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2017年7月12日水曜日

Leica M10 ファームウェアー問題

 

Leica M10


 最新のライカM10をゲットしてから4ヶ月余り経った。その完成度に満足し、出番が大いに増して手放せない愛機になってきた。ところがその蜜月ムードに水を差すような出来事がまたぞろ発生しはじめた。ライカ社から見れば大した問題ではないのかもしれないのだが、バグが出はじめたようだ。

 ライカのこれまでのデジタルMはとにかく想定外のメジャー・マイナーを問わずバグが多かった。特にM8、M9は酷かったが、Type240では一連の改善でようやくバグがとれ安定した。バグに悩まされ続けたそのトラウマのせいか、M10になって、最初期バージョンでは珍しく何の問題もなかったのでホッとして嬉しかった。ところが悪夢の再来だ。SDカードのコンパチビリティーを改善するとした、ver.1.7.4.0が6月にリリースされた。SDカードの相性問題がまだあるのか?と訝しがったが、問題はそんなところとは関係ないところで発生した。この1.7.4.0をインストールしたとたん、不思議な症状が現れはじめたのだ。露出補正表示が、±0以外では設定値に関わらず、再生にすると常に−3を示すようになった。またISO感度をオートにセットして、絞り1.4開放、シャッター速度オートでシャッターを切ると、通常はISO100を選択する場面でいきなりISO1600になり、露出オーバーで画面が白飛びしてしまうカットが出現した。気になったのでFaceBook上のM10ユーザフォーラムをチェックしてみると、ISO感度オート設定での感度固定化の現象が報告されていていて、複数のユーザが同様のクレームをアップしている。問題はないとするユーザもいる。私の個体も特にその固定化には遭遇してない。また露出補正値が常に−3表示になる不具合も投稿されている。ISO設定の不安定さと関連があるのだろうか?ともあれver.1.7.4.0以降、不具合が出始めている模様だ。

 その後、ver.1.7.4.0のバグを修正するとしてver.1.9.4.0が7月10日急遽リリースされた。しかし、これは高速シャッターでの画面のブラックアウトを修正するためのもの、とかで上記の問題は全く改善されていない。ちなみに私の個体でプラックアウトは経験していない。が、そんな不具合もあったのか...と逆に不安が増す。

 ライカショップ銀座に持ち込む。サービス担当はこの露出補正の不具合については認識していなかったという。点検の結果、同社のテスト機の背面のLEDディスプレー上の露出補正表示にも同様の問題が再現されたとのこと。EXIFデータには適正な補正値が反映されているというから背面ディスプレー表示上の問題のようだ。またISO感度移動(固定?)による白飛び現象は、テスト機では再現されなかったという。

 結局ライカショップ銀座店のサービス担当は、この現象はやはり個体の問題ではなく、ファームウェアーの問題のようなのでドイツ本社に報告して修正するよう依頼するという。しかし修正には時間がかかり、おそらく次・次期のファームウェアーバージョンアップに間に合うかどうかだと。やれやれ、そのスピード感にもびっくりさせられる。とにかくファームウェアーアップデートの際にコーディング誤りかなにかでバグを発生させてしまったようだ。不具合を改善しようとして他に不具合を発生させてしまうという、何れにしてもお粗末の極みだ。ライカ社はやはりソフトウェアーで動くカメラはまだまだ苦手のようだ。

 当面、日々の撮影自体に大きな支障はなさそうだが、なんか信頼感がない。つねに何かしらの爆弾を抱えているような気分だ。また何が起きるかわからないという疑心暗鬼に陥ってしまう。毎度のことながら、高いカメラなのに...という愚痴もつい出てしまう。「ライカユーザは細かいこというな、嫌なら手を出すな」なんていうライカ一神教の傲慢は許されない。まさかこれも「ライカの味」なんていうんじゃないだろうな。

 ちなみに、同時に持ち込んだM9のCCDセンサーチェックでも保護膜剥離が発見され、対策済みセンサーに無料交換することになった。この以前から問題となっているM9固有のセンサー不良。そもそも車ならエンジン取っ替えリコールに匹敵するほどの欠陥なのだが。悠長なものだ。しかもこちらは換装のためにドイツ送りで、11月くらいに戻ってくる予定だとか(!!!)其の間の代替機も用意されていない。OMG !

 私の知己でプロのライカ使いは「デジタルのライカは使わない」と言い切っている。別にトラブルが多いからという理由を言ってはいないが、フィルムライカはシンプルで信頼感があると惚れきっている。こうなるとなんとなく説得力を持っているように感じ始める。私も素人ながら長年のライカユーザで、デジタルへ乗り換えた愛好家として少々のことは慣れているつもりだしライカの悪口は言いたくない。ネット上でライカを誹謗中傷しているコメントを見るとイラッとくる。単純に他社カメラと比較はできないからだ。しかし、こうソフト不具合やセンサートラブルが続くと、やはり疲れる。ライカさん、しっかり頼むよ品質管理。

絞り開放1.4、シャッタ速度オート、ISOオート、室内照明下での撮影。露出補正+0.3
前後のカットではISO200となっているが、ここでは1600にシフトし白トビ(露出オーバーの赤点滅)
露出補正値は何故か−3を表示



2017年7月9日日曜日

箱根の関所 〜関所の歴史は意外に面白い〜


復元された箱根の関所


 なん年ぶりかで箱根を訪れた。週末いつも込み合うイメージの箱根も、梅雨時の平日はがら空き。箱根ターンパイクから元箱根、芦ノ湖畔、箱根関所、恩賜公園へ。さらに伊豆スカイラインを南下して伊豆の隠れ家へというドライブコース。爽快に走り抜ける。これだけ空いているなら車も良いものだ。箱根の関所が復元されていた。なかなか堂々とした佇まいの関所だ。考えてみると関所っていつごろどういう理由で設けられたのだろう。ふと「時空トラベラー」的な興味が沸き起こってきた。簡単に振り返ってみよう。

