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2013年8月24日土曜日

心の二上山 〜ホームとアウェイを分けるもの〜

関西を離れ、ここ東京に「戻って」はや2ヶ月。やっとホームに戻って来たのになんとも、エトランゼ感が強くて,いまだに調子が出ない。久しぶりの東京だから、関西との対比で、また新鮮な再発見や驚き、感動があるかと思ったが、意外にない。暑さと人いきれしか感じないこの夏....  感性が鈍化したのか? 特に週末の時間の過ごし方がなんとも所在ない。関西では時間の過ごし方なぞという観念はない程、大和路散策などで忙しかった。そういえば以前、東京にいた時ははどんなことして過ごしてたのか思い出せない。東京には色々刺激的なところが多いんだが、どれもいまや代わり映えしない気がする。確かに新しいもの,移ろい行くものは多いが、移ろわぬもの、不変のものはドンドン失せて行っているような気がする。

そういう意味では,変化の激しい東京には飽きたのかもしれない。「ロンドンに飽きた者は人生に飽きた者だ。ロンドンには人生が与え得るもの全てがあるから。」というサミュエル・ジョンソンの名言があるが、「東京に飽きた者は人生に飽きた者」なのか? ロンドンには不変の美、authentic valueがいたるところにあったが。

東京に戻ってくると、当たり前だが、ここには飛鳥の里の稲穂も彼岸花も、唐招提寺の甍も、伎芸天の微笑みもない。聖なる三輪山もそびえていないし、ヤマト王権の痕跡も感じない。なによりもあの二上山が見えない。もちろん、人ばっかりで「都会」の雰囲気はふんだんにあるが、ミナミを跋扈するヒョウ柄のオバちゃんや、上町や谷町のイトはんも見かけない。人目を憚らないケッタイなオッチャンもいない。歩道を爆走するママチャリもなく、日本一の私鉄、近鉄電車も走ってない。電車に乗っても、真っ黒に日焼けしたスポーツ少年達の傍若無人な「アホ話」も聞こえて来ない。なんか,東京に出て来たばっかりの若造の、早くも「もう田舎に帰りたい」感に近い感情なのかもしれない。

なによりも古代史紀行のブログネタに、(当然だが)行き詰まっている。せいぜい今やれる事は、以前モノしたブログを読み返したりして、歴史を観る視点を鈍らせないようするくらいだ。しかし、直木孝次郎先生の「古代を語る」シリーズを読み返しても、どこか遠い所の話のようで時空が縮まって来ない。写真の方は、入江泰吉マエストロの写真集を眺めてみるばかりで、せっかくのカメラも遊んでる。ガラッと雰囲気を変えて都会のブラパチまち歩き、という境地にもまだ至っていない。

振り返ってみると、あまり転勤が多いと,どこが自分のホームなのか分からなくなることがある。常に新鮮、と言えば新鮮だが、この年になると自分に合った,お気に入りの場所がだんだん決まって来るのかもしれない。東京は自分のキャリアアップ(昔風にいえば「立身出世」)、サラリーマン人生的な自己実現の舞台であるし、刺激的なホームグラウンドである。しかし自分の心のホームか?と聞かれれば、なんとなくすんなり「そうだ」とも言えない。かといって、故郷に帰っても,もはや居場所はない。自分の居場所はどこにあるのか。どこへ行ってもアウェー感がするようになってしまったのか?

いやいや、「自分が今いる場所で咲きなさい」なのだろう。「人生いたるところ青山あり、いや二上山あり」だ、と自分に言い聞かせる。



(乙巳の変後に遷都した難波宮から、はるか二上山の向こうにある飛鳥古京を偲んだ孝徳天皇。古代からこの風景は変わっていない。二上山は彼岸と此岸をわける結界なのだ)

2013年8月14日水曜日

筑前福岡から薩摩鹿児島への旅

 九州新幹線の開通で、博多から鹿児島中央までたった1時間20分で行けるようになった。鹿児島も近くなったものだ。子供の頃、鹿児島といえば、心理的には東京、大阪よりも遠い「異国」であったような気がしていたものだ。東京から夜行寝台特急ブルートレイン「はやぶさ」で博多駅に降り立つと、そこからさらに4〜5時間かけて西鹿児島まで。博多で降りる乗客のホッとした表情と対照的に、西鹿児島まで行く乗客の「まだ汽車の旅は終わっとらん」という充血した眼が印象的だった。私自身、博多から先のことはあまり考えきらんかった。熊本ですら「遠かあ」と思っていた...

