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2012年10月26日金曜日

Leica Mという画期 〜MはやはりMなのか?〜

 今年10月のケルンでのフォトキナで、遂にライカM9の後継機種が発表された。M9の後継だから、「M10」だろうという大方の予想に反して、製品名は「Leica M」。これからはいちいちMの後に番号入れないで、「Leica M」に統一するのだそうだ(ちなみにType240という製品番号が付与される)。銀塩カメラMシリーズが初代のM3からM7で終わるまで50年かかっているのに対し、デジタル製品の商品ライフサイクルがどんどん短くなってきているので、これからの新製品リリースサイクルは(さすがのドイツメーカーであったも)短くなることを想定しているのか?
このLeica Mは2013年の初旬にいよいよ市場にリリースされるとの事だ。




(ボディーはシルバーとブラックペイントの二種。サイズはM8やM9と変わらない。液晶モニターが3.0型で大きくなり,ボディー背面の限られたスペースにかなり無理にはめ込んだ感がする。)
(写真はライカ社のホームページから引用)

さて、このLeica Mの特徴であるが、ライカ社のホームページから引用すると、

- 新開発の撮像素子による優れた描写力
- 新たにライブビュー機能およびライブビューフォーカス機能を搭載
- ライブビューでのピント合わせをサポートする「ライブビューズーム」機能と「ライブビューフォーカスピーキング」機能を搭載 
- 「ライカ RアダプターM」(別売)を装着することにより、ほぼすべてのRレンズをライカMで使用可能
- フルハイビジョン(1080p)動画撮影機能を新たに搭載
- 最高ISO感度が6400へ向上
- 高精細な92万ドットの3.0型液晶モニター、カバーガラスにはコーニング社のゴリラガラスを採用
- 高性能な画像処理エンジン「LEICA MAESTRO®」
- ほこりや水滴や湿気からボディを護するために、施された特殊なラバーシール
- 長時間撮影可能なバッテリー
- 評価測光、スポット測光
- より快適な操作性

すなわち、これまでのフルサイズCCDセンサーからより高精細な2400万画素フルサイズCMOSセンサーに変更し、画像処理エンジンをSシリーズにも実績を有する「LEICA MAESTRO」に。撮影素子の供給はこれまでのKodak社から,CMOSIS社に変更になった。ローパスフィルターレスは継承されている。ライカらしい画造りが期待される。

そして、一番の売りは、ついにライブビュー機能と、ライブビューによるフォーカス機能(これをアシストする拡大、フォーカスピーキング機能つき)を導入したことだ。さらにフルハイビジョンの動画撮影機能も追加した。これに伴い、これまでのM8やM9についているオマケのような見劣りのする液晶モニターを、高精細かつ大型の液晶モニターに変更した。また、オプションとしてアクセサリーシューに外付けの電子ビューファインダー(EVF)を装着可、とした。これらの機能追加とボディーレイアウト変更に伴い,操作系にも変更が見られる。

ライカ社も時代の流れには逆らえないのか,というのが正直な感想である。ただ、これは要するに(皮肉な言い方で恐縮だが)これまでのM8、M9のような、銀塩フィルムの代わりにCCDセンサーを撮像素子として詰め込んだ、極めてプリミティヴな「レンジファインダー式デジタルカメラ」から、やっと、ほとんどの日本メーカ製の「今のデジタルカメラ」並になった、ということだろう。カメラのデジタル化の進歩としては極めてスピードが遅いというか、保守的な印象だ。もちろんニコンやキャノンなどのデジタルハイエンドカメラとライカを単純に比べるのはセンスに欠けるとは思うが、しかし、ここまでライカも「デジタルカメラ度」が進むと、だんだん比較せざるをえなくなる。

CMOSセンサーは、今や日本製のハイエンドデジカメはほとんどが既に導入済み。画像処理エンジンもソースは日本の某リーディングカンパニーのものらしい。ニコン、キャノンのハイエンド一眼レフデジタルですら、ライブビューは定番機能となっている。まして,液晶モニターはようやく普及機並のサイズと精細度になった(これまでがショボ過ぎた)。外付けのEVFに至っては、Leica X2用のものを流用するという。しかも,オリンパス製らしい。どうも,削り出し真鍮をまとった金属Mボディーにプラスチック製の外付けファインダー付けて、「Electronic Vissoflex」などと称しているのは笑ってしまう気もする。今ならなぜFujifilmのXシリーズのようなEVF/OVFのハイブリッドファインダーを搭載しなかったのか?

