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2014年7月31日木曜日

福岡と博多 ツイン・シティーの栄枯盛衰 (福岡・博多シリーズ第1弾)再掲

 NHKの大河ドラマ「軍師官兵衛」もいよいよ後半のクライマックスに突入。秀吉の天下取り。関ヶ原の戦い。時代を動かした名軍師官兵衛の生き様の描写が面白くなってきた。さて、終盤では官兵衛、長政父子の活躍の舞台は、豊前中津、筑前福岡に移って行くことになるのだが、多分、このドラマでは、官兵衛が家督を長政に譲り、隠居して如水と号して福岡で余生を過ごすところで終わりなのだろう。我が故郷、福岡がこのドラマで主要な舞台となることは無いのだろう。如水/長政父子が築いた城下町福岡と古代からの国際貿易都市、博多について、以前に綴ったブログを「軍師官兵衛」にちなんで下記に再掲しました。

「時空トラベラー」 The Time Traveler's Photo Essay : 福岡と博多 ツイン・シティーの栄枯盛衰 (福岡・博多シリーズ第1弾): 福岡と博多はそもそも別の街であったことをどれだけの人が知っているだろう。古くからの博多っ子ですらよくわかってない人がいるくらいだし、まして転勤族である福岡市民はあんまり考えたこともないだろう。知らなくても日常の生活に支障はないからどうでもいい。しかし,そこには栄光の歴...


福岡城 別名を舞鶴城。ここは大手門跡。
かつてのプロ野球パリーグの野武士軍団西鉄ライオンズの平和台球場へはここから入っていた。

天守閣はなかったが、多くの櫓が連なる壮麗な舞鶴城も、明治維新以降大きく破却されてしまった。
ここはわずかに往時の威容を伺わせる多聞櫓。

下の橋御門と伝潮見櫓 
いずれも戦後復元されたものだが,実は正確な資料が残っていないため,位置や様式に論争を残す結果となっている。

博多湾 シーサイド百道 福岡の新しいウオーターフロントの景観だ。
左の緑は西公園。万葉集にも歌われた荒津山。かつて海に突き出していた半島もいまや陸に閉じ込められてしまった。

福岡城上空写真 大濠公園が見える。ここは古代には草香江の津であった。築城時にこれを外堀とした。
右下の円形の構造物は平和台球場跡。筑紫鴻臚館遺跡が見つかり現在発掘作業が続いている。遠景は魏志倭人伝にでてくる伊都国。したがってこちら側は奴国。いにしえの倭国の風景でもある。

2014年7月27日日曜日

Leica T Black登場!そして2ヶ月経ったLeicaTの使用感。


5月27日のLeica Tのデビューから2ヶ月。噂されていたTのブラックボディーが発売になった。個人的な好みでは、シルバーボディーよりブラックの方が、ライカらしくて引き締まった感がすると思っていたので、デビューを期待感を持って待っていた。

 レンズは黒鏡胴。外付け電子ファインダー(いわゆるVisoflex)も黒。付属ストラップも黒。なのにボディーだけがシルバーというT。白黒パンダも別に悪くはないが、往年のM3はボディーがシルバーでレンズ鏡胴もシルバーだった。カメラ全体の風貌はいかにも工芸品的な精密さを持った金属の固まりで素晴らしかった。そうしたシルバーM3の定番カメライメージがあったので、シルバーボディーでデビューしたTシリーズには、往年のライカ復活との期待感があった。

 その後、M3に黒いマスキングテープを貼付けたアンリ・カルチェ・ブレッソンの影響か、特別仕様のブラックペイントのM3,M2が世に出た。この頃の塗装は質が悪くて、すぐハゲちょろげになる。しかし、そのハゲ具合が何ともいえず良い、というマニアの間で、中古ブラックが高値取引される。これを「黒皮病患者」と呼んで喜んでいた。マニアってヤツは... M4くらいから特別仕様でなく黒ボディーが製品化され、M6からブラックボディーが主流になり始めた。それに伴ってレンズ鏡胴も黒が主体となる。カメラが現場で目立ってはいけない、というフォトジャーナリストの意見が反映され、それがアマチュアにもプロ仕様という事でウケた。こうしてやがては黒ボディーがライカの定番のイメージに置き換わっていった。

 Leica Tのシルバーボディーは、素晴らしい仕上げだ。M3時代の復活か、と思われた。それだけにシルバー鏡胴のTマウントレンズ群を取り揃えれば、レガシーとモダニズムが融合して面白かったのではないかと思う。T発表会でのこの点に関する会場からの質問に対するライカ社の開発担当の反応は、「シルバー鏡胴のTレンズを出す予定は無い」とつれない。ライカノスタルジアを追求するのでなく、それから脱皮する新しいシリーズにしようという意気込みなのだと解釈することにしよう。