 そもそも、人は「九州」とひとくくりにして語るが、九州は九州でも、福岡・博多と鹿児島では全く違う。よく「ご出身はどちらですか?」と聞かれて「福岡です」と答えると、必ずと言ってよいほど「ああ、九州ですか」と再確認するような反応が返ってきたものだ。私は「いや福岡です。つまり博多です」と改める。この返事には2つの内包するの意味があると思っていた。一つには、「九州」とひとくくりにしないでくれ。福岡と熊本と鹿児島はそれぞれ違う。二つには、福岡という町の九州における存在感の薄さ、換言すれば、福岡と言われてもピンと来ないので「九州」という大きな概念に包摂される「福岡」という捉え方に対する反発。せいぜい「つまり博多です」と言って個性を主張しようとするが、博多と福岡も実は違う町だから、なんとなくもどかしい。いまでこそ福岡は人口150万の九州一の大都会になっているが、ひと昔前までは門司や熊本、長崎、鹿児島に比べると単なる通過都市のイメージであった。

 「九州」というある種強烈なイメージは、おそらく薩摩隼人や肥後モッコスのような九州男児(反権力、しかし保守、男尊女卑、酒が強い等等)のステロタイプイメージに起因するものなのかもしれない。縄文人の子孫である熊襲・隼人のイメージだ。しかし、九州は実に歴史的文化的背景を異にするクニグニの集まりである。鎖国以降発展した長崎はもう一つの異文化圏だ。大分、宮崎は九州の中では少し影が薄いように思われているが、大分は豊後の大友氏中心に栄えたの瀬戸内文化圏。宮崎は薩摩島津氏の影響を強く受けた地域である。

 北部九州は、魏志倭人伝にでてくる「倭国」の世界だ。邪馬台国の位置が論争になっているが、いずれにせよ今の北部九州の玄界灘沿岸が大陸との接点で、稲作文化を始め、日本における先進的な弥生文化の発祥の地であり、後の邪馬台国連合の重要な国々があったところであることには変わりがない。ヤマト王権が本格的に北部九州、筑紫に支配権を及ぼすのは「筑紫の磐井の乱」以降だ。最初は九州全体を「筑紫」と呼んでいたが、のちに、律令制が確立する時期には、筑紫国(筑前、筑後)、肥の国(肥前、肥後)、豊の国(豊前、豊後)、薩摩国(薩摩、大隅、日向)に分けられて、「九州」の文字通り九つの国名が定められることになる。

 考古学的に見ると鹿児島や宮崎などの南九州は、朝鮮半島の影響を受けた北部九州の稲作弥生文化圏の延長というよりは、その以前の縄文文化圏の影響を後世まで引きずっているように思われる。黒潮に乗って、琉球・南西諸島経由で南方の文化が上陸した地域だ。飛鳥。奈良時代には「隼人」と呼ばれる人々が勢力を保ち、奈良時代も後半になってようやくヤマト王権・大和朝廷の支配下に入るという歴史を持っている。ちなみに記紀によれば葦原中津国である大和、日本発祥の地、天孫降臨の地は、なぜかこのまつろわぬ民「隼人」の土地、日向の高千穂であることになっている。一方、九州中央部の阿蘇山系に位置する熊本・菊池地方の土着勢力は「熊襲」と呼ばれる人々だ。3世紀半ばに中国の魏王朝から冊封を受けた北部九州の邪馬台国連合と対抗した、すなわち魏志倭人伝にいう「狗奴国」ではないかとも言われている。

 中世以降、鹿児島は、島津氏の領国支配の拠点となる。島津氏の出自には、源頼朝御落胤説、藤原摂関家筆頭である近衛家の荘園島津荘代官説、様々な説があるようだが、鎌倉幕府から、平氏の勢力が強かった西国九州をおさめるために派遣されてきた御家人であったのだろう。いわゆる西遷御家人である。また元寇のとき以降、任地である薩摩に本格的に定住し始めたと言われる。以来、曲折はありつつも薩摩、大隅、日向諸県郡と三州をおさめる君主として800年にわたってこの地に君臨した。このような例は日本史においても世界史においても希有であると言われている。

