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2012年9月26日水曜日

日本最古の稲作環濠集落 板付遺跡 ー弥生のクニのルーツー

 日本に稲作が伝わってきたのは何時か?狩猟採集が生活の基盤であった縄文時代は、どのように水稲農耕生活の弥生時代に変遷して行ったのか。縄文時代と弥生時代では人種の交代があったのか。縄文時代から弥生時代へのフェーズ転換は、考古学上の論争が活発なテーマの一つである。

 従来、弥生時代は紀元前500年頃に始まるとされてきたが、最近の研究ではさらに500年ほど遡り、紀元前1000年頃ではないかという説が有力になっている。これは大陸から水稲農耕の技術、農耕文化が日本列島に入ってきた時期を問うことでもある。シロウトには考古学にまつわる様々な科学的な年代測定法の詳細は分からないが、どうも弥生時代は我々が習ったよりも早い時期に始まり、長く続いたようだ。

 しかし、古代史好きの私がなぜ弥生時代にこだわるかと言うと、後漢書東夷伝や魏志倭人伝に登場する紀元1〜3世紀の奴国や伊都国、邪馬台国は、こうした稲作農耕を生活の中心にした弥生のムラ、クニであった。そうした個々のクニはどのように発生、形成、発展し、さらに全国に展開していったのか、さらに、どのように倭国連合に発展し、古墳時代、大和王権に時代に突入していったのかを知るには,弥生時代の歴史、とりわけ水稲農耕が西から東へ伝搬して行った足跡を知っておく必要があると考えた。「日本文化の東遷」伝説の考古学的な検証だ。大陸から伝搬したと言う農耕は最初、北部九州に根付き、チクシ時代を築く。それが200年足らずのうちに近畿へ倭国の中心が遷り、大和王権の確立という、いわばヤマト時代へと移行する。その変遷の謎を解くヒントもそこにあるかもしれない。

 詳細は省くが、最近、研究者によって、農耕の東遷は考えられている以上にゆっくりしたものだったという見解が示されている。特に九州南部や東北地方に農耕文化が伝搬するのには様々な時間経過と紆余曲折があったという。言ってみれば縄文型の狩猟採集文化から弥生型の農耕文化へは、スパッと切り替わった(いわゆるフェーズ転換)訳ではなく、長く縄文型生活は継続し、徐々に、あるいは部分的に弥生型が入って行った地域(主たる食料生産ではない園耕地型というそうだ)と、農耕が入って行ったがまた縄文型に戻ってしまった地域(例として、東北の寒冷地域等で稲作に失敗して)もあると言う。ただ北部九州から近畿への伝播は割に短期間に進行したとも言われている。その場合、近畿へ遷る過程で、その途中の中国地方や四国地方での大型農耕集落があったのだろうか。後の出雲や吉備はそういった弥生型のムラ、クニの発展形だったのだろうか。この辺りの考古学的な検証はまだのようである。

 また人種的にも、北部九州では、縄文人の特性を備えていない、別人種の人骨が弥生遺跡から発掘されているケースがあるが、いわば原日本人(縄文人)が、外来の人々との交流、混血の中で徐々に農耕を取り入れて行った様子がうかがえるという。すなわち、イギリスブリテン等におけるゲルマン人の進入や、不断の異民族の進入、そしてノルマンの征服により,原住民ケルト人がブリテン島辺境に追いやられて行った歴史とは異なり、大陸から別人種が大量に入り込んできて原日本人を征服したり、人種が入れ替わったわけではないようだ。

 もちろん大陸との間には多くの人の行き来があったのは間違いない。今のように国境という概念も国民国家概念も無い時代であるから、倭人と漢人と韓人との区分けもそれほど明確な訳ではなかったことだろう。しかし、大陸からの征服民族が日本列島に侵入してきて(もう少し後の時代のヤマト王朝騎馬民族説のような)縄文とは全く異なる弥生時代に塗り替えてしまった、という考古学的な証拠は出ていないようだ。

 福岡市の板付遺跡はつい最近まで、日本最古の稲作環濠集落跡として考古学上の画期的な遺跡とされてた。子供の頃の歴史の教科書でもそう習ったような気がする。年代測定法で紀元前500年くらいの遺跡であるとされている。しかし、その後、福岡市周辺には江辻遺跡や菜畑遺跡といった、さらに古い稲作遺跡が見つかり、先述のような弥生時代の始まりがさらに500年遡ってしまう事となった訳だ。