 ともあれ、Tのブラックが登場してきた。シルバーも良いが,今やこちらの方が正統派ライカのような気がするから面白い。マット調の仕上げは上々で、アルミ削りだしの質感を損ねていない。ずっしりとした質量、手触りも良い。さすがだ。Vario-ElmarとVisoの黒ともマッチしていて、ステルス性を取り戻した感じだ。これで目立たずTを持ち出すことが出来る(赤いライカロゴマークはもちろん目立っているが)。

 さて、Leica Tを使い始めて2ヶ月経った。その後、使ってゆくなかで気がついた点と、ファーストインプレッション(http://tatsuo-k.blogspot.jp/2014/05/leica-taudiaudi.html)とは少し違った印象も持ち始めたので、少々コメントしてみたい。

 気がついた点:

 気になっていたタッチスクリーンによる操作性は悪くない。機能の設定変更も、頻繁に使う項目は第一画面に呼び出して保存しておくことが出来るほか、階層が二段構成で浅いので使いやすい。露出補正、プログラムシフト、ISO感度設定、MFアシストなどはダイアルに割り付けておくことが出来る。目新しさを追求すると使いにくくなりがちだが、よく出来ていると思う。その他は...

1)意外にバッテリーの消耗が速いようだ。少なくともフル充電から、現場で何枚か撮り始めると、早くも電池マークの右端が欠け始める。その後は保つのだが「心理的に」充電をせかされる感じがする。VisoでGPSをオンにするとそれなりに電池を消耗するのだろう。スペアーバッテリーはマストアイテムだ。

2)WiFiは実用にならない?自宅の無線LANもiPhoneのテザリングも、なかなか波を拾ってくれない。ようやく繋がっても、レスポンスが異様に遅くて、忘れた頃にカシャリ! シャッターチャンスなんてモノではない。そしてまたすぐ接続が切れる。どうしたものか。WiFiはIEEE802.11標準規格(b/g/n対応)というが。こんなもの搭載してみました、か? まあ、あまり使わないから良いけど。

3)やはり全体にレスポンスが遅い。電源オンからの起動にも2〜3秒かかる。一番レスポンスの遅さを感じるのは、再生画像のスクロール。せっかくタッチスクリーンにしたのだからサクサク感が欲しい。

4)オートホワイトバランスで、アダプターリング+Mレンズを使用すると、Tマウントレンズで撮影した時と色味が変わる。特に室内で撮影するときにはオートではなく、蛍光灯か、白熱電球モードに設定した方が良い。

5)Visoで、MFフォーカスアシストを6倍拡大に設定すると、ピントが合わせづらい。クローズアップされたところがギザギザでピントの山が掴めない。

 まあ、ライカという大御所にとって、どれも致命的な問題ではないかもしれないが、今後のファームウエアー更新で改善されることを期待する。なにしろ、プロ用の機材ではなく、アマチュア用の機材なのだから、むしろ他社のAPS-Cミラーレス製品と比べられることになる。消費者の眼とコスパ感覚は厳しい。逆説的な言い方だが、アマチュアはプロほど寛容ではない。すぐに「買わない」という評決がでるのが怖い。

 最後に一言。「なんか普通のカメラになってしまったのかなあ」。ボディーデザインは素晴らしい。手にした質感も素晴らしい。その素敵な出で立ちから出力される写真は、ライカらしい個性が表現されているのか? レジェンドとなった伝統の画作りは生きているのか? 下記の作例のように、素晴らしい描写力で、間違いなくキレイな写真が撮れるのだが、なんかライカを持ち出して撮る時のワクワク感、特別感が、すこしフツウになってしまった気もする。 やはりAPS-Cサイズで暗いズームレンズの組み合わせだとこうなるのか。せめてLeica X Varioの70mm望遠マクロ(近接撮影距離30cm)が欲しい。Tの85mm近接撮影距離45cmだとボケがきれいに出ない。全体的に、木村伊兵衛のいうライカ独特の味である「デッコマ、ヒッコマ」が微妙に無くなった? 他ならぬライカなのだから、という期待感が大きすぎるのかもしれないな。フツウじゃ嫌だ、という...