さはさりながら、ここまでデジタルカメラ化が進むと、誰もが思うのが「これはLeica Mといいながら、もはやLeica Mじゃないじゃないか?」ということ。ライカ社の自慢の光学式レンジファインダー。その故にM(ドイツ語のレンジファインダーを意味する)を冠した光学レンジフィンダーカメラLeica M。ニコンやキャノンが、ついに追いつけず、諦めて一眼レフに方向転換したあのレンジファインダーカメラの頂点。しかし,今こうなったデジタル「Leica M」に、わざわざ光学レンジファインダー付けておく必要があるのか? フォトキナでのジャーナリストの質問に、「無くして欲しい,という声は無い」と開発者は答えたという。

何とも「Mの存在理由である20世紀前半の最先端技術にこだわり、その上に21世紀前半の先端技術を接ぎ木した、あるいは前世紀の技術革新のクラウンジュエルを残すとコウなった」というような。ここまで来たら、そろそろ20世紀的な「M」から21世紀の「D」(Digital)にシリーズ展開しても良いのではという気がする。多分しないだろうなライカ社は...

一方、保守的なライカファンからは、ライブビューや動画機能追加にかなりのブーイングが出ているようだ。なんとなく理解出来る。これに対するライカ社の答えは、「だからLeicaM-E(M9の廉価版)を同時に出した」と。答えになっているのかな? 一方、フィルム用Mカメラの製造は既に終了しているが、熱烈なファンのために若干ながら注文生産しているらしい。しかし、フォトキナでのジャーナリストの質問「ライカ社は最後のフィルムカメラメーカーになるのか?」に対し、開発責任者は「いや、最後のフィルムカメラメーカーはロモだろう(笑)」と切り返したという。やはりオールドライカは消え行くのみか。

私のようなシロウト趣味人にとっては,こういう面白い(というか、過渡的な)立ち位置のカメラがあってもいいと思う。商業的に成功するのかどうかは別問題だが。もっともM9やMPは商業的には成功したようで、既に投資回収出来たので、後継機種開発に向った、というのが会社側の説明である。

個人的には、このLeica Mは、実機をまだ観てもいないし,触ってもいないが、何となくこれまでのデジタルM8、9の完成度から想像出来るような気がする。おそらくニコンやキャノン、富士フィルム製に比べると,まだ中途半端な「ううン,イマイチ、隔靴掻痒...」的な。デジタルカメラとしてはまだ最新のレベルに追いついていないいんじゃないか。少なくとも価格に見合うだけの機能を実現しているか。言わせてもらえば「外付けEVFなんて止めてくれよ,今更... ミラーレスやコンデジじゃあるまいし。」また個人的には動画機能はいらない。

しかし,それでも素晴らしいライカレンズ資産をフルサイズでより使いやすくなるのは大歓迎だ。大型液晶モニターでのライブビュー撮影が出来るのは大きな進化だと思う。さらに、アダプターを介してRレンズを使用出来るのは嬉しい。眠っていたR資産の活用が期待出来る。もちろん、より高画質、高速処理、高機能であるならばそれにこした事は無い。正常進化である。今までの何とも言えないフラストレーション(イマイチ感)を少しでも解消してくれる事を期待する。さすがに,ライカだから許される、とか、使い手がカメラに合わせる事を期待する、とか、所有欲を満足させるブランド品だから、とかはもはや通用しない。価格に見合った実用品としての道具の使い勝手や質が向上するならば歓迎だ。

新製品LeicaMの発売は2013年初旬と言われている。多分,フォトキナバージョン(?)よりは少しはブラッシュアップされて市場にデビューするのだろうが、大きく仕様が変更される事はないだろう。新製品が出る前からこんな事言うのもなんだが、願わくば(多分次の製品では、かな?)、富士フィルム社製のXシリーズのような、ハイブリッドファインダーを搭載して欲しい。さらに、光学式レンジファインダーの限界から来る、Mレンズの最短撮影距離0.7mの呪縛から解放して欲しい。ましてオールドMレンズの最短撮影距離1mなどという「超老眼レンズ」は、さすがにライブビュー,あるいはEVF時代には古さを否めない。ちなみに、Fujifilm X-Pro1やSony Nex 7用に、ヘリコイド付きのサードパーティーレンズアダプターが出ている。これは泣けるほど嬉しい。オールドズミルクス50mmや35mmで近接撮影が出来るんだ(涙涙涙)。そのボケ味の美味しいコト。

ライカ社のように、保守的なユーザを大勢抱えて、しかもブティーク型の(ニコンやキャノンや富士フィルムなどの大会社に比べて、だが)のブランド品メーカにとって、技術イノベーションだけが、顧客を満足させるものではないし、会社の立ち位置を明確にする依って立つべきものでもない事は理解出来る。また、マス市場に進出して事業規模を拡大する事だけが株主の利益になる訳でもないだろう。まして利幅の薄いコモディティープロダクトは、製造コストの安いアジアの新興国にまかせておけば良い。会社経営のゴール、ビジョンという視点からも面白い会社だ。成功を祈る。

