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2016年12月24日土曜日

上町台地を俯瞰する 〜大阪の歴史を育んだ台地〜

あべのハルカス60階展望室より「上町台地」真北方向を望む。
南北に走る真ん中の道は谷町筋。左手前は天王寺公園、住友慶沢園、茶臼山古墳。
その上方に見える緑地帯は夕陽ヶ丘の寺町地区。ここが昔の上町台地の西の端で断崖が海に落ち込んでいた。
左上方の高層ビル群あたりが梅田、御堂筋、堺筋のビジネス街。弥生後期、古墳時代は海の中だった。
谷町筋の右に見えるのは四天王寺。上方に小さく大阪城が見える。難波宮跡も大阪城の手前に位置する。
今やビル群に覆い隠されてどこが台地なのか分かりにくくなってしまったが、仔細に見るとその痕跡があちこちに見てとれる。


四天王寺
飛鳥時代574年に聖徳太子によりこの台地上に創建された

四天王寺の北。上町筋の延長線上に難波宮/大阪城(石山本願寺跡)が見える
いずれも台地の頂上部に建てられたことがわかる。


大阪城(石山本願寺跡)
ここが上町台地の北端であった
東方向、大和と河内を分ける二上山。
手前が河内(かつては湖/海だった)、山向こうが大和国(奈良盆地)。

西方向、大阪市街地を隔てて大阪湾、さらには明石海峡大橋、淡路島が遠く見える


谷町筋の果てにはキタ、梅田のビル街が展望できる。

四天王寺西門前
仏教寺院に鳥居という神仏習合の原初の姿だ


四天王寺境内
その四天王寺西門を出ると、大きな坂が急勾配で西へと下る。
ここが上町台地の頂上であることがわかる場所だ。
「大坂」という地名の由来の場所と言われている
(天王寺区逢坂。四天王寺夕陽ヶ丘界隈)



弥生時代後期〜古墳時代頃の大阪。
上町台地は海に突き出た半島(山塊と砂嘴で出来た)であった。
台地西側の現在の大阪市中心部はまだ海の中。東側の現在の河内平野は、淀川と大和川の流入による土砂によって海から切り離されて、河内湖に。後にはやがては土砂の堆積が進み干潟、平地へと変化してゆく。

江戸時代中期18世紀の大坂古地図
右側(東側)が上町台地部分(「御城」と「四天王寺」)
左側(西側)東横堀と西横堀に挟まれた船場。その西が西船場。さらに西が天保山。
大川の北は天満。南が長堀と道頓堀に挟まれた島之内


 あべのハルカス。JR天王寺駅前、近鉄阿部野橋駅上という立地。横浜ランドマークタワーを抜いて日本一の高層ビルとなったことと、周辺に遮る建物もないため大阪の街が360度展望できることで、新しい大阪の観光スポットとして大人気だ。とうとうあの通天閣が足元に見える仕儀となった。大型施設、新し物好きの大阪人が喜びそうな建物だ。しかしその構造は高さ300mにするためにビルの屋上に展望用に鉄骨を三段組み上げ「屋上屋を重ねた」ような作りだ。実際エレベータを降り60階の展望フロアーに降り立つとなんかユラユラ揺れているような気もする。外から見るとまだ工事中のように見える。どこか風格と威厳を感じるビルに見えないのはそのせいか?

 それはそれとして、私「時空トラベラー」にとっては、古代からの歴史の舞台「上町台地」全景を俯瞰できる場所が出来たということが画期的なのだ。今までは空から飛行機で見るしかなかったのだが、1500円(65歳以上はシニア割引で1000円!)払えば誰でも登って数々の歴史の現場を俯瞰できるようになった。もっとも、現在の上町台地は市街地の建物群に覆われてしまい、どこがそれなのか、にわかには判然としない状態になっている。しかし見る人が見ればいたるところに「台地」「半島」という地形とかつての海との高低差を、そしてそこで繰り広がられた人間のドラマの痕跡を確認することができる。茫漠たる市街地ビル群の風景の中にその地形的痕跡と歴史の証を見つける楽しみは何にも代えがたい。歴史は時々「マクロ的に俯瞰する」ことが大事だ。そうすることで一つの事象/事件が長い時間の中でどのような意味を持つのか見えてくることがある。また時代が異なっても共通の理(ことわり)が潜んでいることも理解する。ここ上町台地のように古代から歴史の舞台となった土地をこうして高いところから睥睨し俯瞰していると、時間を巻き戻しながら、脳内で眼前のビル群を引っ剥がして過去にタイムスリップする3D映像が妄想される。まるで時間の流れを俯瞰しているような感覚にとらわれるから不思議だ。