 ユーザって、わがままで贅沢をいうものだ。そして飽きっぽい... 横目でNikon D810のデビューをにらみつつ。

建仁寺中庭

建仁寺丸窓

鴨川河畔
黒鏡胴のVario-Elmarにマッチする

当然バッテリー底板も黒

追記(2016年1月記):2015年末にTのファームウェアーがバージョンアップされた。これにより、上記の諸々の問題点が改善された。特に電源オンからの起動が速くなった。AF合焦スピードも上がった。タッチスクリーンの操作感も改善された。さらにTのシルバーボディー向けに新しいシルバー鏡胴の単焦点レンズがラインアップされた(あれだけ出す予定はない、と言い切っていたのに)。Leica SL(Tマウント採用)発売のタイミングに、これまでの評判、課題を一気に片付けた感じだ(なんで最初からやらないのか?)LeicaTの売れ行きは、売り出し時の騒ぎほどは芳しくなくて少々がっかりだったが、ユーザからの不満の声に応えて(TマウントシリーズのSLとの比較で見劣りしすぎないよう)手を入れたのだろう。もう少し発売前の市場調査、ユーザ指向把握をキチンとやってからスペックを決め、市場投入すべきだはないか。この頃のライカは矢継ぎ早に新製品を出してくる。会社が元気が出てきたことは嬉しいが、ライカファンとしては手戻りのない製品作りを目指して欲しいものだ。


2014年7月22日火曜日

失敗から学ぶ 災い転じて福となす 〜HDD破壊の教訓〜

 写真のRAWファイルを保存していた外付けHDDハードディスクドライブが壊れた。ここ一年分くらいの写真データが喪失した。ガックリだ! HDDの電源を入れるとなかでカラカラと異音がして、やがて電源が切れてしまう。もちろんPCはHDDを認識しない。こうなるとただの箱。何の役にも立たない物体を見下ろして涙するばかり。論理障害ではなく、物理障害だ。幾つかの業者に診断してもらったが、データ復旧可能、と自信たっぷりに言うところと、完全復旧は難しいと言うところに分かれる。ネットでの情報を総合すると物理障害の場合、どうも復旧は困難のようだ。復旧可能と言っても100%ではなく、ファイルが壊れているとRAWデータがそのまま残っている可能性は低いだろう。以前の経験(SDカードの破壊)でもrecovery fileで上がってきたのは、DNGフォーマットは失われており、幾つかのJPEG ファイルとThumb nailクラスの小さなファイルのみであった。それにデータ量の多いHDDからのデータ復旧の費用は馬鹿にならない金額だ。

 HDDは精密な駆動部を持った機械で、熱、振動やホコリに弱いからいずれ壊れる。使用頻度に寄るが4〜5年が寿命かもしれない。以前、MacのTimeMachineも購入して1年程で壊れて,バックアップデータが全て消えた。保証期間中なので無料で修理いたしました、と「弁当箱」返して来たAppleさん、これじゃバックアップにならんだろう、と悔し涙が出た。クラウドサーバーでも、プロバイダーは、バックアップ、ミラーリング構成を取りながらも、定期的にHDDやSSDを取り変えながら運用している。

 重要なデータは二重三重のバックアップが必要である。今回をそれを改めて痛感した。これまでも少しずつクラウドサーバーやDVDやCDへの保存を始めていたが、本格的にバックアップをしなくては。しかし、DVDとて経年劣化する媒体だし、サーバー事業者だって何時までサービス提供してくれるのか保証の限りではない(つい最近も某大手プロバイダーがブログサービス止めると発表して慌てさせられた)。写真も結局プリントアウトして保存するしか無いのか。銀塩時代はネガフィルムやポジフィルムがあった。これとて経年劣化するが、保存状態を良くすれば結構長持ちする。父が60年前の在米時代に撮ったポジスライドは、いくつかのコマに黴が見られるが、ほぼ完璧に保存されていることを考えると、デジタル/銀塩どっちがいいのか。

 電磁的に記録されたデジタルデータは今後、未来永劫残すことが出来るのか?、時代を超えた記録として未来につなげることが出来るのか?、という根源的な問いを思い起こさせる。結局は紙ベースの記録媒体でないと残らないのでは。やはりロゼッタストーンか粘土板かパピルスか、せいぜい書写された古文書くらいは博物館に残されている。技術は進歩しているのか、退化しているのか分からなくなってしまう。人類の記録をどう記憶させるか、という文明的な問題であることを改めて認識させられた。デジタルカメラが実用化されてわずか20年くらいだが、すでにPC内蔵HDDの毀損によりあのころの写真が消失してしまったり、初期の頃のフォーマットは今のPCでは読めなくなっているファイルもある。

 ともあれ、気を取り直して、消えてしまったRAWファイルのバックアップとして、ランダムに他のHDDに保存していたRAWファイルやJPEG化してPC保存していたファイルを、こつこつと拾い集めて、新たなHDDにアーカイブを造り始めた。また、HDDの寿命対応でDVDへのコピー保存も始めた。結構大変な作業だ。ブログに掲載した写真はかなり自動的に圧縮されていて元データとしては役に立たない。Picasaにアップしているデータも、圧縮版でアップしていたので、これからはオリジナルサイズでアップすることとする。