もちろん,先述のように、LeicaMシリーズをM3から使用し、コレクションしてきたマニアの視点からも,60年のMの歴史に画期となる新製品のリリースにはワクワクする。「デジタルカメラ度」が増すにつれ「ライカらしさ」は薄れて行くのだろうが、商品としてのカメラにとって、なにが「合理的」な答えなのか、それを考えさせられる不思議なカメラ、ライカ! 今後は,日本製デジタルカメラを追いかけるだけではなく、ライカならではの、ユニークで使い手を納得させる新しい価値を提示してくれる事を期待したい。



(ファインダーのブライトフレーム用採光窓は無くなり、M9チタン限定モデル同様LED照明方式に。ブライトフレームセレクターレバーも無くなった。ライカの赤ロゴマークが大きくなって真ん中に。)



(白いMのロゴと赤いライカバッチが目立つ。好みの分かれるところだ。M3などにあったフィルムリワインドレバーの位置に、ピント合わせボタンが)





(ハンドグリップにフィンガーループ(M9チタン限定モデルから採用)。これは意外に使いやすい。RレンズマウントアダプターにRレンズ、そして外付け電子ファインダーを装着するとかなりものものしいイデタチになる)


2012年10月24日水曜日

「くにのまほろば」ヤマト世界を見渡す ー龍王山登山ー

 以前から山辺の道を歩くたびに思っていたのは、その背後にそびえる龍王山に登れば、きっとヤマトが一望に見渡せるだろうなということ。ヤマト世界のランドマークになる三輪山が一番いいのだろうが、ここは聖なる山なので、入山するには三輪神社の許可を貰い、さらにいろいろ制約がある。まず写真を撮ってはいけないので、ブラパチ写真家の私にとってはなかなか辛い。だから隣に連なる龍王山が撮影にはベストだ。何時か登ろう、と。

 龍王山は,山辺の道の長岳寺、行灯山古墳(崇神天皇陵)の東にそびえる586mの山である。奈良盆地をグルリと取り囲む大和青垣の一つで三輪山に隣接する。邪馬台国近畿説に立てば、ちょうど卑弥呼の居たと言う邪馬台国の背後にそびえる山と言える。

 秋晴れの好天の週末、とうとうこの山に登ることが出来た。予想通りの素晴らしい展望である。まず、眼下には崇神天皇陵、景行天皇陵などの6世紀頃の大型古墳、三角縁神獣鏡が大量に出た黒塚古墳など大倭古墳群が。さらには卑弥呼の墓ではないかと言われる3世紀の箸墓古墳が見える。正面には二上山がそびえ。そのやや北の山稜の途切れるところに竹内街道の穴虫峠。さらに右(北)には信貴山、生駒山。左(南)に眼を転ずれば1000m級の葛城、金剛山を背景に、大和三山が展望出来る。まさに大和国中を一望出来る位置だ。

 龍王山登山には二つのルートがあるが、今回は崇神天皇陵脇から登るルートをとった(もう一つは長岳寺から登るルート)。途中、龍王山古墳群を抜ける。山道沿いに古い玄室が確認出来る古墳が一基あるが、ほとんどの古墳は鬱蒼とした森林の中に埋没してしまっていて視認する事はできなかった。6ー8世紀頃の横穴古墳が800基ほどあるそうだが、ほとんど調査が行われていない謎の古墳群。

 山道は、標識は整っているものの、結構なガレ場続きで歩くのに難儀する。しかも途中休憩するところも無いので意外に苦戦する。ゼイゼイいいながらやっと長岳寺奥の院の道標まで来た。しかしそれらしき堂宇も見当たらない。不動明王の石像といくつかの石碑が木立の間に見えるだけだ。

 さらに1キロほどで、4キロの登山道を上り切る。田龍王社まで来ると、何の事は無い、狭いながらも舗装された車道があって車で登ってきている人がいる。近郊登山によくある事だが、正直かなりガッカリする。格好はイッチョマエの山ガール達がキャーピーキャーピー車から降りてくる。「オーマイガット!」 逆に、山ばあちゃん(失礼)と山道ですれ違い、「こんにちわ」の挨拶を交わしたが、そのカクシャクとした姿に励まされたりもした。

 山頂は中世の龍王山城遺構となっており、南城と北城に分かれる。北城の方が広いが、南城の主郭跡が三角点のある龍王山山頂だ。ここからの展望が先述の通り素晴らしい。龍王山城は戦国時代に地元の豪族十市氏によって築かれた山城で、その縄張りは高取城を上回る広大なものであったという。しかし今はその面影を見つけようにも明確な痕跡が見当たらない。石垣などもほとんど残っておらず、高取城のように幕末まで続いた城じゃないので、遺構は自然に帰してしまっているのだろう。

