にあたった。

 10月の7,8、9日の三日間は長崎くんちのまっただ中で、町中が祭り一色であった。ちょうど長崎支店に到着した時におくんちの蛇踊りが「庭先回り」で来ていた。7年に一度「踊り町」の順番が回ってくるそうで、来年が弊社支店のある出島町がその番となる。準備が大変と聞く。しかし、長崎ならではの祭りに参加出来る栄誉を担う楽しみもある。

 長崎の祭りは国際色豊かでエキゾチック。意匠を凝らした山車だけでなく、有名な蛇踊りや、本踊りやお囃子の行列の華やかで、南蛮、紅毛、唐のフレーバーを加えたし好はエレガントでもある。あでやかなきれいどころの踊りが色気と華やかさを盛り上げる。

 見せ場の中心はもちろんお諏訪様(諏訪神社)だが、八坂神社、中央公会堂前広場でも楽しめる。しかし、早くから座席券を手に入れなければならない。他にも中央公園広場では無料で誰でも見ることが出来る。もちろん山車が市中の役所や企業、店を回る「庭先まわり」を市内いたるところで楽しむことも出来る。とにかく町が祭り一色になる。夏の精霊流しも風情ある祭りだが、くんちの雰囲気は最高によい。


2010年10月4日月曜日

Leica M9 Titan発売だそうだが...

 ライカの限定品商売の一つでM9のチタンボディーが12月に全世界500台限定で売り出される。

 今年のドイツのFotokinaで発表された。

 フォルクスワーゲンのデザインチームとのコラボ製品で、「ドイツ」テイストいっぱい、金属度満載のチタンボディー。なかなか魅力的なデザインに仕上がっているではないか!同じくチタン外装のSummilux 35mmがついてくる。また、従来のネックストラップではなく、肩からかけるガンベルトのようなホルスターに装着して持ち歩くようになっている点も斬新。 詳細はウエッブサイトで確認してもらえればよい。

 ライカは伝統的にこうした限定品商売が大好きだ。M7のエルメス版もその一つだ。外装にお金かけて付加価値として高額商品化する。これも商品のコモディティー化を避ける一つのやり方だろうが、特定マニア(アメリカの借金金持ち、中東の大金持ち、日本の小金持ち、中国の成金等)向けに商売する会社、という企業イメージが定着している。

 しかし,一方、我がM9は相変わらず使い込むたびにいろいろと不安定な症状が現れていて、イマイチ信頼感に疑問無しとしない。安くない値札は本当に本体の価値に相応の価格なのか...? せっかくレンズ群が秀逸であるのに、ボディー性能がミスマッチな感じが...

 最近気がついた事象として一番ビックリしたのは、SDカードを挿入したのに、ボディー側が認識しない(「SDカードが入ってません」表示)何回か抜き差ししてるうちにようやく認識。
 ボディーの中で「接点の接触が悪い」なんて、昔の安物の家電製品みたいなことが起こっているのだろうか?アナログな真空管ラジオみたいに「叩けば直ります」か?

 二つ目は、電源スイッチをオフにしているのに、シャッターボタンを押すと、液晶モニター右下のLEDが明滅する。ちなみに私のM8では起こらない。別に撮影に不具合はないが、なんで?まさか電池の消耗が早い原因の一つになっていないだろうな。気持ち悪い。

 以前報告した再生時の拡大スクロールで、画面が飛んでいく件も,相変わらずだが,いつも起こる訳ではない。ホワイトバランスの不安定さは言い飽きた。

 こうした我々の業界用語で言う、「時時断」「TOK (Test OK)」的な不具合が散見される。こういう「完成度」具合が一番困る。こうした「バグ」は実際の撮影には影響ない,とはいえ、不安要素として精密光学器械の信頼感を大きく阻害する。

 外装をチタンにしてフォルクスワーゲンチームに多額のデザイン料払い,それをマニアから回収するのもいいが、デジタル機器としての中身を充実強化して完成度を上げて欲しい。Nikon製品を形容するdurable, dependableを思い起こして欲しい。そうでないと,ライツ家創業以来の伝統であるはずの、一生もの、末代ものの製品は生まれない。子孫に「これはとっくに壊れて動かないけど、昔はカメラだった。今はチタンの文鎮だよ」と説明しなくてなならなくなる。おじいさんは「何に金払ったのかねえ」なんて言われたくない。


http://jp.leica-camera.com/photography/special_editions/m9_titan/