 新しいHDDは、寿命があるとはいえ、信頼のエンタープライズ級ディスクドライブ、空冷ファン付きの機種に変えた。また、データ容量が多いと、壊れやすいのと、壊れた時の被害が大きいのとで、2Tbクラスを複数台でバックアップする構成とした。RAIDも検討したが、今回は物理的に分けて2台構成とした。


 こうして、膨大な写真データを再整理していて、そのなかで気づいたことだが、これまで、如何に雑多な写真を手当り次第に撮り貯めていたかを痛感させられた。こうして膨大の写真ファイルを、単に量的に処理すべきデータとして扱っていると、なんだか写真を撮るという行為の結果がこのような煩雑なデータボリュームとして残っていることに、少々違和感を覚えてしまう。もちろん膨大な写真の山のなかから、お宝を選び出す眼力(キューレーション)と、編集能力(エディティング)が試されるコトも確かだが、もう少し写真は一枚一枚心を込めて丁寧に撮影しなくてはならないと反省する。「下手な鉄砲数撃ちゃ当たる」式ではだめだ。デジタルカメラは、ついつい何でも取りあえず撮っておこう、になる。自分が撮った写真を、めんどくさいジャンクの山にするか、素晴らしい宝の山にするか。心して写真に向かう必要があることに気がつかされた。

 一方、こうして、改めて編集、拾い集め作業をしてみると、最近Leicaで撮影した写真ファイルで、RAW,すなわちDNGファイルが少なくなっていることに気がついた。これは、続けざまに出てきたライカの新製品、Leica X VarioやLeica TなどのASP-CセンサーカメラでJPEGフォーマットで撮る機会が増えたことに起因する。手軽に美しいLeica写真が撮れる。LeicaのJPEGの取って出しが素晴らしいし、ファイルが軽いのでついつい。で、本家のM9やM Type240によるDNGフォーマットで、じっくり撮ることが少なくなっている。

 扱いやすい機材でキレイな写真をお手軽にどんどん撮っておけるのは便利で、ある面では永年の問題解決になっているのだが、そういう撮影スタイルが普通になってきていることが、先述のような膨大な写真データの山を築いている原因となっている訳である。以前のように高価なフィルム代と現像代を気にせずなくてどんどん撮れるが、それでも画素数も大幅に増え、メモリーやストレージや処理速度の速いPC,、ブロードバンド回線などの周辺環境整備にコストがかかることを忘れてはならない。何よりも写真一枚一枚に込められた思いが軽くなってしまったのでは何もならない。現地ではしっかり腰を据えてDNGで撮り、帰ってからMacにむかい、Light Roomでじっくりと自分の心に映った作品を仕上げる、という基本に返ることが必要だ。深く反省。

 今回のHDDクラッシュは被害甚大であったが、そのお蔭で、あらためてバックアップの重要性の認識、そして写真に対する向き合い方,など、デジタル時代の時空フォトグラファーの心得、これまでの撮影姿勢等々、もろもろ反省するきっかけとなった。「失敗から学ぶ」「災い転じて福となす」。

 ちなみに、フラッグシップLeicaM Type240はファームウエアーをアップグレードし、ver.2.0.0.14となった。これによって格段に使い勝手が向上した。

1)露出補正が、ダイアルのみで可能になった。
2)Lマウントレンズがアダプター経由で使用可能となった。以前からユーザに指摘されていた点の改良。
3)ライブビューで水準器が表示できるようになった。
4)フォーカスアシストで、合焦部分のハイライト色が赤の他に青を選べるようになった(しかし、相変わらず分かり難い)。
5)ISO感度AUTOの改良。
6)その他バグ改善。

さてさて,これを機にせっかくの名器をドンドン使い倒すとしよう!


Leica M Type240+Summilux 50mm f.1.4 ASPH


台風一過の夕焼け
Leica M Type240 DNGで撮ってLightRoomで現像



2014年7月15日火曜日

今頃ホテイアオイが咲き誇っているんだろうな : 「今年も元薬師寺のホテイアオイが咲いた」再掲

 あれから二年経ちました。今年も元薬師寺跡に清涼なホテイアオイが咲き誇っていることでしょう。なかなか東京からは行けませんが、遠く懐かしく思い出しながら...

「時空トラベラー」 The Time Traveler's Photo Essay : 今年も元薬師寺のホテイアオイが咲いた: 残暑厳しいこの季節、大和路花散策の楽しみは元薬師寺のホテイアオイ。毎年この時期に地元の小学生が休耕田にホテイアオイを植える。ホテイアオイは日本の原生種ではないが、この飛鳥時代の大寺、薬師寺の廃墟跡を埋め尽くす様は、不思議に藤原京の栄華を彷彿とさせる光景となっている。  今は...