古代

 関所は、大化の改新の詔により設置されたのが最初だと言われる。東海道の鈴鹿関、東山道の不破関、北陸道の愛発関(後に逢坂の関)の三関がそれだ。律令体制による人民支配の手段として「本貫地主義」、すなわち公地公民の制、庚午年籍により戸籍を定め、租庸調などの税収を確保するために公民を特定の土地に固定しようというものだ。このように関所は公民が勝手に他国へ移動しないように監視したのが始まりと言われている。もちろん都の防衛や政治犯の逃亡を防ぐ、流民の都への流入を防ぐことが重要な役割になってゆく。壬申の乱の時には鈴鹿の関守が大海人皇子に味方し、近江への進軍を助けたというエピソードが残っている。また、時代は下るが、東北に落ち延びる義経を助けるため弁慶が関守冨樫正親の前で空白の勧進帳を読み上げ、冨樫もそれに気付きながら通行を許したという、有名な歌舞伎「勧進帳」の安宅の関は平安末期、鎌倉初期ころの関所だ。

中世

 すでに平安時代ころから律令制は崩壊に向かい、公民を土地に固定する本貫地主義や京の治安維持という軍事、警察より、朝廷や荘園領主、武家勢力、有力寺社などの権門、地域の支配者が通行料を取る目的で数多くの関所が設けられた。これが彼らにとっては貴重な権益になったのだが、諸国間の自由な通行、流通の妨げとなったことは言を俟たない。一方で、通行の安全と治安を守るという役割も果たしたという。しかし戦国時代には、こうした通行銭稼ぎの関所が衰退し、さらに織田信長や豊臣秀吉が天下統一を果たすと、諸国の自由通行、交易を盛んにするために関所を徹底して廃止した。既得権益を解体し、新しい自由交易/情報流通体制を企図したわけだ。信長、秀吉は国内外の交易による国富を目指す、当時としては革命的な政治指導者であり経済構造改革者であった。

近世

 江戸幕府が開かれると、軍事、警察目的で、幕府や各藩は再び関所を設置するようになる。秀忠は五街道の整備と合わせ、江戸を守り、徳川幕藩体制を維持するために交通の要衝に関所を復活。元和5年(1619年)に東海道の要衝である箱根の峠に関所を設けた。このほかにも東海道の新居関、中山道の木曽福島関、碓氷関が江戸へ通じる要衝を守る規模も大きく重要な関所とされた。さらに寛永12年(1635年)に参勤交代が制度化されると、全国の大名の行列を取り仕切る関所の役割がクローズアップされるようになる。さらに「入鉄砲出女」取り締まり、すなわち江戸に入る武器類と、江戸から出る女(大名の婦女子は江戸藩邸に留め置かれる人質であった)を監視することが重要な役割となった。こうした徳川幕府による参勤交代・大名支配の手段の一つとして、江戸期を通じて全国に53箇所あまり関所が設置されたという。こうした通行の監視は武家/大名に止まるわけではなく、一般の庶民の通行にも及んだ。庶民にはとんだトバッチリだったわけだ。

 箱根の関所は峻険な箱根山中に設けられ、山と湖に挟まれた狭隘な地形を通るように設計されている。それまでは御殿場ルートが一般的であったようだが、東海道整備とともにこの警備しやすい箱根ルートに付け替えられた。ゆえに旅人にとってはチェックの厳しい関所のイメージがあるが、のちにお伊勢参りなど、旅が信仰と行楽を兼ね、庶民にも広まると、通行手形があれば意外と自由に通行できたようだ。ただし関所破りは磔の刑。幾多の悲劇が語られている。そして箱根では「入り鉄砲」よりも「出女」の方が厳しくチェックされた。「あらためババア」が女性の髪の毛や身体検査をしたとされ、現在は人形で当時の模様が再現されている。幕府は箱根の芦ノ湖畔に関所を作ろうとした時、地元民の反対に直面した。ようやく、集落から少し離れた場所に東海道の箱根宿を新たに設けた上で関所を設置した経緯がある。現在の元箱根が、文字通りオリジナルの箱根の集落であった。ちなみに芦ノ湖は漁労禁止、進入禁止。高見番所から湖上を監視していた。関守は小田原藩の役割だった。

 明治に入って全ての関所が廃止された。国内は自由に行き来できるようになったわけだが、国と国をまたがる自由往来はまだまだ先のことだ。むしろ近代的な国民国家概念、主権国家概念などにより、国籍や国境が生まれ、通行はむしろ不自由になった感さえある。空港や港、国境の入国審査と税関検査が現在の関所であるわけだが、自由貿易協定やEUのような試みは、やはりこうした関所の長い長い歴史を考えると紆余曲折を経ることになるのだろう。パスポートという通行手形はしばらくは無くならない。





箱根関江戸口御門

関所の防御施設も復元されている
左上の高台には遠見番所が

大番所


遠見番所から関所と芦ノ湖を俯瞰する。

なんだか長崎港の古写真みたいな景観に見えてしまう...
観光用の帆船のせいだ


広重
東海道五十三次
箱根

東海道箱根峠道



2017年6月19日月曜日

伊豆下田は紫陽花に埋もれていた!





 6月は伊豆下田が紫陽花に埋もれる季節。今年は梅雨入りしたにもかかわらず、快晴の爽やかな日が続く。紫陽花には雨が似合う、とはいうもののやはり晴れるにこしたことはない。ここ下田公園は全山紫陽花に覆われる。いつものペリーロードの川沿いにも見事な紫陽花が。下田は歴史と自然と人情が絶妙にブレンドされたの街なので、「時空トラベラー」の大好きな街トップリスト上位にいつもランクインするのだが、不思議に紫陽花で有名なこの街をその最盛期に訪れたことがなかった。

 下田公園は下田市街地の南のはずれにある。海に突き出した小高い山全体が公園になっている。ここは戦国時代には北条氏方の出城、下田城があったところで、豊臣秀吉軍と激戦が繰り広げられた。したがって下田城址公園とも呼んでいる。ペリーが上陸した港から少し坂を上がると開港記念広場がある。この背後に控える山が全山紫陽花山になる。山を覆い、谷を埋め尽くす色とりどりの紫陽花。なんと15万株あるそうだ。一目で「おおっ、すご〜い!」とおもわず感嘆の声を上げてしまう圧巻の光景。東京近郊の有名な紫陽花の名所でこれほどのボリュームと密度を誇るところはあるだろうか。そして一番は人出。いや、すごい人出なのではなく、人影もまばら。広いせいもありゆったりと時間を過ごせることに感動。こんなマッシブなアジサイ山を独り占めに近い状態で堪能できるとは。鎌倉の明月院の紫陽花は2500株だそうだが、紫陽花よりも見物客のほうが多いじゃないかというあの混雑ぶりを考えると嘘のような贅沢さだ。紫陽花の手入れをしてくれている公園管理の人もとてもフレンドリーで、かつ観光地にありがちな押し付けがましくもなく気持ちよい。この景観に感動の声を上げていると、「ゆっくり楽しんでいってください」と声をかけてくれた。聞けばまだ全てが満開ではないそうだ。むしろ満開期よりも、開花間近のの花芽も混じるこの時期が一番フレッシュで、色も鮮やかなのだそうだ。確かに。