 実際、揺れのない高速エレベータを降り展望フロアーに立って目に飛び込んでくる大阪の大パノラマは感動ものだ。周辺にこのビルに匹敵する高さの建造物がないのでぐるりと見える。上町台地だけでなく、東は二上山から生駒山。西は大阪湾から遠く明石海峡大橋、淡路島まで見える。南に目を転ずると、足元の阪堺電車の先に住吉大社、堺をへて、紀伊半島の山々が眼に飛び込んでくる。飛鳥時代574年に創建された四天王寺から、7世紀大化の改新後の孝徳天皇の難波宮、16世紀後半戦国時代の一向宗石山本願寺、そして太閤さんの大坂城。大坂の陣で徳川方、大坂方(真田信繁)共に砦を築いた茶臼山古墳も真下に見える。日本の歴史の表舞台に登場したゆかりの場所がここ上町台地に集中している。各時代の権力者は高台を好む。文化は高台に生まれる。

 それもそのはずである。ここは弥生後期から古墳時代は海に突き出した半島(山塊と砂嘴で出来た)であった。現在の大阪のキタ/ミナミをつなぐ繁華街はまだ海の中。半島の西側の海岸べりに古代難波の津があった。また東側の現在の東大阪あたりの河内平野は、縄文時代には瀬戸内海とつながった海であった。それが弥生時代後期頃から淀川や大和川から流入する土砂が堆積しで海から遮断され、汽水湖(河内湖)になった。記紀にも神武天皇の東征軍は瀬戸内海から河内の海へ奥深く入り、生駒山麓の草香江の津から上陸して大和に攻め込もうとしたとある。河内は海/湖だったのだ。16世紀末、太閤さんが上町台地の北端に(もと一向宗の石山本願寺があった場所に)大坂城を築いた。やがて上町台地西側に船場、島之内、西船場という掘割に囲まれた東西南北の町割(太閤割)を開いた。こうして巨大な商業都市が生まれ、人/物/金が集まる難波/大阪は「天下の台所」として、さらには明治以降は「日本一の経済都市大大阪」として繁栄することになる。しかし、それは16世紀以降というのちの時代の話。それまではこの台地の上に全ての歴史の現場が集中していた。


 上町台地は西側の勾配が急である。四天王寺から難波宮、大坂城に続く上町筋が馬の背であるとすると、谷町筋から西は急速に勾配が落ち、松屋町筋へと下る。四天王寺西門から、今宮戎方面に向かう大通りは下り坂になっている。ここは「大坂」の地名の由来となった場所だと言われている。現在の町名も「逢坂」である。四天王寺創建当時は、この西門は西方浄土信仰の聖地であり、ここから西海に沈む夕日を拝むことができたという。さらに平野町/夕陽ヶ丘の寺町地区へ行くとかなりの崖になっているのがわかる。この辺りは太閤さんが街造りをするときに、摂津平野郷から多くの住人を遷して住まわせ、寺社を集めた。今でも崖の上と下に連綿と寺町街が形成されている。ここらには「天王寺七坂」がある。夕日が綺麗ななにわの名所として江戸時代から人気の場所であった。地名の「夕陽ヶ丘」も、ありがちな昭和的なネーミングトレンドから後世につけられた地名ではなく、古来より西方浄土に向かう夕陽を拝む土地という意味で、夕陽が美しく拝める崖っぷちであることから名付けられていたもの。この辺りの坂はどの坂も急勾配で、立ち並ぶ寺院の合間を下って行くと上町台地が海面に対して大きな高低差を持っていたことがわかる。実際大坂城あたりで標高は36メートルほど、天王寺あたりで16メートルほどだそうだ。

 上町台地が高台であるということを語るエピソードにはこういうのもある。父の世代の人の話を聞くと、昭和20年の大空襲で大阪の街が焼け野原になった時、上本町から大阪湾が見渡せたそうだ。坂の上から見渡す大阪の市街地は焼けて無くなってしまい遮るものもなかったというのだ。今では台地の断崖に位置する「天王寺七坂」に立っても、高層ビルが林立していて、大阪湾はもとより市街地の眺望も利かず、ここが高台であることを感じさせない。この空襲では、大阪城周辺の砲兵工廠などは徹底的に破壊された(その跡地がOBPオフィス街や大阪城ホールになっている)。惜しいことに四天王寺も金堂や五重塔など多くの堂宇が空襲で焼けてしまった(現在の建物は戦後鉄筋コンクリートで再建されたもの)が、上町台地は空襲を免れた地域が多かった。天王寺真法院町や北山町、上本町、高津、清水谷、真田山あたりは今でもお屋敷街の佇まいが残っている。谷崎潤一郎の「細雪」の船場の御寮人さん、いとはんの世界だ。船場の資産家のお屋敷はこの辺りであった。そうしたことから緑地が少ないといわれる大阪の街の中でも、このあたりは緑濃い山手の雰囲気を今も残している。勿論、多くの寺院が軒を連ねる地区も貴重な緑地帯と成っている。こうしてあべのハルカスの展望台から俯瞰するとき、そうした緑のあるスポットを探して行くと、上町台地という地形の記憶と、1400年の歴史の痕跡を見つけ出すことができるだろう。