 さは然り乍ら、この板付遺跡の重要性はいささかも揺るぐ事は無い。紀元前500年頃に既に高度な稲作が行われていたり、二重環濠による集落を形成し(後の時代の吉野ヶ里や唐古鍵の原型のような)、墓制についても有力者とその他の墓では副葬品が異なっている等の,既に身分の差が確認されていたり、倭国の時代にさかのぼること500年前に既にその原型が現れていた事に驚く。いわば弥生倭国のルーツである。さらにいえば現代に至るまで,稲作農耕文化を引き継ぐ日本の原点と言ってもいいだろう。

 現在板付遺跡は、福岡市の手で環濠や竪穴式住居が復元保存されている。また近くの福岡市埋蔵物文化財センターには出土品の保存展示がされている。しかし、両方とも訪問には不便なロケーション(街中にも関わらず)で、旧国道3号線沿いの福岡空港近辺に位置している。周りは国道沿いのカーディラーと大規模公営住宅団地が立ち並ぶ、という、観光客が気軽にアクセス出来るロケーションではない。現に、埋蔵物文化財センターのその日も、誰も訪問者はいなかったし、訪問記帳を見ても日に数人(しかも県外の訪問者は稀)程度。係の人も居るに居るが、説明する風でもなく、デスクに座ってパソコン観ているだけ。案内窓口の女性は愛想が良くて板付遺跡への道順等丁寧に説明してくれた。しかし壁のタイルがはげ落ちているなど、寂れた感じだ。

 板付遺跡の方はさらに寂しくて、ちょうど復元環濠内の雑草刈りをやっている最中であった。かなりの量の雑草が積上げられていた,という事は、昨日まではかなり雑草に覆われていたということか。弥生展示館は縦穴住居を模した立派なハコモノ行政の産物であるが、こちらは人が誰もいない。「こんにちわ」の声もむなしく、応答が無いので中へ勝手に入ると、電気が消されていて真っ暗。目が慣れてくると、遺跡のジオラマや出土品の弥生土器や、比較的有名な弥生人の足形等が展示されている。最初から最後まで、途中でモップもって入ってきた掃除のおばさん以外、人に会う事は無かった。

 福岡市はこうした日本の国家や文化の起源ともいうべき遺跡や、出土品の宝庫であるが、あまりそのように認識されていない。もっと脚光を浴びていいような気がするが...  別に観光資源としてもっと活用すれば,というつもりは無いが、近畿地方の古代史ファン向けのサービス(展示施設、参考資料、ボランティアの説明員(時々熱が入りすぎる嫌いもあるが)、散策コースの整備等)がそれぞれの自治体ごとに充実しているのに比べるとかなり寂しい。

 板付遺跡のすぐ近くには1世紀の奴国の都跡であると言われる比恵/那珂遺跡や、南に行くと奴国王墓やハイテク工場跡が見つかった須玖/岡本遺跡がある。福岡市やその南の春日市は弥生時代、倭国の時代の遺跡が広く分布しており、いかにも日本の先進地域であった事を彷彿とさせる。いかんせん、都市化による遺跡破壊と発掘の難しさに直面しており、なかなか全貌を解明するまでには至っていない。それにしても,日本の国家/文化の発祥の地である事は明らかにされているのだし、いわばチクシ時代の遺跡に満ちあふれている事をもっとアピールしたらいいのに,と思ってしまう。また、歴史学においても考古学においても、日本の原点である「チクシ時代」をもっと研究する必要があると思う。




(板付遺跡の空撮敢行!? 福岡空港(板付空港)離陸するとすぐ右手に見えるのです。)


(撮影機材:NikonD800E, AF Nikkor 24-120mm)

2012年9月24日月曜日

阪堺電車で行く住吉大社(すみよっさん)

 大阪市内に唯一残る路面電車、阪堺電車。天王寺駅前から浜寺公園、住吉公園へ向う上町線と、恵比須町から堺へ向う阪堺線の2系統が運行されている。沿線は大阪のディープサウス、まるで昭和の空間だ。映画「Always3丁目の夕陽」の世界だ。電車の窓から見える建設中の阿倍野ハルカスが、建設中の東京タワーの画にかぶる。