 ただ、これだけの景観をファインダーで切り取るのは思った以上に難しい。どこを撮れば良いのか、キョロキョロしてしまいカメラが「迷い箸」状態だ。広角で狙うか、望遠でアップするか。快晴なので手前の紫陽花と遠景の下田富士や寝姿山と街並との明暗コントラストが大きく苦労する。遠景に露出を合わせると、花は暗くなり、花に露出を合わせると遠景は飛んでしまう。結局手当たり次第撮りまくって駄作を重ね、そうして選びきれないもどかしさ。圧倒的な景観を目の当たりにして興奮し、視座を失ってしまう。何を表現しようというのか。そこに情感は写し出されているのか。綺麗な花を綺麗に撮ることは、現代のデジタルカメラを持ってすればそれほど難しいことではない。花が綺麗であればあるほど、景色が「すごい」ならすごいほど、そこに何を読み取るのか。まだまだ腕とセンスと選択眼を磨かねば。今回は満足のいくベストショットがない。


いくつかのショットをご紹介。まずはペリーロード沿いの紫陽花














次は、いよいよ下田公園の紫陽花たち

開国記念碑







寝姿山遠望















下田港



下田富士遠望















(使用機材:Leica SL + Vario Elmar 24-90)



2017年6月4日日曜日

東山魁夷の京都 その今は...

東山魁夷「年暮る」
1968年(昭和43年)
山種美術館蔵

2016年(平成26年)2月同じアングルで撮影
ホテルオークラ京都(旧京都ホテル)から


 川端康成が「今のうちに京都を描いておいて欲しい。そのうち京都は無くなる」とある画家に懇願したのが昭和30年代後半1965年頃だと言われている。その画家とは東山魁夷である。東山魁夷は大自然の中の静寂と優しさの世界をモチーフとする風景画家としてその名声を博していた。その代表作がこの1982年に描いた「緑響く」。東山魁夷といえば思い浮かべるのがこの作品だろう。川端康成はその世界に陶酔し、ぜひ東山魁夷に古都の情緒を後世に残して欲しいと思った。

東山魁夷「緑響く」
1982年
長野県信濃美術館蔵


 一方で、東山魁夷はその「国民的風景画家」としての名声に反して自分の中では葛藤に苛まれていたという。川端康成が「懇願する」、人の手が入った都市、日本の文化のエッセンスに満ちた京都を描くことに逡巡していたという。結局、心を決めて京都へロケハンに出かけ、幾つかの名作を生み出すことになる。新しい東山魁夷ワールドを開くことになるわけだ。その旅の最後に描いたのがこの「年暮る」。町家の甍に深深と降り積む雪。晦日の京都は歩く人の姿もなく、わずかに町家の窓から漏れる明かりと、道路端に駐車する一台の車が、この静かな雪の大晦日を過ごす人々のこの町にあることを示唆している。町に漂う静けさ。こういう京都という町の描き方もあるのか、と。東山ブルーの極致である。ただよく見ると軒下の壁は青緑で描かれていて、雪景色と町家の甍のコンビネーションから来る雪あかりの町にほどよい引き締め効果を与え、全体に独特の落ち着きを醸し出している。東山魁夷は、この界隈の風景を描くにあたって江戸時代の与謝蕪村の描いた「夜色楼台図」に着想を得たのではないかと言われている。しかし、その構図には空もなく、山もない。ただ雪降りしきる町屋の甍が連なる光景が切り取られている。

 私も京都での定宿にしているホテルオークラ京都、かつての京都ホテル。その東山側の部屋からは賀茂川を隔てて東山一帯が展望できる。カメラのファインダーで覗くと、まさに「年暮る」に描かれた要法寺を含む町の一角を切り取ることができる。東山魁夷もこの旧京都ホテルの屋上(旧館)からスケッチしたと言われている。「年暮る」を見た途端、京都ホテルからの景色を思い出したのも宜なるかな。

 「年暮る」が描かれてから半世紀。今、同じ場所に建つホテルの窓から東山界隈を見回すと、川端康成がいみじくも予見した通り、京都はその伝統的な町の景観を失ってしまった。時代の流れと言って仕舞えばそれまでだが、東山魁夷が描いた京都の町屋のとうとうたる甍の波は消え去っていた。わずかに要法寺の甍にその痕跡を残すのみだ。東山魁夷は、川端康成が危惧したように家並みは失われても、この寺は残るのだろうと予想して画の上部に据えたのかもしれない。

 京都はその1200年の歴史の中で、度々の戦乱や災害で町が焼かれ、破壊され、荒廃した。しかし、その度に再建され、日の本のミヤコ、ミカドの住まう帝都として繁栄を維持してきた。そしてその伝統的な街並み、景観は、つい最近まで継承されていた。しかし、先の大戦(といっても「応仁の乱」ではないぞよ)で戦火に巻き込まれることもなく、生き残ったこの町が、平和と繁栄を謳歌した時代に、これほどまでに破壊されるとは。戦争も騒乱も人間のなせるワザであるが、カネで地上げするのも人間の業なのだ。物欲煩悩止まるところを知らず、か。



与謝蕪村「夜色楼台図」
1778年(安永7年)〜1783年(天明3年)頃の作品
京都賀茂川の西岸三本木町の茶屋から眺めた雪の夜景だとか。
しかし実際の風景を写実的に描いたのではなく、蕪村の心象風景を描いたのだろう。


2016年2月
夜景
一本の光の道は南禅寺参道

2016年2月
翌朝
東山三条は曇っている



2017年5月30日火曜日

「出島の三学者」 ケンペル、ツュンベリー、シーボルト


 江戸時代、長崎出島のオランダ商館に滞在した「出島の三学者」と言われたのが、ケンペル、ツュンベリー、シーボルトだ。ケンペルは江戸時代元禄年間、第5代将軍綱吉の時代、ツュンベルクは第10代将軍家治、側用人田沼意次の時代、シーボルトは第11代将軍家斉時代(在位50年という長期政権)とそれぞれ滞在している。ケンペルからツュンベリーは85年、ツュンベリーからシーボルトは48年という時間の隔たりがある。。