元薬師寺金堂跡

畝傍山


ホテイアオイの涼やかな色が厳しい暑さに一服の清涼感を

一面のホテイアオイは壮観



2014年7月14日月曜日

飛鳥古京・平城京・平安京、そしてTokyo 〜「みやこ」は国際都市?〜


 「みやこ」すなわち首都はその国家を統治する中心となる都市である。国家統治の権力と権威が存在する都市である。それと同時に、国内外の情報、文化と富が集まる交流の拠点である。グローバルな時代になればなるほど、その都市が如何に世界の交流拠点としての魅力があるかを競うことになる。今はもちろんその都市は必ずしも首都である必要は無いのだが、政治と経済と文化が一人の権力者の下に集中していた、いにしえの時代には、権力者、すなわち皇帝や国王のいる場所に、国中、世界中から富と情報が集まる。また国中,世界中に経済的富と政治的権力に基づく文化を発信する。それこそが大君の「みやこ」の権威なのだ。

 日本の「みやこ」の場合はどうであろう。私はこれまで、日本の古都である飛鳥、奈良、京都と歩き回り、ふと次のような考えが頭をよぎるようになった。確かに飛鳥・奈良はシルクロードの東の終着点で世界文明とつながる国際都市だった。しかし京都はどうであったのか?この千年の都には素晴らしい日本文化のレガシーがあるが、意外に国際都市としての「みやこ」というイメージがわいてこない。なぜなのか? 成り立ちを振り返ると少し何かが見えてくるような気がする。


飛鳥古京:

 飛鳥は、日本という国ができる以前、まだ倭と呼ばれていた国の「みやこ」が置かれた場所であった。すなわち倭京である。正確に言うと,大王(おおきみ)の宮殿があった地域で、かつては大王が死去し代が替わるたびに宮殿を立て替える「遷都」が、この狭い飛鳥、奈良盆地南部中心に行われていた。何時しかその伝統は破られて、板蓋宮跡地に浄御原宮が造営され、飛鳥古京と呼ばれるようになる。

 この時期は未だヤマト王権確立途上であり、天皇制は未成立であった。有力豪族が押す大王が統治の「権威」を主張した時代である。また中華帝国皇帝への朝貢、柵封により倭国の支配権の「権威」を得た大王(漢倭奴国王、親魏倭王、倭の五王の時代より)であった。いや倭は未だ国ではなかった。いわば倭連合王国 (The United Kingdom of Wa)であり、その王は、魏志倭人伝に描かれた3世紀の倭国、邪馬台国の卑弥呼と基本的には変わらない共立された王であった。そもそも国とは国王が統治する体制である。全土の土地と人民は国王の統治・支配の対象である。倭は当時、各地の豪族や氏族が各自の土地と人民を領有・支配(私地私民制)しており、この段階では倭に統一政権は存在しなかった。

 やがて、大陸からの渡来人による外来文化の導入、とりわけ6世紀に仏教という国際文化を取り入れ、倭京飛鳥は仏教を通じて倭が国際社会に進出し交流する「みやこ」となってゆく。大陸との人の往来も盛んになり、飛鳥は異文化の集積地となった。法興寺(飛鳥寺)の建立はそれを可視化させるのに充分なシンボルとなった。遣隋使の派遣による積極外交も行われた。外来文化の受容の是非、その支配を巡る有力豪族間の権力闘争、宮廷クーデター(乙巳の変)も起こった。唐・新羅連合との白村江の戦いの敗北による、倭存続の危機にも遭遇する。そして、滅ぼされた百済の遺臣達も大勢倭にやってくる。やがて古代最大にして最後の内乱と言われる壬申の乱を経て、ようやく大王を中心とした中央集権国家という国内統一のステージにむかう。倭国は中国型の律令制国家を目指す。中国の正史にならい歴史書編纂(記紀)、豪族優位の社会経済システムの改変(私地私民制から公地公民制へ)、中国皇帝の向こうを張る天皇制(大王から天皇へ)確立。そしてついに国号改称(倭から日本へ)。これは単なる国の名称を変えたと言うことではなく、その本質としてようやく「日本」と言う「国」が出現したことを意味する。そしてこの新国家にふさわしい「みやこ」は中華帝国のそれに負けないの都城として造営が企画された。

 こうした背景には、倭国内での権力闘争や、経済体制の変化という事情だけでなく、当時の東アジア情勢の変化、とくに中華王朝の交代、それに伴う朝鮮半島における勢力図の変化、人の大移動が大きく影響している。今は、のどかできわめて日本の原風景のような飛鳥だが、そうした国際的(東アジア的)な激動のただ中に居た「みやこ」であった。いわば内憂外患の歴史の舞台であった。