 山頂から奈良盆地を見下ろすと、卑弥呼の神殿跡ではないかと言われる纒向遺跡は、ちょうどこの龍王山と三輪山を背後に、西向きに二上山の方向の東西軸に位置づけられている事がはっきり確認される。弥生時代末期から古墳時代、飛鳥時代の古代倭人の世界観が手に取るように分かる。この見渡せる範囲内の奈良盆地の中で宮都が転々と遷り、飛鳥古京、藤原京を経て平城京へと北上して行く。そして主要な豪族や渡来系の氏族の本拠地はこの盆地を取り巻く山々の麓に点在している。まさに「ヤマト」(山処:やまのあるところ)にムラ、クニがあった。

 ギリシャのデルフォイ神殿や、古代ローマのフォロロマーノ、中国の長安城のような空気とは異なる、まことにこの視野の範囲内の、山々に抱かれた自然の箱庭のような世界が古代ヤマト世界だったのだと。自然を征服するのではなく自然の中に「生えている」(共生している)姿が古代ヤマトだった。そして、外の世界とはあの二上山北の山稜の途切れる峠道のむこうの、難波、瀬戸内海、チクシを通じて繋がっていたのだと。これが此岸「国内」、彼岸「国際」二元論の原点かと。

 足下の悪い山道を下山し(途中で滑って転び、大事なニコンのズームレンズを岩にぶつけて壊してしまった。しかし本体のカメラボディーは傷がいくつかついたものの堅牢そのもの。さすがDurable, Dependable Nikonだ。)、山辺の道から二上山に沈んで行く太陽を観ていると、自らが感じうる自然の摂理に恐れ敬い、仏教伝来後には、西方極楽浄土を憧れた、古代倭人の宇宙観を感じる事も出来る。「やまとはくにのまほろば」とはこの姿,佇まいを歌ったものなのだ。


(撮影機材:Nikon D800E、 AF Nikkor 24-120, AF Nikkor 80-400、下山途中に滑って、転倒し24−120ズームレンズを壊してしまった。)


大きな地図で見る
(アクセス:JR桜井線(万葉まほろば線)柳本駅下車。柳本の街を通り抜け、崇神天皇陵から登るルートと長岳寺から登るルートがある。約4キロで山頂へ。)

2012年10月16日火曜日

秋のニューヨーク アート散歩 ー アート表現手段を我らの手に!ー

 今年の秋のニューヨークツアーは、私達夫婦にとってなかなかにノスタルジックな出来事であった。思いがけないところで思いがけない人にばったり出会ったり、旧友の家族とリラックスしたディナーを楽しんだり、昔の職場の仲間が集まってくれたり、ニューヨークが私にとってかけがえの無い故郷になっている事に改めて気付かされた旅であった。もちろん結婚してこちらで暮らしている娘夫婦に会えるという事が,13時間の飛行という長旅にもかかわらず、旅立ちを決断させる最大のインセンティブである事は間違いない(妻にとっては特に)。

  また、今回のニューヨークへのショートトリップはアートな旅でもあった。フォトグラファーとしての活動に取り組んでいる娘夫婦が参加している、The New York Art Book Fair 2012がちょうどLong Island CityのMOMA PS1で開催されていており、彼等の案内でツアーを楽しむことが出来た。写真やデザインや絵画そのものだけでなく、写真集や画集、デザインブックといった「本」がそもそも,新しいアート表現となっていることに気付かされる。特に最近のトレンドになっているZineやSelf publishing作品が数多く出展されており大変興味深い。

 IT(Information Technology)の発展、とりわけ、PCやスマートホン、安価で高性能なデジタルカメラ、高精細インクジェットプリンターといったデバイスや、高速インターネット、ソーシャルネットサービス(SNS)、デスクトップパブリッシング(DTP)、ストーレージサービス、クラウドサービスなどの技術とサービス、その可用性(availablity)が急速に発達したことが、こうしたトレンドに拍車をかけている事は間違いない。

 例えば、今までは写真家が写真集を世に出すためには、出版社にまず認められなくてはならなかった。出版は大変にコストのかかる「事業」であった。つまり、平たく言うと、出版物として商業的に成功する作品のみが世にでる。このため、学生や写真を志す若手や、私のようなシロウトフォトグラファーの数多くの、ユニークな作品や表現が世の中に知れる事はまず無かった。インターネット基盤とした、いわゆる「ネット」がこうした、いわばロングテール作品を数多くの人々に観てもらう新たな媒体となった。いこのネットがマーケティングの世界でロングテール市場とロングテールニーズをマッチングさせる媒体となっている事は世に知られているが、これはこうしたアートの世界でも同じ事。出版社や新聞や放送のような一方通行のマスメディアに対する、インターネットそれをベースとした双方向型ソーシャルメディアが生まれたインパクトは大きい。そこではあらゆるUser Generated Contentsが主流になる。あたらしい表現者が新しい表現を自由に発表し流通させる事が出来る。