 三人の共通点は、医者であり植物学者であり、博物学者であるという学者繋がり。オランダ商館に医者が必要であったことは理解できるが、植物学者が派遣されてきたことには事情がある。もちろん薬草として有用な植物の研究、植物薬品学が医学と切っても切れない学問領域であったことがあるのだが、世界中から珍しい植物を集めるplant hunterが活躍する時代に入っていたという背景もある。貴族や富豪の間で、世界中の珍品植物を集めるコレクターがいた。そうした需要、パトロンがあって、「未開の地」で出かける植物学者への期待も高かった。オランダ東インド会社付きの医者というポジションへの応募も多かったのだろうと推察される。

 もう一つの共通点は三人ともオランダ人ではないという点だ。ケンペルはドイツ人、ツュンベリーはスウェーデン人、シーボルトはドイツ人である。したがってオランダ語はネイティヴではなく、オランダ東インド会社就職に際して事前語学研修してから長崎にやってきた。むしろ長崎の和蘭陀通詞のほうがオランダ語が綺麗で訛りがなかったらしい。通詞に最初は彼らがオランダ人では無いのでは?と怪しんだが、オランダの山岳地方の方言だと言って押し通したらしい。干拓地ばかりで山などないのに、オランダ本国を知らない日本人は、それ以上詮索しなかった。このようにヨーロッパは国を越えて人が自由に往来していた。特に世界に進出していた海洋帝国オランダにとって、海外要員確保は大事な課題だっただろう。その一方で世界に出て行こうとする野心を持った人間にとってオランダは魅力的だっただろう。国策総合貿易商社の先駆けである、オランダ東インド会社は人気の就職先だったに違いない。ちなみに1600年、オランダ船リーフデ号で豊後に漂着して、その後家康の顧問になった「青い目のサムライ」三浦按針(William Adams)もオランダ人ではなくイギリス人だった。

 三人の中では、シーボルトがあまりにも歴史上有名で、日本に与えた影響の大きさとともに、当時のヨーロッパ、アメリカに日本学を広めた功績についても様々な研究や著作、小説やドラマで紹介されている。したがってここでは、屋上屋を重ねるような説明を控えておこう。

 しかしケンペルや、ましてツュンベリーについてはあまり知られていないので少々紹介しておきたい。

 ケンペルはヨーロッパにおける日本学のいわば開祖と言って良いだろう。彼の残した「廻国奇談」「日本誌」は、江戸時代の爛熟期である元禄時代、第5代将軍綱吉のころの日本を俯瞰、分析した貴重な資料だ。日本でも江戸期より彼の残した著作の研究は進められているが、「知る人ぞ知る」で、シーボルトほどの知名度はないかもしれない。その「日本誌」(The History of Japan) は彼の生前には出版されるに至らず、死後、その原稿を入手した英国王室付き医官サー・ハンス・スローンによって英語版、仏語版、蘭語版が出版された。その原本は現在大英博物館に収蔵されている。またドイツ語版がドームにより出版(Geschichte und Bescreibung von Japan)された。このうちフランス語版がのちにディドロの百科全書に全面引用されるなど、その後の日本研究の「定本」となり、やがて19世紀のジャポニズムにつながってゆく。ケンペルの133年後に長崎に赴任したシーボルトや、163年後に来航したペリー提督も、この「日本誌」を事前に研究しており、彼らの歴史上に残した功績にも大きな影響を与えている。

 ケンペルはこの中で、将軍綱吉時代の対外政策(すなわちのちに「鎖国」と称される政策)について、肯定的に評価している。この記述が1801年に江戸の蘭学者志筑忠雄に紹介された。志筑は、この政策を「鎖国」という言葉を使って表現し、それが後に一般的に使われるようになったと言われている。ケンペル自身は「鎖国」という言葉を使っていないし、幕府も自らの政策を「鎖国」と称したことは一度もないのだが、この言葉が一人歩きしてしまったというわけだ。

 ケンペルは出島滞在中、商館長の江戸参府に2回同行して長崎から江戸まで旅をしている。この時の記録を邦訳したのが「江戸参府旅行日記」だ。将軍綱吉の前で「オランダ踊り」をやらされている様が挿画として紹介されている。

 一方の、ツュンベリーは、むしろ日本学や、日欧交流の歴史的な観点からの評価よりも、植物学者としての名声が先立っている。来日前、母国スウェーデンのウプサラ大学で世界的な植物学者リンネに学んだ。そのようなリンネの弟子で、当時のヨーロッパにおける植物学の気鋭の学者が鎖国下の日本、長崎まで赴任してきたところに興味を惹かれる。植物学者にとってそれほど日本は行ってみたい魅力的な国であったのだろうか。出島滞在中、梅毒の特効薬を用いて日本人患者の治療に劇的な効果を上げて、畏敬の念を持たれている。のちのシーボルトもそうであったように、蘭学、とりわけ蘭方医学の日本に与えた影響は計り知れないものがある。

 彼も出島滞在中一度商館長に同行して「江戸参府」している。第10代将軍家治治世、田沼意次が幕府内で権勢を振るっていた時代である。田沼は重農主義から重商主義へと政策転換を図ることに力を注ぎ、蘭学も奨励した。オランダ商館一行の将軍謁見も盛大に行われた。その時の記録である「江戸参府随行記」で、彼の記述はあまり私見や偏見を含まず、科学者らしい客観性を持って日本を観察した様子が見て取れる。ただ、江戸参府の機会以外は、出島から出ることが禁じられていたため、日本国における植物採集、植物学研究という観点からは、これ以上はあまり成果が期待できないと考え、一年で帰国を願い出ている。

 帰国後、彼はウプサラ大学教授にもどり、「1770〜79年にわたる欧州、アフリカ、アジア旅行記」(スウェーデン語版1788〜1779年)を出版。このうちの3巻4巻に記された日本の部分が、邦訳された「江戸参府随行記」である。
そしてウプサラ大学学長に就任するなどアカデミアとしての生涯を全うした。


 以下、三人の肖像と略歴を掲載する。


ケンペル肖像
実は確かなものは残っていない。
これは後世想像で描かれたという
英語版Wikipediaより



ケンペル:Engelbert Kämpfer (1651-1716)