 今回は天王寺駅前から住吉大社まで約15分の路面電車旅。運賃は均一で200円(290円から値下げされたらしい)。その住吉大社は全国の住吉社の総本宮で摂津国一宮。博多の住吉神社、下関の住吉神社とともに三住吉と呼ばれる。ちなみに博多の住吉神社は筑前国一宮で、一番古い創建といわれている。

 お社は住吉三神と神功皇后を祀り、四本宮ある。三本宮が東西一列に並び、第四本宮は第三番本宮の北に建つというユニークな住吉造り。正面の鳥居は西向きで、かつての難波津を向いている。博多の住吉神社も冷泉の津に面して西向きであったといわれるように、住吉三神は海運、海軍の神様である。住吉大社は神功皇后の三韓征伐の無事帰還の際に創建された由。という事で伝承では西暦200年の創建ということになる。すなわち魏志倭人伝の邪馬台国卑弥呼の時代、ということになるのだが。

 辺りは関西独特の神社仏閣の周辺に出来た街の雰囲気を色濃く残している。四天王寺や大阪天満宮辺りにと同じ匂いがする。お参りの人々は文字通り老若男女を問わない。反りのキツイ太鼓橋を欄干に掴まりながら「きいつけや」「急ぎなや」などと声かけながら渡る。四本宮を一つ一つ柏手を打ってお参りする。お参り済んだら「たこ焼きよばれていこか」となる。かなり年配のおトーさん、おカーさん夫婦も、チョット怖いオッチャンも、ヒョウ柄のオバちゃんも、ヤンキーのニイちゃん、ネーちゃんも、ここへ来ると皆救いを求める神の赤子だ。街角にはあちこちに地蔵堂があるように、大阪の街には庶民の信仰が満ち満ちている。「神と仏の違いなんか関係あるカイ」ちゅうわけや。そこにあるのは、どっちゃかちゅうと極楽浄土ではなく現世利益のような...

 そしてこのワンダーランドを結ぶチンチン路面電車だ。質屋やパチンコ屋の広告を派手派手しく塗りたくった電車。これがいやが上にも、大阪を大阪らしくしている感じがする。よそ行きのすまし顔とは違う「大阪の品格」や。東京の都電荒川線とも,地方の路面電車とも違う独特の佇まいを醸し出すのが阪堺電車だ。時空トラベラーが思わず小躍りしてしまうぶらり旅だ。


(撮影機材:Fujifilm X-Pro1 )


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2012年9月23日日曜日

飛鳥古京はようやく秋に ー多武峰から石舞台へ続く道沿いに棚田を愛でるー

 今年は猛暑であった。9月に入っても連日30℃を越える暑さが続いていたが,ここへ来てようやく秋らしくなった。刈入れ前に棚田を見ておかねば、と電車に飛び乗った。桜井で降りて、バスで談山神社まで行き、そこから石舞台古墳へと下る,あの道をとれば飛鳥の里を遥かに見渡しながら,美しい棚田の世界を堪能出来る。しかし、桜井駅からのバスは一時間に一本だけ。乗り過ごしてしまった。では、と、石舞台古墳まで行き、そこから逆に多武峰方向へだらだら坂を上る事にした。

 飛鳥の棚田は、稲穂がコウベを垂れて、豊穣の時を迎えた。ただいつもは彼岸花が咲き誇るこの季節、稲淵の案山子祭りの週末を迎えても、いまだ咲き始めで少し寂しい。それでもポツポツと咲き始めた真っ赤な彼岸花が畝を彩り始めている。

 飛鳥は穏やかだが豊かなな日本の秋を迎えた。去年は稲淵の棚田を巡ったが、今年はこうして多武峰から石舞台古墳への道すがらの棚田を巡った。この道は中大兄皇子と中臣鎌足が、蘇我氏打倒の密議を行った多武峰,御破裂山(かたらい山)へと通じる道。今は平和な日本の原風景のような景観が保たれている。


(撮影機材:Nikon D800E, AF Nikkor 24-120mm f.4, AF Nikkor 70-200mm f.2.8)