平城京:

 新たなる国「日本」の都の造営は、新国家の重要政策課題であった。最初飛鳥の地に中国風の都城の創出を試みた新益京(藤原京)造営は、その立地(水はけの悪い湿地)の不備から断念。新たに盆地の北の平城山(ならやま)に造営されたのが平城京である。飛鳥古京の、仏教という国際文化を通じて国際的に進出し、交流する「みやこ」という性格は、平城京に引き継がれた。

 この時期は、いわば新国家の創建期であり、政治的支配者となった天皇にとって、積極的に海外との交流を進め、国内統治の確立、国際社会に置ける立ち位置を確保しようと必死であった時期だ。仏教は世界思想、哲学、文化であり、仏法による鎮護国家思想を国家経営の基本理念と位置づけ、遣唐使の派遣、帰国留学生、渡唐僧の登用、国家プロジェクトとしての東大寺大仏開眼、全国に国分寺創設、唐の高僧鑑真の招聘、戒壇院と授戒制度の確立等々、天皇と仏教による、いわば「近代」国家体制が整備されていった時期だ。正倉院に残された国際交流の証を見てもこの時期がいかに海外との交流が活発であったかが分かる。奈良は国際的な都に発展し、筑紫鴻臚館、太宰府を窓口とした大陸との文物の交流がさらに活発になった。


平安京:

 しかし、新国家「日本」の首都、国際都市平城京の「みやこ」としての歴史はわずか84年で幕を閉じる。再び遷都が企画される。長岡京などいくつかの試みの後、平安京が造営された。実は平安遷都の理由は謎である。旧都の仏教勢力の増大に嫌気がさした、天武天皇系の奈良に決別した、藤原氏勢力との距離をおく、さらには怨霊払いなどの理由が語られているが、ともあれ大和奈良盆地を出て、さらに北の山城国のカドノの地に遷都した。

 中国風の風水により四方を神で守られた都を造営。仏教勢力を極力排除する観点から、奈良からの仏教寺院の移転は禁じられた。平城京遷都時に飛鳥や藤原京から有力寺院が移転してきた事情とは大きく異なる。やがて唐王朝が衰退期に向かうと、遣唐使が廃止(菅原道真の進言)され、一種の南都仏教禁教令、鎖国に近い時代に進んで行く。その結果として国風文化の隆盛、日本史上、対外的な軋轢の少ない平和が続く時代となる。仏教は、鎮護国家思想から変質して、世の末法思想の広まりとあいまって、現世利益を求める貴族や民の宗教(阿弥陀信仰)になって行った。平安京は文字通り平安な国の内向きの都になっていった。

 この頃から日本の社会はドメスティックになっていった。博多津では,相変わらず商人達が唐、新羅との交易に従事していたが、政治権力者が国際交流に再び目覚めるには平清盛の時代を待たねばならない。瀬戸内、太宰府、博多を押さえた唐物、南宋貿易で大きな財を成した平家一族は、「みやこ」を制する権力者一門となる。清盛は京に近い福原に遷都、大和田の泊にて国際貿易を企図する。一方、平氏滅亡後、東国に拠点を置く源氏、北条氏は国際認識に疎く、元の使者の来訪時にも対応を誤り、元寇を招いている。再び大陸との政権レベルでの交易が本格化するのは室町幕府、足利将軍の勘合貿易の時代に入ってからだ。やがて世界地図は塗り替えられ、大航海時代に入ったヨーロッパ諸国が東アジアに出没するようになる。そうした異人の来訪を受け入れたのは、「ほうけもん」の織田信長。堺や博多の豪商がいわば権力者のエージェントとして交易に従事し、莫大な利益を上げた。しかし徳川幕府時代に入ると、権力中枢は東国の江戸に移り、キリスト教禁教と再びの鎖国へ。歴史は繰り返す。しかし,これらは「みやこ」の外での出来事であり、「みやこ」はグローバリズム、反グローバリズムの動きの蚊帳の外に置かれ始める。


地政学的視点:

 奈良盆地は西に水運ルートが開けている。シルクロードは、那の津、瀬戸内海、ナニワ津、河内湖、大和川を通じて終着点、飛鳥、平城京へとつながっていた。もともと北部九州にあった倭の中心部が、次第に、版図を東に広げ、あるいはある時期、大陸からの脅威に備えるために、東遷していった結果選ばれた地が、奈良盆地なのだから。いわば稲作農耕文明の東遷トレンドにあったうごきだ。しかし、奈良盆地は東に山塊が行く手を阻み、倭、日本が、さらに東国へと支配を拡張してゆく過程に入ると不便なロケーションとなる。