ドイツ人の医師、植物学者、博物学者
レムゴー出身
1690年オランダ東インド会社医師として長崎に
この間2度江戸参府
1692年バタヴィア経由で帰国
ライデン大学より医学博士
1712年、「廻国奇談」出版
1727年、彼の死後ハンス/スローンにより「日本誌」英語、仏語、蘭語出版
大英博物館に収蔵









ツュンベリー肖像
長崎歴史博物館蔵


ツュンベリー:Carl Peter Thunberg (1743~1823)

スウェーデン人の医者、植物学者
ウプサラ大学で植物学者の泰斗リンネに師事
1775年、オランダ東インド会社医師として長崎に
1776年、江戸参府
同年、バタヴィアへ帰参
1779年、帰国、ウプサラ大学教授
1781年、ウプサラ大学学長就任

なお、日本語では彼のスウェーデン名Thunbergを「ツンベリー」「ツュンベリー」「テュンベルク」「ツンベルク」などと表記することがある。







シーボルト肖像
川原慶賀筆





シーボルト:Phillipp Franz von Siebold (1796-1866)

ドイツ人の医師、博物学者、植物学者
貴族/医者の家系に生まれる
1823年、オランダ東インド会社の医師として長崎来訪。
来日後間もなく滝と結婚、イネをもうける
1824年、鳴滝塾創設
1828年、帰国に際し難破。その際に禁制の日本地図を持っていたことが発覚(シーボルト事件)
1830年、国外追放
1859年、開国後、オランダ貿易会社の顧問として再来日(息子アレキサンダーと共に)
幕府顧問に
1862年、帰国







 東洋文庫の「江戸参府」三部作。

 シーボルト著、斉藤信訳「江戸参府紀行」
 ケンペル著、斉藤信訳「江戸参府旅行日記」
 ツュンベリー著。高橋文訳「江戸参府随行記」

 古書店めぐりでついに三部揃い踏みでゲットすることができた。どれも、ケンペル、ツュンベリー、シーボルトの世界周航旅行記や日本旅行記として後世、ヨーロッパ各国で出版されたものの中から、日本人研究者により江戸参府部分を抜き出して日本語訳したものである。シーボルト版はドイツ語版の翻訳で1967年斉藤信氏により初版が、ケンペル版はドイツ語版のいわゆるドーム本からの翻訳で1977年同じく斉藤信氏により初版が刊行された。さらにツュンベリー版についてはスウェーデン語ということもあり、1994年に、スウェーデン語に通じ、しかも薬史学の専門家である高橋文氏を得ることにより初版が刊行された。こちろん三人三様の日本に関する観察、分析、関心事、批判があるが、同じ長崎から江戸までの旅行記という横軸に、140年ほどの時間の経過を縦軸にとって比較しながら読むと面白い。

 ところでケンペルの「日本誌」の日本語訳は今井正編訳『日本誌 日本の歴史と紀行』(上下2巻)が1973年に霞ケ関出版より刊行され、その後、1989年に改訂増補版(上下2巻)、2001年に新版(7分冊)が刊行されている。ドイツ語のいわゆるドーム版を翻訳したものである。









2017年5月23日火曜日

大航海時代と日本 〜「長崎出島」は「鎖国」の象徴か?〜

 
ベランの「長崎の街と港」図
1750年
南北が逆になっている

日本の版画「肥州長崎之図」
1800年ころ
ケンペルの「出島の図」


 私の古書、古地図探訪の旅が終わらない。「時空トラベラー」は、古代倭国を飛び出して、大航海時代のジパングにも思いを馳せる。以前から探していた古地図、ベラン( Bellin, Jacques Nicolas)の「長崎の街と港」(Grundriss von dem Hafen und der Stadt Nangasaki)を入手した。1750年パリで刊行されたもの。プレヴォ(Antonine-Francois Prevost)が編集した「旅行記大全」(Histoire Generale des Voyages)の第10巻に収録されている。日本で言えば江戸時代中期、ヨーロッパ人が描いた鎖国時代の唯一の国際貿易港である長崎の都市地図だ。オランダ商館(オランダ東インド会社長崎支店)が置かれた出島がはっきりと描かれている。ベランはフランスの地図製作者で地理学者であり、水路測量技師でもあった。ベランは、長崎のオランダ商館のドイツ人医師、ケンペル(Engelbert Kaempher:1690〜92年日本に滞在)の「日本誌」(彼の死後1727年スローンにより英訳され出版)に含まれる長崎図を元にこの地図を作成したと言われている。ケンペルの原画に比べるとかなり簡略化して描かれているそうだ(上掲出のDejima図は1779年のいわゆるドーム版に収録されているもの。原画と同じものかどうかわからない)。日本の製作者による地図や浮世絵は見つけることができるが、ヨーロッパ人が製作したものはなかなか見つからない。

 今回は丸善雄松堂の古書カタログで見つけた。早速、丸善日本橋店のワールドアンティークブックプラザに問い合わせた。残念ながら現品は福岡店に展示されていて、しかも地元の大学から予約が入っているとのこと。しかし、より程度の良いものが2点入荷したと電話が入ったので見に行くと、一点は彩色が施された1752年のもの。もう一点が1750年の無彩色だが非常に程度の良いものであった。迷ったが無彩色版を購入した。以前から「長崎」、「出島」をキーワードに、ロンドンのセシルコート古書店街や、ニューヨークのマディソン街の古書店でも探したがなかなか見つからなかったものだ。探しているときはなかなか出てこないが、出るときは結構まとまって出るものだ。そしてやはり日本の古書店の方がこうした日本関連のものは見つけやすいのだろう。ペリーの「日本遠征記」を探していたときの時と同じ状況だ。



 なぜ「出島」が生まれたのか?