 こうなると、アートブックやフォトブックは、廃れるどころか、ますます表現者の手に戻ってくる。それがZineであったりSelf Publishingであったり、Digital Fotobookであったりする。また、さらにはその最終成果物だけでなく、その制作過程にある、校正版やアイデアノートのような物がまたアート表現の一つになる。この世界の伝道師、Victor Siraは、これを「book dummy」と呼んでいるが、これがまた面白い作品だ。これまでの出版概念では絶対なかった。

 このようにメディアを表現者の手に取り戻し、多様な表現手段を駆使する新しいアートの世界が広がっている。こういう表現手段にあらたな価値が見出されてきている。これは、ネットでのいわばバーチャル世界の表現と,自作の印刷物となり、書店店頭に並ぶという、リアルの世界での表現が共存する事を意味している。そのインタラクティブな関係性がまた新たな表現世界を生み出す。

 そして、意外に日本では知られていない事は、日本はこの分野では先駆的なのだということ。しかも、こうしたアートシーンは東京ばかりではなく,京都や福岡といった特色ある地方都市での活動が注目されてきているということ。今回のNY Art Book Fair 2012でも福岡の若者達の作品と活動が取り上げられていた。また、去年秋、金沢の21世紀美術館を訪問した時には、Zineの特別企画展が催されていた。アートの「地方分権」は当然なトレンドだろう。世の中に認められるためには東京へ出て、メジャーデビューしなくては,というモデルは前世紀的なモデルになりつつある。

 かつて、生産手段を労働者の手に取り戻し、自由を我らに、富の再配分を公平に、というカール・マルクスの主張は、21世紀になってもまだ実現出来ていないが、表現手段をアーチストの手に取り戻し、自由な表現、表現機会を公平に、は実現に向けて着々と進んでいる。テクノロジーイノベーションがアートイノベーションを生み出している。

 もちろんアーティストが商業的に成功して生活が豊かになるかどうかは、別の問題である。しかし、これも新たな事業モデルが生まれつつある。Google やAppleが提供する「プラットフォーム」がロングテール市場ののビジネス革命を引き起こしている。音楽におけるCDや、ビデオのようなパッケージメディア、書籍,雑誌や新聞、テレビのようなオールドメディアが、その事業モデルの大きな変換点に立たされている時に、こうしたネット文化がビジネスに大きなインパクトを与えている事は間違いない。テレビでやっているから素晴らしい。大手出版社から出されている本だから面白い、有名人だからスゴイ、という与えられた一方通行の評価基準ではなく、自ら発信者であり受け手でもある「我々」が持つべき価値の評価基準にもイノベーションが求められている。マネーはそれについてくる。それがビジネスモデルイノベーションだ。

 こうしてニューヨークの街を歩いていると,この街にはそこここにアートが潜んでいる。ともすれば観光案内や絵はがき的になりがちな風景や、街の佇まいを,自分なりの視点で写真に切り取ってみる楽しみが増えた。私のようなシロウトフォトグラファーにとって自分なりの表現手段を獲得出来るという事、そしてそれを大勢の人々に観てもらうことが出来るという事は,とてもワクワクドキドキする。

NY Public Library 特集のNYC Subway車内
一瞬、どこにいるのか混乱してしまうほどだ...




(撮影機材:Fujifilm X10, X-Pro1, 35mm, 18mm,60mm Macro.このセットは街歩きのベストパートナーだ)

2012年10月12日金曜日

Narita-JFK Flight   Is 13 hours flight boring? 

 成田/JFK間の飛行時間は約13時間。米国法人の社長をやっていた時を含め、出張でプライベートで東京/ニューヨーク往復を何度やった事か。もっぱらANA便を利用するフリークエントフライヤーだ。別にANAになにか義理がある訳ではないがマイレージプログラムのせいだ。それと後発で国際線市場に参入した,という点でなにか共感するところもあった。ANAのニューヨーク便初フライトにも搭乗した。

 ANA10便は成田を午前11時に出発。飛び立つとすぐに太平洋に出る。水平飛行に移ると食事(何メシなのか不明だが)になり、やがて窓の外は暗くなり、カムチャツカ、アラスカ上空では真っ暗になる。そしてカナダ上空ハドソン湾あたりから夜が明け始め、五大湖上空にさしかかる頃にはもう着陸準備だ。ほとんどが地球の夜の時間を飛行する。明け方のカナダ上空の光景は美しい。同日の午前10時半頃JFKに着陸だ。日付が戻るので得をするが、その分一日が長い。

 逆にJFKからは、ANA9便は午後12時半に出発。マンハッタン、ウエストチェスター郡、ハドソン川に架かるタッパンジーブリッジ、コネチカット州グリニッチを見下ろしながら、やがてカナダのハドソン湾上空にさしかかる頃までには昼食が終わる。窓の外はいつまでも明るい。機内は睡眠をとる人のために窓のシェードを降ろさせられるが、実は成田到着まで,地球の真っ昼間を飛行する。翌日の午後3時半頃成田着だ。逆に一日損をするが、その日はすぐ寝る時間になる。