2016年12月20日火曜日

入江泰吉旧居探訪 〜マエストロはどんなところで「歴史の情景」を生み出したのか〜

入江泰吉旧居

奈良市水門町。東大寺や戒壇院に近い閑静な地区に入江泰吉旧居はある。ちょうどこの日は春日若宮御祭りのお渡り式行列の日で、登大路や三条通りはすごい人出であった。しかし、一歩県庁脇から東大寺境内の西側に入るとそこは別世界の静けさ。入江泰吉旧居は、師の逝去後しばらくは空き家になっていたが、奥様から奈良市に寄贈され、整備され最近ようやく公開にこぎつけたという。これまでも奈良フェチの私は、奈良散策定番ルートであるこの邸宅の前を何度も往復していたのだが、うかつにもそれと気付かず、ここが入江泰吉師の旧居であることをようやく最近知った。その聖地公開と聞いて今日こそはとワクワクしながら門をくぐった。

 ここは元々の東大寺境内の一部であり、あたりには奈良県知事公邸や依水園、吉城園などの大きなお屋敷が立ち並んでいる地域だ。京都南禅寺界隈の別荘群と同様、奈良も東大寺旧境内界隈や、春日大社の杜に隣接する高畑町辺りは塔頭や社家をルーツとする邸宅・別荘地区になっている。広大な敷地を有する邸宅が白壁・築地壁に囲まれていて、外界と隔てられた特別な空間を形成している。そうした中にあって入江邸は生垣に囲まれオープンな感じだ。内が外から伺えると、秘密のバリアーに閉ざされた邸宅と異なり、意外にこじんまりした邸宅にみえる。しかし、吉城川の流れと河岸段丘の高低差ををたくみに取り入れた配置となっており、寺の塔頭の建物を移築した母屋と茶室と、のちに増築した書斎というコージーな住まいだ。庭はさして広くないが、母屋の縁側からは吉城川を挟んで向かいの森が望め、濃い緑と静寂な佇まいが借景として取り入れられた配置となっている。窓に近接して紅葉と椿の巨樹が枝を広げている。そのシーズンはさぞやと思わせる。とても落ち着くセッティングだ。「紅葉、綺麗でしたよ!この時期紅葉は終わってしまって残念ですが、間も無く椿の季節です。見事ですよ!」と案内の女性が誇らしげに説明してくれた。もちろん仕事場である現像室も庭の離れに再建されている。

 資本主義の論理と都会の生活に疲れた私の最初の印象は「こんなところに住んで見たい!」である。そもそも写真と大和路に心を奪われてしまっている私にとって、ここが理想的な棲家に見えたのは不思議ではないだろう。人生にとって住環境は大事だ。人の感性を磨き、心の豊かさを与えてくれる要素の一つは住まいだ。かつてロンドンの南の郊外ケントに暮らしたことがある。ここは「英国の庭園(Garden of England)」と呼ばれ、自然と人の営みの歴史が今に生きている田園地帯である。森と牧場と歴史的なマナーハウスという英国のauthentic life, quality of lifeを涵養する住環境であった。そこの田舎生活で体得した感覚が、すっかり都会生活に埋没してしまった今も蘇る。洋の東西、歴史的背景の違いこそあれこの奈良の入江邸はそうした感性を刺激する要素を揃えている。こういう環境の中でこそ創造的な思考と、人の心に響く情感を切り取る「心の眼」が養われるのだと。

 そもそも私が奈良大和路に憧れるようになったのも、写真が好きになったのも、すべてこの入江泰吉というマエストロのせいなのだ。学生時代に出会った入江泰吉の写真集。「入江調」と言われる独特の光と陰の階調に驚かされた。モノクロとパステルカラーの作品の数々に心奪われた。そこには現代から古代という時間の流れが写っている。飛鳥人(あすかびと)の情感が写っている。初めて「二上山残照」を見たときの衝撃。「大仏殿落日」の印象。モノクロ写真に記録されている田園風景には古代飛鳥京の情景。東大寺二月堂に至る小径を知ったのも師の写真から。観光客で賑わう通りをふと避けて一歩道を入ると「観光地」奈良にもこんな情感豊かな世界が残っている。あの頃の師の写真には古代大和の国の滅びのまほろばが写っている。

 師は言う。「現代の技術、機械であるカメラという媒体で、古代の情景や余韻、気配、歴史の心象風景を表現するのは不可能に近い。しかしその不可能に近いことを、あえて可能にできないだろうかと模索し、試行錯誤を繰り返しその難しさに挑み続けてここまで来てしまった」と。画家や文筆家とは異なり、筆と紙による表現では無く、写真という銀塩フィルム、いや最近は電磁的撮像素子というテクノロジーで情感を表現することのジレンマをどのように克服するか。そこにはテクノロジーと精神世界という共に人間が生み出した大脳皮質にまつわる領域の融合と相互補完、という哲学的な問いが含まれている。