 誰もが知る通り、長崎は「鎖国時代」我が国唯一の対外貿易の窓口となった町である。徳川幕府の直轄地で、オランダと中国にのみに門戸が開かれていた。キリスト教徒(プロテスタントであるが)であるオランダ人は湾内に造成された埋立地「出島」に商館を置くことが求められ、キリスト教徒でない中国人は日本人と雑居していても構わないのだが、大浦の一角に居留地(いわゆる唐人屋敷)を置くこととした(現在の新地中華街周辺)。ベランの地図を見ても出島が特異な扇型形状の人工的な施設であることがわかる。また、出島の右となりの対岸には中国人居留地区(唐人屋敷)が描かれている。この出島こそ、江戸時代の対外孤立策「鎖国政策」のシンボル的なランドマークと捉えられている。なぜこのような施設が生まれたのか。その本当の意味は何か。古地図が投げかける「問い」に挑戦してみよう。そのためには少々、大航海時代にユーラシア大陸の西端のヨーロッパからはるばる日本にやってきた人々の歴史を振り返ろう。日欧交流の歴史だ。


 ヨーロッパと日本との出会い。幻想から現実へ

 ユーラシア大陸の西端にいたヨーロッパ人にとって、かつて日本はユーラシア大陸の遥か東端、中国の向こうの海中に存在する謎に満ちた「黄金の国」であった。「宮殿は全て黄金の屋根で覆われ、無尽蔵に金が取れる夢の国だ」と。その国の名は「ジパング」。このような「おとぎの国」像は、13世紀マルコポーロの「東方見聞録」に記された記事が元になっている。こうして「黄金の国」ジパング求めてヨーロッパ人の大航海時代は始まった。そういわれるほどのブームを巻き起こした。マルコ・ポーロはイスラム商人の助けを借りながら、陸路で中国元王朝の都「大都」に到達した。そこで彼は周辺国事情を聞き書きしたものと思われる。そのなかの特筆すべき国、それが東の海中にあるジパングである。彼は実際にジパングへ渡ったわけではない。全て伝聞による情報というわけだ。未知の黄金郷へという野望に駆り立てられた冒険者が次々と船出していった。こうして東回りでジパングに向かうバーソロミュー・ディアスやバスコ・ダ・ガマの航路に対し、西回り航路を開拓するしようとクリストファー・コロンブスのジパング/インド到達航海が実行された。1492年の新大陸アメリカの発見(現在のカリブ海西インド諸島サンサルバドル島上陸)!?コロンブスは最後まで自分はインドに到達したと信じていた。さて次はジパングだ!と。実際はインドまで到達する途中の大西洋と太平洋の間に横たわる新大陸であることがわかった。歴史上の大誤解の一つだ。やがて、探していた金が採れることがわかり、黄金の国、エルドラードはアメリカ大陸にあったと熱狂することになる。そしてだんだん「黄金の国ジパング」が幻想であることがわかってくる。

 その後、スペイン艦隊を率いたマゼランはその世界一周航海(1519〜22年)で、1521年にフィリピンに向かう途中ジパング島の近海を航行したが(航海日誌に記録がある)、寄って見ようともせず通過している。ジパング・パッシングだ。このころにはもはやジパング黄金伝説は幻想に過ぎないと考えられていた証左であろう。実際、16世紀初頭の日本といば室町時代後半。先の1467〜77年の10年にわたる応仁の乱で都は荒廃し、幕府統治能力が瓦解に瀕し、やがて戦国時代へ突入する時期である。そもそも資源に乏しく、農業生産力も(主として米であるが)自国の消費で手一杯。絹は中国からの輸入に頼る。銅銭や陶磁器も中国から輸入。金や銀や香料などの希少資源を求めて世界を徘徊する「大航海時代」の主役、略奪帝国主義者たちにとって「ジパング」はもはや魅力的な到達目標ではなかった。

 日本に最初に上陸したヨーロッパ人はポルトガル人であった。それは1543年(天文12年)種子島にやってきた。と言うより正確には「漂着した」。彼らはこのとき鉄砲を持っていたので、これが日本にとって、歴史の画期「鉄砲伝来」となった話は教科書にも出ている。鉄砲の伝来時期には諸説あるが、ともあれポルトガル人が意図せず「偶然」漂着し、期せずしてあのジパングとの交流が始まった。「おお!ここがあのジパングか!」と。しかし。これはポルトガルと日本の正式な外交関係、貿易関係の開始ではない。その後1550年ポルトガルのインド副王の使節が平戸にやってきて交易を求め、織田信長の庇護によりポルトガルとの「南蛮貿易」が始まった。

 次にやってきたのはスペイン人。すなわちイエズス会の宣教師フランシスコ・ザビエル一行だ。1549年(天文18年)鹿児島に上陸。もちろんカトリックを布教することが目的だ。上陸後、豊後府内(大分)や博多、山口などを経て都へと進む。大友宗麟などの九州の大名や都の織田信長などの新しもの好き権力者たちに受け入れられていった。もっとも彼らの直接的な関心はキリスト教よりも鉄砲や珍しい交易品の数々であった。ただスペイン国王はあまり日本との交易に関心を示さなかったようだ。国同士の交易に発展するのは、1591〜2年マニラからスペインの公式使節が来訪してからのことだ。これ以降、鎖国まで次々と渡来する宣教師に誘われる形で「南蛮人」が渡来する。

 やがてイエズス会宣教師の勧めで「天正遣欧少年使節」がローマに派遣された1582年(天正10年)〜1590年(天正18年)のことである。イエズス会の辺境の地の異教徒に対する布教活動の華々しい成果として。ローマ法王に謁見し、各訪問先では、珍しさもあって大歓迎された。あのジパングが、日本( Happon)となり、ヨーロッパ人が違った意味で大きな関心を抱くきっかけになった。このころの日欧交流の主役は「南蛮人」すなわちポルトガル人、スペイン人であった。「紅毛人」すなわちオランダ人やイギリス人が登場するのはこの後である。

 その次にやってきたのは、イギリス人ウィリアム・アダムズ。1600年(慶長5年)オランダ船リーフデ号の航海士として豊後府内に「漂着」した。のちの三浦按針である。徳川家康の外交顧問として日本に滞在し、士分に取り立てられ三浦半島に領地をもらった。同じくオランダ人ヤン・ヨーステン(のちの八重洲)も上陸。オランダとイギリスという新興国の人間がジパングに到達するようになる。そして彼らの情報に基づきやってきたのが、1609年、正式な国書を持ったオランダからの使節。家康から貿易朱印状を得て平戸に商館を開いた。最後に、1613年、ウィリアム・アダムスからの手紙に刺激されてバンタムのイギリス東インド会社からジョン・セーリスが平戸に来航。。国王ジェームス1世の国書を家康に奉呈し、平戸にイギリス商館を開いた。