2012年9月17日月曜日

吉野ヶ里遺跡 ー魏志倭人伝に描かれた倭国の風景ー

 佐賀県神埼郡の吉野ケ里遺跡は、弥生時代(紀元前5世紀〜紀元3世紀)における日本最大規模の環濠集落遺跡だ。弥生前期、中期、後期全ての遺構が同一場所で確認されたユニークな遺跡だ。また、周囲2.5キロのV字型の外壕に囲まれた敷地面積40へクタール(福岡ドーム6個分)の大型集落がこのような完全な形で発掘され復元されている例は珍しい。現在でも穀倉地帯である広い佐賀平野(広義には筑紫平野)のど真ん中だからこそ、破壊もされず1700年も地下に埋もれていたのだろう。

 昭和51年に神埼工業団地の造成を始めるために地下を掘ったところ,このような巨大な弥生のムラ、クニの跡を発見したわけだ。その後、県は工業団地開発を中止し発掘調査と史跡としての整備に切り替えた。バブル真っ盛りの時期としては苦渋の決断であったのだろうが、バブル崩壊後、空白の20年が過ぎた今となっては正しい決断だった。観光資産の少ない佐賀県としては貴重なお宝が隠れていたわけだ。工業団地だと、今頃電力不足問題と、グローバル化に伴う生産の空洞化で、廃墟になっていたかもしれない。

 現在、史跡公園として再現、整備されている環濠集落遺構や98棟におよぶ建物群は、集落が最盛期を迎える弥生後期、3世紀初めのものである。すなわち、あの魏志倭人伝に出てくる卑弥呼の邪馬台国、倭国の時代である。当時の集落内にはおよそ300人が暮らし、周辺のムラを合わせるとクニ全体では約5,400人が住んでいたと推定されている。邪馬台国が8万戸、奴国が5万戸、伊都国が1.5万戸というから、それに比べると小振りなクニであった事になる。発見当時は、吉野ヶ里は邪馬台国ではないか,と騒がれたが、これはチクシ倭国のクニの一つであろう。美祢国ではないか,という説もある。

 いずれにせよ、弥生時代後期の邪馬台国の時代のクニがこのような形で発掘され、当時の魏志倭人伝で描かれた倭国のクニやムラの姿が、より具体的なイメージとして捉えることが出来ることに興奮を覚える。奈良県の唐古鍵遺跡や、福岡市の比恵、那珂遺跡、須玖岡本遺跡等は、現代の都市化のなかで、その原型を留める事無く、かつ発掘も道路や家、ビルの建設改築工事にともなって、部分的にトレンチを掘って確認する事しか出来ないので、全体像を把握、可視化するのは容易ではない。それに比べると吉野ヶ里は奇跡に近い。

 いよいよ中に入り,史跡を見学すると、水稲農耕を基軸とした弥生のムラ、クニの生産、流通、政治、祭祀、そして人々の生活の姿がコンパクトなジオラマのようにまとまっている。

 まず、逆茂木と深い壕と高い木柵に隔てられた環濠内、その入口の門には木製のトリが3羽ととまっている。奈良県の唐古鍵遺跡の望楼にも再現されている。青銅器祭祀具とともに何らかの霊的な意味があったのだろう。現在の神社の鳥居はここから来ているのだろうか。

 南内郭は王の一族と有力支配階級の居住地区。木柵に囲まれ、高い望楼により防備を固めた一角だ。しかし,その住居は竪穴式住居で、意外に粗末。権力者であるが故に所有できたであろう鉄製品が出土していることから、王の家とされている。それにしても高床式の宮殿のような建物を想像していたのだが。

 北内郭は政治、祭祀を執り行うクニの中枢地区。主祭殿は高床式の巨大な建物。このクニの中心的なランドマークだ。厳重な柵は、外から中の様子をうかがえないように板が隙間無く建てられており、さらに門から中へは曲がりくねった通路を通らねば行き着かない。ここでは農耕に必要な暦や作業を決めたり、祭祀を執り行ったり,王や有力者、周辺のムラの長等が集まり,クニの重要な意思決定が行われた。その際,物事の判断の重要な根拠となるのは、神懸かりとなって祖先の霊や神の意志を伝える巫女の言葉であった。すなわち魏志倭人伝に言う「鬼道」であろう。すなわちヒコ(男の王)とヒメ(女の巫女)による政祭一致の体制だ。