 この理解は重要だ。今や誰でも綺麗な写真は撮れる。テクノロジーはそれを可能ならしめた。花はそれだけで綺麗だ。観音菩薩像はその存在だけで慈悲深く優美だ。東大寺南大門はそれだけで荘厳・雄渾だ。写真はリアリティーを撮す。しかし、師が言うようにその「科学の眼」だけでは心は動かない。その背後にある目に見えない情感や時間を表現するにはどういう感覚を持っているべきなのか。可視化されるリアリティーの後ろに紡がれる物語を語るにはどうすれば良いのか。入江調には表現されている余情や気配がなぜ私には表現できていないのか。なぜそこにある物語(story)を訴えかけることができていないのか。「カメラという科学の眼だけで撮るのでは無く、心の眼との焦点合致を図らなければならない」のだと。「自分自身のストーリー」を持つことが大事なのだと。そんなことをグルグル考えながら邸内を見学させてもらい、結局は「来館記念写真」をいっぱい撮って帰ろうと、忙しくシャッターを切っている自分に思わず苦笑してしまった。ふと目をやると壁にかかる師の肖像写真が「まだまだやなあ」と笑っている。


東大寺戒壇院に続く道すがらにある



お寺の塔頭を移築した母屋
土間のない玄関がその名残



師の肖像写真
その風貌はフォトグラファーのそれでは無く
文人墨客の風貌だ

なかなかのユーモアセンス

編集者たちと打ち合わせた部屋。
師はいつもこのソファーに座っていたという


壁面書棚のある書斎
増築した部分
趣味の彫刻や絵画を楽しんだ縁側テラス
こんな部屋が欲しい!



絵の具
仏像の彫刻
小さな石仏



書斎の座卓
ここで撮影の事前調査や、写真集の構想を練ったという

玄関あたり


塔頭名残の縁側


秋には窓辺が紅葉に染まる

応接間
亀井勝一郎、志賀直哉、会津八一、白洲正子や杉本健吉など各界の名士との交流があった。




一見平屋に見える建物だが、斜面に建っているので裏に回るとかなりの高さだ



庭園の一角に設けられた現像室
再現されたものだとか
引き伸ばし機



玄関左手の井戸と丸窓

丸窓が素敵だ
案内と行き方のご参考に:入江泰吉旧居公式HP



2016年12月13日火曜日

福岡/博多におけるアカデミズムとヴァンダリズム 〜旧九州帝大法文学部本館ついに解体〜


九州大学正門

旧九州帝国大学法文学部本館
倉田謙設計の堂々たる近代建築遺産だ

創建時の写真
「白亜の殿堂」と謳われていた
法文学部が創設され九州帝国大学が出来上がった。


 とうとう旧九州帝国大学法文学部本館の取り壊しが始まった。近代建築遺産の保存、建学の理念とアカデミズムの伝統継承をという「助命嘆願」の願いもむなしく無慈悲に死刑執行という仕儀に相成った。とてもガッカリしている。悔しさ、悲しみや失望を通り越して怒りの感情がふつふつと沸き起こってくるのを抑えきれない。それは福岡・博多に根付こうとしたアカデミズムの伝統の破壊だからだ。その意思決定プロセスと思考様式への不信感。それを見過ごすアパシーへの落胆... Vandalism(文化の破壊行為)はまさにこのようにして起こる。

 明治維新と産業近代化に乗り遅れた福岡/博多。その町に「知性の近代化」のモニュメントたる、帝国大学がやってきた。1911年のことである。医学や工学は自然科学の近代化、産業近代化の基であったが、文學部や法學部という文科系学部は社会科学/人文科学という人間の営みや知性の近代化を果たす象徴であったはずだ。折しも大正デモクラシーの波を背景に1924年(大正13年)、法文学部が九州に開設され、これまでの医科大学、工科大学と統合されて、東京帝国大学、京都帝国大学に次ぐ三番目の帝国大学、九州帝国大学が発足した。箱崎のメインキャンパス正門の真正面に、1925年に建設された法文学部本館。我国における西南学派の拠点、という建学の理想を象徴する倉田謙設計の堂々たるセセッション様式の大理石作り白亜の殿堂である。当時は九州初の帝国大学のシンボルとして福博市民に賞賛された。やがて1930年にはレンガ色の工学部本館も隣に建設され、総合大学たる九州帝国大学の双璧をなすランドマークの完成を見た。帝大法科創設を志して東京帝国大学法学部教授から勇躍九州の地に乗り込んだ美濃部達吉博士ほか、新進気鋭の若き知の探求者たちが全国から集う知のラビリンスであった。