 偏西風、ジェットストリームの影響で西向きに飛ぶ成田方向の方がJFK方向よりもやく一時間強余分に時間がかかるが、いずれにせよ12〜3時間の長い長いノンストップフライトだ。以前は(1980年代初頭まで)は、ニューヨーク便もロンドン等の欧州便も、この大圏コースを取る場合は、必ずアラスカのアンカレッジでワンストップして給油していた。眠い中降ろされて、トランジットロビーでボーッとするしかなかった。外は凍てつく寒さだが,青空。マッキンレー背景にダイアモンドダストが眼にしみた。あとロビー内の立ち食いうどんと仁王立ちの北極熊の剥製がアンカレッジ空港の名物だった。

 もっとも,さらに昔(1950年後半)、父母達の旅は、羽田からJALのDC6プロペラ機で、ウエーキ島、ホノルルで途中給油しながらサンフランシスコまで飛び、そこから国内線に乗り換えミネアポリス経由でニューヨークへ、という24時間以上の長旅であった事を思い起こせば、13時間なんてどうという事も無い。当時の博多/東京間の寝台特急あさかぜ、さくら、みずほ、はやぶさ、がだいたい14時間ほどであった。

 話を戻して。しかし、私にとってこの時間はとても貴重で,ある意味忙しい時間だ。もちろん出張の時は、資料に目を通したり、会議原稿やメモを作成したり。機内で無線LANによるインターネットが利用出来た。これは良かった。この飛行時間と時差を有効に使えるからだ。メールを読んだり、返事を送ったり。ウエッブで検索したり。しかし、これで私の部下はかなり迷惑したようだ。ボスが出張で飛行中の13時間はは静かな時間であったはずが、その間にもメールが飛んでくる... もっとも、逆に機内からも衛星電話がかけられるので、私の東京のボス(S社長)の秘書からのメールで、電話しなくてはならない事もたびたび。やがて、いつの間にか機内無線LANサービスは無くなった。社員の苦情が原因だったのか? ちょっと残念だ。

 もちろん機内での過ごし方は,こうした仕事がらみばかりではない。食事も大事。映画も見たい。CAさんとの他愛のない会話も楽しい。したがって、あんまり寝ている時間はない。人によっては、機内で寝れたかどうかが重要と考える人もいるが,私は、ニューヨーク行きは朝着くので、少し仮眠出来ればいい。東京行きは夕刻着くので全然寝なくてもいい、という風に考えている。

 今回みたいにプラーベートな旅ではなおさら。機内で何をしようかわくわくする。このフライトでは、日頃見たいと思いながら、なかなか見る時間がなかった映画「Red Cliff」を鑑賞した。前編、後編あわせて5時間になるという超大作だ。こういう長時間フライトの機内でないとなかなか見れない。そしてこういうエンターテイメントが入ると、あっという間に13時間は経ってしまう。

 ジョン・ウー監督の「Red Cliff(赤壁)」は三国志のクライマックスである赤壁の戦いを題材とした映画。これをニューヨークへ飛ぶ機内で見る醍醐味は格別だ。時代は3世紀初の後漢朝末期。魏呉蜀が覇権を争う三国時代へと遷りゆく戦乱の時代だ。東海に浮かぶ倭国でも、倭国大乱を経て、邪馬台国の卑弥呼が魏に朝貢し、親魏倭王の印を親授された、と魏志倭人伝に記されている。
 
 主人公は後漢の丞相曹操(後の魏の創始者と言われている)、蜀を建てる聖君子劉備、その軍師諸葛亮孔明、そして呉の始祖孫権。この三人が覇権を争う物語りである事は言うまでもない。史書としての「三国志」は、後の晋の時代になって(晋は魏から政権の禅譲を受けたとされている)の陳寿が編纂したものだ。日本について記述された最古の歴史資料である、いわゆる「魏志倭人伝」の編者として知られているあの人物だ。比較的丹念に信頼出来る事実を拾い集め編纂された国史として後の世に評価されている。

 一方、庶民に人気のある物語り、三国志は、こうした史実をもとに後世に創作された「三国志演義」がベースになっている。もちろん物語りを面白くするための脚色がいたるところにちりばめられており、時代考証についてもおおいに異論があるわけであるが、英雄伝として現代まで親しまれている。

 話の軸は、悪玉:曹操と、善玉:劉備の戦い。劉備の稀代の名軍師諸葛亮が、孫権との反曹操同盟を成功させる。関羽や趙運、張飛といった伝説の英雄達が登場する壮大な軍記物語りだ。客観的な史実よりも,ワクワクする物語りの方が人気があるのは洋の東西を問わず同じだ。