 このように日本への来航時期を見ると、アメリカやアジアの他の諸国に比べ、かなり遅いことがわかるだろう。ポルトガル人の種子島漂着はバスコ・ダ・ガマのインドカリカット到達の45年後(正式な使節の来航は50年後)、スペイン人の日本到達は、コロンブスのアメリカ到達の57年後(正式な使節の来航は100年後)、マゼランの世界周航の75年後である。イギリスやオランダが遅いのは後発国であるから理解できるが、全体的に香料や金を狙って世界中を駆け回っていたポルトガルやスペインが半世紀遅れてようやく日本に到達したのは、それだけ日本への関心がなかったことの証左であろう。


 対日貿易を巡る競争と禁教令

 その当時、日本との貿易を牛耳っていたのはポルトガルである。彼らは中国(明)のマカオを拠点として、明と日本とポルトガルの三角貿易で巨大な利益を上げていた。すなわち日本の石見銀山の銀で、中国の絹や陶器などを買い、日本に輸出してまた銀を得る。そのマージンを取って利益を得るという商社的な貿易。これは当時、日明貿易が倭寇問題で停止(明国の鎖国状態)されていたという背景がある。その隙間を狙った旨みのある貿易であった。当初はマカオを拠点に活動していたが、やがて平戸、長崎に進出し、貿易量は拡大の一途をたどりポルトガルに莫大な利益をもたらした。それはポルトガル本国との貿易額を遥かに上回った。

 ここに割って入ろうとしたのがスペインから独立したばかりの新興国オランダだ。ポルトガルはこの頃すでにスペイン王の支配下にあったが、ブラジル植民地の獲得、メキシコやペルーからの金、銀供給も確保して繁栄を誇っていた。そこへこの明、ポルトガル、日本の三角貿易で高い利益率の商売が成功したわけだ。一方、イギリスやオランダは新興勢力としてアジアや新大陸(アメリカ)における交易参入、さらには植民地覇権に意欲を燃やしていた。ホームのヨーロッパにおけるプロテスタント勢力とカトリック勢力との争いもあり、旧勢力であるスペイン・ポルトガルとの争いが、アウェーである東洋にも飛び火した格好だ。この新興国の対日貿易進出競争は徐々に熾烈を極めることになる。

 一方、同じ新興勢力であるオランダとイギリスの競争はオランダに軍配が上がる。イギリスは、日本市場参入に失敗し、結局平戸の商館をたたみ撤退する。のちに再チャレンジする動きもあったが、ただイギリスはこののちアメリカや中東、インド、インドシナ、中国、オーストラリアと、七つの海に君臨するに広大な大英帝国を築き始めていて、徐々に極東の日本に手を伸ばす余裕も、インセンティヴも薄れていた。一方のオランダは、そうしたライバルの撤退という幸運も有之、何と言っても対日貿易の高収益は魅力的であった。こうして極東の日本との貿易を独占するインセンティヴも優位な立ち位置も併せ持っていた。

 やがてオランダは日本からポルトガルの追い出しを始めた。ポルトガルが築き上げた高利回りの貿易利権を奪おうというわけだ。徳川幕府も初期にはポルトガルとの貿易を認め、長崎の出島はポルトガル人が最初の住人であった。オランダは新教プロテスタントの国であり、そもそもスペインやポルトガルの旧教カトリック国とは対立していた。そこでオランダ人は、ポルトガル/スペイン人宣教師による「日本征服」謀略説の流布を始める。こうしたオランダの讒言により、幕府は1612年禁教令を出した。そこへ1637年にはキリシタンや農民の反乱である「島原の乱」が勃発し、オランダのプロパガンダの正しさを証明することとなった。幕府はますますキリシタン禁教に取り組むこととなる。1639年にはポルトガル船の入港禁止とポルトガル人の追放、と、いわゆる一連の「鎖国政策」を進めた。こうして幕府はポルトガルに代わりオランダをその統制貿易の相手に選んだ。ポルトガルはそれでも幕府に対して交易を認めてくれるよう使節を送ってきたが、幕府はこれを拒絶し、使節を処刑している。ついにオランダは対日貿易を独占することに成功した。もっともオランダにとってはかなり屈辱的な管理貿易(出島に押し込められ、年一回江戸参府を義務つけられ、将軍家に臣下の礼を取る、など)であったが、それを補ってあまりあるだけのメリットがオランダにはあったようだ。一方、幕府側から見るとオランダとの貿易量は中国との貿易量の半分程度であったが、量よりも文物・知識・情報の質を重んじたのであろう。


 こうして「出島」が生まれた。

 徳川幕府は長崎を唯一の国際関門港に指定して幕府直轄領とする。そして1634年から出島築造に着手し、1636年完成する。こうして湾内に人工的な埋立地を設け、周囲を壁で囲み、市街地とは一本の橋でのみ繋がる「出島」を設けた。その橋のたもとには奉行所を置いた。前述のように当初はポルトガル人がこの出島の住人であったが、禁教令以降一連の「鎖国令」によりポルトガルを追い出し、オランダ、中国(明、清)のみを貿易相手国に指定。1641年にはオランダ人(東インド会社)を平戸から移して長崎の出島に押し込めた。こうして徳川幕府は統制貿易体制を敷き貿易と海外情報を独占した。いわば「長崎出島統制貿易特区」の創出である。

 出島のオランダ商館長は幕府に対して海外情報を定期的に提供することが義務つけられていた。これが「阿蘭陀風説書」である。オランダ商館長は自国の貿易利権を守るために積極的にこの求めに応じた。当然オランダに都合の悪い情報は入っていなかったし、長崎奉行所の通詞も、内容を吟味しながら幕府の提出する情報を取捨選択していたようだが、海外情勢の把握/分析に役立つ貴重な報告書であった。徳川幕府は、これにより「鎖国時代」初期にはキリスト教の動きに、後期には西欧の近代化の動きに細心の注意を払った。一方で、オランダ商館によるオランダ東インド会社バタビアへの報告書や、商館付きの医者であり科学者であった、ケンペル、ツンベルク、シーボルト(出島三賢人と言われた)が歴代著した「日本誌」「江戸参府記」は、「鎖国」下の日本の事情を知る貴重な情報源となった。先に掲出のベランの「長崎の街と港」地図もケンペルの「日本誌」から引用したものだ。のちにペリーが黒船を連れて浦賀に来航する際には、ケンペルとシーボルトの本を買い集めて十分に事前準備してきた。シーボルトはペリーに書簡を送り、対日交渉への助言をしている。このあたりの事情は彼の「日本遠征記」に詳しく書かれている。