 しかも歴代名君が続き、「島津に暗君なし」と言われた。戦国大名として、一時は覇権を競った豊後の大友氏を破り、博多では大友氏、周防の山内氏の貿易利権を奪う勢いであったが、豊臣秀吉の九州平定作戦の下、黒田官兵衛の軍に破れ、薩摩に引きこもる。また1600年の関ヶ原合戦時には西軍に属し出陣したが、島津義弘は合戦に兵を出さず不動を保った。しかし西軍の負けが決まると、あの勇猛果敢さを歴史に残す敵中突破で鹿児島に帰国する。その後の徳川家康への恭順、和議工作に勝利し、本領を安堵され明治維新に至っている。この辺りが同じ敗軍の将となった毛利輝元と大きく異なる。中国地方の覇者であった毛利家は周防・長門二カ国に減封されて、長く苦渋を味わう。そしてその関ヶ原の恨みが250年後の幕末期、反徳川運動を爆発させる原動力となった訳だ。

 島津家は、江戸時代を通じて、徳川将軍家と浅からぬ姻戚関係を持ち、外様大名としては異例の二代の将軍の正室を出している。その一人が斉彬公の養女篤姫である。このような徳川幕府との関係から、幕末においては、倒幕一辺倒の長州とは異なり、幕府政権中枢に影響力を有していた。幕府に影響力を持つという辺りは同じ外様の土佐藩主山内容堂も同じスタンスであった。特に島津斉彬は先見性を持った英明君主である。彼の死後、引き継いだ異母弟久光の時代に起きた生麦事件などの行きがかり上、英国と戦った(薩英戦争)が、その実力を双方共に認めあい、薩英同盟を結んで、欧米の文化、技術を積極的に導入した。薩摩藩英国留学生を送り込んだのもこの頃だ。そして斉彬のような開明的な君主の先見的な領国経営、世界戦略と、能力に応じた人材登用が時代のパラダイムシフトの原動力となり、明治新体制を作り出した。

 これまでも薩摩藩は、鎖国政策下において琉球を通じて中国や南方諸国との貿易で大きな利益を揚げてきた。鉄砲はポルトガル人により薩摩領の種子島にもたらされ、イエズス会の宣教師フランシスコ・ザビエルは、日本への布教にあたってまず鹿児島にその一歩を記している。大航海時代、16世紀末のオランダで作成された日本の地図に都市名が記載されているのは、Miaco(みやこ、京)の他には、Cangaxuma(鹿児島)、Facata(博多)、Firando(平戸)、Sacay(堺)のみである。鎖国政策の徳川幕藩体制下においても海上貿易は活発に行われ(江戸幕府からみれば密貿易だが)、ついには琉球を薩摩藩領にしてしまう。江戸や京都といった「中央」からの目線では南九州の辺境の地である薩摩は、幕末には西欧列強の北上戦略の危機にもさらされており、外に向かって世界戦略を持たざるを得ない地政学的位置にあったといえる。

 話はかわるが、薩摩の二大英雄、西郷隆盛、大久保利通は古くからの盟友であったが、新政府内の政争で西郷は野に下り、西南戦争で悲劇的な最期を遂げる。大久保は明治新政府の中枢にあって辣腕を振るうが、やがては不平氏族に暗殺される。西郷が倒幕/維新を導き、大久保が新しい日本の仕組みを作った。しかし、地元鹿児島では、圧倒的に西郷さんの人気が高く、大久保は全く人気がない。西郷さんの子孫は今でも地元の名士であるが、大久保の子孫は地元には誰も残っていないそうだ。そういえば銅像一つない。最近になってようやく鹿児島中央駅前に「維新の群像」の一人として故郷に錦を飾ったが、このときも地元では大きな論争があったそうだ。故郷をあとにして中央で舵取りした大久保よりも、地元に帰って不平士族に担ぎだされた西郷さんの方が慕われる、という、中央政府を牛耳るようになった薩摩にあっても、なおアンチ中央意識はくすぶり続け、今に至っているのだろう。