 やがて時が経ち、創設者たち、草創期の伝統を引き継ぐ開拓者たちが去ると、その後継者たちは、徐々にその建学の理念の反動としてか、反中央、反権威主義を押し立てて、左翼文化人を標榜するようになっていった。戦後、新制国立大学の九州大学になると、あの正門正面の荘厳なる法文学部本館という白亜の殿堂を惜しげもなく捨て去る。法文学部が法学部、経済学部、文学部、教育学部として分離独立すると、1962年この4学部は貝塚地区の新キャンパスに移り住む。この建学の理想を表現する白亜の殿堂を捨てることで「反中央」を示して見せたのか。戦後の左翼思想隆盛という時代背景において、戦前からのマルクス経済学の総帥、向坂逸郎教授の伝統を引く九州大学経済学部教員達は、炭鉱閉山相次ぐ地、福岡で、三池闘争に代表される「総労働対総資本」の戦いのなかで、総労働側のidéologueとなる。また60年、70年安保闘争、学園紛争にあっては、法学部、経済学部教授ともに学園封鎖のバリケードのなかでヘルメットかぶって立てこもる側に回り、反戦、大学自治と学の独立のために闘争を繰り広げた。この反権力、反体制は法文系の伝統となる。しかし、貝塚キャンパスの研究室や講堂はまるで瓦礫の散乱する廃墟のような有様であった。彼らにとってたんなる器である建物などどうでもいい存在であった。むしろ荘厳な帝大建築など、体制側の権威主義のシンボルでしかなかった。その結果、最高学府としての威容と風格を打ち捨てた低予算の戦後標準仕様の官庁建築を「西南学派の拠点」とするようになった。なんの変哲もない、国の予算が出ないのでツギハギだらけで統一感もないツマラナイ建物群を住処とした。彼らの嫌いな「中央」の官僚、文部省から睨まれ、学舎の増築、拡張の金も出ない。反総資本であるから財界からの寄付ももちろんない。もちろん産学官連携粉砕なのだから連携研究施設もできない。もとよりそれを誇りとしたのだろう。かつて出光佐三が地元の大学への寄付に際して「九大には寄付しない」と宣言した話は地元では有名だ。神戸大学(当時は神戸商大)には立派な「出光記念講堂」が寄付され、神戸大学のランドマークになっているにに、出光佐三の地元、福岡の九州大学には彼の支援はなかった。チビチビ、ポツポツと出る「中央からの予算」で継ぎ足し継ぎ足ししながら校舎を拡張していった結果が、あのザマである。「住処は体を表す」。正門前のあの壮麗な旧法文系本館とははるかに異なる。反体制/反権力という理念があるといえばある。しかし現体制に代わる新しい理念がないといえばない。そこを住処とする住人のまとまりのなさ、共有するゴールのなさ、連帯ではなく孤立をよくシンボライズしている。70年安保闘争の終焉とともにい収束していった九大闘争。その後のアカデミズムの立て直しはできたのであろうか。そういう意味では貝塚キャンパスの方こそ壊さずに、今後のあるべき九州大学人文社会科学系研究の理念を模索する際の歴史的な反面教師モニュメントとして残すべきかもしれない。在学中、旧法文学部本館に隣接する中央図書館(これも歴史的建築物)が手狭になったため、新中央図書館を法文系キャンパスに移転する案が出た。この時も法文系の教授会はこの移転案に反対している。文科系大学で図書館のない世界にも珍無類な国立総合大学の登場である。当時は法学部など教員の数も定員の半分以下。助教授は一名、助手はゼロ。よって修士課程や博士課程の学生募集はできない。貧相で涙が出る。なんたる知の殿堂であることか。

 そうこうしているうちに大学全体が箱崎から糸島へ移転することになる。何故移転しなければならないのか未だに明確な説明はないが、ともあれ2005年に糸島半島山中に伊都キャンパスが開学した。大学は全面移転を考えていたが、堅粕キャンパスの医薬歯系は早くから移転しない方針を決定をしているので、このゴタゴタに巻き込まれず、明治以来の建学の地で伝統あるアカデミックなキャンパスで研究活動を続けている。病院があるからということを主な理由としているが、いずれにせよ賢明な判断だと思う。箱崎キャンパスの方の工学部、理学部、農学部、そして貝塚キャンパスの法経文教四学部は混乱と破壊の渦に巻き込まれた。工学部系はさっさと移転してしまったが、最後まで残されたのが文科系4学部。移転したいのかしたくないのか意見がまとまらないのだという。教授会やっても鼻で笑って「我関せず」の決めない人たちなのだ。反対なら、それに変わる代替案や理念やビジョンを積極的に示さないと、なし崩し的に既成事実が先行し、結果として意図しない方向に決まってしまうことになる。自律的に意思決定できない人たちは、人の意思決定に流されてしまうことになる。それが反権力の伝統だとは思えないが。

 移転の是非をいまさらここで論ずる気はないが、移転プロジェクト自体も、国立大学法人となった九州大学は、経営のわからない「先生方」が突然、経済合理性を振りかざして大学経営を執り行うこととなる。しかし、その意思決定に合理性はあるのだろうか。糸島キャンパス用地の取得、建設を先行させて、その費用を捻出するためには箱崎キャンパスを売却しなければならない、という経営リスクを負ってしまった。資金調達計画の見通しもないまま移転を始めたから、建学の地箱崎キャンパスの売却を強引に進めることになる。100年の歴史を有するキャンパスを不動産デベロッパーに売り払おうというわけだ。しかし、なかなか買い手がつかないので「とりあえず更地」にすれば買い手がつくだろうという目算で、大学自ら歴史的建造物の取り壊しを急ピッチで進めてしまった。こうなるともはや大学ではなく、単なる地上げ屋だ。どこが「文化の創造者」「知の殿堂」なのだ。しかしバブル時代と異なり地べたがあれば飛びつく企業がいるわけではない。現に今だに買い手は見つからず、跡地利用計画も進んでいない。見通しが根拠なく楽観的にすぎる。企業経営ではあり得ないプランニングの欠如。リスクマネジメント不在だ。こうしてアカデミズムの伝統、歴史的遺産を次々に破壊するという暴挙につながってしまっている。「破壊することに意義あり」。まるで「文化大革命時代の紅衛兵だ」。結果、ダメなのは大学経営だけかと思っていたら、文化の殿堂、アカデミズムの巨塔として矜持も失っている。大学の自滅行為だ。悲しいとしか言いようがない。