 南には農耕に携わる人々の生活の場、ムラが。ここは壕等の特別な施設に囲まれておらず、竪穴式住居数戸に高床式倉庫という塊が散在する,日本各地で発掘されている一般的な弥生住居跡と同様の形式となっている。環濠の外側には赤米や黒米などの古代米の水田が広がっていた。

 また生産物を保管したり、他のクニや外国との交易を行う倉と市の広場は、クニの富の蓄積と、流通による富の交換、新たな価値の創造が行われた重要な場所である。弥生の時代も後期になると、単に採集生活から定住農耕へ移行した時代から、生産手段の所有と富の占有、流通、交易、これを取り仕切る権力者、クニが出現した時代となった。ここはその事を示す場所である。

 中のムラには、祭祀や農耕に必要な鉄器や青銅器、ガラスなどを生産する特別な技能を持った工人達がいた。多くは大陸から何らかの理由で倭国へ渡来したハイテク技能集団と、その倭国の弟子たちだったのだろう。

 そして北の果ての郭外には、王が埋葬されたという北墳丘墓を中心とした甕棺墓地。この墓地と神殿は南北軸上にある。しかし、奴国や伊都国などのチクシ倭国でも見られるこの甕棺を主体とする集合墓の形式が,その後の北部九州で古墳へと繋がる痕跡は無い。少なくとも大和地方に見られる3世紀の巨大古墳のイメージに繋がるミッシングリンクは見つからなかった。

 こうして見ると、この吉野ヶ里環濠集落には、北には祖霊を祀る神聖な地、その軸上に祭祀を行う主祭殿、そして南に人民が住む一般居住地、という中国式の南北軸思想が現れている。大和の纏向遺跡の神殿跡とおぼしき建物が、三輪山/二上山を結ぶ東西軸上に配置されている事と対照的だ。なぜだろう。後の6〜7世紀の飛鳥の宮殿はみな中国式の南北軸配置に変わって行くのだが。

 吉野ヶ里が、典型的な弥生後期の(倭国の時代の)ムラ、クニであるとすれば、纏向遺跡は(同時期の集落遺跡であるとしたら)かなり異様だ。方角もそうだが、環濠もなく、農耕の跡も無く、人々の生活臭は全く感じない。この弥生時代の環濠集落とはかなり趣の異なる遺跡だと感じる。また祭祀を行ったとされる主祭殿の形式も、吉野ヶ里と纏向ではかなり異なる。吉野ヶ里規模のクニでさえ,主祭殿は高床式の三層構造の巨大な建物であるのに、もしも纏向が邪馬台国の首都であったのだとすると、その神殿とされる建物は、柱も細く,低層の(簡素な?)建物である。むしろ後世の宮殿の建物(飛鳥の板蓋宮等のような宮殿を彷彿とさせる)の形式に近いような感じがする。

 ところで、この吉野ヶ里のクニはその後はどうなったのだろう? ある日こつ然と姿を消してしまったと言われている。環濠は埋められ、耕作は放棄され、何らかの理由で住人がムラを捨てたようだ。奈良県の弥生遺跡、唐古鍵環濠集落は,その後も比較的長い間形を変えて、村落として続いたようだが、吉野ヶ里は何故姿を消したのだろう。新しい謎がまたわき起こってきた。


















(吉野ヶ里公園HPより転載)






(撮影機材:Nikon D800E, AF Nikkor 24-120mm)


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2012年9月2日日曜日

えひめ内子町散策

 愛媛県の内子町は松山市からJR予讃線特急で約30分ほどの山の中にある。伝統的建造物群保存地域に指定されている八日市・護国地区は、その昔大洲と松山を結ぶ街道沿いに発展した街だ。江戸時代後半から明治にかけて、ハゼの実から取れる木蝋生産の中心地として栄え、品質の高い内子産のWaxは世界中に輸出された。江戸藩政時代は伊予大洲藩6万石の領地となり、一帯は典型的な中山間農村地帯であるが、伝統的に木材、木炭、コウゾ、ミツマタ、ハゼなどの林産物の集散地であった。また大洲藩は和紙を専売品とし、紙漉業者を中心とした家内手工業の街でもあった。