 この海外情報独占体制を通じ、徳川幕府は朝廷、諸大名に比べ、海外情報を一元的に入手することができた。江戸後期に至り、ロシア、アメリカの艦船が近海に出没するようになってからも、長崎を通じてその動きを事前に把握している。1853年の米国ペリー艦隊の来航も事前に把握し、準備を進めていた。幕末期に中国の清朝がイギリス始め西欧列強に侵略される様子も知っていた。朝廷はもとより、諸藩は海外情勢に触れる機会も無く、ただ日本近海に外国船が頻繁に出没する現実を目の当たりにして警戒心を抱くようになっていた。そういう中で、ペリーの黒船来航に驚愕し、翌年、幕府が締結した日米和親条約(開国)にショックを受けた。彼らは世界の情勢を十分に知るすべがない中で、現実が先行する状況であったわけで、幕府の対応を非難し「尊皇攘夷」を叫んだのも理解できる。海外情報に接していなかった諸藩は、幕末になって慌てて藩士を「長崎留学」に出したりして、キャッチアップを図ろうとしたが、幕府の情報優位性は圧倒的であった。ただ例外は、薩摩藩の琉球貿易、対馬藩の朝鮮通信(外交・交易)、松前藩の蝦夷交易があった。中でも薩摩藩は琉球貿易を通じて幅広い海外情勢に接する機会を持っていた。こうした体制を「鎖国」と呼んでいるが、実は「鎖国=孤立」とは限らない。

 そもそも「鎖国」という言い方が正しいのか、最近は議論になっている。具体的には1612年の「寛永異教令(禁教令)」や、1633年の日本人の海外渡航禁止・帰国禁止、1639年ポルトガル船入港禁止など、数次にわたって出された幕府の命令をまとめて「鎖国令」と称している。そもそも「鎖国」と言う言葉自体は、幕府が使っていたものでもなく、先ほどのケンペルの「日本誌」に出てくる第五代将軍綱吉時代の対外政策を記述した部分を、のちに江戸時代の蘭学者志筑忠雄が一言で「鎖国」と訳したことが始めだと言われている。上述のように「鎖国」下の日本においても、長崎という外世界へのウィンドウを独占した徳川幕府は、考えられている以上に正確に海外情勢を把握していた。「出島」というアイソレートされた埋立地が、「鎖国」すなわち「孤立」政策の象徴のように見られるのだが、現代のように自由貿易が原則であるグローバルエコノミーの時代とは異なり、近世においては国家や権力者が貿易を独占する管理貿易/統制貿易は珍しいことではなかった。「出島」をその象徴と見て、江戸時代を通じて「鎖国政策」により世界から「孤立」していた、と断ずるのは誤りであろう。歴史を「鎖国」か「開国」か、白か黒かという「二分法」で片付けることに等しい議論だと思うが如何であろう。


 そして「出島」時代の終焉へ

 このように幕府は海外の動向を、諸藩よりは正確に把握していたが、結局は倒幕へと時代は動くこととなった。これは徳川幕府が西欧列強諸国との対応に失敗したから、圧力に屈したからということでも、西南雄藩の方が世界に目覚めていて進歩的であったからということでもない。幕府崩壊の真の理由は別のところにあった。徳川政権は、西欧列強の資本主義、帝国主義的な動きを把握し、国家の近代化の必要性を十分認識していても、結局は、武士が農民を支配する「米本位」の農本主義経済、その統治機構である「幕藩体制」がすでにこうした時代のイノベーションに対応できない枠組みになっていた。徳川幕府主導の近代化を図ろうとすれば、自らの体制を否定するところから始めなけらばならない状況になっていた。端的に言えば、支配階級であるはずの武士を食わしていけなくなっていたからだ。その旧体制(アンシャンレジーム)の象徴である武家政権徳川幕府の打倒へと時代が進まざるを得なかった。倒幕を進めた西南雄藩とて、当初、藩主たちはアンシャンレジームの中での徳川家に代わる「政権交代」と捉えていた嫌いがある。「いやそうじゃない」と気づいたのは倒幕推進の若い下級武士たちであった。自分が所属する(ないしは出身の)藩を含む幕藩体制こそ打倒の対象になっていった。もちろんそのきっかけを作ったのは西欧列強の日本への外圧であったことは間違いない。そして世界に開かれた長崎がそうした「草莽崛起」の若者たちが集まる中心都市になったことは不思議ではない。

 だが一方、平安時代末期の平清盛以来、750年続いた「武家による統治」の仕組みを変えるのは大変なことであった。長年続いた「統治権威は朝廷」「統治権力は武家」という二元統治体制は半ば「日本の美風」ですらあったわけだから。徳川幕府も最後には「大政奉還」すなわち統治権力を天皇に「お返しする」ことで「美風」を守ったわけだ。しかし、徳川家が「政権を返す」だけではことは収まらない。徳川家に取って代わる「武家」の統治者が出てきたのでは革命的ではない。同時に諸大名も「藩籍奉還」しろということになる。要するに武家の世の中は終りだとわからせる仕組みが必須であった。天皇を中心とする統治体制の復活を宣言する。すなわち「天地開闢以来、日の本は天照大神の皇孫、天皇が支配する国」であるという「あるべき姿」を思い起こさせること。その原点に帰る「尊皇思想」以外に永年の武家政権を終わらせるイデオロギーはなかった。そこに1200年前の古代律令制の仕組みを持ち出して「王政復古」を唱えなければならなかった理由が有る。その1200年前の古代統治体制の復活と19世紀的国家の近代化が一体となった明治維新(Meiji Restoration)の姿がある。

 ペリー来航、日米和親条約締結の翌年、1855年、日蘭和親条約が締結され、その翌年には「出島開放令」でオランダ人の長崎市内への出入りが自由となる。1859年、出島オランダ商館が閉鎖され200年余の歴史に幕を閉じた。こうして歴史的な役割を終えた出島は明治期に徐々に周囲が埋め立てられ、島ではなくなってしまった。最近、この出島自体とそこにあった建物などの復元作業が進められている。



復元された出島跡

出島の外壁も復元された

出島の外周部。右側は海が埋め立てられた部分

再現されたオランダ商館内部






明治になってから建てられた長崎内外クラブ(左手)と出島神学校(右手)

 以下、「長崎歴史文化博物館」収蔵の阿蘭陀絵図(川原慶賀作)から。200年余にわたる出島のオランダ人の存在は長崎に独特の文化を生み出した。