 鹿児島の町を歩くと、他の城下町とは異なる空気を感じる。それはもちろん仙巌園などの島津氏の存在感や、西郷さんなどの維新の志士たちにまつわる旧跡、遺構が随所にみられることもあろう。まず城下町としてみると、鶴丸城は、城山を背負った平城で大きな天守閣などはない。しかも頑丈で無骨な石塀(石垣?)に囲まれている。昔の上級武家屋敷跡も石塀を連ねた堂々たる構えのものが多い。旧制第七高等学校跡や西南戦争ゆかりの私学校跡もその長大な石塀が残されており、歴史の移り変わりに関係なくその存在感を示している。白漆喰に瓦屋根といった典型的な城下町の趣ではなく、ここは石の文化の城下町だ。薩英戦争と戦災で町が破壊されているにもかかわらず、「石の町」は往時の薩摩の都の風格を今に残している。

 明治維新後の廃藩置県で、多くの大名家は、領国を離れ、華族として東京で暮らし始めたが、ここ鹿児島は、今でも島津家が様々な事業や文化活動の中心にいる。島津家の別邸であった磯御殿、仙巌園も未だに島津家が所有し、運営している。斉彬公の手がけた近代化プロジェクトの遺構である尚古集成館(機械工場)や異人館(紡績工場外人技術者寮)も島津家により保存運営されており、有名な薩摩切り子も現在の島津家が復刻させ、工房を運営している。

 以前、福岡に大名文化の痕跡はあるか、というブログを書いたことがある。福岡が黒田氏の城下町であった趣があまりにも薄れていると感じたので書いたものだ。今回福岡から鹿児島へ旅して、改めて筑前福岡藩と薩摩藩の違いを感じた。同じ外様大名、西南の雄藩と言われた藩であり、ともに徳川宗家との姻戚関係をも有する名家である。それが明治維新においては、それぞれにスタンスが微妙にずれて、薩摩は倒幕をリードした維新の功労者にして、新政府の主導的な役割を担うのに対し、かたや、福岡は最後の最後になって勤王倒幕派を大弾圧して維新に逆噴射する。維新直後には贋札事件なども起こし、版籍奉還の前に領国を没収される。そして新政府では福岡藩出身者は懲罰的冷遇を受ける。おなじ九州といってもこのギャップは大きい。

 黒田家は、江戸時代後期には世継ぎがなくて、他家からの養子が代々藩主を務めた。中でも蘭癖大名といわれた黒田長溥(ながひろ)は薩摩島津家からの養子で、島津重豪の13番目の子であった。島津斉彬の大叔父でにあたるが二歳年下で仲が良かったとされる。筑前福岡藩は、隣の肥前佐賀藩とともに、幕府から長崎勤番を仰せつかった藩で、長崎における西欧文化や技術にいち早く触れる機会に恵まれた。このように福岡、佐賀、鹿児島は蘭癖大名が育つ環境にあったと言えよう。薩摩藩は先述の通りであるが、肥前佐賀藩も鍋島直正(閑叟)は、藩内に日本で初となる反射炉を造り、高性能な大砲を製造した。また洋式の造船所を建設する等、藩の殖産興業につとめた。筑前福岡藩の長溥も開明的な君主で、父島津重豪や斉彬の影響を受けて先進技術の導入に関心を示し、中洲に反射炉をもうけたりしたが、肥前や薩摩ほどの広がりを持たず、福岡藩内の近代化遺産は、いまその痕跡すら残っていない。

 同じように西欧の文化技術に触れ、近代化に意欲的であったにもかかわらず、筑前は、先述の如く明治維新では薩摩、肥前においてかれてしまう。皮肉な対照を見せることとなった訳だ。薩摩の島津、肥前の鍋島、ともにもともと関ヶ原以前から地元に根を生やした一族である。長州の毛利もそうである。黒田のように、関ヶ原以降に他国から入国してきた大名とは異なる。いわば転勤してきたサラリーマン社長と地元のたたき上げ創業者社長の違いみたいなものを感じてしまうのは考え過ぎだろうか。




(尚古集成館。斉彬公の近代化プロジェクトの一つで集成館機械工場跡。石造りの洋風建築だ。今は薩摩藩の産業遺産の博物館になっている)




(復刻された薩摩切り子。ぼかしの技法は薩摩独自のもの。その美しさも価格も宝石並みだ。店頭在庫は限られておりすべて職人の手仕事なので、注文してから入手まで最低半年待つことになる。)


(撮影機材:Leica M+Summilux 50mm, Sony RX100)