 そして、ついに今週、あの白亜の法文学部本館と、その関連施設、旧中央図書館などの西南学派の拠点たる建築群も取り壊され始めた。なんのためらいもなく、感傷も、感慨も、文化財破壊という罪の意識もなく、開学の理想に燃えた先達へのレスペクトもなく、淡々と、粛々と建物解体業者の作業が進む。パワーショベルは無慈悲に大理石に覆われた学の伝統を粉々にする。近視眼的な経済合理性(地上屋的な)という妄想だけでこの判断がなされた。文化的な価値は経済的価値にならない、というおそるべき短絡思考。いまや箱崎キャンパスで残る建物は、旧工学部本館と大学本部建物だけという有様だ。これこそ文化のヴァンダリズム(Vandalism)と言わざるをえない。

 ここで驚くのは、こうした「大学の文化/歴史破壊行為」に地元が誰も声を上げないことだ。「壊すのはもったいないけど仕方がない」、「壊さなきゃ大学がやって行けないのだから...」。そういう第三者的、傍観者的なコメントはSNSなどで散見するが、大方は無関心。そもそも「大学の経営判断の甘さによりやって行けなくなったのでアカデミズムの伝統は破壊します」なのだ。「それは仕方がない」ことなのか。だれも本気で危惧しないし、その大学の思考回路を批判する声も上がらない。保存運動をしようとする動きも出てこない。箱崎キャンパスを懐かしむグループはできたようで、そのウェッブサイトはできている。しかし懐かしがっている時点で破壊を容認している。福岡の建築遺産の保護と建築文化の涵養を謳っているあのNPO法人も、この近代建築遺産の破壊反対意思表明も、再活用の提言も、保存運動も行っていない。九大の建築学科出身者が中心になっているにもかかわらず大学の破壊行為を拱手傍観してるに過ぎない。文化財一つ守れなくて、いったいなにを実現しようと活動しているNPO法人なのか。ただですら福岡/博多に少ない歴史的な近代建築群を、守るべき文化財と思っていないのだろうか。日頃、大学のマネジメントに関わっていて雄弁に世の中に対して発言している某教授も本件に関してはダンマリを決め込んでいる。当方の問い合わせに返事すらしない。九州大学の法文系の教員はなにをしているのだろう。西南学派創設の建学理想はどこへ行ったのだろう。あの60周年記念の建学の石碑は一体なんだったのだろう。先達の建学の理念を、そのシンボルたる白亜の殿堂とともに葬り去るというのか。新しい知性は確かに古い概念の破壊と創造の中で生まれる。しかし同時に知の系譜という伝統の中で育まれる。古い樽で熟成される新しい酒、その酵母が住みついた古い樽が大学である。在学学生はなにも感じないのか。糸島に行ったらバイトができない。遊びに行くところがない。と。今の学生は思考停止なのだろう。そもそもこの建物が旧法文系本館であったことすら知らないのだろう。卒業生はなにも行動しないのか。同窓会では全く話題にすらなっていない。地元のコミュニティーはなにも反応しないのか。地元は誇るべき(と思っていないからか)文化遺産を地元の中学校の移転先くらいにしか考えないのか。「しかたない」としか言わない福岡市の役人は市内に数少ない近代建築遺産の保存、文化施設(例えば博物館や美術館など)としての活用のアイデアもない。文化に対する感度が低い。みんなが目線の低い、事なかれの小市民、小役人に成ってしまっている。将来を見通した大きな展望を持ち、実行する突破力を持った人士はいないのか。九州帝国大学を福岡に誘致した時に私財を投げ打ってキャンパスを用意し、学生の奨学金制度をスタートさせた博多の実業家渡辺與八郎のような財界人は、福岡/博多にはもういなくなってしまったようだ。京都や仙台や札幌が帝国大学や学生を街の誇りとして育み、慈しみ、保護し、大学都市としての伝統を大切にしてきたというのに。彼らはキャンパス移転など考えない。街や市民と一体となってこそのアカデミアであるという伝統が根付いている。だからと言って研究活動の停滞などしてはいない。伝統校としての歴史を今に伝える建造物群を破壊して不動産デベロッパーに売却しようとするなぞ論外の行動だし、保存運動などという面倒な動きが出ないうちに壊してしまおうという姑息な考えなど大学人にあるまじきものだ。