 一方、京都盆地は、日本の中心に位置し、東西に走る街道、琵琶湖の水運により、国内統治には適したロケーションである。結果として、遷都後1000年もの間日本の首都であり続けた。しかし、平安京はナニワ津からは淀川、木津川、鴨川を通じて世界につながる位置にはあったが、飛鳥や平城京のように、シルクロードに直結する文明の終着点のイメージは無い。那の津、博多、太宰府、後にナニワすなわち大坂(さらには堺)が「みやこ」の外港の役割を果たし世界との窓口になるが、グローバルの波を「みやこ」には入れなかった。


「みやこ」は日本文化の聖地・象徴へ:

 平安京は国際的文化交流の「みやこ」というよりは、独特の日本文化の揺籃の地になってゆく。さらには日本の統治「権力」の中心と言うよりは天皇という統治の「権威」のおわします「みやこ」となっていった。武家政権が日本を支配する時代に入ってからは、ますます「みやこ」は、政治支配者が自らの政権の正当性のお墨付き(錦の御旗)をいただくところとなる。かつて倭国の時代に,その権威を中華皇帝に求めたように。

 鎌倉時代、室町時代、戦国・安土桃山時代を通じて、日本の海外交流はとぎれとぎれになりながらも細々と続くが、その波は「みやこ」には至らなかった。博多であり堺にとどまっていたのであった。江戸時代鎖国の時代に入ると、「みやこ」は天皇のおわします聖域、禁裏となる。すなわち外国人を入れてはならないForbidden Cityとなって行く。幕府により天皇や公家は、ますます有職故実や古来からの文化・芸能を継承してゆく役割に押し込められてゆく。その政策が京都と言う街の性格を形成することになる。


サマリー:

 このように振り返ってみると、飛鳥は、前述のように「倭」の「みやこ」すなわち倭京であった。その倭王は中華帝国皇帝からの信認関係で成り立つ王であった。こうした「倭国」はすなわち中華帝国との朝貢、柵封、を軸とした外交使節の往来、すなわち「国際交流」が不可欠の国であったから、必然的にその「みやこ」は大陸との使節の往来が盛んになり、異国の文物や人が多く入り、その外来文化や財を一手に支配する事で、統治の「権威」と「権力」を蓄えることが出来た。のちに、対外的な緊張関係(白村江の戦いの敗北など)に遭遇するなどの時期を経て、国家意識、倭人としてのアイデンティティーが徐々に形成されて行く。やがて中華帝国の柵封体制から決別し、中華皇帝を中心とした宇宙から独立したもう一つの小宇宙の天帝、すなわち天皇を生み出す。そしてその東アジア世界に立ち位置を示した国家創世のシンボルたる「みやこ」が藤原京であり、平城京であることを知った。

 しかし、そういう新しい「日本」国家創世のプロセスがもう一段進むと、もう世界から学ぶことは無い、などとして「一種の鎖国」状態に進んでゆく。先述のように平安時代はその結果、国風文化が進み、「日本」文明が醸成されてゆく。江戸期の鎖国は、いわば第二の国風文化の時代を生み出したことになる。こうなると天皇のおわします「みやこ」は、国際交流の拠点ではなく、その性格を「日本」文明の聖地、権威の象徴、さらには禁断の地として外の世界から隔絶する「みやこ」へと変容してゆく。このように国際交流が「みやこ」の外に追いやられてきた歴史を観た。

 明治維新後の、かつての江戸への「遷都」は、新しい「みやこ」東京がそうした京都の1000年の呪縛から逃れ、新しい近代国家の国際交流の「みやこ」になった事を意味しているのである。飛鳥の時代の倭国を取り巻く中華圏グローバリズムとはまた別のグローバリズムが進む今日であるが、「みやこ」としての東京が、フラット化した世界の様々な面での交流拠点として発展することが求められる時代になった。「みやこ」Tokyoはこれからどこへ行く。

 一方、その結果、いにしえの風貌が文化遺産として残された、かつてのForbidden City京都は、国際的な観光都市として「日本文化」「和風」を求める外国人が押し掛ける町となった。歴史の皮肉であろう。そしてその昔、いわば血気盛んな若い国際人であった飛鳥/奈良は、まるで人生のあらゆる波乱を過去に脱ぎ捨ててきた、枯れた老人のような穏やかな佇まいになっている。「国のまほろば」の風景の中、山河、一木一草が語る歴史、老人がその背中で語る生涯がたまらなくいとおしい。