 この映画「Red Cliff」も、この伝統的なシナリオに沿った筋立てとなっており、諸葛亮と名コンビとなる、劉備の総司令官周瑜とその妻小喬。それに懸想して略奪を狙う曹操。女だてらに敵地に乗り込み大活躍し悲恋に泣く劉備の妹尚香、といったヒロインの登場人物も物語りに色どりを添えている。諸葛亮役の金城武が好演している。いいな。そして、いよいよクライマックスの赤壁の戦いを迎える。壮大なセットと見事なカメラワーク。

 と、面白くてあっという間に時間が経ってしまったが、この中国映画もアメリカ映画同様、スペクタクルなスケールとするために使った「カネ」と「火薬」の量は半端でない。しかも、殺される人の数もハンパでない。戦いの中で虫けらのように人の命が扱われ、映画の部材として消費されて行く。使われた火薬の量に比例しての死屍累々にはうんざりした。

 映画の時代考証は、かなり脚色があって史実には必ずしも即していないだろう。しかし、奴国、伊都国や邪馬台国や、これらと争っていた狗奴国が名を連ねる倭国の時代でもある3世紀初頭。その同時期の中国大陸で、このような大規模な戦いが繰り広げられ、使われる戦術、武器、軍船、砦、衣装、食事、楽器、茶道等の大道具、小道具を見るとその素晴らしさに驚いてしまう。このあいだ見学した吉野ヶ里遺跡や、ヤマトの纏向遺跡を思い浮かべるとなおさらだ。映画だよ,とわかっていても時空を超えて、3世紀の東アジア世界を垣間みたような気にさせられた。

 このような漢帝国崩壊にともなう、三国の戦乱の時代、なぜその魏の陳寿は中華帝国を取り巻く夷荻についての記述を国史に残したのか? 倭人/倭国については他の蛮夷の国々と比べ、比較的詳細に述べられている。一説には、当時の三国の緊張関係のなかで、蜀と呉に対峙する魏はその東の海に倭国という強力な同盟国(多少誇張してでも)を有している。その倭国は大乱の後に連合し、その王が魏の皇帝の徳をしたって朝貢して来た。倭国王すなわち邪馬台国の卑弥呼を親魏倭王として柵封体制に組み入れた事を天下に示しておく必要があった。というもの。いわば我々の背後に軍事同盟を持つ強国が居るぞ、というわけだ。

 その解釈の是非については何ともコメントするすべもないが、当時の華夷思想では、中華帝国/その皇帝の権威は、その皇帝の「徳」によるもの。その「徳」は遠く周辺の蛮夷の国々にも知れ渡り、その「徳」を慕った蛮夷の酋長や王が中国皇帝に朝貢してくる。その国々が遠ければ遠いほど、その数が多ければ多いほど皇帝の「徳」が高く、中華帝国を治める権威が備わっている,と考えられていた。三国が中華帝国中原を治める権威、レジティマシーを争っているなかで、魏の主張を史書の形で陳寿が明文化したとしても不思議ではあるまい。

 ちなみに蜀と呉を連合させた稀代の軍師、諸葛亮は倭国の事を知っていたのだろうか? 倭国を反曹操連合に組み入れ、挟み撃ちにする戦略を考えてみた事はなかったのだろうか? もしそうなっていたら東アジアの歴史は書き換えられていただろう。ひょっとしたら金城武の諸葛亮は倭国から渡来した人物じゃないか,などと、荒唐無稽な夢想も楽しい。

 ニューヨークへの飛行中に、ふと気付くと3世紀の三国志の時代、倭国の時代にタイムスリップしていた。全編を見終わった頃には、夜が明け始め、窓の外に朝日に輝く茜色の雲と、雲間から無数の湖沼が点在するカナダの大地が見える。間もなくJFKだ。他機が飛行機雲を一直線に引っ張りながら,高速でANA機とクロスして行った。NY上空はあいにく厚い雨雲に覆われている。今日はマンハッタンは見えないな。ANA機は幾重にも重なりあった雲の中をドンドン降下しながらJFKにアプローチする。まだ見えない,まだ見えない、地上が見えたと思ったら,あっという間に雨の滑走路にタッチダウン。

 さあ、三国志、魏志倭人伝という3世紀の世界に別れを告げて、いよいよ今度は21世紀のニューヨークへとワープするぞ。


(撮影機材:FujifilmX10)



(飛行ルート。いわゆる最短の大圏コースだ。)


2012年10月10日水曜日

柳生街道(滝坂道)を往く

 奈良県の柳生の里は、徳川家剣術指南役、柳生石舟齊、宗矩、十兵衛などの柳生一族の故地。荒木又右衛門や宮本武蔵等も訪れた剣豪の里である。JR奈良駅前からバスに乗り、50分ほどで柳生の里へ直行できる。そこから円城寺、峠の茶屋春日石仏群と柳生街道を下って、高畑町に出るコースが柳生街道散策の一般的なルートであるようだ。