 イノシシが駆け回る茫漠たる山の中、伊都国時代の未知の遺跡が多く埋まっている伊都キャンパスに新しい大講堂を寄付したのが地元の金融業で財をなした人物だという。その名は冠した新建築が新しい伊都キャンパス九州大学のシンボルとなる。東大の安田講堂、一橋大の兼松講堂、名大の豊田講堂、神戸大学の出光講堂と並んで...ようやく九州大学にも寄付してくれる財界人が出てきた。 その篤志家個人の志には感謝すべきであると思うが、九州大学は何か全国的な、いや世界的な実業家に見放されている感があってそれが情けない。物議を醸している某公共放送の会長がこの大学の経済学部の出身者だが、恥ずかしくて言えまい。ついに来年やめることになったのでめでたしめでたしだが。ひっそりと消えていってほしい。

 あの学園紛争の中、九州大学を卒業し、福岡という街を離れて何十年も経つと、この街を、この大学を、外の人たちがどのように評価しているのかがわかるようになる。はっきり言えば「無関心」に尽きる。あるいはno idea。イメージがない。印象が薄い。話題に上らない。恋愛と同じだ。「好き」の反対は「嫌い」じゃない。「無関心」だ。発信しない。人の意見を聞かない。外の人の意見や見方を受け入れない風土。「東京におってからなんば言いようとか」というお定まりの「反中央」だけが謳い文句である以上、世界に受け入れられる文化の発信地であることを期待できないのは仕方あるまい。残念だが...

 やはり九州大学は医薬歯系、理工系の大学だ。その領域では世界でも最先端の研究成果をあげている。残念ながらまだ旧帝大で唯一ノーベル賞受賞者が出ていないが。世界で活躍する多くの有為の人材を輩出し続けている。文科系はどうであろう。かつては日本を代表する気鋭の研究者、学界の重鎮がいた。最近はどうであろう。先達に続くイノベーターはいるのだろうか。「国立大学法人評価委員会」が2015年に出した「国立大学法人の組織と業務全般の見直しに関する視点」で、地方国立大学の人文社会科系学部は整理するべきと結論付けた。様々な論争を呼んだこの報告。かなりの暴論だと思うが、さはさりながらその文科省への報告書に反論できない実情があるのではないのか。九州大学はそのミッションとして「世界で卓越した研究」を選択し(全国の16大学が選択)、その中で運営交付金評価では、京都大学、神戸大学とともにトップ3という高位評価を得ている。グローバルなパースペクティヴで研究を進める「スーパーグローバル大学」を標榜しているわけだ。しかしこれは理工系/自然科学系の研究活動に於ける世界の大学や研究機関との共同研究やネットワーク作りが評価された結果である。人文/社会科学はどうなのか?先ほどの文科省報告の対象(組織を見直せ)にまさかなっていることはないだろうな。最近の法文系の卒業生はその大半が地元の自治体や企業に就職しているというローカル化が顕著だ。全国区であった我々の頃とはすっかり様変わりだ。むしろそういう現状を鑑みると地方大学として「地域貢献を目指す研究」をミッションとて選択したほうがいいのではと考えたくなる。これまでの私的な狭い経験/人脈だけで判断するのもいかがなものかとは思うが、東京や大阪、いやニューヨークやロンドンで活躍する九大文科系出身者の若者に出会うことは少なかった。我が社でも最近は九大法文系卒業生の新卒採用実績も無くなっている。応募がないのだ。残念ながら九州大学の文科系は一地方大学に成り下がっているように思う。

 こうなると福岡が社会科学や人文科学系の世界に冠たるアカデミア、研究機関の拠点としてふさわしいのか、それを育てる歴史的・文化的な土壌、懐の深さを備えた土地柄なのかと懐疑的にすらなる。人口は150万人を突破し、全国でも若年人口流入が盛んな活気のある街、福岡市と言われて入るが。先人が苦労して誘致した帝国大学、アカデミズムの歴史的記念碑たる箱崎の法文学部本館をいともたやすく破壊してしまって更地にしても痛痒を感じない大学当局、それに無関心という市民の精神構造、文化的感度。その一点を取っても、福岡/博多って「その程度の街だったのか」と考えてしまう。新しもの好きで目先の実利に聡いが、長い目で見た文化や知の涵養が馴染まない街なのか。芸能や祭りはさかんだが、人間やその歴史に対する深い洞察力を有していない。教養や知性を身につけることに時間とお金をかける余裕がないのだろうか。ようするに「のぼせもん」は多いが物事の本質を極めるような思索を巡らす人間は生まれない土地柄なのか。明治以前の歴史を見ても、他の城下町と比べて歴代藩主が豊かな大名文化を福岡に育んだ痕跡も少ない。これだけの大藩の城下町なのにその文化の痕跡が残っていなのに驚かされる。また古代にその海外との交易の歴史をスタートし、中世にあれだけの「黄金の日々」を誇った国際都市博多も、鎖国時代に入りその地位を長崎に奪われてしまうと、その240年に及ぶ江戸時代に博多商人がナニワ商人のように学問や文化のパトロンになった痕跡も見えない。幕末には、殿様は時代の趨勢を読み誤り、屈指の尊皇勢力を誇った筑前勤王党を壊滅させ、明治維新にも乗り遅れて福岡人は歯ぎしりした(そういうフラストレーションの中から玄洋社が生まれた)。明治期の日本の近代化をリードする主役にはなれなかった。戦後これだけ発展し、九州随一の大都市になったというのに、都市としての風格にどこか重みが感じられないのはそうした、鎖国以降の過去を引きずっているからなのだろうか。歴史的遺産を大事にしない。古い物はすぐに壊して新しいものに飛びつく。福岡・博多には古い街並みや、近代建築遺産がわずかしか見当たらない。これは戦災のせいだけではない。戦後に破壊されたものが多い。ルネッサンス様式の旧博多駅舎も消えて無くなった。歴史的なネオゴシック建築の代表たる県庁舎や市庁舎も惜しげもなく取り壊してしまった。博多の金融街、土居町、呉服町に連なっていた大手都市銀行の壮麗なコリント様式の石造建築物もいつの間にか姿を消してしまった。天神交差点の岩田屋百貨店の建物も薄っぺらいガラスとスチール壁に覆われて姿を消した。気づくと六光星をいただく塔がそびえる修猷館本館も取り壊されてしまっていた。そして最後の近代建築群である九州大学箱崎キャンパスも間もなく跡形もなく消滅する。歴史を今に伝える文化財を守るという意識がないのだろう。いつまでも「博多ラーメン」と「辛子明太子」の街でしかない。東京、京都に次ぐ第三の帝国大学法文学部を創設するときにも、地元はそんなものいらんと宣うたそうだから。「商売人に学問はいらん」という視野の狭いstereotypeの教育観。あの中世に世界に雄飛した博多の豪商達の「世界的な視野、知識に飢え、文化を育んだ」伝統と精神は江戸鎖国時代、黒田藩政時代にすっかり消え失せてしまったようだ。明治維新において行かれて反中央になってしまったか。世界を見据えるのではなくいつも東京を見て「反中央」という一点にのみアイデンティティーを見出す地方都市に成り下がってしまっているのではないのか。