街並は、塗り籠めの白漆喰と黄土の大壁、なまこ壁、ベンガラ格子の重厚な建物が、約600mの街道沿いに、約120軒立ち並んでいる。このうち91軒が伝統的建造物として指定されている。

なかでも、明治以降に木蝋生産で財を成した上芳我邸住宅、その本家に当たる本芳我邸住宅などの豪邸が並び、この町がいかに経済的に繁栄したかを物語っている。さらに、大正5年に創建された木造の劇場、内子座は、その経済的繁栄が、人々に芸能、芸術、娯楽を愛する余裕を生みださせ、このような田舎に(失礼)、このような豪壮な劇場を残した。この他にも、伝統工芸の和蠟燭や、鋳物のろうそく立て等の工芸品を造る工房、和紙の店、塗り壁/鏝絵職人の工房、大正時代の薬舗を再現した店舗などが並び、美しい景観とたくみの里の雰囲気を保っている。

それにしても、このような街の景観や、内子座のような建築物を今に守り続ける地元の人々の努力は並や大抵ではないだろう。もともと昭和51年に街の住民の方からの発案で、まだ「景観」という言葉が定着していない時期に,早くも町の景観の調査、保存の動きが出てきたと言う。その後のいわゆるグリーンツーリズムの草分け的な町である。ドイツのローテンブルクと町並み保存に関して市民ぐるみの交流があるとか。ローテンブルクは以前行った事があるが、ロマンチック街道の美しい町である。日本が高度経済成長真っただ中の時代であった。なぜ日本にはこんな美しい町がないのだろう。古い物はドンドン破壊されて、若者は皆こぞって都会へ出て行く時代であった。思えば,私の町並み景観を巡る旅はこの頃始まった。そして、今、奇しくも伊予内子に至ったという感動を噛み締めている。

また内子座も、一時は老朽化で取り壊しが決まっていたようだが、これも住民の活動で,保存、再建がなされた。しかも、動態保存である。今でも、毎年8月に文楽公演、2年に一回歌舞伎公演が行われるとか。その他にも、様々な芸能や,地域のイベントに利用され、讃岐の金毘羅座にも引けを取らない有力劇場に発展しているところが驚きだ。

東京首都圏や大阪関西圏にも決して近くない,このような山間部の町に、これだけの文化的な遺産が、ただ静態保存されるのではなく,生活の場として動態活用されている様は驚き以外の何ものでもない。「観光地」としての経済効果を狙うなら、都会から人が押し掛けてくれなくてはならない。しかし、それでは、静かで落ち着いた佇まい、という資産が破壊されてしまう。経済的自立化と静溢な環境。この矛盾を解決する「町の活性化」はなかなか難しい。

内子を廻って感じたのは、やはりそこに住む人々がその日常の生活をこつこつと維持している事。そして皆で町の景観を大事にして、誇りの持てるコミュニティーを作り上げようとしている事。それが町を「動態保存」する最良の方法だということだ。行き交う人々の顔が皆明るくて、柔らかな事が印象的だった。中学生や小学生は,すれ違う旅人に「こんにちわ」と挨拶してくれる。学校や家でそのように教育しているのだろう。そしてそれをキチンと守っている子供達。

今回は時間もなくて,周辺の農村部を廻ることが出来なかったが、そこでも米作中心の農業から、新たな物流システムを活かした近郊農業へ転換し、田畑が荒廃するのを避けている。その美しい農村風景を維持しているほか、屋根付き橋や石畳の道などの、農村の生活資産を活かした,新たなエコツーリズムへ展開していると言う。

補助金や,観光客の落とすカネだけでは、美しい景観,安らかな佇まいは長続きしない。住む人の内なるパワーこそがこうした,日本の原風景を維持する(いや再生する)ことができるのだろう。そこにこれからの日本が、あたらたな価値を見出し、創造し、再生産する道があるのを観たような気がする。ITや交通の発達が、じつは上手に使えば,こうした価値再生産の手助けになるであろう事も感じた。




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(交通:JR予讃線(内子線)特急宇和海で松山から約30分。各駅停車だと約一時間。特急は一時間ごとに出ているので便利。岡山方面から来る特急に、松山で接続している)




(撮影機材:Nikon D800E, AF Zoom Nikkor 24-120mm)