飛鳥板蓋宮跡。外交使節謁見の場で起こった権力者の暗殺。その現場からその一族の居館、甘樫丘が見える。

藤原京(新益京)跡。新生「日本」の「みやこ」を目指して計画されたが挫折。背後は耳成山



夏の藤原京跡は睡蓮の花畑となる。背後は畝傍山


闇に浮かぶ平城宮大極殿。国際都市に偉容を誇った。
京都御所。平安京大極殿はさらに西の現在の千本丸太町辺りにあった。
高い塀に囲まれ他を寄せ付けないまさに「禁裏」。

2014年7月3日木曜日

大阪中之島近代建築の華 ダイビル本館の復活

 久しぶりに大阪中之島に出かけた。大阪大学中之島センターでの学会に出席するためだ。ここにはその昔、大阪大学中之島キャンパスがあった。山崎豊子の小説「白い巨塔」の舞台となった大阪大学医学部はここにあった。大学は今は豊中に移転してしまったが、最近になって、大学の都心回帰で、旧キャンパスの一部にこの大阪大学ビルが完成した。

その大阪大学から空き地を一つあけて隣に、あの名近代建築ダイビル本館が見事に復活しているのに気がついた。タクシーで横を通ったときには気がつかなかった。それほど昔のままに復元されていて違和感が無かった。

2013年7月にリニューアルオープンしたダイビル。往年の風格を良く残している。

 
 2009年11月のブログ「新・大大阪の夢」でレポートしたように、この渡辺節設計、1925年大正14年竣工のネオ・ロマネスク様式の名建築ダイビル本館は、再開発の流れのなかで、惜しまれつつ解体されることが決まった。大正14年当時の大阪は、東京を上回る経済都市として発展した「大大阪」の時代である、中之島に位置するダイビルは、その大阪の繁栄のシンボルであった。解体当時から復元の計画はあったが、2009年にそのオリジナルの最後の勇姿をカメラに収めに行った。既に、その時は内部は閉鎖され、玄関ホールなどを見学するとは出来なかったので、外観だけをカメラに収めた(そのブログとスライドショーはこちらから⇨「新・大大阪の夢(堂島・中之島編)」

 復元手法は、最近流行の低層部分の外観ファサードを元のように復元し、その上に高層階を継ぎ足す、というもの。東京丸の内でも流行の再開発手法だ。しかし、このダイビル、オリジナルの貴重なスクラッチタイルや玄関の龍山石の列柱レリーフ、装飾パーツなどが破壊されず保存され、オリジナルに忠実に復元されている。よかった。一見、オリジナルとどこが替わったのかと思うほどだ。上を見上げると確かにグラスアンドスチールの高層ビルがのっかっている。中之島の水辺景観を大きく破壊すること無く、大大阪の風格を取り戻した感じがある。






レリーフの曲線が美しい。こんな建物はもう生まれない。
























 一階には、洒落たレストランやカフェがオープンしていて、ビルのオリジナルのデザインを損ねず、リバーサイドプロムナードにふさわしい佇まいとなっている。玄関を入ると、ホールはオリジナルの意匠が一部に再現されている。内部は現代のビルらしい機能的なデザインを取り入れているが、昔のテイストも残されている。オフィス棟(すなわち高層階)へ向うエレベータホールは、入口に黒いスモークガラスのドアがあり、一階ホールの古典的な雰囲気を壊さないように配慮されている。なかなか素敵な仕上げだと思う。


ちょうど昼食時であったので、カフェに入り,ドイツ風のランチを楽しむ事にした。東京などと異なり、人で混み合う事もなく,ゆったりと窓辺の風景など楽しむことが出来る。もともと人と人の間には心地よい距離感というものがあるのだ。平日のオフィスアワーのランチタイムだけでなく、これなら休日にわざわざここを目当てに食べに来ても良い。大阪は東京に比べるとまだ一人当たりの空間がゆったりしているのだ。ウエートレスに聞くと、このビルは昨年の7月に完成し、カフェも同時にオープンしたのだとか。私が大阪を離れた時だ。

 そう言えば朝日新聞大阪本社ビルも新館は建て替えが完成して、あのフェスティバルホールもリニューアルオープン。名近代建築、旧館も,取り壊されて建替え工事中だ。堂島・中之島の景観も大きく変わって行く。たった一年で今浦島太郎になってしまった。しかし、大阪もだんだんオシャレな街に変わってゆく。阿倍野ハルカスや大阪ステーションシティーの喧噪を離れて、こんなところに寛ぎの空間が出来ているのにうれしくなった。

 このコージーなカフェの席に座っているとリバーサイドウオークを散策する人が見える。大阪は梅雨の晴れ間の蒸し暑い一日だった。食後のコーヒーが運ばれてくるのを待ちながら心地よい空間に身を置いて窓辺を見る。まさに一幅の絵のようであった。



コーヒーを待つ間,窓辺に一幅の画を楽しむ