 「商売人に学問はいらん」で思い出すのだが、商都博多における九州帝国大学の創設経緯を振り返ると、一見1931年に、同じく商都大阪に開学した最後の帝国大学、大阪帝国大学創設の経緯に似ているようにも見える。しかし、実情は全く逆だ。地元の誘致活動に対し、この時はむしろ東京の文部省が、商都大阪に帝大が必要なのか、と疑問を投げかけたという。しかし、当時の大阪は日本一の経済都市、大大阪の時代。江戸時代からの緒方洪庵の適塾を母体とし、船場のだんはん達の私塾であった懐徳堂の伝統を引き継ぎ、明治の近代化の中で五代友厚などの働きで商業講習所を立ち上げ、工業学校を創設した関西財界である。その強力なイニシアチヴがあった。文部省も地元財界が金出すなら認めようということになったという。その有力者たちがお金を出して最後の帝国大学を創設した。「商売人が作った」いわば大阪財界立帝大である。彼らは決して東京を見ていたわけではない。むしろイノベーティヴな実証研究では東京よりも京都よりも大阪だ、日本の近代化を担っているのは大阪だという自負が生み出した帝大だ。世界を見据えた研究活動が建学の理念である。また日本代表する多くの先端企業との産学官連携が多くの新しい成果を生み出している大学でもある。九州帝国大学より20年も後で開学したにもかかわらず、いまや理系文系を問わずイノベーションをリードする世界に冠たる大学に成長している。嗚呼九州帝国大学よ何処へ行く。あの世で山川健次郎が、美濃部達吉が泣いている。渡辺與八郎が泣いている。こんなことなら九州帝国大学は熊本に置くべきであったかもしれない。幕末には熊本洋学校が創設され、明治維新後には幾多の大物政財界人を輩出したナンバースクール第五高等学校があった熊本。横井小楠、宮崎滔天、徳富蘇峰/蘆花、ラフカディオハーンや夏目金之助のいた熊本。あるいは維新に功績のあった肥前鍋島藩、その近代化事業を伝統として継承する佐賀、ないしは長崎に置くべきであったのかもしれない。


 と、まあこれくらいボロッカスに言わんと悔しくて腹の虫が収まらぬ。しっかりしろ九州大学。しっかりしろ福岡。先人達が泣いておるぞ!(「旧法文学部本館取り壊しついに始まる」の報を聞き)



法文学部本館前に建立された記念碑
ここ福岡の地に日本における西南学派を打ち立てんと建学した、とある。
その理想はどこへ行ってしまったのか。

旧法文学部本館正面玄関
すでに閉館となっている


そしてこうなった


戦後は応用力学研究所、生産研究所に転用された


当時の絵葉書
九州帝大キャンパス内ではかなりの大型建築であった


在りし日の雄姿


旧中央図書館
竣工時の中央図書館



旧心理学教室
旧中央図書館




竣工時の心理学教室

取り壊しが始まった旧法文学部本館
Vandalismとはまさにこのことだ
無残......
(「箱崎九大跡地ファン倶楽部」HPの写真引用)


現在の法文系貝塚キャンパス
戦後の統一感のないツギハギ校舎が象徴的。
間も無くこっちも取り壊されるが、理念や語るべきストーリーもないのなら惜しくない気がする。