 今回は、逆に春日大社の社家町であった高畑町から入り、春日石仏群までのショートコースを往復した。いわゆる滝坂道だ。ここは能登川の渓流沿いの石畳道。ゆるく登りとなっているが標識等もよく整備されていて歩きやすい。連休最後の晴天の一日とあって、中高年カップルや山ガール、子供連れの家族などとすれ違う。やはり柳生の里まで行き、そこから下ってくる人が多いようだ。

 柳生街道は、昔から奈良と柳生の里を結び、さらには伊勢方面とも結ぶ比較的通行の殷賑な街道であったようだ。石畳を敷き詰めたのは何時の頃か不明だが、当時としてはよく整備された街道であったのだろう。しかし、石畳は水に濡れると滑りやすく、歩きにあまり苦痛を感じない私も、意外に難儀した。堅いソールのウオーキングシューズじゃなくて、昔のわらじの方が足裏で一つ一つの石をグリップしながら歩けて滑らないのかもしれない。

 ここは石仏が多い石仏街道でもある。まず高畑町から入ると「寝仏」にで会う。石畳の脇に岩が転がっており、よく見ると仏像が斜め横に刻まれている。おそらく山腹から滑り落ちてきたのだろう。チョット分かりにくいお姿だ。

 さらに進むと街道の左手上の崖に「夕日観音」と「三体地蔵」が刻まれている。石畳の街道からはさらに急峻な道無き道をよじ上らねばならないが、近づくと「夕日観音」はかなり立体的な石仏である。「観音」と呼ばれ人々に親しまれているが、よく見ると弥勒如来像である。「三体地蔵」はそれなりに痛んでいるが、三体とも錫杖を手にした姿がよく確認出来る。

 さらに柳生の里方面へ歩を進めると、狭い渓谷対岸の大きな岩の壁面に刻まれた三体の磨崖仏「朝日観音」がある。これも中心は弥勒如来で左右に地蔵菩薩を脇侍として配している。街道からもよく拝むことが出来る。

 そして滝坂道を進むと大きな杉の木が現れ、その杉の大木を中心に道が三叉路に別れている。この辻に立つのが「首切り地蔵」である。身の丈180cmほどの大きな石像で、首のところで折れている。これを人々は荒木又右衛門が試し切りをした跡であると言い伝えている。いかにも剣豪の里へ続く道すがらの伝承らしい。

 近くには能登川の源流である地獄新池があり、その周りに春日山磨崖仏と地獄谷磨崖仏がある。春日山磨崖仏は岩をくり抜いた洞窟に三体仏や地蔵が彫られており、結構どれも傷みが激しい。特に弥勒三尊像は、残念ながら二体のご尊像が破壊されている。まるでバーミヤン石窟寺院をタリバンが破壊したような痛々しい有様である。現在この石窟は金網で囲まれ保護されている。写真が撮りにくいが、皆考える事は同じで、金網の一部がちょうど良い角度で広げられていて、レンズがハマるようになっている。

 いずれも平安末期から鎌倉時代の作とされている。おそらくもともとは、誓多林や忍辱山(いかにも仏教の聖地にちなんだ地名だ)に向う弥勒信仰や山岳信仰に起源があったのであったのだろう。しかし時を経るに従い、街道を往く人々の通行の安全を守ってくれる「観音様」や「お地蔵様」として拝まれたのだろう。街道沿いの石仏を、庶民は日常の生活を見守って下さる有難い、親しみやすい仏様と解釈したのだと思う。

 今回は、ここで滝坂道を引き返した。この道は学生時代に一度歩いた記憶があるが、あまり詳細を覚えていない。きっと奈良のガイドブックかなにかを見て行ってみよう、くらいの感覚で訪れたのだと思う。「昔はものを思わざりけり」である。それはそれで良いのだと思うが、若い時には気付かなかった事や、感動しなかった事でも、この年になると感ずる何かに出会うことがある。

 しかし「一度行った事がある」というだけの記憶も大事である。こうして時を経ての再訪が、学生時代とは違う「美」や「やすらぎ」を感じ、知らなかった歴史を発見させてくれる。そしてさらなる未知への興味をかき立ててくれる。若い頃にあちこち旅をし、訳も分からず知識を詰め込む。そうした事に無駄は何も無い。それが時とともに記憶の中で熟成してゆく。だから年齢を経るという事も悪くはない。時空旅行はなお続く。



(柳生街道の他に、奈良市内各所の秋の風情を合わせご覧下さい。撮影機材:Nikon D800E, AF Nikkor 24-120mm.いつもながらブラパチ風景写真には最適のコンビです)


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(JR奈良駅からバスで柳生の里まで直行。あるいはバスで破石町下車、高畑町を抜けて柳生街道(滝坂道)を登る)